⚔4)─3─トンデモない陰謀論続出の夢見る戦国時代史観の破綻。〜No.12No.13No.14 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2020年11月22日 産経新聞「【話の肖像画】作家・安部龍太郎(65)(1)戦国時代史観に異議あり!!
歴史小説を書くために正しい歴史像を追い求めている」と語る(酒巻俊介撮影)
 《作家生活30年、従来の通説に“挑戦状”を叩(たた)きつける斬新な史観の歴史小説を世に問うてきた。とりわけ戦国時代には異議あり!》
 20年以上前、織田信長を書こうとしたとき、従来の戦国時代史観は根本的に違っているのではないか、最大の理由は大航海時代に入っていた世界の中の日本の位置づけ、外交、交易、先端技術といった「外国からの視点」が欠けていることではないか、と気付いたのです。
 戦国時代を理解する上で大事な要素が3つ。キリスト教・鉄砲・銀です。アジアへ進出したポルトガルやスペインは石見(いわみ)銀山の開発などでシルバーラッシュに沸いていた日本の銀や火薬の原料になる硫黄がほしい。代わりに鉄砲や硝石(しょうせき)、鉛などを売る。それを繋(つな)いだのがイエズス会の宣教師です。彼らはキリスト教の布教だけで日本へ来たのではなく、交易と、その先の支配まで視野に入っていた。一方、戦国大名も信長に代表されるように経済や流通を押さえ、最新鋭の武器である鉄砲や弾薬を獲得した者が勢力を拡大してゆく。戦国時代は高度経済成長を謳歌(おうか)した重商主義の時代でした。
 《なぜ、そうした視点が軽視されたのか》
 鎖国が続いた江戸時代の史観に明治以降もとらわれてしまったからでしょうね。商業を低く見た「士農工商」の身分制度史観もそうです。いまだ(高校の)授業で、日本史と世界史を分けて教えているのもおかしいですよ。
 日本史学者らの反応ですか? うーん、「小説だから」「作家が書くもの」といった冷ややかなものが多かった。ただ最近、僕がいう歴史観に沿ったテレビの歴史番組が続けて作られるなど新しい流れが出てきています。やっと時代が僕に追いついてきたのかなって(苦笑)。
 《歴史小説は史実に忠実であるべきか? エンターテインメントなのか?》
 僕が歴史小説を書く上で大事にしているスタンスは、読者が楽しみながら面白く読めて、しかも「過去から学ぶ」こと。そのためには、ちゃんと、過去を踏まえていなければなりません。残された史料を集めて、それをどう解釈するかは、人によって違いがあって当然ですが、僕は自分が信じる解釈、歴史観を土台として作品を書く。歴史と対峙(たいじ)した経験は、知識を知恵に変えます。そこから生まれた発想力は未来の問題解決の突破力にもなる。僕はそこまでを作品で提示したいと思うのです。(聞き手 喜多由浩)
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 【プロフィル】安部龍太郎(あべ・りゅうたろう)
 昭和30年、福岡県出身。久留米工業高専卒。東京・大田区役所勤務などを経て、平成2年『血の日本史』で単行本デビュー。17年『天馬、翔(か)ける』で中山義秀文学賞、25年、戦国期の絵師、長谷川等伯(とうはく)の生涯を描いた『等伯』で直木賞を受賞した。令和2年『京都府文化賞』受賞。主な著作に『信長燃ゆ』『宗麟(そうりん)の海』『家康』など。歴史エッセーも多い。」
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✨15)─1・A─昭和天皇と宮廷派による終戦工作。~No.50No.51 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代日本人には歴史力がない。あ
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 現代の日本人は昔の日本人とは違う、別人のような日本人である。
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 昭和天皇が、好きな日本人は2割、嫌いな日本人は3割、無関心・興味なしは5割。
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 国家・民族にも生物・人間同様に寿命が存在し、日本国・日本民族・日本皇室の寿命も尽きようとしているのかもしれない。
 その証拠が、少子高齢化による人口激減であり、正統性消滅の女系天皇即位・女系宮家新設である。
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 世界は、昭和天皇ヒロヒト天皇)をヒトラーと同罪の極悪非道な戦争犯罪者と認定している。
 日本国内の反天皇反日的日本人と中国共産党、韓国・北朝鮮は、昭和天皇を非人道的な虐殺者と糾弾している。
 現代日本歴史教育に、反昭和天皇の国際認識を子供達に広めるという意図が隠されている。
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 日本人共産主義テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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 昭和天皇は、親ユダヤ派で、人種差別に反対し、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして東条英機に研究・開発・製造の即時中止を厳命し、戦争回避と平和維持に努力し、ヒトラーナチス・ドイツホロコーストから逃げて来きたポーランドユダヤ人難民達の保護救済(間接的人道貢献行使)をA級戦犯達に切望していた。
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 2020年11月15日号 サンデー毎日「皇后の覚悟
 貞明皇后からたどるプリンセスたち
 第4部 賢母 (4)終戦への道
 昭和天皇ポツダム宣言実諾を決めるまでの間、兄弟の中で話し合われたこと。そして貞明皇后の秘めた思い。そのただなかにいた三笠宮殿下と百合子妃の貴重な証言から、激動の時代を振り返る。
 貞明皇后の第4子である三笠宮崇仁(たかひと)親王が、100歳と11ヵ月の長寿を全うして旅立ったのは平成28(2016)年10月27日であった。眠るが如き大往生だったと聞いている。昭和天皇の3人の弟宮は、すべてこの世を去ったことになる。
 その10年ほど前に、私は三笠宮と百合子妃から貞明皇后についてのお話を伺う機会に恵まれた。幼少期から、母宮がどのように末の息子に接しておられたかなど子育てについてのお談話は貴重なものだった。それ以上に今でも深く印象に残っている体験談があった。
 それは戦争末期から昭和天皇玉音放送が流れるまで、4人の兄弟の上に流れた時間に関するものだ。
 すでに秩父宮雍仁(やすひと)親王結核のため御殿場で療養生活に入っていた。実際に軍人として動けるのは海軍の高松宮と陸軍の三笠宮の2人だけだった。高松宮天皇とは4歳違いと年齢が近く、戦局に関する意見も遠慮なく兄宮に語っている。その内容が『戦争指導』に関することだったため、『昭和天皇のご機嫌があまりよろしくなかった』という。
 一方、三笠宮はまだ29歳。天皇は44歳であるから、2人の兄ほど率直に話はできなかったのだろう。
 三笠宮によると、終戦の少し前に参謀という立場ではなく皇族として、高松宮と共に鈴木貫太郎首相に会った。
 『鈴木首相ももちろん講和しようという考えだったのですが、なんとしてもまだ陸軍が強いから鈴木さんとしても随分苦しかったと思います。高松宮はそれを側面から激励したんでしょうね。高松宮邸で空襲のさなかに鈴木首相と会って、大いに鈴木さんのネジを巻いた時のことは今でも印象深く残っています』
 日本全土がアメリカ軍の激しい空襲にさらされ、ついには、広島、長崎に新型爆弾(原爆)が投下される事態に至り、皇族たちも戦争の速やかな終息を求めていた。三笠宮も毎日のように高松宮や他の皇族たちと会って善後策を練っている。
 『昭和天皇は私的には兄弟に違いありませんが、公的には君臣でもあり、また、大元帥と一少佐という関係でもありました。公私の区別を峻別(しゅんべつ)される方でしたから、結果的には孤独で、寂しかったと推察いたします』
 この思いは3人の弟宮が共通して持っていた認識ではなかったろうか。そして、たとえ実の兄弟であっても、『筋道を通すことを優先する』のが昭和天皇だったとも語っている。つまり、政治向きに関しては、たとえ弟といえども、横から口を挾ませない。意見は聞くが、それに左右されないという強い信念を天皇は持っていた。それがどれほどの孤独であったかも、三笠宮は承知していた。
 連係プレーのように兄を訪ねた
 終戦を急ぎたい弟として、思いが兄に伝わらないもどかしさは、平成19(2007)年になって、インタビューに応じてくれた時でさえも、まだ見受けられた。
 昭和20(1945)年8月10日の御前会議において、鈴木首相が天皇に『御聖断』を仰いだのはあまりにも有名な史実である。天皇東郷茂徳外務大臣の出した案に賛成を示す。それはポツダム宣言天皇の存続のみを条件として受諾するという内容だった。予期していた通り陸軍大臣阿南惟幾が激しく抵抗した。しかし、天皇の意思は固かった。
 どうにもあきらめきれない阿南は、8月14日の夕刻、焼け跡の防空壕三笠宮を訪れている。何とか天皇にもう一度考え直してもらいたいので、お力添えを戴きたいという願いだった。だが、1日も早く戦争を終結させたいという三笠宮の考えは変わらなかった。
 自分の頼みが受け入れられず、悄然(しょうぜん)と去る阿南の姿を百合子妃がこう語っている。
 『宮様とお話しが済んで、防空壕のある谷からの上り坂を阿南さんが肩を落として、なんともお寂しそうな後ろ姿で帰っていらっしゃるところを見たのですが、こちらまで感傷的になったのを忘れられません』
 この時、百合子妃は22歳、阿南は58歳だった。
 阿南はその後、陸相仮官邸に戻り遺書と辞世を記して夜半に1人で割腹自殺を遂げた。
 翌8月15日に天皇終戦詔勅が、ラジオで流されたのを三笠宮夫妻は防空壕の中で聞いた。そして16日に三笠宮は御殿場の秩父宮邸に向かったという。
 いわゆる玉音放送のあった当日は、高松宮と喜久子妃が揃(そろ)って御殿場を訪ねている。高松宮の日記によると『御殿場へ、0520出門、0840着、1400発』との記述がある。正午の放送に備えて、午前5時20分には東京を出たのがわかる。
 高松宮夫妻が御殿場へ向かった理由を秩父宮勢津子妃は次のように推し量る。
『今になって思いますと、わざわざ朝早く東京をご出発になっておいでになりましたのは、天皇陛下の初めてのご放送で生のお声を国民が伺うことなど未曽有(みぞう)の出来事でしたし、しかも歴史上かつてない重大な内容のご放送ですから、ご兄弟別々にお聞きになるに忍びないお気持ちがおありになぅたのでしょう』(『銀のボンボニエール』)
 病床の兄を気遣っての高松宮の来訪だった。実は秩父宮も戦況の悪化については、よく承知していた。開戦以来、三笠宮高松宮は頻繁に御殿場を見舞いに訪れ、いつも1泊して語り合った。新聞、ラジオは戦局の真相を報じなかったが、秩父宮は2人の弟からの電話や手紙、あるいは直接に会うことで情報を得ていた。いくら東條英機の権力が増大しても、さすがに憲兵隊は弟宮の電話や手紙の検閲はできなかった。玉音放送のあった翌日には、三笠宮が来て1泊して帰る。まるで兄弟が連係プレーのように病床の兄を訪ねたのは、どれだけ3人の絆が強かったかを物語っている。
 もはや負け戦ということを、貞明皇后は無論のこと、天皇を含む4人の兄弟は知っていた。そのために皇族たちが『終戦工作』に奔走した記録は『東久邇日記』『高松宮日記』『木戸幸一日記』『細川日記』などに詳しいが、紙幅の関係で割愛したい。
 それにしても、なぜ弟宮たちは早期の終戦を、もっと強引に天皇に提言しなかったのかったかという疑問が残る。しかし、その背景には貞明皇后の覚悟があったからだという推測ができるのではないか。
 国民の規範となる家庭を築く
 ふり返れば、昭和11(1936)年に起きた『2・26事件』の際の天皇の怒りは凄まじかった。この時期、秩父宮は決起した将校たちにある種のシンパシーを感じていたという説がある。実は、あの事件の翌日に秩父宮は将校たちのために弘前から上京したというデマが流れた。さらには『秩父宮天皇さまに代る』といった噂がささやかれた。2・26事件には当時の日本人の欲求不満にこたえる要素がいろいろと含まれていたので、『《秩父宮による昭和維新》という幻影を生んだ』のではないかと作家の安岡章太郎は書いている。(『僕の昭和史Ⅰ』)
 これに貞明皇后がどのように関与したか詳しい資料はないが、インタビューの途中で、百合子妃が何度か繰り返した言葉は忘れられない。
 『どんな時でも大宮さま(貞明皇后)は、まずは天皇陛下を「お上御一人」としてご尊敬でした。宮様方は陛下を助けて協力するようにというお気持ちにお変わりはありませんでした。』
 それでも、貞明皇后は実は秩父宮をご寵愛だったとか、あるいはご自身が実権を握りたいと考えておられたと書く文献もありますが、私がしつこく尋ねると、日ごろ穏やかな口ぶりの百合子妃が、はっきりと首を横に振られた。
 『そんなことは、私が上がってからは、もちろん聞いたことも見たこともありません。その前から大宮さまはずっと陛下をご尊敬で、陛下のおためにと常におっしゃっていましたし、他の宮様たちにもそうおっしゃっておられました』と確信に満ちた声で語った。
 はっと背筋が伸びるような気持ちで、私は百合子妃の言葉を聞いた。
 4人の息子の母として、貞明皇后は何より家族の結束を強く願っていた。3人の弟たちが協力して兄の天皇を助けないで、何が皇族だ、何が皇室だという思いを強く秘めていたのではないだろうか。
 日本の国民の規範となるべき家庭を築くという信念のもとに、貞明皇后は生きてきたのである。だからこそ、こだわった息子たちの配偶者選びでもあった。
 三笠宮の幼少期、一緒に暮らすことは叶わなかったが、養育に関しては実に細かい気配りを見せている。叱るというよりは、本人に自覚させるように仕向ける育て方だ。
 自分でわら半紙に『投げててよきもの』『本当に投げてよきもの』などと細かく記す。
 幼い頃の三笠宮が、窓からなんでも投げてしまう。あまりに度が過ぎたので、皇后は決まりを作ったわけだ。
 貞明皇后の采配は見事だった
 では、何を投げてよいのかというと、枕のような柔らかいものはかまわない。しかし、カメラなど機械類はいけない。そんなふうにして、子供が自分で 考える余地を与えるのである。
 『何といっても母宮様のこまやかなご愛情とお叱りになるところはきっちりとおっしゃる、そういう諄々(じゅんじゅん)と諭されるようなご養育方針が素晴らしいものだったと思われますね』と百合子妃は語った。
 三笠宮の幼少期には、常に御養育掛長、御養育掛、御用掛といった大人たちが傍らに控えていた。成績は優秀で、心配を掛けることもなかった。これは秩父宮高松宮も同じだったらしい。
 ……
 その後70年以上の歳月を三笠宮は百合子妃と幸せな結婚生活を送ったのであるから、貞明皇后の采配は見事だったというしかないだろう。」
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 戦争を止めるか続けるかは、大国・戦勝国の専権事項であって小国・敗戦国には権利はなかった。
 つまり、白旗を掲げ降伏を表明し、武器を置き抵抗の意思のない事を示し、投降する為に両手をあげえて姿を現しても、勝者に生殺与奪の権が与えられている為に殺すも助けるも自由にできた。
 一切の権利が認められていない敗者には、たとえ殺されても文句は言えなかった。
 それが戦争である。
 日本人が好きな「負けて勝つ」は、世界戦史には存在しない。
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 昭和天皇や軍国日本が早期に戦争を終結させられなかったのは、アメリカのイギリスによるカサブランカ会談(1943年1月)で「無条件降伏の原則」が決定されたからである。
 無条件降伏によって、ヒトラーは自殺、ムッソリーニは市民による公開リンチ処刑、イタリア国王追放、その他の枢軸国指導者は戦犯として処刑もしくは国外追放(受け入れ国は存在しない)。
 つまり、無条件降伏とは負けた統治者・指導者に対する「死の強要」であった。
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 共産主義者は、戦争反対の平和主義者でではなく、天皇・皇室のない人民の平和主義であり、天皇制度廃止・皇室消滅の戦争は賛成し、事実、暴力的人民共産主義革命を画策していた。
 つまり、俗に言う「共産党の陰謀」である。
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 ワシントン、ホワイト・ハウス、フランクリン・ルーズベルト政権内には、スターリンの指示で動く共産主義者が多数潜み、反天皇反日本政策を誘導していた。
 アメリカにおける共産主義汚染は、後のレッド・パージが証明している。
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 昭和天皇明治天皇に匹敵する業績を残した優れた帝である以上、明治天皇同様に昭和天皇個人の独立した天皇が親拝する神格高い神宮があって然るべきである。
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 軍国日本はもちろん昭和天皇ヒロシマナガサキ原爆投下における責任は、一切なく、誰に対しても謝罪も賠償もする必要はない。
 何故なら、昭和天皇と軍国日本は8月10日まで連合国(国連)から降伏が認められていなかった、からである。
 その決定は、アメリカのルーズベルト大統領、トルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連スターリン書記長、アメリカ・ユダヤ人勢力(国際金融資本・世界的軍事産業、その他)らによる最高レベルの国際政治戦略であった。
 国際的反天皇反日勢力の手先が、毛沢東中国共産党であった。
 彼らは、世界正義と世界平和の大義の為に、昭和天皇と軍国日本・軍部・陸軍が自己犠牲的に行った歴史的人道貢献を抹消した。
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 現代日本人は、皇室に対する敬愛は薄く、元皇族・元宮家に対して薄情・冷淡である。
 その証拠が、女系天皇即位・女系宮家新設賛成という国民世論が70%近くと多数派を占め、与野党の政治家や専門の学者・教育者の中にも正統性無視の女系天皇即位派が少なからず存在している。
 正統性消滅の女系天皇即位を主導しているのは、反天皇反的日本の共産主義者マルクス主義者)とキリスト教会である。
 一部のメディア・報道機関の皇室報道は、ウソ・捏造・歪曲が多く、尊厳を踏み躙り、敬意を無視し、一片の礼儀すら感じない、酷いと言うより敵意を含み、国民の間に天皇・皇室、皇族・宮家に対する憎悪・嫌悪を増幅させようとしている。
 その傾向は、リベラル派・革新派そして一部の保守派の高学歴出身知的エリートに強い。
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 昭和天皇と皇族は皇室として、覚悟を持ち、責任ある、責任から逃げず、責任を取る行動を取っていた。
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 アメリカ、イギリスなど自由・民主主義陣営とバチカンや国際赤十字社は、ホロコースト情報を得ていながら、ヨーロッパ・ユダヤ人約1,000万人を見捨て救おうとはしなかった。
 1939年5月のセントルイス号事件は、大統領の犯罪であり、カナダなども共犯であった。
 個人として、死の危険を冒してユダヤ人を助けた勇気ある人びとは数が少なかったが存在していた。
 が、国内の反ユダヤ勢力の反対を押し切って助けた国家はなく、むしろ国家権力・警察権力を行使し行政機関・公共機関を使ってホロコーストに協力した政府は幾つも存在した。
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 沖縄戦敗北後、政府と軍部は、主戦派に気付かれないように終戦交渉に入る事を決め、交渉の仲介者として期待したのがソ連スターリンであった。
 「鉄砲数撃てば一発は当たる」的に、外務省・海軍省陸軍省そして皇室は、個別に、スイスで思いつく第三者を仲介者に立ててアメリカの諜報機関OSSと極秘に終戦交渉を行った。
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 スターリンソ連は、日本への復讐と共産主義化の戦略から、南樺太、千島列島、北方領土4島、北海道半分を強奪する為に、日本側に期待を持たせて上手くあしらっていた。
 毛沢東中国共産党は、日本で人民革命を起こして転覆させ天皇制度を廃絶させるべく、アメリカ・ユダヤマルクス主義者を通じて日本人共産主義者と洗脳日本人元兵士を日本に送り込む手筈を整えつつあった。
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 アメリカ・ホワイトハウスアメリカ軍首脳部は、対ソの政治的理由と議会に対する軍事費に伴う財政的理由で、二発の原爆投下実験が終わるまでは日本の降伏を受け入れない事を決定していた。
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 アメリカ・イギリスは、日本の外交暗号解読で日本が早期降伏を望んでいる事を知っていた。
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 アメリカ軍もイギリス軍も、原爆投下を行わなくとも、米英の連合国が今すぐ決断すれば戦争は日本の敗北で終結する事を知っていた。
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 日本は戦争を止めるに止められない状態に追い込まれていた。
 日本には、原爆投下もソ連参戦も止める手立てがなかった。
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 アメリカを支配していたのは人種差別で、ユダヤ人、アフリカ系アメリカ人、日系アメリカ人そして日本民族日本人は嫌われ迫害を受けていた。
 古代から中世にかけて、ユダヤ人はどれいであった。
 中世では、日本人とアフリカ人は奴隷であった。
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🌈18)19)─1─日本文化としての「香り」。香道。線香。蚊取り線香。線香花火。〜No.35No.36No.37No.38 ② 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 天皇下駄論。人智を超えた面倒な事・どうにもならない事・始末におえない事は全て天皇に任せて預けてなかった事にする。
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 日本民族は、生真面目が苦手で、ふざけて遊びたがる。
 後白河法皇。『梁塵秘抄
 遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。
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 2020年12月号 Voice「日本文化 舘鼻則孝
 日本人の柔軟性と神仏習合
 『半沢直樹』と歌舞伎
 ……
 昨今、韓流作品が評価されていますが、私は『半沢直樹』のような作品も堂々とした『日本作品』として、その娯楽性や芸術性が世界でも評価されてほしいと願っています。
 4代目市川猿之助氏は、3代目から『スーパー歌舞伎』を引き継ぎ、伝統的な歌舞伎に新たな要素を吹き込み続けています。その精力的な活動をみて、私は日本人が備えているある種の『拘(こだわ)りのなさ』を感じます。もちろん、それは悪い意味ではない。『拘り』という言葉は本来、『ちょっとしたことを必要以上に気にする。気持ちがとらわれる』などの意味です。
 コロナ禍以降、日本人の『同調圧力』について語れる機会が増えたように思います。議論自体を否定するつもりはありませんが、私はむしろ日本人とは、何事にもとらわれない心、柔軟性という特性を備えていると感じます。日本の代表的伝統芸能である歌舞伎は、時代の変化に対応しながら、ときにはフォーマットを変えて強(したた)かに生き残っています。多くの日本人に愛されていて、世界からも評価されている。その土壌のような役割を果たしているのが、日本人の柔軟性ではないでしょうか。
 仏教も神道も残った
 私は以前、『香(こう)』を作品づくりのテーマに掲げました。大陸から伝わった香木の文化は、日本という土壌で独自に進化を遂げて、『香道』というかたちで大成しました。そして現在では、原料のほとんどはインドや中国に依存しているにもかかわず、文化としてもっとも成熟させているのは日本であり、中国の僧侶が日本の香を使用しているという話があるほどです。
 詳細は私が先の展覧会でコラボレーションした松栄堂のホームページをご覧いただきたいのですが、仏教儀礼の一つとして伝来した香が奈良、平安、鎌倉、室町、そして江戸という時代を経(へ)て『道』として確立し、線香というかたちで大衆化した。その過程は、私は『日本らしい』と感じずにはいられません。
 なぜ大陸よりも、日本で『香』が発展したのか。あえて俗っぽい表現をするならば、私は『横槍(よこやり)が入らなかった』点が、理由の一つに挙げられると考えています。何事も絶対的な指導者がいたり、一つの確固(かっこ)たる理念が存在して収斂(しゅうれん)されたりすると、『いや、それはやり方が違う』『その手法は認めない』というように守破離(しゅはり)でいうところの『破』が許されません。その一方で、島国という地理的な特性も備わっている日本においては、物理的にも横槍が入る余地は少なく、文化や思想が独自の発展を遂げやすい環境だったのではなかったでしょうか。
 香が伝わるきっかけにもなった仏教伝来に関しても、当時より神道派の物部氏と仏教派の蘇我氏の対立はあっにしても、それは『神道か、仏教か』という二択ではなく、『神仏習合』という共存のかたちに落ち着きました。そうして令和の時代にまで続き、いまを生きる私たちは除夜の鐘を聞いた後に初詣に行く習慣を自然に受け入れている。あらためて考えれば、この柔軟性は驚異的とすらいえます。
 この記事を書いている最中にも、フランスの学校教育の現場において、宗教風刺画をめぐる痛ましい事件が報道されています。そうした宗教対立について議論するのは本意ではありませんが、いまこそ日本人の柔軟性は、それはある種の寛容さとも表現できるかもしれませんが、再評価すべき局面を迎えているのではないでしょうか。
 ……」
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 日本文化と中国文化・朝鮮文化とは違う。
 縄文時代は先住民文化。
 弥生時代は客人(帰化人・渡来人)文化。
 奈良時代は豪族(大王家)文化。
 平安時代は王朝=朝廷(皇室・公家)文化。
 鎌倉時代仏教文化
 室町・戦国時代は武家文化。
 江戸時代は庶民文化。
 明治・大正・昭和時代は資産家文化。
 平成時代はオタク文化
 令和時代は・・・。
 日本民族は、ごく有り触れた日常の些細な出来事の中に興味を持ち魅力を見いだすと文化にし、それを究める為の純粋精神修行・求道の「~道」に引きあげる。
 それは、唯一絶対的排他的不寛容価値観ではなく、多種多様な共存共生の相対的寛容価値観の確立である。
 全てのモノに価値を持たせて存在を認め居場所を与える、それが日本民族の日本文化であり、日本文明であった。
 それを可能にしたのが、天皇の御威光という皇室神話であった。
 日本には、1000年以上続く神社仏閣建設=宮大工など匠の技を受け継ぐモノ作りの老舗が存在する。
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 中川政七商店の読みもの
 2019年11月24日
 香道を京都で体験。日本三大芸能のひとつ「香りを聞く」習い事の魅力に迫る
様々な習い事の体験を綴る記事、題して「三十の手習い」。今回は茶道、華道と並ぶ日本の三大伝統芸能「三道」のひとつ、「香道」の体験レポートをお届けします。
 香道とは?日本最古の御香調進所「薫玉堂」で学ぶ
 JR京都駅から北へ徒歩15分ほど。浄土真宗本願寺派の本山、西本願寺前に本日体験にお邪魔する薫玉堂 (くんぎょくどう) さんがあります。
 お店に入った瞬間から全身を包むやわらかなお香の香り。
 桃山時代にあたる1594年創業の薫玉堂さんは、本願寺をはじめ全国の寺院へお香を納める京都の「香老舗」です。
 店内には刻みの香木 (こうぼく) やお線香、匂袋をはじめ、お寺でのお勤めに使う品物まで、ありとあらゆる種類の「香りもの」が並びます。
 そもそも「香道」とは、室町時代の東山文化のもとで花開いた茶道や華道と並ぶ日本の三大伝統芸能のひとつ。薫玉堂さんでは香道を気軽に親しめるようにと、定期的に体験教室を開かれています。
 教室はまず座学からスタート。お店の方が直接講師になって、お香の種類や歴史を学ぶことができます。
 お香の歴史は4000年前のエジプトから?
 伺ったお話によると、お香のもっとも古い記録は4000〜5000年前のエジプト文明までさかのぼります。出土した当時のお墓の中に、遺体の保存状態をよくするためのお香が敷き詰められていたそうです。
 現代ほど入浴の文化も設備もなかった時代には、香りはいわばエチケット。香木 (こうぼく。芳香成分を持つ樹木) を粉末にしたものを体に塗る習慣もあったそうです。仏教が広まると、その修行やお勤めの中で用いられるようになりました。
 日本で初めて文献に登場するのは、なんと日本書紀。590年代、推古天皇の時代に淡路島に流れ着いた香木が聖徳太子に献上された記録が残されています。
 そもそも、香木とは?
 一般的に言う「香料」には、植物の花、実、根、葉、樹を用いるものからじゃ香 (ムスク) など動物由来のものまで幅広い種類があります。
中でも樹木から採れる「香木」は原産地が限られ、古くから珍重されてきました。
 白檀 (びゃくだん) や沈香 (じんこう) という名前を聞いたことがある人は多いかもしれませんが、どちらも香木の種類を指します。
 沈香ジンチョウゲ科の木が熟成されたものですが、特定の地域にのみ繁殖するバクテリアが偶然に作用して初めて香木になるため、白檀も沈香も、日本では産出されないそうです。
 沈香の中でも有名な伽羅 (きゃら) は、なんとベトナムでしか採れないのだとか。現代でも価格が金よりも高いと聞いて驚きました。
 現存する日本最古の香木、蘭奢待 (らんじゃたい) は現在も奈良・東大寺正倉院に保存され、国宝を超える宝として「御物(ぎょぶつ)」とも呼ばれています。実物には織田信長明治天皇が一部を切り取った跡が残されているそうです。
 なぜ香りは「聞く」のか?
 座学の最後に講師の方から伺ったのが、なぜ香りを「聞く」というのか、というお話です。
 「香道では香料の中でも香木の香りを聞きます。聞香 (もんこう) とも言います。
 『聞く』という言葉には、身体感覚を研ぎ澄まして微妙な変化を感じ取る、聞き『分ける』という意味合いがあります。心を沈めて、瞑想し、思考する。そうして香りを楽しみます。
 今日体験されるのは香りを聞きくらべる『組香 (くみこう) 』のうち、3種の香りを比べる『三種香』です。
 3種類の香木をそれぞれ3つずつ用意して打ち混ぜて、取り出した3つの香りがそれぞれ同じものか違うものか、当てていただきます。
 聞香を行う部屋を香室 (こうしつ) と言います。部屋に入ったら心を落ち着けて、聞いた香りを頭の中で具体的にイメージに起こすことが大事ですよ。『ああ、一昨日食べたプリンに似ているな』とかね (笑)
 こうしたゲーム的な要素を持っているのは、三大芸能の中でも香道の特徴です」
 最後には楽しみ方のアドバイスもいただいて、いよいよ体験に向かいます。
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 <取材協力>
 薫玉堂
 京都市下京区堀川通西本願寺
 075-371-0162
 https://www.kungyokudo.co.jp/
 文:尾島可奈子
 写真:平井孝子
 着付け協力:大塚呉服店
 *こちらは、2017年11月4日の記事を再編集して公開しました。
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 ウィキペディア
 香道(こうどう)とは、沈水香木と言われる東南アジアでのみ産出される天然香木の香りを鑑賞する芸道である。近年、文化の復興が目覚ましい中国や韓国などで「中国香道」「韓国香道」などと「香道」という文言を使用しているが、「香道」自体は日本独自の芸道である。香道は禅の精神を大事にし、礼儀作法・立居振舞など約束事の多い世界であり、上達するにつれ古典文学や書道の素養も求められる。しかし、香道の原点は何よりも、香りそのものを楽しむことにある。 香道においては香を「聞く」と表現するのが正式であり、「嗅ぐ」という表現は不粋とされる。香木の香りを聞き、鑑賞する聞香(もんこう)と、香りを聞き分ける遊びである組香(くみこう)の二つが主な要素である。香木は生き物、その一つ一つに魂が宿ると考え、この稀少な天然香木を敬い大切に扱う。大自然の恵み、地球に感謝し、そして彼らが語りかけてくる事を聞き取らなければならないと考えるのである。
 歴史
 日本書紀によると、香木は推古天皇3年(595年)に淡路島に漂着したといわれる。日本香文化の源流は古代インドから中国をへて、仏教と共に入り、香木が焚かれるようになることに始まる。平安時代になると、宗教儀礼を離れて、香りを聞いて鑑賞するようになり、薫物合せ(たきものあわせ)などの宮廷遊戯が行われた。この宗教の香・貴族の香に鎌倉時代以降の武士の香、そして禅の教えが加わり、茶道・華道・能などとともに室町時代に誕生、婆沙羅大名はじめ一部上流階級の贅を極めた芸道として発展する。なかでも香道は、それら中世芸道のエッセンスを凝縮した文化として洗練度を高め、当時としては非常に稀少な東南アジア産の天然香木を研ぎ澄まされた感性で判別するという、独自の世界を構築するにいたる。この頃、それぞれに異なる香りを有する香木の分類法である「六国五味」(りっこくごみ、後述)なども体系化された。
 慶長11年(1606年)頃から徳川家康による朱印船貿易が行われるようになるが、主目的は極上とされた伽羅の買い付けに絞っており、香道の用材として必要としていたからである。
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 香文化と香道
 香文化と香道仏教とともに祈りの香として日本に伝えられた香の文化。
 香が伝えるものを心で聞き取るということから、「香を聞く(聞香・もんこう)」という言葉と行為が生まれ、広まります。
 香の伝来からおよそ千五百年の時を重ね、室町時代の終りの頃から、香は芸道の形(香道)を作り始め、江戸時代に「香道」は現代に伝えられる基本の形を整えていきます。
 香の歴史
 推古三年(595年)淡路島に漂流した一本の流木を島人が火にくべたところ、喩えようのない芳香が立ち上がり、島人は驚愕します。
 その流木は都へと運ばれ、推古女帝に献上され、摂政の聖徳太子がこれは稀有の至宝「沈香」であると教えたそうです。
 香文化は、仏教と共に「祈りの香」として伝わり、広まってゆきます。

 香は時を経て平安期の貴族たちによって「遊びの香り」へと発展しました。
 仏前に供えるだけでなく、部屋にたき込めたり衣装にたきしめたりと、香りそのものを楽しむようになったのです。
 さらに「香」は平安貴族たちの知性感性のかたちであり、自己の美意識の表現や身分の証となりました。こうした香のある平安期の雅な有り様については、「源氏物語」や「枕草子」などからも、詳しく知ることができます。

 その後、鎌倉時代からは、武将たちが荒々しい戦の合間の安らぎとして、香と茶を大切な嗜みとし愛好しました。
 武士の嗜好や美意識はさらに香木の価値を求め、一本の香木の賞味やたき比べへと香の愉しみも変化していきました。

 室町時代の後半に登場した八代将軍足利義政は、後に芸道となる香の体系の元を作り、公家の三条西実隆公を祖とする「御家流」、武家の志野宗信を祖とする「志野流」の二大流派がやがて誕生し、香道文化を継承発展させていきます。

 江戸時代に入り豪商や町人の間にも香が広まり、この時代に伽羅は極上品の代名詞となり、江戸文化の中に広まります。
 こうして香は生活文化として、また遊びの文化として、日本の精神文化に欠かせない役割を担ってきました。

 明治時代を迎えると、文明開化の波とともに、日本的な香道は衰微した時期もありました。
 しかしその西洋文化の刺激により、香水香など現代の新しい香文化が芽生えます。

 現在は、日本独自の伝統文化「香道」の真価が見直され、より幅広い"和の文化"として、国際的にも注目を集めており、海外において香席イベントが開催されるなど「新たな香道時代」の到来を予感させています。

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 香は、宗教儀式として使われていた。
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 日本の香りは、香木と香花で、仏教寺院から公家に、武士に、豪商・豪農の金持ちから一般庶民の趣味・嗜みとなった。
 生活の場では、仏壇に供える線香と虫除けの線香など多様な用途で多くの種類がある。
 そして、香りを競う香道に発展した。
 日本文化の~道は、技=奥行きの正統を親から子への一子相伝として世襲制によって受け継がれていく。
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 西洋の香りは、香木と香花などから水・香水を抽出し、教会から王侯貴族に、そして富裕層のエチケットとして広まった。
 西洋の香り文化は、職人による製造方法は企業の商品として受け継がれていく。
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🏞97)98)─1─琉球王国は独立国ではなかった。徳川幕府は薩摩に琉球防衛の為の派兵を許可した。~No.374No.375No.378No.379 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 もし、日本が、ロシア・清国(中国)・朝鮮そしてイギリス・フランス・アメリカなどと負ける事が分かっている絶望的戦争をする時、両軍の間に位置する琉球人とアイヌ人が日本の味方になるのか敵になるかであった。
 もし、琉球人とアイヌ人が日本の祖国防衛戦争に対して中立を宣言する時、それは日本に対する敵対的中立となる。
 その良い例が、日露戦争時に大韓帝国が行った日本に不利となる局外中立宣言であった。
 当時の世界では、敵か味方かの二つしかなかった。
 勝ち馬に乗りたいと思えば、負ける日本を敵として戦う。
 朝鮮人は敵・反日派・敵日派であって、日本国の味方・友好国・親日派知日派でもなければ、日本人の友人・親友でもなかった。
 日本人にとって朝鮮人は戦友ではなかった、苦楽を共にできないし、生死を共にできないし、命を預けて戦えない、信用も信頼もできず、頼れないし、当てにできない。
 日本民族にとって、琉球人やアイヌ人は朝鮮人と同じ人間・他人なのか。
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 2020年12月号 正論「『週刊金曜日』への反論
 『琉球王国は独立国』はウソ
 仲村覚
 9月25日発売の『週刊金曜日』に《『琉球先住民族』の国連勧告に反撃、右派が地方議会巻き込み『歴史戦を仕掛ける』》というタイトルで2ページに渡る論文が掲載された。私が推進した『琉球沖縄の人々を先住民族とする国連勧告』の撤回運動を批判した内容である。
 私はオピニオンサイト『View Point』に、2016年4月1日付で、《日本民族再興のチャンス、沖縄の〝歴史戦〟》というタイトルの論文を寄稿した。
 『週刊金曜日』は、その論文の《沖縄の人々を先住民族とする誤解の根源は、日本国民全体に『明治12年の沖縄県設置まで、琉球王国は独立国だった』という誤った認識が浸透し、それを『琉球処分』と称し、『明治政府の強制併合(侵略)により琉球王国は滅びた』という洗脳により180度逆の歴史にすり替えられてしまったことにある。沖縄県の設置は近代国家における日本民族統一の歴史である》というフレーズを引きようしたうえで次のように批判している。
 《仲村氏は琉球王国が独立国ではなく日本の一部だったと主張したいのだが、琉球王国は日本が江戸時代末期の1850年に米国、フランス、オランダとそれぞれ修好条約を結び、欧米諸国から独立した国とみなされていた。もうひとつは『明治12年の沖縄県設置』、つまり1879年の琉球併合(琉球処分)の問題だ。明治新政府はこの年、軍隊を派遣して武力を背景に琉球王国首里城から退去させて東京へ連行。琉球王国の併合を強行し植民地化した。その後、日本は沖縄を同化・皇民化政策を進め、『沖縄戦』では本土決戦を遅らせる『捨て石』として、戦後は米軍の占領・軍政を経て復帰した沖縄に米軍基地の負担を押しつけるなど差別政策をとっている》
 こうした嘘が、国連による沖縄の人々を先住民族とする勧告を肯定している。彼らの批判は詰まるところ、『琉球は条約を主体的に締結した独立国だった』が果たして事実か否かに帰着する。それが事実なら『強制併合された』が成り立ち、『沖縄の人々が先住民族で、日本から差別されてきた』という話が論理的に成り立つ。
 しかし私は本稿で『幕末の琉球は既に日本の一部』であると立証し、批判が成り立たないことを示す。必然的に琉球処分は他府県と同じ『廃藩置県』にほかならず、内政上の施策であったことも示す。琉球は、米仏蘭と修好条約を締結したが、それは、薩摩の富国強兵政策の一つであり、幕藩体制に組み込まれていたことを証明することによって、『週刊金曜日』の『沖縄の人々は先住民族』論を論破するものである。
 見落とせない薩摩の外交戦略
 まずはじめに、『週刊金曜日』の批判だが、封建制度の江戸時代の外交問題を近代国家の常識で批判している。ここが根本的かつ大きな誤りだと指摘する。実は幕藩体制下において、諸藩が独立国であるかのような行動をした事例は少なくない。
 薩英戦争が代表的な例である。薩摩藩は単独でイギリスと戦争し、英側の要求である2万5,000ポンドの賠償金を支払うことで講和までしている。琉球が外国と条約を締結したことをもって独立国というのなら、イギリスと戦争をした薩摩こそ独立国といわなければならない。しかし、江戸時代の薩摩が日本とは異なる独立国とする学説は存在しない。何故なら、幕藩体制において、地方の大名は、徳川幕府への忠誠を誓うが、それぞれが独自の軍隊や徴税権を持つ、半独立国だったからだ。
 江戸時代には諸藩が300あったといわえている。薩摩藩は72万8,000石と全国で四位の石高の大大名だったが、その内の12万4,000石は琉球国の石高だったのだ。琉球国は石高では30位の立派な大名だ。しかし、琉球国は薩摩の領土であり、薩摩藩の中には、薩摩国大隅国などが存在するのと同じように。琉球国も含まれていた。ここで、薩摩支配の琉球の地位を確認しておく。
 1609年、島津家久琉球の義務不履行と非礼を理由にして討伐の軍を送り、尚寧(しょうねい)王を降伏させ、掟15カ条を布告し、これにより琉球の対外貿易を完全に統制した。
 1628年には、琉球への出先機関として在番奉行を設置し間接統治を確立した。一方、明国の冊封使が渡来すると、薩摩藩の役人は首里那覇から姿を消すなど、薩摩と琉球の関係を漏れないようにした。諸外国は、琉球が独立国であると見ていたが、その実態は、薩摩が実効支配していた。
 朝貢先でる明国や清国の出先機関琉球に存在したことはなく、琉球に対して法律や徴税を課したこともない。清の時代に漢民族のように辮髪を強要されることも無かった。朝貢冊封関係とは、名目的儀礼的にすぎなかったのだ。
 さて、そのような位置づけにあった琉球は、地政学的要衝にあるため、幕末において真っ先に西洋列強の開国圧力に襲われた。
 琉球と米仏蘭は条約を締結したが、これで単純に琉球を独立国と見做して独立国と外国との条約締結と同一視するのはあまりにも実態と懸け離れている。その背後にあった薩摩や江戸幕府の対応をあわせて把握することで本当の歴史が見えてくる。薩摩と江戸に最も大きな衝撃を与えたフランス軍艦来琉事件の経緯を辿りながら確認してみたい。
 仏の軍事圧力への対処策
 ペリーが浦賀に姿を現す9年前の1844年4月28日、フランスの軍艦『アルクメーヌ号(艦長デュプラン、乗員230人)』が通信、貿易、布教の許可を求めて那覇に到着した。フランスは、アヘン戦争で清国に勝利し南京条約で様々な利権を得たイギリスと競うようにやってきたのだ。
 当時の琉球は薩摩の支配下にあり、鎖国令に従って全てを頑なに拒否したが、フランス軍は強引にフォルカードという神父と中国人の通訳を上陸させた。フランス側によると、やがて皇帝の名のもとに大艦隊が条約を締結しようと訪れるので、その時に備えるべく『琉球語』を習得させるというもので、フォルカードは護国寺に保護された。
 この前代未聞の大事件は、決して琉球だけの問題だけの問題にとどまらず、即座に江戸に滞在する薩摩藩主、島津斉興に報告された。那覇から鹿児島県の山川港までは飛船、そこから江戸までは早馬で伝えられた。琉球フランス軍艦に関する報告を聞いた斉興は老中、阿部正弘に内申した。フランス軍艦による琉球開港圧力は、幕府にも衝撃を与えたのだった。
 老中、阿部は8月11日、家老、調所笑右衛門に琉球への警備兵派遣を命ずる。薩摩は二階堂右八郎を責任者として総勢75名を琉球に派遣したのだが、これは紛れもなく琉球が独立国ではない証拠で、江戸幕府や薩摩が琉球を守ることに責任を持っていたことを物語るものだ。
 薩摩が琉球を守ることに知恵を絞っていたことがわかる文書も存在する。薩摩藩士、五代秀堯が執筆した『琉球秘策』である。軍事圧力を背景にした琉球へのフランスの開港圧力に薩摩藩としてどう対処すべきか、問答形式で具体的に論じたものだ。
 それは、『琉球ノ処分ハ、絶ト和トノ二策ヲ主トスヘシ』と武力で抵抗することの不可能を説き、琉球における和交の方策を具体的に論じている。重要箇所の口語訳(訳者、高里智佳女史)を紹介する。
 《琉球でいったん戦争が起これば薩摩藩は精兵大群を送って戦うことになるが、海上の戦いでは勝ち目は無く、たとえ首里城を拠点に戦っても多勢に無勢で、中山王かならず降伏し、外は急卒の応援無く最後の勝利を期待することはできない。しかも、大軍を琉球に派遣すれば、薩摩藩の守りが空虚となるだろう。そこにヨーロッパ諸国が連合して押し寄せれば、是よりして日本国中の干戈となるべし。故に琉球の処分は絶と和の二策を主とし、決して『戦』の選択肢を用いてはならない》
 『琉球秘策』では、このように琉球防衛、薩摩防衛、日本全体の防衛を一つの防衛戦略としてリアルにシミュレーションしていた。その結果、交渉によって鎖国を貫き通すことができない場合は開港するべきだと説いている。しかし、単に開港しただけではいけないと戒めてこう続けている。
 《通商が始まれば、西洋人の勢いが強まり、侵略のきっかけを生むことになる。故に、これから、こちらも別段の武器や力をつけるために兵を稽古させ、おれに備え、西洋人の勢いを抑える。武器や力をつけることを第一にすべきこととなる》
 つまり、これまでの江戸幕府鎖国という祖法を見直して、開港し、西洋列強を上回る軍事力をつけるべきだと説いたのである。これこそが富国強兵という思想のルーツであり、それは薩摩の琉球防衛から始まったのだ。
 ちなみに、明治時代に富国強兵策を推進した五代友厚は五代秀堯の次男である。
 島津斉彬の幻の軍艦購入計画
 斉彬は、フランス軍艦が来琉した翌年には幕府の許可がおり江戸から薩摩に戻り、藩主島津斉興に代わり、先頭に立って指揮を取った。その時、斉彬の頭の中にあったのは、鎖国の徹底ではなく琉仏貿易の推進による富国強兵政策の実行である。
 斉彬は、薩摩に到着した直後に琉球に対して、布教以外は全て受け入れるように飛船で指示を出している。また、『運天港(今帰仁村)に商館を建て、薩摩の資金を投入しフランスとの貿易を開始。そうすれば、琉球も利潤が大きくなる』と説得した。
 しかし、琉球側は、いくら薩摩の意向とはいえ、こればかりは受け入れられないと回答。だが、斉彬の琉球開国準備は着々と進められ、1855年11月24日に琉仏修好条約を締結したのだ。ペリーと琉米条約締結の1年後である。
 結局、琉球のフランスとの条約締結は、琉球の主体的に行ったものではなく、島津斉彬の戦略の中で締結されたものだったのだ。
 フランスとの条約の締結を実現したあと、斉彬は、腹心の市来正右衛門に1857年8月17日から23日にかけて途方も無い密命を一つ一つ与えた。
◇英・仏・米の三国に薩摩の留学生を派遣させ(薩摩から6人、琉球から3人)語学、砲術、航海、造船を学ばせ、各国の情報収集も担わせること。
◇先島漂流民保護のため台湾に琉球船の停泊港を設け、貿易を開くこと。
琉球と大島の二港で中山王名義で外国貿易を始めること(外国とは当面オランダ、フランス)。
◇蒸気船2隻(軍艦1隻、商船1隻)と年間五千丁から七千丁の製造能力のある小銃製造機を琉球名義で買い入れることなどである。
 最後の密命は、最も重要なもので、日本中で数十万丁の銃は必要であり、他藩や幕府にも売り、そのお金で、薩摩の国防を完成させることを考えていた。だから、なるべく早く購入するように命じていたのだ。
 市来は、10月10日に那覇に渡り、11月3日に琉球当局にこの密命を伝えた。当初、外国貿易と留学生派遣等は勘弁してほしいと拒絶してきたが、市来が藩主斉彬の『琉球一国の都合でもって、日本の安危(あんき)に及ぶこの計画を断(ことわ)らぬように』という命を伝えたところ、11月中旬には全てを受諾した。
 翌年の2月17日、市来は琉装して、『トカラ島医師伊知良親雲上※』と名乗って、牧志親雲上とともに仏人らを訪問、交渉を開始した。ジラールら仏人は喜び、香港のフランス領事に斡旋。その交渉は7月26日まで続き、8月2日、『トカラ島医師』伊知良親雲上こと市来正右衛門。恩河親方、牧志親雲上らが久米松尾山の仏人ジラールと会見、漢文、仏文の契約書を交した。
 無事、重大な密命を成し遂げた市来は、斉彬に報告(おそらく飛船を派遣したものと考えられる)。
 しかし、その時、既に斉彬は逝去していた。
 ……
 薩摩では反斉彬の一派が息を吹き返し、市来には、斉彬の密命をすべて破棄して、帰国せよとの命令が届いたのだ。
 窮地に陥った市来は腹を切って、仏人に謝罪しようとしたがみんなが止めて、一計を案じた。……
 9月14日、摂政、三司官、交渉官らは松尾山の仏人を訪ね、牧志が中心となって説得。約5時間ほど交渉し、ようやく違約金1万ドルを支払って、契約解除にこぎつけ、契約書を取り返したのだ。
 ……
 このように、フランスとの貿易は鎖国下の薩摩の最も重要な富国強兵政策のひとつであり、琉球当局の役人は斉彬の手足として動いていたのだ。
{※『親雲上』ペーチンと読み、琉球国中級士族の称号}
 『薩摩&琉球』の視点で
 最後に薩摩と琉球の深い関係を示す幕末の出来事を紹介する。1867年、パリ万国博覧会が開催され、日本は初めて参加した。薩摩藩は『日本薩摩琉球国太守政府』を自称して出展した。その目的は幕府とは別の『独立国』であることを国際社会に伝え、ヨーロッパにおける幕府の権威を失墜させ、フランスの幕府への資金援助をとめることにあった。
 その戦略の極めつけが勲章の制作と贈呈であった。その勲章は、赤い五稜星の中央に丸い十を組み合わせた島津家の紋が白地で乗っている。紅白のコントラストが鮮やかで、五陵の間には『薩摩琉球国』の五文字が金色に光る。
 薩摩はこの勲章をナポレオン三世以下フランス高官に贈呈したのだ。これは、日本初の勲章でもある。その薩摩の工作が功を奏したのかは定かではないが、パリ万博開催中の1867年10月、徳川慶喜は体制を奉還し、徳川の時代が終わり、その後、薩摩主導で新政府が樹立される。
 以上、幕末の琉球と米仏蘭との条約締結は、明治維新へとつながる薩摩の富国強兵政策の一つであることを説明してきた。また、それは、突然起きたのではなく、1609年に薩摩が徳川幕府の権力が直接届かない琉球を従属させてから、その特殊な関係は深化成長してきたのだ。
 江戸時代を通じて、薩摩には鎖国は存在せず、海洋国家であり続けた。江戸時代初期は琉球朝貢貿易で、また幕末には琉球名義の西洋との貿易で力を蓄えたのだ。その経済力と情報力で徳川を陵駕した薩摩の志士たちは最後には徳川に代わって、新政権の中枢の座を占めた。そして、琉球の危機で始まった西洋列強による植民地化を回避するため中央集権国家の建設を目指し、最後の廃藩置県として沖縄県を設置したのだ。
 沖縄の歴史は、『琉球VS日本』や『琉球VS薩摩』という視点で語られがちであるが、『薩摩&琉球』という権力複合体が日本で果たした役割を研究することによって、本当の沖縄像が見えてくるのである。
 琉球は江戸時代においても、明治維新においても日本という国家において重要な役割を担ってきたのであり、決して、『週刊金曜日』の論調のように明治時代に突然侵略された先住民族ではないのである。」
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 日本民族は、古代から中華世界の中国や朝鮮という血も涙もない恐ろしい強敵に囲まれ、武器を持った中国人や朝鮮人がいつ侵略してくるか分からないという恐怖に慄いていた。
 日本民族にとって、中国や朝鮮は地獄であった。
 近代日本の大陸政策とは、積極的自衛行動として、古代から続いていた中国・朝鮮の脅威を軍事力で取り除く事であった。
 その動かぬ証拠が、中国共産党による尖閣諸島・沖縄ヘの攻勢と韓国による竹島不法占拠である。
 日本側にとって、日清戦争日韓併合日中戦争には正当な理由があった。
 が、国際社会はそれを悪辣な戦争犯罪と認定した。
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 日本には世界に対して、特に西洋キリスト教文明圏諸国に対して復讐権・報復権がある。
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 幕末・明治における強力な軍隊と強大な艦隊を持つ軍国主義国家建設=軍国化において、日本には正当な理由があり軍事力を強化する当然の権利があった。
 それが分からない者には、地政学はもちろん、戦う戦争学も戦いを避ける平和学も理解できない。
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 現代日本人は絶望的なまでに歴史力がない。
 「江戸幕府がペリーの黒船艦隊を見て驚き狼狽して対応できなかった」を信じる現代日本人には、歴史力がない。
 それは、左系・左翼・左派・ネットサハも右系・右翼・右派・ネットウハも同様である。
 特に、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係の高学歴出身知的エリートにそれが言える。
 天皇家をなくし日本国を分断しようとしている反天皇反日的日本人は、さらに回復不能な重症の歴史欠乏者である。
 現代日本人が好きなのは、作家の空想・創作による時代劇であって、残酷な事実・現実の歴史劇ではない。
 現代日本歴史教育にはウソが多く、子供達は反天皇反日本のキリスト教マルクス主義共産主義)で歪曲・捏造・改竄された嘘の歴史で洗脳されている。
 ウソがウソを量産している。
 つまり、現代日本歴史教育とは子供の歴史力を奪い歴史的思考力を無能化し、日本天皇と日本国と日本民族を憎悪させるための洗脳教育である。
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 西洋列強の日本侵略に対する危機感から始まった積極的自衛行動=軍国主義化である幕末は、田沼意次(1719~1788)の時代から始まっていた。
 それは、アヘン戦争のイギリスでもなく、第二回アヘン戦争のフランスでもなく、ペリーのアメリカでもなく、北から侵略し北方領土で海賊行為を行った犯罪者ロシアであった。
 日本側には、日露戦争やシベリア出兵に正当な理由があった。
 北方領土4島問題は、この時から始まっている。
 寛政4(1792)年。寛政・日露交渉。老中松平定信水戸藩による攘夷運動の始まり。
 攘夷派は、祖国防衛の為に北を目指した。
 文化4年4月23日(1807年5月30日)~5月1日(6月6日) 文化露寇事件。徳川幕府による東北諸藩への派兵命令。
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 当時の日本人と現代の日本人は、別人のような日本人である。
 現代日本人は、武士・サムライではないし、武士・サムライの子孫でもなく、庶民の子孫である。
   ・   ・   ・   
 薩摩藩の支配は、奄美大島などに対しては重税と苦役を課すなど過酷であったが、明国・清国との密貿易の窓口である琉球に対してはそれ程でもなかった。
 琉球政府は、先島諸島などに対して重税と苦役を強いる恐怖統治を行っていた。
   ・   ・   ・   
 清国がアヘン戦争でイギリス軍に敗北した事に強い衝撃を受けたのは、日本ではなく琉球王国であった。
 琉球は外敵から王国を守る軍隊を持っていない為に、西洋列強の侵略から国土を守る為には日本・薩摩に頼るしかなかった。
 南から北上してくるイギリスやフランスの目的は、清国(中国)との交易であった為に、ただちに琉球を侵略し植民地にする意思はなかったし、琉球の後ろに武士の国・日本が存在する為に慎重な行動を取っていた。
 その慎重な行動ゆえに、日本進出をアメリカに先を越された。
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 フランスは、清仏戦争(1883年8月~1885年4月)で清国軍に勝利し清国南洋艦隊を撃滅させると、清国領のベトナムを戦利品として強奪し、タイ王国の東、インドシナ半島東半分(カンボジア王国ラオス王国阮朝{グエンちょう=ベトナム王国})を植民地としてアジア侵略の軍事拠点とした。
 フランスは、ニューカレドニア島のように琉球を領土若しくは植民地にできなかった。
 フランスの精神である自由・平等・博愛は、白人キリスト教徒の当然の権利であっても非白人非キリスト教徒には認められていなかっただけに、フランスの植民地は地獄であった。
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 西欧列強に平和と友好、誠意と誠実を見せても軍事的弱さ見抜かれれば、ハワイ王国のように自主独立国を否定され武力で占領され、そして滅亡に追い込まれる。
 友好国であったイギリスは、ハワイ王国を見捨てた。
 アメリカは、1898(明治31)年にハワイを併合し、ハワイ人は増えた白人移民によってマイノリティに追いやられ差別と搾取を受けた。
 西洋キリスト教文明圏諸国の侵略の手口は、最初に布教と交易が来て、最後に軍隊が来る。
 ハワイ王国キリスト教によって滅ぼさ、ハワイ民族はキリスト教によって排除された。
 日本側にとって、日米戦争は避けられない運命的戦争であり、戦争する正当な理由があった。
 その象徴が、現代の日本国憲法である。
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 自主独立国とは、1か国若しくは数カ国の侵略軍を自衛戦争で撃破し守り切る国力・軍事力と戦術戦略がある国家の事を言う。
 戦わない国家は、自主独立国とは言わない。
 万国公法=国際法は、勝者に微笑み、敗者には冷淡であった。
 国家間の約束・条約・合意は、愚かな国・弱小国は金科玉条・不磨の条文として墨守するが、賢い国・強い国は単あるくだらない紙きれとして守らず好きな時に好きなように破り踏み躙りなかったものとして捨て去る。
 それは、中華の歴史・中国の歴史・朝鮮の歴史を見れば明らかである。
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 日本が歴史の教訓とすべきは、清国の中国ではなくムガル帝国(1526~1858)のインドである。
 武器を取って自力・独力で戦争をして勝たなければ自国は守れない。
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 徳川幕府は、北は蝦夷地(北海道)・南樺太択捉島国後島、南は琉球までを自国領として外敵の侵略から守るべく諸藩に武力防衛の軍隊派遣を命じていた。
 東北諸藩は、蝦夷地・南樺太択捉島国後島に数千人を派兵した。
 国土防衛の最重要課題は、現地住民つまりアイヌ人と琉球人が日本に味方するのか敵になるかであった。
 もし、アイヌ人や琉球人が侵略者に味方すれば、日本は敗北して領土を失い、北海道以北はロシア領となり、沖縄はフランス領となり、小笠原諸島アメリカ領かイギリス領となった。
   ・   ・   ・   
 西欧列強が慎重に対日戦略を取ったのには、徳川家康の対外戦略が影響していた。
 ロシアは徳川家康の影響を受けていなかっただけに、性急な対日戦略、砲艦外交・武力威圧外交を行った為に、蜂の巣を叩いて蜂の防衛本能を高める効果と同じ作用を日本人に起こさせた。
 つまり、「神国日本を命を捨て夷狄から守れ」という攘夷熱は北のロシアによる侵略で始まり、その狂気は上級武士ではなく下級武士や庶民の間に燎原の火のように広まった。
   ・   ・   ・   
 命を犠牲にしても天皇・皇族・皇室を守ろうとした狂信的な尊皇派・勤皇派は、下級武士、貧しい庶民(百姓や町人)、芸能の民、異形の民、異能の民、賤民(穢多・非人)、部落民(山の民・海の民・川の民)など、政治権力や宗教権威から見放され恩恵を受けない人々であった。
   ・   ・   ・   
 何故、キリスト教西洋列強に対する流血を伴う過激な攘夷が吹き荒れたかと言えば、戦国時代に中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人が日本人を奴隷として売って金儲けしたという歴史的事実があったからである。
 現代日本の歴史は、日本は遅れている、愚かで馬鹿である、と言う事を子供達に教える為にこの歴史的事実を抹消している。
 だがしかし、日本人を外国人に奴隷として売ったのは「大金」が欲しかった強欲な日本人庶民である。
 日本人売買を禁止したのが、豊臣秀吉徳川家康、そしてキリシタン弾圧をした徳川幕府であった。
 キリシタン弾圧を非人道行為と叫ぶに日本人は、日本人奴隷売買を人道行為として容認する日本人である。
   ・   ・   ・   
 日本人の庶民は、乱取り・落ち武者狩り・戦場泥棒で荒稼ぎしていた。
 日本とは、人の生き血を啜る男鬼・女鬼(夜叉)がたむろする羅生門のブラック社会であった。
 何故、日本の代表的伝統民族芸能に武士の能・狂言、庶民の歌舞伎、神社神道の御神楽、宮中神道雅楽、仏教の盆踊りなどが上げられるか、それはこの為である。
 そこには、隣人愛のキリスト教も反宗教無神論共産主義マルクス主義)も無力である。
 そもそも、日本には癒しや慰めや励ましはあっても救いや救済はない。
   ・   ・   ・   
 日本人の醜い本性を炙り出した文学が『山椒大夫』である。
   ・   ・   ・   
 日本人とは、薄情で、冷血で、非情で、冷酷で、残虐な、人の仮面を被った男鬼や夜叉=女鬼である。
 それは、現代日本人でも変わりはしない。
 日本人は、情があって、穏やかで優(やさ)しく、賢く、優(すぐ)れていて、秀でたところを持っている、はウソである。
   ・   ・   ・   
 キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義テロリストは、親ユダヤ派で、人種差別に反対し、人道貢献に積極的に関与し、東条英機に原爆を製造し戦争に使用する事を中止するように厳命し、戦争回避と戦争終結を切に望んだ、現実的平和主義者の昭和天皇を惨殺する為につけ狙っていた。
 キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義テロリストを後ろで操っていたのが、ソ連コミンテルン中国共産党などの国際共産主義勢力とアメリカ・ユダヤ人、国際金融資本、国際軍需産業、国際報道機関であった。
 戦後の国連(戦勝国連合)もまた反天皇反日本勢力であった。
 国際反天皇反日勢力は、日本を解体縮小し農業小国にする事を計画していた。
 日本解体計画は、2020年現代においても反日派敵日派中国共産党政府や韓国・北朝鮮そして反天皇反日的日本人によって続いている。
 その証拠が、「琉球民族アイヌ民族先住民族であり、日本に併合され差別と搾取などの迫害を受けてきた」という、国連の勧告である。
 天皇制度日本を滅亡へと追い込んでいるのは、中国共産党と日本人共産主義者マルクス主義者)達である。
   ・   ・   ・   
 現代日本琉球独立派やアイヌ自立派に、中国共産党北朝鮮そして韓国が接近している。
 反天皇反日的日本人は、国連などの国際舞台で、諸外国の反天皇反日勢力と共謀して活動を活発化している。
 日本は世界で信用され、日本人は世界で愛されている、はウソである。
   ・   ・   ・   
 日本人とは、日本列島に住む全ての人間の事で、特定の人種・民族の事ではない。
   ・   ・   ・   
 日本とは、世界の中心から遠く離れた端、大陸の縁、文明・文化と人・技術が最後に流れ着く辺境、大陸の生と海の死の狭間=水際=渚、見捨てられた列島=絶海の島群である。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人・アイヌ人・琉球人は、同じ女系母系の祖先を親に持つ三人姉妹である。
 琉球人は長女で、日本民族は次女で、アイヌ人は末娘で、乱婚した男性によって分かれ血が汚れ穢れた混血(ハーフ)の雑種である。
   ・   ・   ・   
 日本民族が成立したのは、明治元年9月8日(西暦1868年10月23日)である。
 琉球民族が成立したのは、1429年に第一尚氏王統の尚巴志王の三山統一によって琉球王国が成立した時である。
 アイヌ民族が成立したのは、5~13世紀にオホーツク人が移住して乱婚し、7~13世紀には擦文人蝦夷地に移住して乱婚し混血度を深め、ハッキリアイヌ民族といえるのは鎌倉時代以降の人々である。
   ・   ・   ・   
 日本国語には2大方言があり、1つが本土方言であり、もう1つが琉球方言琉球語である。
 アイヌ語は、北海道・北方領土4島はもちろんだが関東や東北の古い地名にも少し残っている。
 日本国語・琉球語アイヌ語と中国語(黄河流域漢族語)・朝鮮語は、東アジア言語であっても似通ったところが少ない。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、長江文明の後継である日本文明を持ち日本文化をつくった。
 琉球民族は、長江文化・東南アジア文化・日本文化・黄河文化の影響を受けた琉球文化をつくった。
 アイヌ民族は、オホーツク文化など北方諸文化と日本文化などの影響を受けてアイヌ文化をつくった。
   ・   ・   ・   
 日本文化には、縄文文化弥生文化の直系子孫文化=神道文化(南方海洋民文化)に揚子江流域文化(女系母系・その他)、インド・南アジア文化(仏教・その他)、中央アジアシルクロード文化(ヘレニズム=ギリシャペルシャゾロアスター教ユダヤ教・原始キリスト教イスラム教・その他)、黄河流域文化(男系父系、儒教道教・その他=中国文化・朝鮮文化)など日本に渡来した西方の多種・多元・多様な諸文化が加わっている。
 故に、日本文明・日本文化は中華文明=黄河文明と中国文化・朝鮮文化とは違う。
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 縄文人の祖先である南方系海洋民は、台湾から沖縄を経由して日本に流れ着いた。
   ・   ・   ・   
 縄文人は、日本列島を中心として、南は琉球、北は北海道・北方領土4島・樺太・千島列島・カムチャツカ半島、西は朝鮮半島南半分に広く住み、手漕ぎ丸木舟で日本海を主要航路として行き来していた。
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 日本民族日本人・琉球人・アイヌ人とは、南方系海洋民・西方系草原民・北方系山野民が乱婚し混血した縄文人の血・遺伝子(Y染色体)を受け継いだ諸部族であって、血筋を別にする異質な独立した民族ではなかった。
 三者が別れたのは、縄文人に新たな移住者が乱婚し混血化したからである。
 日本民族日本人に弥生系帰化人(天皇と日本国に忠誠を誓った者)、琉球人に揚子江流域民、アイヌ人にオホーツク人。
 混血した相手によって、琉球民族日本民族に似ているが、アイヌ民族日本民族に似ていない。
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 日本民族日本人・琉球人・アイヌ人には宗教・言語・文化・風習・習慣など多くの面で共通性が存在するが、中国人や朝鮮人とは似通ったところは少ない。
 その象徴が、沖縄から秋田・男鹿半島まで日本各地に伝わる渡来神・海人神・客人神である。
 そして、琉球御嶽信仰、日本神道産土神信仰、アイヌのカムイ信仰である。
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 日本民族日本人と琉球人は、揚子江流域にあった長江文明・稲魚介食文化の影響を強く受け、黄河流域の黄河文明・麦家畜食文化の影響は弱かった。
 日本民族日本人と琉球人との共通は、南方系海洋民の水泳・素潜り・釣り針である。
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🏞95)─5─江戸幕府の被災者救済策。「危機管理」は江戸時代に学べ!~No.367 ㉟ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・     
 2020年11月28日号 週刊現代「新書DEカルチャー
 江戸の『給付金』
 麻疹、コレラなどの感染症が流行した江戸時代、ときの政権はどう対応したのか。『江戸幕府感染症対策』(安藤優一郞著)はコロナ禍と通底する、当時の幕府は危機対応を解き明かす。
 江戸幕府の給付金制度は現在から見てもよく出来たものだった。まず1782年に起こった『天明の大飢饉』を教訓に、金や米を大量に備蓄。これをその後、飢饉だけではなく、感染症といった非常時に備えるための原資とした。
 また、それだけでなく、詳細な『困窮者名簿』を作ることも怠らなかった。これにより、個々に合わせて、給付額を増減させた。さらに疫病が流行した1802年には独り者には300文、2人暮らし以上は1人あたり250文を約29万人にわずか12日間で給付。今の政府より、ずっと迅速だったのである。」
   ・   ・   ・   
 左翼・左派・ネットサハには、江戸時代はもちろん日本民族中心の歴史が理解できない。
 それは、右翼・右派・ネットウハも同様である。
   ・   ・   ・   
 過酷な自然の中で甚大な災害に幾つも襲われても、日本民族日本人は自然を信頼し人を信用しきっていた。
 日本民族日本人は、最悪な自然災害の中を必然として奇跡を得て生き抜いたのではなく、活力と勢いで幸運を引き寄せ偶然を掴み取って逃げ切った。
 日本民族日本人の特性は、自然や人を信じきり、身も心も命さえも委ねきり、そして明日の為に今日を生きる事である。
   ・   ・   ・   
 日本列島は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時的に頻発する複合的災害多発地帯であった。
 江戸時代、日本社会は中国社会のように崩壊し地獄のような内戦になる事はなかったし、西洋のような動乱や暴動や人民革命も起きなかった。
   ・   ・   ・   
 関東とくに江戸は水害に弱い大都市であった。
   ・   ・   ・    
 BOOKウォッチ
 コロナ「危機管理」は江戸時代に学べ!
 2020/10/25
 江戸時代は天下泰平と言われるが、天変地異、自然災害などに苦しめられた。最たるものは「疫病」だった。今の言葉で言えば「感染症」だ。何度も大流行があった。病の原因も対策も治療法もわからなかった時代に、幕府はどう対処し、パンデミックを乗り切ったのか。本書『江戸幕府感染症対策――なぜ「都市崩壊」を免れたのか』(集英社新書)は、その詳細を明らかにする。コロナ禍に直撃されている現代の私たちにも大いに参考になる。
 天然痘・麻疹・インフルエンザ・コレラ・・・
 著者の安藤優一郎さんは1965年生まれ。歴史家。文学博士(早稲田大学)。早稲田大学教育学部卒業。同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。主に江戸をテーマとして執筆・講演活動を続け、『大名屋敷の謎』『江戸っ子の意地』(ともに集英社新書)、『渋沢栄一勝海舟』(朝日新書)、『お殿様の人事異動』(日経プレミアシリーズ)、『江戸の不動産』(文春新書)など著書多数。
 本書は以下の構成。
  プロローグ 感染症の歴史
  第1章 江戸の疫病と医療環境
  第2章 将軍徳川吉宗の医療改革と小石川養生所の設立
  第3章 江戸町会所の"持続化給付金"
  第4章 幕末のコレラ騒動と攘夷運動の高揚
  第5章 種痘の普及と蘭方医術の解禁
  エピローグ 感染防止と経済活動の維持
 江戸時代に日本人を苦しめた感染症は、天然痘・麻疹・インフルエンザ・コレラなどだ。最盛期には人口100万を超えたという江戸は、過密都市ゆえに、とりわけ被害を受けやすかった。一度の流行で数万人が亡くなることも珍しくなかった。しかし、都市崩壊のような事態には至らなかった。それはなぜだったのか。どのような対策が講じられていたのか。過去の自身の著作や多数の先行書も参照しながら、為政者がリーダーシップを発揮した幕府の対応ぶりをリアルに描き出す。
 朝鮮人参を密かに入手
 各章の解説の中で、まず注目すべきは「第2章 将軍徳川吉宗の医療改革と小石川養生所の設立」だろう。
 8代将軍吉宗(在職1716年~ 1745年)は、今でいうところの「理系」の人。同時に「実学」にも関心が高かった。例えば天文学に興味を持ち、オランダから取り寄せた望遠鏡で天体観測したり、自分でも天球儀をつくったりしている。「医学」「薬学」にも詳しく、自分で薬を調剤するほどだったという。
 とくに吉宗が力を入れたのは薬草の研究だ。全国各地にどんな薬草があるか、くまなく調査を命じた。そんな中で吉宗が効能に注目し、執心したのが「朝鮮人参」だ。当時、朝鮮と交流していた対馬藩を通して密かに朝鮮人参の種を入手、日本国内での栽培、増産に成功している。朝鮮は当時、最大の輸出品として朝鮮人参を厳重に管理していたから、いまでいう「産業スパイ」だ。
 江戸には以前から「御薬園」という幕府直轄の薬園があった。それが吉宗の時代に大幅に拡張され、薬草の大量供給に貢献した。現在は東大の小石川植物園になっている。
 さまざまな「和薬」の類別も定められた。新たに使用を認められた薬が35種、今後さらに使用させたいものが10種、使用禁止22種などだ。入手可能な薬や簡単な治療法を記した『普救類方』が出版され、全国の書店で販売された。基礎的な医療知識を広めることが、病への対応力アップにつながると考えたからだ。
 このほか吉宗の享保の改革でよく知られているものに、小石川養生所がある。無料で診察が受けられ入院もできる施設だ。山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』などで有名だ。安藤さんには『江戸の養生所』(PHP新書、2005年)という著書もあり、得意分野だけに詳しい。
 こうした事業に吉宗が前向きだったことについて安藤さんは、「病気から人々の生命を守ることは将軍(幕府)の責務という意識を強く持っていたからである」と書いている。
 「御救金」や「御救米」
 幕府はさらに、病気のために生活困難に陥った者に対し、給付金を支給するようになる。有名な松平定信寛政の改革では、特に経済的支援に重点が置かれた。いわば江戸時代の「持続化給付金」だ。その事務局として、江戸町会所が設置される。大飢饉や流行病で社会が動揺した時は、町人人口の半分を超える約30万人に給付金を支給して生活をバックアップしたこともある。白米を給付するなどの救済活動も行われた。
 1792年には町奉行所が、「困窮者名簿」を作成している。各地区の名主たちに対し、「70歳以上の独り者のうち、手足が不自由で世話をする者がおらず、飢えに苦しんでいる者」「10歳以下の子どものうち、両親がおらず世話するものがいない者」「若年層のうち、貧しく長患いの上、世話する者もおらず飢えに苦しんでいる者」の名前の報告を求めている。該当者には「御救金」が支給されるというわけだ。のちに、「世帯主が長患い」「家族が病気」などの事例も付け加えられた。
 本書では実際に「御救金」や「御救米」の給付を受けたのはどういう人だったか、個々の具体例が一覧になり詳しく紹介されている。
 大火の時は「御類御救」、飢餓や疫病の流行などの非常時は「臨時御救」もあった。インフルエンザの流行時などでも実施されている。1802年の場合、約29万人にわずか12日間で給付が完了している。現代よりも素早い。平時から財政の節約、備蓄などを心掛け、非常時対応をしていたことについても詳しく記されている。
 遊郭などの客商売が打撃
 江戸時代は富士山噴火、浅間山噴火、安政の大地震などの天変地異が相次いだ。地球が寒冷期だったこともあり、冷害や飢饉も繰り返された。さまざまな災厄の中でも、原因不明の疫病は、とくに人々を不安にさせた。
 社会活動全般が大きな制約を受けたのは今と同じだ。1803年の麻疹流行では、芝居小屋などの興行、鰻屋蕎麦屋などの外食、呉服屋、風呂屋遊郭などの客商売が打撃を受けたことが『麻疹戯言』(式亭三馬作)に出ているそうだ。200年後のコロナ禍とも重なる。
 安藤さんは、江戸時代と明治時代の感染症対策を比較し、「江戸時代は幕府が手厚い生活支援をしていた事実が際立つ」「医療による対応には限界があった以上、生活支援により社会の秩序を維持したいという願いが込められていた」と解説している。これに対し、明治政府は何よりも防疫に力を入れる。消毒と隔離が基本になり、江戸時代のように対象者が広範囲に及ぶ生活支援策は見受けられなかったという。1890年ごろから世界的に、病因や病原菌の研究が急進展したこともあるだろう。
 こうした幕府の「医療支援」「経済支援」も、幕末の黒船、大地震、疫病、大小の火災による波状襲撃には耐えきれなかったようだ。時代は一気に開国、維新へと突き進んでいく。
 BOOKウォッチでは関連書を多数紹介済みだ。『病が語る日本史』 (講談社学術文庫)は江戸時代の疫病についても詳しい。『感染症の近代史』(山川出版社)は江戸後期から明治にかけて、日本で流行した感染症とその対策についてまとめたもの。『流行性感冒――「スペイン風邪」大流行の記録 』(東洋文庫)は、100年前のスペイン風邪に日本がどう対処したかの貴重な記録だ。本書と併せて読めば、江戸・明治の日本人が、限られた知識の中で最善を尽くそうとした姿が実感できる。
 『オランダ商館長が見た 江戸の災害』(講談社現代新書)は主として江戸の地震、噴火、大火などの災害について、オランダ商館長の報告を振り返っている。江戸では深川地区に、普段から火災の後にすぐに再建築ができるだけの資材が備蓄されていたという。隅田川の対岸なので、火が及ばない可能性が高かった。『「江戸大地震之図」を読む』(角川選書)は、安政の大地震を主題にした有名な絵巻についての論考だ。『日本美術の底力』(NHK出版新書)には葛飾北斎が「疫病退治」の大作を描いていたことが出ている。『神木探偵――神宿る木の秘密』(駒草出版)には感染症の厄除け怪木も登場する。
 『倭館――鎖国時代の日本人町』(文春新書)には将軍吉宗が朝鮮人参の苗そのものを所望し、対馬藩が苦労して入手、献上した話が出てくる。
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 THE POVERTIST
 途上国の貧困と開発を深掘りするオンラインマガジン
 Friday, November 20, 2020
 国際
 江戸時代に学ぶ途上国の食糧政策と現金給付
 Sunday, 1 May 2016 10:01 pm by Kazuyuki Fujiwara
 江戸幕府が飢餓の際に被災地へ治安維持軍を置かなかった理由
 「イラク・シリア難民へWFPがデジタルカードで現金給付“(2016年5月1日付)」で指摘のとおり、現金給付による当該地域の食糧価格の上昇リスクを回避する為に、事前の市場調査とその後の市場価格・需給モニタリングも重要ですね。冲方丁著「天地明察」(角川書店)の中で、会津若松藩主として藩政に、また、四代将軍家綱の輔弼役として幕政に尽力した保科正之公が、飢饉の際に被災地に治安維持のための軍政を置くことは食料不足・食糧価格高騰を加速させ(それが治安悪化に繋がりかねない)として反対し、治安維持軍を置かなかったという内容の記述があり、気になっていました。先進的な人物であり、学ぶところが大きいと思いました(ただし、批判もあるようです)。
 会津藩
(1)社倉制度の創設(飢餓対策):豊作年に年貢米に加え備蓄米を調達し、凶作や飢饉時に被災者に貸し出し、利息2割で豊作時に返済(備蓄米は7千俵から5万俵へ増大)。火事被災者、領外からの入民、新田開発農民へも社倉米を支給(既にWFPのP4PやFood For Assetを実践していた?!)。
(2)「負わせ高」の廃止:耕作不可能地まで田畑と見なして年貢を課していた税を廃止し、減収が予測されるも、逆に、農民が藩に隠蔽していた田畑を申告し、結果増収。
(3)90歳以上の高齢者へ扶持米の支給(年金制度のはしり?!、当時受給資格対象者151人)
(4)赤ん坊の間引きの禁止
(5)相場米買上制開始、升と秤の統一
 幕政
(1)玉川上水の開削:武州羽村/多摩川から約43kmの水路を造って四谷大木戸「水番所」から地下を通して市中へ給水、江戸城下の生活用水確保、また多摩地方の水田稲作ための農業用水確保
(2)大火における迅速な被災者救済:1657年1月の江戸の大半(6割)を襲う明暦の大火/振袖火事/丸山火事により、当時の人口80万人 (町方30万人) 中、10万人以上の焼死者が出た事件。幕府天領からの年貢米100万俵以上を保管する隅田川沿いの米倉に火がついた際には「米の持ち出し自由」として避難民たちを火消しに転じさせ、また持ち出された蔵米が救助米となるという一石二鳥の策を打ち、米倉は全焼を免れた。難民救済のために、各地で炊き出し、全焼被災民へ再建費として総額16万両を供与。参勤していた諸藩を国許に帰らせ、江戸出府を延期し、江戸の人口を一時的に減らし、需給の調整をはかることで物資高騰を抑制した。また、江戸市民の救済を優先するため焼け落ちた江戸城天守閣を再建せず。
(3)防災対策・都市復興:退路確保のため主要道路の道幅拡幅(6間(10.9m)から9間(18.2m)へ)、火除け空き地として上野広小路を設置、芝・浅草両新堀の開削、神田川の拡張、避難路確保のため隅田川に橋/両国橋を架設。
 ただし、バラマキ政策だと言う批判もあるようです。社倉の制度は飢饉対策として良い結果ももたらすも、一方で年利2割の金利収入を財源化しようとする狙いもあり、後に強制貸付と結びつけ、庶民を苦しめる弊害もあったとか。後に、藩財政逼迫、年貢増徴による一揆も起きたとの由。
 後の天明の大飢饉の際、藩札の大量発行等により深刻な財政危機にあった会津藩は、社倉米でも足りなかった。5代目藩主松平容頌に仕えた家老の田中玄宰は、藩経済回復のために、殖産興業の奨励をし、醸造会津漆器の改良、養蚕業、鯉の養殖の育成に取り組んだ。貴重なタンパク源である鯉養殖技術を研究・確立・普及させ、飢餓対策。米沢藩などの他藩へも普及。
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 Japan Local Government Centre (JLGC) : London > 調査・研究 > スピーカーシリーズ > 歴史にみる災害救済と復興
 調査・研究
 スピーカーシリーズ
 歴史にみる災害救済と復興
 2008年08月20日 
●テーマ:「歴史にみる災害救済と復興」
●日時:2008年8月20日(水)14:15~15:30
●講師:神奈川大学教授 北原糸子先生
 ご講演要旨
【災害支援に今望まれるもの】
 「災害は進化する」という言葉があります。時代の変化に応じて人や社会が受ける被害のあり方も変わると解釈すれば、昨今の日本の災害救援の変化はまさにそれを示しているように思います。
 クレアロンドンでどんな話題を提供したらよいのだろうかと迷っていた時、朝日新聞朝刊オピニオン欄(2008年8月7日)に “震災復興には地元が考えたメニューで“(上村靖司氏)という興味深い記事がありました。ここでは、阪神大震災では住宅再建費用の支援が中心だったが、その後の新潟中越地震では、「激甚災害」指定による多額の資金が提供された。中越地震では、牛産業や温泉、棚田などの、豊かだった「なりわい」の環境が破壊され、生活困難となった。その後の岩手・宮城内陸地震では、都市型災害とは異なり住宅被害は少ない。政府の資金援助を受けても、最初の3年にバブルのような資金が溢れ、それで終わってしまうことが予想されたため、中越地震で被害を受けた山古志村などの被災地では、「激甚災害」指定による多額の資金援助だけには頼らず、自分たちで考えたオーダーメード支援への復興資金を選択したことを紹介、被災者サイドからの選択的復興メニューへの今後の可能性が示されているように思えました。
 わたしは、これはこれからの災害復興では被災者自身が選択的、主体的に取り組む道筋を示唆したものとして新鮮な思いで記事を読みました。では、なぜ、わたしがこうした記事に注目したのかといえば、これまで日本の災害史のなかで被害を受けた社会や人がどのようにして立ち直ってきたのかを歴史的に調べて参りましたが、なかなかその実態が掴めないという思いがしていました。もしも、被災者自身の主体的復興メニューというような視点が社会に共有されることになれば、そうした見方で災害を見直してみようという機運が強くなると感じたからです。
 そこで、本日は折角の機会でもありますから、日本の災害史のなかであまり取り上げられていない災害の跡の人と社会の動きを中心にお話をさせていただこうと思います。ただし、防災の専門家でもないし、そうした基礎的訓練も受けているわけではないので、具体的に役立つことは至って少ないと思ってください。
 まずは自己紹介。私は歴史研究者ですが、2003年から中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会に属して、過去の大きな災害についての実証的な報告書を作成してきました。現在これまでに完成した約20冊の報告書は、内閣府のホームページで読むことができます。そのなかから、わたし自身が執筆に関わった事例から救済、復旧、復興に関わる歴史的な事例を紹介させていただき、日本の災害救済の伝統や災害文化といったことについてお話をします。ここでは、江戸の幕末の二つの大災害である安政東海地震1854年)、安政江戸地震1855年)、そして近代社会に入って近代化に邁進しようとした明治政府の出鼻がくじかれた濃尾地震(1894年)、そして首都を壊滅させた関東大震災(1923年)について、災害救済の歴史や伝統はどのように変わったのか、あるいは変わらずじまいであった点はなにか、どうしてなのかなどを考えてみたいと思います。そして、最後にGHQ占領下でのカスリン台風災害を取り上げ、日本の伝統的救済と彼我の違いについても考えます。
安政東海地震
 安政東海地震安政元年11月4日=1854年12月24日)、マグニチュード8.4(推定)、揺れはゆっくりであるが被害の大きい、プレート地震でした。幕府の統一的な被害統計というものは存在しない時代でしたが、犠牲者は約3000人と推定されています。
 ここでは下田湊の事例を紹介します。下田湊は99人の犠牲者、871軒の流失家屋、ちょうど前日の11月3日にロシア艦隊を率いてきたプチャーチンとの日露交渉が開始されていました。海軍士官モザエスキーが描いた津波の絵が残っています。この津波の被害に対する幕府の救済は、厚いものでした。下田町他3カ村(柿崎、岡、中)1218軒へ1万両の復興資金(無利息10ヵ年賦返済の義務)、波除堤の再築 2902両、外国人への日用品販売から得られる利益の一部を冥加金上納として、これを財源に復興資金確保、番所設置による雇用対策などが当時日露交渉に直接あたった勘定奉行川路聖謨(かわじとしあきら)らが案出した優れた救済策でした。
 幕府が下田へ厚い救済策を行った背景には、江戸を開港しないで済むよう、津波で失われた下田町を復興させ、この江戸に近いけれども隔絶した立地条件の湊を交易場としてを死守したいという事情がありました。しかしその後は下田湊が閉鎖され、神奈川が開港(安政6年2月)し、結局下田には3000両の借金だけが残ることになってしまいました。
安政江戸地震
 安政2年10月2日(1855年11月11日)、マグニチュード7と推定される内陸直下型地震が発生。神田小川町、小石川、下谷、浅草、本所、深川地域は震度6強、山の手台地は震度5と推定され、震害が大きく、地盤災害としての様相が強い地震でした。
 大名屋敷も江戸城西の丸にあった屋敷を中心、265藩のうち116藩が被災、屋敷焼失は23藩、犠牲者は2000人程度と推定されています。旗本・御家人屋敷の被害は、旗本数(4488家。18世紀の数字)と御家人数(12966家。同上)から推定すると、全体の80%が建物になんらかの損害を受けましたが、犠牲者の数値は不明です。隅田川東、旧礫川沼の埋立筋の屋敷には相当程度の被害が集中していました。町屋の被害は、建物被害が14,346軒と1724棟、死傷者約7000人(うち4000人が死亡)、吉原宿で火災が発生し1000人が焼死しております。当時の江戸の人口130万~140万人ですが、少なくとも1万人が亡くなったと推定されます。
 この時期の幕府の救済をみると、開府以来の難問である外交問題が諸藩を巻き込み、大騒動となっていたこと、海岸防備の台場などを諸藩に命じていたため、資金的余裕はなく、きわめて限定された救済となりました。役職にある老中、若年寄寺社奉行町奉行などの屋敷が被害を受けたケースにだけ貸付金が許されています。旗本・御家人には禄高に応じた復興資金が貸し付けられました。町人へは、対応マニュアルに準拠し、お救小屋、握飯支給、困窮者へのお救米1ヶ月支給、その後の安値米頒布(町会所資金支出)が行われたが、幕府の救援策よりも、むしろ、民間相互の援助が大きいものでした。当時の江戸の町人社会は金持商人とその日暮らしの一般庶民で成り立っていましたから、富裕な商人は貧困層を救わなければ商売もうまくいきません。火事や病気の流行時に採られた救済マニュアルが地震の時にも援用され、富商が自ら居住する町内、抱屋敷、店子、出入りの職人などに対して家賃の免除、米や金を配るといった支援がなされました。
 この時幕府のお救いや富商からの支援を受けたのは、その日稼ぎの人々で、町人人口の約6~7割(米価高値お救い米受給者の数35万人~40万人)です。特徴的なのは、被害の有無に関わらず、貧困層全体に対して行われたことです。民心を安定させ都市を持続させるための施策でもありました。お救い小屋は5、6ヶ所に建てられ、2500人程度の窮民が入ったにすぎませんが、これが建つことで救済が行われたという象徴的な意味がありました。
 以上のような幕末の二大災害を見ますと、幕府は災害そのものに関心を持つ余裕もなく、また、復興資金を投入する余裕もありませんでした。多額の復興資金が投入された下田のケースは、開港問題条約湊として下田湊の維持を至上命令であったという特異例とすることができます。首都が大打撃を受けた江戸地震では、独自の救済、救援策が出たわけではなく、火事などの慣例化した災害マニュアル以外は出足の遅いものでした。民間相互の救済の方が早く、必要なところへ届いたという内容でした。ましてや防災などということに想いは及んでいませんでした。
 つぎに近代国家と災害救済の場合についてお話します。
【濃尾地震
 濃尾地震は、明治24年(1891)10月28日に発生。震源地は根尾谷、震度8と推定、大森房吉による推定は「烈震」。死亡者は7273人、負傷者は17,176人。内陸地震では最大のものでした。ここでは被災者救済法として、凶作時の農民救済を主眼とした「備荒儲蓄法」(1880年成立)が適用され、救済金は、「備荒儲蓄法」による救済金計1,182,058円、恩賜金14,000円、主として新聞を通じて集められた義捐金総額は、岐阜県220,321円、愛知県80,000円でした。しかしながら、近代国家のインフラ整備途上であった鉄道、橋、レンガ造りの駅や工場が倒壊、明治政府は大変なショックを受けました。丁度第一回議会が開催され、国家予算が審議される仕組みが成立した時でしたが、野党の攻撃を恐れた政府は、審議を避ける方法として、勅令で岐阜・愛知県への震災復興土木費500万の交付を決定されました。これが後に大問題を生むことになり、2年後には国会が解散される破目になりました。
 濃尾地震を受け、明治政府は国家による地震調査機関、震災予防調査会を立ち上げます。ここで本格的に地震現象そのものへの学術研究が行われることになり、世界に向けて学術的情報発信が行われることになりました。震災予防調査会は関東大震災に関する調査研究報告100号を出版して解散し、地震研究所が設立されることになります。
関東大震災
 関東大震災は、1923年(大正12)9月1日午前11時58分発生、マグニチュード7.9。死者10万5千人、住家は全壊が多く10万9千余棟、半壊10万2千余棟、焼失はさらに多く21万2千余棟。9月2日、戒厳令(災害では初めて)、非常徴発令。臨時震災救護事務局が設置され、また震災の翌日には政府予備金950万円の支出が決定された。8月25日に首相が亡くなり後継内閣の組閣中でしたが、震災の翌日、山本権兵衛内閣が成立、後藤新平が内務大臣に就任しました。9月3日、戒厳令適用範囲を神奈川県下に拡張、朝鮮人に暴行迫害を加えないよう布告。9月4日、戒厳令を千葉、埼玉県下に拡大。9月5日、東京市内要所に検問所、自警団に朝鮮人迫害防止の告諭。9月6日、水道一部開通。ガスは少し遅かったものの、全体としてインフラの復旧が早かった。報道機関は、新聞社は13社中2社しか残らず、都心は新聞の発行の機能がほぼ停止した。NHKラジオ放送はまだ始まっていなかった。京橋、日本橋は90%以上が消失。
 宮内庁には陸軍が撮影した震災直後の航空写真が残っている。9月2日から陸軍が写真撮影、日本橋、東京駅周辺、銀座、築地、大蔵省、帝国劇場前、避難所や臨時のポストや米国からのテント、バラック仮設住宅など、時間の経過とともにある程度の空中観察が可能な写真が残されています。また、当時は一般の人々にも高価であるとはいえ、カメラが普及しはじめ、中央官庁、丸善三越白木屋デパートの残骸、あるいはや被服廠の焼死体の惨状など、写真絵葉書も出回り、東京や横浜に災害救援にきた地方の人々もこれらを故郷に持ち帰りました。
 東京旧15区の罹災人口は、区によりかなり差があり、神田、日本橋、浅草、本所、深川などは高い。赤坂、四谷、牛込、小石川などは低い。府県別の死者数は、神奈川が32,838人、東京が70,387人。千葉、埼玉、山梨、静岡、茨城でも死者が出た。
 義捐金は、60千万円という多額にのぼった。外国からのものが全体の36.6%を占めていますが、このなかには海外にいた日本人からのものも含まれています。
 遷都かという噂も出たが、9月12日に「遷都不要」という天皇詔勅が出て世情の安定が図られます。
復興策のモデルとしては、1906年のサンフランシスコ大地震を、関東大震災復興の反面手本とされ、後藤新平復興院総裁が招聘したアメリカの都市計画専門家のビアード博士が、10月7日来日し、復興計画案を提出、サンフランシスコ地震からの教訓により、土地の強制収用によって、計画的に道路、鉄道などの社会インフラを確保し、無計画な建築物の再建規制をせよというものでしたが、予算が30億から最終的に4億まで削減され、その理想はほとんど実現しなかったといわれています。
 最後に戦後初期の事例を簡単に紹介しまして、話の結びとします。
【カスリン台風災害】
 1947年9月16日、17日の台風。GHQ占領下の災害。最大の死者は、群馬県下の土砂災害によるものでしたが、東京へは利根川の洪水が及ばないことを基本に維持されてきた河川対策が葛飾区、江戸川区などの東京低地を洪水が襲ったことで見直されることになりました。また、戦争直後の災害であり、国民の食糧事情が極端に悪い時でしたから、GHQの援助物資が大いに活用されました。戦前からの災害救済法であった罹災救助基金の廃止に伴う新法災害救助法被災の地元機関が主体となり、救済協議委員会を組織し、救助を主導)が1947年10月18日に成立しました。ただし法律の成立時期の関係で、カスリン台風被害者はこの適用を受けませんでした。救助法成立についてのGHQのコメントは、日本の災害救助の歴史を振り替えさせる興味深いコメントを出して(9月26日 朝日新聞紙面)「国家が被害者に救助金を支給するという世界でも稀有な素晴らしい法律」と評価しています。
【日本の災害救済思想の伝統】
 国家、為政者による救済の伝統が強い。災害防止よりも救済において為政者の力量を問うという姿勢が強い。天皇や藩主は普段は目に見えないが、災害救援の時その存在が見える。しかしながら、そうした象徴的な存在だけでは復興はできず、それを補う形での民間相互の救済が伝統的に強いことがわかる。メディアによる災害情報の流布はかなり早く行われる。しかし、現在問題となることは政治全般にもいえるが、防災に関しては、政治責任を問わない傾向が強く、したがって、災害救援についての検証というものが客観的に行われ、その結果が社会的に活用されることが少ないのではないか。今後求められるのは、救済の実態と有効性についての検証ではないかと思われる。
 (質疑)
●(防災に対する政治責任を問わない背景について)伝統的には、自然現象はやむをえないという考え方がある。近代国家ではない江戸時代には、科学への目がなかった。濃尾地震のあと、理学工学中心の防災の考え方ができた。地震発生のしくみは、1970年代まで分かっていなかった。また、経験則上では、家屋を強くすることが防災につながると分かっていても、費用がかかり、なかなか実施されない。庄内地震のあと、液状化による家屋の被害がひどく、調査団が建築方法による対応を提案したが、1年後のフォローアップ調査時、その提案内容がまったく実施されていないことがわかったことなどはきわめて早い歴史的事例であろう。
●(1995年の阪神淡路大震災の特徴について)大都市、しかも起こるはずがないと思われていた場所での震災であり、エポックメーキングなものであった。衝撃的であった。また、神戸は富裕層のイメージが強かったが、やはりさまざまな人がおり、貧困層もいた。救済と復興について、この地震で、民間も一緒に考えていくという姿勢が生まれた。住宅再建支援法もできた。わが国の援助技術はすばらしいもので、輸出することもできるはずである。
●(朝鮮人の迫害について)朝鮮人と中国人は、強制連行された人々や出稼ぎに来た人々など、すでに多くいた。デマは横浜で発生しすぐに東京へ広がったといわれている。また、じわじわ広がるのではなく、一足飛びに周辺地域へ流布されている。今我々が考えてもあまり納得ができない現象だったが、東京周辺の実家へ戻った人々がデマを持ち帰ったため、被災地以外にもひろくデマが広がったのだろう。現在はインターネットで、誰もが情報を流すことができ、それをチェックする人もいない。災害時のデマという意味では、当時以上に危険といえるかもしれない。
(以上)
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 西洋キリスト教文明圏諸国では、麻疹、チフス、ペスト、コレラなどの感染症や洪水、地震などの自然災害で被災者を救済する役目は、政府ではなく教会であった。
 何故なら、生き死にに関わる救済は絶対神の特権であり、人では対応できない救いは絶対神の奇跡や恩寵がなせる技であるからである。
 それは、絶対神の何かお考えがあっての計らいだからである。
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 日本には、キリスト教会のような最終的にして最高の救済組織はなかった為に、「自助・共助・公助そして絆」で乗り越えるしかないブラック社会であった。
 つまり、「自分を助ける者を助く」である。
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 江戸幕府や各藩さらには村や町、神社や寺院は、後世の為に記録を公文書として残した。
 人々は、日記などで書き記した。
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 武士は、常在戦場、いざ鎌倉、いつ何時戦争が起きても狼狽えないように3年分の軍資金と兵糧米を蓄えるのが常識であった。
 町人達は、大火や災害が起きても言いように建材と食料を確保していた。
 それが、言霊信仰につながっていた。
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江戸幕府の感染症対策 なぜ「都市崩壊」を免れたのか (集英社新書)

⛩20)─2─王朝文学で食は「下品」?-国立公文書館で「美味しい古典文学」展。〜No.41 

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 2020年11月14日 産経新聞「王朝文学で食は「下品」?-国立公文書館で「美味しい古典文学」展
 『源平盛衰記』から、猫間中納言木曽義仲を訪問した場面。中央の中納言の家来が出された食事を馬小屋に投げ捨て、右側の義仲郎党があきれ驚いている(国立公文書館蔵)
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 読書の季節であり、かつ食欲の季節でもある秋。もし、その両方を同時に満たす欲張りなテーマがあったら? 東京・竹橋の国立公文書館で開かれている企画展「グルメが彩るものがたり 美味しい古典文学」は、古代以来の文学の中で描かれてきた食材と、それにまつわる人々の価値観を描き出す。(文化部 磨井慎吾)
 夏のウナギは古代から
 最初に出迎えてくれるのは、今年で成立1300年を迎える『日本書紀』。まず食の「起源」ということで、死んだ「保食神ウケモチノカミ)」の体から粟(あわ)や稲や麦などの食物が生まれてきたという神話の一シーンを示す。展示品は江戸城内に設置された将軍の図書館「紅葉山文庫」の旧蔵書で、全巻ぞろいとしては現存最古となる慶長年間書写の貴重書だ。
 国立公文書館は同文庫や江戸幕府直営の高等教育機関昌平坂学問所」などの蔵書を引き継いでおり、和漢の古典籍も多数所蔵。今回の企画展では、その中から教科書掲載クラスの古典を中心に約40点を展示している。
 奈良時代に成立し、身分の上下を問わずさまざまな生活環境で詠まれた歌を集めた『万葉集』には、食材も多数登場する。展示では大伴家(やか)持(もち)が痩(や)せた知人に対して「ウナギは夏痩せに効くから召し上がれ」とからかう歌を紹介。今回の企画展を担当した国立公文書館の星瑞穂調査員は「当時から、夏にはウナギを食べるといいという考えがあったことがわかります。個人的な推測ですが、内陸に位置し新鮮な魚が川魚に限られる平城京で、夏にもとれて栄養価が高いのがウナギだったのでは」と話す。
和歌は食事を詠まない
 だが、ウナギをはじめ蒜(ひる)(ニラに似た香りの強い野草)や鯛など豊富な食べ物が登場する万葉集から時代が下って平安期になると、和歌の洗練とともに食を詠むことはある種「下品」とみなされるようになる。鎌倉時代初期の歌人藤原俊成はその歌学書『古来風体抄』で、飛鳥時代有間皇子(ありまのみこ)の飯を詠んだ歌を評して「近頃の人は飯などは表向きにせず、歌にも詠まないが、昔の人は褻(け)(日常、私事)と晴(はれ)(公的、祝祭的なこと)の区別をしなかったのだ」と論じている。
 和歌が主体の平安時代の王朝文学に登場する食材はごく少なく、しかも味や栄養価などの実用的価値に眼目を置かない、寓(ぐう)意(い)が込められた使われ方がほとんどだ。たとえば芹(せり)は、かつて皇后が芹を食べている姿を垣間見て恋に落ちてしまった身分の低い男が、それから毎日芹を摘んで御殿に届け続けたものの思いが届かず死んでしまったという伝説から、かなわない思いを示す慣用的歌語となった(『俊秘抄』)。他にも子供と結びついたタケノコなど、文学の中での食は具体性を失い、和歌的教養に基づいてもっぱら何かを示すための象徴的な用途に限られるようになっていく。
 星調査員は「『源氏物語』54帖のうち、食事シーンは数えるほどしかない。数少ない場面も、生まれたばかりの子供がタケノコをかじるなど、和歌のルールと結びついている」と指摘する。
 田舎者・義仲VS京都人
 だが、中世に入り文学の主流が次第に和歌から散文に移ると、卑俗で生き生きとした食事シーンも息を吹き返す。『源平盛衰記』では、平家を京の都から追い出した田舎育ちの木曽義仲が、公家「猫間中納言」の訪問を受けて義仲なりの野趣あふれるごちそうでもてなしたものの、食器の汚さなどから中納言が口をつけかねて困るユーモラスな光景が登場。江戸前期に絵入りで出版された同書の挿絵では、食べなさいとしつこく促す義仲の不作法に立腹した中納言の家来が、下げられた膳(ぜん)を食器ごと馬小屋に放り投げるシーンが描かれる。一方、それを見た義仲の郎党はあきれ顔。「こちらはこちらで、京都の人はなんて野蛮なんだ、怖いなあ、と驚いたところでしょうね(笑)」と星調査員。
 そして食と切り離せないのが酒。上代においては貴重な妙薬ともされ、一人酒を楽しむ歌が多かったが、平安以降は酒といえば宴席がほとんどとなっていく。酒の上での失敗も、そのころから変わらぬテーマだ。『平家物語』で、後白河法皇の近臣たちが鹿ケ谷で平家打倒の陰謀をめぐらした有名な宴会シーンについて、江戸前期の絵入り本の挿絵はなかなかコミカルに描いている。「中央で踊る西光法師という人物が、瓶子(へいじ)(とっくりの意味)の首を折り取って『平氏の首を取った』と言い出し、みんなでゲラゲラ笑っている。で、この光景を見た武士が、これはダメだと判断して密告し、陰謀は失敗する…という流れになります。絵がわかりやすく、いかにもダメそうな感じが出ています」(同)
 星調査員は「現代はグルメブームですが、実のところ平安貴族は食を本当に下に見ており、王朝文学に出てくる数少ない食材にはちゃんと寓意があった。そうした価値観の違いは、歴史書よりも文学を通じてみた方がよくわかるのでは」と企画展の狙いを話している。
 29日まで。入場無料。問い合わせは国立公文書館(03・3214・0621)。」
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🕯97)─1─仏教は女性蔑視・女性差別の宗教である。~No.211No.212 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 仏教といっても、日本仏教と中国仏教・朝鮮仏教とは根本的に違う異質な仏教である。
 日本仏教は、ある意味、異端の仏教である。
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 女性差別・女性蔑視は、仏教、ユダヤ教キリスト教イスラム教など多くの普遍宗教に存在する。
 仏教とユダヤ教キリスト教イスラム教の違いは、奴隷制度であった。
 キリスト教は、異教徒非白人の日本人を奴隷として売買する事を容認していた。
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 仏教を否定する反宗教無神論の日本人達。
 日本で静かに進む共産主義者マルクス主義者)による神殺し・仏殺し。
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 『華厳経』「女人(にょにん)は地獄の使(つかい)なれば、能(よ)く仏の種を断つ。外面(げめん)菩薩に似て、内心夜叉(やしゃ)のごとし」
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 2019年6月18日 朝日新聞「女性は仏になれない…仏典に残る性差別 どうすれば
 有料会員記事
 中塚久美子
 #MeToo運動や大学入試における女性差別の表面化を機に、ジェンダー平等の意識が改めて高まるなか、仏教界でも差別との向き合い方が問われている。受け継がれてきた経典には、現代の目で見ると差別的な記述がある。教えをどう捉え、現代社会とどう折り合いをつけていくのか。各地の住職らによる模索も始まっている。
 「経典の差別展」女性差別を外す 東本願寺「時期尚早」
 真宗大谷派の本山・東本願寺京都市)が昨年12月~今年2月に開いた企画展「経典の中で語られた差別」で、世界人権問題研究センター(同市)の嘱託研究員、源淳子さん(71)が準備した女性差別に関するパネルが、同派の意向で展示されないことになった。
 外されたパネルは、女性は修行しても仏になれないとする「女人五障(にょにんごしょう)」、女性は親、夫、子に従うべきだとする「三従(さんしょう)」の教えのほか、女性は男性に生まれ変わって成仏できる「変成男子(へんじょうなんし)」思想を紹介するもので、現代の目線で見ると差別的な内容だ。古代インド社会の女性差別観が仏教に流入したものという。
 源さんは「仏教の名の下による思考停止ではないか」として、公開質問状を出して外された理由をただした。5月下旬に開かれたシンポジウムで示された宗務総長名の回答は、「(経典などは)著された時代社会の状況が色濃く反映されており、現代を生きる私たちにとっては受けとめ難い表現がある」「正式な見解を見い出せるように、継続した研究を進める」などとした。源さんは「どう取り組むのか注視したい」と話した。
 経典は仏教の開祖・釈迦が説い…」
   ・   ・   ・   
 『仏教における女性差別を考える』
 親鸞ジェンダー
 源 淳子著
 四六判 173頁 2020.02
 978-4-87154-176-3 あけび書房 税込1,650円
 寺に生まれ、仏教研究者、そしてジェンダー研究者である筆者。
人間親鸞をこよなく敬愛するがゆえに、宗教的自立を探究するがゆえに、親鸞における、そして仏教界における女性差別を鋭く問いただす。
日本人の女性差別観の根本を明らかにする画期的な一冊。
 目次:
第1章 東本願寺ギャラリー展での女性差別問題
 ① 経緯
 ②「大谷派女性差別を考えるおんなたちの会」シンポジウム
 ③ 真宗女性のつながり
第2章 わたしのターニングポイント ―フェミニズムとの出逢い
 ① 専業主婦
 ② フェミニズムとの出逢い
 ③「女人五障」
 ④「変成男子」
第3章 ジェンダーの視点で学んだわたしの課題
 ① 家制度
 ② 檀家制度下における業論
第4章 「女人禁制」
 ① 穢れ
 ②「女人五障」も「女人禁制」
第5章 親鸞思想とわたし
 ① 親鸞との出逢い
 ② 世俗と仏法
第6章 宗教的自立
 ① 宗教的自立を阻むもの
 ② 宗教的自立とは
 著者紹介:
 源 淳子 (ミナモト ジュンコ)  
1947年、島根県奥出雲町の浄土真宗本願寺派の寺に生まれる。龍谷大学大学院修士課程修了、大谷大学大学院博士課程満期退学。得度により僧籍をもつ。専門は、フェミニズムの視点で日本の仏教をはじめ宗教における女性差別の研究を続ける。
(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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 BOOKウォッチ
 仏教は「女性差別の宗教」なのか
 2017/9/23
 仏教は女性差別の宗教である、といわれることがある。本当にそうなのか。著者の植木雅俊さんが仏教研究を志したきっかけに、そんな俗説への疑問があった。
 ひとくちに仏教と言っても大乗、小乗、さまざまな宗派があり、女性観には大差がある。研究を進めると、「女性差別」の根拠とされる仏典は、釈尊滅後、権威主義化したいわゆる小乗仏教のものであり、また釈尊が平等を説いていても漢語段階で改変されたものであることがわかった。植木さんは時代をさかのぼり、釈尊のなまの言葉により近いとされるパーリ語の原始仏典をひもとく。
 市井の仏教研究者、数々の受賞歴
 たとえば『シンガーラへの教え』と言うパーリ語の仏典がある。ここでは「夫は妻に五つのことで奉仕しなければならない」と書かれている。それが『六方礼経』として漢訳されると、奉仕するのは妻の側に変わり、「婦(つま)が夫に事(つか)うるに五事あり」と、正反対の話になる。当時の中国は儒教社会。家父長制に適応するようにすり替えられてしまい、それが日本にも伝わっていたことがわかった。
 1951年生まれの植木さんは、中年になってから本格的に仏教研究に取り組み、このところいくつもの出版関係の賞を受賞している。
 九州大学の理学部出身。もともと仏教に関心があり、会社員生活をしながら一念発起、40歳から本格的にサンスクリット語なども勉強した。日本のインド哲学研究の最高権威、中村元・東大名誉教授が創設した「東方学院」に10年近くコツコツ通い、2002年お茶の水女子大で「仏教におけるジェンダー平等の研究――『法華経』に至るインド仏教からの 考察」で博士号を取得。その論文は04年、『仏教のなかの男女観――原始仏教から法華経に至るジェンダー平等の思想』(岩波書店)として出版された。
 08年の『梵漢和対照・現代語訳 法華経』(上・下、岩波書店)で毎日出版文化賞。11年に中公新書で『仏教、本当の教え――インド、中国、日本の理解と誤解』、13年には『梵漢和対照・現代語訳 維摩経』(岩波書店)で「アカデミズムの外で達成された学問的業績」に対して送られるパピルス賞を受賞。15年には『サンスクリット原典現代語訳 法華経』(上・下、(岩波書店)を出版するなどこの10数年、立て続けに仏教関係で画期的な出版を続けている。
 解説を先に読むと理解が進む
 最新作で取り上げた『テーリー・ガーター』は、植木さんが仏教の男女平等思想を研究する中で最も重視した仏典だ。テーリーとは女性出家者(尼僧)の長老、ガーターとは「偈」(げ=詩)のこと。合わせて「長老の尼僧たちの詩」という意味で、紀元前3世紀にインドからスリランカに伝えられたパーリ語の原始仏典の一つ。72人と1グループの尼僧たちが詠んだ522の偈が収録されている。
 尼僧の出身は王族が23人、豪商が13人、バラモン階層が18人、元遊女らが4人など。老いて美貌の衰えを嘆く女性、夫や子供に先立たれた女性、母と娘で夫を共有することになり苦悶する女性、自殺を図ろうとした女性など様々な悩みを抱えた女性たちだ。いずれも釈尊の弟子と なって教えに従い、安らかな境地に達したことを「偈」で語る。
 パーリ語からの逐語訳本としては、すでに中村元による『尼僧の告白――テーリーガーター』(岩波文庫、1982年)がある。ほぼ本文訳のみだが、植木さんの新版は、本文の訳のほかに解説が100ページ以上あり、懇切丁寧な作りとなっている。植木さん自身、「はしがき」で、「インドの二千五百年も前の詩であり、文化の違いから現在の私たちには理解し難い表現も多々あるので、先に『解説』を読んでから『テーリー・ガーター』の本文を読まれた方が理解しやすいかと思う」とアドバイスしている。
 『テーリー・ガーター』は、宗教関係以外でも、看護、医療、ジェンダー論との絡みで引用されることがある。本書は今後、そうした様々な分野でも基本的なテキストとして利用されることになりそうだ。
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 比較宗教(仏教とキリスト教
 仏教の「女性」
 キリスト教の「女性」
 仏教では「女性は女性のままでは仏になれない」。
 キリスト教では?
 仏教とキリスト教の大きな違いの一つは、女性に対する考え方でしょう。
 仏典に、「女性は女性のままでは仏になれない」と書いてあるのを、あなたは知っていますか。女性は救われない、というのではありません。女性は女性のままでは成仏できない、女性のままでは救われない、というのです。
 女性は女性のままでは仏になれない
 「仏教の女性観は、いささかひどい女性蔑視だと思います」
 こう語るのは、仏教解説家として知られる、ひろさちや氏です。氏自身は仏教徒ですが、続けてこう言っています。
 「というのは、仏教においては、まず女性は、女性のままでは仏や菩薩(仏の候補生)になれない、とされているのです。仏や菩薩になるためには、女性は一度男子に生まれ変わらなければなりません。それを、
 『変成男子』(へんじょうなんし)
 と言います。……これは、どうにも言い逃れのしようのない女性差別です」
 この「変成男子」とは、どういうことでしょうか。
 仏教には、もともと女性は修行をしても仏になれない、という考えがありました。仏典にはこう書かれています。
 「悟りに達しようと堅く決心して、ひるむことなく、たとえ測り知れないほどの理知を持っているとしても、女性は、完全な悟りの境地は得がたい。女性が、勤め励む心をくじくことなく、幾百劫(一劫は四三億二〇〇〇万年)・幾千劫の間、福徳のある修行を続け、六波羅蜜(修行の六ヶ条)を実現したとしても、今日までだれも仏になってはいない」(法華経・堤婆達多品)
 さらに、
 「なぜかというと、女性には"五つの障り"があるからだ」
 と述べ、女性がなれないものを五つ列挙しています。それらは、
 1 梵天王になることはできない
 2 帝釈天になることはできない
 3 魔王になることはできない
 4 転輪聖王になることはできない
 5 仏になることはできない
 です。1~4の「梵天王」「帝釈天「魔王」転輪聖王」は、いずれもインドの神々を仏教に取り入れたものですから、現実には問題ないでしょう。しかし最後の「女性は仏になることができない」は、女性信者にとって大問題であるはずです。
 この「女性は仏になれない」という考えは、仏教の創始期からありました。実際仏典には、あちこちに女性を劣等視した言葉が見受けられます。なかには露骨な表現で、
「女は、大小便の満ちあふれた汚い容器である」
 というような、耳を覆いたくなるような表現さえ少なくありません(スッタ・ニバータ)。「汚い容器」であるのは男も同じなのですが、どういうわけか仏典には、男については決してそのような表現がないのです。
 女性が劣った者であり、仏になる能力のない者であるという考えは、仏教の創始者シャカ自身が持っていたようです。実際、シャカは従者アーナンダに対して、
 「女は愚かなのだ……」(増支部
 と語っています。仏教は、インド古来の階級制度である「カースト制」は否定しましたが、女性差別の考えは捨てきれなかったようです。
 女は男にならなければ仏になれない
 そこで困ったのが、後世の大乗仏教徒たちでした。
 大乗仏教は、出家の人間だけでなく、在家の人間も成仏できることを目指していました。
 また男性だけでなく、万人が成仏できることを目指していました。ですから、「女性は仏になれない」という教えは、彼らにとって大きな問題となったのです。
 そこで考え出されたのが、「女が男になる」(変成男子)という考えです。
 女が仏になれないのであれば、一度男に生まれ変わればよい、というわけです。そのため例えば、仏になることを一心に願って修行していたある女性の生殖器が、シャカや人々の見ている前で突然消え、たちまち男性の生殖器が生じた、などというような話も創作されました。
 こうして後世の仏教は、女性も修行を積んでよい、女性も修行を積めば仏になれる、と一応説くようになりました。また「勝鬘経」(しょうまんぎょう)のように、女性信者が仏法を雄弁に語る、という内容の仏典も創作されました。しかし勝鬘夫人の場合でも、仏になれるのは、
 「何度も何度も生まれ変わって後」
 と言われています。つまり、輪廻転生して将来"男"に生まれ変わってから成仏することが、想定されているのです。
 後世の仏教徒の中には、経典の言葉を無視して、「女性は女性のままで仏になれる」と説く者も現れましたが、仏典を見る限りでは、女性のままでは仏になれません。創価大学岩本裕客員教授仏教徒)は、こう述べています。
 「女性も仏になれるという女人成仏の思想は……一度男になった上でなければ成仏できないとされた。これが明らかに、女性を男性より劣等視したものであることは、いかなる抗弁もゆるされないであろう」
 また、こう述べています。
 「僧侶のセックスを解放し、『弥陀の本願(念仏を唱える者を救うという阿弥陀仏の誓い)には、老少善悪の人を選ばず』と唱えた親鸞にしても……女人のままでの成仏に踏みきれなかったのは、仏教の立場から見て、女性はやはり救いがたい存在であったからであろうか。いずれにせよ、仏教がフェミニストでないことは事実である」
 「親鸞」といえば、僧侶として初めて公然と妻を持ち、仏教界としては革命的な生き方をした人です。彼は、阿弥陀仏の救いには人の老若・善悪の別を選ばない、と説きました。
 しかし老若・善悪、そして男女の別を選ばない、とは説き得なかったのです。彼は、阿弥陀仏は女性を「変成男子」によって救う、と説きました。
 仏教の教理によると、「仏」はみな男性なのです。阿弥陀仏も、薬師仏も、大ビルシャナ仏も、その他ガンジス川の砂の数より多いと言われる無数の仏は、みな男性です。「仏」は男性名詞なのです。
 また男性なのは、「仏」だけではありません。「菩薩」もそうです。菩薩は、まだ仏にはなっていないが、仏の一歩手前にある人です。仏の候補生です。
 たとえば「観音菩薩」を見てみましょう。観音像は女性的な姿に造られているので、女性だと思う人もいるでしょうが、じつは男性です。仏教の教理では、菩薩はすべて男性なのです。
 また、仏典には、
 「仏国土に婦女子(女性)はいない」(法華経・五百弟子受記品)
 と書かれています。仏の国である「浄土」に、女性はいないのです。
 仏教は、「人が仏になるための教え」ですから、仏になるためには、女性はまず男に生まれ変わらなければなりません。
 女性は、うまく来世で男に生まれ変わって、男としてもう一度修行すれば、あるいは救われるかもしれない、というわけです。もっともこれは、「輪廻転生」によって来世で別の者に生まれ変わる、というようなことが本当にあればの話ですが。
 仏教の女性信者は、この世で善行を積んで、来世で男に生まれ変わって修行できるようになることを、渇望しました。女性は早く男性になることを夢見たのです。
 仏教は、女性が女性に生まれたことに何かの意味や価値があるとは、見ていないようです。仏典を読んでも、女性が女性に生まれた意味や価値についての言葉を、私たちは何も見いだすことができません。
 女性が女性に生まれた意味
 つぎにキリスト教を見てみましょう。
 聖書によれば、神が人間を男と女に造られたことには、深遠な意味があります。
 聖書は、「神は愛である」と言っています。これは、永遠から永遠まで神が愛のおかたである、ということです。神は、万物が存在する以前から「愛」であられました。
 しかし愛には、対象が必要です。もし人間も世界も、いかなるものも存在しない時から神は愛であったとするなら、神は何を愛の対象としておられたのでしょうか。
 神はご自身のうちに、愛の対象を持っておられたのです。クリスチャンは聖書によって、 「父なる神」と「御子イエス・キリスト」とは一体のおかたで、おひとりの神となっておられることを、知っています。
 つまり、おひとりの神の内に、父なる神と御子キリストとの"愛の交わり"があるのです(さらに聖霊との交わりを加えて、これら三者が一体であることを、神の「三位一体」と言います)。
 この"愛の交わり"は、世界に何も存在しない時から、神の内にありました。そこで神は、人間を「神のかたちに造られた」とき、人間の世界にも"愛の交わり"をお与えになりました。すなわち人を男女に造り、そこに交わりをお与えになったのです。
 ですからキリスト教では、「性」は神の創造によるものとして、本来良いものと見られています。それは、不健全なものに走らない限り、肯定されています。
 また聖書によれば、男と女は神の御前に、人間として平等です。
 「主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。それは、女(エバ)が男(アダム)から出たように、男もまた女から生まれたからである。そして、すべてのものは神から出たのである」(コリント人への手紙第一、一一・一一~一二)
 男と女は、お互いに依存し合って存在しており、人間として平等です。そして両者は神から出たのです。
 しかし、かといって聖書は、男女が同じ役割をすべきだとは見ていません。男女は、それぞれ別の働きのために造られました。聖書は、
 「男は神の似姿であり、神の栄光の現われ」(コリント人への手紙一、一一・七)
 と述べ、女については、
 「女は男の栄光の現われ」(同)
 また、
 「助け手」(創世記二・二〇)
 と述べています。「男」は、人間の主体として神の栄光を現わすために造られました。そして「女」は、男から造られた者として男を助け、男と共に人間の創造目的を完成するために、造られたのです。
 ですから、男と女には、それぞれの役割が与えられています。そして神・男・女が"三位一体"となって家庭を形成していくとき、家庭が完成すると教えています。
 女性は、その特有の愛情、やさしさ、感性、その他の資質を生かすべきです。キリスト教は、女性が女性に生まれたことには、大きな意義がある、と主張します。
 女性は女性のままで救われる
 そして、女性は女性のままで救われます。聖書は言っています。
 「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。……もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない」(ガラテヤ人への手紙三・二六~二八)
 救いに至るには、国籍、身分、老若、善悪、また男女の差別はありません。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者」(コリント人への手紙第二、五・一七)です。男も女も、信仰によって同じ救いに入ることができます。
 人は、神の御前に、男も女も同様に罪人です。また誰であれ、人は自分の善行によっては救いに到達できません。同じイエス・キリストの救いが必要です。そして信仰を告白すれば、同じ罪の赦し、同じ永遠の生命、同じ神の子の身分、同じ幸福が与えられます。
 だからこそイエス・キリストは、はじめから、男にも女にも同じように伝道されました。
 サマリヤ地方を通られたときには、井戸に水をくみに来た一人の女に伝道し、彼女を信仰に導かれました(ヨハネ福音書四章)。この女は、五回も結婚・離婚を繰り返し、そのときは六人目の男性と同棲していたのです。
 彼女はある意味では、なかなか本当の幸福をつかめない、かわいそうな女でした。しかしキリストは、この女に目をとめられ、彼女にやさしく、真の幸福とは何であるかについて諭されました。
 彼女が信仰を持ったとき、キリストはそれをとても喜ばれました。その後、弟子たちが町で食物を買ってきたので、その食物をキリストに差し出すと、キリストはすぐに食べようとはされません。
 弟子たちが不思議に思っていると、キリストは、
 「わたしを遣わした方(神)のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」(ヨハネ福音書四・三四)
 と言われました。キリストは言わば、
"わたしは今、神のみこころを行ない、それによってひとりの人が救われたので、胸がいっぱいで、心が満腹なのです"
 と言われたのです。キリストは一人一人の女性を、つねに大切にされました。女性も信仰を持てば、女性のままで即、救われるのです。
 また、姦淫の現行犯で捕らえられた一人の女が、キリストのもとに連れて来られたときも、キリストは彼女の救いに心を配られました(ヨハネ福音書八章)。
 不倫の現場をおさえられたこの女は、人々の非難と断罪の言葉の中で、うちしおれ、泣きすさんでいました。当時、姦淫を犯した者は、ユダヤの律法により、石打ちによる死刑と決まっていました。
 しかしキリストは、彼女を責めたてる者たちに対して、こう言われました。
 「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」。
 それを聞くと周囲にいた人々は、男と女も、心を刺され、年長者から一人一人出て行き、ついにキリストとその女以外はみな出て行ってしまいました。
 男と女も、人間はみな、罪深さの点で同じなのです。男が清くて、女が罪深いということはありません。ある場合には男の方が、女よりはるかに罪深くあります。
 キリストは、人々が出て行ったことを見ると、彼女に言われました。
 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」
 こうして、彼女を解放されました。男が救われるのであれば、ましてや女は救われるのです。
 いかなる女性も、神の救いに入り得ない人はいません。男性も同じです。私たちはだれであれ、罪深いからこそ、救われるのです。
 「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」(ローマ人への手紙五・二〇)
 と聖書に書いてあります。救いに値しない人は、一人もいません。どんなに罪の中に深く沈んでいても、そこに届かないほど神の御手は短くありません。
 だれでも、男も女も、悔い改めて主イエス・キリストの御名を呼ぶなら、例外なく、みな救われます。「主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる」(ローマ人への手紙一〇・一三)。
 神の救いの家には、すべての人が招かれているのです。
 久保有政著
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