💍6)─7─女系天皇議論に反対した寬仁親王の危険な政治活動。~No.30No.31 

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   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 現代日本で、本当の意味での正統保守は少数派として今まさに消滅しようとしている。
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2024-03-16
〖目次〗貼り付ける記事。:皇位継承と人口激減の原因はアメリカ大統領の道徳エゴであった。令和6年8月版。 
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 2024年9月23日 YAHOO!JAPANニュース サンデー毎日×週刊エコノミストOnline「女系天皇議論に反対した寬仁親王の危険な政治活動 成城大教授・森暢平
 毎日新聞の単独インタビューに答える寬仁親王(2005年12月18日)
 ◇社会学的皇室ウォッチング!/128 これでいいのか「旧宮家養子案」―第30弾―
 小泉純一郎政権下の女性・女系天皇の検討に対し、特定の政治勢力と結び付いて明確に反対した皇族がいる。三笠宮家にあった寬仁親王(2012年に66歳で逝去)である。一皇族の反対は議論の行方に大きな影響を与え、皇族としての活動の一線を超えていた。(一部敬称略)
 寬仁(ともひと)親王の反対が公となったのは、『読売新聞』(2005年11月3日付)のスクープによってである。寬仁自身が会長を務める福祉団体「柏朋(はくほう)会」会報『ざ・とど』(05年9月30日号)で、「とどのおしゃべり――近況雑感」というエッセイを発表した。神武天皇のY1染色体が現在の皇室につながる「事実」をもとに、女性・女系天皇に疑問を投げかけたのである。寬仁親王は「世界に類を見ない我が国固有の歴史と伝統を平成の御世(みよ)でいとも簡単に変更して良いのか」と危機感をにじませたうえで、「国民が、『万世一系の天子様』の存在を大切にして来てくれた歴史上の事実とその伝統があるが故に、現在でも大多数の人々は、『日本国の中心』『最も古い家系』『日本人の原型』として(略)敬って下さっている」と主張した。敗戦後に皇籍離脱した元宮家皇族の復帰などの方策を取ることが先で、女性・女系天皇には反対の意思を示したのである。
 皇族は、基本的に政治的な発言はしない。だから、寬仁親王は「プライヴェート」に語るという体裁を取ったと釈明する。追いかけ取材に対し「会報は柏朋会が金銭面などで支援している福祉団体など友好団体や個人に600部発送しているもので、売り物ではありません。(略)私たち(皇族)は政治的な発言はできないので、ああいう形でしか言えません」と述べた。(『東京新聞』05年11月4日付)。「市販されている物には載せる気はありません」とも付け加えた。
 ところが、その舌の根も乾かぬ11月25日に発売された月刊誌『WiLL』(06年1月号)に、「とどのおしゃべり」全文が転載された。首相の諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が05年11月24日に、女性・女系天皇を容認する報告書を提出し、翌年3月にはその方向での皇室典範改正案の上程が予定されていたから、阻止したいという気持ちが優先したのだろう。
 ◇「女系容認」せずと天皇の考えを「代弁」
 寬仁親王は発言を続ける。『毎日新聞』(06年1月4日付)のインタビューで「旧宮さま、元宮さまとの付き合いは深い。むしろ愛子さまの夫になった人が、突然『陛下』と呼ばれる方が違和感が強いのではないか」と主張した。さらに、1月10日発売の『文藝春秋』(2月号)では、女性・女系容認が当時の天皇(現在の上皇さま)の意思であると受け止める向きがあったことに対し、「(天皇が)女系を容認せよ、とか、長子を優先とか、そうおっしゃる可能性は、間違ってもありません。(略)非常に真面目なご性格からしても、そのような不規則発言をなさることはあり得ないでしょう」と解説した。
行き過ぎた言論活動に宮内庁は苦言を呈する。長官の羽毛田(はけた)信吾は1月12日の会見で、「天皇陛下、皇太子殿下(現天皇)は何度かにわたって(発言を)『差し控える』とおっしゃっている」「(寬仁親王にも)そういった観点にお立ちいただきたい」と注意した。しかし、寬仁親王は忠告を無視する。2月1日付の『産経新聞』、同日発売の『正論』(3月号、産経新聞社)にも、女系天皇について「果たして正統性を皆さんが認めてくださるだろうか」と同様の主張を繰り返した。
 『朝日新聞』(2月2日付)は「寬仁さま 発言はもう控えては」と題した社説を掲載する。皇室典範の改正が準備されているとき、「意図がなくても、発言が政治的に利用される恐れがある」「一方にくみする発言は控えた方がいい」と指摘した。これに対し、翌2月3日付の『産経新聞』社説は、「発言を封じようとする社説は、言論・報道機関として、守るべき一線を超えているように思われる」と、『朝日』を批判した。メディア機関同士の論争となったのである。『朝日』は抑制的に書くが、寬仁親王は特定の政治団体と結びついて発信し続けたと私は思う。保守系団体、日本会議の機関誌『日本の息吹』2月号(1月24日発刊)に登場して、インタビューに応じているからだ。
 ◇日本会議と「連携」 一線を越えた活動
 日本会議系の「皇室の伝統を守る国民の会」が日本武道館で開いた「皇室の伝統を守る一万人大会」(3月7日)では、寬仁親王はさすがに出席こそしなかった。しかし、外交評論家の加瀬英明が「寬仁親王殿下のご発言」と題して意見を表明した。加瀬は「ご発言によって、多くの良識ある国民が皇族のご意向に接して深い安堵(あんど)の念を抱いた」「秋篠宮殿下、常陸宮殿下も男系による皇位継承を廃することに強い危機感を抱いておられると漏れ承っております」と踏み込んでいる。
 寬仁親王は、この大会にあわせて、インタビュー集『皇室と日本人――寬仁親王 お伺い申し上げます』を出版した。出版元は、日本会議副会長(当時)、小田村四郎が社長を務める明成社であった。
 私は、皇族に発言の自由がないとは思わない。しかし、憲法の規定から発言する自由が制限される天皇の了解も得ず、当の天皇が、女性・女系継承に賛成していないかのごとく述べるのは、皇族として反則である。
 平成の天皇は、少なくとも女性宮家の創設には積極的であった。2011年10月、民主党野田佳彦政権当時、宮内庁長官の羽毛田は首相に働きかけ、女性宮家の創設を訴えている。宮内庁長官が独自の考えで動くはずがなく、天皇の意思があったことは明らかだ。この動きは、女性宮家を検討した翌年の「皇室制度に関する有識者ヒアリングを踏まえた論点整理」へとつながる。
 一方の寬仁親王は、亡くなるまでの数年、女性・女系天皇に反対する者たちの活動のハブとなった。保守系有識者や活動家たちを宮邸に招き、「反対」の動きを陰に陽に支援した。そうした活動は、皇室の政治的公平性を脅かす危険な活動だったと言える。
 <サンデー毎日10月6日号(9月24日発売)より。以下次号>
■もり・ようへい
 成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など
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 アメリカ・GHQは、日本を占領支配するにあたって昭和天皇を利用したが、皇室を存続させる気はなかった。
 ソ連・国際的共産主義勢力同様に、人民による敗戦革命が起き、ロシア共産主義暴力革命やフランス革命同様に皇帝や国王処刑しその一味全員を虐殺する事を望んでいた。
 が、日本の常識は世界の非常識として、日本国民は昭和天皇とその家族を人民裁判で処刑せず、日本民族よって天皇を中心とした国體が護持された。
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 現代日本で、エセ保守とリベラル左派による正統男系父系天皇制度を正当女系母系天皇制度に改悪しようとする陰謀が起きている。
 日本国民の80%以上が、正当女系母系天皇制度を支持し、愛子内親王天皇に即位させる事に賛成している。
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 メディアと教育は、日本から天皇主義・民族主義愛国主義を消滅させる為に反天皇反民族を子供達の間に広め、皇室スキャンダルや秋篠宮批判を強めて、国民世論を最高神である女性神の神話物語を正統根拠とする現天皇制度を廃止へと誘導している。
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 アメリカ、GHQ、リベラル派ユダヤ人ニューディーラーは天皇制度廃絶と皇室消滅させるべく仕組んだ、日本国憲法、改正皇室典範皇籍剥奪の皇籍離脱天皇家私財没収の皇室経済法、保守派の公職追放
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 天皇制度廃絶・皇室消滅陰謀論
 第一弾 人間宣言
 第二弾 戦後版皇室典範日本国憲法
 刑法改正、大逆罪・不敬罪の廃止。死刑反対。
 天皇・皇族・皇室を護る特別法はなく、あるのは一般的な名誉毀損罪のみで、被害者として加害者に対して告訴する事ができるが、原則的にできない。
 メディアによる皇室報道は、本当は少なく、嘘や捏造・歪曲が多い。
 第三弾 皇籍剥奪=皇籍離脱=皇族追放。華族制度廃止・保守派追放によって皇室を護る藩屏の消滅。
 第四弾 皇室私有資産没収。
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 GHQは、旧日本軍が戦時中に民間から接収した宝石や貴金属、現金が隠匿資産として民間企業経営者や右翼を通じて保守的政治家に流れるのを摘発する為に東京地検特捜部を組織した。
 その結果、芦田均内閣は昭和電工疑獄事件で総辞職した。
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 国連の敵国条項
 国連とは、日本と戦った連合国である。
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 2018年 天皇家の資産、皇室費は100億円。
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 正統保守とは、「日出ずる処の天子、書を没する処天子に致す、恙(つつが)なきや」で、国の独立・自尊・静謐、民族の安全・安寧・生存そして「自主防衛の覚悟」であった。
 つまり、伝統文化としての「国柄」の事である。
 それが理解できるのは、民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力を持った日本人だけである。
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 天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇制度である。 
 天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
 現代日本の国民世論の80%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
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 志賀義雄「なにも武力革命などする必要はない。共産党が作った教科書で、社会主義革命を信奉する日教組の教師が、みっちり反日教育をほどこせば、30~40年後にはその青少年が日本の支配者となり指導者となる。教育で共産革命は達成できる」
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 反宗教無神論・反天皇反民族反日的な日本人は、超難関校出の高学歴の政治的エリートと進歩的インテリ達であり、正当女系母系天皇制度賛成派である。
 自民党には正統保守はいないが、安倍保守・諸派保守・エセ保守が存在する。
 公明党は保守ではないし、野党にも保守は存在しない。いるのは、自称保守のニセ物である。 
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 オランダ調査会社は2021年に国際世論調査を発表「国の為に戦うか?」、日本人は13.2%で79カ国中最低だった。
 「僕らは〝在日日本人〟でありたい。日本危機の時はさっさと亡命する」
 寸土を失う者は全土を失う。
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2024-07-27
💍47)─1─17~19歳「皇室に関心ない」55%でさらに増加している。〜No.161   ・   ・   ・    
 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
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 江崎道朗「戦没学徒からの宿題
 左派系への違和感
 世界における国家、民族の興亡の歴史を学べば分かることだが、自由と独立を勝ち取ろうと奮闘した国家と民族は生き残り、その努力を怠った国家と民族は滅んだ。
 日本が現在の独立を保ち、自由と繁栄を享受できるのは、先人たちの無数の奮闘の歴史があったからだ。そんな自明の、しかし意外と誰も意識しない冷厳な事実を私が意識できるようになったのは家庭環境の影響が大きかった。
 ……」(令和6年4月号『月刊 正論』)
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 反靖国神社派の後ろに中国共産党が存在している。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
 日本を動かしているのは学閥である。
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 保守には、正統保守やエセ保守など数多くの保守が存在する。
 現代日本では、急速に新保守の守旧派とエセ保守が増えた。
 正統保守は古保守として守旧派ではない、もし正統保守が守旧派であったら日本民族に見捨てられとうの昔に消滅していた。
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🏕40)─1─人工林と天然林の荒廃で洪水と土石流を引き起こす危機が高まっている。~No.76No.77 

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 日本人は、自然を愛し、自然を守り、自然を大事にしている、はウソである。
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 日本列島とは、春夏秋冬、季節に関係なく、広範囲に同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに自分一人、身一つで逃げ回って生きてきた。
 日本の宗教・文化・言語は、こうして生まれてきた。
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 令和6年 能登半島は1月に地震と9月に豪雨と複合災害に見舞われ、冬には豪雪が襲う危険性が大である。
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 太陽光発電風力発電など再生可能エネルギーは、自然を破壊している。
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 ウィキペディア
 熱海市伊豆山土石流災害は、2021年(令和3年)7月3日午前10時半(JST)頃に、静岡県熱海市伊豆山地区の逢初川で発生した大規模な土砂災害である。災害関連死1名を含む28名が死亡した。最多時は約580人が避難し、建物136棟が被害を受け、2022年6月時点で被災地は原則立ち入り禁止となっている。
 被害が拡大した原因として上流山間部の違法盛土の崩壊があり、さらにその後の調査で国や自治体のずさんな盛土規制と大量の違法盛土が全国的に存在していることが明らかになり、盛土規制の大幅強化へと発展した(「#事件後の動き」参照)。
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 2024年9月29日 YAHOO!JAPANニュース FRaU編集部「放置林が洪水を引き起こす可能性も…間伐などの育林作業が「防災対策」になるワケ
 国土の約7割が森林に覆われている日本。ですが、その森林の約4割を占める人工林でさまざまな問題が起きています。日本特有の状況や林業の課題について、基本を学びます。
Q.いま注目されている自伐型林業とは?
A.環境保全と経済の持続性。両方を考える小さな林業です。
 細かな分業化がなされていた林業ですが、いま注目されているのは、山の所有者や、所有者から土地を借りた若い人々や移住者が、自ら山に木を植え、草刈りなどをしながら丁寧に育てて伐採までする「自伐型林業」です。大規模な会社経営ではなく、小さな家族経営をイメージしてもらうと分かりやすいかもしれません。
 メリットは、自分たちで作業を行うことによって利益を出し、規模は小さくても、安定した経営ができること。また、皆伐をせずに、森の環境保全と両立した林業を行うのも特徴です。自分たちで管理できる面積を扱うので、山に生えている一本一本の木、すべての林道、その林道で使える機械などを把握でき、必要な量を効率的、かつ環境にやさしく伐採が行えるのです。禿げ山を造らないことで土砂災害を防いだり、人が山に入ることで獣害対策になるといった利点も。
 自伐型林業だけで生計を立てているケースは稀ですが、林業季節労働なので副業として携わりやすく、地方創生の新たな鍵として自治体が力を入れ始めています。
Q.人工林は自然災害に弱いのですか?
A.必ずしも弱いわけではないですが、一部の傾斜地でリスクが高まります。
 山や森林で自然災害のリスクが最も高いのは、木や草が生えていない裸地です。人工林は木が育っているので裸地ほど自然災害に弱いわけではありませんが、間伐が行われていない放置林では、木によって太陽光が遮られ、下層部にほとんど植生が発達しなくなります。すると、雨水が地表に直接当たるように。雨は落ち葉を流してしまうので、やがて地表は土が露わになったツルツルの状態になります。
 すると今度は、雨水が地表を滑るように流れてゆくことに。これでは地層深くまで水が浸透しづらく、森の貯水機能が落ちてしまうのです。そうした状態では川に流れ出す雨水の量が不安定となり、洪水が起きる要因になります。こうした理由からも、間伐をはじめとする育林作業は防災対策となるのです。
Q.人工林に生物多様性を蘇らせるにはどうすればよい?
A.針葉樹林に広葉樹を交じえて、「育成複層林」を目指すことです。
 成熟した森林では、さまざまな木、植物が入り交じって多層構造が生まれています。かつての日本では「択伐」によって、林業従事者が森林の木々の一本一本を丁寧に管理し、さまざまな樹種、樹齢の木々が育つ森林を造っていたのですが、高い管理技術が求められるので、現在ではほぼ行われていません。
 代わりに主流となったのは、単一の樹木を一斉に植える「育成単層林」の人工林です。しかし、そうした森林は集まる虫や動物が限定されてしまいます。その状況を変えるために目標とされているのが「育成複層林」です。
 林齢や樹種が異なる土地をパッチワークのように組み合わせた人工林で、コストや技術の面から一本一本の管理とまではいきませんが、単層林を複層林に変える動きが始まっています。その時に必要なのはゾーニング
 「木材生産のための人工林」「これまでの人工林に広葉樹を交えて造る天然林」「これまで通りに維持する天然林」といったように、目的別の区分を明確にし、木材生産だけでなく、自然災害対策や多様性保全といった、森の公益的な機能も重視しなければならないでしょう。
 補足として伝えておきたいのは、言葉の定義がまだ曖昧だということ。例えば「育成単層林」といっても、数十年管理をしていれば、自然と低木層が育つので、「育成複層林」と呼べる環境になります。名称についての科学的な議論はなされていないのが現状です。
Q.木材を供給する以外の森の役割を教えてください。
A.水を育む。生物の住処となる。土砂災害を防ぐ役割もあります。
 森林の役割は木材を造ることだけではありません。ですが、森林の活用を議論する場では「林業」の側面が多く語られるので、その公益性が忘れられがちです。
 第一に、森は生命を育む場所です。多様な動植物が生態系を営んでいることを忘れてはいけません。地球温暖化を緩和すること。土砂災害を防ぐこと。大気を浄化したり、騒音を吸収したり、私たちが暮らす環境の快適さにも関与しています。
 そして、水源。この国の豊かな水は森林の地層によって浄化されたものです。ほかにも、スキーや登山などレジャーの場となったり、四季折々の風景から伝統文化や芸術が生まれたりと、森林から受ける恩恵は語りつくせないほどあります。
Q.未来の森を守る仕事「フォレスター」とは?
A.環境面も経済面も考慮しながら長い目で森を管理する技術者です。
 フォレスターとは、科学的根拠に基づいて、森林の管理や林業経営に対する指導を行う技術者です。環境と経済の両方を考慮しながら、行政や林業を営む企業と共に、持続可能な森林を育てていきます。欧米には専門の学校もあるくらいで、国によってはマイスターの称号を与えられることもある名誉ある仕事です。
 日本にも森林総合監理士(日本版フォレスター)という仕事がありますが、教育制度が十分とはいえず、欧米のフォレスターほど発言権のある立場にはなっていません。この状況を改善しなければ、場当たり的な森林開発や上辺だけの環境保護が繰り返されるだけでしょう。
 知識と立場のあるフォレスターの元では、森林所有者は正しい森林管理技術指導を受けられます。行政は森林活用に適切な助言をもらったり、区分や取り扱いを定める整備計画を立ててもらうこともできます。
 森の未来を考える時、その目は数十年、数百年先を見据えていないといけません。フォレスターとは、森と人の付き合い方を多角的に考えられる人物なのです。
Q.日本の森林のために私たちにできることは?
A.この国に根づく“木の文化”に目を向けてみてください。
 欧米の「石の文化」に対し、日本は「木の文化」だと言われています。縄文時代から住居や生活道具に木が多用され、神社仏閣や工芸品にも様々な木材が用いられてきました。木は信仰の対象でもあり、樹齢を重ねた巨木は御神木として崇められています。森林は日本人の生き方や精神性に密接に関わってきたのです。
 現代でもそれは同じ。コンクリートやプラスティックばかりを身近に感じているかもしれませんが、今でも戸建てのほとんどが木造で、壁紙を剥がせばすぐ裏に木組みが現れます。国産のミネラルウォーターは山々が雨水を濾過したものですし、私たちの日常には森の恵みが溢れています。そうしたことを少しでも意識することが、この国の森林を守る第一歩になるはずです。
●情報は、FRaU2024年8月号発売時点のものです。
 講談社 JOSEISHI.NET
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 8月7日 YAHOO!JAPANニュース FRaU編集部「日本の森林について正しく知るための12の質問。
 日本の山にスギとヒノキが多いのはなぜ?森林大国・日本で今起こっている問題
 国土の約7割が森林に覆われている日本。ですが、その森林の約4割を占める人工林でさまざまな問題が起きています。日本特有の状況や林業の課題について、基本を学びます。
Q.日本の山にスギとヒノキが多いのはなぜですか?
A.戦後の拡大造林で全国に人工林が造られたからです。
 北海道から九州まで、日本には多様な広葉樹が自然分布していますが、目に付くのはスギやヒノキといった針葉樹が整然と並ぶ人工林だと思います。こうした人工林は戦後の拡大造林によって造られました。戦時中は軍事用に大量の木々が伐採され、戦後も焼失した家を建て直すために木材が必要でした。その結果、全国どこもかしこも禿げ山に。それで国を挙げて、スギやヒノキを大量に植林したのです。針葉樹が選ばれたのは、まっすぐ育ち、軽くてある程度の強度があって建材に適しているから。その頃に植えた木々は樹齢50~70年。十分使える大きさに育っていますが、国産材の需要が落ち込んで伐採が進まず、今の林業にとって大きな課題となっています。
Q.日本の森林における人工林の割合は?
A.約1000万haで、日本の森林面積の約4割です。
 日本の国土は3779万haで、約7割にあたる2505万haが森林です。森林には自然の力で育った「天然林」と、人が植林した「人工林」があり、日本の天然林は1348万ha、人工林は1020万ha。人工林の半分弱がスギの単層林で、次いで多いのがヒノキです。ちなみに天然林の中でも、人の手が一度も入っていない「原生林」は、日本には屋久島や白神山地の一部などわずかしかありません。
 林業が行われるのは人工林です。植えた木が育つと伐採して売り、再び植林して繰り返し土地を利用します。この循環がうまくいかないと放置林となり、自然な状態とは大きくかけ離れ、林業のための山としても利用できなくなってしまいます。
Q.日本は森林大国なのになぜ木材自給率が低いのですか?
A.1960年代に木材の輸入自由化が進んだことが理由のひとつです。
 日本の木材自給率は41.1%です(2021年)。2000年代初頭には18.8%まで落ち込んでいたので、それからすると上昇傾向にはありますが、世界有数の森林大国にしては高い数値ではありません。
 国産材が使われない理由はさまざまです。ひとつは1960年代に段階的に進んだ、外国産木材の輸入自由化円高と高度経済成長期を通じて、安い丸太が十分な量、安定して輸入できたために、国内の木材自給率が落ちてしまったと言われています。当時は、植林したスギやヒノキも使える大きさではなく、木材不足を補うための止むを得ない選択でしたが、その後も輸入材に頼る状況が続いています。
 これだけ知ると、国産木材=高いというイメージになるかもしれませんが、日本の立木(山に立っている状態の木)の価格は下落しています。1980年に1㎥当たり2万2707円だったスギが、2023年には1㎥当たり4361円に。実に1/5の値段になっています。「国産材は高い」と言われる時の“材”とは、製材後の木材やそれを使った製品のこと。林業は分業化しているので、取引の過程で価格が上がっているのです。他には、必要な時に十分な量が手配しづらい、木の種類が限られているといった意見もあります。
Q.林業にはどんな人々が関わっていますか?
A.山の所有者や造林業、伐採業、製材業など細分化しています。
 一般の人々は、山の所有者が木を植え、伐採し、それを木材にして売ると思っているかもしれませんが、林業は昔から細かく分業化されています。一般的に、山の所有者は造林業者に発注して造林(木を植えて育てること)を行います。数十年後に木を切り運び出すのは伐採業者。丸太の売買取引は木材市場。仕入れた丸太をカットするのは製材業者。それを売る木材店や家を作る工務店も関わります。専門性が高まりますが、各業者が仕入れて売るを繰り返すので価格は上昇。情報伝達もしづらく、「この木が売れる」という木材店や工務店の声が造林業者に届きづらい状況もあります。
Q.伐採にはどんな種類がありますか?
A.除伐、間伐、択伐、主伐、皆伐などを目的によって使い分けています。
 「除伐」は、販売する木を育てるために、丈が低く幹が太くならない灌木類を10~20年育った頃に伐採することです。その後、木の形を整えながら大きく育てるために、ある程度まで育った木を間引くように切るのが「間伐」です。間伐は臨時収入を得るための場合もあります。そうして数十年かけて育てた木をいよいよ伐採するのが「主伐」です。農業における収穫ですね。主伐後は再び苗を植え、また数十年かけて木を育てます。
 「皆伐」は、育ったすべての木を伐採すること。主伐に含まれますが、一斉に伐採して区画を更地にする意味合いが強くなります。それとは対照的な主伐方法が「択伐」で、かつて日本で主流だった伐採方法です。育った木を計画的に間引くようにして切り出し、空いた場所には再び植林をして森を更新します。完全に更地になるのを防ぐことで森の生態系が守られ、土砂災害を防ぐ効果も。伐採できない期間がないので、持続的な林業ができると、現在は欧米で提唱されています。
 「択伐」に求められるのは経験と知識。伐採量の見極めや樹齢の違う木々をバランスよく育てるノウハウ、伐採後の丸太を木々の間を抜けて運び出す方法など、高い技術と資金が必要で、かつての日本の林業は世界的に見ても極めて高度な技術力を持っていました。
Q.伐採後の土地で再造林は進んでいるのでしょうか?
A.残念ながら、再造林は3~4割。残りは禿げ山のままです。
 再造林、つまり伐採した土地に再び木を植える作業は、残念ながらほとんど進んでいません。林野庁によると主伐した面積に対して、再造林がされるのは30~40%ほど。再び木を植えようとする山の所有者が少ないのは、木材価格の低迷によって、木を売ったお金で植林ができるほどの収入を得られないから。各地に伐採したままの禿げ山が増えてきています。
 また、再造林や樹木の保育といった仕事に携わる人が減っていることも理由のひとつ。2000年代に約4万人いた育林従業者は、2015年に2万人弱にまで減ってしまいました。人手不足を補うためにも、ドローンによる苗木運搬など、林業のさらなる機械化、デジタル化が求められています。
●情報は、FRaU2024年8月号発売時点のものです。
Supervisor:Hajime Utsugi(Forestry and Forest Products Research Institute) Illustration:Sara Kakizaki Text & Edit:Yuka Uchida
 今田美桜さんが表紙!「木と森との暮らし」特集のFRaU8⽉号、発売中!
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 2024年7月17日 FoE Japan
 森林保全/日本の森林再生 荒廃する人工林
 日本の森林再生 荒廃する人工林
 森林保
 荒廃する人工林|間伐材の推進|日本の森林認証制度
 日本は国土の2/3が森林に覆われた世界屈指の森林国です。その半分近くは人工林、植えてから伐り出すまで人の手で育てていく森です。
 放置される人工林
 日本では戦後、木材生産を目的にスギ、ヒノキなどの大規模な造林を行いましたが、木の成長より早いスピードで木材需要が高まり、1960年、木材の輸入が始まりました。輸入は拡大し国内林業は衰退、人工林は荒廃しています。
 放置された人工林は、過密で林内が暗くなり、他の植物が育たなくなることで生物種が減少、土壌がむき出しになることで地すべりや洪水などの災害が起こりやすくなります。
 関わり薄れる里山
 里山といわれるかつての薪炭林や共有林も住民の高齢化、生活の変化などによって人手が入らなくなり、ヤブ化したり外来種が侵入したりしています。
 かつて里山は生活に結びついた場として、住民の生活に利用されてきましたが、その中で里山を生息地とする動物、植物も出現し、希少種の5割が生息しているとも言われています。
 ライフスタイルが変化したいま、里山と人間の関わりは薄れ、その役割の多くは失われています。しかし、里山林の独特な生態系が持つ希少種の保護や景観の維持、そして現代の人間と森林の関係を見直す機会の提供など、里山を利用・保全していくことは重要です。全国各地の里山林で、環境教育の場、憩いの場、遊び場として、様々な取り組みが行われています。
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 日本熊森協会
 TOP 森と野生動物の現状
 森と野生動物の現状
 奥山の荒廃
 奥山の豊かな森は、人間も含め全生物が生きていくために必要日本の奥山に祖先が大切に残してきた森は、大型野生動物を保全し、土砂災害を防ぎ、陸川海の全生物の命と産業を支えてきた滋養豊かな水源の森です。
 しかし、戦後、奥山の森は破壊され、針葉樹の人工林ばかりに戦後の国策であった「拡大造林政策」により、奥山の広大な森が伐採されました。
 跡地には林業用にスギ・ヒノキ・カラマツなどの単一の針葉樹が植林されましたが、林業不振が続くなどして、これらの人工林の多くは手入れもされず荒廃していきました。
 日本の森林の歴史
1950年代
 焼け野原となった戦後の住宅復興用にと、国は広大な奥山原生林を伐採するなどして、約1,000万ヘクタールものスギやヒノキなど針葉樹の造林を推し進めました。
1960年代
 工業大国を目指した日本は、輸出拡大のため木材の輸入を自由化し、国内林業は壊滅状態になりました。
現在
 生活様式の変化などで、木材需要は激減し、林業の担い手も減り、林業が成り立たなくなったため、多くの人工林は放置され、伐採期を迎えた林の内部は大荒廃しています。
 荒廃した奥山には生物が息づかず、荒廃の一途をたどります。
 荒廃し、スギ以外の生物は棲めない人工林
 間伐や枝打ちなどの手入れがされない林内は暗く、林床に下草も生えません。木一本一本も細く、根は大きく張れていません。
 林内は生物の多様性が低く、大型野生動物の食糧はありません。
 動物は食べ物を求めて里へ
 豊かな森を失い、人工林では生きられない野生動物たちは、食糧を求めて里へ出てくるようになり、農作物被害も発生。地元の人々は悲鳴を上げ、野生動物たちは大量に駆除されています。
 土砂崩れなどの災害が多発
 荒廃した人工林は崩れやすく、山崩れや土石流が各地で発生しています。近年の大雨や台風の増加で、さらにその危険性が増しています。
 水資源の不足
 荒廃した人工林は保水力が低下し、大雨が降ると洪水に、雨が降らないと渇水に。森林からの湧水が激減しています。
 わずかに残された奥山天然林も荒廃。
 再エネ名目で大量伐採も受けています。
 ナラ枯れによる実のなる木の大量枯死
 近年、ナラ枯れというドングリの木の大量枯死が進み、野生動物はすみかや食糧を失っています。
 温暖化などによる昆虫類の激減・植生変化
 ササや下草が消え、昆虫が激減し、昆虫が花粉を運ぶ木々の実りも消え始めています。
 再エネやリニア新幹線などの開発による破壊
 尾根筋風力発電や大型太陽光発電施設のための大規模な森林伐採や、リニア中央新幹線のトンネル掘削による奥山の破壊が進められています
 水源の森と野生動物を守るくまもりの活動
 豊かな自然を守り、全生物と共存するために、様々な活動を行っています。
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 2011年7月31日 Wedge ONLINE
 Wedge REPORT
 水害の多発からニッポンの森林を考える
 荒れた人工林の放置が最大の問題
 WEDGE編集部
 豪雨の被害に対し、こころよりお見舞い申し上げます
 記録的な豪雨となった新潟、福島両県で大きな被害が出ている。両県は2004年7月にも「7・13水害」とも呼ばれる大水害に襲われたばかり。テレビニュースでは「100年に1度クラスの豪雨がこの短期間に2度も・・・」と言葉を失う住民の姿が映された。
 洪水、水害というと、ダムや堤防といった河川への人工的対策ばかりが注目されやすいが、河川と森林には深い関わりがある。日本の森林の実情について、専門家に取材した。
 日本の森林の現状を
 太田猛彦氏に聞く
 歴史的に見て、日本の森林が現在どのような状態にあり、求められる対策は何か。治山・砂防、森林管理など森林に関わる幅広い分野が専門の太田猛彦・東京大学名誉教授に聞いた。
●日本の山は荒れているのですか?
 それは多分にイメージ先行です。
 実は、日本の森林は400年ぶりの豊かな緑に満ちており、山崩れは減少し、川の水も減り気味です。こういうと、誰もが信じられないと言うのですが、戦前や戦後すぐのころの写真を丹念に見ると、どこの農山村も背景の山は、いわゆる「はげ山」です。
 例えば100年前に撮影された愛知県長久手町の写真を見ると、自然や環境をテーマにしたあの愛知万博の会場付近が、非常に荒廃しています。データを見ても、ここ半世紀の間、森林面積は変化していないのに、蓄積量(体積)は2倍以上に増えています。大半は人工林ですが、天然林も増えています。
 江戸時代も山、特に里山に木はあまり生えていなかったと考えられます。左上の絵のように、有名な歌川広重の「東海道五十三次」に出てくる森は、下草が全然ないし、木はやせ地でも育つ松ばかり。広重に限らず、家茂の上洛図などさまざまな絵で、はげ山に近い情景が描かれていることを考えれば、これは決して技法ではなく実態だったのです。日本人は、木を資源、燃料として大量に使っていたからです。
 明治政府は保安林制度や治山・砂防事業で荒廃地の復旧を行いましたが、国民の大部分は里山資源を必要とする農民であり、戦争もあって荒廃地は減りませんでした。そして戦後の資源不足で、奥山も大規模に伐採されました。
 転機は昭和30年代です。拡大造林(大規模植林政策)の一方で、化学肥料や石油資源への転換、安価な外材(外国産木材)の輸入が進みました。国産材の需要は減りました。その結果、植生が劇的に変わりました。荒廃山地、採草地、薪炭林は消え、かわりにスギ・ヒノキを中心とする人工林が1000万ヘクタール超となり、全国の森林の約4割を占めています。
●森は荒れていないということですか?
 いいえ。以前の荒廃と現代の荒廃では意味が異なります。現代の荒廃は、量ではなく質的荒廃です。最大の問題は人工林の手入れ不足です。
 森林は多面的機能を持っています。国土保全機能や生物多様性保全などです。量が増えたことで、国土保全機能は向上しました。しかし人工林は、放置され間伐が遅れると、木が込み合い、日光が林内に入らず、下草が育たなくなります。落ち葉や下草から作られる土壌が貧弱になると、林地に表面侵食が起き、土砂崩れが起きやすくなります。森林の洪水緩和機能も、土壌が「落ち葉や下草つき」で豊かでなければ発揮されません。
 つまり、昭和30年代に比べれば森林は多面的機能を回復させてきたが、育った人工林が放置されているために土砂崩れや洪水が起きやすくなるという新たな問題が起きているのです。
林業の再生が必要ということですか?
 日本は、石油などの資源に依存することで、森林を回復させたわけですが、これは持続性がありません。何億年も前の太陽エネルギーの塊である地下資源に依存する生活から、現在の太陽エネルギーの塊である木材を利用する生活に転換する必要があります。国民が木材をもっと使い、林業が再生することは欠かせません。
 しかし、木は切らなければ使えませんが、切りすぎると山は人間にとって危険な存在にもなります。江戸や明治の山を思い出してください。物質利用と環境はトレードオフの側面があります。林業は再生させつつ、使う山と守る山を区分する体制が必要です。また下流の都市住民は、上流の山林地域の住民による森林管理によって安全を保たれている面があるのですから、もっと関心を払わなければなりません。
 森と水の関係を
 蔵治光一郎氏に聞く
 内閣府「森林に関する世論調査」によれば、国民が森林に期待している上位3項目は、「地球温暖化防止」と「災害の防止」と「水資源の確保」である逆に「木材生産」は2007年には8位(下から2番目)まで落ちこんだ。災害や水資源と森林の関係について、森林水文学(すいもんがく)が専門の蔵治光一郎・東京大学講師(愛知演習林長)に聞いた。
●科学の知見を教えてください
 大前提として自然の営みは非常に多岐にわたり複雑ですから、簡単に解明できるものではありません。大雨や大災害はめったに起こらない確率的な事象でもあります。また、森林や林業分野の予算や人材は他の分野に比べて少なく、研究の蓄積は決して十分ではありません。ですから、わかっていることは限られているということを、まず理解してもらう必要があります。
 森が水の流れに及ぼす作用には大きく分けて「平準化作用」と「蒸発作用」の2つがありますが、森が生き残っていくために備えているものですので、必ずしも人間にプラスに働く「機能」に直結するわけではありません。
 平準化作用とは、雨水を一時的に保水し、川や地下水にゆっくりと流していく作用です。この作用は、大雨の一部を保水し下流に流れる速度を抑えることで「洪水緩和機能」にプラスに働きますし、雨が降らない期間、川にゆっくり水を流し続けることで「水資源涵養機能」にもプラスに働きます。
 蒸発作用とは、雨水を一時的に保水し、水蒸気として大気に戻す作用です。根から吸い上げた水分が葉より大気に戻される、あるいは葉や幹に付着した雨粒がそのまま水蒸気となるといった形で、いわば木が水分を消費しているわけです。
 この作用は、大雨の一部を保水、蒸発させることで「洪水緩和機能」にプラスに働きますが、保水した水は川に流れませんので「水資源涵養機能」にマイナスに働いてしまいます。以上のことは、森と水の関係を研究する森林水文学の基礎的な知見です。
●手入れ不足の荒れた人工林は、どういう作用と機能を持つのでしょうか?
 放置人工林は木が密集して生えているため、蒸発作用は大きい。しかし、平準化作用は、木の樹冠ではなく林床の土壌の状態で決まるため、落ち葉や下草がないために土壌が流出し、根が地表に見えているような放置人工林では、平準化作用が小さくなります。結果、総保水力が管理人工林より小さくなり、洪水緩和機能も小さくなることになります。
 荒れた放置人工林と、間伐され管理された人工林を比較すると、大雨が降ったときに、河川の流量の増水の仕方に差が生じることが予想されます。放置人工林は管理人工林に比べ、総保水力が小さく早いタイミングで増水し、一気にピークに達してしまいます。
 また、蒸発する水を「緑の水」、川に流れ、人間が利用できる水を「青の水」とも表現しますが、下流域の人間が期待しているのは「青の水」を増やす森林の作用です。これが小さい放置人工林は、水枯れも引き起こしやすい可能性が高い。
 では、人工林のどの程度が放置人工林なのか。行政にはデータがありません。私たち研究者とボランティアグループが共に取り組んできた「森の健康診断」では、矢作川流域全体の人工林の約6~8割が、間伐遅れの不健康人工林と診断されました。人工林管理放棄問題は、喫緊の課題です。
 日本の森林の最大の問題は「荒れた人工林があふれていること」にある。荒れた人工林を放置すると、山の総保水力が小さく、河川の流量が一気にピークに達することが予想されているようだ。今回の豪雨では多いところでは降り始めから1000ミリを超えており、このような記録的豪雨に対しても、森林の整備でどれほど防御力を高められるのかはまだ詳しいことはわかっていないようだが、近年の水害の多発から森林への意識を高めていくことは欠かせないだろう。
 ※本記事は月刊『WEDGE』2010年9月号特集「日本の森孤独死寸前」の一部を再構成したものです。
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 日本地理学会発表要旨集
 2004年度日本地理学会春季学術大会
 会議情報
 主催: 日本地理学会
 人工林の荒廃が洪水・河川環境に及ぼす影響
 *恩田 裕一, 辻村 真貴, 竹中 千里
 著者情報
 キーワード: 人工林, 浸透能, ヒノキ林, 洪水
 会議録・要旨集 フリー
 記事の概要
 抄録
1. はじめに
 戦後の拡大造林ブームにより植裁されたスギ・ヒノキ等の人工林が徐伐・間伐の時期を迎えており,適切な施業・管理が強く望まれる時期である.しかし,林業労働力の不足,材価の低迷のため,適切に管理されずに放置され荒廃した林分が年々増大している.また,ピーク流出水量が増大するために下流域に洪水を引き起こす可能性が指摘され,さらに,渇水期の流出水量が減少すると予想されている(図1)。
 従来の研究によれば,人工林,特にヒノキ一斉林では,樹冠の閉鎖が進むと下層植生が消失し,浸透能が低下して降雨時に容易に地表流が発生し土壌の表面侵食が起こることが知られている。しかしながら,従来の浸透能測定は,主に円筒管型の浸透計が用いられており,クラスト形成が指摘されている裸地化した林床における浸透能を正確に表現していない恐れがある(湯川・恩田,1995)。
 そこで本研究では,樹幹上から散水をする浸透計を用い林内における浸透能の把握をすることを目的に研究を行った。
2. 調査地域および方法
 調査斜面は,三重県一志郡白山町にある三重県林業技術センター実習林内の一斜面である。この実習林の内部には,様々な林相の施業がなされている。この中の林齢約30年のヒノキ人工植栽地に,間伐を行っていない区画があり,林床は裸地化している。
 このヒノキ林のほぼ中央上部に,仮設やぐら(高さ約12m)を建てた。このやぐらの上部は林冠上まで達しており,その四隅にスプリンクラーを設置した。このスプリンクラーにホースをつなぎ,林道からポンプで水を供給することにより,林冠上からの人工散水を可能とした。
 実験に使用する水は,調査斜面の下流の沢水を用いた。この水を4トン積みの散水車を用いて,調査斜面近くの林道まで運搬した。その後,散水車から水を容積150Lの容器に移し,そこからポンプで散水タワーに導いた。
3. 結果および考察
 平均降雨強度45mmの人工降雨を3回,林冠上から散水した結果,浸透能が平均31.2mmと極めて低い値を示した。この値は,霧雨型の浸透試験結果460mm/h,冠水型試験結果354mm/hと比較しても極めて低い値を示す。したがって,荒廃した森林の洪水に及ぼす効果を定量化するためには,大型の散水装置を用いて浸透能を定量化するとともに,流域のプロットスケール,小流域河川水の流出分離に基づく表面流出成分の把握が必要となろう。
 文献:
(1) 湯川・恩田 (1995):. 日本林学会誌, 77(3), 224-231.
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 2021年9月25日 東洋経済ONLINE「ライフ意外と知らない「暮らしの水」ウソ?ホント?
 無謀な森林伐採が「土砂災害」を招いている事実
 林業が山間部の災害に与える小さくない影響
 国が林業の成長に力を入れ始めた一方で、林業における取り組みよって土砂災害や洪水が起こりやすくなっている可能性もある。写真は2019年の台風19号で大きな被害を受けた球磨川流域の皆伐地(筆者撮影)(写真:筆者撮影)
 日本の治水対策がこのほど大きく変わったのをご存じだろうか。今年5月「流域治水関連法」が公布され、7月にその一部が施行された。改正の背景には、豪雨災害、土砂災害が激甚化・頻発化していること、さらに気候変動の影響により今後、降雨量や洪水発生頻度が増加することが見込まれていることがある。
 「流域」とは降った雨が一筋の川の流れとして収斂するエリア。一級河川で考えると日本には109の流域がある。従来は、主に河川管理者が、「河川区域」において、堤防やダムなどを整備し治水を行っていた。
 が、改正後はこれに加え、流域に関わるあらゆる関係者が協働し、山間部など上流部の集水域から、平野部で洪水に見舞われることの多い氾濫域まで、流域全体を視野に入れて治水に取り組むことになったのだ。
 森林が山崩れや洪水を防ぐことへの期待
 流域における治水を考える上で、重要なのが森林の存在だ。林野庁によると、森林は国土面積の67%を占める。内閣府による世論調査では対象者の約半数が森林に「山崩れや洪水などの災害を防止する働き」を期待しており、多くの人が森林は下流における災害を食い止める役割を果たしている、と考えている。
 ところが、その森林の存在を脅かしているのが林業である。戦後木材自給率は輸入材に押されて低下し、2002年には18.8%と最低を記録したが、この事態を打開するため、国は林業の成長産業化を推進。国産材を安定的に供給するために、これまで不明だった森林境界や所有者を明確にしたり、高性能林業機械の導入や林業作業道の整備などを進めている。
 需要を促進する手も打った。住宅用以外に公共建築物、強度・断熱性・耐震性を高める加工をしたうえでのマンション建材、バイオマスエネルギー用材としての活用を促進。その結果、2019年の木材自給率は37.8%と、2011年から9年連続で上昇している。
実際、こうした林業の取り組みが、洪水や土砂災害につながる可能性を示唆した調査も出ている。9月15日に自伐型林業推進協会が発表した「災害と林業〜土石流被害と林業の関係性の調査報告」がそれだ。
 「2011年、台風12号の影響で紀伊半島では、一部地域で雨量が2000ミリを越えるなど記録的な豪雨に見舞われました。このとき雨量が同じでも、林業の施業方法によって、崩れている森林とそうでない森林がありました」と、自伐型林業推進協会の中嶋健造理事長は調査のきっかけについて語る。
 林業には2つの方法がある
 「林業の施業方法」は、「短伐期皆伐」と「長伐期多間伐」の主に2つある。短伐期皆伐施業とは、一般的に「木は植えてから50年で切る」と決め、広範囲を一斉に伐採。禿山になった後、再造林(植林)を行う。
 伐採や運び出しを効率的に行うため、例えば20トン級のバックフォーや10トン級のトラックなど、大型機器を利用する。こうした機器を森林に入れるため、作業道の幅も4メートル以上と広くなるのが特徴だ。
 一方、長伐期多間伐施業は、所有・管理する山林を約10年に1度の頻度で、2割程度の間伐(密になった林地の木を切ること)を繰り返す。残った木が高品質の木に成長する。小型機械を使用するため、作業道の幅は2メートル〜2.5メートル程度だ。
 今回、自伐型林業推進協会が重点調査した土砂災害現場は以下のとおりだ。
 2016年台風10号豪雨災害(岩手県岩泉町)
 2017年7月九州北部豪雨災害(福岡県朝倉市
 2018年7月西日本豪雨災害(岡山県西粟倉村)
 2019年台風19号災害(宮城県丸森町
 2020年7月豪雨災害(熊本県球磨川流域)
 これらの多くの場所で、皆伐地や林道作業道を起点とした、崩壊が発生。2019年台風19号災害(宮城県丸森町)と、2020年7月豪雨災害(熊本県球磨川流域)については、衛生画像、ドローンなどを活用しながら詳細な調査を行った。
 2019年に関東、甲信、東北地方に甚大な被害をもたらした台風19号では、丸森町で10人死亡、1人行方不明と、自治体単位では全国で最多の犠牲者を出した。
 一般的に土砂災害の原因は、雨量、地形・地質、土地利用にあるとされる。台風19号が襲った2019年10月12日から13日の総雨量は700ミリを超え、丸森町内の阿武隈川本流と支流が氾濫。このため「想定外の雨が原因」と報道された。だが、地形や地質も見逃せない。丸森町は傾斜が急で、斜面崩壊が起こりやすい。また、崩れやすい真砂土(花崗岩が風化したもの)のエリアも広がる。
 崩壊の起点は林業作業道
 一方、これまであまり言及されていなかったのが林業である。自伐型林業推進協会は丸森町で崩壊の多かった廻倉地区を調査した。
 (出所)自伐型林業推進協会調査
 54の崩壊箇所のうち、皆伐地が35件(65%)、作業道起因の崩壊が16件(30%)、林道・公道起因の崩壊が2件(4%)と、林業施業が起因となった崩壊が98%を占めた。放置人工林や未整備林の自然崩壊は1件(2%)。これまで災害時に崩れるのは手入れをされていない人工林が多いと言われていたが、今回の調査では1件だった。
 2021年12月、筆者は中嶋氏とともに丸森町廻倉地区に行った。崩壊場所の1つは、11世帯39人が暮らした集落だった。3人の命が失われ、1人が行方不明となった場所だ。
 丸森町廻倉地区の崩壊現場(著者撮影)
 崩壊の起点は林業作業道だった。崩れ始めた場所の幅は2メートル程度だったが、土砂が斜面を流れるうちに、崩れやすい真砂土を巻き込み巨大な土石流となったようだ。真砂土は水分を含まない時はさらさらとしているが、水分を含むとべとべとの泥になり、がっちり固まって斜面を削りながら流れてくる。
 崩壊地のなかに植林されたエリアもあった。2002年に大規模な山火事が発生。火事後に植林されたが、スギはまだ樹齢が若く、土地を安定させるには至っていなかったと考えられる。
 次に、2020年7月豪雨災害についても調査を行った。球磨川流域では50人が亡くなり、現在も2人が行方不明のままだ。
 ここでも雨量、地形・地質、土地利用という観点から考えてみる。まず、大雨をもたらす線状降水帯に流域全体が覆われた。気象庁によると線状降水帯は東西276.5キロにおよぶ過去最大規模のものだった。7月3日午後9時〜7月4日午前10時の13時間にわたって熊本、宮崎、鹿児島にかかり、総降水量の最大値は653.3ミリだった。ここでも「想定外の雨が災害の原因」という報道が多かった。
 地形や地質を考えると、球磨川流域では降った雨が、谷筋から支流に入り、人吉盆地で球磨川本流に合流する。また、もともと崩れやすい地層で、雨が降ると土砂災害が発生したり、川底での堆砂が進み、洪水を誘発する。
 最後に土地利用(林業)だ。自伐型林業推進協会による調査によると、球磨村の183の崩壊箇所のうち、皆伐地が82件(45%)、林業の作業道、林道・公道起因の崩壊が90件(49%)、放置人工林や未整備林の自然崩壊は11件(6%)だった。
 (出所)自伐型林業協会調査
 崩れ方はさまざま
 筆者は2021年9月に球磨川流域へ行き、作業道の崩れ方を調査した。崩れ方はさまざまである。たとえば法面の崩壊だ。道幅を確保するために切土(アカ色)が高くなり、また盛土(黄色)が水分を含むことにより崩壊が発生していた。
 (筆者作成)
 また、本来は水が流れる谷なのに、水の流れを無視して道を作ったため、豪雨時にその部分が崩れたケースもあった。水の流れを予想して管を道路の下に入れておいたが、脆弱な土壌がパイプのなかにつまり、豪雨時に道を吹き飛ばしたケースなどさまざまだ。
下の写真は被害の大きかった八代市坂本地区で撮影したものだが、谷をまたぐ作業道をつくるときに管によって排水処理を行おうとしたものの流出した土砂によって目詰まりしている。
 八代市坂本地区(写真:筆者撮影)
 球磨川の上流域である、水上村五木村多良木町人吉市へ向かう林道を調査すると、皆伐地の崩壊箇所が数多くある。かなりの土砂量が出ている。それらの土砂は球磨川に入り、川底での堆砂が進み、洪水の原因になっている。
 一方で林業施業は改善されてはいない。阿武隈川流域(宮城県丸森町が所属)でも、球磨川流域でも「上下流・本支川の流域全体を俯瞰し、国、県、市町村が一体となって流域治水を実施する」ことになっている。
 「災害の火種を」作り、「火消しに奔走」
 【2021年9月27日12時45分 追記】記事初出時、皆伐面積について誤認識がありましたので、修正いたします】
 しかし、球磨川流域では、土砂災害が派生した場所の上流部で、伐採が進んでいる。大型の機械を用いて、1日で50ヘクタール以上を皆伐し続けている。これが第2、第3の災害を引き起こす可能性がある。
 一度崩れた山は崩れ続ける。砂防堰堤を作るしかないが、それはすぐに埋まってしまう。対症療法にしかならない。「災害の火種」を自分たちでつくり、自分たちで砂防ダムをつくるなど「火消しに奔走」している。
 こうした現状から脱却すべきだ。流域治水の実効性を上げるには、流域全体における土地利用を見直す必要がある。特に山間地の土砂災害が及ぼす影響に十分配慮し、流域自治体相互の連携を深める必要がある。
 橋本 淳司 水ジャーナリスト
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 アピステコラム
 森林伐採
 森林伐採と土砂崩れの関係、森林を活用した土砂崩れの防止策
 山の多い日本は、台風や大雨などで土砂崩れが発生しやすい国土環境にあります。また、近年は集中豪雨などにより、土砂崩れに関するニュースやその被害を目にする機会も増えています。
 こうした災害が起きた時、山地の森林伐採が土砂崩れに繋がっていると考える方も多いようですが、樹木の生い茂った斜面が崩れ落ちることも珍しくありません。
 そこで今回は、日本における森林伐採と土砂崩れの関係や、森林を活用した土砂崩れの防止策などについてご紹介します。
 目次 [非表示]
1.土砂崩れのメカニズム
2.森林伐採と土砂崩れの関係
3.森林があるにも関わらず土砂崩れが増えている原因
 人工林の管理不足
 異常気象の増加
4.森林を活用した土砂崩れの対策
①.人工林の手入れ
②.野生鳥獣による森林被害を防ぐ
③.広葉樹林保全
5.まとめ

 1.土砂崩れのメカニズム
 森林伐採と土砂崩れの関連についてご紹介する前に、まずは土砂崩れのメカニズムについて解説します。
 土砂崩れとは、斜面表層の土砂や岩石が地中のある面を境にして滑り落ちる現象のことを言います。
もともと斜面の表層は重力で常に下へ引っ張られていますが、地盤の摩擦力などそれに抵抗する力によってその位置を保持しています。
 しかし、大雨や地震などで重力が抵抗力を上回ると、地層の表層の一部が断ち切られ、岩盤の上に乗っている土砂が崩れ落ち、土砂崩れとなります。
 2.森林伐採と土砂崩れの関係
 ここからは、森林伐採と土砂崩れの関連性をご説明します。
 樹木の細根には、網のように土壌層をつなぎ止め、基岩層の亀裂まで入り込み、すべり面(土壌層と基岩層の境)を固定する機能があります。これが、地盤の浸食や崩壊を防ぐ役割を果たしています。
 また、落ち葉が混ざり込んだ隙間が多い土壌は、降水時の水分を多く吸収し、地表流の発生を抑える働きがあります。
 しかし、森林伐採によって樹木が減少すると、すべり面のストッパーとなるものがなくなり、傾斜が急な場所ほど土砂崩れが発生しやすくなるのです。
 3.森林があるにも関わらず土砂崩れが増えている原因
 前章では、森林が伐採された場所では土砂崩れが起きやすくなるとご説明しましたが、実は日本の森林面積は50年前とほとんど変わりません。
 しかし、山地に樹木が生い茂っているにも関わらず、大雨や台風による土砂崩れで住宅が倒壊し、多数の死傷者を出すといった事故が増えています。
 森林があるのに、なぜ土砂崩れが増えているのでしょうか。ここからは、その要因を考察していきます。
 人工林の管理不足
 日本の森林面積はほとんど変わりませんが、その内訳を見ると天然林が減少し、人工林の比率が拡大しています。
 下刈りや間伐などで定期的に手入れされた人工林は、根の発達が促されて風雪害に強い森林となるほか、林内の光環境が良く、下層植生が繁茂し、表土の流出を防ぐという本来の役割を果たす森林になります。
 しかし、1980年をピークに林業産出額が減少の一途を辿っています。
 林業の採算性が悪化しているほか、林業離れによる後継者不足や就業者の高齢化などもあって、資源として利用できる森林蓄積は年々増えているにも関わらず、多くの人工林がそのまま放置されているのが現状です。
 下刈りや間伐がされない山の地表は日光が届かず、草木の根が張らないため、土が痩せていきます。このような状況で大雨や台風などが発生した場合、根が水を吸いきれずに土砂崩れが発生しやすくなってしまうのです。
 異常気象の増加
 近年は「〇〇市は1日で200㎜の降雨を観測」など異常気象が増えていますが、そんな猛烈な雨が手入れされていない人工林に降った場合、やはり根が水を吸い切れず土砂崩れを引き起こす恐れがあります。
 手入れされている人工林は下層植生の発達が良好であり、雨水が染み込みやすい枯れ葉を含んだ土壌を作ります。そこに降った雨は地中をゆっくりと移動し、澄んだ水となって川などに流れ出ます。しかし、手入れされていない人工林では下層植生が衰退し、水が浸み込みにくい土壌になるため、雨水は素早く地表を流れ落ちることになります。
 これは水源かん養機能と呼ばれ、この機能が下がると、とてつもない量の雨が降った場合、表土の流出はもちろん、土砂崩れのリスクが高まります。
 4.森林を活用した土砂崩れの対策
 最後に、森林を活用した土砂崩れの対策を3つご紹介します。
①.人工林の手入れ
 人工林を機能させるためには、間伐などによって森林を育てる手入れを定期的に行う必要があります。
 現在は植栽以降放置されている人工林が目立ちますが、植栽後も下刈りや除伐、間伐、主伐など手入れを継続することで、残存木の幹は太くなり基岩層の亀裂に根を張り、地盤の浸食や崩壊を防ぐ機能を取り戻します。
 また、人工林の手入れを行うことで、森の中に日光が差し込み、今まで発芽できなかった色々な木の種子が育ち、本来の天然林の再生を目指すこともできます。
②.野生鳥獣による森林被害を防ぐ
 人工林を手入れしても、鹿や熊など野生鳥獣の食害や剥皮被害を防がないことには、土砂崩れに強い森林を整備することはできません。
 林野庁によると、2015年度の野生鳥獣による森林被害面積は約7万8000haであり、年々拡大傾向にあります。これを放置すると、下層植生の消失や剥皮による森林の枯死などで土砂崩れのストッパーが減り、災害のリスクが高まります。
 人工林が災害時に有効に機能するためにも、防護柵や食害防止チューブなどの設置、駆除による適切な個体数の管理といった対策が必要になります。
③.広葉樹林保全
 土砂崩れ対策として、人工林だけでなく広葉樹(天然林)の保全も有効です。
 その場所で育った広葉樹林は、多様な樹種を持ち、地域への適応力も強い森林です。現在の植生が持っている表面侵食防止機能や土砂崩壊防止機能を守るために、不用意な伐採を避けるなどの保全が求められます。
 その植生の維持や健全化のためには、天然更新や樹木の成長を助ける作業など、天然林であっても人手による管理が不可欠です。
 5.まとめ
 現在の日本の森林は、過伐採ではなく人工林の放置などが原因で土砂崩れが多発している状況といえます。
 国内林業の採算悪化や人手不足などの問題はありますが、異常気象の増加で土砂災害のリスクは増えています。少しでもその被害を減らすために、人工林や広葉樹林の管理の徹底が求められています。
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🏕37)─1─日本民族は約5000年前の縄文時代前期から植林を伝統として受け継いできた。~No.70No.71 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本民族にとって自然は、宗教であり神である。
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 日本列島とは、春夏秋冬、季節に関係なく、広範囲に同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに自分一人、身一つで逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
 日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
 日本の宗教・文化・言語は、こうして生まれてきた。
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 令和6年 能登半島は1月の地震と9月の豪雨と複合災害に見舞われ、冬には豪雪が襲う危険性が大である。
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 2024年10月4日 YAHOO!JAPANニュース 響hibi-ki「退屈な人工林には5000年の歴史が詰まっている
 日本のどの山に行っても見かけるであろうスギやヒノキの人工林。日本列島で暮らす人々が長い時間をかけて関係性を築いてきた人工林だからこそ、今では見慣れすぎるほどの存在になっているとアツく語るのは毎度おなじみの杉センセイです。今回は人工林をめぐる大スペクタクルの旅へ出かけてみましょう。
 実は特殊な、日本の人工林
 杉センセイ、この前、ちょっと遠出して初めて行く山域で森歩きをしたんですけど、実のところあんまり楽しめなかったんです。登山道の周りに広がっていたのは、ずーっとスギやヒノキの人工林で、全く面白みがなかったんですよね。
 まあ、そうやろな。植物好きな人からしたら、単調で真っ暗な林床が広がる人工林は、退屈極まりない存在や。でもアレ、日本ならではの光景なんやで。日本の人工林って、世界的に見るとだいぶ特殊な森林景観なんや。
 え、どういうことですか?人工林って、日本に限らず世界中どこにでもある気がしますけれど。
 人工林の構成樹種には、①良材を産出して、②苗木の生産、育成が簡単で、③伐期までに時間がかかりすぎない(おおむね60年以内)という素質が求められる。世界にはおよそ6万種の樹木が存在すんねんけど、これらの条件を満たす“精鋭”はその中でもごく僅かや。せやから、人工林に植えられる樹って、世界中どこに行っても大体同じなんや。
 へえ〜、でも、海外の人工林っていまいちイメージが湧かないですね。どんな樹が、どれくらいの規模で植栽されてるんですか?
 国連食糧農業機関(FAO)の集計によると、2020年の時点で、世界の人工林の総面積は1億3000万ha(日本の3.5倍)。このうち約77%が、たった10種の樹木によって占められているんや。
 世界の森林を、そのプロフィールで色分けした地図。濃い緑は人の手が殆ど入っていない原生林(Primary forest)、黄緑色は撹乱のあとに再生した二次林、そして紫色が人工林。人工林は、世界全体の森林面積のうち3%を占めるにすぎないが、人類が年間に消費する産業用丸太の半分以上を産出する。 https://www.researchgate.net/publication/328282381_Towards_better_mapping_of_forest_management_patterns_A_global_allocation_approachより引用)
 ニュージーランド、チリ、南アフリカなど、南半球の温帯で広く植栽されるラジアータマツ(Pinus radiata)。原産地のカリフォルニアでは絶滅危惧種だが、20世紀初頭にニュージーランド林業用樹種として持ち込まれたのち品種改良が重ねられ、人工林の主力構成樹種として世界中に広まっていった。人類が最も多く植栽した樹種のひとつ。
 ニュージーランドの温暖な土地でたまに見かける、ユーカリの植林地(こちらの樹種はおそらくEucalyptus salignaと思われる)。成長が早いため、樹種によっては10年以内で伐期を迎える。めぼしい産業が無い発展途上国では、手取り早い外貨獲得源となるが、ユーカリの樹体には油分が多く含まれているため、火事が発生すると全てがオシャカになるというリスクがある。
 最も広く植栽されているのはマツ類で、全世界の人工林の30%を占める。北米やヨーロッパ、南米南部やニュージーランドなどなど、温帯〜冷帯にあたる地域では、林業の主力は専らマツなんや。次いで高いシェアを誇っているのがユーカリとアカシア。彼らは主に、熱帯の発展途上国で外貨獲得源として植栽されてる。特にユーカリの人工林は、世界におよそ20万㎢(本州の約9割)存在すると言われてるんや。
 ざっと計算すると、おおよそ100万平方キロメートルもの土地が、たった10種の樹木に覆われている、ってことですよね…。人が意図的につくった森だから仕方がないんでしょうけど、やっぱりちょっと不自然な植生ですよね。
 そうやな。マツやユーカリのような、外来の早生樹種(成長が早い樹種)に依存する木材生産は、19世紀〜20世紀初期にかけて登場した、比較的新しい林業のスタイルなんや。当時は、国際的な航路が急激に発達して、生きた植物(苗や種子)の長距離輸送が初めて可能になった時代や。そんで、林業の発展に役立つと見込まれた樹種が、世界各地に伝播していったんやな。ユーカリの場合、1850年代〜1900年代にかけてのたった50年間で、南極を除いたすべての大陸に導入されてるんやで。
 世界中の人工林で、同じような樹種が植栽され、同じような施業が行われているんですね。
 そうやな。世界に拡がる早生樹種の面々は、今日の国際社会にとって必要不可欠な存在なんや。ただアイツらは、世界トップクラスのヤンチャな樹木でもある。奴らには、故郷から遠く離れた土地に連れてこられても難なく活着できるほどの、生命力の強さが備わってる。だからこそ、世界中の植林地で重宝されてきてんけど、中には素行が悪い樹種もおるんや。
 生命力を持て余した早生樹種が、人工林から“脱走”して、現地の在来樹種と勝手に喧嘩をはじめる、というケースは後を立たない。ほんでこの場合、勝つのは大抵早生樹種の方なんや。南アフリカでは、人工林から逃げ出したユーカリが、在来の植生を駆逐してしまったこともあるんやで…。なんせアイツは、根から化学物質を出して土壌を劣化させるという、超ド級の反則技をかましてくるからな。目をつけられたら終わりなんや。
 なんとお行儀の悪い…。ひと昔前のヤンキーみたいな生態ですね。同一の外来樹種を、世界各地で大量に植栽するって、生態系保全の観点から考えるとかなりリスクが高いですよね。
 オーストラリア東海岸原産のアカシアの一種、タスマニアン・ブラックウッド(Acacia melanoxylon)。材の木目が美しく、世界中の温帯〜熱帯地域で植栽されているが、侵略的外来植物としても悪名高い。
 ニュージーランド南島の乾燥地帯で問題になっている、「ワイルディング・コニファーズ(Wilding conifers野生化針葉樹)」。元来乾燥に強い北米西部原産のロッジーポールマツ、ラジアータマツが、林業用の人工林から逃げ出し、周囲の草原に定着してしまっている。針葉樹の侵入によって、土壌の菌相が変化し、草原植生が劣化することが懸念されている。
 その通り。クセの強い野郎どもを大量に引き連れて、狭い植林地に押し込めてるのは我々人間やからな。監督責任っちゅうもんがあるわ。でもな、そんなタフな輩ですら、馴染めずに敗退していった土地があるんやで。
 え!いったいどこですか!? あのヤンチャな野郎どもが音をあげるなんて、よっぽど過酷な土地なんじゃ…。
 日本や。明治時代初期から、日本では外来樹種を使った人工林の造成が試みられてきた。たとえば1880年メルボルン万博の閉幕時には、例のユーカリ、アカシアの苗木が日本に持ち帰られ、宮崎や山口、神戸で試験的に植栽されたという記録がある。神戸の裏手の六甲山には、ユーカリの巨木が育った森が何箇所かあんねんけど、アレはその時植栽された樹の子孫ちゃうかとわしは思ってるんや。1904年には、ヨーロッパ産のヨーロッパアカマツや、北米産のテーダーマツ、ダグラスモミが、群馬県の小根山に植栽された。日本在来のスギやヒノキは、伐期までに50年ほどかかるからな。より短いサイクルで伐採できる外来の早生樹種に、当時は注目が集まってたんや。
 北海道旭川市・外国樹種見本林のコンコールモミ(と思われる針葉樹)。北海道は、特に多くの外国産樹種が導入された地域のひとつ。スギやヒノキが育たない寒冷な気候ゆえ、世界中の寒冷地から針葉樹が取り寄せられ、林業への適性が計られた。旭川市街に隣接する外国樹種見本林は、明治時代の林業試験場をそのまま利用した樹木園で、当時植栽された外来の針葉樹を観察できる。
 でも、どの樹種も結局定着することはなかった。日本特有の病害虫、湿気の多い気候、そして台風のせいで、外来の樹は軒並み枯れてしまったんや。その後も3回ほど(1910年代、1920〜30年代、1960年代)、国内の木材需要が増す度に、「外来樹種の人工林ブーム」が到来してんけど、どれも失敗に終わり、最後は造林計画自体がお蔵入りになった。ほんで、結局は日本在来のスギ・ヒノキが最適、という結論に至ったんや。
 世界中で同じような早生樹種が植林されている中、日本だけが自国の在来樹種(スギ・ヒノキ)を植え続けている…。よくよく考えると、確かにこれってスゴイことですよね。
 そうやろ。スギやヒノキの人工林って、日本以外では殆ど見られへん景色なんや。そこに秘められた歴史を紐解いていくと、一見退屈な森林景観にも愛着が湧いてくるはずや。今から、日本の人工林を“楽しむ”ために、タイムトリップに出かけるで〜。
 人工林に、そんな大層な歴史が隠されてるんですか!? なんだか面白そうですね。
 大阪府岸和田市、ヒノキの人工林。日本国内に存在する人工林の総面積は、北海道よりも広い10万2000㎢。国内の森林面積の4割を占める。
人が森を育て始めたのは、いつから?
 日本の人工林の起源には、ちょっとした“考古学ミステリー”が絡んでるんや。話は約5000年前、縄文時代前期まで遡る。
 人工林と考古学ミステリー?あまり見かけない言葉の並びですけど……一体どういう意味ですか?
 日本の縄文遺跡では、よく水辺遺構(川の流路を付け替えた箇所で設置される、木造の構造物)という大型建築物が発見される。実はコレに関して、長年未解決の謎があったんや。……というのも、多くの水辺遺構にクリの材が使われていたから。埼玉県さいたま市の寿能(じゅのう)遺跡では、水辺遺構で出土した木材のうち、約75%をクリ材が占めていたらしい。
 クリ材は硬くて耐水性があるからな。縄文人たちはそれを理解していたんやと思う。
 日本のクリ(Castanea crenata)は、九州から北海道石狩まで分布するが、長い年月にわたる栽培の歴史の中で、自生の個体と栽培の個体の違いがあやふやになってきている。
 ただ、水辺遺構を建設するには、樹高10mのクリの樹が100本以上必要になる。これほど大量のクリ材を、自然林から調達するのは殆ど不可能なんや。クリは群れて生えるタイプの樹ではないからな。大抵はコナラやクヌギの森の中で、少数の個体が散らばって生えてる。では縄文人たちは、一体どうやって膨大な量のクリ材を入手したのか……?なんとも不思議な話やろ。
 ……あ、もしかして、その謎を解く鍵には、人工林が絡んでたりします…?
 勘がいいな、その通りや。2006年、青森県三内丸山遺跡で、地中に埋没した樹木花粉の分析が行われた。その際、縄文集落の繁栄期(約5000年前)に相当する地層から、不自然に高い割合でクリ花粉が検出されたんや。当時、集落の周辺でクリの人工林が形成されていたことの証拠や。今のところコレが、日本列島における歴史上最古の人工林やとされてる。材そのものが有用なのはもちろん、クリの実は今も昔も重要な食料源やからなあ。縄文人たちにとって、なくてはならない樹やったはずや。
 「有用樹種を大量に植栽して、利用価値が高い植生を短期間で成立させる」という、人工林の基本的な趣旨は、5000年前から変わっていなかったんですね!
 青森県十和田湖畔のクリの大木。クリの樹は、案外寿命が長く、野生状態ではかなりの大木になる。硬く頑丈な材質が買われ、枕木に用いられたこともある。
稲作が、私たちの先祖と杉を巡り合わせた
 わたしたちが見慣れている、杉や檜が使われ始めたのは、一体いつ頃なんですか?
 日本人が杉を使い始めたきっかけは、稲作やと言われている。日本列島で稲作が始まったのは、約2000年前、縄文時代の終末期のこと。この時代、人口の配置がガラリと変わって、水資源が豊富な沖積平野に集落が形成されるようになったんや。言うまでもなく、稲作には水が不可欠やからな。この“人口集中”が、結果的に杉の材を利用する文化を生み出したんや。
 この”人口集中”が、結果的に杉の材を利用する文化を生み出したんや。
 秋田県藤里町のスギ天然林。野生のスギは、谷底の湿った土地で群落を形成する。彼らがいかに水が大好きか、視覚的に体感できる光景。
 ……というのも、稲作に適した水利が良い土地は、スギの生育適地でもあるから。スギは元来、沢沿いの湿った土地で森を作る樹木。水が豊かな土地が大好きなんや。実は、“米どころ”として知られている土地の多くは、もともとスギの原生林であったケースが多い。たとえば、近年行われた花粉分析では、有史以前の富山平野が、広大なスギの原生林に覆われていたことが裏付けられている。日本アルプスの雪解け水が、麓の平野に流れ込んで、深々しいスギの森を育んでいたんやな。
 スギの原生林が生い茂る土地では、米がよく育つ、ってことか!稲作の発達によって、図らずも人間の居住地とスギの生育地が重なることになったんですね。
 その通り。稲作を発展させた農耕民は、スギの原生林を伐り拓いて水田を造成し、集落を築いていったんや。黎明期の日本文明は、スギの森の懐で育まれたんやな。杉材を利用する文化も、自然と発達していった。
 秋田県能代市の、スギ天然林。狭い谷間に、50mを超えるスギの巨木が集中する。
 富山県上市町にある、弥生時代後期の集落跡からは、スギの材でできた遺跡・遺物が200点以上出土してる。その具体的な品目は、木器や楽器の琴柱、紡織具といった日用品から、土木工事に使うような杭・板・柱まで、多岐にわたっていたんや。杉の材は柔らかくて加工しやすいからな。汎用性が非常に高くて、当時から重宝されとったんやろう。
 稲作が、日本人と杉を巡り合わせたんですね…!なんというか、興味深い運命のいたずらですね。
 山形県戸沢村、幻想の森。江戸時代から知られるスギの天然林。有史以前、日本海側の平野部は、こんな景色で覆われていたんだろうなあ。
スギ・ヒノキの人工林が生まれるまで
 時代が下り、飛鳥時代になると、大和盆地に巨大都市が誕生し、膨大な量の木材が消費されるようになった。本格的な“木の文化、木の文明”が発達し始めたんやな。
 東大寺とか法隆寺とか、かの有名な建築物も、この時代に建てられたんですよね。あれほどの巨大な木材は、一体どこからやってきたんでしょう?
 飛鳥時代の日本では、現代とは様相が異なる植生が展開されていた。当時の西日本一帯は、針葉樹の巨木(ヒノキ、スギ、モミ、コウヤマキなど)と照葉樹(シイ類、カシ類)が均等に混ざった、混交林(針葉樹と広葉樹が混じり合う森)で覆われていた。現代の日本には殆ど残っていない、原生的な植生タイプや。
 四万十川現頭部、市ノ又自然林。人為的な撹乱を数百年以上受けていない原生的な森。アカガシ、ウラジロガシ、ハイノキ類などの常緑広葉樹の森に、ヒノキやモミ、ツガが混じる。ここまで原始的な植生が見られる森は、現代の日本では極めて稀。日本列島の森に斧が入る前、約1000年前までは、こんな感じの植生が西日本一帯を覆っていた。
 大和盆地周辺も例外ではなくて、伊賀や甲賀の山々には深々しいヒノキの巨木林が広がっていたらしい。膨大な量の材が、そこから都へと持ち去られて、豪華な木造建築へと姿を変えていったんや。法隆寺の柱に使われているのは、樹齢400年、直径2.5mのヒノキの巨木や。想像してみ。横に寝かせた自販機がすっぽり収まるような、恰幅の良い幹を伸ばした樹が、何本も林立しているんや…。古代の日本は、まさしく“巨木の大地”やったんやな。
 和歌山県古座川源流域のヒノキの巨木。これだけでも十分大きいが、奈良の寺院に用いられているような巨木と比べると、まだまだ小ぶり。現代の日本に、樹齢400年を超えるヒノキの巨木は、ほぼ存在しないと言われている。
そんなサイズの巨木が生えた森って、現代の日本ではまず見られないですよね。飛鳥時代からの数百年間で、古代日本を覆っていた巨木の森は、ほぼ伐り尽くされてしまった、ってことですか?
 まさにその通りや。度重なる乱伐で、大和盆地周辺のヒノキ林は瞬く間に枯渇してしまった。平安時代に入る頃には、針葉樹の巨木が生い茂った原生林は、すでに畿内から姿を消していたらしい。もともと山林は、誰もが自由に使える共有財産やってんけど、このシステムにも限界がある。そこで領主たちは、スギやヒノキ、モミなど、有用な針葉樹が生える山を“杣山(そまやま)”と呼ばれる森林保護区に指定して、一般の農民が立ち入ることを禁じた。ほんで、杣山が産出した材を利用できるのは、公家や寺社、いわゆる上流階級に限定されたんや。平民が自由に針葉樹を利用できる時代が、終わりを告げたんやな。
 秋田県藤里町のブナ・スギ混交林。北海道の北端部や、亜高山帯をのぞいて、現代の日本の森では広葉樹が圧倒的に優勢となっている。これは、過去1000年間に、利用価値の高い針葉樹が抜き伐りされた結果出来上がった植生で、本来の日本の森は針葉樹と広葉樹が均等に混じった混交林である、という見方が有力になっている。その証拠に、四万十や紀伊半島白神山地など、人の手が入っていない奥地の森では、広葉樹と針葉樹が混じり合った植生が展開されている。
 森の荒廃がいよいよヤバくなってくると、貴族が有用樹種を独占しはじめるんですね。まさしく“階級社会”って感じですね(笑)。
 そういう時代やったんやな。でも、この規制のおかげで、「人の手で針葉樹を育てて、持続的に管理する」という概念が浸透していった。ほんで14世紀初頭に、スギ・ヒノキの造林技術が確立されたんや。現代の私たちにお馴染みの人工林やな。兵庫県川西市多田神社には、“人工林について言及した日本最古の史料”が保管されてる。1364年に書かれた書状やねんけど、文中には「近年源裕はやさせ候し山にて…」という一節があるんや。この「はやさせ候し山」というのは「樹を生やさせた山」、つまり人工林を指しているんや。
 多田神社は地元の近くで、友だちと深夜のドライブで何回か行った記憶があるが、まさかそんな歴史があるとは思ってもいなかった。実のところ、多田神社の書状で言及された人工林に、何の樹種が植えられていたのかは、はっきりしていない。しかし、当時から持続可能な森林管理が図られていたことを示す資料としては、多田神社の書状は極めて高い価値を持つ。
 実際、多田神社の近辺の山では、遅くとも1310年代から、用材や薪の確保を目的とした植林が行われていたらしい。「自分たちが使う樹は、自分たちで育てる」という意識は、当時から醸成されていたんやな。
 私たちが普段見ている人工林のルーツは、平安時代身分制度だったんですね…!
 スギ・ヒノキの人工林は、長い年月にわたって日本人の生活・文化の基盤として機能してきた。豪勢な檜材をふんだんに使った木造建築、杉の樽で醸造される日本酒や漬物、杉材で建てられた日本家屋などなど、日本が世界に誇る文化遺産は、どれもスギ・ヒノキなしでは成り立たへん。これらの文化が急速に発達したのは、16世紀のこと。人工林の育成技術が、日本各地に浸透した時期とちょうど一致する。人工林が、安定した木材の流通をもたらし、それが精巧な“木づかいの文化”を生み出したんやな。
 人工林は、日本という国のアイデンティティを確立した立役者でもあるんですね!
 樹との“ご縁”
 今日は、日本史の授業でお馴染みの言葉がたくさん出てきましたね。“稲作”とか、“飛鳥文化”とか、平安時代の貴族制度とか……。人工林の歴史は、日本の歴史の本流と密接に絡み合っているんですね!
 そうやな。先史時代から今日にいたるまで、日本列島に住む人々は樹(木)に依存して生きてきたんや。古来から森は、日本社会の基盤やった。本来、樹木とは全く違う時間軸で生きる私たちにとって、「森を利用する」という営為は、相当に難しいものなんや。人間の時間軸だけに基づいて森を利用すれば、瞬く間に森は壊れてしまうし、かといって人間社会を森の時間軸に合わせようとすると、人間の側に重い経済負担がのしかかる。人類は先史時代から、このジレンマに悩まされてきたんや。
 奈良県川上村にある、ヒノキの人工林。樹齢250年以上の樹が林立する、現存する中では日本最古の人工林といわれている。
 人間の時間軸と、森の時間軸を、良い具合に並走させるべく編み出された文化遺産、それが人工林なんや。人工林は、人間の世界と森の世界の間に横たわる、独特な時間軸に乗っかって胎動していく。樹の成長や植生遷移が、人によってコントロールされるから、森の新陳代謝が人間の歴史と連動するんや。
 私たちが見慣れた人工林は、今日までの人間の歴史をベースに、緻密に設計された森なんですね。
 人工林を成立させるには、森に関する深い知見が必要になる。山野に生える数多の樹種を識別して、自分たちの需要に応えてくれる樹を見つけ出し、さらにその樹を数十年にわたって人の手で育てる…。こんな離れ業が、5000年前から受け継がれてきたんや。これは、素直に誇るべき歴史やと思う。日本列島は、温帯地域としては地球上で最も樹が育ちやすい土地の一つやからな。人と樹とのご縁が、育まれやすい環境にあったんやろう。
 高知県馬路村、千本山のスギ人工林。300年前に植栽された森で、天を突くような巨木がそびえ立つ。このあたりの山の杉材は、豊臣秀吉のお気に入りだったらしく、大阪城建築の際にも用いられたと記録されている。整然とした人工林の美しさと、日本の歴史遺産の間には、密接な関係がある。両者の価値を結びつければ、新たな観光資源が生まれるのでは、と思う。
 今日の日本では、早生樹種の輸入材が台頭しているせいで、スギ・ヒノキとのご縁が薄まっているんや。花粉症や土砂災害の元凶として、彼らが悪者扱いされることすらある。たしかに木材生産の効率性からいえば、海外の人工林のほうが優れている点が多い。でも日本の人工林には、濃密で由緒ある歴史が詰まっている。文化遺産としての価値を見出すのも、アリやと思うんや。
 花粉症も土砂崩れも、人間が人工林に価値を見出さなくなったことが、根本的な原因ですよね。林業以外の価値も見出して、とにもかくにも人が森に入る動機づけをしたいですよね。
 人工林が、生態系破壊の元凶として語られることがあるが、その認識は間違い。適切に管理された人工林では、林床に日光が行き届き、多様な植物が繁茂する。植栽された樹の幹は、猛禽類、樹洞棲鳥類、コウモリ、哺乳類など、様々な動物の棲家となる。人間の管理次第で、人工林は健康な森林生態系として機能するのである。問題なのは、放置された人工林。写真は、多国籍木材企業が管理する、ニュージーランドのマツ人工林。林内には数多の在来樹種が生育しているほか、ハヤブサの営巣も確認されている。
 私たち日本人は、めっちゃラッキーやと思うで。海外の林業用樹種って、たいてい性格に難があるんや。在来樹種に喧嘩を売って、現地の植生をボコボコにしてまうマツやユーカリみたいにな。でもスギやヒノキは、どちらかと言うとおっとりとした性格の樹で、天然林の樹と乱闘騒ぎを起こした、みたいな話はあまり聞かへん。非常にお行儀が良いんや。良質な材を提供してくれる上、無闇に周囲の植生にちょっかいを出さない、聞き分けの良さも備わってる…。今どき、こんなええ子はおらんで。そんな樹と、2000年間もお付き合いをさせてもらってきたんや。このご縁は、大切にせなあかんで。
 杉先生、いつになく熱いですね。バイトの若い子を褒める店長みたいです。スギ・ヒノキって、海外の早生樹種と比べるとめっちゃ素行が良いんですね…。そんな彼らと巡り会えた私たちは、確かにとってもラッキーですね!
 「樹を植える」という行為は、人間が行うことができる投資の中で、最も遠い未来に向けたものや。人間よりも遥かに長く生きる生き物を、会うことがないであろう未来の誰かのために、丹精込めて育てるんや。これが繰り返されて、人間の歴史と森の歴史が、何千年にもわたって紡がれる。誰にでもできることやないで。もしかすると日本の人工林は、最も洗練された文明の形態なのかもしらんな……。知らんけど。
 ニュージーランド林業試験場。木曽ヒノキ、スギをはじめ、世界中から取り寄せられた針葉樹のコレクション。どれも、林業を振興するポテンシャルを秘めた樹木たち。
《杉センセイまとめ》 ・世界の人工林の総面積は、日本の3.5倍に及ぶが、そのほとんどはマツ、ユーカリ、アカシアで占められていて、どの国の人工林も樹種の組成が似通っている。自国の在来樹種(スギ、ヒノキ)を人工林に植栽し続けているのは、日本ぐらい。スギ・ヒノキの人工林は、世界的に見ると特殊な森林景観であるといえる ・日本列島における、最も起源が古い人工林の造成は、5000年前の縄文集落で行われていたクリの植林である ・稲作の発達によって、人の生活圏とスギの生育地が重なるようになり、スギの材を利用する文化が生まれた ・飛鳥時代以降、木造建築が発達すると、原生林が伐採され、天然のスギやヒノキの材は枯渇した。その結果、貴族による森林利用の規制が強化され、市民階級はスギ・ヒノキの天然林に立ち入ることができなくなった。これが、人工林の造成技術の発達につながった ・日本の人工林は、世界でも他に類を見ないほどの長い歴史を持つ。文化遺産としての価値も高い
●参考文献 ・Food and Agriculture Organisation of United Nations (2020) “Global Forest Resource Assessment 2020”  https://www.fao.org/interactive/forest-resources-assessment/2020/en ・Katharina Schulze Žiga Malek Peter H Verburg( 2018) “Towards better mapping of forest management patterns: A global allocation approach” https://www.researchgate.net/publication/328282381_Towards_better_mapping_of_forest_management_patterns_A_global_allocation_approach ・John Davidson (1993) “Ecological Aspects of Eucalyptus plantations” https://www.fao.org/4/ac777e/ac777e06.htm ・根元昌彦(2017)“世界の植林地造成の現状と将来展望 ―文献調査による論点の整理” 公立鳥取環境大学紀要 第15号 https://www.kankyo-u.ac.jp/f/introduction/publication/bulletin/015/031-045.pdf ・佐藤 將(n.d.) “外国産樹種についての一考察” https://www.rinya.maff.go.jp/j/kensyuu/pdf/satou.pdf ・肥後 芳尚(1959) “明治時代における外国樹種の導入について”鹿兒島大學農學部學術報告 第10巻 https://core.ac.uk/download/pdf/144573385.pdf長池卓男(2021)“人工林における外来種植栽の現状と課題 ―針葉樹を中心に―”日林誌(2021)103 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjfs/103/4/103_297/_pdf林野庁(2017)“スギ・ヒノキ林に関するデータ” https://www.rinya.maff.go.jp/j/sin_riyou/kafun/data.html ・安田義憲(1991)“スギと日本人” https://nichibun.repo.nii.ac.jp/records/924 ・能城修一、佐々木由香(2014)“遺跡出土植物遺体からみた 縄文時代の森林資源利用” 国立歴史民俗博物館研究報告 第187集 https://cir.nii.ac.jp/crid/1390853649019392768村上由美子(2018)“木の考古学で読み解く里山の利用” 野生復帰(2018)6: 7-11 https://satokouen.jp/downloads/journal/06_02.pdf ・高桑進(2012)“杉と日本人のつながりについて”,研究紀要 25 19-40,京都女子大学宗教・文化研究所 https://cir.nii.ac.jp/crid/1050845762507665664有岡利幸(2011)“檜(ものと人間の文化史)”法政大学出版局
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 記事へのご意見最終更新: 10/4(金) 11:00
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 スズメが激減…絶滅危惧種に? 気候変動が影響か
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 現代日本人が無宗教無神論者なら、日本民族は有宗教有神論者である。

   ・   ・   ・   
 日本の甚大な被害をもたらす破壊的壊滅的自然災害は種類が多く、年中・季節に関係なく、昼夜に関係なく、日本列島のどこでも地形や条件に関係なく、同時多発的に複合的に起きる。
 それこそ、気が休まる暇がない程、生きた心地がない程であった。
   ・   ・   ・   
 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本は、近代国家建設の為に神社合祀令で自然を破壊し、高度経済成長の為に産業廃棄物を垂れ流して自然を破壊した。そして現代でも金儲けの為に自然を破壊している。それが、宗教的里山の崩壊である。
   ・   ・   ・   
 日本の自然林は、奥山・天然林(てんねんりん)と里山・人工林の均衡である。
   ・   ・   ・   
 日本文明の根源は植林文化であり、植林は宗教であった。
 植林を宗教的国家的行事に押し上げてきたのは、神話物語を正統性の根拠としてきた男系父系天皇であった。
 それが、天孫降臨古事記日本書紀記紀神話)である。
   ・   ・   ・   
 日本民族の脅威は、中国や朝鮮ではなく自然災害であった。
 が、日本民族にとって日本神道にとって自然災害は悪魔・魔物・敵ではなく神・共に生きる存在・友であった。
 つまり、日本民族とは武勇の民ではなく殺し合い・戦争を好む民族ではなかった。
 日本民族は、戦争を好み、血に酔い痴れ死体を積み上げ狂喜する漢族中国人や半島人とは違っていた、のである。
 自然を愛(め)で、自然を好み、自然を親しんだのは、日本民族であって日本人ではない。
 現代の日本人は、自然を愛し、自然を大事にし、自然を護ってきた、はウソである。それは歴史が証明している。特に、反宗教無神論のエセ保守とリベラル左派のマイノリティ・ファシズムエコ・テロリストヒューマニズム原理主義、環境過激派、リベラル・ファシズム(エセ・リベラル)は、文化マルクス主義の反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人達である。
 そして彼らは、イデオロギー的不寛容な差別主義者である。
   ・   ・   ・   
 日本民族人間性である価値観・人格・気質を作り出したのは、人間(他国・異民族・異教徒)の脅威ではなかったし、唯一絶対神(全智全能の創り主)の奇蹟と恩寵ではなく、自然の脅威と恩恵(和食)である。
 つまり、日本人と朝鮮人・中国人は違うのである。
   ・   ・   ・    
2022-01-26
🏕目次)ー12ー日本列島は甚大な自然災害多発地帯と豊かな自然。祈る天皇里山。神社の森林破壊。江戸の災害。~No.1 * 
2022-01-24
⛩目次)ー10ー日本神道宮中祭祀。和食。伊勢神宮。子供好き。マレビト。御霊神社。御嶽崇拝とカムイ崇拝。性差別。靖国神社。~No.1 * 
2023-12-13
🌈8)─2─日本民族の宗教的自然観が世界自然遺産を生み出していた。〜No.16 
2023-10-28
🏕28)─2─日本民族が愛した多様性に富んだ雑多な雑木林は津波や高潮に強い。~No.53 
2022-07-26
🏕36)37)─1─天皇・皇后両陛下が臨席される全国植樹祭は四大行幸啓の一つ。~No.68No.69No.70No.71 ⑧ 
2022-07-25
🏕35)─1─徳川幕府や諸大名は禿山に植林をして自然を回復させ収益を上げた。~No.66No.67 
2022-07-24
🎑70)─1・A─『森と木と建築の日本史』。日本の植林して木を育て再利用する意義。~No.159No.160 
🎑65)─1─モノ作りの源流は京都の森。次世代に残した植林の里山ともったいないのSDGs。~No.149 
2021-11-23
🏕44)─4─幕府・大名は天災で甚大な被害がでると、財政を傾けてまで領民を助けた。~No.91 
2021-05-10
⛩11)─1─火山列島における最古の神「大穴持神」。永遠の命が宿る大樹=御神木と皇室。~NNo.20No.21 
2019-09-08
🏕30)─1─森・川・平野・海の原風景。植林する日本神道里山とフルボ酸鉄。自然神と里山の恩恵。〜No.56No.57 * 
2019-06-24
🏕14)─1─自然災害多発地帯で生きる日本民族日本人は、不安遺伝子が多く神経神経質で、臆病と小心でストレスに弱い。その対処法は。~No.25No.26 * ③
2019-06-15
🌈8)─1─自然破壊の大陸文明と自然保護の島国文明。日本文明は7つの世界主要文明の1つ。〜No.15 * ① 
2019-01-04
⛩23)─4─鎮守の森。式年遷宮の御造宮用材を確保するべく200年先、300年先を想って植林事業を行った。~No.53 @ 
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💍6)─6─女系天皇論をめぐる5つの主張。~No.29 

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 9月7日 MicrosoftStartニュース ダイヤモンド・オンライン「「女系天皇では解決できない」皇室評論家が旧宮家排除論に反対する理由
 © ダイヤモンド・オンライン
 過激なものから穏健なものまで
 女系天皇論をめぐる5つの主張
 皇位継承についての議論で、旧宮家旧皇族)が脚光を浴びている。保守派にとっては、希望の星だが、女系派からは目の敵にされている。そこで、旧宮家排除論の人々の主張する主たる論点にきちんと反論しておきたいと思う。
 女系論といっても、過激なものから穏健なものまでいろいろである。過激な方から並べると以下のようになる。
(1)立皇嗣礼まで終えた秋篠宮皇嗣殿下やその子の悠仁さまを廃し、愛子さまに継承させる。
(2)悠仁さまの継承はいいが、その次は男女を問わず、長子を優先する。
(3)悠仁さまに男子がいないなら、その女子や佳子さま、愛子さまの子孫に継承させ、それもいないなら天皇制は廃止する。
(4)誰もいないなら旧宮家に継承させる。
(5)悠仁さまに男子がいない場合、旧宮家と女系の両方の可能性を残すようにする。
 旧宮家を継承権者として否定すれば
 皇位継承権者がいなくなるおそれ
 現在の政府や自民党主流の考え方は(5)であるが、女系よりは旧宮家優先であるべきだとしている。石破茂氏が女系に理解を示したと報道されているが、悠仁さまへの継承は当然とし、男系維持が好ましいに決まっているといっているので、(4)か(5)であろう。
 女系派急先鋒である立憲民主党野田佳彦元首相も、悠仁さまの継承を否定することにまで踏み込んだことはなく、せいぜい(3)ないし(4)のようだが、あまり論理的には思えず、さまざまな可能性をよく考えておられるのか不明だ。
 しかし、愛子さま、佳子さまやその子孫たちが皇位継承できるように制度改正しても、悠仁さまも含めた3人の子孫が誰もいなくなる可能性は、これから数世代だけでも何割か存在する。
 そのときには、女系容認の論理でも、明治・大正・昭和天皇の女系子孫に着目せざるを得ないのだが、それは、主として旧宮家の人々である。旧宮家否定論の人たちは「いったん民間人になったらその本人も子孫も皇族に戻すのは門地(家柄)による差別だから憲法違反」などと言うが、そうなると何割かの確率で皇位継承権者はいなくなる可能性がある。
 つまり、旧宮家を継承権者として否定することは、事実上、天皇制はその時々の皇族の子孫(ただし、民間人となった者およびその子孫は除く)が存在する限りにおいてのみ、存続が認められるという憲法解釈となる。
 だが、これは常識に著しく反する。少し疎遠であっても皇統に属する誰かを見つけてくるのが、君主制に関する世界の常識だ。
 鎌倉時代から始まり
 江戸時代に確立した世襲宮家
 そういう視点も踏まえ、旧宮家の歴史や現状については新刊『系図でたどる日本の皇族』(宝島社)で詳しく書いた。以下、そのポイントについて解説したい。
 世襲宮家は、鎌倉時代から始まり、江戸時代に確立した。古代において皇族の範囲についての共通認識があったかどうかは分からないが、律令制では孫ないし曽孫までが王として扱われ、それ以下は臣籍降下(皇族がその身分を離れ、姓を与えられて臣下の籍に降りること)した。
 しかし、嵯峨天皇の子が多すぎ、天皇の子でも臣籍降下させ源氏や平氏としたが、臣下になった後復帰した例もある。とはいえ、多くは出家させられた。
 ところが、鎌倉時代南北朝のもとになる大覚寺統持明院統両統迭立となり、さらに、それぞれの統で次男以下がごねたので、世襲宮家を創設して慰撫した。そして、北朝では後光厳天皇系と崇光天皇系が争い、後者を世襲親王とするという条件で生まれたのが、現代の旧宮家の先祖である伏見宮家だ。
 『系図でたどる日本の皇族』(宝島社)より
 © ダイヤモンド・オンライン
 『系図でたどる日本の皇族』(宝島社)より
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 後光厳系が断絶したので、第102代の後花園天皇はここから出て、伏見宮家はその弟の貞常親王が継承して、そのまま現代に至るまで男系男子の血統が継続している。
 戦国時代には、経済的余裕がなく、男子のうち皇嗣だけを結婚させて、残りはしばらく独身の部屋住みにしておいて、不要となれば出家させていた。そして、いざとなれば伏見宮もいたというわけである。
 ところが、後陽成天皇の弟の八条宮智仁親王桂離宮創始者)は、豊臣家の継承者に予定されていたが、鶴松が生まれたため、秀吉は八条宮家(のちに桂宮家)を創設した。
 また、南北朝時代からは天皇の正妻的な妃がいなくなっていたが、後陽成天皇は秀吉の猶子として入内した近衛前子を女御とし、12人もの子をつくらせた。皇位を継承した後水尾天皇以外もそれなりに扱おうということで、近衛家一条家に養子に出したほか、好仁親王高松宮家(のちの有栖川宮家)を創設させた。
 1947年に臣籍降下した11宮家は
 すべて伏見宮邦家親王の男系子孫
 このうち桂宮家と有栖川宮家は断絶して、新たに親王が継いで、伏見宮家とともに皇統断絶に備えた控えとして位置付けられた。現実には有栖川宮家からつなぎのような形だが、後西天皇が出ている。
 また、伏見宮家では貞清親王宇喜多秀家の娘を妃とし、娘は4代将軍家綱と紀伊藩主光貞の正室となり、8代将軍吉宗の正室も出し、幕府との関係を強化した。そのおかげで、いったん桃園天皇親王伏見宮を継いだが、、政治力で本来の伏見宮の血統に取り戻した。
 新井白石は、三親王家でしかもしばしば一つは空席では常に適切な皇位継承者が準備できるとは限らないと心配して、徳川御三家のような安定した世襲宮家を増やした方がいいという方針のもと、東山天皇の子の直仁親王閑院宮家を新設させた。
 光格天皇即位の際、伏見宮貞敬親王も候補の一人だったが、父の邦頼親王が後桃園天皇を呪訴したりしたとのうわさもあったりして途中で消えたようだ。しかし、逆にいえば呪訴しているといううわさが朝廷で広まっていたということは、公家社会の常識として有力候補の一人だったことを裏付けている。
 また、条約勅許問題で幕府と対立した孝明天皇は、貞教親王伏見宮)・幟仁親王・熾仁親王有栖川宮)の誰かへの譲位の構えを見せたが、これも伏見宮が男系で縁遠いことと関係なく皇位継承権者だと見なされていた証左である。もちろん、のちの明治天皇に取り戻すつもりだっただろうが、成人しなかったら伏見宮家に皇統は移ってもいいと孝明天皇は考えていたのである。
 しばしば、伏見宮家は、南北朝時代に現皇室と分かれて没交渉などといわれるが、幕末に至るまでずっと皇位継承候補だったわけなのだから、有栖川宮家や閑院宮家と性格的に異なるわけではない。
 そして、明治になると仏門に入っていた伏見宮邦家親王の子どもたちが一斉に還俗した。しかも、大正になって有栖川宮家は断絶し、大正天皇の子である高松宮殿下が祭祀を継承し、閑院宮家も伏見宮家から継承者を出した。
 そのような経緯で、1947年に臣籍降下した11宮家はすべて伏見宮邦家親王の男系子孫なのである。 
 旧宮家がなぜ皇籍離脱したかの
 議論にはあまり意味がない
 次に、しばしば論争になるのは、保守派の人たちが「旧宮家皇籍離脱GHQの命令によるもの」といい、それに対して女系派の一部が「旧宮家の人々が自ら申し出た」とか「昭和天皇や日本政府の意向だ」といっている件だが、これはあまり意味のあるものではない。
 憲法改正公職追放華族廃止、農地改革などの戦後改革は、GHQが直接実施したものもあるが、大部分は、日本政府に対して指示したり、日本政府がGHQの意向に忖度したりして提案したものだ。
 皇族をスリム化する意向は伝えられていたし、華族制度の廃止、皇族に対する手当の差し止め、財産税の課税などで、皇族も体面を保つこともできず、命令される前に辞表を出したい、皇族でなくなった方が経済活動を制約されないなどと考える者もあった。
 いずれにせよ、強い圧力により選択の余地もなかったことについて、押しつけかどうかを議論するのは意味がない。憲法改正もそうだが、強制とまではいえないから法的に無効ではないが、押しつけであることも否定できないということだ。
 「戦前の皇室典範では、皇族であるのは邦家親王の曽孫までとなっていたから、現在のご当主ですら一部は皇籍離脱させられていたはず」という議論も意味がない。制限したのは皇族数が多くなりすぎるのを避けるためであり、足りなければ、延長したり復帰させたりしていたはずだからだ。
 「皇族の養子になる希望があるか本人の意向を確認し、該当者がいることを先に明らかにせよ」というのもひどい暴論だ。養子になるのは基本的に未成年の人たちで、細かい条件を示してお願いする話だ。
 「女系を含めた現皇族の子孫がいなくなったらそのときに考えればいい」というのもおかしい。現在ですら、旧宮家は皇室と縁遠いというのであれば、さらに何世代も後となればなおさらだろう。
 現在の案は、将来において、皇統断絶を避けるために、旧宮家も継承候補として取り込みつつ、将来において、その時の状況や世論を見て、女系天皇の目も残すものだ。しかも、旧宮家の大部分は、明治天皇以降の天皇の女系子孫だ。皇位は個人財産でないのだから、親から子が絶対無比の原則ではないということを、女系論者には申し上げたい。
 (評論家 八幡和郎)
   ・   ・   ・   

⚔36)─1・D─徳川家康は敵将石田三成の子供を殺さず見逃した。~No.146No.147No.148 

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 2024年10月2日 YAHOO!JAPANニュース 草の実堂「【関ヶ原の戦い後】処刑された石田三成、その子孫たちはどうなったのか?
 画像 : 石田三成 public domain
 石田三成は、豊臣秀吉の側近として政権運営に大きく貢献した。
 しかし、秀吉の死後、政権は不安定になり、三成と徳川家康との対立が激化し「関ヶ原の戦い」へと発展した。
 三成はこの戦で敗北し、逃亡を図るも捕えられ、最終的には家康の命により処刑された。
 三成には複数の子供がいたが、彼らは関ヶ原の敗戦後にどのような運命を辿ったのだろうか。
 関ヶ原の戦いで敗北、三成の居城は火の海に
 画像:石田正継 public domain
 石田三成の居城であった近江の佐和山城には、父・石田正継、兄の正澄、そして正室の皎月院が住んでいた。
 関ヶ原の戦い後、家康はすぐに小早川秀秋らに佐和山城を攻めさせた。三成は逃亡中で行方知らずだったこともあり、佐和山城で籠城されたら困ると判断したのだろう。しかし三成は佐和山城には戻っていなかった。
 佐和山城は火の海となり、落城した。
 父・正継は自害し、兄・正澄もまた命を絶った。そして正室の皎月院は、三成の家臣によって刺殺された。
 三成自身もその後、逃亡中に捕らえられた。
 三成の子供たちは、親族をほぼ全員失ってしまったのである。
 長男・重家は長生きした or 殺害された?
 画像:京都妙心寺 wiki c Tomomarusan
 三成の長男・重家は、関ヶ原の戦いが勃発した頃、大坂城にいたとされる。
 西軍が敗北したとの報せを受けると、重家はすぐに大坂城を離れたが、その後の動向については複数の説が伝わっている。
1、重家は妙心寺に助けを求め出家。助命嘆願によって家康に許され、100歳前後まで生きた。
2、同じく妙心寺で出家し、家康に許されたが、晩年に還俗して岸和田藩主の岡部宣勝(おかべのぶかつ)の庇護を受けて生活した。
3、妙心寺ではなく高野山に逃亡したが、殺害された。
 どちらにせよ、石田家の跡を継ぐ事はできなかったのである。
 次男・重成は忍者を統率した?
 画像:重成を保護した津軽為信 public domain
 三成の次男・重成は、豊臣秀頼に小姓として仕えていた。しかし、関ヶ原の戦いで西軍が敗北すると、重成は危機的な状況に追い込まれる。
 そんな重成を救ったのが津軽家であった。小姓仲間であった津軽信建(つがるのぶたけ)が彼を助けたのである。信建は、重成と共に大坂城を脱出し、津軽に向かい、重成は津軽家で保護された。また、後の1610年頃に、妹の辰姫も津軽家に嫁いでいる。
 その後、重成は三成の子であることを隠すために「杉山源吾」と名を改め、津軽家の深味村(現・青森県板柳町)で身を潜めながら暮らしたとされている。
 一説には、杉山八兵衛と名を変え津軽家に仕官し、侍大将にまで昇進したとも伝わっている。
 また、津軽家で忍者を統率したという伝承や、藤堂高虎に仕えたという説もあるが、詳細については定かではない。
 重成には子があり、長男の吉成は弘前藩主・津軽信枚の娘を妻に迎え、家老職を務めた。
 吉成の子孫は代々、杉山家として弘前藩重臣として仕え続けた。
 三男・佐吉は、家康に許され出家
 画像:薬王寺 wiki c U-8
 三成の三男・佐吉は、佐和山城にいた。
 佐和山城が戦火に包まれた際には、当時石田家に仕えていた津田清幽(つだ きよふか)の助けを得て、城から脱出した。
 清幽の働きかけにより、佐吉は家康の元に出頭する。
 家康は佐吉を許し、高野山の僧侶・木喰応其(もくじきおうご)のもとで出家させた。
 応其は、佐吉に津田清幽の恩義を忘れないようにと「深長坊清幽」という法名を授けた。
その後、清幽は甲斐国薬王寺に送られ、寛永年間には薬王寺の16世住職として勤めた。
 80歳近くまで生きたとも伝えられている。
 辰姫は、津軽家で石田の血を繋ぐ
 画像:津軽信義(石田三成の孫)public domain
 前述したように、三成の三女・辰姫は津軽家に嫁いだ。
 辰姫は1610年頃に、津軽為信の三男で弘前藩第2代藩主・信枚(のぶひら)の正室として迎えられた。
 しかし突然、家康が自身の養女を信枚の妻とするように求めてきた。
 家康を恐れた信枚は、辰姫を側室に格下げし、家康の養女を正室として迎えた。
しかし、辰姫には平蔵という息子がいた。
 この石田三成の孫にあたる平蔵が、津軽信義(のぶよし)となり、信枚亡き後の津軽家を継いだのである。
 徳川家光に嫁いだ三成のひ孫・お振の方
 画像:お振の方が葬られた旧自証院霊屋 public domain
 三成の子孫には徳川家に嫁いだ女性がいる。徳川家光の初めての側室・お振の方(自証院)である。
 お振の方は三成のひ孫である。三成の娘が岡半兵衛重政に嫁ぎ、岡吉右衛門を産んだ。その吉右衛門の娘がお振の方である。
 お振の方は、母が大奥の老女として仕えていた関係で、春日局の養女となり、大奥に入ったとされる。
 家光は男色を好むことで知られ、女性に対する興味が薄かったため、春日局はお振の方に男装をさせて家光に接近させた。
 この作戦が功を奏し、お振の方は家光の最初の側室となり、最初の子、千代姫を産んだ。
 しかし、お振の方は産後の体調が思わしくなく、出産から3年後に亡くなってしまった。
 おわりに
 三成の子には他にも何人かいるが、ここでは特に重要な人物に焦点を当てた。
 いずれも「関ヶ原の戦い」の敗北に大きく影響を受け、運命を左右された。
 石田家としての勢力は消滅したが、重成やお振の方のように、彼らの血筋は時代を超えて受け継がれ、歴史の中に名を残している。
 参考:『石田三成とその一族』『歴史道』
 文 / 草の実堂編集部
 投稿 【関ヶ原の戦い後】処刑された石田三成、その子孫たちはどうなったのか? は 草の実堂 に最初に表示されました。
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🌏60)─1─GHQ焚書『大衆明治史』。世界が驚いた明治日本の偉業3つの謎 ~No.201No.202No.203 

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 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
 日本を侵略してきた敵は、古代から室町まで中国と朝鮮であり、戦国では中世キリスト教であり、江戸後期からはロシアであり、明治では清国と朝鮮であり、大正からはソ連共産主義アメリカであった。
   ・   ・   ・   
 2024年10月2日 YAHOO!JAPANニュース 書評「GHQ焚書『大衆明治史』
 『坂の上の雲』より面白かった
 世界が驚いた明治日本の偉業
 3つの謎
 この地図のうち、青色になっている国の共通点がわかりますか?
 答えは... 第二次世界大戦前までに、ヨーロッパに支配されなかった国。
 もちろん日本は青色です。
 江戸末期、西洋が世界を飲み込む動きは勢いを増していました。
 世界中の国々はどんどん独立を奪われ、徹底的に搾取され、その勢いは日本の目と鼻の先である中国(清国)まで...
 その中国はアヘン戦争でイギリスに破れ、超不平等条約を結ばれ、あとはイギリスにとことん吸い取られるだけでした。
 それをあんぐりと見ていたのがお隣の日本。鎖国し、250年も平和ボケだったサムライの国は、西洋の次の標的になること必至でした。
 向こうは近代的な鉄製戦艦、武器、軍隊…
 対して日本は、木製の帆船、刀、一騎打ち…
 そんな力の差があって日本はほぼ丸腰、絶体絶命だったのに、最初の地図を見ての通り、その後も日本は支配されることなく生き残っていくのです。
 いったい、どうやって??
 その後、アメリカから黒船がやってきて日本は開国。
 明治維新をきっかけに、日本はあっという間に世界の大国入りを果たすのですが...
 そこには歴史の授業ではわからない 3つの謎 がありました。
 なぜ大名・武士たちは
 あっさり城を手放したのか
 不思議に思ったことはありませんか?
 なぜ、明治時代になってすぐ、各地の大名たちは城を手放せたのでしょうか?
 その期間、たったの4年。 先祖から何百年と受け継いできた地位や城を手放し、国に渡すことはそう簡単でないはず。財産だけでなく、代々、育て上げてきた城下町や地域にも、並々ならぬ愛着があったでしょう。
 さらに家来である武士たちも、それまでずっと結んでいたマゲを切って、刀を置いたのです。
 お隣の中国を見ても... 西洋を見ても... 同じことをやろうとしたら、“ 血で血を洗う ” 争いなしには実現できません。世界の歴史をちょっと学べば、それがどんなに困難なことかはわかるでしょう。
 そんな、天と地がひっくり返るような大転換を、日本はたった4年で、さらに目立った争いもなくやり遂げてしまいます。
 いったい、何が起きていたのでしょうか?
 当時、300以上あった藩をなくし、明治政府のもとへ権力を集中させる...
 とうてい不可能に思えた政策「廃藩置県」のウラにいた重要人物が「西郷隆盛」でした。
 当時、武士たちから圧倒的な支持を得ていた西郷。彼なしにこの転換は絶対に不可能だったのですが...
 「たとえ暴動が起きても、必ず鎮圧してお目にかけましょう...」
 血気盛んな各藩の武士たちを前に、西郷にしかできなかった秘策とは?
 なぜ明治憲法はこうもすんなり完成し、
 西洋に絶賛されたのか 
 明治22年に発布された、東アジア初の憲法大日本帝国憲法」(通称:明治憲法)。
 「日本には西欧流の憲法などいらない!聖徳太子の十七条憲法で十分だ」とある国学者
 「憲法英米風の自由民権的なものであるべきだ」板垣退助大隈重信
 「フランスの革命憲法をそっくりそのまま輸入しよう」とある自由民権論者
 明治政府ができて以来、日本初となる憲法の制定に向け、あらゆる意見が飛び交っていました。さぞかし議論は難航するかと思いきや... 起草から発布までにかかった時間は、わずか4年。
 しかも、明治22年2月11日に明治憲法が発布されると...東京は湧き返るようなお祭り騒ぎで、歓喜の声が全国に広がったといいます。
 「どんな憲法が出来上がるかということは、国民の一人として私共は常に心配したが、予想以上であった。この憲法発布に対して私共ばかりじゃない。全国の国民中一人として不満を称えるようなものはなかったように思います」加藤政之助(*憲法発布時、埼玉県会議長を務めていた政治家)
 西洋と比べると、日本の憲法発布の様子は異様でした。
 なぜなら、西洋諸国の憲法発布には、たいてい流血の惨事が付きまとっていたからです。
 例えば…
 イギリスでは、国王の圧政に耐えかねた貴族が突きつけたのが英国憲法の基礎「マグナ・カルタ」ですが、その後の時代には、憲法を無視した王の暴政が原因で内戦が勃発し、結局王は処刑されています。
 フランスにいたっては国民が国王ルイ16世をギロチンにかけたあと、共和政を作って、新たな憲法を制定したのでした。
 さらに、当時この明治憲法(英訳版)を見た外国人は...
 「もし私に新たに憲法を起草させたならば、きっとこの日本の憲法のように作る以外にないだろう」
 イギリス・オックスフォード大学の世界的な憲法学者:ダイセ氏
 「欧米の憲法は欧米諸国には適しているが、それとは歴史や習慣が全く異なる日本には適していない。それを上手く消化して日本に当てはめたのは非常に結構なことだ」
 アメリカ・マサチューセッツ州最高裁判所長官を務めたホームズ氏
 「憲法全体を通じて批評すれば、いずれも非常に上手な作り方である」
 フランス農商務大臣を務めたルボン氏
 その内容にも、惜しみない称賛の声を贈ったのです。
 最初はバラバラに意見が分かれていた憲法の議論... それが、なぜこうもすんなりと制定され、国民にも歓喜の声をもって受け入れられたのでしょうか?
 (*金子堅太郎. 金子堅太郎が語る大日本帝国憲法の精神: もう一人の起草者が見た伊藤博文明治天皇、そして外国憲法との比較 (p.78〜))
 そのウラにいたのが、「伊藤博文」でした。
 憲法制定にあたって、ヨーロッパに渡った伊藤がドイツから学んだ秘策...
 「日本独自の憲法を作れ」
 死の間際まで伊藤に助言を送った、岩倉具視憲法制定にかけた想い...
 そして、知れば涙が止まらない明治天皇の献身的な姿とは... 
 戦艦なし、大砲なし、軍隊なし
 → わずか38年で大国ロシアを破れたワケ
 「世界中が 、ちっぽけな日本なんかひとたまりもなく叩き潰されると思っていた」
 こう言ったのは、初代インド首相のネルーです。
 1904年に日露戦争が勃発したとき、世界の誰もが「日本は叩き潰される」と思いました。
 それもそのはず、当時のロシアは日本に比べ...
 GDPと人口は…ともに約3倍
 兵器生産にも関わる工業力は…約4倍
 戦力を左右する陸軍の兵力に至っては…なんと11倍
 (*当時の日露陸軍の歩兵の大隊数を比較)
 と...大人と子どものような差があった上、ロシアの「バルチック艦隊」は世界最強と呼ばれており、日本が勝てる確率は万に一つといった様子でした。
 ロシア皇帝や将校たちも既に勝った気になって
 「子猿が敢えて朕に戦争をしかけるなぞと、一瞬たりとも想像できない。帽子の一振りでかたづけてしまうさ」ニコライ2世
 「日本兵3人にロシア兵は1人で間に合う。来るべき戦争は単に軍事的散歩に過ぎない」クロパトキン大将
 「日本は外国から艦艇を買い、物質的装備だけは整えた。しかし、海軍軍人としての精神は到底われわれに及ばない。軍艦の操縦や運用に至っては極めて幼稚である」グラムマチコフ大佐
 と完全に日本をなめていました。
 ところが誰もが知る通り、日本は陸戦でも海戦でも大勝利を収め、この戦争の勝者となったのです。これには世界が驚きました。
 特に、「欧米には敵わない…」と植民地支配の苦しみで諦めムードだったアジア各国は、飛び上がって喜びました。
 あの欧米の大国を、アジアの島国の小柄な日本人が、見事に打ち破ったのです。
 しかし、ちょっと待ってください。
 日露戦争が起きたのは、明治時代に入ってわずか37〜8年ほど。
 明治の初めといえば江戸の名残が強く、まだ大名が各地を治め、武士が刀を差していました。260年の鎖国が開けてまもない日本は、欧米列強に追いつくにはとてつもなく遅れていたはず。
 そんな状況から38年では、たかが知れています。だから誰もが「ちっぽけな日本は叩き潰される」と思い、実際に大きな国力差がありました。
 それなのに、なぜ日本は勝てたのでしょうか?
 一般に語られる勝利の理由は、「日本軍の士気の高さ」「最新式の海軍」「ロシアの国内事情」「イギリスの支援」など諸説ありますが...それにも増して重要なことが、この “38年の間” にあったようです。
 なぜ日本は一度も欧米に支配されずに生き残り、こうして短期間に、欧米列強に肩を並べる唯一のアジア国になれたのでしょうか?
 謎
 を解き明かす一冊の本
 歴史の教科書では、いつ何が起きて、どうなったか?の無味乾燥な内容しか書かれておらず、これら明治期に残る数々の「謎」の答えはわかりません。
 ここに、その「謎」を見事に解き明かす “一冊の本” が見つかりました...
 その本とは、戦時中の昭和16年に発刊された歴史小説『大衆明治史』。
 著者は菊池寛(きくち・かん)。
 『文藝春秋』を創刊、さらに『芥川賞』『直木賞』を創設し、太宰、芥川、三島に並ぶ文豪と言われた大作家です。『大衆明治史』は、その名の通り大衆向けにわかりやすい言葉で、明治を彩った男たちの生き様や葛藤を中心に、激動の明治が語られています。
 しかし昭和21年、GHQはこの本を “禁書指定” ...つまり、没収し、流通を止め、戦後の日本から消し去っていたのです。この本は、菊池寛の作品目録にも載っておらず... 著名な文芸評論家ですら「こんな本があったとは、初めて知った」と語る一冊です。
 ※書影はイメージです
 ※左が原書、右が今回お届けする復刻版です。
 ※このページからは上巻をお申込みいただけます。
 大戦中の戦意高揚を煽った本でもなく、明治を描いた “大衆向け” の歴史小説が、なぜGHQの目に止まったのでしょうか?
 実は、この本には、戦後に出版された数々の明治についての小説や歴史書大河ドラマからは抜け落ちた “あるポイント” がありました。これは、戦前の激動期を過ごし、実際の戦地にも出向いて取材をすることで戦場のリアルを伝えていた菊池寛だからこそ、伝えることのできたものでした。
 『大衆明治史』を読むと、なぜ明治の日本はこれほど短期間に、世界も驚くほどの成長を遂げることができたのか。その重大な謎が解けるとともに...
 戦後の日本人が知ることで、西洋の外圧を跳ね返した明治時代のように、再び日本が立ち上がることを恐れていたのが分かるほど、今を生きる日本人に力を与えてくれる内容だったのです。
 文豪の筆で鮮やかによみがえる、明治日本の強さの正体とは−−
 なぜかGHQによって葬り去られてしまった幻の歴史物語では、こんなことが語られています。
 教科書ではほとんど語られていない明治日本の本当の歴史、そして英雄たちの活躍をありのままに知って欲しいという想いから、コレクターや古書店、一部の図書館にわずかながら残っていた『大衆明治史』を、約75年越しに復刻しました。
 一度この本を手に取ったら、きっと最後のページを読むまで離れられないでしょう。1ページ1ページ、大河ドラマの名シーンを観るように、躍動感あふれるドラマが繰り広げられます。まるで明治時代にタイムスリップしたかのような臨場感で、明治の英雄たちの生き様を追体験できます。
 この本を読み終わったころには、GHQがいったいなぜこの本を禁書にしてしまったのか...その理由も実感を持って、ストンと理解できていることでしょう。
 ぜひ本書を手にとって、明治時代の熱いドラマを体感してみてください。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
   ・   ・   ・   
 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
   ・   ・   ・   
 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
   ・   ・   ・   
 少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
 日本を動かしているのは学閥である。
   ・   ・   ・   
 保守には、正統保守やエセ保守など数多くの保守が存在する。
 現代日本では、急速に新保守の守旧派とエセ保守が増えた。
 正統保守は古保守として守旧派ではない、もし正統保守が守旧派であったら日本民族に見捨てられとうの昔に消滅していた。

 ・・・ *  *  *  *  * ・・・ 

 現代日本人は外圧に弱いが、昔の日本民族は外圧には強かった。
 それを証明するのが、聖徳太子である。
 現代日本歴史教育は、摂政・聖徳太子の存在を否定しようとしている。
   ・   ・   ・     
 戦争とは科学的な統計と合理的な論理による結論で「負ける」と分かっていても戦う時は戦い、そして戦う以上は「万に一つの勝利」を信じて命を賭けて戦わなければならない。
 それが、「バカ」な日本民族の生き方であった。
   ・   ・   ・   
 

⚔63)─1─江戸時代、武士はどのくらい庶民を斬っていたのか。~No.261No.262No.263 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2024年10月1日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「「水戸黄門」は、酒に酔って気分が良くなると「浮浪者」を斬っていた!? 武士はどのくらい庶民を斬っていたのか
 水戸黄門
 無礼があった場合は人を斬ってもやむなしとする武士の特権・「切り捨て御免」。しかし、実際のところ、武士はどのくらい庶民を斬っていたのだろうか? 「水戸黄門」として有名な徳川光圀は酒に酔うと浮浪者を斬るクセがあり、徳川家康の息子・松平信康も、「踊りが気に食わない」と庶民を殺したという。当時はどう判断されていたのだろうか?
■「野蛮な戦国時代」を描いた斬首シーン
 アメリカを拠点として、様々な海外作品に出演している日本人俳優・真田広之さんがこだわりぬいて制作した『SHOGUN』。先日、エミー賞で史上最多18部門を受賞して話題となりました。
 ハリウッドにおいても、昔の日本を描いた作品は比較的多く見られるものの、「ハリウッド風にリメイクされた日本っぽさ」ではなく、あくまで日本人が史実をベースにして考えた「戦国時代の日本らしさ」が反映されている点で、『SHOGUN』は異例の「時代劇」といえるでしょう。
 しかし「あのような戦国時代の日本は史実ではありえない」とする批判も当然ながらあります。たとえば、第一話の中盤あたりで登場するキリスタンの村民の首を、武士が刀でスパッと刎ねてしまうシーンには、「サムライは簡単に刀を抜いたりしない」、「刀で一瞬にして首を刎ねるには高度な技術が必要」という批判もあるようです。
 彼らの言いぶんもわかりますが、あのシーンについては史実にそこまで忠実である必要はないと筆者には思われました。『SHOGUN』の第一話は、戦国時代の日本に流れ着いてしまった英国人航海士ジョン・ブラックソーン(コズモ・ジャービスさん)が、暴力が支配する恐ろしい「野蛮人」社会の洗礼を受けるという内容ですから……。
 さて、それとは別に、今回は「無礼討ち」ともいわれた「切り捨て御免」の史実について考えてみましょう。
■気分が良くなると浮浪者を斬った水戸黄門
 「切り捨て御免」が制度化されたのは、江戸時代になってからでした。しかし江戸時代初期には、「刀の切れ味を試す」といって罪人の遺体をご自慢の名刀で切る習慣が残っていましたし、ときには生きた人間を辻斬りするのが趣味という武士までいたほどです。
 「水戸黄門」として有名な徳川光圀も、数え年13歳の頃はそうした悪癖も持ち主だったようです。光圀は酒に酔って気分がよくなると、浮浪者を刀で襲っていました(『玄桐筆記』)。その後の彼は真剣に学問に取り組むようになり、若かりし頃の自分の所業を深く反省したそうです。
奉行所ではどう判断された?
 江戸時代も進むにつれ、武士が庶民に斬りつけ、場合によっては命まで奪って、平然としていられる世の中ではなくなりました。江戸市中で武士が無礼な町人を斬った場合、周囲の者たちに取り押さえられ、町奉行所に連れて行かれるのがオチです。
 そこで当人の主張と被害者サイドの話が吟味された上で、武士が有罪となり、切腹させられることも多々ありえました。庶民が必ずしも弱者ではなかった江戸という大都市らしい判定だといえるでしょう。ただ、そうした判定も土地柄が影響したかもしれません。
 大河ドラマ『八重の桜』にも登場したヒロインの兄・山本覚馬にも、東山温泉(福島県会津若松市)で酔っぱらいに絡まれたことに激怒し、町外れまで追いかけてその者を斬り捨てたという逸話があります。しかしこの時の覚馬は無罪放免されているんですね。つまり、会津の地では、武士をからかった酔っぱらいに非があると判断されたということです。
 それでもやはり圧倒的多数の武士は「簡単に、とくに庶民相手に刀を抜いたりしない」という選択をした気はします。
■「踊りが気に食わない」と庶民を殺した松平信康
 武士がどのくらい庶民を斬っていたのか、戦国時代についてはそこまで記録にはありません。ただ、徳川家康正室・築山殿との間に授かった嫡男・松平信康について、ある逸話があります。
 家康は1579(天正7)年に松平信康切腹させていますが、信長の命令だったので仕方なくだったとされる一方、実は信康には「庶民の踊りが気に食わないから殺した」などの問題行動が多発しており、家康も死罪を与えるしかなかったという説があるのです。
 やはり戦国においても領民は領主を支えてくれる存在であり、彼らの命をいたずらに奪うような行為は慎まれていたと思われます。
堀江宏樹
   ・   ・   ・   



2024-01-28
⚔21)─3─戦国時代、人口の9割は“農民”!乱世に翻弄される「影の主役」の生活とは。乱取り。~No.92 
2020-10-05
⚔37)─3─庶民は統治者不安で、武士は庶民不信であった。~No.161  
   ・   ・   ・   
 庶民にとって、領主・大名・主君が誰であったも関係ない。
   ・   ・   ・   
 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
   ・   ・   ・   
 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などに陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
   ・   ・   ・   
 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
 一説によると、日本人奴隷として輸出した人数は、ポルトガル商人が5万人以上で、スペイン商人は不明である。
 これが、南蛮貿易に隠された暗黒史である。
   ・   ・   ・   
 反権力・反権威・反体制的な庶民は、社会秩序に反逆する野伏せりや悪党であり、そして天皇を命を捨ててでも守ろうとした勤王派・尊皇派であった。
 その代表的人物が、楠木正成であった。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
   ・   ・   ・   
 日本人は、悪人、罪人である。
 故に、親鸞はそうした救われない哀れな日本人は阿弥陀仏阿弥陀様)が救ってくださると、「悪人正機説」で他力本願を説いた。
   ・   ・   ・   
 トライイット
 ホーム社会中学社会中学歴史江戸時代武士による支配
 中学歴史
 身分別の人口の割合 幕末のごろ
 総人口約3,200万人
 百姓が全体の85% たった7%の武士はどうやって支配する?
 江戸時代における、 身分別の人口の割合 が示されています。
 一番多いのが 百姓 (農民)で、人口の85%を占めていますね。
 その次に多いのが7%の 武士 です。
 3番目に多いのが5%の 町人 ですね。
 町人には2種類あり、 工業の担い手である工人と商業の担い手である商人 に分かれていました。
 そのほかには、えた・ひにんといった被差別階級の人々1.5%
 公家・神官・僧侶、その他1.5%。
   ・   ・   ・   
 江戸時代は庶民の時代で、武士道は社会の片隅であった。
   ・   ・   ・   
 現代日本人が憧れ持て囃す武士道は、江戸時代後期、ロシアの軍事侵略危機までは存在しなかった。
 武士道は、明治時代の近代化によって、外敵の侵略から天皇・国・民族、宗教・文化を守る為に民族主義愛国心の中から生まれた。
   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・野伏せり・悪党、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
   ・   ・   ・   
 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
   ・   ・   ・   
 戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
   ・   ・   ・   
 少数の高学歴出身の裕福資産家・AI強者 vs. 多数の低学歴出身の貧困労働者・AI弱者。
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