🏯32)33)─1─武士と庶民の間の非武士身分、武家奉公人、徒若党、若党、中間、小者。~No.60No.61No.62No.63 ④ 

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 足軽は下級武士で、才能があれば上級職に登用されたが、一代登用で世襲にはなれなかった。
 上級武士で有能な跡取りが欲しい時、有能な足軽や庶民の若者を養子に取った。
 足軽で武士を廃業したい者は、下級武士の株を売り出した。
 武士になりたい庶民は、下級武士の株を買って足軽になり、才能があって野心があれば上級武士家の養子になって要職に就いた。
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 武家奉公人(ぶけほうこうにん)とは、文字通り武家に奉公する者を言う。江戸時代以前では主家に仕える(奉公する)武士も含めて単に奉公人と呼んだ。江戸時代以降はもっぱら非武士身分の中間や小者を指した。
 種類
 武家奉公人は若党、中間、小者などの呼称があるが、地域、藩、各武家によっても意味合いに差があり、厳密な区別はできるものではない。したがって下記にある若党、中間、小者に分けた解説はあくまで参考程度の内容である。
 若党(わかとう)
 『貞丈雑記』に「若党と云はわかき侍どもと云事也」とあるように本来は文字通り若き郎党を指したものであるが、江戸時代には武家に仕える軽輩を指すようになった。その身分は徒士侍と足軽の中間とも足軽以下とも言われた。「若党侍」とも呼ばれるが士分ではなく大小を差し羽織袴を着用して主人の身辺に付き添って雑務や警護を務めた。一季か半季の出替り奉公が多く年俸は3両1人扶持程度であったため俗に「サンピン侍」と呼ばれた。
 中間(ちゅうげん)
 脇差1つを挿し、時には戦いにも参加し、平時は雑用を行った。
 渡り中間に代表されるように、一時限りの奉公の場合が多い。
 一時限りの中間
 広く一般的に知られる中間はこれを指す。
 江戸期になると、年季契約や、必要な時のみ口入れ屋から雇い入れるということがしばしば行われた。多くは百姓の次男以下などが奉公したが、武家屋敷の多い江戸など大都市では屋敷を渡り歩く渡り中間のような専門の奉公人を雇うことも多かった。
 特殊な中間
 広く一般的に知られる中間とは異なり、世襲で藩に仕え、苗字帯刀が許されている者や幕末に特殊な事例に用いて採用されたりした者を指す。例えば、幕府の五役の御中間や米沢藩の御中間は、譜代の御家人および譜代の足軽格からなる卒身分であり、職制が組の名称となっていた。また、長州藩の蔵元の世襲の下級蔵役人としての中間身分であった山縣有朋伊藤博文が、資料などの記述で足軽扱いされるのは、本来の広く一般的に知られる一代限りの中間と紛らわしいためであろう。
 小者(こもの)
 私的武家奉公人。住み込みで主に雑用を行った。小人(こびと)、下男(げなん)とも言う。町方同心が捕物で使ったものを小者と呼ぶことがあった。平民身分。
 幕末の変化
 幕末になって江戸幕府及び諸藩は、火縄銃装備の「鉄砲組」を廃止し、洋式銃装備の「歩兵隊」や「銃隊」を作る必要に迫られたが、従来の足軽身分のものだけでは不十分なケースが多々見られ、こうした場合、新たに人員を募集し戦国時代の足軽隊に似た歩兵部隊を創設することがあった。これらの身分は足軽より下の中間(ちゅうげん)待遇とされた。
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 軽き武家奉公人(読み)かるきぶけほうこうにん
 世界大百科事典内の軽き武家奉公人の言及
 【奉公人】より
 …奉公人という称呼は,中世では上位の従者,家臣をさすものとして用いられるのが一般的であった。御恩・奉公【佐藤 堅一】
 【武家奉公人
 近世初頭までは侍身分の者をも奉公人のうちに加えていたが,江戸時代では将軍や大名,旗本・御家人や大名の家中に雇用された若党(わかとう),足軽,中間(ちゆうげん),小者(こもの),六尺,草履取(ぞうりとり),ときに徒士(かち)などの軽輩をさし,軽き武家奉公人ともいう。その平生の身分は百姓,町人であり,武家奉公中のみ家業として帯刀が許され,奉公さきの家来の取扱いをうけた。…
 ※「軽き武家奉公人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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 精選版 日本国語大辞典「徒若党」の解説
 かち‐わかとう ‥わかタウ【徒若党】
 〘名〙 徒歩で仕える侍。特に江戸時代、主君に徒歩で供奉(ぐぶ)する、中間や小者より上位の下級武士をいった。
 ※甲陽軍鑑(17C初)品一二「大将の馬に乗てよりは、歩若党(カチワカタウ)・中間小者身近き者なりとて」
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 小者(読み)こもの
 精選版 日本国語大辞典「小者」の解説
 こ‐もの【小者】
 〘名〙
 ① 年若い人。年少者。また、こがらな人。
 ※太平記(14C後)九「己れ程の小者(コモノ)と組で勝負はすまじきぞとて」
 ② 身分の低い奉公人をいう。丁稚(でっち)。小僧。下男。
 ※俳諧・誹諧之連歌飛梅千句)(1540)何第二「とくりをもたせ秋かぜぞふく 月かげは誰小ものめををくるらん」
 ※怪化百物語(1875)〈高畠藍泉〉上「主管(ばんとう)小厮(コモノ)が四表八表(よもやま)の」
 ③ 中世、近世に、武家に仕えて雑役に従事し、戦場では主人の馬先を駆走した軽輩のもの。室町時代には中間(ちゅうげん)より身分が低く、将軍出行のときは数名が随従し、草履(ぞうり)持ちなどをつとめた。江戸時代の小者は小人ともいい、幕府お抱えの小者はおもに使い走りや荷物の運搬にあたった。→小人。
 ※吾妻鏡‐建保元年(1213)五月六日「建暦三年五月二日三日合戦被レ討人々日記〈略〉此外小物郎等は不レ注」
 ④ 江戸時代、武士に雇われ、雑事に使役されたもの。若党(わかとう)、中間、草履取りなどと併称されることが多く、普通一年ごとの契約で雇い入れられ、主人に対し忠誠義務はほとんどなかった。
 ※禁令考‐前集・第四・巻三六・寛永八年(1631)一一月五日「小者身分として侍に成候者於有之は、本文主人え相断改之、急度曲事可申付事」
 ⑤ 江戸時代、町奉行の廻り同心の手先となり、犯罪の捜査、犯人の逮捕に従った下級役人。その職務は目明(めあかし)(=岡引)と異ならなかったが、同心から若干の給金を与えられ、公的な使用人であった。
 ※牧民金鑑‐一・嘉永三年(1850)四月「雇足軽並手附手代共召連れ候小ものへ、十手捕縄貸渡候心得方之儀」
 ⑥ 手腕や地位のない、したっぱの取るに足りない者。
 ⑦ ⇒こもの(小物)
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「小者」の解説
 小者 こもの
 奉公人の一種。小人(こびと)ともいう。武家などに雇われ、走り使いなど雑役に従事した。室町時代以降からみられ、年季を切って随時雇い入れるところが多い。武家では中間(ちゅうげん)の下位に置かれ、軍役の員数外とされた。江戸時代、幕府や諸藩の職制中では、中間とともにさまざまな名称で使役されている。このうち幕府では、五役の者と総称されるのが中心であった。
 五役は、黒鍬者(くろくわのもの)(草履取(ぞうりとり)、荷物運送)、中間、小人(伝令、用品運搬)、駕籠(かご)者、掃除者で、いずれも世襲である。禄高(ろくだか)は役職により異なるが、10俵一人扶持(ぶち)から15俵一人扶持くらいであった。
 [佐々悦久
 [参照項目] | 小人
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「中間」の解説
 中間 ちゅうげん
 古くからおもに武家方にみられた軽格の奉公人の一つ。戦国時代に広範に成立し、江戸時代には足軽と小者との中間の身分とされた。足軽、中間、小者は一括して軽輩と称されたが、このうち足軽のみが士分と称される侍(さむらい)・徒士(かち)と同様に戦闘員であったのに対し、中間は小者とともに非戦闘員に属した。戦時には小荷駄(こにだ)隊を形成し、平時には雑務に従った。苗字(みょうじ)帯刀はいっさい許されなかった。江戸幕府には550人前後の中間(役高十五俵一人扶持(ぶち)、御目見(おめみえ)以下、羽織袴(はかま)役、譜代(ふだい)席)があり、大・中・小の三組に編成され、各組に頭(かしら)は1人(若年寄(わかどしより)支配、役高八十俵持(もち)扶持、御目見以下、上下(かみしも)役、焼火間詰(たきびのまづめ)、譜代席)、組頭は大組に4人、中・小組に各3人(役料十俵一口)が置かれていた。城中諸門の勤番、将軍遠行の供奉(ぐぶ)などを役目とした。
 [北原章男]
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 百科事典マイペディア「中間」の解説
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 中間【ちゅうげん】
 公家(くげ)・武家(ぶけ)・寺院などで召し使われた男。仲間・中間男とも記され,身分は侍(さむらい)と小者(こもの)の間にあたるという。平安期からみえ,鎌倉期・室町期の武家の中間は主人の弓・剣などを持ち,警護を務め,また領主の強制執行などの使者も行っている。戦国期の武家奉公人には侍・中間・小者・荒子(あらしこ)の身分が生じていた。江戸時代には武士に仕えて小荷駄(こにだ)隊を結成するなどのほか,平時には雑務を行った。足軽(あしがる)は苗字帯刀を許されたのに対して,中間には認められず,奴(やっこ)・草履(ぞうり)取などともよばれた。また江戸幕府の職制でもあり,3組500余人から構成され,中間頭(かしら)のもとに城内の門番などに従事していた。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「若党」の解説
 若党 わかとう
 武家奉公人の一つ。中世では年輩の侍(さむらい)である老党に対し、主人の身辺に仕えた若輩(じゃくはい)の侍をいった。近世では大身の武家に仕えた軽輩をいい、その身分は徒士(かち)と足軽(あしがる)との中間に置かれ、始終主人の身辺にあって雑務、警固(けいご)に任じた。彼らは百姓・町人出身の一季・半季の出替(でがわり)奉公人であり、給金は一か年3~4両を相場とした。
 [北原章男]
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「若党」の解説
 若党 わかとう
 若い郎党,武士の従者の意。室町時代には「若党被官」の語がみられる。戦国時代には奉公人のなかに若党と呼ばれるものがあった。江戸時代には武家奉公人と呼ばれ,小者,中間 (ちゅうげん) ,草履取 (ぞうりとり) らとともに年季契約による雇用関係にあった。 (→家子郎党 )
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 郷士(ごうし)は、江戸時代の武士階級(士分)の下層に属した人々を指す。江戸時代、武士の身分のまま農業に従事した者や、武士の待遇を受けていた農民を指す。平時は農業、戦時には軍事に従った。郷侍(ごうざむらい)とも。
 概要
 人々の立場が流動的であった戦国時代が終わり、徳川幕府下で新しい階級制度(武士・百姓・町人)が形成される中、武士と農家の中間層に分類される層(地侍土豪など)が在郷(城下でなく農村地帯に居住すること)する武士として扱われたもの。武士身分と同じく藩・幕府に士分として登録され、苗字帯刀の特権も与えられている。しばしば混同されるが、苗字帯刀を許されている層には郷士以外の階級(豪商・豪農・学者など)も含まれているため、「名字帯刀=郷士」という認識は誤りではないが正確でもない。
 郷士は「(武士階級である以上、その特権として)苗字帯刀を許されている」のに対し、郷士以外は「(武士階級ではないが、特に働きがあったため)苗字帯刀を許されている」のである。名字帯刀が基本的に武士の特権であること、それが与えられることは名誉に違いはないが、武士身分と一緒になっている訳ではない。論者の中には名字帯刀に加えて知行を持つ事を郷士の条件として、「地頭帯刀」という用語を用いる場合もある。
 分類
 農民・商人から下層・中層の武士階級までは、士分株の売買などを通じて、かなりの階級の流動性が保たれていた。したがって郷士においても、時代が下るにつれて古参郷士とは別に、新興郷士とも言うべき人々が次々と現れた。また、古参郷士でも背景となる戦国時代以前の立場については様々であり、一様ではない。
 戦国時代に士分(この場合は存続している戦国大名の家臣団名簿に登録されている事を指す)であった人々の内、藩士としての地位を与えられながら理由あって在郷領主としても行動した者。
 兵農分離以前からの半農半兵(兵士の自給自足・農民の自主自衛)の伝統から、士分の中には自前の農地(多くの場合、一般より大規模な農地を有していた)を直接管理して家計の支えにしている層がいた。彼らの内、規模の大きい者は豪族と呼ばれ、より規模の小さい者は土豪地侍と呼ばれた。彼らは江戸時代に「在郷藩士」として各藩の士分階級に取り込まれ、従来通り平時の農地管理と非常時の軍役を両立し続けた。土佐藩では旧領主である長宗我部氏の家臣のうち、地侍にあたる一領具足を下士として登用した。
 乱世の中で所属していた大名家が滅亡して士分を失った者達は再仕官を拒絶したり、逆に叶わなかったりして帰農したものも多かった。その中には旗本や家老などの重臣クラスが土着した例もあり、新しくその土地を領有した藩の支配者が旧領主を支持する勢力への懐柔としてそうした人々を藩士に取り立てる場合があった。その場合、多くは一般藩士ではなく城下城内での勤務や栄達を禁じられた「在郷藩士」として扱われ、今まで通りに農地管理を主な生業にした。
 江戸時代初期までは農民階級・商人階級に属していたが、何かしらの理由で上記と同じ身分を与えられた者。
 大名家に対しての献金や新田開発の褒美として郷士に取り立てられた者。1に近い地位を持ちながら、郷士身分の範疇から漏れていた者が後から取り立てられたという側面が強い。
 売却されていた士分株の内、「郷士株」を購入して身分を買い上げたもの。純粋に太平の世で身を立てて、その栄達として立身した者が多い。著名な郷士である坂本龍馬も祖先である豪商の坂本直益が土佐藩より郷士株を購入、曽祖父の代から郷士身分を得ている。
 元は一般藩士であったが城下で家禄のみによって生計を維持できず、城下郊外または農村で農業を営む為に郷士身分へ下ったもの。
 特別の所以があるもの(十津川郷士など)。
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🏯97)─1─足軽の語源は古代ペルシャ(現・イラン)で遣唐使によって日本に伝来した。〜No.189No.190 ⑭ 

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 武士かどうかは武器を持って、主君に忠誠を誓い命令に従って合戦に参加して敵を殺すかどうかである。
 足軽は、合戦に参加する為に下級武士である。
 小者・中間(ちゅうげん)・奉公人そして人足は、武士に仕えて雑務を行うが、合戦に参加せず逃げ回ったから武士ではない。戦場で乱取りをしたのは、主に彼らであった。
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 豊臣秀吉は、足軽から天下人に出世した。
 平賀源内は、足軽の三男。
 佐藤一は、足軽から新撰組隊士。
 山県有朋は、足軽から元老になった。
 伊藤博文は、小作人から足軽になり元老になった。
 堀口九萬一は、足軽から外交官。
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 2021年11月号 WiLL「昨今の日本の外交官はすぐ逃げる  高山正之
 ……
 日本と中東はけっして遠くはない。イランで武士階級のことを『アシュカリ』と言う。テヘラン特派員時代の助手は姓だけでなく名にもアシュカリがつく武人の家柄だった。この言葉はササン朝ペルシャが滅びた後、ペルシャの王子ピールーズの唐亡命によって中国にまでもたらされ、遣唐使とともに日本に入った。源平時代に突如として使われ始めた『足軽(あしがる)』の語源と言われる。
 王子ピールーズが唐に流行らせたものは多い。詩人の白楽天ペルシャ女性の踊るペルシャダンスを見て『胡旋女』と題する漢詩を書いている。
 『弦鼓一聲袖擧/回雪飄搖轉蓬舞/左旋右轉不知疲・・・(絃と鼓が一斉になると両手が上がり、雪のように廻り、蓬{よもぎ}のように舞う。左に旋回し右に回転して疲れをしらぬ)』と。
 その時代には李白阿倍仲麻呂長安にいた。ペルシャ人が持ち込んだ食べ物の1つが『カバブ』だ。ペルシャダンスを見ながら仲麻呂もきっと食べたに違いない。カバブは羊肉を串刺しにして炭をおこした細長い火桶の上に渡して焼く。テヘランのレストランの厨房でそれを見たが、その佇まいは蒲焼屋のそれと同じだった。おまけに炭はイランの森にある『鉄の木』。日本語に訳せばウバメガシ。つまり備長炭だ。それはまさに蒲焼そのものと言ってもいい。
 ちなみに蒋介石が日本人240人を虐殺した通州事件を載せない岩波『広辞苑』は蒲焼の語源を『ガマの穂に似ているから』と実にいい加減を書く。ガマ(蒲)がカバに訛(なま)るわけもない。奈良の正倉院には漆胡瓶(しっこへい)があるが、これもペルシャ産だ。
 たとえば韓国には『いい加減でいいじゃないか』という意味の『ケンチャナヨー』がある。支那にも『没法子』がある。ロシア語にもイスラム系にも『インシャアラー』とかがある。ただペルシャ人にはいい加減を許さない言葉がある。いい加減な奴を『チャランデパランデ』と言う。日本語の『チャランポラン』と同じ意味だ。足軽を含め、カバブが日本に伝わって蒲焼になったと考えた方が、はるかに理解がしやすい。
 かくも中東、とくにペルシャとは日本は文化面で交流があったが、これがアフガンになると、様相(ようそう)がまったく異なる。
 今回のアフガン陥落について、朝日は8月17日付の社説で『アフガンと米国「最長の戦争」何だった』と題して、《テロの根源は、各地に広がる紛争や差別、貧困であり、失敗国家をなくさない限り、安全な世界は築けない。同時多発テロから学ぶべき教訓を生かさず、軍事偏重の行動に走り続けた結果、疲れ果てたのが今の米国の姿ではないか》と批判した。要するに米国のせいでアフガンが混乱しているというわけだが、イスラム思想研究家の飯山陽は、朝日の批判はまったくの町外れだと反論している。産経の『報道されないアフガン「不都合な真実」』(8月29日付)がそれだが、飯山の指摘はその通りだ。」
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 足軽は、平安時代から江戸時代の日本に存在した歩兵の一種。
 平安・鎌倉・室町時代
 発生は平安時代とされ、検非違使の雑用役・戦闘予備員として従軍した「下部」が足軽の原型とされる。鎌倉時代中期頃まで、騎馬武者による一騎討ちを原則としたことから、足軽は従者や運搬などの兵站や土木作業に従事させられることが多かった。
 南北朝時代に悪党の活動が活発化し下克上の風潮が流行すると、伝統的な戦闘形態は個人戦から集団戦へと変化し始め、足軽の活躍の場は土一揆国一揆にも広まった。応仁の乱では足軽集団が奇襲戦力として利用されたが、足軽は忠誠心に乏しく無秩序でしばしば暴徒化し、多くの社寺、商店等が軒を連ねる京都に跋扈し暴行・略奪をほしいままにすることもあった。
 応仁の乱時、東軍の足軽(疾足)300余人が宇治神社を参詣する姿を人々が目撃したものとして、「手には長矛・強弓を持ち、頭には金色の兜や竹の皮の笠、赤毛など派手な被り物をかぶり、冬だというのに平気で肌をあらわにしていた」という。一方で、雲泉太極の『碧山日録』には、「東陣に精兵の徒300人あり、足軽と号す。甲(かぶと)を擐せず、矛をとらず、ただ一剣をもって敵軍に突入す」と記され、兵装に統一性がなかった事がわかる。『真如堂縁起』には、足軽達が真如堂を略奪している姿が描かれているが、兜をつけず、胴具は身につけているものの下半身は褌一枚の者、半裸の者など無頼の姿である。
 また、足軽を雇ったのは大名といった武家に限らず、東寺など寺社勢力も自衛のために足軽を雇った。東国では太田道灌が「足軽軍法」という名で活用するが、足軽を直属軍に編成した足軽戦法の祖とされる。
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🎑108)─7─安月給で奴隷労働を強要される優秀な日本人アニメーターの地獄。~No.241 ㉓ 

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 高学歴の知的エリートや進歩的インテリである政治家・官僚・学者そしてメディア関係者や企業家・経営者は、世界名作古典文学こそが最高の教養であるとして、子供達が熱狂する日本のアニメや漫画を馬鹿にし軽蔑し見下し、当然の事ながらアニメや漫画に対する理解もなければ愛情の欠片もない。
 それ故に、日本文化を海外に紹介し輸出する官製クールジャパン活動は大金を投資して箱物を造ったが失敗している。
 もし日本人のアニメーターの賃金を上げれば、日本の製作会社は予算を押さえる為に、賃金が安いが作画が同レベルかそれ以上のクオリティを持つ中国や韓国に外注し、アニメ業界も空洞化する。
 放送される日本のアニメは国内外で好評だが、実は、作画するのは日本国内の日本人アニメーターではなく中国や韓国のアニメーターでる、という事になる。
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 2021年10月12日 MicrosoftNews NEWSポストセブン「アニメやゲーム業界「日本人は安くて助かります」その由々しき事態
 © NEWSポストセブン 提供 2021年7月、香港で開催されたアニコム香港の様子。アジア圏で日本のアニメ、ゲームの人気は高い(AA/時事通信フォト)
 「中抜き」とは、本来はビジネス用語で中間業者を使わず直接取引することを指すが、現代では中間業者や関係者のピンハネ、不当な搾取に対して使われるようになった。それがしばしば起きる労働現場のひとつにアニメやゲームなどのエンタメ、クリエイティブ業界がある。クリエイターとして正当な報酬が得られる場所を求めるのは当然で、近ごろは依頼元に金払いがよい中国企業というケースも増えてきた。これは創作に携わる者に限った話ではなく、30年間平均賃金の上がらない日本の労働者の今後にも当てはまるのではないか。俳人著作家の日野百草氏が、中国からイラストやアニメの仕事が増えている背景と日本の事情について当事者たちに「安い日本人」の実態を聞いた。
  * * *
 「日本のクリエイターはとても質が高いのに安い。もっと紹介してください」
 5年くらい前からだろうか、中国のゲームメーカーや代理店が熱心に「イラストレーターを紹介してくれ」と依頼してくるようになった。「日本人は安い」――中国人からこんな依頼をされるなんて、いまから10年前には考えられなかった。
 その10年前にあたる2011年ごろ、筆者は日本の大手ゲームメーカーと元請けの制作会社から「金は出すからイラストレーターを集めてくれ」という話をきっかけに、多くのソーシャルゲーム(以下ソシャゲ)に関わることとなった。ソシャゲがフィーチャー・フォン(いわゆるガラケー)からスマートフォンに移行する過渡期、原稿料もディレクション費も十分な額だった。彼らイラストレーターの中には大手出版社で人気漫画家になった者もいるし、いまも一線で活躍する者もいる。いずれにせよ、みなソシャゲバブルの恩恵にあずかった。
 しばらくして一部の代理店や制作会社からの遅延や未払いが起きた。2012年に消費者庁からコンプリートガチャコンプガチャ)に対して指導が入り、さらに2016年に表面化したガチャの確率操作問題も影響したのだろうか。「差分10パターン込みで10,000円を100人分、今月中」という誰も請けないだろう仕事も来るようになった。「ディレクション料は払えないから(イラストレーターの)原稿料から抜け」という会社もあった。当然断った。
 やがて聞いたこともない代理店やエージェントも間に入るようになった。どの業界もそうだが、いつも見ず知らずの誰かが間に入って、何もしないでお金を抜いていく。
 日本人は安くて助かります
 「厚塗りはとくに人気です。このクオリティで仕上げるクリエイターは(中国に)少ない」
 そんな中で増えた中国人からの依頼だったが、彼らは十分な資金と制作期間を有していた。当時の中国では油絵の具を厚く塗り重ねたような色彩の立体感がある厚塗り(美麗塗りとも)が人気だった。そのころ日本でヒットした『聖戦ケルベロス』などの影響もあったのだろう。お金はきっちり支払われた。
 「それにしても安くて助かります。日本人は素晴らしい。なぜ安いのですか」
 若干高めに提示してみたが、彼らはそれでも安いという。別の中国のエージェントなどはこちらが驚く金額を提示してきた。とにかく彼ら中国人が口をそろえるのは「日本人は凄い」そして「日本人は安い」だった。イラストレーターの中には「こんなに貰っていいんですか!」と言う人もいた。他社でどれだけ中抜きされていたのだろう。金はどこに消えたのか。
 断っておくが、ここで問題にする「中抜き」とは本来の直接取引の意味ではなくピンハネ、中間搾取の意味の「中抜き」である。2000年代の派遣問題あたりからこの意で使われるようになったが、業界の隠語としては古くからある。またソシャゲもピンキリ、近年では徹底した内製化でクオリティの維持と制作の透明化を図っている日本企業もある。あくまで本稿の本旨は現場に金が回らない「中抜き」と、それによる国際競争力の相対的な低下にある。
 アニメの現場の食べていけない、は他と比べても異常
 「アニメーターも条件が良ければ、どんどん中国の仕事をしたほうがいいと思います」
 旧知のフリーアニメーター氏が語る。緊急事態宣言どころかまん延防止等重点措置まで一気に取っ払われた都内ファミレスは先月より賑わっていた。いつも饒舌な彼だが、今日はとくに舌鋒鋭く止まらない。アクリル板越しに身振り手振りで訴える。
 「日本の単価なんて1980年代から変わってません。人気アニメでも変わりませんよ」
 動画か原画かはもちろん、クオリティや拘束などの諸条件で単価は変わるが安いのは事実。筆者の中での平均単価は動画で100円から200円、原画で2000円から5000円といったところか。この金額感は1990年代のものだが、いまもそれほど変わらないだろう。
 「アニメは現場に金がないんです。不思議でしょう、実際に作る人に金が来ない」
 変えようと努力している制作会社もあるが肝心の金が降ってこない。
 「私が新人のころといまの新人、ほとんど単価が変わらないんです。30年間同じなんて凄いですよね」
 アニメーター氏はそう自嘲するが、そもそも日本人の1990年の平均給与が425万2000円、2020年が433万1000円なのでアニメーターに限らず日本そのものの賃金も30年間ほぼ変わっていない。消費税3%、国民年金が8,400円、介護保険料も後期高齢者医療保険料もない身軽な時代に比べれば現代のほうが間違いなく負担は大きい。物価も消費者物価指数では1990年をおおよそ92とするなら2020年は102、デフレデフレと言いながら日本の物価は1割上がっている。
 「ゲームはむしろ恵まれてるほうです。歴史がない分、アニメに比べればしがらみが少ない。アニメは年食っただけの『関係者』がいまだに牛耳ってます」
 筆者の出版社時代にお世話になったアニメのプロデューサーたちもいまや60代、70代。引退して年金者になった者や行方不明者もいるが、既得権やコネクションを持っている彼らや彼らの会社の中には先の「中抜き」で生きながらえている人もいる。製作会社や広告代理店との長年のつき合いで、申し訳ない言い方だが悪事を散々やってきた「業界ゴロ」が令和になっても同じようなことをしている。これもまた、アニメーター氏によれば数十年間の低賃金、現場に金が回らない理由のひとつだと語る。筆者も同感だが、日本の他の産業とまったく同じ構図、知らない誰かが知らないうちに間に入って掠め取っていく。
 「若手でも、他人を使って中抜きしたほうが儲かるので元請け制作会社を作る人がいます。単価2100円で請け負って800円で第二原画に出すと右から左で1300円入る。枚数ありますからそれなりの金にはなります。単価は低いですが動画も同じです。でも責められないですね、仕方ないんです。本当に食べていけないですから。食べていけないのレベルが他(の産業)と比べても異常です。末端に届く頃には雀の涙です」
 ある程度の予算確保は仕方ない。現場を回す上で欠かせないストックでもある。しかし問題は何もしていない組織や個人が途中で抜いていくことにある。それも作品を、現場を、個々の生活を脅かすほどに。それがこの国では30年以上続いている。その代表格がアニメ業界だ。
 「パチンコに人気アニメが使われるとよく思わない人も多いですが、制作会社やアニメーターからすれば単価の高い良い仕事です。一番ダメなのが、みなさん大好きなテレビアニメです。ほんとテレビはダメですね」
 彼は作画監督の経験もあり、アニメーターとしての技術は高い。この業界では貰っているほうだが、それでも聞けば驚くほど安い。そのパチンコすら「テレビアニメに比べればマシ」というだけ。個々のケースは様々ですべてに当てはまらないことは当然だし、本旨ではないため細かいアニメーター事情、アニメーター以外のアニメ関係者の単価については割愛するが、実態は大なり小なり変わらず安い。また能力が足りない、才能がないという言い訳も使われるが、それについても氏は否定的だ。
 「もちろん実力主義です。それは構わない。しかし個人、せいぜいグループ程度の少人数で回す漫画や小説と違い、アニメ制作は団体戦です。監督やキャラクターデザイン、作監ばかり目立ちますが彼らだけでアニメは作れない。作業員でもある原画や動画に生活できる金が降りてこない状態で実力も何もないでしょう。単なる正当な対価の話です」
 多くのスタッフが様々な持ち場を担当しているアニメ制作、アニメーターはクリエイターだが現場作業員でもある。作業員にまで優勝劣敗を強いて単価を据え置く。そうした日本のアニメ業界を救うのではと言われた黒船、海外の動画配信大手に対しても氏は厳しい。
 「あれでは請けられません。私に来た話も単価はテレビアニメの最低ランクでした」
 それはおかしい。海外の動画配信大手の予算はどこも潤沢、海外作品に限ればハリウッド顔負けの予算と謳っているが嘘なのか。
 「いえ、日本だけ現場に降りてくる前に抜かれてるんです。それがどこで、誰かはわかりません。見当はつきますが、噂レベルですね」
 きっちりお金をくれるなら中国だって問題ない
 筆者も経験がある。あるソシャゲの制作会社からの依頼はその内容からすればイラストレーターの原稿料が安かった。1キャラあたりの差分も多い。大手ゲーム会社の案件なのになぜかと尋ねると社長は「うちもギリギリなんです。間に2件入ってるんで」と明かした。2件とは何なのか。製作会社はゲームを企画販売し、代理店が調整し、制作会社が作り、個々のクリエイターが協力する。その2件は何をしているのか。闇が深すぎる。
 「一般の人は広告代理店を悪く言いますけど代理店は大事です。中抜きが多いというのは事実でしょうが作品には関わってる。嫌な役目をしなきゃいけない人は必要です。私が言いたいのは、本当になにもしない組織や人が金を中抜きしていることです」
 そのとおり、広告代理店は目立つし何をしているか外目には分かりづらいので叩かれやすいが彼らの役割も大事、それ以上の「悪」がいることは業界に関わる誰もが知る話だ。ひと昔前、金に卑しい謎のフリープロデューサーがいた。かつて一斉を風靡した作品を手掛けたこともある男だが、彼は何もしないが常に作品に参加し、なぜか稼いで高級車を乗り回していた。知らない間に入ってきて、何もしないで金を得る。もう名前を見ないが生きていればもう年金者だろう。この手の輩、アニメに限らずゼネコンやIT回りにも珍しくない。
 「私はちゃんとした金額で作品に参加できれば文句ありません。だから単価が高ければ、きっちりお金をくれるなら中国だってまったく問題ない。むしろありがたい話です」
 いま案件として高いのは中国のアニメ制作だという。冒頭のゲームイラストの話と同様に、いやそれ以上に中国は日本のハイエンドなアニメーターの技術を欲している。
 「昔の中国なんて下請けで使って、こんなの勘弁してくれよーなんてボヤきながら作監修正するようなシロモノでした。それでも安いから使ってたのに、いまや日本人が安いなんてね。個々人の技術は日本のほうがずっと上なのに、おかしな話ですよね」
 中国の人件費は日本に比べればまだまだ安い、しかしそれは単純作業を中心とした工場労働者や農業・畜産従事者の話で、技術者やクリエイターといった特殊技能職の価値は中国の市場経済規模、ITを中心とした娯楽市場の肥大により大幅に上がっている。中国の技術者やクリエイターは早くから海外の仕事も念頭に置いた活動をしているので(昔は国内産業が心もとなかった事情もあるが)、中国企業からすれば欧米はもちろんアジアのIT新興国との人材の奪い合いとなる。だから実際の「作り手」に金を積む。いつの間にかガラパゴス賃金に据え置かれた日本の優秀な技術者やクリエイターは中国からみて「安い日本人」になってしまった。クールジャパンがチープジャパンなんて笑えない。
 「社員として中国企業に勤めるかと言われればノーですけど、フリーランスとして日本にいて仕事を請ける限りはお金をきっちりくれて、作品に携われればどこの国だって文句ないですよ。騙されたり払われなかったりしても、それは日本も同じですから」
 確かに中国企業に勤めるというのはまだ現実的ではないが、在宅フリーで請ける限りは十分な対価で作品に取り組めるなら国は関係ない。日本のアニメーターやイラストレーターは中国でも非常にその価値を評価されている。独自の文化と土壌で培われた、世界でも希少かつ特殊なクリエイターである。ジャパニメーションを指向する中国にすればガラパゴス市場に閉ざされていた高度な職人の技術とその誠実な創作意欲を欲するのは当然だろう。
 「これからも草刈り場になるでしょう。だって日本じゃ食えないんですから。私みたいなおっさんはともかく、若い子でクリエイター、ましてアニメーターを目指すなら国外はもちろん別の創作も視野に入れるべきですね。人気アニメーターになっても人気漫画家のようにビルや御殿が建つほど稼げるわけではありません。多くは普通に暮らせるだけです」
 中抜きというより泥棒。このままなら日本は終わる
 かねてから日本のSFXやVFX、3DCGなどの映像技術者は海外の仕事前提で取り組むクリエイターが多く評価も高い。いよいよ日本のアニメーターもそうなりつつある。いや日本の技術者、クリエイターすべてがそうなりつつある。
 「日本のアニメやゲームは素晴らしい、ぜひ中国も作れるようになりたい」
 いまから約20年前、筆者が中小出版社で編集長をしていた2000年代前半、中国でアニメやゲームを作りたい、日本のいわゆる美少女ゲームを作りたいから力を貸してくれという中国企業の売り込みがあった。どうせ欲しがってるのはジブリガンダムのようなメジャー作品だろうと思い、まだ幼さの残る青年に「紹介するから大手出版社に行ったらどうか、うちみたいなマイナー誌に来ることもない」と言ったら、流暢な日本語で「日本のマイナーアニメや美少女ゲームこそ世界は欲しがる」と力説された。
 結局、彼の言うことは本当になった。彼の指す「世界」というのは日本人の考える世界、欧米のことではなく世界最大の人口規模を持つアジアのことだった。日本で「オタクキモい」とバカにされていたジャンルすら世界に通じる「産業」になることを彼はわかっていた。経済産業省クールジャパン機構の「欧米に売り込む!」「ハリウッドに日本を!」なんて欧米信仰の昭和脳では敵うはずもない。中国企業のオンラインゲーム『原神』も『アズールレーン』も彼のような中国のネクストジェネレーションが生み出した。あれを中国企業が作れるようになった。天安門事件冷めやらぬ30年前に戻って話したら笑われるだろう。
 「それだっていまや本音は『日本のマイナーアニメやゲームを作ってる凄いクリエイターが欲しい』ですからね。その日本人を使って中国のジャパニメーションを作る」
 実際に中国が近年手掛けるアニメはジャパニメーションであり、ゲームはジャパニーズゲームである。いわゆる「萌え」「推し」「アキバ」といった日本のオタクカルチャーと日本独特のハイエンドな美麗キャラクターをうまく取り入れている。それどころか模倣から離れて独自性を持ち出した。そうして日本のガラパゴス文化を利用して世界に売っている。ガラパゴス萌え少女の絵柄でちゃんと世界に向けて売れている。ここが一番恐ろしい。
 「やっぱり資金力と、その金がきっちり現場に降りてくることが大事なんですよ。日本でそんな産業、アニメに限らずあるんですかね」
 アニメーター氏の話が少し大きくなったがもっともな話。日本の農業、建設、機械、IT、娯楽、派遣と見渡しても中抜きだらけ、5次下請けが普通に存在する異常さである。東日本大震災の除染作業では8次下請け、コロナ禍の持続化給付金では9次下請けまで確認され、アベノマスクに中抜き目的の連中が群がった疑惑は記憶に新しい。仲介にも先の広告代理店のような汚れ役の意味もあるだろうが、ここで問題にしているのは何もしていないのに金をかすめ取る組織や連中のことだ。
 「そんなの中抜きというより泥棒ですね。クリエイターや技術者に限らず、現場や働く人に金がいかない。日本中そうでしょう」
 もちろんSNSで誰でも声を上げられるように、それが人々に届くようになった現代、「誰が金を盗んでいるのか」という気づきも起こり始めている。それでも中抜きという名の泥棒行為は一向に収まる気配がない。2021年に入っても厚生労働省肝いりの新型コロナウイルス陽性者との接触を知らせるアプリが再委託の再々委託で金がどこに消えたか問題になった。案の定の不具合だらけ、間違いなく末端の現場に金がいってない。
 「個人的な感想ですが、このままなら(中抜きで)日本終わると思います」
 先にも書いたようにアニメーターの賃金が30年間据え置きなら、日本のサラリーマンの平均年収も30年間据え置きである。多くの労働現場の方々は肌身に感じているだろうが、本当にこの国は現場に金が来ない。実際に働く人に金が来ない。構造不況の要因は様々だが「中抜き文化」も、ボディーブローのようにこの国を蝕む原因だ。そうしてデフレ下の安い日本が、いよいよ安い日本人になろうとしている。
 今回はアニメーターやイラストレーターを例に挙げたが、そうしたクリエイターや技能者だけでなく一般労働者、とくに派遣の中抜きも深刻なままの日本、オリンピックすら中抜き合戦。いまのところ中国が「安い日本人」と思っているのはクリエイティブ系が中心だが、いずれサラリーマンすら「日本のサラリーマンは安い」になるかもしれない。
 アフターコロナに遅れをとった日本、世界一勤勉で安い日本人を雇う中国人という未来――クリエイターだけの話ではない。「安い日本人」はすでに身近な危機である。それにしても、本当に金はどこに消えているのか。
 【プロフィール】
 日野百草(ひの・ひゃくそう)/本名:上崎洋一。1972年千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ会員。かつて1990年代から月刊「コンプティーク」を始め多くのアニメ誌、ゲーム誌や作品制作に携わった経験を持つ。近年は文芸、ノンフィクションを中心に執筆。全国俳誌協会賞、日本詩歌句随筆評論協会賞奨励賞(評論部門)受賞。著書『誰も書けなかったパチンコ20兆円の闇』(宝島社・共著)、『ルポ 京アニを燃やした男』(第三書館)他。近著『評伝 赤城さかえ 楸邨、波郷、兜太から愛された魂の俳人』(コールサック社)。」
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緊急告知。~No.2

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 当ブログ作成者は来年2月に65歳で定年退職となり無職となります、人生100年時代を生きる為に再就職先を探しますが、運良く給料と就労時間の良い条件で再就職ができたとしても実際は忙しく仕事に追われてブログ作成の時間が得られないかもしれず、運悪く再就職ができなければ僅かな年金収入では高額な有料ブログを維持できなくなります。
 また、幾つかの持病を持つ身であり健康面にも不安を抱えていますので、今後ともブログ作成を続ける気力を保てるのかも分かりません。
 よって、6つのブログの中で1つでも新しい記事が、半月以上追加されない時は作成不能状態で、1ヵ月以上ない時は絶望状態で、3カ月以上ない時は死亡して終了と思って下さい。
 また、当ブログは有料ブログですので2~3年分の入金を絶やさずにしていますが、ブログ作成者の不慮の死により入金できなくなれば何年後にはブログ記事は崩壊します、どう崩壊するかは分かりませんが、後継者も共同作成者もいませんのであしからず。
 所詮は、家族なし、子供なしで、蛍光灯の下でひとり孤独と無縁でブログを作成している老人です。
 運良く新しい仕事が見つかりますように、神頼み。
 ブログは死ぬその時まで続けたいと思います。
 当ブログが、日本国と日本民族の役に立ちますように、心から願っています。
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🌏51)─1─日本は道教から見た東海の神仙境で「憧れと畏れ」であった。~No.174No.175No.176 ⑰ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 中華帝国において、日本が朝鮮や琉球とは違う別格扱いされたのには理由があった。
 日本は、極東アジアの中でも特別・特殊な存在であった。
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 儒教では、日本人は東海の蛮族「東夷」、海賊「倭寇」であった。
 中華思想華夷秩序では、上位が中国(教養高き文明人)で、中位が朝鮮(常識を持った礼法の民)で、下位が日本(未開の野蛮人)であった。
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 道教では、日本列島は東海にある三神山の一つ「瀛洲(えいしゅう)」で、日本民族日本人は仙人ではないが神仙島に住む事を許された特異な人々の事であった。
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 中華世界における「東海」とは、地理・地形や方向ではなく、道教の神仙思想であった。
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 劉禹錫(りゅううしゃく)「山不在高、有仙則名(山は高きに在らず、仙有らば即{すなわ}ち名あり=山は高いだけでなく、仙人がいるかどうかで評価される)」
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 2021年11月号 Hanada「知己知彼  石平
 中国人の『日本観』の変遷(中)
 前回の本欄は、秦の始皇帝の時代から唐代までの中国人の『日本観』の一端を垣間見た。古代中国の為政者や知識人たちにとって、海の向こうの日本は憧れの仙人の栖(すみか)であり、『雅風(がふう)のある文明国家』だったのである。このような日本観は古代から受け継がれ、中国最後の王朝である清王朝の時代においても、多くの中国人が抱いたものだった。
 江戸時代末期から明治初期にかけて、中国の一部のエリート知識人が日本にやってきて、この憧れの地を実際に見聞した。たとえば1854年、米国のペリー艦隊が二回目に日本に来航したとき、羅森という広東省出身の知識人が随員としてペリーに同行し、下田や横浜に数回上陸。彼は帰国後に刊行した『日本日記』のなかで、自分の見た日本の様子をこう記している。
 『いわば善政というのは地方によって違う。日本という国は中華より小さいけれども、横取略奪という気風は見なかった。その住居の玄関も張り紙であるが、盗賊の害もない。これによって治安の様子が分かる』
 中国では昔から、『善政』(良き政治)が行われている時代の様子を描くときに使う常套句(じょうとうく)に、『夜不閉戸、路不拾遺』(夜になっても家が戸締まりしない、道端でお金などが落ちていても誰も拾わない)があり、羅森は江戸の日本でまさに『善政』が行きわたっていることを賛美しているのである。
 明治時代になると、清王朝が日本に使節を派遣することとなり、多くの知識人官僚が実際に日本を見る機会を得た。何如璋(かじよしょう)は1877年に駐日公使として来日、のちに刊行した『使東述略』において、長崎で見た日本人の生活ぶりをこう描写している。
 『日本人はきれい好きで、街もよく掃(は)き清められている。・・・客が来れば畳の上に座り、火鉢を囲んで茶をたてて客に出したり煙草(たばこ)を勧めたりする。家屋は小さくても庭には必ず花木を植え、池を掘って魚を飼い、生活には優雅な趣(おもむき)がある』
 何如璋の『生活には優雅な趣がある』との一文を読んでいると、前回の本欄で取り上げた、唐王朝の魏徴(ぎちょう)らが編纂した『隋書・倭国伝』の『有雅風』(雅風あり)という表現を思い出す。『雅』という中華世界の最高の褒め言葉は、中国のエリート知識人が日本のことを描くときによく使う定番の表現となっていた。
 近代になってから特筆すべき出来事の1つは、日清戦争終結してから中国人留学生の大挙来日である。日清戦争における日本の圧倒的勝利は、明治維新以来の日本の近代化を当時の中国人に強く印象付け、『師法東洋』(日本に学ぼう)が時代の風潮となった。
 最初の中国人留学生13名が清国政府によって日本に送られた1896年以来、年々その数は増え、官費・私費留学を含めて1906年には1万人を超え、1910年には数万人に達した。
 こうして20世紀初頭の十数年間、数万人単位の中国人が日本へ留学してきて、史上空前の『日本留学大ブーム』を巻きおこした。彼らは日本で、政治・歴史・法律・文学・自然科学・商業・美術などあらゆる分野の新知識を学んで中国に持ち帰った。そしてそのことが、幅広い分野における中国の革命的変化を引き起こした。中国の近代化は彼ら日本留学組お手で進められていった。
 1911年に起きた中国版近代革命と称される辛亥(しんがい)革命の主力、汪兆銘などはまさに日本留学帰りである。
 革命の結果、1912年に清王朝が崩壊すると、中国史上最初の共和国である中華民国が成立、衆参両院からなる議会も設立された。1916年時点での中華民国衆参両院議員439名のうち、181名が日本留学組であって、議長クラスの4名全員が日本への留学経験者だった。
 中華民国はやがて軍閥たちによって乗っ取られたが、1927年、日本で軍事を学んだ蒋介石が国民革命軍を率いて各方面の軍閥を撃破し、南京で新しい国民政府を再建する。この国民政府を構成する81名の『政府委員』のうち、約半分の40名が日本留学組である。南京国民政府の中枢には、日本留学帰りの汪兆銘や何応欽(かおうきん)、戴季陶(たいきとう)、張勲(ちょうくん)などの重要な歴史的人物もいた。
 こうしてみると、明治になってからの日本は、中国知識人にとって引き続き『雅風の文明国家』であったと同時に、多くの中国人にとって日本こそ近代国家建設の見本であって、近代文明を学ぶための大事な師範格ということが分かる。
 『近代文明を教えてくれる大事な師』。これこそ、近代における中国人の対日認識だったのである。」
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 瀛洲(えいしゅう)は、
 古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬莱・方丈)の一つ。
 転じて、日本を指す。「東瀛(とうえい)」ともいう。日本の雅称である。
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 デジタル大辞泉デジタル大辞泉
 さん‐しんざん【三神山】
 中国の古伝説で、東方絶海の中にあって仙人が住むという蓬莱(ほうらい)・方丈・瀛州(えいしゅう)の三つの山。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「三神山」の解説
 三神山 さんしんざん
 中国の伝説上の神山。渤海(ぼっかい)湾中にあるといわれる蓬莱(ほうらい)山、方丈(ほうじょう)山、瀛洲(えいしゅう)山の三山をいう。その発生には、蜃気楼(しんきろう)説、山岳信仰説など諸説がありはっきりしないが、戦国時代(前5~前3世紀)の燕(えん)、斉(せい)の国の方士(ほうし)(神仙の術を行う人)によって説かれ、そこには仙人が住み、不老不死の神薬があると信じられた。戦国末期の燕、斉の諸王や秦(しん)の始皇帝(しこうてい)、あるいは漢の武帝(ぶてい)などが使者を出して海上にその神山を探させ、不死の薬を得ようとした。伝説によると、三神山は海岸から遠く離れてはいないが、人が近づくと風や波をおこして船を寄せつけず、建物はことごとく黄金や銀でできており、すむ鳥獣はすべて白色であるという。こうした記事は司馬遷(しばせん)の『史記』封禅書(ほうぜんしょ)に詳しく記されており、それは神仙説についての最古の記録とされる。しかし後世では説話のなかに伝承されて、むしろ神仙境の象徴的存在となっている。一説に、戦国時代における海上交易の盛行を裏づけるものともいわれる。
 [山田利明
 [参照項目] | 蓬莱山
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「蓬莱山」の解説
 蓬莱山 ほうらいさん
 中国古代の戦国時代(前5~前3世紀)、燕(えん)、斉(せい)の国の方士(ほうし)(神仙術を行う人)によって説かれた神仙境の一つ。普通、渤海(ぼっかい)湾中にあるといわれる蓬莱山、方丈(ほうじょう)山、瀛洲(えいしゅう)山の三山(島)を三神山と総称し、ここに仙人が住み、不老不死の神薬があると信じられた。この薬を手に入れようとして、燕、斉の諸王は海上にこの神山を探させ、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)が方士の徐福(じょふく)を遣わしたことは有名。三神山中で蓬莱山だけが名高いのはかなり古くからで、漢の武帝(ぶてい)のとき方士の李少君(りしょうくん)が上疏(じょうそ)して蓬莱山について述べ、のちに渤海沿岸に蓬莱城を築いていることからも明らかである。また唐代には蓬莱県が設置され、李白(りはく)、白居易(はくきょい)、杜甫(とほ)、王維(おうい)などの詩人たちによって、蓬莱山が福(ふく)・禄(ろく)・寿(じゅ)の象徴として歌われている。日本でももっぱら蓬莱山のみ詩歌や絵画の題材として用いられ、庭園様式にもみられるのは、おそらく唐代ころの普遍化された蓬莱像がそのまま伝わったためであろう。
 [山田利明
 [参照項目] | 三神山
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 仙人(せんにん)また神仙(しんせん)、真人(しんじん) 、仙女(せんにょ)は、中国本来の神々(仏教を除く)や修行後、神に近い存在になった者たちの総称。神仙は神人と仙人とを結合した語とされる。仙人は仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得たもの。本来、仙は僊と書き、『史記』封禅書では僊人、『漢書』芸文志では神僊と記される。もともと神である神仙たちは、仙境ではなく、天界や天宮等の神話的な場所に住み暮らし、地上の山川草木・人間福禍を支配して管理す。仙人や神仙はいずれも自分の体内の陰と陽を完全調和して、道教の不滅の真理を悟った。彼等は道教の道(タオ)を身に着けて、その神髄を完全再現することができる。基本的に仙人という言葉は男性に指すが、女性の仙人もかなりいる。
 「道教用語一覧」および「wiktionary:ja:仙人」も参照
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「仙人」の解説
 仙人 せんにん
 漢民族の古くからの願望である不老不死の術を体得し、俗世間を離れて山中に隠棲(いんせい)し、天空に飛翔(ひしょう)することができる理想的な人をいう。僊人とも書く。中国、戦国末(前3世紀)に山東半島を中心とする斉(せい)・燕(えん)(山東省、河北省)の地に発生した神仙説が、その後、陰陽家(いんようか)の説を取り入れた方士(ほうし)(呪術(じゅじゅつ)の実践者)によって発展し、さらに道家思想と混合して成立した道教によって想像された。『史記』の「秦始皇本紀(しんしこうほんき)」18年に「斉人徐(じょふつ)、上書していう、海中に三神山あり、名づけて蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)という。僊人(せんにん)これにいる。請(こ)う斎戒(さいかい)して童男女とともにこれを求むることを得ん、と。ここにおいて徐をして童男女数千人を発し、海に入りて僊人を求めしむ。」と記され、すでに秦代に海中の三神山に僊人がいると考えられていた。漢の武帝も、この僊人を尊んで、封禅(ほうぜん)(天子が行う天地の祭り)を修め、祀祠(しし)を設けている。仙人は、初め僊人といわれていた。の意味は、『説文解字(せつもんかいじ)』には「高きに升(のぼ)るなり」とあり、遷も「高きに登渉する」とある。僊の本義も「飛揚升高」で、これらはいずれも「高い所に昇ること」であった。そこで僊人とは、人間が高い所に昇って姿を変えた者と考えていたと思われる。仙の字も『釈名(しゃくみょう)』「釈長幼」に「老いて死せざるを仙という。仙は遷なり。山に遷入するなり」とあるので、世俗を離れて山中に住み、修行を積んで昇天した人を仙人と考えていた。この仙人も、六朝(りくちょう)時代になると、服用する仙薬などによっていろいろな段階があるとされた。『抱朴子(ほうぼくし)』では、天仙・地仙・尸解仙(しかいせん)(魂だけ抜けて死体の抜け殻となるもの)の三つに区分し、そして、仙人になる方法として、導引(どういん)(呼吸運動)、房中術(ぼうちゅうじゅつ)、薬物、護符、精神統一などがあるとしている。
 中国には多くの仙人がおり、『荘子(そうじ)』には、800年も生きた彭祖(ほうそ)や、崑崙山(こんろんさん)に住む西王母(せいおうぼ)が記され、『史記』の「封禅書(ほうぜんしょ)」や『漢書(かんじょ)』の「郊祀志(こうしし)」には、安期生(あんきせい)、羨門子高(せんもんしこう)、宋母忌(そうむき)、正伯僑(せいはくきょう)、克尚(こくしょう)などの古仙人の名がみえる。また、それらを人間に仲介する方士(ほうし)としては、盧生(ろせい)、韓衆(かんしゅ)、李少君(りしょうくん)などが出ている。仙人の伝を記した最初の書は、前漢末に劉向(りゅうこう)が撰(せん)したとされる『列仙(れつせん)伝』で、そこには赤松子(せきしょうし)、馬師皇(ばしこう)、黄帝(こうてい)、握佺(あくせん)など70余人が記されている。また続いて出た葛洪(かっこう)の『神仙伝』にも、広成子(こうせいし)、老子(ろうし)、彭祖、魏伯陽(ぎはくよう)、河上公(かじょうこう)など92人の伝がみえる。そのほか『続仙伝』(南唐、沈汾(ちんふん)撰)、『仙伝拾遺(せんでんしゅうい)』(前蜀(ぜんしょく)、杜光庭(とこうてい)撰)、『集仙伝』(宋(そう)、曽慥(そぞう)撰)などがあり、『雲笈七籤(うんきゅうしちせん)』にも仙人の伝がある。清(しん)の『古今図書集成』「神異典」には、上古より清初までの仙人、1153人が網羅されており、中国にいかに多くの仙人がいたかを示す。
 インドの仙人は、サンスクリット語でリシi、パーリ語ではイシisiといい、「聖仙」「聖人」「賢者」などとも漢訳されているが、これらは、中国の仙人の観念が仏教経典のなかに持ち込まれたものであろう。『マヌ法典』は、マリーチ仙など34人の偉大な仙人、すなわち大仙(たいせん)(マハリシmahai)をあげており、また7人の大仙の名もよくあげている。原始仏教経典の詩句(頌(じゅ))では、釈尊(しゃくそん)や諸仏のことも仙人の一種とみなしている。
 中国およびインドの仙人は日本にも伝わり、天平(てんぴょう)年間(729~749)に三仙人とよばれた大伴(おおとも)仙人、安曇(あずみ)仙人、久米(くめ)仙人の伝説がみえている。大江匡房(まさふさ)の『本朝神仙伝』には、弘法(こうぼう)大師(空海)、沙門(しゃもん)日蔵、慈覚(じかく)大師(円仁(えんにん))などの僧が仙人とされ、虎関師錬(こかんしれん)の『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』神仙の項にも白山明神(はくさんみょうじん)、新羅(しんら)明神、法道(ほうどう)仙人、陽勝(ようしょう)仙人など13人の伝が記されている。
 [中村璋八]
 『村上嘉実著『中国の仙人』(1956・平楽寺書店)』▽『本田済・沢田瑞穂・高馬三良訳『中国の古典シリーズ4 抱朴子/列仙伝・神仙伝/山海経』(1973・平凡社)』
 [参照項目] | 神仙思想
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 東アジアの華夷秩序では、日本は上位で、琉球が中位で、朝鮮は最下位であった。
優雅 朝鮮が恨の心情で日本を嫌ったのは、儒教原理主義である朱子学華夷秩序に基づいた上下関係からではなく、中華世界で特別待遇を受けている事への嫉妬である。
   ・   ・   ・   
 モンゴル族元朝満州女真族清朝以外の歴代中華帝国が日本を侵略しなかったのは、儒教や仏教ではなく道教が影響していた。
   ・   ・   ・   
 道教に於いて、山東半島の先、東海に浮かぶ日本国は、仙人が住む冒してはならない穢してはならない神聖な神仙境であった。
 何故か、それは老荘思想が説く宇宙の根源的真理である「道(タオ)」が日本にはあると信じられていたからである。
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 天皇家・皇室の宮中祭祀は、石器時代縄文時代からの自然崇拝にゾロアスター教・原始キリスト教道教・仏教・その他の世界中の数多くの宗教要素が入り込み混ざった日本民族の象徴的宗教祭祀である。
 反宗教無神論と反天皇反民族反日本のマルクス主義共産主義は、神仏を否定し、宗教を破壊している。
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 中国人の教養人と言っても、清王朝孫文中国国民党までの儒教価値観を身に付けた教養人と共産主義に毒され虐殺を繰り返してきた血に飢えた中国共産党統治下の教養人では全然違う。
 つまり、同じ中国と行っても両者の間には明確に超えられない高い壁・深く広い溝が存在する。
 現代日本人は、愚かにも、昔の好ましい中国像で現代の中国共産党を見ている。
 昔の中国と現代の中国共産党は別物で繋がりはない。 
   ・   ・   ・   

🏯22)─1─仮面ライダーの「生き抜く覚悟」。武士道の「死ぬ覚悟」と「残心」。〜No.41 ③ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 葉隠「武士道と云は,死ぬ事と見付たり」。
   ・   ・   ・   
 武士・サムライは、日本だけにいて中国や朝鮮にはいない特殊な身分であった。
   ・   ・   ・   
 2021年10月8日号 週刊ポスト仮面ライダー 変身の系譜
 スペシャルインタビュー 藤岡弘、
 本郷猛の『変身』と『変心』
 ──『仮面ライダー』主人公のもうひとつの戦い──
 〝国民的ヒーロー〟の人気と影響力が大きくなるほど、演じる者の苦悩もまた、大きくなっていった──。『仮面ライダー』主演の藤岡弘、が当時を振り返り、〝ヒーローのあり方〟を語る。
   *   
 1972年当時、僕は本郷猛の死に様ばかり考えていたんです。本郷猛の最後を、どう迎えるべきなのか。
 というのも、僕は役者として不器用なタイプ。心身ともに、その役になりきることでしか演じられず、その過程において演じる者の現在・過去・未来を考えてしまう。本郷猛の場合、現在と過去は放送回を重ねるごとに自然と明らかになっていった。じゃあ、その先の未来は──?
 そこで僕は、ある想いにたどり着きました。本郷猛は十分に、悪の組織・ショッカーと戦った。与えられた使命を果たしてきた。そんな本郷に残された戦いは自己犠牲を貫き、己の命を次の世代に繋いでいくようなものではないのか。その覚悟も固めていました。
 しかし、僕の想像は原作者の石ノ森章太郎先生の一言で木っ端微塵になった。 あれは石ノ森先生が初めて監督を務めた『危うしライダー! イソギンジャガーの地獄の罠』(1972年11月4日放送/第84話)のロケでした。撮影の合間に先生と千葉県・鴨川の砂浜を歩いていたとき、僕はさり気なく『仮面ライダーは、いつ死ぬのですか』と訊いたんです。そうしたら、先生はニコッと笑みを浮かべ、『死ぬ?藤岡君、仮面ライダーは死んじゃダメなんだ。永遠に死なない』といわれた。
 何があっても生き抜く覚悟
 ショックでした。〝死なない〟ということは、つまり〝死ねない〟と気づいたからです。本郷猛の正義を背負い、これからも永遠に戦い続けなければいけない。正直、それは死ぬことよりも辛いのではないか。と思いましたね。
 でも、先生の、『仮面ライダーは永遠に死なない』の言葉を受けて、自分なりに子供の夢や希望を奪い去らないためにも、やはりライダーは死んではいけない、そうでなければヒーローではないと解釈し、〝死にゆく覚悟〟から、何があっても〝生き抜く覚悟〟を胸に秘めるようになったんです。
 ありがたいことに、『3世代で仮面ライダーを観ています』など、今でもいろんな方から声をかけていただきます。
 30代の男性は『父親に正義の意味がわからなければ、本郷猛の生き様を見よ、と教えられました。だから、自分の息子にも、本郷猛の戦いを見なさい、と一緒に仮面ライダーを観ています』といってくれてね。その父親の横に、5歳くらいの男の子がはにかむように立って『本郷さん、握手してください』って、おずおずと小さな手をさしだしてくれたんですよ。僕はしゃがみ込み、小さな手をしっかり握り締めました。
 そのとき、ふと石ノ森先生の『仮面ライダーは永遠に死なない』の言葉が蘇り、改めて真意を理解することができましたよね。死ぬ覚悟より、ひたすら生き抜く覚悟のほうが尊く重たい歴史を紡げるものなんです。
 そういう心構えの積み重ねが結果的に『仮面ライダー』の放送開始50周年という偉業に繋がっているのではないでしょうか。
 相手は怪人ではなく己の心
 ただ、思い返すに、ショッカーに拉致され、改造手術を施されて仮面ライダーとなった本郷猛は、正義とか世界平和を守るだとか、そんな大それたことは考えていなかったんですね。
 では、何を考えていたか。まずは自分の心と向き合い、どのようにコントロールするべきかを自問自答していたんですよ。いわば最初に戦う相手の怪人ではなく、己の心だったんです。
 普通に考えてみても、いきなり改造人間にされたら、そりゃ自暴自棄になりますよね。それまで本郷猛は優雅な青年科学者の生活を送っていましたし。でも、哀しみに明け暮れているわけにもいかない。この途方もない力をどのように使うか。ここで己の心との戦いが始まる。
 自暴自棄の心のまま、ショッカーの魔の手から逃げ続け、好き勝手に生きるか。それとも、得た力で身近な人たちを守る戦いを始めようとするか。そこで本郷猛は葛藤し、〝変身〟ではなく〝変心〟を試みる。
 好き勝手に生きる道を選ぶような〝変心〟は簡単だ。しかし、ひとりでも自分に助けを求める人がいる限り、
たとえ苦しくても悪と戦う道を選ぶ〝変心〟をするべきではないのか。そう決意した瞬間、〝変心〟による〝変身〟が可能となる。
 結局、安易な自堕落な道を選ぼうとする自分を変えなければ、愛する人たちは守れないということ。
 考えてみれば、本郷猛の50年は、その繰り返しでした。そのつど、戦うのを止めてしまおうといった負の心に苛まれながら、それでもなお〝変心〟と〝変身〟を貫き通し、正義を熟成させてきたんですよ。
 その〝変心〟と〝変身〟は、その後も仮面ライダーとなり、必死に悪と戦っている後輩たちにも、受け継がれているはずです。」
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 2021年10月2日 MicrosoftNews MANTANWEB「歴史秘話 仮面ライダーヒストリア:50年の歴史振り返る 全仮面ライダー大投票中間結果も NHKBSプレミアムで今夜放送
 (C)石森プロ・テレビ朝日ADK EM・東映© MANTANWEB 10月2日放送の「歴史秘話 仮面ライダーヒストリア」(C)石森プロ・東映(C)東映東映ビデオ・石森プロ(C)石森プロ・テレビ朝日ADK EM・東映
 今年50周年を迎えた特撮ドラマ「仮面ライダー」シリーズの歴史を振り返る番組「歴史秘話 仮面ライダーヒストリア」が、NHKBSプレミアムで午後10時50分に放送される。昭和、平成、令和の32作を紹介し、仮面ライダーの変身や怪人の魅力に迫るほか、プロデューサーによる制作秘話も明かされる。
 NHKが実施している「仮面ライダー」シリーズの好きな作品、仮面ライダー、音楽を投票する企画「全仮面ライダー大投票」の中間発表も発表される。番組はNHK・総合テレビでも10月10日午後3時5分から放送する。
 「全仮面ライダー大投票」は、特設サイトで投票を受け付けている。10月17日まで。結果は、11月6日午後10時半放送のNHKBSプレミアムの番組「発表!全仮面ライダー大投票」で発表される。NHK総合では、テレビシリーズ第1作「仮面ライダー」第1話を10月10日午後4時に放送する。」
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 人生50年代の江戸時代、幕府や各藩の現役で役職に就く武士の年齢は15歳~40代が大半で、50代以上の多くは引退し隠居生活をおくっていた。
 役職で過ちを犯せば言い訳や弁明は許されず、10代であっても大人と見なされ切腹を命じられた。
 それが、世間・世の中・社会に出た大人の責任であった。
 孝明天皇崩御されたのは36歳。
 明治天皇崩御されたのは60歳。
 大正天皇崩御されたのが47歳。
 徳川家定が死去したのは34歳。
 徳川家茂が病死したのは20歳。
 徳川斉昭が死去したのは60歳。
 徳川慶喜が将軍に就任したのは30歳。
 阿部正弘が老中に就任したのは25歳、過労死したのは38歳。
 井伊直弼が殺害されたのは45歳。
 河井継之助が戦陣で没したのは41歳。
 島津斉彬が死去したのは49歳。
 吉田松陰が処刑されたのは29歳。
 久坂玄瑞が戦死したのは24歳。
 高杉晋作が病死したのは28歳。
 坂本龍馬が殺害されたのは32歳。
 近藤勇が処刑されたのは34歳、新選組結成時は29歳。
 土方歳三が戦死したのは34歳、新選組結成時は28歳。
 沖田総司が病死したのは24歳、新選組結成時は19歳。
 西郷隆盛が自決したのは50歳、明治維新時は40歳。
 大久保利通が殺害されたのは48歳、明治維新時は37歳。
 江戸時代は若年層の時代で、幕末・戊辰戦争明治維新・明治近代化を日本を背負って乗り切ったのは「死を恐れる老人」ではなく「死を恐れぬ若者」であった。
 現代日本で、彼らと同い年で同じような事ができる日本人は誰もいない、ましてや戦後民主主義教育世代とその薫陶を受けた有能・優秀な次世代はそれが言える。
   ・   ・   ・   
 日本の歴史は、若者の歴史であって老人の歴史ではなかった。
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 幕末・明治維新・明治近代化は、命を大事にする躍動感を嫌う老人の時代ではなく、命を捨てる血気盛んな10代~30代の若者の時代であった。
 戦後民主主義教育世代、現代シニア・デモクラシーの現代日本の老人では、幕末・明治維新・明治近代化の動乱を乗り切れず、確実に日本を滅ぼした。
 命を大事にする彼らは、日本民族の武士・サムライでも百姓や町人でもなく、当然の事ながら本当の意味での偏見と差別を受けた賤民や部落民でもなかった。
   ・   ・   ・   
 武士は食(く)わねど高楊枝(たかようじ) 。
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 現代日本には、武士道・士道は存在しない。
 現代日本人は、武士・サムライではないしその子孫でもない、さらには百姓や町人でもない。
 武士・サムライ、百姓や町人と言えるのは、日本民族だけである。
 日本民族と日本人とは違う。
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 現代日本において、武士道は正しく理解されていない。
 葉隠の「武士道と云ふ死ぬ事と見付けたり」や滅びの美学を口にする、肯定する者も否定する者も、しょせん同じ野狐禅に過ぎない。
 つまり、「論語読みの論語知らず」である。
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 真の武士・サムライとは文武両道・文系理系両系が当たり前で、武事・武道としての剣術・槍術・弓術・馬術・水練、軍学(戦略戦術)・築城、その他の熾烈な鍛錬を怠らず、文事としての漢籍支那語古典)、日本語古典・読物・物語・随筆、座禅、その他。領地の統治と経営としての土木工事・庭園造園・殖産興業・金融商売など多才能で優れた行い、芸事としての漢詩・和歌、能楽・歌舞、囲碁・将棋、茶道・香道、笛鼓・音曲、書画・絵画、骨董、工芸などから多趣味を持つ事である。
 そして、少ない家禄を補う為に副業として現金収入を得る為に、百姓や商人に頭を下げて内職仕事を分けて貰っていた。
 日本の専制君主世襲とは、家の跡継を産ませる事が必修であったが、同時に個人として教養を身に付ける事が求められた。
 儒教原理主義である朱子学(官学)に毒された武士は、金儲けの商売は穢らわしい行為と嫌い、武士たる者働かず領民・百姓に重い税金・年貢を掛けて搾取する事が正しい生き方だと信じていた。
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💖38)─1─軍国日本はベンガル飢饉で食糧支援を表明したが、イギリスは拒否して餓死を選んだ。〜No.159No.160No.161No.162 

2020-10-14
🛲5」─4─日本軍のビルマ侵攻で発生したベンガル飢饉での餓死者約300万人。インド暴動で1万人の死傷者。〜No.39No.40No.41 * 

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 国際法は、戦勝国である連合国が行った殺戮・虐殺は戦争犯罪ではないとして裁かない。
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 マルクス「イギリスはインド社会の全骨格を、復興の兆しさえ見えないまでに破壊してしまった」(『インドにおけるイギリスの支配』)
   ・   ・   ・   
 1988年9月20日 サッチャー「私たちヨーロッパ人は植民地化の事業について何にも謝る必要はない」
 欧米列強の植民地支配は、日本の植民地支配に比べて正しかったとされている。
   ・   ・   ・   
 イギリスは、植民地インド経営で、19世紀だけでインド人2,000万人以上を餓死させ、虐殺したといわれるが、正確な人数は不明である。
 イギリスの植民地支配は、人民の愚民化と貧困化で、反英派や独立派は徹底的に弾圧し、インド人に密告・誣告を奨励して告発されたインド人は冤罪であっても女子供でも容赦なく叛逆罪として処刑した。
 それが、世界常識であった。
   ・   ・   ・   
 日本の侵略戦争とは、祖国を植民地化されない為に世界常識に叛逆した事である。
   ・   ・   ・   
 ウィンストン・チャーチルは、戦争の英雄である。
 東條英機は、極悪非道な戦争犯罪者とされ、人権は踏みにじられ、人としての尊厳は認められず、霊魂の安息は許されず、靖国神社の祭神から抹消する事を要求されている。
 エリザベス二世は、世界で最も愛されている君主である。
 昭和天皇は、ヒトラー同様に憎まれる君主で、死刑を含む極刑を求める声が多かった。
 崩御されてはや27年、今もってなお昭和天皇の戦争責任追及の声が止むどころか、せらに声高となっている。
   ・   ・   ・   
 ナチス・ドイツは、平時で、ユダヤ人の大虐殺、ホロコーストを行った。
 軍国日本は、戦時下で、ゲリラ・スパイ・破壊工作員などの便衣隊とその協力者・支援者を処刑した。
   ・   ・   ・   
 キリスト教における「罪人は許される」とは、偽りであり、偽善であり、ペテンである。
   ・   ・   ・   
 戦争の勝利が、全てに対して優先される。
 戦争の勝利の為には、如何なる手段も正当化される。
 勝者は裁かれる事はなく、敗者のみが全ての責めを負う者である。
 連合国のイギリスは勝者であり、枢軸国の軍国日本は敗者である。
   ・   ・   ・   
 1949年 ジュネーブ条約 
 第55条 「占領国は、利用する事ができる全ての手段をもって、住民の食糧……供給を確保する義務を負う。……占領地域の資源が不充分である場合には、必要な食糧……を輸入しなければならない」
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 イギリスには、天災や戦災によって夥しい餓死者を出し始めた飢餓地帯への食糧救済をする義務も責任もなかった。
 それが、欧米列強の植民地支配であった。
   ・   ・   ・   
 18世紀から20世紀までのイギリスのインド統治全期間を通じて、インドで発生した飢餓は約40回で、餓死者は約5,873万人にのぼる。
 西洋列強の植民地は、キリスト教による地上の楽園ではなかった。
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 19世紀にインドで起きた飢饉。
 18世紀 大飢饉3回 死者数不明。
 1800〜25年 大飢饉5回 死者100万人。
 1826〜50年 大飢饉2回 死者40万人。
 1851〜75年 大飢饉6回 死者500万人。
 1876〜1900年 大飢饉18回 死者1,600万人。
   ・   ・   ・   
 独立派は、弾圧され、拷問され、処刑された。
 独立運動は、投入された軍隊によって武力で鎮圧された。
 真の独立派は、幾ら犠牲者を出しても独立運動を止めはしなかった。
 独立を求める戦争は、正しい戦争であった。
 歴史に於いて、正しい戦争は存在する。
   ・   ・   ・   
 軍国日本は、西洋・欧米列強の植民地支配からの東亜・アジアの解放・独立を宣言して、真珠湾奇襲攻撃を行い、米英蘭に対して宣戦布告を行って太平洋戦争を始めた。
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 インドは、朝鮮・韓国とは違って、反英派は虐殺されても独立運動・独立武装闘争を止めようとはしなかったし、親英派はインド独立の為にイギリス国王とイギリス国家に忠誠を誓いイギリス軍兵士となって日本軍やドイツ軍と戦っい、非協力派はガンジーに従った。
 同じ植民地支配を受けても、インド人は朝鮮人・韓国人とは違っていた。
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 ベンガル人のパール判事は、東条英機A級戦犯の全被告人は無罪と主張した。
 インド人にとって、昭和天皇東条英機は尊敬すべき偉大な英雄であった。
 ウィキペディア
 ラダ・ビノード・パール(英語: Radhabinod Pal, ベンガル語: রাধাবিনোদ পাল, ヒンディー語: राधाबिनोद पाल, 1886年1月27日 - 1967年1月10日)は、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。ベンガル人
 ヒンドゥー法を専攻。極東国際軍事裁判東京裁判)において連合国が派遣した判事の一人で、判事全員一致の有罪判決を目指す動きに反対し、平和に対する罪と人道に対する罪は戦勝国により作られた事後法であり、事後法をもって裁くことは国際法に反するなどの理由で被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」)で知られる。東京裁判以前のパールは主に税法専門の弁護士として活動し東京裁判以降、国際連合国際法委員長や仲裁裁判所裁判官として国際法に関与した。
 東京裁判における主張 (パール判決書)
 パールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではない。
 日本共産党
 日本共産党によれば、平和に対する罪、人道に対する罪を事後法だと位置づけたパールの主張は、第一次世界大戦後に生まれた国際連盟規約や不戦条約等の存在を矮小化していると主張している。
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 パール判決論争とは、極東国際軍事裁判(東京裁判)のインド代表判事であったラダ・ビノード・パールの判決書(反対意見書)、およびパール判事の思想や経歴に関する論争。
 概要
 パール判決書では、東京裁判憲章の極東国際軍事裁判では、a.平和に対する罪、b.(通例の)戦争犯罪、c.人道に対する罪の3つの罪のうち、平和に対する罪と人道に対する罪は事後法で、罪刑法定主義に反するとして、平和に対する罪で訴追されたA級戦犯の全被告人は無罪とした。
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 1942〜44年 イギリスの植民地インドのベンガル地方で、150万人〜300万人の餓死者を出したベンガル飢饉が発生した。
 ベンガル地方は、過去にも何度も大規模な飢饉を繰り返し、夥しい餓死者を出す慢性的な食糧不足地帯であった。
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 1942年1月 インド・ビルマ相レオポルド・エイマリーは、「日本軍によるインド侵略に備えよ」というウィンストン・チャーチルの命令を受け、インド総督府(イギリスの出先機関)に対して、焦土作戦として広範囲わたるビルマ・インドの国境地帯にある産業・交通施設の完全破壊を指示した。
 インド総督リンリスゴー侯爵は、チャーチル以上の人種差別主義者であったが、インフラ整備を完全破壊すると地元住民の反発を買い、独立派を利するのみであるとして反対した。
 イギリス政府は、破壊地域をベンガル地方に限定し、地元住民の意思を尊重するという名目として否認を許可した。
 インド総督府は、否認政策として地元住民が生活に欠かせない小船の破壊を否認するという申し立てを受け入れたが、それ以外の交通や輸送のインフラ整備を完全破壊して陸の孤島とし、食糧源として大事な沿岸漁業をも壊滅させた。
 地元住民が米を否認した為に、田畑を焼き払われる事はなかったが、それに代わって自家消費分以外の米をイスラム商人の言い値で買い上げられた。
 イギリス軍は、日本軍の侵略に備えて、インド人所有の船舶や牛車を押収したり破壊した。この結果、インド国内の流通網は完全に破壊された。
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 3月下旬 日本軍は、ベンガル湾南部に位置する北側がアンダマン諸島と南側がニコバル諸島を占領した。
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 5月 日本軍は、全ビルマを占領し、インドへの米輸出を遮断した。
 インド総督府とイギリス軍は、米の主要輸出国だったビルマを奪われた為に、兵士や軍需労働者にしか備蓄食糧を開放しなかった。
 イスラム商人らは、米価格が高騰する事を見込んで買い占めを行った。
 インド国内では、米不足と米価格の急騰でパニック買いが起きた。
 イスラム教徒はイスラム商人から安く米を購入し、ヒンズー教徒はイスラム教徒から高い米を買わされていた。
 イスラム教徒は金を稼いで安定した生活をし、ヒンズー教徒は金がなくその日暮らしの貧しさで喘いでいた。
 戦場から遠いカルカッタなどの西部にある都市部は、戦争景気で豊かになって食糧価格が高騰しても食糧に困らなかった。
 だが、軍需産業を持たない地方都市や農村部は所得が伸びず、諸物価が高騰で貧困化が深刻になっていた。
 インド総督府は、貧困者対策として食糧の購入に補助金を付けたが、地方都市部のみでより貧しい農村部には支給が行き渡らなかった。
 農村部の低所得者は、米が買えずず飢え出はじめた。
 宗教間の不平等や貧富の格差が、食糧不足を悪化させ社会崩壊につながっていった。
 インド総督府は、ベンガル地方ビルマからの米輸入しなければ安定供給ができない事を知っていたが、地元住民のコメ栽培を抑制する為に商用・軍用作物としてジュード栽培を強要した。
 イギリス政府は、インドに対して、中東やアフリカに駐屯するイギリス軍やインド軍隊への食糧輸出を義務付けていた。
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 8月 インド国民会議は、「イギリスのインド撤退要求」を決議し、不服従運動を展開した。
 マハトマ(聖者)・ガンジーは、非武装非暴力の対英全面対決路線として「インドから立ち去れ」運動を開始した。
 インド総督府は、騒乱を鎮圧める為に、ガンジーと独立派幹部4万人を逮捕し、弾圧して1万人以上の死傷者を出した。
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 10月 大型のサイクロンがベンガル地方を襲い、僅かに生産していた農作物に大打撃を与え、飢餓が発生した。
 食糧を失った地方の貧困者は、食べ物を求めて豊かな都市部に流れ込んだ。
 その為に、都市部のスラム街が拡大して、不衛生となって疫病が蔓延し、治安が悪化した。
 インド総督府は、イギリス政府に対して、災害の甚大被害によって食糧事情が危機的状況に陥り、広範囲に飢餓が発生する恐れがあると報告した。
 インド担当相とインド副王のアーチボルド・ウォヴェルは、イギリス政府に対して、インドからの食料輸出停止と小麦等の穀物緊急輸入措置を要請した。 
 イギリス政府は、要請を受けて翌43年7月迄に約60万トンの食糧提供を約束したが、植民地救済より戦争の勝利を最優先して、インドへの食糧支援を最小限(7月迄に3万トン)とし、インドからの米7万トンを戦地に運ぶ出した。
 ベンガル飢饉は、天災で起きたが、300万人に之被害を拡大させたのは人災であった。
 さらに。ベンガル飢饉が知れ渡ると独立派の反英運動が暴動化する恐れがあり、日本軍に付け込まれ危険があるとして極秘扱いとした。
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 1943年 イギリスは、対ファシズム戦争でソ連と同盟関係になった事で、インド共産党を合法化した。
 1月 カサブランカ会談。ロジャー・ルイス「カサブランカ会談への旅は、フランクリン・ルーズベルトの植民地問題に関する見解に大きな影響を与えた」(『瀬戸際の帝国主義』)
 ルーズベルトは、チャーチルに「無条件降伏まで戦争を継続する」という声明を行うと発言した。
 2月10日 ガンジーは、獄中でインド独立運動弾圧に抗議して断食を始めた。
 インド国民会議派は、各職場でサボタージュ活動を始め、洪水被害のある主要路線でも輸送業務を拒否した。
 イギリス政府内から、ガンジー独立運動の英雄として餓死せる事はインド支配に不測の事態を引き起こす恐れがある為に、ガンジーと妥協を図るべきであるとの声が上がった。
 インド総督府も、イギリス寄りのインド人総督参事会メンバーが辞任して独立派が政治力を付ける事を心配した。
 イギリス軍は、日本軍が反英派を徴用してインド内部へ侵略してくる事を恐れていた。
 だが、チャーチルは助言や忠告を一切無視した。
 「数人の〝黒んぼ〟が辞めたとして、それがどうしたというのか。支配しているのは我々だという事を全世界に示す事ができるではないか」
 (南アフリカ首相ヤン・スマッツへの電文)「ガンジーは全く死ぬつもりなどないと思うし、私が先週食べたものより良いものを食べているに違いない」
 リンリスゴー総督は、チャーチルに、「ガンジーは医師が勧めるブドウ糖投与を拒否して水しか飲まない」と報告した。
 チャーチル「なぜガンジーはまだ死んでいないのか」。
 チャーチルは、白人至上主義者として、非キリスト教徒で非白人を殺したい程に嫌っていた。
 ジョン・コルヴィル(チャーチルの祕書。日記45年2月23日)「首相に言わせると、ヒンドゥー教徒とは汚らわしい人種である。『単に多産であるがゆえに、破壊して当然のところを救われているにすぎない』」
 ラルフ・レイコ「ウィンストンに節操というものはなかったけれども、彼の人生にはひとつだけ変わらないものがある。それは戦争への愛である」
 チャーチルは、味方には寛大として一人でも多くを助けようとしたが、敵には非情に徹して一人でも多くを殺す事を望んでいた。
 そして白人至上主義の彼は、白人支配に挑戦するインド人を敵と見なして、ベンガル地方を見せしめのために見捨てた。
 イギリスの伝統的基本戦略は、勢力均衡と人種序列であった。
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 夏 インドの英字新聞「ステーツマン」は、ベンガル飢饉を報道した。
 ベンガル地帯は、大飢饉に襲われ300万人近い餓死者を出していた。
 8月14日 シンガポール(日本名・昭南)のインド独立連盟(IIL)は、日本軍の協力を得て緊急食糧支援の用意があると言うラジオ声明を発表した。
 スバス・チャンドラ・ボース「日本軍占領地域からインドへの米の輸送は本来できない事である。しかし、イギリス政府が申し込みを承認し、送られた食糧が軍事用に貯蔵されたり、インドから再輸出されたりしない善処するのであれば、連盟は米を送る用意がある」
 軍国日本にとって、西方からの攻撃を防ぐにおいてインドは欠かせない戦略拠点である以上、インド人を味方に付ける為のベンガル支援には喜んで賛同した。
 南方戦略が終了したとはいえ、占領地での敵残存勢力鎮圧と敵反攻に備えての拠点建設に軍隊を動かせない為に、ベンガル支援は人道的配慮として食糧支援にとどめる事にした。
 軍国日本が戦っているのは、インドを植民地として圧政を敷いているイギリスであって、植民地とされているインド人ではなかった。
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 几帳面で、事細かい事まで気にする事務屋的軍人エリート官僚の東條英機首相が、ベンガル飢饉とベンガルへの食糧支援計画を知っていたかどうかは不明である。
 日本軍は、情報の重要性が理解できず、情報収集能力と分析能力がなく、折角の情報を作戦に生かす事が出来なかったといわれている。
 つまりは、ベンガル飢饉を知らなかったとされている。、
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 インド連盟は、日本軍と協議して10万トンの米と輸送方法を提案した。
 インド総督府は、イギリス政府とイギリス軍の指示に従って、日本軍のプロパガンダであるとして黙殺し、食糧支援を拒絶した。
 ベンガル飢饉を知ったオーストラリアやカナダなど英連邦参加国家は、イギリスが輸送船を手配してくれたら、インドが必要とする小麦を提供すると提案した。
 オーストラリアの輸送船は米を満載して、インド経由で地中海地域へ向かっていた。
 チャーチルは、全船舶を戦争勝利の為に出動させている今、たかが植民地への食糧輸送の為に一隻でも貴重な輸送船を回す事には同意しなかった。
 コーデル・ハル国務長官は、食糧支援を申し出たが拒否された。
 『ハル回顧録』「インドにおける食糧供給の責任はイギリスに任されていると強く主張した為、我々は『やむをえず』従わざるをえなかった」
 アメリカは、チャーチルの対インド強硬姿勢がインド人の親日化をもたしかねないと警戒した。
 アドルフ・バーリ(国務次官補)「自分達が与えられていない自由を守る為に、なぜインドが戦わねばならないのか」
 フランクリン・ルーズベルト「イギリスのインド防衛はインド人自身の充分に熱意ある支持を受ける事はないだろう」
 ウェンデル・ウィルキー「他民族による別の民族支配は自由ではなく、我々が戦って守るべきものではないという事に、世界はついに目覚めたのだ」(『ワン・ワールド』)
 アメリカの反植民地主義の理想主義者は、イギリスの非人道的植民地支配に反対していた。
 ウォール街の国際金融資本は、世界市場をアメリカ・ルールで独占する為に、閉鎖的な植民地を解体する事を求めていた。
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 1944年3月8日 インパール作戦開始。
 ビルマ方面の日本陸軍航空部隊主力は、戦況悪化に伴い太平洋方面へ転出していた為に制空権を失い、インパールで戦う日本軍への航空補給はできなかった。
 イギリス空軍は、ビルマへ侵攻するイギリス・インド軍の進撃を支援するべく、補給を航空輸送で届けていた。
 インパール作戦の失敗は、航空輸送による補給支援がなかった事である。
 8月4日 エイマリー印度相は、チャーチルのインドに対する強硬姿勢に強く抗議した。
 「私は我慢ならず、彼とヒトラーの考え方には大差ないと直言せずにはいられなかった」
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 マドゥシュリー・ムカージー(インド人作家) 「彼がよく批判されるのは、ドイツ市民に対する爆撃についてだが、ベンガル飢饉でこれだけ多くの犠牲者が出たことついて直接の責任を問われたことはまったくない。しかし、これこそがチャーチル最大の汚点だと思う」(『チャーチルの秘密の戦争』)
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 2010年9月11日 AFP BB NEWS「チャーチルのインド人嫌悪、歴史的飢饉の原因に 印新刊が告発  発信地:ニューデリー/インド
 【9月11日 AFP】第2次世界大戦中の英首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)が、インド人に対する人種的嫌悪感から、飢饉にあえぐインドへの援助を拒み、数百万人を餓死に追いやったと主張する本が出版された。
 第2次大戦中、日本軍がインドへのコメの主要輸出国だった隣国ビルマを占領した後も、英国人が支配する植民地総督府は、兵士や軍需労働者にしか備蓄食糧を開放しなかった。パニック買いでコメ価格は高騰。また日本軍が侵入した場合に植民地内の輸送船や牛車が敵の手に渡ることを恐れた総督府は、これらを押収したり破壊したりしたため、流通網も破壊された。
 こうして1943年、「人為的」に起きたベンガル飢饉では300万人が餓死し、英植民地インドにおける暗黒の歴史となっている。インド人作家マドゥシュリー・ムカージー(Madhusree Mukerjee)氏(49)は最新刊『Churchill's Secret War』(チャーチルの秘密の戦争)で、この大飢饉の直接的な責任はチャーチルにあることを示す新たな証拠を暴いたと語る。
 ■度重なる支援要請を拒否
 第2次大戦の英政府の閣議記録や埋もれていた官庁記録、個人的なアーカイブなどを分析した結果、当時、オーストラリアからインド経由で地中海地域へ向かう航路の船は輸出用のコメを満載していた。しかし、チャーチルは緊急食糧支援の要請をことごとく拒否し続けたという。
 ムカージー氏は「チャーチルに対策が無かったわけではない。インドへの援助は何度も話にあがったが、チャートルと側近たちがその都度、阻止していたのだ」と指摘する。「米国とオーストラリアが援助を申し出ても、戦時下の英政府がそのための船を空けたがらなかった。米政府は自国の船で穀物を送るとまで申し出たのに、英政府はそれにも反応しなかった」
 ■強烈なインド人嫌悪
 チャーチルはインド人を蔑む言葉をよく口にしたという。チャーチル内閣のレオ・アメリー(Leo Amery)インド担当相に対して、「インド人は嫌いだ。野蛮な地域に住む汚らわしい人間たちだ」と述べ、またあるときは、飢饉はインド人自らが引き起こしたもので、「ウサギのように繁殖するからだ」とののしった。
 特にインド独立運動の指導者マハトマ・ガンジー(Mahatma Gandhi)について「半裸の聖者を気取った弁護士」だと愚弄(ぐろう)し、援助を求める総督府の英高官らに対し、「なぜガンジーはまだ死んでいないのか」などと返答したという。
 ナチス・ドイツと戦う指導者として歴史に名が残るチャーチルだが、アメリー担当相はチャーチルのあまりの暴言に、ある時ついに「首相とヒトラーの考え方に大きな違いがあるとは思えない」と直言したこともあった。
 ■インド史から消された災厄
 チャーチルの伝記はこれまでに数え切れないほど執筆されているが、ムカージー氏の新刊は新情報を発掘したという意味で画期的な成果だと、著名な歴史ジャーナリストのマックス・ヘイスティングス(Max Hastings)やインドの作家たちが称賛している。
 ムカージー氏は「チャーチルを攻撃しようと思って調査し始めたわけではない。ベンガル飢饉について調べていくうちに徐々に、チャーチルが飢饉で果たした役割が浮かび上がってきた」と言う。
 現在はドイツ人の夫とともに独フランクフルト(Frankfurt)に在住しているインド出身のムカージー氏は、ベンガル飢饉については小学校の教師からも両親からも習ったことはなく、インドの歴史からも消去されてきたと批判する。それは「インド社会の中流に、罪の意識があるからだ。彼らは(総督府下で)仕事に就いていたから、つまり配給を割り当てられていた。けれど田舎の人間はいなくなっても構わないとみなされたのだ」
 7年の歳月をかけて執筆したムカージー氏は、インド奥地の村々に散るベンガル飢饉の生存者から生々しい話を取材で聞くにつれ、チャーチルに対する強烈な批判意識が生じたという。「彼がよく批判されるのは、ドイツ市民に対する爆撃についてだが、ベンガル飢饉でこれだけ多くの犠牲者が出たことついて直接の責任を問われたことはまったくない。しかし、これこそがチャーチル最大の汚点だと思う」(c)AFP/Ben Sheppard
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 ウィキペディア
 アマルティア・センベンガル語:??????? ???、ヒンディー語:??????? ???、英語:Amartya Sen、1933年11月3日 - )は、インドの経済学者。哲学、政治学倫理学社会学にも影響を与えている。アジア初のノーベル経済学賞受賞者。1994年アメリカ経済学会会長。
 ベンガルで生まれ、9歳の時に、200万人を超える餓死者を出した1943年のベンガル大飢饉でセンの通う小学校に飢餓で狂った人が入り込み衝撃を受ける。またこの頃、ヒンズー教徒とイスラム教徒の激しい抗争で多数の死者も出た。これらの記憶や、インドはなぜ貧しいのかという疑問から経済学者となる決心をしたと言われる。無神論者。
 功績
 飢饉の分析
 彼の著書で示されている、飢饉が食料不足から起こるだけではなく、不平等からも起こるという指摘は、食物を分配するためのメカニズムを基にしている。彼は、1943年にベンガルに飢饉が起こったとき、価格が上昇し、食物を入手するための通貨がイギリス軍による獲得、パニック購入、貯蔵、およびぼったくり(その領域の戦争に関連づけられたすべて)を含む要素のため急速に無くなったこと、田舎の肉体労働者と都市のサービス提供者を含む人々の適切な食物供給量が有ったことをデータに提示した。例えば、ベンガルでは飢饉の前よりも食糧生産量があった。多くの社会的経済の要素として減退する賃金や、失業や、上昇する食品価格や、不十分な食品流通などのこれらの問題はあるグループ社会で飢餓につながった。ベンガル飢饉では、食物を買う田舎の労働者のネガティブな状態は民主主義の影響を受けなかった。彼らには社会参加の権限がなく、飢えや滋養の機能、病的状態から逃れることが出来なかった。
 一方、センは1943年以降インドでは壊滅的な大飢饉が起こっていないことを指摘している。独立に伴って自由なメディアと民主主義が整備されたことによって、飢餓で最も影響を受ける貧しい人々の声が政府に届きやすくなり、一方で野党やメディアの批判にさらされる民主主義下の政府には彼らの声を聞くというインセンティブが発生するために食糧供給や雇用確保などの政策を行い、飢饉は回避されるとした。センは同時期の中国の大躍進時の大飢饉や、その他の権威主義的な政権のもとでの各国の大飢饉と比較し、飢饉は自然災害などの現象の影響よりも、飢えを回避するために行動しようという政府が欠如していることの影響がより大きいとしている。」
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 イギリス東インド会社が支配するようになって、インド人は重い税負担に苦しんだ。また、インド農民に小麦など食糧をつくるべき畑で、綿花や綿布の染料に使う藍や、アヘンの原料となるケシなどの栽培を強制した。綿花は特定の一次商品を宗主国イギリスに輸出し、完成消費財を輸入するという経済構造に変質したため、従来の自給型農業が決定的な変化を被った。その結果、田畑の減少や失業者の増加により、飢饉に際して多くの犠牲者を出す地域が現れた。インド各地域で飢餓がおこっても、イギリス政府は、まともに救済はしなかった。一部の関係者は、トマス・ロバート・マルサス理論を主張し、飢饉は人口抑制のために自然の方法であることを主張した。1770年のベンガル飢饉で死者約1000万人。1800年 - 1825年大飢饉5回 死者約100万人。1826年 - 1850年大飢饉2回 死者約40万人。1851年 - 1875年 大飢饉6回 死者約500万人。1876年 - 1900年大飢饉18回 死者約1600万人。1943年ベンガル飢饉で死者約300万人。イギリスによる過酷な植民地統治時代に頻発した飢饉の死者数は推計で5000万人を越える。
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