💎34)─1─日本政府は天皇の健康より次期実力者・習近平への忖度を優先した。平成21年12月。〜No.165No.166No.167No.168 ㉙ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 天皇・皇族・皇室に対して、崇敬の念の篤い日本人は2割、敵意を以て廃止したいと思っている日本人は3割、崇敬の念も敵意も持たず関心も興味もない日本人は5割。
 現代の日本人は昔の日本人とは違う日本人である。
 その傾向は、西洋礼賛でグローバル思考の強い高学歴出身知的エリートに多い。
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 中国公船・軍艦・航空機による尖閣諸島近海での威嚇行動は、習近平が2012年11月に党の最高職である中央委員会総書記と軍の党中央軍事委員会主席に選出されてから活発化し、2013年3月14日に党・国家・軍の三権を正式に掌握したから急増していった。
 つまり、尖閣諸島近海の領海侵犯は習近平のハッキリとした対日戦略からでた命令で、習近平は日本との対等な関係での友好・善隣など望んではいない。
 習近平の対日意識は、反日敵日で、日清戦争から日中戦争までの屈辱を晴らすという報復、復讐心だけである。
 習近平が日本に望む事は、土下座して反省の弁をのべ、犯した犯罪を謝罪し、罪の赦しを乞う事である。
 それは、和解ではなく隷属である。
 よって、日本の歴史的事実に基づいた説明、抗弁は一つたりとも認められない。
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 中国人は、面子を大事し、面子の為に戦う。
 中国の面子が潰されたのは、日清戦争から日中戦争かけて日本軍に負けて親日傀儡政権に支配された事である。
 中国の面子を回復するには、潰された手段で相手に勝ち屈服させ同じ報酬を手に入れる事である。
 中国が尖閣諸島にこだわるのは、日清戦争に負けて台湾を奪われた事に対する逆恨みである。
 尖閣諸島問題とは、戦死者を出さない疑似日清戦争・疑似日中戦争である。
 日本から尖閣諸島を奪う事は、中国の面子の回復である。
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 尖閣諸島問題を解決できないのは、解決しようという覚悟を放棄した愚かな日本の自業自得である。
 日本人は、自分の経験を省みて反省し、失敗から学ばない為に愚かさは治る事ない。
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 WEDGE Infinity
 日本をもっと。考える
 チャイナ・ウォッチャーの視点
 2009年12月16日
 習近平はなぜ「天皇会見」に
 こだわったのか
 城山英巳 (時事通信社外信部記者)
 「ポスト胡錦濤共産党総書記・国家主席)」の最有力候補である習近平・中国国家副主席の14日からの来日に合わせ、中国側が強く希望した天皇陛下との会見が実現するよう、鳩山由紀夫首相らが宮内庁に指示していた問題は、「天皇の政治利用」や「象徴天皇の在り方」をめぐり波紋を広げている。「民主党VS宮内庁」という構図の中、果たして天皇の行為までを政治主導で決めていいのかが問われているが、もう一方の主役・中国はなぜ、これほどまでに「天皇会見」にこだわったのか――。中国天皇工作の内幕に迫りたい。
 胡錦濤訪日の前例を踏襲
 まず問題を振り返っておこう。
 外国要人が陛下と会見する場合には、1カ月前までに文書で申請する「1カ月ルール」という内規が1995年ごろから存在している。しかし、中国政府から正式に訪日日程の通知があったのは11月23日。宮内庁は同ルールに基づき拒否したことから、平野博文官房長官羽毛田信吾宮内庁長官に対し、12月7日と10日に電話で強く働き掛け、習氏と陛下の会見は15日に実現した。
 この背景には、いったん会見を断られた中国の焦りと巻き返しがあった。崔天凱駐日大使は9日、平野官房長官に会見実現を要請。この日、大使は10日から600人以上の大訪中団を引き連れ北京を訪れる小沢一郎民主党幹事長とも面会している。
 ここでなぜ中国の会見打診が遅れたのかという疑問と、どうしてここまで中国は天皇との会見に固執したのかという問題について、検証しよう。
 「習近平副主席の訪日日程がなかなか決まらなかった」と話すのは、ある中国政府筋だ。中国では例年、12月初めごろに来年の経済運営方針を決める中央経済工作会議を開き、習氏も含めた政治局常務委員(9人)全員が参加するのが恒例だが、この会議の日程確定が遅れたのだ。さらに国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)出席のためコペンハーゲン入りする鳩山首相の日程もはっきりせず、習氏の訪日日程の最終的な確定は11月下旬にずれ込んだ。
 日本政府関係者は「習氏が訪日は、昨年から分かっていることだし、『だいたいこの辺りで』と暫定的に陛下との会見日程を決め、打診しておけば良かった」と指摘する。
 外務省サイドは、中国側に対して改めて「1カ月ルール」の厳格性を説明し、早く申請するよう促し続けたという。しかし中国側には、「ポスト胡錦濤」とも言われる大物指導者の日程が煮え切らない内に、外国に対して通告することに抵抗があったもようで、そこには秘密主義を徹底させる中国外交の体質も見え隠れする。さらに「日本にとって中国は重要な隣国であり、遅れても何とかなるだろう」という「大国」のおごりもあったのではないか。
 政治主導を逆手にとった中国の「民主党工作」
 実際に1998年に国家副主席として来日した胡錦濤氏は天皇陛下と会見しており、中国側にすれば、この前例は踏襲されると甘く見ていた感は否めない。
 しかし宮内庁の態度は硬く、同庁のほか外務省も「『1カ月ルール破り』では仕方ない」というムードが支配した。ここで初めて中国側は焦りを強くし、崔天凱大使を先頭に「民主党工作」を始めるのだった。官僚組織への働き掛けでは難局を到底突破できない中、鳩山政権が掲げる「政治主導」を逆手に取る手法と言えた。
 2012年の第18回共産党大会で胡氏に代わる党総書記への就任が固まりつつある習副主席の今回の訪日は、「目立たず、印象付ける」を徹底する、神経を尖らせる旅だった。政敵から揚げ足を取られないよう目立ってはいけず、しかし「後継者」として印象付ける必要もあるのだ。
 習氏は10月の欧州歴訪では、メルケル独首相に対し、発行されたばかりの江沢民国家主席の著作2冊(英語版)を贈呈し、党内でいまだ影響力の残る江氏への配慮を示した。さらに11月のオバマ米大統領の訪中では、北京空港まで出迎えたのが習氏だった。まさに米中の「新たな顔」を演出するかのような舞台設定である。
 そして今回の訪日。胡氏が前例をつくった「天皇会見」は外せないものだった。実際に、胡氏は国家主席として来日した08年、陛下から「主席閣下には今から10年前、国家副主席としてわが国をご訪問になり皇居でお会いしましたが、このたび国家主席として再びお迎えしたことをうれしく思います」との言葉をもらっている。
天皇陛下によろしく」
 ここで中国にとってどれだけ天皇陛下というのは特別な存在であるか説明しておきたい。詳細は、拙著『中国共産党天皇工作」秘録』(文春新書)に記したので参照していただければ幸いである。
 中国では天皇は本来、「対中侵略戦争の元凶」であるはずだ。しかし実際には首相より格上の「元首」として位置付け、新中国建国以降、日本とまだ国交正常化していない1950年代から、日本の要人が訪中すると、毛沢東主席らは「天皇陛下によろしく」とメッセージを送り続けた。
 中国における日中関係の文献にはこういう記述がある。「日本の首相は絶えず代わるが、天皇は終始在位している。日本の普通の国民や子供は首相の名前を知らないことがあっても、天皇のことは心に刻んでいる」。
 中国歴代指導部は天皇を否定的にとらえるのではなく、天皇を味方に付ければ、日本人の心をつかめ、日本人の対中感情好転につなげられると確信した。そして実際に天皇訪中を対日工作の目標に掲げたのが鄧小平氏だった。建国後、中国指導者として初めて1978年に天皇陛下と会見した鄧氏は、「両国の間には非常に長い友好の歴史があり、その間には一時、不幸な出来事もありました」と語られる陛下のお言葉に「非常に感動しました」と声を上げた。
 『中国共産党天皇工作」秘録』では冒頭、中国政府幹部が84年、日中国交正常化を成し遂げた親中派田中角栄元首相を通じ、昭和天皇訪中に向けて動いた攻防を描いたが、当時の中曽根康弘首相の反対で挫折。天皇訪中が実現するのは、昭和天皇崩御し、平成に時代が変わった92年10月だった。
 中国側の天皇訪中要請に自民党内では「天皇陛下が政治に巻き込まれる」と反対・慎重論が高まったが、中国は江沢民総書記を筆頭に日本側への働き掛けを強めた。最終的には時の最高実力者・金丸信自民党副総裁が、なかなか決断できなかった宮沢喜一首相に「天皇訪中問題について決めるべきはごちゃごちゃ言わず早く決めたまえ」と一喝、天皇訪中は決定する。
 銭其琛元副首相(外交担当)は回顧録『外交十記』で天皇訪中を振り返り、89年の天安門事件を受けた西側諸国の制裁を「打ち破る最良の突破口だった」と振り返り、天皇訪中を政治的に利用した事実を認めている。
 ルール・常識超えた民主党中国共産党の関係
 「天皇の政治利用」などは、中国にとってみれば日本国内の問題であり、天皇を「元首」とみなす中、その国際的な権威や重みを最大限利用しようとのしたたかな外交戦略を持つ。
 習氏は14日、鳩山首相との会談で「周到な手配をしていただいたことに心から感謝の意を表したい」と表明した。胡錦濤氏と同様に副主席として天皇と会見できたことは、習氏の「権威付け」にとってプラスになったのは間違いない。逆に天皇と会見できなければ、メンツ失墜を国内にさらすことになっただろう。
 一方、習氏の「感謝発言」には、天皇との特例会見は日本側が決めた問題と強調することで、中国で国内問題化することを避ける狙いがあったことも注意しなければならない。歴史問題を抱える日本への安易な接近は国内で「売国奴」呼ばわりされる危険をはらむためだ。「ポスト胡」へ政治的に敏感な時期を迎える習氏にとって日本や天皇への国民の複雑な感情が自身に降りかかることは何としても避けねばならなかった。
 だから天皇との会見を強く求めながら、日本側に蹴られる事態は最悪のケースだった。こうした中で中国が天皇会見への最終手段として使ったのが「政治ルート」であった。小沢幹事長は会見実現に向けた働き掛けを否定しているが、中国側幹部は平野、小沢両氏をはじめ多くの大物政治家に接触した。
 中国が、政府間や外交ルートで解決が難しい日中間の懸案について、親中派の大物政治家との人脈を使って動かそうとするのは対日工作における伝統的手法だ。これまでも田中角栄竹下登金丸信福田康夫氏らに接近、「一点突破」を図ろうとしてきた。
 10日に北京・人民大会堂で小沢氏と会談した胡錦濤国家主席は、同行した143人の議員のうちほとんどとのツーショット撮影に応じた。常識では考えられない特別サービスだ。一方、関係者によると、小沢氏側の求めていたツーショット撮影を中国側が了承したのは小沢氏らの出発直前。そのころ「習・天皇」会見実現に向けた崔大使ら中国側の工作は佳境を迎えていた。
 この裏にどんな「取引」があったかは明らかではないが、接近を続ける民主党中国共産党の関係はルールや常識を超えて親密度を増していることだけは確かなようである。
 ※次回の更新は、12月23日(水)を予定しております。
 ◆本連載について
 めまぐるしい変貌を遂げる中国。日々さまざまなニュースが飛び込んできますが、そのニュースをどう捉え、どう見ておくべきかを、新進気鋭のジャーナリスト や研究者がリアルタイムで提示します。政治・経済・軍事・社会問題・文化などあらゆる視点から、リレー形式で展開する中国時評です。
 ◆執筆者
 富坂聰氏、石平氏、有本香氏(以上3名はジャーナリスト)
 城山英巳氏(時事通信社外信部記者)、平野聡氏(東京大学准教授)
 ◆更新 : 毎週水曜
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 NEWSポストセブン 
 国際情報
 2015.05.26 07:00  SAPIO
 習近平氏 2009年の訪日で20分の天皇表敬訪問にこだわった理由
 あれだけ反日を謳う中国共産党政権が、絶対に矛先を向けない唯一の存在が、天皇である。毛沢東トウ小平から習近平まで中国歴代最高指導者がみな天皇を大事にしているのはなぜか。産経新聞中国総局(北京)特派員の矢板明夫氏が解説する。
 * * *
 毛沢東トウ小平天皇に対する態度は日本国民に対するパフォーマンスの側面もあると言われる。2人とも軍人として日中戦争を直接戦った経験があり、天皇の旧日本軍兵士に対する絶大な影響力を目の当たりにしている。
 毛沢東らは戦時中に中国に亡命した日本共産党の幹部らの助言を受け、いかに対日外交を展開するかを研究していたという。具体的な問題で日本の政治家と対立しても構わないが、皇室に十分な敬意を払えば、日本人の心証がよくなり、国民の対中感情は良くなると確信していたようだ。
 現在の中国の最高指導者である習近平天皇を重視する理由は毛やトウとはやや違う。国家副主席を務めていた2009年末に訪日した際に、自分自身の政治地位を安定させるため、天皇の権威をひそかに利用していた。日本メディアに大きく報じられた「特例会見」のことだ。
 当時、習訪日の日程決定が遅くなり、天皇と会見したい旨を日本側に伝えたときは、すでに宮内庁が定めた「1か月前に申請する」とのルールに間に合わなくなり、一旦は拒否された。
 習はあらゆる外交ルートを使って民主党政権に圧力をかけた。最後に「特別扱い」で会見が実現した。しかし、その強引な手法が日本国内で波紋を広げ、親善のために訪日したはずなのに、日本国民に残した印象はけっして良くなかった。
 わずか20分余の表敬訪問のために、習が必死になってこだわった理由は、中国国内の政治にあった。当時の習は党内で序列6位。ポスト胡錦濤世代の中で最も高位にあったが、後継者としての地位はまだ完全に固まっていなかった。ライバルである序列7位の李克強副首相(現首相)に逆転される可能性が僅かながらあった。
前任の胡錦濤が副主席時代の1998年に訪日し天皇陛下と会見した。中国は前例を何よりも重要視しており、習が後継者であることをアピールするために胡と同じ日程をこなさなければならなかった。
 中国の最高指導者は有権者による選挙ではなく、党内の実力者らの話し合いにより密室で決まる。毛沢東トウ小平ら建国に関わった世代にはカリスマ性があったが、その後の指導者はたまたま抜擢されたサラリーマンでしかない。
 後継者に選ばれたら、まずしなければならないのは地位の正当性をアピールすることである。ライバルたちを圧倒する方法としてよく使われる手法は、外遊でより多くの外国指導者と会うことだ。
 中国メディアを通じて詳しい様子を国内に伝え、国民に対し「私こそ後継者だ」を印象づける。そして、世界中に数ある要人の中で、最も権威があると考えられているのが日本の天皇である。
 中国版ウィキペディアにあたる百度百科で「日本天皇」を調べると、「日本国家の象徴。世界で唯一(皇帝・Emperor)との称号を持つ君主」とある。そのうえで「日本の天皇制は世界歴史の中で最も長く続いた君主制度である」とも説明している。
 世界で最も由緒正しい天皇との会談が実現すれば、習にとって最高の箔付けになるが、逆に実現できなければ、後継者としての地位が揺らぎ、李克強派に反撃のきっかけを与えるかもしれないとの事情を抱えていた。
 結局、天皇陛下が知らぬうちに、中国最高指導者レースで習に力添えをしたわけである。
 ※SAPIO2015年6月号
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 ダイヤモンド・オンライン
 習近平国賓訪日を中止すべき4つの理由、魂胆は「天皇の政治利用」
 北野幸伯:国際関係アナリスト
 国際・中国 ロシアから見た「正義」 “反逆者”プーチンの挑戦
 2019.11.22 5:35
 来春に予定されている習近平の「国賓訪日」に、反対の声が上がっている。佐藤正久前外務副大臣は11月11日、「香港問題」「邦人拘束問題」「尖閣問題」「日本食品の輸入規制問題」を挙げ、「4つのトゲを抜かないと国賓というわけにはいかない」と述べた。40人の自民党議員が参加する「日本の尊厳と国益を護る会」(代表幹事・青山繁晴参議院議員)も、同じ理由で反対を表明した。筆者も、習近平国賓訪日に反対している。なぜなら、中国は天皇を政治利用した過去があるからだ。(国際関係アナリスト 北野幸伯
 |米中戦争の最中に
 |中国に接近する日本
 |中国の習近平国家主席
 ウイグル人を100万人も拘束し、香港では民主化デモを武力で弾圧する――そんな国のトップと天皇陛下のツーショット写真が国際社会に与えるマイナスイメージは計り知れない Photo:EPA/JIJI
 筆者が習近平国賓訪日に反対する理由は4つある。
 1番目の理由は、中国への過度の接近が、同盟国である米国との関係を破壊するからだ。日本人はほとんど意識していないが、世界は2018年から「米中覇権戦争の時代」に突入している。トランプは2018年7月、8月、9月と、連続して中国製品への関税を引き上げた。これで、世界は「米中貿易戦争が始まった」と認識した。
 そして、同年10月、ペンス大統領がハドソン研究所で行った「反中演説」後、「米中新冷戦」という用語が世界中で使われるようになった。
 問題は日本政府の動きだ。安倍首相は2015年4月、米国における議会演説で、以下のように演説した。(太線筆者、以下同)

 <米国国民を代表する皆様。
 私たちの同盟を、「希望の同盟」と呼びましょう。
 米国と日本、力を合わせ、世界をもっとはるかに良い場所にしていこうではありません か。
 希望の同盟――。
 一緒でなら、きっとできます。>

 非常に感動的なスピーチで、結果、日米関係は劇的に改善された。しかし、今となっては、「口だけ」と批判されても仕方ない状況になっている。というのも、米国が中国に「宣戦布告」した直後から、日中関係は「劇的」といっていいほど改善されている。
 戦争の最中に、同盟国が敵国に接近する行為を一般的に何というだろう?そう、「裏切り」である。日本は中国に急接近することで、同盟国米国を「裏切って」いるのだ。
 それで、米国の日本への態度も変わり始めた。トランプは、大統領就任後封印していた「日米同盟破棄論」や「同盟不平等論」を、再び主張し始めている。
 |人権侵害国家のトップと
 |天皇陛下の談笑シーンは悪夢だ
 10月22日に行われた天皇陛下の「即位礼正殿の儀」には、世界各国から国王、王妃、大統領、首相などが集結した。しかし、米国が派遣したのは「運輸長官」だった。
 もともとペンス副大統領が出席する予定だったが、意図的に「格下」の大臣を送ってきたのだ。日本政府は、米国政府の「シグナル」に気がついて、中国への接近を止めなければならない。
 2つ目の理由は、「ウイグル問題」だ。中国は昔から「人権侵害超大国」だった。しかし、米国はこれまで、この国の人権を問題視することはほとんどなかった。「チャイナマネー」が欲しかったからだろう。だが、「米中覇権戦争」が始まったので、中国の人権問題がクローズアップされるようになってきた。
 その最たるものが「ウイグル問題」だ。具体的には、中国政府がウイグル人約100万人を強制収容所に拘束していること。これは、米国の対中「情報戦」に利用されているが、「事実」でもある。

 <国連、中国政府がウイグル人100万人拘束と批判
 
BBC NEWS JAPAN 2018年09月11日
 中国政府が新疆ウイグル自治区ウイグル人を約100万人、テロ取り締まりを「口実」に拘束していると、国連は懸念を強めている。
 国連人種差別撤廃委員会は8月末、最大100万人のウイグル人住民が刑事手続きのないまま、「再教育」を目的とした強制収容所に入れられているという指摘を報告した。
 8月半ばにスイス・ジュネーブで開かれた同委員会の会合では、信頼できる報告をもとに中国政府が「ウイグル自治区を、大規模な収容キャンプのようにしてしまった」と委員たちが批判。>

 日本政府は、21世紀の現在、中国でナチスドイツやスターリン時代のソ連のような人権侵害が行われていることを問題視すべきだ。
 習近平が訪日する頃、この問題は、もっと盛り上がっているだろう。そして、天皇陛下が、100万人を拘束する国の独裁者と談笑する映像が、世界に配信される。「日本国の天皇は、独裁者と歓談している」と非難されることは容易に想像できる。そうなった時、天皇陛下にはもちろん何の非もない。非難されるべきは、会談を設定した日本政府だ。
 |中国政府は昔から
 |天皇を政治利用してきた
 しかし、国際社会は、そのようには受け取らず、「天皇が自らの意思で独裁者と談笑している」と理解するだろう。なぜなら、外国人は普通、「天皇に政治的決定権は一切ない」という知識を持ち合わせていないからだ。
 第3の理由は「香港問題」だ。習近平は11月4日、上海で、香港政府の林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官と会談した。彼は、「中国中央政府は林鄭氏に高度の信頼を寄せている。この暴動を止めること、そして秩序を回復することが、依然として香港で最も重要な任務だ」と述べ、彼女を激励した。
 林鄭月娥は、国家主席から直々に「暴動を止めろ」「秩序を回復しろ」と言われ、「どんな手段を使ってもデモを鎮圧する」と決意したことだろう。
 この会談後、香港警察はデモ隊鎮圧に実弾を使用するようになり、この原稿を書いている時点で2人の死者が出たと報じられている。習近平が訪日する頃、香港情勢はさらに悪化しているだろう。そして、力を使ってデモを弾圧する中国への風当たりは、さらに強くなっているはずだ。
 そんな時期に、天皇陛下は「民主化デモを武力で弾圧する国のトップ」と会談させられる。日本政府は、国際社会がこれをどう受け取るか、熟考するべきだろう。
 第4の理由は、中国政府が天皇陛下を政治利用するからだ。これは、にわかには信じがたい話かもしれないから、少し過去を振り返ってみる必要がある。
 米中関係は、1970年代にニクソン毛沢東が和解した後、ずっと良好だった。毛の後を継いだ鄧小平は、日本、米国から資金と技術を思う存分受け取り、中国経済を奇跡的成長に導いた。日米は、中国に「金と技術を無尽蔵に恵んでくれる存在」なので当然、日中、米中関係も良好だった。
 しかし、1980年代末から1990年代初めにかけて、2つの理由で米中関係は悪化する。
 1つ目の理由は1989年6月4日に起きた「天安門事件」。人民解放軍はこの日、デモを武力で鎮圧した。中国共産党は、犠牲者の数を319人としているが、英国政府は1万人以上としている。これで、中国は国際的に孤立した。
 2つ目の理由は、1991年12月の「ソ連崩壊」。そもそも米国が中国と組んだのは、ソ連に対抗するためだった。しかし、その敵は、崩壊した。それで当然、「なぜ我々は、中国のような一党独裁国家と仲良くし続ける必要があるのか」という疑問が、米国内から出てきた。
 |天皇訪中に助けられた後
 |日本を裏切った中国
 さて、中国は、この苦境をどう克服したのか?
 ナイーブな日本政府に接近したのだ。江沢民は1992年4月に訪日し、天皇皇后両陛下(現上皇上皇后両陛下)を中国に招待した。そして1992年10月、天皇皇后両陛下が訪中された。
 これを見た欧米諸国は、「日本は、中国市場を独占するつもりではないか」と焦りを感じるようになる。
 中国の賃金水準は当時、日米欧の数十分の一であり、将来世界一の市場になることも確実視されていた。だから、欧米は、「金もうけと人権」の間で揺れていたのだ。
 中国は、天皇陛下を政治利用することで、日米欧を分断させ、日本だけでなく欧米の態度を和らげることに成功した。 
 これは、筆者の想像ではない。1988年から10年間外交部長(外務大臣)を務めた銭其シンは、その回顧録の中で、天皇訪中が西側諸国による対中制裁の突破口であったことを明かしている。
 話がここで終われば、「中国に一本取られた」程度だった。しかし、問題はここからだ。日本と天皇陛下に救われた江沢民は、恩をあだで返した。どういうことか?
 中国政府は1994年、「愛国主義教育実施要綱」を制定。1995年から、徹底した「反日教育」を行うようになった。そして、中国は、世界における「反日プロパガンダ」を強化していく。アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』が大ベストセラーになり、「南京大虐殺」が世界中で知られるようになったのは1997年のことだ。同年、江沢民真珠湾を訪問し、日本の中国侵略と、真珠湾攻撃を非難した。
 この動きは一体何だろうか?なぜ、日本に救われた江沢民は、「反日教育」「反日プロパガンダ」を強力に推進したのか?日本を「悪魔化」するためだろう。日本を悪魔化すると、米中関係はよくなる。
 |クリントン政権の本音は
 |「米中で日本を共同支配」
 2度の世界大戦の前と戦中、米中関係(当時は中華民国だった)は、日本という「共通の敵」がいて良好だった。そして、1970年代から1980年代末までは、ソ連という「共通の敵」がいて、やはり良好だった。しかし、天安門事件ソ連崩壊後、中国が米国の主敵になる可能性が出てきた。
 そこで中国は、「日本を米中共通の敵にしよう」と決意したのだ。
 そして、中国の工作は成功した。クリントン時代の過酷な日本バッシングを覚えている人も多いだろう。この件に関連して、米国在住国際政治アナリスト伊藤貫氏の『中国の「核」が世界を制す』(PHP研究所)に驚きの話が紹介されている。
 伊藤氏は1994年、当時米国防総省の日本部長だったポール・ジアラ氏と会った。ジアラ氏いわく、

 <「クリントン政権の対日政策の基礎は、日本封じ込め政策だ。>
 <クリントン政権のアジア政策は米中関係を最重要視するものであり、日米同盟は、日本に独立した外交、国防政策を行う能力を与えないことを主要な任務として運用されている。>(200ページ)

 伊藤氏は、米国の政策について、以下のように結論づけている。

 <米中両国は東アジア地域において、日本にだけは核を持たせず、日本が自主防衛できないように抑えつけておき、米中両国の利益になるように日本を共同支配すればよい」と考えている。>(113ページ)

 ここまでをまとめてみよう。
 ・1989年、中国は天安門事件で国際的に孤立した。
 ・中国は、ナイーブな日本政府に接近する。
 ・1992年、天皇皇后両陛下(当時)が訪中された。 
 ・日本が中国市場を独占することを恐れた欧米は態度を軟化。中国の「天皇利用作戦」は成功した。
 ・天皇陛下を利用して包囲網を突破した中国は、「日本悪魔化工作」を開始。
 ・日本は、米中「共通の敵」にされてしまい、日米関係は悪化。
 ・逆に米中関係は、大いに改善された。
 |ナイーブな政府が
 |日本を滅ぼす
 平成は、1989年1月8日に始まった。同年6月4日に「天安門事件」が起き、中国は世界的に孤立した。
 令和は、30年後の2019年5月1日に始まった。中国は今、ウイグル問題、香港問題で孤立している。香港問題を語る際、しばしば「第二の天安門は起こるか?」といった表現が使われている。
 30年前、中国は日本政府を操り、天皇陛下を政治利用することで危機を乗り越えた。そして30年後、中国は再び日本に接近し、天皇陛下を政治利用することで、危機を乗り越えようとしている。習近平が来春「国賓訪日」すれば、天皇陛下に「近い将来の訪中」を要請する可能性は極めて高い。天皇陛下は立場上、これを拒否できないだろう。
 習近平国賓訪日に続く天皇陛下の訪中で、日米の亀裂は、さらに深まる。日米同盟を破壊することで、中国は現在の危機を乗り越えるだけでなく、覇権に向かって大きく前進することになるだろう。
 日本政府はどうすればいいのか?これは簡単で、平成の間違いを繰り返さないことだ。つまり、習近平国賓訪日を断り、天皇陛下の訪中、つまり政治利用の可能性を事前に根絶する。口実は、何とでもなる。「邦人拘束問題、尖閣問題、ウイグル問題、香港問題などで、保守派議員の反発が激しい」と言えばいいだろう。
 人も国家も間違いを犯す。しかし、優れた指導者は過去の間違いから学び、同じ過ちを2度と繰り返さない。日本政府は今、無意識のうちに30年前の過ちを繰り返そうとしている。安倍内閣が、過去の教訓から学び、賢明な判断を下すことを心から望む。
   ・   ・   ・   
 親中国派・媚中派の高学歴出身知的エリートは自分は賢いと思い込んでいるが、その実は習近平の掌の上で良いように操られ馬鹿面で踊らされている。
 現代の日本人は、昔の日本人とは違って中国人に負けない智慧と胆力がない。
 それが、戦後世代の限界である。
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 現代日本人は、武士・サムライではないし、その子孫でもなく、よって武士道精神・士道気組み、大和魂、大和心、志・気概を持っていない。
 「武士に二言はない」や「武士の一分」は、言葉のアヤで存在しない。
 特に、靖国神社を否定する日本人はハッキリとそうだと言える。
 さらには、昔の百姓や職人でもない。
   ・   ・   ・   
 親中国派・媚中派は、中国共産党に媚び諂う為に皇室を政治利用して、天皇陛下と外国要人の会見する場合は1カ月前までに文書で申請するという「1カ月ルール」を破った。
 日本人は、天皇中国共産党の為に政治利用されても無関心であった。
   ・   ・   ・   
 中国共産党は、日本に対してごり押しすれば、日本政府は「ご無理ご尤も」と大抵の無理は受け入れる事を知った。
 つまり、日本とはしょせん「無理が通れば道理が引っ込む」、筋のない、気骨のない、気概のな「いだらしない国」であると。
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 中国軍は、尖閣諸島へ海民兵漁船を送り出し、軍艦や軍用機による軍事圧力を強めていった。
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 習 近平(しゅう きんぺい、シー・チンピン、簡体字: 习近平、拼音: Xí Jìnpíng〈シー・ジンピン〉、1953年6月15日 - )は、中国の政治家。現在の中国共産党中央委員会総書記・中央軍事委員会主席・中国最高指導者(2012年11月15日 - )。

 党・国家・軍の最高指導者
 習近平李克強(2011年7月3日)
 2012年11月の中国共産党第十八回全国代表大会を以て胡錦濤温家宝ら第4世代の指導者は引退し、11月15日に開催された第18期1中全会において習近平は政治局常務委員に再選され、党の最高職である中央委員会総書記と軍の統帥権を握る党中央軍事委員会主席に選出された。習近平の総書記就任には台湾の馬英九総統が中国国民党主席の名義で異例の祝電を打っている。2013年3月14日、第12期全人代第1回会議において国家主席・国家中央軍事委員会主席に選出され、党・国家・軍の三権を正式に掌握した。翌日、李克強を国務院総理(首相)に任命し、中国共産党の第5世代である習・李体制を本格的に始動させた。

 外交・軍事
 中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典での習近平。左は出席したウラジーミル・プーチン朴槿恵(2015年9月3日)
一帯一路国際協力サミットフォーラム(英語版)での習近平。左は出席したプーチンと右はレジェップ・タイイップ・エルドアン(2017年5月14日)
 習近平ドナルド・トランプ(2017年11月8日)
 2013年3月17日、第12期全人代第1回会議の閉会式において習は国家主席として就任演説を行い、「中華民族は5千年を超える悠久の歴史を持ち、中華文明は人類に不滅の貢献をしてきた」「中華民族の偉大なる復興という中国の夢を実現するため引き続き奮闘、努力しなければならない」と述べてナショナリズムを鮮明にし、外交政策においてはヨーロッパまで及ぶ広大なシルクロードを勢力下に置き、鄭和の艦隊がアフリカの角にまで進出したかつての中国の栄光を取り戻すという意を込めて巨大な経済圏構想である「シルクロード経済ベルトと21世紀海洋シルクロード」(一帯一路)を打ち出した。
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尖閣諸島問題(せんかくしょとうもんだい、簡体字: 钓鱼岛问题、繁体字: 釣魚臺列嶼主權問題)とは、尖閣諸島に対し、1970年代から台湾(中華民国)と中国(中華人民共和国)が領有権を主張している問題。
 中国による沖縄の領有権の主張
 「中国人による沖縄県への認識」も参照
 近年、中国は沖縄の領有権を主張する動きを見せている。また台湾もかつて沖縄返還に抗議していた(中華民国#沖縄県への認識参照)。例えば政府系研究機関が「沖縄県終戦によって日本の支配から脱しているが、いまだ帰属先の策定が行われていない」と沖縄未定論を主張しはじめている。これに対して日本側で尖閣諸島問題は将来的な沖縄侵攻の布石と見ることも出来るとの指摘もある。
 韓国の東亜日報によれば、2012年7月12日に中国国防大学戦略研究所長の金一南少将は中国ラジオ公社において「釣魚島(尖閣諸島)に関しては日本側に必ず、行動で見せてやらなければならない」「沖縄の中国への帰属問題を正式に議論しなければならない」「沖縄は本来、琉球という王国だったが1879年に日本が強制的に占領」したとしたうえで、「琉球がどの国に帰属し日本がいかに占領したのか、詳しく見なければならない」「日本は琉球から退くのが当然」と主張した。
 2012年11月14日、中国、韓国、ロシアによる「東アジアにおける安全保障と協力」会議で、中国外務省付属国際問題研究所のゴ・シャンガン副所長は「日本の領土は北海道、本州、四国、九州4島に限られており、北方領土竹島尖閣諸島にくわえて沖縄も放棄すべきだ」と公式に演説した。そのためには中国、ロシア、韓国による反日統一共同戦線を組んで米国の協力を得たうえで、サンフランシスコ講和条約に代わって日本の領土を縮小する新たな講和条約を制定しなければいけない、と提案した。モスクワ国際関係大学国際調査センターのアンドレイ・イヴァノフは、この発言が中国外務省の正式機関の幹部で中国外交政策の策定者から出たことに対し、中国指導部の意向を反映していると述べている。
 中国は、ロシアに対し、北方領土問題においてロシアを支持する代わりに、ロシアも尖閣諸島問題において中国の主張を支持するよう2010年ごろから働きかけている。ただし、日本との関係を重視するロシアは、中国の提案を受け入れていない。
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 内閣官房 領土・主権対策企画調整室
 中国政府の船舶等による尖閣諸島近海での挑発行動
 中国政府は、1992年に「中華人民共和国領海および接続水域法」を公布した際に、尖閣諸島は中国の領土に属すると一方的に制定し、さらに、2012年には声明を発表して、その中で魚釣島およびその付属島嶼領海基線を公布しました。また、2013年には一方的に東シナ海上空に「防空識別区」を設定し、尖閣諸島空域があたかも「中国の領空」であるかのように表示をしました。2008(平成20)年以降は、継続的に中国政府の船舶が尖閣諸島周辺海域に派遣され、頻繁に領海侵入するなど、日本への挑発的行動を繰り返しています。これに対し、日本としては、日本の領土、領海、領空は断固として守り抜くとの決意の下、冷静かつ毅然とした対応を行うとともに、中国に対して厳重に抗議を行っています。
 最新情報及び詳細はこちら↓
 【尖閣諸島周辺海域における中国公船等の動向と我が国の対処 】(資料提供:海上保安庁
 【中国航空戦力等の我が国周辺空域における活動 】(資料提供:防衛省
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✨35)─4─アメリカは敗戦国日本の復讐・報復を恐れてキリスト教化しようとした。~No.148 ㉚ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 キリスト教会は、上級階級・富裕層を祝福し寄付を受けてミサをおこなった、下層階級・貧困層を慰め癒し施し賛美歌を教えた。
 キリスト教は二つの顔を持ち、支配者・上流者の宗教であり、被支配者・下流者の宗教であった。
   ・   ・   ・   
 キリスト教は、白人による非白人殺害を祝福したが、非白人による白人殺害を大罪として禁じた。
   ・   ・   ・   
 キリスト教イスラム教・ユダヤ教一神教は、神の御名において奴隷・農奴を所有し重労働に使役する事を認めていたが、異教徒が奴隷・農奴を所有する事は大罪とし、異教徒から哀れな奴隷・農奴を解放する事は正しい行いであるとした。
   ・   ・   ・   
 2020年7月2日号 週刊新潮「変幻自在  高山正之
 神を恐れぬ新聞
 ロサンゼルス特派員時代はサンタモニカのリンカーン通りに住んでいた。
 目の前にルーズベルト小学校があって、右手、ウイルシャー大通りに向かうと右側に聖モニカカソリック高校の教会が建つ。
 黒人生徒が多い問題校で、プロムの夜、生徒同士の銃撃戦もあった。
 ただ教会は珍しくカソリック系ということで日曜には驚くほど多くの市民がミサにやって来る。米国人の信仰の深さを見る思いだ。
 ただ彼らの紡いできた歴史はそんな風には見えてこない。
 『右の頬を打たれたら左の頬を出す』(マタイ伝5章)ような米国人はお目に掛かったことがない。
 因みに『右の頬を打つ』とは右手の拳骨で相手を殴ることではない。そうしたら左頬を叩くことになるからで、右手の甲で相手の右頬を叩く、つまり平手で相手を張り倒すことを言う。殴るより遥かに辱めの度合いが高いらしい。
 米国の歴史ではそうやって黒人やインディアンの右頬を殴り続け、その上で彼らに『右頬を殴られたら左の頬を出す』ように基督教化していった。
 教化され米国人の下で働いた2万人のチェロキーは最後は追い払われ、オクラホマまで2,000キロを歩かされた。極寒の山道で彼らは賛美歌『アメージンググレース』を歌いながら、ほとんどが凍え死んだ。
 米国人は『ローマ人への手紙』第12章も繰り返し教えた。『復讐はならない。復讐するは我(神)にあり』
 神様が天罰を下すから復讐など考えるなと教えた。黒人もインディアンもひたすらアメージンググレースを歌っていればいいのだ。
 ただ虐めてきた黒人奴隷は400万を超える。殺戮しまくったインディアンも30万は生き残っている。
 中には俺たちも白人の右の頬を打ちたいと思っている者もいるはずだ。
 だから米連邦議会憲法修正2条『人民の武器所有』をすぐに成立させた。
 右の頬を打ちにきた者には左の頬を出す代わりに鉄砲で返り討ちにしてもいい権利を保障した。
 ジョージ・フロイドの殺害など最近の警官による黒人殺害は憲法修正2条の拡大解釈とも思える。
 米国はよその国ともよく戦争をした。日本とも戦って原爆2発を落とした。
 占領統治では日本人にキリスト教への改宗を迫った。
 1,500人の宣教師が呼ばれ、人々に『ローマ人への手紙』を呼んで『原爆の復讐などしてはならない』と説経させた。
 核の平和利用が始まっても米国は日本人が核に触れることを警戒し、禁じた。
 しかしエネルギー資源に不足する日本には原子力発電は絶対必要だった。
 米国が拒否するならと日本政府は英国と交渉して黒鉛減速型のコールダーホール原子炉を入れた。
 燃料は安価な天然ウラン。黒鉛炉は東海村で発電を始めたが、実を言うと黒鉛炉はもともと核爆弾用プルトニウム(Pu239)の生産炉だった。
 日本がその気なら報復用の核爆弾は即座に作れた。
 吃驚(びっくり)した米国は、『軽水炉を提供します。だから黒鉛炉はやめてください』と懇願してきた。
 軽水炉からもプルトニウムができるが、燃えないPu240が多くを占める。どんなに工夫しても核爆弾は作れない。
 日本はキリスト教など信じていないが、米国にはそのうちきっと天罰が下されると信じている。
 青森六ヶ所村の再処理工場が完成した。日本のエネルギー資源はこれでかなり安定するが、馬鹿な朝日新聞がすぐ因縁つけてきた。
 社説で根本清樹が『核保有の意図か』と騒ぎ、科学班の川田某もコラムで『海外から批判が』と貶す(けな)。
 二人が偉そうに指摘するのがまた『核爆弾6千発分のプルトニウム保有』だ。
 軽水炉から核爆弾用のプルトニウムは作れないというのに。なぜ同じ嘘を繰り返すのか。
 神は人を傷つける嘘を地獄へ落とす大罪としている。……」
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 『口語 新約聖書日本聖書協会、1954年
 ローマ人への手紙
 12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。

 12:17 だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。
 12:18 あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。
 12:19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
 12:20 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。
 12:21 悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。
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 山上の垂訓(さんじょうのすいくん)は、新約聖書の『マタイによる福音書』第5章から7章と『ルカによる福音書』第6章にある、イエスが山の上で弟子たちと群集に語った教えのこと。山上の説教とも。
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 新約聖書 
 マタイ伝からの引用
 5章1節 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
 2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
 3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
 4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
 5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
 6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
 7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
 8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
 9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
 10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
 11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
 12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
 13 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
 14 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
 15 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
 16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
 17 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
 18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
 19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
 20 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
 — マタイ 5:1 - マタイ 5:20 (マタイ 5:21 - マタイ 7:29も参照)

 ルカ伝からの引用
 6章20節 そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。
 21 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。
 あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。
 22 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。
 23 その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。
 24 しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。
 25 あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。
あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。
 26 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。
 27 しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。
 28 のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。
 29 あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。
 30 あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。
 31 人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。
 32 自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。
 33 自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。
 34 また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。
 35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。
 36 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。
 37 人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。
 38 与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。
 — ルカ 6:20 - ルカ 6:38
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 モーゼの十戒旧約聖書
 正教会聖公会プロテスタントルーテル教会以外)の場合
 1, 主が唯一の神であること
 2, 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
 3, 神の名をみだりに唱えてはならないこと
 4, 安息日を守ること
 5, 父母を敬うこと
 6, 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)
 7, 姦淫をしてはいけないこと
 8, 盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ)
 9, 隣人について偽証してはいけないこと
 10,隣人の財産をむさぼってはいけないこと
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 昭和天皇は、キリスト教共産主義の攻勢から皇室・日本国・日本民族のコアである、神話を起源とする国體、三種の神器、日本の心・志・気概を一人で孤独に護っていた。
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 天皇を守っていた尊皇派・勤皇派は、天皇の御威光を奉ずる賤民、部落民、芸能の民、異能の民、異形の民らであった。
 何故なら、彼らは世俗の政治権力や宗教権威から見捨てられた極貧の最下層民だからであった。
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 昭和天皇は、如何に戦争に勝利する為とは言え大量破壊兵器・無差別虐殺兵器である原爆に猛反対し、東条英機杉山元に対して研究・開発・製造の即時中止を厳命した。
 東条英機は厳命を額面通に受け入れて行動し、杉山元は言葉巧みに騙して受け流した。
 軍部・陸軍は、東條英機を切り捨て首相兼陸相から引きずり下ろした。
 現代においても、過去においても、政治の国家元首・軍隊の最高軍事司令官・宗教の最高位聖職者で原爆に反対したのは昭和天皇だけであった。
 現代のローマ教皇核兵器に反対している。
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 人類的に、歴史的に、世界的に、核兵器反対・原爆禁止の唯一の象徴は昭和天皇である。
 が、世界に於いても、日本国内においても、昭和天皇ヒトラーと同罪の非人道的戦争犯罪者と認定され、血に餓えた虐殺魔、従軍慰安婦問題の有罪者と嫌われている。
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 キリスト教の布教とは、天地創造の創り主の恩寵・奇跡、絶対正義の唯一神の福音、隣人愛の信仰、赦しの信仰、困窮に耐える信仰、貧困の美徳を広める為である。
 「貧し者は幸いである」
 如何なる人生の苦難や貧困も、創り主から与えられた信仰の試練である以上、疑問も抱かずに無条件で甘受し、信仰を証明する為に命尽きるまで耐え忍ばなければならない。
 それ故に、父なる神への信仰を守る為に処刑される殉教は尊い行為とされた。
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 日本民族日本人は、大陸の最果ての狭い土地にしがみついて何とか生きてきたローカル人であった為に、世界宗教・普遍宗教・グローバル宗教の崇高なるキリスト教が理解できない。
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 アメリカは、敗戦国日本の航空産業を潰し、原子力産業を始める事を禁止した。
 日本の自由を縛ったのは、日本国憲法護憲派、国連の敵国条項と国連主義者、そして反原発反核兵器運動家であった。
 そして、日本の核兵器保有は否定された。
 日本を縛る日米安保条約日米地位協定
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 人には、正当防衛権と同時に復讐権・報復権が認められている。
 つまり「目には目を歯には歯を」、相手にされた仕打ちに対して同様の仕打ちで返す権利の事である。
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 キリスト教布教といっても、中世大航海時代と近世植民地時代と近代帝国主義時代とでは意味合いが違う。
 中世大航海時代では、キリスト教を唯一の宗教として、天地創造の創り主の福音を世界に広めれば、全ての人は愛の信仰に目覚めて正しい道を歩むようになり、平穏な心を得て邪な心は消え、嫌悪や憎悪や敵意はなくなり、対立やいがみ合う必要もなく、平和となって戦争は起きなくなる、と信じられていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人やアフリカ人を奴隷として売買して大金を稼いでいた。
 近世植民地時代では、白人のみが天地創造の創り主の御姿に似せて作られた特別な存在である以上、世界は非白人種は、絶対神に愛され祝福された白人を唯一の統治者として受け入れ、絶対忠誠を誓い、逆らう事なく・叛く事なく、忠実な下僕・奴隷として傅かねばならない、と。
 白人常勝信仰で、白人に逆らっても勝てないという絶望を植え付けた。
 宗教的人種差別の白人至上主義から、非白人は劣等な下等生物・野蛮な獣という認識を徹底させた。
 近代帝国主義時代では、植民地人に対し、あなたは原罪を持った非白人の罪人であるから白人から如何なる虐待を受けても恨む事なく赦さなければ(赦しの信仰)、絶対神は貧しく苦しく悲惨な境遇を耐え忍び正しき心で生きる信者を富み豊かな生活を送る堕落した人間よりも救ってくれる(困窮に耐える信仰)を、教えた。
 つまり「七つの大罪」は、何時の時代でも白人ではなく非白人を縛り抑えつける為に利用された。
 全ての時代で、キリスト教に抵抗したのは非白人非キリスト教徒の日本国・日本民族日本人であった。
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 アメリカ軍(連合国軍=国連軍)日本占領時代に、アメリカ、GHQ、アメリカ・キリスト教会は昭和天皇・皇室そして日本人をキリスト教に改宗させるという宗教政策を強行した。
 が、神の裔にして祭祀王の昭和天皇が頑なに受け入れなかった為に日本キリスト教国家計画は失敗した。
 韓国におけるキリスト教化は成功した。
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 戦後日本では、武士道、特に親や主君の仇を晴らす「仇討ち」は禁止された。
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 アメリカは、日本を恐れたのは、負ける事が分かっていながら、歴史上唯一アメリカに宣戦布告して戦争をしかけ、女性や子供なで卑怯・卑劣な戦いをせず信念を持って正々堂々と玉砕や特攻を繰り返して戦った事である。
 アメリカの対日占領政策は、二度とアメリカに逆らわないようにする事ではなく、アメリカに復讐・報復をさせない事であった。
 世界で原爆を使う権利は、原爆被害を受けた日本だけが持っている。
 日本が原爆を使う相手国とは、アメリカ、ソ連(現ロシア)、イギリス、カナダ、中国など日本の降伏文書に署名し、日本から戦争賠償金を奪い、東京戦争裁判を執り行い判決を容認した国々である。
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🏯30)─1─差別用語としての「士農工商」。抗議する反天皇的部落解放同盟。~No.56No.57 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 部落解放同盟の一部は、天皇制度を否定し、昭和天皇を非人道的犯罪者と糾弾している。
   ・   ・   ・   
 日本には、俗欲に塗れた政治権力と宗教権威、そして私利私欲のない神聖な天皇の御威光の3つが存在していた。
 差別され迫害を受けてきた賤民や部落民の精神面を支えていたのは、天皇の御威光であった。
   ・   ・   ・   
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 士農工商とは、儒教において社会の主要な構成要素(官吏・農民・職人・商人)を指す概念である。「四民」ともいう。日本では、近代になり江戸時代の身分制度を意味すると捉えられるようになったが、1990年代頃から実証的研究が進み、同時代的に現実に施行された制度ではないと理解されるようになった。

 差別用語としての「士農工商
 「士農工商穢多非人」の語は江戸時代には存在しなかったとされており、明治7年(1874年)に初めて使用されて以後、昭和初期の融和教育の中で頻繁に使われるようになったと考えられている[誰によって?]が、「士農工商○○」(○○の部分には「芸能人」「予備校生」「アナウンサー」などの語が入り、しがない身分を自嘲的に表現するのに使う)との表現は部落差別の深刻さを茶化すことにつながるという主張から、1980年代以降は部落解放同盟の糾弾を受けるようになり、放送禁止用語として扱われている。具体的には、以下の糾弾事例がある。

 TBS糾弾事件
 1981年8月6日のTBS系のテレビドラマ『虹色の森』(毎日放送制作)に「士農工商、その下がうちだよ」との台詞が登場。これに対し、広島や熊本の部落解放同盟関係者が怒鳴り込んだ。これ以後、部落解放同盟中央本部はこの種の表現を軒並みに糾弾するようになった。
 週刊文春糾弾事件
週刊文春』1985年5月9日号に筒井康隆による「士農工商SF屋」との表現が掲載されると、部落解放同盟が抗議。筒井は「多種多様な業界で自嘲的に使われている成句であり、その限りにおいて部落差別の隠喩にもなりえない」と突っぱねたが、文春は部落解放同盟に謝罪した。
その後、部落解放同盟小林健治から筒井に「週刊文春とは話がついたが、あなたとはまだついていない」との電話があった。「話をつける」とはこの場合あきらかに「詫びさせる」という意味だったので、筒井は話し合いを断った。すると部落解放同盟小林健治は「この電話は個人の資格で言っているのではなく、背後には部落解放同盟20万の人間がいる」と言った。
 この言葉に逆上した筒井は思わず「20万が200万であろうと」云々と怒鳴りあげ、後になってからそのことを大人げない行為と反省しつつも「これはやはり先方の言い方に問題があるので、この言い方をされたらたいていの者は脅えるか怒るかなのだ」と部落解放同盟にも反省を促している。
この一件につき、野町均は「差別表現をネタに背後には部落解放同盟20万の人間がいると恫喝めいたことを口にするような姿勢がどれほど堕落したものであるかはおのずと明らかであろう」と批評している。
 
 阿久悠糾弾事件
 『東京新聞1984年12月10日付に掲載された連載「この道」第35回で、阿久悠が広告代理店勤務時代にテレビ局の社員たちから屈辱的な扱いを受けた思い出に触れ、「番組ディレクターは帝王だった。それに比べて、広告代理店は自ら士農工商代理店と嘲るほど立場が弱かった」と書いた。これに対し、部落解放同盟東京都連合会は、作者の意図にかかわらず「差別表現」であると抗議し、阿久悠を謝罪に追い込んだ。

 電通事件
 電通発行の週刊紙電通報』1996年9月16日付に掲載された連載コラム「シリーズ・広告自分史<8>」に「士農工商代理店、われら車夫馬丁でござんす」との表現が登場(筆者は愛媛新聞社会長の松下功)。これに対して電通は同紙を即刻回収し、謝罪声明を発表すると共に、問題の表現を差し替えた第二版を発行。翌9月17日には部落解放同盟中央本部に電通みずからが連絡して詫びを入れ、1997年4月8日には電通の花岡専務が組坂繁之に面会して謝罪文を手渡し、一件落着となった。このほか、問題の記事の筆者である松下功が1997年2月17日に部落解放同盟中央本部を訪れ、頭を下げた。

 佐賀新聞社糾弾事件
 1997年3月、佐賀新聞社社長の中尾清一郎が、佐賀市におけるシンポジウムで「佐賀というのは福岡から下にみられ、福岡人が士農工商の商であれば、佐賀は穢多非人」と発言。これが差別発言として問題視され、部落解放同盟佐賀県連合会が中尾を糾弾し、謝罪に追い込んだ。一方、部落解放同盟と対立する全国部落解放運動連合会九州地協は「部落差別発言ではない」「比喩として不適切だっただけ」との見解を発表し、糾弾会に出席しないよう中尾に促した。

 サイゾーとAV監督への糾弾事件
 『サイゾー』2016年8月号における安達かおるの発言「結局、僕は職業カーストの、昔で言えば「士農工商えた非人」の最底辺なんですよ。AV業界にも職業カーストは厳然としてあって、その中でもスカトロなんて撮ってるのは最底辺だしね」が部落解放同盟から問題視された。2016年11月5日、サイゾー代表取締役と編集長と広告部長と安達監督などが部落解放同盟中央本部に呼び出され、反省文を提出させられた。
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 部落解放同盟(ぶらくかいほうどうめい、英: Buraku Liberation League)は、部落差別の解消を目的に標榜している同和団体である。関係者みずからによる略称は解放同盟。
 関係者の間では単に「同盟」と呼ばれることもある。解同の略称は部落解放同盟の大賀正行も第6回部落解放夏期講座で使ったことがあるほか、部落解放同盟福岡県川崎町連絡協議会も『『あいうえお』からの解放運動』165頁や256頁で使っている。また裁判所でも使われており、特に日本共産党カギカッコつきで「解同」と表記する。
 また、裁判所によって部解同と略されたこともあり、朝日新聞が解放同と略したこともある。
 立憲民主党の主な支持団体の一つであり、同党に組織内候補を輩出している。地域によっては自民党公明党・国民民主党社民党新社会党などを支持する場合もある。
規約では「部落民でない者についても、都府県連合会で審査決定し、中央本部の承認により同盟員とすることができる」と定めるが、事実上は「学識経験者以外は役員、たとえば中央執行委員などには(部落民以外を─引用者注)あまり入れない」ことになっており、過去には部落外の協働者から「部落外の人間からの批判の拒否」を指摘されたこともある。
 歴史
 1922年、大正デモクラシーの空気の中で、全国水平社が結成された。戦前の運動は、1940年の大会で国歌斉唱・宮城遥拝・英霊に対する黙祷で幕を下ろすまで続けられた。
戦後の部落解放運動は、戦前の水平運動、融和運動双方の活動家の大同団結した部落解放全国委員会の結成によって始まった。同委員会は1955年、大衆的運動団体であることを明確にするために、部落解放同盟と改称するが、その一方、55年体制の対立構図が明確化する過程で融和運動系列の活動家を除名、60年代後半から70年代前半にかけては共産党の活動家を除名。除名された者たちはそれぞれ別組織を結成した。その結果、自民党系の全国自由同和会共産党系の全国部落解放運動連合会(全解連)、そして1955年結成の部落解放同盟に分かれて推進されることになる。
 部落解放同盟内部の共産党系の派閥は、内閣同和対策審議会答申(1965年10月8日)を「毒まんじゅう」であり自民党との妥協の産物であると批判。一方、部落解放同盟内部の社会党系の派閥は同答申を歓迎した。佐々木隆爾によると、この部落解放同盟の分裂劇の裏側には、部落解放運動の主流から共産党勢力を排除し、部落解放同盟内の利権派に主導権を握らせ、部落解放運動を体制の中に取り込もうとする旧内務省系の自民党右派議員グループ「素心会」の思惑があったという。以後、1970年代にかけて共産党系の勢力が社会党系の勢力に排除され、今日に至る。このような経緯から、共産党部落解放同盟は反目を続けている。
 「日本共産党#部落解放同盟との対立」も参照
 共産党との対立が爆発したのが、1974年に起きた八鹿高校事件である。もともと共産党系の部落問題研究会が設置されていた兵庫県立八鹿高等学校で、部落解放同盟系の生徒が部落解放研究会を結成しようとしたのを、共産党系の教師が非公認としたことから、部落解放同盟が組織的に解放研の生徒の支援に乗り出し、教師を糾弾するに及んだ。このとき、共産党支持の教員のみならず社会党支持の教員や支持政党のない教員も暴力の被害を受けている。当時は部落解放同盟の不祥事に関する報道がタブー視されていたことから、全国紙はこの事件を積極的に報道しようとしなかった。共産党はこれらの事件を国会で取り上げ、部落解放同盟を非難している。
 部落解放運動の草創期から「言った・言わない」による暴力的な吊し上げが行われていた。その頂点が八鹿高校事件であった。また、糾弾の対象とした宗教団体・企業・マスコミなどを「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」(同宗連)、「同和問題に取り組む全国企業連絡会」(同企連)、「出版・人権差別問題懇談会」「人権マスコミ懇話会」などの組織に糾合し、参加費を徴収し、部落解放同盟の研究集会や糾弾会に糾弾側として動員している。この間の事情について、部落解放同盟員は「将棋のコマや思ってくださったらええねん。将棋の場合は相手のコマを取ったらそれをまた今度は自分のコマで使うでしょう。そういうことなんですね。だからね、最近は企業の人、行政の人の発言の方が僕なんかよりも解放同盟寄りの発言だったりする。僕があべこべに『あんたはほんまに解放同盟ですか』と言うてやられるんだから(笑)」と説明する。
 共産党は「部落問題は既に解決している」として全解連を解散し、人権一般を扱う団体に衣替えした。部落解放同盟も部落のみならず、障害者解放など社会的少数者全般の権利を擁護するとのスタンスに変わりつつあるが、部落問題を最終的に解決するのは行政の責任だとする立場は堅持している。
 部落解放同盟は、かねてから社会党公明党民社党社会民主連合との関係を重視してきた。現在は、立憲民主党との関係が深いが、小森龍邦部落解放同盟元書記長は、新社会党委員長を務めていた。ただし本来の部落解放同盟は多種多様なイデオロギーの持ち主が集まった大衆団体であり、「部落解放同盟という看板あげてるけども、外したらやってること言うてること自由同和会とそんなに変わらへん」との声も内部にはある。
 公式方針としては反天皇制をスローガンに掲げており、1974年6月の部落解放同盟の「子ども会」では
 日本共産党
 橋本浙子(日本共産党員。矢田事件への見解が原因で勤務先の大阪市役所から研修名目による職場いじめを受け、法廷闘争をおこなった)
 昭和天皇
 機動隊
 などを「6つの敵」と称し、この6つをかたどったロボットをつくり、これらを倒す競争をさせていた。
 しかし末端レベルには天皇崇拝者もおり、「家の中行ったら天皇陛下の写真と日の丸があって、それで支部長やってる」場合もあるという。たとえば部落解放同盟鹿児島県連合会初代委員長の村岡仁三次も自宅に天皇皇后両陛下の写真を飾っていた。なお村岡は大日本翼賛壮年団出身であった。「南九州の被差別部落の解放運動の人にはときどきいるタイプなんです」と、有馬学は述べている。このほか「日本塾」の右翼が部落解放同盟に入り込んで幹部になった例も指摘されている。
 1995年当時、部落解放同盟には
 旧社会党の「党員協」
 いわゆるソ連派の「日本のこえ」
 中国派の「中国研究会」
 の3つの流れがあった。元々は「党員協」が主流で、松本治一郎も上杉佐一郎もこの派閥に属する。しかし1995年までには「日本のこえ」が主流派閥となり、「日本のこえ」の上田卓三が書記長となる。これに伴い、「日本のこえ」と対立関係にある新社会党小森龍邦は書記長を解任されるに至った。かつての岡山県連合会(「中国研究会」系)のように、同盟中央の方針に対立したために解体された例もあり、中核派系統の支部が同盟中央から機関解体されて部落解放同盟全国連合会(全国連)となった例もあり、部落解放同盟は一枚岩の組織ではない。また、同盟中央から解体されてからも自らの正統性を主張し、行政から補助金を受け続けている組織もある。
 1999年4月30日、広島県教育委員会は、君が代の斉唱を推進する立場をとり、教員と対立した県立校長の自殺事件の背景に、解放同盟県連や日教組の「圧力」があったとする調査結果を発表した。
 2002年に同和立法が期限切れを迎え、一部地方自治体において同和予算を見直す動きが出る。これに危機感を持った部落解放同盟は同和立法の代替法として人権擁護法案の成立を強く推進。メディアでは関係の深い朝日新聞社に強く働きかけを行っており、2005年の通常国会時は専務取締役の坂東愛彦や社会部の本田雅和などが同調し、紙面の論調に反映された。これに対して、共産党赤旗などを通じて反対姿勢を鮮明にした。
 部落問題研究所は部落解放同盟憲兵特高刑事になぞらえている。全解連もまた
{「戦前の国民は、天皇の国家の名で民主主義のかけらもない暗黒支配のもとにおかれて、自由、権利を圧殺されていた。天皇を批判し、冗談にもやゆするものは、それだけで『不敬罪』として逮捕され、牢獄にほうりこまれたのである。これとは、次元がちがうが、『解同』朝田派を批判したものだけでなく、かれらににらまれたものは、それだけでも、"差別糾弾"の対象にされ、"糾弾学習会"とよぶ監禁、どうかつ、脅迫、暴行をうけなければならないのである。このようにみてみるならば、『解同』朝田派の部落排外主義とは、鉄面皮な新しい差別主義である」}
と述べている。戦前の特高内務省警保護局保安課編『特高月報』を通じて国民の不敬発言とされたものを便所の落書きに到るまで逐一監視し記録していたように、部落解放同盟もまた「部落解放基本法」の永久立法の必要性を世に訴えるために「部落解放基本法制定要求国民運動中央実行委員会」名義で小冊子『全国のあいつぐ差別事件』を毎年刊行し、国民の部落差別発言とされるものを便所の落書きに到るまで逐一監視し記録している。
 「日本のこえ」派で上田卓三のブレーンであり、部落解放同盟の「影の書記長」「影の委員長」「最大の権力者」ともいわれた大賀正行(部落解放・人権研究所名誉理事、元部落解放同盟中央本部顧問)は、部落解放同盟を「人権同盟」と改称し、部落問題だけではなく人権問題全般を扱うNGOに改組し、行政の補助により運営していく構想を持っている、とも伝えられる。
 最盛期には18万人いた部落解放同盟員は、同和対策関連法の失効(2002年)を経て、2012年現在、6万人に激減している。飛鳥会事件やハンナン事件、八尾市入札妨害恐喝事件、大阪府同和建設協会談合事件、芦原病院問題、京都市環境局不祥事、奈良市部落解放同盟員給与不正受給事件などの相次ぐ不祥事を受けて、部落解放同盟大阪府連飛鳥支部の元幹部は「部落差別はほとんどなくなってるから、解放同盟はもう要らんと思う。別に解放同盟がなくても生活できるやん。結婚差別はまだあるで。でも、それも一部やろ。解放同盟はすでに役割を果たし終えた」と語っている。長年にわたり部落解放同盟と共闘していた灘本昌久もまた「現在、部落解放同盟野垂れ死に状態になりつつあるが、それは自然となったのではなく、古い運動と理念にしがみついたがための、自業自得の野垂れ死にである」と評している。
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⚔38)─1─オランダは、日本産銀・日本人傭兵・日本産武器を使って国際金融交易網を築いた。~No.162No.163 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代の日本人と昔の日本人は別人の日本人である。
 歴史力のない現代日本人には、事実を目の前にしながら、それでもなお日本の歴史を正しく理解できない。
   ・   ・   ・   
 真面目な日本人は2割、不真面目な日本人は3割、空気・空気圧力・同調圧力に流される日本人は5割。
   ・   ・   ・   
 NHKチャンネル
 [総合]
 2020年7月8日(水) 午前0:30~午前1:20(50分)
 ジャンル
 ドキュメンタリー/教養>社会・時事
 ドキュメンタリー/教養>ドキュメンタリー全般
 ニュース/報道>報道特番
 番組内容
 地球規模の歴史から、戦国日本の新たな姿を描くシリーズ。2集は、徳川家康の天下取りの時代。世界の覇権をめぐり、日本の銀を狙うオランダとスペインの激しい攻防に迫る。
出演者ほか
 【司会】西島秀俊,【出演】金田明夫,【語り】礒野佑子
 詳細
 地球規模の歴史から、新たな日本の戦国時代を描くシリーズ。第2集は徳川家康の天下取りの時代。新発見の文書に記されていたのは、オランダ商人と家康の深い繋がり。オランダは、当時最重要の国際通貨だった「銀」を求めていた。世界の産出量の3分の1を占めた日本銀をめぐり、オランダと超大国スペインの間に激しい攻防が始まる。覇権をかけた両国の争いの最前線となった戦国日本、その実像に迫る。ナビゲーターは西島秀俊さん。
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 ジャック・スペックス
 『スペックス商館長の書簡綴帳』
 解説
 スペックス商館長の書簡綴帳
 ハーグ国立文書館所蔵NFJ 276
 この史料は初代商館長ジャック・スペックスが1614年8月4日から1616年12月29日までの間に受信した書簡の綴帳です。スペックスは1609年に平戸オランダ商館長になり、1613年にヘンドリック・ブラウェルと交替して一時的に出国しましたが、1614年に再び商館長として平戸に戻り、1621年までの間二期目を務めました。従って、この書簡綴帳は、スペックスが二回目に日本に到着してから2年半の間に受信した書簡の控えを手元に残して綴じたものです。各書簡は、受信した順番に17世紀独特の美麗な書体で整然と筆写されています。初期の数十通の各書簡の末尾には、受信した日付および返信の有無についての覚書が加筆されています。
 この綴帳には130通の書簡の写しが収められています。最初の書簡は、第二代商館長ヘンドリック・ブラウェルからのものであり、平戸への渡航の仕方に関する指示が記載されており、スペックスは日本に向かう途中の日本近海の海上で受信しています。書簡の内最も大きな割合を占めているのは、京都、大坂、堺、江戸、長崎、鹿児島、山口などの日本国内各地から送付されたものです。差出人は、関西に駐在していた商務員エルベルト・ワウテルセンや平戸を拠点として日本の各地へ行き来していた商務員マテイス・テン・ブルッケと商務員マルティン・ファン・デル・ストリンゲの他、1600年に日本に漂着したオランダ船リーフデ号の乗組員で平戸商館と取引していたメルヒヨル・ファン・サントフォールト、ヤン・ヨーステン・ローデンステイン、アドリアーン・コルネーリセン、イギリス人舵手のウィリアム・アダムスなどです。こうした国内文通の他に、スペックスが海外から受信した書簡の写しも数多く収められています。その中の代表的なものとして、アムステルダム本部の重役達、バンタム駐在の商務総監ヤン・ピーテルスゾーン・クーン、パタニ商館長ヘンドリック・ヤンセン、シャム商館長マールテン・ハウトマンなどからの書簡が挙げられます。各書簡の内容としては国内取引や貿易に関するものに最も多くの紙面が割かれていますが、その合間に各地の状況についても記述されており、特にエルベルト・ワウテルセンの筆による大坂の陣についての詳細な記述が見られます。
 同綴帳は、以後、平戸オランダ商館に保管され、1641年のオランダ商館の出島への移転に伴って、出島オランダ商館に移された後の幕末までは同商館で長期間に渡って保管されていましたが、1852年にバタフィアへ送られ、その後の1863年にオランダに渡り、現在ハーグ国立文書館が所蔵しています。
 (クレインス、フレデリック
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 徳川家康が輸出した日本産銀が、国際貨幣経済体制作りを強力に後押しとなり、世界の中世を終わらせ近代への道を開いた。
 世界は、福音による宗教時代から貨幣による金融経済時代に突入した。
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 スペインは、植民地を支配し世界の銀を独占していたが、その銀を使って国際通貨を作って流通させ世界経済を支配しようとはしなかった。
 スペインが目指した国家戦略は、植民地を拡大し、領土を拡げる事であった。
 ローマ・カトリック教会(中世キリスト教会)は、信者拡大の為にスペインの世界戦略に協力した。
 オランダは、スペインの領土であった。
 オランダ商人は、スペインの異端審問を逃れてきた異端者(隠れユダヤ教徒ユダヤ人)で、世界交易を行う為にはスペインと戦う必要がありプロテスタント・カルバン派に改宗して団結した。
 オランダは、世界流通銀の3分の1を輸出する日本に、キリスト教布教をしない事を条件として食い込んだ。
 日本に於けるスペインとオランダの戦いは、地球レベルのローカルな植民地経済とグローバルな株式・国際通貨経済という経済戦争であり、キリスト教布教をめぐる宗教戦争であった。
 第一ラウンドが日本の大坂戦争であり、第二ラウンドが東南アジアの植民地争奪戦であり、第三ラウンドが西洋の宗教戦争であった。
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 オランダは武器輸出大国で、その大量の武器(大砲・砲弾・火薬)が徳川家康に売却された。
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 徳川家康は、全国の主要な銀山を手に入れ、産出した大量の銀でオランダから武器を購入し、関ヶ原に勝ち、大坂城を落城させて豊臣家を滅ぼして日本を統一して、徳川の世・徳川の平和をもたらした。
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 豊臣秀吉の日本統一が失敗し徳川家康の日本統一が成功したのは、合戦がなくなって失業した武士・サムライ対策であった。
 職業軍人の武士・サムライ達に、
 豊臣秀吉は明征伐・朝鮮出兵という新たな戦場を与え、
 徳川家康は本人の自由選択として傭兵となりオランダ軍に協力して戦う道を与えた。
 主家を失った武士は、自由を求め傭兵となって海外に出た。
 キリスト教弾圧を逃れる日本人キリシタン達も、国外に逃亡した。
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 山田長政率いる日本人部隊は、シャム(現・タイ)で活躍していた。
 東南アジア各地に日本人町が存在していた。
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 オランダは、植民地争奪戦が一段落すると生きる術を失った日本人傭兵が反乱を起こすのではないかと恐れ、武器を捨てて土着すればよく、武器を捨てず傭兵を続ける日本人武士を弾圧して消滅させ、徳川幕府に対して日本人傭兵を国外に出さないように要請した。
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 徳川幕府は、オランダの植民地戦争が一段落した頃、キリスト教に改宗した日本人傭兵が帰国して反乱を起こして幕府を滅ぼし戦国時代を再演させる事を警戒して、海外との自由な行き来を禁ずる鎖国令を出した。
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 スペインは、キリスト教会と共に日本から追放され、オランダ・日本人傭兵共同軍の攻撃に敗北してフィリピン以外の東アジア植民地の多くを失い、衰退し、世界的な植民地帝国であっても西欧における影響力を失った老大国となっていった。
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 中世キリスト教会の世界戦略であった、布教で世界を1つの唯一のキリスト教国家に統一する神聖な使命は、徳川家康によって失敗し、日本によって方針転換を余儀なくされたく。
 イスラム教など世界中の宗教はもとより西欧のプロテスタントも、中世キリスト教会・イエズス会の野望を砕いた日本によって救われた。
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 オランダの世界戦略は、植民地拡大ではなく交易拠点を築き、国際通貨を利用した利益を上げる世界金融経済網を強化する事であった。
 植民地支配はカネとヒトの浪費で苦労が多い割りには利益が少ない、という合理的論理的な考えであった。
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 世界変革の策動地は、オランダ王国首都アムステルダムであったが、世界金融に関してはユダヤ人金融家が寄り集まったドイツ領フランクフルトであった。
 ユダヤ人金融家は、更なる利益を上げる為に世界金融の独占を目指して自由と民主主義が芽ばえ始めたイギリス王国に渡ったが、世界金融の独占の前に立ち塞がったのがフランス王国などのカトリック教諸国であった。
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 イギリスは、ユダヤ人金融家の資金援助を受け海軍力を増強し、3度のイギリス・オランダ戦争英蘭戦争)に勝利して、オランダから制海権を奪った。
 オランダは、急速に衰退し、西洋の主要国から転落したが、日蘭交易独占と植民地インドネシアで国際金融での地位を確保できた。
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 大学共同利用期間法人 
 人間文化研究機構
 vol.003 - オランダ人が見た大坂の陣
 2016-10-14
 オランダ人が見た大坂の陣
 「当地堺では、我々は皆、大混乱状態に陥っていることを知らせる。その理由とは、皇帝〔家康〕が武力で大坂を攻囲するために、その全軍を率いて、伏見やその周辺に軍を配置したことである。大坂方は士気高く皇帝の到来を待ち受けている。大坂と堺の市民たちの多くがその荷物を持ってあちこちへ逃げた」。これは、オランダ商人ファン・サントフォールトが1614年11月29日(年は西暦、月日は和暦、慶長19年11月29日)付で堺から発信した書簡の冒頭部分である(原文はオランダ語)。その時期は、大坂冬の陣の時である。
 その1ヶ月後の1615年1月29日(慶長19年12月29日)付の東インド会社の商務員ワウテルセンの書簡には冬の陣後の荒れ果てた状況について記されている。ワウテルセンは同月25日に堺に到着し、その翌日に大坂を訪れ、その時の状況について「秀頼の命令の下に一万五千軒以上の家が全焼させられ、四方に大砲の射程よりも広い空地ができた」などと書いている。
 このような大坂の陣に関連する記述のあるオランダ人の書簡としては、メルヒヨル・ファン・サントフォールト、エルベルト・ワウテルセン、マテイス・テン・ブルッケの書簡10通を確認している。これらの書簡は、大坂の陣の前後に堺、大坂、京都、室津(現・兵庫県たつの市)から発信されており、オランダ人が当時各地で見聞したことを伝えている。そこには、不穏な状況下での民衆の恐怖や混乱が克明に記録されている。大坂の陣について庶民が残した史料が乏しい中で、庶民の視点から見た記録として貴重であるといえる。
 国際日本文化研究センター日文研)は、オランダのライデン大学と共同でハーグ国立文書館の所蔵文書の内、1609年~1633年の送受信書簡を調査し、これまで524点の書簡を確認した。これらの書簡は、江戸初期における対外関係や社会を研究する上で、情報の宝庫である。今後、人間文化研究機構(人文機構)ネットワーク型基幹研究プロジェクト「日本関連在外資料調査研究・活用」事業の中の「ハーグ国立文書館所蔵平戸オランダ商館文書調査研究・活用」の一環として、これらの書簡の翻刻と和訳を進めていく。
 フレデリック・クレインス 国際日本文化研究センター 准教授
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 徳川家康徳川幕府は、鎖国策として、オランダ一国とのみの交易を続けた。
 そして、海外の疫病から江戸・京・大坂など日本を中枢を守る為に交易地を西の果にある長崎と定め、更に堀に囲まれた出島に限定し自由な往来を禁じて閉じ込めた。
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 鎖国とは、疫病の水際対策であった。
 それでも、度々、日本は中国などの海外から疫病が侵入し、日本全国で感染爆発が起きて夥しい人々の命を奪った。
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 徳川家康豊臣秀頼の戦いは、オランダとスペイン・バチカンとの世界覇権争いと繋がっていた。
 オランダの株式会社・東インド会社は、専制君主制・植民地支配経済・キリスト教布教ではなく、日本産銀の国際通貨で利益を上げるグローバル経済、日本人傭兵と日本産武器による国際交易根拠地確保で、スペインを破って衰退させ、領地拡大を望まない国際交易だけによる世界第1位の経済大国になった。
 オランダを地球規模の株式大国に押し上げたのは、日本のヒト(サムライ傭兵)・カネ(日本産銀)・モノ(日本産武器)であった。
 それは、徳川家康の功績でもあった。
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 徳川幕府初期、日本は世界の七大帝国の1つであり、主要輸出品は日本産の銀と武器であった。
 日本製武器は、戦国時代の実戦使用で殺傷能力が高められ、オランダ商人の仲介でプロテスタント諸国に輸出され、各地の戦場に投入されて戦争勝利に貢献していた。
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 オランダは、日本との交易を希望して、徳川家康に大砲と鉛を売り込んでいた。
 スペインは、キリシタン弾圧で日本のキリスト教国化を潰した徳川家康を滅ぼすべく、宣教師を通じて豊臣秀頼を支援し、全国のキリシタン武士を大坂城に集め、キリシタン商人を総動員して大量の銃弾を供給させた。
 大坂冬の陣は、スペインの支援を受けていた大坂側が有利な戦いを展開していた。
 徳川家康は、オランダから購入した最新鋭の大砲と砲弾で講和に持ち込んだ。
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 商業国家オランダは、植民地拡大のスペイン王国と信者拡大のローマ教皇に対して「利益」で対抗するべく株式会社・東インド会社を創設した。
 オランダは、スペインの植民地経済に対抗する為に日本産銀を原材料とする国際貨幣を鋳造して国際市場を独占した。
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 オランダは、スペインのアジア植民地を奪うべく、徳川家康の許可を得て武士・侍を傭兵として雇った。
 オランダ・日本人傭兵連合軍は、日本産の大砲や火縄銃、刀・槍・弓矢を武装して、スペインの植民地要塞を攻略した。
 オランダの株式会社・東インド会社は、日本産銀で鋳造した銀貨を国際通貨として流通させて世界経済を独占した。
 オランダの軍隊は、日本人傭兵と日本産武器を使って、世界の海の覇権を手にし、アジアに植民地を獲得し、スペインを衰退させて世界大国となった。
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🏞65)─1─江戸経済と欧州経済の繋がり。江戸と西洋の金融相場対立と産銅高競争。~No.270No.271No.272  @ 
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🏞65)─2─江戸中期の日本経済は世界第2位のGDP。~No.273No.274No.275  @ ⑱ 
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🏞88)89)─1─日本の産業革命は、寛政期に地方で生まれた新たな金融システム・帝印金融(皇室資金)によって始まった。~No.367No.368No.369No.370 @ ㉜
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 2017年3月号 新潮45「歴史再考5 中野順哉
 『ユダヤ』の移動と大坂・豪商の没落」
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 2018年2月号 新潮45「歴史再考 6  中野順哉 
 幕府から独立した『金融システム』の誕生
 ……
 元禄時代に入って淀屋と将軍家の関係悪化は先鋭化していた。荻原重秀は新興勢力の住友と共謀し別子銅山から採れる銅をもって淀屋とオランダ東インド会社との間に割り込んできた。この『攻撃』は相当に効果があったのであろうが、銀から銅へという移行自体は経済の自然な流れでもあった。
 ……
 淀屋はオランダの東インド会社を通して、ヨーロッパの事情をほぼオンタイムで理解していた。幾度かオランダがイギリスと戦争をし、結果的に国力を随分落としていることも知っていた。両者の戦争の背後にはユダヤ人2派の対立があった。オランダのユダヤ人は中継貿易を志向し、イギリスのユダヤ人は植民地主義を目指していた。淀屋は当然オランダを支持する。そこでオランダに最新鋭の兵器として『米切手』のシステムを伝えた。……」
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 アムステルダム銀行とイギリス国立銀行イングランド銀行
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 2018年9月号 新潮45「歴史再考7 投機狂時代の到来 中野順哉
 鉄をベースにした『新しい金融システム』は、各藩の産業を活発化させた。
 その結果、市場として魅力のなくなった江戸からは、商人が離れていく。」
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 ウィキペディア
 ヤックス・スペックス(Jacques Specx、1585年 ドルトレヒト - 1652年7月22日アムステルダム)は、オランダの商人で、1609年に平戸にオランダ商館を設立し初代(及び第3代)の商館長となった人物。1629年から1632年にかけて、バタヴィアにおいてオランダ領東インドの総督を務めたが、そこで娘のサラのスキャンダルに巻き込まれている。オランダ帰国後は絵画の収集家となった。
 家康の交易要請
 1600年(慶長5年)、オランダ船リーフデ号が豊後に漂着し、その乗組員は徳川家康に保護された。家康は海外貿易に熱心であり、1604年に朱印船制度を実施した。さらに1605年には、平戸藩初代藩主であった松浦鎮信が新造した朱印船で、リーフデ号の船長であったヤコブ・クワッケルナックと乗員のメルキオール・ファン・サントフォールトにオランダ総督マウリッツに宛てた親書を持たせ、オランダ東インド会社の交易拠点であるパタニ(マレー半島)へと派遣した。しかしながら、オランダ東インド会社は1602年に設立されていたものの、ポルトガルとの競争が激しく、直ちに日本との貿易を開始する余力はなかった。
 当時オランダ本国はスペインに対する独立戦争を行っていたが、1608年にはイギリス・フランスの仲裁で勢力の現状維持を前提とした休戦交渉が開始された。このため、東インド会社は交渉成立以前に「現状」を拡大することが得策と考え、アジア地域の艦隊司令であったピーテル・ウィレムスゾーン・フルフーフ(Pieter Willemsz. Verhoeff)に可能な限り交易地域を拡大するように指令した。この指令に従い、1609年フルフーフは平戸に向かった。スペックスもこの一員に加わった。
 スペックスは11隻からなるフルフーフの艦隊の一員として、1607年にテセルから出帆した。バンタムに到着後、日本との交易を開始するため2隻が日本に向かった 。
 慶長14年7月25日(1609年8月24日)付けの家康の朱印状。オランダ船は日本のどこにも寄港できると記されている。
 この2隻は、デ・フリフューン号(De Griffioen、砲19門)とローデ・レーウ・メット・パイレン号(Roode Leeuw met Pijlen、400トン、砲26門)である。両船は1609年7月2日に平戸に到着した[5]。直ちに、アブラハム・ファン・デン・ブロックとニコラス・ピュイックの2名がマウリッツの親書を持って駿府徳川家康のもとに赴き、通商を要請した。家康は慶長14年7月25日(1609年8月24日)付けの朱印状を下付し、オランダ船の来航と安全を保障し、また来航地と商館設置場所の自由を与えた。このときの通訳は、リーフデ号の乗組員であったメルキオール・ファン・サントフォールトで、当時長崎で交易を行っていた。
 家康は江戸に近い浦賀での交易を期待していたようだが、船上会議において、平戸に1軒の家を借り、オランダ商館を設立することが決定された。当時太平洋側の航路は十分開拓されておらず、またスペイン・ポルトガルの交易地である長崎に近く情報収集に便利であるということがその理由であった。スペックスは初代の商館長に任命され、スペックス含め6人が平戸に残ることとなった。スペックスはウィリアム・アダムスの協力を得ることができ、1613年まで商館長を勤めた。1610年、スペックスは朝鮮にも船を派遣している。
 さらに、3代目の商館長として1614年から1621年まで平戸にあった。この間の1620年、平山常陳事件が起こるが、スペックスはイギリス商館長であったリチャード・コックスと協力して事件の解決に貢献している。
 サラ・スペックスのスキャンダル
 スペックスは1617年に日本人女性との間に娘サラをもうけたが、サラはバタヴィアで暮らしていた。1629年6月、サラが12歳のとき、東インド総督邸内で、15歳の少年と関係を持った。このため、少年は斬首、サラも鞭打ちの後、溺死させられるところをかろうじて免れた。スペックスが東インド総督として着任する直前の事件であった。1632年5月、15歳となったサラは35歳の宣教師、ジョルジウス・カンデデュウスと結婚した。あまりの新婦の若さにうわさの種となった。1633年6月サラは夫に伴われ台湾に渡り新港で暮らすこと3年、熱病にかかり、1636年19歳で同地に没した。
  ・  ・  
 レオナルド・キャンプス(Leonard Camps, ? - 1623年11月23日)は、オランダ東インド会社平戸商館の第4代商館長。ヤックス・スペックスの後任として、1621年10月29日から1623年11月21日までその任にあった。キャンプスは1616年初めに来日した。1621年に商館長になると、1622年1月27日に徳川秀忠に拝謁したが、その際にイギリス商館長であったリチャード・コックスを伴ったが、これは両者で武器禁輸解除を請願するためであった。
 キャンプスは貿易額を拡大するため、中国の絹を日本に輸入することを提案した。彼は、マカオにおけるヤン・ピーテルスゾーン・クーンの戦闘行為が、日本との貿易に打撃を与えたと信じた。東インド会社はマレー諸島において中国商人にその活動を阻止されたため、1622年7月に澎湖諸島を占領し、そこをアジア貿易の拠点とした。その後1624年には明軍と8ヶ月に渡る戦火を交えた、両国の間で和議が成立し、澎湖の要塞と砲台を破棄し、オランダ人は台湾に移ることを明朝が認めた。このようにして台湾を占拠することとなったオランダ人は、一鯤鯓(現在の台南市安平区)に熱蘭遮城 (Zeelandia) を築城し、台湾統治の中心とした。
 キャンプスは日本の絹の年間輸入量を180樽と見積もった。1621年から1623年にかけ、毎年14隻以上のオランダ船が平戸に入港した。日本側はその代金を金銀で支払った。1623年、キャンプスは病を得、11月23日に平戸で死亡した。
   ・   ・   ・   
 世界史の窓
 日本からの輸出品として中国にもたらされ、16世紀末~17世紀に世界の銀の3分の1~4分の1を占めた。
 日本は中世以来、銀の産出国であった。15世紀ごろから中国の銀の産出量が減少したため、中国に輸出されるようになった。それを可能にしたのは、16世紀には朝鮮から伝えられた灰吹き法という製錬技術であった。特に石見銀山島根県)は最も早く開発が進み、また生産量も多かった。次いで生野銀山(但馬)、院内銀山(秋田)など、銀山が開発されていった。
 17世紀初頭の最盛期には、日本産の銀は世界の生産量のおよそ3分の1~4分の1を占めていたと考えられている。しかし16世紀後半にはじまるスペインによる新大陸のポトシ銀山の開発から、現在のボリビアやメキシコ産のメキシコ銀が増大し、中国にもたらされてスペイン銀貨にといわれるようになり、日本銀はそれに押されて次第に衰退した。石見銀山豊臣秀吉徳川家康によって直轄銀山として採掘されていたが、江戸時代にはいると鉱脈が絶え、現在は廃鉱になっている。2007年、石見銀山世界遺産に登録された。
┃灰吹き法とその背景
 中世までの銀は、地表に現れた鉱脈を、水がわいたりして掘れなくなるあたりまで掘り進み、掘り出した銀鉱の上に木を積み上げて5日間ほど焼き続けたうえで灰の中に残った銀を取り出す、という低い技術しかなかった。16世紀の中ごろ、朝鮮から伝えられた灰吹き法という精錬法は、まず銀鉱石に鉛を混ぜて一緒に焼き、溶けた鉛の中に銀が混ざって一緒に固まった含銀鉛という金属が出来る。これをコオリという。それを鉄の鍋に灰を一杯入れた上にのせ、灰をたくさんかけ、ふいごで空気を吹き入れて焼くと、酸化鉛が溶けて灰にしみこみ、銀だけが灰の上に浮いたように残る。
 灰吹き法は中国や朝鮮で行われていたが、日本に伝えられてから生産性を高めたのはなぜか。中国と朝鮮の銀は官営の鉱山で行われていたために働く人たちが自立性、自発性を持たず、生産性が上がらなかった。また朝鮮政府はこの技術を秘密にしていたにもかかわらず日本の博多に伝わると、当時の日本での精錬業は職人の小経営で営まれていたため、職人が競って技術を磨き、その精錬法は瞬く間に各地の鉱山に持ち込まれた。16世紀中ごろの日本が農業においても自立した小百姓による小経営が成立していたので、それが新しい技術を受け容れ、発展させた理由であった。またそのような農業・工業における小経営の自立の背景には、農機具や鉱山の採掘道具などに使われた製鉄業の技術革新があった。<山口啓二『鎖国と開国』1993初版 岩波書店 p.p.9-11 2006 岩波現代文庫版>
┃中国で銀の需要が多かった理由
 日本の銀は、中国の浙江や福建など東南海岸地方に直接運ばれるか、朝鮮を通って遼東半島から中国本土へ運ばれていった。当時の朝鮮と明朝は、ともに海禁、つまり民間の貿易には厳しい禁止・制限策をとっていた。
 当時、明で銀の需要が増大した理由は、当時の明の財政が対モンゴル戦争(タタール及び西部のオイラトとの戦い)の必要から銀に依存していたからである。明は貿易の拡大を求めて北方辺境に侵入を繰り返すモンゴル勢力に対抗するため、15世紀後半から万里の長城の整備し、長城に沿って9つの軍管区(九辺鎮)をおき、大量の軍隊を配備したが、内地で銀を税として取り立てそれを北方に運んで現地で必要な軍需物資を買い付けるようになった。銀は軽くて遠くに運びやすいという点で価値が高い金属であった。そのため税や徭役の銀納化が進み、銀の需要が急増しはじめたところに、日本銀の産出が急増したので、「日本から中国に向けての銀の流れが奔流のような勢いで生ずるのは当然であろう」。
 しかし、明朝はその初期から社会経済に対する強い統制・管理政策をとり、朝貢貿易を推進する一方で「海禁」策をとり民間海上貿易は禁止していたので、日本からの銀の流れは阻止されることになった。日本から中国への銀の奔流は、いわば明の築いた“海禁”というダムによって堰き止められていたわけで、このダムを突きくずそうとする勢いのなかで、16世紀の“倭寇”が成長してくる。
 16世紀に倭寇の活動が再び活発になり「後期倭寇」といわれるが、それは日本人だけでなく中国など東シナ海周辺の人々を含む密貿易集団であり、彼らは中国の東南沿岸海域で略奪を行うばかりでなく、同時に彼らのもたらす銀は、この地域の経済の活況の源でもあったのである。<岸本美緒『東アジアの「近世」』世界史リブレット13 1998 山川出版社 p.8-12>
 → 北虜南倭
  ・  ・  
 銀
 金と並ぶ貴金属。貨幣の材料、装飾品、生活器物、さらに工業原料として使用されてきた、人類にとって重要な金属。
 金と並んで古くから貴金属として尊重され、貨幣の原料とされてきた。最も古い銀貨はリディアの銀貨とされ、その影響を受けたギリシアでも銀貨が鋳造された。アテネの所有するラウレイオン銀山では多くの奴隷を使役して、銀が採掘されていた。
 貨幣は小アジアのリディア王国で最初に鋳造されたが、ギリシアにおいても貨幣が発行された。
 ギリシア・ローマではドラクマと言われる銀貨が流通していた。また西アジアではササン朝ペルシア以来、ディルハムと言われる銀貨が現在のイラン・イラクで流通していたが、イスラーム帝国が成立すると、ウマイヤ朝のカリフ、アブド=アルマリクがディーナール金貨とともにディルハム銀貨をダマスクスで鋳造した。

 第Ⅱ部 まとめ 用語リストへ

 銀(ヨーロッパ/ラテンアメリカ
 15世紀末から16世紀前半、西洋における銀生産は南ドイツが中心であった。16世紀中頃からスペイン領南米大陸ポトシ銀山などで大量に産出され、世界に流通するようになった。
┃南ドイツ産の銀の流通
 中世ヨーロッパでは南ドイツのアウクスブルクが銀の産地として知られ、その銀山を所有したフッガー家が巨大な富を築いた。ヨーロッパの銀生産における精錬技術は銀鉱石の銀を水銀でアマルガムとし、水銀を絞り出して銀を取るアマルガム法であった。また銀鉱山ではアルキメディアン・スクリューという排水器を使用していた。これらは日本の銀山にはない、高い技術であった。フッガー家は大規模経営を営んで銀を一手に握り、その銀の力で15世紀末から16世紀中ごろまでのポルトガルやスペインの重商主義政策に基づく海外進出の資金とされた。
 水銀アマルガム法 銀鉱石を砕石して粉末にし、水銀と混ぜて水銀アマルガムを作り、それを熱して銀を得る方法で、その工程は次のように行われた。
 鉱石をハンマーで砕き、銀の含量の高い部分を選別する。
 水車を利用して鉱石を粉砕する。
 鉱石の粉をふるいにかけ、木製か石製の容器で塩水と水銀を加える。
 泥状になるまでよく攪拌し、水銀アマルガムを作る。
 水流で泥を洗い出し、沈殿させて水銀アマルガムを抽出する。
 水銀アマルガムを布でくるみ、水分をとる。
 水銀アマルガムを加熱して銀を分離する。
 水銀アマルガム法は、品位の低い鉱石からも純度の高い銀を抽出できる利点があった。しかし、銀の抽出に不可欠な水銀が安価で安定的に供給される必要があること、粉塵や水銀による健康被害が出ることが問題であった。
┃南米ポトシ銀山
 1555年、セビリア生まれのスペイン人がメキシコのパチェカ鉱山で始めたが、アイデアはドイツ人であったという説もあり不明である。ポトシ銀山では1563年にリマの南西で発見されたウアンカベリカの水銀鉱山の水銀が使われた。水銀アマルガム法が普及すると、銀鉱石・水銀を採掘運搬し、精錬所を作り、水車を動かす水を得るためにダムを造ると行った総合的な開発が必要となった。<青木康征『南米ポトシ銀山』2000 中公新書 p.115>
 銀艦隊と価格革命 大航海時代に入り、アメリカ大陸に進出したスペインは、1545年に発見されたポトシ銀山などを開発、インディオの労働力を用い、水銀アマルガム法の技術で銀の生産を増やしていった。新大陸の銀はスペイン銀と言われて世界中に広がり、大量にヨーロッパにもたらされようになった。アメリカ大陸からヨーロッパに銀を運ぶスペイン船は銀艦隊といわれたが、16世紀末から17世紀にオランダ・イギリスが台頭し、私拿捕船(海賊行為を認められた船)に襲われるようになる。ヨーロッパへの新大陸産の銀の大量流入は、物価を急騰させることとなり、いわゆる価格革命が起こり、ヨーロッパ社会の構造転換の一つの背景となった。銀は世界的にも基本通貨としての役割をもっていたが、その大量流通によって銀価格が下落したため、次第に本位貨幣としての位置づけはなくなり、1816年のイギリスに始まる金本位制に世界の大勢は移行していく。 
 → メキシコ銀  日本銀

 8章1節 用語リストへ

 銀(中国と日本)
 16世紀30年代から、日本の銀生産が急増。明にもたらされ、銀が秤量貨幣として重要な通貨となる。
 明の通貨政策は宋を継承し、初めは銅銭を鋳造していた。洪武帝の洪武通宝をはじめ、歴代皇帝は年号入りの銅銭を鋳造し、そのうち洪武通宝は日本にも多数輸入され、広く流通した。しかし15世紀ごろから生産力の発展に伴って商取引が活発になると、低額の銅での取引は運搬に不便なので、次第に銀が使用されるようになった。16世紀初頭には、まず朝鮮で銀産出が盛んになり、端川(タンチョン)銀山などが開発され、中国や日本に密貿易を通じて流出した。しかし、1530年代から日本で銀の産出が急速に増大した。
┃日本銀の増産
 中国での銀の産出量は少なかったので、1530年代に日本産の銀(日本銀)への需要が急速に高まり、さらに銀生産技術で灰吹き法という製錬技術が広がって急速に増産された。特に石見銀山の銀は中国向けに輸出され、中国にもたらされた日本銀は丁銀(ちょうぎん)といわれ、通貨として広く流通した。16世紀末から17世紀にかけては日本は世界有数の銀生産国となり、中国では新大陸産のスペイン銀貨に代わって輸入量が増加した。しかし、17世紀末ごろから銀鉱脈が枯渇しはじめ、18世紀には日本銀は急速に減少する。
 ※中国で銀の需要が高まった理由 16世紀の明朝は全盛期が過ぎ、モンゴルのアルタン=ハンの侵攻を受け、北方の防備に多額の費用を必要としていた。明政府は北方防備のための費用を、運びやすい銀で賄おうとして銀による課税を強めた。一方、民間では江南の綿業をはじめ生産力が向上し、銀の需要が増大していた。こういった事情から銀が必要とされたにもかかわらず、当時は海禁がとられ、民間貿易は禁止されていた。そのため、海禁を破って日本から銀を密輸入しようという動きが強まり、それが後期倭寇の活発化の意味であった。この時期の倭寇は中国人を主体として日本産の銀を中国に密輸入しようという動きが主たる動機であった。
 <岸本美緒『東アジアの近世』世界史リブレット13 1998 山川出版社 p.8-12> → 北虜南倭
┃新大陸からもたらされた銀
 16世紀に中国貿易を開始したポルトガルとスペインは中国産の絹織物や生糸、陶磁器を買い付け、その対価として銀で支払った。はじめは南ドイツ産の銀を用い、ついで日本との交易で得た日本産の銀を中国にもたらした。ところが、スペインが植民地化した新大陸の南米で1545年に発見されたポトシ銀山、さらにメキシコ産のメキシコ銀の生産量が急増し、それを原料に鋳造されたスペイン銀貨が太平洋貿易(ガレオン貿易)を通じて中国にもたらされるようになった。
 < class="midasi">中国での銀の流通増加
 明では銀貨は発行されず、銀は馬蹄銀と云う形で秤量貨幣(そのつど秤で重さを量る貨幣)として流通した。銀の流通は次第に銅銭を上回り、明清時代を通して中国の基本通貨となった。1580年代に全国に施行された新税制である一条鞭法は、そのような銀の流通に対応し、人頭税(丁銀)と地税(地銀)をともに銀納として一括して納付するものである。
 中国からの銀の流出 17世紀からの清朝でも当初は明代と同じく、銀が一方的に中国に流通する状況が続いた。しかし貿易相手国はポルトガル・スペインからイギリス・オランダ・フランスに移行した。18世紀中ごろ、イギリスに産業革命が始まると、アジア貿易の形態も一変した。イギリスは中国茶の需要増大に伴い、国内の工業製品である綿布の売り込みをはかったが、中国では綿布は売れず、一方的な輸出超過、銀の中国流入が続いた。そこでイギリスは19世紀初めからインド産のアヘンを中国に密輸する三角貿易(17~18世紀)を開始、そのため逆に中国の銀の流出が急激になった。
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🏞113)─2─ロシア軍艦対馬占領事件。文久元年2月3日(1861年3月14日)。~No.447 ㊶ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本領対馬は、古代から、極東アジアにおける最重要軍事拠点であった。
   ・   ・   ・   
 ロシアは、昔から油断も好きもない信用ができない仮想敵国であった。
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 日本が教訓とすべきは、アヘン戦争に敗れて衰退した清国(中国)ではなく、臣下のマハラジャ藩王)に裏切られて滅亡したムガル帝国であった。
   ・   ・   ・    
 外国奉行小栗小栗上野介忠順と箱館奉行村垣淡路守範正も英艦の派遣を聞いて「前門の虎を追い出して、後門に狼を招くようなもの」と反対した。
 小栗上野介と艦長ビリレフ 第2回会談
 ビリレフ「船の修理をしていたらちょうどそこへ(リハチョフ)提督から命令があって、修理滞泊のついでに海図を作成するように言ってきたのだ。それに英仏もこの地を狙っているから、我々がいる間は、両国も手を出すことはできないだろう」
 小栗「そういう話なら、ロシア政府から直接わが政府に申し出るべきではないか」
ビリレフ「それはわかっているけれど、私からは答えられないから、詳しいことは提督かゴシケビッチから話があると思うから、そっちから聞いてくれ」
(日野清三郎『幕末における対馬と英露』)
   ・   ・   ・   
 ロシア軍艦ポサドニックは「英艦が行ったから退去した」は誤り。
   ・   ・   ・   
 昔の日本人は現代の日本人とは違う日本人であった。
 当時の日本民族日本人で、現代日本人の親中国派・媚中派やリベラル派・革新派のように日本の敵に味方を売り、母国を裏切る者は一人もいなかった。
 日本民族日本人は、祖先から受け継いだ国土を、寸土の土地も、離れ小島さえも、武器も取り、命を捨てても守り通していた。
 日本民族日本人とは、国益を守る為ならば戦争も辞さない人間であった。
 昔の日本人であれば、日本国土内に外国人租界や外国人自治区など認めはしなかった。
 何故なら、昔の日本人は、ローカルな人間でグローバルな人間ではなかったし、ムラ人であって都会人ではなかったからである。
 現代日本人は、グローバルな都会人が好きで、ローカルなムラ人を「ド田舎者」と嫌う。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 ロシア軍艦対馬占領事件は、幕末にロシア帝国の軍艦が対馬芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留した事件。ポサドニック号事件とも呼ばれる。
 経過
 ロシア軍艦の進出
 文久元年2月3日(1861年3月14日)、ロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリリョフは軍艦ポサドニック号で対馬に来航し、尾崎浦に投錨し測量、その後浅茅湾内に進航した。
 ロシア艦隊の中国海域艦隊司令官であったイワン・リハチョーフ大佐は、不凍港を確保するため対馬海峡に根拠地を築くことを提案したが、日本との関係が悪化することを懸念したロシア政府はリハチョーフの提案を拒絶。しかし、海事大臣であった大公コンスタンチン・ニコラエヴィチが、対馬への艦隊派遣を許可させたため、リハチョーフ司令官の命令によりポサドニック号が派遣されたのであった(南下政策・帝国主義も参照)。
 ポサドニック号が尾崎浦に投錨すると、藩主宗義和は重臣を急派し、非開港場投錨の非を責め、速やかに退帆するよう抗議した。しかしビリリョフ艦長は船が難破して航行に耐えられないので、修理のために来航した旨を回答し、さらに修理工場の設営資材や食料・遊女を要求した。
 3月4日には芋崎に無断で上陸して兵舎の建設などを始めた。その後、船体修理を名目に工場・練兵場などを建設する。
 
 対馬藩との交渉
 対馬藩内では対応を巡って、武力での排撃を主張する攘夷派と紛争を避けようとする穏健派で論争が起こり藩内は混乱した。宗義和は事を荒立てず穏便に解決しようと接しながらも、問状使をポサドニック号に派遣し、その不法を何度か詰問した。しかしロシア側は無回答を貫き、優勢な武力をもって日本側を脅かしたり、住民を懐柔したりし、木材・牛馬・食糧・薪炭を強奪または買収して滞留の準備を整えた。またロシア水兵は短艇を操って沿岸を測量し、山野を歩き回って野獣を捕獲したり、中には婦女を追跡して脅かす水兵もいたため、住民は激昂し、しばしば紛争が起こった。
 ビリリョフ艦長は対馬藩に対し藩主への面会を再三要求し、3月23日には芋崎の租借を求めて来た。ロシア側としては強引に対馬藩に租借を承諾させ、これを既成事実として幕府に認めさせる思惑であった。対馬藩では対応に苦慮し、面会要求を拒否しつつ、長崎と江戸に急使を派遣して幕府の指示を仰いだ。
 4月12日、ロシア兵が短艇に乗り大船越の水門を通過しようとしたのを対馬藩の警備兵が制止すると、ロシア兵は警備兵・松村安五郎を銃殺、さらに郷士2名を捕虜として拉致し、軍艦に連行した。内1名(吉野数之助)は舌を噛み切って自殺した。ロシア軍の暴挙はこれにとどまらず、番所を襲撃し武器を強奪し、数人の住民を拉致し、7頭の牛を奪って帰船。さらに翌日には水兵100余人を派して大船越の村で略奪を行った。
 宗義和はポサドニック号に速やかに退去することを要求しながらも米・塩・薪炭を贈り懐柔を図った。紛争を避けるため藩内士民には軽挙を戒める一方で、密かに沿岸に砲台を築造し事態に備えた。また、宗氏の所領の肥前田代では代官平田平八が手兵を率いて対馬に渡り、ロシア兵を討つ気勢を示した。

 幕府の対応
 長崎奉行・岡部長常は対馬藩に対し紛争を回避するように慎重な対応を指示する一方で、不法行為を詰問する書をビリリョフ艦長に送り、佐賀、筑前、長州をはじめ隣藩諸侯に実情を調査させ、対策を議したが有効な手は打てなかった。
 幕府は報告を受けて驚き、箱館奉行・村垣範正に命じて、同地駐在のロシア総領事ヨシフ・ゴシケーヴィチにポサドニック号退去を要求させる。また外国奉行小栗忠順を咸臨丸で対馬に急派して事態の収拾に当たらせた。
 文久元年5月7日、目附溝口八十五郎などを率いて対馬に到着した小栗忠順は、5月10日、艦長ビリリョフと会見した。この第一回の会談でロシア側は贈品謝礼を口実に藩主への謁見を強く求め、小栗は謁見を許可する旨を回答。5月14日、第二回の会談で小栗はロシア兵の無断上陸を条約違反であるとして抗議。5月18日、第三回会談で藩主謁見の実現を求めるビリリョフに対し小栗は(老中安藤信正に謁見は対馬居留を認めることになるので許可できないといわれたので)前言を翻し謁見はできないと回答。話が違うとビリリョフは猛抗議を行ったが、小栗は「私を射殺して構わない」と言い切り交渉を押し切った。5月20日には小栗は対馬を離れ江戸に向かった。
 江戸に戻った小栗は、老中に、対馬を直轄領とすること、今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと、国際世論に訴えることなどを提言。しかし老中はこの意見を受け入れず、小栗は7月に外国奉行を辞任することになる。
 5月26日、交渉に行き詰まった対馬藩では藩主謁見を実現せざるを得なくなり、ビリリョフは軍艦を府中に回航し、部下を従えて藩主宗義和に謁し、短銃、望遠鏡、火薬および家禽数種を献じ、長日滞留の恩を謝した。しかしロシア側は芋崎の永久租借を要求し、見返りとして大砲50門の進献、警備協力などを提案した。対馬藩側では幕府に直接交渉して欲しいと回答して要求をかわした。沿道警備にあたった藩内士民はロシア兵の傲岸な態度に激怒したが、辛うじて事なきを得た。

 イギリスの介入
 7月9日、イギリス公使ラザフォード・オールコックイギリス海軍中将ジェームズ・ホープが幕府に対し、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案、老中・安藤信正らと協議する。
 7月23日、イギリス東洋艦隊の軍艦2隻(エンカウンター、リンドーブ)が対馬に回航し示威行動を行い、ホープ中将はロシア側に対して厳重抗議した。しかし実はこの時点においてオールコックも、イギリスによる対馬占領を本国政府に提案していた(8月2日付・坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社)。
 また老中・安藤信正は再度、箱館奉行・村垣範正に命じてロシア領事に抗議を行わせた。これまでビリリョフの行動をそのままにさせていたロシア領事ゴシケーヴィチは、イギリスの干渉を見て形勢不利と察し、軍艦ヲフルチニックを対馬に急派し、ビリリョフを説得。文久元年8月15日(1861年9月19日)、ポサドニック号は対馬から退去した。
 9月、外国奉行野々山兼寛らは幕命を奉じて対馬渡航し、箱館談判の決議にもとづいてロシア艦滞泊後の善後処置に任じ、ロシア人の造営物は破壊し、その材料は長崎に保管した。
 ロシア側の意図は、極東での根拠地獲得、南海航路の確保だったといわれ、当時アジア一帯に広大な植民地を持っていたイギリスに先を越され、対馬を租借されるのを恐れていたとされる。
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 海軍大臣コンスタンチンは皇帝の弟
 「大名との取引で・・・外交の形式をとらず…」
 海軍大臣コンスタンチンからリハチョフ提督宛 指令書
 「…日本帝国の封建制度は、君が中央政府と関係することなしに現地の大名、あるいは領主との友好的な取引だけで済ませることができるという意味で今回の問題の助けとなるかも知れません。君が執り行う交渉はすべて、決して外交の形式を取ってはならず、初めは現地政権とわが国艦隊との個別取引の形で行われなければなりません。・・・」
(万延元年(1860)年六月二十一日)(伊藤一哉『ロシア人の見た幕末日本』吉川弘文館2009年)
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 「滞泊の既成事実を積み上げ・・・対馬藩との海軍の私的契約で基地を設立・・・外交は必要ない・・・」
 海軍大臣コンスタンチンからリハチョフ提督宛書簡
 外務大臣ゴルチャコフは、……この問題を外交問題としてではなく、純粋に海軍の問題にする、それ故に問題をあなたに一任すると話を結びました。私はもちろん、この展望を非常に喜び、ベターだとすぐに同意しました。それ故私はあなたに手紙を書きます。
 この問題は外交的条約ではなく、海軍の私的契約という性格を持たなければなりません。問題は、我々がこの島に海軍の基地、自由港を設立できるかどうかということであります。そのためには、どのような外交も必要ではありません。
 これを、あなた自身より上手にやれる人はおりません。もし、あなたが、対馬当局との地方的交渉に限定できるか、あるいはなんの交渉もなしに既成事実を積み上げる方がよいでしょう……
岡山大学保田孝一編著『文久元年の対露外交とシーボルト』)
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 リハチョフから艦長ビリレフへの命令書 <極秘>
 艦長ビリレフ
 …領事ゴシケヴィチ氏を箱館に送り届けたら、時を失うことなく朝鮮海峡対馬に行って下さい。…できるだけ早く上記の湾に到着し、そこにコルヴェット艦を停泊させ、この湾から始めて対馬全体の、さらには朝鮮海峡両岸の詳細な航路調査にすぐ取りかかって下さい。言うまでもないことですが、両側の航路の調査に限定するだけでなく、この辺境の状態と資源について必要な情報をすべて集めるように努力して下さい。仕事を急ぐ必要はないから、すべて詳細に仕事を進めるように注意して下さい。
コルベット艦の修理が必要なら、この美しく、外洋からまったく閉鎖されている湾に停泊していることを利用して下さい。…以下略‥
(露暦1861年2月2日長崎にて・極秘・『文久元年の対露外交とシーボルト』保田孝一編著)
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 外務大臣ゴルチャコフは皇帝の前で、北京領事イグナチェフ箱館領事ゴシケヴィチを巻き込まないよう、海軍大臣コンスタンチンに釘を差している
 (ゴルチャコフは)この問題を誰に任せてよいかはっきり判らないと言い、イグナチェフに任せることを欲しないと 断固として言いました。この席で彼はイグナチェフをこの問題から解放するように私に願い、この問題を外交問題としてではなく、純粋に海軍の問題にする、それ故に問題をあなたに一任すると話を結びました。私はもちろん、この展望を非常に喜び、ベターだとすぐに同意しました
海軍大臣コンスタンチンからリハチョフ提督宛書簡・岡山大学保田孝一編著『文久元年の対露外交とシーボルト』)
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 リハチョフ提督から海軍大臣コンスタンチンあての報告書
 (同年12月{8月に退去した後}のリハチョフ提督から海軍大臣コンスタンチン宛の報告書)
 「ロシア海軍対馬藩主との私的契約で進めるべき今回の交渉が、ロシア政府が望んでいなかった外交的土壌に移った…ので、支障が生じてポサドニク艦を引き揚げさせた。」
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 海軍大臣コンスタンチンからリハチョフ提督宛書簡
 外務大臣ゴルチャコフは、この問題を誰に任せてよいかはっきり判らないと言い、イグナチェフに任せることを欲しないと 断固として言いました。この席で彼はイグナチェフをこの問題から解放するように私に願い、この問題を外交問題としてではなく、純粋に海軍の問題にする、それ故に問題をあなたに一任すると話を結びました。私(海軍大臣コンスタンチン)はもちろん、この展望を非常に喜び、ベターだとすぐに同意しました。
岡山大学保田孝一編著『文久元年の対露外交とシーボルト』)
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 在箱館の英国領事ホジソンは『長崎箱館滞在記』で「対馬支配下にすべき」と書き「吾人(英国)の急務は対馬をベリム島となすにある」と述べた。
 ベリム島とは、紅海からアデン湾への出口にある英領の小島である。
 英領事ホジソン『長崎箱館滞在記』
 われわれにとって肝要な点は、疑いもなく対馬島を視界に入れることである。同島はどんな軍艦にも役立つ左右に出口を持ったすばらしい港を持ち、木材や水があり、われわれを歓迎してくれる住民は、この上なくもてなしがうまい民族で氷に覆われた満州と中国の絹生産地を結ぶ大そう優雅で重宝なはね橋の役を果たす。
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 英国公使オールコックから外務大臣ラッセル宛報告書
 予は露国が着手する数年前に、他の西欧強国が同島に先鞭を著けずして放置したるを奇異に感ずるものである・・・略・・・露艦の不法を詰って退去を迫り、若し露艦がこれを拒む場合は、英国自身がこれを占領すべきである。
 その手段としては、日本政府に条約履行の保証と大阪・兵庫の開市開港とを強要し、これを容れざる時は、従来の条約違反に対する賠償として割譲せしむべきである。
(大塚武松『幕末外交史の研究』宝文館・昭和27年)
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 文化露寇事件。(シャナ事件・北辺紛争・フヴォストフ事件)。 
 日本の陰暦……文化4年4月23日〜文化4年5月1日。
 西洋の太陽暦…1807年5月30日〜1807年6月6日。
 ウィキペディア
 樺太への襲撃 文化3年9月11日(1806年10月22日)、樺太の久春古丹に短艇で上陸したロシア兵20数名は、銃で威嚇して17、18歳のアイヌの住民の子供1人を拉致した。13日にも30数人の兵が再び上陸し運上屋の番人4名を捕えた後、米六百俵と雑貨を略奪し11箇所の家屋を焼き、魚網及び船にも火を放ち、前日拉致した子供を解放して帰船。ロシア側本船は17日に出帆しその地を去った。船を焼失した影響で連絡手段が絶たれたため、翌年4月になってこの事件が松前藩及び幕府に報告された。
 シャナ事件 文化4年4月23日、ロシア船二隻が択捉島の西、内保湾に入港した。番人はこれを紗那の幕府会所に通報した。紗那は幕府会所のある同島の中心地であり津軽南部藩兵により警護されていた。箱館奉行配下の役人・関谷茂八郎はこの報に接し、兵を率いて内保まで海路で向かうがその途中、内保の南部藩の番屋が襲撃され、中川五郎治ら番人5名を捕え米、塩、什器、衣服を略奪して火を放ち、本船に帰り既に出帆したとの報を受ける。関谷は内保行きを中止して紗那に戻り、その守りを固める。
 影響
 この事件は、爛熟した化政文化の華が開き、一見泰平にみえる日本であらためて国防の重要性を覚醒させる事件となった。江戸幕府の首脳はロシアの脅威を感じることとなり、以後、幕府は鎖国体制の維持と国防体制の強化に努めた。また、日露関係の緊張によって、幕府は自らの威信を保つためにも内外に対して強硬策を採らざるを得なくなった。このことは1811年のゴローニン事件の原因となった。さらに、この事件は平田篤胤国学を志すきっかけとなったともいわれている。
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 文化5(1808)年 幕府は、蝦夷地(北海道)・北方領土樺太防衛強化の為に、東北諸藩に対して前年07年の派兵約3,000人に対し更なる増派を命じた。
 東北諸藩は、ロシアの侵略に備えて蝦夷地・北方領土に合計約4,000人の兵士を送った。
 アイヌ人は、日本の敵か味方か。
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 安政元(1854)年 イギリス軍艦アクティオン号は、ロシア帝国が南下して日本海を制圧する事を警戒して、日本領である対馬を測量した。
 イギリスやフランスは、日本にはロシア帝国の侵攻を防ぐ軍事力がないと分析し、非公式の雑談的な会話として幕府に対して対馬租借を持ち出していた。
 横井小楠は、フランスが対馬租借を申し込んでいる事を書き記した。
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 安政元(1854)年 イギリス軍艦アクティオン号は、ロシア帝国が南下して日本海を制圧する事を警戒して、日本領である対馬を測量した。
 イギリスやフランスは、日本にはロシア帝国の侵攻を防ぐ軍事力がないと分析し、非公式の雑談的な会話として幕府に対して対馬租借を持ち出していた。
 横井小楠は、フランスが対馬租借を申し込んでいる事を書き記した。
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💖35)─1─中国共産党の「国家安全法」と香港人そして日本。〜No.147No.148No.149No.150 終わり。

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 中華世界(中国や朝鮮)は、「飛んで火に入る夏の虫」として殺し、身包みを剥ぎ、死体を打ち捨てて獣食わせる非情な世界である。
 日本は、「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」として助ける温情の世界であった。
 中華世界と日本は、正反対に近いほど違うのである。
   ・   ・   ・   
 現代日本人は昔の日本人とは別人のような日本人である。、
   ・   ・   ・   
 戦前の君側の奸と、現代の官邸官僚とは全く異質の存在である。
   ・   ・   ・   
 戦前の日本人は、言霊を信じて不言実行であった。
 現代の日本人は、言霊を信じず有言不実行である。
   ・   ・   ・   
 2020年7月1日 msnニュース ハフポスト日本版「「日本は香港人の移住先として対応を」国家安全法を受け、“犯罪者認定”覚悟で在日香港人たちが記者会見
 香港での中国政府への転覆や分裂行為などを禁止する「国家安全法」が成立したの受けて、在日香港人でつくる団体などが1日、記者会見を開いた。
 このなかで、登壇した在日香港人は、法律により「何も知らされないまま自由と未来が奪われた」と訴えたうえで、今後日本を目指す移住者が増えるとし、移住条件の緩和を含めた早期の対応を求めた。
 ■黒いパーカーを深くかぶり...
 会見を開いたのは在日香港人でつくる団体「香港の夜明け」と日本ジャーナリスト協会。会見では在日香港人3人が登壇し、国家安全法ついて「何も知らされないまま、自由と未来が奪われました。ですが、我々香港人は決して屈しません」と話した。
 別の登壇者は「中国政府はその気があれば誰でも該当者にすることができる。ここで記者会見を行うことも国家安全法に違反しています。私たち自身が犯罪者と認定されます。私たちは覚悟したうえで記者会見を決行し、変わらず香港と共に戦います」と危険性を訴えた。実際に適用されるかは、条文からも明確な判断はできない。
 また、民主派団体「デモシスト」が解散した理由について「メンバーの安全を大前提に考え、やむを得ない選択をしたといえる」と説明した。
 国家安全法の38条にある規定では「中国以外の国籍でも安全法が適用される」とし、「れっきとした世界各国の国民への脅威。各国の政府や議員は直ちに対応策を」と呼びかけた。
さらに、香港人の移住先の選択肢として日本が挙がる可能性にも言及。「移民が短時間で日本に入ることになります。亡命するときも、地理的条件や政策も考慮しますが、民主主義がよく機能している日本が特に選ばれるでしょう」とした。そのうえで「日本は一気に迫ってくる移住申請を処理しなくてはなりません」とし、移住条件の緩和を含めた対応策の早期整備を求めた。
 このあと、自民党中谷元・元防衛大臣がマイクを握り「香港の人々の自由と民主主義を守るため、強権的な国家主義に激しく抗議し是正を求めたい。多くの国会議員の賛同を得て行動して参りたい」と話した。
 また、自民党山田宏参議院議員は「日本国内の民主主義や表現の自由への直接の挑戦であり、看過できない」と法律を批判した。
 続いて、国民民主党山尾志桜里衆議院議員は、法律施行後第一号の逮捕者が出たことに触れ「外のものが批判すると“内政干渉”とよくいわれるが、国家による自国民への人権侵害に、国際社会が声をあげることは内政干渉ではない」と主張した。
 登壇した在日香港人はマスクを身につけて会見に臨み、黒いパーカーのフードを深くかぶる人もいた。写真撮影は認められたが、登壇者の名前は匿名のまま行われた。
 国家安全法が適用されるリスクを犯してまでも会見を開いた理由について、3人はそれぞれ次のように答えた。
 「ここで歩みを止めるのは負けだと思う。法律に怯えて民主を諦めたと思われてしまう。民主化された香港を見てみたいという思いでここにいます」
 「無視することは容易いが、それでは人として何かを失う。仲間を見捨てることになるし、そんな人間になった覚えはありません」
 「今は日本が好きで就職しています。香港に戻るのは困難かもしれないが、できる限りここから香港をサポートしたいんです」
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 7月2日11:10 産経新聞尖閣周辺に中国船 80日連続 機関砲も
 尖閣諸島を含む東シナ海上空。手前から南小島、北小島、魚釣島海上自衛隊の哨戒機P-3Cから=沖縄・尖閣諸島、平成23年10月(鈴木健児撮影) 
 尖閣諸島沖縄県石垣市)周辺の領海外側にある接続水域で2日、中国海警局の船4隻が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認した。尖閣周辺で中国当局の船が確認されるのは80日連続。平成24年9月の尖閣諸島国有化以降で、最長の連続日数を更新した。
 第11管区海上保安本部(那覇)によると、1隻は機関砲のようなものを搭載。領海に近づかないよう巡視船が警告した。」
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 7月1日21:28 産経新聞「香港国安法施行 各国や台湾、非難と懸念の声噴出
 香港返還から23年を迎えた1日、香港国家安全維持法に反対する行進の最中、拳銃型催涙スプレーを構える警察官に取り押さえられた男性(ロイター)
 「香港国家安全維持法」を施行した中国に対し、各国・地域からは非難や懸念の声が噴出した。
 ポンペオ米国務長官は6月30日に発表した声明で「中国共産党体制は香港の繁栄の基盤を骨抜きにし、一国二制度を一国一制度に変貌させた」と指摘した上で、「トランプ大統領の指示に基づき、香港に特別に与えてきた措置を一部の例外を除き廃止する」と言明した。
 香港の旧宗主国、英国のラーブ外相は同日、自身のツイッターで「中国は香港の人々との約束を破り、国際社会に対する義務に背く道を選択した」と非難。「英国は香港市民に対して果たしてきた責任に背を向けない」と表明した。
 台湾の蔡英文総統は1日、自身のフェイスブックで「本日、私たちが香港を支援する『サービス交流事務所』が正式に運営を開始した。台湾の政府と民間が力を合わせ、香港の人々に最も力強い支持をしていく」と発信した。
 1日付の台湾紙、自由時報は社説で「習近平国家主席の中国は、今の世界にとっての時限爆弾だ。香港が悲惨な運命をたどったが、台湾も決して安泰ではない」と警鐘を鳴らした。
 オーストラリアのペイン外相は1日の声明で、「豪州は多くの国際的パートナーとともに、深い懸念を表明する」と中国を批判し、「香港の司法の独立性や、香港の成功を支えている権利と自由に影響を及ぼすことを憂慮する」とした。
 韓国の外務省報道官は施行前の6月30日の定例記者会見で、「香港はわれわれと密接な人的・経済的な交流関係を持つ重要地域で、韓国政府は動向と(国家安全維持法の)影響を鋭意注視している」と述べ、中国政府への批判を避けた。
(ワシントン 黒瀬悦成、ロンドン 板東和正、台北 矢板明夫、シンガポール 森浩、ソウル 桜井紀雄)」
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 6月30日 産経新聞「台湾の蔡総統「台湾での一国二制度が不可能と証明」 香港安全維持法可決で
 【台北矢板明夫】中国の全国人民代表大会全人代)常務委員会が「香港国家安全維持法」を可決、成立させたことについて、台湾の蔡英文総統は30日、「非常に失望している。一国二制度が実現不可能であることを証明するものだ」と述べた。中国の習近平国家主席は昨年1月、台湾に対して香港と同じ「一国二制度」方式による中国との統一を呼び掛けたが、今回の法制定により台湾で中国への不信感がさらに高まりそうだ。
 親中派とされる台湾の野党、中国国民党も30日、「香港国家安全維持法によって香港社会に対立と衝突をもたらす可能性がある。香港司法の高度な自治が守られるべきだ」との声明を発表し、中国の強引なやり方を暗に批判した。
 台湾行政院(内閣に相当)は同日、香港訪問に伴う「起こり得るリスク」を警戒するよう市民に呼び掛けた。具体的なリスクについては言及しなかったが、これまで中国を訪問した台湾の人権団体の関係者が「スパイ容疑」などで逮捕、起訴されたことがあり、同法が施行されれば、香港滞在中の台湾人が政治的な言動によって、摘発対象となる可能性があると注意を促したとみられる。
 一方、台湾では中国当局に抗議する香港市民を支援する輪が広がっている。台湾で対中政策を主管する大陸委員会は7月1日から「香港サービス交流事務所」を設け、台湾への移民、留学、投資を希望する香港市民や企業への支援を本格的に始める。香港市民から相談を受けるホットラインも設け、台湾に移転したい香港企業、国際組織を積極的にサポートする。
 台湾当局関係者の間では、中国の習近平政権が香港の次に、台湾に対して強引に統一攻勢を仕掛けるのではないかと懸念する声も高まっている。全人代で、台湾との統一を念頭に「国家統一法」を制定する動きが数年前から始まっていることもあり、台湾の与党、民主進歩党の関係者は「『国家統一法』を阻止するためにも、今はしっかりと香港の民主派を支援しなければならない。香港を支持することは台湾を守ることだ」と話している。」
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 日本は、中国や朝鮮からの難民が大量に逃げ込んでいた。
 日本は、古代から中国大陸や朝鮮半島から逃げてきた敗者や弱者を差別せず受け入れ、保護し、土地を与えて定住させ、知識や技術などのに合った職業を与えて安定した生活を保証し、才能・能力に見合った役職を与えて登用した。
 逃げてきた敗者や弱者を、渡来人ではなく帰化人といった。
 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に粉骨砕身よく働いた。
 対して、渡来人は天皇への忠誠を拒否し、日本国の国益・公益ではなく自分の個人益・私益のためだけに行動し、駿河や伊豆などの関東以北で反乱を繰り返していた。
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 香港人・台湾人・一般中国人と中国共産党員・中国軍人・中国民兵・中国秘密結社構成員とは、別人の中国人である。
 当然、チベット人、モンゴル人、ウイグル人少数民族は中国人(漢族系中国人)ではない。
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 現代日本には、中国共産党に忖度し、日本の国益や日本人の利益より中国の為に働く親中国派・媚中派やリベラル派・革新派が数多く存在する。
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 現代日本人には憐憫の情はなく、迫害されている香港人・台湾人やチベット人、モンゴル人、ウイグル人少数民族に冷淡で、決した助けようとはしない。
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 日本民族日本人は、乱婚を繰り返して生まれた混血(ハーフ)の雑種民族で、単一の純血な純粋種民族ではない。
 日本民族日本人特有の多角的視点、多元的認識、多種的思考、多様的行動、つまり主体性がなく、捉えどころのない、あやふやで、曖昧で、いい加減で、ハッキリしない、適当なのは混血の雑種民族であるがゆえである。
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 近代になってから日本に逃げてきたのは、中国の孫文ら革命派、朝鮮の金玉鈞ら開化派・独立派、東南アジアの植民地支配抵抗派・独立派・民族主義者などであった。
 日本の右翼・右派、アジア主義者、民族主義者、国粋主義者軍国主義者らは、彼らを保護し、生活支援・活動資金援助をし、武装独立運動に積極に協力した。
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 オトポール事件
 ハルビン特務機関長・樋口季一郎と満鉄(松岡洋右総裁)は、ヒトラーナチス・ドイツから逃げてきたポーランドユダヤ人難民がソ連領オトポールで凍死・飢餓寸前であったところを助けた。
 松岡洋右ヒトラー如きなり上がり者が皇国に指図するなど永遠にありえない」
 「ヒトラー如きなり上がり者が皇国に指図するなど永遠にありえない」
 樋口季一郎「小官は小官のとった行為を決して間違ったものではないと信じるものです。満州国は日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもないはずである。法治国家として、当然とるべきことをしたにすぎない。たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない」
「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることは正しいと思われますか?」
 関東軍参謀長・東條英機は、東京の陸軍省参謀本部・外務省・政治家ら親ドイツ派からの圧力を拒否してポーランドユダヤ人難民を助け続けた。
 ポーランドユダヤ人難民保護は、口に出したわけではなく、命令したわけではなく、心で思っていたのが昭和天皇であった。
 東条英機松岡洋右らは、昭和天皇の思いにを叶えるべく命を捨ててまでポーランドユダヤ人難民達を助けていた。
 昭和天皇は、米英協調派で戦争回避の平和主義者で、人を騙し人を殺し人のモノを奪うナチズムのヒトラー共産主義スターリンも嫌っていた。
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⚔14)─2─イエズス会の陰謀。日本征服計画。日本キリスト教国家計画。アイヌや琉球への布教。~No.49No.50 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 西洋人、白人キリスト教徒から見れば、日本人はアフリカ人(黒人)同様の文化教養なき野蛮人、人間の姿をした獣でしかなかった。
 それ故に、日本人をアフリカ人同様に奴隷とした。
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 イエズス会宣教師で、日本をキリスト教国家に作り変えようとしたのは、フランシスコ・ザビエルではなくフランシスコ・カブラルであった。
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 ローマのバチカンには、戦国日本に関する詳しい情報を宣教師の膨大な報告書から沿っていた。
 宣教師達の報告書は、バチカンの書庫の奥に眠っている。
   ・   ・   ・   
 神に仕えるバチカン市国ローマ教皇庁は、情報を軽視する現代の日本とは違い、いい情報も悪い情報も全て報告者や公文書として保管している。
 賢いか愚かかは、自ずと分かる。
 ローマ・カトリック教会の歴史は2020年と古いが、現代日本の歴史は75年と新しい。
 歴史の新しい現代日本には、伝統など存在せず、その為に自分に都合の悪い情報を包み隠さず未来の子孫に残すという覚悟が稀薄である。
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 日本に渡来した宣教師は、隣人愛の信仰と博愛の福音を伝道する使徒ではなかった。
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 2020年6月28日 NHK SPECIAL
 戦国 ~激動の世界と日本~ 
 第1集 秘められた征服計画
 織田信長×宣教師
 世界各地で「日本の戦国時代」に関する発見が相次ぎ、大航海時代のヨーロッパと日本が強く結びつき、地球規模で歴史を揺るがしていた事実が明らかになってきた。第1集は、織田信長豊臣秀吉の時代。ヨーロッパの16世紀の文書が公開され、信長・秀吉と、来日したキリスト教の宣教師、そして背後にいたポルトガルやスペインとの深い繋がりが見えてきた。それぞれの思惑と、熾烈な駆け引きを描く。ナビゲーターは西島秀俊さん。
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 テレビドカッチ
 西島秀俊織田信長豊臣秀吉と宣教師らの熾烈な駆け引きに迫る!『NHKスペシャル
 バラエティ
 2020.06.27 up
 西島秀俊が番組ナビゲーターを務め、地球規模の歴史から日本の戦国時代の新たな姿を描くシリーズ『NHKスペシャル 戦国 ―激動の世界と日本―』(NHK総合)の第1集が、6月28日(日)21時から放送される。第1集では「秘められた征服計画 織田信長×宣教師」と題して、織田信長豊臣秀吉、来日した宣教師、ヨーロッパ諸国の間で繰り広げられた熾烈な駆け引きが描かれる。
 今、世界各地で「日本の戦国時代」に関する文書などの発見が相次ぎ、その知られざる姿が明らかになってきている。浮かび上がってきたのは、「大航海時代」のヨーロッパ諸国と日本が強く結びつき、互いに影響を与えながら、日本と世界の歴史を大きく揺るがしていたという事実だ。
 天下統一にひた走る信長から、あとを継いだ秀吉までの時代。ヨーロッパで公開された16世紀の文書からは、信長や秀吉と、来日したキリスト教の宣教師、そしてその背後にいるポルトガルやスペインとの深い繋がりが見えてきた。宣教師は、アジアの覇権を握るための壮大な計画を抱いて、信長、秀吉と結びつく一方で、水面下で熾烈な駆け引きを繰り広げていて……。スタジオでは、高精細CGで戦国日本と世界が織りなすグローバル・ヒストリーを紹介する。
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 織田信長が使用した火縄銃の銃弾や火薬は、宣教師を通じて白人キリスト教徒商人から購入していた。
 銃弾は、タイの鉱山で採掘した鉛で生産されていた。
 火薬は、明国で生産されていた。
 明国は、火薬の原料である硫黄を最初は琉球から、後に白人キリスト教徒商人を通じてキリシタン大名から輸入していた。
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 加賀百万石異聞「高山右近」 加賀百万石紀行
 北國新聞朝刊(2002/08/06付)~ 中国征服計画 ~
 僧衣の下に隠された鎧 「サムライを派兵せよ」
 三池カルタ記念館に展示されている、ポルトガル人が船中でカルタを楽しむ様子を再現したジオラマ
 世界史に言う大航海時代、西欧の超大国だったポルトガルとスペインは、世界を二分する領土分割線を定めた。アフリカ大陸の西に南北線を引き、これより東側で発見された島や大陸はポルトガル領、西側はスペイン領とする身勝手な取り決めである。これを「トルデシリヤス条約」という。
 東回りと西回りで始まったポルトガルとスペインの領土拡張競争は、やがて地球をひと回りし、東アジアで衝突する。トルデシリヤス条約では明確になっていない東アジアの権益をどちらが得るかが焦点になった。
 豊臣秀吉が天下を手中に収めたころ、既に新大陸はスペインの専有下にあり、インドや東南アジアの権益はポルトガルが握っていた。残された「蜜の流れる地」は、イスラム諸国を除けば東アジアの2つの大国、世界有数の銀の産出国であった日本と、高度な文明を背景に巨大な富を有する中国だけといってよかった。
 世界史の規模で眺めたとき、秀吉の伴天連(バテレン)追放令は、ポルトガルとスペインの野望を打ち砕く鉄槌(てっつい)であった。宣教師たちは、両国の領土拡張競争において、実質的な水先案内人の役を果たし、植民地化に手を貸していたからである。実際、アジアに進出したイエズス会宣教師たちは、スポンサーであるポルトガル国王やスペイン国王あてに、日本や中国の武力征服の可能性について、現地駐在武官さながらの詳細かつ具体的な報告書をしたためている。
 ポルトガルが日本との交易に使った「ナウ型帆船の模型」(大分県臼杵市役所所蔵)。宣教師もこれに乗って来日した。日本人奴隷も運ばれたという
 イエズス会東インド巡察師の肩書を持ち、日本に3年滞在したアレッサンドロ・ヴァリニャーノはフィリピン総督に書簡で「日本人は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので征服できない。だが、中国を征服するとき、日本は時とともに、非常に益することになるだろう」と書いた。
 日本布教長だったカブラルは、スペイン国王にあてた書簡で「多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で中国を征服できる」と断じ、「これだけの軍勢や軍艦が調達できない場合は、日本に駐在しているパーデレ(神父)たちが容易に2、3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるであろう。彼らは大変勇敢な兵隊であり、わずかな給料で陛下にご奉公するだろう」と記している。
 宣教師たちは、日本の武力征服は無理でも、戦国動乱に慣れた日本のサムライをもってすれば、中国の征服は可能だと見ていた。勇敢な日本人を傭兵のごとく扱い、中国を占領する。その先兵として脳裏に描いていたのは、キリシタン大名だった。日本のキリシタン大名が大勢力になれば、日本人をして日本人と戦わしめ、スペインがキリシタン大名を支援するかたちで日本を支配下に置くことも可能と考えていたはずである。
 秀吉が当時の世界情勢をどこまで掌握していたかは不明だが、宣教師たちの振る舞いに危険なにおいをかぎとったのは間違いない。事実、ヴァリニャーノは、秀吉の伴天連追放令は、カブラルの後を継いで日本準管区長の職に就いたガスパル・コエリエの「思慮を欠いたある種の軽卒な振る舞いが非常で重要な契機」となったと非難し、次のように記している。
 福岡県大牟田市の三池カルタ記念館が復元した「天正カルタ」。南蛮ブームは、伴天連追放令後も長く続いた
 「天正14年、大坂城でコエリエが秀吉に九州遠征を要請した折、秀吉は中国侵攻を暗示した。このとき、コエリエはポルトガル人から2艘(そう)の大船を世話することを約束した。コエリエは翌年、博多へ来た秀吉を、大砲を装備したフスタ船に乗って訪ね、船内をくまなく案内した。秀吉は優れた装備に感嘆し、『これは軍艦である』と叫んだ。右近と小西行長は、コエリエの振る舞いによってキリスト教界が危険にさらされることを怖れ、コエリエに対し、このフスタ船を秀吉に献上することを勧めたが、コエリエはこれを断った」(要約)
 秀吉はコエリエの僧衣の下に隠された鎧をはっきりと見た。伴天連追放令が出されたのは、この直後のことである。
 ●〔ガスパル・コエリエ〕
 伴天連追放令が出された当時、イエズス会の日本における最高責任者だった。追放令後、キリシタン大名有馬晴信に武器の提供と引き換えにして、秀吉への敵対を呼びかけた。また、フィリピン総督に日本への派兵を要請したが、いずれも実現しなかった。集めた武器弾薬はひそかに売却されたという。
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 キリスト教イエズス会は、世界をキリスト教国家に生まれ変わらせる事を神聖な使命とし、非キリスト教国の有力者に武器を提供する事で布教許可を受けていた。
 信長時代初期。イエズス会は、日本征服計画の為に織田信長を利用し、最大の強敵は石山本願寺ら仏教勢力であった。
 イエズス会は、キリシタン大名高山右近らに織田信長に味方させ仏教勢力を打ち破り無力化させた。
 スペイン国王兼ポルトガル国王フェリペ2世は、アジア征服・明国征服を命じた。
 イエズス会は、明国征服の為に日本の軍事力を利用しようとした。
 豊臣秀吉は、国内のキリスト教勢力(キリシタン約30万人)の弱体化を目的として朝鮮出兵キリシタン大名を最前線に送り出した。
 豊臣秀吉は、明国征服の軍資金を得る為に、スペイン植民地フィリピンの金塊を手に入れるべくフィリピン遠征を計画していた。
 スペインは、日本に備えるべく軍事力を強化した。
 フェリペ2世は、1598年9月13日に逝去した。
 豊臣秀吉は、1598年9月18日(慶長3年8月18日)に死亡した。
 2人の死によって、スペインと日本の緊迫、西洋とアジアの戦争の緊張は解消された。
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 フェリペ2世、1556年にスペイン国王に即位、1580年にポルトガル国王に即位。
 エリザベス1世、1558年にイングランド国王に即位、1603年に逝去。
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 キリシタン大名京極高吉蒲生氏郷高山右近小西行長黒田官兵衛大村純忠、大友義鎮、有馬晴信、五島純玄、その他。
 キリシタン大名は、イエズス会の主君(豊臣秀吉)殺しと天皇殺害の要請を断った。
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 日本では、骨肉の争いとして兄弟殺しや子殺しは許されていたが、親殺しの親不孝は許されなかった。
 子が敵対した親にできる事は、死ぬまで座敷牢に幽閉するか領地から追放する事である。
 武士道において、家臣が主君を殺す事は絶対に許されない不忠である。
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 中世のイエズス会宣教師は、キリスト教十戒旧約聖書出エジプト記20章)「殺すなかれ」はキリスト教徒に対してであって異教徒と異端者も対象外として殺害を許していた。
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 キリスト教の信仰契約では、絶対神に叛く親や兄弟を殺す事は罪ではく、キリスト教会が正当性を認めれば主君・国王を殺す事が許されていた。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を世界中に輸出して大金を稼いでいた。
 日本人を奴隷として売ったのは日本人であった。
 豊臣秀吉は、日本人を奴隷として売買をする事を禁止する為にキリスト教会を禁教し、人身売買する宣教師を処刑した。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人の奴隷売買ができなくなってからりに傭兵輸出に方針転換した。
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 悪いのは、日本人を奴隷として世界に輸出した中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人なのか、彼らに売りつけていた日本人なのか。
 正義はどちらにあったのか。
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 15世紀ら17世紀前半にかけの大航海時代とは、スペイン王国ポルトガル国王そしてキリスト教会・イエズス会を中心としたヨーロッパ諸国による植民地獲得時代である。
 そして、選民思想と宗教的人種差別主義を信ずる白人キリスト教徒は、アジア・アフリカ・南北アメリカの先住民である非白人非キリスト教徒を奴隷とした時代である。
 絶対真理・絶対価値観を国際基準として、世界を一つにまとめる、画一化・単一化する時代であった。
 その結果、ローカルな人種民族が持っていた独自の歴史・伝統・宗教・文化・言語・習慣など全てが「悪」として消去された。
 その世界的潮流に抗ったのが、日本であった。
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 1571年10月7日 レパントの海戦
 神聖同盟スペイン王国ジェノヴァ共和国ヴェネツィア共和国教皇領・サヴォイア公国トスカーナ大公国ウルビーノ公国マルタ騎士団
 ガレー209隻、ガレアス6隻、小ガレオン船26隻、補助船65隻。
 兵員2万2,000人。砲1,800門。
 オスマン帝国
 ガレー213~219隻、ガレアス6~12隻、小ガレオン船60隻、輸送船24隻。
 兵員2万6,000人。砲2,000門。
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 1588年7月31日~8月8日 アルマダの海戦。イギリス海軍は、スペイン無敵艦隊英仏海峡で撃破した。
 イギリス艦隊:王室所属船34隻、武装商船163隻。
 スペイン艦隊:正規軍艦28隻、武装商船102隻。兵員5万5,000人。
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 文禄の役天正20年4月13日(1592年5月24日)~文禄2年7月9日(1593年8月5日)
 日本軍:15万8,700人
 明・朝鮮連合軍:24万7,800人。(明軍:5万3,000人。朝鮮軍:17万2,400人。義兵軍:2万2,400人。)
 慶長の役:慶長2年1月14日(1597年3月1日)~慶長3年11月25日(1598年12月22日)
 日本軍:14万1,500人。
 明・朝鮮連合軍:
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 日本の軍事力は、世界7大帝国の一ヵ国であった。
 日本の火縄銃保有量は、一ヵ国で西洋に匹敵する数であった。
 日本の武器の性能は、大砲では西洋に劣っていたが、火縄銃では西洋を凌駕していた。
 日本の海軍力は、世界最大級で、世界最強であった。
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 傭兵において、日本人傭兵の戦闘能力は世界的に優秀・有能であった。
 日本人傭兵は、西洋人正規兵に引けを取る事はなかった。
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 西洋は、日本を恐れていたが、同時に日本の軍事力を利用すれば明国(中国)の征服は可能だと確信していた。
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 日本人の愚かさは、敵を信じて近づき、味方を疑って遠ざけるところである。
 日本人の悪癖は、相手の良い所だけを見て悪い所を見ない事であり、自分の良い所を見ず悪い所だけを見る事である。
 日本人の馬鹿なところは、悪人の悪意ある甘い言葉を信じて騙される事である。
 そうした救いがたい傾向は、理想を信じ、理想を求めて生きる現代の日本人に強い。
 昔の日本人は、現実に身を置いて生きていた為に敵・味方、悪人・善人の区別が付いていた。
 それが、鎖国の評価の分かれ目である。
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 ウィキペディア
 日本のキリスト教史(にほんのキリストきょうし)では、日本におけるキリスト教の歴史とその展開について述べる。日本の宗教全般については「日本の宗教」を、世界のキリスト教の歴史については、「キリスト教の歴史」を参照のこと。

 豊臣秀吉キリスト教
 織田信長は宣教師たちに対して好意的であった。信長の後を継いだ豊臣秀吉も基本的に信長の政策を継承し、宣教師に対して寛大であった。
 しかし、秀吉の天下統一目前の1587年、九州征伐の途上で宣教師やキリシタン大名によって多数の神社や寺が焼かれ、仏教徒が迫害を受けていることを知り、また、日本人がポルトガル商人によって奴隷として海外に売られていたこと、そして最大の要因である長崎がイエズス会領となっていることなどを理由とし九州征伐完了直後、筑前箱崎において、秀吉に謁見するため長崎から来ていた布教責任者であるガスパール・コエリョに対し、バテレン追放令を発布し宣教師の国外退去命令とキリスト教宣教の制限を表明した(この時、秀吉がバテレン追放令を発布した理由については、さまざまな説がある。詳細はバテレン追放令の項を参照)。
 これに対してコエリョは、有馬晴信などキリシタン大名に秀吉と敵対するよう要請、さらに武器・弾薬の支援を約束した。しかし有馬晴信は、既に天下人の座をほぼ手中に収めていた秀吉と敵対する気はなく、この要請は実現されなかった。以後、イエズス会は秀吉を刺激するのを恐れ、公の宣教活動をしばらく控えるようになる。
 一方、秀吉は追放令を発布こそしたが、以後も実質上キリシタンは黙認したため迫害などはほぼ行われなかった。なぜなら秀吉はポルトガルを通じての南蛮貿易に積極的であったため、追放令の徹底を図らなかったと考えられている。そのため、宣教師たちは立場こそ不安定だったものの、この時点ではまだかなり自由な宣教活動を続けていた。
 しかし、豊臣政権の末期になってスペイン領であったフィリピンとのつながりが生まれ、フランシスコ会ドミニコ会などの修道会が来日するようになると事態は複雑化する。彼らは日本宣教において、当時のイエズス会の(社会的に影響力を持つ人々に積極的に宣教していくという)やり方とは異なるアプローチを試み、貧しい人々の中へ入っての直接宣教を試みた。けれども、これらの修道会がイエズス会のように日本文化に適応する政策をとらずに秀吉を刺激した(たとえば日本では服装によって判断されると考えたイエズス会員の方針と異なり、彼らは托鉢修道会としての質素な衣服にこだわった)ことや、イエズス会とこれら後発の修道会の対立が激化したことで、日本での宣教師の立場は徐々に悪化していく。
 そして1596年のサン=フェリペ号事件をきっかけに、秀吉はキリスト教への態度を硬化させ、1597年、当時スペインの庇護によって京都で活動していたフランシスコ会系の宣教師たちを捕らえるよう命じた。これが豊臣秀吉の指示による最初のキリスト教への迫害であり、司祭や信徒あわせて26人が長崎で処刑された(日本二十六聖人の殉教)。

 アイヌへの布教
 アイヌは、数多くのカムイを崇拝する独自の宗教観を有していた。 
 江戸時代の初期、蝦夷地(現在の北海道)の一部を治めていた松前藩は、アイヌが「日本風俗に化し染まぬ様」にすることを掟としており、日本語使用、和人風の服装をした場合は罰則があったため、独自の宗教観を保っていたが イエズス会のジロラモ・デ・アンゼリス神父、カリワーリョ神父がやってきて、大千軒岳の麓に生活し、布教を行った。 島原の乱以後、徳川家光は、キリシタンをなくすように指令を出し、松前藩は106名のエゾキリシタンを1639年(寛永16年)に処刑した。
 ロシア人も交易を目的として上陸する一方、正教を布教したりしていた。色丹島などにに住んでいたアイヌの集落には、教会が建てられ、キリスト教を信仰していたとする記録が残っている。樺太アイヌにもロシア正教会が布教を行った記録があるが、改宗者は少数であったことが報告されている。
 1779年、厚岸にロシア人イワン・アンチーピンが上陸するできごとがあった。幕府は、すでに千島列島や択捉島に住むアイヌに、キリスト教が布教されている情報を得ていたため、国泰寺を建立するなどして、キリスト教が広まらないようにした。

 幕末から明治時代
 アメリカ合衆国からの要求をきっかけに、日本は西洋諸国に門戸を開くようになった。1858年には日米修好通商条約や日仏修好通商条約などが結ばれたことで、外交使節や貿易商と共に多くの宣教師たちが来日した。
 1846年4月30日にバーナード・ジャン・ベッテルハイム医療宣教師が琉球王国に到着し、8年間迫害の中で宣教活動を行い、琉球語に聖書を翻訳した。
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 フランシスコ・カブラル(Francisco Cabral、 1529年 - 1609年4月16日)は戦国時代末期の日本を訪れたイエズス会宣教師。カトリック教会の司祭。日本布教区の責任者であったが、当時のポルトガル冒険者の典型のような人物で、日本人と日本文化に対して一貫して否定的・差別的であったため、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに徹底的に批判され、解任された。

 生涯
 スペイン系貴族の子としてアゾレス諸島サンミゲル島に生まれたカブラルは、コインブラで学び、インドで軍人として働いていたときにイエズス会と出会った。1554年に入会したが、すでに高等教育を受けていたため、1558年には司祭に叙階されている。インド各地で要職を歴任したのち、コスメ・デ・トーレスの後継者として日本に派遣された。1570年(永禄13年)6月、天草志岐に到着。同行した会員の中にはグネッキ・ソルディ・オルガンティノもいたが、前年度に手違いからインド管区長代理の権限がカブラルとオルガンティノに重複してしまい、これが原因で両者は諍いを起こしていた。2人の対立は日本でも尾を引くことになる。
 日本到着後、ただちに日本布教区責任者となったカブラルは、志岐で宣教会議を行い、今後の宣教方針を決定した。そこでカブラルの指摘した問題点は、「日本においてイエズス会員が絹の着物を着ているのは清貧の精神に反している」ということであった。前任者トーレスは日本においては身なりや服装がきちんとしていない人物は軽蔑されるという事実にかんがみて、宣教師たちにあえて良い服を着ることを奨励していたが、着任早々のカブラルはそういった事情は考慮していなかった。
 トーレスフランシスコ・ザビエルと同じように、日本人の資質を高く評価し、宣教師たちにヨーロッパ風でなく日本文化に根ざした生活スタイルを求めた。これを「適応主義」というが、トーレス時代の布教の成功はこの方針による部分が大きかった。しかし、カブラルはこの適応主義を真っ先に否定した。彼は元来インドに赴任した軍人であり、ヨーロッパ中心主義という同時代人の制約を超えることができなかった。カブラルは頑固で短気として知られていたが、学究熱心でもあり、ヨーロッパ文化とイエズス会を代表するエリートだった。カブラルの目から見れば、アジア人である日本人は低能力な民族であり、布教においても宣教師を日本文化に合わせるより、「優れた」ヨーロッパ式を教えこむことのほうが日本人にとって良いと考えていた。
 カブラルはさらにジョアン・デ・トーレス、ケンゼン・ジョアンと呼ばれた2人の日本人伝道士を従えて、戦乱続く畿内へ視察に赴いた。堺ではすでに活動していたオルガンティノとロレンソ了斎の出迎えを受け、足利義昭との会見に成功した。さらにルイス・フロイスを伴って向かった岐阜では織田信長の知己を得て、その庇護を受けることに成功した。フロイスによれば、このときカブラルは眼鏡をかけていたが、岐阜の市民の間に「伴天連は目が四つある」といううわさが広まり、岐阜城の門前は「四つ目」を見ようと集まった群衆で大騒ぎになっていたという。
 1573年(天正元年)にはカブラルは山口へ足を伸ばした。そこはトーレスが1556年(弘治2年)に訪れてから誰も宣教師が訪れていなかった地域であったので、信徒の大歓迎を受けた。九州に戻って大友宗麟に洗礼を授けたのもカブラルであった。宗麟は若き日に出会ったザビエルへの追憶としてフランシスコの洗礼名を選んだ。
 一見、順調に進んでいるかのようであったイエズス会の布教活動だったが、カブラルの方針によって日本人信徒と宣教師たちの間に溝ができつつあった。カブラルは日本語を不可解な言語として、宣教師たちに習得させようとせず、日本人に対してもラテン語ポルトガル語も習得させようとしなかった。それは、日本人がそれらを理解し宣教師たちが話している内容がわかるようになると宣教師を尊敬しなくなる、という理由からだった。さらに日本人が司祭になる道も閉ざしていた。
 1579年(天正7年)、総長の名代として日本を訪れた巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、九州においてカブラルから日本人が布教に適していないという悲観的な報告を受けて衝撃を受けた。カブラルは止めたが、ヴァリニャーノはあきらめきれずに畿内へ視察に赴いた。畿内においてヴァリニャーノは多くの優れたキリスト教徒たち、キリシタンの武将たちに会って感激し、日本布教区の問題点が実はカブラルにあるのではないかと考え始めた。
 視察を終えたヴァリニャーノはカブラルの宣教方針を完全に否定し、(カブラルが禁じた)日本人司祭の育成、日本布教区と本部との連絡通信の徹底、トーレスの適応主義の復活を指示した。ヴァリニャーノはトーレスの日本文化尊重の姿勢を絶賛し、宣教師が日本の礼儀作法を学ぶことの重要性を指摘している。
 カブラルはヴァリニャーノを逆に非難したが、結果として1581年(天正9年)に布教責任者の立場を解任された。カブラルの後任にはガスパール・コエリョが任命され、日本地区が準管区に昇格したため、初代準管区長となった。
 1583年(天正11年)に日本を離れてマカオに去ったカブラルは、後にインドのゴアに移り、同地で1592年から1597年までインド管区長をつとめた。1609年4月16日、ゴアで死去。

 日本人観
 カブラルが日本人を評した言葉に以下のようなものがある。
 「私は日本人ほど傲慢、貪欲、不安定で、偽装的な国民は見たことがない。…日本人は悪徳に耽っており、かつまた、そのように育てられている」
 カブラルと対立したヴァリニャーノの記述によれば、カブラルは日本人を黒人とみなすなど、以下のような言動をとっていた。
 「カブラルは、日本人を黒人で低級な国民と呼び、その他、侮蔑的な表現を用いた。かれはしばしば日本人にむかい、「とどのつまり、おまえたちは日本人(ジャポンイス)だ」というのがつねで、日本人に対して、日本人が誤った低級な人間であることを理解させようとした」
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武器・十字架と戦国日本 イエズス会宣教師と「対日武力征服計画」の真相
イエズス会の世界戦略 (講談社選書メチエ)