⚔5)─2・B─鉄砲は伝来の約40年前に関東の合戦で使用されていた。~No.24 

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 2024年月28日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「【新説・戦国史】鉄砲が伝来したのは1543年・種子島ではなかった!? 
 「以(1)後(5)予(4)算(3)がかかる鉄砲伝来」の語呂合わせがよく知られる鉄砲伝来。従来は種子島に伝来したものとされていたが、それもまた近年の歴史研究によって新常識が明らかになっている。
 従来説:南蛮貿易によって種子島からもたらされた
 新説:中国、東南アジアなど複数のルートからも伝来した
■『鉄炮記』に綴られた種子島伝来の由来
 鉄砲は、火薬を爆発させることで弾丸を飛ばす武器である。現代では、一般的に「鉄砲」と表記されるが、戦国時代には「鉄炮」と書かれることもあった。
 火薬を用いた武器は、古代の中国で発明されたらしい。やがて、それがヨーロッパに伝わり、16世紀の初めに鉄砲として完成した。この鉄砲が、戦国時代の日本に伝えられたのである。そのときの様子は、江戸時代に書かれた『鉄炮記』によると、次のようなものであった。
 天文12年(1543)、シャム(タイ)から明(中国)に向かっていたポルトガル人が暴風雨により種子島に漂着する。この種子島の領主種子島時堯(ときたか)は、試射をさせてもらった鉄砲をいたく気に入って2挺を買い上げると、配下の職人に複製を命じるとともに、火薬の調合を学ばせた。こうして種子島では、鉄砲が製造されるようになったのである。その後、種子島を訪れた紀伊根来寺の僧徒や和泉堺の商人らによって、鉄砲は畿内にも伝えられた。以上が『鉄炮記』のあらましである。
 もっとも、ポルトガル側の史料によれば、ポルトガル人の種子島漂着は、『鉄炮記』が伝える天文12年の1年前にあたる天文11年(1542)であったとされる。年代にずれは生じているものの、種子島に伝来したという記述は変わらない。そのため、『鉄炮記』の記述には信憑性があるとされ、ポルトガル人によって鉄砲が種子島に伝えられたという通説が広まることとなった。これがいわゆる鉄砲伝来である。
■伝来の約40年前に関東の合戦で使用されていた⁉
 しかしながら、近年、それよりも早い時期に鉄砲が伝わっていたのではないかとの説が唱えられている。というのも、天文12年よりも早い時期に、日本国内に鉄砲が用いられていたとする史料が残されているためである。
 たとえば、『三河物語』では、永正3年(1506)、駿河守護今川氏親の命を受けた北条早雲(伊勢宗瑞)が三河に侵攻してきたとき、早雲の軍勢が松平氏の岩津城に対し、「四方鉄砲はなちかけ」たと記す。
 ちなみに、この早雲から始まる北条氏五代の興亡を記した軍記物語『北条五代記』にも、永正7年(1510)に明から鉄砲が伝来したとしており、その後、北条氏の領国内に普及したとしている。
 『三河物語』は徳川家康の家臣だった大久保彦左衛門が記したものであり、実際に戦いを見聞きしたわけではない。しかも、『北条五代記』の記述が正しいとすれば、明からの伝来よりも早い段階で北条早雲が鉄砲を装備していたことになってしまう。
 『北条五代記』は、江戸時代に編纂された軍記物語であり、事実とは断定できないのも確かである。ただし、史料からは確認できないものの、種子島ポルトガル人が漂着する以前から、日本に鉄砲が伝わっていた可能性は否定できない。というのも、天文12年に種子島に漂着したポルトガル人は、ポルトガル船に乗っていたのではなく、明人の五峰が仕立てたジャンク船に乗っていたのだった。
 この五峰こそが、倭寇頭目として知られる王直その人であると考えられている。つまり、ポルトガル人を種子島時堯に仲介したのは倭寇であり、すでに倭寇は鉄砲の存在を知っていたことになる。こうしたことから、最近の説では、種子島に伝来する以前からすでに倭寇の密貿易によって鉄砲が九州地方に伝えられていた可能性が指摘されているのである。
 倭寇による伝来が事実だとすれば、種子島に限らず、日本各地に鉄砲が同時期に伝来していたことも容易に考えられる。当然、北条氏の支配下にあった関東にも伝わっていたとしても不思議ではない。ポルトガル人を介したルートだけでなく、倭寇によって中国や東南アジアから伝来したルートも、新説として受け入れられつつある。
 ただ、当時の史料に鉄砲は「種島筒」や「鳥銃種島」などの名称ででてくる。種子島以外にも日本の各地に鉄砲が伝わっていたのだとしたら、なぜ「種子島」が鉄砲の代名詞になったのかとの疑問は残る。
 監修・文/小和田泰経
 歴史人2022年11月号「日本史の新常識100」より
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