⚔31)─6・B─文禄の役。豊臣秀吉は朝鮮人の捕縛を禁止した。〜No.137 

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 2024年4月25日 YAHOO!JAPANニュース「文禄の役が勃発。豊臣秀吉朝鮮人の捕縛を禁止したが、有名無実だった
 豊臣秀吉。(提供:アフロ)
 いまだに戦争のある地域では、民衆が捕らわれの身になることが珍しくない。
 それは戦国時代も同じで、人の略奪は「乱取り」と称された。文禄の役の際、豊臣秀吉朝鮮人の捕縛を禁止したが、それは実効性があったのだろうか。
 戦国時代の戦争は、乱取りが軍事的な慣行になっていた。将兵乱取りで自らの懐を潤し、ときに戦争よりも乱取りを目的とした将兵すらいた。
 しかし、秀吉は乱取りにより、農民がいなくなった耕作地が荒れ果てることを恐れ、人身売買を禁止した。戦争後の復興が進まないからだった。
 そのような国内事情を踏まえて、実際に秀吉が朝鮮出兵時に出した方針は、天正20年(1592)4月26日付秀吉朱印状に次のとおり書かれている(「毛利家文書」)。
①還住した百姓や町人に米銭金銀を課してはならない。
②飢餓に苦しむ百姓を助けること。
③あちこちで放火をしてはならない。(以下、補足として)今度の朝鮮出兵で人を捕らえた場合は、男女によらず、それぞれのもといた居住地に返すこと。
④法令順守の徹底。
 ①は、戦後もとの居住地に戻った百姓や町人に対して、米銭金銀を課してはならないという命令である。秀吉は日本国内の戦争でも、百姓や町人の還住策を進めていたので、その例に倣ったものである。
 秀吉は朝鮮半島を蹂躙して放置するのではなく、戦後復興と長期にわたる支配を考えていたということになる。②についても同様の趣旨と捉えてよく、耕作地を耕す百姓が死んでしまっては、元も子もないという考えによる。
 ③での冒頭では放火の禁止を禁止であるが、重要なのは補足の箇所で、日本軍が男女にかかわりなく朝鮮人を生け捕りにした場合は、もとの居住地に返すことが規定されていることである。
 秀吉は戦場における乱取りを禁止し、人々の還住策を積極的に推し進めたことになる。
 ④における法令順守はその延長線上にあり、数多くの禁制が「高麗国」宛に発給された。禁制とは軍勢の不法行為(放火、乱暴狼藉)を定めたもので、本来は寺社や村落の申請によって、金銭と引き換えに交付された。
 この場合は、秀吉が諸大名の軍勢が乱暴狼藉を働かないよう、あらかじめ交付したものだろう。なお、禁制を得るには金銭との引き換えが基本だったが、朝鮮半島の戦争だったので、無料で交付されたと考えられる。
 このように秀吉は乱取りを禁止し、朝鮮人の還住を推し進めたが、このことが末端の将兵まで徹底されたかといえば、大きな疑問である。日本で長年の軍事慣行だった乱取りは、そう易々と止めることができたのだろうか。
 結局、秀吉の強い決意にもかかわらず、乱取り禁止の方針は将兵に無視され、戦時中の朝鮮半島各地で乱取りが行われたのである。
 渡邊大門
 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
 1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。
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 中世キリスト教会・イエズス会伝道所群と白人キリスト教徒商人達が、日本人兵士に朝鮮人乱取りしれ捕縛する事を唆していた。
 豊臣秀吉は、キリスト教禁止令を出して非人道的な悪徳の宣教師や白人キリスト教徒商人達を弾圧した。
 それが、日本におけるキリスト教弾圧であった。
 現代日本の歴史教科書は、逆にキリスト教弾圧しキリシタンを迫害した豊臣秀吉徳川家康徳川幕府が非人道的犯罪者と子供達に教え、世界に向けて宣言している。
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 中世キリスト教会・イエズス会伝道所群と白人キリスト教徒商人達は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として世界中に輸出していた。
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🌺6:─1─日本の歴史は大きな歴史ではなく小さな歴史である。~No.10No.11 

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 2024年1月5日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「日本の村落が「閉鎖的」というのは本当か…「大きな歴史」からは見えてこない「日本人の本当の姿」
 『忘れられた日本人』で知られる民俗学者宮本常一とは何者だったのか。その民俗学の底流にある「思想」とは? 
 「宮本の民俗学は、私たちの生活が『大きな歴史』に絡みとられようとしている現在、見直されるべき重要な仕事」だという民俗学者の畑中章宏氏による『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』が5刷と話題となっている。
 【写真】女性の「エロ話」は何を意味しているか? 日本人が知らない真実
 ※本記事は畑中章宏『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』から抜粋・編集したものです。
 なぜ「庶民の歴史」なのか?
 全国すみずみまで歩いて、多くの人びとから話を聞いた宮本常一
 なぜ、庶民の歴史を構想するようになったのだろうか。
 〈歴史に名前を残さないで消えていった人びと、共同体を通り過ぎていった人びとの存在も含めて歴史を描き出しえないものかというのが、宮本の目標とするところだった。
 また「進歩」という名のもとに、私たちは多くのものを切り捨ててきたのではないかという思いから歴史を叙述することを試みた。〉(『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』より)
 「大きな歴史」から零れ落ちたり、それが切り捨ててきたものがある。
 宮本は、「小さな歴史」の束から、世間や民主主義、多様な価値、さらには「日本」という国のかたちをも問いなおしたのだった。
 「共同体の民俗学」から「公共性の民俗学」へ
 では、宮本常一の思想とは、具体的にどのようなものだろうか――。
 『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』では、「『共同体の民俗学』から開かれた『公共性の民俗学』へという意志と思想が潜在しているのではないか」と指摘されている。
 〈宮本は庶民の歴史を探求するなかで、村落共同体が決して共同性に囚われてきただけではなく、「世間」という外側と絶えず行き来し流動的な生活文化をつくってきたことも明らかにする。そしてそれは、公共性への道が開かれていたと解釈することができるのだ。
 また近代を基準にみたとき、さまざまな面で遅れているとされてきた共同体の生活、あるいは慣習のなかに、民主主義的な取り決めをはじめ、民俗的な合理性があったことも裏づける。〉(『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』より)
 〈宮本常一民俗学には閉ざされた「共同体の民俗学」から開かれた「公共性の民俗学」へという意志と思想が潜在しているのではないか。成員を統合する価値だけで結びつくのではなく、絶えず外側から価値を導入し、変化していくのだ。
 また主流に対する傍流を重視すること、つまりオルタナティブの側に立って学問を推し進めていったことも特筆すべきであろう。〉(『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』より)
 つづく「日本全国「80歳以上の老人たち」の話が教えてくれたこと…幕末生まれと明治生まれの人の「決定的な差」」では、宮本のフィールドワークの手法にはどのような特色があったのか、それは彼のどんな体験から編み出されたものだったのか、「よい老人」とは誰か、などについて掘り下げている。
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 日本民族の歴史は、キリスト教史観、中華儒教史観、マルクス主義史観、イスラム教史観、ユダヤ教史観では理解できない。

🌺5:─1─何故ヤマトタケルは皇太子であったのに「天皇になれなかった」のか。~No.8No.9 

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 2024年4月23日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「英雄・ヤマトタケルの「名の由来」と皇太子であったのに「天皇になれなかった」理由とは⁉
 日本人ならばだれしもがその名を聞いたことある「ヤマトタケル」。ここでは彼の名の由来と皇太子として生まれながら天皇になれなかった理由について迫る。
■残酷な殺し方をすることでそう呼ばれた「ヤマトタケル
 ヤマトタケルは、一般的には「大和の勇猛な人」と解されているが、ヤマトタケルは敵に対して大変残酷な殺し方をする。そのような殺され方をした相手から与えられた名前が「ヤマトタケル」なのだ。そこには「ヤマトの猛々しい人」という意味が込められている。
 その名は、父から熊襲征討を命じられた際に殺害されたクマソタケルの兄弟の弟から奉られた名前である。その後、出雲に立ち寄りイズモタケルをだまし討ちにして帰還した。ところが今度は天皇から東方十二道の征討を命じられる。ヤマトタケルは、伊勢の地で「天皇は私に死ねとおっしゃっているのか」と嘆く。これに対し、叔母のヤマトヒメは、クサナギノツルギを与えヤマトタケルを送り出す。
 この後、ヤマトタケルは相模(あるいは駿河)において火攻めに遭い、クサナギノツルギ(草薙剣)で切り抜けた。しかし、三浦半島から房総半島に向けて走水(馳水、浦賀水道)横断時に海の神の怒りをかい最愛の妻オトタチバナヒメを失って、「あづまはや」と嘆く。「あづま」という地名の由来である。
 さらに近江のイブキヤマ(伊賦岐山、五十葺山)で山の神を軽んじたことが命取りとなり、病にとりつかれ伊勢国・能褒野(のぼの)で死去し、白鳥となって飛び立つ。
■海の神や山の神の支持を得られず天皇になれなかった
 ヤマトタケルの生涯をざっとまとめると以上のようになるが、最後に太子でありながら何故、最終的に天皇になれなかったのかといった点を考えてみたい。
 『古事記日本書紀』によれば、ヤマトタケルを苦しめたのは海の神と山の神である。記には、倭国の王の統治理念として「食国之政」と並んで「山海之政」という言葉が登場する。「山海之政」とは山の神や海の神との調和のもとに山野河海を統治していこうとする理念である。
 ヤマトタケルは、海の神や山の神の支持を得られず天皇になれなかったというのが『古事記日本書紀』の主張である。モデルは、山の民や海の民を十分に支配できなかった王族将軍である。
 監修・文/森田喜久男
 歴史人2024年4月号「古事記日本書紀」より
 歴史人編集部
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 日本武尊は、故郷を懐かしんで歌った。
 大和(ヤマト)は 国のまほろば たたなづく 青垣(あおがき) 山隠(やまごも)れる ヤマトしうるはし
 {大和は、日本の中でもっともすばらしいところだ。長く続く垣根のような青い山々に囲まれた大和は、本当に美しい}

 命の またけむ人は たたみこも 平群(へぐり)の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子
 {命の無事な者は、幾重(いくえ)にも連なる平群山(=奈良県生駒郡平群村)の大きな樫の木の葉を かんざし(=当時は魔除けとして使われた。)として挿すがよい}
 以上の歌は、「思国歌(くにしのびうた=望郷の歌)」と呼ばれている。
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 日本民族には、野の民、山の民、海の民が存在していた。
 日本神話には、野の神、山の神、海の神の物語がある。
 ヤマト王権は、稲作を行う野の民の政権であり、中国大陸や朝鮮半島からの日本を守る為に日本を統一する必要があり、地方の山の民や海の民の支持を受け一枚岩となって日本国を守る必要があった。
 もし、地方の反ヤマト王権勢力が外国の味方をすればヤマト王権はいとも簡単に攻め滅ぼされる危険があった。
 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。 
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 神話を正統性として天皇に即位できるのは、廃れやすいアイドル的人気ではなく、知略や軍略に優れ、武勇に秀でて、強いリーダーシップを持った偉人や英雄でもなかった。
 天皇の正統性とは、最高神である女性神天照大神(太陽神)の直系として血を色濃く受け継ぐ神の裔の事である。
 現代風にマルクス主義的に言う所の天皇の正当性とは、数千年の時空を越えてきた宗教的伝統文化的民族神話や数万年前からの血の継承・世襲を否定して、人為的恣意的な哲学・思想・イデオロギーに基づいた憲法・法律を根拠として即位する事である。それがエセ保守やリベラル左派が理想とする象徴的天皇像である。
 「血は水より濃い」
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
 日本を動かしているのは学閥である。
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 保守には、正統保守・エセ保守である。
 現代日本では、急速に新保守の守旧派が増えた。
 正統保守は古保守として守旧派ではない、もし正統保守が守旧派であったら日本民族に見捨てられとうの昔に消滅していた。
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🌺4:─1─日本の歴史は「庶民の歴史」で、日本国は「複数国共同体」であった。~No.6No.7 

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 2024年1月6日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「日本は「ひとつではない」とはどういうことか…日本人が見落としてきた「庶民の歴史」の大きな意味
 『忘れられた日本人』で知られる民俗学者宮本常一とは何者だったのか。その民俗学の底流にある「思想」とは? 
 「宮本の民俗学は、私たちの生活が『大きな歴史』に絡みとられようとしている現在、見直されるべき重要な仕事」だという民俗学者の畑中章宏氏による『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』が5刷と話題となっている。
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 日本はひとつではない
 日本全国をすみずみまで歩き、人びとの話を聞いた宮本常一
 『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』では、「古代社会は統一された『ひと色の文化』のなかにあったのだろうかと疑問を抱く。そして『日本』がひとつではないことを描き出していった」と、「日本はひとつではない」という指摘を掘り下げている。
 〈網野善彦は、『忘れられた日本人』を中心とした宮本の仕事が、戦後歴史学、あるいは近代歴史学自体の根本問題を鋭く突くものでもあったと指摘する。
 さらに当時の学界では東日本は後進地域と考え、東国は畿内に比べてはるかに後進的とされてきたが、宮本がそういう差異を、先進・後進という割り切り方をしない点についても評価している。
 宮本は、東日本については同族集団、同族結合が基本であり、縦の主従関係を基本にした家父長制的な傾向の強い上下の結びつきを特徴とし、それに対して西日本の場合、フラットな、横の平等な関係を結びあうのが特徴だとする。
 縦の主従関係が東日本に見られるのに対して、寄り合いや一揆のような横の組織は、西日本に発達するという考え方である。東日本では年齢階梯制は非常に希薄で、年寄り組、若者組、娘組のような年齢階梯制が見えないことも強調する。〉(『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』より)
 「世間師」という存在
 さらに宮本の知見で重要なのは、「世間師」なる人びとだ。
 『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』では、「共同体の外側にあり、多様な価値で成立している『世間』を渡り歩く存在」と表現される。
 しかし、現在は聞くことのない存在となっている。
 〈『忘れられた日本人』に描かれた世間師たちの努力の大半が埋没していった。
 しかし、単線的な成長や発展を望むべくもないいま、世間師が果たした役割、共同体を公共性にひらいていくための意志と営為は見直されるべきであり、また庶民こそが歴史をつくってきたことも忘れてはならない。〉(『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』より)
 つづく「日本全国「80歳以上の老人たち」の話が教えてくれたこと…幕末生まれと明治生まれの人の「決定的な差」」では、宮本のフィールドワークの手法にはどのような特色があったのか、それは彼のどんな体験から編み出されたものだったのか、「よい老人」とは誰か、などについて掘り下げている。
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🕯132)─1─桃太郎伝説。日本の神話・伝説・童話・寓話の背景には悲哀が存在する。~No.283No.284  

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 日本の神話・伝説・童話・寓話・民話は、日本独自の創作ではなく、世界中の宗教的な神話・童話・寓話・伝説の影響を受けている。
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 日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
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 現代日本では、蔓延しているマルクス主義的反宗教無神論によって民族の宗教的神話・伝説・童話・寓話が急速に減少している。
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 2024年3月20日 YAHOO!JAPANニュース 山内琉夢歴史プレゼンター「桃太郎伝説と間引き・水子
 日本の神話・童話・寓話の背景には、恐怖ではなく悲哀が存在する。
 まさかの桃太郎の正体…悲しき運命と日本の風習に驚愕!本当の昔話に迫る
 岡山市にあるマンホールの蓋 桃太郎バージョン
日本に伝わる昔話の代表作「桃太郎」ですが、語り継がれている物語の細部は地方ごとに異なっており、起源や真実については未だ判明していません。
 一方、桃太郎に関係しているのではないかと考えられているる有力な説やモデルも多く存在します。
 そこで今回は、桃太郎伝説のモデルとなった「備津彦命(きびつひこのみこと)」や昔の日本に存在した悲しき風習「間引き」との関係性について紹介。詳しく見ていきましょう。
吉備津彦命(きびつひこのみこと)
 岡山県にある岡山城
 桃の名産地でもある岡山県は、「桃太郎伝説」はじまりの地として有名です。
 この岡山県に伝わる「温羅(うら)伝説」はご存知でしょうか。
 温羅とは、別名「鬼神」の名で恐れられた身長4mもある赤い髪の鬼のこと。
 悪行三昧で村を荒らして回る温羅を退治したのが、朝廷に命じられて馳せ参じた「吉備津彦命」でした。
 一説では、この温羅伝説に登場した「吉備津彦命」が桃太郎のモデルだと考えられているのです。
□桃太郎の仲間
 ニワトリ
 桃太郎の物語の中では、岡山名物「吉備団子」を与えて猿・犬・雉の3匹が仲間になります。この3匹の動物を仲間にした背景には、古代中国の「方角を十二支で表す」という思想が関係しているのだとか。
 12ある方角の内、東北には鬼が住うと信じられていて「鬼門」とよばれていました。また、東北の十二支には牛と虎があたり、鬼が牛の角や虎柄のパンツを履いているのは、この鬼門の考え方が影響しているからだといわれています。
 鬼門と正反対に位置する南西は「裏鬼門」とよばれており、鬼を封印する効力があると信じられていました。その南西を担っている干支は猿と羊です。そのうち、猿から時計回りに「酉(トリ)」と「戌(イヌ)」がいます。
 ここから桃太郎の仲間には、猿・犬・雉が選ばれたと考えられているのです。
□昔の日本に存在した風習
 干支のイメージ画像 ウサギ
 十二支の考え方ならば、桃太郎の仲間になるのは羊と猿の方が良かったかもしれません。しかし、これには昔の日本に存在した風習が関係していたと考えられています。
 その風習こそが「間引き」です。間引きとは、赤ん坊を育てられない貧しい家に産まれた子を川に流して処分すること。つまり、桃太郎は「間引き」されて拾われた子供だったのです。
 さらに桃太郎の仲間になる3匹の動物には「去る(サル)」「居ぬ(イヌ)」「帰じ(キジ)」の隠語が存在しており、これは桃太郎が間引きの子供であることを示す伏線だといわれています。
□悲しい歴史と想い
 岡山県にある岡山城
 今回紹介した桃太郎伝説に関する起源や謎には多くの諸説があり、事実は不明のままです。しかし、昔の日本で「間引き」された子供がいたことは事実であり、決して珍しいことでもありませんでした。
 もしかすると桃太郎の物語には、間引きすることしかできなかった親の子どもを想う気持ちが込められているのかもしれませんね。
 山内琉夢
 歴史プレゼンター
 歴史ライターとしての活動経験を持ち、今までに32都府県の歴史スポットを巡ってきました。実際に現地へ行くのが難しい方に向けて、取材した歴史スポットについて紹介します。また、歴史に興味をもったことがなかった方にも楽しんでいただけるよう、歴史偉人の意外な一面や好きな食事・おやつの紹介など、ワクワクするような内容をお届したいです。 
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🏞63)─1─名門譜代大名本多利長は不行跡や過酷な藩政を布いたとして改易された。~No.264No.265No.266 

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 血筋の世襲と言っても、現代日本と江戸時代では違う。
 封建領主と言っても、西洋の王侯貴族と日本の大名とは違う。
 武士と騎士とは違う。
 日本と中国・朝鮮とは違う。
 現代日本人は、武士・サムライや百姓とは無関係である。
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 2024年4月19日 MicrosoftStartニュース ダイヤモンド・オンライン「「将軍の命日」に吉原遊郭で豪遊、参勤交代も遊女同伴!?闇落ちしたエリート大名の末路
 小林 明
 元禄時代の絵師・菱川師宣が描いた『元禄画巻吉原之図』は、本多利長が通っていた時代の吉原遊女の姿を今に伝えている 国立国会図書館所蔵
 © ダイヤモンド・オンライン
 江戸時代には、10代の若さで藩主に就任したにもかかわらず「闇落ち」した大名がいる。その人物とは本多利長(ほんだ・としなが)だ。戦国時代から徳川家康に仕えた名家の子孫だが、圧政や女性問題が取り沙汰され、最終的には領地を取り上げられた。真偽は定かではないが、「参勤交代に吉原の遊女を同伴させた」などの疑惑もある。エリートから転落した利長は、いったいどういう男だったのかを追ってみた。(歴史ライター・編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)
 地味ながら徳川家康
 支えた譜代大名の子孫
 「本多」の姓を持つ武将・大名といえば、忠勝(ただかつ)と正信(まさのぶ)が有名だ。二人は徳川家康に長年仕え、昨年のNHK大河ドラマ『どうする家康』でも主要人物だった。
 だが、同じく「本多」の姓を名乗っている大名の中から、のちに“問題児”が出た。それが本多利長だ。
 本多利長/国立国会図書館所蔵
 © ダイヤモンド・オンライン
 利長は遠江国静岡県西部)の横須賀藩を治めていたが、1682(天和2)年に改易処分(=領地を取り上げられること)を受けた。理由は「不行跡」(ふぎょうせき)、すなわち武士としての品性に欠けた行いが目立ったからだった。
 不行跡は13カ条とも23カ条とも諸説あるが、いずれにしても数が多い。文献に共通して見られるのは「圧政」と「女性関係」である。
 利長の系図をたどると、先祖は本多広孝(ひろたか/1528・大永8年〜1597・慶長元年)に行き着く。広孝は正信の分家筋にあたり、家康の父・広忠(ひろただ)に仕え、その後は家康に忠節を尽くした。忠勝・正信と比べ地味な存在だったが、三河一向一揆の鎮圧や三方ヶ原の戦いなどに出陣した記録もある。
 広孝の4代あとに生まれたのが、“問題児”の利長である。「エリート」と言える家柄の大名は、どのようにして転落していったのか? 次ページ以降で詳しく解説する。
 重税による領民の苦しみを
 理解できなかった若き殿様
 江戸時代に入ると、広孝の本多家は岡崎藩主を務めるようになった。
 岡崎は家康の生誕地である。徳川からの信任が篤い者でなければ入部(=治めるために入ること)する権利さえない重要な地だ。そこに1601(慶長6)年に赴くよう命じられたのが、利長の高祖父だった。石高は5万石だった。
 44年後の1645(正保2)年、利長は数え年11歳で家督を継ぎ、岡崎藩主となった。
 だが、わずか1年後に遠江国横須賀藩への転封(=配置換え)を命じられる。転封の理由を記す文献はないが、おそらく下記のような理由だと筆者は考える。
・本多家の後任として岡崎に入った水野家が「家康のいとこ」(母方)の末裔だったため、岡崎藩主としてはより適任だったから
・前横須賀藩主だった井上正利の妻が利長の父ときょうだいで、正利と利長は叔父と甥の関係にあり、横須賀藩主には適任だったから
 つまり、利長に落ち度があったわけではない。事実、横須賀藩も岡崎藩と同じ5万石であり、石高は維持されていた。
 まだ幼かった利長はその後数年、江戸にいた。横須賀に国入りしたのは1653(承応2)年、19歳のときが初めてだった。ここから異変が生じ始めた。
 名門の本多家は家臣が多かった。そこで利長は新たに武家地を造成し、同時に城の大々的な改造を断行した。書物『横須賀三社縁起私記』には、近世城郭としての横須賀城は利長の時代に整えられたと記されている(※)。
 ※『横須賀城学術調査研究報告書』(平成2年)を参照。
 だが、こうした「領地の整備」には負の側面があった。
 日本古城絵図『遠州横須賀城図』/江戸中期から末期の制作だが、二の丸など利長が整備した近世城郭が描かれている。この城郭を築く費用に領民は苦しんだ 国立国会図書館所蔵
 © ダイヤモンド・オンライン
 「自分は何も悪くない!」
 幕府の追及に徹底抗弁
 当然、費用は莫大だった。領民が労働に駆り出され、かつ重税を課せられたのは想像にかたくない。
 また、領内が水害に悩まされていたため、利長は大規模な堤防工事も行ったのだが、これも領民の負担になっていたと思われる。この工事に関しては防災上、評価する意見もあるが(※)、民にとっては労役と徴税を意味し、過酷だったはずだ。
 ※静岡県掛川市が2017(平成29)年に策定し、翌年に国土交通大臣などから認定された「掛川市歴史的風致維持向上計画」の資料には、この工事を高評価する旨が記されている。
 そんな折、幕府の巡検使が横須賀にやって来た。『寛政重修諸家譜』(寛政年間/1789〜1801年に江戸幕府が編纂した大名・旗本の記録)は、「さきに巡見使封地に至るのときも其はからひ御むねに違ひし」と記している。利長の巡検使への対応が適切ではなかったという意味である。
 『寛政重修諸家譜』の利長の条。青枠に「利長」の名がある 国立国会図書館所蔵
 © ダイヤモンド・オンライン
 巡検使とは、当時の5代将軍・徳川綱吉が、大名を監視するため諸国に派遣した役人である。そして不適切な対応とは、領民が利長の強引な政策を巡検使に訴え出たのを、「自分は何も悪くない」と抗弁したことを指していると考えられる。
 領民が「苦しい」と訴えているのに、利長は「そんなことはない」と突っぱねたのである。民の苦痛が、名門の若き殿様には見えていなかった。これが後々、改易のかっこうの口実を幕府に与えることになる。
 参勤交代にまで
 吉原の遊女を同伴!?
 加えて、利長自身の素行も問題視された。女性問題である。
 年齢を重ねて壮年期を迎えても不行状は治らず、特に吉原の遊女との醜聞が幕府の耳に入り、「武士にあるまじき」人物と警戒されていたようだ。
 利長の吉原遊びを記す文献は少なくない。
 『元禄画巻吉原之図』で描かれた吉原遊女 国立国会図書館所蔵
 © ダイヤモンド・オンライン
 「先祖の功をもって栄華に暮らすが、苛法を出して民を苦しめ、かつその性は淫胤にして、吉原の遊女に精出し、帰国の時は家来の妻と称し、参勤(交代)のときも連れてくる」(古今武家盛衰記)
 「陰で色町へ通い、そのうえ遊女を受け出した(身請けした)」(信陽城主得替記)
 「成長のあと行い正しからず」(西頚城郡[にしきびきぐん]郷土史料)
 遊女を身請けし、参勤交代だろうが帰国のときだろうが、つねに帯同させていたというのである。
 さらにはこんな一文もある。
 「延宝八年(1680)五月八日、家臣二人を連れ吉原に遊び、家綱公の薨去(こうきょ/死去)も知らず日を暮らし、夜になって知ったが登城もならず」(古今武家盛衰記)
 6代将軍・徳川家綱が亡くなった日、その死は在府(江戸にいた)の譜代大名に伝えられ、江戸城への登城令が発せられた。
 しかし、吉原で遊びほうけていた利長には、訃報が届かなかった。ようやく夜になって知ったが、もはや登城するには遅かったという。事実なら、すでに若くもない、40歳を超えた大名にあるまじき失態だった。
 なお、この登城しなかった件をはじめとした吉原の問題は、最も古い史料である『寛政重修諸家譜』には載っていない。ということは、後世に話を盛った可能性もある点に注意する必要があるだろう。
 『元禄画巻吉原之図』で描かれた吉原遊女 国立国会図書館所蔵
 © ダイヤモンド・オンライン
 利長が最後に移封された
 「ナゾの藩」とは?
 いずれにせよ、前述の圧政と巡検使の一件だけでも処分に値する。1682(天和2)年2月、ついに改易が言い渡され、横須賀の領地は召し上げとなった。
 ただし、そうはいっても家康に功のあった譜代の子孫である。お家お取り潰しは免れ、出羽国山形県)村山藩に移封(=他の領地へ移されること)となった。石高は5万石から1万石に減らされた。
 一方、移封された村山藩は、詳細が不明な藩だ。利長が改易された1682(天和2)年から1699(元禄12)年までのわずか17年間だけ存在し、消滅している。城もない。陣屋(=城を持たない大名の省庁)が実在したとしても、どこにあったかさえ分からない。利長が、本当にその地にいたかも定かではない。
 1690(元禄3)年頃に大名の評価を記した『土芥寇讎記』(どかいこうしゅうき)には、村山藩主・本多利長の名があり、横須賀藩主時代と違って民にも心を寄せたと記している。だが村山藩は、本多家の面目に鑑みて、幕府が「便宜上」立てた可能性がある。藩としての実態はなかったのではなかろうか。
 それゆえ利長死去(1692/元禄5年)の7年後、あっけなく消滅した――最初からそうした目的の藩だったと考えた方が理屈に合う。
●参考文献
 『本多越前守利長家之覚書(書籍集覧第二百二十九)』国立国会図書館
 『古今武家盛衰記(国史叢書)』/国立国会図書館
 『信陽城主得替記』/国立国会図書館
 『寛政重修諸家譜』/国立国会図書館
 『掛川市歴史的風致維持向上計画』/掛川市
 『横須賀城学術調査研究報告書』/大須賀町教育委員会
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 水上の礎
 磐南平野の金字塔
 icon太田川と原野谷川の合流
 今も残る旧原野谷川の跡
 図3:1686年に描かれた
 古図による浅羽の推定図
 (参考:浅羽郷土資料館・近藤記念館のパネル)
 農民にとって最も恐ろしいのは何と言っても洪水でしょう。しかし洪水を避けて高い土地に水田を造れば、(ポンプでもない限り)水を引いてくることは不可能です。利水(水を引くこと)と治水(洪水から守る)は矛盾するのが常でした。
 この地に大規模な大地の改良が始まるのは、1604年に行われた太田川と原野谷川の合流からです。
 指揮した代官は徳川家康の家臣・伊奈備前守忠次。伊奈忠次は、家康とともに江戸に移ってからは、利根川の付け替え、運河や水路の開削など、当時、利根川の氾濫原に過ぎなかった関東平野を沃野に仕上げた天才技術者であり、今も関東各地には備前堀備前堤(忠次の官名)といった現役の水利施設がたくさん残っています。
 忠次は大きく蛇行していた原野谷川と太田川(前頁図1参照)をほぼ直線化し、この2つの川を合流させたのです。さらに仕切った川をため池として利用し、周辺や下流の村々の用水としています(図3参照)。
 浅羽大囲堤
 続いての改良は大堤防の築造です。
 この地域には「延宝の高潮」(1680年)と呼ばれる大惨事が伝えられています。このときの死者・行方不明は300人とも4000~5000人(『長溝村開発由緒書』)とも言われており、民家6000軒が流されたというも伝承もあります。大水害でした。
 当時の横須賀藩主であった本多利長は普請奉行の柳原十内に命じ、領内である浅羽をぐるりと取り巻く延長14キロの大堤防を造らせ、松も植えて道路として整備します(図3)。
 この浅羽大囲堤は昭和の土地改良事業によって次々と姿を消してゆきますが、近年までところどころにその痕跡が残っていました。
 余談ですが、この工事は長溝村(袋井市長溝)で中断されています。藩主の本多利長が「領内の政事よろしからず」という理由で改易されてしまったからです。
 柳原十内は「十内圦」など領内の整備に大きな功績を残していますが、大囲堤築造の中止の命を受け堤の上で切腹したと伝えられています。
 浅羽の掟杭堤
 現在の磐南平野
 この大囲堤は確かに高潮被害の防止には効果的でしたが、その後の浅羽地区の大きな紛争の種となります。
 浅羽の中ほどには「中畦堤」という東西に伸びる小さな堤防があり(図3参照)、この堤を境に上輪の村・下輪の村と分かれていました。この堤によって下輪の村は上流からの洪水を防げましたが、田や飲料水の水源を失うことになります。
 対して、上輪の村々は水の便は得ても、この中畦堤があるため常に悪水(排水不良)に悩まされ続けることになります。
 したがって、この堤の存在をめぐっては、過去に何度か争いがあり、江戸での裁判を仰いでいます。堤の高さは上流の集落と同じ高さになるよう決められ、堤防沿いに高さを記す26本の杭が設置されました。以来、この堤は「掟杭堤」と呼ばれるようになりました。古くなった杭の取替えは、12年ごとに上下集落の代表が集まり儀式のように厳密に行われました。
 昭和28年の水路工事で「掟杭堤」を取り払うことになった際にも、数百年という伝統を破るものとして紛糾し、新たな覚書を交わしています。
 浅羽地方は「浅羽一万石」と言われるほどの米どころでしたが、こういう農民の過酷な労働で支えられていたのです。
 命山
 大野命山
 図3には浅羽大囲堤の外に2つの村が描かれています。大野村と中新田村。地形的に堤防の内側に入れるのは無理だったのでしょう。
 「延宝の高潮」で大水害をこうむった2つの村は、独力でそれぞれの村に大きな人工の山、通称「命山」を造ります。
 大野命山は高さ3.5mの長方形で、頂上には270人が避難可能。また、より海に近い中新田村の命山は高さ5m。頂上には130人が確保できたとのことです。
 その後の高潮では命山に避難し、舟で対岸の横須賀から食料を運んだり、潮が引くのを待ったりしたことが記録に残っています。
 いずれにせよ、平野下流に生きる農民は、何百年にわたって筆舌に尽くしがたい苦難を強いられてきたのです。
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 ウィキペディア
 本多 利長は、江戸時代前期の大名。三河国岡崎藩の第4代藩主、遠江国横須賀藩主、出羽国村山藩の初代藩主。官位は従五位下・越前守。広孝系本多家4代。
 生涯
 岡崎藩の第3代藩主・本多忠利の6男として誕生。正保2年(1645年)、父の死去で跡を継ぐ。このとき、岡崎藩6万石のうち、5万石を継いで、残りの1万石は兄・助久と弟・利朗に分与した。同年6月27日、遠江横須賀へ移封される。しかし天和2年(1682年)2月23日、不行跡や過酷な藩政を布いたとして改易された(本多政利の改易に連座したとも)。後に改めて、出羽村山郡内に1万石を与えられている。
 村山移封後の利長について『土芥寇讎記』では、「昔の統治は悪かったが、今はいい」「領地召し上げ(村山移封)のあと行状が良くなった」と記されている。
 元禄5年(1692年)12月16日、58歳で死去し、跡を甥で養嗣子・助芳(本多助久の次男)が継いだ。
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🎑106)─1・C─日本のテレビ業界の悲惨な惨状。「韓国に20年くらい差をあけられた」。~No.223 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2024年4月20日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「鈴木亮平「韓国に20年くらい差をあけられた」の衝撃 関係者が明かした、日本のドラマ現場の惨状とカネの問題
 賀来賢人との対談で
 鈴木亮平
 俳優の鈴木亮平が日本のドラマの現状について「韓国に20年くらい差をあけられた」と発言し波紋を広げている。これは3月31日に放送されたフジテレビ系「だれかtoなかい」での出来事。Netflixで世界的ヒットとなったドラマ「忍びの家 House of Ninjas」を企画し主演した俳優の賀来賢人と対談した鈴木は、司会の中居正広から「(日本のドラマは)監督業、脚本業、プロデュース業と分けて……」と振られると「それで今まではこれた んですけど。我々は日本国内だけに向けて作品を作っていたけど、気がついたら海外、例えばお隣の韓国に20年くらい差をあけられちゃったっていう危機感がある」と打ち明けたのだ。
 【写真】「何で先をどんどん急ぐのだろうか」…日本のドラマ制作に警鐘を鳴らした大物俳優
 「20年」という数字にネットはざわついた。鈴木によると、韓国は20年前から海外に向けた作品を制作しており、日本もドラマの世界的ヒットのために俳優が積極的に企画を考えるべきとの立場を示した。鈴木は東京外国語大学英語専攻卒業で英検1級の持ち主。22年10月に韓国・釜山で開催された第4回アジアコンテンツアワード(ACA)ではTBS系日曜劇場「TOKYO MER~走る緊急救命室~」が出品され、主演を務めた鈴木が主演男優賞を受賞しただけに海外ドラマの動向について、関心があるのは当然と言える。
 鈴木が「20年遅れている」というからには、日本のドラマ界に危機的な問題があるのだろう。実際、日本のドラマについて「学芸会か……」と嘆く声も聞かれる。NetflixやDisney+(ディズニープラス)の韓国ドラマと見比べると日本ドラマの“安っぽさ”ばかりが目立って見えてしまう人もいるのが現実だ。
 かつて日本のドラマ制作に警鐘を鳴らしたのが、映画「キングダム」シリーズで怪演を見せている俳優の大沢たかおだ。大沢は「君といた夏」(94年)、「星の金貨」(95年)、「お仕事です!」(98年)、「美しい人」(99年)、「アナザヘブン~eclipse~」(2000年)、「JIN-仁-」(09年)などの連ドラに立て続けに出演していたが、「JIN-仁-」以降、多くの仕事を映画にシフトしてしまった。
 大沢たかおは海外にシフト
 21年8月に放送されたTBS系「日曜日の初耳学」でインタビュアーの林修と対談した大沢はその理由について「何で先をどんどん急ぐのだろうか」「クオリティーとかお客さん(視聴者)に喜びや感動を伝えることよりもとりあえず完パケ(ドラマの完成品)を作るほうが優先される」「そこに合わなくなった」と批判的に語っていた。
 大沢を知る芸能記者がこう明かす。
 「彼が言いたかったのは映像や演技の出来栄えに満足がいかないのに改善しないまま撮影を終了してしまうドラマの撮影スタイルに不満がたまっていた、ということです。大沢は映像や演技に強いこだわりを持っているだけに我慢ができなかったのでしょう。日本のドラマのほとんどはここ20年進化していません。むしろ、予算削減を迫られる中、近年のドラマの質はますます低下しています」
 他にも原因があるという。主演級俳優を多く担当したベテランマネジャーはこう説明する。
 「最近の俳優はいいドラマを作ることよりも少しでも多くのCMに出演することの方を重視しています。人気俳優の多くがいつもワンパターンの演技で終わってしまうのも、演技の勉強が不足しているから。肝心のテレビ局も俳優を育てるといった意識はほとんどありません。それどころか、アメリカで本格的に演技の勉強をしてきた俳優が監督から嫌われて脇に追いやられる現場も目撃しました。力の強い大手芸能プロダクションに忖度したキャスティングも目に余ります。特に若手や新人俳優の演技が下手でテイクを重ねたいところなのにやり直しする時間がないから仕方なくOKを出してしまう。まずいのは監督も分かっているのですが、時間の余裕がなくスケジュール優先になりがちです」
 これでは海外どころか国内の視聴者を満足させることすら難しい。1話に1億円をかけたと言われる「VIVANT」など例外もあるが、日本のプライム帯ドラマの制作費はおよそ3000万円前後。一方、韓国ドラマは1億円、作品によっては2億円を超えるという。
 「脚本家や俳優に支払われるギャラは日本の数倍以上で、全16話の場合、脚本家の取り分は5000万円以上とも言われます。高額ギャラが保証されるので韓国の俳優たちは演技に専念できますし、監督も満足できる映像が撮れるまでこだわり続けます。このため韓国のドラマは細部にまでこだわり、高い完成度を誇ることができるのです」(前出の芸能記者
 制作費は日本の数倍
 韓国ドラマの制作費は日本の数倍に達し、その大部分はNetflixなどのグローバル配信会社との提携によるものだ。Netflixは昨年4月、韓国に向こう4年間で約25億ドル(約3800億円)というケタ違いの投資をすると発表した。この大規模な投資により、韓国のドラマ業界は莫大な予算を現場につぎ込むことが可能となり、その結果、高品質な作品が次々と生み出されている。
 「大沢が久々連続ドラマに出演した09年放送のTBS系『JIN-仁-』は数分の野外シーンの撮影のためだけに地方ロケを繰り返し、大沢も睡眠時間を削って参加したといいます。こうしたこだわりを持つドラマはTBSの日曜劇場くらいになってしまいました。予算削減、俳優の演技力の低下、余裕のないスケジュール、道路使用許可が下りない、など日本のドラマを取り巻く構造的な問題は解決が難しい。ただ、ドラマ経験豊富な鈴木なら『忍びの家』のような世界的ヒットを狙えるアイデアを持っているはず。予算的規模が大きいNetflixなど大手配信サービスといかに手を組んでいくかが今後の課題でしょう」(放送ライター)
 周回遅れの日本のドラマ界に救世主は現れるか。
 デイリー新潮編集部
 新潮社
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 ・・・ 

 クライアントが、日本のテレビ業界やアニメ業界など広い意味でのエンタメ文化から日本らしさを抹殺し、日本の文化を衰退させている。
 クライアントが目指す文化芸術とは、感動も感激もない灰のような無味乾燥である。
 つまり、日本を文化的一流国から文化のない野蛮国に貶める事であった。
 その始まりが、人権擁護団体なでのリベラル左派による平成時代の差別用語禁止運動であった。彼らは、日本から全ての差別を無くす為ならば日本の文化を破壊し消滅させても構わないと考えている。
 彼らは、超エリート層と言われる超難関高学歴出身の政治的エリートと進歩的インテリ達である。つまり、彼らは民族的な伝統・文化・歴史そして宗教を持っていない。
   ・   ・    ・   
 現代日本で魑魅魍魎的に跋扈しているクライアントとは、マイノリティ・ファシズムエコ・テロリストヒューマニズム原理主義、環境過激派、リベラル・ファシズム(エセ・リベラル)は、文化マルクス主義の反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人達である。
 そして彼らは、多様性を広めようとしているイデオロギー的不寛容な差別主義者である。
   ・   ・   ・   
 現代日本には、本当の意味でのリベラルは存在しない、もし居るとしてもほんのわずかで多くはエセ・リベラルであった。
 エセ・リベラルはリベラル左派で、国家を否定し安倍元総理暗殺テロを肯定する隠れサヨク過激派で、日本国と日本民族の事など考えてもいなければ心配もしていない、彼らの本心は、日本国の分断であり、日本民族の消滅である。
 民族国民(在来種日本人)は、リベラル市民(エセ・リベラル)の底の浅さを感じ、総選挙でエセ・リベラルを支持しなかった。
 岩田温「……『今まで何ら一矢報いることができなかったリベラル市民として言えば、暗殺が成功してよかった』
 ……
 『あの死者(安倍元総理)はもともと「凶相」であった。他方、襲ったの青年にはいささかの同情を禁じえない。風景の奥行は、見かけよりかなり深い。……』
 ……
 リベラルファシズム
 安倍元総理は『多様性には二種類ある』と言っていたとか。第一に主張を認めさせるときに利用する多様性。第二に、異なる意見を排除するときに利用する多様性。安倍元総理はこれを『リベラルファシズム』と呼んでいました。
 ……
 リベラルは本来、寛容さを持ち合わせているはず。ところが、いつの間にか単なるイデオロギー集団と化してしまった。イギリス人ジャーナリストのダグラス・マレーが『大衆の狂気』で、リベラルの異常性を紹介しています。……
 ……
 国家は否定すべき存在だとする考えは、アカデミズムにも蔓延している。私の友人が学会で日本を『わが国』と呼んだら、会場がザワついたそうです。『わが国』はNG,『この国』ならOKだとか。
 ……
 これが〝わが国〟の現状です。アカデミズムにおいては、保守派こそ圧倒的マイノリティ。……」
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