💖目次)─8─近代天皇と軍部・陸軍の人道貢献・平和貢献。旭日旗は希望と救済の旗であった。~No.1 * 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 昔の日本人=日本民族は、戦争で人を殺したが戦場で人を助けた。
 現代の日本人=日本国民は、平和で人を殺さないが安全な所で人を助けない。
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 昭和天皇A級戦犯達、軍部、日本陸軍が、ポーランドユダヤ人難民(数万人)や中国人飢餓民(1,000万人以上)を助けたのは大和心・八紘一宇の精神・靖国神社の志・日本民族の気概からである。
 昔の日本人は現代の日本人とは別人のような日本人であった。
 世界は、昭和天皇A級戦犯達、軍部、日本陸軍ポーランドユダヤ人難民を助けている事を知っていた。
 ナチス・ドイツは同盟国日本に対して強い外圧を加え、親ドイツ派の日本外務省は受け入れようとしていたが、親ポーランド派の軍部・日本陸軍は拒絶していた。
   ・   ・   ・   
 現代日本の親中国派・媚中派は、中国に忖度し、中国の利益に配慮して、中国共産党のジェノサイドや人身売買・臓器売買などの非人道的犯罪からウイグル族チベット族モンゴル族などの少数民族、香港などの民主派、法輪功などの宗教団体を助けない。
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天皇の御稜威・大御心・御聖慮。
2017-03-17💖
💖2)─1─光明皇后の慈愛。皇室の国際赤十字新月運動。シエラレオネ昭憲皇太后基金。~No.2・ @ 
2021-02-24
💖2)─2─皇室の私有財産の使い道。世界的な昭憲皇太后基金。~No.3 
2021-03-08
💖2)─3─皇室。日本赤十字社の戦争協力。従軍看護婦靖国神社の乙女。~No.4No.5 
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日本の中国ヘの救援・支援。 
2019-05-11
💖3)─1─華北旱魃を救った明治天皇と明治政府。義和団事件。中国は西原借款の善意を踏み倒した。〜No.6No.7No.8No.9・  
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日清戦争
2019-07-06
💖4)─1─諸外国は観戦武官や新聞記者を日本に派遣して日清戦争を観察していた。~No.10No.11No.12No.13・ 
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日露戦争。世界ゼロ次世界大戦。
 1900年7月 アムール川黒竜江)事件。ロシア人兵士が清国人(満州族)約2万5,000人を虐殺した。
 日本の世論は緊張し、反ロシア大集会が日本各地で開かれるに至った。ロシアは次に朝鮮を蹂躙して日本へ侵略してくるに違いない、というのが世論の見方であった。
 そして、日露戦争は不可避となった。
2017-08-15
💖5)─1─金沢の市民は、日露戦争で身内をロシア軍に殺されたが、怨みを忘れてロシア人兵士捕虜の面倒を見た。~No.14・ @ 
2021-02-15
💖5)─2─日露戦争習志野の捕虜。~No.15 
2018-01-24
💖5)─3─明治の日本人は、撃沈したバルチック艦隊の特務艦イルティッシュ号から敵兵235人を救助した。~No.16No.17・ @ 
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2020-06-27
💖5)─4─日本人は朝鮮人アイヌ人を感染症から救っていた。~No.18No.19No.20No.21 
朝鮮、
アイヌ
琉球
台湾、
満州
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 2020年6月27日号 週刊現代佐藤優 ビジネスパーソンの講座 名著、再び
 現代社会に蘇った、『コロナ禍』の背景にある『黄禍論』の正体を知れ
 ……
 池上氏は、このようなアジア人に対する差別を過去、欧米で深刻だった『黄禍論』とのアナロジー(類比)で解釈する。〈これで私が思い出したのが、『黄禍論』という黄色人種に対する人種差別です。19世紀から20世紀にかけて、欧米で中国人や日本人などの黄色人種に対する差別が燃え盛りました。日清戦争日露戦争での日本の勝利を見た白人たちが、『黄色人種の脅威』を訴え、差別が広がったのです。新型コロナウイルスパニックでまた黄禍論が復活したような格好です。〉日露戦争(1904~05年)のときにロシアが日本の脅威を訴えるために『黄禍論』を宣伝した。その影響は北米大陸にも及んだ。第一次世界大戦後、日本が急速に国力をつけるとアメリカで急速に『黄禍論』が拡大し、日系アメリカ人が不当な差別を受けた。コロナ禍との文脈でトランプ大統領の白人至上主義者が『黄禍論』を蘇らせたのだ。」
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シベリア出兵。
2017-08-14
💖6)─1─日本人陸軍は、シベリアからポーランド人戦争孤児765人を武力で助け出した。~No.22No.23No.24No.25・ @ 
2019-10-27
💖6)─2─日本外務省・日本大使館は、帰国したポーランド孤児をナチスから助けた。~No.26・ 
2021-02-07
💖6)─3─ポーランド人蜂起部隊イェジキの子供兵士を陰で支えた日本大使館。~No.27No.28No.29 
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2017-08-17
💖7)─1─日本人軍国主義者は、シベリアのロシア人戦災児童約800人をロシア人共産主義者から救出した。~No.30・ @ 
2021-02-11
💖7)─2─ロシア人避難学童救出活動と日本シベリア派遣軍諜報機関。~No.31No.32No.33 
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2020-03-13
💖8)─1─日本陸軍はシベリアで救出したトルコ軍人捕虜約1,000人を本国に送り届けた。~No.34No.35No.36No.37・ 
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第一次世界大戦、日本が5大国の一国として国際連盟の常任事理国になった。
2017-08-18
💖9)─1─日本皇室と日本赤十字社は、パリに日本赤十字社救護班による日赤病院を開院した。~No.38・ @ 
2021-02-17
💖9)─2─日本赤十字社集団的自衛権赤十字救護看護婦「竹田ハツメ」。~No.39No.40No.41 
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2017-12-04
💖10)─1─青島要塞攻防戦。ドイツ兵士の坂東俘虜収容所。丸亀・松山・久留米。「バルトの楽園」。~No.42No.43No.44No.45・ 
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2019-07-05
💖11)─1─マルタ島の偉業。日本欧州派遣艦隊は地中海の守護神である。~No.46No.47No.48No.49・ 
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2021-05-09
💖12)─1─1920年の華北大旱害・飢饉に対する軍国日本の調査と救済。~No.50No.51No.52 
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日本軍の敵軍捕虜に対する扱い。
2018-08-07
💖13)─1─日本軍は、武士道精神で戦い、戦闘が終われば戦場に残された敵軍兵士負傷者を助け保護し治療した。~No.53No.54No.55・ @ 
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日本民族日本人の愛国心
2017-08-23
💖14)─1─愛国心とは命を捨てる決意と死を受け入れる覚悟である。~No.56No.57No.58・ @ 
2021-07-09
💖15)─1─日本民族は漂着民の子孫で、目の前で船が難破すれば遭難者・漂流者を助けた。~No.59No.60No.61 
   ・   ・   ・   
小灘利春「特攻は愛するものを守りたいとの強い思いから生まれたのです」 
   ・   ・   ・   
2021-07-24
💖16)─1─渋沢栄一アルメニア人大虐殺のアルメニアの孤児・難民への義援金。大正11(1922)年。〜No.62No.63No.64 
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日本の農業技術が中国の食糧不足を救った。
2019-12-05
💖17)─1─稲塚権次郎の小麦農林10号が、飢餓に苦しむ華北の中国人を救った。1935年。〜No.65No.66No.67・ 
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日中戦争
2019-05-13
💖18)─1─河南省黄河防爆破と大洪水。溺死100万人以上。日本軍は中国人10万人以上を助けた。1938年〜No.68No.69No.70No.71・ 
2019-05-15
💖18)─2─河南省大飢饉。日本軍は戦争をしながら飢餓民約1,000万人を助けた。日本軍の敵兵虐殺事件。1940年No.72No.73No.74No.75・ 
2019-05-16
💖18)─3─日本軍は河南省救援物資輸送路を死守した。大陸打通作戦。泰緬鉄道。日本軍兵士の餓死・病死。1944年〜No.76No.77No.78No.79・ 
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日本陸軍防疫部隊が中国人を救った。
2020-06-14
💖19)─1─日本軍は中国軍が行った堤防破壊、井戸への毒やコレラ菌投入の尻拭いをしていた。〜No.80No.81No.82No.83・ 
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中国共産党の非人道行為。
2019-05-17
💖20)─1─中国共産党は、日本人戦病餓死者の尊厳を穢し、霊魂を冒涜し、慰霊の場を踏みにじる。〜No.84No.85No.86No.87・ 
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キリスト教の日本に対する宗教侵略。
2019-03-19
💖21)─1─アメリカのCPIとアメリカ・キリスト教会が日本を戦争へと追い詰めた。〜No.88No.89No.90・ 
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 日本民族ユダヤ民族との違い。
 日本民族は、南方系海洋の民を原初とする縄文人の子孫であり、発想・思考は空気を読む遠洋航海用の手漕ぎ舟であった。
 ユダヤ民族は、絶対神が自らお姿に似せて土や芥から創りだした大陸系砂漠の民の子孫で、発想・思考はラクダやロバ・羊を伴って移動する我を押し通す牧歌的隊商・キャラバンであった。
 2020年7月号 WiLL「清潔を好む日本人だからこそ死亡者数が少ない
  エリ・コーヘン
 ……
 日本の現状について批判もあるが、私は『日本型』の素晴らしい対応をしていると思う。官邸と東京や大阪などの大都会の知事、或いは地方の過疎地域の知事の対応策が異なり対立が生じるのは、ごく通常のことだ。イスラエルなどは『狩猟民族型』で、逃げる獲物をいくつもの作戦や罠で捕獲するのに強い、作戦を瞬時に実行しなければ、獲物は逃げていく。『状況支配型』の戦略を実行するのに長(た)けている。
 一方、日本は『農耕民族型』だ。田んぼは逃げていかないので、ゆっくりと話し合って、長老の意見なども聞いて結論を取りまとめる。状況を支配しようというよりは、状況を窺(うかが)いながら、それに合わせる『状況対応型』だ。時に、そうした姿は『日和見』や『場当たり的』にも見える。
 欧米各国や独裁国と、日本の状況への対応の仕方には、確かに伝統文化の違いもある。
 日本国憲法には、緊急事態条項がないので、国家が権力を行使して都市封鎖ができないという問題は、ここでは紙幅がないので立ち入らない。」
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皇室とユダヤ人。
2020-09-18
💖22)─1─明治天皇・皇室は親ユダヤ派。ユダヤ人難民を助けた昭和天皇。〜No.91No.92No.93 
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日本の軍部・陸軍とユダヤ人。
2019-03-20
💖23)─1─オトポール事件。軍国日本とポーランドユダヤ人難民達。上海のユダヤ系サッスーン財閥。1932年〜No.94・
2020-09-17
💖23)─2─ユダヤ人難民をナチス・ドイツから助け守った日本の軍部・陸軍。〜No.95 
2021-04-12
💖23)─3─米戦略家らによる樋口 季一郎陸軍中将顕彰銅像建立委員会設立。〜No.96  
2021-05-07
💖23)─4─ユダヤの東條批判。中国・韓国に告ぐ「靖国神社に戦犯は祀られていない」。〜No.97No.98  
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神戸とポーランドユダヤ人。
2019-03-21
💖24)─1・A─ポーランドユダヤ人難民を助ける事に、日本軍部は協力し、日本外務省は猛反対した。1940年〜No.99・ 
2021-05-04
💖24)─1・B─ユダヤ難民救った独自ビザ発見、外交官・根井三郎の功績。〜No.99 
2020-09-16
💖24)─2・A─JTBとポーランドユダヤ人難民。天草丸。〜No.100 
2021-05-05
💖24)─2・B─ユダヤ人の救世主・JTB職員大迫辰雄。天草丸によるユダヤ人難民輸送。〜No.100 
2020-09-15
💖24)─3─杉原命のビザを持ったポーランドユダヤ人難民は敦賀に上陸した。敦賀空襲。〜No.101 
2020-09-14
💖24)─4─ポーランドユダヤ人難民を保護した神戸市民と神戸空襲の地獄。〜No.102 
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アメリカ・ユダヤ人。ニューヨーク・ユダヤ人共同配給委員会。
2019-03-22
💖25)─1─上海ユダヤ人ゲットーとアメリカ・ユダヤ人共同配給委員会(ジョイント)。イェドヴァブネ事件。1940年〜No.103・ 
2020-05-20
💖25)─2─アメリカ・ユダヤ人とセントルイス号事件。ブルメンソール元財務長官。〜No.104No.105No.106・ 
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日本租界内の上海ゲットー。
2019-03-24
💖26)─1─上海ホロコースト未遂事件。日本陸軍松岡洋右ゲシュタポユダヤ人虐殺を阻止した。1942年〜No.107・
2021-03-29
💖26)─2─日本軍占領下の上海ゲットー・上海ユダヤ難民資料は世界記憶遺産申請に値する。〜No.108No.109No.110  
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連合軍はユダヤ人の救出より戦争の勝利を優先した。
2020-09-19
💖27)─1─アメリカとイギリスは、ユダヤ人児童約2万人の救出を拒否した。ヒムラー友の会と国際稀金融資本。1942年〜No.111 *
2020-09-20
💖27)─2─欧米諸国はホロコーストを黙認しユダヤ人を助けなかった。〜No.112No.113No.114No.115  
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中国共産党の陰謀。
2019-03-28
💖28)─1─中国共産党による「日本はホロコースト犯罪国家である」という国際世論操作。〜No.116No.117No.118No.119No.120・ 
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人道貢献を人々の悲惨な末路。
2019-03-30
💖29)─1─人道貢献をした、A級戦犯は縛り首で殺され、昭和天皇戦争犯罪者と罵倒されている。2016年〜No.121No.122・ 
   ・   ・   ・   
海洋民の日本民族は古代から海難救助の民であった。
2019-03-30
💖30)─1─日本人漁民は目の前で難破船した遭難者を助けた。〜No.123No.124No.125 

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中国共産党の親ユダヤ派弾圧。
2020-05-21
💖31)─1─ユダヤ人難民を助けた中国人シンドラー中国共産党の敵であった。〜No.126No.127No.128No.129No.130・ 
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アメリカの宗教的人種差別。
2019-04-03
💖32)─1─アメリカにおける、黒人の暴動と非暴力の日系アメリカ人。〜No.131No.132No.133No.134・ 
2019-04-04
💖32)─2─アメリカの人種差別主義者・白人至上主義者による反ユダヤ犯罪と反黒人暴動。〜No.135No.136No.137No.138・ 
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敵を弔う。
2021-06-20
💖33)─1─日本民族は敵味方に関係なく死者は等しく弔った。松井石根 と興亜観音。〜No.139No.140No.141No.142 
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日本の中国支援・ODA。
2019-12-07
💖34)─1─日本は中国共産党にODAを40年間貢いだ。〜No.143No.144No.145No.146・
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2020-07-02
💖35)─1─中国共産党の「国家安全法」と香港人そして日本。〜No.147No.148No.149No.150 終わり。
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 戦前の日本は如何なる国際貢献をしても、世界で認められず報われないどころか、国際世論や各国のメディア・報道機関から非難囂々の罵声を浴び、諸外国によって窮地に追いやられ、そして必ず負けると分かっている絶望的戦争に追い込まれるという悲惨な運命を強いられた。
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 戦前の日本は、国際社会から一等国として認められ信用と信頼を勝ち取りたいという一心から、如何なる国よりも国際法を厳格に遵守し、そして天皇の名誉と国益と自国民の生命財産を守るべく行動していた。
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 世界は、日本の敵であった。
 日本天皇と日本国には、助けてくれる友好国も、支援してくれる同盟国もない。
 日本軍は、世界を敵に回し、孤独に、一ヵ国のみで戦争をしていた。
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 世界を動かしているのは、西洋キリスト教文明が創りだした宗教的人種差別主義であり、日本を追い詰めていたのは黄禍論を根拠とする日本人排斥であった。
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 中華文明圏(中国や朝鮮)における日本排斥は、儒教による中華主義華夷秩序であった。
 華夷秩序とは、中国は上位・中央・中心核であり、朝鮮は中位・中間・中で、日本は下位・地方・外れであった。
 中国や朝鮮における反日意識はここから生まれている為に、日本が中国や朝鮮と対等関係にあると信じる・考えるを捨てない限り消えない。
 つまり、反日意識は、人の感情ではなく正義をうち立てるイデオロギーである。
 日本には、中国の中華主義や朝鮮の小中華主義・事大主義はない。
 日本には、哲学や思想はあっても、主義主張のイデオロギーは生まれなかった。
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 ベトナムインドネシアカンボジア、フィリピン、ビルマ。マレーシア、インド、バングラデシュ
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 日本民族日本人であれば、無条件で、天皇皇后両陛下、皇室に対して涙を流しながら「万歳」を三唱する。
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 歴代天皇は、戦争被災者、戦争捕虜、敵軍兵士捕虜の保護・治療・看護を求めていた。
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 いい日本人が2割、悪い日本人が3割、いい事もしなければ悪い事もしない無関心・無興味の日本人が5割。
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 日本には、祈り拝み崇拝する醒めた宗教はあったが、恩寵や奇跡を信じ命を捨ててまで守る信仰の宗教はなかった。
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 日本には、哲学や思想はあっても主義主張のイデオロギーはなかった。
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 現代の日本人と昔の日本人とは別人的な日本人である。
 人道貢献や平和貢献など世界貢献をしたのは、昔の日本人であって現代の日本人ではない。
 昭和天皇A級戦犯達を否定する反天皇反日的日本人には、自慢できる自己犠牲的な世界貢献はない。
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 日本や諸外国の歴史教育は、軍国日本が行った人道貢献や平和貢献を認めず、歴史の闇に葬り、自己犠牲で行動した勇気ある日本人を軍国主義者・ファシスト民族主義者そして戦争犯罪者として人としての人権や人格を完全否定し廃棄している。
 その象徴が、靖国神社問題である。
 靖国神社を否定・批判する現代日本人には、歴史的な人道貢献や平和貢献は無関係である。
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 日本軍は旭日旗の下で、歴史的な平和貢献や人道貢献を行われていた。
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 日本には、天皇による「菊の御威光」、勝利者による「政治権力」、死生を司る「宗教権威」の三者が別個の存在し、三者が三竦(すく)みとして均衡を保ち、国家と社会そして日常生活に安定・安全・安心をもたらしていた。
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 天皇の人道貢献は、天皇神話に基づく八紘一宇、皇道、御稜威、大御心での行為であって、普遍宗教の奉仕の精神・ボランティアや哲学・思想・主義主張の倫理ではなかった。
 「見捨てられない」という、理屈抜き、金銭度外視、損得抜き、利害抜きの、已むに已まれず行う行為である。
 つまり「もののあわれ」ある。
 日本は、ローカルであってグローバルではない。
 つまり、日本は地方であり田舎であり辺境であり、世界の果て、大地のヘリ、キワ、終わる所、陸と海の渚である。
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 日本が、気を許してはならない相手は中国共産党であり、警戒すべきは中国軍(人民解放軍)である。
 日本民族日本人は、国内外の敵から天皇・皇族・皇室を守らなければならない。
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 2019年7月4日 msnニュース NEWSポストセブン「天皇皇后両陛下と謁見したい各国首脳続々、紛争回避の効果も
 © SHOGAKUKAN Inc. 提供 にこやかに微笑まれる両陛下(写真・JMPA)
 淡い若草色の生地に、白や橙、桃色の花が咲いた着物に身を包まれた雅子さま(55才)。5月のトランプ米大統領夫妻、6月のマクロン仏大統領夫妻を迎えられた時は、キャリアウーマンを彷彿とさせるスーツ姿だったので、7月1日、皇居・宮殿(東京・千代田区)にトルコのエルドアン大統領夫妻を迎えられた雅子さまの和装に、驚いた人も多いのではないだろうか。
エルドアン大統領はイスラム主義を大切にする立場です。エミネ夫人は、いつもイスラム伝統のヘッドスカーフを被っています。
 雅子さまも、日本の伝統的な装いである着物を着られていました。元外交官であり、中東情勢に明るいとされる雅子さまらしい、おもてなしの工夫だったようにも感じられました」(官邸関係者)
 5月、令和初の国賓としてトランプ夫妻を接遇された際、流暢な英語でコミュニケーションをとられた天皇皇后両陛下のお姿は記憶に新しい。海外メディアもこぞって、雅子さまが名門米ハーバード大学を優秀な成績で卒業され、外務省で活躍されたキャリアウーマンであったことを報じた。それからというもの、「天皇皇后両陛下に謁見したい」という各国首脳からの申し出が後を絶たないという。
 実際、6月27日にはマクロン大統領、7月1日にはエルドアン大統領、翌2日にはサウジアラビアムハンマド皇太子と会見し、来春には中国の習近平国家主席の接遇の調整が進んでいる。
 元宮内庁職員で皇室ジャーナリストの山下晋司さんは次のように言う。
「昨今のグローバル社会において、皇室の国際親善はますます重要度を増しています。象徴たるお立場の天皇陛下を中心とした皇室のご活動は、政治家とは違って“駆け引き”はありません。だからこそ、諸外国との関係が政治的に複雑化する国際社会の中にあっても、各国首脳と個人対個人の友人関係が築きやすいのです。各国首脳もそれがわかっているからこそ、両陛下との会見を望むのだと思います。そして、皇室がそうした国際親善を深めることで、日本国や日本国民の評価を高めることにも繋がります」
 ◆日本にとっても良い影響
 たとえば、今回のトルコも複雑な国際情勢の中にある。2017年、アメリ総領事館に勤務する職員を、政府転覆の疑いでトルコ側が逮捕したことなどで、アメリカとの関係が悪化。また、少数民族ウイグル族に対する人権侵害問題を巡って、中国との関係も穏やかではない。米中という二大国家との“衝突”が危惧されている。
「屈指の親日国として知られるトルコとしては、関係が悪化している米中と親密な日本に“緩衝材”になってもらいたいという希望があるのでしょう。とはいえ、安倍首相など有力政治家と関係を強化すれば、そこに政治的な思惑や駆け引きが発生しかねない。
 そこで、まずは日本の皇室との関係を深めることで、両国の距離を縮めたいという狙いがあるのではないでしょうか」(政治ジャーナリスト)
 今回の会見では、陛下が2009年、皇太子時代にトルコを訪問されたことにも話が及び、エルドアン大統領は「次はぜひ両陛下でトルコをご訪問いただきたい」と述べたという。
 国際情勢には対立や紛争の火種が多いが、日本の皇室の国際親善には、それを穏やかにしたり、防いだりする力があるということだ。
雅子さまが外交官ご出身であり、各国情勢に通じられていることは世界的に話題になっているので、各国の首脳たちだけでなく日本政府としても国際親善の場でのご活躍に大きな期待を寄せています。特に、トランプ夫妻の接遇が大成功して以来、各国からの多くの申し出を容認し始めているそうです。雅子さまの父・小和田恆(ひさし)さんが、オランダ・ハーグの国際司法裁判所の裁判所長を務めたことのある、世界的に著名な外交官だということも大きいでしょう」(前出・政治ジャーナリスト)
 雅子さまが国際的に活躍されることは、もちろん日本にとってもいい影響がある。
皇后陛下が外国の元首夫妻に対して堂々と対応されるお姿に、誇らしく思っている国民は多いでしょう。特に、令和の時代の働く日本人女性にとって、尊敬の対象であり、励まされるご存在になるのではないでしょうか。国際親善で本領を発揮され、自信を積み重ねることで、国内のご公務や宮中祭祀などにも繋がっていくと思います」(前出・山下さん)
 皇室の国際親善は、雅子さまによって、新しいステージに入っているようだ。
 ※女性セブン2019年7月18日号」
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 戦前の日本は、台湾、朝鮮、中国で疫病撲滅、食糧増産、生活改善、近代医学と公衆衛生の普及に国費を投じて取り組んでいたが、台湾人は感謝したが、漢族中国人と朝鮮人は憎悪をたぎらせ敵意を剥き出しにし日本人を襲ていた。
 中国人は日本人を虐殺し、朝鮮人昭和天皇や皇族を惨殺しようとした。
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 日本は、普遍宗教のキリスト教や人民の共産主義マルクス主義)を排除し、正統派中華儒教を歪曲・改竄して受け入れた。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、無節操に乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種民族である。
 日本は、仏が神を従える仏教国である。
 日本の、儒教は正統な中華儒教ではなく異端の日本儒教であり、仏教は正統な大陸仏教ではなく異端の島仏教である。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、庶民(百姓や町人)であって武士・サムライではなかった。
 よって、日本の風土には武士道は存在しない。
 武士が庶民(百姓や町人)になり、庶民(百姓や町人)が大金を出して武士になった。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人、琉球人、アイヌ人の共通の祖先は、縄文人である。
 縄文人の祖先は、南方系海洋民(釣り鉤文化)、揚子江流域民(長江文明)、北方山野民(縫い針文化)、西方の草原の民(黄河文明)の混血である。
 縄文人は、日本列島を中心に、南は沖縄、北は北方領土4島、千島列島、南部樺太、西は朝鮮半島南部に広く住み、小さな舟で東シナ海日本海を主要航路として往来していた。
 後に、揚子江流域にいた弥生系住民が、黄河流域の漢族に攻められ、山東半島朝鮮半島南部を経て日本に逃げてきた。
 日本には、中国大陸や朝鮮半島での政権闘争や戦争で敗れた敗者・弱者が難民として逃げて来た。
 弥生系渡来人が増える事で、日本で弥生の大乱が起き殺し合いが繰り広げられた。
 地政学的宿命として、日本の平和、安定と発展は、は中国大陸や朝鮮半島と縁を切る事でしか得られない。
   ・   ・   ・   
 南方系海洋民の「貝文化・貝殻文化」は、縄文人の移動によって、沖縄から日本列島に渡り、北方領土4島・千島列島や朝鮮半島南部に広がっていった。
   ・   ・   ・   
 漢族系中国人や朝鮮人は、縄文人系海洋民の日本民族日本人・琉球人・アイヌ人とは違う別系統のアジア人である。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、弱者であり、ひ弱で、脆弱、気弱であり、勇ましくもないし、尚武の民ではなかった。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、敵に打ち勝った勝者・強者ではなく、敵に敗れて逃げ出した敗者・弱者である。
 敗者・弱者であるがゆえに、辛抱・忍耐・我慢を口にし、根性や精神主義に頼り声高に叫ぶ。
   ・   ・   ・   
 熱烈な勤皇派・尊皇派・天皇主義者は、下級武士、貧しい庶民(百姓や町人)、身分卑しい芸能の民(歌舞伎役者など)、賤民(非人・穢多・乞食など)、部落民(山の民・川の民・海の民など)、身体障害者や修験者などの異能の民・異形の民であった。
 下層民こそ、不利を承知で天皇・皇族に味方し、命を捨てても皇室を守った。
 それが、天皇を中心とした国體の真の姿、実態である。
 それ故に、天皇は祭祀王として庶民・万人の幸せと息災を祈るのである。
   ・   ・   ・    
 日本の庶民は、世界の人民・大衆・民衆とは違う。
   ・   ・   ・   
 グローバル化する現代日本から、ローカルな古き良き昔の日本が消え始めている。
 それが、靖国神社問題であり、歴史教育問題であり、皇族のアイドル化と皇室の軽視である。
 その傾向は、高学歴出身知的エリートに濃い。
 その証拠が、政治家や官僚や学者の発言であり、新聞、雑誌、書籍、テレビ、ラジオ、インターネットなどでの報道である。
 特に、一部のメディアによる皇室報道は悪意に満ちている。
   ・   ・   ・   
 昭和天皇東条英機松岡洋右板垣征四郎松井石根A級戦犯靖国神社の祭神)は、反ユダヤ派の人種差別主義者ではなく人種・民族の多様性を守り実践しようとした親ユダヤ派であった。
 アメリカ・ソ連などの連合軍=国連軍には、是が非でも、A級戦犯達をリンチ的縛り首で処刑し、昭和天皇を戦争責任と戦争犯罪で縛りつける必要があった。
 ポーランドユダヤ人難民を助けた日本人の多くは、殺された。
 神戸、大坂、横浜、東京そして敦賀の市民達は、浮浪者のようになって辿り着いたポーランドユダヤ人難民達を無償で助けたが、市民の多くは無差別縦断爆撃で生きたまま焼き殺された。
 世界は、日本の人道貢献を認めなず、日本人を殺す事で答えた。
 それは、現代日本人でも同様である。
   ・   ・   ・   
 日本陸軍の主流派(多数派)は親ポーランド派・反ソ連派で、親ドイツ派・親ナチ派・ヒトラー信奉者派は非主流派(少数派)である。
   ・   ・   ・   
 反天皇反日的日本人、護憲派日本人、人権派日本人、良心的日本人、反戦平和市民団体などの日本人は、国際的反日派勢力と繋がっている。
 それは、左翼・左派・ネットサハも右翼・右派・ネットウヨクも同様で、ある意味、同じ穴の狢である。
   ・   ・   ・   
 現代の日本史は、神話の物語の抹消であると同時に日本皇室史と日本民族史の否定である。
 日本の歴史は、敗戦後の占領期におけるキリスト教価値観の原罪史観と共産主義価値観の階級闘争史観などによる東京裁判史観、昭和55年以降の日本人極悪非道の凶悪犯史観による自虐史観で、悍ましい姿に変えられた。
 つまり、神話史観、皇国史観愛国心教育は、軍国主義民族主義の元凶として完全否定され、教育はおろか生活からも追放された。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、祖先崇拝の観念が強く、命を捨てても、祖先が信じものを信じ、祖先が守ったものを守り、祖先が残したものを子孫に伝えた。
 祖先あっての自分、それが家・家族・家庭を大事にする日本の世襲制である。
 日本民族日本人は、普遍宗教の、全知全能の絶対神が土塊やゴミを集めて自分に似せて人を創ったとか、人は生まれながらにして原罪を背負った罪人であるとか、が理解できなかった。
   ・   ・   ・   
 日本には奴隷制度はなかったが、日本民族日本人は奴隷として海外に売られていた。
 日本人を奴隷として売ったのは、同じ日本人である。
 奴隷を集めた方法は、足軽・雑兵による乱取りであった。
 武士は、何をしでかすか分からない百姓の足軽・雑兵を怖れ、庶民(百姓や町人)を信用していなかった。
 庶民は、合戦があると、山の上など見晴らしの大場に陣取り酒を飲み弁当を食べて観戦し、戦いが終われば戦場に降りて金目の物を死体から奪っていた。
 百姓は、落ち武者狩りを行っていた。
 日本には、戦争捕虜、敵軍兵士捕虜などいなかった。
   ・   ・   ・   
 西洋キリスト教文明から見れば、日本のキリスト教国化と日本人のキリスト教徒化は善意であり、その善意を踏みにじった日本と日本人は滅ぼすべき邪悪・悪魔であった。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、非白人異教徒の日本人をアフリカ人同様に奴隷として売って金を稼いでいた。
 バチカンは、キリスト教徒日本人を奴隷にする事を禁じたが、異教徒日本人を奴隷にする事は黙認した。
 敬虔な宣教師らは、奴隷として売られる哀れな日本人を救う為に洗礼を与えて改宗させ、日本をキリスト教国にする為に布教活動を行った。
 キリスト教会は、宗教弾圧で処刑されたキリシタン福者と讃え、キリスト教禁教やキリシタンを弾圧した日本と日本人、そして異教徒の祭祀王である天皇を非難している。
 キリスト教の「隣人愛」とは、キリシタン同士であってキリシタンでない者は排除されていた。
   ・   ・   ・   
 キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義者テロリストは、昭和天皇と皇族を殺すべくつけ狙っていた。
 昭和天皇は、歴代天皇の中で日本人や外国人から幾度も命を狙われていた。
   ・   ・   ・    
 なぜ、日本軍は「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」を『戦陣訓』として兵士に強制したのか、それは日清戦争日中戦争での中国人兵士の捕虜に対する猟奇的虐殺、と、日本の合戦史における百姓による「落ち武者狩り」と足軽・雑兵による「乱取り」である。
   ・   ・   ・   
 日本を軍事占領したアメリカ、GHQは、占領政策を滞りなく進める為に昭和天皇天皇制度を残して利用したが、将来的に天皇制度を廃絶し、天皇家・皇室を消滅させる為の方策を幾つも日本に仕掛けた。
 それが、日本国憲法と改正皇室典範であり、直宮以外の11宮家の皇籍剥奪、皇室財産の没収などであり、反天皇反日的日本人の育成である。
 これらの陰に、ソ連コミンテルン中国共産党・日本人共産主義者などの共産主義勢力がいた。
 国連=戦勝国は、反天皇反日として敵国条項を採択した。
   ・   ・   ・   
 反天皇反日的日本人は、天皇制度打倒、天皇追放、皇室廃絶の為に、歴代天皇が行った人道貢献を無意味・無価値として否定し捨てた。
   ・   ・   ・   
 昭和天皇は、明治天皇と同様に、平和を望み、戦争を回避する為に外交的解決を求めていた。
   ・   ・   ・   
 天皇には、万世一系の男系の皇族が、男性・女性に関係なく即位した。
   ・   ・   ・  
 天皇の正統性は、政府や議会が民主主義的手法で議論して決定した憲法でもなく法律でもない。
 日本神道・日本儒教・日本仏教によって、天皇の正統は守られている。
 天皇の神聖な菊の権威とは、俗世俗欲に塗れた陰険な政治権力や悍ましい宗教権威ではない。 
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 天皇家・皇室の血筋・血統は、日本の最高神である女性神天照大神の直系子孫である。
 天皇制度の皇統は、初代神武天皇の直系子孫である。
   ・   ・   ・   
 天皇の正統性とは、初代神武天皇からの即位番号の皇統ではなく、日本における最高神である女性神天照大神からの血筋・血統である。
 それ故に、天皇とは、特殊な血筋・血統による特別な家系のみが独占する。
   ・   ・   ・   
 皇統や血統・血筋の正統性は、日本民族が2000年以上にわたって日本民族によって信じ、守り、受け継いできた、伝統的な皇室神話・民族中心神話・天孫降臨神話によって証明されている。
 それは、伝統であり、文化・芸能であり、宗教であり、風習・習慣であり、日本国語であった。
 日本の民族主義を否定する事とは、民族所縁の全てを破壊し、日本民族を消滅・根絶やしにする事である。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、神の子孫ではなく、神によって創られた人間ではなく、神に愛された民族ではなく、自分の祖先を神として祀り崇める民族である。
 日本民族日本人にとって大事なのは、神でもなく、自分でもなく、祖先であり、家族であった。
 祖先あっての自分であって、自分あっての祖先ではない。
 其処に、先祖代々の意味がある。
   ・   ・   ・   
 日本の建国精神は、人為的作為的な近代的憲法や法律ではなく、縄文時代からの自然発生的な神話である。
   ・   ・   ・   
 弥生の大乱を終わらせ争いのない平和な世を築く為に、諸王・諸豪族達は話し合いでヤマト王権を作り、まとめ役としてヤマト大王・日本天皇を置いた。
 大王・天皇を巡った権力闘争を起こさない為に、正統性の為に神話を創り、神話に連なる特殊な血筋・血統の家系に大王・天皇を委託し、血の正統性を持たない他家はその位を望まない事をお互いに誓い合った。
 ヤマト大王・日本天皇とは、争いを起こさない為、争いがあっても早期に終結させる為、争いによる犠牲者をできるだけ少なくする為、その為に創られた存在である。
 ヤマト大王・日本天皇の存在ゆえに、日本では中国や朝鮮の様な悍ましい虐殺は起きなかった。
 それができるのは、万世一系男系天皇のみで女系天皇・女系宮家では不可能である。
 争いを治めたいと願った昔の日本人は、女系天皇・女系宮家は争いの元になるとして認めなかったが、男系の女性天皇は認めた。
   ・   ・   ・   
 天皇に求められた資質は、カリスマであってリーダーシップではなかった。
 誰も、天皇に政治・軍事・宗教など多方面での強力なリーダーシップを求めてはいなかったし、むしろない方が好ましいと信じていた。
 それ故に、天皇家・皇族・皇室は政治・軍事・宗教などの表舞台から排除されていた。
 天皇は、無私無欲で、他利他愛である事が求められた。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、自分たちが欲得・金銭欲で動きやすい事を知っていた為に、政治・外交・司法から宗教に至るまでを自分が動かしても、その根本の大権は天皇に預けていた。
 それ故に、天皇に軍事の統帥権も預けていた。
 そして、全ての大権を持つ天皇は神聖不可侵で守られていた。
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 最終決定権者の天皇とは、最終判断を委ねるという「下駄を預かる」的な下駄であり、虐殺者・独裁者・暴君を出さない為の「出る杭は叩かれる」的な蓋(ふた)である。
 神社の、ご朱印、お守り、護符、おみくじ、破魔矢、縁起物などである。
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 日本天皇は、血筋・血統から女性神天照大神の子孫であっても、生き神様でもなく、現人神でもない。
 日本天皇は、神の末裔である事を認めたが、自分は神であると宣言した事はない。
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 祖先神・氏神の人神崇拝とは、遺伝子・DNA、命・魂・霊魂、血・身体、心・精神、志・気概を祖先から受け継ぎ子孫に伝える事である。
 日本における永遠の命とは、自分だけの命ではなく、家族における命である。
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 日本人には、死後、自分だけが天国・神の王国で永遠の命を与えられて永遠に生きると言う事が理解できなかった。
 「自分だけが救われも祖先は救われない」という教えは、信じられないし、忌避すべき邪教であった。
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 天皇が定める元号とは、国内外に対する独立宣言、建国精神、国家方針である。
 一世一元制における元号とは、崩御された天皇の諡(おくりな)・諱(いみな)・諡号(しごう)である。
 睦仁(むつひと)天皇明治天皇
 嘉仁(よしひと)天皇大正天皇
 裕仁(ひろひと)天皇昭和天皇
 元号を否定するという事は、崩御された天皇に死後贈られる諡・諱・諡号を廃止する事である。
 つまり、天皇の尊号ではなく、即位する前の親王名で葬り、歴史書天皇の尊号を記載しないと言う事である。
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 日本が独立を宣言した相手は、中華帝国である
 日本天皇が独自に元号を制定したのは、中華皇帝の元号とは違う時間軸で自立する事を宣言する為であった。
 日本天皇元号に、統治理念と治世方針を祈願して命名し、発布した。
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🕯125)─1─民族の文化度は個性豊かな悪魔・鬼・化け物の数でわかる。~No.268No.269 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 怪しきものは妖しきものである。
   ・   ・   ・   
 八百万の神々と群れなす数多の物の怪・妖怪・化け物・鬼。
 ダメな鬼:泣き虫鬼。臆病鬼。
 悪い神様:疫病神。貧乏神。死神。
 善い妖怪:アマビエ。山童(やまわらわ)。
 仏:薬師如来
   ・   ・   ・   
 2021年8月号 Voice「言葉のリハビリテーション  森田真生
 『正しさ』と『精緻』
 最近、我が家の次男(もうすぐ2歳)は、河童の絵本に夢中だ。子ども向けの絵本とはいえ、大人が読んでもちょっと怖くなるような内容である。息子は『おわい(怖い)』とびくびくしながら、それでも翌日にはまた『あっぱ、たい!(河童の絵本読みたい)』とせがんでくるのである。
 子どもが、お化けや妖怪が出てくる話を好むのはなぜだろうか。生き物にとって『怖さ』は、できれば避けたい感情ではないのか。だが、子どもたちを見ていると、明らかに彼らは、怖さを求めているのだ。
 自力で見渡せる世界の外から、何ものかが侵入してくる。その不気味な気配を感知すつとき、人は(そしておそらく人以外の多くの生き物もまた)『怖い』と感じる。怖さは、未知の世界が開ける可能性と不可分なのである。だからこそ、旺盛な好奇心が芽生(めば)える幼少の時期に、子どもたちは恐ろしさを求めてくるのではないか。
 絶滅に瀕した『化け物』
 寺田寅彦の『化け物の進化』というエッセイがある。このなかで寺田は、人間がこれまで発明し創作した作品のなかでも、『化け物』は『最もすぐれた傑作』ではないかと指摘している。昔の人は、自然界の不思議で、不可解な現象を、化け物の所業として説明しようとしてきた。化け物とは、人が不思議な現象を目(ま)の当たりにしたとき、これを説明するため編(あ)み出してきた『仮説』なのである。
 子どもはこの不思議さを、不思議さとして素直に驚く心を持つ。彼らは、自分にとってまだ意味のない世界に、認識を拡げていくことに貪欲である。だからこそお化けや妖怪を恐れながらも、彼らはいつも『怖い』話を求めてくるのではないか。不思議さを、不思議だと驚く柔軟な心こそが、化け物を育(はぐく)む土壌なのかもしれない。
 現代は化け物が絶滅に瀕(ひん)している。それは、『科学というものの真価が誤解され、買いかぶられた結果』だと寺田は語る。科学的に説明されただけで、すべてを見晴らしたような気になる。自分は全貌を見渡していると思い込んでしまう。結果、化け物が住む場所はなくなっていくのだ。
 パンデミックの到来とともに、ウイルスを『正しく恐れよ』よいうかけ声を、しばしば耳にするようになった。そのたびに僕は、言葉の居心地(いごこち)の悪さ、落ち着かない気持ちになった。考えてみれば、この奇妙なかけ声もまた、『化け物』の気配をかき消そうとする必死の叫びだったのかもしれないと思う。
 そもそも、正しさと恐怖は両立し得るのだろうか。
 いま手許(てもと)にある『大辞林』を開いてみると、『正しさ』とは、『物事のあるべき姿を考え、そこに合致しているさま』であると書かれている。だが、『物事のあるべき姿』を規定する尺度そのものが揺さぶられるからこそ、人は『怖い』と感じるのではないか。正しさの基準を決定する側に、自分がもはや立ち続けられないという発見こそが、『怖れ』という感情の根っこではないのか。とすれば、『正しく恐れる』というのは語義の矛盾ではないか。怖れから目を背けようとして、恐怖にすら正しさを求めたところで、それがもたらす安心は束の間のものでしかない。
 人間の傲慢さが招いた危機
 ウイルスとは、核酸とそれを覆(おお)うタンパク質や脂質からなる生物とも無生物ともつかない微小な構造体である。ウイルスは化け物でもなければ妖怪でもない。現代の常識人ならそう考えて当然である。しかしこの粒子(りゅうし)が、凄まじい速度で変異を繰り返しながら、宿主(しゅくしゅ)である人間の社会をかきまわしている。ウイルスが分かりきった、平凡なものでしかないのだとしたら、なぜ私たちはこの粒子に、これほどまでに翻弄されているのだろうか。
 『化け物がないと思うのはあえってほんとうの迷信である』と寺田は先にエッセイで綴(つづ)っている。人間の想像力が生み出す様々な化け物たちは、日常の世界の彼方に、常識の尺度では計り知れない世界があることを告知してくれる。化け物などいないと断定することは逆に、自分に見えているものがすべてだと断じる傲慢な姿勢の現れではないのか。
 ウイルスを科学的に見ることと、化け物の気配に慄(おのの)くこととは、必ずしも矛盾しないはずだ。むしろ、化け物に『ゾッとする』ことを知らない人間には、『まずありたいした仕事はできそうにも思われない』とさえ寺田は言うのだ。
 宇宙は不可解と怪異(かいい)に満ちた場所だ。この不可解と怪異に感覚を閉ざし、自分こそは世界の全体を見晴らせるのだと、近代の人間は自力を過信してきた。その傲慢さが、みずから招いた危機にいま、私たちは苦しめられているのではないのか。
 化け物を『正しく』恐れることなどできない。化け物は怖い。しかしその怖さと正面から向き合うことは、新たな世界の可能性に目を見開くことである。自分の見えている外側にまで、世界が広がっていることを受け入れることである。 正しく恐れるのではなく、ただ怖れること。それは、自分よりも大きなものがあると認めることである。自分の弱さを受け入れることである。
 『2ひく4』の答えは?
 正しさを手放すことは、すべてを相対化することではない。全貌が見渡せない不気味な闇のなかにあっても、人は、これまでより『精緻(せいち)』な認識を求めることができる。
 『正しさ』が強い主体の語彙(ごい)だとすれば、『精緻さ(accuracy)』は弱い主体の武器だ。『正しさ』が、身動きの取れない固着(こちゃく)した状態に人間を追い込むとすれば、『精緻さ』を求める意思は動きそのものである。
 精緻な認識を求めていく動きは、しばしば既存の『正しさ』の概念を打ち砕いてきた。そもそも学問の歴史を駆動してきたのは、既存の正しさへの執着ではなく、さらなる精緻さへの希求ではなかったか。
数学の歴史から1つの例を挙げてみよう。
 かつて、『2ひく4』の答えは『0』が『正解』であった。2個のリンゴから4個のリンゴを取り除いたところで、何もなくなるだけである。『2−4=0』となるのは、ほとんど自明の真理であった。
 ところが、近代のヨーロッパで数式を表すための記号が定着していくに従い、数だけでなく、たし算やひき算などの演算についての理解が精緻に磨(みが)かれていった。『ひく』ことと『たす』ことはたがいに打ち消し合う操作ではないのか。このような観点に立って見たとき、『2−4=0』という式が、にわかに不具合を来(きた)し始めた。
 実際、『2−4=0』だとすると、『(2−4)+4=0』となる。2から4を引いたあとにまた4をたしたとい、もとの2にもどらないのだ。ひき算とたし算がたがいに打ち消し合うという関係が、ここで崩れてしまうのである。
 現在では『2−4=‐2』とするのが常識とされている。それは『数直線』というアイディアの発明によって、数が位置を表すという解釈が誕生し、これによって『2−4=‐2』という式が、十分に意味を持つようになったからである(このあたりの経緯については拙著『計算する生命』〈新潮社〉に詳しく書いた)。だが、数がものの個数を表すという解釈のもとでは、『2−4=0』という数式に、かつてと同じように意味がある。
 どちらが『正しい』かということを問うても仕方ないのだ。肝心なことは、数、演算についての理解が、歴史とともに、より精緻なものへと磨かれてきたことである。
 『正しい』から『精緻』へ
 感染症の専門家から見れば、マスクをすることは正しいことかもしれない。だが、表情を交(か)わすことができない子どもたちの心身の発達への影響を考えるとどうだろうか?大量のゴミが海に廃棄されることによる環境破壊についてはどう考えればいいか?マスクをすることによる帰結の精緻に把握していこうとすると、ただ1つの尺度で『正しい』を論じることなど不可能であることに気づく。
 私たちは科学や技術の力を借りて、一つ一つの現象と帰結について、いまだかつてなく精緻に観察できるようになった。その結果、1つの限定された尺度のもとでだけ正しさを論じようとする姿勢は、様々な場面で現実味を失い始めている。新型コロナウイルスを除去するための過剰な消毒は、同時にまた、人間のからだを守る微生物叢(そう)をも破壊していくだろう。食糧危機から人類を救うはずの農薬や化学肥料の過剰な使用もまた、海洋を汚染し、周囲の生態系を攪乱(かくらん)していくだろう。
 消毒が正しいか正しくないか。化学肥料の使用が正しいか正しくないか。正否いずれかの立場に立ち、たがいの正しさを競い合わせても道は開けない。それでもなお、消毒や化学肥料がもたらす環境への影響について、より精緻に知ろうとする努力を重ねていくことはできる。1つの正しい結論に至ることができないとしても、より精緻な現状の認識は、新たな行動の指針となるだろう。
 何が正しいかと結論を出してからでなくても、生き物は動き続けることができる。肝心なことは、正しさを掲げることにより、精緻さを求め続けることではないのか。だから、『正しい』という言葉が挫折しているのを感じるときに、私はなるべくこれを『精緻』と言い換えてみることにしている。
 『これが正しい』と主張しようとする気持ちを抑え、どうすればいまよりさらに精緻な認識ができるかと自問している。正しさから精緻へ。これもまた自分なりの『言葉のリハビリテーション』なのである。」
   ・   ・   ・   
怪異考/化物の進化 - 寺田寅彦随筆選集 (中公文庫)
少年少女版 日本妖怪図鑑
図解大事典 日本の妖怪




 日本民族が生み出した古典的伝統的な物の怪・妖怪・化け物・鬼は、縄文人の自然観・宗教観・死生観から生み出され、正統男系父系天皇の血の神話が命を与え存在を許してきた。
   ・   ・   ・   
 日本における物の怪・妖怪・化け物・鬼とは、偏見と差別の対象であった、血と死を生業としてもなお生きている生命力や活力が旺盛な異能者・異形者・異常者・まれびと(海を渡って来た異邦人=外国人)である賤民・部落民・芸能の民の事である。
   ・   ・   ・   
 日本伝統文化は、目に見えない化け物・物の怪・妖怪・鬼に、おどろおどろしい名前と姿を与え、忌まわしい神話・物語・縁起・出自を創り、怖ろしい民話・昔話・言い伝え・伝承として国土を広く浅く覆い、逃げ出したいほどの漆黒の闇・暗黒世界を日本国と日本民族の足元に置いた。
 それは、祖先からの呪いである。
   ・   ・   ・   
 日本民族と目に見えない化け物・物の怪・妖怪・鬼とは相互補完共生であった。
   ・   ・   ・   
 世界の悪魔・死霊・ゾンビ・モンスターと日本の鬼・化け物・妖怪・亡霊とは違う。
   ・   ・   ・   
 目に見えない化け物・物の怪・妖怪・鬼は、民族祖先からの長期的願望と全般意志であり、伝統文化の多角的な多種・多様・多元、つまり社会を複雑怪奇し、格差を縮小させる存在であった。 現代日本が求める科学万能社会とは、民族が受け継いできたあやふや・曖昧を消滅させ、短期的願望と一般意志による社会の縮退、つまり一様・一元・画一で単一明快にし格差を拡大かさせる事である。
   ・   ・   ・   
 目に見えない化け物・物の怪・妖怪・鬼は狭間に蠢いている、神域と俗世の狭間、生と死の狭間、光と影の狭間、明と暗との狭間、内と外の狭間など多くの狭間に潜んでいる。
   ・   ・   ・   
 世界の常識は日本では通用せず、日本の常識は世界の非常識である。
 世界の常識とは、キリスト教儒教マルクス主義共産主義)である。
   ・   ・   ・   
 非科学的非現実的非論理的な有象無象の化け物・物の怪・妖怪・鬼など得体の知れない何ものかを意識して怖れる「心の弱さ」があったからこそ、明治の近代化で、日本民族の古典的伝統的な「多様性」が西洋近代の科学・物・知識を見える化し定着させる為に近代用語としての和製漢字を生み出した。
 つまり、日本文化の「換骨奪胎」や「変換力」は見えない化け物・物の怪・妖怪・鬼が日本民族に与えている。
   ・   ・   ・   
 近世の欧州と日本の江戸で、高度な数学が生まれ発達し近代への胎動となった。
 世界文明は、高レベルの数学・算数が発達する社会で生まれる。
 数学・算数は、現象ー解明の方程式・数式・演算ー結果の流動であり、定着・固定をもたらす結果は新たな別の現象を生みだして止まる事がない。
 日本の近代化は、子供でも理解できる日本独自の高度な和算で成功し、そこには目に見えない化け物・物の怪・妖怪・鬼が潜み関わっていた。
   ・   ・   ・   
 日本民族の死後信仰とは、神の天国・仏の極楽信仰ではなく、閻魔・鬼の地獄信仰であった。
 江戸時代は、ブラック社会であったが、人々は陽気で、よく笑い、よく泣き、そして喧嘩していた。
 喧嘩と火事は江戸の華であった。
 江戸時代の人々は、死と隣り合わせに生活し、死と共に生きていた。
   ・   ・   ・   
 日本全国の、温泉地・観光地には地獄巡りという名所があり、仏教寺院には地獄絵図が飾ってあった。
 庶民は、各地に地獄の閻魔大王や鬼を祀る閻魔堂が建てて信仰していた。
   ・   ・   ・   
 ゆるキャラは、神話・物語・寓話・縁起など語る所は何もなく、単なる人寄せ金儲け目的で一時持て囃されるだけのマスコットであるあゆえに、次世代、後世に残る事はない。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、平安時代までは死後の世界を持っていなかったが、日本仏教で地獄と極楽という死後の世界を手に入れたが、日本民族の関心は極楽ではなく地獄で、世にも怖ろしい地獄を想像する事で文化度を高め、精神力を強靭にし、智慧を身につけ、才能・能力を開花させた。
 日本民族は、生きる勇気を、如何なる苦痛もなく救いのある幸せな天国・神の国ではなく、死後に落ちるであろうおどろおどろしく苦痛に満ちた救いのない地獄から得ていた。
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 現代日本は、反宗教無神論の科学至上主義者(マルクス主義者)によって、無味無臭、無色透明で、微生物・細菌・ウイルスなどの病原体生物や命と健康を脅かす有害物質が完全濾過され、同時に栄養価のない不自然社会に改造されつつある。
 言い方を換えれば、無菌室・純粋培養の社会である。
   ・   ・   ・   
 現代に日本と昔の日本は、見た目は同じ日本だが中身は全然違う日本である。
 よって、昔の日本の好例で現代の日本を語っても説明しても意味がない。
 現代日本には3つの毒が蔓延している。
 3つの毒とは、日本の近代化と共に取り込まれた儒教原理主義朱子学キリスト教原理主義、敗戦後に浸透したマルクス主義原理主義共産主義である。
   ・   ・   ・   
 日本民族は恐がりの臆病で、その精神的弱さは日本人女性より日本人男性により強い。
 そして、日本人女性は、日本人男性よりも度胸があり頭が良く我慢強く働き者で、日本人男性との口喧嘩で言い負かしていた。
 日本のアニメや漫画で、男の子はスポーツやロボットなど肉体的な体育会系根性物を好み、女の子は恋愛とホラーなど智能的な文化系心理物を好む。
 学校の成績でも、平均すれば日本人男性より日本人女性の方が優秀である。
 遊園地の絶叫マシンであるジェットコースターや恐怖の館であるお化け屋敷を好んで行きたがるのは、女の子であって男の子ではない。
 そして、長生きするのは女性であって男性ではない。
 日本人男性に日本人女性に対する性差別の大本はここにある。
 つまり、日本人男性は口先だけで実際は日本人女性よりも劣っている、という事である。
 日本人男性は、日本人女性の賢い内助の功を得れば偉業を達成できるが、なければ失敗して惨めに終わる。
 日本人男性は、見えない物を怖れるが、その見えない物に憧れ、見えない物が欲しくなり現実に表す事に夢中になる、想像と創作を駆使する夢追い人である。
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 日本民族は、血と死を穢れとして怖れ、血と死を生業として生きている人々を異能力者・異常者として嫌い、彼らを差別で賤民・部落民と偏見で見下し不快で誰も住まない最悪な生活環境地域へと追いやった。
 故に、日本の賤民・部落民は、西洋や中華(中国・朝鮮)など世界で差別され搾取され虐げられた哀れな人民・下層民・奴隷とは違って、人差別でも身分差別でもなく職業差別であった。
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 日本民族の死と直結した地獄を意識した生き方は、明治の近代化まで日本を暗く陰湿・陰険に完全支配し、1980年頃には生を絶対とする天国意識が強くなってはほぼ消えた。
 新しい日本人の実情が明らかになったのが、2020年の新型コロナウイルス蔓延である。
 日本の伝統的な物の怪・妖怪・化け物・鬼を神や仏同様に殺しているのは、反天皇反日本と反宗教無神論で科学万能主義のマルクス主義共産主義である。
   ・   ・   ・   
 以前、阿蘇山噴火で某女優が「火の神様、お鎮まり下さい」とSNSに書き込んだら、「噴火は自然科学で宗教ではない」との激しい非難を浴び謝罪をさせられた。
 これは、某女優が正しく、科学を持ち出して批判する者が間違っている。
 これは、日本人の劣化、退化である。
   ・   ・   ・   
 世界に通用する現代教育を子供たちに押し付ける親や教育者、政治家・官僚は、子供達の将来への夢や希望を否定し今この時の好奇心や感受性を潰し、言われた事だけを素直に聞いて言われたままに行動する便利な量産型の良い子を作ろうとしている。
   ・   ・   ・   

💖16)─1─渋沢栄一とアルメニア孤児・難民義援金。世界最古の国際人道基金「昭憲皇太后基金」。大正11(1922)年。〜No.62No.63No.64 

  ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 昔の金持ち・お大尽さんと現代の富裕層・資産家とは別人のうように違い、金の貯め方や使い方も全然違う。
   ・   ・   ・   
 日本は、現代日本とは違い、古代奈良・ヤマト王権時代から極東アジアにおける唯一の難民救済・避難民保護を行った人道貢献大国であった。
   ・   ・   ・    
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 ダイアナ・アプカーの日本における人道的活動 : アルメニア人大虐殺(1915-23)を逃れた避難民の救済
 ダイアナ・アプカーの日本における人道的活動
 ―アルメニア人大虐殺(1915-23)を逃れた避難民の救済―
    メスロピャン メリネ
 要 旨
 ダイアナ・アプカー(1859-1937)はアルメニア第一共和国(1918-20)の時代にオスマン帝国によるアルメニア人大虐殺(1915-23)を逃れて日本に渡航したアルメニア人難民救済に努めた。その活動は、彼女の人道的活動の中で重要な一部を占める。これまで彼女は女性初の外交官と考えられてきたが、本稿では、日本政府には正式に承認されていなかった事実及びその詳細を解明した。また、ダイアナが行ったアルメニア人避難民の救済方法は、これまでビザ発給手続きの補助や経済的援助などの事実が述べられるに留まっていたが、本稿では、宿泊、経済的、輸送の問題の解決方法及び救済方法の詳細を解明した。同時に、日本とアルメニアの国際関係の一端も明らかになった。
 【キーワード:ダイアナ・アプカー/世界初女性外交官/アルメニア人虐殺/駐日アルメニア名誉領事/難民救済】
   ・   ・   ・   
 戦前の近代的天皇制度国家日本・近代国家日本・軍国日本は、アジアで唯一の人道支援・人道貢献を実行した稀有な国家であり、その自己犠牲的利他行為は西洋をはじめとする全ての世界でも類例がないほどであった。
 日本民族が行った歴史的な人道支援・人道貢献は、民族宗教と伝統文化である皇室の「八紘一宇の志」と天皇の「御稜威・大御心・御意思」によるものである。
   ・   ・   ・   
 皇国史観が理想とした陰徳天皇は、第16代仁徳天皇、第45代聖武天皇光明皇后、第119代光格天皇、第122代明治天皇昭憲皇太后大正天皇貞明皇后昭和天皇香淳皇后
   ・   ・   ・   
 世界最古の国際人道基金昭憲皇太后基金」:大正10(1921)年。
 天皇家・皇室は、私有財産を自分の私欲で浪費せず、無私無欲として、日本国、日本民族・日本国民だけではなく世界・他国・他国民の為にも有効に使っていた。
 日本赤十字社
 100年以上の歴史を持つ「昭憲皇太后基金」の配分決定 ~約4,400万円を14カ国に~
 2019年4月11日
 ~世界で最も古い開発協力基金~ 世界170カ国、累計額約15億8,400万円
 赤十字国際委員会国際赤十字・赤新月社連盟で構成される昭憲皇太后基金合同管理委員会は、今年度の同基金の配分先を決定しました。14カ国の赤十字赤新月社に対し、総額約4,400万円(39万5,782スイスフラン)が配分されます。これまでの配分は大正10年の第1回から今回(第98回)までで、累計約15億8,400万円、配分先は170カ国の国と地域にのぼります。
◆今日の開発援助の先駆けとなった昭憲皇太后基金
 「昭憲皇太后基金」は1912年(明治45年)の赤十字国際会議において、赤十字の平時活動の奨励のために昭憲皇太后明治天皇の皇后)が国際赤十字にご寄付された10万円(現在の3億5千万円相当)を基に創設されました。
 世界で武力衝突が起こり、のちに第一次世界大戦が起こるこの時代において、多くの国の赤十字社が戦時救護の対応に追われている中、地震や台風、火災、噴火等の大きな災害等に備えるための国際基金の設立は画期的なことであったと言われています。
 同基金は、皇室をはじめとする日本からの寄付金によって成り立っています。国際赤十字の中に設けられた合同管理委員会によって運営され、原資を切り崩すことなく、そこから得られる利子が世界の赤十字社の活動に配分されます。毎年、昭憲皇太后のご命日にあたる4月11日に配分されています。
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 2019年10月5日 東京新聞渋沢栄一、難民救済の祖 アルメニア孤児に義援金
 迫害を受けシリア・アレッポの難民施設に保護された孤児たち=アルメニア・ジェノサイド博物館のホームページから
 二〇二四年度から新一万円札の「顔」となる実業家渋沢栄一は、日本で国際難民保護に取り組んだ最初の人物だった-。百年前、オスマン帝国(現在のトルコ)から迫害された中近東のアルメニア人孤児を救おうと義援金を市民から募り、九千ドル(現在の価値で約一千万円)を送金したという。近年、こうした史実が発掘され、日本に先駆け現地で顕彰が始まった。 (小柳悠志)
 「私の家系は海外の篤志家によって救われた。その一人が渋沢だ」。駐日アルメニア大使のグラント・ポゴシャン氏(66)は祖父らが受けた恩義を明かした。
 祖父が十二歳だった一九一五年、イスラム教のオスマン帝国第一次大戦の混乱の中、領内でキリスト教徒であるアルメニア人の排斥を始めた。祖父は母に手を引かれ、弟らと着の身着のまま逃げ出す。東へ歩くこと六百キロ余。オスマンの手が及ばないロシア領に着くと、母は力尽きた。
 親を失った祖父は働き始め、弟は孤児院に預けられた。飢餓と社会の混乱から孤児を救ったのは日米などからの義援金だった。
 ソ連から独立する九一年まで東側陣営に属し、日本とは縁が薄かったアルメニア。ここ数年、両国の関係の研究が進み、渋沢の難民救済の全容が分かってきた。昨年には現地で「渋沢栄一記念財団」の理事が講演、日本でも来年、渋沢の支援を描いた書籍が出版される見通し。ポゴシャン大使は「新一万円札発行は渋沢の人道的行為が世界に知られる好機」と語る。
 執筆者のメスロピャン・メリネ東北大大学院研究員によると、渋沢は二二年、米政財界でつくる慈善団体「米国近東救済委」の呼び掛けに応じ、自らを委員長とする「アルメニア難民救済委」を立ち上げた。外務省によると、難民問題は第一次大戦後に初めて国際的課題として認識されるようになり、メリネ氏も渋沢を日本人による難民保護の最も早い実践例と結論づけた。
 「可哀想(かわいそう)ぢやありませんか、四十万人の孤児が餓死しますよ」。当時の新聞に渋沢の委員会発言が残る。東京都荒川区浄閑寺を通し子どもたちがお金を届けると「これぞ貧者の一灯」(貧者の真心のささげ物は金持ちの寄進に勝るの意)と喜んだとの記述も。
 渋沢は独力で多額を寄付する資力があったが、人道支援の意義を社会で考えてもらおうと、草の根の募金活動にこだわった。
 難民救済で米国に協力した動機も注目される。当時、米国では日系移民を排斥する動きが強まっており、渋沢が在留邦人への差別をアルメニア人の苦境に重ねていた可能性が高い。渋沢史料館(東京都北区)の清水裕学芸員は「アルメニア支援の裏には日米親善の願いもあった」とみる。
 <渋沢栄一> 1840年、現在の埼玉県深谷市生まれ。第一国立銀行(現みずほ銀行)、東京ガス東京証券取引所など500社以上の設立に関わり、「日本の資本主義の父」と呼ばれる。1931年に91歳で死去。
 <近代のアルメニア人迫害> アルメニアは301年、世界で初めて国家としてキリスト教を公認した。現在の人口は約300万人。1915年から数年間、大規模な迫害を受けて世界各地に離散した。この際の犠牲者は数十万人から100万人超と諸説ある。欧州連合(EU)などが「ジェノサイド(民族大量虐殺)」と指摘する一方、トルコ政府は組織的な殺りくを否定している。」
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 2021年7月23日 産経新聞渋沢栄一の難民救済にメダル アルメニア大統領
 渋沢栄一のひ孫雅英さん(左)にメダルを贈るアルメニアのサルキシャン大統領=23日、東京都北区
 来日中のアルメニアのサルキシャン大統領が23日、東京都北区の渋沢史料館を訪れ、実業家の渋沢栄一が1922(大正11)年にアルメニア人救済基金を設立し、アルメニア難民救済に尽力したことへの感謝を示す「ヘンリー・モーゲンソー大使メダル」を、同館を運営する渋沢栄一記念財団に授与した。
 渋沢はオスマン帝国(現在のトルコ)から迫害されたアルメニア難民を救うために、日本でのアルメニア難民救済委員会のトップに就任し、民間などに広く寄付を呼び掛けた。日本人がかかわった最初の国際難民救済事業とされている。
 この日はサルキシャン大統領が同財団の樺山紘一理事長、渋沢のひ孫の渋沢雅英相談役に謝意を述べ、メダルを雅英さんに手渡した。96歳になる雅英さんは報道陣に「渋沢栄一は何か問題があるとすぐ飛び出していって、解決する糸口を探す人だった。わざわざアルメニアから来てくれたことは非常に光栄で、ありがたいことです」と話した。」
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 独立行政法人 国際協力機構
 ホーム国際協力・ODAについてODAジャーナリストのつぶやき2009年度バックナンバーやっぱり渋沢栄一は偉い人だった!
 やっぱり渋沢栄一は偉い人だった!
 注)本コラムは筆者の個人的見解を示すものであり、JICAの公式見解を反映しているものではありません。
 vol.229 23 Mar 2010
 JICA国際協力専門員 杉下恒夫
 日本が“引篭もり国家”などと揶揄されるようになってもう数年たった。確かに最近の日本人を見ていると、国外のことにはあまり関心を持たない内向きの国民なのだろうかと思うことが度々ある。
 日本人気質を表す言葉としてしばしば「島国根性」が使われる。海の向こうの事象には関心が薄く、自分たちが住むコミュニティの尺度だけで物事を考える島国の住民の偏狭な気質だ。もうひとつ日本人の閉鎖性の象徴とされるのは、300年に亘って人の海外交流を管理した江戸時代の鎖国だ。オランダなどとの風穴は開いていたとはいえ、あれほど長く鎖国を維持できたのは、日本人があまり海外に関心を持たない国民だったからだ、と言われればそうかなとも思える。
 しかし、鎖国前の日本人の行動を見ると、閉鎖的というより海外を目指す開放的な国民性が伺える。南北朝から戦国時代に東・東南アジアの海を駆け回った倭寇徳川家康インドシナ半島に盛んに派遣した朱印船など、日本人の目は海の向こうにもあった。明治維新後、結果は反省すべきことが多いが、脱亜入欧征韓論、満蒙開拓などの掛け声のもと、国家はつねに世界を視野に入れて動いていた。戦後、経済活動を軸に日本人が海外に雄飛したことは言うまでもない。
 今回、本欄で取り上げたいのは、日本人の国際性有無論と切っても切れない関係にある国際協力の足跡だ。日本社会にはボランティア精神が存在しないなどの理由で、国際協力に不向きな国民という意見が囁かれた時期もあった。だが、戦後に細々と始まったODAなどの日本の国際貢献策は、多くの国民の支持を得て拡大、世界最大の援助国の座も長期間経験した。NGOの活動も年々、規模と質を向上させており、日本人に国際協力の心があるということは、今では誰もが認めるところとなっている。
 では、いつ頃から日本人の国際協力精神が醸成されたのか。推論する資料は乏しい。15年ほど前、日本の人道支援に詳しいNGOのリーダーに日本の国際人道支援活動の歴史について話を聞いたことがあるが、この人でも「日中戦争(1938−1945年)当時、日本の医学生たちが戦傷者の救援に大陸に向かったという記録があるぐらい。おそらくそれ以前に日本人による大規模な国際協力活動は行われたことはないのではないか」と話していたほどだ。
 記録に残る戦前の日本の国際人道支援活動として有名な事例は、1890年のオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号の救援活動と、1920−22年に日本赤十字社が行なった大規模なポーランド孤児救援活動だが、2つとも舞台は日本にあり、現在の国際協力活動とは異なる部分がある。日本人の国際協力精神の原点を探る資料としてはいささか物足りない。
 ところが2月末、JICA本部広報室にオーストラリアのニューサウスウエルズ大学で人道問題を研究するヴィッケン・バブケニアン氏から、一般にはあまり知られていない戦前の日本の人道支援活動の記録が添付されたメールが送られてきた。同氏のメールの要約は次のようなものだった。
 日本の国際的な人道救済活動は1953年のパレスチナ難民に対する支援から始まったとされているようだが、1915年のオスマン帝国による大量虐殺から逃れたアルメニア人の救援活動に日本が参加した1922年に遡って考えてもよいのではないか。アメリカは事件直後、シベリアなどに逃れたアルメニア窮民を救うために「近東救済委員会」を設立したが、活動の幅を広げるためウイルト牧師を日本など世界各地に派遣した。
 来日したウイルト牧師が当時の日本最大の実業家渋沢栄一子爵に会い、支援を要請したところ、渋沢子爵は「あなたは、なぜもっと早く私のところに来なかったのだ。われわれが仏教徒だからクリスチャンが苦しんでいても助けないとでも思っていたのか。私はずっと前からこの事件ついて知っており、要請がなくとも救済に協力するつもりだった」と話したという。さらに渋沢子爵は「あなた方の活動は、すでに日本の新聞でも報じられている。その成果がこれです」と、その場で11,000ドルの小切手をウイルト牧師に手渡した。
 その後、渋沢子爵は各界の指導者に協力を求める手紙を書き、「アルメニア人救済日本委員会」を設立した。渋沢子爵は自ら委員長となって救援活動を指導、多大な支援金が集まり、多くのアルメニア人の命と生活が救われたという。
 メールは「現在、日本は世界の人道支援活動のリーダー国の一つだが、最近の活動だけでなく、過去に行なった意義ある人道支援活動についても、もっと調査をされ、広く知られるべきではないのだろうか」という言葉で結ばれている。
 バブケニアン氏には貴重な情報をお知らせ頂き感謝したい。このメールを読んで最近の日本の現状にいささか自信を失くしていた私も大いに勇気付けられた。この情報のおかげで日本人は生来、国際協力の精神を持ち、世界は不二と考えるDNAが存在する篤い民族なのだと今は信じている。
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 渋沢栄一は、尊王攘夷派、愛国者日露戦争賛成派であった。
 現代の日本人で、渋沢栄一論語資本主義的経営思想を学ぶ者(体得するとは限らない)はいても、人間として渋沢栄一の心・志・精神を受け継ぐ者はいない。
 その証拠が、中国共産党が行っている人権犯罪のジェノサイドから目を逸らし、国会での中国非難決議を不成立に追い込んだ事である。
 それに比べて、明治政府と日本国民は、世界的大帝国であるロシアとの絶望的戦争を覚悟して、ロシア人が行った清国人(中国人)へのアムール川大虐殺に対して激しく抗議した。
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 現代日本歴史教育は、日露戦争を「軍国日本の大陸に領土を広める侵略戦争」であったと子どもに教えている。
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 ウィキペディア
 江東六十四屯(こうとうろくじゅうしとん)は、かつてアムール川黒竜江)の左岸(東側)に広がっていた広さ3,600平方キロメートルに及ぶ中国人居留区である。中国・黒竜江省黒河市の対岸にあるロシアの都市ブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)の南側(ゼヤ川より東)の一帯に64箇所の村落があったためこう呼ばれる。清朝ロシア帝国の間で1858年に締結されたアイグン条約では、清の領土だったアムール川左岸の外満州はロシアに割譲されたが、黒河の対岸の「江東六十四屯」と呼ばれる地域には大勢の中国人居留民がいたため、アムール川左岸でもこの部分だけはロシア領ながら清の管理下に置かれることになった。
 アムール川黒龍江)事件
 1900年(明治33年)、義和団の乱(中国側の呼称:庚子拳乱)が発生した際、義和団員の一部が黒龍江対岸のブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)(現ロシア・アムール州州都)を占領した。かねてから満洲全域への進出を計画していたロシアは、義和団と列強とを相手にしている清国側は満洲情勢に関わる余裕がないと考えた。
 そこで、1900年7月13日、ロシアの軍艦ミハイル (Михаил) 号は河上より銃撃を開始し戦端が開かれた。7月16日のブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)事件でコサック兵が混住する清国人約3,000名を同地から排除するために虐殺して奪還。さらに8月2日から3日にかけての黒龍江・璦琿事件では、義和団に対する報復として派兵されたロシア兵約2,000名が黒河鎮に渡河上陸し、清国人を虐殺。その結果、この時期に清国人約二万五千名がロシア兵に虐殺されてアムール川に投げ捨てられ、遺体が筏のように川を下って行ったという。
 これらの事件によって江東六十四屯から清国人居留民は一掃され、清の支配は失われることとなる。
 これらの事件と、これに続くロシアの東三省占領は、三国干渉以来高まっていた日本での対ロシア警戒感を一層高めることとなった。アムール川から南下の機会を狙うのは、世界最大のロシア陸軍。日本の世論は緊張し、反ロシア大集会が日本各地で開かれるに至った。ロシアは次に朝鮮を蹂躙して日本へ侵略してくるに違いない、というのが世論の見方であった。江東六十四屯の崩壊は『アムール川の流血や』という題名の旧制第一高等学校の寮歌にも歌われることとなった。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、恥ずかしがり屋の為に善行を自慢しない、そして罪から逃れ処刑から助かりたいからといって善行を自己弁護に利用しなかった。
 軍国日本、日本軍人は、ナチス・ドイツ、ナチ党幹部とは違っていた。
 欧米の人権派は、人助けをしたドイツ人幹部達を助けたが日本人は助けなかった。
   ・   ・   ・  
 同じ日本人といっても、昔の日本民族と現代の日本国民とは違う。
 昔の日本民族は、情に於いて忍びずで、損得勘定抜きで、命の危険を覚悟し、大火傷を承知で「火中の栗を拾った」。
 日本国民は、世界常識と費用対効果を優先し、合理的論理的科学的に思案して無駄な事はしない。
   ・   ・    ・   
 昔の日本民族の言葉には言霊として力があり、武士に二言はないで有言実行、言葉少なくてもお互いに分かり合える為に無言実行であった。
 現代の日本国民の言葉には言い訳・詭弁・ウソが多くそして誠意も誠実もなく、信用をなくし信頼を裏切っても恥じる事なく建前で話すだけの有言不実行、関わりたくないし責任を取りたくないから無言不実行である。
 昔の日本民族は、理があり、道理があれば関わる人であった。
 現代の日本人は、必要があっても傍観者に徹している。
   ・   ・   ・   
 世界は、国際世論は、国際法は、戦前の日本の全ての努力・行為は戦争犯罪であるとして完全否定している。
 それは、過去の歴史の事実を知っている現代の日本国と日本人でも同様である。
   ・   ・   ・   
 明治新政府は、近代的天皇制度国家日本を建設するにあたり2つの国家目標を掲げた。
 1つ目はロシアの侵略から日本を武力で守る軍国主義国家で、2つ目は国際的地位と世界の称賛を得る文化的人道国家である。
 が、現代日本マルクス主義史観的歴史教育では、1つ目は大陸侵略を行う為の戦争準備でり、2つ目は日本民族が中国・朝鮮などを征服しアジアに植民地を持つに相応しい事を認めさせようとしただけ、として否定している。
   ・   ・   ・   
 渋沢栄一らが行った善意に基ずく人道貢献は、日本人排斥という宗教的人種差別主義で全て裏切られ踏み躙られた。
   ・   ・   ・   
 昭和天皇は、日中戦争・日米英蘭戦争(太平洋戦争)の原因はアメリカなどの白人による日本人蔑視の人種差別であったと語った。
   ・   ・   ・   
 軍国日本・軍部は、国家の決定として戦争を始めるという平和に対する罪を犯したが、同時に、天皇の御稜威・大御心・御意思に従って困った人々を助けるという人道貢献も行っていた。
   ・   ・   ・   
 平和を求める現代の日本と戦争を辞さなかった昔の日本は、見た目は同じ日本でも相反するまったく別の日本である。
 現代の日本と昔の日本とが全然違う証拠は、人種差別反対と戦争回避・平和志向の昭和天皇、人道貢献と平和貢献の靖国神社に対する認識である。
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 軍国日本の日本民族は、昭和天皇・皇族の命と天皇制度という国體を、日本人共産主義テロリストやキリスト教朝鮮人テロリストの攻勢に対して暴力・武力・軍事力で守っただけである。
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 国家・国民を支配するのに51%以上の多数派になる必要はなく、3%~5%の少数派で充分である。
 つまり、同調圧力・空気圧に影響されて動く日本(人口約1億2,000万人)を支配するなら3%(約360万人)の同志がいればこと足りる。
 長野中国人騒動事件。在日中国大使館は、中国共産党の命令に従って在日中国人数千人を長野市に動員して、北京オリンピック聖火リレーチベット弾圧に抗議する日本在住チベット人や日本の人権・人道市民団体を襲わせた。
 保守派自民党政権は、中国共産党の御機嫌を損ねる事を怖れ、襲撃する中国人ではなく抵抗するチベット人や日本人を逮捕した。
 親中国派・媚中派のメディア報道機関は、報道しない自由・国民に知らせない権利から、中国のイメージ悪化を恐れて中国人暴動事件を詳しく報道せず闇に消した。
   ・   ・   ・   
 少子高齢化による人口激減を解消する為に、1,000万人外国人移民計画(主に中国人移民)を実行さている。
 現実問題として、移民大国となった日本では中国人移民が増え始めている。
 中国共産党は、中国人移民が多く住み地域に支部が開設し、日本国への忠誠より共産党への忠誠を求め、共産党の支配を強化している。
 中国人移民に日本国籍を取らせ、参政権投票権・立候補権)と地方公務員(役人)・国家公務員(官僚)登用権を獲得する事で、日本国内部に深く根を張らせる。
 それは中国式陣地取り、つまり「碁」である。
 中国人移民を日本に送り込むのは「トロイの木馬」で、日本人支援者の協力を得て日本を中国人が住みやすい環境に内部から改造しようとしている。
 それは、ウイルス感染とウイルス増殖に似ている。
 では、誰が中国共産党と中国人移民・中国人留学生を引き入れたかと言えば、反天皇反日本人のリベラル派戦後民主主義教育世代とその薫陶を受けた有能・優秀な次世代、高学歴な知的インテリや進歩的インテリである。
 中国共産党の影響は、日本の最難関優秀大学・教育機関とメディア報道機関に深く根付いている。
 敵の敵は味方、というわけである。
   ・   ・    ・    
 ロシア革命は、少数派であるボルシェビキのさらに少数派であるレーニン率いるロシア共産党が勝利して成功した。
 レーニンは、ソ連ロシア共産党を支配する為に少数精兵として党内のレーニン派以外の多数派・反主流派を粛清した。
 スターリンも、独裁支配を完成させる為にライバルのトロッキーレーニン派など1,000万人以上を粛清して独自の少数派を維持した。
 共産主義とは、人民多数派ではなく党少数派、少数派の中の少数精兵のイデオロギーである。
 それは、中国共産党も同様である。
   ・   ・   ・   

💄75)76)─1─神話時代から戦国時代まで日本人女性は女武者として活躍していた。〜No.149No.148No.150 ⑱ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
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 2021年6月6日号 サンデー毎日「今週の新刊 読んでたどる歴史」
 『女武者の日本史』 長尾剛 朝日新書
 女性たちは、敵と戦い
 時代や社会と闘ってきた
 本郷和人
 最近、ネットではフェミニストの人々が活発に発言し、問題を提起している。男女には生まれながらの差異はある。それを理解した上で、尊重し合うのが理想なのだろうが。
 徴兵制度は性差を考える上で、重大な素材となるだろう。いま我が国を取り巻く軍事的脅威は、日に日に増大している。この状況に対応するために、万万が一、徴兵復活の意見が台頭してきたら、フェミニストはどう反応するだろうか。①男女平等ゆえ、女性も兵役に就くべし。②身体が頑健なのは男性だから、徴兵は男性のみに適応されるべし。③徴兵自体に断固反対。ぼくの予想だと③が大多数で②もあり得るが、①はほぼないと思うが、どうか。
 そんなことを考えているところに、本書に出会った。本書によると、我が国には古くより『女軍』、発音は『めいくさ』『めのいくさ』という言葉があった。これは、女性の戦士を意味するものであって、日本の女性は『ただ待つだけの存在』ではなく、勇猛果敢に戦う戦士だった、というのだ。卑弥呼神功皇后巴御前、板額御前、立花誾千代・井伊次郎法師など、神話時代から武士の時代、戦国時代の女武者が丁寧に紹介される。
 著者は徴兵を実施した近代日本こそが、伝統的な『女軍』を否定し、欧米から『男尊女卑』を輸入した元凶、と見る。それでも『女軍の魂』は力強く生き続け、女性の自立を目ざして戦う女性がさまざまな分野に現れた。福田英子・下田歌子吉岡弥生などがそれで、彼女たちの魂は現代にも受け継がれている。
 男女平等は当然、と言うならば、日本社会の女性への待遇が先進国中最低レベルにあるとのデータを無視してはなるまい。女性活躍が推進される今、心して読むべき一冊である。」
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 7月1日 YAHOO!JAPANニュース「古代の日本は男女格差の小さい社会だった!? 日本史を彩る「女武者」
 ダ・ヴィンチニュース
 『女武者の日本史』(長尾剛/朝日新聞出版)
 日本には「戦う女」がいた。
 武器を手に、戦場に立った女性もいれば、陰で男たちの戦いを支えた女性、信念のため困難な現実と戦う女性もいた。『女武者の日本史』(長尾剛/朝日新聞出版)は、古代から近代日本の歴史に燦然と現れた、戦う女――「女武者」「女軍(めいくさ)」について分かりやすく紹介している1冊である。
 本書によれば、古代において、日本では「戦士という立場」において男女の差はなかったという。将軍から末端にいたるまで、戦争の際は夫婦母子共に従軍し、女性は女軍として戦った。戦争の際だけではなく、女性でも部族の首長となったり、専業の役割、仕事があったりと、同時代の他国とは違い「男女格差の大きくなかった社会」と言えるそうだ。
 日本だけに、そういった社会が成立していた背景には、「食糧の調達が比較的困難でなかったため」ではないかと書かれている。世界の大陸のほとんどは狩猟が主な食糧調達の手法だったため、体力や腕力のある男性が女性よりも多く食糧を確保することができ、結果として優位に立つようになった。しかし、日本は植物や海産物が豊富で、それらの食糧は女性でも採取可能だったため、格差がそれほど生じなかったのではないか。そうした伝統が女軍登場の基幹だったのではないかと推察されるという。
 そんな経緯で存在した戦う女である「女武者」「女軍」のエピソードを、本書から少しご紹介しよう。
(1)薩末比売(さつまのひめ)
 『続日本紀』に登場する女性。
 九州の隼人の軍を率いていた首長であり、巫女(シャーマン)であった彼女は、隼人族の先頭に立ち、敵対していた朝廷と勇敢に戦ったと考えられる。一国(一族)を率いて戦う女性、カッコイイ。古代の壮大なロマンを感じるのは私だけだろうか。
(2)巴御前(ともえごぜん)
 平安時代末期、源平合戦で源氏方の将、源義仲(みなもとのよしなか)の愛人だったという巴は、美人であり、豪壮無双の女武者だったと伝えられている。
 こんな伝説が残っている。ある時ちょっとした諍いがあり、巴は無礼を働いた義仲を馬ごと投げ飛ばし、義仲は数十枚もの田圃を越えて飛んで行ったという。
 この時代は古代と違い、「戦争は男の仕事」という認識が強かったものの、彼女のように実際に戦場に立ち、伝説的な逸話が語り継がれるほど勇猛な女性がいたのは興味深い。
(3)寿桂尼(じゅけいに)
 本書では、「戦場以外で戦う強い女」=「女軍の魂」を持つ人物にも触れられている。
 寿桂尼は戦国時代、女ボスとして今川家を支え続けた。彼女は今川氏親正室であったが、病床にあった夫に代わり、今川家の政務を取り仕切っていた。夫の死後も、4代にわたり今川家のトップ・アドバイザーとして君臨し続けたという。
 その他、幕末には名スナイパーとして戦った山本八重(やまもと・やえ)や、明治期に入り、どの階級の女性にもしっかりとした教育を受けさせようと、世間の理解を得るために戦った教育者、下田歌子(しもだ・うたこ)など、実に幅広い時代から、30名以上の女武者が紹介されている。
 また、本書は所々小説風の読み物として彼女たちのエピソードが書かれており、より臨場感をもって女武者たちの生き様を感じられるようになっている。専門的過ぎる内容ではないので、あまり日本史に詳しくない方でも楽しく読めるはずだ。文=雨野裾」
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女武者の日本史 (朝日新書)
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 ウィキペディア
 日本における女性の合戦参加の年表では、日本の歴史における女性の戦争、合戦、戦闘への参加について時系列的に列挙する。
 ここでは、軍勢の指導的立場において参加した場合から、一兵卒として参加した場合まで幅広く扱うこととする。
 年表
 弥生時代
平戸島の根獅子遺跡において、弥生時代中期に、戦に参加したとみられる女性人骨が確認され、抜歯や頭骨に鏃があることから、戦闘において統率者的立場の女長とみられる。
・『三国志』魏書東夷伝魏志倭人伝)に、3世紀半ば、女王国である邪馬台国と男王が統治する狗奴国が交戦していたと記述される。
 記紀時代
・のちの神武天皇が神武東征の際、戊午の年9月5日において、女軍(めのいくさ)を女坂に置き、11月7日に女軍を進ませ、敵軍は大兵が来たと思って、尽力して、これと交戦(『日本書紀』戊午の年、9月5日条、11月7日条)。官軍が女性部隊を用いた記述だが、神代に当たる。
景行天皇肥前国巡幸時、嬢子山に土蜘蛛八十女人(大勢の女性首長)が住んでいたが、天皇に従わず抵抗したため、派兵して滅ぼした(『肥前国風土記』)。
仲哀天皇9年: 7月20日神功皇后は兵をあげ、荷持田村(のとりたのふれ)の翼人・羽白熊鷲(はしろくまわし)を層増岐野(そそきの)にて征伐する。同25日、山門県の土蜘蛛、田油津媛を征伐。同年10月3日、三韓征伐のため朝鮮半島へ出航、新羅は戦わずして降伏。
神功皇后1年: 2月、神功皇后、反乱を起こした忍熊皇子に対するため、紀伊国に上陸、小竹宮に移る。3月5日、武内宿禰と武振熊に命じて忍熊皇子を討たせる。
 飛鳥時代
舒明天皇9年(637年):上毛野形名の妻が蝦夷に砦を包囲された際、夫の剣を佩き、女達に弓を持たせ、一斉に弦を鳴らすことによって、大軍がいると誤認させる機知で、蝦夷を撤退させる(『日本書紀舒明天皇9年条)。
斉明天皇7年(661年):斉明天皇は、前年新羅に滅ぼされた百済の救援のため1月7日より西征を決行。朝倉宮に移るも、そこで7月24日に崩御
 平安時代
・治承4年(1180年) - 寿永3年(1184年):治承・寿永の乱の際、女武者巴御前宇治川の戦い源義仲に付き添って活躍したとされる。ただし、彼女の記述は『平家物語』など後世の創作物に限られており、実在性については疑問視されている。
 鎌倉時代
建仁元年(1201年):建仁の乱の勃発。越後にて城長茂の妹板額御前が城資盛らとともに反乱軍の将として蜂起。越後の鳥坂城に籠って弓矢で奮戦するも両足を射られ捕虜となる。
・文永11年(1274年)、 弘安4年(1281):二度に渡る元寇にて、大蔵氏の女頭領である本渡城主天草大夫大蔵太子が水軍を率いて出陣。後に神恩に感謝し、本渡諏訪神社を建立した。
 南北朝時代
・文和2年(1353年):洞院公賢の日記『園太暦』の6月3日の項に、「今日聞く山名勢猛からず、七八百騎か。そのうち女騎多し」との記述があるが、詳細は不明。
 戦国・安土桃山時代
・15世紀末:女首長サンアイイソバに率いられるドゥナン(与那国島)が琉球王国に従う宮古島の軍勢の侵攻を受ける。
・天文10年(1541年):大三島にて大祝鶴姫が大内氏の軍勢を二度にわたって撃破したとされる。しかし、彼女の存在が記されたという『大祝家記』は実在が確認されておらず、伝説上の人物ではないかとの指摘がある(当該項目参照)。
・天文12年(1543年): 大祝鶴姫、三たび大内軍を撃破するも、恋人の死に絶望し自殺したとされる。
・永禄11年(1568年):飯尾連竜の未亡人で曳山城主のお田鶴の方、徳川家康に攻められ落城、討死。ただし、その末路については資料によって相違がある(当該項目参照)。
・永禄6年前後:吉田重康が城を留守にしている間に安芸氏の軍勢が城を攻めてきたため、重康の妻が城内の女房・下女・はした、その他の男を呼び集め、下知をなして、兜を着せ、または手で持たせ、塀の上へ差し出し、また左右に槍薙刀を持たせ、前後に馬印を出し、大旗小旗を木の枝・塀・柱に結び付けて、大勢が籠っているように見せ、安芸の軍勢は留守と思っていたため、大勢いると誤認し、安芸へと撤退した(『土佐物語』巻第五「吉田伊賀介妻女の事」)。
・永禄12年(1569年):北条氏邦家臣諏訪部定勝の妻妙喜、居城日尾城に武田勢が来襲した際、泥酔した夫が目覚めるまで籠城戦を指揮。
永禄12年(1569年)10月:大内輝弘の乱。毛利元就重臣で周防高嶺城番の市川経好の妻である市川局が、夫の不在中、大内輝弘勢による攻撃に耐え城を守る。
・元亀3年(1572年):武田信玄の西上作戦。松平家家臣で井伊家の当主直虎、武田氏の侵攻を受け井伊谷城山県昌景に明け渡す。織田家岩村城の女城主おつやの方、武田方の秋山虎繁の侵攻を受け降伏。
天正2年(1574年):三村元親家臣上野隆徳の妻三村鶴姫、常山城が毛利勢に攻められた際、落城寸前の城から女軍を率いて出撃するも、その後城に戻り自害。
天正8年(1580年): 三木合戦。鷹尾山城主別所吉親の妻、波が別所軍に加わり奮戦するも落城前に自害。
天正10年(1582年):織田信長による甲州征伐で織田信忠軍が高遠城を攻めた際(5万対3千)、「諏訪勝右衛門(頼辰)の女房が刀を抜き打ち、切って回り、比類なき働き前代未聞の次第なり」と『信長公記』に記述・評価される。
天正11年(1583年):由良成繁の妻妙印尼、息子、国繁、顕長を人質に取った北条氏に対抗し金山城に籠城。のちに城を明け渡し和睦。
天正12年(1584年)に、越中国佐々成政に1万5千の兵で前田利家の家老・奥村永福の末森城を攻められるが、二の丸まで落ちたものの、永福は寡兵で利家の援軍到着まで耐えぬき、成政軍を撃退した(末森城の戦い)。なお、籠城戦の際には、永福の妻・加藤安は、薙刀をもって城内を巡回し、粥を振る舞って負傷者を介抱し、城兵を元気づけたといわれる。天正の昔加賀前田家の家老奥村が三百騎を以て能登末森城に立寄り、佐々成政三千の兵を支へし時、奥村が妻たすき掛にて薙刀をつき、兵糧を運び城兵を励まして遂に寄手を破りしは有名の物語なり。
天正12年(1584年)-天正14年(1586年):『大友文書』によると、「戸次伯耆守は大友宗麟重臣なれど、矢傷にて脚がくさり衰えたり。されど娘(誾千代)ありて勇壮。城内の腰元女中、五十名ほど訓練し、戦初めには一斉射撃をなして敵の心胆を奪う」という記述がある。
天正13年(1585年):人取橋の戦い二階堂盛義の未亡人で須賀川城主の阿南姫、伊達政宗に対抗する南奥諸大名連合軍として派兵。
天正14年(1586年):大友義鎮家臣で、鶴崎城の城主吉岡統増の母妙林尼、不在の息子に代わり島津勢に対する籠城戦を指揮。攻勢を防ぎ切り和睦、開城。
天正15年(1587年): 妙林尼、寺司浜の戦いにて島津軍を背後から奇襲し大勝。
天正16年(1588年):郡山合戦。阿南姫、伊達政宗に対抗する蘆名氏・相馬氏連合軍として派兵。
天正17年(1589年):阿南姫の守る須賀川城摺上原の戦いによる蘆名氏の滅亡に伴う伊達氏の侵攻を受け10月に落城。11月、天正天草合戦の本渡城の戦いにて木山正親の妻お京の方が戦闘に参加。地元の伝承では、男装したお京の方が加藤清正に一騎打ちを挑み討たれたという。
天正18年(1590年):小田原征伐。3月、妙印尼、豊臣方に与し、松井田城攻めに加わり、この功績により牛久に領地を与えられる。6月、妙印尼の孫で、忍城城主成田氏長の娘である甲斐姫、北条方として忍城籠城戦に参加。北条方の城の中では最後まで持ちこたえ開城。成田氏は蒲生氏郷の預かりとなり、会津福井城に移動。11月ごろ、福井城で反乱を起こした浜田将監・十左衛門兄弟の反乱を甲斐姫が鎮圧。
慶長年中(1596年 - 1615年ごろ):津軽の藤代館の女主人、藤代御前が、津軽為信に攻め込まれ戦死したと伝わる。
・慶長5年(1600年):関ヶ原の戦いに関連する一連の合戦が勃発。7月、田辺城の戦いにて城主細川幽斎の妻沼田麝香、夫と共に具足を付け奮戦。のちに開城。また、同じころ真田信之の妻小松姫が侍女らとともに武装して留守の沼田城の守備に当たる。8月、安濃津城の戦いにて富田信高の妻が夫の危機に騎馬武者として駆けつけ奮戦。和睦開城に持ち込む。10月、関ヶ原の戦い本戦後に立花宗茂に降伏を促すため柳川に進軍した加藤清正が、宗茂の妻誾千代の武勇を警戒し、彼女の住まう宮永を避けて迂回し進軍。伝承では、柳川の渡船口で鍋島水軍に向けて誾千代の鉄砲隊が発砲したという。
 江戸時代
・慶長19年(1614年):大坂冬の陣豊臣秀頼の母淀殿、武具を着て3、4人の武装した女房を従え番所の武士に声をかけ激励していた(『当代記』)。
・慶長20年(1615年):大坂夏の陣淀殿、秀頼の出陣を拒否。大阪城は落城し、淀殿自害。
1640年代ごろ?:女浪人佐々木累、江戸市中にて旗本奴の白柄組と交戦。
・慶応3年(1868年):薩摩藩邸焼討事件。新徴組隊士中澤琴、戦闘に参加し踵を負傷。
・慶応4年(1869年):戊辰戦争の勃発。6月、会津戦争中野竹子、母こう子や妹優子・神保雪子らとともに婦女隊を結成。会津城外で新政府軍と交戦し、竹子は戦死。城内では松平照の指揮により山川二葉ら婦女子が籠城戦に参加。新島八重は男装しスペンサー銃と刀で応戦。7月、秋田戦争に中沢琴が新徴組隊士として参加。
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 戦国時代までの、女性は男性以上に攻撃的戦闘的で、男性は優柔不断で気弱に戦いを避けようとしていた。
 つまり、日本人女性は勇猛果敢に戦場に出て殺し合いをし、後方で戦争を煽る存在であった。
 古代ギリシャの戦争を止めさせる「女性の反乱」は、日本では起きなかった。
 女性は子育ての為に戦争反対で平和志向であった、というのは昔の日本民族女性には当てはまらない。
 日本に住む女性といっても、現代の日本人女性と昔の日本人女性は別人のような女性であった。
 日本民族の女性とは、戦争を決断し、戦争をする女性の事である。
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 女性に対する偏見と差別、そして妻DVを行ったのは、60年安保・80年安保に敗北したリベラル派戦後民主主義教育世代と親の劣等感と挫折の捌け口として暴力的虐待で育てられた次世代である。
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 昔の日本で、地方・田舎・農村の家族制度において最も力を持っていたのは、翁ではなく老女であった。
 日本人男性は人間として亭主関白であったが、日本人女性は神、山ノ神としてカカア天下であった。
 昔の日本人女性は、弱者ではなかった。
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 公家や商家では、女性相続として親の遺産は娘が受け継いで男性には権利がなかった。
 農家では、女性の力がないと農作業ができなかった。
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 武家は、男性相続として跡取りの男子が親の遺産を相続し、娘は政略結婚の道具とした。
 武士道は、男性優位の性差別思想として、女性を一人前の人間とは認めていない。
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 現代の日本国民は、昔の日本民族とは違う日本人である。
 伝統文化としての宗教や神仏を、昔の日本民族は持っていたが、現代の日本国民は持っていない。
 日本民族が持っていた伝統、文化、宗教は、絶える事なく縄文時代縄文人に繋がり、その源流を遡れば揚子江流域にあった長江文明である。
 日本民族琉球民族アイヌ民族は、長江文明縄文人の直系の子孫であって、黄河文明・漢族中国人・朝鮮人との血の繋がりは薄い。
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 女性が一線で活躍する日本に、女性への偏見を持ち込んだのは仏教であり、女性は賤しく下等で差別されるのが当然であり男の所有物・家庭内奴隷であるという考え方を持ち込んだのは儒教であった。
 徳川幕府は、男尊女卑を定着させる為に儒学原理主義朱子学を官学として広めた。
 朱子学の毒が、日本を陰険・陰湿なブラック社会に変えた。
 女性への偏見・差別を常識として日本に定着させたのは、明治以降で、キリスト教の家父長主義と人種差別主義であった。
 そして、マルクス主義共産主義が偏見・差別を強化・悪化させた。
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 キリスト教において、女性の教皇枢機卿大司教は一人もいない。
 共産主義においても、女性の共産党党首・国家主席・党主席・総書記は一人もいない。
 一神教ユダヤ教イスラム教においても、女性の教祖、宗教指導者、律法学者は一人もいない。
 日本の歴史において、男系女性が天皇に即位し、女性が伊勢神宮の斎王を務めていた。
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 イギリス国王ヘンリー8世は、幾人も新しい妃を得る為にその都度王妃を離婚し処刑していた。
 日本では、天皇、公家、将軍、武士で妻を離婚して殺した試しはない。
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 人類の歴史において、女性を最高の存在と論理的に位置づける哲学、思想、主義主張(イデオロギー)は存在しなかった。
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 日本の民族中心神話・ヤマト神話・高天原神話・天孫降臨神話では、最高神は女性神天照大神、つまり現・正統男系父系天皇・皇室の祖先神である。
 天皇・皇室の正統性は、血の神話(Y染色体神話)を神聖不可侵の根源的根拠として、最高神天照大神の血を正しく受け継ぐ万世一系世襲制に与えられている。
 つまり、神話から切り離された人間的な非血筋非世襲の合理的正当女系母系天皇は排除されてきた。
 国民の70%以上が、血筋世襲の正統男系父系天皇から非血筋非世襲の正当女系母系天皇への変更を希望している。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、奴隷として買った日本人を世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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🕯104)─1─何故、日本民族は日本発想の宗教祭祀「盆踊り」で熱狂するのか。~No.225No.226 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2021年7月9日号 週刊朝日「今週の一冊
 盆踊りで熱狂していた謎が解けた  片岡義男
 『盆踊りの戦後史「ふるさと」の喪失と創造』 大石始 筑摩選書
 2021年から逆算して76年前、アメリカ軍が徹底的に空爆する東京を逃げた僕は、山口県岩国にあった祖父の家に疎開した。そこで6年を過ごし、東京に戻る途中、父親の仕事の都合で、広島県呉市で2年を過ごすことになった。1951年の秋から1953年の夏の終わりだ。
 この呉で過ごした2年間で今でも覚えているのは、夏におこなわれた盆踊りとその主題歌のようだった『炭坑節』だ。かつての軍港を見おろす崖の縁に沿って、安普請の二軒長屋が何棟もあり、そのまんなかはなににも使われていなかったから、盆踊りの櫓を丸太で組むには最適だった。したがってここに盆踊りの櫓が作られ、、ある日突然、盆踊りが始まった。
 二軒長屋の市営住宅は戦争とその敗戦によって行き場を失った人たちの場であり、近隣に住む昔からの住民も参加したとはいえ、なぜあれほどまでに、盆踊りが人々の熱狂の中心だったのか。盆踊りは3日は続き、『炭坑節』が繰り返し再生され、なにかに向けて人々を駆り立てた。あの盆踊りは、いったいなにだったのか。
 謎であり続けた盆踊りと『炭坑節』とは、『盆踊りの戦後史』を読んで、あっさり解けた。もともとの盆踊りは日本各地の固有の文化を取り込んで祖霊を供養するものだった。盆踊りのエネルギーに未婚の男女の性愛が重なり、音頭の歌詞は直截(ちょくせつ)になった。盆踊りで高まった民衆の力が反権力の方向に向くのをおそれた当局は、音頭の歌詞が公序良俗に反するとして、盆踊りの取り締まりを強化した。これによって明治には日本から盆踊りは消えて歴史は途絶えたと言われるまでになった。
 しかし時代は進んでいった。1926年にNHKが設立され、1940年までに全国で35のラジオ局が出来た。日本各地の盆踊りの音は全国に届き、一般化された。1933年から『東京音頭』の大流行があり、日比谷公園でおこなわれた大盆踊り大会は、自分たちで新たに作る盆踊りの手本となった。
 1938年には国家総動員法の最初の発動があった。日本ぜんたいが盆踊りどころではなくなった。戦争の時代には軍国主義をたたえる盆踊りが推奨されたが、そんなものはなんの役にもたたないままに、日本は敗戦を迎えた。『盆踊りの戦後史』の著者によると、盆踊りは火が消えた状態になった、という。
 戦後の日本で盆踊りが復活したのは1946年からだという。敗戦の明くる年ではないか。阿波おどりがこの年に復活した。市民のあいだで阿波おどりへの欲求が高まり、それを受けて徳島県進駐軍におうかがいを立てたところ許可され、市役所前で阿波おどりはおこなわれ、多くの人々が夢中で踊ったということだ。1946年には日本のさまざまなところで盆踊りが復活した。いま僕は東京の玉川学園というところに住んでいるが、1946年、小田急線のこの駅前で盆踊りがおこなわれたと、本書に書いてある。
 『この時期の盆踊りの多くは、戦没者を供養するとともに、敗戦の暗いムードを吹き飛ばそうという明確な目的を持っていた。ただでさえ貧しく、娯楽の少ない時代。盆踊りは人々にとって数少ない楽しみのひとつであり、救いの場でもあった』
 1952年の日本では町内会が復活した。戦争中の日本国家が国民に強制した相互監視組織の隣組につながるからという理由で、進駐軍によって禁止されていた。それが新しい時代のなかで復活したのだ。戦後の僕が子供の頃に見て心のなかに謎として残った盆踊りは、復活した町内会ないし類似の組織による、新しく作られた盆踊りだった。」
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 日本民族の崇拝宗教とは、古代人・縄文人から受け継いだ命・霊・魂、血・体、心・志、精神・気概を絆の根拠として、自分という生者と祖先という死者の交歓である。
 宗教には、ローカルな崇拝宗教とグローバルな信仰宗教がある。
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 宗教に無関心の現代の日本人と宗教を大事にする昔の日本人とでは、別人のような日本人である。
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 日本民族にとって、ムラの祭り・鎮守の祭り・盆踊りは宗教祭祀以前に気候風土から必要不可欠な行事であった。
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 死者供養の象徴的な盆踊りとは、靖国神社の「みたままつり」である。
 何故なら、神の血筋を正しく受け継ぐ正統男系父系天皇が祭祀王として親拝してきたからである。
 いまは、周辺諸国や国際社会からの非難の為に靖国神社親拝は途絶え、国民は政教分離の大原則から親拝再開を求めてはいない。
 みたままつり 7月13日〜16日
 日本古来の信仰にちなみ昭和22年に始まった「みたままつり」は、今日、東京の夏の風物詩として親しまれ、毎年多くの参拝者で賑わいます。
 期間中、境内には大小3万を超える提灯や、各界名士の揮毫による懸雪洞かけぼんぼりが掲げられて九段の夜空を美しく彩り、本殿では毎夜、神霊をお慰めする祭儀が執り行われます。 また、みこし振りや青森ねぶた、特別献華展、各種芸能などの奉納行事が繰り広げられるほか、光に包まれた参道で催される盆踊りや、夜店の光景は、昔懐かしい縁日の風情を今に伝えています。
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 毎年開催される盆踊り・ムラ祭りの作事は、20年ごとにおこなわれる伊勢神宮式年遷宮祭な短縮版であった。
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盆踊りの戦後史 ――「ふるさと」の喪失と創造 (筑摩選書)
盆踊り 乱交の民俗学

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 浄土宗
 仏事まめ知識 ~ 盆踊り
 全国的に知られる祭りから町内の夏祭りまで、お盆の行事として馴染み深いのが盆踊りですが、じつは盆踊りは仏教行事なのです。もとは先祖の霊をはじめとする死者の霊をお迎えし送るという目的で踊られるものでしたが、時と共にその意味を失っていきました。
 日本三大盆踊りとして、徳島県阿波踊り岐阜県の郡上踊り、秋田県の西馬音内の盆踊りが有名。なお、阿波踊りのように全国に広がりをみせ、各地で踊られているものもあります。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「盆踊り」の解説
 盆踊り ぼんおどり
 盆に踊る民俗芸能。祖霊、精霊を慰め、死者の世界にふたたび送り返すことを主眼とし、村落共同体の老若男女が盆踊り唄(うた)にのって集団で踊る。手踊、扇踊などあるが、歌は音頭取りがうたい、踊り手がはやす。太鼓、それに三味線、笛が加わることもある。古く日本人は旧暦の正月と7月は他界のものが来臨するときと考えた。正月は「ホトホト」「カセドリ」などいわゆる小(こ)正月の訪問者がこの世を祝福に訪れ、7月は祖霊が訪れるものとした。盆棚で祖霊を歓待したのち、無縁の精霊にもすそ分けの施しをし、子孫やこの世の人とともに楽しく踊ってあの世に帰ってもらうのである。こうした日本固有の精霊観に、仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ)が習合してより強固な年中行事に成長した。盆に念仏踊を踊る例もあるが、念仏踊は死者の成仏祈願に主眼があり、一般に盆踊りとは別個の認識にたつ。
 15世紀初頭に伏見(ふしみ)の即成院や所々で踊ったという盆の「念仏躍(ねんぶつおどり)」「念仏拍物(ねんぶつはやしもの)」(『看聞御記(かんもんぎょき)』)は、まだ後の盆踊りというより念仏の風流(ふりゅう)の色彩が濃いものであったが、同世紀末に昼は新薬師寺、夜は不空院の辻(つじ)で踊られたという「盆ノヲドリ」(『春日権神主師淳(かすがごんかんぬししじん)記』)は盆踊りの色彩を強めたものであったろう。盆踊りはそのほか伊勢(いせ)踊なども習合することになったらしいが、にぎやかで華やかな踊りで、異類異形の扮装(ふんそう)をしたとあり、まさに風流(ふりゅう)振りである。16世紀中ごろには小歌(こうた)風の盆踊り唄がつくられていた(『蜷川(にながわ)家御状引付(ごじょうひきつけ)』)。江戸時代以降いよいよ盛んになり、全国的にそれぞれの郷土色を発揮して、いまに行われている。
 今日みる異類異形の盆踊りには、鳥獣類の仮装はなく、秋田県の「西馬音内(にしもない)盆踊」のひこさ頭巾(ずきん)(彦佐頭巾、彦三頭巾とも書く)のように覆面姿が多い。これは亡者の姿といい、また佐渡の「真野(まの)盆踊」のように石の地蔵を背負って踊るものもあり、人と精霊がともに踊ることに意義をみることができる。長野県阿南(あなん)町の「新野(にいの)盆踊」では、最終日に村境まで群行して踊って行き、そこで新盆(にいぼん)の家の切子灯籠(きりこどうろう)を燃やし、鉄砲を撃って踊り神送りをする。精霊鎮送の形がよくわかるが、道を踊り流して歩く形は徳島市の「阿波(あわ)踊」にもよく表れている。新盆の家々を回って踊る例もある。また神社や寺の堂や境内、校庭、公園などで円陣をつくって踊る例も少なくない。岐阜県郡上(ぐじょう)市八幡(はちまん)町の「郡上踊」では、幾重もの踊りの輪ができて夜を徹して踊る。沖縄諸島では「エイサー」とよぶ盆踊りが盛んで、手持ちの太鼓踊と手踊の二様がある。八重山(やえやま)列島では「盆のアンガマ」といって、老人姿の精霊仮装が出る。
 [西角井正大
 [参照項目] | 阿波踊 | 盂蘭盆会 | エイサー | 郡上踊 | 西馬音内盆踊 | 盆踊り唄
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 イーフローラとは?
 お盆・初盆のお話
 盆踊りとお盆・初盆の関係
 夏祭りの代表格といえば盆踊り。現在でもお盆の定番となっている行事の一つですが、そもそも、なぜお盆に盆踊りが催されるようになったのでしょう。
 盆踊りのはじまり
 盆踊りが日本で初めて登場したのは、平安時代と言われています。空也上人による念仏踊りが「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と結びつき、次第に、お盆に帰ってきたご先祖様の霊を迎え慰め、彼岸へ送り返す仏教行事へと移ろいでいったようです。
 また、盆踊りに関しては、次のような説も語られています。「帰ってきた霊を供養し、無縁仏などを安らかに送り出すための舞」「帰ってきた霊を、自分たちの踊りに誘い込みながら送るための舞」「帰ってきた霊に楽しんでもらうための舞」「供養のおかげで成仏できた精霊たちの喜びを表す舞」などなど…。
 また、盆踊りが太鼓を叩いたり音を鳴らしながら踊られるようになったのは、室町時代のあたりからとされています。
 そして、時代の流れとともに宗教的意義はだんだんと薄れていき、民衆娯楽として広がっていって現代に至るそうです。
 地域によっては、帰省した人々の再会の場や地域交流の場、さらには男女の出会いや求婚の場としても親しまれている面もあり、現在ではすっかり「夏を楽しむお祭り行事」として全国各地で開催されています。
 夜通し踊る「盆踊り」
 盆踊りは、かつては夜通しで踊られていたそうです。旧暦の7月15日は「十五夜(じゅうごや)」、そして、16日は「十六夜(いざよい)」。つまり、いずれかの夜は月が満ちて満月となるため、照明のない時代でも空は明るく、さらに月の引力のせいか人の気分も高揚するため、盆踊りには最適だったということです。
 盆踊りの様式について
 盆踊り近年催される盆踊りの様式としては、主に2通りあります。ひとつめは、人が多く集まることのできる公園や神社の境内、駅前の広場などに「櫓(やぐら)」を組み、その周りを輪になって皆で踊るというもの。
 そしてもうひとつは、大通りなどを列を組んで踊り歩くタイプのもので、これは「念仏踊り」とも呼ばれます。
 どちらにしても、お祭りとして露店なども出され、地域の人や盆休みなどで帰省した人たちも大勢集まるため、地元の人々が久しぶりに顔を合わせる交流の場としても大いに機能しています。
 お盆で帰省した際には、地域の人との交流を楽しみながら、そんな歴史ある盆踊りを踊ってみるのもいいかもしれませんね。
 お盆は、年に一度ご先祖様の精霊をお迎えして日頃の感謝を伝え、供養する日。日本で古くから営まれている伝統行事です。そんなお盆や初盆にまつわる、さまざまなお話をご紹介します。
 ご先祖様の精霊を迎えて供養する日として、古くから営まれているお盆。正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と呼びます。そんなお盆の起源は、主に以下の2つの説が語られています。
 インドを発祥とするお盆の由来
 はるか昔、お釈迦様が仏教の教えを説いていた頃のインドでは、7月15日に「ウラムバナ」という仏教行事が行われていました。
 「ウラムバナ」は、苦しみの世界へ堕ちたご先祖様を救い精魂を祭るための行事。これが仏教とともに次第に日本へ伝わってきたというのが、インドを発祥とするお盆の起源説です。
 「ウラムバナ(ullambana)」を音写すると「盂蘭盆」、つまりお盆になります。そして「盂蘭盆経」の中の教えでは、盂蘭盆会の起源にまつわる話として次のようなことがいわれています。
 「お釈迦様の十大弟子の中でも神通力が一番とされた目連尊者は、ある時、その力によって、亡き母が餓鬼道に堕ちて苦しんでいることを知った。目連尊者は心を痛め、どうにか母を救いたいとお釈迦様に策を訊ねたところ、お釈迦様は「夏の修行が終わる7月15日に、多くの僧たちを招いて供物を捧げ供養をするように」と諭された。そして、目連尊者がその通りに供養を行ったところ、母親は無事に救われ、成仏することができた」
 ここから、ご先祖様の精霊を救い供養する行事として盂蘭盆会が行われるようになったというのです。日本では、推古天皇の14年(606年)に行われたのが最初とされています。
 日本を発祥とするお盆の由来
 古くから日本では、万霊同様ご先祖様の魂を大事にし、死者の精霊を祭る習わしがあったとされています。冬と夏の時期、年に2回、霊棚(精霊棚)を飾ってご先祖様や死者の精霊を供養するお祭りが催されていたそうで、冬に行われるものが「正月」、そして夏に行われるのが「お盆」であったということです。
 また、ご先祖様の精霊をお迎えする際、お供え物を置く器のことを「ボニ」と呼んだため、それが次第に訛って「お盆」になっていったという事も言われています。
 さらに、旧暦でのお盆の時期というのは、暑い夏も越え、稲作・畑作も一段落する時期であったことから、農耕儀礼と結び付いて「収穫祭」のような面も兼ね備えたものだったという話もあります。
 このように諸説語られているお盆の起源ですが、前者のインド発祥説と古くからの日本の習わしが仏教伝来で混じり合い、現在のお盆・初盆につながっているのではないでしょうか。
 現在では、ご先祖様が戻ってくる日ということで親戚一同が集まり、故人を偲んで供養する大事な行事としてお盆が行われます。年に一度、日頃のお礼をご先祖様に伝えることのできるすばらしい風習、大切にしていきたいものですね。
 お供えの花などの基礎知識
 お盆・初盆とは?お供えの花などの基礎知識
 お盆は日本の大切な年中行事。普段からご仏前で手を合わせることを日課にしている方も、ご先祖様の“里帰り”であるお盆は、特に心を込めてご供養を行いたいものです。
お盆の由来や習わし、お供え花やお供え物、お墓参りの仕方など、お盆に関する基礎知識についてご紹介します。
 お盆とは?由来や習わしなど
 多くの地域で夏に行われる年中行事であるお盆。お盆の期間はご先祖様の霊魂が現世に帰ってくると信じられてきました。そのためお盆とは、ご先祖様を招き、ご先祖様を手厚くご供養するための行事とされています。
 地域によって異なるお盆の時期
 現在のお盆の期間は、地域によって異なります。
 もともとは、都市部でも地方でもお盆は旧暦7月13日~16日でした。それが、明治5年(1872年)に新暦が日本全国で導入されると、お盆の日程は地域によって違いがみられるようになってきました。
 たとえば、新暦を推奨する明治政府のお膝元にあった東京や神奈川県、北海道の一部や石川県金沢市静岡県の都市部などでは令を受け入れ暦通りの新暦の7月盆(7月13日~16日)にお盆を行うようになります。一方、政府から離れた北海道や東北、新潟県、長野県、関西地方などでは新暦8月盆(8月13日~16日)が多いです。その理由としては、新暦の7月中旬では農作物の収穫が忙しく、多くの人々の生活様式と合わなかったため、慣れ親しんだ旧暦に近い日付でお盆を行うようにした結果、新暦8月13日~16日に固定されたという説が有力です。
 そして、沖縄・奄美地方では「家族を大切に、祖先を大切に」という考えがとても強く、お盆は一年で最も大切な行事。そのため、現在でも旧暦の7月13日~15日にお盆を行う伝統を守り続けています。そのため、沖縄・奄美地方のお盆は毎年日程が変わります。
 お盆の由来
 お盆の由来には諸説ありますが、中でも有名な説のひとつに、旧暦の7月15日の盂蘭盆(うらぼん)からきているというものがあります。
 盂蘭盆は、サンスクリット語の「ウランバナ」が語源となっており、インドに伝わる目連尊者の伝説がその由来となります。お釈迦さまの内弟子・目連尊者は、自身の母親が死後、餓鬼道に落ちたことをお釈迦様に相談すると「布施や供養を行うこと」の助言を受けました。目連尊者が言われた通りに人々に施しを行ったところ、餓鬼道で苦しむ母親にもその施しが届き、無事に成仏することができました。母親が救われた日が7月15日であるため、盂蘭盆として覚えられるようになったという説です。
 もうひとつ、別の説によれば、かつての中国では旧暦7月を「鬼月」としており、地獄の蓋が開く期間と伝えられてきました。旧暦7月15日の中元節にその蓋は閉じることから先祖供養の習わしがあり、それが盂蘭盆と融合し今のお盆となったとも考えられています。事実、旧暦7月中旬に先祖崇拝を行う地域は日本含む東アジア地方には多く存在します。
 その他にも、ペルシャ語の「霊魂」を意味する「ウラヴァン」にちなむ、お供え物を置く盆から来ている、という説もあります。
 また、日本にもともとあった農耕儀礼の「収穫祭」が先祖崇拝の「お盆」と結びついた、ということもあったのでしょう。日本では奈良時代推古天皇の治世に「お盆」の儀式は既に行われており、8世紀頃に定着したようです。かつては貴族や僧侶といった一部階級の年中行事でしたが、江戸時代以降、庶民にも広がりを見せていきました。
 お盆・初盆の起源
 お盆の習わし
 お盆の風習は地域によってさまざまですが、基本的には「ご先祖様をお迎えする」「ご先祖様をご供養する」という考え方であり、お盆の期間には多くのお寺で「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と称した法要が行われています。代表的なお盆の習わしをご紹介します。
 まず、お盆に入る前までにご仏壇・仏具を清めておきます。ご仏壇の前には精霊棚(しょうりょうだな)を設け、そこに花やお菓子などのお供えをします。地域によっては、ご仏壇から位牌や灯明を取り出し、この精霊棚に置くところもあります。
 また、精霊馬(しょうりょうま)の存在も欠かせません。これは、ご先祖様が現世にお戻りになる時に使う乗り物です。キュウリで馬を、ナスで牛をモチーフに作りますが、これは「この世に戻る時は馬を使って早く、あの世へ帰る時は牛でゆっくり帰ってほしい」そんな願いが込められています。
 お盆の初日は「迎え盆」「お盆の入り」と呼びます。この日はお墓参りを行い、その後ご先祖様を自宅でお迎えするために、迎え火を焚く風習があります。これには、ご先祖様の通り道を作る目的があり、本来はお墓参りの際に焚いた線香や迎え火で火をつけた盆提灯を、日が沈んでから家まで持ち帰るというものが慣習でしたが、現在は玄関口などで苧殻(おがら。麻の茎のこと)を焙烙(ほうろく。素焼きの土鍋)で炊いたり、玄関に提灯をさげたりといったことで代替されています。
 ご先祖様が自宅で過ごす期間は「中日(ちゅうにち)」と呼ばれ、朝昼晩の三回、家族と同じお食事を精霊棚にお供えします。これは霊供膳(りょうぐぜん)と言い、従来は精進料理がお供えされていました。地域によっては今でも詳細な献立があるところも。
 お盆の最終日は、ご先祖様をあの世へ送り出します。「送り盆」「お盆の明け」と呼ばれます。送り盆では夕方に玄関口で送り火を焚きます。昔は提灯に火をつけ、その火から苧殻とお盆で使った精霊馬などを燃やし、そのあと提灯をお墓まで持参し、お墓で火を消すという習わしが一般的でしたが、現在では玄関口で送り火を焚くだけということが多くなっています。集合住宅などで火を使うことが難しい場合は、精霊棚にお供えしたものを菩提寺に納めることもできます。
 地域によっては、供物を川や海に流す灯篭流しや精霊流しが行われます。
 ちなみに送り火の時、一緒におだんごをお供えすることがあります。これは、ご先祖様がこの世とあの世に続く橋を無事に渡れるよう案内をしてくれる六地蔵に捧げるものと言われています。
 お盆・初盆の風習について
 初盆とは
 初盆(はつぼん、ういぼん)または新盆(しんぼん、にいぼん、あらぼん)とは、故人が亡くなってから初めて行うお盆であり、通常のお盆よりも丁寧で手厚い供養が営まれます。
 初盆を迎える家では、親戚がその家の家紋が入った白提灯を贈る習わしがあります。この特別な白提灯は初盆にしか使えないこともあり、現代では絵柄のついた提灯などに簡略化されています。また、この提灯の代わりに「提灯代」として現金を包んで贈ることもあります。
 初盆の家では自宅に僧侶を招いて読経してもらったり、お墓参りの時にお布施を届けるといった風習がありましたが、現代ではその風習の在り方も少しずつ変わってきています。とは言え、大切な方が初めて“里帰り”をされる初盆。心を込めてお迎えしたいものです。
なお、お亡くなりになってからまだ四十九日を迎えていない場合は、初盆の供養は翌年となります。
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 盆踊り(ぼんおどり)は、盆の時期に死者を供養するための行事、またその行事内で行なわれる踊り。
 概要
 誰でも踊りに参加できるタイプと、主に見せるために限定された踊り手が踊るタイプとがある。前者は、広場の中央にやぐらを立て、やぐらの周囲を回りながら音頭にあわせて踊る形式が一般的である。盆踊りの伴奏音楽としては多く音頭が奏でられる。近年は録音された音頭を電気的に再生して行なうことが主流になっている。
 歴史的には村落社会において娯楽と村の結束を強める機能的役割を果たした。そのため、各地にご当地音頭も多く存在し、自治体や商工会などが作成したオリジナルの地域的音頭も増えている。明治以前は歌垣などの風習に結びついていた。お盆の時期に行なわれるが、宗教的意味合いは薄く、農村や庶民の娯楽として楽しまれてきた。明治時代から大正時代にかけて一時衰退したが、復活が叫ばれるようになり、大正末期から農村娯楽として奨励されはじめ、再び盛んになっていった。もともと盆踊りがなかった土地でも新作して踊るところもあり、町内会の祭り行事としてだけでなく、阿波踊りやエイサーなど、一地方の盆踊りから全国に広まったものもある。
 夏休みの間の大きなイベントの一つである。かつては夜通しで行なわれることも多かったが、近年は治安維持のため深夜まで行なわれることは少なくなっている。国内外の各地に盆踊りの会や教室がある。
 2020年2月19日、文化審議会は国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産への登録を目指す国内候補に「風流踊(ふりゅうおどり)」を選んだ。盆踊りや念仏踊りなどとして伝承された23都府県の37件をまとめて一つの遺産とみなし、3月末までに政府がユネスコに申請書を提出。2022年11月ごろのユネスコ政府間委員会で登録可否が審査される見通し。
 起源
 盆踊りはもともとは仏教行事であるとする説、歌垣の遺風とする説、原始信仰の儀式だったとする説など諸説あるが、文献に最初に登場するのは室町時代と言われる。平安時代空也上人によって始められた踊念仏が、民間習俗と習合して念仏踊りとなり、盂蘭盆会の行事と結びつき、精霊を迎える、死者を供養するための行事として定着していった。死者の供養の意味合いを持っていた初期の盆踊りは、新盆を迎える家に人々が赴き、家の前で輪を作って踊り、家人は踊り手を御馳走でもてなした。盆には死者が家に帰って来るという考え方から、頬被りをして人相を隠し、死者の生き返った姿に扮した人がその物語を演じたという。
 セクシュアリティ研究の立場からの様々な見解
 踊り念仏は、鎌倉時代には一遍上人が全国に広めたが、一遍や同行の尼僧らは念仏で救済される喜びに衣服もはだけ激しく踊り狂い、法悦境へと庶民を巻き込んで大ブームを引き起こした。それ以降は、宗教性よりも芸能に重点が置かれる念仏踊りが生み出され、人々はさらに華やかな衣装や、振り付け、道具、音楽などを競うようになった。室町時代の初めには、太鼓などをたたいて踊るようになったといわれている。現在も、初盆の供養を目的の盆踊りも地域によっては催されている。太鼓と「口説き」と呼ばれる唄に合わせて踊る。口説きは、地区の伝統でもある。初盆の家を各戸を回って踊る所もある。昔は旧暦の7月15日に行われていた。ゆえに、盆踊りはいつも満月であった。
 鎌倉時代以降、経済力や自治力を得た民衆により新奇な趣向が次々に考案され、江戸時代初頭には絶頂を極めることになる。江戸では7月に始まり連日踊り明かしながら10月にまで続いた。次第に盆踊りは性の解放のエネルギーと結びついていく。日本では性は神聖なものとされ、神社の祭礼を始めとし、念仏講、御詠歌講など世俗的宗教行事の中心に非日常的な聖なる性があるべきと考えられるようになり、盆踊りは性の開放エネルギーを原動力に性的色彩を帯びるようになる。明治時代にはしばしば風紀を乱すとして警察の取締りの対象となって一時は激減していた。盆踊りは未婚の男女の出会いの場にとどまらず、既婚者らの一時的な肉体関係をもつきっかけの場をも提供していた。ざこ寝という、男女が一堂に泊まり込み乱交を行う風習も起こり、盆踊りとも結びつき広まり、ざこ寝堂はほとんど全国の農村には存在した。これは昭和時代に至っても続いていた。
 出雲阿国による一風変わった男装の念仏踊りは歌舞伎踊りと言われた(歌舞伎のかぶくとは、「常識外れ」や「異様な風体」と言う意味)[要出典]。以後、歌舞伎など様々な芸能へと派生していったが、歌舞伎も売春を伴い幕府より厳しく取り締まりを受けていたことから鑑み、盆踊りに限定されず芸能全般に性が結びついた江戸文化風俗の一端と言える。
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ニッポンのマツリズム 祭り・盆踊りと出会う旅
ザ・ベスト 日本の盆踊り 
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 日本の祭りは、すべて神道もしくは仏教の宗教行事で、全員参加が原則で、参加しないと村八分にされた。
 日本の祭りには、日本列島の中で、ムラ・集団・共同体として助け合い協力し合って生きていく智恵と技術を確かめ合い維持し、それを正しく子孫に伝えていくという重要な役割があった。
 日本の伝統的祭りは、人集め、金集めが目的の強欲な商業イベントではなく、領主・支配者・権力者・勝者の権威付けの為の俗欲な政治ショーでもなかった。 
 日本の祭りの中の歌や踊りは、教養なき下層階級の庶民生活から自然発生的に生まれたもので、宗教性、政治性、イデオロギー性などは敬遠されて意図的に排除されている。
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 盆踊りや夜祭り・宵宮は、老若男女の自由恋愛の場であり、若い男女にとっては婚活の場でもあった。
 若い女性・少女は、親の言い付けで10歳代で結婚した。
 ムラでは、夜這いが普通におこなわれていた。
 公衆浴場は、男女混浴であった。
 子宝の温泉には、女性客の体を洗い流す三助(男)がいて、温泉の御利益で子供を授かったといったとき子供は懇意になった三助の子であった。
 地方では、自分の子供を血の繋がりのない赤の他人の夫婦に養育させるという「托卵」行為があった。
 夫婦・親子のの定義、認識は、武士・サムライと庶民(百姓や町人)では全然違っていた。
 明治時代。キリスト教会は、以上の行為は未開人が行う野蛮行為であり近代国家には似つかわしくないとして明治新政府に禁止・廃止を求めた。
 女性差別が酷くなり、女性が生き辛くなったのは、キリスト教の家父長主義が日本を毒したからで、それをさらに救いようがない程に悪化させたのが儒学原理主義朱子学儒教)の男尊女卑思想であった。
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 敗戦後、バブル崩壊後、マルクス主義共産主義政教分離の原則から廃止できる祭りは廃止させ、廃止できない祭りは宗教性を抹消した。
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 江戸時代のムラには、土木や建築などを生業としている専門職人ははいなかった。
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 農耕・漁労・狩猟・採取などの生業とモノ作りの副業で生きてきた日本民族は、一年を季節に合わせた働く時期と働かない時期にわけ、働く時は手を抜かず汗水垂らして重労働し、働かない時は祭りや余暇を楽しんだ。
 日本民族は祭り好きで、祭りとなれば羽目を外し、喜怒哀楽を露わにし、陽気に踊り、気持ちよく歌い、浮かれ騒いだ。
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 盆踊りで最も重要な事が、毎年、地域の素人達、男も女も、老人も子供も、全員が寄り集まって俄大工となり、村の長老の指示で作業の役割分担を決め、全員参加で協力し、得意な分野の作業・作事で、年齢に関係なく経験者の指図に従って本職の建築家や土木屋が造るような立派な櫓を建てる事であった。
 ただし、動けない・働けない病人、怪我人、障害者そして幼い乳幼児を抱えた女性は免除され、決して無理強いはしなかった。
 情けは人のためならず、お互いさま、相身互い、助け合いという、日本民族の生き方であった。
 それが、それは日本列島で生きる為に必要な事であった。
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 1980年代までは、夏となれば、日本全国津々浦々、至る所で夏祭り・盆踊りが行われ、子供が喜んで踊りたくなるような○○音頭が作られた。
 老若男女、だれでもが盆踊りの輪に加わって一緒に踊って楽しんだ。
 日本の盆踊りは、西洋の紳士淑女の社交ダンスや中国・北朝鮮の政治的マスゲーム(集団ダンス)とは違う。
 何処がどう違うかと言えば、政治、イデオロギー、宗教(神仏)、人種・民族さらには時空や生死さえも超えて、身分や地位、貧富などの人間的俗的な如何なる垣根をも消し去り、上手い下手も関係なく、その場の輪に加わって一緒に楽しみながら踊る事である。
 つまり、個人ダンスや集団ダンスではなく集団踊りである。
 宗教性といっても、狂信とは無縁である。
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 日本民族の精神的強みは、縦の繋がりの祖先・私・子孫と横の繋がりの自分・他人も皆一緒、ここに居る者全員が一緒くたんという夏祭り・盆踊りで培われ強化され深化していた。
 それが、日本の集団主義である。
 つまり、日本郷土料理でいう全の具材を一つの器で煮込む鍋料理である。
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 2000年代に入り、夏の風物詩・毎年の恒例行事であった地域の盆踊りが減少し始め、学校や公園で行われていた盆踊りを「騒音だ!」「うるさい!」「宗教行事で公共の場を利用している!」「風紀を乱し治安を悪化させる!」などという「個人の自由」と「宗教の自由」による反対意見で中止に追い込まれている。
 真の原因は、騒々しさを嫌う活力が失せた老人が多く、活気溢れるにぎやかを好む若者が少ないという少子高齢化による人口激減である。
 出生数は減る一方で、人口激減は続いていく。
 老人の夢・希望は、今この時と、数ヵ月先か、長くても数年先どまりで先がない。
 若者の夢・希望は、今この時と、20年先、30年先、50年先、さらには100年先でとまる所、つきる所がない。
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 現代日本では、リベラル派戦後民主主義教育世代とその薫陶を受けた有能・優秀な次世代である、反天皇反日本・反宗教無神論マルクス主義共産主義)信奉者である高学歴な知的インテリや進歩的インテリによる、神話殺し、神殺し、仏殺しそして祖先殺しが行われている。
 彼らは、日本列島から日本民族を消し去ろうとしている。
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 現代日本では、各地にある宗教所縁の伝統的祭りは、観光資源として宗教性を排除した人寄せ・金儲けのイベントと化している。
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 現代の日本人は、昔の日本人とは違って民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がないだけに、地・地縁としての世間・郷土・国土に対する愛着はなく、西洋及び中華の科学的合理的論理的な宗教分離の原則から、日本民族の情緒的そして現実的な血・血縁の祖先がある想いを子孫・後世に伝えるべく始めた宗教行事を無意味無価値として潰し、日本から消滅させつつある。
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 日本民族の伝統的宗教文化の象徴が、神の血筋を唯一絶対の神聖不可侵の「正統」とする世襲制男系父系天皇、つまり現皇室である。
 神の血筋を正統たらしめているのは、太陽の化身とされる最高神の女性神天照大神である。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、奴隷として買った日本人を世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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🏞60)─1─松尾芭蕉は政変に巻き込まれない為に逃亡した。『蛙飛びこむ水の音』の謎。~No.258No.259 

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 2021年7月23日号 週刊朝日「コンセント抜いたか  嵐山光三郎
 古池や蛙飛びこむ水の音
 ……
 ヨシ子さんは『きのうのこと』のように話す。田圃の用水が流れてきて古池にたまる。古池の鯉が、池に張った金網の上を這うカボチャを食べた。水面下からカボチャの実を吸うように囓るので、紙風船みたいな空洞カボチャになった。
 古池は鯉、田圃は蛙という取りあわせだが、芭蕉のおかげで『古池や』とくれば『蛙飛びこむ水の音』となりました。
 貞享3(1686)年春、深川の第二次芭蕉庵で芭蕉の句『古池や・・・』を巻頭において、蕉門(しょうもん)による20番勝負『蛙合(かわずあわせ)』が興行された。句合(くあわせ)は歌合(うたあわせ)の俳句版で、持ちよった句の勝ち負けをきわめた。蛙を兼題として芭蕉ほか40名が句を提供した。
 これが薄い半紙本となって芭蕉の名を天下に知らしめた。ときに芭蕉は43歳で、8年後に51歳で没する。この句で注目するところは、鳴く蛙でなく、飛ぶ蛙をつかまえ、『水の音』を発見した一点にある。
 句が詠まれたのは深川ですから、私はたびたび芭蕉庵の跡を訪れ、隅田川や小名水川沿いを歩いて廻ったが、蛙が飛びこむ音を聴くことはなかった。蛙は池の端からするり、と音をたてずに水中に入っていく。芭蕉の『水の音』は幻聴であり、それを句にしたてるために弟子40人を集めて句合興行をした。
 巷間伝えられる芭蕉伝は『日本橋喧騒から逃れてひとり枯淡(こたん)な侘(わび)、寂(さび)の境地を求めた』、というきれいごとだが、後世の人が勝手に『美化』した。
 芭蕉は逃げたんですよ。さあ、これからというときに政変がおこった。
 芭蕉がここまできた背景には藤堂家のうしろだてがある。藤堂家の江戸詰めは藤堂高久(高虎の孫)で大老酒井忠清の女婿(じょせい)である。11歳で4代将軍になった家綱は処理しなければならない用件がおこると忠清に丸投げして『左様(そう)せい』というだけであったから『左様せい様』といわれた。忠清の思うまま。俳諧武家の教養として推奨されたので、宗匠は新時代の文人旗手であった。伊賀上野の無足人の子として生まれた芭蕉は、藤堂新七郎家のうしろだてを得て江戸に出て、ようやく名が売れたときに、忠清が失脚した。
 5代将軍綱吉の母は京都の八百屋の娘で通称お玉という。13歳のとき公家六条家の娘お万にやとわれ、大奥へ入り、家光の目にとまって寵(ちょう)を受けた。江戸時代のシンデレラ姫だが、それまでの徳川4代すべてが直系であった。
 綱吉は小男(一説では身長124センチ)で極度のマザコンだった。酒井忠清を憎むことは徹底していて、大老解任の翌年に忠清が死ぬと藤堂高久に『自殺か病死か調べてこい』と命じた。
 自殺(切腹死)ならばお家とりつぶしとなる。高久が『病死にまちがいありません』と答えると、『墓を掘りおこして死骸を踏みくだいてこい』とまで厳命した。綱吉は愛憎ともに極端な性格で、この話は江戸中ひろく知れわたった。
 綱吉による酒井忠清がらみの粛清の嵐あ吹き、藤堂家ゆかりの下っ端の芭蕉も『桃青門弟独吟二十歌仙』が刊行されたばかりで目立っている。このまま日本橋俳諧宗匠をつづければ、目をつけられる。難を避けるために剃髪して出家を装(よそ)うことにした。
 逃げるさきは弟子杉風(さんぷう)が知りあいの伊奈代官家の深川の長屋だった。杉風が扱う川魚は利根川、荒川や隅田川でとれ、その地域は伊奈代官家の管轄である。
 ほとぼりがさめた6年後、貞享3(1686)年春、第二次芭蕉庵で『蛙合』興行となった。
 それまで『鳴く蛙』は詠まれたが『飛ぶ蛙』は芭蕉の創作である。
 綱吉は『生類憐れみの令』を出し、鳥肉、えび、貝を食べてはいけない。犬を傷つければ大罪で、猫、猪、鹿、雀を殺してはいけない。金魚は池に放った。腕に止まった蚊を手で打った者は島流しとなった。犬公方と呼ばれた。
 蛙という小動物を兼題として『蛙合』は時流に沿ったもので、綱吉への目配りがある。
 『蛙飛びこむ水の音』を見つけた芭蕉は『これだ!』と意気ごんだ、さて、上五(かみご)をどうするかと思案した。飛びこむ蛙とは世間である。
 いろいろ考えて『古池や』とつけた。これは、ただの『古池』ではなく、ふるは『経る』『歴(ふ)る』で、時間がたつという意味である。月日を数える。日数をふる。
 天和元年(芭蕉38歳)の芭蕉の句に、
 世にふるもさらに宗祇(そうぎ)のやどり哉
 がある。時がすぎゆくのは、そこに宗祇翁が宿っているからだよ、という詠嘆(えいたん)である。宗祇は室町末期の連歌師で、みちのくの旅をして『世にふるも更(さら)に時雨(しぐれ)のやどり哉』(時がすぎゆくのは、時雨で雨宿りするようなものだ)がある。時間が経ること、雨が降ることを重ねた吟で、それを念頭において『古池』。ふるさとも『時間が経る里』という意味である。
 ふる池には『月日がたった池』が寄りそっている。時間をかけて再生されていく池。世をふることによって新しい命が生まれてくる。
 老母ヨシ子さんがくりかえす『昔の思い出話』も『ふる池』である。『ふる池』はあらゆる人間の心の奧にひつそりとある池で、そこに蛙がポシャンと音をたてて飛びこむ。池の波紋に幾層もの物語が重なるのですね、きっと。」
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 日本の伝統文化は、中華文化(中国文化、朝鮮文化)とは異質な文化で、韓国文化とは縁もゆかりもない別種の文化である。
 日本文化は、90%朝鮮半島起源の文化とは無縁である。
 故に、日本民族の伝統文化において現代中国や韓国・朝鮮に感謝する事は何もない。
 韓国が、日本文化に対して主張しているウリジナルは全くのウソである。
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 2017年1月29日 産経新聞「「芭蕉忍者説」を検証 三重大・吉丸准教授が起源など解説
 俳人松尾芭蕉(1644〜1694)の愛好家や忍者ファンならずとも広く知られた芭蕉忍者説を考える講演会「芭蕉忍者説の傾向と対策」が28日、伊賀市上野丸之内のハイトピア伊賀で開かれた。三重大の吉丸雄哉准教授(日本近世文学)が、説の起源や信憑性を解説した。
 芭蕉忍者説には、芭蕉が伊賀の無足人(準士分の上層農民)で伊賀者(=忍者)として藤堂藩に雇われていたとする説や、芭蕉が歩いた「奧の細道」の足跡は忍者と思えるような健脚ぶりを示し、東北諸藩の情勢を幕府が芭蕉に探らせる裏の目的があったといった説がある。
 吉丸准教授はこうした説に対し、「芭蕉は無足人の流れをくむが、父の代ではすでに農民で伊賀者とは無関係」「歩く速度は当時の健脚な日本人と変わらない」と指摘。「芭蕉は早くから神格化され逸話の多い人物だが、忍術を使った話が残っていない」とも話し、忍者説を裏付ける痕跡は存在しないと強調した。ただ、「奧の細道」に同行した弟子の曾良(そら)の忍者説については「蓋然性がある」とした。
 また、芭蕉忍者説の起源として、作家の松本清張氏と考古学者の樋口清之氏が共同執筆した『東京の旅』(昭和41年)で特定の秘密任務を帯びた忍者として推測されていることを挙げ、推理小説家、斎藤栄氏の『奧の細道殺人事件』(同45年)や連続テレビ時代劇「隠密・奥の細道」(同63年〜平成元年)などによって広く定着していく過程を明らかにした。
 吉丸准教授は「芭蕉忍者説は証明できない幽霊のような存在。芭蕉は偉大な俳人、世界に誇る詩人であり、忍者をセットにして評価を高めようとするのはおせっかい」と話した。
 講演は、三重大人文学部と上野商工会議所が企画した「忍者・忍術学講座」の第4回で市民ら約90人が聴講。第5回は2月18日午前10時半に同じ会場で、中部大人文学部の岡本聡教授が「芭蕉のネットワークと藤堂家」をテーマに話す。」
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 三重県 環境生活部 文化振興課 文化企画班
 俳句のくに・三重
 松尾芭蕉の生涯 コラム
 変身願望
 戦国の世、戦の時代から「太平」の時代へと時が移り、町民の生活にも豊かさが芽生え始めました。大阪・京都を中心とした元禄文化が生まれたのがこの時代です。この豊かな時代の中で文化が育まれ現在も伝承され続ける「歌舞伎」等が生まれました。役の中で“男性が女性を”“女性が男性”を“演ずる”という文明社会ならではの現象が生まれたのです。文学の世界でも、その作品の中で自分を他の“役柄”“異性”“職業”…に置き換え“演ずる”という事が行われています。 豊かな時代、人々は自分以外の者を演ずる事に憧れを持つのかもしれません。芭蕉たちも、連句の中で他人になりきり句を詠むという事を楽しんでいた様です。
 商人のお墨付き
 この時代、街道整備が進み物流の流れが生まれました。この交通手段の発達により、商人の台頭が見られ始めたのもこの時代です。現在でも活躍する大手銀行等が生まれたのもこの時代です。物流の流れは“お金の流れ”を生み、新たな勢力“商人”が力を持ち始めたのです。そして、この商人たちに一目置かれたのが“芭蕉”なのです。彼ら商人は言葉巧みに商いを展開していくのですが、“言葉使いの達人”である“芭蕉”を崇拝し活動のサポートを行っていたようです。さながら“芭蕉ファンクラブ”といったところでしょうか。
 芭蕉を名乗る
 「松尾芭蕉」を語るとき“「芭蕉」前・「芭蕉」後”という言葉が使われることがあります。1681 年、38 歳の時 門人李下が庵の庭に植えた芭蕉一株によって、芭蕉が庭にある庵の主の意で自らも「芭蕉」を号とするようになりました。そしてこの年の12 月、芭蕉は自分の事を“翁(おきな)”と名乗り始めました。芭蕉の数々の名句は皆さんご存知のところですが、今も語られるその名句、紀行文のほとんどは「松尾芭蕉」を名乗った後の業績なのです。現在の38 歳は仕事もバリバリにこなせる年齢ですが、当時人生50 年の時代から考えると、かなりの高齢と言っても過言ではありません。名前を変えた途端に精力的に旅に出向き、数々の名句を残す。まさに“覚悟を決めた”という感じでしょうか。「芭蕉前」は全く無名だったのに「芭蕉後」に一気に人気者へ。人生何が好転をもたらすかわからないものです。
 ベストセラー生まれる
 書籍分野に革命的な変化をもたらした技術がこの時代におこります。それは“版本”です。今でこそ書籍を印刷する技術はあたりまえのことなのですが、当時は写本からようやく版本の時代に移ろうとするところでした。この技術により多くの書籍を発行することが可能になり、出版文化が華開いたのです。井原西鶴好色一代男』のベストセラーもこの技術の賜物です。工業技術の進化が、文化の後押しをし始めた時代の始まりです。ちなみに海外では1455年グーテンベルクにより初めての活版印刷物『四十二行聖書』が160~180部程度発行されました。まさに、メディア文化が誕生したのです。
 旅への情熱
 現在とは異なり、交通手段の限られていた江戸時代。“旅への情熱・憧れ“は私たちよりも強いものがあったかもしれません。『奥の細道』の序を垣間見ても、旅へのワクワクした気持ちを強く感ずることができます。各所に関所があり、移動時間も今とは比べ様のないほど費やした時代、国内旅行ではありますが 現在の海外旅行以上の価値があったのかもしれません。
 「奥の細道」第2幕
 芭蕉が旅を終え、自分自身の旅路にも幕が降ろされた後、数々の紀行文が生まれました。芭蕉の足跡を巡る旅をする方々が今も数多く居られます。芭蕉が残したその多くの俳句は今も輝きを放ち、私たちを“想像の旅路”へと掻き立てるのでしょう。松尾芭蕉が没して300年以上たちますが、五・七・五で表現された日本の風景は、今も私たちの心に響きをもたらします。十七音で表現される日本独特の文化“俳句”は日本人誰もが楽しむことのできる共通の文化なのでしょう。
 元禄文化化政文化
 江戸時代前期の文化を「元禄文化」、後期を「化政文化」といいます。松尾芭蕉の生きていた時代は元禄文化にあたります。元禄文化は商品経済が発達し、経済力をもった町人を中心としておこりました。華やかで活気に満ちた文化で歌舞伎などで花道、回り舞台など現在も使用され技法もこの時代に発明されたものです。工芸、陶芸も発達し華やかなものが持てはやされ始めたのもこの時代です。 一方、江戸後期の文化「化成文化」は江戸、大阪などの都市部だけでなく全国各地で様々な文化活動が活発に行われた時代でした。『里美八犬伝』『東海道中膝栗毛』や写楽葛飾北斎歌麿といった浮世絵の画家も多く排出されてます。裕福な農民、商人の中には茶道、華道を学ぶ者もいました。交通の発達(街道の整備)により文化、風俗の交流が全国規模でおこりました。
 芭蕉イズム~芭蕉は今も生きている~
 1694年に芭蕉がその俳諧人生に幕を閉じてから現在で3世紀の時が流れました。芭蕉の死後、彼の弟子達により俳諧は引き継がれますが、流行に波がある様に俳諧にも浮き沈みがあった様です。しかし、芭蕉死後 半世紀ほどたつと「与謝蕪村」が誕生し俳諧が再び脚光をあびます。そして、江戸後期には日常の生活感情を俗語を駆使して表現した「小林一茶」が現れ文化の脈絡は引き継がれていきました。明治維新以降、西洋の影響を多大に受け 人々の生活そして文化にも新しい流れが生まれます、その中にあっても松尾芭蕉が作り上げた俳諧は再度注目をあび「芥川龍之介」の『芭蕉雑記』『続芭蕉雑記』で取り上げられています。また正岡子規は評論『芭蕉雑談』の中で芭蕉を批判するのですが、その反響は大きく、「芭蕉」「蕪村」を新たに見直した新派俳句へとつながっていきます。俳句という呼称は子規により提唱されました。このように、芭蕉の偉業は多くの研究者、文学書等 様々な人々の関わりの中 3世紀という時を経ても現代にも引き継がれているのです。そう、「芭蕉は今も生きつづけている」のです。
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 朝日日本歴史人物事典「松尾芭蕉」の解説
 松尾芭蕉
 没年:元禄7.10.12(1694.11.28)
 生年:寛永21(1644)
 江戸前期の俳諧師。正しくは単に芭蕉伊賀国上野(三重県上野市)の人。父は農作を業としながら正式に松尾の姓を有する家柄。幼名は金作。成長して通称を甚七郎,また忠右衛門,藤七郎とも伝え,名を宗房と名乗る。俳号ははじめ宗房,のち桃青。別号,坐興庵・栩々斎・花桃夭・華桃園・泊船堂・芭蕉洞・芭蕉庵・風羅坊など。「芭蕉」「はせを」の号は,はじめ庵号に由来する戯号であり,愛用したけれども,神社・仏閣に奉献するような改まった場合には,晩年に至るまで桃青・芭蕉桃青・武陵芭蕉散人桃青というような署名をした。 若年にして伊賀上野の藤堂藩伊賀支城付の侍大将(知行5000石)藤堂新七郎良精家に仕える。身分は料理人であったが,主君の若君藤堂良忠(俳号,蝉吟)と共に俳諧を嗜むことになった。寛文6(1666)年蝉吟の死とともに仕官を退き,俳諧に精進する。延宝初年,30歳代のはじめには江戸に出て上水道工事に携わったりするが,やがて職業的な俳諧師の道を歩む。延宝8(1680)年には『桃青門弟独吟二十歌仙』を刊行するに至り,当代における代表的選者のひとりと目されるようになったが,同年冬に突然江戸市中から退き,深川に草庵を結んで隠逸の生活に入る。すなわち芭蕉庵主の誕生である。生活は,数人の気心の知れた門人・知友によって支えられたらしいが,その緊張感にみちた高雅な句風が,次第に支持層を強固にしていった。貞享1(1684)年以後は,『野ざらし紀行』(1685,86頃),『鹿島詣』(1687),『笈の小文』,『更科紀行』(1688),『奥の細道』などに描きとどめられた種々の旅行を繰り返し,その死もまた,上方旅行の途中の大坂においてであった。その足跡は,陸奥平泉(岩手県平泉町)・出羽象潟(秋田県象潟町)を北端とし,播磨明石(兵庫県明石市)を西端とするが,夢想としての旅はさらに西国筋まで思い描かれていたらしい。 一般に庵住(隠棲)と行脚(旅行)は,一対として出家修行の2形態であり,芭蕉が深川の芭蕉庵を基点としつつも,近江(滋賀県)の幻住庵・無名庵や,山城(京都府)嵯峨の落柿舎(門人去来の別邸),郷里上野の実家屋敷内の草庵など,各地で長期・短期の庵住を営み,そのあいだ,あいだを旅に過ごしたのは,修行者としての実践のかたちを踏んだといえる。「拙者,浮雲無住の境界大望ゆゑ,かくのごとく漂泊いたし候」と書いた芭蕉は,実際に「手に十八の珠」(『野ざらし紀行』)の黄檗禅の数珠をかけて歩いていたらしい。この実践を通じて,心境は鋭く研ぎすまされ,作品は,典雅・高踏を抜け出て,やがて自由闊達な,軽快・余裕の境地に至った。俳諧が根本的に要求されるユーモアの精神を人格的な寛仁の中に位置づけたのである。ふつう芭蕉七部集と呼ぶ書物のうち,『ひさご』,『猿蓑』(1691)以降の集は,日本文学史の上での大きな転換点を具現している。その芸術的達成は,筆跡の上にも現れているが,また『野ざらし紀行画巻』や『旅路の画巻』などの長大な画作を残し,この方面でも素人離れのした才能を示した。<参考文献>大谷篤蔵監修『芭蕉全図譜』,上野洋三『芭蕉論』『芭蕉,旅へ』
(上野洋三)
 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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芭蕉全句集 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
松尾芭蕉 (物語と史蹟をたずねて)
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 日本民族は、哲学・思想・イデオロギーなどを論理的合理的科学的に書かれた「理知的」な小説ではなく、歴史・宗教・文化・伝統、生活・習慣など身近な現実を「情緒」で包んだ神話・説話・物語、逸話・民話を信じて生きた人々であった。
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 日本の歴史には、各時代の勝利者・支配者・権力者によって都合よく改竄されている為に事実・現実が伝わってはいない。
 つまり、日本の歴史は偽史であって正史ではない。
 特に、1956年、1980年、2010年と、国際社会や近隣諸国の圧力で日本の歴史は醜く歪められ、現代にいたっても正しく書き直されていない。
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 江戸時代の趣味人・表現者は、表面的な見栄えだけを気にして中身のない薄っぺらに満足する現代のマルクス主義・左派系表現者とは違い、高度な教養、人としての品格・品位、そして揺るぎのない信念、何事にも動ぜず怖れぬ覚悟、新しいモノへの尽きる事なき好奇心、古典・伝統を極めたいという求道心があった。
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 江戸時代の趣味人・表現者が目指したのは、権力・権威の御墨付きではなく、大金を出して買ってくれる厳しい目利きの世間の評判と辛辣な庶民の評価に耐える事で、誰からも見向きもされない関心も持たれない独り善がり・自己満足ではなく、日本一飛び抜け卓越したナンバーワンであり、誰にも真似ができない自分だけの独創的なオンリーワンであった。つまり、時空の壁を打ち破っていく事であった。
 江戸庶民文化が伝統的日本文化として現代まで受け継がれてきたのは、この為である。
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 世間・庶民が求めたのは、権力・体制の庇護を受けた御用・お抱えではなく、痩せ我慢で粋がったアウトロー的な在野・市井・場末であった。
 つまり、江戸時代の権威には御上公認官学(朱子学)系と庶民承認私学(諸学)系の2種類があった。
 舞踊でも、武士の嗜みである幽玄の能と庶民の娯楽として弾圧された悪所の歌舞伎があった。
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 御上公認官学(朱子学)は、思想・言論・表現を統制する為に、諸改革で私学(諸学)や蘭学を強権を用いて弾圧していた。
 思想・言論・表現の弾圧といっても、昔の日本と現代の日本ではまったく違う。
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🏞85)86)─1─朱子学(儒教)による、寛政期の出版統制、文化期の表現規制。逃亡浮世絵師・葛飾北斎。〜No.358No.359No.360No.361 ㉚ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代の日本人は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいゆえに、不都合な現実・事実の物語が理解できない。
 日本を不幸にしたのは、儒教原理主義である朱子学であった。
 初代徳川家康から8代徳川吉宗までは朱子学は必要であったが、11代徳川家斉松平定信寛政の改革以降は弊害が強くなった。
 朱子学の毒が、日本を悪化させた。
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 反権力反権威反体制といっても、現代アートの反天皇表現者と江戸アートの親天皇表現者とはまったく違う。
 現代日本には、江戸時代の伝統・文化・宗教は断絶され生きていない。
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 ウィキペディア
 葛飾 北斎(宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)は、江戸時代後期の浮世絵師。化政文化を代表する一人。
 概説
 代表作に『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも傑出していた。しかし、北斎の絵師としての地位は「冨嶽三十六景」の発表により、不動のものとなっただけでなく、風景画にも新生面を開いた。北斎は、浮世絵で高い芸術性を表したが、大衆的な『北斎漫画』の中にも彼の卓越した描写力を見ることができる。さらに、読本(よみほん)・挿絵芸術に新機軸を見出したことや、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表したこと、毛筆による形態描出に敏腕を奮ったことなどは、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところ大であった。葛飾派の祖となり、後には、フィンセント・ファン・ゴッホなどの印象派画壇の芸術家を始め、工芸家や音楽家にも影響を与えている。シーボルト事件では摘発されそうになったが、川原慶賀が身代わりとなり、難を逃れている。ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、銅版画やガラス絵も研究、試みたようである。また、油絵に対しても関心が強かったが、長いその生涯においても、遂に果たせなかった。1999年には、アメリカ合衆国の雑誌である『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインした。門人の数は極めて多く、孫弟子も含めて200人に近いといわれる。
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 HOKUSAI TIMES vol.3
 「文春オンライン」編集部
 93 回の引っ越し… …画号を何度も変更……葛飾北斎の奇人エピソードの裏にあった現代にも通じる「深刻な背景」
 {筆で世界を変えた男、葛飾北斎の生涯や偉業を3回にわたって紹介する。最終回は、江戸幕府による厳しい出版統制を紹介。その上で、北斎が90年の生涯に93回引っ越しをし、画号を30回変更した理由を考察したい。同業者や版元が次々処罰される中、北斎が死の間際まで絵を描き続けることができた背景に迫る。}
 江戸幕府による出版文化の弾圧
 浮世絵や洒落本など、さまざまな庶民文化が花開いた江戸時代。しかし、その道のりは決して平坦なものではなかった。葛飾北斎の度重なる引っ越しや改号について考察する前に、まずは江戸幕府による出版文化への弾圧について説明しよう。北斎の生きた江戸時代には「三大改革」が行われた。よく知られる享保・寛政・天保の各改革である。これらの改革では、質素倹約や武芸が奨励されたほか、出版・風俗が厳しく制限された。特に、老中・松平定信主導による寛政の改革では、美人画で名を馳せた喜多川歌麿が手鎖50日という重い刑に処され、失意の中54歳で病没。さらに戯作者・山東京伝らが処罰されたほか、版元の蔦屋重三郎は財産の一部を没収され大打撃を受けている。
 しかし、彼らもただ手をこまねいていたわけではなかった。蔦屋重三郎や絵師たちは、禁止されていた遊女の名前を暗号のように入れたり、役者を動物に例えたりして応戦。幕府に対する反骨精神あふれる行動は大衆から支持されたのであろう。出版業は衰退することなく、より活発になっていった。このような幕府と絵師のいたちごっこの状況で描かれた北斎の作品は『冨嶽三十六景』や『諸国瀧廻り』など景色や旅をテーマにしたものが多く見られる。風景画なら、幕府の弾圧を逃れることができたのだ。そんな北斎も、もとは黄表紙の挿絵や春画など、規制の対象となる作品を手掛けていた。幕府にあの手この手で対抗した結果、前人未踏の風景画に足を踏み入れ、世界を驚愕させた『神奈川沖浪裏』など傑作の数々が生まれたのかもしれない。
 93回。これは、北斎が90年の生涯で引っ越しをした回数だ。『葛飾北斎伝』によると、1日に3回転居したこともあるらしい。その理由として、絵を描くことに追われ掃除をする暇がなく、家が荒れるたびに引っ越していたからだ、などと言われている。しかし、本当にそんな理由だったのだろうか。引っ越しをしたことがある人ならわかるかもしれないが、家を移るには多大なエネルギーを消費する。いくら北斎が健康には人一倍気を配っていたとはいえ、年老いてからの引っ越しはかなりの重労働だったろう。それに、部屋の汚さが引っ越しの理由だとしたら、日に3回も転居するほど荒らす方が難しそうだ。財産を没収された蔦屋重三郎、手鎖に処された喜多川歌麿の例を見るに「北斎は、幕府の弾圧を逃れるために転居を繰り返していた」。そう推測することもできるのではないか。
 「画狂人」など画号を30回変更
 川村鉄蔵。これが北斎の本名だ。そして葛飾北斎という呼び名は、彼の数ある画号のひとつにすぎない。19歳で勝川春章に弟子入りし、勝川春朗の名で役者絵を発表した後、なんと30回も画号を変えている。主なものは「宗理」「戴斗」「為一」「卍」などで、中には「画狂人」という、まさに北斎の生き方を表したかのような強烈なものも見られ面白い。しかし、作家の責任をも表す画号を、なぜ頻繁に変えてしまったのか。その理由として、画号を売って収入を得ていたという説がある。また、規制の対象だった春画は地下出版物として流通したため、隠号を用い幕府の目を欺く絵師もいた。幕府に目をつけられたら、また名前を変えて描けばいい。弾圧を逃れ描き続けるため、そんな「画狂人」らしい理由もあったのではないだろうか。
 映画「HOKUSAI」こんな時だからこそ公開中
 描き続けた生涯、今明かされる、北斎のすべて
 時は江戸。幕府によって表現者たちが自由を奪われていた時代に、自分の道を貫き、ひたすら画を描き続けた一人の絵師がいた。誰もが知る“あの波”を生み出した孤高の絵師、葛飾北斎である。近年、その絵が新千円札やパスポートのデザインに採用され大きな注目を集めている北斎は、ゴッホ、モネなど名だたる印象派アーティストたちを刺激し、今なお脈々と世界に影響を与え続けている。しかし、若き日に関する資料はほとんど残されておらず、その人生は謎が多い。映画「HOKUSAI」は、現存する歴史的資料を元に史実や作品が生まれた年代などを繋ぎ合わせ、北斎の知られざる生涯に迫るオリジナル・ストーリー。平均寿命が40歳だった時代に90歳の長寿を全うし、3万点以上もの作品を残した男はいかに生き、何を描こうとしたのか?画狂人生の挫折と栄光。信念を貫き通したある絵師の人生が、170年の時を経て、今初めて描かれる。
 ©2020 HOKUSAI MOVIE
 出演:柳楽優弥 田中泯 阿部寛 永山瑛太 玉木宏
 監督:橋本一
 企画・脚本:河原れん
 配給:S・D・P
 ※上映劇場は映画公式ホームページでご確認ください
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 江戸文化には二つの大きな流れがあり、政治権力を暴力的に振るう御公儀=徳川幕府が公認して保護する規模の小さい御用文化と幕藩体制を茶化しおちょくり馬鹿にして楽しむ強(したた)かな町人の規模の大きい庶民文化である。
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 朱子学、官学者、御用学者、お抱え絵師。
 私学者、在野の学者、市井の賢者、町絵師。
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 政治権力の御公儀=徳川幕府は、自由な表現の追及する庶民文化を弾圧していた。
 江戸時代は、ブラック社会であった。
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 武士道は、江戸時代には存在せず、大正時代頃から時代小説で新しく作られた物語である。
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 日本出版学会
 Home研究報告秋季研究発表「江戸時代初期から寛政改革期にかけての出版規制再考――ビジュアル公共圏の萌芽状態を観察する」鎌田大資(2016年12月 秋季研究発表会)
 「江戸時代初期から寛政改革期にかけての出版規制再考――ビジュアル公共圏の萌芽状態を観察する」鎌田大資(2016年12月 秋季研究発表会)
 2018年2月12日 秋季研究発表
 江戸時代初期から寛政改革期にかけての出版規制再考
――ビジュアル公共圏の萌芽状態を観察する
鎌田大資
椙山女学園大学
 本報告では,ハバーマスの公共圏論の日本版を意識しながら江戸時代の出版業の歴史を考察した。ハバーマスは,英仏市民革命の前後を中心に18世紀から20世紀中葉頃までを考察している。日本でも同時期に,代表的産地である京都,江戸のみでなく,地方各地にも木版印刷物が市販され,流通する形態が確立しつつあった。
 桃山時代に一時的に試行された高コストな活字印刷のあと,江戸時代初期以降には,木版印刷が試行され定着した。当初は京都で制作される宗教書などが中心で特に規制の必要もなかったが,やがて切支丹禁令に抵触するキリスト教教理への言及を根絶させ,大名家や寺社など名望家たちに関する流言流布の防止を意図した規制が開始される。元禄期を中心とする綱吉時代の出版規制は,問題の所在も,幕府側の取締り方針も明示せず,統制側の意図や目的を読みとれない形で実施された。たとえば絵師,英一蝶や,江戸落語の開祖,鹿野武左衛門らは追放刑にあったことだけは確実と思われるが,処罰の理由は不明である(馬の物云う事件)。
 吉宗の享保の改革に至り,享保7年(1722),南町奉行大岡忠相らの協力で,従来の出版規制の方針を集大成して周知させる触書が作成され,版元の株仲間による自主規制と幕府による書物の公認制度が確立する。統制側の意図が明示されたことで禁を犯す業者も減り,しばらく取締り自体が影をひそめる。
 ところが,幕府が支配する知的秩序の刷新を意図する松平定信寛政の改革により,世相批判の洒落本が処罰され,泥棒を見て縄をなう式の場当たり的な規制が再導入される。武士,町人を問わず同好の士が交わり,楽しみを共有していた天明期の狂歌壇は活動休止に追いこまれた。書き手不足に苦しむ新興有力版元,蔦屋重三郎が重用し,絵師から作者に転じた作家,山東京伝俳諧絵本の挿絵画家から美人画の作者へと転じた絵師,喜多川歌麿らによって,文字表記を浮世絵に書きこむ技法として,のちに規制に抵抗する表現技法となった「判じ絵」が導入された(図1,2)。
 それを幅広く体系的に発展させて一世を風靡したのは,天保期をはさんで活躍した歌川国芳である。国芳は「判じ絵」を文字絵としてだけでなく,家紋により物語上の人物と幕府の現役政治家を二重に表象するやり方でもちい,発禁処分を免れる多彩な表現を可能にした。ただし実際に規制を逃れるためには,取調べを受けても作品意図に関する言い訳となる故実を調査し,その風刺画により利益を得る勢力を後ろ盾として作に当たる慎重さが必要だったと推測される。「判じ絵」で,老中,水野忠邦のような幕府要人を批判する際には,幕閣内の反対勢力,幕府御用商人である版元などの多様な思惑や相互作用が推定されている。
 上記の研究に際し,シンボリック・インターラクショニズムの伝統のうち,犯罪学とも関連するレイべリング理論の知見に言及し,時代相の特性を浮き彫りにする。革命終結後,帝政,王政,ブルジョワ政権と,政治制度の変遷が激しかったフランスにおいて,社会学という言葉は1830年代に造語された。そうした歴史を忠実に反映して,「憲法に守られ市民社会をもたらす公共圏」が成立し,人権思想の理念を組みこんだ最高法規としての憲法のもとにある社会に適用すべく,各種の社会学理論は構想された。
 すなわち,享保以前の取締り方針自体が公表されない時代は,将軍家の恣意的な意向による処罰を受けた人々が罪の自覚を得て,社会的反作用として逸脱的なアイデンティティを形成するはずだというレイべリング理論の適用範囲外となる。同様に寛政改革期においても,享保改革でひとたび定められた基準に抵触しない作品も取締りの対象となり処罰を受けた。この際にも,従来の触書から敷衍して処罰の可能性を事前に知ることは不可能であり,取り調べを受けた側に犯罪者の自覚は育ちにくい。規制に対する社会的反作用として「判じ絵」の技法が確立していくことも,規制を受ける側がそれを逃れようと工夫した規制逃れの方策にすぎない。ただし,やがて幕末となり外様雄藩の連合による幕府打倒という事態が実現すると,寛政期に開発され出版物にその痕跡を止める「判じ絵」による批判の社会的影響力が増大していくことが予測される。今後,天保改革期,幕末期,明治,大正,昭和と研究を継続する予定である。
 参照文献
 鎌田大資,2015,「日本出版統制史再考――序説・江戸時代初期享保以前」『金城学院大学論集』(社会科学編),12(1):54-70; 2016
 「判じ絵,迷走の果ての抵抗――絵師,作者,版元らの寛政改革への対処をめぐって」『現代社会学部紀要』10(1): 1-39.(中京大学
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 東京大学教員の著作を著者自らが語る広場
 書籍名 歴史文化ライブラリー
 江戸の出版統制 弾圧に翻弄された戯作者たち
 著者名 佐藤 至子
 判型など 240ページ、四六判
 言語 日本語
 発行年月日 2017年10月18日
 ISBN コード 9784642058568
 出版社 吉川弘文館
 娯楽小説が出版され、不特定多数の読者がほぼ同時期にそれを読む。現代では珍しくもないことだが、こうした読書のしかたが生まれたのは印刷技術が民間に普及し、商業的な出版がおこなわれるようになった江戸時代以降である。
 本書がとりあげるのは、江戸時代後期 (18世紀中頃~19世紀) の江戸で出版された娯楽小説と、それに対する出版統制、および自主規制の問題である。
 当時の江戸では、戯作 (げさく) と呼ばれる娯楽小説が多数作られていた。豊富な挿絵をもつ黄表紙 (きびょうし) や合巻 (ごうかん)、遊里を描く洒落本 (しゃれぼん)、伝奇的な歴史小説といっていい読本 (よみほん)、男女の恋愛模様を綴った人情本 (にんじょうぼん) などである。
 戯作ということばは、もともとは戯れの著作、知識人の余技としての執筆という意味をもつ。しかし江戸時代後期の商業出版に組み込まれた戯作は、単なる趣味の産物ではない。版元にとってそれは商品である。つまり、それが売れるかどうか、出版にかけた費用が回収できるかどうかが重要な問題となる。
 売れるものにするためには、二つのことがポイントになる。読者の需要に応じた内容であることと、書籍を取り締まる法令に違反しないことである。
 戯作に対する取り締まりの根拠となる法令は、好色本の絶版などを命じる享保七年の出版条目であった。以後の取り締まりは、この法令に新たな規制や制度を付け加えるかたちで進められている。
 本書では、寛政の改革、文化期、天保の改革という概ね三つの時期に焦点をあて、それぞれの時期に戯作に対してどのような統制がおこなわれ、作り手たちがそれにどのように対処してきたかを、具体的な事例を取り上げて述べた。
 寛政の改革に伴う黄表紙や洒落本の絶版、戯作者山東京伝の処罰、天保の改革に伴う人情本や合巻の絶版、戯作者為永春水の処罰などは、比較的よく知られるところである。本書では、それらに加えて、一般にはあまり知られていなかった文化期の表現規制についても詳しく言及した。
 戯作に対する規制は、好色本と見なしうる著作の禁止や、悪人・怪異描写の制限などにとどまらず、作中の時代設定や、装丁上のことがらにまで及んだ。娯楽小説に過ぎない戯作が、なぜそこまで厳しい統制を受けることになったのか。その答えは、本書を読んで考えていただければと思う。
 江戸時代は現代と地続きである。江戸の戯作に対する統制の歴史や作り手による自主規制の実態を知ることは、現代の表現規制や自主規制の問題について考えるうえで、多くのヒントを与えてくれるだろう。
 (紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 准教授 佐藤 至子 / 2018)
 本の目次
 近世という窓から現代を考える―プロローグ
 寛政の改革黄表紙
 山東京伝と筆禍
 文化期の出版統制
 天保の改革人情本・合巻
 戯作の生命力―エピローグ
 あとがき
 主要参考文献
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 ベネッセ教育情報サイト
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 ME>日本の歴史特集>寛政の改革とは?寛政の改革を行った人物と改革の内容5つ
 寛政の改革とは?寛政の改革を行った人物と改革の内容5つ
 寛政の改革を行った人物とは?
 寛政の改革は老中・松平定信によって主導された改革です。松平定信は8代将軍徳川吉宗の孫で、陸奥国白河藩主(むつのくにしらかわはんしゅ)でした。
 10代将軍の世継ぎにと望まれていましたが、当時実権を握っていた田沼意次(たぬまおきつぐ)によって白川松平家の養子に出されます。その後白川家の家督を継ぎ、白川藩主として天明の飢饉を乗り切り、藩政を立て直した功績によって名君と称えられました。
 そして1787年には老中首座(ろうじゅうしゅざ)、翌年には将軍の補佐役にして、寛政の改革に取り組みます。松平定信は、祖父徳川吉宗享保の改革を手本として幕藩体制の立て直しを目指しました。
 寛政の改革は江戸の三大改革の一つ
 8代将軍徳川吉宗の治世で行われた享保の改革と、12代将軍徳川家慶(とくがわいえよし)、老中水野忠邦(みずのただくに)によって行われた天保の改革、そして寛政の改革の三つが江戸時代に江戸幕府が行った三大改革です。それぞれ行われた年代も確認しておきましょう。
 改革の名前 |享保の改革   |寛政の改革   |天保の改革   |
 年号    |1716年〜1745年|1787年〜1793年|1841年〜1843年|
 将軍    |徳川吉宗    |徳川家斉    |徳川家慶    |
 主導した人 |徳川吉宗    |松平定信    |水野忠邦    |
 寛政の改革が行われた目的とは?
 寛政の改革の目的は、幕藩体制の立て直しでした。松平定信が老中に就任する前は田沼時代と呼ばれ、老中田沼意次(たぬまおきつぐ)による経済振興を主眼に据えた政治が行われていました。田沼意次によるさまざまな政策により、地方の農村まで貨幣経済が浸透して都市部では華やかな文化が花開きます。
 一方で役人たちの間での賄賂の横行など政治の腐敗も現れました。また浅間山の噴火や天明の飢饉などの天災によって全国の百姓は困窮。打ちこわしや一揆が多発します。
 なかでも、幕府や諸藩に衝撃を与えたのが、天明の打ちこわしです。江戸や大坂だけでなく全国30都市で打ちこわしが行われ、米屋などが襲われました。その結果、田沼派は失脚して、名君で知られた松平定信が老中に就任したのです。
 松平定信は田沼時代の悪習を一掃して、クリーンで統制が取れた幕藩体制を取り戻そうとしました。
 寛政の改革の内容5つ
 囲米
 囲米(かこいまい)とは、凶作や天災によって作物がとれなくても、しばらくは民衆が飢えないようにするために米を備蓄する制度です。松平定信が老中に就任するきっかけになったのは、天明の飢饉によって引き起こされた天明の打ちこわしです。民衆らが飢えて権力にたてつく行為を防止するためには、彼らが飢えないような対策を講じておく必要があります。
 松平定信が取り決めた囲米とは、諸大名に1万石につき50石を5年間領内に備蓄させる仕組みです。囲米によって、幕府や諸大名は備蓄を続け1843年には幕府の囲米が55万石、諸大名の囲米は88万石に達したといわれています。
 さらに、大名だけでなく民衆らが穀物やお金を出し合って備蓄する「社倉(しゃそう)」や、富裕者が寄付をする「義倉(ぎそう)」の仕組みも構築しました。江戸では米や穀物だけでなく七分積金(しちぶつみきん)と呼ばれる制度によってお金を積み立てて、天災等に備えました。
 朱子学以外の学問を禁止
 松平定信は1790年、儒学の一つ朱子学(しゅしがく)以外の学問を湯島聖堂の学問所で学ぶことを禁じる「寛政異学の禁」を発令しました。湯島聖堂の学問所は後に昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)と名を改めて、幕府の直轄学問所になります。
 湯島聖堂の学問所では、寛政の三博士(かんせいのさんはかせ)と呼ばれる儒学者朱子学を教えていました。
 寛政の改革では、武士だけでなく民衆に対しても出版統制などで思想を統制しようとします。風俗に悪影響を与えるものや、噂話を盛り込んだ本を貸し出すことを禁止した出版統制令が出されて多くの作家が処罰されました。
 武士の救済
 松平定信が老中に就任した時代は、多くの武士が生活に困っていました。家を失う御家人や、刀を売る御家人なども存在していたのです。
 そこで1789年に打ち出された政策が棄捐令(きえんれい)でした。棄捐令は1784年以前に蔵米取(くらまいどり)の旗本や御家人が札差(ふださし)から借りた借金の返済を免除するというもの。
 蔵米取とは、知行地を持たない旗本や御家人のことをいいます。彼らは知行地を持たず知行地からの収入がないことから幕府から米を支給されていました。札差は幕府と蔵米取を仲介して、米の受取や売却を行っていた商人です。生活に困窮している御家人や旗本に高利率でお金を貸していました。
 棄捐令によって借金がなくなり、旗本や御家人は大いに喜んだといわれています。一方で札差は大損害を受けました。棄捐令によって帳消しにされた借金は118万両にのぼったといわれています。
 旧里帰農令
 江戸幕府の財政の基盤は農村から挙げられる年貢による収入です。ところが、田沼時代によって貨幣経済の浸透、度重なる天災によって農村から人口が流出して多くの人々が江戸に流入したのです。
 さらに江戸では流出した農民たちが生活基盤を築けずに市中を徘徊するなどして社会問題化していました。江戸への農民の流入は幕府の収入基盤である農村の荒廃と、江戸の治安悪化を引き起こしていたのです。
 そこで松平定信は、農村を復興させるべく旧里帰農令(きゅうりきのうれい)を出して、地方から江戸にやってきた人々に、農村に帰ることを推奨しました。ただ「帰りなさい」と命じたわけではなく、旅費や補助金を支給して帰れるような体制を整えます。
 さらに荒廃した農村を復興するための政策も推し進めました。帰る農村がない人々については、石川島の人足寄場(にんそくよせば)で職業訓練を行います。さまざまな技術を習得させて手に職を付けて独立できるようにサポートしたのです。
 倹約の徹底
 江松平定信が老中に就任した頃の幕府は、凶作や飢饉対策によって深刻な経済危機していたため、徹底した倹約令が出されました。大奥の予算を削り、朝廷にも経費の節約を要請。民衆に対しても厳しい倹約を求めました。
 都市部では田沼時代に華やかな生活が定着していたため、厳しく贅沢を禁止。多くの人々からの反感を買うことになります。
 寛政の改革のその後
 松平定信による寛政の改革は、幕府の体制を整え、財政を立て直すなど一定の効果をあげました。幕府だけでなく諸藩でも財政危機を克服すべく、寛政の改革の前後から藩政の改革が相次ぎ、効果をあげています。
 ところが、厳しい倹約や統制を強いられた民衆はこれに反発。将軍徳川家斉との対立もあいまって、松平定信は1793年に老中の座を解かれてしまいます。
 松平定信の失脚によって寛政の改革も終了。寛政の改革後は、欧米諸国の接近や天明の飢饉によって幕藩体制は大きく揺らいでいきます。そして約70年後の徳川幕府終焉へとつながっていきました。
 寛政の改革から学べること
 寛政の改革から学べることは、「厳しいルールは反発を招いてしまう」ということです。
 寛政の改革の政策を一つずつ確認すると、とてもよく考えられた優れたもののように思えます。災害に備えた備蓄米は増加しましたし、幕府の財政危機も脱しました。
 ところが、民衆からの支持は得られません。それどころかこのような狂歌(きょうか)まで流行してしまいます。
 「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」
 白河とは、白河藩主であった松平定信のことです。この歌の趣旨は「松平定信の正しいけれど厳しい世の中よりも、濁っている田沼時代が懐かしい」というもの。
 正しいルール、道理が通ったことであっても、それを過度に強要されることは息苦しいものです。松平定信のように正しいことをしているつもりでも、周りから理解されなければ居心地はよくありません。
 グループや会社のリーダーとして、他人をまとめる立場にたたされたときは、ルールだけで統制しようとするのではなく、人の気持ちを考えて行動したいものです。
 寛政の改革について理解しましょう
 寛政の改革は、徳川吉宗の孫・松平定信によって行われた江戸の三大改革の一つでした。
 改革自体は部分的に見ると成功をおさめたといえますが、民衆からは反発を招き、将軍家斉との不仲も相まって松平定信は志半ばに失脚してしまいます。大局的に見ると徳川幕府の終焉を早めた可能性もあります。
 寛政の改革についてさらに理解を深めたい方は、南湖公園を訪れてみましょう。南湖公園松平定信が造ったといわれる、日本最古の公園です。
 吉野桜や雪景色など四季折々の風景が楽しめます。松平定信は、身分に関係なく誰でも楽しめるようにとの願いを込めてこの地を造ったといわれています。
 アクセスマップ
 名 称:南湖公園
 料 金:無料
 住 所:福島県白河市南湖
http://shirakawa315.com/sightseeing/nanko.html※情報は変更されている場合があります。
 監修者プロフィール
 門川 良平(かどかわ りょうへい)
 教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。
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 日本では、政治権力に結び付ついて得をする官学者・御用学者は学識・教養なき身分低い庶民から軽蔑され嫌われ、その時・時代は持て囃されても次の時代には社会から抹消され、歴史にも名が残らず忘れ去られる。
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 グローバル志向の強い現代の日本人は、昔の日本人とは違いローカルな民族伝統文化を理解していないし持ってはいない。
 つまり、現代の日本人は日本民族の伝統文化とは無縁に近い。
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 日本文化という時の民族伝統文化とは、江戸時代の庶民による公権力に対する声なき反逆文化である。
 表向き、建前として、権力や権威に傅いても、内向き、本音では権力や権威を馬鹿にし嫌っていた。
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 世界の文化、西洋でも中華でも大半の文化は権力者・支配者、上級階級・富裕層の趣味・娯楽・装飾であった。
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 日本文化が、時代を越え、国家・国境を越え、人種・民族を越えて、世界的に愛されるのは庶民文化だからでる。
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 庶民文化を影ながら精神的に支えていたのは、天皇の御威光と皇室の宮廷文化であった。
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 日本の身分低く貧しい庶民(百姓や町人)は、西洋や中華(中国・朝鮮)の搾取され虐げられた哀れな民衆・人民・大衆とは違っていた。
 日本の庶民は、御上・権力者・支配者の理不尽な強圧的に対して「ご無理ご尤も」と恐怖してひれ伏し従う気はなかった。
 武士・サムライは、戦国時代で嫌というほど庶民の油断も隙もならないおぞましい本性を体験しただけに、庶民を侮蔑し軽蔑し差別し、親しくつき合う事なく意図して遠ざけ、「由(よ)らしむべし、知らしむべからず」の原則に従って政にも参加さなかった。
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 日本で、江戸時代にキリスト教が、大正時代にマルク主義(共産主義)が、学のない貧しい庶民の支持を得られなかったのはこの為である。
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 命を捨てても天皇・皇室を護ろうとした狂信的勤皇派・尊皇派は、下級武士、貧しく身分低い庶民、芸能の民、部落民、賤民、異能の民、異形の民などの、政治権力や宗教権威に面従腹背する下層階級に多かった。
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 明治維新後の廃仏毀釈は、起きるべくして起きた庶民の宗教弾圧で、それだけ庶民が政治権力に媚びへつらう仏教教団への怒りがあったという事である。
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 自由な表現といっても、江戸時代の庶民文化と日本の日本アートは違う。
 その象徴が、あいちトリエンナーレ2019騒動であった。
 その違いは、常識ではなく人としての道理による分別だる、つまり理(ことわり)が理解できる大人かできない子供かである。
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