☘7)─2─災害時における日本の避難所は世界最悪の環境。〜No.13      

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 世界では、災害被害者を収容して保護する役目を果たしているのは政府ではなくキリスト教会であった。

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 2019年3月23日 msnニュース 時事通信社「避難所環境、改善の動き=「関連死」4900人-災害頻発の「平成」
 © 時事通信社 阪神大震災の避難所となった神戸市長田区内の小学校体育館で一夜を明かした被災者ら=1995年1月18日、神戸市
 多くの災害に見舞われた平成。避難生活の疲労などで亡くなる「災害関連死」は、初めて認められた1995(平成7)年の阪神大震災以降4900人以上に上った。日本の避難所は国際基準を満たしていないと言われ、関連死を招きかねない環境を改善する動きが広がる。一方で、専門家は国による一元的な支援が必要だと提言する。
 体育館に身を寄せ、冷たい床で雑魚寝する被災者。日本では災害のたびにこうした光景が繰り返されてきた。
 2011年の東日本大震災でも、避難所で持病が悪化するなどして多くの被災者が死亡した。04年の新潟県中越地震や16年の熊本地震では、車中泊で長時間同じ姿勢でいたことで、エコノミークラス症候群により亡くなる人が相次いだ。熊本地震の死者273人のうち関連死は218人を占める。
 「日本は国際的な最低基準さえ満たしていない」。災害の多いイタリアや北米で医療活動に従事してきた避難所・避難生活学会理事長の榛沢和彦・新潟大特任教授(56)はそう嘆く。
 榛沢教授によると、国際赤十字赤新月社などが定めた「スフィア基準」と呼ばれる基準があり、避難者1人当たり最低3.5平方メートル(約2畳)のスペースを確保するなどとされている。トイレは20人当たり1基必要で、男性用1基に対し女性用3基などと具体的な数値が設定されている。
 榛沢教授は日本の避難所について、トイレや食事が同基準を満たしていないとして改善を訴えている。エコノミークラス症候群を防ぎ、健康リスクを低減できる段ボールベッドの普及も進めている。
 登山家の野口健さん(45)は、熊本地震の際に被災者向けのテント村を開設。建築家の坂茂さん(61)は体育館などに避難する人のプライバシーを確保するため、布と紙でできた間仕切りの設置を進めてきた。ボランティアもそれぞれの現場で改善に取り組んできた。
 榛沢教授は、避難所の管理を市区町村が担うため支援の質にばらつきがあり、経験も蓄積されないと指摘する。被災した自治体職員が泊まり込んで運営に当たるケースもあり、災害対策や支援を一元的に担う省庁が必要だと訴えている。 」
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✨31」─3・B─上海ユダヤ人ゲットーとアメリカ・ユダヤ人共同配給委員会(ジョイント)。イェドヴァブネ事件。小辻節三。1940年 〜No.156  *    

近衛秀麿 亡命オーケストラの真実

近衛秀麿 亡命オーケストラの真実


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 軍国日本・日本軍部は、昭和天皇の御稜威に従い、ユダヤ人に憎まれようともユダヤ人難民を助けた。
 人を信じる日本民族日本人は、心・思いは通ずる事を信じていた。
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 ユダヤ人難民を助けたのは、キリスト教的博愛の自己犠牲でもなく、日本神道的慈愛の八紘一宇精神であった。
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 近衞秀麿。小辻節三。
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 松岡洋右アメリカ人には、たとえ脅かされても、自分の立場が正しい場合には道を譲ったりしてはならない。対等な立場を欲するものは、対等な立場で望まなければならない」
 アメリカは、松岡洋右の外交能力を警戒していた。 
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松岡洋右と小辻節三
 「義を見て見てせざるは勇なきなり」
 小辻節三「西洋の騎士道同様に、武士道は振舞いを律する掟があり、戦場での勇敢さや死に直面した時の気高さという美徳を重視していたのである。……真の武士とは、礼儀正しさ、誠実さ、忠誠心といった品性をとても重視していた」
 1941年 神戸や横浜の日本人達は、辿り着いたユダヤ人難民を助けた。
 ユダヤ人難民達は、安心して日本国内を観光旅行していた。
 各地の日本人達は、「おもてなし」の心でユダヤ人難民達を寛がせた。
 人種差別主義の右翼は、ユダヤ人の世界征服を信じ、ナチス・ドイツ同様にユダヤ人達を差別していた。
 日本人全員が、ユダヤ人難民を助けたわけではない。
 5月 海軍省は、ナチス・ドイツの圧力を受けて、神戸猶太協会に「尋問したいので難民の代表2人が東京に来るように」との通告を与えた。
 小辻節三と二人のラビ(聖職者)は、海軍省に出頭し、それ以外に外務省、陸軍省内務省、情報局にも呼び出された。
 松岡洋右が、彼らを救った。「我が国に住むかぎり、一切の心配は無用」
 1941年秋迄に、ユダヤ人難民は出国した。
 小辻節三「ナチスから圧力を掛けられていた当時の日本であったにもかかわらず、ユダヤ難民が無事に日本を通過できたと言う事は喜ばしい事であった」
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 小辻節三や松岡洋右らは、ユダヤ人難民を助けた事を自慢して言い触らす事は、日本の善意を穢す行為として秘して隠した。
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 軍部は、ユダヤ人難民達を日本の戦争に巻き込まない為に、強制的に日本国内から上海に移送した。
 ユダヤ人難民達は、日本を離れる事に不平を漏らした。
 日本人は、武士道精神から、対米英戦争ユダヤ人難民を人間の盾として利用する気はなかった。
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 レオ・メラメド「日本人の並外れたホスピタリティー、言葉が通じないのに、見知らぬ私達に差し伸べてくれた親切心を忘れる事ができない」
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 ユダヤ人難民達は、軍国日本を天国のような素晴らしい国であったと感想を述べていた。
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 1941年7月10日 イェドヴァブネ事件。ポーランド北東部の小さな町イェドヴァブネ近郊。非ユダヤポーランド人住人は、集団ヒステリーを起こして、隣人として住んでいたユダヤ人住民約1,600人をを虐殺(ポグロム)した。
 穀物倉に閉じ込められたユダヤ人達は、生きたまま焼き殺された。
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 渡部昇一三国同盟の相手であるドイツから『ユダヤ人を迫害してほしい』という要請がきたときに、五相会議が開かれた。これは閣議よりも中核の位置づけで、首相と外務大臣、陸海軍の大臣と大蔵大臣で行なわれる会議である。その場で陸軍大臣板垣征四郎は、『日本は八紘一宇の精神である』と言った。つまり、民族差別しないという表明である。
 あの頃、政府決定でユダヤ人を差別しないと政府決定したのは日本だけだ。そういうことを宣伝しなかった。
 この日本政府のユダヤ人に対する方針が東京裁判の弁護人たちによって上手に使われなかったことは甚(はなは)だ遺憾なことだった。ユダヤ人虐殺を主として裁いたニュルンベルク裁判を手本にして行なわれた東京裁判に、この五相会議の決議が利用されたら、裁判自体が揺らいだはずである。
 ところがなんと板垣征四郎は絞首刑になったのだ。
 『誰に、何を、どのように伝えるか』という能力の貧困は今日の日本にも当てはまる問題である。」
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 ハインツ・E・マウル「当時2600人を数えた在日ドイツ人の中には116人のユダヤ人がいた。
 日本人はユダヤ系の学者、芸術家、教育者に高い敬意を払った。
その中には、音楽家で教育者のレオニード・クロイツァー、ピアニストのレオ・シロタ、指揮者のヨゼフ・ローゼンシュトックとクラウス・プリングスハイム、哲学者のカール・レヴィット、経済学者のクルト・ジンガー、物理学者のルイス・フーゴー・フランクなどがいる。
 日本政府は、ドイツ大使館の激しい抗議にもかかわらず、これらのユダヤ人をドイツ人同様に遇した。
 1941年末、ドイツ大使館は日本政府に対して、外国に居住する全てのユダヤ人は無国籍とされ、今後いかなる保護も与えられないと通告した。そして在日ユダヤ人を解職するよう要求したが、日本の外務省は無視した。
 かくして少数ながら戦争終了まで日本で安全に暮らしたユダヤ人がいたのである。」
 ヒルダ・ラバウヨーロッパで皆殺しになった人々を思えば、上海は楽園でした」
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 ヒレル・レビン教授「いくら日本政府に何らかの損得勘定があったにせよ、日本側の対応は当時のアメリカ政府の非協力的な対応に比べれば文字通り、天と地ほどの差がある。もしアメリカ政府がもっと積極的にユダヤ人救済に手を差し伸べていたら、さらに何百万という命が助かっていたはずだからだ。
 だがアメリカは、杉原がユダヤ人に対するビザの大量発給に注いだのと同じくらいの努力を、ビザを発給しない方向に使ったのだ。
 当時から多くのユダヤ系移民がいたアメリカでは、ユダヤ人勢力が社会にも相当な影響力があったはずである。にもかかわらず、なぜアメリカはユダヤ人を救済しようとしなかったのか? この問題はかなりのミステリーと言わざるを得ない。」
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 近衞秀麿(1898年11月18日〜1973年6月2日)日本の指揮者・作曲家。異母兄に近衞文麿。
 1924日 独学で音楽を学び、ベルリン・フィルを指揮して才能を認められた。
 これ以降は、大音楽家(マエストロ)として世界中で活躍した。 
 1937年 音楽大使としてドイツを拠点に活動したが、火チラーを嫌い、ナチスプロパガンダに非協力的であった。
 1938年 親善大使に任ぜられアメリカに渡ったが、排日運動を避けてヨーロッパに移り各地のオーケストラを指揮した。
 第二次世界大戦が勃発し、ナチス・ドイツユダヤ人が始まるやユダヤ人を匿った。
 1943年 ドイツ占領下のポーランドやフランスの音楽家に深い同情を寄せ、彼らを通じて各地の反ナチ・レジスタンス組織と関係を持っていた。
 近衛秀麿自伝「救われたユダヤ人家族は10以上」、「日本大使館のY君が担当した」
 7月 ナチス・ドイツは、近衞秀麿がプロパガンダに非協力的であるとしてドイツ国内での活動を禁止した。
 フランスで自前のオーケストラを組織し、ナチス・ドイツプロパガンダ演奏会の場を利用しユダヤ人音楽家を強制労働から救った。
 昭和天皇の御稜威に従い、総計約50人のユダヤ人を国外へ脱出させて助けた。
 日本の名門華族は、日本精神とノブレス・オブリージュ(高貴な身分に伴う社会的責務)でユダヤ人を助けた。
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 ベルリンの日本大使館は、終戦後まで、ゲシュタポに隠れてユダヤ系ドイツ人女性2名を匿っていた。
 陸海軍の駐在武官も、ドイツ語を習う目的で敢えてユダヤ系ドイツ人を事務所に雇っていた。
 強制収容所送りを免れていた混血ユダヤ人達は、日本人に雇って貰えれば助かる事を知って、ホロコーストされるダヤ系ドイツ人をゲシュタポの厳しい監視を避けて日本大使館に連れてきた。
 当時の日本大使館は、現代の観光案内的な事務仕事中心の日本大使館とは根本的に異なった公館であった。
 国益としてはナチス・ドイツtの同盟を重視したが、心情として人道・人権・人命を重んじていた。
 1944年暮れ ドイツに留学していた古賀守は、日本大使館から幌付きのトラックを借り、「日の丸」の旗をなびかせて外交用車輌として、ユダヤ人十数人をドイツ国内からスイスへと脱出させた。
 そして、バーゼルユダヤ救済協会に全員を無事に引き渡した。
 幾ら同盟国といえど、ユダヤ人の逃亡の手助けをすれば容赦なく処刑された。
 軍国日本は国民にユダヤ人の救済を命じなかったが、日本人はナチス・ドイツの国策に逆らって自主的にユダヤ人難民を助けていた。
 それが、日本人軍国主義者であった。
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 アメリカ軍は、ユダヤ人難民を無償で受け容れた神戸や敦賀を無差別爆撃した。
、安住できる新天地に旅立つまで暖かく接したきた神戸や敦賀の市民は、生きたまま焼き殺された。
 現実世界に於いて、良い行いを事したから良い事が訪れるとは限らない。
 むしろ、良い事をしても悪い事が訪れるのが大半である。
 日本人にはユダヤ人への嫌悪がなかった為に、進んで数万人のユダヤ人難民を助けたが、それで良い事は起きなかった。
 日本の善意や思い遣りは、世界では通用しなかった。
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 祭祀王・昭和天皇は、大和心から、キリスト教世界を逃げ出してきたユダヤ人難民達の保護を切望していた。
 皇室は、自然のままあるがままという営みで、人種差別をしないという皇道で苦しむ人々を救済しようとした。
 それが、人種・民族に関係なく全ての人が一つの家族という大家族主義・八紘一宇である。
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 自然にあるがままという、相互補完共生の生き方。
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 弱い者イジメはしない。
 強きを挫き、弱気を助けく。
 弱い者とは戦わず、強い者と戦う。
 信念の為に死んでも悔いを残さず。
 一蓮托生。
 生きるも死ぬも一緒。
 命を大事にして惨めに生き残るよりも、命を捨てても納得できる悔いのない死を選ぶ。
 それが、真のサムライであり、武士道の極意である。
 そして、日本民族神話・天皇心神話に生きる日本の真の姿である。
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 1943年 日本軍は、42年3月にインドネシアを軍事占領してオランダ人など敵性外国人を民間人抑留所に収容し、さらにユダヤ人を選別してユダヤ人のみの抑留所に収容した。
 ユダヤ人世界征服陰謀説を信じる日本軍人は、占領地のユダヤ人を秘密結社フリーメーソン会員か支配階級であるユダヤ系国際金融資本の手先と見なし、ナチス同様に隔離する必要があると信じていた。
 ジャワ憲兵隊は、インドネシアの全ユダヤ人を強制連行する為に、一般人を逮捕し拷問して名前と住所を吐かせた。
 日本軍は、捕らえたユダヤ人を抑留所「テルアビブ」に隔離して、銃と鉄条網で厳重に監視した。
 収容所の管理運営は、朝鮮人兵士か朝鮮人軍属に押し付けられていた。
 その扱いは、ドイツ親衛隊の様に非人道的であったと言われている。
 日本人の中にも、ユダヤ人を助けたいという昭和天皇の思いを踏みにじってユダヤ人を迫害しようとする、人種差別主義者が存在知る。
 全ての日本人が心の根の優しい人間ではなく、血に飢えた凶悪な差別主義者の日本人も多くいた。
 戦後。オランダのB級C級戦犯裁判所は、ユダヤ人弾圧を行った日本人兵士をナチスが行ったホロコースト同様の「人道に対する罪」で処刑した。
 一部のユダヤ人研究者は、ユダヤ人迫害は軍上層部の命令であり、昭和天皇と日本政府はユダヤ人弾圧の事実を隠蔽していると非難している。
 日本国内の人種差別反対団体は、昭和天皇と軍部はナチス同等かそれに近いホロコーストを行ったと確信し、ユダヤ人研究家の協力を得て犯罪行為の調査研究を行っている。
 世界世論に於ける、昭和天皇と軍国日本への非難は現代でも止む事がなく、弁護する声は一つとしてない。 
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 アメリカ政府は、上海のユダヤ人難民の生活が苦しくなる事を知っていて、在外日本資産を凍結し、物資の輸出を停止に近い制限を加えた。
 日本軍は、上海の日本租界に「無国籍難民隔離区」(ユダヤ人ゲットー)を設置して保護したポーランドユダヤ人難民達を収容した。
 上海のユダヤ人難民は、ジョイント(アメリカ・ユダヤ人合同配分委員会)からの送金が停止され、生活物資の流通も途絶えて生活が苦しくなった。
 日本軍は、ポーランドユダヤ人難民達が生活費不足し困窮しているので、東条英機首相の許可をえて、ニューヨークのジョイント本部と協議してスイス赤十字経由で18万ドルのクレジットを承認した。
 アメリカ政府は最初は戦争を優先して反対したが、ジョイントの説得とキリスト教会の要請で日本軍支配下への送金を認めた。
 交渉に当たったのは、A級戦犯東郷茂徳外相(靖国神社)であった。
 賀屋興宣蔵相(A級戦犯)は、ユダヤ人難民救済の為に、特例として上海租界の在米資産凍結を解除した。
 ポーランドユダヤ人難民保護は、昭和天皇の希望でもあった。
 日本陸軍内部には、親ドイツ派親ファシスト派より親ポーランド派親ユダヤ派の方が強かった。
 ナチス・ドイツは、上海無国籍難民隔離区のユダヤ人をホロコーストするように軍国日本に圧力を加えたが、東条英機首相と軍部は拒否した。
 現場で活躍したのは、松岡洋右ら外交官と松井石根ら日本軍であった。
 ポーランドユダヤ人難民達は守っていたのが、満州派と呼ばれていた東条英機松岡洋右らであった。
 つまり、ポーランドユダヤ人難民達をヒトラーナチス・ドイツから守っていたのがA級戦犯達がである。
 A級戦犯達を祀る靖国神社は、世界から目の敵にされている。
 日本軍は、終戦まで上海無国籍難民隔離区を維持したが、日本人兵士が不足していた為に朝鮮人の兵士や軍属に管理を命じた。
 ユダヤ人問題では、ファシスト中国(中国国民党)も中国共産党も一切関与していなかった。
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 現代日本人が同じような立場に立たされたら、決して、A級戦犯達のような自己犠牲的な人道貢献はしない。
 責任を絶対取ろうとしない陰湿・陰険体質。ウソと詭弁と裏切り。事なかれ主義。問題先送り。他人任せ。
 現代日本人とは、日本民族の歴史上で初めて生まれた、冷血で、冷酷で、薄情で、非情で、非常識な良い所の少ない日本人である。
 現代教育は、そうした人間性を抹消した人形的日本人を量産している。
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 自分に関係しなければ他の事は気にしない。
 例え、親兄弟・子供でも、ましてや祖先など関心も興味も持たない。
 それが、思考力及び感情・情緒抹消の現代教育である。
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 現代教育の最優先課題は、人間形成は建前で、高得点を取る事が本音である。
 高得点で量産されているのが、政治・経済・外交・軍事・教育・社会などで国家を動かしている高学歴出身知的エリートである。
 その割合が多いのが、リベラル派・革新派・エセ保守派そして一部の保守派である。
 それは、左翼・左派・ネットサヨクも右翼・右派・ネットウヨクでも同じであるが、最も重症で救いようがないのは右翼・右派・ネットウヨクの方である。
 真面な日本人は、人口激減と共に急速に減っている。
 それが始まったのは、1980年代後半頃である。
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 三島由紀夫「我々の反革命は、水際に敵を邀撃する事であり、その水際は、日本の国土の水際ではなく、我々一人一人の日本人の魂の防波堤に在る。……我々は日本の美の伝統を体現する者である」
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 2017年11月23日 産経ニュース「「命のビザをつないだ男」ユダヤ難民救った文化研究家・小辻節三氏を表彰 鎌倉市議会
 鎌倉市議会が顕彰したヘブライ学者の小辻節三氏(家族提供)
 第二次世界大戦中にナチスの迫害から逃れて日本にやってきたユダヤ難民の滞在期間を延長したヘブライ文化研究家の小辻節三氏(1899〜1973)=写真(遺族提供)=について、神奈川県の鎌倉市議会が顕彰を行った。
 鎌倉市に在住した小辻氏は「命のビザ」を発給した外交官の杉原千畝氏とともに、ユダヤ難民が欧州から来日する手助けを行った。小辻氏は杉原氏が発給したビザでは日本での滞在期間が10日間しかなかったため、滞在期間の延長に尽力。「命のビザをつないだ男」とされている。市議会では小辻氏について「迫害を受けていたユダヤ難民のために、みずからの命を顧みずに行った勇気ある行動は、粉骨砕身の人道的な偉業」として全会一致で顕彰を決めた。
 市によると、小辻氏の存在は日本であまり知られていないが、イスラエルや欧米では「ユダヤ難民を救った英雄」として著名な存在だという。
 顕彰式典には小辻氏の娘の暎子さんやイスラエル大使館関係者も参加。市では今後、市内中学校に対して小辻氏の業績をまとめた資料を配付し、授業で活用する考えだ。」
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 ウィキペディア
 アメリカ・ユダヤ人共同配給委員会(American Jewish Joint Distribution Committee, JDC)は救援機関。ジョイント("the Joint", "JOINT")として知られる。45のユダヤ人救援団体で構成される「災害援助ユダヤ人連合」の活動調整役を果たしている。 1914年設立。
 
 概要
 ユダヤ人、異教徒を問わず、救援活動を行う。85以上の国で活動しており、2001年にはエルサルバドル、インド西部の地震における救助活動を行った。
 1933年から1939年までの間に250,000人のドイツのユダヤ人と、125,000人のオーストリアユダヤ人を救助し、ポーランドユーゴスラビアにおける対ナチスパルチザンを助けた。
 神戸にあったユダヤ人コミュニティーは戦時中大半が上海に移動し、1万8,000人のコミュニティーが上海に形成されたが、その際支援活動を行った(日本のユダヤ人を参照)。
 最近ではソ連ユダヤ人(食糧配給など)、ベタ・イスラエル、イエメン・ユダヤ人、イラクユダヤ人の救援活動を行っている。
 2007年、委員会に対してイスラエル国家からイスラエル賞が授与された。
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日本に来たユダヤ難民: ヒトラーの魔手を逃れて 約束の地への長い旅

日本に来たユダヤ難民: ヒトラーの魔手を逃れて 約束の地への長い旅


日本とシオンの民 戦前編

日本とシオンの民 戦前編

 

✨31」─3・A─ユダヤ人難民を助ける事に、日本軍部は協力し、日本外務省は猛反対した。杉原千畝。根本三郎。1940年 〜No.156 *    

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 関連ブログを6つ立ち上げる。 プロフィールに情報。
   ・    ・    【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・  
 軍国日本・日本軍部は、昭和天皇の御稜威に従い、ユダヤ人に憎まれようともユダヤ人難民を助けた。
 人を信じる日本民族日本人は、心・思いは通ずる事を信じていた。
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 軍国日本がユダヤ人難民を入国を拒否せず、国内から排除せず、無償で保護したのは、昭和天皇が希望したからである。
 昭和天皇は、間接的ではあったが人道貢献をした。
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 ユダヤ人難民を助けたのは、キリスト教的博愛の自己犠牲でもなく、日本神道的慈愛の八紘一宇精神であった。
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 軍国日本を戦争に追い込み、国民を戦火で殺したのは、マルクス主義者の高学歴知的エリート文官官僚=革新官僚と軍人官僚エリート達であった。
 彼らは、新ナチス・ドイツ派としてユダヤ人難民を助ける事に猛反対した。
 日本外務省は、日本軍部以上に人種差別主義者・排外主義者であった。
 軍部の保守派は、親ユダヤ派親ポーランド派としてユダヤ人難民を助けた。
 靖国神社に祀られたA級戦犯東条英機松岡洋右らは、ポーランドユダヤ人難民を助けた。
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 アメリカの政府や軍部とアメリカ・ユダヤ人達は、ポーランドユダヤ人難民を助ける軍国日本を阻止しようとしていた。
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 ユダヤ人難民を助けた日本人は、悲惨な最期を迎えた。
 神戸市民は、無償の「おもてなし」でポーランドユダヤ人難民を受け入れ保護し助けたが、連合軍(アメリカ軍)の無差別絨毯爆撃で生きたまま焼き殺された。
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杉原千畝松岡洋右
 松岡洋右は、杉原千畝に対して、正規な手続きを終えていないユダヤ人難民は受け入れられないという訓令を、最重要とした暗号電報ではなくあえて普通電報で送った。
 アメリカとの戦争を避ける為にはユダヤ人難民の保護は有利になるとの判断で、その真意を酌み取ってくれる事を期待して普通電報とした。
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 日本は、杉原千畝に助けられた。
 それは、事実であった。
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 法治国家であれば、法律で定められた正規の手続きを終えていない難民を、如何なる理由があろうとも、入国させないし、通過もさせない。
 それが、法律における常識である。
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 ナチス・ドイツソ連は、軍国日本と戦争をしてたファシスト中国(中国国民党)に武器弾薬を供給していた。
 ソ連は、正規兵を国際義勇兵として抗日戦線に投入していた。
 日本軍部は、ナチス・ドイツソ連を中国戦線から引き離す為に条約を結ぶように松岡外相に要望していた。
 ソ連と条約を結ぶ事で、中国共産党とも戦闘を終わらせる事が期待できた。
 日本軍部の中には、ナチス・ドイツソ連が戦争を始める事を期待していた。
 そうすれば、ファシスト中国に軍事援助している国は中立国のアメリカ一国のみとなる。
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 ファシストと戦争をしたのは、中国共産党ではなく軍国日本であった。
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 1940年9月 松岡洋右は、中国からナチス・ドイツの支援を排除するべく日独伊三国同盟締結交渉を行っていた。
 リトアニアカウナス領事杉原千畝は、外務省からの訓命を無視して、ナチス・ドイツの迫害から逃げてきたポーランドユダヤ人難民約6,000人に通過ビザを発給した。
 日本外務省は、杉原千畝の懇願に答える事なく放置した。
 杉原千畝は、暗殺されるかもしれないという重圧に耐え、相談する相手もなく一人で重大な決断を行った。
 軍国主義時代の、日本を代表する日本人である。
 親ドイツ派の外務官僚は、人種差別主義の右翼や反ユダヤの軍人等に情報を流していた。
 杉原千畝は、ロンドンのポーランド亡命政府の軍事秘密組織とソ連について情報を交換していた。
 日本軍部は、対ソ戦略から、ドイツ軍以上にポーランド軍と親密な関係を維持していた。
 陸軍の主流派は、親ドイツ派ではなく、親ポーランド派であった。
 松岡洋右は、杉原千畝が発給したオランダ領キュラソーへのビザが方便である事を知りながら、ユダヤ人難民の日本通過を見逃した。
 各地の日本外交官は、杉浦ビザを取得したユダヤ人難民の軍国日本通過を支援した。
 軍部は、ユダヤ系国際資本を利用する為にユダヤ人難民を助けた。
 東條英機陸相は、沈黙していた。
 神戸などの日本国民は、命からがら逃げてきたユダヤ人難民を温かく「もてなした」が、後年、ユダヤ人が作った焼夷弾で生きたまま焼き殺された。
 京都や大坂の日本人等も、ユダヤ人難民が日本を離れるまで観光を支援した。
 ナチス・ドイツは、逃亡ユダヤ人難民を助ける軍国日本に不快感をあらわにする。
 人種差別主義の右翼や右派は、天皇の大御心・御稜威を無視して、ユダヤ人を差別した。
 戦後。杉浦千畝は、GHQの目の前で外務省から追放された。
 GHQのユダヤ人ニューディーラー達は、杉浦千畝や松岡洋右らのユダヤ人難民救済を知っていた。
 ユダヤ人は、全ての事を知り、昭和天皇と軍国日本を見捨てた。
 9月5日 杉原千畝は、ベルリンに到着し、ベルリンの日本大使館赴き来栖三郎大使の指示を仰いだ。
 来栖三郎大使は、外務省の命令に逆らってユダヤ人難民に通過ビザを発給した事について何も言わなかった。
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 松岡外相は、明治時代に大日本帝国憲法の起草をアルベルト・モッセに助けてもらった恩に報いるべく、ベルリンの日本大使館に対してモッセ一族の保護を命じた。
 モッセ一家は、強制収容所に送られる所を軍国日本に救出された。
 軍国日本は、モッセ以外にも日本に所縁のあるユダヤ人を数多く助け保護した。
   ・   ・   ・   
 日本外務省や軍部の中にいた親ドイツ派や、人種差別主義者や反ユダヤ主義者の右翼・右派は、日本国内の情報をナチス・ドイツに流していた。
   ・   ・   ・   
 別のヨーロッパ諸国にある幾つかの日本大使館や領事館も、杉原千畝に倣って助けを求めてきたユダヤ人難民に通過ビザを発給した。
 昔の日本人は、惻隠の情としてナチス・ドイツから逃げてきたユダヤ人難民達を助けた。
   ・   ・   ・   
 在独大使大島浩は、ユダヤ人難民を助ける事に反対する電報を東京に送った。
 日本外務省内の親ドイツ派は、ユダヤ人難民を助ける事に猛反対した。
   ・   ・   ・  
 軍部は、建て前としてナチス・ドイツの抗議を受け入れたが、本音でユダヤ人難民を極秘に保護した。
 親ドイツ派は、軍部よりも外務省や各官庁の革新派エリート官僚の中に多くいた。
   ・   ・   ・   
 昭和19年 昭和天皇は、杉原千畝が外交官として国益に貢献した事を認めて勲五等瑞宝章を授けた。
 外務省が承認しなかった杉原ビザは、日本国内はもちろん日本軍占領地でも無効にならず、公式なビザとして通用していた。
 杉原千畝は、通過ビザを発行しても無効にならないとの確信を持って、ユダヤ人難民達に渡していた。
 軍国日米との戦争が始まるまで、アメリカも、イギリスも、フランスも、そしてソ連さえも、杉原ビザを正式公文書として取り扱った。
 軍国日本は、法と秩序を守らない中国共産党とは違っていた。
   ・   ・   ・   
 戦後。日本外務省は、自主国家としての外交権をGHQによって剥奪された為に、余剰人数整理として、杉原千畝ら3分の1の人員を免官した。
 ユダヤ人難民救助を渋ったり拒否した国にとって、軍国日本がユダヤ人難民を人種差別せず受け入れた事実は不都合な事実で有り、難民救助という人道的歴史から抹消すべき事柄であった。
   ・   ・   ・   
 重慶国民党政府・駐ウィーン総領事の何鳳山も、ユダヤ人難民に通過ビザを与えたが、上海までの逃亡ルートは日本軍部のルートしかなかった。
 戦後。何鳳山は、国共内戦に敗れ、中国共産党から逃げるようにして台湾に渡った。
 中国共産党は、ユダヤ人難民救出には一切関係していなどころか、ナチス・ドイツ同様にユダヤ人を資本主義者として弾圧していた。
   ・   ・   ・   
 軍国日本は、ユダヤ人難民を助けた親ユダヤであった。
 中国共産党は、ユダヤ人難民を見捨てた 反ユダヤであった。
   ・   ・   ・   
*日本外務省はユダヤ人難民の保護に反対であった。
 1940年9月 ユダヤ人難民の第一陣が、福井県敦賀港に上陸した。
 敦賀ウラジオストックを結ぶ欧亜連絡船は、一ヶ月に三度往復していた。
 ユダヤ人難民が、大挙してシベリア鉄道ウラジオストックに到着し始めるのは翌41年からであった。
 情緒的な日本人達は、着の身着のままで浮浪者のような格好で辿り着いたユダヤ人難民を助けた。
 12月 根井三郎は、ウラジオストック駐在総領事代理として赴任した。
 1941年2月3日 駐ソ日本大使の建川美次は、ユダヤ人難民が日本を目指してシベリア鉄道に乗り込んでいる事を報告した。
 「目下ソ連領内に約800名のポーランド避難民がいる。ウラジオストック経由だけでは移動は困難であるので、一部を満州経由としたい。例外として約400名に対し満州国通過ビザを発給してはどうか」
 外務省は、3月7日に、ユダヤ人難民の日本通過はあくまで本国の許可証我或る者としあるとして、杉原ビザを拒否した。
 2月8日 根井は、杉原ビザで到着し始めた大量のユダヤ人難民をどう処理するかを、東京の外務省に問い合わせた。
 3月19日 近衛文麿首相は、松岡洋右外相が西欧歴訪で不在の為に外務大臣を兼務し、根井に行き先国の入国手続き完了した者のみを日本への船に乗船させるよう指示した。
 ユダヤ人難民に対して、手続きに不備がある者はウラジオストックに行っても無駄であるとの警告を出す事を命じた。
 3月30日 根井は、日本を頼って来たユダヤ人難民を放り出すわけにはゆかないとして、無差別救済を求めて外務省に激しい口調で反論した。
 「帝国領事の査証を有する者に、遙々当地に辿り着き、単に第三国査証が中米行きとなりおるとの理由にて、一率に検印を拒否するは、帝国在外公館査証の威信より見るも面白からず。また査証を有らざる者に対しても単に避難民取締簡易化の見地よりのみ、当館にて査証の発給を停止するは、彼らがモスクワへ引き返し得ざる事情よりするも、適当ならず」
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 駐ソ大使建川美次予備役陸軍中将は、ユダヤ人難民の受け入れを拒否する外務省に激しく抗議した。
 外務省は、モスクワの日本大使館以外での通過ビザ発給を厳に禁ずるという訓令を出した。
 建川大使は、天皇の御稜威や大御心から、毅然として抗議し再考を求めた。
 「実害なき者は従来通り査証をあたえるよう再審議すべし」
 「新取扱決定は実情に即せざるもの」
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 2016年11月16日 産経ニュース「「日本のシンドラー」が救った人たちと神戸の人々との交流を展示 19日まで神戸市文書館
 中島信彦さんが神戸市に提供した写真。ユダヤ人難民の男性3人(前列中央)は和服を着ている(同市提供)
 第二次大戦中、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人難民と神戸市民との交流を今に伝える企画展「神戸と難民たち」が、神戸市文書館(同市中央区)で開かれている。難民が和服を着ている写真やオーストラリアに移住した難民の手記などが展示されている。
 神戸にやってきたユダヤ人難民の大半は、当時リトアニアカウナス領事館にいた外交官、杉原千畝が発給した「命のビザ」と呼ばれる日本の通過ビザを持っていたといい、その後、米国やオーストラリアなどに逃れていったという。
 市は、ユダヤ人難民と市民の交流を後世に伝えようと、今年1月から、当時を知る人の証言や写真などの提供を市広報紙やインターネットで呼びかけたところ、今月8日までに53件の情報が集まったという。
 企画展では、市民らから寄せられた写真や手記などのほか、これまでに判明している難民が住んでいた場所を示した地図も展示。情報提供された当時の様子を撮影した貴重な写真も紹介されている。同市灘区に住んでいたという中島信彦さん(84)は、家族でユダヤ人の男性3人と一緒に写した記念写真を提供。和服姿で写っているユダヤ人の表情は安心しているように見える。
 このほか、神戸からニュージーランドを経てオーストラリアに移住したピーター・バルーク氏が難民だった当時のことを振り返る手記なども公開されている。
 企画展は19日まで。入館無料、午前10時〜午後4時。問い合わせは同館((電)078・232・3437)。難民に関する情報提供は市企画課((電)078・322・6917)。」
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 12月22日 産経ニュース「「命のビザ」にソ連の影 杉原千畝の活動を経済利益・軍事情報狙い“容認”か 露の歴史研究で判明
 杉原千畝
 【モスクワ=黒川信雄】第二次大戦中に多くのユダヤ人を救った“命のビザ”で知られる日本人外交官、杉原千畝(ちうね、1900〜86年)が進めたリトアニアからの救出劇の成功の背景には、ソ連領を通過するユダヤ人から経済的利益や軍事情報を得ようというソ連側の狙いがあったことが、ロシアの歴史研究家らの共同研究で分かった。
 杉原は第二次大戦中にリトアニアで日本領事館領事代理を務め、ナチス・ドイツに迫害された数千人のユダヤ人が米国などに渡れるよう、日本の通過ビザを発給した。当時、日本政府は避難先の入国許可を得ていない外国人に通過ビザを発給しない方針だったが、杉原はそれに反してビザを出し続けたとされる。
 ただリトアニアから日本に向かうには、当時のソ連領を通過する必要があった。ソ連がなぜ大量の難民の通過を容認したかについては、十分な研究はされていなかった。
 この問題をめぐり当時のソ連指導部間の書簡や回想録、公文書館の資料、国営旅行会社の活動実態などに基づき共同研究を進めたロシア・ホロコースト・センターのイリヤ・アルトマン共同代表(61)は、ソ連当局がユダヤ人の自国領内の通過を承認した理由として、「経済的利益」と「海外情報網の構築」という2つの狙いがあったことを指摘する。
 第二次大戦の勃発後、外国からの観光客が途絶えたソ連にとり、ユダヤ人難民は貴重な外貨収入源とみなされた。ソ連は極東に逃れるユダヤ人をモスクワに送り、ボリショイ劇場での観劇や高級ホテルへの宿泊などをさせた後に、シベリア鉄道で極東ウラジオストクに移動させた。
 難民1人の“旅行代金”は200ドル程度だったと推定されている。当時の200ドルは巨額で、多くの難民は親類や慈善機関の支援などを受け、ようやく支払ったといわれる。
 またソ連は当時、海外情報を得るための諜報機関整備が不十分だった。そのためソ連は難民らに情報収集活動への協力を働きかけていたという。
 杉原の軍事情報収集能力をソ連が高く評価していた実態も明らかになりつつある。アルトマン氏によれば、ソ連が特に強い関心を寄せたのは、同国によるリトアニア併合(40年8月)後、杉原が赴任した独ケーニヒスベルク(現在のロシア・カリーニングラード)での活動という。
 杉原は41年5月、現地に日本領事館を開設。バルト海沿岸での独軍の移動の状況などから独ソ戦争開戦(41年6月)のタイミングをほぼ正確に推測し、モスクワの日本大使館、駐独日本大使、日本外務省に電報で伝えていたためだ。
 当時ソ連は日本の暗号を解読する技術を有し、日本側の情報はソ連側に筒抜けだった。杉原が日本などに宛てた3通の電報をめぐっては「ソ連の情報機関だけでなく、政界指導部にもおそらく知れ渡っていた」という。
 さらにソ連は、日本がモスクワから極東に鉄道輸送していた外交文書を撮影するために列車内に専用設備まで設けていたといい、ソ連当局が日本の情報を極めて重視していた実態が浮かび上がっている。
 ロシア・ホロコースト・センターは10月、モスクワで杉原の活動を顕彰する国際フォーラムを開催した。」
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 2019年3月1日 msnニュース 西日本新聞社「命のビザ」つないだ外交官 根井三郎 再検閲命令拒む 杉原千畝とともにユダヤ難民救う 生誕地の宮崎で資料展
 © 西日本新聞社 資料展会場で、「根井三郎を多くの人に知ってほしい」と話す顕彰する会の根井翼会長
 第2次世界大戦中、ナチス・ドイツに迫害されたユダヤ系難民のため杉原千畝(ちうね)(1900~86)が発給した「命のビザ」を引き継いで亡命を手助けした外交官、根井三郎(1902~92)の功績を後世に伝える取り組みが、生誕地の宮崎市佐土原町で広がっている。世界各地で難民を巡る対応が社会問題化し、国内では官僚の「忖度(そんたく)」が取り沙汰される今、自身の利益を顧みず、人道的に行動した気骨ある外交官が「命」のバトンをつないだリレーが注目されている。
 駐リトアニア領事代理だった杉原は1940年7月から9月にかけ、外務省の訓令に反して、ナチスの迫害から逃れようとしたユダヤ人に約2千通の日本通過ビザを発給。家族を含め約6千人の命を救ったとされ、国際的に知られている。
 一方、杉原の思いをつなぎ、多くの難民を救済した根井の功績は日本国内でもあまり知られていない。
 難民の大半はシベリア鉄道で移動後、日本への航路があったソ連極東・ウラジオストクへ。現地の総領事代理だった根井が41年3月に外務省と交わした電報が外交史料館に残っている。
 外務省は軍事同盟を結んでいたドイツに配慮し、杉原が発給したビザを再検閲するよう根井に命じた。だが、根井は「国際的信用から考えて面白からず」と異を唱え、ビザを持つユダヤ人難民らを敦賀港(福井県)行きの船に乗せ、ビザを持たない者には独断でビザや渡航証明書を発給した。
 上陸先の敦賀や神戸では市民が温かい手を差し伸べた。杉原、根井のバトンを継いだ神学者小辻節三(1899~1973)は国に働き掛け、行き先が決まるまで滞在を延長させた。
 根井は戦後、法務省に移り、名古屋入国管理事務所(現管理局)の所長を最後に引退。難民を助けた理由は語らぬまま90歳で他界したため、古里でも功績は知られていなかった。
 だが近年、福井県敦賀市の元職員で、杉原と小辻の研究者古江孝治さん(68)による調査をきっかけに2016年3月、宮崎市佐土原町の親族宅で根井の写真が見つかった。同年8月には同市で「根井三郎を顕彰する会」が発足。翌年には、関東在住の孫が家族とのアルバムや将棋盤などの遺品を受け継いでいることが判明。根井が長崎県立大村中を卒業後、外務省に入省していたことも分かった。
 杉原千畝記念財団理事を務める古江さんは「ユダヤ難民救済は杉原だけの力で成し得たものではなく、根井ら陰で支えた人も評価すべきだ」と語る。顕彰する会の根井翼会長(76)は「侍のような素晴らしい宮崎生まれの外交官がいたことを多くの人に知ってほしい」と話している。
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 同会は根井の家族写真など50点を集めた資料展を4日まで開催中。2日午後2時から、イスラエル政府の「ヤド・バシェム(諸国民の中の正義の人)賞」に根井を推薦している大学教授や古江さんらによる講演会がある。いずれも同市佐土原総合文化センターで。無料。同会=0985(73)1111。=2019/03/01付 西日本新聞夕刊=」
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 3月3日 msnニュース AERAdot.「イスラエル人が飛騨高山を目指す理由とは?
 飛騨高山で知られる岐阜県高山市は2016年、ヘブライ語で書かれた観光マップを作成しました。最近、外国人観光客が増えている高山市では、英語や中国語など11カ国語の観光ガイドが作られていますが、人口約800万人の小国イスラエルのための案内書をわざわざつくったのは、「イスラエル人が年間一万人も高山市に観光にくるためですよ」(同市担当者)というのが理由です。
 なぜ高山観光にくるのかは後ほど述べますが、イスラエル人が多いのは高山だけではありません。主要な観光地でも同じです。昨年4月に京都に行ったとき、三条の商店街、清水寺三年坂、哲学の道を歩いているときでさえ、ヘブライ語が聞こえてきました。団体旅行だけではなく、家族連れや若いバックパッカーイスラエル人も増えてきました。日本旅行熱は本物です。
 イスラエル人にとって日本は、遠くて不便、物価が高いと三重苦な国でした。最近の円安、イスラエルの経済力アップでかなり事情が変わりました。17年には、一人当たりのGDPで日本を追い抜いています。物価高はイスラエルも同じで、東京の物価はそう高くは感じなくなってきています。エルサレムのちょっとしたホテルなら一泊2~3万円はします。
 イスラエルは四国くらいの面積しかありません。こんな小さな国からなぜ、日本にこんなに観光にくるようになったのでしょうか。第一にはイスラエル人の「旅行好き」な国民性があるでしょう。人口800万人のうち半分の400万人が一年間で少なくとも一回は外国旅行にでかけているという統計があります。だから、休日ともなると一番大きなベン・グリオン空港はとんでもないくらいに混みあっています。空港の組合はイスラエルで最も強いのですが、もしストライキになるなら国全体はものすごい混乱になるでしょう。だからというわけではないでしょうが、この組合の要求はたいてい通ってしまいます。
 もう一つの理由はユダヤ民族しての文化と歴史的な背景です。1948年にイスラエルが建国するまで、ユダヤ民族は約2000年間にもわたり、しばしば世界中のあちこちを動いてきました。あるときは迫害から逃れ、また生活のあてを探して……。ユダヤ民族のディアスポラ(民族離散)の存在は、世界を旅するという国民性を考えるうえでは大事なことです。またイスラエル経済が世界の市場に広がっているということも忘れてはいけません。経済発展を続けるために国外で勉強し、ビジネスの好機をうかがい、外からなにかを学ぶことに国を挙げて奨励しています。ユダヤ人の頭のなかは大きな地球儀があるのかもしれません。
 最近では若い世代の海外旅行熱が高まってきています。イスラエル国民皆兵です。高校を卒業すると男子は3年、女子は2年の兵役につきます。ちなみに私は4年間、戦車部隊の士官として従軍していました。ちょっと長かったですね。最近の若い人たちは兵役期間が終わっても、すぐに大学に行きません。バックパッカーとしてアジアや南米などを数カ月間、貧乏旅行をしながら回ります。そして23~24歳くらいに大学に入学します。
 イスラエルの大学生は先進国の大学生(とくに日本)と比べると年上ですが、それだけ経験も積んでおり、成熟した考えも持っているところが違います。日本にお願いがあります。民泊禁止はなんとかならないでしょうか。日本に興味を持った大学生が研究の最後に日本に行くとホテルに泊まることが多く、日本人の生活に密着できないため日本熱が冷めてしまう学生もいます。
 日本に魅かれる理由にイスラエルのメディアは日本を好意的に紹介するせいも大きいですね。年配のイスラエル人は、茶の湯、生け花、歌舞伎など伝統的な日本文化や自然に興味を示します。イスラエルの旅行会社は日本ツアーを2週間程度で組むときは、東日本では富士山、日光、西日本は広島と厳島神社。そして京都、奈良、高野山、飛騨高山を組み入れます。イスラエル人団体旅行の特徴は、団体行動ができないこと。勝手に好きなところに行く、おしゃべりをやめない。とにかく添乗員泣かせなんです。
 イスラエル人にとっての「聖地」は、杉原千畝(ちうね)記念館です。名古屋市の北約50キロに杉原氏の生誕地岐阜県八百津(やおつ)町にあります。第2次世界大戦中に外交官、杉原氏(1900~86年)はリトアニアカウナスの領事代理を務めていたとき、ナチスの迫害から逃れようとしたユダヤ人に2139通の日本通過ビザを発給。家族らを含め約6千人の命を救い、ユダヤ人を救ったドイツの実業家の名にちなんで「日本のシンドラー」と呼ばれています。杉原記念館を訪れた観光客はそのまま足をのばして同県高山市に行っていたのですね。
 日本への旅行には最近、環境が整ってきました。イスラエル人はユダヤ教信者が多いのですが、東京、京都、神戸にユダヤ教の教会であるシナゴークができて、お祈りがしやすくなりました。またユダヤ教徒には、コーシャと呼ばれる食事規定があります。豚肉、エビ、タコ、イカなどが制限されています。イスラム教にも同じような食事規定がありますが、最近の日本では対応した料理を出すレストランも増えてきました。今年9月には、成田-テルアビブ(ベン・グリオン空港)を結ぶ直行便も開設さる予定です。これまでは、欧州各都市、アジアを経由して20時間近くかかっていましたが、これからは13時間で行けます。楽になりますね。
 国外に行くことはそんなに大事でしょうか。外に出れば、その国と人々との絆が強くなります。自分の国の文化にも敬意を払うようになるでしょう。実際、私は日本に旅行した経験で日本を研究しようと決心しました。自分の人生の大きな部分は日本という国が作っています。今、イスラエルには年間約2万人の日本人が観光にきています。この日本人についてはこれから書いていきたいと思います。
 ○Nissim Otmazgin(ニシム・オトマズキン)/国立ヘブライ大学教授、同大東アジア学科学科長。トルーマン研究所所長。1996年、東洋言語学院(東京都)にて言語文化学を学ぶ。2000年エルサレムヘブライ大にて政治学および東アジア地域学を修了。07年京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科修了、博士号を取得。同年10月、アジア地域の社会文化に関する優秀な論文に送られる第6回井植記念「アジア太平洋研究賞」を受賞。12年エルサレムヘブライ大学学長賞を受賞。研究分野は「日本政治と外交関係」「アジアにおける日本の文化外交」など。京都をこよなく愛している。
   ・   ・    ・   

✨31」─2─オトポール事件。軍国日本とポーランド・ユダヤ人難民達。上海のユダヤ系サッスーン財閥は反日強硬派。1932年 〜No.155  * 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 世界には、人種差別が普通に存在し、その中でもユダヤ人、アフリカ人そして日本人への差別が酷かった。
 中世キリスト教会は、キリスト教と白人至上主義から、アフリカ人と日本人を奴隷として売っていた。
   ・   ・   ・   
 日本には、反ユダヤ主義などの人種・民族差別はなかった。
 人種・民族差別をしないと言う事が、皇道の八紘一宇精神である。
   ・   ・   ・   
 昭和天皇は、日露戦争ユダヤ人に助けられた事を死ぬまで感謝し、その恩義に酬いるべくユダヤ人難民を助ける事を切望していた。
 日本精神では、一度受けた恩は死ぬまで忘れず、死ぬまで何度でも恩返しをする。
 その恩義は、一代で終わりではなく、子々孫々まで歴史として語り継がれていく。
   ・   ・   ・   
 東京裁判は、軍国日本の人道的貢献を一切認めず、ユダヤ人難民達をホロコーストから助けた東條英機板垣征四郎らをA級戦犯として処刑した。
   ・   ・   ・   
 昭和天皇A級戦犯は、1人でも多くのユダヤ人難民を「おもてなし」精神で助けようとした。 
   ・   ・   ・   
 反天皇反日的日本人、特に昭和天皇戦争犯罪者として戦争責任を問う日本人は、人種差別主義者であり、反ユダヤ主義者である。
 天皇制度廃絶論者も同様に、人種差別主義者であり、反ユダヤ主義者である。
   ・   ・   ・   
 ルーズベルトは、助ける事ができるユダヤ人児童2万人をヒトラーに引き渡し、ホロコーストで見殺しにした。
 アメリカはもちろんイギリスもカナダも、ナチス・ドイツから逃げて来たユダヤ人に冷淡でり、多くのユダヤ人をホロコーストに送って見殺しにした。 
 それは、バチカンローマ教皇も同じであった。
   ・   ・   ・   
 日本の外交官で、ユダヤ人救出者として「諸国民の中の正義の人」の称号を授与されているのは杉原千畝だけである。
 イスラエルの正義の人指命委員会は、称号を授与するに当たって二つの厳しい規定を設けている。
 1,当該の外交官が一人、あるいは数名、実際にはもっと多数のユダヤ人を、ビザもしくはその他の命を救う文書の発行というかたちで救出した事を示す。
 2,明解な指令に反して、あるいは明解な違反ではないものの、結果的に受けた指示の本旨に反するに等しい行動をとつた事を立証される必要がある。
      ・   ・   
 松岡洋右は、1880(明治13)年に山口県熊毛郡室積村(のち光市室積)にて、廻船問屋の四男として生まれた。
 11歳の時に、父親が事業に失敗し破産した。
 1893(明治26)年に、親戚が既に渡米して成功を収めていた事から留学のため渡米した。
 白人による激しい人種差別に苦しめられながらも、オレゴン州ポートランドカリフォルニア州オークランドなどで勉学に励み、オレゴン大学法学部に入学、1900(明治33)年に卒業した。
 勉学心旺盛で、オレゴン大学と並行して早稲田大学の法学講義録を取り寄せ勉強した。
 卒業後、アイヴィー・リーグ等の大学(あるいは大学院)に進学する事を目指して準備をしながら、様々の職種で働いていた。
 アメリカの人種差別と貧富の格差という不条理を目の当たりにしながら、負けん気の強神経から不条理と戦うように仕事をした。
 白人による、黒人やユダヤ人や有色人種への差別。
 豊かな白人による、貧しい白人への差別。
 同じ人間でありながら、人を動物・家畜の様に扱う。
 奴隷制度が廃止されたにもかかわず、自分と違う肌の色を持つ人間を奴隷のようにあしらう現実。
 周囲の人々に勧められ、キリスト教の影響を受け、関心を抱いた。
 オレゴン州ポートランドアメリカ・メソジスト監督教会牧師メリマン・ハリスと出会って「隣人愛信仰」に目覚め、日本自由メソヂスト教会の河辺貞吉から洗礼を受けた。
 メソジスト派の信者で、「キリストの十字架と復活を信じている」と公言していた。
 アメリカで「人種差別」や「貧富の格差」の被害を受けた苦しい体験から、「アメリカ人には、たとえ脅されたとしても、自分が正しい場合は道を譲ってはならない。対等の立場を欲するものは、対等の立場で望まなければならない」を信条とした。
 1902(明治35)年母親の健康状態悪化などを理由に帰国した。
 松岡は、アメリカを第二の母国と呼び、英語を第二の母語と語るほどの親米派であった。
   ・   ・   ・   
 親米派は、上流階級と接して、アメリカの素晴らしい所しか見ない視野狭窄の日本人である。
 反米派は、貧困階級を垣間見て、アメリカの嘘偽りを知った排他的な日本人であった。
 松岡洋右は、高橋是清らと同様に、アメリカの両面を見、矛盾する現実を肌で感じていた。
 そして、日本と同時にアメリカを愛していた。
 高橋是清は、誤解もあって、奴隷として売られた。
   ・   ・   ・   
 1932年 コミンテルンは、日本共産党徳田球一に、暴力的日本革命を起こし天皇とその一派を根絶やしにする大虐殺を示唆し、ピストルと活動資金を与えて帰国させた。
 日本共産党は、ソ連から活動資金を得て、日本を共産主義化する為に地下抵抗工作を活発化させた。
   ・   ・   ・   
 そして、キリスト教との上海系朝鮮人テロリストも日本・朝鮮・中国などで活動していた。
   ・   ・   ・   
 1932(昭和7)年9月 リットン調査団は、満州事変における報告書を国際連盟に提出した。
 12月8日 松岡洋右全権代表は、厳しい雰囲気のジュネーブ特別総会で、原稿なしに英語のみで「十字架上の日本」という題の大演説を1時間20分おこなった。
 「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」
 出席国の大半がキリスト教国であった為に、日本の現状を「十字架上の日本」とした事が逆効果になったといわれている。
 1933年2月24日 国際連盟は、最初から中国寄りであった為にファシスト中国側の言い分を認め、日本側の言い分を悪と否定した。
 松岡洋右全権代表は、抗議の告別演説をして退場したが、国際連盟を脱退する事には反対であった。
 昭和天皇も、日本が国際社会で孤立化する事を恐れ、国際協調の立場から国際連盟に留まる事を望んでいた。
   ・   ・   ・   
 ナチス・ドイツソ連は、軍国日本と戦うファシスト中国を軍事支援していた。
 ソ連は政治顧問団と人民義勇軍を派遣し、ナチス・ドイツは軍事顧問団を派遣していた。
 ナチス・ドイツは、反日派として中国と親密な提携関係にあった。
 コミンテルンは、日本と中国を全面戦争に突入させるべく、中国共産党日本共産党を使って煽っていた。
 日本軍は、抗日中国軍を通じてドイツ軍及ぶソ連軍と戦っていた。
 諸外国は、日中戦争ソ連軍が全面参戦する事を希望していた。
   ・   ・   ・   
 1937年8月13日 第2次上海事変。日本軍はファシスト中国軍・ドイツ軍事顧問団の連合軍と戦闘に突入した。日中全面戦争の勃発である。
 ドイツ軍需産業は、ヒトラーの許可を得てファシスト中国軍に大量の武器弾薬を売って軍事支援をおこなっていた。
 中国共産党は、ソ連コミンテルンの指示を受けて日中全面戦争を仕掛けていた。
   ・   ・   ・   
 国際世論は、最初から中国を侵略を受けている可哀相な国という見方をし、軍国日本は好戦的な凶悪な邪悪な犯罪国という烙印を押していた。
 国際正義を相手にして、如何なる事実を出し、如何なる証拠を出して、如何に真実を明らかにして弁明しようとも軍国主義国家日本には勝ち目はなかった。
 話し合って解って貰えるという事は、まず絶対にあり得ないという、絶望的な現実であった。
 ユダヤ系国際的報道機関は、軍国日本を悪し様に非難していた。
 ドイツのユダヤ人も、反日天皇派であった。
 特に、アメリカ系ユダヤ人の日本への憎悪は激しかった。
 上海のユダヤ系サッスーン財閥は、反日強硬派として、米英のユダヤ系国際金融資本の指示に従ってファシスト中国を支援していた。
 キリスト教会も、日本批判を強めていた。
 ユダヤ人に於いて、親日派は少数派で、反日派が多数派であった。
 天皇制度廃止論者も、ユダヤ人に多かった。
 ユダヤ人の多くが、天皇も、日本も、嫌いであった。
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 西田幾太郎は、1938年に京都大学で「日本文化の問題」という講演を行い、40年に同名の本を岩波新書から出版した。
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 ユダヤ人「我々ユダヤ人はアジア人。日本人もアジア人。白人至上主義のヒトラーは、我々の次に日本人を迫害するでしょう」
 ヒトラーが掲げるアーリア人ゲルマン民族主義には、アングロ・サクソン族のアメリカとイギリスは同族として受け入れていたが、大和民族日本民族)の日本は含まれてはいないどころか排除すべき下等民族とされていた。
 ナチス・ドイツにとって、表向きは日本との友好関係を求めていたが、実態は反日として対等関係を望んではいなかった。
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*オトポール事件
 1938(昭和13)年1月 関東軍参謀長の東条英機は、「現下におけるユダヤ民族施策要綱」を策定し、関東軍全部隊と憲兵隊及び特務機関に通達した。
 3月8日 ユダヤ人18名は、ナチスの迫害下から逃れ、ポーランドに受入れを拒否され、シベリア鉄道でソ満国境沿いのソ連領オトポール駅まで避難して来た。
 「満州国西部の満州里駅の対岸に位置するソ連領・オトポールに、ユダヤ人の難民が姿を現す」
 ソ連は、外国籍ユダヤ人の受け入れを拒否していた。
 ユダヤ人難民は、満州国への入国を希望した。
 満州国は、ナチス・ドイツへの配慮から、ユダヤ人難民の入国許可を渋った。
 日本政府は、満州国の外交と軍事に責任を持つが、属国ではなく、出入国は内政であるとの建前から判断を満州国に預けて静観した。
 ユダヤ人難民大は国際問題化していたが、何れの国もユダヤ人難民を引き取ろうとはしていなかった。
 ユダヤ人難民が目指していたのは、上海と日本であった。
 満州の極東ユダヤ人協会会長アブラハム・カウフマンは、ハルビン特務機関長は樋口季一郎少将に同胞の救済を訴えた。
 樋口少将は、ユダヤ人難民に対し、部下に命じて給食と衣類・燃料の配給を手配し、満州国外交部に対し入国・出国の許可を要請し、満州鉄道に対して上海租界への移動の斡旋を依頼した。
 満州国外交部ハルピン駐在員の下村信貞は、樋口と協議した。
 満州鉄道総裁の松岡洋右は、ユダヤ人難民救出の特別列車を出す事を即決して、部下に手配を命じた。
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 松岡洋右ヒトラー如きなり上がり者が皇国に指図するなど永遠にありえない」
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 3月12日 松岡洋右「自分はユダヤ人に助けられた事がある」
 満州国は、定住しない事を条件として「5日間の満州国滞在ビザ」を発給し入国通過を許可した。
 日本軍兵士は、彼等を松岡洋右総裁が差し向けた特別列車に乗車させた。
 ユダヤ人難民は、特別列車でハルビン駅に到着した。
 満鉄職員は、ユダヤ人難民を温かく迎えた。
 アブラハム・カウフマンらは、ユダヤ人難民達を地元の商工クラブや学校に収容しで炊き出しをおこなった。
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 ヨアヒム・フォン・リッベントロップ外務大臣は、オイゲン・オット駐日ドイツ大使を通じて、すぐさま抗議した。
 東京の外務省は、問題は軍部にあるとして、ドイツからの抗議書を関東軍司令部に転送した。
 関東軍司令部では、対ソ戦略から防共協定を結んだナチス・ドイツから講義を受けて、即時入国を差し止めるべきとの声が上がった。
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 関東軍参謀長東條英機中将は、事情を聞く為に樋口季一郎少将を司令部に呼びつけた。
 樋口季一郎「小官は小官のとった行為を決して間違ったものではないと信じるものです。満州国は日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもないはずである。法治国家として、当然とるべきことをしたにすぎない。たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない」
「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることは正しいと思われますか?」
 東條英機は、天皇の御稜威から、ユダヤ人難民を助けた樋口の主張を受け入れ処分せず擁護した。
 樋口季一郎は、東条英機は筋さえ通れば話のわかる人だったと回想している。
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 日本は、ナチス・ドイツへの配慮から表だって口外しなかった。
 だが、A級戦犯東條英機松岡洋右ユダヤ人難民を助けたのは、紛れもない事実である。
 軍国日本は、親ユダヤであって、反ユダヤではなかった。
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 国際報道機関も、各国の反ユダヤ人感情から取り上げる事はなかった。
 如何に人道主義といっても、ユダヤ人難民の悲惨な身の上を気に病む国家や個人は皆無に近かった。
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 ユダヤ人難民は、樋口・東条・松岡らの脱出ルートを利用して1941年6月までに2万人以上が日本や上海に無事に辿り着いた。
 上海は、A級戦犯松井石根の影響が強かった。
 ニューヨークの合同配置委員会は、軍国日本の協力を得てユダヤ人難民達に支援金を送っていた。 
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 東条内閣・賀屋興宣蔵相(A級戦犯)は、日米全面戦争開戦によってニューヨークの合同配給委員会から送金が途絶えて生活苦に陥った上海のユダヤ人難民を救うべく、蔵相の権限でニューヨークからの送金を可能にした。
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 それは、東條英機松岡洋右満州で責任ある地位にいたからできた奇跡である。
 後に。A級戦犯板垣征四郎広田弘毅らもユダヤ人難民救済に協力した。
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 憲兵隊と特務機関は、縄張り争いをしながらユダヤ人難民を上海や日本に送り届けた。
 神戸など日本の都市は、ユダヤ人難民を暖かく迎え、苦難の疲れがとれるように日本的に持てなした。
 日本には、「和」による独自の「持てなし」方があった。
 日本国民は、ユダヤ人難民を助けた。
 日本の警察は、ユダヤ人難民に法外な値段でモノを売る不心得者を厳しく監視した。
 後日。ユダヤ人難民を助けたという日本の実績を抹消するかの様に、神戸などの都市や日本国民は無差別縦断爆撃で生きたまま焼き殺された。
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 昭和天皇と軍部は、ユダヤ人を利用する為に、ユダヤ人難民を助けた。
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 ユダヤ人難民に関わった日本人の多くは、戦犯容疑で逮捕され有罪となって処分された。
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 夏 フランスのエビアンユダヤ人救済の国際会議が開催された。
 総論でユダヤ人救済には賛成したが、各論として全ての国はユダヤ人を引き取る国はなかった。
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 12月 近衛文麿首相、板垣征四郎陸相らは五相会議を開いて、国策としての「ユダヤ人対策要綱」を決定した。
 軍国日本は、国家の責任として、正規の手続きを経ていないユダヤ人難民は不法入国者として入国を拒否するが、正規の手続きを終えたユダヤ人難民は入国を許す事にした。
 軍国日本の差別なき人権主義とは、国家・政府として国際法を厳格に実行する事であって、個人的な私情で普遍的な法の原則を恣意的に破り行動する事ではなかった。
 軍国日本は、憲法国際法を遵守する法治国家であって人治国家ではなかった。
 ユダヤ人対策要綱は、杉原千畝が直面してた正規な出国手続きを得ていないユダヤ人難民達と対面した1940年7月当時の混乱を想定していなかった。
 軍国日本は、同盟国ナチス・ドイツに従ってユダヤ人難民の受け入れを拒絶したわけではなかった。
 国際法に照らした入国取締規則の条件を満たしていない避難民は、如何なる理由があろうとも常識に考えれば無届け出国者であり不法入国者である。
 つまり、条件を満たしていない避難民を、主権国家は拒絶する権利がある。
 ユダヤ人難民の受け入れを無条件でなかった事で、日本人は薄情で、ヒトラーと同罪とされた。
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 アメリカ・イギリス・ドイツ・フランスなどの国際的ユダヤ系財閥は、反日派としてファシスト中国(中国国民党)をヒト・モノ・カネで全面支援していた。
 ハインツ・E・マウル「当時、ビクター・サッスーンは日本にとって上海のユダヤ財閥の代表格であったが、日本の計画(フグ計画)には関心がなく、それどころか1939年2月のアメリカ旅行の際に反日発言を繰り返した。日本の中国大陸での冒険を終わらせるために、米英仏は日本を事実上ボイコットせよというのである。日本の陸戦隊本部は、サッスーンは自分の権力と影響力を失いたくないので日本軍を恐れているのだと見ていた。」
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 1939年 松岡洋右満鉄総裁は、国際情勢の急激な変化に即応して満州経営を行う為に、調査部を拡充して大調査部に再編した。
 当時、日本最大の調査・政策研究機関であった。
 部員数、2,125人。予算、800万円(現在の価格で約43億円)。
 共産主義弾圧から逃れた左翼から国粋主義者軍国主義者の右翼まで、有能な者を調査部に加えた。
 満鉄調査部は、1940年に極秘資料「支那戦力調査」をまとめ、軍部の行っている都市攻撃占領という重点戦略では日中戦争を解決でず、解決するのは軍事ではなく政治であるとの結論を出した。
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 満州国に入国したユダヤ人難民は、1938年に245人、1939年に551人、1940年に3,574人。
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 軍部は、ユダヤ人難民を利用する為に「ふぐ作戦」を立案した。
 軍人の樋口季一郎東条英機、外交官の松岡洋右らは、軽薄な人道主義者ではなく冷徹な現実主義者として、国益の為にユダヤ人難民を助けたに過ぎない。
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 松岡洋右は、ソ連同様にドイツを嫌い、スターリン同様にヒトラーを信用していなかった。
 「ドイツほど信用できない国はない。自国の利益の為なら平気で他国を犠牲にして裏切り、迷惑をかけることなど屁とも思っていない。その外交姿勢は徹頭徹尾利己的であり、ドイツと関わった国の外交は例外なく混乱を余儀なくされる」
 アメリカ連携論者である松岳洋右は、アメリカとの戦争を回避する為に、意に反した正反対の極論を吐くことも厭わなかった。その為に誤解され、嫌われ、多くの敵を作った。
 「アメリカとだけは戦ってはならない。アメリカと戦えば日本は100%負ける。
 昭和天皇三国同盟を成立させる事に不同意であっても、軍部や右翼・右派やマスコミそして国民世論が三国同盟成立を望んでいた。
 松岡洋右外相は、国内の三国同盟待望論圧力は変えられないとして、ナチス・ドイツの戦争に主体性を失って引き摺られないように予防線を張る事に、交渉方針を切り替えた。
 参戦に関する「自己決定権」を保持する事。
 日本が戦争に捲き込まれる恐れがあると判断した時は、自主判断で同盟から脱退する自由を認めさせる事。
1,同盟を攻守同盟ではなく防御同盟にする。
2,第三国からの攻撃の意義をきわめて狭く解釈する事について、ドイツの了解を取り付けた。
3,攻撃の有無、及び同盟援助の時期、及び方法の決定権を、当該国独自の判断に判断にまかせる。
4,同盟が日本を戦争に引き込まれる恐れがあると認めたとき、日本は同盟を脱退する事ができる、という事についてドイツの了解を取り付ける。
 松岡洋右外相は、ヒッラー、ナチス・ドイツアメリカは雌雄を決する為に戦争をするであろうし、その時、日本はその戦争に捲き込まれてはならないと考えていた。
 アメリカの厭戦気分を強く持つ国民世論を味方にするべく、多民族国家という特性を利用するべくユダヤ系、アイルランド系、アフリカ系との協力関係を築くよう駐米外交官に命じていた。
 アイルランド系は反イギリスとして、アフリカ系は反白人として、日本との友好関係を受け入れた。
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 ソ連コミンテルンは、日米全面戦争を起こす為に、中国共産党や日本人共産主義者を総動員していた。
 ルーズベルト政権内部には数百人の共産主義者が、日本との戦争勃発の為に活動していた。
 反天皇反日ユダヤ人達は、彼らを支援していた。
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 アジアに逃げてきたユダヤ人難民を助けたのは、軍国日本であってファシスト中国=国民党でもなければ、ましてや中国共産党などではなかあった。
 中国共産党は、今も昔も虐殺を行う無法集団であった。
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 A級戦犯とは、「戦争を始めた罪」であって、「捕虜虐待の罪」でもなければ、「民間人虐殺の罪」でもない。
 平和に対する罪であって、人道に対する罪ではない。
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 戦争犯罪国家日本は、連合軍の軍事占領から独立する条件としてサンフランシスコ講和条約東京裁判を正当裁判であったと受け入れた。
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 世界の常識は、ユダヤ人難民をホロコーストから助けたA級戦犯達の人道的貢献を認めないどころか、靖国神社に合祀する事さい。
 A級戦犯達には、国家の指導者として戦争を始めた「平和に対する罪」はあっても、人としてホロコーストを行った「人道に対する罪」はない。
 A級戦犯東條英機は、東洋のヒトラーではない。
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 A級戦犯達は、戦争で敵兵と殺し合いをしても、戦場以外では人として人道的道徳的であろうとした。
 ユダヤ人難民を助けたのは、人として当然の事であり、当然の行為であったから自慢をしなかったし、人道貢献を主張して東京裁判で助かろうとはしなかった。
 それが、靖国神社の心であった。
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 中国や朝鮮では、一つの恩義は一度恩返しをすればよく、日本の様に何度も恩返しはしない。
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 日本の善意は、世界では通用しないし、評価されない。
 それどころか、憎まれて処刑される。
 日本の相手を思って行う配慮や善意は、するだけ無駄である。
 日本人が善かれと思って行った行為は、正しく評価される事なく完全否定された。
 日本人は、無償で、無報酬で、心一つで、何をやっても報われる事はなかった。
 それでも、その手を止める事は日本人としてできなかった。
 「惻隠の情」
 「やむにやまれぬ大和心」
 日本民族的日本人は、弱い者イジメは「男の恥」として嫌い、喧嘩する時は必ず自分より強い相手と喧嘩した。
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 現代日本人は、ユダヤ人難民を助けたA級戦犯東條英機と共に松岡洋右を嫌っている。
 アメリカと中国と韓国・北朝鮮は、靖国神社A級戦犯東條英機松岡洋右を神として祀る事に猛反対し、靖国神社問題を解決したければユダヤ人難民を助けたA級戦犯達の霊魂を捨て去るように要求している。
 靖国神社廃絶要求に同調する日本人が、多数存在する。
 靖国神社問題とは、反ユダヤ主義に基づいた人種差別問題でもある。
 靖国神社を否定する者達は、反ユダヤの人種差別主義者として、この事を十分理解して反対している。
 A級戦犯達は、昭和天皇の気持ちを察してユダヤ人難民を助けた。
 昭和天皇戦争犯罪者として責任を追及する者も、また、反ユダヤ主義である。
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 セントルイス号事件。
 2016年4月23日 YAHOO!ニュース「(佐藤仁 | 学術研究員/ジャーナリスト)
 米国ホロコースト記念博物館:1930年〜40年代の米国の新聞記事を収集:新聞紙の読み方の指導も
 米国ワシントンD.C.にあるホロコースト記念博物館では、全米の学生や先生らに対して「Citizen History Project(市民の歴史プロジェクト)」の一環として、1930年代〜40年代に欧州でのナチスドイツによって実行されたユダヤ人やロマの大量虐殺であるホロコーストに関する記事を集めている。
 全米の学生、先生から当時のアメリカ国内の新聞記事を収集
 1993年にオープンした米国ホロコースト記念博物館は2018年に開設25周年を迎えるが、それに向けて「History Unfolded: U.S. Newspapers and the Holocaust」を立ち上げて、当時のアメリカの新聞がどのようにホロコーストを伝えていたかを確認するために、当時の新聞記事の収集を全米の学生や先生らに呼び掛けて、ネットで収集活動を行っている。既に48州から1,000以上のアメリカ国内の新聞記事が集まっている。全米から集まった記事はテーマや事件などで分類されてネットでも公開されている。ホロコーストの生存者もだんだん少なくなっていき、ホロコーストが歴史から忘れ去られないように、当時のアメリカの新聞記事を収集することによって、歴史のアーカイブとして残そうとしている。
 新聞記事の読み方を知らない現在の若者に「新聞記事の読み方の指導」も
 ホロコーストが猛威を振るった1930年代〜40年代は、当然インターネットもスマホも存在していない。そのため新聞は紙の記事だ。いわゆる新聞紙だ。ところが、現在の学生はスマホでネット経由でのニュースかテレビのニュースにしか触れていないことから、新聞紙の記事の読み方を知らないそうだ。そのためホロコースト記念博物館のDavid Klevan氏は「"How to Read Old Newspapers from the 1930s and 1940s"」(「1930年代〜40年代の古い新聞記事の読み方」)というページを用意して、紙の新聞紙の記事の読み方やスキャンのやり方の解説を行っている。
 ユダヤ人救出には消極的だったアメリ
 当時のアメリカにはユダヤの難民の受け入れを歓迎しない空気が強く支配しており、大統領らもホロコーストの存在を知っていたが、犠牲者となっているユダヤ難民の受け入れには消極的だった。当時のアメリカは失業問題、ナショナリズム孤立主義を主張するアメリカ第一主義)、根強い反ユダヤ主義などがあり、こうした要因が、アメリカ国内でユダヤ人難民の入国禁止を強く働き掛ける素地を生み出していた。そしてルーズベルト大統領はホロコーストの事実は情報として伝わっていても、国際問題化していなかった。
 1939年5月にはドイツ系ユダヤ人難民900人以上で満員のセントルイス号をアメリカへの入国を許可しないで、ホロコーストの待っている欧州に追い返したことだった。結局ヨーロッパに戻ったセントルイス号のユダヤ人たちはフランス、オランダ、ベルギー、イギリスに引き取られた。しかし1940年以降ガス室への道を免れることができたのはイギリスに引き取られたユダヤ人(約280人)だけだった。
 またアメリカ国内の反ユダヤ主義は1938年から1945年にかけて最高潮に達した。世論調査によれば1930年代末には、アメリカ人の60%がユダヤ人には「不快なところがある」と感じ、50%近くが「ユダヤ人はアメリカで権力を持ちすぎている」と考えていたそうだ。そして20%が反ユダヤ主義のキャンペーンに共鳴すると答えていたそうだ。これらの事実もまた市民の歴史のアーカイブの1つである。
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 2017年1月29日 YAHOO!ニュース「(佐藤仁 | 学術研究員/ジャーナリスト)
 ホロコーストの悲劇、米国に入国拒否された「セントルイス号」乗客のユダヤ人の運命を辿ったツイート
 ナチスドイツによる600万人以上のユダヤ人やロマらを大量虐殺したホロコーストの象徴であるアウシュビッツ絶滅収容所が解放されたのが1945年1月27日。そして1月27日は「国際ホロコースト記念日」だ。
 セントルイス号乗客の運命をツイート
 2017年1月、アウシュビッツ解放72年を記念してユダヤ人の教育家Russel Neiss氏がセントルイス号の乗客らのためにTwitterのアカウントを作った。セントルイス号は、当時のドイツとアメリカを結ぶ船で、この船に乗って欧州から約900人のユダヤ人がアメリカに逃れようとしたが、入国を拒否されて、結局セントルイス号は欧州に戻らざるを得ず、多くのユダヤ人がナチスによって迫害され、そのほとんどが殺害された(詳細は下部参照)。
 Twitterのアカウントも「St. Louis Manifest」で日本語に訳すと「セントルイス号の乗客名簿」だ。このアカウントではセントルイス号の乗客でナチスドイツの犠牲になったユダヤ人たちの運命をあたかも本人がツイートしているかのように辿っている。当時は当然Twitterもインターネットもなかった。セントルイス号の乗客でナチスの犠牲となったユダヤ人たちの運命が72年経って、Twitterで全世界に公開されている。犠牲者たちの写真も多く残っており、以下のような悲劇的なツイートが約250人分掲載されている。
 「私の名前はヴェルナー・シュタイン。1939年にアメリカへの入国を拒否されました。そしてアウシュビッツで殺害されました。(My name is Werner Stein. The US turned me away at the border in 1939. I was murdered in Auschwitz)」というように、犠牲者の名前とその後の運命を辿るツイートが続いている。犠牲者の写真が残っている場合は写真もある。モノクロやセピアの写真は家族や友人らと一緒に平和な時期に撮影されたものばかりだ。犠牲者の中には小さな子供も多く、ナチスに迫害されていなかったら、まだ存命だった人も多いだろう。
 セントルイス号乗客の運命
 1939年5月に欧州からのユダヤ人で満員のセントルイス号を追い返したように、アメリカにはナチス支配地域からのユダヤ人難民を歓迎する空気はなかった。どこの国もユダヤ人を受け入れようとしなかったため、セントルイス号はヨーロッパに戻り、ユダヤ人たちはフランス、オランダ、ベルギー、英国に引き取られた。そして1940年以降に大量虐殺を免れることができたのは英国に引き取られたユダヤ人だけだった。下記に『ホロコースト全史』(マイケル・ベーレンバウム著、芝健介監修)にその様子が描写されているので、長文だが抜粋し引用しておく。
 セントルイス号は、ハンブルグアメリカを結ぶ豪華船だった。1939年5月13日、セントルイス号は936名の乗客を乗せて、ドイツからキューバに向かった。6人を除いて乗客の全員がユダヤ人だった。「水晶の夜」以来、何十万人ものユダヤ人がドイツを出国する方法を探している中で、彼らは幸運だと羨ましがれ、数日のうちに自由の地を踏めるものと思われた。
 ハバナ入港が間近になると、乗客たちの多くはドイツにいる親戚たちに「無事についた」という電報を打った。だが5月27日にセントルイス号が港に入ると、キューバ政府はビザ発行を拒否した。船がドイツを出航する前日、キューバ大統領は、乗客のキューバ上陸許可を取り消していたのである。この事実は船会社には伝えられていたが、セントルイス号の船長の耳にまでは入っていなかった。
 入国するには乗客1名につき500ドルの分担金が要求された。しかし船がハバナ港に接岸すると、分担金の総額は100万ドルに跳ね上がった。海外のユダヤ人の救援と社会復帰を助けることを目的としたユダヤ人組織、アメリカ・ユダヤ人合同配置委員会はジレンマに陥った。900人のユダヤ人のためにそれほど莫大な身代金を払うという前例を作れば、他国の政府も同程度かそれ以上の現金を要求してくる恐れがあったからである。ユダヤ人と非ユダヤ人の双方から要求をのむようにという圧力がかかる中で、合同配置委員会は交渉を続け、新聞、ラジオは乗客の運命を連日のように報道した。
 緊急の誓願アメリ国務省に提出されたが、国務省は干渉しないことを決めた。乗客たちはルーズベルト大統領に電報を打ったが、返答はなく、ホワイトハウスも難民問題について沈黙を守った。ニューヨークでは合同配置委員会がコロンビア、チリ、パラグアイ、アルゼンチンから思わしくない返答を受け取っていた。
 6月5日、24時間以内に453,000ドルを支払えばキューバに難民を上陸させるという申し出もあった。だが合同配置委員会は24時間以内にそれだけの金額は用意できなかった。結局セントルイス号はハバナを去り、ドイツ人船長グスタフ・シュレーダーは合衆国に対して寄港を要請したが、努力は徒労に終わった。船はマイアミの明かりを見ながら、フロリダの海岸沿いを航行した。
 そして合衆国海岸警備隊が海に飛び込んで密入国する者が出ないかと監視する中、セントルイス号はヨーロッパに戻った。船内では自殺者が出ることを防ぐためにパトロールが行われていた。その後、セントルイス号の悲劇は一転して幸福な結末を迎えたかに見えた。ベルギー、オランダ、イギリス、フランスが乗客を受け入れたのである。だがその数か月後、ナチは西ヨーロッパの諸国を占領した。このためセントルイス号の乗客のうちホロコーストを免れたのはイギリスに上陸した288名だけであり、その他の乗客で終戦まで生き延びた人はほとんどいなかった。
 出典:マイケル・ベーレンバウム著、芝健介監修『ホロコースト全史』創元社、1996年 PP123-126」
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 2月7日 YAHOO!ニュース「(佐藤仁 | 学術研究員/ジャーナリスト)
 米国ホロコースト博物館、SNSで「#AskWhy」キャンペーン「なぜ起きたのか?問い続ける」
SNSを活用して「なぜホロコーストが起きたのか?を問うことをやめない」
 第2次大戦時にナチスドイツによって、ユダヤ人やロマ、政治犯など約600万人が殺害された。いわゆるホロコーストだ。1993年に創設された米国のホロコースト記念博物館は今年で25年目を迎える。創設に尽力したホロコーストの生存者で、1986年にノーベル平和賞を受賞したエリ・ヴィーゼル氏は「ホロコースト記念博物館は答えを見つけるためにあるのではない。問いを行うためにあるのだ」と語っていた。
 同博物館でディレクターを務めるSara Bloomfield氏は、博物館開設25周年を記念してSNSを活用したデジタルキャンペーン「"Never Stop Asking Why"(なぜホロコーストが起きたのか?を問うことをやめない)」を開始したことを明らかにした。
 目的は若い世代にSNSを通じてホロコーストの歴史を学んでもらうため。「どうしてホロコーストが起きたのか?どうしてそのようなことが可能になったのか?現代社会に問うべきことは何か?」といったことを学んでもらいたいとSara Bloomfield氏は述べている。米国のホロコースト記念博物館では自身のサイトだけでなく、FacebookTwitter、インスタグラム、YouTubeGoogle+PinterestとあらゆるSNSで情報発信を行っている。
「考えられないようなことが、いつでも起こりうる」
 そしてSara Bloomfield氏は「SNSで『#AskWhy』を付与して、ホロコーストの歴史について疑問に思っていることを呟いて欲しい」と呼びかけている。SNSでつぶやくことによって、その疑問を友人や知人と共有したり、世界に向けて情報発信することができる。
 また同氏は「博物館のミッションは『考えられないようなことが、いつでも起こりうる』ということを人々に思い出させることだ。人々は社会での自分自身の役割を考えることによって、将来は過去よりも良いものを作ることができる」と述べている。
ホロコーストがなぜ起こったのか?」その問いかけもSNSで発信してもらおうとしている。ホロコーストの生存者は年々減少し、証言できる人の高齢化も進んでおり、直接話を聞けることもなくなってきつつある。
 SNS以外にも、ホロコーストの記憶の継承に様々なデジタルの活用も進んでいる。当時の資料や証言者の記録のデジタルでの保存、人工知能(AI)やホログラフィー技術などデジタルを活用して、ホロコースト生存者らの声を後世に語り継ごうとしている。
 ▼米国のホロコースト記念博物館では動画でも「なぜホロコーストが起きたのか?を問い続ける」ことを訴えている(米国のホロコースト記念博物館)
 エリ・ヴィーゼルホロコーストの記憶について以下のように語っている。
 「覚えておいてほしい。人命を救うのは難しいことではなかった。見捨てられた子供に情けをかけるのに、雄々しくなる必要も夢中になる必要もなかった。ただドアを開けるだけ、パン一つ、シャツ一枚、硬貨一枚、投げてやるだけでよかった。同情するだけだ。あるいはアメリ国務省がビザを増やしてくれるだけでもよかっただろう。当時は人間らしい気持を持ち続けるだけで、もっと崇高な人間になれたのだ。
 ホロコーストを可能にしたのは、人類を敵対するグループに分けようとした時の努力が成功したためである。高齢者と若者、金持ちと貧乏人、同国人と外国人、友人同氏、そして全ての人がユダヤ人と、敵対するように仕向けられた。だからホロコーストの記憶は、全人類が一致させるためのものでなければならない。
ホロコーストの意味を学ぼうとするものが、それによって分裂するなら、我々はその呪いの重みを背負い続けなければならない。だが、もし分裂を退け、ユダヤ人だけが経験した悲劇ではあったが、普遍的意味合いがあることに気付くなら、我々の子供たちには約束された安息の地、安住の地があることを、その記憶の中に見出すだろう」
 出典:キャロル・リトナー、サンドラ・マイヤーズ編・倉野雅子訳『思いやる勇気―ユダヤ人をホロコーストから救った人びと』サイマル出版会、1997年 PP221-222」
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 11月9日 第45号 バンクーバー新報「太平洋を渡った杉原ヒ゛サ゛
 連載22 ユダヤ系避難民に閉ざされたドア 冷たかったカナダ政府の対応
 1940年・41年、日本に着いた杉原ビザ受給者にとって、最終目的地へのビザ入手は至難であった。カナダも厳しく門戸を閉ざしていた。
 ■避難民のための会議出席を渋ったカナダ
 第二次世界大戦をはさむ1930年代から40年代中頃までのカナダ政府のユダヤ系避難民への対応は、先住民への差別・虐待や、真珠湾攻撃直後からの日系カナダ人への排斥などと並び、カナダの歴史上、暗い影の部分である。この期間の連邦政府排他主義は、二つの国際的な出来事を通して象徴される。一つは「エビアン会議」。
 1930年代、ナチスドイツの台頭に伴いユダヤ系避難民が増加。38年3月、米国は避難民の受け入れに関する国際会議の開催を世界に呼びかけた。避難民受け入れに気が進まないカナダ政府は参加表明を引き延ばす。4月下旬、ようやく代表団派遣を決定。「発言は最小限に。いかなる約束も責任も引き受けないように」と申し合わされた。
 同年7月、フランスの避暑地エビアンで開催された会議では、参加した32カ国の大半が、カナダ同様、避難民の受け入れを増やさないとの言い訳に終始した。
 ■上陸懇願を拒否
 カナダがユダヤ系避難民の窮状に冷淡であったことは、「セントルイス号事件」での無干渉でも説明される。
 1939年5月、937人を乗せたドイツ客船セントルイス号は、ハンブルクからキューバに向かう。乗船客の大半がナチスドイツの迫害から逃れようとするユダヤ人で、キューバ上陸許可証を持っていた。しかし、船がハバナ港に到着するまでに同国政府はその許可証を無効とし、船の入港を拒否。数日後、30人ほどは上陸できたが、900人以上は乗船したまま、やむ無く米国へ向かった。だが米国も入港拒否。ユダヤ人を乗せた船はヨーロッパに引き返すことを余儀なくされた。そのうちの多くの者が、数カ月後、ナチスドイツにより捕らわれ、強制収容所で露と消えた。
 セントルイス号の船長は、キューバや米国に入港を拒否された時、南北アメリカの他の国々にユダヤ人乗船客の受け入れを懇願した。しかし応じる国はなかった。カナダもその一つだった。国内から救援の声も上がったが、マッケンジー・キング首相は、断固として無視するようにという政府高官からの助言もあり、沈黙を保った。
 ■カナダ移民法での避難民受け入れ
 カナダの移民法の最初の制定は1869年。以来、人口や経済の動向を見ながら、修正と変更が繰り返された。移民入国者数は、1913年の40万人がピークで、翌14年からの第一次世界大戦、その後の世界恐慌の影響で低調が続く。
 カナダ統計局によると1931年から39年までの移民入国者数は約14万7千。そのうちユダヤ系は約5千と関連文献で報告されている。全体の3パーセントほどでしかない。カナダ国内での反ユダヤ感情や、当時はまだ避難民受け入れ方針がカナダにはなく、財産を剥奪されたユダヤ系避難民が一般移民と同様の条件下で審査されたことなどが背景にある。
 第二次世界大戦中の1941・42・43年の移民入国数はそれぞれ1万人にも満たず、その中でユダヤ系避難民の入国はさらに難しかった。この間、ヨーロッパではホロコーストが進行。ユダヤ人受け入れの人道的な対応が一番欲しい時期であった。
 日本では、1940年秋から41年春、ポーランドユダヤ人を主とする杉原ビザ受給者の多くが、最終目的地からのビザを得ようと東京、横浜、神戸の各国公館を訪ね回っていた。
 一方、英国にあったポーランド亡命政府、日本とカナダのポーランド大使館は、カナダ政府にもポーランドユダヤ人の受け入れを切々と訴える。だがカナダ側では、ポルトガルに追い込まれたユダヤ系避難民の受け入れ問題も持ち上がり、数や対象者の選考を巡って状況は紆余曲折。キング内閣の対応は冷たかった。
 当時、あるジャーナリストが政府高官に、戦後のユダヤ系避難民の受け入れ数を尋ねたところ、「None」(無し)、取り繕うように「is too many」 (多数は)と返ってきた。受け入れが念頭になかったことがうかがえる。
 ■カナダ入国への道
 日本に滞在した杉原ビザ受給者でカナダ入国を果たした人々は、カナダの「戦中のみ有効」というビザを次のような立場で取得した。
・農業従事者として。
・カナダに住む親戚や友人を保証人として。
・避難民受け入れ数1000の枠で。
・専門家向けの特別枠で。
・英国軍ポーランド人部隊に志願し、カナダで軍事訓練を受けるため。
 ビザ受給者は数年後、それぞれカナダ永住ビザを取得した。その中の一組、ナテック・ブルマンと妻ゾシア(当連載1回)の長男でブリティッシュ・コロンビア大学名誉教授のジョージ・ブルマンさんはこう語る。
 「生物工学を勉強した父は、東京のカナダ公館で専門家25人を対象とする入国ビザを得ました」。だが、当初それはナテック一人分だった。翌日、ゾシアは自ら同館に出向き館員を説得。夫婦でのカナダ渡航がかなった。
 「両親はカナダが二人分の入国ビザを発給してくれたことにとても感謝していました」とブルマンさん。
 1945年に戦争が終了しても、カナダの排他的移民政策はしばらく続いた。人口増と労働力増強の必要を迫られ、キング首相が移民制限緩和の声明を読み上げたのは1947年5月であった。
 ●参考文献
? Irving Abella and Harold Troper, None Is Too ManyーCanada and the Jews of Europe 1933-1948, University of Toronto Press, 2012.
? Claude Belanger, Why did Canada Refuse to Admit Jewish Refugees in the 1930's?, The Quebec History Encyclopedia, Marianopolis College, 2006. fculty. marianopolis.edu/c.belanger/quebechistory/readings/CanadaandJewishRefugeesinthe1930s.html
? ヴァレリー・ノールズ著、細川道久訳、『カナダ移民史 多民族社会の形成』、明石書店、2014年。(取材 高橋 文)」
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ユダヤの日本占領計画

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日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか―ナチス時代のハルビン・神戸・上海

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[新版]ユダヤは日本に何をしたか -我が愛する子や孫へ語り継ぎたい-

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ユダヤ製国家日本―日本・ユダヤ封印の近現代史

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日本とシオンの民 戦前編

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✨31」─1─アメリカのCPIとキリスト教会が日本を戦争へと追い詰めた。 〜No.154   *  

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 日本を滅ぼそうとしたというソ連コミンテルン陰謀あるいはユダヤ陰謀は存在しなかった。
   ・   ・   ・   
 2018年12月号 WiLL「パックス・チャイナの夢は風前の灯 高山正之河添恵子
 ……
 排華法が再び?
 高山 アメリカに浸透した中国だけど、ここにきて米中貿易戦争も始まり、孔子学院をはじめとして追い立てられようとしている。
 河添 孔子学院を受け入れている大学への国防総省基金を制限する、との文言が入った国防権限法が、7月に可決されました。さらに、孔子学院の教授らのビザ更新をしない方向に舵を切っているようです。いかなる目的で、孔子学院が大学に拡散されていったのか。一つは世界のエリートを中心に、中国共産党シンパにすること。さらにFBI長官は2月、『米政府関連の情報までも違法に入手するスパイ活動にかかわっている疑惑がある』ことを公にしました。
 もう一つが、南京大虐殺慰安婦などのフェイク・ヒストリーを垂れ流し、日本を残虐非道な国・民族だと植えつけ、世界から孤立させることです。こういった工作の胴元は、現政権で序列五位に昇格した王滬寧(おうこねい)だと見ています。
 トランプ政権は、21世紀の赤狩りを始めています。その対象がソ連コミンテルンではなく、中国共産党工作員になりました。在米中国人を百数十年前と同様に排斥する流れになっている、というか。
 高山 1882年に制定された中国人排斥法(排華法)だね。
 河添 排華法で在米中国人が虐げられた、謝れと、カリフォルニア州で中国系の州議会議員が提出した『中国人排斥に対する謝罪決議案』は、2009年、全会一致で可決しました。アーノルド・シュワルツェネッガー知事が署名し、民族差別・迫害に対する遺憾の意を表明しています。で、中国系移民、そしてニューカマーが勢いづいちゃった。
 アイリス・チャンの悲劇
 高山 リンカーンが黒人奴隷の廃止を決めた後、黒人が激増して問題になった。でも、奴隷は欲しい。で、増えない奴隷として中国人労働者である苦力(クーリー)を入れ始めた。アメリカ横断鉄道の工事は、苦力に負うところが大きかった。横断鉄道の工事が終わって苦力が余ると、みんな殺していった。アメリカの闇は深いね。
 反日の中国人グループから資料を提供され、『ザ・レイプ・オブ・南京』でヒットを出したアイリス・チャンは、次に自力で1870年代の苦力貿易から、そのあとの殺処分までを書き上げた。そうしたら、あれほど南京大虐殺では褒めてくれた『ニューヨーク・タイムズ』以下が、アメリカの暗部を暴くなどとんでもないとむちゃくちゃに酷評した。
 落ち込む彼女にアメリカはまた褒めてやるからと次の作品に、アメリカ人捕虜が日本軍にひどい目にあわされたバターン死の行進を書けと指示してきた。で、調査を始めたら、歩いた距離はほんの100キロほど。それも数日かけて。おまけに途中でコーヒーブレークはある、海水浴も楽しんでいる。書かされる内容と事実がまるで違っていた。
 本人は悩んでいたそうだ。苦力の実態のときのように本当のことを書いたら、袋叩きにあう。今度もまたウソを書けというのかと。『アイリス・チャンには支那人には珍しく良心があった』とコラムで書いたことがる。最後は拳銃自殺したと報じられている。
 河添 他殺の疑いもありますよね。苦力の歴史を突き詰めると、アヘン利権を共有していた世界の大富豪たち、アメリカ大統領の一族を含めてヤバイことになりますからね。過酷な労働を強いられた苦力たちは、疲労を感じないようにするためアヘンに依存していました。
 高山 結局、苦力は生き残り、サンフランシスコやニューヨークには巨大な組織ができた。排華法で追い出しにかかったものの、そのうち状況が変わってきた。日本が日清戦争日露戦争で勝利を収め、せらには中国の留学生を受け入れて、日中がお互いに手を握りそうな気配が出てきた。
 日清戦争で敗戦の責任を取って毒をあおって死んだ丁汝昌(ていじょしょう)は、かねて『日中は手を携えて〝欧鯨米虎〟に立ち向かおう』と言っていた。
 セオドア・ルーズベルトは日中が接近する様子を真剣に受け止め、日本を倒すためにあれほど嫌った中国を使う気になった。それが日露戦争のあとにつくった清華課堂(のちの清華大学)だった。
 排華法の時代から30年も経たないうちに、日本叩きの道具として中国人を使いまわすようになった。清華大の学生や胡適(こてき)や宋美齢、顧維鈞(こいきん)など、一本釣りした人材をアメリカに留学させた。日本史に名前が出てくる中国人は皆、アメリカ留学生と思って間違いない。留学先は、コロンビア大学ミズーリ大学が多かった。中国人を入れて、アメリカナイズして送り返して親米反日に仕立てた。
 河添 で、中国政府は改革開放後、〝親中反日分子〟を量産する目的で、アメリカのサル真似をやってきたってことですね。
 CPIが動かしていた
 高山 こうやって反日気運を中国内に醸成していった。
 そういう世論操作も実はアメリカのお得意の分野で、セオドア・ルーズベルトがやり始めた日中分断をさらに推し進めたのが、ウッドロー・ウィルソン大統領が1917年に国務長官と陸海軍長官、そしてメディア代表の4人で構成した米国広報委員会(Committee on Public Information 以下CPI)だ。
 CPIの当初の目的は、第一次世界大戦アメリカを参戦させるよう新聞・雑誌や知識人を使って世論を動かすことだった。結果的にアメリカは参戦し、アメリカの国威と商売を盛り上げた。
 CPIはそこで役目が終わったのだけど潰さなかった。上海委員会をつくって、セオドアの遺志を継ぎ、多くの新聞記者を送り込み、反日をあおり、『中国の赤い星』を書いたエドガー・スノーや、『老人と海』のヘミングウェイも投入して蒋介石を守り立て、日本と戦わせた。
 もっともヘミングウェイ蒋介石があまりにも下品だから、何も書かなかった。中国人を素朴に描いた『大地』のパール・バックノーベル文学賞を与えたのも、すべてCPIの指揮だった。
 それがいかに日中離反に成果があったか。第二次上海事変日中戦争)があった1937年から3年間の世論調査結果が残っていて、対中国の好感度が76%なのに対し、日本はたった1%。
 河添 すさまじい世論操作!
 高山 その背景には必ずCPIがいたし、派遣したアメリカの特派員がいる。南京大虐殺を最初にでっち上げたのは『シカゴ・トリビューン』のアーチボルト・スティールと『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディンだ。
 張学良が蒋介石を捕まえた西安事件では、最初に宋美齢を連れて乗り込んでいったのがウィリアム・ドナルド。『ニューヨーク・ヘラルド』の記者だった。他にベイツやマギーなどアメリカ人宣教師連中も一役買っていた。
 昨今はなんでもコミンテルンがやったと言っているけど、彼らが出る幕がないほど、アメリカ人が動き回っていた。CPIの威力を知るべきだね。
 それで行きつく先がどうなったのか。クズ扱いしていた中国人を、太平洋戦争にかけてこの上ないほど持ち上げて利用した。蒋介石をけしかけて日本と戦わせ、そのために日本は51個師団のうち40個師団を中国に足止めさせられた。太平洋で英米蘭と戦ったのは、たった11個師団だった。
 その見返りが1932年に出た『スティムソン・ドクトリン』だ。
 日本の生命線は満州だった。中国は昔から万里の長城の内側が領土だったのを、満州も中国領だと言ったのが、スティムソンだ。辛亥革命のあと、詐欺師、孫文が『我々は中華民国をつくって、満州王朝の面倒を見る』と五族協和を言い出した。つまり、清王朝の版図、満州もモンゴルもウィグル、チベットもそっくり相続したいという何の根拠もないホラ話だった。
 誰も相手にしなかった。そこにスティムソンが出てきて、孫文の遺言を引っ張り出した。国際世論も反日だったから、それに乗る。その結果、満州は中国の領土になり、日本は中国の領土を勝手に侵したことになり、だから、不戦条約や9ヵ国条約にも違反していると。日本は立つ瀬がなくなってしまった。スティムソンの御託で、日本は国際連盟からも脱退しなければならなくなった。
 中国には満州やモンゴル、ウイグルチベットに対して主権があるとアメリカが保証する形になってしまった。 
河添 ただし、中華人民共和国は当時、存在しないので蒋介石中華民国政府に対してですね。
 高山 そう。いずれにせよ、スティムソンのおかげで中国は万里の長城の外側、夷狄(いてき)の地も俺のものだと言うようになった。戦後のアメリカは、日本の復興を抑えることも兼ねて中国の領土保有を認めてきた。中国が大きくなると、多額の認め料も徴収し出した。」
   ・   ・   ・   
 現代日本、特に第九条護憲派の高学歴出身知的エリートは、外国語を巧みに話しても冷酷・残酷な世界実情が理解できない。
 日本を戦争犯罪国家と糾弾する反戦平和派や第九条護憲派のリベラル派・革新派・エセ保守派そして一部の保守派らの正体は、反米派ではなくまぎれもないアメリカの奴隷である。
 彼等は、日本の国益を害し日本民族に被害を出す事よりもアメリカの国益アメリカ人の利益を優先している。
 その為に利用するのが、反日敵日の中国共産党政府・韓国・北朝鮮そして在日朝鮮人である。
   ・   ・   ・   
 日本人が好きなのは、歴史を歪曲・捏造した架空に近い時代劇・時代小説であって、歴史の真実・実像を有りの儘に表現した歴史劇・歴史物語ではない。
 日本人は歴史が好きである、はウソである。
   ・   ・   ・   
 中国系移民(特に漢族系中国人移民)は、静かな侵略者として、土地や建物を手に入れ排他的中国人居住区を作り、見えない形で中国人国家を広げていった。
 中国帝国の広大な版図は、中国人移民が水が染み込むように住み着く事で広がっていった。
 中国人ほど、生殖能力と繁殖能力が高い民族は他になく、爆発的に人口を増やしていく。
 中国人移民が移り住んだ内モンゴルチベットウイグルトルキスタンなどでは、現地住民の人口に迫るほどに増え、少数派から多数派になり完全な中国領に変えつつある。
 中国共産党は、少数派に転落した異民族をジェノサイドするべく非人道の迫害や弾圧を実行している。
 中国共産党ほど恐ろしい共産主義者マルクス主義者)は、世界史的に存在しない。
 中国共産党は、結党以来、反天皇反日敵日で、親日派は皆殺しにした。
 ゆえに、中国共産党には知日派は存在しない。
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 20世紀。国際金融資本とアメリカの国際的軍需産業は、巨大な中国市場を手に入れるべく、ファシスト中国(中国国民党)と中国共産党を全面支援して軍国日本を戦争に追い込んで滅亡した。


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❖591)─1─反天皇制活動に参加する高学歴出身知的エリートの反天皇反日的日本人。〜No.1321No.1322 終わり。    

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   

 反天皇反日的日本人が、高学歴出身知的エリートの中にわりかし多く潜んでいる。

 彼らは、国家と国民の統合の象徴より国民主権を上位に置き、天皇・皇室の存在の意義・重要性を認めず、人権と平等の見地から天皇制度を廃止すべきであると信じている。

 彼らは、子供や青年達に影響を与えている。

 外国人移民(主に中国人移民)が増加すれば、この傾向は増大し、深刻な影響が強まっていく。

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 2019年3月13日05:00 産経新聞「判事が「反天皇制」活動 集会参加、裁判所法抵触も
 名古屋家裁の男性判事(55)が昨年、「反天皇制」をうたう団体の集会に複数回参加し、譲位や皇室行事に批判的な言動を繰り返していたことが12日、関係者への取材で分かった。少なくとも10年前から反戦団体でも活動。一部メンバーには裁判官の身分を明かしていたとみられ、裁判所法が禁じる「裁判官の積極的政治運動」に抵触する可能性がある。昨年10月にはツイッターに不適切な投稿をしたとして東京高裁判事が懲戒処分を受けたばかり。裁判官の表現の自由をめぐって議論を呼びそうだ。
 関係者によると、判事は昨年7月、東京都内で行われた「反天皇制運動連絡会」(反天連、東京)などの「なぜ元号はいらないのか?」と題した集会に参加。今年6月に愛知県尾張旭市で開催され、新天皇、皇后両陛下が臨席される予定の全国植樹祭について「代替わり後、地方での初めての大きな天皇イベントになる」とし、「批判的に考察していきたい」と語った。
 昨年9月には反戦団体「不戦へのネットワーク」(不戦ネット、名古屋市)の会合で「12月23日の天皇誕生日に討論集会を開催し、植樹祭を批判的に論じ、反対していきたい」と発言。さらに「リオ五輪の際、現地の活動家は道を封鎖したり、ビルの上から油をまいたりしたようだ。日本でそのようなことは現実的ではないが、東京五輪に対する反対運動を考えていきたい」とも語っていた。
 判事は昨年2月と5月、不戦ネットの会報に「夏祭起太郎」のペンネームで寄稿し、「天皇制要りません、迷惑です、いい加減にしてくださいという意思表示の一つ一つが天皇制を掘り崩し、葬り去ることにつながる」「世襲の君主がいろいろな動きをする制度は、やっぱり理不尽、不合理、弱い立場のものを圧迫する」と記していた。
判事が「反天皇制」活動 集会参加、裁判所法抵触も
 判事は集会などで実名でスピーチしていたほか、団体の一部メンバーには「裁判所に勤務している」と話していたという。
 判事は平成5年に任官。名古屋家裁によると、現在は家事調停や審判事件を担当している。判事は産経新聞の複数回にわたる取材に対し、何も答えなかった。」
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 3月13日05:01 産経新聞「公平・中立に裁けるのか 判事「反天皇制」活動
 「反天皇制」をうたう団体の集会に参加し、皇室行事などに批判的な言動を繰り返していたことが12日、明らかになった名古屋家裁の男性判事(55)。「裁判官の積極的政治運動」を禁じた裁判所法に反するか否かは、裁判官の身分を名乗って活動していたかどうかがポイントになる。裁判官も私生活では一市民である以上、表現の自由があるからだ。
 平成10年、仙台地裁の判事補が、組織的犯罪対策3法案に反対する集会に身分を名乗って参加し、「パネリストとして発言するつもりだったが、地裁所長から懲戒処分もあり得るとの警告を受けたので発言を辞退する」と発言。この言動が積極的政治運動にあたるとして戒告処分を受けた。
 この際、最高裁大法廷は積極的政治運動の禁止規定について「表現の自由を一定範囲で制約することになるが、合理的でやむを得ない限度にとどまる限り憲法の許容するところ」とし、合憲との初判断を示した。
 今回の判事の場合、集会などで裁判官を名乗って発言してはいなかった。しかし、団体の一部メンバーには実名のほか、裁判所に勤務していることを明かしており、団体内部で身分が広まっていた可能性もある。
 裁判所関係者は「裁判官としてではなく、一個人として発言しているのであれば、裁判所法の規定に抵触するかどうかは議論の余地がある」との見方を示す。
 だが判事が行っていた活動は、天皇を「日本国民統合の象徴」と規定した憲法を否定する行為だ。国の統治機構のあり方に反対を唱える裁判官が、国や自治体が当事者となる訴訟を公平、中立に裁けるのか。「司法の独立」の観点から憲法で手厚く身分保障されている裁判官には、国民の信頼に値する言動や品位が求められている。(大竹直樹)」
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 3月13日06:00 産経新聞「昭和の日を「無責任の日」と批判 判事、過激派参加団体で活動も
 4月末の天皇陛下の譲位を前に、名古屋家裁の男性判事(55)が「反天皇制」をうたう団体の集会に参加していたことが12日、明らかになった。判事は平成21年以降、少なくとも3つの団体で活動。反皇室、反国家、反権力などを掲げ、中には過激派活動家が参加する団体もあった。過去には自治体が当事者となる訴訟も担当しており、法曹関係者からは「判決など判断の公平性、中立性に疑問が生じかねない」との指摘が出ている。
 「人々から敬愛、理解、共感をかすめ取る天皇・皇族」「各地の『天皇要らない』の声とつながり、大きな反天皇制のうねりをつくりだしていきたい」
 「反天皇制運動連絡会」(反天連、東京)などが呼びかけた「代替わり」反対集会では、皇室を批判する激しい発言が繰り返される。判事は昨年、こうした反天連による別の集会に複数回にわたって参加し、自らも「批判的に考察していきたい」などと発言していた。
 関係者によると、判事は津地家裁四日市支部勤務だった21年、広島県呉市で行われた反戦団体「ピースリンク広島・呉・岩国」(呉市)の集会に参加。実名でスピーチした。その後、広島地家裁呉支部に異動し、同団体の活動に参加した。
 名古屋家裁に異動すると、反戦団体「不戦へのネットワーク」(名古屋市)に参加。会報に「夏祭起太郎」の名前で論考を寄稿した。
 昨年2月4日付では「昭和の日」を「無責任の日」と書いたほか、天皇、皇后両陛下が臨席される全国植樹祭について「天皇が一本の木を植えるために数十億単位の公費を使って、たくさんの木を伐採し、『国土の緑を大切に』というまったくもって不思議で呪術(じゅじゅつ)的なイベント」「過剰警備や人権侵害など様々な問題をはらんでいる」などと批判した。団体メンバーの一部には、夏祭起太郎のペンネームを使っていることを明かしていた。
 判事は過去に自治体が当事者となる訴訟も複数担当していただけに、法曹関係者は「裁判官が反権力の活動をしているのであれば、行政事件の訴訟では、最初から反自治体の立場で判断するのではないかとの疑念が生じる。裁判に公平、中立を求める国民の信頼を得られないのではないか」と疑問を投げかける。
 産経新聞は今年2月、判事に複数回、直接取材を申し込んだが、いずれも無言で足早に立ち去った。名古屋家裁には昨年11月に判事の政治運動疑惑を伝え、見解を質問した結果、書面で「承知していない」「仮定の質問にはお答えできない」との回答があった。今年2月に再度取材したが、家裁は判事に事情を聴くなどの調査をしたかについても明らかにせず、「お答えすることはない」とした。
 裁判官の身分、憲法で手厚く保障
 裁判官の身分は「司法の独立」の観点から憲法で手厚く保障されている。裁判官が不祥事を起こしても、懲戒処分は戒告か1万円以下の過料しかなく、他の公務員のように停職や減俸といった処分はない。
 懲戒処分は憲法で行政機関が行うことはできないと規定。地裁、家裁、簡裁裁判官の懲戒は、裁判官分限法に基づき、管轄する高裁の分限裁判で決められる。
 停職や減俸の処分がないのは、そもそも裁判官は「法の番人」として不祥事を起こさないとの考えもあるためとされるが、現行制度は実情に合っていないとの指摘もある。
 一方、罷免については、国会が設ける弾劾裁判所が判断する。国民から罷免すべきだとする請求を受け、国会の裁判官訴追委員会が弾劾裁判を開く必要があると判断すれば、弾劾裁判所に訴追される。
 今月4日には、裁判官訴追委員会が、ツイッターに不適切な投稿をして裁判当事者の感情を傷つけたとして、昨年10月に最高裁から戒告処分を受けた東京高裁の岡口基一判事(53)から事情聴取している。」
   ・   ・   ・   
 3月11日 産経新聞iRONNA 『野田武則』「「釜石市長手記「被災地を照らし続けた両陛下のお姿」
 野田武則(釜石市長)
 東日本大震災のあの悲しみの日から8年の歳月が流れました。
 いまだ、仮設住宅の生活を余儀なくされている方々もたくさんおられます。それでも、復興公営住宅や宅地造成など、被災された方々の住まいの再建も進み、ある程度復興の姿が見えてきました。
 この8年間にわたり、復旧、復興のため、全国あるいは世界中からあたたかいご支援をいただきました。心からお礼申し上げます。
 振り返れば、あの瓦礫(がれき)と化した街の中、避難所は十分な環境を確保できず、被災された方々は不安を感じながらも身を寄せ合い、助け合いながら、厳しい環境を乗り越えようとしていました。市内の至るところに設置された遺体安置所へ、行方の分からないご家族、知人、友人の確認のために、ご遺族の皆さんが訪ね歩き、巡りながら日々過ごしてきたことを思い出すと、今でも胸が痛みます。
 そのような折、2011年5月6日に、天皇、皇后両陛下が釜石市にお見舞いに来られました。当時、報道で天皇陛下の体調があまり思わしくないと聞いていたので、大変心配しながらお待ちしていましたが、ヘリコプターから降りてくる両陛下の元気なお姿には、そのような様子は感じられませんでした。きっと無理をしながらも、何よりも「被災地の人々を励ます」という思いで、遠いこの地まで足を運んでくださったことに感銘しました。
 私は、両陛下と用意されたマイクロバスに乗り、多くの方々が避難していた釜石中学校へ向かいました。沿道には、手を振ってお出迎えをする多くの方々がいました。マイクロバスの中では、沿道の両側から手を振る市民へ、両陛下が右に左に移動しながら、まさに一人一人に声をかけるがごとく、手を振られていました。
 私は「お疲れになりますから、どうぞお座りになられてください」と何度もお願いしましたが、天皇陛下は「市民の皆さんが手を振っていますから、私も手を振らなければなりません」と30分以上もの道中、立ちっぱなしで手を振り続けられました。両陛下の、ご自身の使命を果たそうとされるお気持ちと、体にむち打ちながらも、市民に手を振る姿を目の当たりにし、感動するとともにありがたい気持ちでいっぱいになったことを昨日のことのように覚えています。
 釜石中学校の避難所で、被災された皆さんに会う前、両陛下とお話をする機会をいただきました。天皇陛下は「釜石では多くの方々が犠牲になられましたが、子供たちは皆、助かりましたね。子供たちの避難行動は素晴らしかったですね」と話されました。
 当時はテレビや新聞などで、釜石の子供たちの避難行動が何度も取り上げられました。両陛下もその報道をご覧になっていたのでしょう。とてもよくご存じで、そのことについて話され、子供たちの成長と防災教育の大切さに思いをはせておられました。
 避難所の体育館では、多くの皆さんに出迎えていただきました。両陛下はすぐさま膝をついて、励ましと、いたわりのお言葉を一人一人にかけ、被災者の心の痛みに優しく寄り添われました。被災された皆さんも大変に喜び、涙を流して感激していました。
 両陛下がお見舞いを終えようとしていたそのとき、震度3の地震が避難所を襲いました。両陛下は揺れも気になさらず、被災された方々に励ましの言葉をかけ続けられていました。皇后さまの側にいた74歳の女性は、揺れに驚き、とっさに皇后さまの手を握ってしまいました。皇后さまは優しく手を握り返され「こうした地震は今もあるのですね。怖いでしょうね。大丈夫ですよ。落ち着いてください」と気遣われていました。
 悲惨な状況の中で、励まし続け、被災地を気にかけてくださる両陛下のお姿は、被災地、被災者に勇気と希望を与えてくださいました。家族、友人、知人を失い、悲しみに暮れている方に、両陛下が励ましの言葉をかけられている。このご様子を見るにつけ、両陛下の存在とありがたさを感じました。
 震災直後、被災地には多くの支援物資やさまざまな支援の手などが必要でしたが、それ以上に、多くの方々が被災地を見てくれている、励ましてくれているという心と心の絆を感じることが大切だと思うのです。
 全国のみならず世界中からいただいた支援と、それへの感謝。そこには、多くの人々が助け合い励まし合うという「絆」の大切さを感じずにはいられません。また、日本にはまだその絆があると確信が得られました。
 平成の時代が終わろうとしています。天皇、皇后両陛下は30年の長きにわたり、日々、平和と国民の幸せを祈り続けてくださいました。心から感謝を申し上げます。そして次の時代も、人と人との絆を大切にする日本であってほしい、日本が絆を大事にする国であり続けてほしいと願ってやみません。」
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 3月11日 産経新聞 iRONNA『高森明勅』「天皇はかくあるべし」上から目線の知識人が錯覚した陛下のお気持ち
 高森明勅(皇室研究家)
 東日本大震災よりずいぶん前。保守系の大物知識人がこんな発言をしていた。
 「天皇陛下は、わざわざ被災地にまでお出ましになる必要はない。ただ宮中の奥深くで、神聖な祭祀(さいし)に携わっておられればよい」と。
 一方、リベラル系の知識人には、それと正反対の意見もあった。
 「天皇陛下は、被災者やハンセン病療養所の入所者のような、ハンディキャップを背負った人々に寄り添ってくだされば、古くさい祭祀などをお続けになる必要はない」と。
 これらの意見は真っ向から対立しているかのように見えて、はっきりとした共通点がある。どちらも「上から目線」で、陛下の誠心誠意のなさりように、あれこれ無責任に注文をつけていること。いったい、何様のつもりかと思う。また、「皇室の祭祀」と「人々に寄り添うこと」を、切り離された別々のことのように捉えていること。これは大きな錯覚だ。この点について以下に述べよう。
 天皇陛下が制度上の義務としてなさらなければならないことは、限られている。具体的に言えば、憲法に規定されている13項目の「国事行為」だけだ。憲法には「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ…」(4条)と明記している。
 だから、他には公共的な性格を持つ行為は、一切なさらなくてもよい。むしろ、「なさるべきではない」という憲法解釈さえある。
 だが、国事行為は原則として「国民」との接点が全くない(ご即位に伴う「祝賀御列の儀」で沿道の国民から祝意をお受けになるのがほとんど唯一の例外か)。それでは「日本国の象徴」ではあり得ても、「国民統合の象徴」としての役割を十分に果たすことはできない。
 憲法は規範である。そこに「国民“統合”の象徴」と規定しているということは、客観的な事実(ザイン)を記述しているのではない。「かくあるべし」という当為(ゾルレン)を、天皇陛下に突きつけているのに他ならない。
 その上、「国民統合の象徴」であるべきなのは、これまでの天皇の長い歴史からの要請でもあろう。
 少なくとも、陛下はそのような理解に立っておられるように拝される。だからこそ、ご即位以来、全身全霊でご自身が果たされるべき「国民統合の象徴」としての役割を、追い求めてこられた。
 国民の「統合」は、政治的対立や経済格差などさまざまな理由で、常に分断の危機をはらむ。その場合、当然ながら憲法にリストアップされた国事行為以外の(国政権能にかかわらず、象徴としてのお立場と矛盾しない)ご活動を探る必要が出てくる。それが「象徴としての公的な行為」だ(責任は内閣が負う)。
 象徴行為は国事行為と違って、あらかじめ「正解」が用意されているわけではない。国民側からの依頼にお応えになるもの以外は、陛下ご自身が知恵を巡らされ、手探りで追求され続ける以外にない。それが制度上の「義務」でない以上、陛下の国民への強いお気持ちが前提となる。
 大規模な自然災害があった時に、なるべく早い時点で被災地にお入りになる。それも、天皇陛下がご自身で選び取られた象徴行為の一つだ。災害に苦しむ人々を絶対に孤立させない。その人々が「国民の輪」の中から外れたような孤独感を、決して抱かせない。「国民統合の象徴」として、その意思を身をもって明確に示されているのが、被災地へのお見舞いだ。
 天皇陛下の被災地へのお見舞いは、いまや恒例のことのように受け止められているかもしれない。しかし、昭和時代にはほとんど例がなかった。今上陛下の強いお気持ちで続けられてきた「国民統合の象徴」としてのお務めの一つである事実を、見落とすべきではあるまい。
 平成3年の雲仙・普賢岳の大規模噴火の際に、まだ「安全宣言」が出ていない時点で現地入りされたのを皮切りに、直近では昨年、西日本豪雨と北海道胆振(いぶり)東部地震の被災地に赴かれている。その間、「初回」のお出ましだけで20回近い(陛下はその後も、繰り返し被災地にお入りになってきた)。
 最も規模が大きかった東日本大震災の場合は、平成23年3月末から5月にかけて7週連続、しかも日帰りでのお見舞いという、極めて過酷なスケジュールを自ら組まれた。
 当時、陛下は前立腺がん再発の不安を抱えてホルモン治療を続けておられたばかりでなく、同年2月には心臓疾患の兆候も見つかっていた。大げさではなく、まさに「命懸け」と言うべきお見舞いだった。実際に、同年11月には19日間にわたりご入院。翌年2月には冠動脈バイパス手術をお受けになっている。
 陛下のお見舞いを受けた被災地の人々は、大きな「癒やし」や「励まし」を受け取る経験をしている。これは普通の出来事ではない。なぜそのようなことが可能になるのか。
 ある記者はこう書いていた。
 「被災者の心にまっすぐ届く言葉を発せられる人は少ない。それは巧みな修辞などではない。その人が被災者の悲しみを自身のことのように感じているかどうか。絶望の淵にある人は、言葉の奥にある感情を敏感に察知するのではないだろうか」(日本経済新聞・井上亮記者)と。
 陛下の場合、ご日常そのものが、国民への「祈り」で貫かれている。その祈りの具体化が皇室の祭祀だ。
 日々、人間を超えた存在と、清浄かつ無私な境地で触れ合う経験を重ねてこられている。その祭祀は、祭司(宗教者)による祭祀ではない。「国民統合の象徴」たる方の祭祀であり、したがって「国民のため」の祭祀だ。
 ならば、その国民が傷つき、苦しんでいる時に、国民から遠く隔たった宮中奥深くで、陛下がもっぱら祭祀だけに打ち込んで、国民をまるで顧みないようなことは、あり得ない。それは、「国民統合の象徴」たる天皇の祭祀の意味「それ自体」を否定しているに等しい。
 また、苦しむ国民も、国家の公的秩序の頂点(日本国の象徴)の地位におられる天皇陛下が、日々謙虚に神霊の前に深々と頭(こうべ)を垂れて、国民のために懸命に祭祀に携わる経験を重ねることで、自(おの)ずと身につけられた「無私のオーラ」に気づかないはずがない。
 そのような方が、自分たちの声に優しく耳を傾けてくださり、心をこめてお声をかけてくださるからこそ、勇気づけられるのである。
 陛下の祭祀は国民のための祭祀であり、その神聖な祭祀に携わられ、無私なご日常を過ごしておられる陛下のお見舞いだからこそ、国民にとってかけがえのない励ましになる。この両者を切り離したり、二者択一で考えることは、見当外れもはなはだしい。
 ちなみに、「日本国の象徴」としての国事行為は、臨時代行や摂政への全面的な委任も可能だ。しかし、「国民統合の象徴」としての務め(象徴行為)は、そうはいかない。だからこそ、陛下はご高齢によるお身体の衰えを自覚されて、「ご譲位」という選択肢をお考えになったのである。」
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 3月11日 産経新聞 iRONNA『倉山満』「「国民を見捨てない」陛下の覚悟さえも貶めた裏切り者の日本人
 倉山満(憲政史家、皇室史学者)
 今年元旦から、皇室史学者を名乗ることとした。わが国の皇室のあり方を自分なりに勉強して、陛下が何をなされてきたのか、そして何をなされようとしているのかを、考えるべきではないかと強く思ったからだ。
 現在の象徴天皇制は、古来の伝統法に文明国の通義に合わせて出来上がった明治の立憲君主制が、敗戦による外国勢力の介入に耐えて出来上がっている。そもそも、わが国の伝統法とは何か。戦前は国体と呼んだ。わが国の国体の根源は、君臣の絆(きずな)である。そして、わが国において天皇が民を見捨てることはなかった。
 天災や飢饉が起きたときでさえ、歴代天皇は己の不徳を天に詫びるのが常だった。かの後醍醐天皇ですら、そうだった。古くは元寇に際し、時の治天の君である亀山上皇は「自分の身はどうなろうとも、国と民を守り給え」と皇室の御先祖である神々に祈られた。
 はっきり言えば、亀山上皇後醍醐天皇はわが国史において暗君ではあるが、外国の君主に両帝のような態度を示した君主が何人いるか。わが国の暗君も、外国では聖主なのである。
 敗戦に際し、昭和天皇が自らの命を懸け、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーを説得したのは近代史の出来事である。1990年、どこぞの国の君主は、自国が外国に占領されたとき、国民を見捨てて真っ先に亡命した。わが国の皇室の歴史は、外国とはまったく違うのである。
 戦前憲法学の泰斗であった、佐々木惣一京都帝国大教授の門下生に語り継がれている教えがある。佐々木先生は、憲法改正無限界説を唱え、「アカ」呼ばわりされた。当時の通説である憲法改正限界説が「いかなる憲法改正であっても、皇室を廃止することは許されない」と主張した。通説であり、政府の有権解釈だった。
 これに対し、佐々木先生は「いくら法律の条文や解釈で縛ろうとも、国民が皇室を廃止しようとした場合、止められるものではない。よって、法学者としては限界説を採ることはできない」と反論した。法律論として、不可能は要求できないとする、法実証主義の立場だ。
 ただし、これには続きがある。もし、国民が皇室を見捨てたときのことだ。佐々木先生は、「その時、日本は日本ではなくなる」とおっしゃられたと聞く。「である」論としての法律論と、「べき」論としての政治論は分けておられたのだ。
 事態は佐々木先生が想像されたよりも早く訪れた。もちろん敗戦である。天皇は「象徴」とされた。ただ、マッカーサーにとって「象徴」とは決して軽い意味ではなかった。日本国憲法の草案はマッカーサーノートと呼ばれるが、そこには「Symbol=Head of state」と走り書きがなされている。象徴とは国家元首の言い換えなのだ。
 だが、これを「ロボット」にしたのは裏切り者の日本人だ。東京大法学部教授の宮澤俊義と、当時の内閣法制局長官吉國一郎だ。
 宮澤は教科書で「天皇はめくら判を捺すロボット」と断言した(『コンメンタール 全訂日本国憲法』74頁)。吉國は、「天皇の行動があらゆる行動を通じて国政に影響を及ぼすことがあってはならない」と言い切った(昭和50年11月20日参議院内閣委員会答弁)。
 しかし、これらの解釈は世界の立憲君主国の標準、すなわち文明国の通義からかけ離れている。
 世界の憲政の模範はイギリスだ。そのイギリスで「権威書」として憲政運用の解釈書として尊重されている、ウォルター・バジョットの『英国憲政論』は、立憲君主とは独裁者ではないと説く。同時に、単なる傀儡(かいらい、ロボット)でもないとも説く。
 バジョットは、『英国憲政論』(『世界の名著』124頁)で「イギリスのような立憲君主制の下では、君主は三つの権利―諮問に対し意見を述べる権利、奨励する権利、警告する権利―をもっている。そして君主がすぐれた感覚や英知をもっているならば、このほかに必要とするものはなにもない。このような君主は、他に何も持っていないので、この三つの権利を非常に効果的に行使できることを知っている」と述べ、以下延々と君主が国政に対し影響を及ぼす方法について述べている。
 君主が国政に影響力を行使してはならない、などとは言っておらず、逆なのだ。その証拠に日本国憲法第4条第1項を見よ。「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」とある。
 権限(権能)がないとは書いているが、影響力を行使してはならないとは、どこにも書いていない。マッカーサーですら象徴天皇とは国家元首だと理解していたが、日本人自らの手で天皇をロボットに叩き落したのだ。そして、戦後教育においては、皇室と国民の絆を断ち切らんとする教育が行われ続けた。
 さて、このような状況で陛下は平成の三十有余年を天皇としてのお務めを全うされた。国事はもちろん、祭祀にも熱心で、さらに国民との絆を保つ活動を、二度の大病を乗り越えて行ってこられた。
 平成23年3月11日の東日本大震災に際し、社会の指導者たるべき人間たちが、原発事故の放射能が怖くて逃げた。あまつさえ、「陛下も京都へ逃げた」とデマを流しながら。
 だが、事実は違った。3月16日、突如として「ビデオメッセージ」が流れてきた。横文字で何のことか分からないが、要するに玉音放送である。ただただ、国民を励まされるだけだった。激励権の行使である。ただし、国民に向けて語りかけられるという異例の形式だが、現行憲法下でも違憲ではない。
 何も言い訳もしないし、ましてや自分を悪(あ)しざまに罵(のの)しった者どもに言い返しもしない。しかし、「決して国民を見捨てて逃げはしない」と明確に訴えられていた。
 幾多の風雪に耐えた平成の御世が終わりかけている、今思う。国体は健在なり。(文中一部敬称略)」

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❖542)─1─政府与党議員(元国家公安委員長)は、秋篠宮両殿下に「早く座れ」と暴言を吐いた。2010年。〜No.1260No.1261      

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 関連ブログを6つ立ち上げる。 
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   

 悪貨は良貨を駆逐する。

 悪は染まり易い。

 善は成し辛い。

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 皇室・皇族を守る為に、戦前は死刑という反逆罪・大逆罪があったが、戦後、現代は法律がない。

 戦前、昭和天皇を殺そうとして失敗したキリスト教朝鮮人テロリストは極刑に処せられた。

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 高学歴出身知的エリートである政治家、官僚、学者そしてメディア関係者は、昔の日本人とは違い、年々、皇室・皇族に対する崇敬心・畏怖の念・敬虔な気持ちは薄れてきている。

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 日本民族日本人で最も勤皇派・尊皇派は、下級武士、貧しい庶民(百姓や町人)、非人・エタなどの賤民、山の民・海の民・川の民などの部落民達である。

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 2010年 日本NCC「日本国憲法を遵守して平和を作り出すものとして積極的役割を担います。天皇制強化、有事法制化、憲法改悪の流れに反対し、アジアの教会との交流を通してアジアの人々との信頼関係を築く努力をします」
 日本NCCは、韓国キリスト教会協議会と共同で「韓日強制併合100年 韓国・日本教会共同声明」を発表して、日韓併合条約の無効化と植民地支配に対する賠償と半島の平和的統一に貢献する事を求めた。
 さらに、従軍慰安婦問題では日本政府の誠意なき態度を激しく糾弾した。
 日本NCCが行う提言のほとんどが、両国の友好の為の建設的な意見ではなく、日本をキリスト教化する為の反天皇及び反日行動であった。
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 彼らは、地方自治体が神社行事に参加する事は政教分離の原則に反すると訴え、学童が学校行事の一環で神社に近づく事も反対している。
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 韓国系キリスト教会とキリスト教団は、日本全てをキリスト教化する為に活発な布教活動を行い、祭祀王・天皇の宗教行事から各地の神社崇拝まで根刮ぎ破壊するべく宗教活動を行っている。
 大人は悪魔的宗教に染まって救済不能と切り捨て、青少年を対象に勧誘活動を行っている。
 韓国系キリスト教徒の活動は、年々活発化している。
 日本の若者の多くが、韓国系キリスト信者の誘いに乗って洗礼を受け、天皇を中心とした日本神道に憎悪を向けている。

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 キリスト教朝鮮人テロリストや日本人共産主義者テロリストは、昭和天皇や皇族を殺そうとしていた。
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 11月30日 議会開設百二十年記念式典。政権与党の民主党議員(元国家公安委員長)は、列席されていた来賓の秋篠宮両殿下が天皇皇后両陛下のご入場まで約5分間起立していたのに腹を立て暴言を吐いた。
 「早く座れよ。こちらも座れないじゃないか」
 どす黒く陰険な反天皇的動きが、霞ヶ関や永田町界隈の見えない所で進んでいる。
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 2010年12月21日 週刊実話秋篠宮ご夫妻に「ヤジ」“中井洽”7つの罪状
 議会開設120年記念式典に出席した中井洽衆院予算委員長が、起立されていた秋篠宮ご夫妻に対し、「何で座らないんだ」などとヤジを浴びせた問題で、自民、みんな、たちあがれ日本の3党は12月1日、衆院に同氏の懲罰動議を提出した。
 民主党も式典の最中、携帯電話使用禁止の申し合わせに反し、着信音を鳴らしたとして、逢沢一郎国会対策委員長(自民党)への懲罰動議を提出。国会での与野党対立は、皇族ご臨席の式典での失態にからむ懲罰動議の応酬という醜いものになった。
 「結局2つの懲罰動議は、3日に今国会が閉会してしまい採決されなかったが、中井代議士の品位についてはこれまでもいくつかの疑念を抱いていた」
 というのは民主党ベテラン代議士秘書。中井議員とはどんな人物か。
 「満州国新京市(現=中国吉林省長春市)生まれ。日本社会党(右派)の衆議院議員だった父の中井徳次郎の秘書を務めた2世議員です。新進党時代から、小沢側近の1人。『北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟』の会長代行でもある。ところがです。拉致問題担当相に就任('09年9月)してから'10年1月6日まで、ただの1度も所管の拉致問題対策本部事務局に顔を出したことがなかった」(同)
 容易に姿を開かないからか、洽(ひろし)という名前が蛤に似ているので付いたあだ名が『ハマグリ』。
 不熱心な拉致問題については、大韓航空機爆破事件の金賢姫工作員が来日した折りには、元工作員のヘリコプター遊覧飛行などを陣頭指揮。しかし、肝心の失踪者の写真などを元工作員に確認してもらいたいとの要望を一蹴している。
 「3000万円の血税を使い、国賓以上に厚遇しながら重要な情報を一切引き出せなかった。これでは美人の金元工作員と同席したかっただけでは、と批判されるのは当然ですよ」(全国紙政治部デスク)
 ハマグリ先生の“ハマグリ”好きは、つとに有名だ。
 「中井議員の奥さんは自殺している。これについては、議員の元秘書が『夫の遊びグセに悩み、地元事務所の職員などに相談したりしていた』と証言した。また、SPを外して銀座ホステスとの連日デートも目撃されたが、このホステスは議員宿舎のカードキーを使ってたびたび赤坂議員宿舎に入っていた。宿舎をラブホ代わりに使うのは国民への背信です」(同)
 保守派から批判の多い外国人参政権導入の積極的な推進派でもある。
 「'10年1月12日、都内で開かれた在日本大韓民国民団中央本部の新年会において、《立派な(永住外国人地方参政権[選挙権]を付与する)法案を作って、今国会で成立させ日韓友好を増進させたい》と発言しています」(与党担当記者)
 中井議員は、女系天皇を容認する皇室典範の改正に反対している。秋篠宮様に非礼なことは言えないはずだが、それが奇をてらうハマグリ先生の所以か。
 中井ハマグリ(御門)はとっても変だ。」」
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日本の政治家中井 洽
 鳩山由紀夫内閣国家公安委員会委員長および拉致問題担当大臣として入閣した際の肖像画
 中井 洽(なかい ひろし、1942年(昭和17年)6月10日 - 2017年(平成29年)4月22日)は、日本の元政治家。民主党顧問。
 衆議院議員(11期)、国家公安委員会委員長(第81・82代)、拉致問題担当大臣内閣府特命担当大臣(防災)、法務大臣(第54代)、衆議院予算委員長、民社党副委員長、自由党副党首、民主党副代表などを歴任した。
 父は元衆議院議員中井徳次郎

 皇族への不敬発言疑惑
 2010年(平成22年)11月30日、自由民主党逢沢一郎国対委員長みんなの党桜内文城 が、11月29日に行われた議会開設120年記念式典において秋篠宮文仁親王夫妻が天皇・皇后の入場を起立して待っていたことに対し、民主党議員が野次を飛ばしたとして、名指しは避けながらも批判を行ったことが報じられた。産経新聞は同日中に、「早く座れよ。こっちも座れないじゃないか」と野次を飛ばしたとされる議員が中井だった旨を報じた。
 中井は11月30日、産経新聞の取材に対し、「『早く座らないとだれも座れないよ』と言ったかもしれないが、秋篠宮さまに向けて言うはずがない。副議長らに言った」と反論し、翌12月1日には、国会内において記者団に「隣の人としゃべっただけだ。(着席されるよう)『宮様に伝えていないのかね』と申しあげた」と述べた(式典の進行予定では、秋篠宮夫妻と議員は一旦着席することになっていた)。また、「秋篠宮さまがお入りになってから遅刻したやつが十数人いたぞ。いくらでもあるぜ」との発言も報道された。 民主党側も「『立たせていてはご夫妻に失礼ではないか』と言った」としている。民主党内では岡田克也幹事長が、「私が知る限り、野次ったとか、そういうことではなかった」「10列ぐらい後ろにいたが、中井氏の声が響き渡ったとか、そういうことではない」と述べる 一方で、中井について「国会議員を務めていることに無理がある」との指摘もなされた。
 自由民主党は「懲罰の対象になりうる著しく品を欠く発言だ」と批判し、みんなの党渡辺喜美代表も、「まずは中井氏が土下座しておわびをすべきだ」と述べた。12月1日、両党はたちあがれ日本と共同で中井に対する懲罰動議を提出した。この問題に対し、全国の右翼団体が「国賊中井洽議員糾弾実行委員会」を結成し、2010年12月26日に約100台の街宣車、350人の運動員を集めて中井の選挙区である三重県伊賀市名張市で街宣デモ活動を行った。そのため、中井は予定していた新年会を断念した。
 また、2012年(平成24年)3月12日の午後に、中井の事務所に広島県右翼団体幹部(犯人は元広島県警察の公安刑事で右翼となり、その後逮捕された)を名乗って、切断された小指と「天誅が下る」という趣旨の手紙が届けられたと報道された。 
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