🎑77)─1─伝統的最先端工芸とは伝承と改良の連続だった。~No.173No.174 

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 2022年9月22日 YAHOO!JAPANニュース おとなの週末「改良の連続である伝統は「最先端」である ー伝統を受け継ぐ江戸小紋職人ー
 改良の連続である伝統は「最先端」である ー伝統を受け継ぐ江戸小紋職人ー
 江戸時代の暮らしに使われていた銘品は、今もなお職人さんの手によって作られています。江戸時代から続く伝統を受け継ぎ、そしてつなげていく──。そんな職人さんの今を知るべく、工房へ伺いました。
 江戸小紋の細かい柄に最接近! 記事にない写真も多数あり
 江戸時代、贅沢を禁じられた武士たちが、一見無地に見えるよう着物の柄を細かくした……。
 これが「小紋」の始まりと言われる。いわば苦肉の策で生まれた小紋が、やがて「江戸の粋」として武士階級だけでなく、町人の間でも大人気に。江戸小紋の伝統を守る、小宮染色工場3代目小宮康正さんにお話を伺った。
 伝統とは人から人へ、思いをつなげていくこと
 「伝統というと、昔ながらにやっていればいいと思われがちですが、そうではありません。改良の連続によってこそつながっている。ですから、伝統とは実は『最先端』なんです」
 小宮康正さんが語り出した、「伝統」への考えは意外なものだった。
 江戸小紋の作成過程は、実に細かい手仕事の連続だ。
 和紙で作られた渋紙に紋様を彫る「型紙」づくり、生地に型紙をのせて糊をのせていく「型付け」、その後生地全体を染める「地染め」をした後、「蒸し」、「水洗い」「乾燥 」……気が遠くなるような時間と手間をかけて、江戸小紋は生まれる。
 「いまだにこんなことをしてるんだ、と思いますよね」
 その工程を説明してくれる小宮さんは笑う。中でも特に繊細な、「型付け」の作業を見せてもらった。
 わずかな灯が、作業場となる「板場」を浮かび上がらせるほの暗い工房。まずは、糊を塗った板に白生地を張り、型紙の上から糊をつけていく。彫幅40ほどの型紙をずらしながら、一反すべて終えるまで約80回も同じ作業を繰り返す。
 「『型』にも微妙なクセがあるんですね。どうしても曲がったりするので、髪の毛何分の1というところを微調整しながら進むんです」
 少しのズレでもそれが重なれば、1反が終わる頃大きなゆがみになってしまう。職人の精神統一が必要だ。工房の湿度や明るさも厳密に管理されており、「本来は、作業中一切他の人はいれません」と小宮さん。黙々と繰り返される手仕事。
 それは、まさしく「昔ながら」そのものに見えるが――。
 「時代と共にいろいろと変わっているんですよ。糊をつける『ヘラ』も、昔は作業効率の悪い『竹ベラ』が使われていました。現在の『デバベラ』が考案されたのは明治の頃なんです。工房の灯も、昔は障子からの自然光だったのを、のちに白熱灯に替えました。今はさらに替わって、LEDです。LEDは熱が出にくく、糊を乾燥させないんですね」
 また、「蒸し」の工程では、昔はかまどで火を焚いて蒸していたという。かまどを修理する職人がいなくなり、泣く泣くボイラーに変えた。しかし、使ってみれば、ボイラーは微調整ができるので、かえって出来もよくなったという。
 「健在だった父親が、『もっと早く替えればよかったな』とぼやいてました」と小宮さん。加湿器、デジタル秤など、ほかにも「小紋にとってよい」と思ったものはためらわず採り入れる。イノベーションである。
 こうした、「変えたほうがよい部分」がある一方で、当然ながら「守るべき部分」がある。
 「その線引きは難しいですね。ただひとつ言えるのは、『儲け』に走って工程を変えてしまうと、伝統が伝統でなくなってしまうということでしょう」
 たとえば、本来は職人が手作業で仕上げる型紙を、完全デジタル化もできる。しかし、その作品を見ながら小宮さんは言う。
 「ある意味非常に正確なんです。でも、どこかが違う。この柄の着物を人に着てもらうと、まるで印刷物を着ているように見えてしまう。着物というのは、そうではなく、いかに人を『映えさせられるか』が肝心だと思うのです。その違いは、私にもうまく表現できないんですが……。ただ、人が心動かされるものは、やはり人が整え、作り上げたものなのだろうと思うのです」
 幾多の災難を乗り越え人間国宝
 小宮染色工業の創業は、1907(明治40)年。小宮さんの祖父にあたる小宮康助さんが、長年の修業を経て浅草の地に独立開業した。
 ところが、1923(大正12)年、関東大震災により家屋を焼失してしまう。1929(昭和4)年、現在の葛飾新小岩に移転。そのわずか5年後、隣家からの出火でまたも全焼。再建するも、1945(昭和20)年には、空襲によって家屋をすべて失ってしまう。
 康助さんは、40年ほどの間に家屋を7度も建て替えているという。そのうち5度は、関東大震災、空襲を含む災害によってであった。
 幾度もの災難にみまわれながらも、康助さんは染色の技を高め、磨いていく。1955(昭和30年)、その技術が認められ、国から重要無形文化財保持者の認定を受けた。いわゆる「人間国宝」となったのである。
 「江戸小紋」という呼称は、実はこの時から使われるようになったもの。他の小紋染めと、康助さんの「小紋」を区別するため「江戸小紋」という呼称が生まれたのだ。
 その後、小宮染色工業2代目にあたる父・康孝さんが1978(昭和53)年に、3代目康正さんが、2018(平成30)年、重要無形文化財保持者に認定された。
 「重要無形文化財の『無形』とは何だろうか、と考え続けました。技術も技法も時代とともに変わりますし、変わっていいと思います。すると、一番重要なのは『いかにものづくりに取り組むか』という思いを、次の世代に伝えていくことではないかと。ものづくりへの、人の『思い』を伝えていくのが、私の中の伝統だと思っています」
 小紋は分業の世界全体で意識改革を
 小宮さんの息子・康義さんも現在、「江戸小紋」の道を歩んでいる。「型付け」の工程は康義さんに任せている。心強い4代目だ。しかし、だからといって「江戸小紋の未来は安泰ではない」と小宮さんは言い切った。
 「江戸小紋は分業の世界です。型紙を彫る職人さんがいますし、その紙を漉く和紙職人もいます。まず、紙の質が悪ければ、型紙はあっという間に使えなくなってしまう。型紙職人も彫りにくいんですね 」
 和紙職人、型紙職人ともに高齢化が進み、「風前の灯」だという。
 「紋様は伝統的なものもあれば、現代新たにデザインしたものもあります。型を彫る職人、また彫り方の注文の仕方でも紋の表情が変わるんですね。
 型紙は消耗品ですから、型紙職人に存続してもらうのが大前提です。実際に使う分の20倍くらい依頼しないと、型紙職人が食べていけない。ですから、先々代の昔から、あまり使わない型も注文して、職人を守ってきました。
 今うちの倉庫には型紙がたくさん保管してあります。これが江戸小紋の生命線ですから、火災や災害はほんとうに怖いです。祖父は5度も家を失くし、どんな思いだったのかと……」
 しかし、守ろうとしても職人 の「なり手」がいなければ守りようがない。小宮さんの表情がかげった。
 一方で、切羽詰まったことがよい結果を生んだ例もあるという。
 「糊の原料は『米糠』なんですが、長年お願いしていた糠の製粉業者が廃業してしまったんです。しかたなく、製粉機械を買って自家製粉し始めたのですが、これがかえってよい結果になりました。
 業者は『製粉しやすい糠』を選んでいたのですが、私たちは『糊の原料として最適な糠』を選べる。そこで、玄米の表面8%の糠と、吟醸酒を醸すため酒米を削った米の中心に近い部分の糠を独自の配合で混ぜてみました。すると、以前よりぐっと質のよい糊になることがわかったんです」
 「蒸し」の工程で「ボイラー」に替えた時と同じように、「ピンチをチャンスに変えた」のだと小宮さんは語った。
 「ただし、『江戸小紋』の工程すべてを自社でしてしまえばいいかというと、それは違うと思います。ひとりができることは限られています。同じ人がつくれば、その『器』のものしかできませんが、分業の世界では、各々のレベルが上がれば、想像を超えたいいものができるはず。ですから、江戸小紋の未来は業界全体の意識改革にかかっているのです」
100年ぶりに帰って来た祖父の布が伝えるもの
最近、康正さんに不思議な出来事があった。
 たまたま出かけた鎌倉で、古着屋に入ると、一枚の古布が目に留まった。3500円の値札がついていたが、値切ってみると店主が2500円でいいという。この布がなぜだか気になった康正さんは、家に帰り、祖父が創業した明治40年頃の見本帳と見比べてみた。
 「祖父が染めていた見本と、雰囲気がまったく一緒なんです。紋様が完全に一致するわけではないのですが、ほぼまちがいなく祖父が染めたものだと思います。100年前に染められた布が、100年ぶりに帰って来たんですよね。しかも遠く離れた鎌倉から……。
 江戸小紋は、大事に使っていけば、次の世代へつなげられ、親の思いを次の世代へつなげていくもの。洋服は数年、へたをすると1年で寿命ですが、着物は子から孫へ、2代、3代と伝えられるものです。親から子へ、子から孫へ。それだけ耐えられるようなものをつくらねばならない。それもまた着物を通して、『思い』をつなげるということだと思います」
 巡り巡って帰って来た祖父の古布は、康正さんに、その使命をあらためて伝えに来た使者だったのかもしれない。
■小宮康正さん、康義さん 親子
 1907(明治40)年に祖父・康助さんが浅草で小宮染色工場を創業。1929(昭和4)年、葛飾新小岩に移転。1955(昭和30年)、康助さんが国から重要無形文化財保持者の認定を受ける。
 1978(昭和53)年、2代目の父康孝さんが、2018(平成30)年、3代目康正さんが重要無形文化財保持者の認定に。4代目にあたる康正さんの息子康義さんもまた江戸小紋の道に進む。2022年9月14日~26日「日本伝統工芸展」(日本橋三越本店)出品
 取材/本郷明美撮影/石井明和」
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💍30)─1─英語を話して国際交流ができる皇族、英語が話せない一般国民日本人。〜No.112No.113No.114 

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 万世一系の父系男系天皇・皇族と一般国民日本人とでは、背負っている責務の重さが違う。
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 日本国と日本民族の信用とは、戦後の平和主義者日本人ではなく数万年前の石器時代縄文時代と数千年前の弥生時代古墳時代を引き継ぐ天皇の権威である。
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 2022年9月25日 YAHOO!JAPANニュース TBS NEWS DIG Powered by JNN天皇皇后両陛下、エリザベス女王国葬で“誰と”言葉を交わされた?通訳も側近も無しで「国際交流」
 9月17日から2泊4日の強行日程でイギリス、エリザベス女王国葬に出席するために訪英していた天皇皇后両陛下は、20日夜に無事帰国されました。
現地ではチャールズ新国王、カミラ王妃に天皇陛下が直接弔意を伝え、また上皇上皇后陛下から言付かっていた弔意も伝えられたということです。
陛下や皇后さまは英国でどのような人たちと会われたのでしょうか?会話の内容は明らかにされていませんが、側近が明らかにした人たちを紹介いたします。
 【写真を見る】日本の皇室と各国とのこれまでの交流
■オランダ王室と皇室との“特別な”関係
 まず、天皇陛下お一人で出席した19日のチャールズ国王主催のレセプションでは、チャールズ国王とカミラ王妃をはじめ、多くのヨーロッパの王族と会われたようです。特にオランダのアレキサンダー国王とマキシマ王妃、ベアトリクス前女王の名前が具体的に上がっています。
 オランダ王室と日本の皇室は非常に親しい関係にあります。
 2006年8月、オランダのベアトリクス女王(当時)は適応障害と診断された雅子さまの療養のため、皇太子時代の両陛下と愛子さま(当時4歳)をオランダ王室の別荘に招待しました。はじけるようなご一家の笑顔が印象的です。
 アレキサンダー国王と陛下は2004年に設立された国連「水と衛生に関する諮問委員会」の議長と名誉総裁として活躍しました。このとき以来の親しい関係だったことが、オランダでの静養につながったとみられます。
ブータン王室とは秋篠宮家も親交が
 また陛下はレセプション会場まで各国元首と乗り合いのバスで移動されたのですが、車内ではブータン国王夫妻と一緒だったということです。
 ブータンには2019年に秋篠宮ご夫妻と悠仁さまが私的に旅行され、ワンチュク国王夫妻との親交を深められています。また陛下も1987年に訪問されています。
 王族以外では、マクロン大統領夫妻、ユン韓国大統領夫妻にも会われたそうです。ユン大統領とは初めて挨拶されたということでした。
■トンガ国王には火山噴火のお見舞いを
 さらに20日国葬後にもレセプションが開かれました。このレセプションには両陛下で出席されました。
 国葬の席で隣となったマレーシア国王夫妻、ブータン国王夫妻、トンガの国王陛下と親しく話されたということです。トンガの国王陛下には火山噴火のお見舞いを伝え、両陛下が戴冠式に招かれたお礼を伝えたそうです。
 2015年7月、天皇皇后両陛下(当時皇太子)はツポウ6世の戴冠式に出席されるためトンガを訪問されました。
 療養中の雅子さまにとっては、2013年4月のオランダを訪問以来2年2か月ぶりの海外公務で、両陛下はトンガの温かいもてなしに深く感謝されていたということです。
■通訳無し、側近無しで直接会話も
 国葬後のレセプションの映像がないのが残念です。会場には側衛官、侍従長、通訳も入れませんでした。両陛下は多くの王族、国家元首らと直接言葉を交わされたのです。
両陛下の元には、これまでに交流があった人、無かった人、次々といろいろな人があいさつにきたようです。両陛下は時間の許す限り、言葉を交わされました。具体的な名前が明らかにされない方も多いのですが、数カ国の大統領夫妻、英国の外務大臣、貿易大臣、教育大臣のほか、メイ元首相。また陛下はパナマのロヨ元大統領のことをなつかしそうに側近に話されたそうです。ロヨ元大統領は、1980年に陛下の成年式の宮中晩餐会国賓として、日本に招かれています。
宮内庁長官「両陛下のご訪問本当に良かった」
 西村宮内庁長官は両陛下帰国後の9月22日の記者会見で次のように述べました。
 「両陛下が代表する国民の弔意は、英国王室そして英国民に十二分に伝わったと思います。また今回の国葬には世界中から多くの国王、大統領と元首クラスが参列しましたけれども、両陛下はこうした多くの参列者と交流を深められたことにより、国際社会における日本の皇室の存在感をお示しになったものと考えています。今回、両陛下にご訪問いただいて、本当に良かったと率直に感じているところであります」
 皇室の海外訪問は「外交交渉」ではなく、あくまで「親善」です。長く続く交流の中で培われていくものです。コロナが流行してしまったため、2017年の上皇ご夫妻のベトナム公式訪問以降、5年以上、両陛下による海外公式訪問が途絶えていました。
今回の両陛下での国葬出席のためのイギリス訪問は、皇室による国際交流の素晴らしさを改めて感じさせるものとなりました。
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 9月20日 産経新聞「両陛下ご帰国 皇室と英王室の交流、次世代へ
 レセプションでチャールズ英国王と握手する天皇陛下=18日、ロンドン(英外務省提供・共同)
 2泊4日という強行日程の中、天皇陛下は即位後初となる海外訪問を皇后さまとともに無事終え、20日夜に帰国された。「女王の招待」を受けての訪英という本来の形ではなかったが、70年にわたり在位した女王の国葬という大きな節目に立ち会い、新国王と面会を果たされた意義は大きい。陛下が、女王と親交を深められてきた上皇ご夫妻の弔意を携えて面会されたことは、世代交代を改めて印象付け、皇室と王室の交流の歴史に新たな一ページを加えるものとなった。
 今回、陛下と国王とのご面会は、多くの参列者がいる中での限られた時間にとどまった。昭和天皇上皇さま、陛下と3代にわたって女王との間で育まれてきた関係を、次世代でどのように発展させていくかは今後の課題となる。
 側近によると、陛下は国葬に際し、旧知の王族らと旧交を温めたほか、初対面の首脳らともあいさつを交わされるなど、天皇として初の海外での国際親善の場ともなった。
 一方、レセプションや女王のひつぎへの弔問は陛下がお一方で出席され、病気療養中の皇后さまは同行を控えられた。背景には「確実に国葬に出たいという皇后さまの強いお気持ち」(側近)があったという。今回の日程は15時間のフライトに加え、短い期間に行事が集中。皇后さまは中心行事となる国葬への参列を滞りなく果たすため、体調を整えられたという。19日には国葬を含め、予定されていたすべての行事に立ち会われた。
 皇太子妃時代には陛下の海外ご訪問への同行を見送ることもあったが、今回の訪問を果たされたことは、一つの「手応え」となったとみられる。(橋本昌宗)
 両陛下、英国からご帰国 女王国葬参列終え」
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⛩19)─4・B─中国人が「そばを食べない」理由、蕎麦の原産国なのになぜ?~No.39 

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 2022年9月23日 MicrosoftNews ダイヤモンド・オンライン「中国人が「そばを食べない」理由、蕎麦の原産国なのになぜ?
莫 邦富
 © ダイヤモンド・オンライン 提供 写真はイメージです Photo:PIXTA
 日本にはおいしいそばがある! その多くの原産国は中国
 福島県いわき市――。団体責任者I氏と不動産会社の経営者S氏に伴われて、地元の不動産市場について丸1日かけて下見調査をした。昼食の時間になったとき、S氏から「おそばはいかがでしょうか」と提案された。地元の事情に疎い私たち一行は、素直に従った。
 てっきり近くにある店だとばかり思いこんでいたが、なんとそれから車で約30分も田んぼの中を走っていた。対向車もなく、人影も見られず、田んぼにはさまれた狭い道をひたすら走って、ようやくたどり着いたのは、「峨廊庵」という手打ちそば屋さんだった。瀟洒(しょうしゃ)なたたずまいと手間をかけて作った看板を見て、名店なのだろうと直感した。
 「おすすめに従いますよ」と食事の内容をS氏に任せた。S氏は、せいろとかけそばを人数分頼んだ。「1人で2人分のそばですか?」と注文を聞きに来た店主の奥さんらしい女性が驚いて、「今日は遅いから、そこまでは提供できません」と断った。結局、何とか大盛りのかけそばを人数分、確保してもらえたが、入店早々、大手通信キャリアの電波も届かないこの店の人気ぶりを思い知らされた。
 運ばれてきたかけそばを見ると、カイワレ大根の数本と申し訳程度の大根おろしがそばの上にのっているだけで、実にシンプルなものだった。しかし、お腹がすいていたこともあり、そのシンプルさが逆にそば本来のおいしさと香ばしさを引き立てた。カイワレ大根のちょっぴりとした辛さも脇役として心地よく効いてきて、胃袋と心をともに満してくれた。時間をかけて車で走ってきたかいがあった。
 食後にそば湯を飲みながら、ふと不思議に思った。昔から、日本は中国山西省からそばを輸入してきたと聞いている。痩せた土地が多い山西省にはそばしか作れないところが多い。しかし、山西省ではおいしいそば麺の話はあまり聞かない。拙著『中国全省を読む地図』とその続編の『「中国全省を読む」事典』(ともに新潮文庫)でも、山西省を紹介するとき、そばにはまったく触れなかった。
 一体、なぜ「そば」は中国では広まらなかったのだろうか。
 「そば」が中国で広まらなかった理由は「配給」にあり
 毛沢東時代の中国では、経済発展の遅れにより、長い間、中国国民は配給制を代表とする耐乏生活を強いられた。食糧や食品を買うにも「糧票」と呼ばれる食糧配給券を提出しなければならなかった。
 当時、北京などの北方では、その食糧配給券はさらに「粗糧票」と「細糧票」に分かれていた。前者では主にトウモロコシ、アワ、ソバ、コーリャン、イモ、大豆などの穀類・豆類とその加工品しか買えない。後者は精米、小麦粉とその加工品を買うのに使われる。今でこそ、粗糧は健康に良いと持ち上げられているが、肉食の生活が少なく、食用油の供給も非常に厳しく制限されていた配給制経済年代には、粗糧は敬遠される存在だった。
 1980年8月からの1年間、私は北京語言学院(現・北京語言大学)に開設された中国日本語教師研修センター(愛称「大平学校」)で勉強していた。食事はそこの食堂を利用していた。
 しかし、当時、米を主食とする上海以南の地方から来た研修生たちは、北京の食事になじめなかった。それは配給制度の影響があった。食糧がすべて配給制による当時の中国では、地方によって、その配給方法が違っていたからだ。
 例えば、上海では、配給枠以内なら、パン、マントウ、麺類、ご飯のどれでも自由に選んで買うことができる。しかし、北京では、米と小麦粉類を分けてそれぞれの配給額を制限していた。具体的な数字は忘れたが、例えば15キロの配給額のうち、米は6キロ、小麦粉類は9キロといった具合に内容と量を制限されていた。
 主食が米の南方で生まれ育った同僚のなかには、生まれてはじめて北方に来た人もおり、小麦粉を主食とする生活に相当な戸惑いを覚えていたようだ。私は青春時代に黒龍江省で数年間生活していたから、むしろマントウのある生活にも慣れている。それを知った女性の同僚から、小麦粉類購入用食券を私の米購入用食券と交換しないかと相談を持ちかけられたこともある。このような配給制は1990年初期まで続いた。
 だから、長い間、中国人にとってのそばは「粗糧」のそばでしかなかった。
中国では「一杯のかけそば」が教科書になるほどの人気なのに…
 麺類として成り立っている日本の手打ちそばは、中国人の食文化にはなかったようだ。それを理解していただくには、次の文章が参考になると思う。
 日本中国友好協会の会報「日本と中国」今年3月1日号に、『「かけそば」と“陽春麺”』というコラムが掲載されていた。話は「そば」と「麺」の違いから始まる。
 「中国では南北の食生活に大きな違いがあり、南は米が主食、北は小麦がメインである。(中略)米が主食の南方では、小麦粉料理は、昔はより重宝されていた。母の話では、四川で生活していた際、北方出身の人にだけ小麦粉の配給があった。それも月に量が決まっており、小麦粉で作る饅頭や包子、そして麺はやはりご馳走だった。当地の人々は、普段はご飯だが、レストランでは“抄手”(ワンタン)などを楽しんだという」
 それから、コラムでは「かけそば」を“陽春面(麵)”に誤訳されていたことを指摘した。
 「ひと昔前、日本で『一杯のかけそば』が話題になり、映画化もされた。日本ではその後沈静化したが、中国では小学校の“語文”(国語)教科書に掲載されるほど、今でも人気だ。しかし、その『かけそば』は中国語版ができた時点では、“陽春面”(陽春麺)と訳されていた。かけそばは字面通り、そば(蕎麦)である。対して中国語の「陽春麺」の麺は、小麦粉でできている。そういう意味では、かけそばとは違うものであった」
 作者の続三義(しょく・さんぎ)・東洋大学元教授は、「“蕎麦面”(そば麺)のように訳すと、中国人には想像ができない。それで“陽春面”が当てられたと思われる」と分析している。
 しかし、文化交流が進むにつれ、日本料理も中国全土に広がりつつある。そば麺も知られるようになり、それに中国でも生活の向上に従って、健康に良い食品としてそば麺が食べられるようになった。
 続氏は、「今、『一杯のかけそば』の新しい中国語訳は『一碗清湯蕎麦麺』とすべきだ」、と提案した。
 麺の歴史は4000年前までさかのぼる
 私たちが峨廊庵で食べたのは、まさしくその「清湯蕎麦麺」なのだ。麺の故郷と自慢する山西省では、そば麺は、「上海の陽春麺」を持ち出さないと国民に理解してもらえず、日本の「一杯のかけそば」が海を渡れない。
 2002年、考古学者チームが中国の黄河上流に位置し「東洋のポンペイ」と呼ばれる喇家遺跡(らっかいせき)から、麺状の食べ物を発見した。この新石器時代の人類集落の遺跡は黄河の北岸側にあり、地震により、集落が一瞬にして水没したようだ。遺跡の現場で、伏せられた赤い陶器の碗が土に埋まっていたが、土を剥がすと、その中には麺状の食べ物が発見されたという。
 分析の結果、約4000年前のものと確認され、麺の成分も考古学者によってアワと黄米の混合物と特定された。器の内部は半真空状態になっていたため、現在まで残っていたと考えられる。こうして世界でもっとも古い麺類が発見され、世界の麺食文化の構図もこれによって大きく書き換えられた。これまで後漢までしかさかのぼることができなかった中国人の麺食の歴史を、一気に4000年前にまで前進させたのだ。
 麺食の歴史が長いというニュースはうれしいが、日中間の麺食に関する交流と研究には、まだ多くの課題と作業が残っている。日本のそば(麺)が歩んできた歴史と中国のそば栽培・食用文化との関係も、面白くて個性的な一つの課題ではないかと思う。
 (作家・ジャーナリスト 莫 邦富)」
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🎃2)─3─日本でカルト教団が生まれる背景に“日本人の宗教嫌い”が理由。~No.6No.7 

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 2022年9月22日 MicrosoftNews SPA!カルト教団が生まれる背景に“日本人の宗教嫌い”。その理由は/僧侶・釈徹宗
 安倍元首相の銃撃事件で、旧統一教会の問題が表沙汰になり、同時に、家族がカルト的な性質をもつ宗教団体に入信してしまう問題も前景化した。そこで、カルト教団に巻き込まれない心がけや、家族がハマってしまった時の対処法を、宗教学者で僧侶の釈徹宗氏に聞いた。
 釈徹宗氏© 日刊SPA! 釈徹宗
◆家の宗教から個の宗教へ
――旧統一教会が最初に社会問題になったのは約30〜40年程前。この時代は日本の宗教を取り巻く環境は、どのような状況だったのですか?
 釈徹宗氏(以下、釈):日本の宗教状況の特徴として、どの家庭もいずれかの寺の檀家に入る寺請制度があり、「家の宗教」という考え方が、江戸時代に確立されました。これはヨーロッパに見られる、地域ごとに所属の教会がきまっている制度にも似ています。
 宗教は、地域共同体を確立するための結節点として、機能していたんです。今なお、うっすらとではありますが、続いていますね。
――今でも日本人は、無宗教を自称しながらも、家族が亡くなった時などは檀家になっているお寺に葬式を頼むのが「家の宗教」の名残の一つですね。
 釈:それが大きく変化したのが、ここ30〜40年です。核家族化が進むことで、家の宗教という概念が崩れ、ひとりひとりの信仰に基づいた「個人の宗教」が立ち上がってきます。
 家の宗教と個人の宗教のすき間、精神の空白地帯に、旧統一教会なども入り込んだ面はあるかもしれませんね。
カルト教団に騙されない宗教リテラシー
――現在、日本人の多くは「無宗教」を自称し、宗教に普段触れない生活が中心ですが、こうした状況はカルト教団の罠に付け込まれやすい部分なのでしょうか。
 釈:特定の教団を信仰していないという意味で言っている人が多いと思いますが、宗教的要素は人間の営みの中に必ず入っているものなので「宗教と関係ない」とは、誰も言い切れないんです。
 宗教全体と特定の団体の信仰を混同している人は、気をつけたほうがいいですね。日本人はこのことに無自覚な人が多いと思います。
――無自覚だと、どのように危険なのでしょうか。
 釈:宗教などの神秘的なものには魅力がありますが、副作用があることを知っておかないといけません。テレビなどで、スピリチュアルや心霊や占いなどを取り扱っていますが、不特定多数の人に神秘を煽るような、オカルト的なコンテンツ作りは注意が必要だと思います。
 副作用を意識せずに触れ続けていると、それに引っ張られる考え方になってしまうんですよ。
――単なる偶然でも、「霊の仕業だ!」などと勘違いする心の癖がつきそうですね。
 釈:カルト教団もそのことをよく知っていて、心霊ブームが起きるとそれに引っ掛けて罠を作ったりします。十数年前のスピリチュアルブームの時も、スピリチュアルの名の下に悪質なマインドコントロール事件や財産トラブルなどがありました。まあ、そういうのはいつの世にもあるのですが。
 この辺りは、伝統宗教をきちんと勉強すれば、気づくことができるようになります。宗教的要素は人間の営みに欠かせませんが、取扱注意であることは間違いありません。だから、宗教リテラシーが必要なんです。
――取扱注意だから触らないようにしているのが日本人ですね。宗教リテラシーを養うには、やはり勉強が必要ですか?
 釈:まずは自分の身の回りの観察です。家の近くの神社に改めて出かけたり、遊びとして出かけたお祭りがお寺の縁日なら、どんな意味があるのかを調べてみたりすることから始めると、日本人の宗教文化が見えてきて、自分の立ち位置も見えてくると思いますよ。
――そう考えると、宗教が身近にあるのに、日本人はその宗教性をスルーして暮らしていることに気がつけますね。
 釈:ゲームやアニメにも宗教的な要素がたくさん入っています。例えば、男女のストーリーに「生まれ変わり」という考え方が入っていたり、仏教やギリシャ神話が使われていたりするわけです。
◆日本人が知っておくべき宗教の“救いと毒”
 © 日刊SPA!
――宗教リテラシーが高まると、今回の問題に関してはどのように見えてくるのですか?
 釈:まず、宗教が社会とは別の価値基準で「救い」をもたらしていることがわかってきます。
 例えば、社会の一般的な価値では「今、笑っている者」「今、富める者」が幸せですよね。しかし、イエス・キリストは「今泣いているものが幸せである」と、全く逆の価値観を提示しました。浄土真宗の宗祖親鸞が「悪人こそが救われる」と言っているのも同様です。
――社会でうまくいかない人や、社会との価値観が合わない人にとっては救いになりますね。
 釈:これは、非社会性や脱社会性という考え方で宗教ならではの志向です。ただ、社会の価値とバッティングする危うさもあります。一方、旧統一教会などカルト的な性質を持っている教団がやっているのは、脱社会性じゃなくて反社会性を持った集団行動です。これも見分ける必要があります。
――宗教にあるのは、脱社会的な「思想」や「哲学」であるのに対し、旧統一教会などは反社会的な「手段」であることを切り分けて考えるのは重要ですね。
 釈:反社会的な手段で搾取する教団は、結局、金や権力を求めているので、社会の価値観にどっぷり浸かっているとも言えますね。「信仰」や「思想」は、信教の自由に含まれますが、反社会的な「手段」かどうかを切り分けて議論しなくてはいけませんね。
◆家族がカルトにハマったら
――それでも、カルト教団にハマってしまった人がいたら、周囲はどのように救えばよいのでしょうか。
 釈:多くの場合、家族の力が必要となります。しかし、マインドコントロールを解くのは専門家でなければ困難です。そういう教団は、脱会の動きへの対応も教え込みますからね。また、本人の信仰を無理やりに変更させていいのか、という問題もあります。
 それと家族がはまっていて、そこから抜け出せない人もいます。いわゆるカルト二世問題です。こちらもサポートが必要です。
――では、どのようにしたら良いのでしょう。
 釈:まずは被害者の会などへ相談されるのが良いかと思います。同じ問題を抱えた人たちが協力し合って、そこに訴訟やディプログラミング(マインドコントロールを解くメソッド)の専門家が関わり、場合によってはメディアの力を借りるなどの方策があります。
◆日本の政教分離は特殊
 © 日刊SPA!
――今回の件で、政治家と旧統一教会との関係がいくつも取り沙汰された時「知らなかった」と釈明する議員がかなり多くいました。
 釈:日本の政治家の、宗教への見識のなさに愕然としています。宗教を甘く見てますし、宗教リテラシーも身についていないのではないでしょうか。そもそも宗教というのは取り扱い注意案件なんですよ。畏敬の態度と心が重要です。単に宗教を利用しようとして、甘く見ていると、ひどい目に遭います。
――「政教分離」の原則にも反していますね。
 釈:実は「政教分離」の運用は、国によってかなり異なっていて、日本は結構特殊なんです。
――どのように特殊なんですか?
 釈:今の日本の政教分離は、第二次世界大戦後につくられました。その際の重要な論点は、「国家神道対策」だったんです。GHQが「日本がこれほど暴走してしまった原因には、国家神道が政治や教育に強く影響していたからである」と考えたんです。
 そこで、教育や政治はもちろん、公の場から国家神道を徹底的に排除します。それだけではなく、宗教すべてを極端に排除したんです。
 世界で初めて政教分離を始めたのはアメリカなのですが、アメリカでは宗教的な要素を完全に排除したりはしません。政教分離は“separate of Government and church”で、「政治と宗教」ではなく「政治と教会」です。この場合の教会とは、特定の教派や教団ということです。ドイツでは、むしろ国がきちんと宗教リテラシーについて教育する義務があるそうです。
創価学会が政治の表舞台に出てきたワケ
――極端な政教分離が進められていながら、なぜ、公明党創価学会など、政治と関係する宗教団体が現れるようになったのですか?
 釈:それはある意味カウンターですね。極度に排除されてきた宗教的要素に対して、「公的機関がお祭りや慰霊をするのは政教分離に違反しない」という主張が出てくるわけです。特に、宗教右派と呼ばれる勢力が、保守的な政治家を応援する動きがあります。
 公明党創価学会は、それとは別の動きですね。ここは、かつての言論出版妨害事件から双方の立てつけを変えてきました。今なお、議論の余地があるのですが。しかし、信仰を持った人が政治活動をしてはいけないわけではありません。
――強烈な排除があったから、揺り戻しのように宗教が公の場に入り込み、バランス感覚を失っている状態ですね。
 釈:そうです。そこに旧統一教会が入り込んできた面があります。宗教に関する内容を、極端に教えないので日本人にはその耐性がない。諸外国では、当然のように宗教を教えています。特定の教団を教えるのではなくて、宗教の全体像を教えるんです。
――宗教全体をマッピングして俯瞰するような教育ということでしょうか?
 釈:はい。それをやらないと、宗教が本来的にもつ毒の部分を避けるのが難しいと思います。また、カルト教団やマインドコントロールについても教える必要があるんじゃないでしょうか。
 とにかく、グローバル化が進む現代では、多様な宗教を知っておかないと、差別や排除が起きやすくなりますね。日本はこれから外国の人々を大幅に受け入れる方向へと舵を切ったのですから。カルト教団の問題に対しても、多様な人々の受け入れにおいても、宗教リテラシーを高めるという課題は喫緊のものです。
 日本人の多くは「宗教」というだけで遠ざけてしまう現状。しかし、そうしたマインドが、カルト教団を育ててきた一因にもなっているようだ。まずは、私たちひとりひとりが宗教リテラシーを高めていく必要がある。
 取材・文/Mr.tsubaking
 【Mr.tsubaking】
 Boogie the マッハモータースのドラマーとして、NHK大!天才てれびくん」の主題歌を担当し、サエキけんぞう野宮真貴らのバックバンドも務める。またBS朝日「世界の名画」をはじめ、放送作家としても活動し、Webサイト「世界の美術館」での美術コラムやニュースサイト「TABLO」での珍スポット連載を執筆。そのほか、旅行会社などで仏像解説も。」
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🎆目次)ー17ーモノ作り。日本の工芸。日本家屋。城。~No.1  

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 当ブログは、歴史の定説を恣意的に書き替える為に作成している歴史修正主義民族主義のブログである。
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 西洋礼賛でグローバル志向の現代日本人は、数万年前の石器時代縄文時代から受け継いできた民族の歴史が嫌いであり、数千年前の弥生時代古墳時代に生み出し育ててきた民族の文明・文化・伝統・宗教・言語・その他、辺境のローカルに愛着を持たない。
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モノ作り
2022-06-16
🎑65)─1─モノ作りの源流は京都の森。次世代に残した里山自然そしてSDGs。~No.149No.150 
2022-06-29
🎑65)─2─日本のものづくりの原点は伝統工芸。松下幸之助。~No.150 
・・・
工芸。
2018-10-27
🎑66)─1─陶器。陶磁器。有田焼とマイセン。~No.151No.152・ @ 
2018-04-16
🎑67)─1─合理的実用的で美しく斬新さを追求する伝統的匠の業。職人の和箒。~No.153No.154 
2022-04-16
🎑68)─1─「自由さ」から生まれ続けた豊かな日本の美。漆・蒔絵。~No.155No.156 
2018-04-16
🎑69)─1─職人と伝統工芸。陶芸。和紙。蚕・生糸。根付。~6No.157No.158・ @ ⑬
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日本家屋。城。
2022-07-24
🎑70)─1─『森と木と建築の日本史』。木を育て再利用する意義。~No.159No.160 
2018-04-21
🎑71)─1─伝統的日本建築と西洋式耐震建築。赤煉瓦。日本は砂岩・砂山列島である。~No.161No.162・ @ 
2018-03-08
🎑72)73)─1─日本列島の風土や日本の民族文化の特徴は良くも悪くも「湿」であった。湿気対策の日本木造建築。〜No.163No.164No.165No.166・ 
2019-06-01
🎑74)75)─1─日本の大築城時代 戦国の山城の謎。天皇・皇族・皇室には城がない。~No.167No.168・ 
2022-04-15
🎑76)─1─歴史的建造物は確かな審美眼を持った人によって守られてきた。津山城。~No.169No.170No.171No.172 ⑭ 
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2022-09-26
🎑77)─1─伝統的最先端工芸とは伝承と改良の連続だった。~No.173No.174 
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🎑83)─1─戦前の和服・着物は「抑圧の象徴」であり「ナショナリズムの象徴」であった。~No.179No.180 

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 マイノリティ・ファシズム
 左派系日本人や反天皇反民族反日的日本人達は、伝統的民族主義を目の敵として撲滅しようとしている。
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 2015年2月14日 産経ニュース「大島紬は日本を象徴?! 「伝統に束縛」米紙報道、新風も紹介
 鹿児島県・奄美大島の伝統工芸「大島紬」を紹介する現地ルポを、米紙ニューヨーク・タイムズが特集仕立てで掲載した。伝統に束縛されて複雑な流通過程を見直そうとせず低賃金に甘んじていると指摘しつつ、飛躍を目指す新しい試みも紹介している。
 「泥染め」と呼ばれる特有の染色に従事する金井一人さん・志人さん親子らの仕事ぶりや大島紬の歴史などを紹介。本場奄美大島紬協同組合の話として、大島紬の生産量が過去20年間で激減したと報じている。
 大島紬の和服は「東京では3千ドル(約36万円)から6千ドルもする」が、「織り手の月収は400ドル」にしかならないのは流通経路が複雑なためだと指摘。大島紬を取り巻く状況は「時代遅れの戦後経済(成長)モデルをあきらめようとしない日本を象徴している」と断じた。一方で若手の志人さんがTシャツやジーンズ、ギターなどを伝統的な手法で染め、インターネットを使った販売方法で新しい価値を生み出そうとしている姿も紹介した。(共同)」
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 2022年9月22日 YAHOO!JAPANニュース クーリエ・ジャポン「本の着物がアジアの一部では「抑圧の象徴」となったわけ
 「キモノ」と聞けば、世界中の多くの人が日本の伝統衣装を想像するだろう。日本人も滅多に着ることがないこの和服がじつは、国や地域によっては「抑圧の象徴」として今なお記憶されているという。
 【画像】仏高級紙が変遷を紹介「『黒人』は日本のマンガでどう描かれてきたか」
 着物は良くも悪くも「日本」の象徴
 中国の蘇州で、ある女性が「トラブルを誘発した」ために拘束されたと報じられた。罪状は「着物(和服)姿で外にいたこと」。女性は漫画の登場人物を真似した服装をしていたという。
 衣服は文化を象徴するものであり、多くの人にとって国のアイデンティティと誇りの象徴でもある。そして着物といえば、日本を思い浮かべるだろう。だが現在の日本では、伝統的な祭りや祝い事の時以外には着物を身につけることはほとんどない。着物業界は1980年代に同国でブームとなったものの、現在は大きな落ち込みを見せている。
 着物はそもそも日本人が独自に作り出したものではない。7世紀、朝廷が中国の様式を取り入れた衣服を着用しはじめたことが始まりだ。それでも着物は世界的に見て日本の代表的な文化とされている。
 そしてこれは多くのアジア諸国──特に日本によって残酷に植民地化された国々では、抑圧の象徴でもあるのだ。
 着物は日本人の象徴に
 日本と中国の服装の類似性には長い歴史がある。
 紀元前3世紀頃、中国の探検家たちは日本の南部を訪れた。そこでシンプルなチュニック、ポンチョ型の衣服、プリーツ型のズボンと上着を身に着けている人々の姿を観察していたことが、記録からわかる。これは当時の中国の衣服とよく似ているものだ。また紀元4世紀の日本の巫女や女王、部族の長の肖像画を見れば、中国における漢の時代の衣服と同じようなものを身につけた人物が描かれている。
 現代の「着物」の起源が日本に登場したのは平安時代(794~1185)のことだ。当時は直線的な布を腰のところで細い帯で留めた形のもので、中国風の袴(はかま)と合わせられることが多かった。だが江戸時代(1603~1868)に進むと、現在の着物のように、裁断された布を縫い合わせた「小袖」と呼ばれる男女兼用の衣服が着られるようになる。
 そして1600年代初頭、日本は徳川将軍によって、江戸を首都とする封建的な幕府に統一された。この時代の日本文化は外部からの影響をほとんど受けずに発展し、着物の前身である小袖は、日本人であることを象徴するようになってゆく。
 民衆の衣服や作業着も、いまで言う着物の基本的な型に沿ったものだった。着物づくりにおける仕事も発展し、一部の着物は、貴重な美術品に匹敵するほど価値が高まる。
 閉鎖的だった日本だが、明治時代に入ると急速に近代化し、外国の影響を受けるようになった。そして「着るもの」を意味する和服に「着物」という名称が与えられ、正式に誕生したのである。
 これは、昔ながらの服装を「女々しい」「日本人らしくない」と否定する新たな勅令があったなかで起きたことだ。その結果、男性や政府関係者、軍人などは、伝統的な和服ではなく洋服を着るようになる。一方、日本がさまざまな面で根本的に変化していくなか、女性が着物をまとう姿は人々に安心感を与え、日本人らしさの象徴として人気を博した。
 だが1923年の関東大震災以降、女性は洋装──特に女性用の下着を身につけるようになる。
 震災が起きたとき、女性たちはビルの高層階から飛び降りたり、救助を受けたりすることを躊躇った。その原因のひとつは、慎まやかであるべきという羞恥心だったのではないかと考えられている。洋服を着ていたら、あるいはせめて着物の下に下着を着ていれば、震災で命を落とす女性はもっと少なかったかもしれない──そんな背景もあり、世間の洋装化が進んだ。
 衣服がナショナリズムの象徴に
 日本における昭和の時代は、1926年に始まる。二度の世界大戦と、文化的なウルトラナショナリズムの台頭が起きる時代だ。同国における最近の歴史の中で、最も重大かつ災難に見舞われ、成功があり、華やかな時代だと評されている。
 第二次世界大戦後に流行した「日本独自主義」(日本人論)を信奉する人々にとっては特に、着物は(他の日本文化とともに)西洋の代替品より優れていると考えられた。着物を実際に着ることは少なくなったが、日本における着物の象徴的な地位は高まったのだ。
 1930年代には、日本は植民地支配を進める大国となっている。1890年代の弱小封建社会から、近代工業国、軍事大国に変貌を遂げたのだ。そうして近隣諸国への領土征服に乗り出していたのである。
 西洋からなめられまいと、日本人も日本国内では大胆な服装をしていた。一方、台湾や朝鮮半島では、日本の優位性と「大東亜共栄」をアピールするため、占領軍が現地の女性に着物を身につけるよう積極的に勧めていた。
 1895年から1945年までの日本の植民地時代、台湾と韓国で着物がどのように受け止められていたかを、筆者は研究した。その結果、日本の着物は明らかに、同国の植民地支配や戦争責任のイメージと結びついていることがわかっている。武器化されてしまった美しくも優雅な衣服は、明らかにその痕跡を残しているのだ。
 前述の中国で逮捕された女性は、次のような警告を受けたという。
 「もしあなたが漢服(中国の伝統的な服装)を着ていたら、私だって決してこんなことは言わなかっただろう。だけどあなたは中国人でありながら『着物』を着ている。あなたは中国人だろう!」
 着物は日本の伝統の象徴だ。戦時中の占領や残虐行為を受けた国にとっては、ナショナリズムの危険性を思い起こさせるものでもある。
 だが日本は防衛予算の倍増を進め、戦後から続いてきた平和主義というアイデンティティに疑問を呈し、中国は香港や台湾で影響力をふるっている。そんな今、当局が心配すべきものは「着物を着た女性」より、ほかにもっとあるはずだ。
 Ella Tennant」
   ・   ・   ・   
日本服飾史 女性編 (趣)
歴史・文化・伝統がわかる 時代考証家のきもの指南
きもの文様図鑑―明治・大正・昭和に見る
世界のビジネスエリートを魅了する 教養としての着物
お江戸ファッション図鑑

💍29)─1─日本で急増する陰謀論集団「Qアノン」信奉者…背景に野放し状態の「ブログ」文化が。〜No.109No.110No.111 

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 2022年9月20日 MicrosoftNews AERA dot.「日本で急増する陰謀論集団「Qアノン」信奉者…背景に野放し状態の「ブログ」文化が
 © AERA dot. 提供 神真都Qの集会(c)朝日新聞社
 米国の5、6人に1人がその主張の柱を信じているとされている陰謀論集団「Qアノン」。昨今は日本でも信奉者が急増している。その裏側には、匿名性の高い「ブログ」の存在があると専門家は指摘する。朝日新聞国際報道部記者で、『Qを追う 陰謀論集団の正体』の著者でもある藤原学思氏が、陰謀論が広がる土壌ができつつある日本社会のバックグランドを探り、処方箋を提示する。
  *  *  *
■「Qアノン」信奉者の投稿が「アメブロ」教育ジャンルで1位に
 著名人が多数利用する「アメーバブログ」のページに飛ぶ。検索窓に「Qアノン」と打ち込む。いくつものページがヒットする。
 たとえば、9月1日にとある女性がした投稿。前米大統領のトランプのネット上での動きを紹介し、「水面下での軍事作戦が、本物だということを証明してくれた!!」と興奮した様子で書き込まれている。
 トランプは8月末、自身の立ち上げたSNSで、「Q」の過去の投稿や関連の主張を、400万人のフォロワーに向けて拡散していた。これは米国の主要メディアですぐにニュースになった。アメブロの投稿は、それを受けてのものだろう。女性は「新世界が近づいて」いると、喜びに満ちた書き込みをしている。そしてこの投稿は、アメブロ内の「教育ジャンル」で1位になっていた。
 Q――。 2017年10月、英語圏の匿名掲示板に突然現れた謎の人物だ。20年12月まで5千件近く投稿を続け、「世界は小児性愛者に牛耳られている」「米民主党のエリートや主要メディアの幹部がそこに所属していて、彼らはいずれ逮捕される」「トランプが影の救世主として我々を救ってくれる」といった荒唐無稽な主張が生まれ、広がるきっかけをつくった。
 そうした陰謀論、あるいはそれを信じる集団が「Qアノン」と呼ばれる。
■日本でも浸透するQアノン 記者に攻撃的なコメントも
 私は米国を拠点にQアノンについて調べる過程で、「日本のQアノンコミュニティーの拡大には、ブログが大きな役割を果たした」と専門家から聞いた。ツイッターフェイスブックはQアノン関連の投稿に規制をかけているが、アメブロは野放しのように見える。
 運営元のサイバーエージェントに2月に問い合わせたところ、「定義の難しさから、情報の真偽を判断基準とした記事削除は行っていない」とのことだった。社会的な責任が高まるプラットフォーマーとして果たしてこれでいいのか、疑問が浮かぶ。
 日本にも浸透したQアノンとは何か。信奉者はどんな人たちなのか。そして、Qとは誰か。
 朝日新聞デジタルの連載をもとにした『Qを追う 陰謀論集団の正体』では、それらをできるだけ丁寧に書こうと努めた。日本のインターネット空間において、Qアノン側の陰謀論があまりにもあふれすぎており、それに対抗できるような事実を提示したかった。
 もちろん、そうした試みを快く思わない人たちもいる。
 私のツイッター(@fujiwara_g1)には、「メディアは洗脳装置」とか「印象操作」とか「ニュルンベルク法で有罪になる」とか、そういったコメントが寄せられた。彼らのアカウントを見てみると、ほとんどが「QAJF」という日本のQアノン関連団体へのシンパシーを表明している。
 これは「Eri(エリ)」という仮名を使う女性がつくった団体だ。エリは日本のQアノン現象を考える上で最も重要な人物の1人で、団体のSNSに登録しているメンバーは5千人近くいる。
 私は、彼女たちの投げかけてくる攻撃的な言葉に反論しようとは思わない。彼女たちは、自分たちが「真実」の側にいると思い込んでいる。Qの信奉者であることを一種のアイデンティティーにしている。どんな言葉をかけようとも、なかなか響きづらい。
 では、放置すればいいのだろうか。そう言ってもいられない。「家族がQアノンにはまって、苦しんでいる」。そんな声を取材でたくさん聞いた。米国では、5人から6人に1人がQアノンの主張の柱を信じているという世論調査がある。
 私やあなたの、すぐそばにいる大切なひとが、あすにも、陰謀論というラビットホール(うさぎの巣穴)にはまってしまうかもしれない。そして、そこから抜け出せなくなるかもしれない。
■事実という名の石を置く
 こうした状況を、記者として少しでも改善する一つの方法は、ラビットホールの中に言葉を投げたり、あるいは直接手を差し伸べたりすることではない。むしろ、その穴の周辺を囲むように、できる限り多く、事実という名の石を置いておくことだ。その石は、穴に入ってしまいそうなひとを思いとどまらせ、穴から出られそうなひとがつかむものになるかもしれない。
 たとえば「Q」は《全体像を把握しているのは、両手で数えられるほどだ。その(10人以下)うち、3人だけが非軍人だ》と言う。信奉者はこれを「Qの正体」と考えている。でも、私の取材では、どうもそれは違う。一つひとつファクトを積み重ねる作業は、ウソを拡散・増幅させるよりも、ずっと大変な作業だ。でも、誰かがそれをやらなければ、ウソがより本当の顔をして歩くようになる。そんな社会は住みやすいものではないだろう。
 米国で連邦議会議事堂が襲撃されたように、誤った正義感は一線を越えた事件につながってしまいかねない。
 情報が簡単に国境を越える現代において、日本も陰謀論から逃れることはできない。Qアノンの派生団体「神真都(やまと)Q」の幹部らは、新型コロナウイルスのワクチン接種会場に侵入した罪で起訴された。
 検察側の冒頭陳述によると、ワクチン接種の会場に押し入り、「抗議」を示す行為は「凸(とつ)」と呼ばれていた。「犯罪行為を犯している医者を止めにきた」「接種をすることは犯罪だ」――。被告らは、そんな言葉をぶつけていたという。
 陰謀論は、単なる「論」ではなく、ひとを動かし、ひとを傷つかせる。
 だからこそ、インターネット上で、実社会で、Qアノンのような陰謀論がどのように広がり、社会をむしばんでいくのか。その過程に目をこらさなければならない。Qを、Qアノンを、私はさらに追う。」
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