🌈73)74)75)─1─江戸時代の好奇心は海を越えた。~No.124No.125No.126No.127No.128No.129  ⑭ 終わり。

好奇心と日本人 〔多重構造社会の理論〕
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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本人の好奇心は、日本に豊をもたらしたが、同時に不幸・不運をも招いた。
 日本人の好奇心とは「パンドラの箱」であった。
 つまり、日本の幸福と幸運は開く事ではなく閉ざす事、籠もる事で得られた。
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 現代日本の歴史は捏造され、歪曲され、改竄されてウソが多く、本当・事実は少ない。
 歴史において真実は一つではなく、そもそも歴史に「これが真実だ」などはない。
 現代日本の歴史、戦後の日本の歴史にそれがハッキリと言える。
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 2020年10月4日号 サンデー毎日「今こそ。読みたい
 『好奇心と日本人 多重構造社会の理論』 鶴見和子

 藤原書店
 『見たい』『知りたい』という情動が活力になっていた時代があった
 評者 川本三郎
 好奇心とは何か。未知の海外の文物に対する好奇心もあれば、身近な動植物に対する無償の好奇心もある。
 『見てはいけない』『開いてはいけない』と禁止されながらつい見てしまい災厄を招く好奇心もある(まさにCuriosity killed the cat)。
 この人間の基本的な情動である好奇心を学問の対象にした面白い本。1972年に出版された本の復刊になる。
 著者(1918~2006年)は比較社会学者だけに、好奇心を広く日本文化、歴史のなかに置いてとらえてゆく。
 『日本人は好奇心の強い国民である』という。
 たとえば1542年、種子島に漂着したポルトガル人によって火縄銃を初めて見た日本人は驚き、興奮し、彼らを好感を持って迎えたという。
 またフランシスコ・ザビエルは、日本人は他の民族よりはるかに好奇心が旺盛で知識欲に富んでいると書き記している。
 幕末に日本に来たイギリスの外交官アーネスト・サトウもまた日本人は外国人に対しつねに好意的であったと記している。
 なぜ日本人は好奇心が強いのか。著者はさまざまな観点からその理由を探ってゆく。
 島国で外界と距離があったから未知のものに興味を持ったこともあるだろう。
 一木一草(いちぼくいっそう)に神が宿ると考える多神教の国だから、外からのものも容易に受け入れてしまうこともある。
 日本の歴史は開国と鎖国の繰り返しだった。そのため幕末になって外国と接した時、それまで抑えられていた好奇心が一気にほとばしる出た。日本の近代化はこの爆発的好奇心の結果だとする見方も興味深い。
 鎖国の時代にも海外に飛び出した人間がいる。漂流民。彼らは海難事故に遭い、やむなく国禁を破り、外国を知った。
 ロシアで長く暮らすことになった大黒屋光太夫アメリカに渡ったジョン万次郎。
 彼らはあふれ出る好奇心で異国の文化を眺め、観察し、帰国後、それを豊かに報告した。彼ら好奇心あふれる漂流民が徳川の鎖国体制に風穴を開けた。
 副題にある『多重構造社会』とは少し分かりにくいが、日本にはさまざまな集団、組織が切り離され、閉鎖的な社会、タテ社会を作っている。その社会を揺るがす力が、漂流民に象徴される好奇心だという。
 言葉の問題も面白い。
 日本語は容易に外来語を取り込んでゆく構造を持っている。
 『日本語の語彙の中で、約4割が中国語からの外来語、1割がその他の外来語』『わたしたちの使っていることばの半分は外来語だということになる』
 しかもこれは戦前の数字。現代は外来語がもっと増えているだろう。これも日本人の好奇心のあらわれ。
 小さなことだが『ズベ公』はポルトガル語スペイン語のespada(スベタ=トランプの零点札)に公が付いた言葉だとは、はじめて知った。
 近年の日本の社会は好奇心が弱くなっているのか、内向きになっているようだ。海外留学する学生も減っている。
 おまけにここにきてコロナ禍で、ますます外に出てゆかなくなってゆく。
 好奇心が弱まると社会の活力がなくなるのではないか。」
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 日本列島には、四季折々に変化する実り多き自然と雑多に多発し甚大な災害をもたらす自然はあっても、閉鎖空間であった為に好奇心を満たす高度な文化・技術が乏しかった。
 八方塞がりの息苦しい閉塞感から、江戸時代の人々は海外への好奇心は強かったが、その好奇心は、カビが生えたような古臭く分かりきった中国や朝鮮ではなく、幾ら考えても理解できない西洋に対してであった。
 日本人がアジアで関心を持っていたのは、御仏の国・極楽浄土がある天竺(インド・中央アジアガンダーラチベットなど)であった。
 中国の唐(から)とは、隋・唐・南宋であったそれ以外の諸王朝ではなく、現代の中国共産党が死と暴力で恐怖支配する中国ではない。
 日本は儒教の国といっても、日本儒教と中国・朝鮮の中華儒教は水と油に近いほどに違う儒教である。
 それは、仏教においても同様で、日本仏教は南宋までのアジア大乗仏教上座部仏教に通じるところはあっても現代の中国仏教・韓国仏教とは違う。
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 日本列島の外の世界は、強者必勝・弱者必敗、勝者生・敗者死という実力(知能・身体能力)至上の弱肉強食社会であった。
 つまり、世界の常識とは支配者・民衆・奴隷の三層階級社会であった。
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 日本人は昔から海外に対する憧れが強く、海外には極楽浄土・天国のような理想国家がり、日本はその理想国家に比べたら野蛮で酷い国だと信じていた。
 そしいて舶来の品であればどんなガラクタでも優れて素晴らしいモノだと信じ、高価で取引し、財産を傾けて購入して自慢して飾り拝むように眺めていた。
 舶来物に比べて如何に優れた日本産も価値が低いとされた。
 蘭癖大名は他藩よりも先に舶来物を大金を払って購入した為に、藩の財政は赤字となり、領民に対して重税が課せらた。
 領民(百姓)は、大名の外国趣味の為に、重税で貧困を強いられ生活苦から借金が嵩み、娘は家族の犠牲として女郎に売られていった。
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 日本は現代より時代が古くなるほど、日本人の好奇心が旺盛である。
 特に江戸時代は鎖国をしていたが、知識人は海外に対する好奇心が旺盛で外国語が読めないにもかかわず大まかな西洋事情を知っていた。
 徳川幕府は、より詳しい情報を持っていたが公表せず隠匿していた。
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 現代日本の歴史は、鎖国を批判している。
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 鎖国には大きく二つの目的があった、宗教的人種差別を神の御名による正義とする排他的不寛容な一神教キリスト教の排除と海外の疫病を水際で食い止め国内に蔓延させない事であった。
 疫病においては、中国人商人が出入りする長崎の唐人屋敷辺りから幾度も上陸し、京・大阪の西日本の広がり、より毒性と感染力の強い疫病は江戸の東日本まで蔓延して夥しい犠牲者を出していた。
 キリスト教への恐怖は、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人らによって日本人(女性や子供)が奴隷として海外に売り飛ばされた事である。
 が、民族遺伝病とも言える重度な健忘症の日本人は祖先に起きた忌まわしい出来事を全て忘れ、思い出したくもない記録は残さず不都合な古文書は破棄した。
 日本人を中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人に奴隷として売ったのは、日本人である。
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 日本の庶民(百姓や町人)とは、武士・サムライが嫌い差別した強欲な人間であった。
 日本人は、金持ちになる為に日本人の命を金で売ったのである。
 現代日本人は、そうした強欲非情な日本人の子孫で、その証拠に中国との貿易の為にチベットウイグル内モンゴル・香港などで中国共産党が行っているジェノサイドに関心を持たない。
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 現代の日本人は、死を覚悟した潔い武士・サムライではなく、金に意地汚く生きる事に貪欲な庶民の子孫である。
 その気質は、右翼・右派・ネットサハに色濃い。
 そして、当然の事ながら左翼・左派・ネットサハも武士・サムライの子孫ではない。
 特に反天皇反日的日本人達は、武士・サムライでもなければ庶民でもない。
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💍7)─5─菅政権の皇位継承議論。政府・与党幹部・保守派に女系容認が広がる。〜No.40No.41No.42 ⑦ 終わり。

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 反天皇的日本人達によって、神話における血統・皇統を唯一の正統とする万世一系男系天皇(直系長子相続)は消滅しようとしている。
 将来の天皇は、神の血統による正統ではなく憲法・法律の皇統を正当として即位する事になる。
 2000年以上受け継いできた日本民族の伝統文化である天皇の血筋は、戦後に成立した日本国憲法が定める主権在民から日本国民の選択として消滅する運命にある。
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 日本民族の伝統文化には、数万年前の縄文人の心・精神・念いが宿っている。
 数千年前の弥生人は、揚子江流域にあった長江文明の宗教(祖先神・氏神の人神崇拝=血筋・血統崇拝=神の裔・祭祀王の大王・天皇)を日本列島に根付かせた。
 ヤマト大王・日本天皇とは、殺し合いの弥生の大乱を平和裏に鎮める為にヤマト人のムラ的合意で作り出した空気、心穏やかな和を広める為の空気圧・同調圧力であった。
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 森羅万象、全てに寿命がある。
 日本天皇家にも、日本国にも、日本民族にも寿命がある。
 寿命が尽きれば、北米大陸を飛んでいた旅行鳩のように人間の手で殺され死滅させられる。 
 旅行鳩を殺し尽くした人間は、種が絶滅して消えても反省しないし後悔もせず、それどころか別の土地から血の繋がらない別種のハトを持ってきて大空に放ち、別種のハトが死滅した旅行鳩が飛んでいた大空を飛び回る姿を見て満足している。
 死んだ旅行鳩も生きている別種のハトも見た目では同じ姿形のハト目ハト科の鳥に過ぎず、誰も血の繋がりなど気にしない。
 つまり、血の繋がりがなくても日本産トキも中国産朱鷺も同じコウノトリ目トキ科で、日本の空を飛べばすべたが日本のトキである。 
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 2020年9月23日 産経新聞「菅政権は皇位継承議論をどう進めるか 政府・与党幹部に「女系」容認も 
 菅義偉首相=23日午前、首相官邸(春名中撮影)
 菅義偉政権が皇位継承のあり方に関する議論をどう進めるか、注目が集まっている。官房長官時代は安倍晋三内閣のスポークスマンとして、父方に天皇の血筋を持つ「男系継承」を尊重する姿勢を示してきたが、現在の政府・与党には過去に例のない「女系天皇」を容認する幹部もいる。新政権誕生をきっかけに長年の伝統が崩れることを心配する声は多い。
 「男系継承が古来、例外なく維持されてきたことの重みを踏まえながら、慎重かつ丁寧に検討を行っていく必要がある」
 首相は官房長官時代、安定的な皇位継承のあり方について、記者会見などでこう述べてきた。ただ、この見解は伝統を重視する安倍氏の意向が反映された部分が大きい。安倍氏はかねて、女性皇族が結婚後に宮家を立てて皇室に残り皇族として活動する「女性宮家」創設にも後ろ向きだった。
 安倍氏が去った後の政府・与党の中枢には、男系継承に理解があるとは言い切れない重鎮もいる。菅政権誕生の立役者となった自民党二階俊博幹事長は、過去に女性天皇女系天皇に関して「男女平等、民主主義の社会なので、それを念頭に入れて問題を考えていけば、おのずから結論は出るだろうと思っている」と語った。
 首相に近いとされる河野太郎行政改革担当相も、男系継承が「一番望ましい」としながらも、「次の世代は(秋篠宮ご夫妻の長男の)悠仁さましかいらっしゃらないので、男系を維持していくのはかなりのリスクがある」と述べている。男系を維持するため、戦後に皇籍を離脱した旧宮家の人々の復帰について「グロテスクだ」と露骨に嫌悪感を示す政府高官までいる。
 今月の総裁選で皇位継承のあり方は具体的なテーマにならず、首相の本音は明らかではない。ただ、官房長官として上皇さまの譲位などに伴う法整備などに携わっており「皇室の歴史や重要性は熟知している」(学識経験者)と期待する向きもある。
 首相にとって重要課題となるのが、安倍氏が果たせなかった皇位継承策の論点整理だ。現在、作業は中断しているが、麗澤大の八木秀次教授は「男系継承は原理であり、菅首相には安倍氏の男系を尊重するという考えを堅持してほしい。論点整理では旧宮家復帰を盛り込んでいくべきだ」と強調した。(永原慎吾)」
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💖27)─2─欧米諸国はホロコーストを黙認しユダヤ人を見捨てた。〜No.112No.113No.114 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 欧米の連合国・枢軸国、バチカンキリスト教会、国際赤十字社とボランティア組織は、ユダヤ人の告発でナチス・ドイツが虐殺を行っているらしい事は知っていたが、それはユダヤ人のウソだとして相手にしなかった。
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 ヒトラーは、自国内及び占領地に住む数百万人のユダヤ人を処分、つまり域外に追放したかったが、世界が受け入れを拒否した為に移住先を失ったユダヤ人を最終処分(虐殺)する事にした。
 もし、アメリカやイギリスなどの連合国が、ヨーロッパ・ユダヤ人約1,000万人を自国もしくは植民地に無条件で受け入れいればホロコーストは起きなかった。
 が、如何なる国の国民も、1,000万人のユダヤ人難民を入国させ定住させ、移民した文化・宗教・言語・風習・習慣が違うユダヤ系国民を隣人として増やす事に猛反対した。
 世界は、親ユダヤは少数派で、反ユダヤは多数派であった。
 各国には、反ユダヤという人種差別からユダヤ人に対する迫害が多発していた。
 人類の無償による自己犠牲のボランティアは、架空の作り話である。
 嫌いなのは、合理的説明なしに、理屈なしに、理解無用で嫌いなのである。
 人は心を開いて相手を理解しようと思ってとことん話し合えば最後には分かり合える、はウソである。
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 世界は、親日・知日は少数派で、反日・敵日は多数派であった。
 ユダ人社会でも、親日派は少数で、反日派が多数であった。
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 軍国日本は、カミカゼ特攻や玉砕など絶望的戦争を繰り返していた為に、地球の裏側でナチス・ドイツが何をしているか知る由もなかった。
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 軍部・陸軍、靖国神社A級戦犯達は、ヒトラーから逃げてきたユダヤ人難民を助け、ナチス・ドイツの外圧を撥ね付けて敗戦後まで保護し面倒を見た。
 昭和天皇は、親ユダヤ派・親英米派で、反ヒトラースターリン派で、人種差別に反対で、平和主義者で、ユダヤ人難民の保護を求めた。
 ユダヤ人難民を助けたのは、天皇主義者・民族主義者・軍国主義者であって、反ユダヤ派・人種差別主義者の右翼・右派ではない。
 ユダヤ人難民を助けた日本人は、国際法によって戦争犯罪者として有罪判決を受け見せしめのリンチ的縛り首で処刑され、遺灰は海にゴミとして捨てられ供養が認められなかった。
 事実が分かっている現代においても、国内外から怨嗟の声・呪いの声で人間性が否定さ尊厳が踏みにじられている。
 ユダヤ人難民を助けても、悲惨な運命に追いやられ、報われるところは何もなかった。
 それが、靖国神社問題であり、現代の歴史教育問題である。
 現代の日本人は、隣国の中国共産党が行っている身の毛もよだつような非人道的ジェノサイドに無関心で、口先だけで「命は大事」や「人権尊重」と言いながら、現実に悲惨な境遇にあり拷問や虐殺されている人びとを助けもしないし、抗議する声一つあげない。
 現代の日本人には、昔の日本、戦前の日本、を「正義の名」において裁断する資格はない。
 特に、天皇・皇族・皇室を批判・非難し、万世一系男系天皇制度廃絶を求める反天皇反日的日本人達、昭和天皇を犯罪者として戦争責任を告発し戦争責任を追及する日本人である。
 現代の日本では、無報酬の自己犠牲的な人助けは「むなしい」。
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 YAHOO!JAPANニュース「ホロコーストの悲劇、米国に入国拒否された「セントルイス号」乗客のユダヤ人の運命を辿ったツイート
 佐藤仁 | 学術研究員
 2017/1/29(日) 2:34
 ナチスドイツによる600万人以上のユダヤ人やロマらを大量虐殺したホロコーストの象徴であるアウシュビッツ絶滅収容所が解放されたのが1945年1月27日。そして1月27日は「国際ホロコースト記念日」だ。
 セントルイス号乗客の運命をツイート
 2017年1月、アウシュビッツ解放72年を記念してユダヤ人の教育家Russel Neiss氏がセントルイス号の乗客らのためにTwitterのアカウントを作った。セントルイス号は、当時のドイツとアメリカを結ぶ船で、この船に乗って欧州から約900人のユダヤ人がアメリカに逃れようとしたが、入国を拒否されて、結局セントルイス号は欧州に戻らざるを得ず、多くのユダヤ人がナチスによって迫害され、そのほとんどが殺害された(詳細は下部参照)。
 Twitterのアカウントも「St. Louis Manifest」で日本語に訳すと「セントルイス号の乗客名簿」だ。このアカウントではセントルイス号の乗客でナチスドイツの犠牲になったユダヤ人たちの運命をあたかも本人がツイートしているかのように辿っている。当時は当然Twitterもインターネットもなかった。セントルイス号の乗客でナチスの犠牲となったユダヤ人たちの運命が72年経って、Twitterで全世界に公開されている。犠牲者たちの写真も多く残っており、以下のような悲劇的なツイートが約250人分掲載されている。
 「私の名前はヴェルナー・シュタイン。1939年にアメリカへの入国を拒否されました。そしてアウシュビッツで殺害されました。(My name is Werner Stein. The US turned me away at the border in 1939. I was murdered in Auschwitz)」というように、犠牲者の名前とその後の運命を辿るツイートが続いている。犠牲者の写真が残っている場合は写真もある。モノクロやセピアの写真は家族や友人らと一緒に平和な時期に撮影されたものばかりだ。犠牲者の中には小さな子供も多く、ナチスに迫害されていなかったら、まだ存命だった人も多いだろう。  
 セントルイス号乗客の運命
 1939年5月に欧州からのユダヤ人で満員のセントルイス号を追い返したように、アメリカにはナチス支配地域からのユダヤ人難民を歓迎する空気はなかった。どこの国もユダヤ人を受け入れようとしなかったため、セントルイス号はヨーロッパに戻り、ユダヤ人たちはフランス、オランダ、ベルギー、英国に引き取られた。そして1940年以降に大量虐殺を免れることができたのは英国に引き取られたユダヤ人だけだった。下記に『ホロコースト全史』(マイケル・ベーレンバウム著、芝健介監修)にその様子が描写されているので、長文だが抜粋し引用しておく。
……」
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 ユダヤ難民に冷淡だった欧米諸国
 原文はこちら→ http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hb/a6fhb300.html
 第1章  はじめに
 第二次世界大戦中、ドイツで公然と行なわれたユダヤ人迫害に関して、ヨーロッパの国々もアメリカも長い間沈黙を続けた。 人道主義という立場で 「ナチス・ドイツに対して厳重に抗議すべし」 と主張した人たちも確かにいた。 しかし、この人たちは多勢に無勢で、まとまった力にならず、ナチス・ドイツを正面きって弾劾することが出来ず、ユダヤ人を進んで救おうとする動きを作ることが出来なかった。 そして、戦争が最終段階に入って誰の目にもナチス・ドイツの崩壊がはっきり判る頃になって、ユダヤ人救済の声がようやく国際的に上がり始めた。 しかし、時すでに遅かった。
 アーロン&ロフタス著『汚れた三位一体〈バチカンナチスソ連情報部〉』には次のように書かれている。
 「1943年4月、イギリスとアメリカの高官レベル会議(バミューダ会議)で、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害政策に対しては、何もすべきでないことが正式に決まり、大量救出のためのあらゆる計画が放棄された。 イギリス外務省とアメリ国務省は、ナチス・ドイツがユダヤ人迫害を中止した場合、強制収容所で生き残ったユダヤ人数十万人が西側に流れ込むことを心配した。 1943年の終わり頃、イギリス外務省は 「ドイツヘの対応があまりに強化されれば、この事態が起こりかねない」 との懸念をアメリ国務省に明示した。 1943年春に開かれたバミューダ会議の秘密報告書は、ユダヤ人の入国を望む国が1つもなかったことを明らかにしている。 ユダヤ人をアメリカやイギリスやカナダに大量疎開させるより、ヒトラーに任せておく方が得策だと、彼らは考えた」。
 第2章  不発に終わった「エビアン会議(1938年)」
 1938年7月6日、32ヶ国の代表者がフランスのエビアンレマン湖南岸の保養地)に集まり、ユダヤ難民問題の会議「エビアン会議」を開いた。 ナチス政権がユダヤ人迫害を始めてから既に5年が経っていた。 ナチスユダヤ人迫害はいよいよ露骨になり、それを多くの人々が知り、欧米諸国が国内の世論を無視できなくなっていた。 各国の代表者は、人道主義的立場から、虐げられているユダヤ人を救済するためには全員一致してナチス政権の反ユダヤ政策を阻止すべしとか、ユダヤ難民を受け入れようとか、熱弁をふるった。 しかし、それらは空理空論ばかりで、実行可能な具体策は1つもなかった。 各国代表は、どこかの国が問題を解決してくれるだろうと期待し、終には異口同音に、「我々はユダヤ難民に手を差し伸べるのにやぶさかではないが、我が国の現状がそれを許さないのは誠に遺憾である」 という趣旨の発言をした。 結局のところ、イギリス政府も、アメリカ政府も、フランス政府も、難民受け入れのために移民法をほんの少しでも緩めるどころか、反対に移民制限を厳しくした。 ドイツの隣国であるスイスも、ユダヤ人の不法越境が増えたので困ると言って、ナチス政権に抗議した。 イギリスのチェンバレン首相(在任 1937年~1940年)が 「ユダヤ人を受け入れることによって、国内の反ユダヤ主義が強まるのを恐れる」 と言い訳し、ナチス政権の外相リッベントロップは 「我々がドイツからユダヤ人を放逐しようと思っても、どこもユダヤ人を受け入れてくれない」 と、こぼしたそうである。 実際にはイギリスとオーストラリアが僅かではあったが、ユダヤ難民受け入れに手を貸した。 しかし、それも、国民を刺激することを恐れて、秘密裏に行なわれた。 ナチス政権はこういうヨーロッパ全体の反応を予測していた。 ユダヤ人救済のラッパは鳴れども、誰も動かなかった。 ナチス政権の理論的指導者として活躍したアルフレート・ローゼンベルクは、このエビアン会議について、党機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』に論説を寄せ、国際会議というものは伝統的に反ユダヤ主義者の代表の集まる場であることを指摘した。
 エビアン会議が不発に終わってから4ヶ月後の1938年11月9日、ドイツでは「水晶の夜」と呼ばれるユダヤ人迫害事件が起き、計画的なユダヤ人迫害が始まった。 この「水晶の夜」と呼ばれるユダヤ人迫害事件は、ユダヤ人青年が在フランス・ドイツ大使館の書記官であるフォン・ラートを射殺した事が切っ掛けとなって起きた。 この事件によって、ドイツ全土の400のシナゴーグユダヤ教会堂)のほとんど全てが焼き打ちされ、7500のユダヤ人商店が破壊された。 その際に砕け散った窓ガラスが月明かりに照らされて水晶のように輝いたことから「水晶の夜」と言われているが、実際には殺害されたユダヤ人の血や遺体、壊された建造物の瓦礫などで現場は悲惨なものだったという。 この事件で96人のユダヤ人が殺され、2万6000人のユダヤ人が逮捕されて強制収容所に連行された。 この事件を機に、ヒトラーユダヤ人の大規模な国外追放を始めた。
 エビアン会議で西側諸国がユダヤ難民の保護に二の足を踏んだことが、ユダヤ人迫害の完遂を急ぐナチス・ドイツにゴーサインを送ることになったと見る歴史家は少なくない。 ルント・シラー著『ユダヤ人を救った外交官 ラウル・ワレンバーグ』(明石書店)の訳者である田村光彰氏(北陸大学法学部教員)は、エビアン会議の実態について次のように語っている。
 「1938年7月6日、フランスの保養地エビアンで10日間にわたる国際難民会議が開催された。 この会議では、わずかな例外を除いて、いかなる国もユダヤ難民を引き受けようとはしなかった。 そればかりか、その時点まで法律上受け入れの可能性のあった国々は、移民法を改正し、締め出しを図り、少しではあるが開いていた国境を閉じた。 ユダヤ難民の入国を拒否する理由は、第1に福祉政策上の恐れであった。 ユダヤ人は多くの法律や条例で職業から締め出され、ユダヤ人自営業は閉鎖され、人間として生存する最低限の市民権をも奪われていた。 更に、ドイツやオーストリアから国外移住する場合には、ほぼ全財産が没収された。 貧困と絶望がユダヤ人を直撃した。 諸外国は、入国してくるユダヤ難民が福祉の受給者になることを避けようとした。 第2に、世界恐慌の影響と、それによる自国内の失業者の存在である。  〈中略〉 32ヶ国の代表と39の救援組織が参加したこの国際難民会議は、見るべき成果がほとんどなかった。 ユダヤ難民を救うという本来の主旨は、難民の救済とは不釣り合いな開催場所である保養地の湯煙のなかに雲散霧消してしまった。 以降、ユダヤ難民に手を差し伸べようとする組織的で国際的な努力は、第二次世界大戦の勃発と共に、ほんの少数の例を除いて、消滅していった」。
 第3章  ユダヤ難民に冷淡だったフランス
 ナチス・ドイツがフランスに侵入して来る2年前、フランスのダラディエ首相はユダヤ移民を対象とした人種差別法令を発していた。 また、フランスの「ユダヤ人問題委員会」のベルポワは 「戦争を望んでいるのはユダヤ人である。 戦争が彼らの経済を助長し、世界征服へと繋がるものであるからだ」と述べ、更に「ヒトラーは問題解決法をよくわきまえた人物である」と、ナチス政権の政策を称賛した。 1938年11月の「水晶の夜」事件以後、ドイツを脱出するユダヤ人が続出すると、フランスはその波(影響)が自国を揺さぶらないように手を打ち始めた。 イギリスのチェンバレン首相がパリに出向いて、「もっとユダヤ人を受け入れるべし」とフランスに対して勧告すると、「これまでユダヤ人を入れ過ぎた。 もう一人たりとも入国させられない」と、フランス側は返答した。 その言葉通りにフランスはドイツからのユダヤ難民を送り返した。
 1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵入すると、同年9月3日、フランス政府はイギリス政府と共にドイツ政府に宣戦し、ここに第二次世界大戦が始まった。 フランスはドイツと戦う自信が十分にあったが、宣戦布告から僅か9ヶ月後の1940年6月にドイツに降伏し、ヴィシー政権(1940年~1944年)が生まれた。 フランスではそれから3ヶ月も経たないうちに「ユダヤ人を差別する法規」が作られ、実施された。 その第1段階として、ユダヤ人は公職から追放され、学校・病院といった公的機関からも締め出され、翌年からは自由業も禁止され、ユダヤ人の大部分は失業を余儀なくされた。 ユダヤ人学生は、1941年6月に作られた法規によって大学進学の道を封じられ、ユダヤ人の子供たちは公園で遊ぶことを禁じられた。
 フランスには、1870年に成立した「クレミュー法令」というのがあって、それによってユダヤ人に対する中傷も禁じられていたが、ヴィシー政権は「クレミュー法令」の無効を宣言した。 この法令は、ある種の人間の集団に対してジャーナリズムが人種的・宗教的反感を煽り立てることを禁じたものであったが、ヴィシー政権下ではその無効宣言によって、反ユダヤ主義運動が合法化された。 ヴィシー政権ナチス・ドイツに屈服した後で成立したから、あたかもナチス政権の圧力によってユダヤ人迫害に手を染めたかのように一般には信じられてきたが、実際には「クレミュー法令」の無効宣言はヴィシー政権が自発的に発したのであった。 ヴィシー政権のラヴァル首相は、ドイツの反ユダヤ主義を利用して、フランスの再建を図った。 彼は「永遠に同化しようとしないユダヤ民族は、フランスの中に別の国家を築いて我々を滅ぼそうとしているのである」などと言い、1941年の春にはユダヤ人の財産没収を宣言した。 ユダヤ人の財産没収のことを「アーリアニザション(アーリアン族所有化)」と称し、得意になったラヴァル首相は、ドイツのSS将校との会合において、「反ユダヤ主義の行動という点では、我々フランスのほうが諸君ナチス・ドイツよりも先輩である」と言ったと言われている。 しかし、この「アーリアニザション」たるや、体裁のよい掠奪みたいなものであった。 例えば、没収した物品についての控えもろくに付けていなかった場合が多く、没収財産の大方は行方不明となり、それに携わった役人の懐に入ってしまったと言われている。
 第4章  ユダヤ難民に冷淡だったイギリス
 第一次世界大戦後、イギリスは、パレスチナ占領の実績にものを言わせて、国際連盟からパレスチナ委任統治権を得た。 同時にイギリスはユダヤ人の国家作りも課題として負わされた。 当時、イギリスは国内政策としても、外交政策としても、ユダヤ人に関する難題を抱えていた。 具体的には、第一次世界大戦前にロシアからおびただしい数のユダヤ人がドーバー海峡を渡って住み着いた上に、1930年代に入ってからはドイツからユダヤ人が押し寄せ、国内にユダヤ・ストレスが貯まっていた。 イギリスのチェンバレン首相は、先述したように、フランス政府に対してユダヤ難民をもっと受け入れるようにと、人道的な呼び掛けをしたが、自国や委任統治パレスチナに大量のユダヤ人を受け入れることを種々の理由で渋っていた。 そのようなイギリスの政策によって、どれだけのユダヤ人が命を失ったか計り知れないと言われている。
 シオニズム発生以来、パレスチナへ流れ込んだユダヤ人はロシア、ポーランドルーマニアスロバキアハンガリーブルガリアリトアニアラトビア、などからやって来た東欧ハザール系ユダヤ人であった。
 1942年12月、イギリス議会下院で、リバプール選出のシドニー・シルバーマン議員がアンソニー・イーデン外相に対し、「ドイツが全てのユダヤ人を東ヨーロッパへ追放し、彼らの殺害を計画している」という説の真偽を質問した。 それに対し、イーデン外相は次のように答えた。 「その通りであります。 占領下のヨーロッパで、ドイツの支配下に置かれているユダヤ人が野蛮で非人道的な扱いを受けているということに関し、最近、信頼すべき報告が政府に届いていることを議会の場でご報告申し上げねばならないのは、たいへん遺憾なことであります」。 このようにイギリス政府はヒトラー政権下のハザール系ユダヤ人の悲惨な状況を明確に把握していた。 しかし、イギリス政府は東欧ハザール系ユダヤ難民に対して冷淡・無関心な姿勢を崩すことはなかった。
 第5章  ユダヤ難民に冷淡だったアメリ
 1930年代末(第二次世界大戦当初)、ユダヤ人の追放・処刑・殺害といったニュースがナチス・ドイツ占領下のポーランドからアメリカに伝わってきた時、アメリカ政府はユダヤ難民の受け入れの意志を見せなかった。 ルーズベルト大統領はユダヤ人の収容地としてドミニカ共和国を考えていたようである。 スペイン政府は40万人のユダヤ人に対して、行先国のビザを所有する者に限って通過を許可したが、そのような時でもアメリカ政府は知らぬ顔を通した。 1930年代のアメリカでは、ユダヤ人が政府の職に多く就きすぎていると考える者が24%、ヨーロッパでユダヤ人が迫害を受けているのは彼ら自身の責任であると思う者が35%で、ドイツから多数のユダヤ人がアメリカに亡命してきたら受け入れるべきかという問いに対しては、回答者の77%が否定的だった。 また、大西洋横断無着陸単独飛行に世界で初めて成功したチャールズ・リンドバーグ第二次世界大戦へのアメリカの参戦に反対し、「ユダヤ人とイギリス政府とルーズベルト大統領がアメリカを参戦させようとしている」と主張した。 彼はその後も親ナチス的な言葉を口にし、大戦中、反ユダヤ主義を公然と支持した。
 ナチスに追われたユダヤ人がアメリカに押し寄せ始めた時、アメリカ政府は1939年6月の「スミス法」で外国人受け入れ取締りを強化し、続いて1941年11月には「ラッセル法」を制定してビザ発給を制限した。 それにより、ヨーロッパにおけるアメリカ政府の出先機関はビザ発給を停止したのも同然であった。 ナチス政権は初めの頃はユダヤ人がドイツ国外に移住するのを黙認していたが、1941年10月、ユダヤ人のドイツ国外への移住を禁止した。 だから、それまでにアメリカがもっとユダヤ人を受け入れていれば、迫害の犠牲とならずに済んだユダヤ人はかなりいたであろうと言われている。 アメリカ政府は、それらの人々にとって最も貴重な時期に2つの法令を以てユダヤ人の足を二重に縛った。
 1930年代、アメリカ政府は、イギリス政府からユダヤ人受け入れの催促を受けた時、「戦争が済んだ後、それらのユダヤ人たちが再びイギリスに戻るという保証がない限り、受け入れられない」と言い、1940年になって現実に受け入れたのは、わずか3万6000人あまりであった。 そして、その後も1日に20人~30人のみの審査をするといった悠長さであった。 1942年に、ソ連邦内のユダヤ人母子1万人をソ連から他国に移動させるのを手伝う用意があると、アメリカ政府が声明を出したが、これとてアメリカが自国に引き取るのではなく、具体的には「ソ連からペルシャに集結した難民1万人をメキシコに送る輸送料を受け持つ」というものであった。 1942年8月に在スイスのアメリカ大使館からの報告で、「ナチス政権がヨーロッパにおいて大量のユダヤ人を殺害する計画を企てている」と聞かされた時も、アメリカ政府は「ユダヤ人の被害妄想的プロパガンダ」としか受け取らなかった。
 ルーズベルト大統領夫人のエリノア・ルーズベルトが、ユダヤ人たちをアメリカもしくはアフリカに受け入れるべきであると世論に訴えたこともあったが、その気のないアメリ国務省は船舶不足を理由に、夫人の提案を退けた。 そして、「ナチスのスパイが潜入していることも考えねばならない」と付け加え、更に「いずれにせよ、我々はユダヤ人問題に関わり合う立場ではない」と、一切の救援を拒否する態度を明らかにした。 また、国際的に活躍していたアメリカのランドール女史が「アメリカは、現行の移民法でも最小で50万人のユダヤ人を救うことが出来るはずである。 私たちは末長く、兄弟を裏切った者と呼ばれたいのですか」と訴えたが、これも空しく響いただけであった。
 アメリカ政府はユダヤ人迫害の情報を秘密にして、それらの情報が一般市民には出来るだけ洩れないように努めた。 一般市民たちから集会やデモなどによって突き上げられるのを恐れたためである。 1943年、シュテフェン・ワイスという事業家が、スイスに溜めておいた私財を投じて、ナチスに賄賂を使い、7万人のユダヤ人を救出する計画を立て、着々と準備していたが、アメリ国務省はこの計画のためには動こうとせず、その上、イギリス政府も7万人のユダヤ人を救った後のことを憂慮して、協力することを拒んだ。 シュテフェン・ワイスとその仲間は、このときの状況について「これはイギリス的冷酷と二枚舌の悪魔的な結合であり、これでは死刑宣告と同じだ」と言って、嘆いたという。
 第二次世界大戦中のアメリカ政府によるユダヤ人救済政策の手ぬるさを厳しく批判した歴史家ダヴィッド・ウェイマンは著書『招かれざる民 アメリカとヨーロッパ・ユダヤ人の虐殺』の中で次のように指摘している。
 「ドイツとオーストリアにいた凡そ70万人のユダヤ人のうち、その半数が第二次世界大戦開始前に外国へ移住・逃亡した。 そのうちの10万人をアメリカが、10万人弱をパレスチナが、5万人をイギリスが、5万人弱をその他の諸国が受けいれた。 残る30万ほどのユダヤ人の多くがナチスによる絶滅計画の犠牲になることになる。 そして、第二次世界大戦の開始によって、ドイツの支配下に入ったポーランドへ向けて、各地からユダヤ人の強制輸送が始まった。 1941年10月には、ナチス第三帝国支配下の地域からのユダヤ人の移住は禁止され、海外への逃亡の道は全く閉ざされることになったのである」。
 リトアニア生まれのユダヤ人であるソリー・ガノールは、少年時代にナチスの迫害にあい、ダッハウ収容所に収容されたが、アメリカの日系人部隊によって救出されたという。 彼はこの時の体験を著書『日本人に救われたユダヤ人の手記』(講談社)にまとめている。 彼は当時のアメリカ外交官について、この本の中で次のように書いている。
リトアニアの臨時の首都カウナスは長年にわたり、ユダヤ人がよそからの干渉をほとんど受けることなく暮らすことのできる、ヨーロッパで数少ない場所のひとつで、ユダヤ人は強固なコミュニティを築き上げていた。 私が11歳のとき、第二次世界大戦が始まり、一転して恐怖に満ちた日々となった。 カウナスは、ナチの手を逃れ、避難場所を提供してくれる国を必死に探し求める人々であふれかえる、ふきだまり地点と化した。 彼らの多くが断られ、あちらの政府こちらの当局から追い返された。 アメリカとイギリスの政府もそうであった。  〈中略〉 ダッハウ収容所で5歳年長のベルトルトと一緒に過ごすことが多くなった。 ベルトルトの一家は、私の家族と同じように、もう少しでアメリカに渡るところだった。 ポーランド駐在のアメリカ領事は最初、問題はないといっていた。 ところが、ベルトルトの母親がユダヤ人で、父がポーランド社会党のメンバーであるのを発見すると、『わが国にアカはいらん。 それにユダヤ人が洪水みたいにやってきては困るんでね』と手の平をかえした。 これをきいて、日ごろ温厚なベルトルトの父親が領事に飛びかかり、なぐりたおしてしまったという。 『これでアメリカ移住はおじゃんさ。 あげくの果てに、お袋と弟はアウシュヴィッツに送られ、おやじはワルシャワ蜂起のときに殺されたよ』 ユダヤ人を差別したこのアメリカ外交官と、カウナスの、あの日本領事代理(杉原千畝)はなんと違っていたことか」。
 アメリカを代表する歴史家の一人、ボストン大学ヒレル・レビン教授(ユダヤ学研究所所長)も、次のように語っている。
 「いくら日本政府に何らかの損得勘定があったにせよ、日本側の対応は当時のアメリカ政府の非協力的な対応に比べれば、天と地ほどの差がある。 もし、アメリカ政府がもっと積極的にユダヤ人救済に手を差し伸べていたら、何百万という命が助かっていたはずだからだ。 だがアメリカは、杉原がユダヤ人に対するビザの大量発給に注いだのと同じくらいの努力を、ビザを発給しない方向に使ったのだ。 当時から多くのユダヤ系移民がいたアメリカではユダヤ人勢力が社会に相当な影響力を持っていたはずである。 にもかかわらず、なぜアメリカはユダヤ人を救済しようとしなかったのか。 この問題はかなりのミステリーと言わざるを得ない」。
 第二次世界大戦中、アメリカ政府はユダヤ人に対する入国査証の発給を非常に制限し、 入国拒否に近い政策を執っていた。 明治学院大学法学部教授の丸山直起氏は、著書『太平洋戦争と上海のユダヤ難民』(法政大学出版局)の中で次のように述べている。
 「アメリカのルーズベルト大統領はユダヤ難民の境遇に同情し、亡命者あるいは難民としてアメリカに入国した多くの優秀なユダヤ人の能力を高く評価し、彼らを通じてドイツ国内の悲惨な状況を把握していた。 しかし、移民法を改正してユダヤ難民のために門戸を全面的に開放することまでは考えなかった。 1939年5月、ユダヤ難民を乗せドイツからキューバに到着しアメリカを目前にしたものの、ヨーロッパに送り返された『セント・ルイス号』難民の悲劇ほど、ユダヤ難民に対するアメリカの冷淡さを象徴する事件はなかった。 また、1942年以降、ユダヤ人虐殺の悲報がホワイトハウスに届けられたにもかかわらず、ルーズベルト大統領は積極的な行動に出ようとはしなかった。 1943年10月6日、ワシントンでナチスユダヤ人虐殺を糾弾する正統派ユダヤ教徒による集会と行進が挙行された際、ユダヤ教のラビ代表とルーズベルト大統領との会見の調整が試みられたが、ルーズベルト大統領は、こうした会談は国務長官が行なうべきであると判断し、ホワイトハウスを訪れたラビ代表に対して、その到着前に外出し会見を回避する道を選んだのであった。  〈中略〉 正統派ユダヤ教団体は、ヨーロッパのユダヤ人を脱出させるため、パスポートやビザなどを偽造したが、アメリカのユダヤ人社会の指導者たちはこうした不正な方法に反対し、自国の移民政策に反してまで気の毒なユダヤ難民に支援の手を差し伸べる気はなかった。 とりわけ、ポーランドで救援を待ち望む聖なるユダヤ教学者を救うことこそ、何ものにも優先すべきとする正統派ユダヤ教団体と、アメリカ国内世論の動向に神経質なスティーブン・ワイズら米国ユダヤ人社会の指導者の対立は深刻であった。 例えば、1940年8月初めにアメリカの主要ユダヤ人団体が参加した会議で、正統派のラビたちは、リトアニアから3500人のラビ・学生たちを入国させるための特別ビザを発給するよう国務省に圧力をかけて欲しいと要請したが、スティーブン・ワイズらは、これほど多数のユダヤ人を定住させることは容易ではないとして、アメリカ政府に圧力をかけることに反対した。 アメリカのシオニスト運動指導者たちは、ホロコーストの間もパレスチナユダヤ人国家を建設する計画に精力を傾けており、ヨーロッパのユダヤ人の救済は二の次であった」。
 アメリ孤立主義の指導的代表者だったハミルトン・フィッシュ(元下院議員)は、著書『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』(PHP文庫)の中で、「ルーズベルトユダヤ難民に無関心だった」と告発している。 少し長くなるが、参考までに紹介しておきたい。
 「1942年の初めに、私はヒトラーの非人道的な人種差別政策と、ドイツとポーランドにおける何百万人にものぼるユダヤ人虐殺を非難する決議案を議会に提出した。 これに対して、国務省はよくわからない理由から、虐殺について何も知らないと主張して、ユダヤ人に対する虐殺に反対するよう全世界の国々に呼びかけようという私の提案の採択を妨害したのだった。 その時には、ヨーロッパ中の国が、すでにヨーロッパのユダヤ人に対する虐殺を知っていたのだ。 しかるに、ルーズベルト国務省は、説明のつかぬ、わけのわからぬ理由で私の提案に反対したのだった。 ユダヤ人のベン・ヘクトは、その自伝の中で、次のように述べている。 『ルーズベルト大統領が、ユダヤ人の虐殺を防ぐ人道主義のために、指一本上げなかったこと、ユダヤ人の置かれた境遇に対して消極的なコメントを繰り返したこと、史上最悪の大虐殺に対し無関心だったことは理解し難い』。 ベン・ヘクトは続けて、『ルーズベルト首席秘書官ユダヤ系のデビット・ニイルズから、大統領はドイツのユダヤ人殺戮を非難するような演説や声明を発表しないだろうということを知らされた』とも書いている。 我々は、ベン・ヘクトの勇気のみならず、彼のこの問題に対する先見性を高く評価しなければならない。 彼は『次の事件』と題された、一幕物の劇を完成しようとしていた。 それは、ルーズベルト大統領が歴史の証言台の前に立たされ、お前はユダヤ人を救うために何をしたのかを述べさせられる話しである。 そして、ナチの火葬場から蘇った12人のユダヤ人が、事件を裁く陪審員を務めるのだ。 ベン・ヘクトはビバリーヒルズ・ホテルで、この原稿を書き終えた時、ちょうど、ルーズベルトの死が発表されたのをラジオで聞いたのだった。 私はベン・ヘクトを心から尊敬する。 彼は、『ルーズベルト大統領は世界中の人々と、中立国であろうとなかろうと、すべての国に対し、ナチス政権(ヒトラー)にその絶滅政策を止めるよう要求する人道的なアピールを行なうべきであり、さもなければ、全世界が道徳的汚名に苦しむことになる』と主張するだけの、先見の明と勇気を持ち合わせていたのである。 もし、ホワイトハウスからそのような声明がはっきりと発表されていたならば、ヒトラーの誇大妄想を止められたかもしれないし、少なくとも、ヒトラーの残虐さについて、おそらく全く知らないドイツ国民・ポーランド国民に真相を教えることができたであろう。  〈中略〉 1943年の初めには、世界中のすべての国の政府がヒトラーユダヤ人撲滅政策を知っていた。 ルーズベルト大統領と国務省は、恐るべき虐殺行為を容赦なく世界中の耳目に曝すべきであったのだ。 そして、すべての連合国と中立国に対し、国際法と人道にもとる、無防備の人種的・宗教的少数派を絶滅しようとする恥ずべき政策を止めさせるために、ヒトラーナチス・ドイツに公的に影響力を行使するよう要請すべきであった」。
 第6章  不発に終わった「バミューダ会議(1943年)」
 1942年1月、ロンドンの聖ジェームス宮でヨーロッパ17ヶ国の亡命政府の会議が催された時、ルクセンブルク代表を除いて、ユダヤ人虐殺をテーマに取り挙げた者はいなかった。 また、その時の共同声明の中にユダヤ人に対するナチスの犯罪を糾弾する言葉は全く見られなかった。 連合国側の態度に憤慨した在ロンドンのポーランド亡命政府は『デイリー・テレグラフ』紙に声明文を載せ、ポーランドユダヤ人がいかなる試練を受けているかを詳細に訴えた。 一般の人々がユダヤ人迫害の凄惨な事実を知らされたのは、これが初めてだったと言われている。 イギリスやアメリカでは、ぼつぼつ市民大会が催されるようになったが、ナチスユダヤ人迫害に対する批判が世論の形で起こったのは、ナチスユダヤ人迫害を始めてから10年目を迎える頃、つまり、1942年の末頃であった。 その時でさえイギリス政府はユダヤ人救済には乗り気でなく、アンソニー・イーデン外相は東ヨーロッパで行なわれているユダヤ人迫害について、その年の12月の半ばに至ってようやく下院で、「ヒトラー政権はどう見ても、ユダヤ人をヨーロッパから駆逐するというかつての宣言を実行しているとしか考えられない」と報告した。 それでもなお、具体的にユダヤ人救済にはどうすればいいかという議論や、ナチスの残虐行為に対して制裁や威嚇を検討するというようなことは起こらなかった。
 「この期に及んでイギリス政府は何故、ユダヤ人救済の手を打たないのか」と、腹を立てた劇作家ジョージ・バーナード・ショーをはじめ、ハロルド・ニコルソンなど、作家や政治家たちが署名して抗議をしたのであったが、それに対してさえ反響はなかった。 ようやくイギリス政府が、ユダヤ難民受け入れの政策を検討しようとアメリカ政府に提案したときも、応答を得られるまでに2ヶ月かかった。 そういった呑気さに業を煮やしたイギリスのカンタベリー司教は上院に、「事は急を要するのである。 イギリスは直ちに入国査証制度を検討し、改正すべきである」と訴え、やっとのことでイギリス政府とアメリカ政府がバミューダユダヤ難民対策の会議「バミューダ会議」を開いた。 これは1943年4月のことである。 しかし、この時もイギリス政府スポークスマンのクランボーン卿は「ユダヤ人問題ばかりに重点を置くのは誤りである」と発言し、アメリカのコーデル・ハル国務長官も「我が国はユダヤ難民に対して、特別の処置を取ることは出来ない」と、釘を刺した。 このバミューダ会議では相変らず実行不可能な空論ばかりが飛び出し、傍聴していたイギリス自由党のエマニエル・セラーは「人間の福祉と理想を裏切る地上最低の会議」と非難した。 実際にユダヤ人への迫害が日々進行している緊急時に、出席した28ヶ国の代表はユダヤ人受け入れを了承しないばかりか、それを避けるために汲々としていたことを、当時の議事録は物語っている。
 ドイツのボン大学で日本現代政治史を研究し、論文「ナチズムの時代における日本帝国のユダヤ政策」で哲学博士号を取得したハインツ・E・マウル(元ドイツ連邦軍空軍将校)は、著書『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)の中で、このバミューダ会議の実態について、次のように語っている。 「1942年6月、アメリカは突如入国規制を強化した。 背景には市民の反ユダヤ感情、反移民感情があった。 ユダヤ人を救うことは政治目標の達成をさまたげ、戦争完遂に有害だと考えられたのだ。 それに、アメリカのユダヤ人には政府の後ろ盾が欠けていた。 この措置をロング国務次官が提唱したことは興味深い。 ロング国務次官は東欧ユダヤ人に強い偏見をもっていた。 1943年4月19日、米英両国は『バミューダ会議』を開催した。 目的は戦争難民問題の解決であったが、現実には欧州のユダヤ人を助けようとするあらゆる努力を阻止することにあった。 アメリカが外務省員のほかには、この問題に無知な二級政治家を代表として送ったことはアメリカの姿勢を反映しており、ロング国務次官はこの会議で大きな役割を演じたのだった」。
 第7章  なぜアウシュヴィッツ収容所は破壊されなかったのか
 ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害がとどまるところを知らなかった頃、これを阻止するため、アウシュヴィッツ爆撃に踏み切って、その近辺のユダヤ人殺害ルートを破壊することにより、その殺害システムに打撃を与えようとの計画があった。 そのためのスパイがワルシャワに送り込まれ、その筋の戸棚の奥深くに保管してあったアウシュヴィッツの詳細なレイアウトを示した図面を盗み出すことに成功した。 一方、アメリカ空軍の撮影した写真により、技術的にも戦術的にも爆撃によるユダヤ人救済の見通しが立った。 しかし、そのプランは「アウシュヴィッツは軍事施設ではない」という理由で実行されなかった。
 『アウシュヴィッツで私は14歳だった』という本を書いたアナ・ノヴァクは、1982年4月17日の『ル・ヌーベル・オブセルバトゥール』誌のインタビューに応えて、重大な証言を行なった。 彼女の言葉によれば、アウシュヴィッツ爆撃をやらなかった連合軍はその代わりに、アウシュヴィッツで強制労働させられていた囚人たちを機銃掃射したのだそうだ。 アウシュヴィッツ収容所のユダヤ人たちは連合軍戦闘機の群れに狙われたのである。 「私たちユダヤ人は、強制収容施設を爆撃してくれることを毎日どんなに待っていたか知れません。 ところが、首を長くして待っていた結果がこれでした。 それは、アウシュヴィッツ収容所に対して抱いていた絶望感よりも、もっともっと大きな絶望感を私たちに与えました。 戦後、そのことについては誰も語りたがらないのです。 連合軍は何故あんなことをやったのでしょうか。 きっと、これに答えられる人は一人もいないでしょう」。
 戦時中、連合軍はアウシュヴィッツ第三収容所(モノヴィッツ)の石油精製所を爆撃したようだが、囚人を逃がすことを目的にはしていなかった。 連合軍は、アウシュヴィッツの管理施設はおろか、アウシュヴィッツへ続く鉄道網を爆撃することすらしなかった。 ユダヤ人を運ぶ移送列車の鉄道網を普通に破壊するだけでも、アウシュヴィッツ収容所の機能は混乱し、多くのユダヤ人が救われたはずなのに。 なぜ、連合軍はアウシュヴィッツ収容所を無傷のまま放置したのだろうか。 この謎について、次のように説明する人がいる。 「戦時中、連合軍は、ヨーロッパ文明のただ中で、これほどの蛮行が行なわれているとは信じられなかったし、信じたくもなかったのだ。 『ガス室』のおぞましい実態は、戦後、明らかにされた。 もし、戦時中に、『ガス室』の存在を知っていたら、直ちに爆撃していただろう」。  なるほど、このような説明は、一見もっともらしく聞こえる。 しかし、このような説明を鵜呑みにすることはできない。 なぜならば、戦時中、連合軍の飛行機は、アウシュヴィッツや周辺地域にポーランド語とドイツ語の「宣伝用パンフレット」を多数ばらまいていた。 そのパンフレットには「収容所内の人々が『ガス』で殺されている」と書かれていた。 しかも、その内容は連合国ラジオ局によって西ヨーロッパにも放送されていた。 つまり、連合軍は積極的に「ガス室」の存在を宣伝していたのである。 しかも驚くことに、イギリスはアメリカの参戦前から「ガス室を使った虐殺」という反ナチスプロパガンダ作戦を展開していた。 彼らはナチスの残虐性を世界に宣伝する一方で、ユダヤ難民の救出には手を貸さないという奇妙な行動を取っていた。 特に、イギリス治安調整局という組織は、戦時中、協力関係にある新聞やコラムニストを通して、いかにナチスが占領地で残虐であるかという内容のニュースをたくさん配信し、アメリカ人キリスト教徒の同情を得るために、「ナチスが教会や修道院を破壊している」といった内容のニュースもたくさん流し続けた。 因みに、こうしたニュースの中には、事実に基づかず、はじめからイギリス情報機関によって捏造されたものが多く含まれていた。
 連合軍は恐ろしいほど完全にアウシュヴィッツの囚人を黙殺した。 否、先のユダヤ人女性の証言が正しければ、連合軍は黙殺したどころか、アウシュヴィッツの囚人たちに機関銃弾を浴びせたのである。
 三菱化成生命科学研究所の米本昌平氏は1989年に著わした本『遺伝管理社会 ナチスと近未来』(弘文堂)の中で、次のように述べている。 「実は、アウシュヴィッツが今日見学できるのは不思議なことなのである。 この点で、M・ギンベルトは『アウシュヴィッツと連合軍』(1981年)という重要な本を書いている。 ここでM・ギンベルトは、すでに1944年の後半は、ドイツの制空権の一部は連合軍の手中にあったのに、爆撃されたのは軍事施設に限られ、アウシュヴィッツ収容所には爆弾が一発も落とされなかった謎を問題にしている。 確かにこれは奇怪なことである。 連合軍がドイツの軍事施設ばかりか大都市までをも徹底的に破壊したのに、人類が作った最大の悪魔的施設アウシュヴィッツ収容所が無傷のまま残り、しかも、最近までこの不思議さに誰も気づかなかったとは」。
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💖27)─1─アメリカとイギリスはユダヤ人児童約2万人を見殺しにした。ヒムラー友の会。〜No.111 * 

アメリカのユダヤ人迫害史 (集英社新書)

アメリカのユダヤ人迫害史 (集英社新書)

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・   
 世界において、反ユダヤが多数派であり、親ユダヤは少数派であった。
 親ユダヤ派の一つが軍国日本であった。
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 ダニエル・パトリック・モイニハン(アメリカ上院議員)「自分の意見を言う権利は誰にでもあるが、自分で事実を作り上げる権利はない」
   ・   ・   ・   
 正義は、残酷である。
 正義を貫く為ならば、全ての事が正当化され合法化される。
 正義を大とすれば、あとの事は全て小である。
 勝利という正義の為ならば、如何なる不正も不義理も無慈悲も許される。
 正義とは勝利で有り、敗北には正義はない。
 勝利を勝ち取った者は正義であり、戦犯として裁かれる事はない。
 正義の立場に立つ為には、勝利する事である。
 敗者は、戦犯とされ、何ら権利はも認められない。
 愛国心同様に正義を振りかざす人間は、恐ろしい人間である。
   ・   ・   ・   
 フランス諺「慈悲よりも正義がすべての社会の基礎である」
 カント「正義が滅びるのなら、人はこの世に住む必要はない」
 パスカル「力なき正義は無効で有り、正義なき力は圧政である。力なき正義は反抗を招き、力なき正義は弾圧される」
   ・   ・   ・   
 アメリカの名門ルーズベルト家は、1649年にオランダからアメリカに移住してきたユダヤ系オランダ人のクラウス・M・ローゼンベルツであった。
 2代目のニコラスは、ユダヤ人の名を捨てファミリーネームをルーズベルトに改めた。
 ルーズベルト家は、セオドアの家系とフランクリンの家系の二つの分かれた。
 セオドア家からセオドア・ルーズベルトが、フランクリン家からフランクリン・ルーズベルトが大統領に就任した。
   ・   ・   ・   
 ルーズベルトユダヤ人児童2万人をホロコーストから救い出す事を拒否した。アメリカ・ユダヤ人団体は、国内の人種差別を恐れて沈黙した。
   ・   ・   ・   
 アメリカ国内には、ヒトラー反ユダヤ主義に同調し、ユダヤ人世界征服陰謀を訴える人種差別主義者が存在していた。 
   ・   ・   ・  
 ホロコーストは、アメリカやイギリスがヨーロッパ系ユダヤ人約1,100万人を難民として無条件で受け入れていれば、起きなかった悲劇であった。
   ・   ・   ・   
 アメリカは、ユダヤ人や黒人そして日本人に対する人種差別が激しい国であった
   ・   ・   ・   
 親ドイツ派ビシー政権は、ナチス・ドイツの対ユダヤ政策に協力するべく、国内の無国籍ユダヤ教徒ユダヤ人7万6,000人をアウシュビッツなどに列車で送った。
 フランスはもとより多くの西洋諸国は、ホロコーストに荷担していた。
 国際赤十字バチカンは、目の前で起きている悲惨な事件でありながら、無関心を装い、見て見ぬふりを決め込んでいた。
 だれも、その事を聞く者はいなかった。
   ・   ・   ・   
 ジャン=ポール・サルトル「およそ、フランス人で、ドイツ軍の占領と対ナチス抵抗運動の経験があるぐらいの年配の人間だったら誰でもそうなのだが、私はユダヤ人の組織的迫害計画を、単なるヒトラーの狂暴性のおそるべき結果として片づけることはできなかった。
 このような反ユダヤ政策がフランスにおいて可能だったのは、多くのフランス人が何も言わずにのんびりと『共犯者』となっているからであって、さもなければとてもありえないことだと、毎日毎日いやというほど思い知らされたものだった。
それに、1942年のユダヤ人一斉検挙を行なったのは、ほかならぬわがフランス警察であることや、『真正フランスのフランス人』たるラバル首相が、ユダヤ人追放に関する命令書に『子供を含む』と書き込んだ事実を忘れることはできないのである。」 (サルトル編『アラブとイスラエルサイマル出版会
   ・   ・   ・   
 1939年2月 ニューヨークの上院議員ロバート・ワグナーとマサチューセッツの下院議員イーディス・ロジャーズは、非常に厳しい規制の移民割当数に14歳以下のドイツ系ユダヤ人の子供約2万人を上乗せする特別許可法案を提出した。
 世論調査は、ユダヤ人に対する根強い人種差別意識を反映して75〜85%が移民割当数を緩和する事に反対した。
 世論としての反ユダヤ意識が、政治運動として政党に影響を与えるほど滲透していなかったが、伝統的孤立主義者や労働組合系移民排斥主義者はユダヤ人難民に門戸を開放する事に反対していた。
 個人の信念で動くアメリカの政治家は、投票行動に直接関係する世論調査に神経を尖らせ、ユダヤ資本から献金を受けている政党の方針とは関係なく独自の行動をとっていた。
 議会内の保守派と革新派は、「他国の子供より、自国の子供を考えるべき」として、ワグナー・ロジャーズ法案を「ユダヤ人優遇法案」と揶揄して攻撃した。
 多数派を占める中間派は、圧倒的多数の民意に従って、同法案を議会で審議する事なく委員会で却下した。
 ルーズベルトは、ユダヤ人の子供をヒトラーの迫害から救う法案が却下されるのを見過ごした。
 アメリカ・ユダヤ人社会は、アメリカで生活するユダヤ人の権利を守る為に政党や政治家に多額の献金を行っていたが、他国のユダヤ人の人権はおろか生死には興味がなかった。
彼等の最大な関心事は、移民割当数を緩和して多くのユダヤ人難民を受け入れた場合、ユダヤ人世界征服説を信じている人種差別主義のアメリカ市民がどの様な反ユダヤ運動を起こすかであった。
   ・   ・   ・   
 J・P・モルガン商会は、フランス国内での営業を続ける為に、ビシー政権はもちろんナチス・ドイツとも緊密な関係を持ち続けた。
 W・A・ハリマン商社は、ドイツのアウグスト・テッセン銀行系の貿易海運銀行(オランダ)と提携してニューヨークにユニオン・バンキングという銀行(ジョージ・ウォーカー社長)を設立し、1942年10月迄ナチス・ドイツに投資していた。
 チェースマンハッタン銀行(ニューヨーク)は、パリ支店の支店長をアメリカ人からスイス人のカルロス・ニーダーマンに代え、ドイツ人の口座を保有して通常業務を続けた。ニューヨーク本社は、42年末まで業務報告を受け中止させなる事なく財務省への報告を遅らせた。
 スタンダード石油は、ドイツにドイツ・アメリカ石油(DAPAG)を設立し、取締役カール・リンデマンドイツ国際商工会議所元会長)を通じて、ナチ党中枢とドイツ政府首脳とのつながりを持ち、「ヒムラー友の会」(ケプラー・クライスの後身)に巨額の献金を行ってドイツ国内及びドイツ軍占領地の資産を守った。
 ITTなどのアメリカ企業も、敵国資産として没収されない為に、中立国のスウェーデンやスイスにダミー会社を作って所有権を移し、経営者をアメリカ人以外の人間とするなどの偽装工作を行い、今まで通りの業務を続けていた。
 アメリカ企業がドイツにある資産を守ろうとしたのと同様に、ドイツ企業も連合国にある資産を守ろうとしていた。
 親衛隊やゲシュタポが本気で調べれば直ぐに見破る事が出来る偽装工作であったが、摘発を逃れる為に、反共親米派ドイツ財界人を通じて「ヒムラー友の会」に献金を欠かさなかった。
 アメリカの戦略情報局(OSS)のアレン・ダレスは、43年1月から4月にかけて、ヒムラーの密使と極秘で和平の予備会談を行っていた。
 反共反ユダヤヒムラー親衛隊長は、ソ連共産主義に対抗する為にアメリカとの和平を望んでいたが、ヒトラー総統を裏切り追い出すだけの勇気がなかった。
 バチカンも、反宗教無神論共産主義勢力に対抗する為に、ドイツ保守派と連合国の和解を望んでいた。
 アメリカの保守派は、ソ連共産主義勢力のヨーロッパ進出を食い止める為に、ナチス・ドイツの戦犯やユダヤ人弾圧に目をつぶり、強力な反共防波堤をドイツに築こうとしていた。
 アメリカ軍内部では、戦後の対ソ戦略から、多くのナチエリートを利用する為にキリスト教会を通じてスカウトに取り掛かっていた。
 1942年頃 アメリ財務省は、イギリスの情報機関イントレピュドお協力を得てIGファルベンと協力関係にあるスタンダード石油を告発してちょうさを開始した。
 軍当局は、軍事用燃料をスタンダード石油に依存している為に、戦闘に支障を来す恐れがあるとして財務省に圧力をかけた。
 国務省やOSSあ、戦後の国際戦略から、スタンダード石油の支援に廻った。
 ルーズベルトは、軍当局の強い要望を受け、財務省に利敵行為の追求を断念する様に指示した。
 司法省外国資産管理局は、IGファルベンの子会社ゼネラル・アニリン&フィルム(GAF、デラウェア)を敵国資産として没収するや、ジョン・フォスター・ダレスを通じて親ドイツ派財界人に預けた。
 親ドイツ派財界人達は、自由と民主主義の敵である共産主義勢力に対抗するべく、「強いドイツ」の再建計画を建ててアメリカ国内のドイツ資産を保護した。
   ・    ・   ・    
 ハミルトン・フィッシュ「1942年の初めに、私はヒトラーの非人道的な人種差別政策と、ドイツ、ポーランドにおける、何百万人にものぼるユダヤ人の虐殺を非難する決議案を議会に提出した。
 これに対して、国務省はよくわからない理由から、虐殺について何も知らないと主張して、全世界の国々にユダヤ人に対する残虐な虐殺に反対するよう呼びかけようという私の提案の採択を妨害したのだった。その時には、ヨーロッパ中の国が、すでにヨーロッパのユダヤ人に対する残忍な虐殺を知っていたのだ。
 しかるに、ルーズベルト国務省は、説明のつかぬ、わけのわからぬ理由で私の提案に反対したのだった。」「ユダヤ人のベン・ヘクトは、その自伝の中で、次のように述べている。
 『ルーズベルト大統領が、ユダヤ人の虐殺を防ぐ人道主義のために、指一本上げなかったこと、ユダヤ人の置かれた境遇に対して消極的なコメントを繰り返したこと、史上最悪の大虐殺に対し無関心だったことは──』理解し難い。
 ベン・ヘクトは、続けて、『ルーズベルト首席秘書官ユダヤ系のデビット・ニイルズから、大統領はドイツのユダヤ人殺戮を非難するような演説や声明を発表したりしないだろう、ということを知らされた』とも書いている。
 我々は、ベン・ヘクトの勇気のみならず、彼のこの問題に対する先見性を高く評価しなければならない。
 彼は『次の事件』と題された、一幕物の劇を完成しようとしていた。
 それは、ルーズベルト大統領が歴史の証言台の前に立たされ、お前はユダヤ人を救うために何をしたのかを述べさせられるのである。そしてナチの火葬場から蘇った12人のユダヤ人が、事件を裁く陪審員を務めるのだ。
 ベン・ヘクトビバリーヒルズ・ホテルで、この原稿を書き終えた時、ちょうど、ルーズベルトの死が発表されたのを、ラジオで聞いたのだった。
 私は、ベン・ヘクトを心から尊敬する。
 彼は、『ルーズベルト大統領は世界中の人々と、中立国であろうとなかろうと、すべての国に対し、ナチス政権(ヒトラー)にその絶滅政策を止めるよう要求する、人道的なアピールを行なうべきであり、さもなくば全世界が道徳的汚名に苦しむことになる』と主張するだけの、先見の明と勇気を持ち合わせていたのである。
 もしホワイトハウスから、そのような声明がはっきりと発表されていたならば、ヒトラーの誇大妄想を止められたかもしれないし、少なくとも、ヒトラーの残虐さについて、おそらく全く知らないドイツ、ポーランド国民に、真相を教えることができたであろう。」
 「1943年の初めには、世界中のすべての国と政府が、ヒトラーユダヤ人撲滅政策を知っていた。
ルーズベルト大統領と国務省は、恐るべき虐殺行為を容赦なく世界の耳目に曝(さら)すべきであったのだ。そして、すべての連合国と中立国に対し、国際法と人道にもとる、無防備の人種的、宗教的少数派を絶滅させようとする恥ずべき政策を止めさせるために、ヒトラーナチス・ドイツに公的に影響力を行使するよう要請すべきであった。」(『日米・開戦の悲劇 ─ 誰が第二次大戦を招いたのか』)
   ・   ・   ・   
 ハインツ・E・マウル「1942年6月、アメリカは突如入国規制を強化する。背景には市民の反ユダヤ感情、反移民感情があった。
 ユダヤ人を救うことは政治目標の達成をさまたげ、戦争完遂に有害だと考えられたのだ。それに、アメリカのユダヤ人には政府の後ろ盾が欠けていた。この措置をロング国務次官が提唱したことは興味深い。ロング国務次官は東欧のユダヤ人に強い偏見をもっていた。」
 「1943年4月19日、米英両国は『バミューダ会議』を開催した。
 目的は戦争難民問題の解決であったが、現実には欧州のユダヤ人を助けようとするあらゆる努力を阻止することにあった。アメリカが外務省員のほかには、この問題に無知な二級政治家を代表として送ったことは、アメリカの姿勢を反映しており、ロング国務次官はこの会議で大きな役割を演じたのだった。」(『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』)
   ・   ・   ・   
 サイモン・ヴィーゼンタール「大戦中、死の収容所の存在は早い段階で西側諸国に知られていた。だが、まるで問題にされなかった。
 1942年7月2日のNYタイムズ紙の記事は『100万のユダヤ人虐殺される』だった。……アメリカ政府に嘆願書を送った。ナチスによるユダヤ人の移送を止め、アウシュヴィッツガス室を破壊してくれと。しかし、集中攻撃はなかった。繰り返し爆撃が行なわれたのは郊外の工場だった。連合軍にとって、ユダヤ人の救済は優先度の低い問題だったのである。」
   ・   ・   ・   
 1942年8月 スイス政府は、39年10月に制定した非常時法に基づき全ての不法入国者(特にユダヤ人難民)を強制送還すると発表した。
 無国籍ユダヤ人は、犯罪者として国外追放された。
 ナチス・ドイツは、スイスを追い出されたユダヤ人難民を強制収容所に送った。
 一部のスイス国民は、政府の命令を無視してユダヤ人難民を匿った。
 シュタイガー法相「約10万人がフランス国境からスイスへ押し寄せており、一日に100人が入国を試みている」
 バーゼルの某司祭「政治的被迫害者、戦争捕虜、脱走兵などは亡命者として受け容れられるが、ユダヤ人には難民権はない」
 スイス国営放送(同年11月)「1万4,000人のユダヤ人が国境を超えてスイス国内に移住した」
 1942年から44年までに、スイスに入国したユダヤ人難民は1万1,000人で残りはアメリカやパレスチナなどに移住した。
 スイス銀行は、ヒムラーらがユダヤ人を虐殺して奪った「血塗られた金塊」を預かっていた。
 戦後。連合国と協定を結び、多くを返還したが、一部を隠匿した。
 虐殺されたユダヤ人の口座は勝手に凍結され、ユダヤ人遺族の資産確認請求は拒否された。
   ・   ・   ・   
 1942年12月 イギリス議会(下院)で、リバプール選出のシドニー・シルバーマン議員が、アンソニー・イーデン外相に対し、「ドイツが全てのユダヤ人を東ヨーロッパへ追放し、彼らの殺害を計画している」という説の真偽を質問した。
それに対し、イーデン外相はこう答えている。
 「その通りであります。占領下のヨーロッパで、ドイツの支配の下に置かれているユダヤ人が、野蛮で非人道的な扱いを受けているということに関し、最近、信頼すべき報告が政府に届いていることを、議会の場でご報告申し上げねばならないのは、たいへん遺憾なことであります。」
   ・   ・   ・   
 ポール・ジョンソンユダヤ人難民を多数受け入れる能力があったのは、米国である。
ところが実際には、戦争中たった2万1000人しかユダヤ人移民を入国させていない。これは法律で定められた移民割り当て枠の10%にあたる数でしかなかった。その理由は一般大衆の反感である。米国在郷軍人会から外国戦争退役軍人協会に至るまで、愛国的団体はみな移民の全面的禁止を求めていた。
 米国史上、第二次世界大戦中ほど反ユダヤ感情が高まった時期はない。世論調査によれば、1938年から1945年にかけて、人口の35〜40%が、反ユダヤ的立法を支持していた。1942年の調査によれば、米国にとって、ユダヤ人は日本人とドイツ人に次ぐ大きな脅威とみなされていた。
 1942年から1944年にわたる期間に、ニューヨークのワシントン・ハイツ地区で全てのシナゴーグユダヤ教会堂)が冒涜されたが、この背景には広汎な反ユダヤ感情があった。
 ……
 具体的な行動を取るうえで大きな障害となったのは、ルーズベルト大統領その人である。彼には多少反ユダヤ的傾向があり、しかも状況について正確な報告を受けていなかった。この問題がカサブランカ会議で持ち出された時、大統領は、『ドイツ人がユダヤ人に対し抱いている不満は、理解できるように思う。彼らは人口のごく一部しか占めていないにもかかわらず、ドイツの法律家、医者、教師、大学教授の50%以上がユダヤ人なのだから』と語った。
 ルーズベルトは国内の政治情勢のみ考慮していたように思われる。(米国内の)ユダヤ人の90%が大統領を支持しており、これ以上ユダヤ人のために行動する必要を感じなかった。組織的殺戮についての事実が明らかになった後でも、大統領は14ヶ月の間、何も行動を取ろうとしない。
 1943年4月、遅まきながらこの問題に関する米英会議がバミューダで開かれたが、大統領は一切興味を示さなかった。そして会談の結果、具体的な措置は何も取りえないことだけが確認されたのである。
 それどころか、『難民受け入れの可能性に関しては、ヒトラーへのいかなる働きかけもなされるべきではない』との警告が発せられたのだ。」(『ユダヤ人の歴史 〈下巻〉』)
   ・   ・   ・
 1943年 ダーネッカー・ベレフ会談(テオドール・ダーネッカー親衛隊大佐とブルガリアユダヤ人問題担当責任者ベレフ)で、ソフィアのブルガリアユダヤ人約2万人を強制収容所に送る事で合意した。
 トルコの教皇特使アンジェロ・ロンカーリー枢機卿(後の、教皇ヨハンネス23世)は、ボリス国王に信書を送ってソフィアからの移送を中止させた。
 だが、サロニキから輸送された2万4,000人のブルガリアユダヤ人はトブリンカ絶滅収容所で虐殺された。
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 デンマークの地下組織は、ユダヤ人移送を妨害し、多くのユダヤ人難民を国外に脱出させた。
 金儲け目当ての逃がし屋は、大金をも貰って国外に逃がした。
 中には、大金をせしめた上で、地元警察やゲシュタポに売った逃がし屋もいた。
   ・   ・   ・   
 中立国スウェーデンは、3万5,000人のユダヤ人難民を受け容れた。
   ・   ・   ・   
 1943年4月 スウェーデン政府は、人道的立場から、ユダヤ人児童2万人を救出するべくナチス・ドイツと解放交渉を行っていた。
 解放条件として、児童の生活費と医療費をアメリカ・イギリス両政府が折半で負担し、終戦後はパレスチナまたは第三国へ出国させてヨーロッパに帰国させない事を約束した。 ナチス・ドイツ側は、ヨーロッパからユダヤ人を追い出す為に提案を受け入れた。
 イギリス政府は5月19日にスウェーデン案に同意したが、アメリカ政府は回答を保留した。
 アメリカ政府は、10月11日に、ユダヤ人児童に限らず全ての戦争難民児童を対象にした「国際難民委員会」の発足を求める、逆提案を行った。本心は、反ユダヤの国民世論を意識しての拒否表明であった。
 イギリス政府は、妥協案として、スウェーデン案を尊重しながら、ノルウェーユダヤ人児童を同時にスウェーデンに引き取らせる案を提案した。
 アメリカ政府は、面子が守られるとして、44年1月にスウェーデンと共にイギリス案に同意した。
 ナチス・ドイツは、アメリカにはユダヤ人を助ける意志はないと見極め、ノルウェーユダヤ人児童数千人をスウェーデンに出国させる事を拒否し、当初のスウェーデン提案自体も廃棄した。
 ホロコーストから助かるかもしれなかった2万人のユダヤ人児童は、大国のエゴと大人の身勝手で見殺しにされた。
   ・   ・   ・   
 1944年 ルーズベルトの戦争難民全権大使イラ・ヒルシュマンは、ルーマニア政府を説得して18万5,000人の内4万8,000人を救出した。
 アメリカは、人種差別をしないの原則に従って、ユダヤ人難民のみを特別扱いする事はなかった。 
 が。その実は、ユダヤ人難民の救出を最少に止め、それ以外のユダヤ人でない戦争難民の入国枠を拡大した。
   ・   ・   ・   
 1944年6月 ハンガリーで、人道的活動をしていたスウェーデン人のラオウル・ワレンベルクは、スウェーデン政府の「保護旅券」を、スウェーデンに親戚のいるユダヤ人とスウェーデンと商取引のあるユダヤ人全員に配って移送から救った。それ以外のユダヤ人は見捨てた。
   ・   ・   ・   
 ヒムラーは、ドイツ軍の敗北を予想するや、ヒトラーの許可を得ずに国際ユダヤ機関と秘密交渉を始め、身の安全を図る為にハンガリーユダヤ人2万人を待遇の良い収容余へ移送した。
 国際ユダヤ機関も、全てのユダヤ人を助ける意志はなかく、助けられるだけの人数で交渉した。 
   ・   ・   ・   
 グイド・クノップ「1944年に、アメリカ軍の偵察機は上空9100mからアウシュヴィッツ・ビルケナウの写真を撮影しており、火葬場をはっきり確認することができた。それなのにアウシュヴィッツが攻撃を受けることはなかった。爆弾を落とさず、写真を撮ったのである。
 政府の圧制に強制されたわけでもなかった人々が、何も抵抗を企てなかったのはなぜか? 連合軍はユダヤ人虐殺の開始について、非常に早い段階から情報を得ていた。彼らがドレスデンのフラウエン教会をそうしたように、アウシュヴィッツを爆撃し、虐殺機構を破壊しなかったのはなぜか?」
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💖22)─1─皇室は親ユダヤ派で人種差別反対であった。昭和天皇はユダヤ人難民を助けた。〜No.91No.92No.93 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 ユダヤ人の一部は、近代天皇制度日本国と日本民族日本人を助けた。
   ・   ・   ・   
 ユダヤ人で、親日派知日派は少数派で、反日派・敵日派は多数派であった。
 軍国日本を戦争に追い込んで滅亡させたのは、反日派・敵日派ユダヤ人であった。
 ユダヤ人は、反天皇反日本で、神の裔・天皇を憎み、天皇制度を滅ぼそうとした。
   ・   ・   ・   
 天皇制廃絶の左翼・左派・ネットサハそして反天皇反日的日本人達は、反ユダヤ派であり人種差別主義者である。
   ・   ・   ・   
 反ユダヤ派や人種差別主義者の右翼・右派・ネットウハは、反天皇派である。
   ・   ・   ・   
 天皇を敬愛する民族主義者は、親ユダヤ派であり人種差別反対主義者である。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は多神教の海洋の民であり、ユダヤ人は一神教の砂漠の民である。
 日本民族日本人とユダヤ人は、別種別族で、同種同族ではない。
 日本民族日本人とユダヤ人は赤の他人である。
   ・   ・   ・   
〔論説〕 戦争中にユダヤ人を助けた日本人
 べン・アミー・シロニー(倫理研究所客員教授
 明治時代に日本を助けたユダヤ
 第 2 次世界大戦中、日本はユダヤ人を助けましたが、それよりもはるか以前にユダヤ人が日本を助けた事がありました。明治時代には、日本に影響を与えたお雇い外国人の中にユダヤ人がいました。しかし、当時の日本人は彼らがユダヤ人であると気がつかなかったのです。彼らの一人がドイツ系の法律家、アバート・モッセでした。彼は 1886 年に伊藤博文によって東京へ招かれ、明治憲法の作成を手伝いました。モッセは妻と幼い娘、マルタと共に日本に 4 年間滞在しました。52 年後の第二次世界大戦の際には、ナチス・ドイツが 60 歳であったモッセの娘マルタを捕え、死の収容所、アウシュビッツに送ろうとしました。このことがベルリンの日本大使館に知らされると、日本の外交官たちは彼女の父親の日本に対する功績を考え、彼女のためにドイツ政府に交渉しました。この交渉が奏功し、マルタはアウシュビッツへ送られることなく、代わりにテレゼンシュタットのゲットーに送られる事となりました。彼女はそこで「重要人物」としての地位を与えられ、生き長らえることが出来たのです。マルタの妹のドーラは、美術史家のエルヴィン・パノフスキーと結婚し、戦前に米国へ移民しました。その息子の物理学者のヴォルフガング・パノフスキーは、広島と長崎に投下された原爆の製造に携わった科学者の一人です。このように、ユダヤ人の一家族が、ユダヤの歴史と日本の歴史に跨って関係しているのです。
 日本社会が初めてユダヤ人に注目したのは日露戦争(1904 年-1905 年)の時でした。当時、ニューヨーク最大手の銀行の一つであったクーン銀行の経営者は、ドイツ系ユダヤ人のヤコブ・シフでありました。彼はロシアでユダヤ人に対して行われた「大迫害」、ポグロムのため、帝政ロシアに対して憤慨していました。そこで彼は、戦争で日本を支持しようという決断に到ります。シフは、日本がロシアを打ち負かすために必要な巨額の資金を調達しました。日露戦争の後、彼は日本に招聘され、明治天皇から旭日章を授与されました。シフはその勲章を授与された最初の外国人です。今日でも尚、シフの功績に感謝する日本人に出会うことがあります。」
   ・   ・   ・   
 ジェイコブ・H・シフと日露戦争
 ―アメリカのユダヤ人銀行家はなぜ日本を助けたか―
 二 村 宮 國
 〈目次〉
 はじめに
Ⅰ、日露戦争と外債
  (1)明治政府の外債非募集政策
  (2)日露戦争の戦費の規模
  (3)高橋是清の外債募集交渉
    a)ロンドン金融市場と高橋
    b)シフとの出会い
Ⅱ、シフと日露戦争
  (1)シフの意図
    イ.経済的動機
    ロ.政治的動機
  (2)日露戦争後のシフと日本
Ⅲ、アメリカのユダヤ人リーダー
  (1)シフとクーン・ロエブ商会
  (2)ユダヤ人ネットワーク
  (3)ユダヤ人移民支援と慈善事業
  (4)帝政ロシアユダヤ人迫害への抗議活動
 おわりに

 はじめに
 100年前の日露戦争における日本の勝利は、アメリカのセオドア・ルーズヴェルト大統領(当時)の仲介とウォール街ユダヤ人金融業者ジェイコブ・ヘンリー・シフの金融面での対日協力なしにはありえなかった。本稿は、シフの日本に対する金融支援に焦点を絞って考察する。開戦直後から日本政府の特派財務委員として当時の世界の金融センター、ロンドンで戦費調達交渉に心をくだいた高橋是清は、のちに、自伝の中でロンドンでのシフとの「偶然の」「仕合せ」な出会いに触れ、「私は一にこれ天佑なりとして大いに喜んだ」と記した。高橋が交渉に入った1904年春以降の戦況の好転も幸いしたが、シフの日本外債引き受け参加が、その後の日本外債の順調な売り出しに決定的ともいえる影響を与えたことは明らかである。日本政府は、シフの支援を多としてロシアとの講和成立後、シフを日本に招待し、勲章を与えるなど、感謝の意を示した。では、なぜ、シフは日本を支援したか。
 近年、シフの原資料に基づく研究が米国やイスラエルでも進んできた。それらの研究は、シフの対日支援動機に、帝政ロシアに打撃を与えユダヤ人政策見直しへの道を開かせようとする戦略、深慮遠望があるのとともに、新興国との金融取引は収益をあげる絶好のチャンスとのビジネス面での判断も働いたことを明らかにした。ビジネスと信念―この二つが有機的に働き、シフは動いたのである。日本の勝利は、シフのビジネスマンとしての成功をもたらしただけでなく国際ユダヤ人社会のリーダーとしての名声をも確立することになった。
 以下、まず、日本が日露戦争を戦いぬくためには、外国資本導入に依存せざるをえなかった事情と高橋是清の外債交渉を概観し、ついでナオミW. コーエンの研究に大きく依りながら、ビジネスと信念を同時に追い求めたシフの実像を明らかにする。
 (中略)
 おわりに
 ロシア国内のユダヤ人迫害は同胞愛に燃えるシフを帝政ロシアとの長い戦いに突き進ませた。だが、帝政ロシアが倒れた喜びもつかの間、シフはロシアの反ユダヤ主義の終わりが来たのではないことを覚った。逆に「ユダヤ陰謀説」の登場でシフは、反ユダヤ主義勢力の標的となり苦しむ。
 一方、日本との関係では、日本が帝政ロシアと1910年、満州の特殊権益を守るために第二次日露協約を結んだときシフは激怒した。日本のやり方は裏切りではないとしても忘恩行為だと受けとめたからである。「日本が人類の敵ロシアと手を握るとは・・・。ひどくくやしい思いがする」と述べている。しかし、高橋との友情にひびが入ったり、日本への思いが大きく変わったわけではなかった。むしろ、その後の日本の中国進出に対しては、中国が安定すると理解を示すほどであった。
 1922(大正11)年9月1日の関東大震災で、日本は震災後復旧のため再びニューヨークでの外債発行を計画する。この時、井上準之助蔵相はクーン・ロエブ商会ではなく、ライバルのモルガン商会を交渉相手に選んだ。第一次大戦アメリカ国内に反ドイツ感情が高まり、シフらドイツ系ユダヤ人移民が経営するクーン・ロエブ商会の影響力に陰りがさしていたからであるが、井上の高橋への対抗心があったからともいわれる。しかし、日本政府のシフに対する感謝の念がそれで消えたことを意味するわけではなかった。旧大蔵省の歴代の財務官はニューヨークのシフ家の墓に詣で感謝の祈りを捧げるのが習いだったといわれている。
   ・   ・   ・   
 弱小国の日本が戦えば負ける超軍事大国ロシアに勝てたのは、明治天皇・日本皇室が、人種偏見を持たず人種差別をせず「八紘一宇」の精神から親ユダヤ派となってユダヤ人を受け入れたからである。
 が、ユダヤ人の多数派は反天皇反日であり、親天皇親日は少数派であった。
 フランスやドイツのユダヤ人資産家は、日本の完全敗北との世界の軍事常識からロシアを支援していた。
 日本国内でも、「負ける戦争はするべきではない」として対露戦争に反対する平和主義の日本人が少なからずいた。
 小国の無勢の軍隊が大国の多勢の軍隊に絶望的戦争を仕掛ける時は、一か八かの無茶苦茶な不意打ち・奇襲・騙し討ちから始めるのが軍事の常識である。
 日露戦争は、江戸時代後期に起きたロシア軍艦による海賊行為で被害を受けた文化露寇事件(1804年)から避けられない運命にあった。
 江戸時代の日本人は、ロシアの侵略に恐怖し、朝鮮と清国(中国)がロシアの手先になって元寇応永の外寇のように攻めてくるのではないかと怯えた。
 事実、日露戦争時、清国(中国)と朝鮮はロシアに味方する敵対的中立を宣言していた。
 両国の反日親露派は、ロシア軍を勝たせるべく日本軍の機密情報をロシア軍に流していた。
 「日露戦争を日本の大陸侵略戦争」と否定する日本人は歴史力がない、もしそう公言する日本人が高学歴者であっても無能であり、無能な高学歴者のいう事は信用しない方が身の為である。
 そもそも、日本の開国・文明開化・近代天皇制度中央集権体制樹立はロシアの侵略から日本を守る対外戦争・大陸戦争・積極的自衛戦争に備えての国家大改造、つまり平和国家日本ではなく戦争ができる軍国日本の樹立であった。
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 2020年9月24日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 〔近・現代篇〕
 日露戦争 その2 開戦
 ついにロシアと開戦した日本。しかし戦闘に勝利しても綱渡り的状況が続き、ようやく講和に持ち込みます。その経過を辿ってみましょう。
 1904(明治37)年2月8日。遼東半島にある旅順のロシア艦隊を日本海軍が攻撃し、陸軍は大韓帝国の仁川に上陸しました。
 日ロの開戦に韓国は中立を宣言していましたが、上陸した日本軍はすばやく漢城(現在のソウル)に入り政府を脅して協力を約束させます。
 前回みたように、日本は6日にはロシアに対して国交断絶を通告していました。しかし宣戦布告は開戦後の10日でした。この一件は国際的な問題となり、1907年10月のハーグ万国平和会議で、明確かつ事前の通告なく開戦してはいけないと定められることになります。
 日本は総合的な国力、戦力においてロシアに劣っているのは明らかなので、奇襲して緒戦でロシア軍に打撃を与え、戦況が有利なうちに英米に講和を仲介してもらおうと戦略を描いたのです。
 ロンドンで戦費調達
 この年、日銀副総裁の高橋是清がロンドンで公債を募集しました。当時の金融マーケットの中心はニューヨークでなくロンドンでした。
 当初日本の公債には買い手がつかない状況でしたが、朝鮮と満州の境を流れる鴨緑江を渡って、満州へと進入する日本の作戦が成功すると、1,000万ポンド(1億円弱)を調達できるようになりました。
 その後日露戦争中に3回、戦後の借換えに2回、公債を出して、約13億円を集めます。
 これが成功したのも日英同盟によって、大英帝国が後ろ盾になってくれたおかげです。
 13億円というのはどのくらいの金額かといえば、1903年の日本の国家予算が2.6億円です。予算の五倍で、今は日本の予算が100兆円ですから、500兆円ぐらいを市場から調達した感覚です。戦費の総額が18億円といわれていますから、約7割を借金で賄った勘定になります。
 ……
 ロシア軍主力を取り逃がす
 少し時計の針を巻き戻して1904年8月末、日ロ両軍が満州南部の遼陽で激突します。日本軍13万、ロシア軍22万人が戦い、日本軍2万3,500、ロシア軍2万の死傷者を出し、日本軍が遼陽を占領します。
 ……
 翌05年3月1日、奉天で大会戦が行われます。日本軍25万、砲1,000門、機関銃270挺、対するロシア軍は32万人、砲1,400門、機関銃60挺の陣容でした。
 ……
 日本軍死傷者7万、ロシア軍は死傷者6万ないし9万、捕虜2万人。ここでもロシア軍は余力を残して奉天から撤退しましたが、この一件で極東軍司令官クロパトキンは皇帝から罷免されました(代わりにリネウィッチが司令官に就任します)。
 引いていくロシア軍を追いかける余力がもう残っていない日本は4月、持久戦の策を立てながら講和を目指すことになります。
 一方のロシア国内では日本との戦争が思わしくない状況を受けて、政府への不満がどんどん大きくなっていきました。軍や政府の無能を非難し、皇帝専制から立憲君主制を求める動きが広がっていたのです。
 帝都サンクトペテルブルクでは1905年1月22日、10万人が皇帝に戦争中止や労働者の権利を訴えるデモに立ち上がります。これに軍隊が発砲して弾圧を行いました。
 この『血の日曜日』事件で各地に騒乱が拡大して、第一次ロシア革命が起こります。1月中のストライキには44万人が参加し、過去10年間の総数を上回りました。
 首都だけではなく各地で騒乱が起き、政府と軍による弾圧も苛烈を極め、多くの死傷者が出ます。
 ロシアにとっては、皇帝のお膝元から何千キロも離れた満州のことより、サンクトペテルブルクの騒ぎの方が大事ですよね。
 6月には、ロシア黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで水兵たちの反乱が起こります。この事件はソ連時代には革命の象徴として大きく使われエイゼンシュタイン監督の映画(1925年)で有名になりました。
 ロシア軍は国内の騒乱の鎮圧に追われ、海外との戦争どころではなくなっていたのです。
 日本海海戦は、そうした状況のなかの1905年5月27日に行われたわけです。
 ここでも大英帝国との同盟が、戦争の重要な勝利のカギとなっていたことがわかりますね。
 金子は、立憲君主国(日本)が、議会もない皇帝専制の国(ロシア)と戦っているんやでと各地でアメリカ国民にPRしました。
 ……」
   ・   ・   ・   
 金もなく打開策もなく二進も三進も行かない窮地に追い込まれ時に損を承知で助けてくれる友人が、本当の親友であった。
 負けて死ぬ事が分かっていても一緒に戦って死んでくれる仲間が、真の戦友であった。
 日本に朝鮮や中国にそういった偽らざる親友や戦友がいなかった事が不幸であった。
 日本の武士・サムライそして百姓は、自分はバカだと思いながら親友・戦友となった。
 昔の日本民族日本人が持っていた鉄の団結力とは、死ぬ事が分かっても相手に対する約束、信用、信頼、信義、名誉、体面を守る為に死滅への行動を共にした事である。
 それが、日本民族日本人の、弱い者イジメは男の恥であり、反権力の判官びいきであり、志を貫く死の覚悟であり、限りある命を輝かせる滅びの美学であった。
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💖23)─2─ユダヤ人難民をナチス・ドイツから助け守った日本の軍部・陸軍。〜No.95No.96No.97No.98 

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 ユダヤ教の聖職者が語る 「日本軍はナチスからユダヤ人を救った」
 2018.04.13
 日本軍に保護されたユダヤ人難民は、神戸港に居留した。
 日本国内外における反日感情の背景には、大戦時の日本をナチスと同一視する歴史観がある。
 だが実は、日本は当時、国策としてナチスの迫害に遭っていたユダヤ人を救った、世界で唯一の国だった。しかも、日独は同盟関係にあったにもかかわらず、である。
 さらに、ユダヤ人救出を主導したのが、後にA級戦犯で死刑となった人々であった。
 戦後、日本に滞在した経験のあるアメリカ在住のラビ(ユダヤ教の聖職者)であるマーヴィン・トケイヤー氏に、当時の日本がどういう経緯でそうした人道主義的な行動をするにいたったかについて聞いた(2014年6月号記事再掲)。
 ユダヤ教ラビ マーヴィン・トケイヤー
 1936年、アメリカ・ニューヨーク生まれ。イェシヴァ大学を卒業後、1968年に来日、日本ユダヤ教団のラビ(教師)となる。著書は、『ユダヤ製国家日本』(徳間書店)、『ユダヤと日本・謎の古代史』(産能大学出版)、『日本・ユダヤ封印の歴史』(徳間書店)、『ユダヤ5000年の知恵』(講談社)、『ユダヤ人5000年のユーモア』(日本文芸社)など多数。
――日本はドイツの同盟国でした。
 トケイヤー(以下、ト): 大戦当時、他の欧米諸国でさえホロコーストに苦しむユダヤ人を助けるどころか、積極的に差別しました。ですから私は、「ナチスドイツの同盟国だった日本は、なおさらユダヤ人を差別し、弾圧しただろう」と思い込んでいました。
――なぜ考えを変えたのですか。
 ト: 歴史を研究していく中で、日本はユダヤ人を助けた唯一の国だと分かったからです。
 満州ユダヤ人を助けた「A級戦犯
 ト: 1938年1月、満州に駐留する日本軍は、八紘一宇の精神のもとに、ユダヤ人を平等に扱うという「対ユダヤ民族施策要領」を策定しました。
 その後すぐ、満州樋口季一郎少将は、「満州の国境に数千人から約2万人のユダヤ人難民が押し寄せている」という連絡を受けます。ヒトラーの迫害を恐れ、リトアニアポーランドから、シベリア鉄道経由で逃げてきた人たちでした。
――彼らはビザを持っておらず、本来は満州に入れません。彼らの入国を認めるのは、ナチスドイツとの関係上も危険でした。
 ト: しかし樋口少将は、以前からナチスユダヤ人弾圧を許せないと思っていました。彼はユダヤ人救出を決断しました。ユダヤ人に貢献した人たちを讃える「ゴールデンブック」には樋口少将の名もあります。
――ユダヤ人の救出は、樋口少将が独断で行ったのですか。
 ト: まさか、そんなことはできません。実は、先に述べた「要領」の決裁者も、ユダヤ人救出の責任者も、関東軍司令部参謀長の東條英機でした。上司である東條が認めなければ、樋口少将は動けません。絶対に無理です。何かあったら責任を取るのは、樋口ではなく東條ですから。このことは、ユダヤ人の中でも私ぐらいしか知らないことです。
――なぜ東條はゴールデンブックには載っていないのですか。
 ト: ゴールデンブックの編纂者は「東條とは会ったことも、喋ったこともないからだ」と言っていました。もしユダヤ人が東條を知っていれば、間違いなく名前が載っていたでしょう。
――その後、日本とドイツとの関係はどうでしたか。
 ト: 後日、日本政府はドイツ外務省の強硬な抗議を受けました。東條はそれを「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」として一蹴しました。
ちなみにこの時、樋口少将から依頼されて何本もの列車を手配し、ユダヤ人を移送したのは、満州鉄道総裁の松岡洋右でした。松岡はその後、外相としてドイツと交渉しています。
 彼は日中に来たユダヤ人に「私はヒトラーとの同盟の責任を負っているが、日本で彼の反ユダヤ人政策を遂行するとは約束していない。これは単なる個人的な意見ではなく、日本の意見だ」と述べています。
 ユダヤ人保護は国全体の「人種平等」策だった
――「ユダヤ人保護」は一部の軍人の考えではなかったのですか。
 ト: これは国策でした。38年12月、首相、陸相海相、外相、蔵相が集う最高位の国策検討機関「五相会議」で「ユダヤ人対策綱領」が決定されます。
 これは「日本が長年にわたり主張してきた人種平等の精神」に基づいて「ユダヤ人を平等に扱う」というものです。相当な「反ナチス政策」で、世界のどの国もそんな決定はできませんでした。世界中の人々が知るべきものです。これを提案した板垣征四郎陸軍大臣を筆頭に、五相会議を開いた5人は全員がヒーローです。彼らはもっと勲章を受け、尊敬されるべきです。
――ユダヤ人救済に関わった東條・松岡・板垣はいずれも、東京裁判における「A級戦犯」です。
 ト: この裁判は私にとって悲劇です。正義などありませんでした。「被告人」全員が法廷に入る前から有罪と決まっていたのです。さらにほとんどの裁判官は開廷日に、家で寝ていて来ませんでした。「裁判」と呼べるようなものではありません。そんな場で、私たちを救ってくれた人々が「戦争犯罪人」として裁かれたのです。
 日本は「エデンの園」だった
――満州へ入国したユダヤ難民の一部は、日本に送られ保護されましたね。
 ト: そこでも日本人は、彼らを丁寧に扱いました。実際日本人は、食べ物、着る物、住む場所、病気の治療、すべてを供給しました。誰ひとり犠牲者は出ませんでした。ユダヤ人たちはそんな日本を「エデンの園」と呼んでいたのです。
 【関連記事】
 2017年11月27日付本欄 故・渡部昇一氏インタビュー 改めて発信すべき「南京」の無実
 https://the-liberty.com/article.php?item_id=13845
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 戦時中の日本の対ユダヤ人政策
 原文はこちら→ http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hb/a6fhb100.html
 第1章  上海のユダヤ難民を保護した日本政府
 ドイツ・オーストリアユダヤ人が上海に初めて流入したのは、1938年の秋にイタリア商船コンテ・ビオレ号が上海港に接岸したときである。 ドイツ軍が1939年9月からポーランドに侵攻するにつれて、数百万人のハザール系ユダヤ人が世界各地に逃げ出さざるを得ない状態になった。 しかし、彼らハザール系ユダヤ人が行きたかったアメリカ・中南米パレスチナなどは入国ビザの発給を非常に制限し、ほとんど入国拒否の政策を採った。 イギリス委任統治パレスチナでは、海岸に着いたユダヤ難民船にイギリス軍が陸上から機関銃で一斉射撃を加えるという事まであった。 そうした状況の中で、ハザール系ユダヤ人が入国ビザなしで上陸できたのは世界で唯一、上海の共同租界、日本海軍の警備する虹口(ホンキュー)地区だけだった。 海軍大佐:犬塚惟重(いぬづか これしげ)は日本人学校校舎をユダヤ難民の宿舎にあてるなどして、ハザール系ユダヤ人の保護に奔走した。 犬塚惟重海軍大佐はユダヤ問題の専門家で、上海を拠点にユダヤ問題の処理に当たった。 戦後、彼は「日ユ懇談会」の会長を務めた。 日本政府の有田外相はハルビンユダヤ人指導者アブラハム・カウフマン博士を東京に呼び、「日本政府は今後もユダヤ人を差別しない。 他の外国人と同じに自由だ」と明言した。 1939年夏までに、約2万人のユダヤ難民が上海の日本租界にあふれた。 上海のセムユダヤ人たちの中には、貧乏なハザール系ユダヤ難民の受け入れを嫌がる者が沢山いたという。
 第二次世界大戦中、ドイツで公然と行なわれたユダヤ人迫害に対して、ヨーロッパ諸国の政府もアメリカ政府も長い間沈黙を守った。 第二次世界大戦中、アメリカ政府はユダヤ人に対する入国査証の発給を非常に制限し、ほとんど入国拒否の政策を採った。 その上、アメリカ政府は日米開戦と同時に「在上海ユダヤ難民救済基金」の送金すら差し止めた。 それに対して日本側は、犬塚惟重海軍大佐の尽力により、スイス赤十字社経由で救済金を受け入れる方法をとったが、それすらアメリカ政府が阻止した。 そこで、日本政府は凍結した英米系預貯金の中からユダヤ難民救済の寄付分だけを解除するという処置をとった。 そのことを今でも深く感謝するユダヤ人は犬塚惟重海軍大佐を顕彰している。
 「世界ユダヤ人会議」のユダヤ問題研究所副所長を務め、リトアニアと日本でユダヤ難民の救出に尽力したゾラフ・バルハフティクは著書『日本に来たユダヤ難民』(原書房)の中で、次のように述べている。
 1941年の時点で、上海のユダヤ人社会はよく組織されていた。 スペイン系社会とアシュケナジー系社会があった。 前者は、19世紀にバグダードから移住してきたユダヤ人たちで、なかにはイギリス国籍を取得している人すらあった。 その代表格が、いろいろな事業を経営するサッスーン家だった。 そのほか、ハードン家やアブラハムズ家も有名で、助けを必要とするイラク出身のユダヤ人移民に支援の手を差し伸べていた。 サッスーン家の家長ビクター・サッスーンは上海の大立者であり、極東で一、二を競う大富豪であった。 経済と政治への影響力は相当なものであったようだ。 ビクター・サッスーンは家の伝統に従って同胞の為に尽くした。 しかし、上海の中国住民に対する貢献はもっと大きかった。 売春婦の収容施設に多額の金を使ったし、市街電車の路線延長も彼の功績である。  〈中略〉  革命やポグロムが発生するたびに、ロシア系ユダヤ難民が満洲へ流出し、そこから国際都市「上海」へ向かった。 彼らの多くは上海に根をおろし、貿易商となった。  〈中略〉  当時、上海にはドイツ系ユダヤ人社会もあった。 それはかなり大きく、その数約1万5000人であった。 上海へは入国ビザの必要がないので、ユダヤ難民が続々と流れてきた。 上海は1939年の中頃までユダヤ難民を無制限に受け入れた。 しかし、その後は、居留が厳しく制限されるようになった。  〈中略〉  スペイン系とアシュケナジー系で構成される『上海ユダヤ人委員会』は、アメリカを本拠地とするジョイントの資金援助を受けながら、日本租界の虹口(ホンキュー)地区に沢山ある簡易宿泊所ユダヤ難民を収容した。
 第二次世界大戦中、上海で暮らしたユダヤ難民たちは、大戦後、ナチス・ドイツによる虐殺と、それを看過したキリスト教ヨーロッパ社会の実態を知り、ナチス・ドイツと軍事同盟下にあった日本がユダヤ人の保護政策をとってくれたことに感謝している。 ユダヤ難民だったヒルダ・ラバウという女性は1991年に、日本人がユダヤ人の為に安全な地を確保してくれたと、深い感謝の気持ちを表わす詩を作り、「ヨーロッパで皆殺しになった人々を思えば、上海は楽園でした」と語った。 また、天津のユダヤ人も戦後の1946年9月、「自分たちは日本の占領下で迫害を受けることもなく、日本側はユダヤ人、特にヨーロッパからの難民には友好的でした」と、世界ユダヤ人会議に報告した。 世界ユダヤ人会議の調査では、終戦当時、中国におけるユダヤ人の数は2万5600人で、上海の他にハルビン・天津・青島・大連・奉天・北京・漢口にユダヤ人がいたという。

 当時、上海には多種多様なユダヤ人組織が存在し、様々な活動を展開していた。 代表的なユダヤ人組織や人物を幾つか挙げておく。
◆「上海ユダヤ人協会」 E・ニッシム会長
 イギリス国籍のスペイン系ユダヤ人。 共同租界の北京路に「大商事会社」を経営。「上海ユダヤ人協会」の会員は約800人で、ほぼ全員がスペイン系ユダヤ人。
◆「上海シオニスト協会」 P・トーパス会長
 シベリア出身のアシュケナジーユダヤ人。 貿易会社を経営。 この「上海シオニスト協会」は1903年に設立され、会員は約3000人で、パレスチナ移住者を募集していた。 機関紙『イスラエルズ・メッセンジャー』は約1000部が購読され、海外にも発送され、東アジアのシオニズム運動の貴重な声として世界にその存在を誇示すると同時に、イギリスと東アジアを結ぶ架け橋としての役割を果たした。
◆「ブナイ・ブリス」 カムメルリング会長
 ルーマニア出身のアシュケナジーユダヤ人。「香港・上海ホテル」の株主。 シオニスト右派に属していた。
◆「ブリス・トランペルダー」 R・ビトカー会長
 ポーランド出身のアシュケナジーユダヤ人。 この組織は青年を対象にした民族主義シオニスト・グループだった。
◆「上海ヘブライ救援協会」 I・ローゼンツヴァイク博士(会長)
 ロシア系ユダヤ人で、アシュケナジーユダヤ難民への救援を目的としていた。
◆「ヘブライ・エンバンクメント・ハウス」 テーク夫人(幹事)
 有力ブローカーであるスペイン系ユダヤ人テークの妻。 貧しいユダヤ難民に宿舎を提供していた。
◆「ヨーロッパ移民委員会」
 M・スピールマン(議長)、D・アブラハム、J・ホルツェル、エリス・ハイムなどから成る。 M・スピールマンはオランダ市民であるが、実際はロシア生まれのユダヤ人で、若い時オランダ領東インドに移り、そこで市民権を得て、1917年に上海に移住。 この委員会の中の秘匿委員会として「政治運営委員会」があり、コミンテルンおよび国民党と密接な連絡を保っていた。 この秘匿委員会の責任者はレーヴェンベルク博士(ドイツ系ユダヤ人)で、弁護士を職とし、共産主義者であったが、ドイツで3年間収容所に入れられ、脱走してオランダへ、さらに上海に移った。
◆「上海ユダヤ人クラブ」(アメリカ・デラウェア州の法人)
 1923年に設立され、何回か解散したが、支那事変が始まると、当地のアメリ総領事館に登録した。 会員は約400人。 名誉会長ブロック、会長ポリャコフなど、役員の多くはロシア系ユダヤ人で、このクラブはソ連の木材公社と取り引きがあった。

 戦時下を上海で過ごしたユダヤ人の中で、数奇で劇的な運命を辿った男がいる。 その男の名はマイケル・ブルメンソール。 彼はドイツで生まれ、幼少期にナチに追われ、家族と共に船に乗って上海まで逃げ、日本租界で8年を過ごした。 彼は戦後、アメリカに渡り、勉学に励み、プリンストン大学で経済学博士号を取得した後、ケネディ政権とジョンソン政権の通商副代表となった。 そして、カーター政権の財務長官にまで昇り詰めた。 彼は日本では、為替相場に口先介入し、初めて円高を誘導し、日本経済を苦しめた財務長官として知られている。

 第2章  アジア地区のゲシュタポ司令官ヨゼフ・マイジンガー
 ナチス・ドイツは上海のユダヤ難民に対する日本政府の「寛容な政策」を不愉快に思っていた。 その為、彼らは上海のユダヤ難民の取り扱いについて、日本政府に圧力を掛けていた。 1941年にナチス親衛隊(SS)長官ハインリッヒ・ヒムラーが東京に派遣したアジア地区ゲシュタポ司令官ヨゼフ・マイジンガーは、その悪魔的残忍さの為に「ワルシャワの殺し屋」というあだ名を持っていた。 ヒムラーでさえマイジンガーの行動記録にショックを受け、裁判に掛けて場合によっては銃殺しようと考えていたが、側近のハイドリヒが手を回し、これを阻んだ、と言われている。 マイジンガーの東京での任務は、在日ドイツ人の中からユダヤ人と反ナチ分子を見つけ出し監視することだった。 マイジンガーは着任後ただちにゾルゲについて警告して日本側を驚かせ、これがゾルゲの逮捕につながった。 しかし、その残虐さと粗暴さ、狡猾さと薄気味悪い慎重さで、マイジンガーの東京での評判は最悪だったという。 彼は戦後、アメリカ軍によって逮捕され、ポーランドで処刑された。
 1942年7月、ヨゼフ・マイジンガーは日本に対して次のような3つの提案を示した。
上海のユダヤ人処理の方法

 【1】 黄浦江に廃船が数隻ある。 それにユダヤ人を乗せ、東シナ海に引きだし、放置し、全員餓死したところで日本海軍が撃沈する。
 【2】 郊外の岩塩鉱山で使役し、疲労死させる。
 【3】 お勧めは、揚子江河口に収容所を作り、全員を放り込み、種々の生体医学実験に使う。

 この反ユダヤ的な提案は、陸軍大佐:安江仙弘(やすえ のりひろ)経由で東京の松岡洋右に伝えられたが、この提案は実現しなかった。 安江仙弘陸軍大佐はユダヤ問題の専門家で、1938年、大連特務機関長に就任すると、大陸におけるユダヤ人の権益擁護に務め、ユダヤ人から絶大な信頼と感謝を受けていた。 安江仙弘陸軍大佐の息子である安江弘夫氏が書いた本『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(八幡書店)の中で安江弘夫氏は父(安江仙弘陸軍大佐)について、次のように書いている。
 第二次世界大戦中、支那在住のユダヤ人たちにドイツで行なわれたようにユダヤ人識別のための黄色の星形マーク(ダビデの紋章)や認識票を付けさせようとしたナチスの圧力に抗して、陸軍の上層部を説得して止めさせたのは父・安江であった。 父は、ユダヤ人問題に関して政府や陸軍中央と交渉する時は、いつでも当時の日本の国是であった『八紘一宇』を逆手にとって相手を説伏していた。 つまり『錦の御旗』である。 戦後、わが国の学者およびユダヤ系の学者の一部が『日本が特に理由無くユダヤ人を助けるはずがない』との先入観から、『外資導入』とか『対米関係』に着目し、日本政府が自らの利害だけを考えてユダヤ人保護政策を決めたと納得しているが、それは誤解である。 政府の中心勢力は軍であり、海軍を含めてドイツとイタリアに強く接近しており、そのような時期に、このようなユダヤ人保護政策を決めさせたのは、父・安江の人道主義ユダヤ民族に対する個人的心情に他ならない。

 第3章  戦時中の日本の対ユダヤ人政策
 ドイツのボン大学で日本現代政治史を研究し、論文「ナチズムの時代における日本帝国のユダヤ政策」で哲学博士号を取得したハインツ・E・マウル(元ドイツ軍空軍将校)は、戦時中の日本の対ユダヤ人政策について次のように述べている。
 当時2600人を数えた在日ドイツ人の中には116人のユダヤ人がいた。 日本人はユダヤ系の学者・芸術家・教育者に高い敬意を払った。 その中には、音楽家で教育者のレオニード・クロイツァー、ピアニストのレオ・シロタ、指揮者のヨゼフ・ローゼンシュトックとクラウス・プリングスハイム、哲学者のカール・レヴィット、経済学者のクルト・ジンガー、物理学者のルイス・フーゴー・フランクなどがいる。 日本政府は、ドイツ大使館の激しい抗議にもかかわらず、これらのユダヤ人をドイツ人同様に遇した。 1941年末、ドイツ大使館は日本政府に対して、それらのユダヤ人は全てドイツ国籍を剥奪され、今後いかなる保護も与えられないと通告した。 そして、在日ユダヤ人を解職するよう要求したが、日本の外務省は無視した。 かくして少数ながら戦争終了まで日本で安全に暮らしたユダヤ人がいたのである。
 『日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ』の著者である山本尚志氏は、著書の中で次のように述べている。
 ほとんど所持金もなく行き先のあてもなく来日したユダヤ難民に、日本の人々は温かく接した。 ユダヤ人の子供に食料を贈った日本人もいた。 物資の入手には配給券が必要だったが、商店に配給券を持たないで難民が現れると、店員は自分の配給券を犠牲にして物資を売った。 官憲すらユダヤ難民に便宜をはかった。  〈中略〉  日本人はユダヤ難民を好意的に扱ったのである。 1930年代に、ドイツでは急速にユダヤ系音楽家が排除されていった。 圧迫されたユダヤ系の音楽家にとって、希望の地のひとつが極東の日本だった。  〈中略〉  ナチス・ドイツ政府は、日本で活躍するユダヤ系音楽家に不信の目を向けた。  〈中略〉  在日ドイツ大使館はひそかにシロタを含むユダヤ系音楽家のリストを作成して、日本からユダヤ系音楽家を排除し、代わりにドイツ人音楽家を就職させる陰謀を繰り返した。  〈中略〉  しかし、日本側は、このようなナチスの圧力を事実上無視した。  〈中略〉  第二次世界大戦が始まってからも、東京でユダヤ系音楽家ソリストや指揮者や音楽学校の教授として活躍する状況は変わらなかった。 日本ではユダヤ系音楽家の作品も演奏されていたのであり、これはドイツやドイツ占領下の諸国では許されないことだった。 レオ・シロタは、日本人のユダヤ人問題に対する立場を次のように説明していた。 『日本人は世界事情に詳しく、ユダヤ人問題にも大きな関心を寄せているため、日本在住のユダヤ人に対して寛容で、差別することも、自由を奪ったりすることも全くありません。 その良い例として、このような事実があります。 日本の大学には多くの外国人教授がいますが、その中でもドイツからのユダヤ人が多いことです。 ヒトラー政権時代にドイツで教授職を剥奪されたユダヤ人に対し、日本政府は彼らの契約期間を延長しました。 最近では東京音楽学校の学長がさらに2人のユダヤ人教授を雇用しました』。 シロタは日本のユダヤ人政策を無知の産物でなく、世界事情の理解の結果と考えていたのである。  〈中略〉  シロタの観察によれば、日本のユダヤ人たちは特定の宗教を信じて共通の文化的背景をもってはいるけれども、特に差別されることも社会集団を形成することもない、普通の外国人として生活していた。 当時の日本におけるユダヤ人問題を考える際に、シロタの言葉は、知的で日本社会によく溶け込んだ同時代のユダヤ人の証言として重視されていい。 日本では、ユダヤ人は自分がユダヤ人であることをとりたてて意識しないでも生きていくことができたのだった。

 第4章  満洲ユダヤ国家を作ろうという「河豚計画」
 1881年から1906年までロシア帝国ウクライナで爆発的に、且つ、大規模に、且つ、断続的に起きたポグロム(ハザール系ユダヤ人に対する集団的・計画的な虐殺)の影響で日露戦争(1904年~1905年)後にハルビン北満洲の主要都市)には多数のユダヤ人が流入した。 1908年にはその規模は8000人強になった。 その後も、ウクライナでのユダヤ人迫害を逃れたユダヤ人やロシア革命の混乱を避けたユダヤ人が何千人も満洲に入ってきた為、ハルビンユダヤ人口は1920年には1万人を数えた。 1931年9月から1932年2月にかけて満洲事変が起き、その結果として、北満洲も日本(関東軍)の支配下に入った。 1932年に満洲国が成立した頃、ハルビンユダヤ人口は1万5000人になっていた。 この頃、「ハルビンユダヤ人協会」が設立され、ラビのアロン・モシェ・キセレフとアブラハム・カウフマン博士がその代表的な人物だった。 こうして、ハルビン満洲ユダヤ人活動の中心地となった。 1933年にナチスがドイツの政権を掌握し、露骨なユダヤ人迫害を始めると、これを嫌ったハザール系ユダヤ人がシベリアを経由して満洲へ洪水のごとく流れてきた。 この時代、日本はアメリカから工作機械を全く輸入できなくなっていた為、日本の満洲経営は大きな壁にぶつかっていた。 その為、日本はユダヤ財閥の資本と経営技術とを必要とした。 そこで、ユダヤ財閥との関係を良好なものとする為に、ユダヤ難民を保護し、満洲ユダヤ国家を作る計画があった。 この計画は「河豚計画」と呼ばれた。 日産コンツェルンを率いていた鮎川義介(あゆかわ よしすけ)は1934年に『ドイツ系ユダヤ人5万人の満洲移住計画について』という論文を発表した。 彼は、ドイツ系ユダヤ人5万人を満洲に受け入れ、最終的には100万人を移住させ、満洲ユダヤ国家を作ることで、ソ連への防波堤にしようと考えていた。 1936年、鮎川義介関東軍の後援で満洲に行き、満洲重工業開発株式会社を設立したことにより、「河豚計画」は国策レベルに浮上した。 (鮎川義介は大正・昭和期に活躍した実業家で、日産自動車の実質的な創業者である)。 ユダヤ人との間に対話の場を設けて関係を強めることを考えた日本軍首脳は、1937年から1939年にかけてハルビンで計3回の「極東ユダヤ人大会」を開催した。 支那事変開始(1937年7月7日)後の1937年12月、第1回の極東ユダヤ人大会が開催され、この大会には安江仙弘陸軍大佐や樋口季一郎陸軍中将や谷口副領事などが出席した。 その直前に結成された「極東ユダヤ人会議」の議長にはユダヤアブラハム・カウフマン博士が選出され、極東の上席ラビにはアロン・モシェ・キセレフが選ばれ、1000人近いユダヤ人がその会議を傍聴した。
 第1回の「極東ユダヤ人大会」で、樋口季一郎陸軍中将は次のように演説した。
ヨーロッパのある国は、ユダヤ人を好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。 いったい、どこへ追放しようというのか。 追放せんとするならば、その行き先をちゃんと明示し、あらかじめそれを準備すべきである。 当然とるべき処置を怠って追放しようとするのは、刃を加えざる虐殺に等しい行為と、断じなければならない。 私は個人として、このような行為に怒りを覚え、心から憎まずにはいられない。 ユダヤ人を追放するまえに、彼らに土地をあたえよ。 安住の地をあたえよ。 そして、また、祖国をあたえなければならないのだ。
 この樋口季一郎陸軍中将の演説が終わると、凄まじい歓声が起こり、熱狂した青年が壇上に駆け上がって、樋口季一郎陸軍中将の前にひざまずいて号泣し始めたという。 ハルビンユダヤ人協会の幹部達も、感動の色を浮かべ、次々に握手を求めてきたという。
 第1回の「極東ユダヤ人大会」では多数の作業計画が採択された。 その基本理念を定めたのは樋口季一郎陸軍中将の演説だった。 彼は「日本人は人種偏見を持っておらず、親ユダヤ的だ」と強調し、日本人はユダヤ人と協力し、経済的接触を保つことに関心があると述べた。「極東ユダヤ人大会」には、ハルビンのほか、奉天・大連・ハイラルチチハル・天津・神戸など、極東各地のユダヤ人社会から代表が出席した。 因みに、「極東ユダヤ人大会」に参加したユダヤ人はハザール系ユダヤ人ばかりであり、セムユダヤ人は参加しなかった。
 「極東ユダヤ人大会」の主要な結果は、カウフマン議長名でニューヨーク・ロンドン・パリのユダヤ人組織に打電され、数多くのマスメディアに通報された。 しかし、マスメディアの反響は期待を遥かに下回るものだった。 満洲ユダヤ人は日本と協力する用意があったのに対して、「アメリカ・ユダヤ人会議」の議長スティーブン・ワイズ博士率いるアメリカ・ユダヤ人は反日的であった。 スティーブン・ワイズ博士は、日本が世界のファシズムの最も危険な中心の一つだと考えていた。「極東ユダヤ人会議」の議長アブラハム・カウフマン博士は、アメリカ・ユダヤ人のスポークスマンに対して「日本をもっと好意的に見るように」と説得したが、フランクリン・ルーズベルト大統領の側近だったスティーブン・ワイズ博士は日本を信用せず、満洲でのユダヤ国家建設構想(河豚計画)に賛成しなかった。 スティーブン・ワイズ博士はアメリカ・ユダヤ人の指導者の中心人物であるのみならず、全世界のユダヤ人の指導者ともいうべき人だった。 彼はフランクリン・ルーズベルト大統領のブレーンの中でも随一であり、フランクリン・ルーズベルト大統領がいる所には、必ず影のように彼がついていたと言われ、フランクリン・ルーズベルト大統領の政策を左右する実力を持っていた。 そして、スティーブン・ワイズ博士は基本的に反日主義者であった。
 日本軍が上海のサッスーン一族のキャセイマンションや外国人クラブを接収すると、アメリカ・ユダヤ人会議のメンバーは猛然と反日意識を燃やし始めた。 彼らアメリカ・ユダヤ人は莫大な資金援助により蒋介石軍を支え、日本軍を中国から追い出そうとした。「上海キング」と呼ばれていたビクター・サッスーンは、日本の「河豚計画」に協力することを断固として拒否し続けた。 ビクター・サッスーンはイギリス育ちの親イギリス主義者であり、反日主義者であった。
 サッスーン財閥は、上海のユダヤ財閥の中で桁はずれの財産を保有する屈指の財閥であった。 サッスーン家はロンドン・ロスチャイルド家の東アジアにおける代理人であった。 その当時、サッスーン家やロンドン・ロスチャイルド家は上海を東洋における最大拠点と考えていた。 だからこそ、莫大な資金援助により蒋介石軍を支え、日本軍を中国から追い出そうとした。 歴史研究家ハインツ・E・マウルはビクター・サッスーンについて次のように述べている。「当時、ビクター・サッスーンは日本にとって上海のユダヤ財閥の代表格であったが、日本の河豚計画には関心がなく、それどころか、1939年2月のアメリカ旅行の際に反日発言を繰り返した。 日本の中国での冒険を終わらせる為に、アメリカ・イギリス・フランスは日本を事実上ボイコットせよというのである。 日本の陸戦隊本部は、サッスーンは自分の権力と影響力を失いたくないので日本軍を恐れているのだと見ていた」。
 明治大学教授の阪東宏氏によれば、1939年2月にアメリカを訪問したビクター・サッスーンは、ニューヨークで記者会見を行ない、次のような趣旨の反日発言をしたという。「日本軍による対中国作戦と中国側の焦土作戦の結果、中国では来年大飢饉を免れないであろう。 日中戦争開始後の日本の中国経済開発事業は、アメリカ・イギリス・フランスの財政支援なしには不可能であろう。 日本の戦略物資の70%を供給しているアメリカ・イギリス・フランスが対日輸出禁止を実施すれば、日本は中国から退却せざるを得ない。 また、日中戦争の経費負担の増加の為、日本は中国よりも赤化する可能性がある。 なお、アメリカ・イギリス・フランスの対中国投資は、今後も安全が保証されるであろう」。 この反日発言に神経をとがらせた日本の外務省は、ニューヨークと上海の総領事館宛にサッスーンの言動を調査・報告するよう指示したが、意味のある調査結果は得られなかったという。
 ハザール系ユダヤ人のマーヴィン・トケイヤーは著書『The Fugu Plan(河豚計画)』の中で次のように述べている。
 1930年代、『河豚計画』は日本がまさに求めていたものを提供するはずだった。 膨張を続ける日本の版図は、ロスチャイルドやバーナード・バルークやヤコブ・シフなどユダヤ財閥の資本と経営技術を必要としていた。 資本と技術を持った人々を、日本が中国から獲得したばかりの植民地「満洲国」に定住させ、一日も早くソ連という北方の脅威との緩衝地帯にしなければならなかった。 ユダヤ人を利用する代償として、日本はユダヤ人たちに夢を約束した。 ヨーロッパの荒れ狂う迫害の嵐からユダヤ人を救い、安住の地を与えようというのである。 ユダヤ人迫害は、キリスト教と密接な関係があるが、神道を国家信教とする日本には、ユダヤ人を排斥しなければならない理由はなかった。 つまり、もし『河豚計画』が成功していれば、完全な両方得が成功するはずであった。
 「河豚計画」の推進には、犬塚惟重海軍大佐の「犬塚機関」の活動があった。 犬塚機関は、著名なユダヤ人と広い交際を持っていた田村光三(マサチューセッツ工科大出身で、東洋製缶ニューヨーク出張所勤務)の協力を得た。 犬塚機関は、ナチス・ドイツによって迫害されているユダヤ人を助けることで日本の安泰を図ろうと、一所懸命に動いた。 また、犬塚機関は、サッスーン家が反日姿勢を改め、日本に協力してくれることが何よりも重要だと考え、1939年夏、ビクター・サッスーンを上海の虹口地区(通称「日本租界」)に招いて会食を開いた。 しかし、1940年9月27日、「日独伊三国軍事同盟」が締結されるに及んで、アメリカのユダヤ人組織から「犬塚機関」と田村光三に対して、次のような通告が送られてきた。「日本当局が上海その他の勢力範囲でユダヤ人に人種的偏見を持たず、公平に扱かって下さっている事実は我々もよく知り、今回のクレジットでその恩に報い、我々の同胞も苦難から救われると期待していましたが、我々には、アメリカ政府首脳および一般アメリカ人の反日感情に逆行する工作をする力はない。 非常に残念だが、われわれの敵ナチスと同盟した日本を頼りにするわけにはいかなくなってしまいました」。 この通告を受けとった東條英機陸軍大臣(在任 1940年7月~1944年7月)は、安江仙弘陸軍大佐(大連特務機関長)を解任し、この年(1940年)の12月に予定されていた第4回極東ユダヤ人大会を中止した。 そして、日本は翌年(1941年)12月8日に真珠湾を攻撃して、日米戦争へ突入した。
 安江仙弘陸軍大佐とは民族や立場を超えた親友であった「極東ユダヤ人会議」の議長アブラハム・カウフマン博士はハルビンソ連軍に逮捕され、ソ連で苦難の道を歩んだが、幸いにして、彼はイスラエル国に行って、その一生を終えることが出来た。 彼は16年間に渡るソ連の刑務所や労働キャンプでの体験を書いた自伝『キャンプの医者』の中で、「戦前・戦中の満洲で、私が妻以外に信用できた唯一の人物が安江大佐であった」と述べている。 アブラハム・カウフマン博士は「極東ユダヤ人会議」の議長であったが、同時に満洲におけるシオニストの統領でもあり、その立場から世界中にネットワークを張り巡らした「シオン団」を通じて、各国の動きを熟知していた。 因みに、博士の妻は日本人(旧姓高橋)だった。 博士は1971年3月21日に死去した。

 第5章  ユダヤ人の救出に力を尽くした樋口季一郎陸軍中将
 1938年3月、満洲国と国境を接したソ連領のオトポール駅(現ザバイカリスク駅)で2万人のユダヤ難民が吹雪の中で立往生していた。 これらのユダヤ難民はドイツでナチス政権から迫害を受けた人々で、ドイツを離れてポーランドに雪崩れ込んだものの、既に数百万人のユダヤ人を抱えていたポーランド政府は、雪崩れ込んできたユダヤ難民を体よくソ連領に追いやってしまった。 ソ連政府は彼らユダヤ難民を酷寒のシベリアに入植者として送り込んだが、彼らユダヤ難民は都市生活者だったので、酷寒のシベリアで入植・開拓できるはずもなかった。 そこで、彼らユダヤ難民は満洲国を通り上海に行こうとして、シベリア鉄道の貨車に乗って、オトポール駅にたどり着いたところであった。 ところが、満洲国政府が彼らユダヤ難民の入国を拒否したため、彼らユダヤ難民は前へ進むことが出来ず、退くことも出来なかった。 彼らの食糧は既に尽き、飢餓と寒さで凍死者が続出し、彼らユダヤ難民は最悪の状況に置かれていた。 その窮状を知ったハルビンユダヤ人協会の会長カウフマン博士が、満洲国のハルビン特務機関長を務めていた樋口季一郎陸軍中将のところに飛んできて、同胞の窮状を訴えた。 しかし、満洲国外務部(外務省)を飛び越えて、独断でユダヤ難民を受け入れるのは、明らかな職務権限逸脱であった。 しかし、樋口季一郎陸軍中将は自分の判断で、ユダヤ難民全員を受け入れることを決めた。 ユダヤ難民の8割は大連・上海を経由してアメリカへ渡っていき、残り4000人は開拓農民として、ハルビン奥地に入植した。 樋口季一郎陸軍中将は部下に指示し、それらのユダヤ開拓農民の為に、土地と住居を斡旋するなど、最後まで面倒を見た。 この樋口季一郎陸軍中将のユダヤ難民保護に対して、案の定、ナチス・ドイツ政府から強硬な抗議が来た。 しかし、 樋口季一郎陸軍中将はそれをきっぱりとはねつけた。 もう少し詳しく述べると、樋口季一郎陸軍中将はドイツの抗議に対して、「ドイツが自国内でユダヤ人をどう扱おうが、それはドイツの勝手であるが、満洲国のような独立の主権国家の領域内での決定にドイツが干渉することは許されない。 日本はドイツの属国ではなく、また、満洲国も日本の属国ではない」と主張したのである。 樋口季一郎陸軍中将の上司であった東條英機関東軍参謀長は樋口季一郎陸軍中将の主張に同意し、外務省にその通りに回答した。 こうして、ドイツの抗議は空振りに終わった。 現在、エルサレムの丘の上に高さ3mの「黄金の碑」が建立されていて、モーセメンデルスゾーンアインシュタインなどの傑出したユダヤの偉人と共に、上から4番目に「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」とあり、その次に樋口季一郎陸軍中将の部下であった安江仙弘陸軍大佐の名が刻まれている。
 
 おまけ情報1: 『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)
ナチスと同盟を結んだ日本政府はヒトラー反ユダヤ主義に同調してしまったのだろうか。 ドイツのボン大学で日本現代政治史を研究し、論文「ナチズムの時代における日本帝国のユダヤ政策」で哲学博士号を取得したハインツ・E・マウル(元ドイツ軍空軍将校)は著書『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)の中で、日本の対ユダヤ人政策について、次のように述べている。 参考までに紹介しておく。
 戦争中の日本では、反ユダヤ・キャンペーンが強化されたとはいっても、政府のユダヤ政策そのものは基本的に変わらなかった。 松岡外相は1940年12月31日に個人的に招いたユダヤ富豪のレフ・ジュグマンに日本のユダヤ政策を説明している。 『ヒトラーとの同盟は自分が結んだものだが、彼の反ユダヤ政策を日本で実行する約束はしていない』というのである。 それは松岡個人の意見ではなく、日本政府の態度である。 かつ、それを世界に対して語らない理由はない。 松岡は満鉄総裁時代に当時の『ユダヤ問題顧問』のアブラハム小辻(小辻節三博士)に、『自分は防共協定を支持するが、反ユダヤ主義には賛成しない』と言っている。 1938年12月6日の五相会議の対ユダヤ人政策の決定は、政治指導部間の妥協の産物ではあったが、下された時期が良かった。 これでユダヤ人の絶滅というナチスの目標に歯止めをかけたからである。 日本の対ユダヤ人政策は明確な構想を欠いた複雑なものではあったが、人道・道義という面では汚染されておらず、お陰で日本は『ユダヤ人殺し』の汚名を負わずに済んだ。 日本は投資が欲しくてユダヤ人を救ったわけではない。 人種平等の原則によりユダヤ人を拒否しないという五相会議の決定は、政策の方針に倫理的な性格を与えた。 1939年の上海の入国制限は、軍の権威と自信を示そうとするものだった。 日本政府のほうは自信がなく、時には無関心で、訓令も曖昧だったため、現地の担当者には行動の自由があった。 満洲やシナでは、初めの頃、優越感や自信の欠如あるいは単なる手違いから、ユダヤ人を蔑視した取り扱いも見られたが、後にはユダヤ人を支援し、さらには救済する方向に転じて、かつての過ちを補うことになった。 欧州で戦争が始まると、難民の流れは極東に向かった。 難民の運命は日本の軍人・市民・税関や警察そして外交官の手中にあった。 上海の柴田領事は命の危険を冒してゲシュタポの計画をユダヤ人に漏らした。 東條英機関東軍参謀長(在任 1937年3月~1938年5月)は満洲ユダヤ人を穏健に処遇するように指令を発した。 アブラハム小辻(小辻節三博士)は外務大臣とのコネを利用して神戸のユダヤ人の状況改善を図った。 ぎりぎりの状況の中でユダヤ人を救おうとした外交官も沢山いた。 日本船の船長は収容能力を超えてユダヤ難民を乗せたし、東京のドイツ大使館が日本在住のユダヤ人の解職を要求した際に、課長・局長クラスの役人はこの要求をはねつけた。
 日本の対ユダヤ人政策は国際関係や外交協定より下のレベルの事象だった。 他の国々にとっては、日本がユダヤ人をどうしようと、自国の利益が害されない限り関心外のことだった。 エビアン会議からバミューダ会議まで、各国は耳を塞いでおり、ユダヤ難民への扉は閉ざされていた。 ハルビンから上海まで、日本とユダヤの相互理解への努力は、直接の影響を受けないユダヤ人や非ユダヤ人の関心をひかなかった。 日本と日本在住ユダヤ人は他から孤立していたのだ。  〈中略〉  日本の海外進出への努力は、常に自国と周辺の国との直接の対比の中で行なわれた。 ユダヤ人は日本人にとって『ユダヤ人』ではなく単に外国人だった。 日本人はユダヤ人と出会ってからも、この民族が世界各国にとって問題をもつ存在であることを無視していた。 ドイツと同盟を結んだ後でもそれは変わらなかった。 想像上のユダヤ人と現実のユダヤ人には決定的な相違があった。 ユダヤ人は日本人にとって西洋の異人であり、所詮、外国人だった。 ナチス時代の日本人にとって、ユダヤ人はどこからか来てどこかへ去っていく外国人だった。 日本人にとって、ユダヤ人は通り過ぎる旅人であった。

 以上、ハインツ・E・マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)より
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💖24)─2─杉原ビザのその後。ポーランド・ユダヤ人難民を助けたJTB。撃沈された天草丸。〜No.100 

日本とシオンの民 戦前編

日本とシオンの民 戦前編

  • 作者:栗山 正博
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   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 杉原千畝が東京・外務省の訓令を無視してポーランドユダヤ人難民に発行した通過ビザであったが、ポーランドユダヤ人難民にとってはホロコーストから逃れる為の「命のビザ」であった。
 が、通過ビザは万能のビザではなく、シベリア鉄道を乗り継ぎ、ウラジオストックから日本までの通行ビザでしかなかった。
 日本までは手持ちの資金を使って自力で行かねばならなかった。
 アメリカの旅行会社であるウォルター・プラウンド社(のちのトーマス・クック社)と日本のジャパン・ツーリスト・ビューロー(ビューロー。現在のJTB)が、協力し、分担して、ポーランドユダヤ人難民の逃避を支援した。
 日本政府・外務省・軍部は、同盟国ナチス・ドイツに忖度せず、杉原ビザを有効として、ポーランドユダヤ人難民の日本の入国・通過・滞在・出国を承認した。
 ポーランドユダヤ人難民を救ったのは、松岡洋右東条英機A級戦犯達であった。
 それを望んだのが親ユダヤ派の昭和天皇である。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人と昔の日本人とは別人の日本人である。
 現代の日本人は、中国との貿易の為に中国共産党に忖度し、中国共産党の非人道的少数民族ジェノサイドから目を逸らし、弾圧され惨殺される少数民族を助けようとしない。
 その傾向は、政治家、官僚、経営者、学者、メディア関係者などの高学歴出身知的エリートに多い。
 現代日本人には、昭和天皇靖国神社の祭神であるA級戦犯達を非難する資格はない。
   ・   ・   ・   
 団塊ユニバース
 「命のビザ」を繋いだ船・知られざる天草丸の話
 2019.07.22 船 命のビザ, 天草丸, 杉原千畝
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 杉原千畝のビザのあと
 1940年、窮地に陥ったユダヤ人に、権限を越えて「命のビザ=日本通過査証」を発給した杉原千畝の「勇気」はよく知られているが、それは事の始りであり、ユダヤ人達が無事に逃げ延びるためには更なる支援が必要であった。
 シベリア鉄道による二週間に及ぶ逃避行中はソ連兵による暴力と、金品を強奪される等の非情な仕打ちを受けて、生きた心地もせずにウラジオストックに着の身着のままの悲惨な状態で到着した彼らを、敦賀の港まで安全な内に移送するのを助けた民間人がいた。
 到着した敦賀では持たざるユダヤ人に食料や風呂を無償で提供した一般市民もいた。
 ドイツとの関係の中で、触らぬ神に祟りなし、を決め込むことも出来たであろうが、敢えて関係を無視して便宜を図った将校もいた。
 外務省も結局は杉原の逸脱した行為を黙認した。
 発給時の日本滞在10日間、という短すぎるビザの有効期間を延長するために奇策を練った官民もいた。
 結果、敦賀の後、神戸、横浜にて、太平洋を渡る日本船を用意する時間も与えられて、「命のビザ」所持のユダヤ人は希望通りに目的地である米国や豪州にExodusすることができたのだ。その数約6千人。
 日本海汽船の天草丸。人種差別を憎む日本人全員の「儀」を体現した船である。
 ウラジオストック港の岸壁が大型船の接岸に適していなかったため、2〜3千トン程度の小ぶりな船が任に当たった。その代表格が建造後30年という老朽化した天草丸であった。僚船である河南丸などと共に、真冬の日本海の荒波に抗しながら幾度も往復してユダヤ人をウラジオストックから敦賀まで運んだ。
 僚船、河南丸
 僚船にはイラストの河南丸の他、はるぴん丸や氣比丸があった。
 義を見てせざるは勇無きなり。
 実は杉原千畝だけでなく、欧州の幾つかの日本領事館も通過査証を発給していたのだ。
 また、別の時期に上海の地にては、海軍が査証を持たない者を含む2万人近くのユダヤ人を保護し無事に脱出させた事例もあった。
 杉原の前にも、満州国境を通過させてユダヤ人を救出した陸軍将校もいた。
 つまり、日本中がユダヤ人の境遇に同情し、直接関与した日本人は献身的に脱出を支援したのである。
 日本は当時、人種差別に反対する唯一の国家であり、死の瀬戸際に追い詰められたユダヤ人に手を差し伸べることは日本国民全体の合意であったのだ。
 天草丸はドイツで建造されてロシアが運航していたが、日露戦争の結果、戦利品として日本の所有となった。そしてユダヤ人を助けた。戦争中、アメリカ軍潜水艦の雷撃により沈没してしまった。
   ・   ・   ・   
 JTBグループ 交流創造事業 発信サイト
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交流文化クロニクル
「第四回 素敵な日本人へ ユダヤ人避難における役割」
 Nov. 24, 2015/交流文化クロニクル、訪日、グローバル、歴史、杉原千畝、命のビザ、映画
 JTBグループが取り組む「交流文化事業」。
 その原点は、これまでの100年の歩みの中にあります。
 めまぐるしく移り変わる時代の中
 人と寄り添い、考え、行動し、新たな価値を提供してきた人たち。
 そこにどんな物語があり、思いがあったのか。
 それは今も、受け継がれています。
 故きを温ね、新しきを知る
 交流文化クロニクル。
 私たちのこれまでと、これからの姿をお伝えします。
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 01 「命のビザ」、その先に
 第二次世界大戦中、命のビザを手にしたユダヤ人を日本へ
 2015年、日本は終戦から70年を迎えました。
 今、世界各地では当時の記録を、世代を越え継承することに高い関心が集まっています。
 そのひとつに「命のビザ」があります。第二次世界大戦の最中、ユダヤ人の命を救うため日本人外交官・杉原千畝(1900~1986)が発給し続けたビザの記録です。
 昭和15(1940)年、杉原千畝は副領事として赴任していたリトアニアで、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人に政府の方針に背き日本通過のビザを発給し続けることで彼らの亡命を助けました。現在、杉原が執務にあったリトアニアの旧日本領事館は「杉原千畝記念館」として一般公開され、この功績は海外でも多くの人々に知られています。
 杉原のビザを手にしたユダヤ人の多くは、その後大陸を横断し、海を渡り、日本へ。そこから世界各地へ脱出し命をつなぎました。この大陸から、日本への船での輸送斡旋を担ったのが、「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」(以下、ビューロー)。現在のJTBグループでした。
 荒れ狂う海上でこの輸送斡旋に従事した記録が残っています。交流文化クロニクル第4回では、このユダヤ人避難でJTBグループが果たした役割と職員たちの記録を紹介したいと思います。
 02 4000人の命を運ぶ
 荒れる海、困難な旅路、多くの命を運んだユダヤ人の輸送斡旋
 重大な決断
 昭和15(1940)年春、一件の依頼がジャパン・ツーリスト・ビューローのニューヨーク事務所に入りました。それはヨーロッパから日本経由でアメリカへ向かうユダヤ人の輸送斡旋協力の依頼でした。
 依頼前年の9月にナチス・ドイツポーランドに侵攻、第二次世界大戦が勃発。ナチス・ドイツユダヤ人を弾圧、強制収容所へと送り込みました。当時その迫害から逃れるため西欧への脱出路を断たれた多数のユダヤ人が、唯一の逃げ道であった旧ソ連領に続々と押し寄せていました。
 彼らの多くは杉原が発給した日本通過のビザを持っていました。この知らせを受け在米ユダヤ人協会は同胞を一人でも多く無事に助け出したいとアメリカ政府の許可のもと、旅行会社のウォルター・プラウンド社(のちのトーマス・クック社)を通じビューローに協力を依頼してきたのです。
 ヨーロッパからシベリア鉄道で終点のウラジオストクに到着するユダヤ人たち。そこから日本へ渡る唯一の避難経路は船でした。船舶で日本海を縦断し、福井県敦賀(つるが)港で日本に入国。神戸や横浜へ移動の後、アメリカ・サンフランシスコを目指しました。ビューローはこのユダヤ人のウラジオストクから敦賀までの海上輸送とその斡旋を依頼されたのでした。
 当時の日本にとってドイツは重要な友好国。ナチス・ドイツから逃れるユダヤ人を日本の特定の機関が助けることは、時局をかんがみて様々な問題を引き起こすことも考えられました。それは、日独伊三国同盟が締結されるわずか数カ月前のことだったのです。
ジャパン・ツーリスト・ビューローの本社でも、依頼を受けるべきか、さまざまな議論が交わされたといいます。最終的に人道的見地から依頼を引き受けることに決定しました。
 命がけの輸送斡旋
 ウラジオストク敦賀間の航路に添乗員を派遣し上陸地の敦賀には駐在員を配置、まず海上輸送の体制を固めました。さらに日本入国後のユダヤ人乗客の移動にも万全の体制で臨みました。港から敦賀駅までのバス輸送の準備、さらに敦賀駅から神戸や横浜へ向けて出発する臨時列車の手配も行いました。
 昭和15(1940)年9月10日最初の船が敦賀港を出航。ユダヤ人乗客を迎えるため ウラジオストクへと向かいました。極東の港湾都市ウラジオストクまでは片道2泊3日の道のり往復で約1週間の旅程です。
 記録では4名の職員が交代で乗船、休みなく添乗斡旋にあたっています。当時入社2年目でこの業務に最も多く従事した職員大迫辰雄が当時の様子を回想録に残しています。
 それによれば、困難を極めたのが日本海を縦断する航海だったようです。季節が秋から春にかけての冬場。冬の日本海は時化(しけ)が多く船は揺れに揺れ、また「船酔いと寒さと下痢に痛めつけられた」と振り返っています。さらにその揺れはとても眠れたものではなかったと語り、食堂では「用意した皿、調味料台などがテーブルの上を前後左右にすっ飛び、万事休す。」と記述に残しています。
 乗船した職員同様、乗り込んだ400名以上のユダヤ人にとっても、その道のりは決して楽なものではなかったことがうかがえます。また大陸近くの海では機雷により不運にも沈没していく船もあったといいます。当時の状況を考えると、乗員にとっても乗客にとってもまさに命がけの航海だったともいえます。この海上輸送は、翌年の独ソ戦の開始によりヨーロッパからシベリア経由での避難経路が断たれるまで約10か月に渡り続けられることになります。
 03 素敵な日本人へ
 「素敵な日本人へ。」一人のビューローマンに贈られた乗客からのメッセージ
 重要な船内業務
 ウラジオストクから敦賀までの海上輸送を開始させたビューロー。大迫たち職員は輸送斡旋以外にもう一つ重要な役割を担っていました。
 米国在住の親戚・友人からユダヤ人協会へ託された保証金。それを預かり名簿と照らし合わせ乗客の中にいる該当者へ手渡すことでした。そのお金は日本到着後アメリカへの脱出を支える貴重な資金となりました。
 その業務は日本到着後、最終目的地への移動を滞りなく進めるため、ウラジオストクから敦賀までの航海中に行われました。船の添乗にあたる職員は2泊3日という限られた時間の中で約400名にのぼる乗客の氏名と送金額のリストを照合、ひとりひとりへの給付の手配や授受の有無を確認していく必要がありました。
 「多くの航海中、殆どの難民は船酔い状態。悪臭漂う三等船室で一人一人をチェックすることは大変な仕事であった。」大迫は記録に残しています。
 荒れ狂う海の上、膨大なリストの中からひとりずつ名前を聞いて回り本人を探し出すのは容易なことではありませんでした。
 なにより苦労したのは言葉の問題でした。アメリカからの依頼を受け英語に堪能な職員で添乗員たちは構成されていました。しかしヨーロッパ各国から逃れてきた多くの乗客は多種多様な言語を話し英語を話せる方は非常に少なかったのです。
 職員たちがこの業務を全うできたのはユダヤ人乗客の協力によるものでした。乗客の中から英語を話せる方を探し出し通訳をお願いしたのです。どんな困難な環境でも、与えられた業務を全うする。それは現在のJTBグループにも受け継がれる職務姿勢のひとつです。そこにはその思いに共感し賛同してくれる協力者の存在が欠かせません。当時の職員たちの懸命な働きが乗客の皆さんの協力を生み出していったのではないかと考えています。
 民間外交の担い手として
 「私たちビューローマンのこうした斡旋努力とサービスが、ユダヤ民族の数千の難民に通じたかどうかは分からないが、私たちは民間外交の担い手として、誇りをもって一生懸命に任務を全うしたことは確かである。」回想録の中で大迫はこう結んでいます。
 『民間外交の担い手』という言葉。それは業務だけに留まらず困難な旅路でも常に乗客の心に寄り添うことを目指しました。大迫が残した当時のアルバムにその姿勢を垣間見ることができます。
 女性のユダヤ人乗客と大迫が甲板に並んで写ったスナップ写真。
 大迫が隣に寄り添う女性客は安心した笑顔をカメラに向けています。
 別のページには7人の乗客のポートレートが並んでいます。それは大迫が添乗した際にユダヤ人乗客から贈られたものです。裏側には大迫に宛てて様々なメッセージがつづられています。ポーランド語で書かれたある女性客のメッセージです。
 「私を思い出して下さい。素敵な日本人へ。」
 懸命に働いた大迫をはじめとした職員たち。乗客に寄り添い忘れられない交流を生み出すことにも気を配りました。その努力と姿勢が言葉をこえ、お客様の心へ届いたのではないかと考えています。
 04 どんな状況でも職務を全うする
 どんな困難なときも常にお客様に寄り添い、その笑顔と喜びを
 民間外交官という言葉を胸に取り組んだユダヤ人避難の輸送斡旋。ウラジオストクから約4000名のユダヤ人が海を渡り、晴れて敦賀に降り立ちました。そしてその後日本を経由し最終目的地アメリカへと無事旅立っていきました。
 国や情勢がいかなるものであっても、目の前のひとりひとりの大切なお客様に寄り添い懸命にお手伝いをする。どんな状況でも常に職務を全うするという気持ちがそこにはあります。
 その思いは時代をこえ、日本を代表するという志のもと現在のJTBグループに受け継がれているのです。
 (取材協力/北出明氏)
 参考文献/北出明著『命のビザ、遥かなる旅路杉原千畝を陰で支えた日本人たち』(交通新聞社新書)
 『観光文化 別冊2006 July』(財団法人日本交通公社
   ・   ・   
 素敵な日本人へ~命をつないだJTBの役割~
 ユダヤ人の足取り
 Aug.18, 2017/グローバル、歴史、杉原千畝、命のビザ、映画
 ナチス・ドイツポーランドに侵攻し、迫害から逃れてきたユダヤ人たちは、リトアニアに辿り着きます。当初ビザは、日本領事館だけでなく、オランダなど他の領事館でも発給されていました。
 しかし、1940年6月、ソ連ラトビアエストニアに続き、リトアニアを占領。7月には併合が決まり、各国の大使館や領事館は次々に閉鎖され、唯一残された日本領事館の閉鎖も8月末と通告されます。
 追い詰められたユダヤ人が生き延びるには、日本の通過ビザを手に入れ、シベリア鉄道で極東まで進み、日本へ渡って第三国へ脱出するしか道は残されていなかったのでした。
 リトアニアの首都カウナスで、杉原千畝が発行したビザを持ったユダヤ人は、シベリア鉄道でロシアを横断して、ウラジオストクへ。ここから船で敦賀に上陸し、その後横浜や神戸へ移動、最終的にはアメリカなど他国へと渡って行ったのです。
 この長く厳しい避難の旅の一部を、アメリカのユダヤ人協会から依頼されたのがジャパン・ツーリスト・ビューローでした。
 当時、日本はドイツと友好関係にあったことから、この依頼を受けるべきか、ジャパン・ツーリスト・ビューロー本社内で議論の末に、人道的見地から引き受けるべきと決断。敦賀に臨時の事務所を開設して駐在員を置き、「天草丸」に添乗員を配置。受け入れ体制を整えました。
 敦賀の人々は到着したユダヤ人たちを、花を手に笑顔で出迎え、銭湯を無料で開放したり、リンゴを無償で配布するなど、言葉も文化も違う異国での暮らしを心身ともに支えました。
{当時のJTB
 JTBの前身であるジャパン・ツーリスト・ビューローは、1912(明治45)年に外客誘致を目的に創立されました。国内外に案内所を開設したほか、大連、旅順、長春など旧満州にも委託案内所を設け、社の刊行物や各種観光案内などの印刷物を配布して、日本への誘客をスタートしました。
 1915(大正4)年には乗車券の委託販売を開始。1925(大正14)年には邦人客向けに鉄道省運輸省が管轄する鉄道線の一般乗車券とクーポン式遊覧券の販売を開始し、現在の旅行業への業態変換を意味する大きな転換期となりました。
 1927(昭和2)年には社団法人となり、規模を拡大していきました。第二次世界大戦終戦時には、職員総数は4900人を数えました。}
 01 「ユダヤ人渡米旅行の斡旋」
 昭和十四年九月、ドイツ軍がポーランドに電撃作戦を敢行したため、東欧諸国、とくにポーランド在住のユダヤ人は西欧への脱出路を断たれた。そこで唯一の逃げ路であるソ連領に難民がなだれ込んだ。
 その一部はシベリア経由日本及び北中支方面にも流れて来た。
 在米ユダヤ協会では、悲惨な同胞を一人でも多く助け出したいと、ユダヤ難民救援会を組織し、同協会の保証を条件として、アメリカ政府の許可の下に、ウォルター・プラウンド社(後にトーマス・クック社に合併)を通じて、ビューローに斡旋の協力を依頼してきた。こうした要請にこたえたのは、時の外務大臣松岡洋右の外交感覚であったと云われる。欧州からシベリア鉄道で、ウラジオストックまで来て、日本海敦賀経由で日本に入り、東京、横浜から、アメリカへ送り出すまでの斡旋をしてほしいと要請された。費用は一人当たり神戸乗船者で四〇ドル、横浜乗船者は五〇ドルという契約であった。ビューローでは、敦賀ウラジオストック間の航路に添乗員を派遣して、ユダヤ人輸送の斡旋に当った。昭和十五年九月十日、敦賀港出帆のハルピン丸を第一船として輸送を開始、独ソ戦のはじまる昭和十六年六月まで、十ヶ月にわたって、毎週一往復を運航、この間、一万五〇〇〇人に及ぶユダヤ人の輸送を実施した。この期間中、ビューロー本部では上陸地敦賀に駐在員を配置、また満州支部では満洲里案内所を強化して輸送に協力した。
 当時毎週一回の割で二十数回にわたって日本海を往復、添乗斡旋に当った「大迫辰雄」は、各航海とも海が荒れ、船酔いと寒さと下痢に痛めつけられたうえ、異臭に満ちた船内斡旋のつらかったことを想起し、よく耐えられたものであると述懐している。
 『七十年史』には以上の通り記されているが、何せ、今では五十年以上も前のことで、私の記憶も薄れてきており、細かいことは忘れてしまっているが、思い出すままに当時のことを偲んで見ることにしたい。
 この当時のユダヤ人輸送の件については、大東亜戦争後になって、新聞雑誌等で時折、記事になったことを記憶している。特に昭和十四年から十六年にかけて当時リトアニアの日本副領事をしておられた杉原氏が、外務本省にかまわず、独自に多数のユダヤ人に対し日本通過査証を発行したことに対する在米ユダヤ人の有志が、今は亡き杉原副領事を称える行事を行うに至り、日本側も、同領事の当時の人道的処置を見直すことになったと云われる。昨年だったか、米国映画で「シンドラーのリスト」というのが日本で上映され、大ヒットとなり、私も観に行ったが杉原副領事は日本のシンドラーと称されるに至った。但し、シンドラー自身は金儲けの為にやったと云うところが杉原氏とはちがう。
 さて、その輸送斡旋業務であるが、私は当時入社二年目の若造。勿論乗船勤務など初めてのこと、何故私がこの業務に選ばれたのかは分らないが、若いだけに使命感にあふれるものがあったことは確かであろう。乗船勤務に当っては、待遇はアシスタント・パーサーと云うことで、船員手帳をもらい制服制帽を支給された。初めて着る船員服が何かしら、てれくさかったことを憶えている。
 02 第一話 天草丸のこと
 前にも述べた通り、この輸送の第一船はハルピン丸であったが同船は大きすぎてウラジオストックの岸壁に着壁困難ということで、代船として天草丸が就航することになったといういきさつがあったようである。そこで私は天草丸に乗ることになったのであるが、仄聞した処によるとこの船は船齢二十八年とかで、相当な代物、二〇〇〇トンというから、大きい客船とは云えない。船の幹部としては坊主頭のまじめ一方の船長と、背の高い機関長と、局長とよばれたでっぷりとした通信士と、ロシア語の堪能な事務長(パーサー)の四人であった。そのほかに、私の身辺を色々と世話をしてくれた、ちょっと目先の利く、要領の良いボーイ長がいた。
 幹部四人と私は毎日食堂で三食を共にすることになっていた。船客は一等客のみが我々と一緒だった。一等船室は数える程しか無かったので、毎航とも数える程しか乗船していなかったように覚えている。
 船室の多くは三等で、窓のない大部屋が廊下をへだてて両側に並んでいた。雑居寝方式で三等の収容数は、常識的に二〇〇~二五〇名というところだったろう。実際には復路のユダヤ人輸送に当っては、当時のソ連邦の勝手な扱いにより四〇〇人程が乗船してくることが多かったようである。私は一等船室を与えられたが、寝台が上下二個あり、丸窓がひとつあって、海を見ることは出来たが、殺風景な部屋であったと思う。
 又、食事は日本食とか、洋食とかが交互に出たと思うが、どんなコックがどんな料理を出したのかは覚えていない。他に何の娯楽設備もなかった。(但し、将棋盤とか碁盤はあったようで、船長とか機関長とかが時折、遊んでいたのを覚えている)従って往路はする仕事もなく、暇を持て余すことが多かったように記憶している。
 03 第二話 冬の日本海航路のこと
 冬の日本海は時化が多く、波も荒いと聞いていたが、実際に航海をして見て驚いた。敦賀ウラジオストックの間は、片道二泊三日の航海であったが、たった二〇〇〇トン級の船で、しかも古いと来ているので、まことに良く揺れた。縦揺れと横揺れの両方であった。ひどい時化の日など、船橋に立って見ると、船首が大波を被って、ぐっくっと沈み、甲板が海水であふれて、大丈夫かなと思うほど気色が悪い。大波は次々と襲ってきて、船はそれを一つ一つこえていくのだから大変だ。そういう時は、一体本船は前進しているのかどうか、疑いたくなる状況だった。この状況が丸一日、いや丸二日も続くと、全く船から降ろしてくれと云いたくなる。そんな時はベッドに寝ているしかなく、横になっていても、横揺れはまだいいが、縦揺れになると、船がミシミシ音を立て、身体ごと、船と一緒に沈んでいく気がして、とても眠れたものではなかった。勿論そんな状況では食堂で食事は出来ない。用意した皿、調味料台などがテーブルの上を、前後左右にすっ飛び、万事休すで、船員以外の船客はほとんど船酔いで、出てこないし、我々船員には、船室に握り飯が配給になるのが通例であった。
 私もご多分に漏れず、初めての第一回目の往路の航海では、船酔いの洗礼を受け、ほとんど寝たきり、食事無しの苦しい経験をせざるを得なかった。しかし不思議なもので、ひどい船酔いも、船が港に着くと、ケロッとして直ってしまうのであった。
 私の場合、第一回目の復路の航海は、船客としてユダヤの難民が多数乗り込んできたこともあり、極度の緊張で船酔いばかりしていられず、幸いに帰りは余り海もしけなかったのか、何とか、寝たきりにならずに、船客相手に任務を遂行出来た様に記憶している。
 その後、二十数回にわたり、私は日本海を往復することになったのだが、日本海でもよく晴れた日もあり、そんな時はデッキに出て思いきり太陽の光を浴びたり、歩き回ったりして健康維持に努めたものであった。
 そんな冬の航海も回を重ねる程に慣れて来て、あんなに揺れても船は中々沈まない物だと思うようになり、経験豊富な船長を信頼して日本海の往復を続けたのであった。
 船客の中には強気な人も居て、時化の日でも無理して食堂に出てきて食事を始めるのだが、大抵は途中で気持ち悪くなって席を立ち、そのまま帰ってこないようなことが多かった。船員は大方、商売柄?船には強く「多少は船が揺れないと飯がまずい」などと云う猛者もいた。新米の私は其れ程ではないにしても、航海を重ねる毎に船酔いには強くなったのだから驚きである。
 私は太平洋戦争が終わって、米国の占領軍統括の時代に、漸く国際観光が許可になり、日本に米国を主体とした観光客が来日することになった頃、米国と日本を結ぶ豪華客船(その頃はそう云われた)アメリカン・プレジデント・ラインの「ウィルソン号」に日本交通公社から乗船勤務者第一号として、横浜―サンフランシスコを一月かけて往復することになったが、この客船は大型(一万八千トン)であり、天草丸とは天と地の差があったし、太平洋横断は生まれて初めてではあったが、前の日本海の経験が物を云ったのであろう、全然船酔い無しで任務を遂行出来たことはありがたかった。
 04 第三話 ユダヤ人のこと
 昭和十四年~十五年の頃の私は、ビューローに居て、ユダヤ人とのお付き合いは恐らくなかったと思う。それが、この時のユダヤ人輸送の斡旋の仕事のおかげで一万人以上のユダヤ人とお目にかかることになったのである。
 真冬のウラジオストックは凍りついて、気温は〇度以下が多く、寒さは厳しい。雪の舞う波止場に列を成してタラップに乗り込んでくることもあったが、私どもがタラップの上で待っていると、ソ連側のゲー・ペー・ウー(G・P・U)即ち警察の隊員が、一人一人の証明書のような物をチェックして乗船を許可していた。難民と云っても千差万別で、最も分かり易いのはユダヤ教の僧侶、上から下まで黒装束で、頭にお皿見たいな小さな丸い黒色の帽子?を載せていた。老若男女が入り混じって大きな荷物を重そうに持って乗船してくる姿は壮観であった。中には英語を得意として話す者もあり、彼等が私との通訳となったわけで、坊さんの数も多かったが、殆ど英語は分からなかった。
 前にも述べたが、本船には数は少ないが、一等船室もあったので、どういう選択をしたか知らないが、一等の乗船券を持ったお客も毎回いた。そういうお客は、同じユダヤ人でも、これが難民かと疑われるような、ぜいたくな服装の夫婦であり家族連れであった。彼等はどういう訳か、金持ちであり、大方が尊大であった。ボーイ長にはチップの稼げる乗客であったようで、いろいろサービスに努めていたようだが、ケチなお客とはよく喧嘩していた。坊さんや一般の難民たちは大体が三等客で大部屋にゴロゴロしていた。彼等は余り金を持っておらず、敦賀に着いたときに貰う現金と引き換えるトーマス・クック社のバウチャー(引換証)をもっている筈であった。
 老若男女といっても、最も数多く乗船したユダヤ人は中年の男性で、女性も中年以上が多かったように記憶している。中には珍しく目を見張るような美人がいた。概してユダヤ系の若い女性は美人型が多いとか、但し年を取るほどに殆ど例外なく肥満体となり、若いときの面影がなくなるという話であった。
 何れにせよ、その当時のユダヤ人はパスポートを持たぬ無国籍人で、欧州から逃れてきた難民ということで、一般的に何となく元気なく、中にはうつろな目をした人もおり、さすらいの旅人を彷彿させる淋しさが漂っていた。無国籍人の悲哀をこれ程感じたことはなく、私はこの時くらい、日本人に生まれたことを幸せに思ったことは無い。
 05 第四話 ウラジオストックのこと
 今でこそ、ロシアに変わったウラジオストックの町は外国人にも解放され、ビジネスマンや、ツーリストまでが自由に訪問できる時代になったが、五十年前のこの町は、私ども船員は原則として上陸は認められなかったのである。もっとも厳寒のこの港は、粉雪が舞い、凍りついていて、出る気もしなかったのが実情であった。
 私どもは本船が入港後はのんびりと、揺れない船室で一時を過ごすことが多かったが、ソ連側のG・P・Uは四六時中、本船を警備していた。若い隊員はヅカヅカと船室に入ってきて、日本語を流暢にしゃべり、私どもの持ってきた日本の新聞を漢字まで読んだのには、本当に驚いたものである。そんなにまで日本に対して研究というか、将来の何かに備えていたのかと、恐ろしくなったものである。大体、若い隊員が多く、彼等の態度は一応優しく、にこやかであったように記憶している。
 一度だけ、船長に誘われて、お供し、上陸して現地の日本領事館を訪問したことがあった。船長だけは、しばしば領事館を訪問しており、この往復だけ(勿論徒歩で)がゆるされていたようで、余り気分の良いものではなかった。領事館で何をしたか覚えていないがとにかく一度だけ、ソ連の土を踏んだという思い出だけが残っている。
 06 第五話 ビューローの斡旋業務のこと
 前にも述べたように、ビューローは米国の当時有名だったトーマス・クック旅行社との契約により、日本経由で、米国やその他の国に逃げてくるユダヤ人宛に、米国在住の親戚、友人から預けられた難民個人に対する保証金を、当時のビューローのニューヨーク事務所を通して、東京本社に送金するという仕組みになっていた。
 ニューヨーク事務所では、つぎつぎと受取った保証金を本社に送金すると同時に、渡すべき難民本人の氏名を本社に打電した。それにより本社外人旅行部では、難民の氏名と送金額のリストを作り、乗船勤務者と敦賀駐在員に送った訳である。
敦賀駐在員は何ヶ月毎かに交代したが、寒い冬の敦賀での業務は決して楽ではなかった筈である。私と最も長く冬場の駐在員として付き合ったのは鈴木君という当時のハリキリボーイであった。本船が帰ってくると私は、業務を終えた後、本船のスケジュール、又は天候、船の遅れによる変更等で、一泊から二泊を駐在員と同じ旅館で過ごすのが常であった。上陸後に、揺れない旅館で、ゆっくり駐在員と歓談できたことは喜びであった。
 乗船勤務の私は、毎回出航前に受取った本社からのリストにより、復航に乗ってきた難民を相手に、当時「イエローペイパー」と呼ばれていた送金通知書の所持を確認し、リストによって、ビューローから送金が来ているかどうかを、チェックする業務に当ったのだが、多くの航海は時化で船酔いの難民が殆どで、悪臭ただよう三等船室で、一人一人をチェックすることは大変な仕事だったし、全員をチェックすることなど、到底無理であった。その上、さらにチェック業務を難しくしたのは、ユダヤ民族の名前であった。モスコヴィッチとか、ゴールドベルクだとかいう同じ苗字の人が多く、所謂ファーストネームで本人を確認しなくてはならなかった。従って敦賀に入港すると、駐在員が大変苦労することになったのである。
 日本の、外国人入国手続きとしては、先づ検疫、次に入国管理官による旅券と査証(ビザ)の検査、其れから税関による荷物検査と云う順序は昔も今も変わらない。
 この時代の敦賀港では、難民は無国籍で旅券を所持しないので、所謂身分証明書と、其れにある査証がチェックされたのであるが、難民の場合は、「見せ金」というか、トーマス・クック社からの送金が着いているかどうかが、今一つの条件だったので、まづビューローで送金の有無がチェックされなくてはならなかった。この送金が確認されれば、晴れて上陸が認められることになったのである。処が、数百人の中には、送金が着いていないものも多数いた。そういう時には、神戸から来ていた米国ユダヤ人協会の日本支部の責任者が呼ばれて「ギャランティ(保証)」し、滞在費を支払うことになったが、ここに私はユダヤ民族の強力な団結力の現れを見た気がした。
 私と駐在員は、何とか本人をリストから捜しだそうと、数百名の膨大なリストを夢中になってチェックしたことを今でも覚えている。其れは確かにシンドイ仕事であった。
 しかも、ビューローの斡旋業務はそれだけではなかった。本人を確認した送金引換証に対して、事前に用意した円貨を、駐在員が手渡すことであった。滞在費を含め、当時の金で(当時は米貨一ドルが約二円四十銭前後)二百数十円を何百名かに渡す業務も大変だったと思う。こうして現金を受取り、上陸を許された難民たちは税関検査を終えて、横浜か神戸へと移動したのだったが、大方の人数が分ると、ビューローの駐在員は、要領よく敦賀駅までのバス輸送を準備したり、時には団体の大きさにより、臨時列車の手配をした。
 私達ビューローマンのこうした斡旋努力とサービスが、ユダヤ民族、数千の難民に通じたかどうかは分らないが、私達は民間外交の担い手として、誇りを持って、一生懸命に任務を全うしたことは確かである。
 これらの難民の中から、米国に行って成功し、出世した人、金持ちになった人もいたことであろう。彼等が中心になり、嘗て世話になり、命を助けられた杉原元副領事を称える運動が、この数年の間に広がってきたことを聞き、ユダヤ人たちも中々良いことをしてくれるものだと感じている今日の私である。
 (平成七年一月二十五日記)
 『大迫辰雄さんについて』
─ 大迫さんとの出会いについて教えてください。
 北出明氏:私は大学を卒業した1966年、外国人旅行者の誘致活動を行う政府機関、国際観光振興会(現日本政府観光局=JNTO)に就職しました。そこで初めて、当時JTBからJNTOに出向してこられたばかりの大迫さんと出会いました。その年、JNTOでは国際会議の誘致業務も開始するため、専門部署のコンベンション・ビューローを新たに設置したのですが、その責任者として大迫さんが迎えられ、そこに、新入職員の私が配属されたのです。
─ 大迫さんはどんな方でしたか?
 北出明氏:とにかく英語が堪能で、上司でしたが決して偉ぶることなく、とても謙虚でシャイな一面もある、日本人的な人でした。
ユダヤ人輸送の任務を知ったのは?
 北出明氏:私は大迫さんの下で3年間お仕えしたのですが、その間、大迫さんが1940年~41年当時、ユダヤ人の輸送の任務に携わっておられたことはまったく知りませんでした。大迫さん自ら口にすることはなかったのです。
 私がそれを初めて知ったのは、それから約20年後のこと、大迫さんも既に現役を退いておられた頃だったと記憶しています。ある日、たまたま「日本交通公社70年史」を手にする機会があり、読み進んでいくうちに、かつてJTBユダヤ人輸送の業務を請け負ったとの記述が目に入りました。そして、驚いたことに大迫さんがこの任務に携わっておられたことを知り、深い感動を覚えました。それ以来、いつか大迫さんにお会いし、直接お話をお聞きしたいと思うようになりました。
─ その後、お会いできましたか?
 北出明氏:私が海外勤務を終え帰国した1998年にようやくお会いできました。
でも、「自分は任務を全うしただけ」という姿勢を崩さず、決して多くを語ることはありませんでした。
 その謙虚な姿に、ますます敬慕の念が深まりましたね。
 ただ、そのとき、大迫さんが大事にされていた当時のアルバムを見せられたのです。
 そのアルバムには、当時のユダヤ人乗客から贈られた写真がきれいに保存されていて、写真の裏には大迫さんへのメッセージが書かれていました。
 中でも印象に残っているのが、「私を思い出してください。素敵な日本人へ。」
 というメッセージ。
 このとき、残された写真やメッセージを目にして、「外交官 杉原千畝の命のビザについては広く知られているけれど、当時のJTBの取り組みや、日本へ逃れて来たユダヤ人たちの思いについては、知る人は少ない。これらをきちんと後世に伝えるべきだ」と感じ、取材活動を始めたのです。
 『取材活動でわかったこと』
─ 当時のJTBは、なぜこの任務を受け入れたのでしょうか?
 北出明氏:戦中・戦後の混乱により、この当時のJTBの記録はあまり多くは残されていないようですが、JTBに、ユダヤ人輸送業務の要請が来たのは、1940年春頃だとわかりました。
 シベリア大陸を横断し、ロシア・シベリアを経てウラジオストクへ。そこから日本海を渡り、福井県敦賀へ。
 そして、日本から受入れ先となる第三国へ向かうというルート。
その頃、ユダヤ人たちがナチス・ドイツによる迫害から逃れるルートは、もうこれしか残されていなかったのです。
 当時の世界情勢から考えると、この任務を請負うことは、日本と同盟を結ぶナチス・ドイツに逆らうことにもなるため、JTBにとって非常に難しい決断を迫られたことでしょう。
どのような議論が交わされ、この要請を受け入れたのか?最もそれが知りたいところですが、記録が残っていないため確かめることができません。
 しかし最終的にJTBは、「人道的見地からこの任務遂行を決断した」との記録が残っています。
─ 大迫さんをはじめとした当時のJTB職員は、この任務にどのように携わったのでしょうか?
 北出明氏:1941年のドイツ軍によるソ連侵攻を機に、シベリアルートが断絶するまで、10数回に渡るユダヤ人輸送が行われました。最も多く輸送任務に関わったのは大迫さんですが、海上輸送に関わった職員は4名ほどいたようです。
 ユダヤ協会から渡された名簿をもとに、乗客ひとりひとりの顔と名前の照合や、ユダヤ協会からの支給金の給付、第3国への出国をスムーズに行うための仕事などに携わりました。
 敦賀に開かれたJTBの臨時の駐在所では、海上輸送で到着したユダヤ人乗客を、神戸や横浜などの国際港へ送客する業務にも従事しました。
 中でも海上輸送は、特に大変な業務だったようです。
 第1回目のユダヤ人輸送は、約5000トンの大型船「ハルピン丸」で行われました。しかし大きすぎてウラジオストクの港に着岸できなかったため、第2回目以降は2300トン程度の中型船「天草丸」に変更。冬の日本海は時化が多く、波が荒れるため、大迫さんが「天草丸」で初めてウラジオストクへ向かう往路は、激しい船酔いの洗礼を受け、眠れない、食べられない、の苦しい航海となったようです。しかし、港に着き、たくさんのユダヤ人たちを目の前にすると、船酔いのことなど忘れてしまい、無事任務を遂行することができた、と大迫さんは回想録の中で語っています。
─ 当時船に乗ったユダヤ人の方たちにも取材されたそうですね?
 北出明氏:ユダヤ人たちは、追われるようにヨーロッパを脱出し、シベリア大陸を横断するためにシベリア鉄道に乗っている間も、「いつソ連の官憲に連行されるか分からない」という不安に怯えていました。
 やっとの思いで輸送船に乗り込み、ウラジオストクを出港した瞬間、どこからともなく、ユダヤ人たちの心の拠りどころとも言うべき歌「ハティクヴァ(希望)」(現:イスラエル国歌)が船内に溢れたそうです。日本行きの船に乗れたということが、ユダヤ人たちにこの上ない安堵感や安心感を与えたのでしょうね。
 しかし船に乗ってしまえば安全というわけではなく、第二次世界大戦下の海を10数回往復するという大迫さんの業務は、文字通り命をかけた危険な仕事だったと言えるでしょう。
 当時避難民だった方たちに取材した際、敦賀に到着したユダヤ人たちは、「敦賀を天国だと思った」と言っていました。迫害を受ける宿命を背負って生きて来たユダヤ人たちにとって、敦賀の人たちの温かい歓待は、幸せな記憶として鮮明に残っているのでしょう。
 昨年2014年の春に、大変嬉しいことがありました。大迫さんの娘さんから例のアルバムを託され、7枚の写真の持ち主を探していたのですが、ついに、73年の時空を超え、そのうちの一人の身元が判明したのです。
 それが、「素敵な日本人へ」の女性(ソニア・リードさん)でした。残念ながら、ご本人はすでに他界されていましたが、幸い、3人のお子さんたちと連絡が取れ、大迫さんの娘さんのご了解を得、長女の方(デボラ・リードさん)に「お母さんの写真をお返ししたい」と申し出ました。
 デボラさんからは「両親と姉二人の命を奪われたという母は、私たちに当時のことは殆ど語りませんでした。よほど辛い時代を送ったのでしょう。この写真を見て、その頃の母の様子が偲ばれ、感無量です。
 70年以上も前に母が大迫さんに残した言葉は<私を思い出してください。素敵な日本人へ>でした。
 そして、母の願いは叶えられました。彼女は生き延びて幸せな人生を送ることが出来ただけでなく、しっかりと記憶されていたのです。そして、助けを必要としていた人々に示された日本人の親切もまた間違いなく記憶されていたのです。」とコメントをいただき、私も大変感激しました。
─ 最後に、北出さんを取材活動へと突き動かした原動力は何だったのでしょうか?
 北出明氏:現在、親日民族として世界的にも知られるユダヤ人ですが、2011年の東日本大震災や1995年の阪神・淡路大震災のときなど、海外のユダヤ人コミュニティからたくさんの支援の手が上がりました。
 約6000人の命を救った外交官・杉原千畝の“命のビザ”が、今にも続くユダヤ人の日本人に対する親愛の念を生み出したのは確かだと思います。
 でも、大迫さんをはじめとした当時のJTBの職員たちが、“民間外交官”として懸命に働き、ユダヤ人たちを気遣い、労ったことも、現在までに続く親愛の念や交流を生み出した理由のひとつになっているのではないかと思います。
 第二次世界大戦の混乱の中、こんな日本人がいたことを、現在の多くの人たちに知って貰いたい。
 その一念です。
{北出明 氏
 1944年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。
 1966年慶應義塾大学文学部仏文科卒、国際観光振興会(現・日本政府観光局=JNTO)に就職。ジュネーブ、ダラス、ソウルの各在外事務所に勤務。
 1998年国際観光振興機構コンベンション誘致部長。
 2004年JNTO退職。
 知られざるJTBの貢献として、1940年~1941年までのユダヤ人輸送任務を紹介した「命のビザ、遥かなる旅路杉原千畝を陰で支えた日本人たち」(交通新聞社新書)を執筆。}
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