🌈58)59)60)─1─幾つかの伝統は明治前後に作られた新しい底の浅い伝統である。~No.94No.95No.96No.97No.98No.99 * ⑧ 終わり。

   ・   ・   ・
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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の伝統文化は、それほど古くないし、信用している日本人も多くなく、時代の情勢によって大きく変わる事がある。
   ・   ・   ・   
 日本の子供は5才から10才までに、商家へ丁稚・下女、武家では下男・女中へと奉公に出される。
 10歳を過ぎても親と一緒に生活する子は稀であった。
 日本民族日本人には、夢も希望もなかった。
   ・   ・   ・   
 日本の常識は世界の非常識で、日本の知識は世界に通用しない。
   ・   ・   ・   
 2020年3月号 実話BUNKAタブー「天皇制、夫婦同姓、武士道・・・は明治以降につくられた
 この国ではとかく伝統を重んじることが美徳とされがちだが、それがどのくらい昔からあったのかわかっていますか?
 古そうな雰囲気に浸っているだけじゃないですか?
 ネットウヨクが賛美する伝統ぜんぶデタラメ
 『二礼二拍一礼』は明治から
 年末年始を皆さんはどのように過ごしたであろうか。
 元号が令和に変わって初めての年末年始ということで今回は日本のしきたりにならって過ごそうと、大晦日は除夜の鐘を聞き、元旦に初日の出を拝み、おせち料理を食べて初詣に行く。『これぞ日本伝統の正月』だと霊験あらたかな気持ちになっていた人。
 それってホントに日本の〝伝統〟なんですか?
 例えば『除夜の鐘』。そもそも禅寺では煩悩の数とされる108回鐘をつくというのはあったものの、他宗派含めた多くの寺で行われるようなものではなく。1927年(昭和2年)にNHKの『ゆく年くる年』の前進となる『除夜の鐘』というラジオ放送が始まった際、上野・寛永寺に頼んでスタジオに鐘を持ち込み、108回叩いたことがきっかけとなって全国の寺院が取り入れたのだという。
 93年の〝伝統〟行事。
 年が明けて正月になった途端、テレビやラジオ、商業施設などで流れまくる『春の海』。
 作曲家の宮城道雄が上京する際に、航路で旅した瀬戸内海をイメージして作ったのが1929年(昭和4年)の年末。すなわち・・・。
 91年の〝伝統〟的な曲。
 正月料理を重箱に詰めて出す、おせち料理。何百年も前から日本の家庭では一般的・・・という記述はどこにも存在しておらず。その風習がはじまったのは江戸時代で、庶民にまで広がったのは明治後期以降。婦人雑誌や料理雑誌が次々と創刊される中で、新年号に重箱料理が紹介されるのが定番化したことがきっかけだという話。明治後期というと1900年頃なので・・・。
 約120年の〝伝統〟料理。
 ちなみに当時の百貨店のおせち販売も定番だったらしいので『おせちは買うものではなくて、家で作るものなのにね。最近の若い人は・・・』と小言をつぶやくお姑はただの無知な貧乏!
 おせちも食べ飽きたし、暇だから初詣に行こうか・・・なんて言うと『なんて罰当たりな!』と怒る人がいますが、そもそも暇つぶしのレジャーだったということを知らないのであろうか。『初詣』という言葉が初めて用いられたのは1885年の『東京日日新聞』記事という説が濃厚。当時、新橋と横浜の間に汽車が通っていたが、通常は停まらない川崎に三が日だけは止めるようにしたという。なぜなら汽車に乗って川崎大師へ〝初詣〟に行く客が多かったから。そもそも当時は新しかった汽車に乗るのが目的で、ついでだからお寺にお参りしようかというものだった。それがいつの間にか手段が目的となり、いわゆる〝初詣〟するのが一般的になっていったのである。
 江戸時代にも大晦日の夜に神社仏閣に籠もって新年を迎える『年籠もり』や縁起の良い方角にある神社仏閣にお参りする『恵方詣』、年の初めの縁日に神社仏閣にお参りする『初縁日』などの習慣があったが三が日という、たった3日の休日でそれらを叶えるのは難しい。『まあ、社寺に参っておけば、いいじゃね?』といったカジュアルな感覚で始まったのが初詣。
 約135年の〝伝統〟娯楽。
 そうとはいえ、『神社に参るならば伝統的な作法である「二礼二拍一礼」は守ります!』と息巻く者よ。
 それも始まったのは明治からですから!
 奈良時代に始まった神仏習合も1000年の時を経て神仏分離となった。そこで格上だった仏教に負けまいと、神社を格上げるために国家が直接祭司を司ることになり、1907年(明治40年)に『神社祭式』というのが規定されて、その中で『二礼二拍一礼』の元となる作法が決められたのである。すなわち・・・。
 113年の〝伝統〟作法。
 ちなみに初詣が流行りすぎて人が並びすぎるため、早く参拝を終わらせるために『二礼二拍一礼』すればOKということにしたという説もあり。諸説あり。
 〝伝統〟に諸説ありとは、これいかに。
 『一世一元の制』も明治から
 1868年(明治元年)、新政府は『王政復古』『祭政一致』のため神道国教化を進めるべく、神仏分離令を発令。神社の境内にあった寺院は取り壊されて、単体での神社ができていったのである。すなわち神社というのは・・・。
 150年ほどの〝伝統〟的宗教施設。
 ちなみに日本一の初詣参拝客数を誇る『明治神宮』はその名の通り明治時代に作られたのかと思いきや、1920年(大正9年)に鎮座祭が行われている。
 100年の〝伝統〟的神宮。
 そもそも現在ある神社の多くは神道国教化の元で整備された施設であったことからして、元々は皇室の祖先神とされる天照大神を祀る伊勢神宮を総本山として国家神道の社であり、天皇と深い関係にある。その天皇自体の歴史が長いから、神社という概念は伝統のあるものだと言っていいのではないかという意見もあるのだが・・・。
 その天皇を崇め奉ることが日本の伝統と言っていいのか?国民統合の中心に居続けたのだろうか?
 『天皇』とは大和朝廷時代の大王が用いた称号であり、大王は奈良時代から平安時代にかけて政治や祭祀の頂点にあった。しかし摂関政治院政武家の台頭という歴史の中で実権を失っていったのである。足利家の室町時代には多くの宮中祭祀の廃絶もあったほど。江戸時代になってもその地位は変わらず、京都に天皇というお人がいたことを庶民が知っていたのか、怪しいものだという話もある。
 その旗色が変わるのが江戸時代末期で、尊王論や王政復古が盛んとなり、明治維新を経て天皇制へとつながっていった。
 すなわち現在も残る天皇崇拝は明治に始まったもの。皇室を奉っている神社は主に明治にできたもの。
 150年ほどの〝伝統〟でしかない。
 昨年11月に行われた大がかりな神事の『大嘗祭』も『皇室伝統』と言うが、あそこまで大々的にやるようになったのは明治からだ。建設費だけで9億5,700万円ほどかかっているらしいが、『7世紀からの伝統的な皇位継承儀式で公的性格がある』とのことで公費支出となっている。
 まあ、日本の〝伝統〟なんだから税金がいくらかかってもやるべきだ(棒読み)。
 その皇位継承にて元号が『平成』から『令和』に変わったのだが、『天皇一代につき、元号を1つだけ使う』といった『一世一元の制』も日本の伝・・・ん?これも明治元年からなの?天皇の在位中にも災害などの理由で改元されたり、天皇が変わっても元号は変わらないことがあったの?
 全248ある元号のうち、明治、大正、昭和、平成、令和のわずか5つのみに通用されている〝伝統〟。
 ちなみに古事記日本書紀で初代天皇とされる神武天皇の即位日を『紀元節』として祝日にしていたのだが(後の『建国記念日』)、当初は1月29日(旧暦の1月1日)だったのを1873年(明治6年)に2月11日に定め直している。
 天皇制にて最も大事であろう日を定め直すって、それでいいの?そこにおける〝伝統〟って、何?
 その理由が『旧正月を祝う日だと国民が勘違いして、神武天皇即位日だって印象が薄れちゃうか』とい。
 だからそんな理由で定め直していい日なの?大切な日じゃないの?ね?
 その前年1872年(明治5年)に『神武天皇即位紀元』、いわゆる『皇紀』が定められたというのだが、その根拠となっている『日本書紀』の紀年を歴史的事実とするには無理があるということもあり、もはやオカルト的な〝伝統〟がまかり通っていたことがわかる。
 そんな後付けだらけの、『天皇の治世』を祝う歌とされていた国歌『君が代』の編曲を担当しているのはドイツ人なんだけど、それでいいの?ねぇねぇ?
 見合結婚&夫婦別姓も明治から
 神社に話を戻しますと、『日本人なら教会じゃなくて神社で、神前の結婚式にしたいよね』とか言っている、令和婚で入籍して幸せいっぱいのアナタ。
 あれって大正天皇が結婚するときにキリスト教の式をマネして作られたのが最初だから。1900年(明治33年)のことなので・・・。
 120年の〝伝統〟儀式。
 ちなみに見合い結婚も日本の伝統みたいなことを言う人がいるが、明治政府が恋愛を邪なものと考えて明治中期に推進して広まっただけで、元々は恋愛結婚が日本の伝統!
 あと、結婚した夫婦の性問題。『夫婦同姓こそが日本古来の伝統!』ではないのであしからず。
 そもそも江戸時代以前の庶民は姓を名乗っていない。明治になってから庶民も姓を名乗ることとされ、1872年(明治5年)に今でいう戸籍制度(壬申戸籍)が始まったのが議論の始まり。結果、明治政府は1876年(明治9年)、太政官指令で『夫婦別姓』を正式に定めている。その後、1898年(明治31年)の明治民法施行までそれが続いたことを考えると、『夫婦別姓』のほうがどちらかというと日本の伝統だろう。
 夫婦といえば家族。安倍首相が『かつて大家族、2世代、3世代という家族がたくさんあった』と言っていたが、1920年(大正9年)の核家族率は約54%。2017年(平成29年)の核家族率は約56%。
 核家族が日本の伝統!
 他にも日本の伝統とされていることでいうと、正座。両膝を折って腰をおろす座り方は『かしこまる』と呼ばれ、庶民が貴人の前で平伏するときなどの限られた場面での姿勢だった。江戸時代以前は『あぐら』こそが正しい座り方とされていたのを明治政府が国民に等しい修身教育を施すにあたり、日本人としてあるべき正しい座り方として正座を選んだという。
 正座は明治政府によって作られた〝伝統〟的姿勢。
 日本を代表する花とされている、桜。ソメイヨシノは江戸時代後期に開発され、昭和の高度成長期にかけて全国で多く植えられた。つまり日本のどこに行っても桜が見られるようになったのは高度経済成長よりも後の昭和中後期の話。
 桜の〝伝統〟は昭和になって始まったばかり!
 他には・・・そう、喪服。
 喪服は元々、白だった。会葬者も死者も同じく白装束、和装の白無垢を着て参列していたのだが、明治時代の政府高官の国葬で政府が会葬者に対し、洋風の着用や黒ネクタイ、黒手袋の着用などを通達したことから始まったのである。
 明治30年の英照皇太后の大喪では全国民が30日間、喪に服す際、黒喪章の着用を政府が指示したことが大きなきっかけとなって、それ以降、黒が喪色として一般に認知されたのである。
 喪服は白こそが日本の伝統であり、黒は明治政府が作り上げた〝伝統〟。
 以上、日本の〝伝統〟のほとんどは明治政府によって作り出されたものである。
 安倍首相が目指す『美しい国』とは、本来の伝統を取り戻した日本か?それとも〝伝統〟を守る日本か?」
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 世界常識から見て、悪いのは全て日本であり、悪い原因も全て日本にある。
 悪い日本の中心に存在するのが天皇家・皇族、皇室、天皇制度である、世界の正しいにんしきである。
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 日本民族は、大陸や半島にける弱肉強食の生存競争から逃げてきた敗者や弱者で、逃げ込んだ日本列島に雑居し、見境のない乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種民族である。
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 真面な日本人が2割で、真面でない日本人が3割で、未病な状態の日本人が5割。
 真面でない日本人は少数派に多く、優しい日本は少数派に寄り添い、多数派は人道として少数派の機嫌を取ろうとしている。
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 昔の日本人は、口には出さなかったが、中国や朝鮮による日本への侵略と日本人への虐殺・拉致された事を忘れず、そして中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人が日本人を奴隷として売り買いして金儲けをした事を忘れてはいなかった。
 そして、ロシア人による日本侵略と日本人・アイヌ人殺傷を忘れてはいなかった。
 現代日本人は、若年健忘症患者のように忘れやすく、発達障害と変質性格で精神異常と異常行動を起こしやすい。
 そして、反宗教無神論にして命軽視・人権無視・道徳破壊・モラル崩壊のマルクス主義共産主義が大虐殺を仕掛けてきた。
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 日本人とは、浅はかで、愚かで、馬鹿で、つまらない人間である。
 自惚れ自慢する程に、秀でてもいなければ、優(すぐ)れてもいないし、賢くもない。
 日本人は、卑怯で、嘘つきで、信用できないし、優しどころか冷血で、薄情で、非情で、残酷である。
 日本社会は、自己責任・自助努力・自力救済が鉄則で誰も助けてはくれない。
 つまり、人を見捨てるのが日本である。
 日本人は、「心優しい」はウソである。
 日本社会は、強者が理不尽で身勝手に欲望を満たす非人道的なブラック社会である。
 「美しい国日本」はウソである。
 人を信用しない、家族に頼らない、「人は人、自分は自分、家族といえども他人」それが日本の真の姿である。
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 現代日本の財政、経済は、日本国憲法で没収した天皇家・皇室の個人資産・私有資産で成り立っている。
 没収された天皇家・皇室の個人資産・私有資産は、廃藩置県で廃止された各藩の借金と価値の薄い山野の不動産、殖産興業の為の率先投資による株配当で作られたのであって、重税による国民からの搾取でも、侵略による外国からの略奪ではない。
 日清戦争でえた賠償金は、政府の臨時収入となり日露戦争用の軍事費に消えた。
 明治維新は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略から日本を守る為に起きた改革であって、革命ではなかった。
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 日本は、江戸後期から明治にかけて、ロシア・中国・朝鮮らの大陸諸国の侵略に備えての軍事国家化と共に、キリスト教の侵略に対する内面の武装強化も必要となり、宗教の国家神道文化の日本国語、そして精神・心理・生活習慣の伝統・作法・定めなどを新たに作って普及させた。
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 日本を外国勢力から守る為には、天皇を中心とした軍事と宗教・文化・精神で武装した中央集権国家を作り、国力を発展させる以外に方法がなかった。
 が、現代日本はそれを戦争・人殺しを助長する非人道的な犯罪行為であったと否定している。
 特に、反天皇反日派、左翼・左派・ネットサハ、リベラル派・革新派・エセ保守派、反民族派護憲派人権派良識派、良心派、正義派、反戦平和市民団体、反核市民団体、再軍備反対派、自衛隊反対派、反暴力無抵抗主義者などにその考えが根強い。
   ・   ・   ・   
 天皇とは、中華帝国・中華文明の軍事・宗教・文化など多方面での侵略から日本国と日本民族日本人を守る為の対外防禦膜であった。
 その為、国内・内政は武力で日本を統一した権力者に統治を委任し、政治権力と宗教権威を放棄した。
 天皇は、神話に基ずく神の裔という「天皇の御威光」のみを保持した。
   ・   ・   ・   
 現代日本は、国・民族・宗教・文化・精神など多方面で融解し始めている。
 それは、保守派はもとより右翼・右派・ネットウヨクでも同様である。
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 熱狂、狂信な天皇派・勤皇派・尊皇派は、下級武士、貧しい庶民(百姓や町人)、軽蔑された芸能の民(歌舞伎役者や曲芸師など)、迫害されていた賤民(非人や穢多)、差別された部落民(山の民・川の民・海の民)らであった。
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 反天皇反日外国勢力と繋がりのあった日本人共産主義テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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未整理1⦆ー目次・2ー明治~敗戦。昭和天皇は原爆開発に猛反対した。日本キリスト教国化計画。~No.1 始めに。 

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 当ブログは、歴史の定説を恣意的に書き替える為に作成している歴史修正主義民族主義のブログである。
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 日本人は、歴史が嫌いであり、歴史が理解できないし、歴史を学ぼうとはしない。
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 2018-04-25
⚓402)─2─明治維新の近代化とは、ロシアと戦争する国民国家と日本人を急いで作る事であった。武士にはノブレス・オブリージュはない。~No.946 ≪47≫  ❾  


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2019-04-17
⚓395)─2─反戦平和の為ならば北方領土4島をロシアに譲渡したいと願う日本人がいる。〜No.931No.932  
2019-01-28
⚓402)─1─世界史から見て明治維新は革命ではなく変革であった。~No.945  @   
2019-01-27
⚓401)─1─消された公議輿論派によるもう一つの明治維新。積極型開国論。松平春嶽橋本左内横井小楠。~No.943No.944 @     
2019-01-26
⚓400)─1─日本に対する白人国家の砲艦外交は、最初がロシアで次がアメリカであった。~No.941No.942   @   
2019-01-25
⚓399)─1─長崎、天草の「潜伏キリシタン」が世界文化遺産。日本人は薄情で冷血で情が全くない。~No.938No.940   @     
2019-01-24
⚓398)─1─日本と中国・韓国・北朝鮮での歴史認識は正反対に近い程に違う。ペリー提督。~No.936No.937 @    
     

3    
2019-01-21
⚓397)─1─五箇条の御誓文。文学と明治維新島崎藤村『夜明け前』。~No.935  @    
2019-01-20
⚓396)─1─明治維新とは、国外的には西洋価値観の近代化であったが、国内的には高等文官試験の儒教化であった。~No.933No.934  @      
2019-01-19
⚓395)─1─奥羽諸藩は「北の防人」として北方領土四島・日本をロシアの侵略から守っていた。~No.930No.931No.932  @  
2019-04-17
⚓395)─2─北方領土を日本から切り離してロシアに譲渡しようとしている日本人がいる。〜No.931No.932 
 
2019-01-18
⚓393)─1─明治維新の思想的原動力は日本的朱子学(水戸学)・日本的陽明学国学蘭学=洋学であった。~No.926/ @    
2019-05-21
⚓393)─2─外敵のいない平穏な時代は源氏物語、外敵の侵略に脅える時代は万葉集。〜No.927/     
2019-04-09
?394)─1─日本の元号は、日本の独立宣言文であり、天皇諡号であり、日本文化である。ドイツ・オペラ。~No.928No.929/  
     
2019-01-17
⚓390)391)392)─1─島国日本は、ロシアの侵略を撃退する為に海洋軍事国家を目指したが、海洋帝国や大陸帝国になる意志はなかった。~No.921No.922No.923No.924No.925/ @   

        
2019-01-15
⚓388)389)─1─日本人の性格・気性・気質は、塩分・炭水化物・植物繊維の多い和食から生まれた。西洋肉食文化。牛肉屋と牛鍋。~No.917No.918No.919No.920/  @      
   
      
2019-01-12
⚓386)─1─「明治維新による日本の近代化は正しかった」はウソ。官軍・長州軍に参加した被差別部落民隊に対する差別。~No.914No.915 / @   
2019-10-21
⚓387)─1─欧米人は開国期の日本人に醜悪を感じ嫌悪した。〜No.916 /   
・・・   
2019-01-11
⚓385)─1─江戸っ子は愛着のある徳川将軍家と江戸を天皇軍・官軍・倒幕軍から守る為に庶民軍を自主的に組織した。~No.912No.913/ @       
2019-01-10
⚓384)─1・A─江戸末期。明治元(1868)年の江戸の庶民と町の風景。~No.911   @   
2020-01-13
⚓384)─1・B─日本に来た外国人教養人が見た明治期の偽りのない嫌悪すべき日本人の実像。~No.911   
 
 ・・・・
 
 2017-07-23
❈428)429)─1─教育勅語教育ニ関スル勅語。修身教育。道徳教育は道徳を持たない人間にする教育である。~No.980No.981No.982No.983/ @        
2017-07-21
❈430)431)432)─1─皇国史観。明治の精神が目指したのは立派な人格。人神信仰としての靖国神社。1895年~No.984No.985No.956No.967No.978@         
2017-07-20
❈426)427)─1─日本の近代化とは儒教化である。無宗教国家神道。宗教性なき道徳教育としての教育勅語橿原神宮。1890年~No.975No.976No.978No.979/@       
2017-07-18
❈424)─1─大日本帝国憲法発布。キリスト教の宗教侵略に対する精神防衛として国體を強化した。国家神道の新設。1888年~No.971No.972/@    
 2019-06-12
❈425)─1─大日本帝国憲法皇室典範の隠れた意図とは、天皇を封じ込める事であった。〜No.973No.974/     
2017-07-17
❈422)423)─1─世界分割競争とベルリン会議清仏戦争。イギリスは、第三次英緬戦争に勝利し、ビルマ王家を滅亡させ、ビルマを植民地とした。1884年~No.967No.968No.969No.970/@      
2017-07-16
❈418)419)─1─神道勢力は内紛で衰退した。国学勢力は、教養として大学の学問に閉じ込められた。皇国教育。葬式仏教。1879年~No.959No.960No.961No.962/@       
2017-07-15
❈417)─1─国家神道とは、西洋の宗教・精神面での侵略から日本を守る為の宗教改革であった。日本軍の医療。華族の重責。1872年~No.957No.958/@         
2017-07-14
❈414)415)─1─帝国大学は、近代国家建設の人材を育成する為に官軍・賊軍、敵味方に関係なく公平に教育した。~No.965No.956No.957/ @      
2017-07-13
❈412)413)─1─日本軍国主義教育としての運動会。運動会が嫌いな少数派意見。~No.961No.962No.963No.964/ @      
2017-07-12
❈411)─1─庶民には愛国心がなかった為に納税と徴兵に反対して暴動を起こした。秩父事件秩父困民党。~No.959No.960/@        
2017-07-10
❈408)409)─1─インド飢饉。東京遷都。東京招魂社(後の靖国神社)創建。神聖不可侵を証明する教皇無謬説。ペルシャ飢饉。明治の精神。1869年~No.955No.956No.957/@           
2017-07-09
❈404)─1─明治維新戊辰戦争。奥羽越列藩による共和国独立とプロイセン軍事同盟構想。廃仏毀釈。1868年~No.948/ @    
 2018-02-06
❈405)─1─明治維新は、イギリスの対ロシア戦略の一環で起き、イギリスの協力で成功した。~No.949No.950/  
 
 2018-12-09
❈406)407)─1─旧幕府の賊軍・蝦夷共和国。日本とロシアの攻防は江戸時代から始まっていた。~No.951No.952No.953No.954  @  
 
 2017-07-24
❈433)434)435)─1─戊申詔書。1908年~No.979No.980No.981No.982No.983No.984No.985/ @   ≪48≫ ❿         2018-10-24
❈403)─1─マルクス主義反日史観「明治維新とは帝国主義国家を形成してアジアを侵略し虐殺し領土を拡大する為だった」。明治150年記念懐疑派。   ~No.947/  @ 
2018-07-09
❈416)─1─近代国家を建設する為の岩倉使節団の欧米諸国への旅。1871年~No.958No.956 @  
  2018-06-27
❈410)─1─統帥権は、人間不信から、庶民出身の民選議員を信用していなかった証しである。山県有朋の徴兵制と軍人勅諭。~No.958/  
 
 
 ・・・・・
 
2017-08-24 官僚
⛨465)466)467)─1─レーニンが発案した日中全面戦争と日米全面戦争。日本の転向組と革新官僚。~No.1055No.1056No.1057No.1058No.1059No.1060/  @≪54≫ ⓫  

・・・・・・
 
 
 ・・・・
2019-04-05
⚔498)─1─日本民族は生き残る為に天皇・皇室を必要とした。〜No.1148/ 
  
2019-04-22
⚔498)─2─自然災害における象徴天皇の務め。開かれた皇室の。〜No.1149/  ≪62≫     
2018-12-04
⚔471)─2─天皇主義者・賀川豊彦関東大震災キリスト教の信仰と日本初のボランティア。~No.1066/   @     
 
  
2019-04-12
⚔483)─1─軍国日本の敗北は言霊を信じて第二案、次善の策・プランBを立案しなかったからである。~No.113No.1114   ≪58≫    
 2018-11-17
⚔470)─1─関東大震災と皇室そしてナショナリズム。摂政・裕仁皇太子(後の昭和天皇)の被災者救援策。~No.1063No.1064/ @ 
 2018-07-17
⚔496)─1─危険な災害現場で救助活動を続ける自衛隊自衛隊廃止を訴える第九条護憲派日本人。~No.1144No.1145/  @  ≪63≫  ⓬    
 2017-10-06
⚔497)498)─1─日本天皇の下での公平な富の再配分方法。~No.1146No.1147No.1148No.1149/ @ ≪62≫       
2017-10-04
⚔495)─1─子孫が、祖先の霊魂を、人神として靖国神社や各地の護国神社で慰霊し顕彰し感謝する信仰はありか?なしか?~No.1142No.1143 /@        
2017-10-03
⚔493)494)─1─メメント・モリ(死を想え)。日本のレクイエム、ソウル・ミュージックは、「荒城の月」と「海ゆかば」である。日本の軍歌。~No.1138No.1139No.1140No.1141/@       
2017-09-30
⚔486)─2─プーチン「核を保有しない国は、主権国家と呼ぶに値しない」。アメリカの日本核武装論。~No.1122No.1123  @ ⛈  

2019-08-14
⚔487)─1─アメリカのソ連原爆投下極秘計画。日本は実験であり、ソ連は実戦であった。〜No.1126No.1127  
  
2017-09-29
⚔488)─1─日本は、戦後処理として、税金で旧日本軍の中国遺棄化学兵器・毒ガス兵器破棄処分を行っている。~No.1128No.1129/   @ ≪61≫ ⛈     
2017-09-28
⚔486)─3─昭和天皇は、原爆は非人道的大量殺戮兵器であるとして開発中止を厳命した唯一の国家元首。~No.1124No.1125/@  ⛈ ≪60≫    
2017-09-27
⚔486)─1─アメリカ、ソ連中国共産党など核保有国による大量殺人兵器核爆弾開発と非人道的人体放射能実験。~No.1119No.1120No.1121/@ ⛈       
2017-09-26
⚔484)485)─1─OSSのユダヤマルクス主義者(ニューディーラー)による敗戦国日本の共産主義化計画。~No.1115No.1116No.1117No.1118/@  ≪59≫       
2017-09-25
⚔479)─8─昭和天皇は、アメリカ軍が原爆を使用して一般市民を大量に殺害した事を抗議した。陸軍と海軍の皇統護持計画。1945年8月12日~No.1106No.1107No.1108/@≪57≫       
2017-09-24
⚔479)─7・A─中国共産党、韓国、アメリカ、キリスト教会などは、男子学童や女子挺身隊らを祀る靖国神社の廃絶を求めている。1945年7月25日~No.1103No.1104No.1105/ @   
2019-11-30
⚔479)─7・B─8月10日午前2時 昭和天皇による第1回の聖断。〜No.1103No.1104No.1105/   

    
2017-09-22
⚔479)─6─軍部は、昭和天皇の厳命に従い原子爆弾開発を断念した。昭和天皇の人道貢献と戦争犯罪。1945年4月~No.1100No.1101No.1102/@      
2017-09-21
⚔479)─5─昭和天皇は、隠れて原爆開発を続ける杉山元帥に再度中止を厳命した。戦争を避ける事を望んだ昭和天皇の戦争責任。1945年~No.1097No.1098No.1099/@  2017-09-17
⚔472)473)─1─信仰と愛国心の関係。親鸞思想と日本主義の関係。日本仏教と国家神道。~No.1067No.1068No.1069No.1070       
2017-09-16
⚔491)492)─1─天皇・皇后両陛下による、天皇の島・ペリリュー島での鎮魂。(攻防戦1944年9月15日~11月25日)2015年~No.1134No.1135No.1146No.1137/@       
2017-09-14
⚔489)490)─1─アメリカ軍兵士による日本軍兵士の評価。玉砕した日本人兵士は強く、紳士的だった。~No.1130No.1131No.1132No.1133/  @    
2017-09-13
⚔479)─4─海軍と陸軍は、昭和天皇の中止命令を無視し隠れて原爆開発の研究を続けていた。1944年7月~No.1094No.1095No.1096/@       
2017-09-12
⚔479)─3─昭和天皇は、原爆を非人道的大量虐殺兵器であるとして東條首相と杉山元帥に製造中止を命じた。1944年~No.1091No.1092No.1093/@        

 2017-09-08
⚔479)─2─日本1ヵ国の民族資本対米・英・カナダ3カ国の国際資本との原爆開発競争。軍国日本の戦争画。1943年~No.1088No.1089No.1090/@       
2017-09-06
⚔479)─1─東條英機は原爆の早期開発を命じた。アメリ化学兵器部局のマスタードガス人体実験。ソ連スパイにの対日占領基本方針案。1942年~No.1085No.1086No.1087@      
2017-09-05
⚔482)483)─1─ 米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書大東亜戦争 開戦の詔勅)。大東亜戦争終結ニ関スル詔勅終戦詔書)。内閣告諭。No.1112No.113No.1114   @ ≪58≫       
2017-09-04
⚔480)481)─1─ 「フーバー回顧録」、ルーズベルトが日米戦争を始めた。ヴェノナ文書、ルーズベルト政権内の共産主義者。1941年・1945年。No.1109No.1110No.1111/@         
2017-09-03
⚔478)─2─世界的原爆開発競争が始まった。イギリスのチューブ・アロイズ計画。陸軍の二号研究と海軍のF号計画。植民地神社。1941年~No.1082No.1083No.1084/@ ≪56≫     
 2017-09-01
⚔478)─1─陸軍航空総監東條英機中将、戦闘機「隼」と原爆開発研究。紀元2600年記念行事。アメリカでの新薬人体実験。1940年~No.1079No.1080No.1081/@      
2017-08-30
⚔476)477)─1─正定事件。ローマ教皇とヴァチカンは、昭和天皇を信頼し、軍国日本と良好な関係を維持していた。平型関の戦い。秋丸機関。1937年8月下旬~No.1075No.1076No.1077No.1078/@ ≪55≫       
2017-08-28
⚔474)475)─1─タスキギー梅毒人体実験。昭和天皇は、仁科芳雄博士から核爆発による巨大な破壊力の説明を聞く。コルベ神父。日本軍の毒ガス兵器製造。1927年~No.1071No.1072No.1073No.1074/@       
2017-08-27
⚔471)─1─関東大震災と横浜刑務所。備えあれば憂いなし、それは江戸時代・振袖火事以来の伝統であった。1923年9月1日~No.1065/@        
2017-08-26
⚔468)469)─1─裕仁皇太子の欧州訪問。大正天皇関東大震災詔書大正天皇崩御。日本児童文学の創成期。ジャポニズムの終焉。1912年 ~No.1061No.1062 @       

・・・・
2018-12-27
☘59)─1─「菊と星条旗の国体論」。『永続敗戦』と現代日本人の奴隷根性。昭和天皇の戦争責任。皇室消滅の危機。 No.126No.127No.128   @ 
2018-09-10 女性
🌸190)─1─左派系メディアは、皇族の減少を食い止めるために『女性宮家を創設すべき』と主張してきた。~No.389No.390 @


 2017-11-05
514)515)─1─昭和天皇と被曝者支援の米学者シュモー氏との書簡。~No.1196No.1197No.1198No.1199 @ ≪67≫ ⓭      
2017-11-04
⚡512)513)─1─赤い宣教師。赤い仏教僧。日本キリスト教平和教会は平和集会を開催し、熱狂したキリスト教徒は神道八百万の神々を冒涜した。1949年~No.1192No.1193No.1194No.1195/@     
2017-11-02
⚡511)─2─昭和天皇は、伝統的皇室祭祀の唯一祭祀王としてキリスト教への改宗を否定した。東京裁判。1948年7月~No.1189No.1190No.1191/@      
2017-11-01
⚡511)─1─バチカンによる、日本と天皇・皇室のキリスト教化計画。敬虔なキリスト教徒は、明仁皇太子の改宗に期待した。1948年~No.1186No.1187No.1188/@     
2017-10-27
⚡510)─2─GHQは、行幸する昭和天皇を大歓声で迎えた日本民族日本人に恐怖した。共産主義者の目論見は失敗した。1947年7月~No.1183/@     
2017-10-25
⚡510)─1─キリスト教会は、日本をキリスト教国にする為には昭和天皇と皇族を改宗させる事が先決として、皇室周囲に多くのキリスト教徒を送り込んだ。1947年~No.1181No.1182/@        
      
2017-10-23
⚡509)─3─アメリカ・中国・カナダ・オーストラリア・フィリピン・ソ連は、昭和天皇戦争犯罪者として処刑する事を求めた。1946年7月~No.1178 /@      
2017-10-22
⚡509)─2─GHQ民間情報教育局は改宗目的の聖書頒布運動を指導した。世界教会奉仕団と日本キリスト教連盟。第一次アメリカ教育使節団訪日。1946年3月~No.1175No.1176No.1177/@      
2017-10-20
⚡509)─1─人間宣言。皇室財産。バチカンによる、日本と天皇・皇室・皇族のキリスト教化計画。昭和天皇の全国巡幸。1946年~No.1173No.1174/@       
2017-10-19
⚡507)508)─1─日本人のおぞましいく卑しい本性とダグラス・マッカーサーへの感謝の手紙。~No.1169No.1170No.1171No.1172/  @ ≪66≫       
2017-10-18
⚡506)─3─神道指令。日本皇室を自然消滅させる為に直系宮家以外の11宮家の皇籍剥奪。「カサブランカ」の上映。1945年12月~No.1166No.1167No.1168/@ ≪65≫      
2017-10-17
⚡506)─2─マッカーサーの日本キリスト教国家改造計画。靖国神社伊勢神宮明治神宮など主要神社の破棄計画。1945年10月24日~No.1163N.1164No.1165/@       
2017-10-16
⚡506)─1─屍を戦場に晒す肉体の本土決戦は回避されたが、心と精神を洗脳する思考と宗教の本土決戦が始まった。1945年9月~No.1160No.1161No.1162/@       
2017-10-15
⚡502)505)─1─理工系鎌田銓一元陸軍工兵中将は、皇室を護り、天皇制度を存続させ、中国軍の日本進駐を阻止して国土を守った。~No.1156No.1157No.1158No.1159 @ ≪64≫          
2017-10-12
⚡499)500)501)─1─「明仁皇太子の8月15日日記」・「フェラーズ覚書」。横山大観小川榮太郎アンドレ・マルロー。~No.1150No.1151No.1152No.1153No.1154No.1155/@ 

🕯115)─1─大宝令、服忌令(ぶっきりょう)。身分に関係なく死にそうな者は山野に捨てた。〜No.247No.248 

  ・   ・   ・
 関連ブログを6つ上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本民族日本人は、ひ弱で、気弱で、弱虫であった。
 日本民族日本人が最も恐れていたのは死穢(しえ)であった。
 日本民族日本人を救ったのは日本仏教であった。
 日本仏教は、死穢を浄化する為に火葬を広めたが、材木を切ると里山が荒れる為に土葬の方が主流であった。
   ・   ・   ・   
 『詳説日本史 改訂版 日本史B』(2019年版)山川出版社
 「生類憐れみの令と服忌令
 服忌の考え方は『大宝令』の制定以来、朝廷や神社に存在してきた。1505(永正2)年、歌人・学者として名高い公家三条西実隆は、屋敷の下女(げじょ)が病気で助かる見込がないとみるや、寒風はなはだしい夜半に、屋敷の外に下女をすてさせた。家屋敷に死の穢れが生じるのを怖れたためである」
   ・   ・   ・   
 医療が発達していなかった日本では、病気や怪我をすると助ける方法がなく死を待つだけであった。
 家屋敷が死で穢れる事を避ける為に、病気・怪我・老衰などで死が避けられない者は死ぬ前に山野に捨てた。
 捨てられるのには身分は関係なく、祈願寺を持たない公家は庶民と同じく捨てられた。
 祈願寺を持つ公家は、死にそうな主人や家人を屋敷から寺に移し、仏像の前で死ぬまで寝かせた。
 自分の住んでいる家屋敷から死者を出す様になったのは江戸時代からで、それ以前は生活する家屋敷から死人を出す事を嫌っていた。
 祈願寺がなく山野に捨てるのに忍びない公家は、領地や屋敷内に隠居所を造って死ぬまで寝かせていた。
 隠居とは、死を待つ者の事をいう。
   ・   ・   ・   
 広辞苑。服忌令。服忌の日数などを定めた規定、徳川5代将軍綱吉が1684年(貞享1)年生類憐れみの令とともに制定。1736年(元文1)吉宗の時代に条文が確定され、明治維新まで続く。死と血を忌避する観念の定着に大きな役割を果たした。
   ・   ・   ・   
 世界大百科事典 第2版の解説
 ぶっきりょう【服忌令】
 近親の死に際して喪に服すべき期間を定めた法。ほかに触穢(しよくえ)に関する規定も付されていることが多い。服忌令と称するものは,中世伊勢神宮その他の神社で作成されたのが初めであるが,それらは基本的には喪葬令服紀条と仮寧(けによう)令を組み合わせ,喪に服するものが与えられる休暇たる仮(か)を,死穢を忌む期間としての忌に変えたものであった。江戸幕府では,これらをもとにして5代将軍徳川綱吉の1684年(貞享1)儒者林鳳岡(ほうこう),木下順庵,神道吉川惟足(これたり)らの参画の下に,服忌令を制定公布,その後数次の改正の後,1736年(元文1)最終的に確定した(表参照)。
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 触穢 しょくえ
 そくえとも読む。死穢,産穢,月経などの穢れに触れること。昔は触穢になると,神事や朝参を慎んだ。
   ・   ・   ・   
 死穢(読み)しえ
 世界大百科事典内の死穢の言及
 【穢】より
 …
 [穢の広がりと浄化]
 穢が罪や災いと異なる点は,その呪的な強い伝染力にある。そのため死や産の穢には喪屋や産屋(うぶや)を別に建てて隔離し,それとの接触を厳しく警戒して忌避するが,とくに死穢は不可抗的に死者の家族や血縁親族を汚染する。たとえば《魏志倭人伝》には3世紀ごろの倭人の習俗として,死者の遺族が十数日の喪に服し,最後に全員水浴して穢を浄化することを記している。…
 ※「死穢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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⛩16)─1─日本の宗教行事とは俗な「動の祭り」と聖な「静の祈り」である。~No.30No.31 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本神道は、ローカルな宗教であり未発達な宗教である。
 日本に反宗教無神論的な風潮が広がりつつあり、少数派に配慮して除夜の鐘や盆踊りが減り始めている。
   ・   ・   ・   
 日本の祭りは、大金を使い度胆を抜かすほどド派手で騒々しく、二つとして同じ祭りはない。
   ・   ・   ・   
 2020年1月23日号 週刊新潮「生き抜くヒント! 五木寛之
 テレビの外野席
 〈10年ひと昔〉という。
 まったくその通りだ。大晦日の『紅白歌合戦』を見て、つくづくそう思った。
 私も昔、恥ずかしながら1度だけ紅白の審査員をつよめたことがある。その頃は審査員の席は客席の前のほうで、それほど目立つ場所ではなかった。
 今回は審査員のかたがたが、雛壇というか、えらくライトの当たる場所にずらりと並んでおられた。なかでもひときわ目立っていたのは、なんといってもノーベル賞の受賞者の先生である。NHKに頼まれたので仕方なく、といった感じではなく、いかにも楽しそうに並んでおられたのがよかった。
 紅白歌歌合戦の番組そのものの印象はどうだったか、ときかれても、答えようがない。十年ひと昔、とはいえ、呆れるほどの変貌ぶりである。時代は刻々と変わるのだ。
 10年後の紅白は、今の紅白とは似ても似つかないものになっているはずだ。たぶんそのうち、月面からの中継もありうるのではないか。紅白は単なる音楽番組ではない。その国とその時代を如実に反映する鏡のようなものだ。
 今年の紅白のイデオロギーは、たぶん〈高齢化社会に抗して〉というものではなかっただろうか。
 たとえ少数であったとしても、この国の未来を担うのは、いやおうなしに幼少年の世代である。人口比率からいえば多数を占めるのが成人、高齢者層であろうとも、未来は幼少年の側に託すしかない。
 これまでの紅白の変貌は、趣向の変化だった。いまや番組制作の思想そのものが大きく変換したのだ。過去の実績を見るか、未来の可能性をとるか。高齢化か、幼少年化か。
 これは視聴率の問題だけではない。思想の問題なのだ。いまの紅白歌合戦を楽しんでいる世代が、やがて10年後には番組の変貌にため息をつくようになるのだろう。
 シンクレティズム
 さて、『蛍の光』の合唱で紅白が終わると、画面は一転して静寂のなかに『ゆく年くる年』のスタートである。ゴーンと鐘の音が響いたり、サクサクと玉砂利を踏む音がきこえたりと、動から静への転換の気配がなんともいえない。全国各地の寺社を巡って、庶民大衆の祈りの姿が画面に流れる。
 この番組の特徴は、神社と寺院とをミックスして中継を行っている点だ。戦前の民家には、おおむね神棚と仏壇があった。神社にもお参りするし、お寺にもいく。新年の初詣には、明治神宮に若者が大挙して集う一方、成田山にの人々が殺到する。
 私のような地方から上京した人間は、1度は正月に浅草寺(せんそうじ)へお参りすることが多い。それでいて、浅草寺がどの宗派で、山号を何というか、どういう仏をなつってあるのか、などほとんど知らないのが普通である。
 浅草寺には鳥居がある。『三社さま』と呼ばれる浅草(あさくさ)神社である。比叡山延暦寺日吉大社があるように、寺院には神社があるのが当たり前だった。
 神と仏を一緒にまつる。これをシンクレティズムなどという。神仏混淆(こんこう)とか神仏習合とかいわれる世界である。一神教的な社会観からすると未発達な世界と見られがちだが、この国では長い歴史のなかで人びとの感覚のなかに住みついてしまった習俗である。
 高野山の丹生明神、興福寺の春日明神などもそうだ。仏教はそれらの神々を鎮守と解釈した。寺を守り、仏教徒を保護する存在と解釈したのだ。それを『鎮守の神』という。
 それを未開文明の信仰と見るか、信仰の寛容性と見るかは立場によってちがう。『ゆく年くる年』は、それを理屈抜きで受け入れて長続きしているところがめずらしい。
 『紅白』が変る世界の象徴なら、『ゆく年くる年』は、変らぬ世界の典型だ。神仏に祈願するという日本人の心性は、どこまで変わらずに続くのだろうか。
 『祭り』と『祀り』
 『紅白』はお祭りである。『ゆく年くる年』は祈りである。正反対のようでいながら、二つの世界は共に宗教的世界とつながっている。
 以前、東大寺の大きな法要に参列したことがあった。そのとき、あ、これは『紅白』だな、と思ったものだった。当時、人気絶頂だったフォーク歌手も披露された。『祭り』と『祈り』とは、そもそも一体なのである。『紅白』と『ゆく年くる年』は、対照的な番組ではない。動と静というちがいはあっても、ワンセットの番組なのだ。
……」
   ・   ・   ・   
 日本仏教は日本神道の上位宗教として、寺院・僧侶は神社・神主を従え、八百万の神々は諸仏を守るのが役目と定めた。
   ・   ・   ・   
 日本の宗教観は、正邪、聖俗、和荒が一体である。
 神聖不可侵の祈りの聖地と俗欲塗れの享楽の巷は、結界を区切る注連縄で仕切られている。
 厳粛な祈りと軽薄な笑いは、隣り合わせに存在する。
 神社仏閣の隣りに遊郭・女郎屋がある。
 日本仏教の重要な教義に胎蔵経、胎蔵界胎蔵曼荼羅がある。
 日本の宗教では、普遍宗教の常識である禁慾が薄い。
   ・   ・   ・   
 大晦日、日が西の空に沈むと、テレビやラジオは紅白歌合戦、お笑い・バラエティー、歌舞伎・邦楽、格闘技、終わった一年間の話題、クラシック音楽など様々な、年齢性別に関係ないお祭り騒ぎを放送する。
 日にちが変わる23時45分頃から、祈りとして、日本各地の神社仏閣での初詣や除夜の鐘を放送する。
 新年、元日の朝、東の空に昇り来る初日の出を拝む。
 そして、日本は古来の宗教に染まる。
   ・   ・   ・   
 日本国・日本民族日本人は、男系父系Y染色体神話を根拠とする特殊な血統・血筋を正統とする特別な家系・皇統に連なる万世一系男系天皇を交いして最高神である女性神天照大神に帰依している。
 大半の神社は、最高神である女性神天照大神伊勢神宮)に繋がっている。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人にとって、天照大神とは太陽・お天道様であった。
 そうした宗教観は、縄文時代から持っていた。
   ・   ・   ・   
 天岩屋戸の物語。天照大神が天の岩屋に籠もった天地が暗くなった為に、群神は大宴会をおこない天鈿女命(アマノウズメノミコト)が舞踊るや一同は喜ぶ大声で笑い、天児屋根命(アマノコヤネノミコト)は祝詞を奏して、天照大神を天の岩屋から出す事に成功して世の中は再び明るくなった。
   ・   ・   ・   
 神道で最重要な秘儀神事が、皇居内で、天皇によって執り行われる。
 天皇が行う最高秘儀神事とは、途絶える事のない永遠の命としての「蘇り」神事である。
 最重要秘儀神事を執り行う資格があるのは、天照大神の正統な直系子孫で、天照大神の特殊な血統・血筋による特別な家系・皇統に連なる万世一系男系天皇の現皇室とその一族のみである。
 憲法法律の正当性は存在しないし、近代的政教分離の原則もない。
   ・   ・   ・   
 皇統として合法的な正当性があっても血筋・血統の正統性のない天皇では、如何なる宮中祭祀はもとより一子相伝的な最重要秘儀神事を執り行う事はできない。
   ・   ・   ・   
 古事記日本書紀天皇神話に基ずく伝統宗教文化は、男系父系Y染色体神話にのみ存在し、女系母系X染色体物語には存在しない。
 天照大神を源とする高天原神話・天孫降臨神話・民族中心神話など全ての神話は、男系父系Y染色体神話である。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 天岩戸(あめのいわと、あまのいわと)とは、日本神話に登場する、岩でできた洞窟である。天戸(あめと、あまと)、天岩屋(あめのいわや)、天岩屋戸(あめのいはやと、あまのいわやと)ともいい、「岩」は「磐」あるいは「石」と書く場合もある。
 太陽神である天照大御神が隠れ、世界が暗闇に包まれた岩戸隠れの伝説の舞台である。
 神話での記述
 古事記
 誓約で身の潔白を証明した 天地開闢 道統之七世 之「秦」建速須佐之男命は、「河洛道統」~ 高天原に居座った。そして、田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に乱暴を働いた。他の神は天照大御神に苦情をいうが、天照大御神は「考えがあってのことなのだ」と須佐之男命をかばった。
 しかし、天照大御神が機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、建速須佐之男命が機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れたため、驚いた1人の天の服織女は梭(ひ)が陰部に刺さって死んでしまった。ここで天照大御神は見畏みて、天岩戸に引き篭った。高天原葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。
 そこで、八百万の神々が天の安河の川原に集まり、対応を相談した。思金神の案により、さまざまな儀式をおこなった。常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた。
 鍛冶師の天津麻羅を探し、伊斯許理度売命に、天の安河の川上にある岩と鉱山の鉄とで、八尺鏡(やたのかがみ)を作らせた。玉祖命に八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)を作らせた。
 天児屋命と布刀玉命を呼び、雄鹿の肩の骨とははかの木で占い(太占)をさせた。賢木(さかき)を根ごと掘り起こし、枝に八尺瓊勾玉八尺鏡と布帛をかけ、布刀玉命が御幣として奉げ持った。天児屋命祝詞(のりと)を唱え、天手力男神が岩戸の脇に隠れて立った。
 天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。
 これを聞いた天照大御神は訝しんで天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ、天宇受賣命は楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。
 天宇受賣命が「貴方様より貴い神が表れたので、喜んでいるのです」というと、天児屋命と布刀玉命が天照大御神に鏡を差し出した。鏡に写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大御神が、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けると、隠れていた天手力男神がその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。
 すぐに布刀玉命が注連縄を岩戸の入口に張り、「もうこれより中に入らないで下さい」といった。こうして天照大御神が岩戸の外に出てくると、高天原葦原中国も明るくなった。
 八百万の神は相談し、須佐之男命に罪を償うためのたくさんの品物を科し、髭と手足の爪を切って高天原から追放した。

 日本書紀
 『日本書紀』の第七段の本文では、素戔嗚尊古事記と同様の暴挙を行う。最後には天照大神が神聖な衣を織るために清浄な機屋(はたや)にいるのを見て、素戔嗚尊が皮を剥いだ天斑駒を投げ込んだ。すると、天照大神は驚いて梭で自分を傷つけた。このため天照大神は怒って、天石窟に入り磐戸を閉じて籠ったので国中が常に暗闇となり昼夜の区別もつかなかった、とある。
   ・   ・   ・   
 『口語訳新約聖書』(1954年版)
 マタイによる福音書
 第21章 21:10イエスエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。 21:11そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者エスである」と言った。
 21:12それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。 21:13そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。 21:14そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、彼らをおいやしになった。 21:15しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、 21:16イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。 21:17それから、イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこで夜を過ごされた。
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⛩15)─1─日本民族は女神に呪われた民族である。古事記。日本人女性は呪い取り憑く。~No28No.29  ②

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 現代日本は、天皇神話・古事記日本書紀を勝者礼賛物語であるとし、民族中心神話・天孫降臨神話・高天原神話を民族主義ファシズム軍国主義の基になるとして否定している。
   ・   ・   ・   
 性差別・女性差別でも、日本民族日本人と現代日本人では違う。
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 日本民族日本人は、日本の最高神男神ではなく女神を祀っていた。
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 日本で女性が差別され男性より下に見下されるのは、穢れているからではないし、不浄だからではなし、智慧が少なく浅はかで判断力が弱いからではない。
   ・   ・   ・    
 妻神・伊邪那美命イザナミノミコト)は、約束を守らなかった意志の弱い夫神・伊邪那岐命イザナギノミコト)に「お前の国の人間を1日に1,000人殺してやる」と呪った。
 日本国と日本民族日本人は、女神に呪われている。
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 イザナギまたはイザナキ(伊邪那岐/伊弉諾/伊耶那岐)は、日本神話に登場する男神]。『古事記』では伊邪那岐神伊邪那岐命、『日本書紀』では、伊弉諾神と表記される。イザナミ伊邪那美伊弉冉、伊耶那美、伊弉弥)の兄であり夫。
アマテラスやスサノオ等多くの神の父神であり、神武天皇の7代先祖とされている。
 概要
 詳細は「国産み」および「神産み」を参照
 天地開闢において神世七代の最後に伊邪那美命とともに生まれた。そして高天原の神々に命ぜられ、海に漂っていた脂のような国土を固めるべく、天の浮き橋から天沼矛で海をかき回し、出来上がった淤能碁呂島にて伊邪那美命と結婚した。国産み・神産みにおいて伊邪那美命の間に日本国土を形づくる多数の子を儲ける。その中には淡路島をはじめ大八洲(本州・四国・九州等)の島々、石・木・海(大綿津見神)・水・風・山(大山津見神)・野・火など森羅万象の神が含まれる。
 伊邪那美命が、火の神である火之迦具土神軻遇突智)を産んだために陰部に火傷を負って亡くなった。伊邪那岐命伊邪那美命の遺体にすがって泣いていると、彼の涙から泣沢女神が生まれた。その後伊邪那岐命火之迦具土神を殺し(その血や死体からも神が生まれる)、出雲と伯伎(伯耆)の国境の比婆山に埋葬した。なお日本書紀には伊邪那美命の生死や埋葬場所について異伝がある。
 伊邪那岐命は、伊邪那美命に逢いたい気持ちを捨てきれず、黄泉国(よみのくに)まで逢いに行った。黄泉の火で調理した料理を食べてしまった伊邪那美命は最初こそ夫の勧めを断るが、やはり愛しい夫が逢いに来てくれたことだから自分も帰りたいと考え、黄泉津神たちと話し合うことにするが、その間は「決して覗いてはいけない」と言った。しかしいつまで経っても伊邪那美命が帰って来ないため、伊邪那岐命は妻との約束を破ってしまうが、そこで見てしまったのは、腐敗して蛆にたかられ、八雷神(やくさのいかづちがみ)に囲まれた最愛の妻の姿であった。その姿を恐れて伊邪那岐命は地上へ向かって逃げ出してしまう。追いかけてくる八雷神、予母都志許女(よもつしこめ)に髪飾りから生まれた葡萄、櫛から生まれた筍、黄泉の境に生えていた桃の木の実(意富加牟豆美命、おほかむづみ)を投げながら難を振り切った。
 最後に伊邪那美命が追って来たが、伊邪那岐命は黄泉国と地上との境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の地上側出口を千引きの岩とされる大岩で塞ぎ、伊邪那美命と完全に離縁した。岩の向こうから伊邪那美命が「お前の国の人間を1日1000人殺してやる」と言うと、伊邪那岐命は「それならば私は産屋を建て、1日1500の子を産ませよう」と言い返した。
 その後、伊邪那岐命が黄泉国の穢れを落とすために「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(檍原)」で禊を行なうと様々な神が生まれた。最後に、左眼から天照大御神、右眼から月読命、鼻から建速須佐之男命三貴子が生まれた。伊邪那岐命三貴子にそれぞれ高天原・夜・海原の統治を委任した。
 しかし、須佐之男命が母親のいる「妣国根之堅州国」へ行きたいと言って泣き止まないため須佐之男命を追放し、自身は淡道の多賀の幽宮に篭った。
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 伊邪那美命(いざなみのみこと、伊弉冉伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥)は、日本神話の女神。伊邪那岐神伊邪那岐命伊耶那岐命・いざなぎ)の妹であり妻。別名 黄泉津大神道敷大神
 神話のエピソード
 詳細は「国産み」および「神産み」を参照
 天地開闢において神世七代の最後にイザナギとともに生まれた。イザナギとは夫婦となり、オノゴロ島におりたち、国産み・神産みにおいてイザナギとの間に日本国土を形づくる多数の子をもうける。その中には淡路島・隠岐島からはじめやがて日本列島を生み、更に山・海など森羅万象の神々を生んだ。
 火の神軻遇突智迦具土神カグツチ)を産んだために陰部に火傷を負って病に臥せのちに亡くなるが、その際にも尿や糞や吐瀉物から神々を生んだ。そして、カグツチイザナギに殺された。
 亡骸は、『古事記』によれば出雲と伯伎(伯耆)の境の比婆山(現在の中国地方にある島根県安来市伯太町)に、『日本書紀』の一書によれば紀伊の熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)に葬られたという。
 死後、イザナミは自分に逢いに黄泉国までやってきたイザナギに腐敗した死体(自分)を見られたことに恥をかかされたと大いに怒り、恐怖で逃げるイザナギを追いかける。しかし、黄泉国と葦原中津国(地上)の間の黄泉路において葦原中国とつながっている黄泉比良坂(よもつひらさか)で、イザナミに対してイザナギが大岩で道を塞ぎ会えなくしてしまう。イザナミは閉ざされた大岩の向こうの夫にむかって「愛しい人よ、こんなひどいことをするなら私は1日に1000の人間を殺すでしょう」と叫ぶ。イザナギは「愛しい人よ、それなら私は産屋を建てて1日に1500の子どもを産ませよう」と返した。そしてイザナミイザナギは離縁した。
 この後、イザナミは黄泉の主宰神となり、黄泉津大神道敷大神と呼ばれるようになった。  
 名前の由来
 「イザナ」は「誘う」の語幹、「ミ」は女性を表す語とする説、また名前の「ナ」は助詞とする説がある。
 別名の黄泉津大神(よもつおおかみ)は黄泉国の主宰神の意、道敷大神(ちしきのおおかみ)は(黄泉比良坂でイザナギに)追いついた神という意味である。 このようにイザナミの神名からは多様な性格が読み取れる。また、比較神話学の見地から見るとイザナギイザナミ神話は各地の様々な神話を組み合わせて形成されたと考えられている。
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 黄泉比良坂(よもつひらさか)とは日本神話において、生者の住む現世と死者の住む他界(黄泉)との境目にあるとされる坂、または境界場所。
 概要
 生者と死者の住む領域に境界場所があるとする神話は、三途の川などとも共通する思想であり、世界各地に見当たる。日本神話での黄泉比良坂は古墳の石造りや、棺を納めた石室に通じる道からの印象とも考えられている。
 『古事記』では上巻に2度登場し、出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)がその地であるとする伝承がある。「ひら」は「崖」を意味するとされる。
 あらすじ
 男神イザナギと一緒に国造りをしていた女神・イザナミが亡くなり、悲しんだイザナギイザナミに会いに黄泉の国に向かう。イザナミに再会したイザナギが一緒に帰ってほしいと願うと、イザナミは黄泉の国の神々に相談してみるが、けして自分の姿を見ないでほしいと言って去る。なかなか戻ってこないイザナミに痺れを切らしたイザナギは、櫛の歯に火をつけて暗闇を照らし、イザナミの醜く腐った姿を見てしまう。怒ったイザナミは鬼女の黄泉醜女(よもつしこめ。醜女は怪力のある女の意)を使って、逃げるイザナギを追いかけるが、鬼女たちはイザナギが投げる葡萄や筍を食べるのに忙しく役に立たない。イザナミは代わりに雷神と鬼の軍団・黄泉軍を送りこむが、イザナギは黄泉比良坂まで逃げのび、そこにあった桃の木の実を投げて追手を退ける。最後にイザナミ自身が追いかけてきたが、イザナギは千引(ちびき)の岩(動かすのに千人力を必要とするような巨石)を黄泉比良坂に置いて道を塞ぐ。閉ざされたイザナミは怒って、毎日人を1000人殺してやると言い、イザナギは、それなら毎日1500人の子供が生まれるようにしようと返して、黄泉比良坂を後にする。
 ※このほか、オオクニヌシ根の国訪問の話にも登場する。根堅洲国(根の国)のスサノオからさまざな試練をかけられたオオアナムチ(のちのオオクニヌシ)が愛するスセリビメと黄泉比良坂まで逃げ切るというもの。
 ゆかりの場所
 島根県松江市東出雲町は、黄泉比良坂があった場所として、1940年に「神蹟黄泉比良坂伊賦夜坂伝説地」の石碑を同町揖屋に建立した。同地には、千引の岩とされる巨石も置いてある。近くには、イザナミを祀る揖夜神社もある。2010年の日本映画『瞬 またたき』では、亡くなった恋人に会いたいと願う主人公が訪ねる場所のロケ地として使われた。
 江戸時代に書かれた『雲陽誌』によると、松江市岩坂の小麻加恵利坂にも、イザナギが雷神に桃の実を投げた伝説がある。
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 日本人の女性は怖ろしい。
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 日本には、長江文明の精霊崇拝・大地母神崇拝が濃く、黄河文明の天・天帝の徳思想は薄い。
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 日本人が、瓊瓊杵尊ニニギノミコト)や初代神武天皇よりも邪馬台国卑弥呼にこだわるのは、鬼道を使った女性であるからである。
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 日本人男性は、人としての亭主関白である。
 日本人女性は、人でない山の神であり、カカァ天下である。
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 日本の女人禁制とは、女性差別ではなく、日本人女性には人を呪い殺すほどの魔力・魔性を秘めているから怖れたからであって、女性を危険から救おうとした訳ではない。
 そもそも、日本民族は女性神から「日本人を殺してやる」という身の毛がよだつような呪いを掛けられているのである。
 気の弱い軟弱な日本男性は、女性神の「殺してやる」という呪いから逃れる為に、男性神ではなく、霊力の強い女性神に救いを求めた。
 日本民族日本人に呪いをかけた女性神とは、伊邪那美命である。
 日本民族日本人を救った女性神とは、天照大神である。
 伊邪那美命天照大神の血を引く子孫が、現天皇家・皇室である。
 伊邪那美命の呪いを鎮められるのは、夫神・伊邪那岐命から生まれた天照大神しかないと信じ、天照大神に救いを求められるのは血を正しく引く子孫の現・天皇家・皇室しかないと信じた。
 それ故に、特殊な血統・血筋を正統とする特別な家系を皇統として守り続けてきた。
   ・   ・   ・   
 江戸時代の心中事件では、死にたいと思い込むのが男であり、男を死へと引き込むのが女であった。
 日本人女性は、清い死、理想の死、愛に満ちた死、操を貫いた死を夢見る事が多かった。
 そして、愛欲、強欲、独占欲、所有欲も強かった。
   ・   ・   ・   
 日本人男性は、優柔不断で移り気が多く、若い美女に目がない浮気癖が強かった。
 その証拠が、西洋や中華では考えられない春画の氾濫である。
 現代風に言えば、盗撮などの覗き趣味と痴漢癖である。
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 日本民族日本人にとって、女性は「生と死」を司る恐怖の源であった。
 その証拠が、幽霊や魔物に変異して災難をもたらすのは男性ではなく女性である。
 日本民族日本人は、単純明快な男の怨霊より複雑怪奇で理解不能な女の鬼女・般若を怖れ、女性の呪いを怖れるが故に女性神天照大神や女性性・母性を秘めた菩薩に救いを求めた。
 相手を死に追い込んで恨みを晴らすのは、女性である。
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 江戸時代は、女性や子供などに危害を加える男性は「男の恥」として周囲から嫌われた。
 離縁状の「三下り半」は、女性保護の為に夫が別れる妻に渡す再婚許可書であり、離別する時は妻が持って来た持参金を返す義務があった。
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 日本民族日本人の女性恐怖を克服させたのが、仏教である。
 その象徴が、鬼子母神信仰である。
 鬼子母神信仰を、庶民の間に広めたのが朝顔市である。
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 男性を女性の上に置いたのが、儒教の男尊女卑とキリスト教の家父長主義そしてマルクス主義階級闘争史である。
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🕯97)98)─1─奈良・天平時代。国際都市・平城京に住み着いたインド人仏教僧達。~No.211No.212No.213No.214  *

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本に渡ってきた仏教僧は、鑑真などの中国人名僧だけではなく、インド人や中央アジア人の高僧も数多くいた。
 そうした宗教家の中には、ゾロアスター教徒ユダヤ教徒キリスト教徒、その他の宗教宗派も少なからずいた。
 日本神道は、多神教からそれらの宗教・神仏を吸収して同化させ、異質による対立・敵対・反目などを消し去った。
 朝鮮半島から渡ってきた僧侶は、親日派知日派百済王朝僧侶ぐらいで、それ以外の諸王朝の僧侶はいなかった。
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 渡来人と帰化人は違う。
 協力者は、帰化人に似ているが、渡来人には似ていない。
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 1200年以上前、日本はグローバル化していた?!~世界中から祝福された東大寺の大仏~
 2019.03.01
 提供:立正大学 仏教学部
 テーマ
 文学・歴史・地理
 歴史学
 高校の“日本史”で習う「東大寺の大仏」。
 大仏が完成した当時、世界中から祝福を受けたって知っていましたか?当時、大仏の完成は日本だけに限らず、世界的な事象だったのです。大仏だけではありません。仏教の歴史は、中国やインドをはじめ、世界と深く関わっています。
 実は当時、グローバルな側面をもっていた大仏と仏教の歴史を紐解いてみましょう。

 この記事をまとめると
 ①東大寺の大仏の完成式である大仏開眼供養は、インドや中国、ペルシャの人々も参列する国際的なイベントだった。
 ②仏教はインドで生まれ、中国、朝鮮へと伝わり、日本に伝来、つまり“輸入”されたもの。
 ③立正大学仏教学部の授業では、仏教の歴史について多角的に学ぶことで、高校までの日本史や世界史にはない発見や驚きがある。

 東大寺の大仏の完成式は1万人が見守る国際的な一大イベントだった!?
 修学旅行のコースでもおなじみ「東大寺の大仏」。見たことがある人も多いのではないでしょうか。
 見上げるほど大きなこの大仏は、銅499t、鉛8.5t、水銀2.5t、金440㎏、人手260万人(延べ)という、気が遠くなるほどの材料と人手を使って造立されました。
かかった費用は、現在の金額で4600億円!一大国家プロジェクトだったことがうかがえますね。
 日本人なら誰もが知っている東大寺の大仏ですが、意外と知らないことも多いのです。
 まず、正式名を「盧遮那仏(るしゃなぶつ)」と言います。これは、サンスクリット語の「ヴァイローチャナ」を音訳したもので、「太陽の光」という意味。
 仏教経典の一つである「華厳経(けごんきょう)」では、盧遮那仏は蓮華蔵世界という果てしない世界(宇宙)の中心となる存在で、生命あるすべてのものを救済すると示されています。
 大仏は、人々を“太陽の光”のように温かく照らし、救いの光を示す存在なのです。
 そして、大仏が大きいのは、世の中のすべてを漏らすことなく照らし、救済するためとされています。
 聖武天皇が大仏造立を決めたのも、それが理由。
 当時、相次ぐ災害や流行り病の広がりによって多くの人が亡くなり、日本国内は争いが絶えず、不安定な状況でした。そのため、災いや争いごとから日本を救うために、仏教の力を借りようとしたわけです。
 完成式である大仏開眼供養が行われたのは、聖武天皇の詔(みことのり)から9年が経った752年。
 奇しくも、日本に仏教が伝来して200年目にあたる記念の年でした。
 大きな筆で目を書き入れる開眼師はインド人僧侶の菩提僊那(ぼだいせんな)、法会で施主の祈願をする呪願師は中国人僧侶の道璿(どうせん)が務め、ペルシャ人の李密翳(りみつえい)が参列したと伝えられています。
 さらに、開眼供養では、日本をはじめ、朝鮮、中国の様々な舞楽が演じられたそうです。まさに国際的なイベント!世界が「東大寺の大仏」の完成を祝ったのです。
 日本にとって、仏教は “輸入”されたグローバルな文化
 では、どうして東大寺の大仏が世界中からお祝いされたのでしょう。
 そもそも仏教って、どこで発祥したか知っていますか?
 多くの外国人観光客が日本の寺院を訪れる様子を見ていると、まるで仏教は日本で生まれ育ったもののように思ってしまいそうですが、実は仏教誕生の地は、インド。
 この地で生まれた釈迦が悟りを開いたことに始まります。やがて釈迦やその弟子が教えを説いて回ったことで、仏教はインド中に広まり、さらにインドを飛び出し、南北のルートを通って東へ東へと伝播していきました。
 現在の仏教は、その伝わったルートによって、スリランカを経て東南アジア世界へ広まった南ルートの「上座部仏教」、東アジア系、チベット系へと伝わっていった北ルートの「大乗仏教」、さらに源流である「原始仏教」の大きく3つに分けられます。
 そうして伝わっていく間に、各国の文化や風土によって変化し、同じ仏教でもそれぞれ教えが少しずつ異なっているのです。
 日本に伝来されたのは、中国で広まった大乗仏教。6世紀、すでに中国から仏教が伝わっていた朝鮮の百済王が、日本に仏像や経典を贈ったのが最初と言われています。
 いまではすっかり日本でも文化として定着し、人々の生活と密接に関わりのある仏教ですが、元来、日本にとっては“輸入”された文化であり、グローバルなものだったというわけです。
 歴史の面白さや仏教の奥深さを多角的な授業で体感
 大仏造立・開眼をはじめ、1200年以上も前の日本において、仏教に関係することはグローバルな事柄でした。
 それは、グローバル化が叫ばれ、海外のモノやコトを積極的に吸収しようとする現代と何ら変わりのないことではないでしょうか。そして、日本の歴史・文化を学ぶ中で、仏教を題材にした内容、また仏教そのものを学ぶことは特別なことではないのです。
 立正大学仏教学部は、日本の思想的基盤とも言える仏教の歴史について、多角的に学ぶことができます。
 仏教伝来からの歴史的展開について学ぶ「日本仏教史」、発祥の地インドにおける仏教の成立からその後の衰亡、近代における復興まで学ぶ「インド仏教史」といった仏教史はもちろん、神話などを手がかりに日本の精神文化史を考察するための視点を探る「日本文化史」、アジアという土壌で展開されてきた文化の諸相をたどる「アジア文化史」など、授業内容はさまざま。仏像などの仏教美術を軸に、先史時代から近世まで日本美術の変遷を学ぶ「日本美術史」といった授業も用意されています。
 日本とアジア、さらに世界へと仏教が広がっていったように、学びの視点を広げ、かつ深める授業の数々には、高校までの日本史や世界史の授業だけではなかなか得られない発見や驚きが詰まっています。
 歴史の面白さや仏教の奥深さを、学びを通じて体感できるはずです!
 【広告企画】提供 : 立正大学 仏教学部
   ・   ・   ・   
 聖武天皇は、徳を持って自分を律し、仏教と工芸や和歌などの文化で日本を一つにまとめようとした。
 天皇が求めた徳とは、儒教の中華的徳ではなく、神道の日本的徳である。
 中華的徳とは、天・天帝の徳、古代の聖人君主の徳である。
 日本的徳とは、神代の神徳と御仏の慈悲である。
 故に、日本的徳と中華の徳は違う。
 日本的徳の象徴が、仁徳天皇光明皇后が示し求めた慈愛である。
 現代日本には、中華的徳やキリスト教の博愛が溢れてきているが日本的徳が消えつつある。
   ・   ・   ・   
 昔の日本は現代日本とは違って、地の果ての辺境という最悪の地理的条件を生かし、グローバルとローカルを程良く調和を保ちながら内在させていた。
 それを可能にしていたのが、男系父系Y染色体神話に基づく万世一系男系天皇(直系長子相続)であった。
 グローバルとは日本国内に対してであり、ローカルとは中華・インド・ペルシャに対してである。
 その証拠が、正倉院の宝物である。
 正倉院の宝物の大半が、中華・インド・ペルシャの宝物を模して日本の職人が作ったメイド・イン・ジャパンで、その宝物が天皇の名義で日本各地の有力豪族に贈られていた。
 そして、伝来仏教も日本風に解釈され、勅命で日本全国に国分寺国分尼寺が建立され仏教徒を増やしていった。
 第45代聖武天皇は、現天皇家・皇室と男系父系の「血筋」と宮中祭祀の「宗教的縁」で繋がっている直の祖先である。
 天皇の正統性は、男系父系Y染色体神話に基づく血筋と宗教的縁である。
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 シルクロードの終着地である倭国・日本、奈良・平城京は、国際国家・国際都市として数多くの外国人がインドやペルシャなどから日本へと訪れていた。
 日本には人種・民族・性差別も排他主義もなかったが、唯一、朝鮮半島出身者だけは日本人から嫌われていた。
 聖武天皇光明皇后は、困窮した庶民を救済する事を仏に祈っていた。
 皇族や藤原氏などの貴族達は、身分差別を持って庶民を虐げていた。
 日本は、中国や朝鮮と同じようにブラック社会であった。
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 菩提僊那(ぼだいせんな、サンスクリット語: बोधिसेन、Bodhisena ボーディセーナ、704年 - 760年3月16日(天平宝字4年2月25日)は、奈良時代の渡来僧。婆羅門僧正、菩提僧正、菩提仙那とも称される。
 中国に滞在中に日本の入唐僧の招請を受けて736年(天平8年)12月13日に来日。752年(天平勝宝4年)に東大寺大仏殿の開眼供養法会で婆羅門僧正として導師をつとめた。弟子の修栄が撰した『南天竺婆羅門僧正碑』および『東大寺要録』中の「大安寺菩提伝来記」に伝記が残されている。
 菩提僊那は、インドのバラモン階級に生まれた。姓はバーラードヴァージャ(婆羅門遅)と伝わっている。彼は青年期に唐へローカタクシャや安世高の偉業を追って、ヒマラヤを越えて入唐し、中国五台山にも滞在した(五台山の文殊菩薩に会うためという説もある)。 唐では長安崇福寺を拠点に活動していたようで、唐滞在中に日本からの入唐僧理鏡や第十次遣唐使副使中臣名代らの要請により、ペルシャ人の李密翳や、唐人で唐楽の演奏家の皇甫東朝、林邑出身の僧侶で林邑楽を伝えた仏哲、唐の僧侶で日本から伝戒師を委嘱された道璿、のちに音博士となる唐出身の袁晋卿らとともに736年(天平8年)に来日した。3人の僧ははじめ九州の大宰府に赴き、行基に迎えられて平城京に入り、その中の大安寺に住し、時服を与えられた。
 僊那は、華厳経の諷誦にすぐれ、呪術にも通じていた。インド呪術は、僊那から日本僧の弟子へ伝授された。
 751年(天平勝宝3年)僧正に任じられ、翌752年(天平勝宝4年)4月9日には東大寺盧舎那仏像の開眼供養の導師をつとめている。こうした功績から菩提僊那は、聖武天皇行基、良弁とともに東大寺「四聖」としてその功を称えられている。
 760年(天平宝字4年)2月25日、僊那は大安寺にて西方を向いて合掌したまま死去した。翌3月2日、登美山右僕射林に葬られた。残された僅かな図画を基に、2002年の開眼1250年法要の機会に三輪途道らにより菩提僊那像が製作され、現在、本堂に安置されている。運慶の無著、世親像(興福寺蔵)に倣って日本人の顔立ちであるが、眼は緑色に彩色されている。
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 仏哲(ぶってつ、生没年不詳)は、奈良時代の渡来僧。仏徹とも書く。
 生涯
 チャンパ王国(林邑国、現在のフエ)の出身。南インドに入り菩提僊那に師事して密呪に秀でた。唐の開元年間に師とともに入唐、当時唐に滞在していた日本僧理鏡らの招きにより、開元24年 / 天平8年(736年)に師の菩提僊那・唐僧道璿らとともに日本入りした。大宰府を経て都に入り、大安寺に住した。聖武天皇からの信頼篤く、天平勝宝4年(752年)の東大寺大仏開眼法要では舞楽を奉納し、「菩薩」、「抜頭」などといった舞や林邑楽(仏哲らが伝えたとされるインド系雅楽の楽種の一つ)を楽人に伝え、また多くの密教経典、論籍も請来したという。
 仏哲らが伝えた林邑楽は、春日若宮おん祭で毎年12月に披露されており、2014年4月には春日舞楽の雅楽団「南都楽所」がフエで「里帰り公演」を行なった。
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💎623)─1─2020年 中国共産党は困った時に“天皇利用”を悪用して窮地から逃れる。〜No.1356No.1357/  終わり。

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 中国は、日本は辛亥革命の昔から日本を悪用している。
 日本は、中国にいいように利用され、被害を被る。
 現代日本人は、利益の為金儲けの為に天皇・皇室を中国に人身御供のように差し出す。
 現代日本人にとって、天皇・皇室はその程度に過ぎない。
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 自民党政権と財界は、天安門事件後の中国共産党政府を救う為に天皇を政治利用した。
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 2020年1月14日 産経新聞「中国船が尖閣領海侵入 今年2日目
 日本固有の領土である尖閣諸島
 14日午後4時10分ごろから、尖閣諸島沖縄県石垣市)周辺の領海に中国海警局の船4隻が相次いで侵入し、約1時間半航行して領海外側の接続水域に出た。中国当局の船が尖閣周辺で領海侵入したのは4日以来で、今年2日目。」
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 1月15日06:00 msnニュース JBpress「またもや“天皇利用”で中国が得る大きな成果
 © JBpress 提供 中国の習近平国家主席(2020年1月6日、写真:AP/アフロ)
 (古森 義久:産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授)
 2020年春に中国の習近平国家主席国賓として日本へ招くという計画が論議を呼んでいる。この来日での最大のイベントは、天皇による接遇である。
 中国は自国民への苛酷な人権弾圧や海洋での軍事拡張で国際的に非難されているが、国家元首が日本の皇室に丁重に接待されるという構図が中国の対外イメージの改善につながることは確実だろう。だからこそ中国側は習主席訪日に並々ならぬ熱意を示すのだ。
 実は、中国当局によるこの種の「日本の天皇の政治利用」は1990年代にもみられた。天安門事件における自国民虐殺で国際制裁を受けた当時の中国政府が、日本の天皇の来訪を突破口にして「制裁打破」へと動くことに成功した。
 この中国側の計算を、当時の外務大臣だった銭其琛氏が回顧録で明言している。以下では中国側の日本の天皇利用戦略を再現して、今後の日中関係のあり方を考える指針としよう。中国側の対日戦略の読み方の一助ともなるだろう。
制裁打破への「突破口」にされた日本
 中国共産党政権は1989年6月4日、民主化を求めて北京の天安門広場に集まっていた多数の市民を武力で弾圧した。死傷者数は数百とも数千とも言われる。世界の主要各国、とくにいわゆる“西側”の民主主義諸国は激しく反発し、G7の主要7カ国が中心となって中国との交流や経済上の取引、援助などをほぼ全面的に中断した。
 日本もその措置に加わっていたが、中国は日本を突破口とする対応策をとった。なかでも日本の天皇を中国に招くことが、中国への制裁を緩和させる最大の外交手段として位置づけられていた。そうした日本の天皇利用の戦略は、天安門事件の翌年1990年から練られ始めていたという。
 中国側のこのあたりの実情は、当時の銭其琛外相の回顧録に詳しい。『銭其琛回顧録 中国外交20年の証言』という書籍にその内容が記されている。同書の日本語版は2006年に東洋書院から刊行された。訳者は、読売新聞で長らく中国専門記者として活躍し、現在は国際教養大学教授を務める濱本良一氏である。
 『銭其琛回顧録』の内容の一部を紹介しよう。
 まず天安門事件からわずか2カ月後の1989年8月の時点の状況として、銭氏は以下のように記している。
 「中国に対して共同で制裁を科してきた国々の中で、日本は終始、積極的ではなかった。先進7カ国首脳会議の中国制裁決議に、日本は西側各国と歩調を合わせるために、なんとか同意はしていた。
 1989年8月1日、私はパリのカンボジア問題国際会議に出席したとき、日本の三塚博外相と会談した。彼は私に対して、『半月前に開催された先進7カ国首脳会議で、日本は中国のために釈明し、西側の対中制裁をエスカレートしないよう説得した』と語った。中国が安定を回復するのにともない、日本は90年には第3次対中円借款ODA)を開始した」
 「日本は西側の対中制裁の連合戦線の最も弱い輪であり、中国が西側の制裁を打破する際におのずと最もよい突破口となった」
 以上のように中国は、人権弾圧で国際的な非難を浴び制裁を科されると、その窮状から抜け出るために、まず日本を「突破口」にする戦略を立てた。そして、その「突破口」の中核として照準を合わせたのが日本の天皇だった。
 銭氏はさらに述べる。
 「当時、われわれは日本がこの方面で一歩先んじていくように仕向けていた。西側の対中制裁を打ち破るだけでなく、さらに多くの戦略的な配慮があった。すなわち双方のハイレベル往来を通じて、日本の天皇の初めての訪中を実現させるよう促し、中日関係の発展を新たな段階に推し進めることだった」
 「中日2000年の往来の中で、日本の天皇が中国を訪れたことはなく、天皇訪中が実現すれば、西側各国の科した中国指導者との交流禁止令を打破できることになる」
結局、中国の狙いどおりに
 このように中国政府が、天安門事件での懲罰措置を打破するために日本の天皇を政治利用するという意図は明白であった。そして中国政府はそのための対日工作を着々と進めていった。銭氏はさらにこう述べる。
 「天皇訪中の実現までには、非常に細かい多くの仕事があった。まず両国外相の接触を強化することから始めねばならず、両国の元首が相互訪問の実現に向けての良好な雰囲気作りを行った」
 「(1991年には中国側は日本との外相、蔵相、通産相、さらには首相などのレベルの相互交流を重ね)91年8月13日、海部俊樹首相が北京を訪れ、西側が対中制裁を科して以降、訪中した最初の西側政府首脳となった。日本は名実ともに対中制裁を解除し、両国関係の修復作業が完了したことを表していた」
 「日本は唯一の原爆被爆国であり、中国は日本人民の核拡散防止への関心の深さを理解できるので、海部首相の訪中に合わせて、中国は原則的に『核拡散防止条約』に加盟することを宣言した」
 以上のように中国は天皇の訪中を実現させるために、まさに至れり尽くせりで日本に外交サービスをしてみせるのだった。日本が被爆国であることにまで気を遣うという徹底ぶりだった。
 さらにダメ押しとなるのが次の記述である。「1992年4月6日から同10日、江沢民総書記は日本を訪問し、日本各界各層と幅ひろく接触し、中日友好および天皇訪中で両国関係を発展させる重要な意義を強調し、日本側の疑念をさらに払拭した」。
 当時、日本では天皇訪中に反対する意見も広範に存在した。天皇訪中が中国側の政治的な意図からであり、国際社会には今なお中国政府の人権弾圧に対する強い抗議がある、というのがその理由だった。それらの指摘は、2020年の現在とも共通している。
 だが、天皇訪中は結局中国側の狙いどおりに実現した。天皇は1992年10月23日から28日にかけて中国を訪問した。
 天皇訪中の中国側にとっての成果について、銭其琛元外相は以下のように書いていた。
 「日本の天皇による訪中は、2000年に及ぶ両国間の往来の歴史で初めてのことであり、これによって中日関係は、新たな水準へと押し上げられたのである。同時に、日本の天皇がこの時期に訪中したことは、西側の対中制裁を打破するうえで、積極的な作用を発揮したのであり、その意義は明らかに中日の二国間関係の範囲を超えたものだった。
 中日関係の修復と大きな進展につれて、西側の対中制裁のもうひとつの部分である欧州共同体(EC)の立場にも、やや軟化の兆しが見え始めた」
 天皇訪中が中国側にもたらした恩恵は、以上の記述に尽きるだろう。要するに、天皇が中国に友好を示したことは、中国への国際的な経済制裁の緩和に役立った。そのことは日中二国間関係の発展よりも中国にとってははるかに重要だった、というわけだ。
 同じことをしようとしている習近平
 中国政府の日本の天皇に対するこうした態度は、現在の中国の対日融和の姿勢や、習近平主席の天皇への接触の思惑と酷似しているといえよう。
 習近平主席が、日本の天皇の賓客となることで国際的にプラスのイメージを発信し、近年の人権弾圧や軍事膨張に対する諸外国からの圧力を緩めようとしていることは明らかだ。そんな実態は、1992年の天皇訪中に対する当時の中国側外交責任者の回顧からも証明されているのである。
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 1月15日10:19 産経新聞「「中国、世界の人権攻撃」HRW代表が批判
 記者会見する国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチのケネス・ロス代表=14日、米ニューヨークの国連本部(共同)
 国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチ(HRW)のケネス・ロス代表が14日、米ニューヨークの国連本部で記者会見し、中国が「人権を擁護する国際社会の取り組みに激しい攻撃を仕掛けている」と批判した。2020年版の世界の人権状況に関する報告書の発表に合わせて語った。
 記者会見の終了直前、会場に潜り込んでいた中国国連代表部の1等書記官が発言を求め「報告書には偏見と作り話が含まれ、事実を無視している。全ての内容を断固拒否する」と述べた。
 ロス氏は報告書を香港で発表する予定だったが、香港国際空港で12日、入管当局に入境を拒否され、国連本部で会見した。
 ロス氏は香港や新疆ウイグル自治区を例示し、中国の習近平国家主席が過去数十年間で最も厳しい圧政を敷いていると指摘し「経済的、外交的影響力を使って国外の批判的な声を黙らせようとしている」と強調した。(共同)」
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1月15日13:28 産経新聞「国際人権団体 人権報告「中国は過去数十年で最悪な圧政」「日本は人質司法
 記者会見する国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチのケネス・ロス代表=14日、米ニューヨークの国連本部(共同)
 【ニューヨーク=上塚真由】国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチ(HRW)のケネス・ロス代表は14日、米ニューヨークの国連本部で会見し、各国の人権状況に関する年次報告書を公表した。今年の報告書は中国の人権状況を特集し、習近平国家主席が「過去数十年で最も広範囲で残酷な圧政を敷いている」と批判した。
 報告書では、新疆(しんきょう)ウイグル自治区でのイスラム教徒少数民族ウイグル族の不当な拘束や、香港での抗議デモへの弾圧など中国の人権問題を列挙。中国が「拡大する経済的影響力を利用して世界の(対中)批判を封じ込め、人権を擁護する国際機関に激しい攻撃をしかけている」と言及した。
 ロス氏は、香港で報告書を発表する予定だったが、香港国際空港で12日、入境を拒否されたため、国連本部で会見した。会見には中国の国連代表部の外交官も出席しており、「報告書には偏見と作り話が含まれ、事実を無視している。全ての内容を断固拒否する」と反発する一幕もあった。
 一方、年次報告書では日本の司法制度について「人質司法」と指摘し、「容疑者は長期にわたり過酷な状況で拘束され、自白を強要される」と批判した。
 保釈中にレバノンに逃亡した日産自動車前会長、カルロス・ゴーン被告(65)=会社法違反(特別背任)などの罪で起訴=の事件で、日本の「人質司法」が「改めて注目された」と言及。ロス氏は会見でゴーン被告について「弁護するわけではない」としつつも、日本では容疑者の多くが自白を強要されているとして「司法制度ではなく自白制度だ」との見解を示した。」
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