💖23)─4─反天皇派ユダヤ人の東條批判。中国・韓国に告ぐ「靖国神社に戦犯は祀られていない」。〜No.97No.98  

日本とシオンの民 戦前編

日本とシオンの民 戦前編

  • 作者:栗山 正博
  • 発売日: 2007/08/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ユダヤ人の、
 多数派は反日派として、反天皇・反靖国神社で、昭和天皇東條英機松岡洋右松井石根らをホロコーストを行ったヒトラーナチス・ドイツと同罪として、激しい言葉で非難し、口汚く罵っている、
 少数派は知日派として、親天皇・親靖国神社で、ヒトラーナチス・ドイツホロコーストから助けてくれた昭和天皇東條英機松岡洋右松井石根らに感謝の言葉を述べている。
   ・   ・   ・   
 世界はもちろん日本国内でも、戦前の軍国主義者・天皇主義者・人種差別反対派、反戦平和主義者らの死を覚悟し命を捨てて行った人道貢献・平和貢献を認めない。
   ・   ・   ・   
 現代日本には反天皇反日本的風潮が蔓延している。
 その象徴が、「あいちトリエンナーレ2019」における表現の自由問題である。
 昭和天皇は、戦争犯罪者として戦争責任が厳しく問われ、日本で最も嫌われている天皇である。
   ・   ・   ・   
 反日の中国・韓国・北朝鮮そして反天皇の国際報道機関は、昭和天皇ヒトラーと同罪の極悪人と認定し、その非人道的犯罪を絶対に許さない。
   ・   ・   ・   
 2014年1月26日 SankeiBiz EXSANKEI EXPRESS
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 【軍事情勢】心外なユダヤの「東條批判」
 1940(昭和15)年9月27日、東京・麹町の外相官邸で開かれた「日独伊三国同盟」締結祝賀会に臨んだ東條英機陸相(当時、軍靴姿の中央)。同盟は同盟として、一方で東條はユダヤ人の痛みに情けをかけていた。乾杯の音頭を取っているのは松岡洋右外相。
 《安倍晋三首相(59)や閣僚が、アジアの(ドイツ指導者アドルフ)ヒトラー(1889~1945年)である東條英機陸軍大将(首相/1884~1948年)らA級戦犯を祀(まつ)る靖國(やすくに)神社を参拝している》
 1月21日付イスラエル紙に載った中国大使の寄稿だ。歴史認識が間違いと認識しながら世界中で繰り返す猟奇的謀略で、毎回反論せねばならぬ。一方で2013年12月末、ユダヤ系団体サイモン・ウィーゼンタール・センター(本部・米国)の非難声明は憤るより悲しかった。曰(いわ)く-
 「亡くなった人を悼む権利は万人のもの。だが、戦争犯罪や人道に対する罪を実行するよう命じたり、行ったりした人々を一緒にしてはならない」
 失望理由の一つは、ホロコーストユダヤ人大量虐殺)の記録保存や反ユダヤ主義監視を行い、国際的影響力を持つ組織なのに、正確な国際法制史を学んでいない?点だ。「人道に対する罪を実行するよう命じたり、行ったりした人々」は靖國にお祀りされていない。
 日独を同一視
 《人道に対する罪》は第二次世界大戦の独降伏後、ドイツ人を裁くため1945年8月8日、ニュルンベルク裁判の基本法・国際軍事裁判所憲章で初めて規定。(a)平和に対する罪(b)殺人と通例の戦争犯罪(c)人道に対する罪-が、国際軍事裁判所で所管する《犯罪》とされた。
 日本人を裁いた極東国際軍事裁判所条例でも、憲章にならい各各所謂(いわゆる)《ABC級犯罪》が定められた。しかし《人道に対する罪》は適用できなかった。勝者による敗者への復讐(ふくしゅう)劇でもあった極東国際軍事裁判ですら、連合国はドイツの如(ごと)き特定民族に対する絶滅意図をでっち上げるのが不可能だった。この点、ニュルンベルク裁判では、22被告の内16人が《人道に対する罪》で有罪になる。センターは日独を同一視しているのではないか。
 そもそも《人道》と《平和》に対する罪は、米国が1944年秋から1年に満たない短期で創り上げ憲章制定前にはない。戦争開始・遂行を犯罪とする《平和に対する罪》に至っては、米国/英国/中華民国が降伏を求め日本に突き付けたポツダム宣言(45年7月)時点で、犯罪とされていない。二罪とも慣習国際法として確立していなかったのだ。
 欧州大陸法系近代刑法は、実行時の合法行為を事後に定めた法令で遡(さかのぼ)り処罰することを禁ずる。《事後法の禁止=法の不遡及(ふそきゅう)》である。
極東国際軍事裁判所設立は、裁判9カ月以上前のポツダム宣言でうたった《俘虜(ふりょ)を虐待せる者を含む戦争犯罪人には厳重なる処罰を加へらるべし》が根拠。仮に罪を問うのならB級の《殺人と通例の戦争犯罪》だけなはず。実際、日中の左翼が「大日本帝國(ていこく)陸軍が中国人民を大量虐殺した」と捏造(ねつぞう)・粉飾を続ける、所謂《南京事件》について、南京攻略戦司令官をC級の《人道に対する罪》ではなくA級の《平和に対する罪》で起訴。しかも無罪となり、B級で有罪となった。
 「戦犯」自体も誤認
 所謂《戦犯》自体も誤認している。52年のサンフランシスコ講和条約発効を受け、日本は主権回復し《各級死亡戦犯》を《公務死》と認定した。条約では、裁判を牛耳った11カ国の過半数の同意を得られれば《戦犯》を赦免できると規定。外国の異論もなく、58年までに全員釈放となった。既述したが、もともと“C級戦犯”は存在せず、“AB級戦犯”も靖國にお祀りされていないということ。
 センターは人種・民族差別に対する帝國陸海軍の立ち位置も正しく復習・認識しなければならない。連合国は《人道に対する罪》を問えなかった、どころではない。日本は、迫害を逃れた万人レベルのユダヤ人を世界で助けた。例えば-
 35年に独施政下のユダヤ人は公民権を奪われ難民となり外国に逃れた。一説に数千人のユダヤ人が38年、シベリア鉄道で滿洲(まんしゅう)國近くのソ連にたどり着く。ソ連に入国拒否された難民は滿洲國入りを切望したが、滿洲國も拒む。滿洲國防衛を担う帝國陸軍・關東軍(かんとうぐん)の樋口季一郎少将(後に中将/1888~1970年)は、吹雪の中に立ち尽くす難民を見かね食料・衣類・燃料や加療を施した。さらに、滿洲國外務省や南滿洲鉄道(滿鉄)を説き、滿洲や上海租界への移動を周旋した。日独防共協定(1936年)を結び、日独伊三国同盟(40年)まで視野に入れていたドイツは断固抗議。樋口は關東軍参謀長時代の東條中将に呼ばれる。樋口は東條に「ヒトラーのお先棒を担ぎ弱い者いじめをすることが正しいと思われますか」と質(ただ)し、東條も受容した。滿鉄総裁が、後に外相として三国同盟に傾斜する松岡洋右(ようすけ、A級戦犯被告。未決中に病死/1880~1946年)だった点も興味深い。
 痛みに情けをかけた心根
 ユダヤ難民への入国ビザ発給国は著しく限られた。斯(か)かる状況下の39年以降、英米列強と日本による上海外国人居留地=共同租界の帝國海軍陸戦隊警備区も、ユダヤ神学生300人や1万8000人ものユダヤ難民のビザ無し入境を許している。
 ユダヤ難民の扱いでは、永世中立国スイスでさえ暗部を抱える。スイスはドイツとともに38年、ユダヤ人旅券にユダヤの頭文字《J》のスタンプ押印を義務付けた。キリスト教文化の根付くスイスには19世紀半ば以来、反ユダヤ主義が認められる。そこに、労働市場を難民に奪われる懸念やドイツの侵攻を恐れるスイス政府の意向が加わった。42年には、ユダヤ人を念頭に難民の国境引き離し政策を実施。多くのユダヤ人がスイス入国を果たせなかったが、出発地への帰還は死を意味した。
 人種差別も後押しした米国の対日強硬策を、ユダヤ人を通し打開する工作の一面もあったろう。だが、“A級戦犯”として絞首刑となった東條はじめ日本の軍人が、ドイツを含む欧米列強による蔑(さげす)みに悲憤し、ユダヤ人の痛みに情けをかけた心根(こころね)は紛れもない。
 もしユダヤ社会が、宗教観の違う日本に偏見を抱き、意図的に批判するなら大いなる矛盾だ。偏見こそ、ユダヤの敵ではないか。ユダヤ人を救ったのも、日本人のDNA=おおらかな宗教観故ではなかったか。
 ところで、イスラエルの中国武器市場のシェアは2位、韓国でも3位前後に陣取る。ただ、小欄はユダヤ社会が優しき武士(もののふ)の心を仇(あだ)で返し“算盤(そろばん)勘定”を優先したとは努努(ゆめゆめ)思わない。(政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS)
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 2017年8月21日 産経ニュース「【野口裕之の軍事情勢】中国に告ぐ「靖国神社に戦犯は祀られていない」 韓国に告ぐ「枢軸国だった歴史を直視せよ」
 ユダヤ難民を助けた東條英機
 終戦の日を迎え雨の中、夕方になっても多くの参拝者が靖国神社を訪れた=8月15日、東京都千代田区(桐山弘太撮影)
 長崎県端島(通称・軍艦島)炭鉱を舞台にした韓国映画軍艦島》を筆者は観ていないが、鑑賞した学識経験者にストーリーを聞いて驚き、次いで腹を抱えた。映画では、《韓国光復軍》所属の要員が、独立運動の主要人物を救うため端島に潜入する、のだそうだ。韓国光復軍を歴史の表舞台で、輝かしく祭り上げようとする創造力は痛々しい限り。でも、超ムリ筋だ。理由は後述するが、ストーリーは次の様に展開する。
 軍艦島では強制連行された男たちが牢獄のような宿舎に詰め込まれ、貧しい食事と暴力を受けながら重労働を強いられる。事故が起きると、他の坑道を守るべく出口がふさがれ、朝鮮人労働者は見殺しにされる。家族連れの場合、女性・女児は遊郭で働かされる。無数の五寸釘が突き出た戸板に転がされ、死んでいく女性も出て来る…
 もう無茶苦茶&デタラメのオンパレードだ。けれども、映画ならウソ八百が許されると考えては、現実を見誤る。
 韓国側はユネスコ(国連教育科学文化機関)大使らを対象に上映会を開くなど、映画を対日プロパガンダに利用し、ナチス・ドイツによる《ユダヤ人大虐殺=ホロコースト》と二重写しにする悪意満載の「反日印象付け映画」に仕上げている。これも後述するが、大日本帝國永世中立国スイスも見捨てたユダヤ人を、同盟国ドイツと対立して尚、保護した。保護を断行した人物の中には、日本映画でさえ蛇蝎の如く描かれる東條英機・陸軍大将(首相/1884~1948年)もいた。
 まずは、映画に登場する韓国光復軍が、いかに活躍できなかったかの哀史より入る。
 韓国光復軍は1940年、中華民国=国民党政権の臨時首都・重慶にあった朝鮮独立を目指す亡命政府もどき「韓国臨時政府」の武装組織。ところが、動員計画は遅れ、創軍1年目の兵力は300人。米CIA(中央情報局)の前身で抵抗活動を支援するOSS(戦略諜報局)の協力の下、朝鮮半島内で潜入破壊活動を考えたが、日本降伏が先になった。「臨時政府」自体、能力的欠陥などが問題視され、連合・枢軸国双方が承認を拒んだ。
 韓国光復軍は韓国の教科書にも載るが、2013年の韓国光復軍創立73周年、韓国メディアは光復軍について講釈した。
 《英軍と連合して1944年のインパール戦闘をはじめ、45年7月までミャンマービルマ)各地で対日作戦を遂行した》
 枢軸国・韓国の「連合国なりすまし」
 韓国光復軍は《英軍と連合》できる規模も能力も地位も有していなかったが、なぜ歴史の粉飾・ねつ造に耽るのだろうか。
 朝鮮民族は、大東亜戦争(1941~45年)中から今に至るまで「連合国」を気取ってきたが、近代に入り日本と朝鮮は本格的に戈を交えてはおらぬ。戦前~戦中~戦後と、まともな対日ゲリラ抗戦も民族蜂起も起きていない。むしろ1910年に併合された朝鮮は枢軸国・大日本帝國として戦った。国際法上も実態上も、断じて連合国ではない。
 初代大統領・李承晩(1875~1965年)は長崎県対馬の「返還」要求と抱き合わせで、領土も画定する「サンフランシスコ講和条約署名国の資格がある」と1949年、米国に訴えた。戦勝国=連合国入りさせろ-とゴネたのだ。
 駐韓米大使は米政府に口添えした。ワケがある。韓国は在日朝鮮人の連合国民扱い=賠償を求めるなど、国際の法・常識を無視する数多の無理難題を吹っ掛けたが、日本は無論、米国もほぼのめぬ内容だった。米国は無理難題を押さえ込むべく、韓国の署名要求を預かり、条約草案で一旦は締結国リストに加えた。
 しかし、韓国は日本と戦っていないと英国が異を唱え、朝鮮戦争(1950~53年休戦)を共に戦っていた米国も英国にならう。
 米国は《連合国共同宣言》への署名(1942年)がないとも指摘したが、韓国は執拗に食い下がった。共同宣言参加国は最終的に47カ国。全物的・人的資源を対枢軸国用戦力に充てる方針に同意していた。間の悪いことに、フィリピン独立準備政府や多くの亡命政府も参加していた上、連合国(United Nations)なる用語が宣言で正式採用された。
 交渉過程で韓国は、日本の講和条約締結を終始妨害し、島根県竹島の韓国編入すら主張した。結局、韓国が得たのは在朝鮮半島の日本資産移管のみ。講和会議へのオブザーバー参加も拒絶された。
 日本だった朝鮮は、欧州列強の植民地兵のごとく人間の盾にされもせず、日本軍将兵として戦った。朝鮮人の軍人・軍属は24万2000人以上。朝鮮人高級軍人の目覚ましい武勇に触発され、志願兵の競争率は62倍強に沸騰した。2万1000柱の朝鮮人英霊が靖国神社に祀られる。
 戦後も米国は、朝鮮を国家でなく日本だったと公認。日本の統治権を取り上げ直接軍政を敷き、韓国光復軍武装解除した。米国は38度線以北に陣取るソ連軍をにらみ(1)統治能力欠如(2)度し難い自己主張や激高しやすい民族性(3)偏狭な民族主義共産主義の跋扈…など、信頼性を欠く韓国に国家たる権能を与えたくなかったのだ。実際、「臨時政府主席」の金九(1876~1949年)は個人資格で〝帰国〟した。
 韓国は「日帝を打ち負かして独立を勝ち取った」のではない。終戦3年後、半島で統一国家建設をたくらむソ連に対抗した対日戦勝国・米国が韓国への長期信託統治を断念。米国に独立を大きく前倒ししてもらった棚ぼた式だった。
 金九も自伝で憂いた。
 《心配だったのは(大東亜)戦争で何の役割も果たしておらず、将来の国際関係において発言権が弱くなること》
 対日復讐裁判でもでっち上げに失敗した「人道に対する罪」
 続いて、冒頭述べた、ナチス・ドイツの蛮行《ユダヤ人大虐殺=ホロコースト》を大日本帝國に被せる、呆れた手口に反論する。本題に入る前に、ホロコーストと一体で論考される《人道に対する罪》から説明したい。
 戦後72年の終戦の日(15日)、安倍晋三首相は靖国神社に参拝せず、自民党総裁特別補佐を名代に、同党総裁名義の玉串料奉納で済ませたが、中国外務省報道官は案の定噛み付いた。
 「靖国神社侵略戦争に直接的責任があるA級戦犯を祀っている」
 「日本側の誤ったやり方に断固反対する」 
 中国共産党は、自らに都合のよい「猟奇的な日本の近代史」をねつ造し、世界中でタレ流すが、毎回反論せねばならぬ。中国大使のイスラエル紙寄稿(2014年1月)も然り。いわく-
 《安倍晋三首相や閣僚が、アジアの(ドイツ指導者アドルフ)ヒトラー(1889~1945年)である東條英機・陸軍大将らA級戦犯を祀る靖国神社を参拝している》
 国家に殉じた英霊に感謝し、お慰めする崇高な行いに、外国の顔色をうかがう必要は全くない。靖国神社への玉串料奉納で済ませようが、参拝を行おうが、言い掛かりを付けてくる中国への回答は靖国神社参拝以外にあり得ない。
 一方、ユダヤ系団体サイモン・ウィーゼンタール・センター(本部・米国)の非難声明(2013年12月)には、憤るより失望した。いわく-
 《亡くなった人を悼む権利は万人のもの。だが、戦争犯罪や人道に対する罪を実行するよう命じたり、行ったりした人々を一緒にしてはならない》
 失望理由の一つは、ホロコーストの記録保存や反ユダヤ主義監視を行い、国際的影響力を持つ組織なのに、正確な国際法制史を学んでいない?点だ。《人道に対する罪を実行するよう命じたり、行ったりした人々》は靖国神社にお祀りされていない。
 《人道に対する罪》は第二次世界大戦(1939~45年)におけるドイツ降伏後、ドイツ人を裁くため1945年8月8日、ニュルンベルク裁判の基本法・国際軍事裁判所憲章で初めて規定。(a)平和に対する罪(b)殺人と通例の戦争犯罪(c)人道に対する罪-が、国際軍事裁判所で所管する《犯罪》とされた。
 日本人を裁いた極東国際軍事裁判所条例でも、憲章にならいおのおの、いわゆる《ABC級犯罪》が定められた。が、《人道に対する罪》は適用できなかった。勝者による敗者への復讐劇ともいわれる極東国際軍事裁判で、「ドイツが行った特定民族絶滅と同じ意図を、日本が抱いていた」と、連合国はでっち上げようとしたが、不可能だったのだ。この点、ニュルンベルク裁判では、22被告の内16人が《人道に対する罪》で有罪になる。サイモン・ウィーゼンタール・センターは日独を同一視しているのではないか。
 そもそも《人道》と《平和》に対する罪は、米国が1944年秋から1年に満たない短期で創り上げ憲章制定前にはない。戦争開始・遂行を犯罪とする《平和に対する罪》に至っては、米国/英国/中華民国が降伏を求め日本に突き付けたポツダム宣言(1945年7月)時点で、犯罪とされていなかった。二罪とも慣習国際法として確立していなかったのだった。
 欧州大陸法系近代刑法は、実行時の合法行為を事後に定めた法令で遡り処罰することを禁ずる。《事後法の禁止=法の不遡及》である。
 極東国際軍事裁判所設立は、裁判9カ月以上前のポツダム宣言でうたった《俘虜を虐待せる者を含む戦争犯罪人には厳重なる処罰を加へらるべし》が根拠。仮に罪を問うのならB級の《殺人と通例の戦争犯罪》だけなはず。現に、日本のサヨク中国共産党と連動して「大日本帝國陸軍が中国人民を大量虐殺した」とねつ造・粉飾をやめない、いわゆる《南京事件》について、南京攻略戦司令官をC級の《人道に対する罪》ではなくA級の《平和に対する罪》で起訴。しかも無罪となり、B級で有罪となった。
 いわゆる《戦犯》自体も誤認している。1952年のサンフランシスコ講和条約発効を受け、日本は主権回復し《各級死亡戦犯》を《公務死》と認定した。条約では、裁判を牛耳った11カ国の過半数の同意を得られれば《戦犯》を赦免できると規定。外国の異論もなく、58年までに全員釈放となった。既述したが、もともと〝C級戦犯〟は存在せず、〝AB級戦犯〟も靖国神社にお祀りされていないということ。
 連合国は《人道に対する罪》を問えなかった、どころではない。大日本帝國は、迫害を逃れた万人レベルのユダヤ人を世界中で助け続けた。例えば-
 1935年にドイツ施政下のユダヤ人は公民権を奪われ難民となり外国に逃れた。一説に数千人のユダヤ人が38年、シベリア鉄道で滿洲國近くのソ連にたどり着く。ソ連に入国拒否された難民は滿洲國入りを切望したが、滿洲國も拒む。
 滿洲國防衛を担う帝國陸軍・關東軍の樋口季一郎・少将(後に中将/1888~1970年)は、吹雪の中に立ち尽くす難民を見かね食料・衣類・燃料や加療を施した。さらに、滿洲國外務省や南滿洲鉄道(滿鉄)を説き、滿洲や上海租界への移動を周旋した。
 日独防共協定(1936年)を結び、日独伊三国同盟(40年)まで視野に入れていたドイツは断固抗議。抗議を受け、樋口は關東軍参謀長時代の東條英機・中将に呼ばれる。樋口は東條に「ヒトラーのお先棒を担ぎ弱い者いじめをすることが正しいと思われますか」と質し、東條も受容した。
 ユダヤ難民移動を担った滿鉄の総裁が、後に外相となり三国同盟に傾斜する松岡洋右A級戦犯被告。未決中に病死/1880~1946年)だった歴史の一コマも興味深い。
 ユダヤ難民への入国ビザ発給国は著しく限られた。かかる状況下の1939年以降、英米列強と日本が管轄する上海外国人居留地=共同租界の帝國海軍陸戦隊警備区も、ユダヤ神学生300人や1万8000人ものユダヤ難民のビザ無し入境を許している。
 ユダヤ難民の扱いでは、永世中立国スイスでさえ暗部を抱える。スイスはドイツとともに1938年、ユダヤ人旅券にユダヤの頭文字《J》のスタンプ押印を義務付けた。キリスト教文化の根付くスイスには19世紀半ば以来、反ユダヤ主義が認められる。そこに、労働市場を難民に奪われる懸念やドイツの侵攻を恐れるスイス政府の意向が加わった。42年には、ユダヤ人を念頭に難民の国境引き離し政策を実施。多くのユダヤ人がスイス入国を果たせなかったが、出発地への帰還は死を意味した。
 大日本帝國にとって、人種差別も後押しした米国の対日強硬策を、ユダヤ人を通し打開する工作の一面もあったろう。ただ、〝A級戦犯〟の汚名を着せられ絞首刑となった東條はじめ日本の軍人が、同盟国ドイツを含む欧米列強による蔑みに悲憤し、ユダヤ人の痛みに情けをかけた心根は紛れもない。
 靖国神社には、かくも優しき武士(もののふ)たちがお祀りされている。中国と韓国の日本に向けられた想定外の憎悪に、英霊もこんな調子で戸惑っておられよう。
 「中国共産党軍は逃げてばかり。ロクに戦いもせず逃げ回っていたはずだが…」
 「朝鮮の人は共に戦った同胞。戦後、一旦帰国し、再び来日した人もおびただしい数にのぼると聞いた。なのになぜ、戦後随分たって反日に急変したのか…」
   ・   ・   ・   
 2018年9月3日 産経新聞「【野口裕之の軍事情勢】同じ過ち犯す中国 「C級戦犯」は存在せず「AB級」も靖国にお祀りされていない
 ユダヤ難民を助けた東條英機
 今年の終戦の日は昨年の雨天とは異なり、日陰を探すのに苦労したが、夕方になっても多くの参拝者が靖国神社を訪れていた風景は同じだった。大日本帝國陸海軍の軍装に身を包む若い日本人も例年同様、少なくなかった。保守層の間でも、帝國陸海軍の軍服を着る若き日本人には賛否両論があるが、わが国は自由と民主主義の国であって、軍服姿での参拝は本人の選択だ。ところが、帝國陸海軍の軍服を着ると拘束される国がある。
 中国では2月、南京戦の激戦地=紫金山で日本軍の軍服を着て記念撮影したとして、20代の男性2人が拘束された。帝國陸海軍のコスプレ愛好者や、日本文化を称賛する余りに中国社会を卑下する中国人の出現は「精日=精神的日本人」現象と呼ばれ、中国当局が批判を強めている。中国版ツイッター《微博》に「安倍(晋三)首相はおれのおやじだ」などと書き込んだ、安徽省馬鞍山市の18歳男性も8月、警察に拘束された。
 中国江蘇省南京市の人民代表大会(市議会に相当)常務委員会では8月、帝國陸海軍々人のコスプレの撮影や、中国側が宣伝する虚構「南京大虐殺」への異論などを禁止する条例案が提出された。条例案は《組織や個人が南京大虐殺の史実を歪曲・否定》する言動を禁止。南京事件をめぐり中国側が主張する「犠牲者30万人」は、日本側の研究では根拠のない異常に誇張された数字との見解が定着したが、この種の議論自体が処罰の対象となる。条例は南京市外でも有効とされたり、外国人ジャーナリストも対象となったりする可能性がある。
 従って、日本にあこがれる中国の「精日」が帝國陸海軍の軍装姿で靖国を参拝したら、中国共産党はどんな反応を見せるだろうか?と想像を膨らませてしまった。もちろん、英霊の間でも、保守層の間でも、中国人が帝國陸海軍の軍服を着て靖国神社の境内を歩くことに賛否両論があるに違いないが、少なくとも中国共産党が腰を抜かすシーンを想像する。
 A級とC級戦犯は違法な事後法で罰せられた
 何しろ終戦の日安倍晋三首相が今年も期待を裏切り参拝をせず、6年連続玉串料奉納で済ませ、国会議員が参拝しただけで、中国外務省の陸慷報道局長は、靖国神社極東国際軍事裁判東京裁判)の「A級戦犯」を合祀していると指摘。「日本の誤ったやり方に断固反対する」とする抗議声明を発表した。
 中国共産党は、自らに都合のよい「猟奇的な日本の近代史」を捏造し、世界中でタレ流すが、毎回反論せねばならぬ。中国大使のイスラエル紙寄稿(2014年1月)も然り。いわく-
 《安倍晋三首相や閣僚が、アジアの(ドイツ指導者アドルフ)ヒトラー(1889~1945年)である東條英機・陸軍大将(1884~1948年)らA級戦犯を祀る靖国神社を参拝している》
 国家に殉じた英霊に感謝し、お慰めする崇高な行いに、外国の顔色をうかがう必要は全くない。靖国神社への玉串料奉納で済ませようが、参拝を行おうが、言い掛かりを付けてくる中国への回答は靖国神社参拝以外にあり得ない。
 そもそも《人道に対する罪を実行するよう命じたり、行ったりした人々》は靖国神社にお祀りされていない。中国共産党は故意か学習不足かは判然としないが、同じ過ちを頻繁に犯す。
 《人道に対する罪》は第二次世界大戦(1939~45年)におけるドイツ降伏後、ドイツ人を裁くため1945年8月8日、ニュルンベルク裁判の基本法・国際軍事裁判所憲章で初めて規定。(a)平和に対する罪(b)殺人と通例の戦争犯罪(c)人道に対する罪-が、国際軍事裁判所で所管する《犯罪》とされた。
 日本人を裁いた極東国際軍事裁判所条例でも、憲章にならい各々、いわゆる《ABC級犯罪》が定められた。けれども《人道に対する罪》は適用できなかった。勝者による敗者への復讐劇ともいわれる極東国際軍事裁判で「ドイツが行った特定民族絶滅と同じ意図を、日本が抱いていた」と、連合国はでっち上げようとしたが、不可能だったのだ。この点、ニュルンベルク裁判では、22被告の内、16人が《人道に対する罪》で有罪になる。
 《人道》と《平和》に対する罪は、米国が1944年秋から1年に満たない短期で創り上げ憲章制定前にはない。戦争開始・遂行を犯罪とする《平和に対する罪》に至っては、米国/英国/中華民国が降伏を求め日本に突き付けたポツダム宣言(1945年7月)時点で、犯罪とされていなかった。二罪とも慣習国際法として確立していなかったのだった。
 欧州大陸法系近代刑法は、実行時の合法行為を事後に定めた法令で遡り処罰することを禁ずる。《事後法の禁止=法の不遡及》である。
 極東国際軍事裁判所設立は、裁判9カ月以上前のポツダム宣言でうたった《俘虜を虐待せる者を含む戦争犯罪人には厳重なる処罰を加へらるべし》が根拠。仮に罪を問うのなら、B級の《殺人と通例の戦争犯罪》だけなはず。現に、日本のサヨク中国共産党と連動して「大日本帝國陸軍が中国人民を大量虐殺した」と捏造・粉飾をやめぬ、いわゆる《南京事件》について、南京攻略戦司令官をC級の《人道に対する罪》ではなくA級の《平和に対する罪》で起訴。しかも無罪となり、B級で有罪となった。
 いわゆる《戦犯》自体も誤認している。1952年のサンフランシスコ講和条約発効を受け、日本は主権回復し《各級死亡戦犯》を《公務死》と認定した。条約では、裁判を牛耳った11カ国の過半数の同意を得られれば《戦犯》を赦免できると規定。外国の異論もなく、58年までに全員釈放となった。既述したが、もともと“C級戦犯”は存在せず、“AB級戦犯”も靖国神社にお祀りされていないということ。
 連合国は《人道に対する罪》を問えなかった、どころではない。大日本帝國は、迫害を逃れた万人レベルのユダヤ人を世界中で助け続けた。例えば-
 1935年にドイツ施政下のユダヤ人は公民権を奪われ難民となり外国に逃れた。一説に数千人のユダヤ人が38年、シベリア鉄道で滿洲國近くのソ連にたどり着く。ソ連に入国拒否された難民は滿洲國入りを切望したが、滿洲國も拒む。
 滿洲國防衛を担う帝國陸軍・關東軍の樋口季一郎・少将(後に中将/1888~1970年)は、吹雪の中に立ち尽くす難民を見かね食料・衣類・燃料や加療を施した。さらに、滿洲國外務省や南滿洲鉄道(滿鉄)を説き、滿洲や上海租界への移動を周旋した。
 日独防共協定(1936年)を結び、日独伊三国同盟(40年)まで視野に入れていたドイツは断固抗議。抗議を受け、樋口は關東軍参謀長時代の東條英機・中将に呼ばれる。樋口は東條に「ヒトラーのお先棒を担ぎ、弱い者いじめをすることが正しいと思われますか」と質し、東條も受容した。
 ユダヤ難民移動を担った滿鉄の総裁が、後に外相となり三国同盟に傾斜する松岡洋右A級戦犯被告。未決中に病死/1880~1946年)だった歴史の一コマも興味深い。
 ユダヤ難民への入国ビザ発給国は著しく限られた。かかる状況下の1939年以降、英米列強などと日本が管轄する上海外国人居留地=共同租界の帝國海軍陸戦隊警備区も、ユダヤ神学生300人や1万8000人ものユダヤ難民のビザ無し入境を許している。
 ユダヤ難民の扱いでは、永世中立国スイスでさえ暗部を抱える。スイスはドイツと共に1938年、ユダヤ人旅券にユダヤの頭文字《J》のスタンプ押印を義務付けた。
 キリスト教文化の根付くスイスには19世紀半ば以来、反ユダヤ主義が認められる。そこに、労働市場を難民に奪われる懸念やドイツの侵攻を恐れるスイス政府の意向が加わった。42年には、ユダヤ人を念頭に難民の国境引き離し政策を実施。多くのユダヤ人がスイス入国を果たせなかったが、出発地への帰還は死を意味した。
 大日本帝國にとって、人種差別も後押しした米国の対日強硬策を、ユダヤ人を通し打開する工作の一面もあったろう。ただ、“A級戦犯”の汚名を着せられ絞首刑となった東條はじめ日本の軍人が、同盟国ドイツを含む欧米列強による蔑みに悲憤し、ユダヤ人の痛みに情けをかけた心根は紛れもない。靖国神社には、かくも優しき武士(もののふ)たちがお祀りされている。
 中国の日本に向けられた憎悪に、英霊もこんな調子で戸惑っておられよう。
 「中国共産党軍は逃げてばかり。ロクに戦いもせず逃げ回っていたはずだが…」
 ところで、先述の陸慷報道局長は終戦の日、「日本側は侵略の歴史を直視し、深く反省し、実際の行動で『アジアの隣国や国際社会の信用』を得るよう求める」とも批判した。
 疲れる。『アジアの隣国』で国内の政権基盤強化を謀り「対日憎悪」をあおる国は中国+韓国+北朝鮮=「反日三兄弟」ぐらいで、他の『アジアの隣国』は日本を深く『信用』する。むしろ、『アジアの隣国や国際社会の信用』を得ていないのは、侵略性を伴う異常な軍事膨張をひた走り、世界中の先端技術を盗みまくる中国ではないか。
 怪しげな金融・経済システムで成り上がり、肥えた「国体」は反り返る余り、国際社会の軽蔑&警戒が見えぬようだ。」
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、世界が中国共産党ウイグル人・モンゴル人・チベット人少数民族に対するジェノサイド(民族絶滅)に反対しているのに、中国との貿易を優先して反対せず、それどころか虐殺される人々を中国共産党に配慮して助けもしない。
 「他人は他人、自分は自分」といった傾向は、リベラル派戦後民主主義世代とその薫陶を受けた次世代に強い。
 同じような事は、マルクス主義者である左翼・左派・ネットサハらの北朝鮮による日本人拉致事件に対する冷淡さ・薄情さにもいえる。
   ・   ・   ・   
 戦前の日本人がユダヤ人難民を助けたのは、民族中心神話・民族物語における天皇の御稜威・大御心と「八紘一宇」(日本書紀古事記)という大家族主義からであって、現代の日本人が好む軽薄にして薄っぺらな人道主義・人命主義、偽物に近いキリスト教価値観のヒューマニズム、自利自愛で自己満足にすぎないボランティア精神からではない。
 現代日本を支配している陰険・陰湿でおぞましい同調圧力・場の空気・空気圧・空気などは関係なく、それどころか、それらとは真逆にして相容れず対立する民族固有の大和心、正心、まごころ、清明心、良心、志、誠、日本精神、武士道、惻隠の情、惟神(かんながら)の道、その他である。
 現代の日本人とは違って、「もののあわれ」を知る昔の日本人は「止むに止まれず」にユダヤ人難民を助けた。
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 歴史の事実として、人類史には真実はなく、人間世界には正義はなく、人間社会には誠意など通じない。
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 非白人非キリスト教の民族国家日本は時効なき戦争犯罪国家であり、天皇を戴く日本民族には生存する限り戦争犯罪者の烙印が付いて回る。
 その証拠が、東京裁判であり、靖国神社問題であり、歴史教育問題などである。
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 昭和天皇ユダヤ人難民保護を望んでいたから、忠良な臣下・臣民、軍部・陸軍、日本民族は政府・外務省の決定に逆らってまで、ナチス・ドイツから逃げてきたユダヤ人難民に救いの手を差し伸べ、命を犠牲にしてまでホロコーストから守り通した。
 その象徴的存在が靖国神社である。
 反天皇・反靖国神社反日本の左翼・左派・ネットサハには、ユダヤ人難民救護を語る資格はない。
 それは、反ユダヤ派・差別主意者・陰謀論者の右翼・右派・ネットウヨクでも同様である。
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 昭和天皇立憲君主の元首として、親ユダヤ派、親米英派、親バチカン派、人種差別反対派、反戦平和主義者で、反ナチス・ドイツ派、反ヒトラー派、反ソ連派、反スターリン派、反共産主義派であった。
 昭和天皇は、天皇中心の国=国體を死を覚悟して体を張って守り抜いた。
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日本天皇日本民族・日本国の敵は国内外に数多く存在し、その為に孤立無援の劣勢に追い込まれている。
 特に、隣国の中国人と韓国人・朝鮮人はその急先鋒となっている。
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 松岡洋右の、東京会議、日独伊三国同盟、日ソ中立条約を正しく評価できない日本人には日中戦争から太平洋戦争までの激動期を理解できない。
 まして、昭和天皇靖国神社を批判・否定する日本人には日本の歴史及び日本民族の歴史を語る資格はない。
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 日本を身動きできないように十重二十重に縛り付けているのは、西洋のキリスト教史観であり、中華の儒教史観であり、左翼・左派・ネットサハのマルク主義史観である。
 国際法が認めた東京裁判史観とは、自虐史観より最悪な日本人極悪非道の凶悪犯人史観である。
 その証拠が、世界中に広まる第二回南京事件従軍慰安婦問題、徴用工問題などの非人道的事件である。
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 1550年代から1600年頃まで、日本人は、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人によって奴隷として、中国・東南アジア・南アジア・中南米・アフリカそしてヨーロッパなど世界中で売り買いされていた。
 中世キリスト教会とは、イエズス会ドミニコ会フランシスコ会などのカトリック教会系諸修道会であった。
 白人キリスト教徒商人の多くは、民族宗教ユダヤ教を捨てた改宗ユダヤ人であった。
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 日本陸軍は、第二次上海事変で始まった日中戦争で、ナチス・ドイツ、ドイツ軍の軍事支援を受けていたファシスト中国軍(中国国民党)と戦って勝利し、ソ連軍・共産主義勢力の援軍を得ていたファシスト中国軍(中国国民党)や中国共産党軍を撃破した。
 日本軍航空部隊は、太平洋戦争開戦以前から、中国の大空で、アメリカ陸軍航空部隊とソ連軍航空部隊の援軍を得ていた中国軍航空部隊と死闘を繰り広げて圧倒し制空権を支配した。
 イギリスとユダヤ系国際金融資本・世界的軍需産業は、戦争勝利の為にファシスト中国(中国国民党)や中国共産党に大量の軍需物資を提供していた。
 フランスは、植民地フランス領インドシナ仏印)をファシスト中国(中国国民党)や中国共産党への軍事物資輸送路として提供していた。
 多くのキリスト教会は、ファシスト中国(中国国民党)や中国共産党を精神的に支えていた。
 キリスト教朝鮮人テロリストは、日本人共産主義テロリスト同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
 日中戦争とは、日本軍が一国で世界と戦う孤独な戦争であった。
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 日中戦争が長期化し泥沼化したのは、中国大陸が奥深く、蔣介石・ファシスト中国、毛沢東中国共産党そして中国国民が民族主義に目覚めて頑強に抵抗したからではない。
 日本軍は、戦争犯罪として武器を取って殺しに来る敵兵士を殺したが、人道貢献として武器を持たない溺れる中国人や飢える中国人は助けた。
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 軍国日本が勝利する為には、宣戦布告して、ファシスト中国(中国国民党)や中国共産党を戦争相手国と指定し、第三国や民間企業を戦闘支援行為から排除する事であった。
 それは同時に、石油・物資・食糧など外国依存度の強い日本も戦闘国家の指定を受けて世界で戦略物資の購入ができなくなる危険性を孕んでいた。
 それを承知で、松井石根日中戦争終結の為には「宣戦布告の発布」が不可欠として軍中枢部に意見具申していた。
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 松岡洋右は、ナチス・ドイツ三国同盟を、ソ連と中立条約を結んで、両国を日中戦争から切り離し、同盟国・友好国として独ソ戦争を回避させる外交努力をしなかった。
 日本軍は、イギリスとユダヤ系国際金融資本・世界的軍需産業による軍需物資を遮断する為に独立派ベトナム人の協力を得て北部仏印に進駐し、抵抗するフランス植民地軍を撃破して占領した。
 松岡洋右は、フランスの敵対行為を止めさせる為にビシー政権との友好関係を築いた。
 イギリスとユダヤ系国際金融資本・世界的軍需産業によるファシスト中国(中国国民党)や中国共産党への軍需物資供給の北部仏印ルートと香港ルートは、日本軍の侵略で遮断され、ビルマからの陸上ルートが完成するまでイギリス軍輸送機による空輸に頼るしかなかった。
 残る問題は、フランクリン・ルーズベルト大統領の承認で行われている陸軍航空部隊のボランティア部隊(正規パイロット)と航空支援部隊(正規整備兵)による軍事支援であった。
 だが、アメリカは日米交渉継続の為に松岡外相の罷免を要求した。
 日本政府は、アメリカとの戦争を避け太平洋の平和を守る為に傲慢で嫌われ者の松岡外相を罷免した。
 誰も、松岡洋右を弁護し庇う者はいなかった。
 昭和天皇も性格的に松岡洋右が好きではなかった。
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 日本の歴史は、松岡洋右を最低にして最悪な外務大臣であったという烙印を押し、その人間性も否定し、歴史的な犯罪者と認定している。
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 東条英機首相兼陸相は、インド独立支援とファシスト中国への軍需物資輸送遮断を目的としてインパール作戦を許可した。
 インパール作戦の失敗は、現地軍司令部の判断の甘さによる。
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 三国同盟が理解できない現代日本の知的エリートである政治家・官僚らや進歩的インテリである学者・専門家・研究者らは、外交音痴・外交下手以前の外交能力欠如である。
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 日本人にとって中国人・韓国人・朝鮮人は、友・友人ではないし、親友でもなければ、戦友にもならず、良き知人でもなく、敵であり、悪い知人である。
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⚔37)─4・E─江戸の日本が朱子学を無毒化できたのは中国へのコンプレックスのお陰。~No.162  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本の儒教と中国や朝鮮の儒教とは別の儒教である。
 それは仏教でも言える事で、日本の仏教は中国仏教・朝鮮仏教とは違う。
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 儒学者は、中華(中国)皇帝と朝鮮国王は正当性の覇者(覇王)で、日本天皇は正統性の王者である事を認めていた。
   ・   ・   ・   
 2021年5月号 WiLL「朱子学の毒について
 日本でも朱子学の影響を免れることはできなかった。
 井沢元彦/石平
 等閑視(とうかんし)されていた儒学
 石平 本誌3月号で中国を中心に東アジアに深刻な影響を与えた朱子学について見てきましたが、日本でもその影響は免れませんでした。そもそも日本に儒教儒学)が入ってきたのは、仏教より早かった。
 井沢 そうですね。6世紀ごろだと言われています。
 石平 ところが、当時の日本人は儒教よりも仏教の導入に心血を注ぎました。聖徳太子法隆寺がその最たるものです。以降、江戸時代まで、日本の思想史の中心人物は空海最澄法然親鸞日蓮道元など、仏教関係ばかり。
 井沢 日本人の儒学者で目立った人物はいません。
 石平 江戸時代以降、日本人が儒学を積極的に受け入れるようになった大きな理由は何だったのか。
 井沢 徳川家康朱子学を国教のように扱ったことが大きかったと言えます。それ以前は、日本では朱子学は、それほど研究されていませんでした。中国の文献を詳細に読解できたのが、室町時代の五山文学(鎌倉時代末期から室町時代にかけて禅宗寺院で行われた漢文学)の担い手と言われる人々です。
 石平 義堂周信(1325~88)らがいました。
 井沢 つまり、儒学の書物は禅僧を中心に読まれていたのです。中国文学者、吉川幸次郎氏の『日本の心情』(新潮社)には、日本における儒学の受容史が紹介されています。五山文学の担い手たちの詩文は、本場中国でも通用するほど見事なものだと。
 石平 ほう。
 井沢 時代ごとに漢文の書き下ろしの方法が変わりますが、全然理解されていない場合と、中国語的に正しい場合の二つに分かれるそうです。五山文学の僧侶は中国留学もしていますから、正確な中国語を理解していた。ただ、儒学は最優先課題ではなかったのです。最初に仏典、次に詩文、最後に『こういうものもある』と儒学を紹介したようです。
 石平 そういう距離感だったわけですね。
 井沢 ただ儒学無神論です。無神論の哲学を有神論の仏者が講じる、というても歪(いびつ)な構図が生まれてしまったのです。そこが江戸時代まで続きました。
 石平 江戸時代の代表的な儒学者、藤原惺窩(1561~1619年)も相国寺の禅僧だったでしょう。
 井沢 そうですが、惺窩は僧侶が儒学を説く矛盾に気づいた。だから、惺窩は還俗({げんぞく}一度出家した者がもとの俗人に戻ること)して、儒学を説くことにしたのです。弟子の林羅山(1583~1657年)も似たような考えだったのでしょう。
 家康のトラウマ?
 石平 家康が朱子学を積極的に取り入れた理由は何だったのか。
 井沢 本能寺の変を目の当たりにしたからだと思います。明智光秀という一介の浪人を、織田信長が大名にまで引き上げました。ところが、光秀は信長を裏切り、殺害した。そして、そのを破り、天下を制したのが羽柴(豊臣)秀吉だった。信長は光秀以上に秀吉を取り立てたのです。一介の農民から大名にさせたのですから。ところが、秀吉は信長の息子、信雄・信孝が生きていたにもかかわらず、天下を乗っ取ってしまった。いわば、大恩人である主君の信長を裏切った格好です。
 石平 秀吉は〝忠臣〟の大石内蔵助ではなかった。
 井沢 そういう状況を見て家康は『日本にはモラルがなさすぎる』と思ったのです。
 石平 下剋上の世界に、家康も嫌気が差していたわけですか。どうやって克服するか、日本にとって大きな課題だったと思います。それは家康が秩序を重んじる儒学を導入した理由の一つでしょうが、もう一つの理由は戦国時代にかけて仏教は大きな権力を持ち、家康自身も一向一揆でたびたび悩まされたから、仏教への対抗の意味で儒学を持ち上げたのではないでしょうか。
 井沢 実に激しい宗教一揆が繰り広げられていました。今の感覚からすると信じられませんが、その当時、日本全体が仏教熱に浮かされていたのです。本願寺門徒は『宗主(しゅうす)様のためなら死んでもいい』と思っていた。むしろ、戦って死んだほうが極楽往生できるとまで考えていたのです。イスラム教の自爆テロと変わりません。
 石平 信長の実力を持ってしても、本願寺との戦い(石山合戦)が終わるまで10年もかかっています。
 井沢 信長が比叡山焼き討ちに踏み切ったのも、仏教徒の信仰心を抑えつけるためでもあったのです。そこまでしないと仏教の勢力を削ぐことはできなかった。ともかく日本に道徳規範がなければ、外国から輸入するしかない。当時、二つの思想がありました。一つはキリシタンキリスト教)、もう一つが儒学朱子学)だったのです。
 ところが、キリスト教の場合、神の前では、みな平等となる。身分社会をつくる上では不都合な宗教ですから、家康は排除した。そこで『忠』と『孝』という2本柱を植え付けるのにうってつけの、朱子学を積極的に導入したのです。
 石平 惺窩や林羅山を中心に、武士階級に奨励していった。
 井沢 大名も家来たちが恩知らずの光秀や秀吉になったら困ります。右にならえで、日本中に儒学を教える藩校がつくられていきました。
 石平 湯島聖堂(東京)や閑谷(しずたに)学校(岡山)が、その名残ですね。
 井沢 そういう意味で、家康は実に賢かった。平和な世界を築くために、家康は参勤交代という人質政策を実施しましたが、それだけでは足りない。人の心を変える必要があると。
 石平 それが儒学だった。。ただ、不幸なことに、中国や朝鮮半島でその頃盛んだったのが儒教の変種である原理主義朱子学だった。家康は朱子学の毒に気づくことなく、朱子学を導入してしまう。
 井沢 気づいていれば、どうしたかな。
 忠臣蔵の真実
 石平 そういう経緯があって、江戸時代、朱子学が〝指導的理念〟として奨励、官学化されるわけですが、徐々に、朱子学の毒の影響が出てきます。たとえば、寛政の改革を実行した松平定信は『寛政異学の禁』(朱子学以外の学問を教えることを禁ずる)を発令しました。
 井沢 朱子学原理主義的で、排外的な思想ですから、定信のような人物が出てくるのは当然です。ただ、5代将軍、徳川綱吉は英明な将軍でした。それほど朱子学を信奉していない儒学者室鳩巣(1658~1734年)や荻生徂徠(1666~1728年)を積極的に採用し、朱子学の毒を克服しようとする。新井白石(1657~1725年)もその中から頭角を現したのですが、次ぎの6代将軍、家宣に対して、綱吉のやり方を徹底的に批判したと言われています。原理主義的な人物だった。
 石平 白石は幕府の政策にもかなり口をだすようになっています。
 井沢 ええ、林羅山のときは、いわば文部大臣のような立場でした。ところが、白石の時代になると、儒学者が政治にも絡んできます。……
  ……
 井沢 ……天皇側か、武士側か、正成はどちらにつくか悩み、結局、天皇側についた。
 ですから、正成は武士社会から、いわば組合を裏切り企業側についた汚いヤツだと白い目で見られていたのです。この正成が復権するのが江戸時代、徳川光圀がその立役者でした。
 光圀の影響
 石平 ご存じ黄門様ですが、『大日本史』を編纂し、水戸学の創始者の側面もあります。
 井沢 明から渡ってきた儒学者朱舜水({しゅしゅんすい}1600~82年)を師としており、朱子学の影響を大いに受けました。日本の忠臣は誰かいないかを探したところ、正成にぶち当たったのです。それ以降、正成は幕府に逆らってまで天皇に忠誠を尽くした大忠臣として祭り上げられ、今や皇居前に銅像まで建っています。
 石平 評判が大逆転してしまった。朱舜水の場合、彼は明朝と清朝易姓革命を経験して明の皇帝が滅んだことを目の当たりにしました。そんため、万世一系の日本の皇室の重みと有り難さを日本人以上に分かっているから、いわば『勤皇思想』を光圀に説いたのでしょうね。
 井沢 そのうえで、忠臣蔵の連中を考えると、彼らは果たして忠志だったのか、ということです。中国の思想からすると、忠臣ではないでしょう。
 ……
 石平 同情しつつ、果断な処罰が必要であると。
 井沢 山崎闇斎(1619~82年)の弟子の一人、佐藤直方(1650~1719年)は『幕府の裁定(切腹)は理に当たっており、彼らの志も義に当たっているなどという者がいるが、官裁が理に当たっているというなら、彼らは不義の輩以外の何ものでもないはずである』と手厳しく批判しています。一方で、浅見絅斎(1652~1711年)は『まれな忠臣義士である』と一定の評価を下し、意見が二分していく。こう見てみると、忠臣蔵事件から日本の朱子学は別種のものに変化していきます。
 王者と覇者
 石平 家康は武士社会の秩序をつくり出すために、朱子学を導入しました。でも、そこに一つの大きな落とし穴があった。朱子学の頂点を極めると、世俗の権力の頂点に立つ立つ将軍でも、一つの大きな枠組みの中に組み込まれているに過ぎない。それが『天皇』という存在です。朱子学を突き詰めていくほど、天皇に向かわざるを得ない。
 井沢 それこそが家康の大誤算だったと思います。徳川家に反乱するような輩を抑えつけるために朱子学を学ばせた。しかし、その結果、朱子学を学んだ武士たちは『本当の主君は徳川家ではない。天皇だ』と思うようになったのです。朱子学流に言えば、天皇は『王者』、徳川家は『覇者』に過ぎないと。
 石平 『王者』とは徳をもって世の中を治める理想的な主君、『覇者』とは戦争や陰謀などによって権力を得た君主のことです。
 井沢 ただ、家康自身、自覚はあったと思います。そこで家康は仏教と神道の力を借り、自らを東照大権現であると神格化させました。天上界から乱世の世の中を見かねて降りてきて、人間として苦労を重ねて天下を取り、今は天にお帰りになった。人間界にいるとき、人間の女性と交わり、子孫を残されている。つまり、徳川家は神の子孫であると。
 石平 家康としては、皇室に対抗しているわけですね。
 井沢 天皇も神が人間界に降りてきて、人間の女性と交わり生まれた子供の子孫であるとしています。皇室は天照大御神の子孫。一方、東照は『アズマテラス』。家康は『これまでの日本は天照大御神の子孫である天皇が世を治めてきたけれど、これからは東照の神様の子孫である将軍家が世を治める』としたのです。ですから、家康としては朱子学をたとえ導入したとしても、世の中の価値観がひっくり返るとまでは考えていなかった。
 石平 ただ、征夷大将軍という官位は、天皇からいただくもの。天皇という権威が厳然としてあることを示しています。
 井沢 東照大権現という称号も、朝廷から許可を得ています。朝廷からではなく、独自の役職や称号を考え出せば、朝廷の権威を脱することができたかもしれません。
 『権威』と『権力』の違い
 石平 しかし家康は結局、天皇の権威を頂点とした政治秩序の中で幕藩体制をつくり上げるしかんかったのです。そういう意味では、日本の権威のあり方が、中国とはまったく違います。中国人が永遠に理解できないのは、次の一点です。家康は皇室をなぜ潰さなかったのか。
 井沢 中国では皇帝と名乗ればいいのですが、天皇は神の子孫です。たとえ、皇室を潰しても、『神のDNAを受け継いでいるのか』と、その正統性を否定されてしまう。儒学無神論ですから理解することができない迷信なのです。でも、その迷信こそが民主主義を誕生させる原動力になる、という面白い逆説があります。
 石平 『権威』と『権力』の違いを日本は分けています。それは非常に賢明なやり方であって、絶対的な権力者や独裁者が日本から出てこないのです。でも、中国は一緒にしてしまうから、いろんな問題はそこから生じてきています。
 井沢 イエスやアラーを信じるからこそ、神の前には平等だとなる。国王・庶民という身分は存在しないとなるから、フランス革命のように庶民が国王の首をギロチンにかけることができます。ところが、中国では一介の農民が皇帝の首を切っても、次の皇帝になるにすぎない。士農工商という身分制度は、牢固(ろうこ)として動きません。
 石平 中国では、絶対的な権力者である皇帝の下では官僚が『大人』であって民は『草民』であるから、万民は平等であるという意識なんて、絶対に生まれようがない。
 井沢 それこそが朱子学の毒ですが、では、なぜ日本では民主主義が実現できたのか。吉田松陰が『天皇は神の子孫である』という伝統を利用し、天皇の前ではみな平等であるとしたのです。関白だろうが、将軍だろうが、一庶民であろうが、関係ありません。このことを私は『日本型平等主義』と呼んでいます。
 石平 明治以降の近代国家成立にとっても、天皇の存在は不可欠だったのです。
 井沢 そういうことです。戦後、左派の連中は反天皇天皇不要論を口にしています。日本を敗戦に巻き込んだ張本人だと言いたいわけですが、まったく無意味な論説です。明治維新天皇を据えなければ、万民が平等と言える近代国家はできなかった。
 石平 そういう逆説ですね。天皇を頂点に据えたからこそ、明治政府の廃藩置県も上手くいって幕藩体制を打破することができ、万民平等の近代国家をつくり上げたのです。
 井沢 ただ、問題がなきにしも非ずです。ヨーロッパの場合、神という存在を目に見えません。
 ですが、天皇は目の前に存在します。『これは天皇の思し召しである』と軍が勝手に言い出せば、国を操ることだってできてしまう。ここが大日本帝国のアキレス腱だったと言えます。
 田沼政治の是非
 石平 朱子学は官学に祭り上げられ、『格物致知(かくぶつちち)』(物事の道理や本質を追究して理解して、知識や学問を深めること)『誠心誠意』『治国平天下』という思想を武士たちは信奉します。一方で、町人・商人たちを見ると、儒教を受容しても、朱子学派それほど広まっていないように見えます。
 井沢 朱子学は『商人は人間のクズだ』と考えています。松平定信も『商(あきない)は詐(さ)なり』、つまり、商売は賤(いや)しいものだと見ていました。農民とは違い、人が汗水たらしてつくったものを、右から左に流して利益を得る商人は、詐欺のようなものだと見ていました。
 江戸時代、『享保の改革』(徳川吉宗。1716~45年)、『寛政の改革』(松平定信。1787~93年)、『天保の改革』(水野忠邦。1841~43年)という三大改革が実施されましたが、朱子学の影響が色濃い政策です。農業を盛んにして国を豊かにしようとした。
 石平 商工業はまるで無視。
 井沢 『胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり』と豪語した悪代官、神尾春英(1687~1753年)は、8代将軍、吉宗の部下でした。吉宗は商人から税を取るのは賤しいものだとして取らなかった。その代わりに、百姓から絞れるだけ税を絞ったのです。百姓からすれば、吉宗は悪い将軍ですよ。
 石平 テレビドラマ『暴れん坊将軍』では、吉宗は庶民の味方のように扱われています。
 井沢 吉宗に反攻したのが、尾張徳川藩第7代当主の宗春です。宗春は商業重視で、商業を盛んにすれば、民も豊かになり、幸せになると考えたのです。ですが、当時の江戸時代の常識に従って、商人から税を取ることはなかった。そのため、宗春はばら撒いたものの、結果的に財政破綻に陥ってしまったのです。吉宗にその責任を追及され、隠居に追い込まれ、宗春の政治は潰された。でも、吉宗の享保の改革以降、百姓一揆が頻発するようになっています。
 石平 どの改革も成功したとは到底言えません。
 井沢 吉宗の孫である10代将軍、家治は田沼意次(1719~88年)を採用して、商業重視の政治を始めました。ですから、今の歴史教科書を見ると、『田沼政治』(1767~86)と表記されている。『○○の改革』とはなっていません。
 石平 田沼の改革であると評価していないわけですね。
 井沢 かつては『田沼の悪政』とまで言われるほどでした。
 節約政策ばかり
 石平 これこそ朱子学の悪影響と言えます。三大改革の中身を見ると、反商業主義の節約政策ばかりです。市場経済の毒から武士の精神を守ろうとしていたが、結果的に失敗に終わりました。
 井沢 米は江戸時代、立派な商品です。飢饉のときになれば、米の価格は2倍、3倍と値上がりします。だから、豊作のときは売らず、蔵に入れて管理し、値上がりしたときに売ればいいのに、徳川家の武士は誰もしていません。商人のような真似をしたくないと拒んだのです。
 ……
 石平 江戸時代では武士が商人から借金をするまでになった事実を知ったとき、驚きましたよ。中国だったら、支配階層が下のものから借金することなんてあり得ない。必要であれば奪い取ればいいのですから。
 井沢 日本の武士は、そんなことを考えない。1万両を商人から奪ってしまったら、それは商人の稼ぎを利用したことになる。でも、借りたものであれば返せばいい。商人に依存したことになりません。苦しい言い訳ですが。
 石平 そういう意味で、いわば士農工商身分制度は、別に上の武士階層が一番下の商人階層を抑圧しているイメージではなく、むしろ武士も商人もそれぞれ自分たちの『分』を守って役割分担をしている感じですね。ただ、幕府はオランダとの外交貿易関係を築いていたでしょう。
 井沢 それは家康というご先祖が決めたことだからOKなのです。『祖法(そほう)』と言いますが、これも朱子学の考え方の一つです。祖法を変えることはご先祖様を批判することになる。ただ、オランダとの貿易でも、幕府は儲け主義に走らなかった。オランダ貿易が財政に一度でも寄与したとは気いたことがありません。幕府は賤しい行為はしたくないと、長崎商人に丸投げしていたのです。
 中華すら必要ない
 石平 商人の立場からすると、朱子学は自分たちの商売行為を阻害するものだと考えていたのではないでしょうか。だから、自分たちで儒学を研究するほかなかった。
 井沢 渋沢栄一は、『論語』は商売を決して賤しいものだと蔑(さげす)んでいないと。でも、この考え方は、実は渋沢がオリジナルではなく、伊藤仁斎(1627~1705年)がすでに言及しています。
 石平 仁斎は古義学(こぎがく)を提唱しています。古義学とは朱子学を批判し、朱子を通じての『論語』ではなく、直接、『論語』という原典を読む。さらに徂徠は『論語』より以前の『六経(りくけい)』(儒教の基本的な六つの経典。『易』『書』『詩』『礼』『春秋』『楽』の六つの経書)を重視する。
 井沢 孔子に影響を与えた最古の古典に戻って、そこから始めればいいとした。『古文辞学(こぶんじがく)』と言います。朱子学を無視して原点回帰せよと。このことを漢語で『維新』と言います。
 石平 さらに賀茂真淵(1697~1769年)や本居宣長(1730~1801年)などの国学者が登場してきます。中国の古典さえ通り越して、『古事記』や『万葉集』など日本の古典こそがすべてだと。
 井沢 こういった流れは、日本の中国に対するコンプレックスから来ているのでしょう。山鹿素行(1622~85年)は『中朝事実』という本を書いていますが、〝中朝〟とは日本のことを指す。『中国』と偉そうに言えば、実態はどうか。王朝は次々に交代している。一方で日本は万世一系の国だと。だから、日本こそ世界の中心であるとしたのです。ちょうど明が清に滅ぼされた時期とも重なっていて、中国の伝統は日本が受け継いでいると考えたのです。
 石平 そういうメンタリティが働いていた。
 井沢 さらに神道とも結びつき、天皇が一番偉い存在であるとなれば、日本は中国を越えた〝神州〟であると。
 石平 それでも山鹿素行は『中華』というものに最高の価値を置いて、『日本こそ中華だ』と言っていますが、後の宣長になると、中華(中国思想)すら必要ではなくなります。中華文明が入ってくる以前の純粋な日本の思想に最高の価値を置いた。ところが、明治以降、再び朱子学が息を吹き返してしまう。
 官僚制度の弊害
 井沢 官僚制度を生み出したことが、その元凶ですよ。試験に合格した者が優秀であり、国家の中枢を担うべきだとした。最初の頃は良かったのです。
 それまで『おれは将軍家の家来だから、大名の家来より偉い』『同じ貴族だけれど関白になれる家柄だった』と身分差別が強くあったのですが、試験制度があれば、商人だろうが、農民であろうが、誰にでもチャンスがある。
 石平 まさに科挙制度そのものです。中国では隋から清の時代まで科挙制度が続いていましたが、日本は科挙制度を拒否し続けました。
 ところが、明治になってから見事、科挙社会が生まれてしまったのです。
 井沢 国家公務員上級試験をパスすれば、官僚になれて、しかも出世できる可能性がある。ですが、国家が成熟する段階においては、組織の固定化などの弊害が出てきます。民間の活力を利用すればいいのに、いまだに官僚試験を続けている。大日本帝国でも、その弊害はありました。
 ……
 鍋料理文化の日
 石平 江戸時代の幕藩体制は、朱子学とは最終的に矛盾することになる。つまり、朱子学を突き詰めると、天皇に行き着かざるを得ない。明治の新体制は、この矛盾を解消したのです。
 井沢 四民平等という考え方は、朱子学ではあり得ないことです。朱子学からすると、人間には格差があると考える。徳のあるやつもいれば、ないやつもいる。優秀な人間もいれば、無能な人間もいる。では、どうやって見抜くか。科挙を実施し、ふるいにかける。そうやって選ばれた人間が選ばれなかった人間を指導するのは当然だというわけです。現在の共産主義社会も同じです。選ばれた共産党員が愚かな大衆を指導する。
 ところが、日本の場合は天皇という爆弾を持ってきたため、身分制がすべて破壊された。天皇の前にはみな平等だと、『天皇の赤子(せきし)』という言葉も生まれました。翻っていえば、日本国民は天皇を父としたのです。
 石平 国民全体が家族であると。
 井沢 『忠』と『孝』の問題がここでも問われます。中国の場合は『孝』のほうが『忠』よりも上です。たとえば、天下を左右する戦いに兵士として参加しても、親が病気で重態であれば、『孝』を優先して故郷に帰ってしまう。ですが、日本の場合はそれができない。天皇は父親でもあるから、天皇のために戦うことは『孝』を尽くすことになる。
 石平 『忠孝一致』ですね。
 井沢 だからこそ、日本は近代国家の道を歩めるようになったのです。
 石平 中国ではいまだに『忠』と『孝』の矛盾を克服できていません。皇帝も一つの家ですが、自分たちの家族も一つの家です。公と一族は常に矛盾をはらんでいる。解決の糸口はいまだに見出すことができていません。
 井沢 常に家族優先です。
 石平 だから、中国はいつまでたっても近代国家になれないのです。
 井沢 一度だけ、中国史上、『忠』と『孝』の矛盾を克服したことがあります。毛沢東文化大革命時代、紅衛兵の一人が母親の罪を密告し、処刑に追い込んだことがある。それまで考えられなかったことです。瞬間風速的ですが、毛沢東というカリスマの存在が、『孝』という意識を吹き飛ばしてしまった。
 石平 そうですね。中国の伝統社会、特に農村社会は、どれほど王朝が交代しても一族中心に暮らしていました。ところが、毛沢東は農村社会を解体して、人民公社に吸収させた。そのとき、擬制的な一君万民の社会が実現したのです。ですが、その人工的な社会も毛沢東の死去とともに終わってしまった。
 井沢 それに毛沢東時代、人々が幸せだったかというと、そんなことはありません。文化大革命などで何千万人が死んだと言われています。『忠』と『孝』という矛盾に縛られている中国の悲劇性は、とてつもなく大きいと言わざるを得ません。
 石平 その通りです。ところが日本の場合、朱子学が入ろうが、仏教が入ろうが、最終的には日本は日本のまま、という印象を受けます。キリスト教でも同じ。日本の伝統には、外来宗教や文化が変えることのできない強靭さがある。作家の芥川龍之介は短篇『神神の微笑』で、『造り変える力』と言っています。この場合は、キリスト教にしても日本流に造り変えてしまういう意味です。
 井沢 日本の文化は鍋料理と同じです。さまざまな具材が入ってきても、結局、鍋の中でグツグツ煮込んで、一つの料理となってしまう。
 ……
 お人好しの日本人
 石平 ともかく、中国との付き合い方だけは気を付けなければなりません。渋沢は『渋沢栄一「青淵論叢(せいえんろんそう)」』(講談社学術文庫鹿島茂編訳)で『中国と付き合うには敬愛の心が大切だ』『お互いに情愛をもって交際すべき』と言っています。この考え方は現代も引きずっているような気がします。福田康夫元総理は『お友達(中国)の嫌がることをあなたはしますか。国と国の関係も同じ。相手の嫌がることを、あえてする必要はない』なんてことを口にしている。でも、そのために、日本は中国に何度も裏切られてきました。尖閣諸島が脅威にさらさている中、『情愛の心』や『友愛の海』なんていっても相手には通じないでしょう。
 井沢 日本人はお人好しなんです。中国人は海千山千の連中ですから。操ろうなんて、とてもじゃないけど無理な話です。せいぜい利用されて捨てられないようにする。
 石平 日本のビジネスマンが中国で商売をしたいのなら、中国人になり切るほかありません。平気で嘘をつき、人を騙す術(すべ)を身につけたほうがいいかもしれません。しかし、日本そのものは、自らの良さを保っていくべきです。中国の場合、人々が騙し合うのですから社会は、なかなかまとまりません。だから、カリスマ的な独裁者が必要になって独裁者支配の抑圧の社会になってしまいます。そんな社会は、日本はいらない。日本人は天皇を中心に、『天下一家』のような感じで、なんとなく一つの穏やかな社会でまとまっています。ですから、そこは日本人として自信を持つべきでしょう。
 過去、中国の思想に影響を受けてきた日本ではありますが、中国に対して憧れを抱く必要はありません。冷静に、客観的に中国を観察し、適当に対応をするべきです。」
   ・   ・   ・   
中韓を滅ぼす儒教の呪縛 (徳間文庫)
なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか 日本と中韓「道徳格差」の核心 (PHP新書)
朱子学と陽明学 (岩波新書 青版 C-28)
   ・   ・   ・   
 飛鳥時代、日本はインドの仏教を受けいれたが中国の儒教は受け入れなかった。
 奈良時代、日本は唐の律令制を導入したが隋の科挙(高等官資格試験)などの儒教制度は受け入れなかった。
 何故、日本は儒教より仏教を選んだのか、それは日本民族心神話・血の神話・高天原神話、記紀神話日本書紀古事記)などの神話に拠るところを絶対正統とする皇室・天皇制度を守る為であった。
 中華儒教には、遊牧異民族が軍事力で漢族(中国人)の中華を侵略して暴力で建国した征服王朝中華帝国)の正当性を認める政治理論が含まれていたからである。
   ・   ・   ・   
 キリスト教 仏教、イスラム教は一つではなく数多くの宗門宗派が存在する。
 キリスト教には、同じイエス・キリストと聖書であっても、ローマ・カトリック教会プロテスタント東方正教会諸派教会がなど数多く存在する。
 日本仏教は、インドの釈迦が開いた宗教で、同じ経典・お経を学んで唱えても、インド仏教、チベット仏教、中国仏教、朝鮮仏教、その他と全然違う。
 日本儒教は、中国の孔子が開いた儒教であっても中華儒教の中国儒教・朝鮮儒教とは全然違う。
 日本独自の神道ですら、宮中神道神社神道教派神道伊勢神道吉田神道、その他と数多く存在する。
 だが、日本人は物事を深く突き詰めて考える事が苦手な単細胞的単純思考であるだけに、それらの違いを理解するのが面倒臭いから同じモノだと納得し安心している。
 つまり、日本人には宗教の対立・弾圧・戦争が分からない為に無宗教無神論に逃げ込んでいる。
   ・   ・   ・   
 徳川家が天皇家に見劣りしない神の子孫となる為に、徳川家康は死後に東照大権現と神格化されて東照宮に祀られた。
 これによって徳川家は神の血を引く一族になり、その神の血筋を正当として日本を統治した。
 日本における神聖不可侵の絶対的正統は天皇・皇室にあって、それ以外は変更可能な正当であった。
 天皇・皇室の正統は、日本神話、民族中心神話、血の神話、高天原神話によって裏打ちされ、それ源流は数万年前の縄文時代の祭祀まで遡る。
   ・   ・   ・   
 徳川家は、神の血を引く神の子孫である、それは科学的根拠のない迷信・戯言・作り話である。
 敗者の徳川慶喜は、神の血を受け継ぐ神の子孫であるが故に、たとえ朝敵・賊軍の責任があったとしても処刑される事がなかし、後に恩赦で罪は許され公爵に叙せられ復権した。
 それが、八百万の神々という日本の多神教=日本神道である。
   ・   ・   ・  
 現代日本人は、武士・サムライと縁もゆかりもないがゆえに武士道の本当の意味が分からない、愚かにも、知ったか振りで武士道を論じている。
 真に武士道を論じる資格のある日本人は、心身共に厳しい鍛錬をへ自我を律し天皇と志の為に命を捨てる覚悟のある極一部の日本人だけである。
 マルクス主義史観・共産主義史観やキリスト教史観は無用の長物である。
 武士・サムライ、武士道を語る資格がない日本人とは、左翼・左派・ネットサハなどのマルクス主義者であり、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者・学者である。右翼・右派・ネットウヨクも同様である。
 彼らには、武士・サムライ、武士道を語る資格がないと同様に百姓・農民や職人を語る資格もなく、日本の歴史、日本民族の歴史で語る資格があるのはごく狭い範囲のみである。
 つまり、彼らが語る日本の歴史、日本民族の歴史には意味がない。
 が、彼らが語る日本の歴史、日本民族の歴史が歴史教育となっている。
 意味のない歴史教育で高得点をとって社会に出てきているのが、高学歴な知的エリートと進歩的インテリそして反天皇反日的日本人達である。
   ・   ・   ・   

💖24)─2・B─JTB職員大迫辰雄はユダヤの救世主。ユダヤ人難民約1万5,000人日本輸送。〜No.100 

日本とシオンの民 戦前編

日本とシオンの民 戦前編

  • 作者:栗山 正博
  • 発売日: 2007/08/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 現代の日本の歴史は、創作された真実を伝えても、現実に起きた事実を伝えない。
   ・   ・   ・   
 日本は世界で信用され、日本人は世界で愛されている、はウソである。
   ・   ・   ・   
 戦後・現代の日本は、戦前・戦時中の日本を正しく評価せず全てが悪・犯罪として切り捨てている。
   ・   ・   ・   
 日本で代表的な人種差別反対派・親ユダヤ派・反戦平和主義者は昭和天皇であった。
 親ユダヤ派、東条英機板垣征四郎松井石根松岡洋右
   ・   ・   ・   
 在米ユダヤ協会は、ソ連で逃げ道を遮断されたユダヤ人難民を救うべくユダヤ難民救援会を組織し、同協会の保証を条件としてアメリカ政府の許可を受け、ウォルター・プラウンド社(後にトーマス・クック社に合併)を通じて、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在の日本交通公社、JTB)に日本への輸送協力を依頼した。
 松岡洋右外相は、人道上の見地から、ユダヤ人難民の日本への緊急・早期入国を、「法律がない」為に大臣の独断権限で超法規処置として認めた。
 ジャパン・ツーリスト・ビューローは、ユダヤ人難民約1万5,000人をウラジオストックから日本海経由で敦賀に輸送した。
   ・   ・   ・   
 日本政府は、国内へ押し寄せるユダヤ人難民の数が多い為に受け入れを拒んだ。
 外務省は、ユダヤ人難民を日本に入国させるとナチス・ドイツとの関係を悪化させるとして反対した。
 根井三郎は、「日本の領事が出した通行許可書を持っているのに、入国の許可を与えないのは、日本の外交機関が発給した公文書の威信をそこなうことになる」と抗議した。
 大迫辰雄は、「本国から拒否されている以上、船に乗せるべきではない。(略) まして彼らはユダヤ人です。助けなかったとしても、他国から責められることはないでしょう。ただ……(略) 私は、彼らを、救いたいです」と答えた。
   ・   ・   ・  
 ユダヤ人難民を、暖かく受け入れたのは陸軍、憲兵隊で、生活の面倒を見たのは市民達で、右翼・右派、犯罪者、反ユダヤ派・人種差別主義者、陰謀論者などから守ったのは警察・特高であった。
 陸軍、憲兵隊を動かしていたのは、東条英機陸相兼対満事務局総裁であった。
   ・   ・   ・   
 ナチス・ドイツユダヤ人難民を逃がさない為に日本への入国を阻止すべく外圧をかけたが、東条英機陸相松岡洋右外相らの非協力でユダヤ人難民を取り逃がした。
   ・   ・   ・   
 ユダヤ人達は、同胞をナチス・ドイツホロコーストから助けてくれた東条英機松岡洋右(病死)、板垣征四郎松井石根らを見捨て、国際法戦争犯罪者としてリンチ的縛り首で惨殺されるのを止めもせず、死者の尊厳が冒涜され、死という安らかな眠りが破壊され、魂=祭神が靖国神社から追放されるのを傍観している。
   ・   ・   ・   
 昔の日本人は、現代の日本人とは違って死を覚悟して、命を捨てて、瞬間瞬間の今を、正しいと信じて、精一杯に生きていた。
   ・   ・   ・   
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 大迫 辰雄(1917年〈大正6年〉- 2003年〈平成15年〉)は、日本交通公社職員。千葉県千葉市出身。第2次世界大戦中の日本において、ユダヤ人を安全に亡命させるために尽力した人物の一人。
 概要
 1939年(昭和14年)、ドイツ軍のポーランド侵攻によって、第2次世界大戦が勃発。ナチス・ドイツが占領地にてホロコースト等のユダヤ人迫害政策を行う中、ヨーロッパのユダヤ人は西ヨーロッパへの逃げ道を失い、東欧、そしてソ連方面へと逃れた。在米ユダヤ人協会がアメリカ合衆国連邦政府の許可を受け、米ウォルター・プラウンド社(後に英トーマス・クック社に合併)を通して、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在の日本交通公社JTB)にユダヤ人輸送の斡旋協力を依頼する。ビューローは「人道的見地からこの任務遂行を決断」し、ユダヤ人輸送の斡旋業務を行うこととした。斡旋業務の具体例は、名簿に記載された氏名と顔写真を基に照合、本人確認作業や在米ユダヤ人協会からの一時金の給付、米国等第三国への出国手続きなどであった。ビューローは敦賀に駐在員事務所を設置、天草丸に添乗員を派遣して業務にあたった。
 1940年(昭和15年)、大迫はジャパン・ツーリスト・ビューロー入社2年目にして、敦賀ウラジオストック間を結ぶ日本海航路を担う天草丸のアシスタント・パーサー(船員)として勤務していた。20回以上日本海を往復し、船上での添乗斡旋を行った。ナチス・ドイツによる占領地域から来た2000人以上のユダヤ人が、ソ連ウラジオストクから日本の敦賀に向かうのを助けた。彼らの多くは日本から米国へと亡命した。これら難民の多くは「日本のシンドラー」ことリトアニアの日本帝國在カウナス領事代理であった杉原千畝ソ連の日本帝國在ウラジオストク総領事代理であった根井三郎によって発給されたビザを持っていた。 1941年(昭和16年)に独ソ戦が始まり、シベリア鉄道経由でのユダヤ人亡命が行われなくなるまで斡旋業務は継続された。
 大迫は戦後も日本交通公社で勤務しており、1966年(昭和41年)頃には国際観光振興会(現在の国際観光振興機構、JNTO)に出向している。なお、著述家である北出明は国際観光振興会で勤務していた頃は大迫の部下であり、『日本交通公社七十年史』や大迫と彼が助けたユダヤ人難民の写真アルバムを基に、ユダヤ人のナチス占領地脱出を助けた日本人について『命のビザ、遥かなる旅路杉原千畝を陰で支えた日本人たち』(2012年、交通新聞社)を書いた。また、大迫自身も1995年(平成7年)に回想録を記している。大迫は2003年(平成15年)に死去した。
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 JTBグループcolors
 素敵な日本人へ~命をつないだJTBの役割~
 JTB職員 大迫辰雄の回想録 ユダヤ人輸送の思い出
 Aug.18, 2017/グローバル、歴史、杉原千畝、命のビザ、映画
 01「ユダヤ人渡米旅行の斡旋」
 昭和十四年九月、ドイツ軍がポーランドに電撃作戦を敢行したため、東欧諸国、とくにポーランド在住のユダヤ人は西欧への脱出路を断たれた。そこで唯一の逃げ路であるソ連領に難民がなだれ込んだ。
 その一部はシベリア経由日本及び北中支方面にも流れて来た。
 在米ユダヤ協会では、悲惨な同胞を一人でも多く助け出したいと、ユダヤ難民救援会を組織し、同協会の保証を条件として、アメリカ政府の許可の下に、ウォルター・プラウンド社(後にトーマス・クック社に合併)を通じて、ビューローに斡旋の協力を依頼してきた。こうした要請にこたえたのは、時の外務大臣松岡洋右の外交感覚であったと云われる。欧州からシベリア鉄道で、ウラジオストックまで来て、日本海敦賀経由で日本に入り、東京、横浜から、アメリカへ送り出すまでの斡旋をしてほしいと要請された。費用は一人当たり神戸乗船者で四〇ドル、横浜乗船者は五〇ドルという契約であった。ビューローでは、敦賀ウラジオストック間の航路に添乗員を派遣して、ユダヤ人輸送の斡旋に当った。昭和十五年九月十日、敦賀港出帆のハルピン丸を第一船として輸送を開始、独ソ戦のはじまる昭和十六年六月まで、十ヶ月にわたって、毎週一往復を運航、この間、一万五〇〇〇人に及ぶユダヤ人の輸送を実施した。この期間中、ビューロー本部では上陸地敦賀に駐在員を配置、また満州支部では満洲里案内所を強化して輸送に協力した。
   ・   ・   ・   
 外務省
 外交史料 Q&A
 昭和戦前期
 1930年代(昭和5年~14年頃)
 Question
 戦前の日本における対ユダヤ人政策の基本をなしたと言われる「ユダヤ人対策要綱」に関する史料はありますか。また、同要綱に関する説明文はありますか。
 Answer
 1938年(昭和13年)12月6日に五相会議(首相、蔵相、外相、陸相海相により構成された当時の最高国策決定機関)で制定された同要綱は、戦前期日本の対ユダヤ人政策の基本方針を定めたガイドラインで、当時日本の友好国であったドイツにおいてユダヤ人が迫害されている状況にあったにもかかわらず、ユダヤ人を他の外国人同様公正に取り扱うことなどが明記されています。同要綱の内容は、制定の翌日12月7日に有田八郎外相より主要在外公館に電報で伝えられました。この電報の起案文書が外務省記録「民族問題関係雑件 猶太[ユダヤ]人問題」(第5巻)に残っています。また、同要綱の解説文はワシントン・ホロコースト博物館で2000年(平成12)から翌年にかけて開催された展示会「Flight and Rescue」の図録に記述されています。
  ・  ・  
 Question
 欧州で第二次世界大戦が勃発した後、多数のユダヤ人が日本に逃れてきて、神戸に滞在したという話を読んだのですが、彼らが神戸でどのように暮らしていたかがわかる史料はありますか。
 Answer
 戦前期の日本とユダヤ人のかかわりに関する史料は、主として外務省記録「民族問題関係雑件 猶太人問題」(猶太=ユダヤ)に綴じられています。また、同記録ファイルには、日本に逃れてきたユダヤ系避難民に関する史料も多数残っています。神戸における彼らの生活状況を詳細に報告した史料として、当時の日本郵船の神戸支店長が1941年(昭和16年)4月9日付けで、本社に送った報告書があります。
 同報告書によると、当時の神戸には約1,700人にものぼるユダヤ系避難民が滞在し、そのうちおよそ1,000人は生活費にも困窮していて、在米ユダヤ人協会からの援助で1人1日1円20銭を支給されていましたが、食事や住居など厳しい暮らしを強いられていたそうです。その暮らしぶりを報告書では、「至極惨メナ生活ヲ営ミ居レリ」と、同情的に伝えています。
 この報告書が現在外交史料館に残っているのは、日本郵船東京本社の船客課米国係が外務省亜米利加局第三課(旅券、査証関係を担当)の土居萬亀(どい・まんき)嘱託に送った書簡に、神戸支店長からの報告の写しを添付していたことによります。日本郵船側がこの問題を重視していた姿勢が読み取れます。
 この後、ユダヤ人の多くは、外務省の判断と日本郵船の尽力により上海に渡り、第二次世界大戦後まで生き延びました。
   ・   ・   ・   
 2021年6月号 Hanada「蒟蒻問答
 楊潔篪、泥棒・強盗・人殺しの論理
 堤堯/久保紘之
 『負けるものか』のど根性
 堤 池江、松山に話を戻せば、二人に共通するのは才能やセンスもさることながら、それ以上に『なにクソ、負けてるものか』というド根性だよ。なによりそれが彼らを支えたんだ。翻って、日本の政治家にそんな負けん気があるか?
 久保 政治家どころか、マッカーサー憲法を戦後75年間も押し戴くほどの日本人にないんじゃないですかね。
 堤 早い話が、ウイグルの人権弾圧問題に対する対応だ。100万人以上が強制収容所に入れられて拷問、思想改造、強制労働、性的虐待、強制不妊手術・・・まさにポンペイ国務長官が表現したジェノサイド(民族抹殺計画)を中国は行っている。
 対して、中国の外務省報道局長の華春瑩(かしゅんえい)は『事実に基づかない世紀の大嘘だ』と一蹴しているけど、被害者の証言はどんどん集まっている。
 この国家規模の人権侵害について、EU(欧州連合)は対中制裁を発動した。アメリカ、カナダ、イギリスも歩調を合わせて対中制裁に踏み切り、中国の当局者数人に対して入国制限や資産凍結の制裁を科す。つまりはG7のメンバーが、日本を除いて、こぞって中国の暴虐に『まった!』をかけた。日本だけが慎重に構えて(?)加わらない。その理由は①中国と距離的に近い②経済的に緊密な関係にある③制裁を加える法的整備がない・・・。
 久保 世界の世論が中国制裁に向かって大きく動いているのに、『法律がない』でしのげると思っているとしたら、あまりにも浅はか。安倍のダイナミックな外交から、『対話と協力』のみの小利口な外務省主導外交に戻ってしまった感がありますね。
 堤 ……EUが対中制裁に出るのは天安門事件(1989年6月)以来のことだ。この事件で中国の人民軍は万を超える人民を銃殺、あるいは戦車でひき殺し、世界中が中国を非難し制裁を科した。このとき、日本だけが中国への非難を控え、早々と制裁を解き、それどころか宮澤喜一政権は天皇訪中まで演出して中国の国際社会復帰を手助けした。
 この日本の援助に対する中国共産党政権の『お返し』は、徹底した反日教育尖閣諸島は中国が領有権を持つという宣言だ。以来、尖閣周辺の日本領海への相次ぐ侵犯だ。世界は日本人をお人好しの阿呆と見たに違いない。
 昨年4月に予定された習近平国賓来日は、武漢ウイルスの感染拡大と香港の民主弾圧で延期されたけど、この2月、日本政府は『年内の実施見送り』で調整した。来年は日中国交回復50周年に当たる。その際、習近平国賓来日問題を再検討すると仄聞(そくぶん)するけど、国賓来日なんぞトンデモナイ。またぞろ『お返し』は、日本が虚仮(こけ)にされるだけ、お馬鹿な宮澤喜一の二の舞だ。
 考えてみてほしい。クラスにイジメっ子がいて、みんなで『イジメはやめろ』と止めにかかっているときに、参加しない生徒Aがいる。次にそのイジメっ子のターゲットになったとき、生徒たちは『イジメはやめろ』と助けてくれるかな。
 日本は対中批判に加われ!
   ・   ・   ・    
 大迫辰雄 1917(大正6)~ 2003.6.17(平成15)
 昭和期のビューローマン・ユダヤ人を救った日本人
 埋葬場所: 11区 2種 32側
 東京出身。大迫兵輔・照子(共に同墓)の長男。青山学院大学卒業。1939(S14)外国人観光客を日本に誘致する目的の旅行会社ジャパン・ツーリスト・ビューロー(後の日本交通公社:JTB)に入社し添乗員となる。
 この頃、ナチス・ドイツに迫害されていたユダヤ人たちを救うために、リトアニア日本領事館領事代理の杉原千畝が独断で日本通過査証のビザを発給し、ナチス・ドイツ支配下の欧州からの脱出を助けた。この「命のビザ」を貰ったユダヤ人難民たちは、リトビア、モスクワ(シベリア鉄道)、ウラジミール、イルクーツクウラジオストクへとたどり着いており、その後、船で福井県敦賀市に入り、日本到着後は横浜、神戸港などから上海、アメリカ、カナダ、アルゼンチン、パレスチナへと脱出を試みていた。
 在米ユダヤ協会では、悲惨な同胞を一人でも多く助け出したいと、ユダヤ難民救援会を組織し、同協会の保証を条件としてアメリカ政府の許可の下に、ウォルター・プラウンド社(後にトーマス・クック社に合併)を通じて、ジャパン・ツーリスト・ビューローのニューヨーク支店に斡旋の協力を依頼し、東京本社に伝わり要請に応えた。
 '40.9.10入社二年目の時に、アシスタント・パーサーという立場で、ユダヤ人輸送のため旧ソ連ウラジオストク敦賀 間の輸送船ハルピン丸の乗組員に配属された。しかし、ハルピン丸は大きすぎてウラジオストックの岸壁に着壁困難ということで、代船として天草丸(日露戦争で拿捕された元ロシアの客船:2,345トン)が就航することになった。大迫は乗船してくるユダヤ人を見てビューローマンとして責任を持って日本に送り届けようと思ったという。'40.9~'41.6 片道2泊3日の荒れ狂う日本海の航路を29回往復し、6,000人にも及ぶユダヤ人を出航前・下船後の手続きや乗客の世話などを行い、ビューローマンの中心的な役割を担った(JTBはユダヤ難民を約1万5000人輸送した。またビューロー本部では上陸地敦賀に駐在員を配置、また満州支部では満洲里案内所を強化して輸送に協力した)。
 大迫はどの航海とも海が荒れ、船酔いと寒さと下痢に痛めつけられたうえ、異臭に満ちた船内斡旋のつらかったことを想起し、よく耐えられたものであると述懐している。この過酷な中、食事の世話から病人の世話など献身的に寄り添い支えた。またJTBから受け取ったリストをもとに船内で確認作業に追われた。ユダヤ人は同じ名字が多く耳慣れない発音でコミュニケーシュンに苦労が多い中で名前のチェックと上陸に備えた名簿作りを行った。日本上陸の際にパスポートが必要であるが、着の身着のまま逃げて来てパスポートがない人も多く、また身分保障に必要な現金もない者も多かった。そのようなユダヤ人にはユダヤ人協会からJTBに送られてきた現金を配り対応。更に日本上陸後の宿の手配も行い、同地のビューロー駐在員が業務を引き継ぎ任務を終えた。日本にたどり着いたユダヤ人の多くは「敦賀が天国に見えた」と言っている。
 大迫の行動を見たユダヤ人が「何故、民間人の貴方が親切にしてくれるのか」という質問に、「旅行者を安全に日本に届けるのが私の役目です」と答えたという。後の大迫の手記には「私たちビューローマンのこうした斡旋努力とサービスが、ユダヤ民族の数千の難民に通じたかどうかは分からないが、私たちは民間外交官の担い手として、誇りをもって一生懸命に任務を全うしたことは確かである」と回想している。後に大迫はユダヤ系の新聞に“救世主”と紹介された。
 なお、多くのユダヤ人を救った天草丸は、太平洋戦争が始まると鹿児島から台湾に就航することになったが、'44.11米軍の魚雷攻撃により沈没した。またユダヤ人難民が上陸した敦賀の市街地は、戦争終結直前に米軍の空爆で8割以上が焼失。そのため入管記録や資料などの大半が失われ、ビューローがユダヤ人救済に関わった詳細は不明となっている。
 戦後、米国の占領軍統括の時代に、漸く国際観光が許可になり、日本に米国を主体とした観光客が来日することになった。その際、米国と日本を結ぶ豪華客船アメリカン・プレジデント・ラインの「ウィルソン号」にJTBから乗船勤務者第一号として大迫が抜擢された。横浜ーサンフランシスコを一月かけて往復。この客船は大型(18000トン)であり、後に大迫は「天草丸とは天と地の差があり、太平洋横断は生まれて初めてではあったが、日本海の経験があったため、全然船酔い無しで任務を遂行出来たことはありがたかった。」と回想している。享年86歳。
 <素敵な日本人へ ~命をつないだJTBの役割~
 JTB職員 大迫辰雄の回想録 ユダヤ人輸送の思い出など>
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 YAHOO!JAPANニュース
 JTB、「杉原ビザを持った多くのユダヤ人を輸送したビューロー」が果たした役割を特 佐藤仁 | 学術研究員・著述家
 2015/12/4(金) 15:38
 株式会社ジェイティービーは、 2015年12月5日に公開される映画「杉原千畝 スギハラチウネ」にあわせて、 杉原ビザを持ったユダヤ人たちの輸送を担当したJTBグループの前身ジャパン・ツーリスト・ビューローの役割を伝える特設Webサイト「~素敵な日本人へ~命をつないだJTBの役割」を12月1日に開設した。
 12月5日に公開される映画「杉原千畝 スギハラチウネ」では、俳優の濱田岳さんが演じる当時ジャパン・ツーリスト・ビューロー職員であった大迫辰雄氏が登場し「命のリレー」の一端を担う場面がある。特設サイトでは杉原千畝氏の功績とともに、当時の時代背景や命のビザをつないだ歴史的事実やジャパン・ツーリスト・ビューローが担った役割などを紹介している。当時の時代背景や過酷を極めた日本までのルートだったウラジオストクから敦賀までの移動に関する回想録や北出明氏のインタビューなど映画だけではわからない史実をネットで紹介している。
■歴史アーカイブとしての特設サイト
 当時の日本は歴史、社会、文化、政治の面でユダヤ接触することはほとんどなかったため、日本において反ユダヤ主義は一般の日本人にとっては無縁の話だった。現在のように簡単にネットやテレビで海外の情報が入る時代でなかった当時の日本の社会はユダヤの問題に関心を持たなかったし、樋口季一郎などの一部を除いて多くの日本の政治家や軍人にとってもユダヤ人やその運命は謎めいたものだっただろう。ヨーロッパからの難民としてユダヤ人が日本にやって来たことによって、日本の多くの民衆はユダヤ人と初めて直接触れ合うことになった。そしてナチスからユダヤ人を救った杉原千畝氏は「日本のシンドラー」と称され世界的にも有名だが、当時のジャパン・ツーリスト・ビューローが「民間外交の担い手」として命がけでユダヤ人を輸送していたことを知っている人は多くないだろう。
 杉原ビザで日本へ来たユダヤ人たちを影で支えていた当時のジャパン・ツーリスト・ビューローの職員らの活躍ぶりを知ることによって、今まで知らなかった日本とユダヤ人の関係と歴史を確認することができる。歴史は多くのひとりひとりによって作られているのだ。ウラジオストクから約4,000人のユダヤ人が日本にやってきたそうだ。敦賀で下船したユダヤ人にとって日本はさぞかし風変りでエキゾチックな土地だったろう。
 JTBの特設サイトは当時のリトアニアから日本までの旅程や社会背景、ユダヤ人輸送に携わった職員らの思いなどコンテンツが非常に充実している。このサイトだけでも歴史のアーカイブであり、当時の日本やユダヤ人に思いを馳せながら読むと非常に興味深い。次世代に語り継いでもらいたい。
 佐藤仁 
 学術研究員・著述家
 グローバルガバナンスにおけるデジタルやメディアの果たす役割に関して研究。科学技術の発展とメディアの多様化によって世界は大きく進化してきました。それらが国際秩序をどう変化させたのか、また人間の行動と文化現象はどのように変容してきたのかを解明していきたいです。国際政治学(科学技術と戦争/平和・国家と人間の安全保障)情報社会学ホロコーストの歴史と記憶のデジタル化)。修士国際政治学修士(社会デザイン学)。近著「情報通信アウトルック:ICTの浸透が変える未来」(NTT出版・共著)、「情報通信アウトルック:ビッグデータが社会を変える」(同)、「徹底研究!GAFA」(洋泉社・共著)など多数。
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 朝日新聞
 福井)難民との交流伝える資料館が開館10年
 聞き手・八百板一平
 2018年4月30日 3時00分
 ポーランド孤児やユダヤ人難民が敦賀港に上陸した歴史を伝える資料館「人道の港敦賀ムゼウム」(敦賀市金ケ崎町)が、3月に開館から10年を迎えた。市人道の港発信室長で、館長を務める西川明徳さん(47)に、これまでの館の歩みや今後の展望を聞いた。
 ――「ムゼウム」とは、ポーランド語で「資料館」のことです。どんな資料館なのでしょうか。
 大正時代にロシア革命などの混乱で家族を失い、敦賀に上陸したポーランド孤児たちと、第2次大戦中に外交官の杉原千畝(ちうね)氏が発給した「命のビザ」を手に、敦賀港にやって来たユダヤ人難民の人々と、敦賀の人たちとの交流の歴史を、写真や新聞記事などの資料で紹介しています。敦賀の人々は孤児や難民たちを温かく迎えました。世界に開かれた港町・敦賀の歩みを紹介しつつ、命の大切さや平和の尊さを国内外に発信しています。
 ――どのようにして開館したのですか。
 2008年3月29日に開館しました。きっかけは、06年秋から開かれたパネル展です。市民団体が進めていた聞き取り調査などの成果をもとにしたこの展示が反響を呼び、それを引き継ぐ形で、港のそばにある緑地の休憩所にできました。
 証言のほかにも貴重な資料が寄せられました。ユダヤ人難民らを乗せ、旧ソ連ウラジオストク敦賀港を結んだ「天草丸」で、世話役を務めたジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在のJTB)の職員・大迫辰雄氏のアルバム(館では複製を展示)や、ユダヤ人難民が市内に残した時計がその一例です。
 ――10年間を振り返って心に残っていることは。
 「命のビザ」を手に敦賀に来た元難民の方や、その家族、子孫の方々を案内したときのことです。「敦賀のことを忘れない」と語る人、涙を流しながら、展示に見入る人――。敦賀のまちと人々のことを心から大切に思うその姿に触れて、「人道の港」としての歴史を持つふるさとのまちを誇らしく思いました。
 ――今後の展望は。
 杉原氏を題材にした映画の影響などもあって、昨年度は過去最多の約5万7千人が訪れました。また、敦賀市岐阜県八百津町など6市町村が協力し、「杉原千畝ルート推進協議会」をつくって、海外への発信にも取り組んでいます。もちろん、地元の子どもたちの学びの場としても活用されています。
 市は、明治後期から昭和初期に港のそばにあった旧敦賀港駅など四つの建物の復元を計画しています。これらの建物にムゼウムの機能を移し、充実させたうえで、2020年度中の開館を目指しています。
 ポーランド孤児やユダヤ人難民の命は、敦賀の人々を含む多くの人々のつながりによって救われました。その命は、次の世代、その次の世代へと受け継がれ、未来へと続いています。国境や世代を越えて続く命のつながり。交流の歴史を学び、語り継ぐ場にしていきたいと考えています。(聞き手・八百板一平)
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 にしかわ・あきのり 1970年、敦賀市生まれ。大学時代にドイツ言語学を学んだ。市職員として、「人道の港敦賀ムゼウム」開館のきっかけとなったパネル展などに携わる。2016年4月から、敦賀ムゼウムの館長と市人道の港発信室長を務めている。
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杉原千畝 スギハラチウネ
杉原千畝の実像 ――数千人のユダヤ人を救った決断と覚悟
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 ユダヤ人難民を、助けたのは親ユダヤ派・親ポーランド派の陸軍軍人と天皇主義者や一般市民で、助ける事に猛反対し妨害したのは人種差別主義者であった親ドイツ派・反ユダヤ派の政治家、革新官僚・軍人官僚エリート、右翼・右派らであった。
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 ユダヤ人難民をヒトラーから助けた戦前・戦時中の日本人と、中国共産党のジェノサイドからウイグル人・モンゴル人・チベット人を助けず見殺しにしている戦後・現代の日本人とは無関係である。
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 ヒトラーナチス・ドイツと一般ドイツ人が違うように、中国共産党員・中国軍人と一般中国人は違う。
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 昔の日本人と現代の日本人は、別人のような日本人である。
 現代日本人は、歴史が嫌いで、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、人種・民族・宗教・文化に対する偏見が強い。
 現代日本人には、武士道精神や大和魂はおろか大和心・和心、惻隠の情さえない。
 現代日本には、愚かしい武士道神話や陰湿・陰険な悪しき言霊信仰が蔓延っている。
 それが、自粛警察などの同調圧力・場の空気・空気圧力で、つまらない人間の証しである。
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 武士道精神や大和魂、大和心・和心とは、勧善懲悪、女子供・老人や病人・障害者などの弱い者をイジメるのは男の恥、強きを挫き・弱きを助く、道理を見極め道を外れない、不遇な人や弱い立場の人への判官贔屓、などなどである。
 強者に媚びず、富裕者に諂わない。
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 義を見てせざるは勇なきなりとして、戦争を覚悟をし、命を捨てる事を承知で人助けをした。
 命欲しさに口先で行動しない「卑怯者」は、人間のクズとして嫌われた。
 村八分は、そうした卑怯者に対して行われた。
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 昔の日本人は有言実行か不言実行であつたが、現代日本人は有言不実行か不言不実行である。
 特に、人権派、左翼・左派・ネットサハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、教育者はそうと言える。
 そして、マルクス主義者・共産主義者の反米派・反安保派・反米軍基地、護憲派・反自衛隊派、反戦平和団体、反天皇反日的日本人達も同類である。
 彼らは、リベラル派戦後民主主義世代(団塊の世代団塊ジュニア)とその薫陶を受けた次世代であり、高学歴の知的エリートや進歩的インテリである。
 彼らは、自分だけが大事で、他人が生きようが死のうが、殺されようが気にもしない。
 それは、右翼・右派・ネットウヨクでも同様である。
 老害とは、彼ら全てを指す。
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 戦前の親ドイツ派・反ユダヤ派である政治家・外務省と現代の親中国派・媚中派である政治家・外務省は似ている。
 戦前の親ドイツ派・反ユダヤ派である政治家・外務省は、ヒトラーナチス・ドイツユダヤ人に対する宗教的な偏見や差別、迫害は知っていたが、ホロコーストに関しては連合国、バチカンキリスト教会、国際赤十字社とは違って知らなかった。
 現代の親中国派・媚中派である政治家・外務省は、中国共産党がおこなっているウイグル人チベット人・モンゴル人・少数民族へのジェノサイド(民族根絶)、法輪功キリスト教への宗教弾圧、香港民主派への政治弾圧を知りながら、批判も反対も非難もせず黙認し、貿易断絶・経済制裁などの損を承知で助けようという心・覚悟・意思もない。
 全てを知る現代の親中国派・媚中派である政治家・外務省は、全てを知らなかった戦前の親ドイツ派・反ユダヤ派である政治家・外務省よりも冷血・冷酷・非情で残酷・残忍である。
   ・   ・   ・   
 反ユダヤ諸国を敵に回してもユダヤ人難民を助けた日本の思想は、世界理念としての人道主義・人権論ではなく、神武天皇が国家理念として掲げた日本独自の大家族主義である「八紘一宇」であった。
 日本の公・忠優先家族主義は、中国や朝鮮の私・孝優先宗族主義とは関係ない。
   ・   ・   ・   
 日本の国益を棄損して恥じない親中国派・媚中派の巣窟は、保守の自民党とリベラルな公明党などの政権与党諸派と官僚・役人である。
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 天皇の歴史・日本国の歴史・日本民族の歴史とは、朝鮮とは違い、たとえ国が貧しくなり国民が貧困に喘ごうとも国家としての自主独立を守る為に、中華皇帝への臣下の礼を拒絶し、中国・中華帝国の属国・保護国を拒否する歴史であった。
 中華(中国や朝鮮)を拒む為の正統性が天皇・皇室であった。
   ・   ・   ・   
 ユダヤ人難民を助けた、戦前の親ユダヤ派と親ポーランド派の多くが戦争で生きたまま焼き殺されるという悲惨な最期と遂げていた。
 戦争の悲劇とは、困っている人を助けるという良い事・善行を行っても不運に見舞われ幸せになれず報われない事である。
 日本民族の他人への情けには、報酬として死が待っていた。
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💖24)─1・B─ナチス迫害逃れのユダヤ人難民達を救った外交官・根井三郎の功績。〜No.99 

日本とシオンの民 戦前編

日本とシオンの民 戦前編

  • 作者:栗山 正博
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   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 アジアでユダヤ人難民を救った日本人達。
 中国共産党は無関係である。
   ・   ・   ・   
 現代日本の親中国派・媚中派は、戦前の日本人・戦時中の日本人のように自己犠牲的な人助けの人道貢献・平和貢献をしない、その証拠が、中国共産党が現在進めているウイグル内モンゴルチベット少数民族へのジェノサイドに抗議をしなければ反対もしない、それどころか忖度して弁護している。
   ・   ・   ・   
 戦前の親ユダヤ派は、日本の国益と国民の平和と幸福と豊かさの為にユダヤ人を利用すべく、同盟国ナチス・ドイツを裏切り、ヒトラーの外圧を無視してユダヤ人難民を助けた。
 当時の外務省は親ドイツ派が強く、ナチス・ドイツに忖度して、日本に逃げてくるユダヤ人難民を阻止しようとしていた。
 日本陸軍は、親ユダヤ派と親ポーランド派は親ドイツ派より強かった。
   ・   ・   ・   
 2017年Aug18日 JTBグループcolors「ウラジオストク総領事代理、根井三郎の決断
 素敵な日本人へ~命をつないだJTBの役割~
 ジャパン・ツーリスト・ビューローが担った命のリレー
 映画「杉原千畝 スギハラチウネ」のワンシーン
 杉原千畝が発行したビザを持ったユダヤ人たちは、シベリア鉄道で極東ウラジオストクへと向かう。そこから船に乗れば、自由への第一歩、日本の地を踏めるのだ。
 ところが、国内へと押し寄せる難民の数の多さに、日本政府は受け入れを拒む。
 ウラジオストク総領事代理、根井三郎は、杉原と同じハルビン学校の出身。杉原とも旧知の仲であった。根井は、「日本の領事が出した通行許可書を持っているのに、入国の許可を与えないのは、日本の外交機関が発給した公文書の威信をそこなうことになる」と抗議。難民たちを船に乗せたのだ。
 映画の中に、印象的なシーンがある。
 JTBの前身、ジャパン・ツーリスト・ビューロー職員の大迫辰雄を領事館に呼び、「あなたは彼ら難民を日本に送りたいと思うか」と問う根井。
 大迫は答える。「本国から拒否されている以上、船に乗せるべきではない。(略) まして彼らはユダヤ人です。助けなかったとしても、他国から責められることはないでしょう。ただ……(略) 私は、彼らを、救いたいです」。
 そして根井は大迫に向かって言う。「私が全責任を負います。彼らを船に乗せてください」。
 遠いリトアニアから、杉原によって託された命のバトンは、ウラジオストクで根井へ。根井から大迫へと渡されたのである。
 ニューヨークから届いた想いは、ジャパン・ツーリスト・ビューローを介してユダヤ人へ
 杉原千畝が発行した「命のビザ」は、第三国へと渡るため、10日間に限って日本国内に滞在することを認めるという、日本を通過するためのビザだった。
 このビザを持っていても、日本へ入国するためには、「避難先の国までの旅費を持っていること」「日本滞在中の費用を持っていること」という条件があった。
 命をつなぐため、着の身着のままで避難してきた難民たちは、手持ちの資金が十分な者ばかりではなった。2週間にも及ぶシベリア鉄道での長い旅の間には、ソ連の秘密警察に現金や貴金属を奪われることもあったという。
 そんなユダヤ人を経済的に助けたのが、アメリカのユダヤ人協会からの援助金だった。
 リトアニアから敦賀まで、やっとの思いでたどり着いても、手持ちの資金がないために、日本への入国が許可されず、避難旅行に支障をきたす事態を避けるために。
 援助金と難民のリストは、ウォルター・プラウンド社(現トーマス・クック社)からジャパン・ツーリスト・ビューローニューヨーク事務所へ、さらに敦賀事務所の駐在員と乗船勤務にあたる添乗員へと送られた。
 乗船勤務にあたるジャパン・ツーリスト・ビューロー職員は、ウラジオストクから敦賀への船旅の間に、乗客の姓名を確認し、ニューヨークから届いたリストと照らし合わせながら、一人一人に資金を手渡していった。
 荒海に揉まれる「天草丸」でユダヤ人を助けた大迫辰雄
 映画「杉原千畝 スギハラチウネ」のワンシーン
 当時のジャパン・ツーリスト・ビューローは、「人道的見地から引き受けるべきである」 と判断をし、受け入れ準備を整えていく。敦賀に臨時の事務所を開設して駐在員、添乗員を派遣して、命の旅を助ける体制を整えて行った。
 その時に乗船勤務にあたっていたのが、映画にも登場する大迫辰雄ウラジオストク敦賀を結ぶ連絡船「天草丸」に乗務していた。
 『JTB 50年史』に寄せた回想録の中で、大迫が当時を振り返っている。
 「天草丸は船齢28年とかで、相当の代物、2,000トンというから大きい船とは言えない」。古く小さな船で、荒波が渦巻く冬の日本海を、2泊3日の時間をかけて渡るのだ。「船員以外の船客はほとんど船酔いで出てこない。私もご多分に漏れず、初めての第一回の往路の航海では船酔いの洗礼を受け、ほとんど寝たきり、食事なしの苦しい経験をせざるを得なかった」。
 船室の多くは三等で、窓のない大部屋に雑魚寝状態だった。通常は200名の収容数に対して、ユダヤ人輸送では400名ほどが乗船していたという。
 「多くの航海は時化のため殆どの難民が船酔い状態で、悪臭漂う三等船室で一人一人をチェックすることは大変な仕事であった」。耳慣れないユダヤ民族の名前を聞き取ることも至難の技なら、同じ苗字の人が多いことも作業を難しくした。「何とか本人をリストから探し出そうと、数百名の膨大なリストを夢中になってチェックしたことを今でも覚えている」。
 こうして日本の地に上陸したユダヤ人たちは、敦賀から神戸、横浜へと移動。そこからアメリカへと、安住の地を求めて船出して行った。
 一度に何百人という難民たちの移動が要領よく行われるよう、バス輸送を準備したり、時には臨時列車の手配をしたり。それもジャパン・ツーリスト・ビューローが請け負うこととなる。
 こうしたウラジオストクからの船の受け入れは1940年(昭和15年)9月から翌年6月まで、20数回にも及んでいる。
 「民間外交官の担い手として、誇りをもって一生懸命に」
 大迫は、手記をこう結んでいる。
 「私たちビューローマンのこうした斡旋努力とサービスが、ユダヤ民族の数千の難民に通じたかどうかは分からないが、私たちは民間外交官の担い手として、誇りをもって一生懸命に任務をまっとうしたことは確かである」と。
 杉原千畝から託された命のバトンを受け取り、それぞれが覚悟と責任を持って受け継いだからこそ、命のリレーは繋がり、全世界へと広がっていった。
 長く語り継いでいきたい、日本人の、そしてJTBの誇りである。
 大迫辰雄役「濱田岳さん」コメント
 大迫辰雄役「濱田岳さん」
 役者としてこのような作品に出演させていただけたことを、大変嬉しく思います。
自分の命の保証もなく、考えや発言に、とても厳しい目を向けられていた世の中で、他の国の方々のために、ご尽力された大迫さんを演じさせていただけた事は、これからの僕の人生の中で大きな財産の一つになりました。
ありがとうございました。
 © 2015「杉原千畝 スギハラチウネ」製作委員会
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 12月17日 宮崎日日新聞「根井三郎(本県出身外交官)「命のビザ」数百人に発給
 第2次世界大戦中にナチスの迫害を受けていたユダヤ人難民の数百人が、本県出身の外交官・故根井三郎が発給したビザ(査証)を持って日本に渡ったとの見解をロシアのホロコースト研究者が示していることが分かった。根井がビザを持たないユダヤ人難民に対し、人道的支援などを目的に独断で通過ビザを発給したと記載された公文書がロシアに保管されているが、規模が明らかになるのは初めて。
 (全文は17日付朝刊または携帯サイトで)
 【写真】根井がビザを発給して数百人のユダヤ人難民を救済したと語るアルトマンさん=神奈川県鎌倉市
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 2019年3月1日15:25 西日本新聞「「命のビザ」つないだ外交官…根井三郎の知られざる功績 杉原千畝ユダヤ難民救う
 資料展会場で、「根井三郎を多くの人に知ってほしい」と話す顕彰する会の根井翼会長
 1941年にウラジオストクから日本に一時帰国した際に撮影したとみられる根井三郎の写真
 資料展会場で、「根井三郎を多くの人に知ってほしい」と話す顕彰する会の根井翼会長
 1941年にウラジオストクから日本に一時帰国した際に撮影したとみられる根井三郎の写真
 第2次世界大戦中、ナチス・ドイツに迫害されたユダヤ系難民のため杉原千畝(ちうね)(1900~86)が発給した「命のビザ」を引き継いで亡命を手助けした外交官、根井三郎(1902~92)の功績を後世に伝える取り組みが、生誕地の宮崎市佐土原町で広がっている。世界各地で難民を巡る対応が社会問題化し、国内では官僚の「忖度(そんたく)」が取り沙汰される今、自身の利益を顧みず、人道的に行動した気骨ある外交官が「命」のバトンをつないだリレーが注目されている。
 駐リトアニア領事代理だった杉原は1940年7月から9月にかけ、外務省の訓令に反して、ナチスの迫害から逃れようとしたユダヤ人に約2千通の日本通過ビザを発給。家族を含め約6千人の命を救ったとされ、国際的に知られている。
 一方、杉原の思いをつなぎ、多くの難民を救済した根井の功績は日本国内でもあまり知られていない。
 難民の大半はシベリア鉄道で移動後、日本への航路があったソ連極東・ウラジオストクへ。現地の総領事代理だった根井が41年3月に外務省と交わした電報が外交史料館に残っている。
 外務省は軍事同盟を結んでいたドイツに配慮し、杉原が発給したビザを再検閲するよう根井に命じた。だが、根井は「国際的信用から考えて面白からず」と異を唱え、ビザを持つユダヤ人難民らを敦賀港(福井県)行きの船に乗せ、ビザを持たない者には独断でビザや渡航証明書を発給した。
 上陸先の敦賀や神戸では市民が温かい手を差し伸べた。杉原、根井のバトンを継いだ神学者小辻節三(1899~1973)は国に働き掛け、行き先が決まるまで滞在を延長させた。
 根井は戦後、法務省に移り、名古屋入国管理事務所(現管理局)の所長を最後に引退。難民を助けた理由は語らぬまま90歳で他界したため、古里でも功績は知られていなかった。
 だが近年、福井県敦賀市の元職員で、杉原と小辻の研究者古江孝治さん(68)による調査をきっかけに2016年3月、宮崎市佐土原町の親族宅で根井の写真が見つかった。同年8月には同市で「根井三郎を顕彰する会」が発足。翌年には、関東在住の孫が家族とのアルバムや将棋盤などの遺品を受け継いでいることが判明。根井が長崎県立大村中を卒業後、外務省に入省していたことも分かった。
 杉原千畝記念財団理事を務める古江さんは「ユダヤ難民救済は杉原だけの力で成し得たものではなく、根井ら陰で支えた人も評価すべきだ」と語る。顕彰する会の根井翼会長(76)は「侍のような素晴らしい宮崎生まれの外交官がいたことを多くの人に知ってほしい」と話している。
   □    □  
 同会は根井の家族写真など50点を集めた資料展を4日まで開催中。2日午後2時から、イスラエル政府の「ヤド・バシェム(諸国民の中の正義の人)賞」に根井を推薦している大学教授や古江さんらによる講演会がある。いずれも同市佐土原総合文化センターで。無料。同会=0985(73)1111。=2019/03/01付 西日本新聞夕刊=」
   ・   ・   ・  
 2020年6月3日 6:00 西日本新聞「もう一つの「命のビザ」米で発見 ユダヤ人救済率先、根井三郎が発給
 古川 剛光
 根井が発給したビザで日本を通過し、上海経由で米国に亡命した故シモン・コエンタイエルさん一家。撮影は米国亡命後(北出明氏提供)
 米国に亡命したシモン・コエンタイエルさんの孫が保存している日本通過ビザ。昭和16年2月28日の日付と、総領事代理根井三郎の署名がある(北出明氏提供)
 根井が発給したビザで日本を通過し、上海経由で米国に亡命した故シモン・コエンタイエルさん一家。撮影は米国亡命後(北出明氏提供)
 第2次世界大戦中、ナチス・ドイツに迫害されたユダヤ系難民の亡命を手助けした外交官、根井三郎(1902~92)によって発給された日本通過ビザ(査証)が米国で初めて見つかった。生誕地の宮崎市が2日、発表した。市は「根井が人道的立場から主体的にユダヤ人の救済に動いたことが裏付けられた」としている。
 根井は当時、ソ連(現ロシア)極東ウラジオストク総領事代理だった。後に「日本のシンドラー」と呼ばれる杉原千畝(ちうね)(1900~86)が駐リトアニア領事代理として発給した通称「命のビザ」を携え、シベリア鉄道で現地に逃れてきたユダヤ難民らに対応。敦賀港(福井県)行きの連絡船の乗船許可を与え、ビザを持たない者には独断でビザを発給したとする記録がソ連側に残っていた。
 これまで杉原が発給したビザに、根井が署名し、日本通過を認める検印をしたビザは見つかっていたが、根井が単独で発給したビザは確認されていなかった。
 今回、ユダヤ人難民に関する著書がある東京在住のフリーライター、北出明さん(76)の調査で、ユダヤポーランド人の故シモン・コエンタイエルさんが妻、娘と3人で根井のビザを使って日本を通過し、中国・上海経由で米国サンフランシスコに亡命していたことを確認。米国在住の孫からビザの画像データの提供を受けた。ビザには、1941年2月28日の日付と根井の署名がある。
 外務省はこの年、杉原が発給した通過ビザを再検閲し、要件を満たさない者は日本行きの船に乗せないように、と根井に命令した。これに対し、根井は「国際的信用から考えて面白からず」と拒絶した電文が外交史料館に残る。
 市民らでつくる「根井三郎を顕彰する会」の根井翼会長(78)は「自分の利益を顧みず、人道的に行動した宮崎生まれの外交官を誇りに思う。混沌(こんとん)とした現代、世界中の人に根井の功績を知ってほしい」と話している。 (古川剛光)」
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 6月3日12時14分 中日新聞「「命のビザ」新たに発見 旧ソ連 根井総領事代理が発給 
 ユダヤ人難民のコエンタイエルさん一家の写真を手に、ビザ発見の経緯を語る北出さん=敦賀市
 「総領事代理根井三郎」の署名が入った日本通過ビザ。裏に米国大使館がタイプライターで書いた移民ビザ却下通知書の文字が透ける=北出さん提供
 駐ウラジオストク総領事代理を務めた根井三郎さん=1941年ごろ、宮崎市の「根井三郎を顕彰する会提供」
 敦賀行き 証言を裏付け
 第二次世界大戦中、旧ソ連の駐ウラジオストク総領事代理を務めた根井三郎さん(一九〇二〜九二年)が、ナチスドイツの迫害から逃れたユダヤ人難民に発給した日本通過ビザが初めて発見された。根井さんが独断でビザを発給したとの証言記録は二〇一七年にロシアで見つかっており、この調査に携わった大学教授は「証言を裏付ける重要な資料」とみる。ユダヤ人難民を救った「命のビザ」は駐リトアニア領事代理の杉原千畝(ちうね)が有名だが、「根井ビザ」の発見者は「陰の功労者にも光を当ててほしい」と話している。(高野正憲)
 ビザは一九四一(昭和十六)年二月二十八日、ポーランド出身の故シモン・コエンタイエルさんと妻、娘の一家三人に発給されたもの。「敦賀・横浜経由『アメリカ』行」と書かれ、根井さんの署名と、在浦潮斯徳(ウラジオストク総領事館代理の印が押されている。「第二一号」と番号が振られ、少なくとも他に二十枚発給されたと推測できる。当時、外務省は行き先国の入国許可がない者へのビザ発給を認めておらず、根井さんが独断で出したとみられる。
 発見者は、ユダヤ人難民に関する著作のあるフリーライター北出明さん(76)=東京都中野区。難民の生存者調査をする中で、神戸市の滞留者名簿から一家に注目。新聞記事などから、米国に住むシモンさんの娘フェリシアさん(83)を突き止めた。ビザは一家の歴史を知ろうと調査に協力する孫のキム・ハイドンさん(53)から四月に画像で入手した。
 一家のパスポートや名前が確認できる当時の資料によると、三人は三九年九月にナチスポーランド侵攻に伴い、リトアニアへ避難。四一年二月にモスクワの米国大使館で移民ビザを申請したが却下され、ウラジオストクへ。当地で根井さんから受けたビザは、米国大使館が出したビザ却下通知書の裏に書かれており、切迫した状況がうかがえる。同年三月に敦賀港から入国して神戸市に滞留後、中国上海へ出国。戦後、米サンフランシスコに渡った。
 二〇一七年に国士舘大のヤコフ・ジンベルグ教授がロシア側と行った共同研究で、根井さんが本省の許可を得ずに通過ビザをわずかに発給したことを、旧ソ連の外交官に話したとする会談記録がロシアの公文書館で見つかった。ジンベルグ教授は新しい発見なので検証が必要としつつ、「本物と見ている。当時有名だった杉原ビザは偽造品が難民の間で出回っていたが、数が少ないとされる根井ビザは偽造品もないだろう」と語る。
 北出さんは「ユダヤ人難民の救出には杉原さん一人だけでなく、根井さんらいろいろな人物の尽力があった。そこに思いを寄せることが正しい歴史認識につながる」と話している。
 ねい・さぶろう 宮崎市(旧広瀬村)出身の外交官。1921(大正10)年に旧満州の日露協会学校に入学。2期先輩に杉原千畝がいた。40(昭和15)年12月からウラジオストクで勤務。戦後は法務省に移り、名古屋入国管理事務所(現・管理局)の所長を最後に引退した。41年3月、既に杉原ビザによる入国難民の対応に苦慮していた外務省は、根井さんに杉原ビザの再検閲を命じたが、一度発給したビザを覆すことは「国際的信用から考えて面白からず」と反論。難民たちを敦賀行きの船に乗せた。2016年、宮崎市に顕彰会ができた。
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 6月8日07:04 産経新聞「「命のビザ」、新たに発見 宮崎出身の故根井三郎が発給
 根井三郎が発給したビザ(北出明氏提供)
 先の大戦中に旧ソ連ウラジオストク日本総領事代理だった宮崎県出身の外交官、故根井三郎(1902~92年)が、ナチス・ドイツの迫害から逃れたユダヤ人に発給したビザ(査証)が初めて見つかり、宮崎市が、写真を報道陣に公開した。「命のビザ」で知られる外交官の故杉原千畝発給のビザに、根井が署名したものが既に確認されていた。
 宮崎市によると、杉原に関する著書があるフリーライターの北出明氏の調査で、米国に亡命したユダヤ人の子孫が、根井発給のビザを持っていることが分かった。ビザには「昭和16年(41年)2月28日 通過査証」「敦賀横浜経由『アメリカ』行」と記され、根井の署名がある。市は日付などから根井が発給したもので間違いないと判断した。
 根井は宮崎市(旧広瀬村)に生まれ、大戦中の40年に総領事代理に就任。日本の外務省は翌41年、根井に対し、ビザを再検査して要件を満たさない場合は日本行きの船に乗せないよう命じた。しかし、根井は多くのユダヤ人難民を日本行きの船に乗せた。
 市民団体「根井三郎を顕彰する会」の根井翼会長は、市役所で記者会見し「根井は自分の身を顧みず難民の命を助けた。このような外交官がいたことを全世界に発信したい」と話した。
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 7月16日 公明党トップ / ニュース / ユダヤ人難民救った外交官・根井三郎を顕彰
 根井会長から資料展について説明を受ける党県議団と市議団のメンバー(左側)
 宮崎県立図書館(宮崎市)で18日まで、旧広瀬村(現宮崎市佐土原町)出身の外交官、根井三郎(1902~92年)の資料展が開催されている。第2次世界大戦中に独自の判断でビザ(通過査証)を発給し、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人難民の命を救った根井の功績を、広く知ってもらうことが目的。今回の資料展は、実物のビザが4月に米国で初めて発見されたことから注目を集めている。公明党宮崎県議団と宮崎市議団は初日の12日、資料展を主催する「根井三郎を顕彰する会」の根井翼会長(78)から展示内容の説明を受け、意見交換した。
 発給ビザの写し展示
 大戦中、根井と同じくユダヤ人難民に“命のビザ”を発給した外交官として有名なのが、リトアニアカウナスで日本領事館の領事代理を務めていた杉原千畝(1900~86年)だ。
 杉原にビザを発給されたユダヤ人は、ソビエト連邦シベリア鉄道で横断し、ウラジオストクから船で福井県敦賀港へ。ここから米国などに渡っていた。
 当時、ウラジオストク総領事代理だった根井は、「杉原が発給したビザを持つユダヤ人は船に乗せないように」と、暗に示した外務省の命令に従わず、ビザを持つ者は日本行きの船に乗せ、持たない者には独自の判断でビザを発給していた。
 年譜パネルや所蔵物などが展示されている資料展の様子
 今回の資料展では、こうした“命のバトンリレー”の解説をはじめ、根井の足跡をまとめた年譜や新たに米国で発見されたビザの写しなどのパネルが並ぶ。そのほか、家族の写真アルバムや将棋盤などの所蔵物も展示されている。
 「顕彰する会」の根井会長は、「本人が何も語り残していない中、ビザの実物が見つかったことは、人道的な功績の裏付けとなり、今後の顕彰活動の大きな励みになる」と意気込みを語る。
 ビザには「第二十一号」と番号が振られ、他にも20枚が発給されたと推測できるという。同会は来年2月にも宮崎市内で資料展と講演会を予定しており、「可能であれば次回は実物のビザを展示して、多くの人に郷土が誇る偉人の功績を知ってもらえれば」(根井会長)と期待を込める。
 社会科副読本に公明提案で掲載
 意見交換の席上、党宮崎市議団の太場祥子議員は、先の6月定例議会で、根井の功績を教育現場で伝え残していくよう求めた結果、今年度に実施する社会科副読本(小学3年生用)の改訂作業で具体的に掲載される運びとなったことなどを報告。
 党県議団の河野哲也団長らは「今後、常設展示の実現を含め、国、県、市の公明議員が連携しながら国内外へと発信していきたい」と語っていた。
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 9月23日07:01 産経新聞ナチス迫害逃れ 故根井三郎、命つないだビザ ユダヤ難民の孫ら「宝物」 宮崎
 根井三郎(根井三郎を顕彰する会提供)
 命のビザ(査証)がなければ私たちはいなかった-。第二次世界大戦中、旧ソ連ウラジオストク日本総領事代理だった宮崎県出身の外交官、故根井三郎(1902~92年)発給のビザが6月に報道公開されたことを受け、ナチス・ドイツの迫害から逃れて渡米したユダヤ人の家族が、ビデオ会議システムを通じた共同通信の取材に「根井のビザは家族の宝物」と語った。
 ユダヤ難民の著書があるライター、北出明さん(76)によると、ビザを受給したのはポーランドユダヤ人の故シモン・コレンタイエルさん。逃避行には妻の故エマさんと、長女のフィリス・ディマントさん(83)が同行した。
 3人は1939年、ナチス・ドイツポーランド侵攻に伴い、隣国リトアニアに脱出。41年、モスクワの米国大使館で移民ビザの申請を却下され、シベリア鉄道ウラジオストクへ。そこで根井が単独で発給したビザを取得した。
 ビザには根井の署名があり「昭和16年(41年)2月28日 通過査証」「敦賀横浜経由『アメリカ』行」と記載。3人は福井県敦賀行きの船で日本に渡り、上海の日本租界で終戦を迎えた。47年に渡米し、その後ディマントさんは同様にホロコーストユダヤ人大量虐殺)を逃れた夫と結婚。今は静かに余生を送る。
 ディマントさんの長女、デボラ・レメルさん(62)らは根井の存在を知らず、命のビザで知られる外交官の故杉原千畝(1900~86年)発給と思っていた。取材に対し、ホロコーストに触れ「母にとってビザや写真が当時持っていたものの全てだった。根井のビザは家族の宝物だ」と語った。
 「母はビザのおかげで生き抜き、今ではひ孫までいる大家族。根井のビザがなければ私たちはいなかった」。三女、キム・ハイドンさん(53)はディマントさんが孫の結婚式でほほ笑む写真を手に話した。一家は戦争の記憶を伝えるため、ビザや関連資料を、米国のホロコースト博物館に寄贈することを検討する。
 レメルさんらが今春、米カリフォルニア州のディマントさん宅で、箱に保管された古い書類を見つけ、北出さんに連絡。宮崎市や同市の市民団体「根井三郎を顕彰する会」が報道公開した。
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 【プロフィル】根井三郎
 ねい・さぶろう 明治35(1902)年、宮崎市佐土原町(旧広瀬村)生まれ。大正10(1921)年、旧制長崎県立大村中を卒業し、外務省留学生採用試験に合格。1925年から中国ハルビン、イランなどで勤め、40年に旧ソ連ウラジオストク日本総領事代理に就任した。戦後は外交官を退職し、大蔵事務官や入国管理庁外務技官、鹿児島と名古屋の入国管理事務所長などを歴任。平成4(1992)年に90歳で死去した。
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 【用語解説】命のビザ
 1940年、リトアニアカウナス駐在領事代理の故杉原千畝が日本政府の命令に反し、ナチス・ドイツの迫害から逃れようとしたユダヤ難民に発給した日本通過ビザ(査証)が有名。旧ソ連ウラジオストク日本総領事代理の故根井三郎は、杉原のビザを再検閲し要件を満たさない渡航を認めないよう命じられたが「国際的信用から考えて面白からず」と反論。杉原発給のビザに、根井が署名したものも確認されている。杉原は根井がロシア語を学んだ中国ハルビンの日露協会学校の2期上だった。
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 2021年2月24日 週刊NY生活「杉原氏以外にも「命のビザ」
 北出 明・著
 株式会社パレード・刊
 第二次世界大戦中、6000人ものユダヤ人を救った日本人といえば、センポ・スギハラ、杉原千畝(すぎはら・ちうね)と言う名前を、日本人なら今では小学生でも知っているほど有名になった。
 杉原の功績は終戦直後には日の目を見ず、後年になってから杉原の妻や長男が人道主義を貫いたことの名誉を周知のものにしたいと運動したことが、ベールに包まれていた戦争史を明るみに出すきっかけとなった。杉原に関する文献やレポートは数多いが、2012年に生存者の家族に面会して書かれた『命のビザ、遥かなる旅路 杉原千畝を支えた日本人たち』は別格だ。英語版も2014年に翻訳出版されている。続編となる本書は、前作から10年経って、著者の北出明さんがさらに調査や研究を進めていくうちに、杉原千畝以外にもユダヤ人の救出に尽くした内外の外交官がいることに気がつき始め、これまであまり日が当たっていなかった人物に焦点を当てている。
 登場するのは駐カナウス・オランダ領事のヤン・ツバルテンダイク氏、駐ウラジオストク領事代理の根井三郎氏、駐神戸オランダ領事、後に駐日オランダ大使となるN・A・J・デ・フォート氏、駐ソ連大使の建川美次氏、駐日ポーランド大使のタデウシュ・ロメル氏の4人。
 ヤン・ツバルテンダイク氏は、杉原千畝が発行するビザの後に控える渡航先であるオランダ領であったカリブ海上のキュラソー島入国ビザを発行した人物だ。著者の北出さんは、ツバルテンダイク氏の次男、ロバートさんとアムステルダム郊外で面会した。「父がユダヤ難民を助けたのは、人間としての博愛精神からであって、過度に功績を強調されることは望んでいなかったでしょう。しかし、その行為がまったく注目されていないのは残念なことです」と遺族としての複雑な思いを語る。ツバルテンダイク氏の功績は母国ですら知られていなかったのだ。
 根井三郎氏は、そのキュラソー・ビザを取得して無事に杉原千畝から日本通過ビザを発給してもらったユダヤ難民が向かったシベリアの駐ウラジオストクの領事代理だった。ユダヤ難民がウラジオストックまでの広大なソ連の領土をなぜ無事に通過することができたのか。ユダヤ難民のソ連移動は国営旅行会社のインツーリストが一手に引き受けており、シベリア鉄道の運賃とホテル代などの収入が馬鹿にならなかったこと。当時世界の各国はユダヤ人の難民受け入れに消極的でソ連も例外ではなく、彼らのヨーロッパ脱出は歓迎したいところでもあった状況を解説する。根井は外務省本省から「ビザ発給は控えるように」との訓令を受けるが、「単に第三国査証が中米行きとなっているとの理由で一律に検印を拒否するのは帝国在外公館の威信から見て面白からず(いかがなものか)、キュラソー行きの場合、通過査証を与えることが適当であると考える」と反論した。
 北出さんは「私は以前から、杉原ビザ以外にもユダヤ人を救った『命のビザ』が存在していたことを我々はもっと知るべきだと主張してきました。天国の杉原千畝さん自身、自分一人がヒーローのように扱われていることに戸惑いを感じているのではないかと思えてなりません」と巻末でコメントしている。(三浦)」
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 5月2日 MicrosoftNews テレビ宮崎ユダヤ難民救った独自ビザ 約80年の時を経て発見 外交官・根井三郎の功績
 2020年4月に見つかった1枚のビザ。第二次世界大戦中、ユダヤ難民の国外脱出を助けた宮崎市佐土原町出身の外交官・根井三郎の功績を物語るものだ。根井三郎について、国の内外の研究者が注目し始めている。
 根井三郎が独自に発給 「命つなぐビザ」
 2020年4月に発見された、ある1枚のビザに大きな注目が集まった。
 根井三郎を顕彰する会 根井翼会長:
 非常に驚きと、確かだったという確信と喜びを感じている
 1941年2月28日付の日本通過ビザ。
 © テレビ宮崎 根井三郎のビザ(北出明さん提供)
行き先には、敦賀・横浜経由「アメリカ」行と記され、「ウラジオストク日本帝国総領事館 根井三郎」の署名がある。
 根井三郎がユダヤ難民に対して独自に発給したビザが初めて見つかった。
 ビザを発見したのは、「命のビザ」関連の著書がある東京在住のフリーライター・北出明さんだ。
 杉原千畝のビザで命を救われた人の足跡を調査する中で、このビザを受け取ったポーランド出身の家族の子孫にめぐり合った。
 フリーライター・北出明さん:
 これが、根井三郎が出したと言われるビザか。大変な驚きでしたよビザの発給が却下された通知の裏面に根井三郎については、時の政府の命令に異を唱え、杉原千畝のビザを持つ難民たちを日本行きの船に乗せていたことがわかっているほか、根井が「自らビザを発給していた」と述べたという旧ソ連の会談記録が、数年前に見つかっている。
 ナチス・ドイツの脅威が背後に迫る中、国外への脱出を急ぐユダヤ難民たち。
 フリーライター・北出明さん:
 杉原さんは、ギリギリまで粘って領事業務(ビザ発給)をして、リトアニアを出国したのが9月初め。(今回のビザの持ち主である)シモン・コレンタイエルは、おそらく間に合わなかった
 今回見つかったビザは、モスクワのアメリカ大使館から移民ビザの発給を却下された通知の裏に書かれており、国外脱出が危ぶまれた一家の切迫した状況がうかがえる。
 © テレビ宮崎 アメリカ大使館がビザの申請を却下した通知(北出明さん提供)
 フリーライター・北出明さん:
 アメリカ大使館の拒否の文書を受けて、おそらく途方に暮れたと思う。だけど、とにかく逃げなければならないということで、モスクワからシベリア鉄道に乗って、とにかくウラジオストクに行った。そして、根井さんの総領事館に駆け込んだ(のではないか)
 子孫が家の片づけ中に偶然発見
 その後、一家は無事、日本に入国することができた。
 一家は1947年にアメリカへ。ビザは、子孫が家の片づけをする中で偶然発見された。
 フリーライター・北出明さん:
 (ビザを見つけた)キムは自分の母、祖父母は、てっきり「杉原ビザ」で来られたと思っていた
 フリーライター・北出明さん:
 “杉原リスト”をくまなく調べたけど、(親族の名前が)なかった。どうして私の母や祖父母は日本に来られたんだろうという疑問を持っていた。それは、根井さんが出したあのビザで、あなたの家族は日本に上陸できたのではないかと言いました。それは感激していましたよ
 1枚のビザがつないだ命。このビザには、「第21号」と書かれており、根井三郎のビザで救われた人たちは、他にもいたことが推測される。
 約80年の時を経て見つかった1枚のビザは、歴史の陰に埋もれていた根井三郎の確かな功績を物語っている。
 根井三郎については、ここ数年になって史料が少しずつ見つかり、国の内外の研究者が注目し始めている。(テレビ宮崎)」
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 カウナスの駐リトアニア領事代理杉原千畝ソ連ウラジオストク領事根井三郎らは外交官は、ヒトラーナチス・ドイツの迫害から逃れる為に日本通過ビザを東京・外務省の通達を無視して発行していた。
 松岡洋右外相と東条英機陸相は、無効である通過ビザを昭和天皇の名誉と日本国の権威を守る為に合法と認め、日本国内・満州・中国での使用を容認した。
 敦賀、神戸、大阪、横浜、東京などの市民達は、反ユダヤの人種差別をせずユダヤ人難民を暖かく受け入れ、安全な海外に旅立つその日まで面倒をみ、船出する際は岸壁から無事の航海を祈って別れを惜しんだ。
 が、戦時中、ユダヤ人難民を助けた無名の人々は生きたまま焼き殺されるという悲惨な運命を辿った。
 つまり、人助けの善意には「非業な死」が待っていた。
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 昔の日本人が、自己犠牲精神で命を捨ててもユダヤ人難民やポーランド人戦争孤児、ロシア人避難学童、中国人飢餓民、トルコ人遭難者など多くの困っている外国人を助けたのは、天皇の御稜威・大御心、民族中心神話による八紘一宇の大家族主義からである。
 惻隠の情で、戦争以外の「災難で困っている人」それがたとえ敵であっても助ける、それが日本民族であった。
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 現代日本は、昔の日本と違って反ユダヤで、人種や民族、貧富や出身・出自に対する偏見や差別が強い。
 昔の日本人は、現代の日本人とは違って自己犠牲的に命を捨てても人道貢献や平和貢献を行っていた。
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続 命のビザ、遥かなる旅路 ~7枚の写真とユダヤ人救出の外交官たち~

🏞111)─4─歴史を動かした水戸学の水脈はルサンチマンであった。~No.437No.438No.439 ㊵

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 幕末から明治維新にかけて、日本全国でコレラなどの疫病が蔓延し、開国・開港によって物価が高騰し生活苦に陥った百姓は世直し一揆を各地で起こし、社会は混乱していた。
   ・   ・   ・   
 日本は国内の乱れと外国の侵略で滅びると警鐘を鳴らしたのが、思想では水戸学で、宗教では日蓮宗立正安国論)であった。
 現代日本には、両者の精神は受け継がれていない。
   ・   ・   ・   
 2021年5月6日・13日号 週刊文春スペシャル対談①
 斉昭・慶喜・栄一 歴史を動かした水戸学の水脈 
 明治維新起爆剤となったのは、不条理な現実を生きるために紡がれた思想だった・・・。
 鹿島茂×片山杜秀
 鹿島 大河ドラマ『青天を衝け』は、幕末をたっぷりとみせないと視聴率が取れないからかもしれないけど、渋沢栄一徳川慶喜の関係をしっかり描こうとしていますね。慶喜という人物を丁寧に掘り下げて描こうとするならば、その父親で水戸藩主だった徳川斉昭明治維新起爆剤となった水戸学というとんでもない思想を外すことはできません。今回のドラマはそれらの要素をうまく盛り込んでいると思いました。
 片山 もともと水戸学は、水戸藩の不遇な状況を自己正当化するために生まれた学問です。水戸は尾張藩紀州藩と並ぶ徳川御三家と呼ばれていましたが格が少し低かった。おまけに尾張紀州に比べて石高もかなり低い。でも、収入は少ないないのに負担は大きい藩でした。水戸藩主は参勤交代せずにいつも江戸に居なければならないから、家臣を水戸と江戸双方に持たなければなりませんでした。その上、江戸が攻められたときには将軍家の盾となることを求められました。そこで第2代藩主の徳川光圀は、なぜ自分たちだけが理不尽にも思える負担に耐えなければならないのかを哲学する必要に迫られた。
 鹿島 そのために光圀はアイデンティティ危機に陥るんですね。自分たちの藩の存在意識って何だろうと。
 片山 光圀がたどり着いた答えは『尊皇』です。同じ一族だから将軍を守るなんて理屈は弱い。なぜ将軍家を守ることが尊いのか。それは、将軍が天皇という特別な存在から信任されているからだと。将軍の権力、幕府の秩序を『副将軍』として保つことは、そのまま天皇を守り、日本の『世界に冠たる国柄』を護持することに直結する。光圀は尊皇によって水戸藩の思想的立場を確立しました。
 鹿島 光圀を筆頭に水戸藩は勉強熱心ですね。尊皇を歴史的に証明するために多大なお金がかかる『大日本史』の編纂事業を始めた。しかも、第3代藩主・綱條が豊かな土地でもないのに石高を嵩上げしてしまった。すると、石高に応じた負担を幕府から求められるため、極端な貧乏藩になってしまった。『大日本史』編纂の中心だった彰考館には、貧乏な学者がいっぱいいたから、ルサンチマンが渦巻いていた。
 片山 ただ、学問による人材登用が活発だったことは確かです。斉昭は三男で、藩主の後継候補としては弱かったのに、水戸学の学者や下級武士層が推戴した。そういう人たちの発言力が強い藩でした。
 鹿島 斉昭は幕末が生んだ怪物ですね。家庭教師だった水戸学者の会沢正志斎に尊王攘夷思想を叩き込まれた。肖像を見ると、ドラマで斉昭を演じた竹中直人さんにかなり似ている。
 片山 斉昭は強硬な攘夷論者であると同時に洋学に対する関心も旺盛でした。西洋式の軍備導入にも熱心で、兵器充実のために鉄を造る反射炉も建設しています。斉昭の改革は明治維新を先取りしているところもあった。でも、儒学に由来する水戸学は、天皇→将軍→水戸藩という縦の線は死守しなければなりません。この縦の意思を一致させようとしたのが斉昭の構想でしたが、将軍後継問題で頓挫してしまった。
 慶喜は尊皇オンリーの人 
 鹿島 13代将軍の家定が病弱だったので、慶喜を推す一橋派と慶福(後の家茂)を推す南紀派の間で将軍の跡目争いが起きる。斉昭は当然、自分の息子で一橋家の養子とした慶喜を擁立しようとしましたが、結局、14代は南紀派の家茂になってしまった。
 片山 幕政も井伊直弼大老に就任し、天皇を内政や外交に介入させない常道に戻ります。そこから、日米修好通商条約の締結(1858年)、安政の大獄(1858~59年)へとながれ込み、さらに桜田門外の変(1860年)で井伊直弼水戸藩の浪士に殺される。家茂でなく、慶喜が将軍になっていれば、孝明天皇慶喜→斉昭の縦の構想が、いったん実現したでしょう。しかし、それは現実にはならず、水戸藩は激しい内ゲバに明け暮れていきました。反体制運動の星としての水戸藩の輝きはここで失われ、当時の反体制思想の主役から、天皇と志士たちが直接繋がればいいという吉田松陰が唱えたような孟子国学経由の一君万民的思想になっていきました。
 鹿島 慶喜は父・斉昭が自分に将軍になってもらいたいと思っていることは重々承知していたでしょうが、本人は将軍になることに消極的でした。一橋派の人でさえ慶喜の思想はよくわからなかったようです。それで松平慶永が手紙で問い合わせると、『昨今の政治情勢に対して定見はない』という答えが返ってきた。慶喜に期待をかける周囲は、ついそこで深読みをしてしまうのですが、僕は実際、慶喜には何もなかったと思う。それが言い過ぎだとすれば、攘夷でも開国でもどちらでもよくて、尊皇攘夷から攘夷を引き算した尊皇オンリーの人だったと考えています。『本当は偉大だった嫌われ者リーダー論』(集英社)という本に詳しく書いたのですが、慶喜の一見不可解に見える行動は尊皇オンリーで読み解くと納得が行くんですよ。
 片山 私もそう思います。1860年に斉昭と井伊直弼が相次いで死んだ後、慶喜は京都に移りますよね。そこで孝明天皇との人格的な結びつきを深めていった。
 鹿島 1858年に家茂が将軍になって、慶喜将軍後見職に任じられます。『幕府国』と『朝廷国』があるとすると、将軍後見職は、『幕府国』の外務大臣として『朝廷国』と外交交渉をするのが職務です。ところが京都に行くと、孝明天皇とすっかり仲良くなっちゃった。それで将軍後見職を辞して、『禁裏御守衛総督』という『朝廷国』の外務大臣に任命されるんです。
 片山 幕府の代表で京都に赴任したと思ったら、天皇の代弁者となり、朝廷の軍隊の長官みたいになってしまった。幕府は頭を抱えたでしょうが、慶喜にとっては願ってもないポジションだったと思いますね。天皇の下にいて将軍家も操れるからです。慶喜は斉昭から仕込まれた水戸学の構想を実現したぞ、と思っていたことでしょう。しかも、慶喜は一橋家の養子だから、天皇→将軍→水戸の副将軍という旧来のラインにも縛られずに自由に動くことができた。
 鹿島 慶喜は実質的には孝明天皇に仕える実力派の『廷臣』です。この立場にいるから薩摩のような外様雄藩の影響を削ることもできた。慶喜はすでにこの時期に幕府が瓦解することを予想して、天皇を中心とした諸侯の集団指導体制を確立し自分が議長に収まることを目論んでいました。
 片山 ところが1866年に家茂が死んで、アテが外れてしまった。トップになる代わりがいないから、15代将軍にならざるを得なくなった。でも、幕府のトップになってしまったら、今までのように徳川家や幕府を外から操ることはできません。残された道は孝明天皇との人格的結合で突破することでしたが、その孝明天皇慶喜が将軍に就任してほどなく、1867年に崩御してしまった。ここで慶喜の戦略は行き詰まってしまいました。
 鹿島 そこが幕末史の大転換点ですね。あそこで死ななかったら、孝明天皇は間違いなく慶喜を内閣首班にした、政治の全権を任せ、幕府に代わる新体制を発足させていたでしょう。慶喜は弁の立つ人で、対面して議論すると誰も慶喜に勝てないから、この新体制はけっこううまく行ったと思う。
 栄一の背骨に儒学あり
 片山 岩倉具視のように『天皇は道具』と割り切れば、慶喜は次の明治天皇を戴けばよかったのでしょうが、水戸学を叩き込まれた慶喜にとって、天皇から直接信用を得て、その意思を体現して行動することが何より重要でしたから、孝明天皇崩御が大変なダメージになってしまった。
 鹿島 慶喜の将軍就任、大政奉還鳥羽伏見の戦いという一連の流れは、慶喜に仕えていた渋沢栄一にとっても、大誤算だったはずです。幕府の外にいて、新体制の主柱になるのが、慶喜と渋沢が共に抱いていた政治構想でしたから。しかもタイムングが悪いことに渋沢は慶喜が将軍になり、予想外の展開が始まって間もなく日本を離れることになります。慶喜から弟・昭武に随行してパリ万博に行くよう命じられたからです。渋沢が帰国したのは1868年で、すべてが終わった後でした。
 片山 だから、渋沢は将軍就任後に慶喜が取った政治的行動がことごとく腑に落ちない。慶喜鳥羽伏見の戦いの後すぐに大坂城を離れて、江戸に戻ってしまった。敵前逃亡ですね。
 鹿島 江戸に戻っても、幕府には榎本武揚の艦隊があるんだから、巻き返すことはできたでしょう。沼津か清水港あたりに上陸させて、官軍の補給路を断ってしまえばよかった。渋沢はパリや帰りの船でこう考えていた。ところが、慶喜は江戸でも主戦論に耳を貸さず、江戸城を出て上野寛永寺で謹慎生活に入ってしまった。渋沢が帰国したときのは、静岡の宝台院に籠もっていました。
 片山 渋沢が帰国後、静岡に赴いて慶喜との再会をはたす場面ですね。
 鹿島 ドラマでもハイライトシーンになるでしょう。再会した渋沢は慶喜に『どうしてこんな情けない境遇になられたのか』と思わず尋ねるのですが、慶喜は『いまさらそのことを言うな』と、話題を変えてしまった。渋沢はその後も謎を引きずっていきます。ようやく明治20年を過ぎた頃、慶喜が口を開き始め、渋沢は真相を知ります。鳥羽伏見の出兵は本意でなく、戦争を続けたら日本は大混乱に陥る。事態を紛糾させないために、謹慎を通したのだと。
 片山 そのころから渋沢は慶喜の伝記を書き残したいと思う始め、最終的に自分の私財も投じて『徳川慶喜公伝』を刊行します。慶喜復権を意図しての伝記だから、都合の悪いことは載せないようにしているのでしょうが、あれがなかったら、ますます薩長土肥中心でしか幕末維新が語られなくなっていたでしょうね。その意味で、本当に貴重な史料です。
 鹿島 『徳川慶喜公伝』と、やはり渋沢が中心となって慶喜へのインターネットをまとめた『昔夢会(せきむかい)筆記』は、幕末史を知るには最高の史料ですよ。『昔夢会筆記』で渋沢は、将軍職を受けた理由について尋ねています。慶喜は明快に答えていないけれども、幕府を終わらせるためだったと僕には読めます。
 片山 その頃は、老中政治が復権していますからね。幕藩体制の息の根を止めるには、自分が最後の将軍となって大政奉還をし、内戦もすべてやめる。そこまで考えての将軍職受諾と捉えると筋が通ります。
 鹿島 史料を読んでいくと、慶喜の深慮遠慮によって、明治政府がスムーズに成立したことがよくわかります。僕は、慶喜こそ明治維新の第一の功労者だと思うし、渋沢も『徳川慶喜公伝』を完成させて、その結論に達したように思います。
 片山 大河ドラマですでに描かれたように渋沢は若い頃、水戸学由来の尊王攘夷思想にかぶれて、テロリスト一歩手前まで行きました。同じ人間が近代日本の資本主義をつくりだしたところが興味深いですね。
 鹿島 パリに行った渋沢が学んだ資本主義が、アングロサクソン型の自由放任・弱肉強食型のものではなくて、銀行や鉄道など社会的な制度やインフラを上から整えて、ヒト・モノ・カネを回していくサン゠シモン主義に基づいた資本主義だったことも、日本にとっては幸運でした。しかも、渋沢は各人が自己利益だけを追求すると、結局は社会が成り立たなくなることまでわかっていた。これもパリの社会見学で学んでいる。社会福祉にも熱心で、東京養育院の運営や資金繰りに尽力したのは有名な話しです。養育院の経費を捻出するために、鹿鳴館でチャリティーバザーを開催しました。
 片山 社会からはじかれた人をどのように包摂するかを常に考えていた人ですよね。大正時代ぐらいになると、米騒動や焼き打ちを見て、資本家も慈善事業の必要性に気づくわけですけど、渋沢は明治初期から福祉に取り組んでいました。他にそういう人はなかなかいないですよね。
 鹿島 水戸学が説いた王道に基づく政治が背骨にちゃんと入っている。
 片山 水戸学はファナティックな国粋主義と捉えられがちですが、後期水戸学には国防というリアリズムもありました。渋沢はそのための富国を担った人とも考えられます。慶喜に仕えていたときも明治政府の大蔵省で働いていたときも、その後、野に下って実業家になったときも、一貫して天下国家を考えながら、国を豊かにしようとした。
 鹿島 革命を成就させるためには、必ずカネと銃を調達する優秀な実務家が必要になるのですが、渋沢は一橋家でも幕府でも、それを任されていました。明治政府に取り立てられてからは 銃には関わっていないけれども、とにかく実務家として超優秀で、お金の帳尻を何とか合わせてしまうから、いつもどこからか助けてほしいと声が掛かる。渋沢が大きな志とそれを実現する実務能力をともに持てたのは、武士でも単なる農民でもなく、経営農民だったからでしょう。
 片山 同感です。もともと持たざる農家だと、最初から革命を起こすか、おとなしくしてるか、どっちかしかない。武士だと集めた年貢をいかに節約して使うかという清貧の思想になりがちです。渋沢は商売で財を築いていた豪農だから、水戸学を学んでも、武士とは違う発想ができた。
 鹿島 渋沢には、金儲けは決して否定されるべきではないという冷徹な認識があちます。これは資本主義を考える際に、最も重要な論点です。利潤の追求を否定したシステムは決してうまくいかないから。江戸時代は、武士階級が利潤追求を否定する朱子学を採用したため、金儲けを卑しいことだと見るようになった。でも『論語』では、『不義にして富む』ことを否定しているだけで、孔子は金儲けそれ自体は否定していない。正しく稼ぎ、正しく使うというのが渋沢が説いた『道徳と経済の合一説』の核心です。
 片山 豪農出身であることに加えて、『論語』を読み、水戸学の思想から刺激を受けたことが渋沢をつくったのでしょう。江戸の豪農や商人階級だと、勉強しても町人哲学や国学に向かいがちです。それだと、自分の心に素直に生きるとか、自然に身を任せるという発想だから、社会秩序の建設や維持は視野に入ってこない。他の豪農にはない儒学の教養を持っていたことが、渋沢の大きな特徴になっています。だから、渋沢の中では天下国家を考えることと金儲けをすることは両立している。でも、現代の資本主義は渋沢とは逆方向に進んでませんか。
 鹿島 もう限界まできているでしょう。もし、資本主義を続けるのなら、正しく経済的であろうとすれば道徳的たらざるを得ず、道徳的であろうとすれば正しく経済的でなければいけないと渋沢の思想に戻らなければなりかせん。
 片山 大げさではなく、人類が生き延びる道はそれしかないですね。」
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 徳川幕府は、朱子学を官学とし奨励し、朱子学を批判する異端な山鹿素行らを弾圧した。
 幕末になると、私学として陽明学国学が流行った。
 庶民の間に広がっていたのは道徳重視の論語儒教であった。
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 明治新政府の国家理念は、皇国史観の水戸学が元になっている。
 水戸学が目指した理想国家とは専制君主制の中華帝国で、その為に廃仏毀釈の宗教弾圧が起き、皇民教育・高等官登用試験(日本式科挙)が実施され、教育勅語軍人勅諭などが作成された。
 表向きは「和魂洋才」であったが、土台には漢才の朱子学・中華儒教が隠れている。
 そこには、武士道は存在しなかった。
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 朱子学・中華儒教は、人殺しの武士・サムライを軽蔑し、金儲けの商人や金勘定の算盤武士を差別し、職人・農民を教養なき小人と侮蔑していた。
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 水戸学が、日本国と日本民族を日本人に再認識させ日本国土に定着させた。
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 水戸学が攘夷思想を世間に訴えたのは、ロシアの軍事侵略が現実味を帯びた寛政の日露交渉からである。
 そして、天皇を中心とした尊皇思想を押し出したのはキリスト教による宗教侵略がロシアの陰に見えたからである。
 外敵の侵略に対する日本国・日本民族という運命共同体、つまり皇国思想は水戸学から生まれた。
 皇国思想は関東から西に広がり、長州の吉田松陰や肥後の宮部鼎蔵ら皇国思想信奉者は天皇と日本を守る為に北へ走った。
 彼らは、狂信的なテロリストではない。
 つまり、開国・幕末はペリー黒船艦隊来航ではなかったのである。
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 戦国時代、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は神の使命で日本を神の王国に変えるべく日本人を奴隷として世界中に輸出していた。
 ローマ教皇は、絶対神の愛によって日本人キリシタンを奴隷にする事を禁止したが、絶対神の懲罰として異教徒日本人の奴隷は認め、神社仏閣への宗教弾圧を奨励した。
 キリスト教会が絶対に滅ぼすべき悪魔王とは、異教の祭祀王・天皇であった。
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 徳川幕府は、蝦夷地・北方領土を日本領と定め、東北諸藩に防衛の派兵を命じロシアの侵略に備えた。
 当時の日本人、多くの下層庶民(百姓や町人)や賤民(非人・穢多)、部落民は武士化して、武器を持って侵略者との戦争を覚悟した。
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 問題は、如何なる体制で侵略してくる西洋列強に対して祖国防衛戦争をするかであった。
 佐幕派は、幕府を徳川家を中心とした諸大名連合体制につくり替えようとした。
 倒幕派は、天皇を中心とした一君万民の中央主権体制を新たに築こうとした。
 戊辰戦争とは、徳川家中心もしくは天皇中心をとした体制選択戦争であった。
 もし、諸大名連合体制を選択すれば、日本はインドのムガル帝国のように滅亡しキリスト教国家に大改造された。
 歴史的事実として、ハワイ王国は滅亡し、ハワイ王家は消滅し、ハワイはキリスト教の土地になった。
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 現代の日本人には、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力そして哲学や思想がなく、あるのは無味乾燥に近い民族否定のイデオロギー(主義主張)だけである。
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 現代日本人、特に高学歴の知的エリートや進歩的インテリが当時の日本に行っても当時の日本人のように活躍できなどころか、邪魔で、お荷物になるだけの愚物である。
 たぶん、現代の実業家・企業家・経営者も、当時の日本では会社を興すことも商売することもできないだろう。
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 昔の日本人と現代の日本人は別人のような日本人である。
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🏞125)─1─江戸時代の芋づる式人材登用が、幕末・明治維新・日本近代化を成功させた。~No.491No.492 ㊽ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代の日本とは違って、江戸時代後期から明治にかけれの日本は人材の宝庫であった。
 当時の総人口は約3,000万人で、人生50年時代で若者が多く老人が少なく、40代以上は後進の為に隠居して社会的地位から身を引いた。
   ・   ・   ・    
 2021年5月6日・13日号 週刊文春渋沢栄一を生んだ江戸の人材登用術
 取り立てなければ宝の持ち腐れ。
 現代の渋沢を埋もれさせるな。
 磯田道史
 渋沢栄一はこの国を経済大国にした立役者の一人だ。明治維新では日本は抜群に伸びた。しかし平成・令和には衰えている。台湾のコロナ対策が輝き、豊かさでも台湾に購買力では抜かれ、韓国には追い付かれた。かつての『帝国と植民地』の関係は激変した。実は、明治維新期に、この国が成長した理由は『人才(人材)登用』の仕組みに秘密があった。
 『芋づる式の人材登用』があって、これが国を救った。才能が才能を連れてくる連鎖だ。まず、大分県の日田代官所の小役人の子に『才』がみつかった。川路聖謨という。数時間しか寝ない。猛烈に読書・執筆と剣術をする。超人的な頭脳の持ち主。ところが、屁(おなら)の話が好きで、どこでも屁をするとの噂があった。……この変人川路がまた『変物』をみつけた(『徳川慶喜公伝』)。平岡円四郎である。高級旗本・岡本近江守の四男で家柄抜群、学問超絶。当時、全国成績トップの若者といえば、昌平坂学問所の寄宿(書生寮)頭取で、みな憧れた。平岡はこれを命じられたが『おれは武術を練習する』と辞退。易経老子を読んで(『竜門雑記』444号)、世俗に交わらず、町奉行所の与力に弟子入りして刑事・の修行をはじめていた。ところが、父・近江守と親交のあった川路が変物の『円四郎』を発見し、水戸藩の大学者・藤田東湖にすすめた。丁度、水戸藩では、藩主徳川斉昭が子を一橋家に養子に入れ、『将軍慶喜』を誕生させるプロジェクトが進んでいた。それには非凡な側近がいる。藤田から話を聞き、斉昭はその変物を使えと命じ、円四郎は一橋家家老並み・平岡円四郎となった。
 渋沢栄一を拾ったのは、この平岡である。平岡は面白い。一橋家の家老格になっても『行儀は習わぬ。ふるまいは粗野』で押し通した。行儀のよい貴族の慶喜はかえって彼を好んだ。平岡には奇癖があった。立派な武士なのに、身分を問わない。書生談義を好み、とくに若い人と会って話す。今風にいえば、役所外、社外の人、面白そうな学者や専門家などとフリー・トークをする。実は、これが大事で、そうしながら、人材を探していた。とりわけ『人材が探せる人材探し』を重視した。リクルーター人材に、まず目をつけるのだ。平岡は小仏関所(八王子市)の番人をしていた川村という武芸のできる男をまず抜擢した。この川村に一橋領内などから『浪人にても百姓にても、相当の人物』が居れば、召し抱えよと命じた。
 栄一は出世の秘訣を知っていた
 なにしろ、一橋・田安・清水家の御三卿は、尾張紀伊・水戸の御三家と違い、藩ではない。御三卿は、8代将軍・吉宗が自系統で将軍をと無理に拵(こしら)えた『江戸城内の将軍家族』で、バーチャルな家だ。家老なども幕府が派遣する。時折、当主も空席になる。空席中の御三卿屋敷はカラで畳まれる。ところが、この時、一橋家は天皇の京都を外国から守る警備責任者になろうとしていた。突然、家臣団の強い軍事力が必要になった。渋沢栄一は染料(せんりょう)の藍玉(あいだま)の商売人で情報通だ。柏木総蔵という親切な幕府代官の手代から、川村についての耳寄りな情報を得て、柏木の紹介をもらい、イトコの渋沢喜作と一橋家のリクルーター川村を訪ねた。川村がひらいた住職就任祝いの席に、もぐり込んだのである。渋沢は親戚筋に大川という有名な剣の達人がいて川越藩の指南役をしていた。栄一は、自分は『川越大川派』剣術の使い手だと売り込んだ(川村惠十郎『襍{そう}日記』)。栄一は目ざとい。一橋家が軍事力編成に苦しんでいるとみて、『出入りを許されれば、事ある時には四五十人の壮士を率いて相当の軍務に従』うと、大見得を切った(『渋沢栄一伝稿本』)。当時、渋沢たちは外国人を追い払わない幕府にいらだち、群馬県の高崎城を乗っ取るテロ計画も進めていた。『博徒にて胆略有』る『人物3人』のあてがあり『大に用』いるつもりであった(尾高藍香宛渋沢喜作・栄一書状)。栄一のいう『壮士』とは、実はこういう堅気でない無頼の連中のことでもあった。名門の一橋家を相手に、はったりをかます度胸が栄一にはあった。
 自分は相手がのどから手が出るほど欲しいものを持っている。相手にとって自分は必要な人物と思わせる。これが出世の秘訣だと、栄一は肌感覚で知っていた。渋沢を信じた川村は9日後、平岡円四郎に渋沢の話をした。時勢に万事に困ったと、ため息をつきながら、と川村の日記にはある。渋沢の存在をきいた平岡は『ことのほか感激の様子』に見え、はや2日後に渋沢に会うといった。会ってみれば、平岡は栄一の才能の非凡をすぐに見てとった。京都へ渋沢をぜひ連れていきたい、といった。栄一は『何かの名義を以て家来分となること』を請求した。しかし、簡単にはいかない。一橋領の農民なら問題なかったが、栄一は阿部という2万石の小大名の農民だ。しかも、阿部家の役人に好かれていない。阿部家への上納金の納入を一旦拒否して、にらまれていた。一橋家が栄一を召し抱えるには阿部家の許しがいる。そんなことをいいだす一橋家を栄一は『大因循(だいいんじゅん)』、前進しない保守野郎と思った(前掲書状)。結局、川村が栄一の領主・阿部家家来・淡島浪江方に乗り込み、談判してくれたが、不首尾に終わった。 当時の栄一は、武士の政治が腐敗し、もう天下が乱れる。農民だからといって傍観していられない。身分を転じて、武士のように国事に奔走する、という考えだった。ところが、父親は『農民に生まれたのだから、ドコまでも其本分を守れ』『身分・・・不相応な望み』『おれは麦を作って農民で世を送る』『政府が無理・・・役人が無法をしようとも・・・服従するつもり』といった。これが日本人がよくはまる『本分を守る』論である。『分際』の罠といってもいい。職域や管轄や専門を狭く限って、そのなかで仕事や行動をしようとする。専門外や仕事以外のことをすると、『余計な』『専門外なのに』『口出し』だといって、新活動を叩く。これはチャレンジを妨げる。新技術や新時代が来た場合、栄一のいう『時勢』が変わる時に、『本分を守る』などと昨日と同じやり方を守れば、衰退するのは当たり前だ。幕末日本のすごさは身分制にもかかわず、学問や技能で、『分際』をこえて活躍しようと動く若者が一定数いて、それを『人材』として愛でて登用し、支援する人もいた点である。
 平岡は阿部家に渋られても渋沢の登用をあきらめなかった。『江戸でまごまごして居ては駄目だぞ。早く京都へ来たらよかろう』と渋沢栄一・喜作を誘った。渋沢は一計を案じ、一橋家の家臣でなく『貴方(平岡)の家来にしてくれますか』といった。平岡は許した。渋沢がいざ京都につくと、平岡は太っ腹で、幕府の嫌疑もうけていた渋沢を、あっさり一橋家の『御小人使之者(おこびとづかいのもの)・奧口番過人(おくぐちばんかにん)』に採用した。平岡はわざと間違った公文書を作成してくれたのだ。渋沢は『阿部摂津守様御領分』の『百姓』で、よくいっても『名主見習』の倅(せがれ)であったが、もらった辞令には『阿部摂津守家来渋沢栄一郎』を召し抱えるとあった。平岡は御三卿一橋家の権威に者を言わせ無法をやった。京都で江戸から遠いのをいいことに、平岡は阿部家を無視。渋沢を書類上、阿部家『家来』つまり武士ということにした。
 この『ことにする』という『見立て』『みなし』が日本人は得意である。江戸時代は、『みなす』『見立て』で、法度・旧例のがんじがらめの脱出口を作っていた。ただ、このやり方は、下手に使うと、原発は事故が起きない『ことにする』、日本は負けない、神風が吹く『ことにする』で大失敗したように、誤って乱用すると困る場合もある。とにかく、こうして渋沢栄一は召し抱えられ、一橋家家臣として、とんとん拍子に出世していった。この京都時代に、栄一はただの放浪身分で、西郷隆盛に会ってもらい『豚鍋』をごちそうになっている。『当時、青年の間では有名な人達を訪問して時事を論じ、意見を聞くことが流行であっ』た。西郷は、その時分、珍しい『琉球豚』の肉を調達できた。この豚鍋が西郷にとってのコミュニケーション・ツールであった。西郷も『一介の書生相手に豚鍋などをつついて談論』するのが好きだった。西郷は栄一が若くして藍玉の商売で巨万の富を築いたのに興味を持ったらしい。西郷は『中々面白い男ぢゃ、喰詰めての放浪ではなく恒産(こうさん)あつて然も志を立てたのは感心ぢゃ、時々遊びに来るがよい』と、栄一にいったという(『竜門雑記』441号)。西郷も薩摩藩主・島津斉彬に登用され、西郷も多くの人材を登用した。
 おならの川路→変人の平岡→渋沢栄一という人材登用の芋づるがあり、渋沢も浅野セメント浅野総一郎など多くの才を見出し、この国の近代をつくった。まだ無名だが有為の若者と話し、その才を愛でて、出世の道をつける。幕末明治発展の秘密は結局これであった。」
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 日本を支配していたのは、政治権力、宗教権威、天皇の御威光であった。
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 尊皇派、勤皇派は、外国の侵略から天皇・日本国・日本民族・日本神道を武力で守ろうとした。
 攘夷の敵とは、軍事侵略してくるロシアと宗教侵略してくるキリスト教であった。 
 古代から、日本は大陸や半島に侵略され虐殺・強奪・拉致されていた。
 戦国時代、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は日本人を奴隷として売り買いして金儲けしていた。
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 現代の日本人には、鎖国から開国した当時の日本人に匹敵するほどの人材は存在しない。
 それ故に、当時の日本人は現代の日本でも充分に通用するが、現代の日本人は当時の日本では役立にたたない愚物である。
 それが、現代の高学歴な知的エリートや進歩的インテリの偽らざる実態、実力、能力である。
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 明治維新は、地方の下級武士や身分低い庶民(百姓や町人)が外国の侵略から天皇・国・民族を軍事力で守る為に成し遂げた積極的自衛行為であった。
 明治近代化とは、対外戦争をする為の軍国主義改革であった。
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 鎖国から開国した日本には、血筋・家柄・身分・学閥に関係なく数多くの天才・秀才の人材が雨後の筍(たけのこ)のように日本全国から湧き出て、国内はおろか海外まで駆け巡り、天皇・国家・民族の為に各分野で活躍し、命を捨て犠牲者を出して日清戦争日露戦争に勝利し、未開国並みに貧しかった日本を約40年で欧米列強に負けない近代国家にし、約50年で世界五大国に一国に押し上げ、アジアの盟主にした。
 当時の人材とは、20代から40代と若く、30代が指導的地位に立ち意欲的に時代に合わせて社会を最新にすべく諸変革を行った。
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 現代の日本には、世界で活躍できる優秀な人材が少ない為に国際的地位を落とし、国内でさえ優れた人材が乏しく政治・外交・経済・軍事・科学技術など多方面で日本を衰退させ発展国並みに落ちぶれさせても恥じない。
 日本は、1980年代を境に勢いを失い、2010年代から加速を付けながら坂道を転げ落ちるように衰えを増している。
 現代の人材とは、50代以上と老い、70代以上が指導的地位に居座り時代の変化を拒否し社会を旧態依然に留めるべく諸改革を潰している。 
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 現代教育は昔の教育とは違い、自立した優秀な人材を育てず金太郎飴的人間のみを量産している。
 現代日本人は、事実・現実に基づいた確かな歴史が嫌いなだけに、自分を虚飾で誤魔化す為にまがい物の武士道神話を創作して信奉している。
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 昔の日本人と現代の日本人の最大にの違いは、人を見る目、文武に優れた才能・能力はもちろん人格・品位をも見極める情に流されない確かな眼力である。
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 昔の日本人と現代の日本人との違いとは、天皇と国の為に死を覚悟して戦争を厭わないかどうかである。
 真の武士道とは、そういう事である。
 昔の百姓や町人さえ、天皇と国の為ならば命を捨てて戦う決意があった。
 それが日本民族の心意気・志・日本心であった。
 命知らずの尊皇派、勤皇派は、下級武士、下層庶民(百姓や町人)、賤民(非人・穢多)、部落民、芸能の民、異能の民、異形の民、その他であった。
 明治維新は、彼らがおこなった対外戦争を行う為の変革であった。
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 成績優秀な愚物人材を量産しているのが、学校教育とメディア・報道機関である。
 現代日本を貧しく凋落させ回復を阻む張本人が、反宗教無神論マルクス主義史観・異教徒根絶やしのキリスト教史観・華夷秩序の正統儒教史観(論語儒教とは違う)に毒された学校教育とメディア・報道機関である。
 現代の日本人は、学校教育とメディア・報道機関の情報で洗脳されている。
 洗脳された日本人は、左翼・左派・ネットサハでも右翼・右派・ネットウヨクでも同様で、リベラル派・革新派そして一部の保守派に多く存在する。
 彼らの特徴は、「自分は優れた才能を持ち、誰よりも正直で真面目」と信じ込んでいる事である。よく言う自称「正義の味方」である。
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🏞111)─1・B─百姓や町人は努力・学識・実績・業績で幕臣となった。柴田収蔵。~No.430No.431No.432 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 江戸時代の身分制度には、マルクス主義共産主義階級闘争史観・人民革命論は無意味である。
 現代のマルクス主義思考的作家が書く時代劇の多くは有害である。
 昔の日本は、現代の日本とは違って世界の非常識で、一口では説明できないほど特殊・特別であった。
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 日本の武士は、西洋の騎士とは違うし、中国の士大夫・読書人・武人・武芸家や朝鮮の花郎両班・武官とも違う。
 中国や朝鮮には、武士は存在しない。
 現代日本には武士はいない、現代日本人は武士ではない。
 武士道神話は偽物である。
   ・   ・   ・   
 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
 柴田収蔵 しばた-しゅうぞう
 1820-1859 江戸時代後期の地理学者。
 文政3年6月26日生まれ。中根半仙に漢学・書画を,伊東玄朴(げんぼく)に蘭方を,山路諧孝(ゆきたか)に天文地理をまなぶ。天文方手伝をへて,安政3年(1856)蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の絵図調出役となる。「新訂坤輿(こんよ)略全図」などを作成。安政6年4月10日死去。40歳。佐渡(新潟県)出身。姓は新発田ともかく。名は耘(うん)。字(あざな)は士登。号は拗斎,半嶋漁人。
 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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 測量・地図ミニ人物伝:柴田収蔵
 「測量・地図ミニ人物伝」
 柴田収蔵 (1820-1859)
 「柴田収蔵自画像」(東洋文庫より)
 柴田収蔵(しばたしゅうぞう)は、佐渡(さど)の四十物師(あいものし:魚のひものなどをつくることを仕事とする)で、名主でもあった長五郎の子として生まれました。
 彼は、小さいときから読書が好きで、書や図書を写すことをこのんでしたといいます。
 16歳の時から佐渡の石井夏海に絵などを学んでいましたが、絵図師量や地図作成も学んでふるさとに帰りました。
 佐渡では、医業(いぎょう:いしゃ)を開いたものの、ここでも地理や地図に対する魅力(みりょく)に勝てず、地図の作成を始めます。
 そして、自分で作った地球図を持って、江戸に出て、古賀謹一郎という先生につき、こんどこそ念願の?地理学の指導をうけました。
 先生が幕府洋学所頭取(ばくふようがくしょとうどり)につくと、ここに採用され、地図作成にあたりました。
 洋学所では、最新の情報が入った多くの地図を作成しましたが、長年の大酒がたたったのか40歳で亡くなりました。幕末に佐渡が生んだ異色の地理学者です。
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 柴田収蔵(しばたしゅうぞう 1820-1859)
 地理学者、「新訂坤輿略全図」などの製作者。
 柴田収蔵は、文政 3年佐渡宿根木の四十物師(あいものし:魚・干物加工業)で名主の長五郎の子として生まれた。小さいときから読書が好きで、書や図書を写すことを好んでしたといい、16歳の時から当地の石井夏海に絵画と篆刻を学んだ。
 当時、佐渡奉行所の地方(じかた)付絵図師であった石井夏海(1783-1848)は、江戸に出て司馬江漢から西洋式の測量術を学び、そのころ伊能忠敬の作成した「佐渡実測図」の修正を命じられていた。この石井に腕を見込まれた収蔵は、彼にすすめられて天保10年(1839)20歳の時に江戸で出て、地図技術者を目指して篆刻を学んだ。
 帰郷後は、引き続き石井夏海・文海父子の地図作成などの仕事を手伝うことになる。そして天保13年、忠敬の図が訂正されて、「佐渡一国山水図」として完成する。収蔵は、石井氏のもとで勤めながら、師が所蔵する「三国通覧」「伊能図」「蝦夷之全図」「天経或門」などの多くの地図と地理・天文書にふれる。そして翌年、再び江戸に出るのだが、なぜか異なる道を目指す。
 シーボルトに学んだ蘭学者伊東玄朴に師事し、医学・蘭学をおさめるのである。当時も庶民の子が医者になることは名誉であり、高い収入が保証されていたこともあるが、彼にとっては周囲を納得させるための手段でもあった。彼は、医学を学ぶ傍らで幕府天文方山路諧孝に測量・地図作成を学んで帰郷した。その後、故郷宿根木の称光寺末寺で医業を開いたが(1845)、地理や地図に対する魅力に勝てず、医業の傍ら「万国全図」の製作にも力を注ぐ。
 そして、小木の医師柴田昌琢の養子となって柴田姓を名乗り、自らが製作したこの楕円の地球図「改正地球万国全図、地球萬国山海輿地全図説」(1848出版)を持参して、三度目の江戸遊学を果たした(嘉永3年 1850)。このとき、師となる古賀謹一郎に同図の評を請うと同時に、こんどこそ念願の地理学の指導を受ける。
 師の古賀が幕府洋学所頭取に就くと、絵図調出役に採用された(安政2年 1855)。佐渡宿根木の商家の子倅が無類の出世をしたことになる。
 収蔵が作成した地図は、この「改正地球萬国全図、地球萬国山海輿地全図説」のほか、洋学所が改称された蕃所調所で手がけた1854年刊の「蝦夷接壌全図」、1852年刊の「新訂坤輿略全図」がある。「蝦夷接壌全図」は、山地表現にヨーロッパから地図から転用した「ケバ」を用いた最初のものではないかと思われ、正確な経緯度やスケールもついている。一方、卵型世界図「新訂坤輿略全図」には、島となった樺太のほか、アルジェリアのフランス領編入、ボストンやニューヨークの記入など最新の情報が盛られ、彼の研究の確かさを知ることができる。
 柴田収蔵は、幕末に佐渡が生んだ異色の地理学者であった。残念なことに、長年の大酒がたたったのだろうか蕃所調所の在職中に40歳で亡くなった。
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 佐渡市
 佐渡市指定 有形文化財:柴田収蔵世界図
 記事ID:0005056 更新日:2021年3月1日更新 印刷ページ表示
 佐渡市指定 有形文化財
 柴田収蔵世界図(しばたしゅうぞうせかいず)
 柴田収蔵世界の画像
 指定種別(員数) 古文書(1幅)
 指定年月日 平成16年3月1日
 所在地 佐渡市宿根木
 所有者または管理者 個人蔵
 柴田収蔵は小木地区宿根木出身の幕末有数の地図学者である。20歳のときに宿根木の廻船に乗って金比羅を参詣した際、船中で蘭医に出会ったことなどがきっかけとなり蘭方医学に興味を持ち、天保14年(1843)に江戸に出て蘭医伊東玄朴について蘭方医学を学んだ。やがて世界地図にも興味を持つようになり、嘉永元年(1848)に卵形式の世界地図「新訂坤与略全図」を作成し、安政元年(1854)には「蝦夷接壌図」を作成した。その後、安政3年に天文方山路諧考の推挙で天文方手伝となり、翌年には蕃書調所の絵図調出役を命ぜられ出仕したが、同年に40歳で没している。
 この世界図は、世界を地球的視野において作図する意図を持った、当時としては先進的で正確な世界図であり、歴史資料として貴重である。
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柴田収蔵日記―村の洋学者〈1〉 (東洋文庫)