✨5)─2─昭和天皇「日本国民に対する列強の人種差別が太平洋戦争の遠因」。日本の人種的差別撤廃提案。〜No.16No.18 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本は、何時の時代でも、世界を相手に孤独な戦争を強いられて来た、その意味では専守防衛の積極的自衛戦争であった。
 その象徴が、昭和天皇靖国神社である。
   ・   ・   ・    
 アメリカが日本を滅ぼそうとした原因は、日本が世界の常識・人類の宗教的真理を覆すような「人種的差別撤廃」を国際会議で初めて提案したからである。
 白人によるヒロシマナガサキへの原爆投下や東京を含む都市への無差別大量虐殺の絨毯爆撃は、非白人非キリスト教徒の日本人に対する偏見と人種差別から正当化されている。
   ・   ・   ・   
 国際法や国際世論は、偏見と差別から、日本に対する如何なる非人道的残虐行為・虐殺も人道に対する罪とは認めない。
 その象徴が、国連憲章の旧敵国条項(第五十三条、第百七条)である。
 国連の敵国条項は、国連常任理事国のロシアと中国共産党による戦争犯罪国家日本に対する懲罰攻撃を正当化している。
 日本国内には、日本人の国連主義者が数多く存在している。
   ・   ・   ・  
 原爆投下とは、アメリカ・イギリス・カナダの3カ国が日本国と日本人をモルモットとしておこなった投下実験であった。
   ・   ・   ・   
 中世キリスト教会・イエズス会伝道所群と白人キリスト教徒商人は、偏見と差別から、日本人とアフリカ人を人間とは認めず獣・家畜・下等生物・毒虫と見下し奴隷として世界中に輸出して大金を稼いでいた。
   ・   ・   ・   
 近代国家日本は、キリスト教の宗教侵略、ロシアの軍事侵略、ソ連中国共産党アメリカのイデオロギー侵略から天皇・国家・民族を守る為に軍国主義民族主義に暴走した。
   ・   ・   ・  
 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
   ・   ・   ・   
 2011年12月1日 『機』2011年12月号:「人種差別撤廃」と日本外交 中馬清福
 昭和天皇大東亜戦争の遠因」
 敗戦から七カ月たった一九四六(昭和二十一)年三―四月、昭和天皇は当時の宮内大臣松平慶民や御用掛・寺崎英成らを相手に、極めて機微に触れた問題について次々に語った。その記録の冒頭に登場するのが「大東亜戦争の遠因」である。太平洋戦争はなぜ起きたのか、昭和天皇はこう述べている。
 この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。又青島還附を強いられたこと亦然りである。かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上つた時に、之を抑へることは容易な業ではない。
 昭和天皇は、日本国民に対する列強の「人種差別」が太平洋戦争の遠因、と言っているのである。第一に、第一次世界大戦の戦後処理を議したパリ講和会議で、日本の提案した「人種差別撤廃」案が列強の反対で否決されたこと、第二に、日本人は肌の色が黄色いが故に差別され、とくに米国ではカリフォルニア州を中心に排日運動が高まり、日本からの移民が拒否されたこと、を例としてあげている。戦犯訴追のうわさが飛び、退位の可否が密かに論じられていた時期の発言である。その解釈には慎重を期さねばならないが、「人種差別」と「開戦」とを直結させたこの昭和天皇の認識は簡明率直かつ重要な内容を含んでいる。それにしては、この指摘がこれまで究明し尽くされたとはいえない。
 昭和天皇が指摘した人種差別にかかわる二つの実例は、一九二〇年代前後に起きた歴史的な事実である。当時、日本では大きな問題とされたのだが、最近では話題にされることも少なくなった。しかし日本は、当時としては破天荒な人種差別撤廃構想を国際舞台に提示したのである。
 「排日移民法」成立時の外交官
 執筆を進めるにあたって、日本のある外交官の生涯が重要な柱となった。人種差別と移民の問題を一貫して凝視してきた埴原正直(一八七六―一九三四年)である。若くして外務次官や駐米大使を歴任し、米国在勤が長かった彼は米国政界や外交界に多くの知人友人を持っており、根っからの日米友好論者であった。運命のいたずらか、排日移民問題で日米関係が最悪の状態になった時期、つまり米国の排日移民法が米国議会で成立する一九二四年前後、埴原は駐米大使の要職にあった。それだけにこの「事件」の全貌を最もよく知るひとりは間違いなく埴原である。
 しかし懸命の努力にもかかわらず、結果的に埴原は米国議会の一部勢力の奸計といって過言でない言動によって、身を引かざるを得ない状況に追い込まれてしまう。その後埴原はこの件についてはいっさい黙して語らず、日本政府の側の応対もなぜか明瞭さを欠いていて、そこにはなお謎が多い。その結果、日本で埴原を語る人は少なく、業績も評価も不十分のまま今日まで来た。本書(『「排日移民法」と闘った外交官』)では埴原の近親者である筆者のひとりが新たに発掘した資料を活用しながら真相に迫りたい。
 また、筆者のひとりが現職の新聞記者である以上、冒頭の昭和天皇の発言「国民的憤慨」は誰によってつくられたかを問うのは、本書の務めであると我々は思っている。昭和天皇があげた二つの事例に際して新聞はどう報道しどう主張したか、それがどう国民に受け止められたか、煽るような行為はなかったか、さらに新聞以外のメディア、総合雑誌や外交専門誌、単行本はどう論じたかの分析も欠かせない。ことに総合雑誌は、新時代の到来をめぐって百家争鳴の観があり質的にも水準の高いものが多いが、従来、あまり重視されてこなかったのは残念である。本書では在野の思想家・評論家・ジャーナリストの言動にあらためて注目し、その役割の再評価を試みたい。彼らの言動は、当時の有識者を惹きつけた「民本主義」と絡み合い、大正デモクラシー運動に大きな影響を与えた事実を軽視したくないからである。 (構成・編集部)
 (ちゅうま・きよふく/信濃毎日新聞主筆
   ・   ・   ・   
 上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第六章・第4回。
 「人種差別といえば、第一次世界大戦後のパリ講和会議で新しく国際連盟をつくるための委員会において、日本が「人種的差別撤廃提案」をしたことは知る人も多いだろう。日本は、「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り締約国は成るべく速に連盟員たる国家に於る一切の外国人に対し、均等公正の待遇を与え、人種或いは国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という内容を規約に盛り込もうとしたのである。
 国際会議において、人種差別の撤廃を訴えたのは日本が初めてであった。このことは、ぜひ強調しておくべきことである。」
 ……
 その結果、賛成したのは日本、フランス、イタリア、ギリシャセルビアクロアチアチェコスロバキアポルトガル中華民国。反対はアメリカ、イギリス、ブラジル、ポーランドルーマニアであった。条文に規定がない内容を前文に入れるのはおかしいという理由での反対もあったが、それでも賛成票が反対票を上回ったのであった。
 だが、議長だったアメリカのウィルソン大統領が、こう述べる。
 「全会一致でないので、本修正案は否決された」
 日本は「多数決で...」
   ・   ・   ・   

2020-01-29
✨5)─1─日中戦争は、宗教とイデオロギーの戦争であった。〜No.16No.18・ 
2022-10-18
✨6)─1─水平社、軍隊内の差別解消を目指しながら戦争を肯定。重い教訓「負の歴史」。〜No.19No.20 ③  
   ・   ・   ・   
 昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
 同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
 昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人の共産主義者無政府主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストであった。
 昭和天皇は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本のマルキシズムボルシェビキ、ナチズム、ファシズムの攻撃・侵略から日本の国(国體・国柄)・民族・文化・伝統・宗教を守っていた。
   ・   ・   ・    

 北米大陸に広く住んでいたインディアン2,000万人以上は、外国人移民や混血児によって虐殺され、生き残ったごく僅かな人数が不毛な僻地に作られた先住民居住区へと追いやられた。
   ・   ・   ・   
2024-03-16
〖目次〗貼り付ける記事。:皇位継承と人口激減の原因はアメリカ大統領の道徳エゴであった。令和6年版。
   ・   ・   ・   
 アメリカの奥深い基層には、宗教的科学的心情的人種差別が存在し、ハワイ王国侵略以来、親中国反天皇反日本が存在する。
 日本の歴史的位置関係は、大陸から侵略してくる中国・ロシア・朝鮮と海から侵略してくるアメリカに挟まれていた。
 日本の地政学は、歴史を教訓として、アメリカと同盟を組み中国・ロシア・朝鮮の侵略を挟む事であり、その為にはアメリカと中国・ロシア・朝鮮が敵対して対立する事が望ましかった。
 その為にも、安倍晋三元総理がアメリカ議会で講演したように日本とアメリカとの戦争は避けられない戦争、必要な戦争であった。
 が、現代の日本は昭和天皇安倍晋三元総理の真意をを受け継いでいない。
   ・   ・   ・   
 アメリカを中心とした戦勝国連合(国連)は、昭和天皇戦争犯罪者として裁き処刑するか退位・追放を目論んでいた。昭和天皇の死を望んでいたのは、ソ連中国共産党・国際的共産主義勢力と日本人共産主義者プロテスタントアメリカ・キリスト教会であった。
 日本国内にも、昭和天皇の戦争責任や戦争犯罪を問う声がメディアや教育現場に根強く残っている。
   ・   ・   ・   

2024-02-09
🏞74)─5─田沼意次の改革による開国と近代化の幕開け。ロシアの日本侵略元年。~No.305No.306No.307 
   ・   ・   ・   
2024-01-08
💖目次)─8─近代天皇と軍部・陸軍の人道貢献・平和貢献。「歴史の修正」は悪なのか?~No.1 * 
   ・   ・   ・   
2018-06-17
🎶08:─1─日本の「人種差別撤廃提案」。朝鮮の三・一独立運動。中国の五・四運動。孫文ソ連。1919年~No.12No.13 @ 
2019-03-25
🎶10:─1─日本封じ込めのワシントン体制。日本の軍縮と中国の軍拡。1919年No.16No.17No.18 * 
2018-08-13
🎶17:─2─日米戦争の原因の一つが、増える日本人移民に対するアメリカ国民の人種差別であった。排日移民法。~No.38No.39 @ 
2023-08-29
🎶26:─2─関東大震災(1923年)と排日移民法(24年)そして日米戦争(41年)。レーニン号事件。~No.58No.59 
2024-04-10
🎹28:─9─フランクリン・ルーズベルト大統領の隔離演説に激昂した軍国日本。昭和12年10月5日~No.172 
2018-09-29
🎺14:─1─アジア・太平洋戦争は、アメリカ・イギリス・ソ連中国共産党が始めた日本殲滅戦であった。~No.84No85No.86 @ 
2019-01-24
🎺88:89:─1─人道に対する罪で、日本は無罪、ドイツは有罪。~No.387No.388No.389No.390No.391No.392 @ (56)
2023-08-15
💖23)─5・C─ユダヤ人の命のビザ発給は日本陸軍東条英機)の功績であった。〜No.98 
2023-01-29
💖24)─4・C─日本陸軍主導、東南アジア占領地でユダヤ人保護。英傍受公電で裏付け。〜No.102 
2023-02-26
💖40)─1─日本にはアフリカ人やユダヤ人に対する偏見や差別は弱い。〜No.168No.169 
   ・   ・   ・   


 2024年3月15日 YAHOO!JAPANニュース ダイヤモンド・オンライン「「日本はしょせんアニメとゴジラだけ」アカデミー賞での快挙さえ邪推してしまう、アジア系差別騒動の根深さ
 鎌田和歌:フリーライター
 「日本はしょせんアニメとゴジラだけ」アカデミー賞での快挙さえ邪推してしまう、アジア系差別騒動の根深さ
 米アカデミー賞で『ゴジラ−0.1』が視覚効果賞を受賞。日本初の快挙だが……。 Photo:JIJI
 現地時間3月10日に発表された今年の米・アカデミー賞宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』が長編アニメーション賞、山崎貴監督の『ゴジラ−0.1』が視覚効果賞を受賞した。日本映画の快挙に国内は湧いたが、その裏で授賞式の様子については「アジア人差別」だという声が上がり、SNS上で議論が紛糾している。日本人として、今回のアカデミー賞をどう評価したらいいのだろうか。(フリーライター 鎌田和歌)
 「アジア系差別ではないか?」
 きっかけとなった授賞式の動画
 SNS上で広く拡散されて議論を呼ぶきっかけとなったのは、助演男優賞と主演女優賞の発表時の様子だ。
 前提として、前回アカデミー賞のそれぞれの受賞者は中国系ベトナム人キー・ホイ・クァンと、中国系マレーシア人のミシェル・ヨーで、どちらも『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(通称エブエブ)での演技で受賞した。また、例年プレゼンテーターは前年の受賞者を含む1〜3名で行われることが多い中、今回は5名がプレゼンテーターを務めていた。
 まず、今年の助演男優賞のロバート・ダウニー・ジュニア(『オッペンハイマー』)は名前を呼ばれて壇上に上がると、トロフィーを持つキー・ホイ・クァンをほとんど見ずに片手で受け取り、横に並んだ他のプレゼンテーター2人とは握手をしたり、拳を合わせたりした。
 前年度の受賞者に対して全く敬意がないように見える態度ではある。
 さらに、主演女優賞のエマ・ストーン(『哀れなるものたち』)は、ミシェル・ヨーの隣にいたエマの親友として知られるジェニファー・ローレンスが一緒にトロフィーを渡すかたちになり、壇上でしっかり抱擁を交わしたジェニファーへの態度と比べて、他のプレゼンテーターへの対応は簡素だったように見える。
 SNSの意見を見ると、エマ・ストーンはまだ壇上で混乱したようにも見えるが、ロバート・ダウニー・ジュニアの振る舞いは言い訳できないのではないかという見方が強いようだ。
 差別?差別じゃない?
 意見が分かれる3つのポイント
 すでに様々な意見が噴出しているが、SNS上での反応を見ると大きく3つに分けることができそうだ。
(1)ドタバタした壇上の一瞬で、そう見えただけ
(2)失礼ではあったかもしれないが差別ではない
(3)白人の無意識のアジア人差別が表出した瞬間だ
 (1)については、プレゼンテーターが5人いたことが混乱の元で、受賞者は誰に対してアクションするか戸惑ったのではないか、といった意見がある。一方、アジア系の受賞者2名がプレゼンテーターとなった今年に限ってプレゼンテーターが5人であったことを偶然とは思えないという声も。
 アジア系のプレゼンテーターだけでは見栄えが……といった考えが(意識的にせよ無意識にせよ)主催側にあったのではないかという推測だ。ただ、2009年に同じくプレゼンテーター5人での授賞式があり、このときのスタイルを踏襲したかっただけではという見方もある。
 また、エマ・ストーンについてはミシェル・ヨーが「あなたを混乱させてしまったけど、オスカー像をあなたに手渡すという輝かしい瞬間を、あなたの親友ジェニファーと共有したかった」という内容をインスタグラムに投稿している。確かにエマ・ストーンが受け取ろうとした瞬間にミシェル・ヨーからジェニファー・ローレンスの方へ歩いて行って、2人で渡しているようにも見える。
 ただ、ミシェルのコメントが出てもなお問題を指摘する声はあり、これは後述する。
実生活でも「あるある」
 指摘されるアジア系への無視
 (2)の意見は、不遜に見えるロバート・ダウニー・ジュニアの態度も、ドレスのファスナーが壊れたと慌てたノリではしゃいでいるように見えるエマ・ストーンも、トップスターである受賞者の振る舞いとして失礼かもしれないが、そこにアジア人への差別意識があったと受け取ることはできないという意見。
 ロバート・ダウニー・ジュニアが別の場面でキー・ホイ・クァンと抱擁を交わす画像があったことから、意図的に彼をスルーしたわけではないと擁護する人もいる。
 たまたま前年度の受賞者がアジア系だったから、アジア人差別のように受け取られてしまったけれど、悪い偶然だったというのだ。
 (3)については、経緯がどうであれ、これは無意識の差別の表出だとする意見だ。例えば前年度の受賞者が黒人であった場合、黒人差別への意識が高いアメリカにおいて、差別を指摘されないために、スターたちはもっと丁重に気を遣った振る舞いをしたであろうという推測がある。
 アジア人に対してはスルーしたとしても、それがすぐに差別だと判断されることがないため、より雑に扱われるのではないかという意見だ。
 これについて、アメリカなどで暮らしたことのある人から、アジア系差別は確かにあるという声が相次いだ。その内容については、あからさまに罵倒されたり、攻撃されたりすることよりも、無視の方が傷ついたという声が多い。
 例えば、機内食で他の人が「肉と魚どちらが良いか?」と聞かれているのに自分だけ聞かれなかったり、レストランで空席ばかりなのに予約でいっぱいと言われたり、アジア系だけが奥の席にまとめて座らされたり……。
 故意なのかそうでないかわかりづらいために、差別だと指摘しづらい。差別ではないかと指摘しても「ミスしただけ」「偶然です」などと言われてしまう。
 今回の件も壇上での様子は、不運な事故のようにも見えるし、無意識の差別意識の表れにも見える。それだけに、「故意にやったわけじゃないだろう」という擁護意見に、納得しがたい感情を持つ人もいる。アジア系への差別を知らないから、そう言えるのではないかと。
 ミシェル・ヨーは前述のように、インスタグラムでコメントを出した。これは不運な誤解であると知らしめるための投稿だ。
 しかし、被差別側がこのように「私は気にしていない」とか「これは差別ではない」という態度を取ることが実際にある差別を温存させるとして、ミシェルの投稿を批判する人もいる。
 とにかく、今回改めて問題提起されたのはアジア系への差別の根深さだ。アジア系として差別をされた経験を持つ人たちは、今声を上げなければ軽視や蔑視が繰り返されると感じている。日本人は差別に抗議したり、声を上げたりすることが少ないと言われがちだが、SNSでは声が可視化されやすい。
 日本はやはり「アニメとゴジラ」なのか
 またいつの日か俳優の受賞を見たい
 今回、日本の作品は長編アニメーションと視覚効果賞を受賞した。2022年に村上春樹原作の『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介監督)が国際長編映画賞を受賞しているが、2000年以降の日本映画での受賞はアニメ作品関連の印象が強い。国別の印象として日本はアニメ(漫画やイラスト含む)とゴジラと言われがちだが、アカデミー賞においてもその傾向がうかがえるように感じられる。
 日本人俳優の受賞者は、今も1957年のミヨシ・ウメキ(ナンシー梅木助演女優賞)のみ。アジア系はオーディションに受からない、そもそもアジア系の登場する作品が少ないといった問題が指摘されているが、いつかまた日系の俳優がアカデミー賞に輝く日が来るだろうか。その日が来ることを待ち望みたい。
   ・   ・   ・   

   ・   ・   ・    

🕯169)─1─日本民族日本人は浄土絵図や天国絵図よりも幽霊画や地獄絵図が好きである。〜No.355No.356 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本民族日本人には、ポジティブな生の物語よりもネガティブな死の物語が似合う。
   ・   ・   ・   
 2024年7月15日 YAHOO!JAPANニュース 集英社オンライン「なぜ日本人は幽霊が大好きなのか。“日本最初”の幽霊は誰? 初めて幽霊画に登場した歴史上の人物とは? 
 死を考える#1
 シーズン到来⁉
 夏到来とともに毎年、日本では怪談のイベントや幽霊画の展覧会が多く開催されることからも、日本人は世界屈指の“幽霊好き”といえるだろう。そのルーツとは?
 【画像】円山応挙の幽霊画のうち、現存する作品の中で真筆といわれている二つのうちのひとつといわれる『返魂香之図』
 書籍『死を考える』より一部を抜粋、編集してお届けする。
 美術史で確立されていない「幽霊画」というジャンル
夏になると日本では毎年、怪談のイベントや幽霊画の展覧会が多く開催されます。なぜか日本人は幽霊が大好き。
 近年では、幕末から明治にかけて活躍した落語家、三遊亭圓朝のコレクションが納められている東京都台東区谷中の全生庵(ぜんしょうあん)で毎年8月に開かれる幽霊画展などにも、多くの人が足を運ぶようになりました。
 幽霊画というのは美術史の中では確立されていないものです。幽霊や妖怪を研究するのは民俗学や宗教学、国文学の人で、美術の世界にはいません。
 なぜなら、美術史は「何年何月にこの人が描き、その影響でこういう作品が生まれた」という「基準作」がなければ成り立たないものだから。幽霊画にはそれがないのです。
 日本人が「死んだ人がよみがえる」ということを物語に書き始めたのは平安時代のことです。『日本霊異記』という仏教説話集には、人に殺されて野ざらしになった髑髏を供養した者が、髑髏が変身した人物に恩を返されるという話などが収められています。
 まさに日本人が幽霊を意識し始めた現れだと思うのですが、これらの話は実は中国にルーツがあるもの。平安時代後期に書かれた『今昔物語』の中の源融(みなもとのとおる)という人物の幽霊が、日本独自の幽霊の始まりではないかと幽霊研究者は言っています。
 幽霊が絵画の中に登場するのは、鎌倉時代初期の「北野天神縁起絵巻」あたりから。
 讒言(ざんげん)によって死んだ菅原道真が怨霊となり、人々を懲らしめるために、わざわざ衣冠束帯(いかんそくたい)の正装で比叡山の尊意僧正(そんいそうじょう)のところに挨拶に行き、「これから恨みを晴らしに行くからあなたの法力で邪魔しないでください」と頼む。
 僧正はそれを断り、幽霊と人間の間で妖術合戦が行われる。絵巻物にはその様子が描かれています。
 道真がかんでいたザクロをブワッと吐くと火がつき、燃え広がる。すると僧正も法術で手から水を出して消火します。この道真の幽霊には足があります。
 異界から来る妖怪と現世に怨念を残す幽霊
 中世には「百鬼夜行(ひゃっきやこう)絵巻」「付喪神(つくもがみ)絵巻」「土蜘蛛(つちぐも)草紙絵巻」など、妖怪が出てくる絵巻物が作られていますが、これらの作品で描かれているのは幽霊ではありません。
 よく幽霊と妖怪を混同されることがありますが、幽霊は現世に怨念を残した死者があの世に行けなくて出るもの。必ず人間の姿をしています。一方、妖怪はあの世とは違う異界から来ているので、獣や器物などの形で現れたりするのです。
 先ほどの「北野天神縁起絵巻」からだいぶたちますが、岩佐又兵衛という絵師が江戸時代初期に手掛けた「山中常盤(やまなかときわ)物語絵巻」には、平家討伐のため奥州へ下った牛若丸を訪ねて旅をしていた母の常盤御前が盗賊に殺され、牛若丸の夢枕に立つ、というシーンが描かれています。
 この常盤御前はまさに幽霊で、真っ白な装束で「私の復讐をしてください」と伝えるのですが、これが幽霊として描かれた二つ目くらいじゃないかと思っています。
 ただ、もし「幽霊画」というジャンルを立てるのであれば、画題として単独で幽霊が描かれていなければなりません。では、最初に幽霊画を描いたのはいつ、誰なのかというと、これは江戸時代中期に京都で活躍した円山派の祖、円山応挙だといわれています。
 「百物語」を盛り上げた幽霊画の始祖・円山応挙
 応挙はいわゆる美人顔の足のない女の幽霊を描き、後進に大きな影響を与えました。ただ面白いことに、世の中に「応挙の幽霊画」と呼ばれるものは数あれど、実は現存する作品の中で真筆といわれているのは二つのみなのです。
 一つはカリフォルニア大学バークレー校美術館に寄託されている「幽霊図」、もう一つは弘前の久渡寺(くどじ)にある「返魂香之図(はんごんこうのず)」。
 前者は応挙のサインも入っていて、私も江戸東京博物館に来たときに見ていますが、応挙筆に間違いはないと考えています。後者は年に1回、旧暦の5月18日に当たる日に1時間だけ公開されています。こちらの方がさらに出来がよいですね。
 応挙の幽霊画が有名なので、応挙の落款があるもの、応挙筆と称するものは世の中に何十とあります。間違いなく、応挙のものではない。でも所蔵するお寺では応挙といっているのだから、それはそれでいいと思います。幽霊というのもある意味で信仰と共にあるものですからね。
 そもそも、なぜ応挙の幽霊画が単独で掛け軸に描かれたかというのは──これは私が勝手に想像しているだけで根拠はあまりないのですが──江戸時代の出来事を調べたら、ちょうど応挙の活躍した江戸中期の安永年間(1772~81)に、商人クラスの人々を中心に「百物語」という怪談会が大流行していたんです。
 仲間を集めて怪談を1話ずつ披露しては、別室に立てた100本の蠟燭(ろうそく)を1本ずつ消していくというもので、100本目が消えた時に怪が起きる、という。
 それで、恐らくその会を主催した会主の一人が「床の間用に何か幽霊の絵を」と応挙に頼んで描いてもらったんじゃないか。それに人々はびっくりしたんでしょうね。それまでの幽霊には美人という定番もなかったし、足のない幽霊もいなかったわけですから。
 定番を作ったのは応挙です。死装束の女性はキリッとしているけれど、見方によっては恨みが残っているのか、それともただ美しく微笑んでいるのか。
 面白いのは紅をさしていること。死後に湯灌(ゆかん)をして死化粧をした、そのままの姿かなとも思えます。この絵が大評判になって、次の会主が「今度は他のヤツに描かせて、あっちの会主をびっくりさせてやろう」という感じで、競い合って絵師たちに幽霊画を注文した。私はそう考えています。
 江戸後期から幕末にかけてバリエーションが豊かに
 描かれる幽霊が圧倒的に女性ばかりなのは応挙の影響でしょう。特に幸薄そうな女性が多いのは、日本人の好みでしょうね。
 とはいえ、次第に幽霊画も人々のニーズに従ってどんどんバリエーションが増え、表現が細かくなっていきます。
 同じような絵ばかりでは飽きられるので、絵師も工夫をするようになり、掛け軸の本紙の周りの裂地(きれじ)部分にも描くことで軸から飛び出してくるような印象を与える「描表装(かきびょうそう)」などの表現も使われるようになりました。
 さらには歌舞伎の幽霊場面が描かれたり、生前の職業を察することができるようなものも登場したり、一見幽霊に見えないようなものも。だまし絵のような幽霊画も描かれるようになっていきます。
 また、当初は「百物語」の際に飾られていたと思われる幽霊画も、政情不安が世の中にまん延する幕末になると、単独の鑑賞用としても描かれるようになります。
 この頃には見世物小屋がもてはやされ、人形師の松本喜三郎による“生人形(いきにんぎょう)”と呼ばれる精巧な人形が人気を呼ぶなど、怪奇趣味の流行もありました。
 カタルシスを得ることでストレス解消となるような画風が好まれ、怖いもの見たさを満足させる作品が絵師に注文されるようになります。
 聖書のサロメも真っ青の、生首を持っている幽霊などもいくつも描かれました。渓斎英泉(けいさいえいせん)の「幽霊図」もその一つです。
 この人は幕末期に退廃した女を描いた画家で、根津で女郎屋をやったり、媚薬を作って売ったりもしていたらしいいわく付きの人ですが、おしろいの匂いが漂ってくるような妖艶な美人画を得意としました。
 葛飾北斎の「生首の図」や月岡芳年(よしとし)によるスプラッタ系の作品もその流れにあります。
 三遊亭圓朝は怪談噺の参考とするために幽霊画を集めたといわれていますが、この頃には幽霊画そのものの鑑賞会のようなものもできていたのではないかと思われます。
 私が面白いと思うのは、中国には日本よりもずっと前から仙人たちの世界を描くなどした絵がたくさんあるし、上田秋成雨月物語』などに収められた怪異小説のルーツも中国にあるのに、日本のようにそれが大衆にまで広まり、楽しまれてはいなかったということ。中国の幽霊は高等遊民だけのものだったのです。
 ただ、日本でも応挙の幽霊図のように単独で描かれる幽霊図が広まらなかった分野があります。浮世絵版画です。
 浮世絵版画といえば美人画や役者絵。人気絵師の葛飾北斎歌川広重が風景画を描いたのは幕末になってからです。
 北斎は幽霊単体を描いたものとして、「百物語」をテーマにしたシリーズにも着手しますが、これは全く売れなかったのでしょう。5図までしか作られませんでした。
 北斎としては売れると見込んで挑んだわけで、そのせいか気合いを入れて、一般の人には理解しがたい工夫を凝らし過ぎてしまったんでしょうね。
 その後、浮世絵版画では歌舞伎の幽霊登場場面が描かれます。歌舞伎の幽霊場面は盛んに描かれますが、これは役者絵を含む芝居絵の一部です。これとは別に、幽霊を単独で描いた錦絵は北斎の「百物語」くらいでしょうか。つまり単独の幽霊図は、浮世絵版画の世界では流行しなかったのです。
 幕末の不安を吹き飛ばしたグロテスクな幽霊たち
 幽霊画の特徴の一つに、特定の人を描いた作品が少ないということもあります。素晴らしく刺激的な名品を残している河鍋暁斎の作品には亡くなった妻・登勢の死に顔をスケッチしたといわれている幽霊画がありますが、これも想像の域を出ません。
 死者の供養のために描くならば、生きている姿を描くはずですよね。ただ、暁斎には彼のパトロンであった勝田家の娘、たつが14歳で亡くなった後に描いた作品「地獄極楽めぐり図」があり、これは実在の人物を描いたものとして知られています。
 たつがお釈迦様の案内で地獄や極楽を巡るという作品で、彼女はこの中で生前好きだった歌舞伎役者に会って観劇したり、親戚と再会したりしながら、最後には蒸気機関車に乗って極楽に行きます。
 幽霊画の一つの流れに骸骨画というのもありますが、これは妖怪のすむ「異界」と幽霊のすむ「あの世」の間にあるものといえるでしょう。
 三遊亭圓朝の「怪談牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」をテーマにした、円山応挙の弟子、駒井源琦(げんき)の最高傑作「釣灯籠を持つ骸骨」などはその代表作です。
 骸骨の絵には結構いい加減なものも多いのですが、暁斎の「骸骨図」はなんと男と女の骨格を描き分けています。そして、女の方には卵子、男の方には精子の絵を添えている。彼には西洋医学の知識もあったのです。
 幽霊画は捨てられない! 祟りが怖くて寺に寄贈
 さて、幽霊画のコレクションがお寺に納められていることが多いのはよく知られています。これは、お寺が集めたというわけではもちろんなく、祟りを恐れて寺に寄贈する人が多かったからです。
 幽霊画とお寺といえば、前出の圓朝コレクションがある全生庵が有名ですが、千葉県市川市の徳願寺というお寺も結構な数を持っていて、毎年1回、11月の「お十夜会(おじゅうやえ、十日十夜法要)」の日に一般公開しています。
 福島県南相馬市の金性寺(きんしょうじ)は、幽霊画の掛け軸を供養してあげますよと言ったら全国からたくさん集まり、今では86幅ものコレクションを持つまでになりました。東日本大震災以前はこちらも毎年1回、お盆に「ご開帳供養会」を開いていました。
 江戸から明治にかけて盛んに描かれた幽霊画ですが、幽霊を描く画家がいなくなったわけではありません。日本画家の松井冬子は現代における幽霊画の名手ですし、現代美術家束芋(たばいも)も初期には幽霊を描いていました。もちろん、見る側の興味は今も高い。
 日本人には決まった宗教はなくとも、宗教心はありますから、死んだら霊が残ると思っている人は多くいます。だからこそ、今なお夏になれば幽霊画の展覧会やお寺の供養会に人が集まるのです。
 文/安村敏信 写真/shutterstock

                  • -

 安村敏信(やすむら としのぶ)
 1953年、富山県生まれ。北斎館館長。東北大学大学院博士課程前期修了。79年より板橋区立美術館学芸員として、江戸時代美術史のユニークな展覧会を開催し注目を集める。2005年より13年まで同館館長を務め、その後は萬美術屋として日本美術の普及活動をフリーの立場で展開。『もっと知りたい狩野派 探幽と江戸狩野派』(東京美術)、『肉筆幽霊画の世界』(KADOKAWA)、『ゆるかわ妖怪絵』(講談社)など著書多数。

                  • -

   ・   ・   ・   

🌏34)─1─東郷平八郎は勝利の為に「武士の情け」より国際法の「停止」を優先した。~No.101No.102 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2024年7月14日 YAHOO!JAPANニュース AERA dot.「東郷平八郎「武士の情け」より「停止」 降伏旗を掲げたバルチック艦隊に大砲を撃ち続けた理由
 日本の旗艦だった戦艦三笠。日本海海戦ではバルチック艦隊の集中砲火にも耐えて活躍した。国立国会図書館所蔵
 日露戦争日本海海戦は世界の海戦史上でも例のない完勝だった。それは徹底した砲撃訓練戦術の研究、火薬や信管の開発など入念で周到な準備に支えられた連合艦隊がもたらしたものだ。世界が驚嘆した日本海海戦における日本の秘策を4回にわたって解説する。最終回の4回目は「歴史的勝利と講和条約」。(『歴史道』Vol.33「日清・日露戦争史」より)
 【写真】凱旋する東郷平八郎を迎える民衆
■歴史的勝利と講和条約
 「ニコライ1世」の降伏旗を見た「アリヨール」「アブラクシン」「セニャーウィン」も軍艦旗を降ろし、降伏旗を掲げた。そして連合艦隊秋山真之参謀が旗艦「三笠」の艦橋で、敵艦に降伏旗がひるがえっているのを発見したのは五月二十八日午前10時40分ごろだった。
 秋山は東郷平八郎大将に言った。
 「長官、敵は降伏しました。わが艦隊の発砲を止めましょうか?」
 だが東郷は敵方を睨んだまま黙然としている。秋山は詰め寄るように言った。
 「長官、武士の情けであります。発砲を止めて下さい!」
 東郷は冷然と言った。
 「本当に降伏すっとなら、その艦を停止せにゃならん。現に敵はまだ前進しちょるじゃなかか」
 事実ロシア艦は航進を続けているだけではなく、大砲の筒先も日本の艦隊に向けたままである。
 一方、降伏旗を掲げたにもかかわらず、どの日本艦も攻撃を止めない。そこでネボガトフは日本の国旗を掲げ、次いで機関の停止を命じた。東郷が全艦艇に攻撃中止を命じたのは、この直後であった。
 水雷艇「雉」が呼ばれ、東郷は秋山参謀と山本信次郎大尉(通訳兼)を敵の旗艦「ニコライ1世」に行かせた。降伏の手続きを取るためネボガトフ少将を「三笠」に呼ぶためである。
 ネボガトフ少将は秋山真之中佐の申し入れを承諾し、礼服に身を改め、幕僚とともに上甲板に総員を集め、降伏にいたった経過を話し、「諸君はいっときの恥を忍んで、将来祖国の海軍を再建していただきたい。降伏の責任は予が一身に負う」と、諭すように語りかけた。
 ネボガトフが7、8名の幕僚をともなって「三笠」に到着したのは午後1時37分だった。もう一人の指揮官、重傷を負って駆逐艦「ブイヌイ」に収容されているロジェストヴェンスキー中将は、駆逐艦「ベトウイ」に移されていた。「ブイヌイ」の石炭が欠乏し、機関も故障続出でウラジオストクまではたどり着けそうもなかったからである。その「ベドウイ」も午後4時45分、駆逐艦「陽炎」と「漣」に追われ、白旗を掲げた。重傷のロジェストヴェンスキーは日本艦で長崎県佐世保海軍病院に送られていった。
 戦いは終わった。投入されたバルチック艦隊38隻のうち、撃沈や捕獲から免れたのは巡洋艦5隻(うち1隻は座礁後自爆)、駆逐艦3隻、特務艦3隻のみ。日本側は各艦とも命中弾は受けたが、沈没したのは水雷艇3隻だけであった。
 人員の損害はロシア側が戦死約5000名、捕虜約6100名で、日本は全軍を通して将校以下戦死が116名、負傷者538名で人的被害においても圧勝した(死傷者の数は戦後若干増加)。
 5月31日、日本はセオドア・ルーズベルト米大統領に講和の調停を申し入れた。日本の世論工作により、アメリカの国論も日本の勝利を讃えていた。そして難色を示すロシア牽制のため、ルーズベルトは、日本の樺太占領を提案する。日本軍は、最後の力を振り絞り占領を完了した。
 そして明治三十八年(1905)九月五日、日露はルーズベルト米大統領の斡旋で講和(ポーツマス講和条約)を結び、ロシアも渋々ながら戦いに終止符を打った。佐世保海軍病院に〝収容〟されていたロジェストヴェンスキー中将も傷が回復し、帰国の途に就いた。
 テレビはもちろん、ラジオもまだなかったこの時代だったが、「日本海海戦の大勝利」はまたたく間に全国に知れ渡り、勝利の部隊を迎える凱旋門が全国各地に作られた。東京でも日比谷や新橋、日本橋、浅草など各所に凱旋門が作られ、人々は道路の両側はもちろんのこと、道路沿いの民家の屋根にまで登って凱旋部隊の〝勝利の行進〟を拍手喝采で出迎えている。
 監修・文 平塚柾緒(ひらつか・まさお)/1937年茨城県生まれ。編集プロダクション「文殊社」代表。太平洋戦争研究会、近現代フォトライブラリー主宰。『図説 日露戦争』『図説 写真で見る満州全史』(河出書房新社)、『我、奇襲ニ成功セリ』(ビジネス社)など著書多数。
   ・   ・   ・   


 日本軍が国際法を守って戦う事は、大元帥の近代天皇明治天皇昭和天皇)が望んだ事である。
 天皇戦争犯罪天皇の戦争責任は、国際法を守って戦った事である。
   ・   ・  ・   
 小国の軍国日本は、日露戦争国際法に則って正々堂々と大国ロシアと戦い、そして戦争と外交で辛勝を勝ち取った。
 世界の常識では、ロシアの勝利・日本の敗北であった。
 日本にとって日露戦争は、江戸時代後期から避けられない戦争で、植民地拡大の為の侵略戦争ではなく専守防衛の積極的自衛戦争であった。
   ・   ・   ・   
 日露戦争は、第ゼロ次世界大戦であった。
 第一次世界大戦は、日露戦争を教訓としておこなわれていた。
   ・   ・   ・   
 東郷平八郎は、日清戦争日露戦争を戦いながらハワイ王国を滅亡させたアメリカの野望を見据え、アメリカが主導するロンドン海軍軍縮条約に猛反対した。
 日本海軍が、アメリカ海軍を仮想敵とする選択は正しかった。
 アメリカ海軍も日本海軍を主敵として、日本侵略計画を立案し海軍力を強化しつつあった。
   ・   ・   ・   


 2018年7月21日 産経新聞昭和天皇の87年
 「撃沈します」! 日清戦争でみせた東郷平八郎の決断力
 日本海海戦(1)
 日露戦争後、その活躍から海の東郷、陸の乃木と称された東郷平八郎乃木希典(まれすけ)は、何かと比較されることが多い(※1)。2人とも謹厳実直を絵に描いたようで、のちに神格化され、国定教科書にも取り上げられた。
 そして2人とも、先の大戦後は学校でほとんど教えられなくなった。
 だが、本連載では2人について詳述しないわけにはいかない。なぜなら2人は裕仁親王の、すなわち昭和天皇の帝王教育に深く関わることになるからだ。
 乃木より1歳年長の東郷は弘化4(1847)年、鹿児島城下加冶屋町(現鹿児島市)で生まれた。同町には西郷隆盛ら維新の元勲の生家が多く、東郷は薩摩閥の一人として重用されることになる。
 明治4(1871)年、西郷の口利きで英国の商船学校に留学し、11年に帰国、海軍中尉に任じられた。以後、比叡乗組(12年)、天城副長(14年)、同艦長(17年)、大和艦長(19年)、浪速(なにわ)艦長(24年)、常備艦隊司令長官(28年)など、海軍勤務の大半を海上で過ごす。
 この間、東郷の名声を高めたのが、ハワイのクーデターと高陞(こうしょう)号事件だ。英国留学中に学んだ国際法が、寡黙な男の武器となった。
 1893(明治26)年に米国人農場主らがハワイ王朝を転覆させたクーデター事件で、日本政府は邦人保護を理由に東郷率いる浪速など軍艦2隻を派遣した。このとき東郷は、ハワイの監獄を脱獄して同艦に泳ぎ着いた邦人青年を保護、クーデター政府の再三の引き渡し要求を断固拒否する。軍艦内が治外法権であり、邦人保護の正当な権利があることを、熟知していたからだ。
 これに慌てたのは日本の外務省だった。米国との関係悪化を恐れるあまり、海軍を通じて東郷に引き渡しを指示。やがて日本の領事館員が邦人青年を引き取るべく、艦長室を訪れた。
 東郷は言った。
 「犯罪人であれ同じ日本人ではないか。その同胞が救助を求めてきたのを、おめおめ引き渡すのは心外だ。自分は彼を(クーデター政府の)獄吏に引き渡すのではない。(日本人である)あなたたちに引き渡すのである」
 この言葉の中に、東郷の気骨のほどがうかがえよう。
 翌年の夏、日清戦争が勃発。ここでも東郷は開戦早々、国際法をたてに果断な将器をみせる。
 × × ×
 明治27年7月25日、朝鮮半島中部西側の豊島沖で、日本海連合艦隊の軍艦3隻が清国海軍北洋艦隊の軍艦2隻と遭遇。宣戦布告を待たずに砲撃戦が交わされた結果、北洋艦隊の1隻が白旗を掲げながら逃走、残りの1隻は浅瀬に乗り上げて座礁、自沈した。
 この海戦の最中、清国兵を満載したイギリス商船が近づいてきた。日本としては厄介な事態だ。清国兵を通すわけにはいかないが、うかつに対応すれば世界最強の海軍国、大英帝国を敵に回しかねない。
 この難局の処理にあたったのが、浪速艦長の東郷だった。東郷はまず、商船を停船させて将校を送り、同船が英インドシナ汽船会社代理店所有の「高陞号」であること、清国兵1100人と大砲14門を朝鮮・牙山港へ輸送途中であること、船長のイギリス人は日本側の指示に従う意向を示していること-を確認すると、手旗信号で指示した。
 浪速「錨ヲ揚ケテ本艦ニ続航セヨ」
 だが、高陞号の船長は従わず、重大事態が発生したので面談したいと返信してきた。東郷が再び将校を送って調べさせると、船長以下イギリス人乗員は清国兵に脅迫されており、すこぶる不穏な様子である。
 東郷は船長に、イギリス人は海に飛び込み船から離れるよう指示した。
 浪速「船ヲ去レ」
 高陞号「許サレス 端艇(ボート)ヲ送ラレタシ」
 浪速「送リ難シ 直チニ船ヲ見捨テヨ」
 最初の停船命令からすでに4時間近く。事態はいよいよ切迫してきた。浪速の艦橋に立つ東郷は、高陞号の清国兵が刀剣をぬき、銃を構え、制御できない状態であるのを見て取ると、赤一色のB旗を掲げた。
 「危険ナリ」を示す国際信号旗だ。この旗が軍艦にひるがえれば、その意味はひとつしかない。しばしの猶予を与え、東郷は言った。
 「撃沈します」
 時に7月25日午後1時46分、浪速の砲撃を受けた高陞号は沈没する。その直前に海に飛び込んだ船長らイギリス人4人は救助され、清国兵の多くは射殺、もしくは水死した。
 × × ×
 日本の軍艦が英国の商船を撃沈した-との一報は、当初は日本政府を動揺させ、英国世論を激高させた。だが、東郷の措置が国際法に則ったものであることが分かると、英国世論は沈静化し、日本側は手のひら返しで東郷を称賛した。
 それからおよそ10年、日露の開戦が間近となった明治36年12月、東郷は新編成の連合艦隊司令長官に抜擢(ばってき)される。海軍上層部は、東郷の冷静な判断力と豪胆な決断力に、日本の命運を託したのだ。
 ところが東郷は着任早々、重大な判断ミスを犯してしまう--。
 (社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
 ◇
(※1)海の東郷、陸の大山(巌・満州軍総司令官)と称されることもある
 ◇
 【参考・引用文献】
○堀口修「明治三十七年二月~八月 聯合艦隊司令長官東郷平八郎日記聯合艦隊司令長官東郷平八郎日記について」(明治聖徳記念学会編『明治聖徳記念学会紀要 復刊第46号』〈錦正社〉所収)
○小笠原長生『東郷元帥詳伝』(春陽堂
アジア歴史資料センター所蔵「高陞号事件報告」
○同「英国商船高陞号撃沈ノ事」
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 高陞号事件
 高陞号撃沈の場面を描いた絵
 「高陞号」は、戦争準備行動として仁川に清国兵約1100名を輸送中であった。「浪速」は高陞号に向けて空砲2発を撃ち、手旗信号で停船を求め、臨検を開始した。
 10時40分、臨検を命じられた人見善五郎大尉は高陞号に到着し、ただちに船長トーマス・ゴールズワージーに面会した。人見は船籍証明をチェックし、ゴールズワージーを尋間したのち帰艦し、東郷に復命する。その内容は
 本船は英国ロンドン所在インドシナ汽船会社代理店、怡和洋行(ジャーディン・マセソン・コンパニー)の所有船
 清国政府に雇用され、清兵1100名、大砲14門、その他の武器を太沽より牙山に運送中
 船長にわが艦に随航することを命じたところ、船長はこれを承諾
 であった。東郷はただちに「錨をあげよ。猶予してはならない」と信号旗をあげた。
 ところが、船長は「重要なことがあるので話し合いたい。再度端艇をおくれ」と返答する。人見大尉が再度赴くことになるが、その際に東郷は「清兵がもし応じないようであれば、ヨーロッパ人船員士官に何が重要かを問い、移乗を望めば端艇にて連れ帰れ」と訓令した。
 人見大尉はまもなく帰艦し、「清兵士官は船長を脅迫して、命令に服従できないようにし、かつ船内には不穏の状がある」と復命した。東郷は「高陞号」の英国船員に向かい「艦を見捨てよ」と信号を送る。その後、「端艇をおくれ」と返信があり、「端艇おくりがたし」と連絡すると、突如「許されぬ」と答えがあった。東郷は再度「艦をみすてよ」と信号し、かつマストに警告の赤旗をかかげた。すると高陞号船上では清兵が銃や刀槍をもって走りまわるさまがうかがえた。2時間に渡る問答の末、抑留が不可能と判断した東郷は「撃沈します」と命令した。
 「撃ち方始め」の命令とともに水雷が発射され、砲撃が開始された。1時45分、「高陞号」はマストを残して海中に没した。東郷は端艇を下ろし、泳いで浪速に向かってきたイギリス人船員士官全員を救助したが、清国兵はほとんどが死亡した。
 のちに日清戦争李鴻章に協力する軍事顧問団の1人、ドイツ軍人コンスタンティン・フォン・ハンネケン(Constantin von Hannecken)は、高陞号に乗りあわせていたが、一命を取り留める。
 結果
 この海戦による日本側の死傷者及び艦船の損害は皆無であった。清国側は「済遠」が大破とされているが真偽は不明、「広乙」と「高陞号」も撃沈された。「操江」は「秋津洲」に鹵獲され、1903年日本海軍を除籍された後も「操江丸」として民間で様々に利用され1965年まで船籍に登録されていたという。
 影響
 大日本帝国と清国の全面戦争が避け難いものとなり、7日後の8月1日に宣戦布告が日本からなされた。
 このあと英国船籍の商船「高陞号」を撃沈されたイギリスでは、日本に対して反感が沸き起こる。 イギリスが当初問題にしたのは、豊島沖海戦が戦争中か否かという点にあった。
 豊島沖海戦は日本の宣戦布告以前の7月25日に起きている。日本は7月19日に清国に「今より5日を期し、適当な提議を出さねば、これに対し相当の考慮をおしまず、もし、このさい(朝鮮への)増兵を派遣するにおいては『脅迫』の処置と認む」と警告(いわゆる「五日猶予付き最後通牒」)した。
 この「脅迫」という文言は当時の外交用語では「戦争開始」という意味であり、「挑発」なども同義である。実際1911年のアガディール事件のさいドイツ外務省がこれを使い、イギリスはただちに艦隊の出師準備発動を命令するという騒ぎになっている。
 日本は警告した同日付で連合艦隊の出師準備発動を命令した。だが、この外交的推移は当事国しかわからず、第三国にはわからないものだった。とりわけ清国政府は日本の最後通牒を公開しなかったので、なおさら第三国に情報は流れていなかった。
 イギリスの国際法学者トーマス・アースキン・ホランドとジョン・ウェストレーキは、この問題に対し別個にタイムズ紙に寄稿して国際法を説明し、結論として日本側に違法行為はないことを主張した。
 「高陞号の沈没したのは戦争が開始されたあとである。戦争というものはあらかじめ宣言せず始めても、少しも違法ではない。これは英米の法廷で幾度も審理され確定している。高陞号の船員は初め戦争が起こったことを知らなかったに違いない。だが、日本の士官が船に乗り込んできたときこれを知ったとみなさざるをえないし気づくべきであった。このとき英国旗をかかげていたか否かは重要ではない。戦争が始まったのであれば交戦国の艦艇は公海上ならあらゆる船を臨検し交戦国の船、第三国の船でも相手国向けの戦時禁制品が積んであればこれを没収、あるいは破壊・処分し、必要なら撃沈するというのは艦長に認められる権利だからである。日本水兵が乗船しても捕獲することは不可能と認められるので、日本の(浪速)艦長が、いかなる暴力を用いようとも、それは艦長の職権である。また沈没後に救助された船員は規則通り自由になることができたので、この点でも国際法に背馳していない。それゆえ日本政府が英国に謝罪する義務は生じない」。
 イギリス留学で国際法を勉強した東郷はこのことを熟知しており、この件に関しては常に合法な範囲で行動していた。結果イギリスの世論は沈静化するが一方で「高陞号」が清国兵及び大砲を輸送していたことにより、清国が天津条約に背馳し、日本の最後通牒を無視して朝鮮領海内を突破し、牙山に大兵を集中させつつあったことを全世界に暴露してしまった。そのため清国がこの戦争において侵略者であるというイメージをもたせてしまう事になった。
   ・   ・   ・   

💄4)─2─奈良時代の女官は実名を名乗り天皇の傍らで政務に参加していた。~No.9No.10 

   ・   ・   ・
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   

   ・   ・   ・   
2024-06-23
💄5)─1─天皇統治の古代日本にはLGBTQ文化があった。~No.11No.12
   ・   ・   ・   
 日本に中国のような政治を混乱させ戦乱を引き起こす宦官がいなかったのは、女性が男性同様に活躍していたからである。
   ・   ・   ・   
 女性が活躍する古代日本は、中国から入ってきた男尊女卑の「儒教の毒」に侵され、女性は表舞台から日陰者に追いやられた。
 平安時代の女性は、中国や朝鮮の女性とは違い、実名を隠しても和歌など文化文芸に独自の才能を開花させていった。
   ・   ・   ・   
 日本の最高神は、天皇家の祖先神である女性神天照大神である。
 日本神話の重要な神々は女性神である。
   ・   ・   ・   
 NHK 知恵泉
 奈良時代のキャリア戦略! 女官たちの立身出世術
 初回放送日:2024年7月9日
 奈良時代を生きた女性官僚たちの知られざる人生と生きる知恵!▼地方出身のノンキャリア組から次官クラスにまで大出世を遂げたスーパー女官がいた!「私、失敗しないので」…四代の天皇に仕えて一度も失敗なしと讃えられた“女官X”飯高諸高の極意▼天皇の“腹心”と呼ばれた女官、和気広虫。キャリアを失ってまで貫いた信念とは▼出演:赤江珠緒フリーアナウンサー)・鳥海智絵(野村證券副社長)・佐藤長門國學院大學教授)
 配信中※別タブで開きます
   ・   ・   ・   
 好書好日
 「古代の女性官僚」書評 従来の「女官」のイメージを覆す
 評者: 水無田気流 / 朝⽇新聞掲載:2015年02月22日
 古代の女性官僚 女官の出世・結婚・引退 (歴史文化ライブラリー)
 著者:伊集院 葉子
 出版社:吉川弘文館
 ジャンル:歴史・地理・民俗
 ISBN: 9784642057905
 発売⽇: 2014/11/20
 サイズ: 19cm/246p
 古代の女性官僚―女官の出世・結婚・引退 [著]伊集院葉子
 時代小説やドラマでお馴染(なじみ)の「女官」。絢爛(けんらん)たる宮廷に咲く才色兼備の女性たち……というイメージが先立つが、実像はどのようなものだったのか。本書は、古代の女官(=女性官僚)たちの選抜から業態、出世、俸給、結婚から引退に至るライフコースを詳解し、日本最古のワーキングウーマンの素顔に迫っていく。
 特筆すべきは、女官に代表される古代日本の律令(法体系)の独自性である。日本の律令は唐の法体系を手本に作られたが、女官については彼我でまったく異なっていた。「唐の女官は後宮という隔絶した空間のなかで皇帝の『家』のために奉仕したが、日本の古代女官は、律令によって規定された行政システムの一部」だった、と著者は指摘する。なぜなら、日本では村や共同体から宮廷、さらに国政に至るまで、マツリゴト(政治)に女性が関与してきた歴史は、律令が導入されるより古く、国家システムの基盤を担ってきたからだ。
 それゆえ日本の古代女官は、皇帝や国王に属す側妾(そくしょう)候補ではなく、結婚もタブー視されてはいなかった。それどころか、奈良時代には官僚のトップである大臣の妻が女官という夫婦は、ごく普通に見られたという。従来「夫の七光り」で送り込まれたと見られてきた女官だが、むしろ夫の死後目覚ましく出世する妻も目立つことから、古代日本の共働きエリート夫婦は、実力本位の「二人三脚型」だったことも推測される。
 日本に去勢した男性官吏である宦官(かんがん)がいなかったのも、もともと男女がともに働いていたため導入する理由がなかったから、と著者は指摘。原則として上位階層の「氏」から一人ずつ、厳しく選抜され出仕した女官たちは、一族の浮沈を一身に背負い懸命に務めたに違いない。日本社会の基底部に根差す女性の役割について、既存のイメージを一つ一つ覆す著者の説明は、精到にして爽快である。
    ◇
 吉川弘文館・1944円/いじゅういん・ようこ 59年生まれ。川村学園女子大学などの非常勤講師(日本古代史)。
 水無田気流(ミナシタキリウ)
 詩人・社会学
 1970年生まれ。詩集に「音速平和」(中原中也賞)「Z境」(晩翠賞)。評論に「無頼化する女たち」など。
 古代の女性官僚 女官の出世・結婚・引退 (歴史文化ライブラリー)
 著者:伊集院 葉子
 出版社:吉川弘文館
   ・   ・   ・   
 福岡県弁護士会
 古代の女性官僚
 日本史(古代史)
 著者  伊集院 葉子 、 出版  吉川弘文館
 古代王朝で女性が官僚として活躍していたというのです。初めて知りました。
 古代の日本では、村や共同体の統率から宮廷の運営、国政の舵取りに至るまで、政事(マツリゴト)に女性が関与していた。
 日本の古代女官は、中国(隋唐帝国)や朝鮮王朝の後宮女官たちとは違って、皇帝や国王に隷属した側妾候補ではなかった。日本の古代女官は、律令によって規定された行政システムの一部だった。
 まことに、日本の女性は、古代でも既に自立的に活躍していたというわけです。これでは、天の岩戸をもち出すまでもありません。
奈良時代前半まで、天皇の后妃たちは内裏の外に居住していたのであり、一カ所に集まって住むという空間としての後宮は存在していなかった。
 女官たちは、もともと天皇に仕える人々であり、いわば天皇直属の職員だった。
 女官の既婚未婚が不問だったのは、彼女たちが天皇の性愛対象として存在したのではなく、まず、天皇の政務と日常を支える実質的な官僚としての役割を持っていたためだった。古代の女官は、公式の場での呼ばれ方と、プライベートでの呼ばれ方は異なっていた。
 内侍司(ないしし)は、天皇に常に侍し、奏請(そうせい)と宣伝を行うのが最大の役割である。奏請は、男官諸司の意見を天皇に仕え、天皇の判断を請うこと。宣伝は、天皇の意思を諸司に口頭で伝えること。
 内侍司の奏請・宣伝という職掌は、単なる取り次ぎとは異なる重みをもっていた。「日本書紀」には、官人は女官をこびへつらい、ワイロを贈る弊害が生まれていると書かれている。
 このころは、官僚としての実務能力の他、歌舞などの才も重視された。大臣の妻が女官というのは奈良時代では珍しくなく、むしろ通常の出来事だった。
 古代には、「室」は、トジ(刀自)、つまり経営基盤を有して采配を振る女性を意味した。
 王位以上の位階をもつ女官は、家政機関として家司(けいし)、宅司(たくし)を有していた。
 女房という言葉は、元々は人の妻という意味ではない。「房」は住まいだけではなく、執務所、つまりオフィスの機能が重視されていた。天皇周辺の女性を指して「女房」という場合には、女性の出仕者一般ではなく、殿上に伺候することを許された女性を意味している。
 紫式部清少納言は、后妃に仕える「キサキの女房」である。女房たちは、単なる宮廷サロンの花ではない。キサキの公的な活動をさせるオフィシャルな集団だった。
 紫式部清少納言一条天皇中宮や皇后に仕えたが、当時の中宮や皇后は独自の機能をもち、政治の表舞台で活躍していた。だからこそ、彼女たちに仕える女房たちも、政治の表舞台に立つことになった。女房の担った文学の社会的意義が大きくなったのも、このためだ。
 律令官僚機構は、基本原則としては女性を排除したが、実態は国家の権力・行政システムに女性を包摂しながらスタートした。
 女官は中年にさしかかってから本格的に活躍したと思われる。
 女性は、氏を代表する氏女(うじめ)、地方豪族から采女(うねめ)として出仕した。
 1000人もの古代女官に関するデータによって、制度と実態を研究・考察したというのです。学者の辛抱強さには、まさしく脱帽します。お疲れさまでした。古代朝廷のあり方を教えていただき、ありがとうございます。
 (2014年12月刊。1800円+税)
   ・   ・   ・   
 東京手描友禅の着物工房
 ぼかし屋友禅
 着物の風俗史2 奈良時代の女官
 2013,05,18, Saturday
 機会があって大阪歴史博物館を見学しました。奈良時代難波宮についての説明と展示に大変驚きました。
 奈良時代には幾度となく都の場所が変わったこと、その一つに難波宮があったという事は何となく知っているような、知らないような、だったのですが、これほど大規模な本格的な都市が、今の大阪の中心にあたる所に整備されていたとは思いもよらないことでした。
 館内には当時の大極殿の様子を再現した展示があり、列柱の並ぶ空間や役人、着物衣装を着た女官といった人々が再現されていました。その場に立つとなかなかのリアリティーでした。
 大阪歴史博物館HPより 
 女官たちの着物は、高松塚古墳の壁画に似た趣きで奈良時代らしい、つまり大陸の影響を強く残したものです。このような着物を実物大の再現で観るのは初めてで、前後左右から興味深く眺めました。
 不思議だったのは、女官のスカートです。
 女官の身丈より数十センチ長く、体の前後左右に広がって引きずる感じなのです。どうやって歩いたのだろう、と素朴な疑問がわきました。
後世の着物は、十二単のような複雑なものでさえ、衣は後ろに引きずりますよね。袴や袿や裳は体の前から後ろへ流れている立ち姿ですが、難波宮の女官の立ち姿は体を中心に放射線状にスカート状の衣が広がっていました。これでは歩いた場合、スカート部分はどうなってしまうのでしょう。体の正面ではなく横に切れ目があるようにも見えましたが、巻きスカート風だったとすると手で裾を持ち上げて歩いたのか、内側から足でスカートを蹴って前の空間を確保しつつ歩いたのか。とすると、歩くとスカートが相当まくれ上がってしまいそうです。
 大阪歴史博物館HPより
 時代が少し違いますが、高松塚古墳壁画の女性たちの着物衣装は引きずる程の長さではないようです。着物の裾の長さなどは身分や場面によっても違ったのかもしれませんね。
 説明では難波宮はその後、権力闘争の末に都ではなくなり、都市としても廃れてしまい、経済都市として復活するのは、だいぶ後の時代のようでした。こんな立派に整備した都を破棄してしまうとは、奈良時代の人々はなんとモッタイナイことをしたのでしょうか。内に籠った地形の京都ではなく、海に広がった大阪が歴史の中心だったら日本文化も少し違った形だったかもしれません。大阪が都だったのは、この難波宮と、ほんの一瞬だけ清盛の福原の都、あとは秀吉の大阪城だけ。残念な気がします。
 大阪歴史博物館は大阪の中心から近く、大阪城のすぐ側で、お城を見下ろす眺望も楽しめる建物でした。大人にも子供にも楽しい展示でした。
 展覧会ルポ | 10:47 PM | comments (x) | tra
   ・   ・   ・   
 2022年9月8日 読売新聞ホーム「一見優雅な奈良の女官、実は59歳で年329日の超激務…平城宮跡から昇進査定用の木簡
 奈良市平城宮跡で出土した木簡に、天皇に仕えた女官の勤務日数が書かれていることが、奈良文化財研究所の調査でわかった。昇進などを査定する際に使われた奈良時代の「考課木簡」とみられ、女官のものが見つかるのは初めて。59歳の女官が年間329日働いていたことが記されており、奈文研は「当時としてもかなりの激務に励んでおり、女官の仕事ぶりがわかる貴重な資料」としている。(土谷武嗣)
 女官の勤務日数が記された考課木簡(赤外線写真)=奈良文化財研究所提供
 木簡は平城宮の東部にあった役所群「東方 官衙かんが 地区」で奈文研が2020年度に実施した発掘調査で出土。排水路跡から約6300点の木簡群が発見され、その中に含まれていた。
 発見された木簡は、長さ16・5センチ、幅2・58センチ。一緒に出土した土器から奈良時代前半とみられる。女性名を示す「 牟須売むすめ 」、年齢は「年五十九」、本籍地は「左」とあり、平城京の左京を示すと考えられる。
 勤務日数は「 日参佰弐拾玖にちさんびゃくにじゅうく 」と記されており、1年間に329日働いていたらしい。評価や官職、位階が書かれていたとされる上部は失われていた。
 女官は朝廷に仕えた女性官人のことで、内裏に住む天皇の身の回りの世話などを担当していた。
 奈文研によると、良い評価を得るためには年間240日以上勤務する必要があり、最低限の日数で済ませる役人が多いという。300日を超える日数の考課木簡は少なく、同時に出土した男性役人の考課木簡は284日だった。
 調査した奈文研の桑田訓也・主任研究員は「ベテランの女官で、周囲からも頼りにされていて、休みづらかったのかもしれない。女官の勤務状況の実態を探る手がかりになる」と話している。
 この木簡の成果は、奈文研が発行した「紀要2022」に掲載されている。
   ・   ・   ・   
 2022年8月25日 日本経済新聞奈良時代の「女官」、木簡に記録
 59歳、年329日出勤 休み取りにくかった?
  [会員限定記事]
 奈良市平城宮跡から、奈良時代天皇の身の回りの世話をしていた女性役人「女官」の勤務評価に使われていた木簡が見つかったことが分かった。59歳で年間329日出勤していた。当時の律令では役人は月に原則5日の休みを取ることが定められ、これまでに出土した木簡では年間300日未満の出勤が大半だった。
 分析した奈良文化財研究所の桑田訓也主任研究員は「当時でもかなりのハードワーク。ベテランの女官で周囲に頼られ...
 この記事は会員限定です。登録すると続きをお読みいただけます。
 残り237文字
   ・   ・   ・  

🌏13)─8─戦争の時代と信じる心。日本の道徳は民族の宗教と武士道の大義であって。~No.44No.45 

   ・  ・   ・    
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 国力(経済力・軍事力)を比べると、アメリカ、中国、ソ連・ロシアは大国なら日本は小国であった。
    ・   ・   ・   
 2024年6月27日 YAHOO!JAPANニュース NHK出版デジタルマガジン「戦争の時代と、絶対的な「信じる心」――片山杜秀さんが読む『大義』【別冊NHK100分de名著 宗教とは何か】
 名著 宗教とは何か】
 片山杜秀さんによる名著『大義』紹介
 「宗教による被害」や「宗教二世のこころの問題」「宗教と政治の関係」などが社会を揺さぶっている昨今。「宗教」という問題を長らく真正面から見つめてこなかった私たちは、この状況にどう向き合っていけばよいのでしょうか?
 2024年初にNHK Eテレで放送され話題となった「100分de宗教論」。その出版化である『別冊NHK100分de名著 宗教とは何か』では、釈徹宗さん・最相葉月さん・片山杜秀さん・中島岳志さんという4人の論者が、4冊の本を起点に、多角的な視点で宗教をとらえ、「信じること」について解明していきます。
 今回は本書から、政治思想史研究者・片山杜秀さんによる「宗教を理解するための名著」としての『大義』の紹介を公開します。
 ベストセラーとなった亡き軍人の遺したテキスト
 一九三八(昭和十三)年に刊行された『大義』は、日中戦争に太平洋戦争が付け加わってどんどんエスカレートしてゆく長い長い戦争の時代に、当時の若者たちを中心に読み継がれ、百三十万部を超える大ベストセラーになりました。
 著者は、陸軍軍人の杉本五郎。一九〇〇(明治三十三)年五月二十五日、広島県安佐(あさ)郡三篠(みささ)村(一九二九年に広島市編入)に生まれ、日中戦争の始まった翌々月の一九三七(昭和十二)年九月十四日、板垣兵団長野部隊に属する一中隊の長として、山西省(さんせいしょう)宛平県(えんぺいけん)東西加斗閣山(とうざいかとかくざん)での激戦のさなかに戦死しています。享年三十七歳でした。
 『大義』はもともと国民一般に広く読まれることを前提として執筆されたものではありません。杉本が死の直前まで将校教育のためのテキストとして書き継いでいたものです。全二十章からなり、最後の四章は戦地で書かれました。第二十章を書き上げたのは九月四日だと但(ただ)し書きがありますから、戦死する十日前です。そこで完結しているわけでは恐らくありません。著者が無事に生きていれば、もっと書き足されていったかと思われます。とにかくその全文は戦死の翌年に、戦地から子どもたちに宛てた「遺言」を前書きとして加えて、公刊されました。そして売れに売れたのです。
 「いかに死ぬべきか」の心得を時代が求めた
 なぜそんなに読まれたか。そもそも『大義』にはどんなことが書いてあるのか。日本の軍人兵士、ひいては国民全般がいかに生きて死ぬべきか。特に死ぬということに思いきり比重をかけて書いてある。そういうテキストと言えます。
 第二章「道徳」の冒頭を引きましょう。
 天皇の大御心(おおみこころ)に合ふ如く、「私(わたくし)」を去りて行為する、 是れ日本人の道徳なり。
 (第二章「道徳」)
 すると「大御心」はどうすれば分かるか。「御歴代皇祖皇宗(おんれきだいこうそこうそう)の御詔勅(ごしょうちょく)、皆是れ 大御心の発露に外ならず」。古代からの天皇詔勅こそが「大御心」の表現に他ならない。そして杉本はとりわけ明治天皇の「教育勅語」が当世の日本人の最も重んずるべき詔勅であると強調する。その核心部分は何か。日本人の存在の目的は「天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運扶翼(こううんふよく)」にある。天皇の威勢を世界に向けて盛り上げていくこと、それのみである。したがって個人の完成は生の目的ではない。個人がよりよく生きることは日本人の第一義にはならない。「私(わたくし)」は全否定されるのです。かくして杉本の死の思想が開陳されます。
 天皇の御守護(おんしゅご)には、老若男女を問はず、貴賤貧富(きせんひんぷ)に拘(かかわ)らず、齊(ひと)しく馳せ参じ、以(もっ)て死を鴻毛(こうもう)の軽きに比すること、是れ即(すなわ)ち日本人道徳完成の道なり。 天皇の御為めに死すること、是れ即ち道徳完成なり。
 (第二章「道徳」)
 天皇の心にかなうように死ぬ。それが日本人の道徳の完成。そう説く本がベストセラーになる。国家が国民に教科書的に読めと命じたのではありません。杉本と親しかった人々が杉本のテキストを軍隊内部の限られた読み物にしておくのは惜しいと、陸軍上層部に根回しをして、問題の起きぬように工作したあと、民間の出版社から普通に刊行した。するとミリオンセラーになった。やはり時代の特殊な性格があるのです。
 日中戦争が始まったとき、日本人は軍人も政治家も長引かずにすぐに終わると思いました。ところがちっとも終わらない。相手がそれなりに強いうえに、戦地がとてつもなく広大だからです。日清戦争は九か月で終わり、日露戦争はそれと比べればかなり厳しかったものの一年半で終わりましたが、今度はますます勝手が違うようだ。これまで日本人が体験してきた近代の戦争の規模を大きく突き抜けてゆく。西洋列強が第一次世界大戦で経験済みの、まさに総力戦時代の長期戦争の様相を日に日に呈してくる。しかも相手が増えてくるのです。戦争の内容もエスカレートしてゆく。ついには対米英戦争に連動してゆきます。国民全員が、軍隊に入らされたり、勤労動員させられたり、戦死したり、戦病死したり、戦傷を負ったり、空襲に遭(あ)って家財を亡くしたり、大切な家族を喪(うしな)ったり、結局、最後は世界中を敵に回して原爆まで落ちてくるに至るのです。
 そうなると戦争から逃れて生きることがほとんど不可能になります。死が誰にも覆いかぶさってくる。いかに生きるべきかがいかに死するべきかと切り離せなくなってしまう。みんなが死を織り込む生き方を考えざるを得なくなる。どう考えたら、目前かもしれない死から目を背けずにそれを受け入れることができるかと試行錯誤し始める。いつだって死のことを思っている人はたくさんいるのが世の中ですが、その多寡(たか)の程度がすっかり変わってしまうのです。
 そんな時代に『大義』は多くの日本人の心に突き刺さってしまいました。生を捨て、大義に殉(じゅん)じて死ぬことをよしとできる精神を培(つちか)うための窮極(きゅうきょく)の教科書として、国民がかなり自主的に読むようになったのです。杉本はあくまで軍内の将校教育のために『大義』を執筆しました。特に前線で陣頭指揮する将校は戦死率も高いですから『大義』が死を強調するのも当然と言えますが、その本が銃後の一般国民にまで響くようになったのは、まさに時代のエスカレーションのなせる業(わざ)でしょう。
 本書『別冊NHK100分de名著 宗教とは何か』では、片山杜秀さんによる『大義』の読み解きから、「宗教的なものと戦争との関わり」について学んでいきます。
◆『別冊NHK100分de名著 宗教とは何か』より
◆脚注、図版、写真、ルビ、凡例などは記事から割愛している場合があります。
◆本書における引用は、特に断りのない限り、『大義』(平凡社)に拠ります。
 ※本書は、2024年1月2日にNHK Eテレで放送された「100分de宗教論」の内容をもとに、新規取材などを加えて構成したものです。
   ・   ・   ・   



 明治初期の日本人の心情心理には2つあり、夏目漱石を代表とする庶民・名主階級の神道気質と森鴎外を代表する侍・士族階級の儒教道徳であった。
 夏目漱石 正月の男といはれ拙(せつ)に處す   (明治31年元旦)
 『詩を呼んで史を語る』 「第19回正月と唱歌と俳句」平川祐弘 月刊Hanada 2024年1月小春号
 平川祐弘神道には士道を含む倫理的感情も併せて投影されており、それが日本人の行動美学ともなっている。
 この種の見方は前に『西洋人の神道観』で一度述べたが、そのとき触れそびれたことがある。漱石が小説中に登場された人物で断然人気があるのが『坊ちゃん』だろう。」
   ・   ・   ・   
 武士道は、神道・仏教・儒教から成り立っていて、ある種の精神宗教である。
   ・   ・   ・   
 明治の美的感情や人生観・宗教観は、現代日本人には理解できなくなっていて、理解できるのは欧米人であり日本人ではなく、ましてや漢族系中国人や韓国人・朝鮮人でもない。
    ・   ・   ・    
 西田幾太郎「日本文化の特殊性を誇張するのではなく、その特殊性は万国的なものでなければならない」
 日本文化には、神道アイヌ琉球に受け継がれてきた人と自然・動植物が共存する縄文文化の宗教的世界観が残っている。
 中曽根康弘「日本のリーダーは思想、歴史観、宗教観を持っていないと駄目だ。サミットで文化的な話ができいなければ、こちらの負けである」
 1987年 国際日本文化研究センター日文研)設立。
 梅原猛は、日本のアイデンティティを確立する「日本学」をテーマとした。
 ウィキペディア
 国際日本文化研究センター(英:International Research Center for Japanese Studies)は、人間文化研究機構を構成する、京都府京都市西京区にある大学共同利用機関歴史学者宮地正人は、中曽根康弘が日本のアイデンティティを確立する「日本学」を創造させる意図のもとに創設したという見解を発表している。
   ・   ・   ・    

⚔4)─4─寧波の乱(寧波事件)。1523年〜No.13No.14 

   ・  ・   ・    
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 東洋の倭寇と西洋のバイキングは、世界史を激変させていた。
   ・   ・   ・   
 日本人と言っても、現代の日本人と昔の日本人は別人であり、現代の日本人が昔の日本人を学ぼうとしても無意味である。
 何故なら、現代の日本人には民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力を持っていないからである。武士道はもちろん百姓根性、職人魂の素養もない。
   ・   ・   ・   
 2023年7月19日YAHOO!JAPANニュース 学術文庫&選書メチエ編集部「「とにかく凶暴な日本人」が、500年前の中国で起こした「衝撃の歴史的事件」。
 『日本一鑑』が描く戦国時代のリアル
 倭寇対策の使命を帯びて、戦国時代の日本を訪れた中国人がいた。鄭舜功(ていしゅんこう)という名の「在野の志士」である。その見聞録『日本一鑑』には、自然風土から日本人の習俗、精神文化までが記録されている。隣国人の新鮮な眼で観察された、約500年前のリアルな日本とは――。『戦国日本を見た中国人 海の物語『日本一鑑』を読む』(上田信著、講談社選書メチエ)から紹介していこう。
 「倭人」の凶暴な性格は、火山のせい!?
 この時代、中国人のイメージする日本人は、とにかく「凶暴」だった。
 まず、鄭舜功訪日の30年ほど前、1523年に起きた「寧波事件」(寧波の乱)の衝撃は大きかった。日本の有力大名、大内氏細川氏がそれぞれ仕立てた遣明船の乗組員らが、中国・寧波の町で抗争を繰り広げ、一帯を騒乱に巻き込んだのである。
 そして、1550年代には、倭寇が中国沿岸部を荒らし回り、「嘉靖大倭寇」と呼ばれる。実際には、倭寇の中核には中国から日本に渡った密貿易者や犯罪者も多く含まれていたと言われるが、当時の中国から見れば総じて「倭人」だった。鄭舜功が日本へ向かった1556年はまさに、この「大倭寇」がピークを迎えていた。
 なぜ、日本人はこんなに凶暴なのか? 鄭舜功は、日本列島の自然にその原因を求める。南西諸島の硫黄島に上陸して噴煙を上げる火山を実見し、九州・豊後でおそらく温泉の噴き出すさまを目にした鄭舜功は、風水の観点から、こう論じている。
 〈この日本列島は、陰が極まったなかで生じたもので、硫黄島などを隆起させたものは、けだし陰が極まり陽が混濁し、気が鬱屈して蒸散したものである。しかし〔陰の気は〕漏れ尽きることはなく、〔日本列島で〕発現すると乾燥した「火」の性格を持つようになる。山の勢いはゴツゴツとして荒々しくなり、日本人の凶暴な気性を産みだしている。(中略)人もまた大地の気に感応して生まれるという。それゆえ日本人の性格が凶暴なのは、まさに地の気がそうさせているのである。〉(『戦国日本を見た中国人』p.118)
そして、日本人は性格が凶暴であるがゆえに、礼節と秩序を重んじている、とみているのだ。『日本一鑑』には、こうある。
 〈海寇(海賊)は〔日本では〕「破帆(バハン)」、あるいは「白波」と呼ばれており、発覚すると一族が皆殺しにされる。〔日本の風俗では〕強盗の禁令が厳しいために、夜に門にかんぬきを掛けなくても、盗みは少ない。人々は〔強盗を〕賊と罵り、恨みを忘れない。その風習は武張ってはいるものの、仏を重んじ、文を好む。〔日本人に対する〕要領を得ようとするならば、文教を用いるべきである。〉(『戦国日本を見た中国人』p.123)
 人命を軽んじる凶暴な力によって秩序が保たれ、その秩序のもとで文化が尊重される日本。そんな日本人に向かい合うときは、たんに武力に頼むのではなく、「文教」すなわち文化政策をもってせよ、というのである。
 命を軽んじ、礼節と秩序を重んじる
 日本人の文化として、『日本一鑑』で特に大きく取り上げられているものがある。それは、「日本刀」だ。
 もともと、中国には朝貢貿易で大量の日本刀が持ち込まれていた。その品質は高く評価され、日本の重要な輸出品だったのである。15~16世紀には、1回の遣明船で3000本から多い時で3万本以上が、中国にもたらされていた。
 倭寇として海を渡った日本人は、刀で多くの民を殺し、その凶暴なイメージが明代中国人の脳裏に焼き付いていた。しかし鄭舜功は、ごく普通の日本人は、必ずしも殺傷のために刀を用いていたわけではないことにも目をむけている。
 〈刀が鋭利であることを知るも、〔その刀で人を〕殺さないことをもって宝とする。(中略)そうした刀を佩いて年老いるまで人を殺さなければ、すなわち酒を供えて僚友・親戚に命じて、書を残してその刀を子に伝える。僚友や親戚もまた、酒を供えてそれを祝う。不殺の刀といい、宝となる。〉(同書p.129)
 人を殺めたことがない刀は、その持ち主の精神的な修養の深さを象徴するものであり、そうした刀を伝承することで、その精神性も継承するというわけだ。『戦国日本を見た中国人』の著者で、立教大学文学部教授の上田信氏はいう。
 「中国では、道具は道具として割り切っていて、そこに精神性を認めるということはあまりないように思います。包丁にしても、日本では食材ごとに出刃包丁や柳葉包丁などと使い分けますが、中国では中華包丁ですべてこなしてしまう。汎用性のある道具が一つあればいいという考えですね。日本人は、道具に対する強い思い入れがあることを、文化的な特性として刀の中に見出したのでしょう」
 『日本一鑑』には日本の刑罰や切腹についても詳しく記述されている。鄭舜功自身がその場に立ち会ったと思われる描写もある。
 〈口論になった人が酒の勢いで刀を抜いたら、人を傷つけなくても必ず死刑となる。姦淫・賭博・失火も死刑。盗みに対する禁令はきわめて厳しく、糸一本でも盗んだらみな死刑。〉(同書p.149-150)
 〈犯人は郊外の原っぱか海辺の浜に引き立てられる。犯人の首の縛りをほどくと、犯人はおとなしく着ていたものを脱いで、自らその髪を束ねて頸を差し出す。見物人が最前列まで押しかけている。もし下人を処刑する場合は、この機会を用いて新しい刀の切れ味の善し悪しを調べる。塵芥のように命を軽んじているのである。もし叛逆すると、一族は皆殺しとなり住まいは焼却される。〉(同書p.150)
 〈頭目や富者とみなされたものがもし極刑に当たる罪を犯すと、多くはみずから腹を断ち割って死ぬ。切腹する前に酒を堂内に置き、少しも動揺せずに飲食を摂る。観ている者は嗚咽する。もし少しでも躊躇して遅れると、衆人は手を叩いて笑い「女々しいやつだ」とはやし立てる。切腹し終わると、介錯される。〉(同書p.151)
 『日本一鑑』に描かれた500年前の日本人の姿は、「凶暴」ではあるものの、礼節によって秩序づけられ、統御されていたということになるだろう。その象徴が日本刀であると、鄭舜功の目には映っていたのである。
 ※鄭舜功とは何者か? その使命と過酷な運命については、〈荒れる倭寇をやめさせよ! 特命をおびた中国人が目撃した「意外な日本」。〉を、海から見た戦国時代については〈「関ヶ原」で大量消費の「弾薬」はどこから来た? 海から見る戦国日本の新しい姿〉も、ぜひお読みください!
   ・   ・   ・   
 刀剣ワールド
 寧波の乱 /ホームメイト
 室町幕府第3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)が「明」(みん:14~17世紀の中国王朝)との間に結んだ通商は、南北朝の動乱で荒廃していた日本経済を大いに潤しました。しかし、室町時代後期には室町幕府の権威が失墜し、貿易の主導権は有力守護大名(しゅごだいみょう:地方行政官)・商人へ移っていきます。「寧波の乱」(にんぽーのらん/ねいはのらん)は、勢力を伸ばしてきた守護大名達が、中国大陸で起こした貿易利権を巡る争い。日本の遣明使節が、中国で大規模な暴力事件を起こしたのは前代未聞でした。事態は外交問題に発展し、対日感情は悪化。以後の勘合貿易には厳しい規制措置がかけられ、やがて終焉へと向かいます。
 目次
 寧波の乱の背景
 寧波の乱の概要
 寧波の乱のその後
 寧波の乱の背景
 日明貿易で多大な利益
 室町幕府と明との間で始まった日明貿易(にちみんぼうえき)は、「勘合貿易」(かんごうぼうえき)とも呼ばれました。正式に交易が認められた遣明船には、明から勘合符(かんごうふ)という札が与えられたためです。
 入港場所は「寧波」(にんぽー:中国浙江省[せっこうしょう]の港湾都市)に限定され、ここで勘合符が本物と確認されると上陸を許されました。勘合貿易は、室町幕府の将軍を「日本国王」とみなし、その使者が明の皇帝に貢ぎ物を差し出して返礼品を受け取るという形式。
 これを「朝貢」(ちょうこう)と呼び、近代以前の中国では一般的な貿易方法でした。このとき、返礼品は貢ぎ物よりはるかに高価であったため、室町幕府は莫大な利益を得たと言われます。
 しかし、1467年(応仁元年)から11年にわたった「応仁の乱」(おうにんのらん)により、室町幕府将軍の権力は衰退。代わって台頭したのが、細川氏(ほそかわし)・大内氏(おおうちし)といった有力守護大名達でした。
 寧波の乱の概要
 勘合符を巡って対立
 細川氏大内氏は、それぞれ堺(さかい:現在の大阪府堺市)と博多(はかた:現在の福岡県福岡市)を貿易の拠点としていたため、細川氏には堺商人、大内氏には博多商人が付いていました。彼らはみな勘合貿易で莫大な利益が得られることを知ってしまったため、遣明船はどんどん大規模になっていきます。
 一方、明の側からすれば、毎回高価な返礼品を用意するのは大きな負担以外の何物でもありません。そこで明は、船の派遣は10年に1度、船数は3隻、人数は300人までと渡航を制限。これによって、少ない勘合符の取り分を巡り、日本で対立が起こるのは当然でした。
 そんな折、大内氏が追放されていた、室町第10代将軍「足利義材」(あしかがよしき)を室町幕府将軍職へ復帰させた功労として、1516年(永正13年)に遣明船派遣の権利を永久に保障されたのです。
 利権争いと役人の腐敗
 大内氏は、1523年(大永3年)に遣明船を派遣。すると、細川氏もすでに無効となっていた勘合符を持たせて遣明船を派遣します。寧波の港には、大内船が先に入港していたにもかかわらず、後れて到着した細川船が先に手続きを済ませてしまいました。
 これは、細川船で働いていた、中国人貿易家「宗素卿」(そうそけい)が、明の役人へ賄賂を渡していたからだと言われます。激怒した大内氏側は、細川船を焼き打ちして明の使者を殺害。さらに逃亡した明の役人を殺害し、紹興(しょうこう:浙江省北部の都市)に火まで放ち、船を奪って海上へと逃げ去りました。
 事件は外交問題となり、実行犯は引き渡され、宗素卿は投獄。明は役人による取り締まりを強化するとともに、以後の勘合貿易には厳しい規制措置が取られるようになったのです。守護大名の利権争いと、明の腐敗した役人が引き起こしたこの事件は、寧波の乱と呼ばれます。
 寧波の乱のその後
 大内義隆
 1536年(天文5年)、大内氏16代当主「大内義隆」(おおうちよしたか)が遣明船による貿易を再開。大内氏と組んだ博多商人達も大きな利益を得ます。しかし「大内義長」(おおうちよしなが)が跡を継ぐと、明は正式な大内氏当主ではないと貿易を拒否。
 こうして勘合貿易は1549年(天文18年)に終わりを迎えました。ところが、寧波の乱をきっかけに、明・日本商人との間で私貿易・密貿易が横行。東アジアから東南アジアまで広範囲で海賊行為・交易を展開する、「後期倭寇」(こうきわこう)の台頭につながっていくのです。
   ・   ・   ・   
 世界史の窓
 明州/寧波
 中国の宋代から栄えた浙江省商業都市。明代には寧波といわれた。
 浙江省の港市として唐では市舶司が置かれ、さらに宋代、元代、明代を通じて繁栄し、ムスリム商人も来航した。南宋と元では慶元といわれた。元代には、元軍の第2回の日本遠征での江南軍の出港地となった。
 特に明代以降は、寧波(ニンポー)と言われ南海貿易で栄えた。日本からの貿易船(勘合貿易)が寄港し、日本の商館も置かれた。1523年に起こった寧波の乱は、室町時代の日本の細川氏大内氏勘合貿易の利益をめぐって争い、現地の寧波で大内氏側が細川氏の船を焼き討ちした事件である。
   ・   ・   ・   
 改訂新版 世界大百科事典 「寧波の乱」の意味・わかりやすい解説
 寧波の乱 (ニンポーのらん)
 1523年(大永3,明の嘉靖2)中国浙江省寧波でおこった争乱。室町時代中期以後,遣明船派遣の権利は細川氏大内氏によって争われていたが,両者の抗争が極点に達して爆発したのが寧波の乱である。1519年(永正16)ころ,大内氏の遣明船派遣計画が具体化すると,それと対抗する形で細川氏の派遣計画も熟した。大内氏豊前池永で遣明船3隻を艤装し,正徳勘合1,2,3号を与え,宗設謙道と月渚永乗とを正・副使とし,彼らの船は23年の4月に寧波に到着した。一方,細川氏は幕府に強請して,すでに無効になっていた弘治勘合を入手し,鸞岡瑞佐を正使とし,明人宋素卿をこれに付け,南海路をとって入明させた。細川船は大内船よりも数日おくれて寧波に着いたが,素卿の暗躍により,規定に反して大内船よりもさきに貨物を陸揚げさせて東庫における点検をすませ,そのうえ嘉賓館における席次も鸞岡を宗設の上位におかせることにしてしまった。これに憤激した宗設らは,5月1日東庫から武器を持ち出して鸞岡を殺し,素卿らの船を焼き,さらに素卿を追って紹興の城下に至った。素卿は府衛に守られて青田湖に退避した。宗設らは寧波に帰り,沿道で放火乱暴し,指揮袁璡を捕らえ,船を奪って海に出た。都指揮劉錦はこれを海上に追って戦死。その後,素卿は投獄されて獄死した。25年,明では琉球の使臣に託して,室町幕府に対して反乱の張本となった宗設の引渡しと袁璡の返還を要求した。幕府はこれに対し,30年(享禄3)に,正徳勘合は賊に奪われたために弘治勘合を使用したとし,鸞岡らが正使であったなどと弁明して新勘合の賜与を請求した。一方,大内氏は明に対して,日明貿易における大内氏の特殊的な地位を釈明し,この年ふたたび幕府に対して遣明船の特権の確認をもとめ,その権利を手中にした。以後,遣明船は大内氏の独占下に運営されるようになった。
日明貿易
 執筆者:田中 健夫
 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
   ・   ・   ・    
 ウィキペディア
 寧波の乱(にんぽーのらん)は、1523年(明では嘉靖2年、日本では戦国時代の大永3年)に、明の寧波で起きた事件。寧波争貢事件、明州の乱、宗設の乱とも呼ばれる。
 日明貿易
 日本の室町幕府と中国の明朝との間で行われた日明貿易勘合貿易)は、室町初期の幕府第3代将軍・足利義満、明の第2代皇帝・建文帝の頃に開始され、明が海禁政策を行っている事情から足利将軍家の幕府将軍が「日本国王」として冊封し、倭寇と区別するため勘合符を発行して相手を承認する朝貢形態で行われ、十年一朝など制限がされていた。幕府が派遣する使節には博多や堺などの有力日本商人が随行し、その間で私的な貿易が行われていた。
 乱の経緯
 背景
 足利将軍家家督争いなどから応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると、幕府の管領家で堺を貿易の拠点にしていた細川氏や、山口を本拠に博多、応仁の乱で得た兵庫などに権益を持っていた大内氏がそれぞれ独自に使節団を派遣した貿易をはじめ、大内と細川は勘合符を巡って対立していた。明で正徳帝が即位し、大内氏が遣明船(勘合船)を主催して発行された正徳勘合符を独占する。
 大内義興が追放されていた前将軍・足利義稙を奉じて上洛、管領細川高国を味方につけて将軍職復帰を実現させると、永正13年(1516年)には功労として大内氏が遣明船派遣の管掌権を永久的に保証された。これによって日明貿易の主たる港が堺から博多に移り、細川高国は大きな収入源となっていた明との交易利権を実質奪われる形となってしまうが、大内氏の軍事的支援によって反対派に対抗していたために、異論を差し挟むことができなかった。ところが、永正16年(1519年)になって大内義興が領国の事情から山口に戻ってしまうと、これに反発した高国は一転して大内氏と対立する姿勢を見せる。
 大永3年(1523年)、大内義興が謙道宗設(けんどうそうせつ)を正使に遣明船を派遣すると、細川高国は対抗して鸞岡瑞佐(らんこうずいさ)を正使、宋素卿(朱縞)を副使として、既に無効となった弘治勘合符を持たせて南海経由で遣明船を派遣する。
 殺害事件
 同年4月、寧波には先に大内方の遣明船が入港しており、細川方には不利であったが、細川方の副使の宋素卿は明の入港管理所である市舶司大監の頼恩に賄賂を贈り、細川方を先に入港検査させた。これに激怒した大内方は細川方を襲撃して遣明船を焼き払うも、明の官憲が細川方を支援したために大内方の矛先は彼らにも向いた。この結果、謙道宗設により鸞岡瑞佐は殺され、更に紹興城へ逃れた宋素卿らを追い、明の役人をも殺害する事件が起こる。
 結末
 事件は外交問題となり、宋素卿は投獄されて獄死した。また、対日感情の悪化から享禄2年(1529年)には市舶司大監も廃止される。
 影響
 遣明船による貿易は、天文5年(1536年)には大内義興の子の大内義隆が再開しており、博多商人たちは莫大な富を得る。天文20年(1551年)に大内義隆が家臣の陶隆房の謀反で滅亡するまで続くが、この事件をきっかけに寧波に近い双嶼や、舟山諸島など沿岸部で日本人商人との私貿易、密貿易が活発化し、倭寇(後期倭寇)の活動となってゆく。
   ・   ・   ・   

✨14)─3─竹槍事件と東条英機の精神主義。昭和19年2月23日~No.48No.49 

   ・  ・   ・    
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 現代日本人が、精神主義や根性を嫌う原因は東条英機にあった。
   ・   ・   ・   
 2023年12月30日 朝日新聞デジタル記事「華族と戦争 「無謀」 最後は竹槍での国民総武装
 有料記事
 中村尚徳
 戦艦長門は止まったままだった。水野允氏(のぶうじ)さん(100)が横浜海軍監督官事務所にいたころ、横須賀港に行くたびに不思議に思った。上官に尋ねた。
 「絶対秘密だけど油がねえんだよ、と。あぜんとして声も出なかった。当時も油や食糧を外国に頼っていた。戦争はしてはいけなかったんだ」。敗戦まで1年を切っていた。
 1944年8月、栃木県出身の首相・小磯国昭が率いる内閣は「国民総武装」を閣議決定した。水野さんの事務所にも「総武装兵器」をつくるよう命令が来た。
 「何のことはない、竹やりですよ。敵の上陸に備え、全員に行き渡らせるためです。自分も本気でやるつもりでした」
 日本はじり貧だった。水野さんは敗戦間際、横浜の町中で異様な陸軍の隊列を見た。4列縦隊の兵士らは着剣はしていたが、下を見るとわらじ履きだった。
 45年8月6日午前8時15…
 この記事は有料記事です。残り343文字有料会員になると続きをお読みいただけます。
   ・   ・   ・   
 2024年7月6日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「東条英機」が激怒した…「竹槍では戦えぬ」と「大本営発表」に疑問を呈した「毎日新聞の記者」に「届いたモノ」
 昭和50年9月、世田谷山観音寺の特攻観音慰霊法要にて。元特攻隊員・角田和男(中央)と写真を見ながら語る新名丈夫(左)
 私が2023年7月、上梓した『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人は何を語ったか』(講談社ビーシー/講談社)は、これまで約30年、500名以上におよぶ戦争体験者や遺族をインタビューしてきたなかで、特に印象に残っている25の言葉を拾い集め、その言葉にまつわるエピソードを書き記した1冊である。日本人が体験した未曽有の戦争の時代をくぐり抜けた彼ら、彼女たちはなにを語ったか。
 【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!
 自由にものが言えない時代
 「竹槍事件」の発端となった、昭和19年2月23日の毎日新聞一面
 昭和19(1944)年2月17日、日本海軍の中部太平洋の拠点・トラック島が、アメリカ海軍機動部隊の艦上機の猛攻を受け壊滅した。この事態に、東條英機内閣は19日、一部の閣僚を交代させる内閣改造を行い、さらに21日には、行政と軍の統帥を分離する従来の慣例をやぶって、軍需大臣、陸軍大臣も兼務する東條首相(陸軍大将)が陸軍統帥トップの参謀総長を、海軍大臣嶋田繁太郎大将が海軍軍令部総長を兼務する人事を断行した。
 これは事実上、「軍」の意思が政治を支配するもので、この決定にはマスコミはもちろん、陸海軍の内部にさえも反発、あるいは疑問をもつ向きが少なくなかった。前任の参謀総長杉山元陸軍大将は、「統帥権(陸海軍を指揮する天皇の大権)の独立」を盾に反対したが、東條に押し切られたと伝えられる。
 たとえ反対意見を持つ者がいても、出版法、新聞紙法、国家総動員法などの法により言論が統制され、自由にものが言える時代ではなかった。
 2月22日、東條内閣は改造後初の閣議を行った。これまで、閣議首相官邸で行われてきたが、東條首相はこのときから閣議を宮中で行うよう改めている。翌2月23日、新聞各紙はこの閣議での東條首相の発言を顔写真入りでいっせいに報じた。
 毎日新聞は一面トップの扱いで、
 〈皇国存亡の岐路に立つ 首相・閣議で一大勇猛心強調 秋(とき)正に危急、総力を絞り 果断・必勝の途開かん 転機に処す新方策考へあり〉
 との見出し(原文の漢字は旧字体だが新字体で表記する)でこれを報じた。
 見かけだけの精神論
 昭和19年2月23日の毎日新聞一面より、新名丈夫が書いた〈勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た〉〈竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ〉と題する記事
 その内容は、
 〈一・統帥と国務の更に一段の緊密化を具現し、政府と国民の持つすべての力を併せて米英撃滅に体当りさせ大東亜戦に勝ち抜かねばならぬ。
 一・今こそ重大画期的の時であり、われわれは一切を白紙に返し一切の毀誉褒貶を棄て大胆率直に最善と信ずる途に突進せねばならぬ。
 一・重大戦局に処する途は積極果断が御奉公の要諦である、各大臣及び各方面の指導者はこの牢固たる決意が必要である。〉
 というもので、結論として
 〈国民はこの際一大勇猛心を奮ひ起すの秋、そこに必ず難局打開の道がある。〉
 〈私は茲に皆様方と共に必勝を固く信じて一死報国の決意を新にし、政戦両略の一致を文字通り具現し、飽くまでも積極果断なる施策に当り、以て聖戦の目的を達成して、聖慮を安んじ奉らんことを固く期する次第である。〉
 と、「転機に処す新方策」の具体策がどこにも書かれていない空疎な精神論が並ぶ。
 国家存亡の危機を説く
 昭和55年2月、大西瀧治郎中将夫人・淑惠の三回忌、鶴見の總持寺で。左から3人め新名丈夫。前列右端に源田實・元大佐(当時参議院議員)、石燈籠の左下に大西中将の副官だった門司親徳が写っている
 それに対し毎日新聞は、同じ1面に、
 〈勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た 眦(まなじり)決して見よ、敵の鋏状侵冠〉
 と、
 〈竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ〉
 と題する2本の記事を掲載した。
 〈勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た〉の記事では、昭和17年8月、米軍のガダルカナル島上陸に始まり、南太平洋の日本軍の拠点・ラバウルをめぐる攻防戦と、中部太平洋ギルバート諸島マーシャル諸島、トラック島と攻め上ってくる米軍の動きを、日本の南と東から迫りくる鋏(はさみ)の刃に例え、
 〈トラック乃至は同方面の制海権乃至は制空権を万が一にも敵の優越に委ねたる場合は如何なる事態を招来するかは地図を繙(ひもと)けば一目瞭然であろう。〉
 〈国家存亡の岐路に立つの事態が、開戦以来二年二ヶ月、緒戦の赫々たる我が進攻に対する敵の盛り返しにより勝利か滅亡かの現実とならんとしつつあるのだ。〉
 〈大東亜戦争は太平洋戦争であり、海洋戦である、われらの最大の敵は太平洋より来寇しつつあるのだ、海洋戦の攻防は海上において決せられることはいふまでもない、しかも太平洋攻防の決戦は日米の本土沿岸において決せられるものではなくして、数千海里を隔てた基地の争奪を巡って戦はれるのである、本土沿岸に敵が侵攻し来るにおいては最早万事休すである〉
 と説く。
 日本に必要なもの
 神風特攻敷島隊指揮官・関行男大尉。左は昭和19年6月頃、霞ケ浦空教官時代(撮影/香川宏三中尉)、右は昭和19年10月、特攻出撃直前。10月25日、米護衛空母に突入、戦死
 〈竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ〉の記事では、
 〈今こそわれらは直視しなければならない、戦争は果して勝つてゐるか、ガダルカナル以来過去一年半余り、わが忠勇なる陸海将士の血戦死闘にもかかはらず太平洋の戦線は次第に後退の一路を辿り来つた血涙の事実をわれわれは深省しなければならない〉
 そして、航空兵力こそが主兵力となり決戦兵力となった現在の太平洋の戦いにおいて、航空戦が膨大な消耗戦であることから目をそらしてはいけない、海上補給にせよ、潜水艦戦にせよ、飛行機の掩護なしには成り立たず、
 〈ガダルカナル以来の戦線が次第に後退したのも、アッツやギルバートの玉砕も、一にわが海洋航空兵力が量において敵に劣勢だったためではないか〉
 〈航空兵力こそ勝敗の鍵を握るものなのである〉
 と述べ、さらに、
 〈敵が飛行機で攻めてくるのに竹槍を以ては戦ひ得ないのだ。帝國の存亡を決するものはわが航空戦力の飛躍増強に対するわが戦力の結集如何にかかつてゐるのではないか。〉
 と締めくくっている。いずれも、冷静に情勢を分析した上で戦局の見通しを述べ、日本が戦う上で必要なことを提言している。
 刺激的な社説
 フィリピンで、特攻出撃を見送る隊員たち
 加えてこの日、毎日新聞
 〈今ぞ深思の時である〉
 と題した社説を掲載した。その論調は「増産、国民生活、防空、疎開など決戦体制がいまなお整備されていない」ことを主眼にしているが、
 〈内南洋トラック島に殺到した敵の機動部隊がその後どうなつたかは、国民にとつて実に大なる関心事であつた。廿一(21)日附大本営発表は完全に真相を国民に知らしてくれた。猛襲二日にして敵は撃退された。どこまで撃退されたかわれわれには分からないが、少なくともトラック島からは撃退されたのである。だが、この間我が方の被つた損害はどうであるか。真相はここにあると思ふ。〉
 と、暗に「大本営発表」に疑問を呈し、
 〈必勝の信念だけで戦争には勝たれない。最後の勝利は信念あるものに帰するは相違はないが、それには他の条件において均衡が取れた上のことであつて、必勝の信念のみでは勝てるわけのものではない。〉
 〈わが国が今日まで取り来り、かつ現在なほ取りつつある施策の方針によつて最後の勝利を獲得する確信があるのか。〉
 と、チクリチクリと刺激的な文言が並んでいる。
 東條首相の逆鱗に触れる
 昭和19年10月26日、マニラの第一航空艦隊司令部の前庭で、特攻初櫻隊の命名式。画面左に、軍刀を地に突いた大西瀧治郎中将が写っている
 全体として、
 〈国民はこの際一大勇猛心を奮ひ起すの秋、そこに必ず難局打開の道がある。〉
 との東條発言に疑義を唱え、否定するトーンに終始している。これは、具体的な方策もないまま戦争に負け続け、国民には竹槍をもって敵の近代兵器に立ち向かうような精神主義を押しつけ、政治と軍事をほしいままにする東條首相の独裁に対する、新聞社としてのせめてもの抵抗だったのだろう。
 やはり、と言うべきか、この紙面が東條首相を激怒させた。
 毎日新聞大本営陸軍報道部長から掲載紙の発禁処分を受け、編集責任者と筆者の処分を求められた。「竹槍事件」と呼ばれる。
 毎日新聞社はこれを受け、編集責任者を処分したが、〈勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た〉と、〈竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ〉の記事を書いた新名丈夫(しんみょう たけお)記者の処分は見送った。
 すると、記事執筆からわずか8日後、新名に郷里・香川県の第十一師団歩兵第十二連隊への召集令状が届く。新名は明治39(1906)年生まれ、慶應義塾大学法学部に在学中の大正15(1926)年、徴兵検査を受けたが、弱視のため兵役を免除されていた。37歳になっての突然の召集を、本人も周囲も、東條による「懲罰召集」であると受け取った。
 「死」と隣り合わせの若者たち
 特攻隊を見送る指揮官たち。左から南西方面艦隊司令長官・大川内傳七中将、連合基地航空部隊最高指揮官・福留繁中将、第一航空艦隊先任参謀・猪口力平大佐
 新名は、海軍の記者クラブである「黒潮会」の主任記者を務めていた。東條を激怒させた記事は、海軍の主張を色濃く反映し、代弁したものとも読める。新名の召集に海軍は抗議するが、陸軍は、新名と同様、これまで徴兵を免除されていた老兵250名を一緒に召集することで、新名1人の「懲罰召集」ではないとの詭弁を弄した。
 結果的に、海軍の抗議が功を奏して新名は3ヵ月で召集解除になるが、同時に召集されたそれ以外の者はその後、硫黄島に送られ全員が戦死したという。
 海軍は、陸軍による再召集を避けるため、新名を南西方面艦隊附の報道班員としてフィリピンに送り込んだ。そこで新名は、10月、米軍によるフィリピン侵攻を迎え、数少ない航空戦力で敵空母の飛行甲板を使用不能にさせる目的で始まった、爆弾を積んだ飛行機による体当り攻撃、すなわち神風特別攻撃隊(特攻隊)の隊員たちと身近に接することになる。
 もともと、陸軍と海軍は総じて仲が良くない。東條首相に盾ついて懲罰召集を受け、それを海軍が身請けする形で最前線に送り込まれた新名は、隊員たちから好意的に受け入れられた。新名も、「死」を目前に控えた若者たちに、誠意をもって接した。
 新名が遺し、いま縁あって私の手元にある原稿綴りには、内地に送った記事のほかにも写しを許された遺書や遺詠が並び、はしばしに、
 〈隊員の悉くは詩人だ。〉
 といった感想や、
 〈ある隊員の手帳にはこう書かれてゐた。死の恐怖は目の悪戯なり心の悪戯なり落花散る前の振舞なり〉
 のように印象に残った言葉が刻まれている。
 偉大なジャーナリストの最期
 昭和19年11月25日、神風特攻隊の突入を受け、炎上する米空母「エセックス
 昭和19年暮れになると、いよいよルソン島への敵上陸が近いことが予想され、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将は、報道班員たちを内地に帰すことを考えた。大西は、南西方面艦隊附から第一航空艦隊附になっていた新名を呼び、特攻隊の様子を内地に伝えることを命じて、「第一航空艦隊からの出張」という名目で内地に帰らせた。
 東條内閣はすでに退陣し、小磯内閣に代わっていたが、かつて、「竹槍事件」で陸軍に懲罰召集された新名をそのまま帰すと、ふたたび召集される恐れがある。「出張」という名目にしたのはそのためだった。新名が道中、不自由することのないよう、大西は「通過各部隊副長」宛てに、「道中御便宜取計相成度」との添え書きを持たせた。
 日本に帰った新名は、その後も人間爆弾「桜花」部隊の初出撃や、厚木の第三〇二海軍航空隊などの前線部隊を取材し、いっぽうで、終戦工作の立役者である井上成美大将や高木惣吉少将など海軍中枢へもインタビューしている。
 戦争が日本の無惨な敗戦に終わったのち、新名は、特攻隊員たちの記録がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収され、あるいは散逸するのを防ぐため、自分をふくめた報道班員たちの取材記録の多くを個人で保管し続けた。それらの記録が初めて世に出たのは、昭和42(1967)年、毎日新聞社が刊行した写真集『あゝ航空隊 続・日本の戦歴』のなかでのことある。
 新名は戦後、特攻隊の慰霊祭には必ず参加し、かつての隊員たちと往時を語り合った。また、ことあるごとに元隊員たちに回想記の執筆を勧めた。
 新名と特攻隊員たちの交流は、新名が亡くなるまで続いた。昭和56年、病に倒れ、横浜の病院に入院した身寄りのない新名を、多くの元特攻隊員が交代で見舞い、つきっきりで看病したという。昭和56年4月30日、死去。享年74。
 「竹槍事件」から80年。いままた、鹿児島県警が捜査批判を展開していたネットメディアを強制捜査し、取材情報等の入ったパソコンを押収。不祥事の内部告発者を特定し逮捕するなどという、強権国家のごとき非道が報じられている。昔もいまも、情報を伝える側に求められるのは、新名丈夫のような客観的な目と熱い心、そして権威に屈しない「肚」を持つジャーナリストではないだろうか。
 神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)
   ・   ・   ・   
 2024年7月4日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「生徒たちが“一糸乱れぬ”行進を…日本の卒業式は「まるで軍隊」 根深過ぎる「集団主義」はなぜなくならないのか
 テレビを観ていたら卒業式の光景が流れてきた。恐らく今も全国どこでも見られる標準的な式なのだろう。番組では巣立っていく生徒に注目して、感動的なBGMが流されていた。
 だが僕が抱いたのは強烈な違和感である。まだ日本はこんなことをしているのか、と心底驚いた。生徒たちが一糸乱れぬ様子で体育館に入場し、一斉にお辞儀をする。その姿はまるで軍隊そのものだった。
 学校と軍隊が似るのは不思議なことではない。集団を統制する手段として、行進や敬礼など一律的な行動を構成員に強いるのは合理的である。実際、近代化における学校教育には軍人育成という側面もあった。行進ができて、文字が読めて、集団行動ができる人材というのは軍隊に必須である。
 だがわが国は戦争に負けて、学校は平和教育の中心地となった。多くの教職員が所属していた日本教職員組合日教組)も、極めて反戦活動に熱心な団体だった。そんな学校という場で、なぜ令和時代になっても軍隊のような集団行動を強いているのだろうか。
 かつて教職員が式典において「日の丸」を前に起立したり、「君が代」を斉唱するのは義務かどうかが議論になったことがあった。「日の丸」や「君が代」は戦前の軍国主義の象徴であり、その強制は憲法違反ではないか、というのだ。
 僕自身は生徒であろうが教職員であろうが、義務はよくないという立場だ。だが同時に思うのは、学校には「日の丸」や「君が代」どころではない軍国主義の名残が溢れている、ということ。授業や式典のたび生徒に起立と礼を強いる。班活動によって生徒に相互監視をさせる。協調性が重視され、出る杭は打たれる。それは日教組が強く反対してきた戦争とは無関係なのか。
 アジア太平洋戦争を可能にしたのは、当時の国民による集団主義である。強権的な国家が一方的に戦争を起こしたのではなく、人々の熱狂がそれを駆り立てた。戦時下の日本でも、国家よりも大衆の方が好戦的で、「非国民」に厳しかった。
 だからあの戦争と本当に決別したいなら、ヒステリックな集団主義からも距離を置くべきなのだ。だが学校は、反戦を謳いながらも、軍人育成のような集団主義を手放さなかった。もちろん例外も増えているが、今でも予行練習を何度も繰り返し、一糸乱れぬ式典を催行して、自己満足に浸っている学校は多いのだろう。
 学校教育の成果なのか、コロナ時代の日本は非常に統制の取れた社会だった。お国が自粛を求めれば国民は進んで服従し、足並みをそろえない人を「非国民」と糾弾した。熱狂した国民は、より強権的な政策を国家に求め、日本のコロナ有事は他国よりも長引いた。
 将来、戦争が起きた時も同じようなことが起こるのではないか。「命を守るため」の戒厳令に人々は進んで協力して、妥結点を探ろうとする政治家を「国民の安全を考えていない」と非難する。この国のヒステリックな集団主義の根は深い。
 古市憲寿ふるいち・のりとし)
 1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。
 「週刊新潮」2024年7月4日号 掲載
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 竹槍事件とは、第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)2月23日付け『毎日新聞』第一面に掲載された戦局解説記事が原因でおきた言論弾圧事件。
 概要
 問題となった戦局解説記事は、毎日新聞社政経部および黒潮会(海軍省記者クラブ)主任記者である新名丈夫が執筆した記事(見出し作成は山本光春)で、「勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た」という大見出しの下でまず「眦決して見よ 敵の鋏状侵寇」として南方における防衛線の窮状を解説し、続いて「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」として海軍航空力を増強すべきだと説いている(#『毎日新聞』(1944年2月23日付)の記事参照)。
 この記事は海軍航空力増強を渇望する海軍当局からは大いに歓迎されたが、時の東條英機陸相兼首相は怒り、毎日新聞は松村秀逸大本営報道部長から掲載紙の発禁[5]および編集責任者と筆者の処分を命じられた。毎日新聞社は編集責任者は処分したものの、筆者である新名の処分は行わなかったところ、その後ほどなく新名記者が37歳にして召集された。
 背景
 この事件の背景には、海軍が海洋航空力を増強するため陸軍より多くの航空機用資材(ジェラルミンなど)を求めても、陸軍はこれに応じようとはしないで、半々にせよとして譲らない、海軍の飛行機工場の技師を召集してしまうなど、航空機や軍需物資の調達配分をめぐる陸軍と海軍の間の深刻な対立があった。
 1943年末には海軍の源田実と陸軍の瀬島龍三は共同研究による大本営陸海軍部の合一に関する研究案を提出し、陸海の統帥部一体化、航空兵力統合などを提案したが、1944年2月21日に軍令部総長を兼任した海軍大臣嶋田繁太郎により即刻研究中止となった。
 東條はこのころ、戦争遂行のためには国務と統帥の一致が必要と考え、トラック島空襲をきっかけにして首相・陸相参謀総長の兼務に踏み切ったところであった。これは統帥権に抵触するおそれがあるとして「東條幕府」と揶揄され様々な問題や軋轢を生んでいた。秦郁彦は、東條は政府批判や和平運動は「国賊的行動」とみなし、また東條批判は「陛下のご信任によって首相の任にある者に対する批判や中傷はすなわち陛下に対する中傷」として許さず、憲兵を使って言論を取り締まり、批判者を懲罰召集して激戦地に送る仕打ちをしたと見ている。1942年9月12日から1944年1月29日にかけては戦時中最大の言論弾圧事件である横浜事件が発生した。
 東條が出した『非常時宣言』の中の「本土決戦」によると、「一億玉砕」の覚悟を国民に訴え、銃後の婦女子に対しても死を決する精神的土壌を育む意味で竹槍訓練を実施した。
 そのような状況下で、深刻な航空機不足に直面していた海軍では、航空機用資材の供給についての要求が通らなかったことで陸軍および東條内閣への不満が強まっていた。そこで毎日新聞黒潮会(海軍省記者クラブ)担当キャップだった新名は海軍に同調し、海軍省との紳士協定(「海軍省担当キャップが執筆した記事については事前検閲は不要」)を利用してキャンペーン記事を書くことを進言した。
 新名は「日本の破局が目前に迫っているのに、国民は陸海軍の酷い相克を知りません。今こそ言論機関が立ち上がるほかありません」と上司の吉岡文六編集局長に上告書を出した。
   ・   ・   ・