🌈56)57)─1─鎖国の江戸時代は究極のサステナブル社会だった?リサイクル文化。~No.90No.91No.92No.93 ⑦ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2022年6月24日 MicrosoftNews Forbes JAPAN エシカルな暮らし「江戸時代は究極のサステナブル社会だった?
 その結果、衣食住のあらゆる場面でリユース・リサイクルが行われるようになり、独自の循環型社会が生まれた。
 江戸時代は約260年も続いただけでなく、世界トップクラスの経済成長率を実現した究極のサステナブル社会である。
 今回は、その生活・文化からエシカルな暮らしのヒントを探っていく。
 「5R」が当たり前
 © Forbes JAPAN 提供
 江戸時代では5R(リデュース、リユース、リサイクル、リペア、リターン)が当たり前だった。
 紙屑買いや古着屋、取っけえべえ(子どもが拾い集めた古釘や鉄屑をオモチャや飴などと交換して回収する業者)などの回収業者に加え、金属製品を修理する鋳掛屋や瀬戸物や漆器を直す焼継師といったリユース・リサイクル業者が数多く存在していた。
 また、基本的に製品は土に還る原料でできていたため、不要なものは土へ還す(リターン)ことで環境汚染を防げたのだ。
 着物は灰まで活用する
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 着物のサイズは着付けの仕方によって調節でき、すべてが直線縫いで容易に仕立て直すこともできるため、体型が変わっても一着の着物を使い続けられる。
 汚れたり擦り切れたりした部分が増えてきたら、寝間着や布団、敷物、雑巾などにして、徹底的に使い尽くされた。
 布がぼろぼろになった後はかまどや風呂釜の燃料となり、燃やして出た灰さえも、灰買いが買い取り、農業の肥料や陶器の上薬として活用されていたようだ。
 ものを長持ちさせる匠の技
 江戸時代の職人たちは、100年も200年も持つ道具や建築物を作ることを誇りにしていて、1度使ったら終わりではなく、形を変えながら、何百年も使用できるように考えていた。
 家は何代にもわたって住み継いでいく工夫が随所に凝らされ、建物の基礎には、床下の風通しをよくして湿気やシロアリの被害を防ぐ「石場立て」が使われていた。
 耐震性にも優れており、地震の多い日本に適した構造なのだ。
 地産地消が基本
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 江戸時代は冷凍・冷蔵などの保存技術が発達しておらず、地元でとれたものを旬の時期に食べる地産地消が基本だった。野菜は四里四方といわれ、8kmから12km圏内でとれた新鮮なものを食べていたそう。
 野菜は漬け物、魚は干物にすることで保存し、野菜くずは集めて堆肥作りに利用。
 冷蔵庫がないためその日に食べられる分だけ買い、貴重な食べ物を無駄なく使い切っていた。
 エコな暑さ対策
 江戸時代の人々は夏の暑さには苦労しており、夕方になると打ち水をし、縁台を出して涼をとっていた。
 また、当時の家は向きを十分に考慮して設計され、大きな開口部を設けて家の中に風の道を作ることで、エネルギーを使わずに夏の暑さを乗り切れたのだ。
 日射による熱を防ぎながら風だけを通す簾も、生活必需品として使用されていた。
 近江商人の「三方よし
 江戸時代では「経済=経世済民」であり、GDPの数字を上げることではなく、すべての人々が救われることが目的だった。
 江戸から明治にかけて日本各地で活躍した近江商人の経営哲学は、売り手よし、買い手よし、世間よしの3つを大事にする「三方よし」。企業や消費者だけでなく、社会にも貢献することを忘れないという考え方だ。
 昔から持続可能な経営が行われた結果、創業年数が100年以上、200年以上の企業数はともに日本が世界一となっている。
 私たちにできること
 © Forbes JAPAN 提供
 今から江戸時代の暮らしに戻るのは現実的ではない。
 しかし、ものを循環させて可能な限り無駄をなくす精神は、今まさに世界中で必要とされているものである。
 100年以上前の時代だが、地産地消や5Rなど、私たちが取り組めるサステナブルな暮らしのヒントがたくさん隠れている。日本はサステナブル後進国といわれることもあるが、歴史に学べば世界をリードするポテンシャルは十分にある。
 何でも簡単に手に入る時代になったからこそ、1つ1つのものとじっくり向き合い大切にする江戸時代の精神から学び、1人1人が小さく実践していく心持ちを大事にしたい。その結果として、日本から再度世界をリードする文化が生まれるだろう。
 【参考文献】
 Japan for Sustainability
 https://www.japanfs.org/ja/news/archives/news_id035760.html
 https://www.japanfs.org/sp/ja/news/archives/news_id027225.html
 三井住友フィナンシャルグループ
 https://www.smfg.co.jp/sustainability/report/topics/detail086.html
 Daiwa House Group
 https://www.daiwahouse.com/sustainable/sustainable_journey/column/002/
 味の素
 https://story.ajinomoto.co.jp/history/002.html
 ※この記事は、2022年6月にリリースされた「エシカルな暮らし」からの転載です。」
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 dodoキャンパス
サステナブルな社会とは ー社会の変化・社会で求められる力ー
 大学1,2年生
 2021.03.31
 Sustainable(サステナブル・サスティナブル)とは、「sustain」(持続する)と「able」(〜できる)を組み合わせた言葉で、「持続可能な」という意味です。
 そして「サステナブルな社会(持続可能な社会)」とは、地球環境や資源が保全され、平和で豊かな生活が将来の世代にも継承されていく社会という意味で用いられます。地球温暖化や資源の枯渇といった問題は深刻さを増し、今、すべての人に地球環境を存続させるための取り組みが求められています。
 今回は「サステナブルな社会」が叫ばれる背景、ならびにその活動の指針となる「SDGs」について考えていきましょう。
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🏯20)21)─1─日本の城の木は観賞桜ではなく兵糧松であった。〜No.38No.39No.40 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 武士は、松を好み、椿を嫌った。
 武士道は、桜ではない。
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 日本の天守閣には桜が生えるが、城に桜を植え始めたのは明治からで江戸時代にはない。
 武士は、虚飾を嫌い実用と見栄を重視していた。
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 2015年4月4日 東洋経済ONLINE「驚愕!大名が建てた「食べられる城」とは?
 植物を戦いに利用した武士の知恵
 稲垣 栄洋 : 静岡大学農学部教授
 加藤清正が築城した熊本城は、「食べられる城」だった!?(写真:kazukiatuko / Imasia)
 戦国武将にとって、植物は、ただ鑑賞したり、愛でたりするだけのものではなかった。植物は食糧や薬剤にもなり、木材にもなり、時には武器にもなった。
 たとえば、日本の城にはよく松が植えられていて、美しい景観を造り出している。だが、この松とて単なる飾りではない。実は、松には優れた実用性があったのである。
 今回は、新刊『徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか』を上梓した稲垣栄洋氏に、武将たちがいかに植物を巧みに利用してきたかを解説していただいた。
 戦国の世から江戸時代における、植物と武士の知られざる関係を描いた、これまでにない驚きの日本史!
 美しい天守閣を持つ日本の城には、多くの工夫が凝らされている。特に、植物の使い方は絶妙である。
 その代表が、多くの城に植えられている松だ。凛と立つ天守閣に、豪快な枝ぶりの松の木は実によく似合う。
 松は常緑樹で、冬でも青々と葉を茂らせている。その強靭な生命力が縁起がいいとされ、好んで城に植えられた。「松竹梅」「松に鶴」と言われるように、最高の縁起物として尊ばれてきたのだ。
 また、松は常緑樹といっても、葉がまったく落ちないわけではない。いっぺんに落ちないだけで、少しずつ順繰りに葉を落としているのである。落ちた葉を見てみると、2本ひと組となっている。これが「夫婦和合」のシンボルとされたのだ。
 とにかく、めでたいことこの上ない松なのだが、松は実用的な植物としても大いに利用されたのである。
 城では、敵が攻めてきたときには籠城戦となる。敵に補給路は絶たれてしまうから、城の中には、つねに食糧や飲料を備えておかなければならない。だから城主は城の中に井戸を掘り、十分な食糧を蓄えた。
 実は、松はいざというとき、非常食にもなったのである。
 松が食糧になるのかと驚かれるかもしれないが、松の皮をむくと白い薄皮がある。この薄皮が、脂肪分やタンパク質を含んでいるのだ。薄皮をうすでついて、水にさらしてアクを抜き、乾かして粉にする。この粉を米と混ぜると餅になる。これを「松皮餅」という。
 このように、松は観賞用としても軍事用としても、非常に優れた植物だったのだ。
 奇想天外な「食べられる城」
 江戸の太平の世になっても、九州にはまだ火種がくすぶっていた。徳川の仮想敵国である薩摩島津家があったからである。
 もともとは豊臣の家臣でありながら、関ヶ原の戦いで東軍についた黒田長政は、福岡藩の初代藩主となり、福岡城を居城とした。この福岡城には、多聞櫓(たもんやぐら)という櫓があった。櫓は「矢倉」とも書くとおり、武器庫の役目を果たしていた。
 よく工夫してあると感じるのは、この櫓の壁が、竹を編んで造られていることである。竹は戦の際に、矢とすることができるからだ。さらに驚くべきは、矢を結んでいるのがひもではなく、干したワラビなのである。ワラビはいざというとき食糧になる。
 このような工夫を極めたのが、熊本城である。築城したのは、虎退治で有名な加藤清正。賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで大活躍した、賤ヶ岳七本槍のひとりである。
 清正はもともと、豊臣秀吉の家臣であったが、秀吉の没後には家康の家臣となり、島津を抑えるために隣国の肥後(現・熊本)に居城を構えた。
 熊本城は堅固なことで知られる。江戸時代は攻められることはなかったが、明治になって西南戦争が起きると、政府軍の拠点となっていた熊本城は西郷隆盛率いる薩摩軍の猛攻を受けた。しかし、隆盛はついに熊本城を落城させることはできなかった。
 隆盛は思わず、「わしは官軍に負けたのではなく、清正公に負けたのだ」と嘆息したと言われる。
 この熊本城が、なんと「食べられる城」なのだ。たとえば、城内に敷かれている畳。普通なら、畳の芯にはわらを使うのだが、なんとサトイモの茎が使われている。サトイモの茎は保存食になるからだ。
 また、土壁のつなぎにもサトイモの茎が使われているほか、壁にはカンピョウが塗り込んであると言われる。
 まさしく食べられる城だ。
 清正は、朝鮮出兵の際、厳しい籠城生活を体験したので、これだけ念入りに糧食の準備をしたのである。
 梅干しは戦になくてはならぬ万能薬
 毎年、梅の花の季節になると、大勢の人が水戸の偕楽園に押しかける。偕楽園は1842年、水戸藩主の徳川斉昭によって造園された。
 だが、梅の木は単なる観賞用ではない。軍事目的もあったのである。梅干しに含まれる塩分やクエン酸には、疲れをいやす効果がある。戦のさなかには、のどが渇いても水を飲めないことがあった。そのようなとき、梅干しをなめるとだ液が分泌され、渇きを潤すことができたのだ。
 また、梅干しには食中毒を予防する効果もある。それだけではない。梅酢はケガをしたときの殺菌、消毒用としても用いられた。
 まさに梅干しは万能薬である。だから、戦国大名は、積極的に城に梅を植えたのである。
 忍者は薬草のオーソリティ
 忍者のルーツは、聖徳太子の時代にまでさかのぼると言われている。戦国時代になると、忍者による諜報活動は必要不可欠となった。
 忍者は山中に忍び、ゲリラ戦を戦い抜いた。山中を根城とする忍者に、植物の知識はなくてはならないものだった。植物を食糧とするのはもちろんのこと、薬草としても使い、敵を倒す毒も植物から抽出した。いわば、忍者は植物のオーソリティと言えるのだ。
 忍者の中には、その名も「草」と呼ばれる者もいた。敵方の地で一般人になりきって暮らし、諜報活動を行った。だが、努力も空しく、情報収集が必要ないときもあった。そのようなとき、「草」は、ひとりの住人として、まさに1本の雑草のように生涯を終えたのである。
 歴史の影には、このような忍者の存在もあったのを覚えておきたい。
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 2019年5月5日・12日号 サンデー毎日「読んでたどる歴史 本郷和人
 『桜狂の譜』 今橋理子 青幻舎
 儚く咲く美しさに取り憑かれた絵師たち
 高校の古文で習った。平安時代以来、『山』といえば比叡山延暦寺、『寺』は三井寺。同様に『花』というのは桜のことで、日本人は古来、桜をこよなく愛してきたのだと。
 ぼくは最近、この常識に疑問を抱いている。というのは町の名前。近世、各地の大名は新しい城下町を形成し、それが現在の県庁所在地や県内有力都市へと繋がる。大名は開発した町に名を付けるが、このときに松山・高松・松江・浜松・松本・松代・松坂・若松など、『松』の字が多く用いられるのに対し、『桜』は使われていないのだ。
 徳川家康の旧姓である『松平』の一字 を、という意図もあるだろうが、お城の屏風に好んで描かれる松(赤穂浪士事件の『江戸城・松の廊下』はこれに由来する)も考慮すると、武士は松が好きだったのではないか。はらりと潔く散る桜より、常に緑を絶やさぬ松。お家の安泰と永続を願う武士は、貴族の価値観とは別に、積極的に松を選んでいるように思うのだ。
 このことを念頭に置いて本書を繙(ひもと)くと、また違う『桜』を見ることができる。『桜が咲くのは日本だけ』と信じ、取り憑かれたように桜を描き続けた画家がいた。〝畸人(きじん)〟三熊思孝(1730~94)。著者は彼の事績を掘り起こし、博物学的な視点も取り入れて桜を描き続けた彼とその周囲の人々を『三熊派』と名付けた。本書は彼らの画業を丹念に紹介しながら、その意義を的確に教えてくれる。とても美しく仕上がっていて、本書を肴(さかな)に杯を傾ければ、いつでも花見が楽しめる。
 三熊派は残念ながら絶えてしまうが、彼らの業績があったからこそ、文化人発の桜への愛情は武士や庶民にも浸透し、本当の意味での桜好きな日本人が出現してくるのではないか」
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 雑学倶楽部
 城にはなぜ松の木が多いか<雑学倶楽部>
 その場がど~んともりあがる雑学の本
 相手の気をひく雑学<第1章>
 松は昔、美観、風致というより、栄養食、非常食として利用されていました。松葉は殺菌力があることでも知られていますが、とくに葉緑素やビタミン、ミネラルも含まれて、食べるほうに重きをおいていました。
 中国には松の葉や実、樹脂だけを食べて仙人になった、などという話もあるくらいです。日本でも、古くから松の葉や皮は凶作のときに食用にしてきました。
 松の荒い皮を取り除き、白い部分の生皮を臼でついて水に浸し、密閉しておくと、やがて苦みや臭みが抜けます。その汁を皮でこして干すと粉ができるので、その粉を麦の粉などに混ぜて餅をつくりました。こうして手間をかけて、だんごや香煎もつくって食べました。すべては飢饉対策の知恵です。
 江戸時代の農民を苦しめた近世の3大飢饉といわれる享保17年(1732)、天明2年(1782)、天保4年(1833)のときには、街道の松並木が丸裸にされたほどだといいます。想像しただけでも恐ろしい光景です。
 ことに戦国時代では、城を大軍に幾日も包囲され、城に立てこもって抗戦することもしばしばです。城ですから、死守を覚悟で戦うわけですが、相手は城内の食糧がなくなるのを待つ持久戦法できます。いわゆる兵糧攻めという戦法ですが、そのとき役立つのが松の木なのです。
 非常事態に備えて、蓄えた梅干し、みそなどがなくなり、庭木、草、茎、根も食べ、最後に城の美観も兼ねた松の木に手が伸びることになるのです。
 「講談社+α文庫」所収
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 日本では、四季折々、如何なる場所に行っても、多種多様な花が咲き誇る。
 日本民族日本人は、品種改良で、花の交配を繰り返しながら新しい品種の花を作っていた。
 その代表が、染井吉野ソメイヨシノ)である。
 日本文化は、花文化である。
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 軍部は桜を利用した。
 ウィキペディア
 日本では国花が法定されておらず、天皇や皇室の象徴する花は菊であるが、サクラは多くの公的機関でシンボルとして用いられており、「事実上の国花」のような扱いを受けている。旧日本軍(陸軍・海軍)が桜の意匠を徽章などに積極的に使用しており、これは自衛隊陸自・海自・空自)でも同様である。
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 桜は、民族主義国粋主義の源泉り、軍国主義を強力に支えていた。
 日本人と桜が深く結びついたのは、昭和前期の軍国主義教育による。
 つまり、同期の桜や靖国神社の桜という愛国心教育である。
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 反戦平和主義者は、桜を好戦的な花として否定すべきである。
 旭日旗を戦犯旗と糾弾する者は、桜を戦犯の花として告発し有罪を宣告するべきである。
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 天皇・皇室は、菊と桐である。
 「坊主憎ければ袈裟も憎い」的にいれば、天皇・皇室が嫌いならば菊や桐も嫌いになるべきである。
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 2020年1月11日・18日号  週刊現代「戦国時代「兵糧攻め」の兵士たちを生かした、驚きの食べ物
 最強の非常食?
 週刊現代講談社
 月曜・水曜発売プロフィール
 なぜ生き延びたのか
 「腹が減っては、戦はできぬ」という諺さながら、城をめぐる戦いは、食糧をめぐる戦いといっても過言ではない。百姓から天下人まで上りつめた豊臣秀吉も、城内への食糧の輸送経路を遮断し、飢餓状態に追い込む「兵糧攻め」が得意だったことで知られている。
 姫路城(Photo by gettyimages)
 豊臣秀吉が指揮をとった戦い「第二次鳥取城攻め」(1581年)は、別名「鳥取の飢え殺し」と呼ばれる。周辺の商人から米を高値で買い占めて補給ルートを完全に絶ち、4ヵ月にわたって飢餓地獄を続けた。
 開城後、空腹のあまり、配給の米を食べた兵士が次々と胃痙攣を起こし、半数以上が死亡したという悲惨な記録も残っているほどだ。
 それにしても、城内にある食糧は1ヵ月程度で底を突いたはずなのだが、その後、閉じ込められた者たちはどうやって飢えを凌いだのか。
 実は、城には食糧以外の非常食が用意されている。それが、周囲に植えられている松だ。松には、樹脂を多く含む皮があり、それを剥くと、白い薄皮が付いている。この薄皮は脂肪やたんぱく質を多く含んでいるため、非常食として重宝された。
 もちろん、調理をして美味しく頂くこともできる。皮を臼でついた後、水に浸してアクを抜き、乾かして餅にした「松皮餅」は栄養価が高く、腹持ちもよいと戦国時代に人気の軽食だった。
 江戸時代に農民を苦しめた「近世の3大飢饉」でも、飢えに苦しんだ農民たちによって街道の松並木が丸裸にされた。古人たちは松を食べて生き延びてきたのだ。
 松の実力はそれだけではない。松の脂分は燃料にもなるうえ、傷ついた兵士の止血薬にも利用することができる。また、松は極寒の冬にも葉を枯らすことがない。ときには雪を積もらせながら、緑の葉を茂らせている。
 だからこそ、そんな松に古人たちは強靭な生命力を感じていたのだろう。「松竹梅」や「松に鶴」というように、昔から不老長寿のシンボルと称えられてきたのだ。
 松はただ、美しい城に彩りを添えているだけではなかった。(細貝)」
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 AERAdot.
 武将が家紋に使わなかった「桜」 由来に隠された理由とは
 連載「あなたの知らない神社仏閣の世界」
 今年も桜の季節がやってきた。今年は東京の桜が一番乗りで開花。東京が一番に開花するのは実に9年ぶりで、例年ならトップで開花宣言をしていた九州や名古屋地方では、開花まで少し足踏みしているようだ。
 ●奈良時代は梅が花見の主役
 初春から春にかけて咲く梅や桜だが、似ているようで実は歴史を紐解くとずいぶんと扱いの違う木なのだ。
 梅の実は3000 年以上前から中国で薬として用いられてきた。これが飛鳥時代、薬として日本に渡来したと伝わっている。奈良時代になると梅の木が愛でられるようになり、貴族などの間では梅を育てることが一種のステータスになっていたようだ。梅の木は人の手を借りなければ、美しく育たないためである。奈良時代までは、花と言えば梅を指す、というくらいの人気ぶりで、和歌などでも盛んに詠まれている。ちなみに、梅を「ウメ」と発音するのは、中国語の読み「メイ」が変化したものなのだという。
 ●桜がスターになるのは平安時代以降
 平安時代に墾田開発が盛んになると、稲作地の造成とともに桜の木が大事にされるようになっていった。これは、桜の開花と稲作の種まきの季節との関係によるものではないかと考えられている。今でも各地に残された木に、「田植えサクラ」や「種まきサクラ」といった名前がつけられていることからも、そのことが推測できる。
 当時愛でられていた桜は、主に寿命の長い山桜や江戸彼岸で、山梨県にある樹齢2000年とも言われる神代桜(じんだいざくら)は、今も多くの観光客をひき寄せている。
 神代桜の歴史に、日本武尊日蓮など神や仏が関わってくるように、日本における「サクラ」は常に神さまと隣り合わせの花なのである。
 ●桜は神さまの名前から
 これは、「サクラ」という名前にも大きく関係している。
 春に咲き、田植えの時期を教えてくれる花の名を「サクラ」と呼ぶ由来にはいくつかの説がある。由来がはっきりしている梅とは対照的だ。
 もっとも広く伝わっているのは、富士山の神さま「木花開耶姫(このはなさくやびめ)」の名前に由来する説である。さまざまな神話を持つ神さまである木花開耶姫だが、仕事のひとつに富士山の上空から、種を蒔き花を咲かせるというものがある。この花こそが「サクラ」なのだ。「さくやびめ」の「さくや」が「サクラ」となったという。他にも、田の神さまを意味する「サ」の居る場所(御座/みくら)という説もある。
 いずれにせよ、種まき、田植えの時期を桜が知らせる役目を担っていることを意味する説が多い。
 ●ニニギの選択からサクラの儚さが
 神話の話になるが、木花開耶姫は瓊瓊杵命(ににぎのみこと)の妻である。瓊瓊杵命は、伊勢神宮の神さま・天照大神の孫神であり、皇室の祖先とされている。この瓊瓊杵命、木花開耶姫をめとる際に姉神・磐長姫(いわながひめ)も一緒にと提案されるも、美しかった木花開耶姫だけを選び、醜かった磐長姫を二柱の父神・大山祇神(おおやまつみのみこと)に送り返してしまう。これに対し父神は激怒、「磐長姫はあなたの命が石のように永遠でいられるように願ってのこと。これを送り返したことであなたの命は木花開耶姫のようにはかなく短いものとなるでしょう」と告げる。
 瓊瓊杵命の子孫である人間たちに寿命があり、美しいサクラの花がすぐに散ってしまう理由もここにあるというわけだ。
 戦国武将が使っていた家紋は無数にあるが、この中にこれほど愛されている桜をモチーフにしたものがひとつもないのだ。100種以上の家紋の図版に用いられている梅とは、扱いがずいぶん異なる。「短命」や「儚さ」といったイメージが家督に関しては相応しくなかったのだろう。
 にもかかわらず、サクラには日本人の心に訴えるものがある。なにしろ、一番好まれている「ソメイヨシノ」は、自生もできず短命で、もっとも儚いサクラなのだから。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)
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 TOPコラム花と草木のお役立ち情報昔は桜より梅が人気?花見の歴史の知られざる変遷を紹介 
 昔は桜より梅が人気?花見の歴史の知られざる変遷を紹介
 作成日:2016.03.11 最終更新日:2016年3月11日 カテゴリー:花と草木のお役立ち情報
 春本番になり、桜が見ごろになる頃の行楽といえば花見ですよね。シートを広げて場所取りをし、満開の桜の下でご馳走を食べる人々の姿をあちらこちらで見かけます。
 有名な花見スポットといえば、奈良県吉野山をはじめ、東京の上野恩賜公園、または目黒の川沿いの桜などが有名でしょう。毎年大勢の人が押し寄せ、夜桜見物もまた一興として楽しまれています。
 そんな現代の春の風物詩でもある花見ですが、その歴史はかなり古くにさかのぼります。
奈良時代には、すでに花見の原型が始まっていたとされます。
 この記事では、日本で古くから続く花見文化の変遷を、時代ごとに紹介します。
 時代によってその楽しみ方は異なり、花見は為政者の趣向によって変化を遂げてきました。
 その歴史を知ると、花見がより楽しくなるでしょう。
 目次
 1章 奈良時代-花鑑賞とは梅のこと-
 2章 平安時代 -桜ブームの到来-
 3章 鎌倉~安土桃山時代 -花見の浸透-
 4章 江戸時代 -花見の定着-
 5章 明治~現代 -ソメイヨシノが全国に-
 6章 最後に

 1章 奈良時代 -花鑑賞とは梅のこと-
 現代の花見の根底となる習慣は、奈良時代に形作られたといわれています。
 桜より梅が人気
 現代では、花見で愛でる花といえばもちろん桜のことですよね。桜は日本人に古くから愛されてきた花であり、春を象徴する花です。
 でも、実は奈良時代は桜より好かれた花があったんですよ。
 それは梅です。奈良時代の花鑑賞といえば、梅をさしていました。貴族たちの間では造園する際、梅を入れることが定番となったようです。
 当時、日本は遣唐使を介した中国との交易が盛んでした。中国文化、物品も多く日本に伝わり、その中の1つに梅があったのです。香立つその花は珍重され、桜よりも人気がありました。
 その人気ぶりをうかがえるのが、『万葉集』に詠まれた梅の数です。桜を詠んだ歌は43首に対し、梅を詠んだ歌は110首。梅は桜の倍以上詠まれているのです。
 花見の始まりは奈良時代にあり
 こうして貴族を中心に好まれ、愛されてきた梅。当時の貴族の優雅な風習といえば、「歌を詠む事」でした。中国からやってきた梅を見ながら、歌を詠む会を開きました。これが現在の花見の原型になったといわれています。
 桜は神聖な木
 梅の人気が高かったといっても、人々が桜に興味がなかったというわけではありません。
というのも、そもそも日本人にとって桜は古来より大切な存在でした。
 それは「サクラ」という名前の由来といわれる説からもわかります。
 「サ」は田の神様、「クラ」は神様の座る場所を意味しているという説です。つまり、「サクラ」は神様が山から下りてきた時に一旦留まる依代(よりしろ)とされていました。
 そのため、桜が咲くことは「神様が山から下りてきた証」と考えられ、皆で集まり、お酒や食べ物をお供えしていたとされます。
 また、当時の人は桜の開花状況を見て、田植えの時期を決めていました。
 美しい桜の花が咲く時期を、田植えに適切な時期と考えていたようです。
 当時、桜は鑑賞するというより、神様が宿る神聖な木であり、祭る対象となっていたのですね。

 2章 平安時代 -桜ブームの到来-
 時は変わって平安時代になると梅と桜の人気が逆転します。
 遣唐使の廃止で桜ブーム来たる
 学問の神様と言われる菅原道真遣唐使を廃止したのは、894年のことでした。遣唐使の廃止により、日本独自の文化が発展していったともいわれています。
 これを契機に日本古来の文化や、美徳に人々が注目し始めたのかも知れませんね。この時を境に、花といえば「梅」ではなく「桜」を指すようになっていきました。
 桜ブーム到来は、和歌にも表れています。平安初期に作成された『古今和歌集』には、梅を詠んだ歌は18首程度に対し、桜を詠んだ歌は70首となっています。平安時代に、一気に梅と桜の人気が逆転したことがうかがえますね。
 紀友則はこのような歌を詠んでいます。
 「久方の ひかりのどけき春の日に しづ心なく 花の散るらむ」
 現代語訳すると、「こんなにも日の光がのどかな春の日に、どうして桜の花だけは散っていってしまうのだろうか」といったところ。
 原文の歌には「花」としかありませんが、この言葉だけで当時は桜をさしていました。その意味においても、桜は他の花に比べても特別な存在だったのでしょう。
 桜のヒットメーカーは誰?
記録に残る日本初の花見は、嵯峨天皇が主催しました。
 『日本後記』によると、812年、神泉苑にて「花宴の節(せち)」を催したと記されています。
 このときにはすでに、花見の対象は梅ではなく桜になっていたと考えられます。その理由の1つとして、嵯峨天皇の桜好きが挙げられるでしょう。嵯峨天皇地主神社の桜を大変気に入り、それ以来毎年、地主神社に桜を献上させていたといわれています。
 831年からは、花見が天皇主催の定例行事となり、その様子は『源氏物語』にも窺い知ることが出来ます。
 こうして、天皇主催の花見を通し、貴族の間に桜の鑑賞が急速に広がっていきました。この時代に書かれた日本最古の庭園書『作庭書』にも、「庭には花(桜)の木を植えるべし」と書かれています。
 花見の花といえば桜、という認識が定着したのは平安時代といえるでしょう。

 3章 鎌倉~安土桃山時代 -花見の浸透-
 歴史上、盛大な花見が初めて行われたのは安土桃山時代です。
 武士階級にも広まり出した鎌倉時代
 鎌倉~室町時代になると、貴族の風習としての花見が、武士や一部地域でも行われるようになりました。一般階級に開かれて行ったのは、鎌倉時代以降といわれています。
 その様子を端的に示す資料として、吉田兼好の『徒然草』が挙げられます。第137段では貴族と田舎者の花見の仕方が比較されています。
 貴族が桜を上品に愛でるのに対し、上京したばかりの田舎者は、桜の下で酒を飲みながら連歌を楽しみ、どんちゃん騒ぎのようなふるまいだったと、対照的に書かれています。
一方、鎌倉・室町・安土桃山時代は戦の時代でもありました。桜の命は短く、あっという間に散ってしまう様は縁起が悪いと、もいたようです。
 宴会型の花見の始まりは安土桃山時代
 安土桃山時代は、戦国武将の織田信長豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代です。
この時代を通して、花見は徐々に盛大に行われるようになります。特に、豊臣秀吉が行った「吉野の花見」や「醍醐の花見」は有名です。
 「吉野の花見」は、秀吉が繁栄を謳歌していた絶頂期である1594年に開かれました。大阪より運んだ1000本の桜が植えられ、5000人が召喚されたといわれていますから、その盛大さは想像を超えるものがありますね。
 徳川家康前田利家伊達政宗といった、当時の有力な武将も多く呼ばれていました。記録によると、この花見は5日間続き、本陣がおかれた吉水神社では連日のように茶会、歌の会、能の会が開かれたといいます。
 しかも、各武将は変装するなど、現代でいうコスプレをして楽しんだといわれています。秀吉も大はしゃぎしたといい、まさにお祭り騒ぎですね。
 また、1598年には「醍醐の花見」が開かれています。
 1300人を召し仕えて開催されたといわれていますから、派手好きな秀吉の性格と、変わらない花見好きがうかがえますね。
 この盛大な花見から、花見が宴会行事として定着していったと考えられます。
 また、花見人気に押されてか、京都の寺社や山々に桜が植えられ始めたのは、この頃といわれています。
 花見団子の由来
 花見といえば、花見団子、桜餅などの甘い食べ物が思い浮かびますよね。
 花見のときに甘味が食べられるようになったのは、「醍醐の花見」です。この花見の際、全国から名産品や甘物が集められた事がきっかけといわれています。
 以降、甘い物が花見には欠かせない食べ物として認知されるようになりました。
 ちなみに、花見団子といえば、桜色、白、緑の3色。この色にも意味があるんですよ。
 桜色は「春」の桜、白は「冬」の雪、緑はよもぎで「夏」の予兆を示唆します。「秋」がないので、「飽きがこない」とされています。紅白で縁起が良く、緑が邪気を払ってくれると、めでたい席に重宝されたのです。
 花見団子の由来がわかると、「昔の人も、こうやって桜を楽しんだのか」と、花見が何倍も楽しくなりそうですね。

 4章 江戸時代 -花見の定着-
 江戸時代になると、一般庶民も花見を楽しむようになりました。
 8代将軍吉宗の政策
 3代将軍徳川家光は、徳川家の菩薩寺となる寛永寺に、多くの吉野の桜を植えたことで有名です。これが、江戸に吉野の桜がきた最初といわれています。
 しかしながら、寛永寺は格式ある名所。この場所で一般の庶民が花見をすることは当然許されません。
 庶民が花見をする場所を作ったのは、8代将軍の吉宗でした。1720年に浅草(墨田川堤)や飛鳥山に大規模な桜の植樹を行い、庶民が桜を楽しむ場を提供したのです。
 それだけではありません。農村部に積極的な桜の植樹を促進し、東京の桜の見どころの基礎を築いたとされています。
 農村に桜の名所が作られると、花見客による農民の収入が増えることを見越した策でした。
 吉宗は庶民が文化や武芸に触れることを奨励していました。これが、吉宗が名君といわれる所以でしょう。

 庶民の為の花見文化の誕生
 5章 明治~現代 -ソメイヨシノが全国に-
 ソメイヨシノの誕生
江戸の末期になると、桜の新しい品種が作られます。それこそ、ソメイヨシノでした。
 江戸時代の末期に、染井村(現在の豊島区駒込)の植木屋によって、「大島桜」と「江戸彼岸桜」を交配してつくられた桜です。桜の名所として有名な「吉野」にあやかって、「染井吉野」と名付けられました。
 花が大振りで香りのよい「大島桜」と、花が咲いたあとに葉が出てくるという「江戸彼岸桜」。それぞれの桜の特徴を取り入れました。
 接ぎ木で増えるので、成長スピードも速く、学校、沿道、公園など、様々な場所に植樹され、瞬く間に日本全国に広がっていきました。
 ソメイヨシノの寿命問題
 現代における花見の桜は8割がソメイヨシノです。ただし、ソメイヨシノは寿命が短く、およそ60年といわれています。
 全国のソメイヨシノは戦前に植えられたものも少なくないため、多くのソメイヨシノが寿命を迎えているという問題が起きています。そのため、植え替えが急務となっています。

 6章最後に
 花見の歴史について紹介しました。参考になりましたか?
 古来より日本人に大切にされてきた桜。時代の流行に押され、奈良時代には「梅」が主流となった時もありました。しかし平安時代以降~現代まで、桜が春の定番として認識されています。
 今も昔も、日本人はパッと花を咲かせ、潔く散っていく桜に何とも言えない情緒を感じるのは変わらないでしょう。
 花見の歴史を知る事で、今年の花見を2倍も3倍も楽しめるのではないでしょうか。
 「こうして歴史は引き継がれていくのだな」と、今年の花見は一層、感慨深いものとなりそうです。

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  ・   ・   ・   
 庶民(百姓や町人)の木は、桜である。
 武士の木は、松である。
 公家の木は、梅である。
   ・   ・   ・   
 江戸時代には武士道は存在しなかった。
   ・   ・   ・   
 武士は、目の前で起きている事実・事柄・事象・事件を重んじてその場で対処する、現実主義者であり、合理主義者であり、論理主義者である。
   ・   ・   ・   
 城や大名庭園の樹木には、松が多く桜は少なかった。
   ・   ・   ・   
 大名屋敷・武家屋敷の屏風に、好んで描かれるのは松である。
   ・   ・   ・   
 江戸時代の武士とは、武を貴ぶ戦闘集団ではなく、貧困階層に近い安月給で公益的仕事を強要される民間団体職員であった。
 武士社会とは、イジメ・意地悪・嫌がらせが横行する絶望的ブラック社会であった。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、花鳥風月プラス虫の音そして苔と良い菌を愛し、それを民族文化・伝統芸能へと昇華していた。
 日本列島の自然環境や居住空間には、心を鎮め精神を穏やかにする1/fゆらぎ、マイナス・イオンが満ち満ちていた。
 蕾から花が咲き、咲き誇って花弁が散り、枝に萼(がく)が残り、散った花びらが絨毯のように広がる。
 ひとひらの花びらも、数多くの花弁も、葉桜も、花も葉もない枯れ枝ださえも・・・日本民族の感性を揺さぶり涙を誘う。
 人としての日本人と中国人や朝鮮人の感動はにているが、民族としての日本の感性と中国や朝鮮の感性とは違う。
 花に注ぐ涙は、日本人の涙と中国人・朝鮮人の涙とでは異なる。
   ・   ・   ・   
 日本では、四季折々、如何なる場所に行っても、多種多様な花が咲き誇る。
 日本民族日本人は、品種改良で、花の交配を繰り返しながら新しい品種の花を作っていた。
 その代表が、染井吉野ソメイヨシノ)である。
 日本文化は、花文化である。
   ・   ・   ・   
 韓国は、誇れる文化芸能が乏しいだけに、ソメイヨシノの原産地を済州島と主張しているが傲岸無比の常識・教養なき「バカ」な話である。
 同様に、武士・サムライは日本だけに存在して、中国や朝鮮には存在しなかった。
   ・   ・   ・   
 日本が桜の国になったのは、庶民(百姓や町人)が花見で楽しめるようにした第8代将軍徳川吉宗の時代からである。
 落語に「長屋の花見」という噺がある。
   ・   ・   ・   
 平安前期頃までは、桜よりも梅が好まれていた。
 菅原道真は梅を愛で、西行法師を桜を好んだ。
 仏教寺院は、竹や楓など艶やかな花を咲かせない樹木を好んでいた。
   ・   ・   ・   
 菅原道真「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」『拾遺和歌集
 菅原氏は、中流の貴族。父は菅原是善、母は伴氏。菅原氏は、道真の曾祖父菅原古人のとき土師(はじ)氏より氏を改めたもの。
   ・   ・   ・   
 西行法師「何事のおわしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
 「願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃」
 (解釈:願いが叶うならば、何とか桜の下で春に死にたいものだ。しかも草木の萌え出ずる如月(陰暦二月)の満月の頃がい い)
 「よし野山さくらが枝に雲散りて花おそげなる年にもあるかな」
 (解釈:吉野山の桜の枝に掛かっていた雲が散ってみれば、さっきまで、桜が咲いていたように見えたが、実は咲いてはいな かったのだ。花の咲くのが遅い年であることだなあ)
 「ながむとて花にもいたく馴れぬれば散る別れこそ悲しかりけれ」
 (解釈:ずっと花を眺めているせいか、花に情が移ってしまい、花たちと散り分かれてゆくのが悲しく思われることだ)
 「雪と見てかげに桜の乱るれば花の笠着る春の夜の月」
 (解釈:雪が降っているのかと思ってみれば夜桜が風に吹かれて舞っているのであった。桜の彼方には、春の月が花の笠を着 ているように見えた)
   ・   ・   ・   
 一休「花は桜木 人は武士」
   ・   ・   ・   
 武田信玄「たちならぶかひこそなけれ桜花 松にちとせの色はならはで 
 (解釈:立ち並んで咲いている桜も、千年も変わらぬ松と比べるとはかない)
   ・   ・   ・   
 本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」
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 武士とは、殺し合う職業であったが命は惜しく、人であり家族があれば、殺されるのは真っ平ご免で何としても生き残りたかった。
 武士道と云ふは「死ぬ事と見付けたり」と「死ぬ覚悟」を説き、名誉の為、体面の為、武士の一分の為、家名の為に、見苦しく無様に惨めに生きるのではなく、潔くアッサリ死ぬ事こそ武士の本懐・男の本懐と讃えていた。
 武士は、大地にしっかりと根を張り、荒れ地や岩場などの過酷な環境でも、大岩を割ってでも育つ松に惚れ込んでいた。
   ・   ・   ・   
 武士は、月を見ながら酒を飲むが、桜を見ながら酒を飲む事は少ない。
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🎑111)112)─1─官製クールジャパンの失敗。財務省は改善見込めない場合は統廃合を提言した。~No.251No.252No.253No.254 ㉕ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 現代の日本人が昔の日本人に比べて民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がない為に、官製クールジャパンが失敗するのは当然の結果である。
   ・   ・   ・   
 2022年6月20日 YAHOO!JAPANニュース「累積赤字309億円のクールジャパン機構、改善見込めない場合は統廃合を…財務省が提言
 財務省は20日、多額の損失を抱える官民ファンド「海外需要開拓支援機構(クールジャパン機構)」について、今秋以降も業績改善が見込めない場合、組織の統廃合を念頭に整理すべきだとの提言をまとめた。同日の財政制度等審議会財務相の諮問機関)財政投融資分科会で示した。
 機構は今年3月末時点の投資損益が309億円の累積赤字となった。コロナ禍の長期化で、投資先の一部で売上高が大幅に減少し、計画よりも52億円赤字が拡大した。機構は今秋までに、出資企業の監督強化などを含む改善計画をまとめ、分科会が内容を確認する方針だ。」
   ・   ・   ・   
 SAKISIRU > 政局・政策 > 累積赤字309億円!ネット民怒りのクールジャパン統廃合検討、元凶は何だったのか?
 政局・政策
 累積赤字309億円!ネット民怒りのクールジャパン統廃合検討、元凶は何だったのか?
 そもそもから解説、海外放送事業は「やればやるほど赤字」
・官民ファンドのクールジャパン機構が累積赤字309億円で統廃合検討へ
・2013年に発足した当初から「汚いカネ」と批判された官製ファンドの実態
電通関係者「やるほど赤字が増える」と嘆く事業も。元凶を突き止めると…
   ・   ・   ・   
 FNNプライムオンライン
 取材部
 迷走「クールジャパン」 相次ぐプロジェクト失敗でムダ金に
 伊藤聖
 2018年7月13日 金曜 午後6:14
 アベノミクスの1つ「クールジャパン」が死屍累々
 マレーシアの百貨店は1年半で“撤退”
 映画会社に22億円出資も製作ゼロ
 「クールジャパン」。日本の文化やポップカルチャーなど、外国人がクール(かっこいい)ととらえる日本の魅力を発信し、日本の経済成長につなげるブランド戦略です。
 アベノミクスの柱、成長戦略のひとつで、政府は積極的な海外展開を目指しています。
 しかし、その推進役として設立された政府と民間による「官民ファンド」のプロジェクトで、損失が膨らみ、投資の失敗ともいえる事例が相次いでいます。
 国が85%出資の「クールジャパン機構」で多額の損失
 東京・港区の六本木ヒルズ森タワー17階に日本のアニメや食などを海外に売り込むために設立された「クールジャパン(CJ)機構」が入居しています。
 正式名称は「株式会社 海外需要開拓支援機構」。
 この会社は、日本の魅力を事業化するため、民間だけでは事業ができない分野に、政府が出資する目的で2013年11月に設立された官民ファンドです。
 これまでに29件、総額620億円の投資を決定し、このうち、国が85%にあたる586億円を出資しています。
 こうしたクールジャパン関連のプロジェクトで多額の損失が出ている実態が明らかになりました。
 頓挫したマレーシアの日本百貨店
 マレーシアの首都、クアラルンプール最大の繁華街にある百貨店「ISETAN the Japan Store」。CJ機構が約9億7000万円(49%)、三越伊勢丹ホールディングスの現地子会社が10億1000万円(51%)を出資して、2016年10月にオープンしました。
 2016年にオープンした「ISETAN the Japan Store」 引用:Getty Images for ISETAN MITSUKOSHI
 しかし、現地の物価からかけ離れた価格設定などで苦戦し、売上は目標を下回り、赤字が拡大。こうしたことから2018年6月末でCJ機構が三越伊勢丹側に全株式を売却、三越伊勢丹側が単独で再建を図ることになりました。
 オープンからわずか1年半での事実上の撤退、その理由を政府関係者はこう解説します。
 「機構が発足した当初は、まず投資の実績をつくることが優先されました。the Japan Storeの案件はCJ機構の社長(当時)と三越伊勢丹の社長(当時)が懇意だったため、三越伊勢丹にお付き合いいただいたのです」
 「三越伊勢丹の社長が代わり、プロジェクトに区切りをつけることになりました」
 株式の売却額は非公表ですが、「投資額を大幅に下回る」といいます。
 実績ゼロの官製映画会社
 「クールジャパン」をめぐる問題は“映画”でもおきています。
 日本のコンテンツをハリウッドで映画化することを目的につくられた「株式会社All Nippon Entertainment Works(ANEW)」という映画企画会社がありました。
CJ機構が設立される前の2011年10月、経産省所管の官民ファンドである産業革新機構から22億2000万円(100%)の出資を受けて設立された会社です。
 ANEWは7本の映画企画を発表したものの、実際には1本も製作されることなく、機構は2017年6月に全株式を京都市ベンチャーキャピタルに、投資額のわずか1.5%にあたる3400万円で売却しました。
 この問題を追及している清水貴之参院議員(日本維新の会)は「ANEWの役員たちは、売却後に別の会社をつくり、同じような業務を続けている。民間でもできる業務を官民ファンドが出資する意味があったのか」と強調したうえで、「機構は投資中の案件の損益を公表しておらず、チェックができない」と問題点を指摘します。
 検査院「可能な限り情報開示を」
 会計検査院は4月、官民ファンド投資損益の調査結果を発表しました。
 この調査でCJ機構は、2017年3月末時点で17件、約310億の投融資で44億5900万円の損失が出ていたことが明らかになりました。
会計検査院は「国民に対する説明責任を果たす観点から、個別の案件の損失についても可能な限り情報開示を行っていくこと」などを求めています。
 CJ機構は2034年に業務を終了することが法律で決まっていて、「長期的に1.0 倍超の収益性を確保する」ことを目標としています。
 ただ、産業革新機構とクールジャパン機構の統合も取りざたされていて、投資効果の検証が行われないまま、CJ機構が消滅する可能性もあるのです。
 複数の投資案件があり、いまの段階で最終的な評価を下すことはできませんが、多額の公的資金が投入されている官民ファンドは、個別の事業についても効果の検証、適切な情報公開が求められます。
 (政治部 官邸担当 伊藤聖)」
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 日本経済新聞
 クールジャパン、失敗の現場を見た
 サービス・食品
 2018年9月10日 14:30 [有料会員限定]
 日本の食文化やエンターテインメントの海外進出を後押しする官民ファンド「クールジャパン(CJ)機構」。鳴り物入りの発足から6年たったが、これまでの投資案件には失敗が目立つのも事実。クールジャパンの発信拠点として期待されたマレーシアの施設はその一例で、6月に株式売却を余儀なくされた。失敗の現場を記者が歩いた。
 マレーシアの首都クアラルンプール。繁華街ブキッ・ビンタンを歩くと「ISETAN」の文字が目...
   ・   ・   ・   
 日本は世界で信用され、日本人は世界で愛されている、はウソである。
   ・   ・   ・   
 政治家やエリート官僚が行うエンターテイメントは、大金を投入して施設などの箱物を作り、利権に群がる自称プロに丸投げして騙され失敗する事が多く、その結果、巨額の赤字を作り続ける。
 文化的素養において、江戸時代の武士や明治までの政治家や官僚は現代の政治家、官僚、企業家・経営者よるも遙かに優れていた。
 たとえ庶民文化である歌舞伎や浮世絵を弾圧したとしても、現代の日本人よりも昔の日本人の方が理解度があった。
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 大人達の無理解によって、日本のアニメ・漫画といった青少年カルチャーから伝統的古典的宗教的民俗芸能・民族演芸までが衰退に向かっている。
 現代を生きる大人と過去に生きる老人には、未来に夢を見、将来に希望を持って生きる青少年が夢中になるエンターテイメントやカルチャーなど理解できず分かろうともしない。
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 現代の人生100年時代は、老人が多く若者が少ない。
 昔は人生50年時代で、若者が多く老人が少なかった。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人と昔の日本人の違いは、民族的な歴史・文化・伝統・宗教の素養を持ち、豊かな発想力・想像力・創作力を持っているかどうかである。
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 1990年代を境にして、それ以降の大人・老人達が「大人として」世の中に広めて今日に至るまで残っているものは幾つあるのか?
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 現代日本のテレビ、映画、小説などの主人公は、成熟した大人ではなく、未熟・未成長の少年少女が多い。
 欧米の作品では、主役は大人か青年であって年端も行かない子供の例は少ない。
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🌈5)─1─文明は中国北部・朝鮮半島から日本に渡来した説は根拠のない反日的創作。〜No.8No.9 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 中華文明には、好戦的な黄河文明と非戦的な長江文明がある。
 日本文明は、長江文明の後継文明であって黄河文明の亜流文明ではない。
   ・   ・   ・   
 2022年6月20日 MicrosoftNews 現代ビジネス「「中国北部・朝鮮半島から文明が日本に渡来」説は根拠のない創作 教科書が軽視する「長江文明」が稲作を伝えた
 宇山 卓栄
 日本の教科書が教えてきたアジア史は、いわば中国中心の見方だった。「殷、周、秦、漢、三国、晋…」と、紀元前からの中国の王朝名を中学一年生で暗記させられた経験は誰でもあるだろう。しかし、それではアジア全体の歴史のダイナミズムを感じ取ることはできない。アジア史はもっと雄渾で、さまざまな民族が闘争を繰り広げてきた。彩り豊かなその歴史を、民族・宗教・文明に着目して世界史を研究する宇山卓栄氏の新刊『民族と文明で読み解く大アジア史』(講談社+α新書)からおもに日本と中国、朝鮮半島との関係について連載でご紹介する。今回はその三回目だ。→ 二回目はこちら
 「世界四大文明」は中国の創作
 エジプト、メソポタミア、インダス、黄河文明の4つを「世界四大文明」とする括り方は恣意的に創作されたものです。「四大」などと誰が決めたのでしょうか。それを決めたのは中国の思想家の梁啓超です。梁啓超は1898年、変法自強運動で清王朝の改革を進めようとしますが、戊戌の政変で西太后に弾圧され、康有為とともに日本に亡命しました。
 © 現代ビジネス
 梁啓超は自らの詩集『二十世紀太平洋歌』で「地球上の古文明の祖国に4つがあり、中国・インド・エジプト・小アジアである」と記しています。梁啓超ら中国の進歩派知識人たちが「世界四大文明」という概念を意図的に広め、中華の優位性を再確認しようとしたのです。
 しかし中国では、黄河文明とともに長江文明も栄えており、稲作が盛んであったことを示す遺跡が1970年代以降、浙江省余姚市の河姆渡遺跡などをはじめ、多く見つかっています。日本の稲作も長江流域から直接伝わりました。長江文明黄河文明に匹敵するような豊かで巨大な文明であったにもかかわらず、教科書や一般の概説書では、ほとんど扱われていません。なぜでしょうか。
 第一に、黄河文明を擁した漢民族こそが中国唯一の文明の発現者であるとする定型的な中華思想の歴史理解の中で、長江文明の存在を教科書などで意図的に扱わなかった、あるいは扱いたくなかったということが背景としてあるでしょう。高度な文明を持つ北方の漢民族が南方の長江流域の「未開の地」を文明化するという構図の中で、黄河流域を本拠とする秦以降の中国の歴代統一王朝が南方を征服支配したことの正当性が強調されるのです。
 黄河文明の甲骨文字よりも古い文字
 第二の理由として、文明には文字の存在が欠かせないにもかかわらず、長江流域には文字の存在がないため、正式な文明として認められないとされてきたことが背景にあります。しかし、これは間違いであることがわかってきています。
 インダス文明の印章文字、メソポタミア文明楔形文字エジプト文明象形文字、そして黄河文明には甲骨文字があります。長江文明には、こうした体系化された文字がないとされてきましたが、近年、多くの研究や議論の中で、長江文明の文字と見られる巴蜀文字の存在が指摘されています。
 巴蜀文字は紀元前2000年頃から紀元前600年頃まで使われ、100種類以上の文字が今日見つかっていますが、まだ解読されていません。研究者によっては、これは文字ではなく、図符の類いであるとみなされていますが、その規則的で組織的な配列を見る限り、文字である可能性が高いとされます。複数の遠隔地の出土品(青銅器や武器)に共通する巴蜀文字の配列が見られることでも、何かを意味する文字であると捉えられます。図符と文字を組み合わせて、意味を構成しているとも考えられています。
 巴蜀文字© 現代ビジネス 巴蜀文字
 巴蜀文字が文字であるならば、紀元前1300年頃に使われていた黄河文明の甲骨文字よりも古いということになります。
 さらに、巴蜀文字はそのルーツが長江下流域にあった良渚文化の文字にあると主張する学者もいます。良渚文化とは紀元前3300年頃から紀元前2200年頃、稲作で栄えた長江文明を代表する都市文明で、大洪水に見舞われて衰退し、黄河流域の人々により征服されたと考えられています。
 『長江文明の発見』の著者としても知られる中国の考古学者・徐朝龍氏は、良渚の文字が都市の崩壊後、遺民により長江中・上流域に伝えられて進化を遂げ、巴蜀文字になったと主張しています。いずれにしても、長江文明黄河文明に匹敵する独自の文字文化圏を形成していたと言えるのです。
 巴蜀文字は、漢字の最古の祖型である甲骨文字とは系統が異なる言語とされています。かつて中国の研究者が、巴蜀文字は幻の夏王朝文字の生き残りとする見解を示しました。夏王朝黄河流域を版図にした伝説の王朝で、この王朝で使われていた文字が長江上流域に伝播したと述べられていますが、ほとんど根拠はありません。長江文明の文字を黄河文明の文字の模倣に貶めようとする作為さえ感じます。
 長江流域の稲作は紀元前9000年にはじまっていた
 元々、黄河流域と長江流域とでは、言語や文化の異なる民族が住んでいました。黄河流域にはシナ・チベット語派の漢民族が居住し、長江流域には中国語と関係がないオーストロアジア語派が居住していました。オーストロアジア語派は東南アジアのインドシナ半島系の民族と同じです。
 気候も大きく異なり、黄河流域は乾燥気候で麦作中心、長江流域は湿潤で稲作中心です。古代において両者の隔絶は明確であり、異国の異形文字を容易に取り入れるほどの親近性はどこにも見られません。漢字を使う人々を漢民族と定義するならば、元々、漢民族黄河流域にのみ生存していたのであり、この一部の人々を指して原シナ人と呼ぶことができるでしょう。
 長江流域の都市遺跡の多くは紀元前4000年頃のものとされ、焼きレンガの壮麗な建築物を擁する高度な都市文明が形成され、それは黄河文明を凌ぐ先進的な文明であったことがわかっています。このような豊かな都市文明を可能にしたのは稲作農業でした。紀元前9000年頃にはじまった長江流域の稲作文化が、その後の都市文明へとつながっていくのです。
 長江文明の都市遺跡© 現代ビジネス 長江文明の都市遺跡
 教科書や一般の概説書では、中国文明黄河流域から発祥し、文化や人口が南方にも拡がっていったと解説されます。中心たる黄河流域に対し、長江流域は周辺であったと位置付けられていますが、この捉え方がそもそも間違っています。黄河流域と長江流域には、それぞれ独自の文明があったのです。
 紀元前2200年頃、良渚文化が洪水で衰退して、黄河流域の勢力に征服されて以降、黄河文明が優位的となりますが、それ以前は2つの文明が併存していました。また、北方による征服で黄河文明の影響力は長江下流域に及びましたが、長江上流域の四川省方面には及ばず、黄河文明の甲骨文字に対して、巴蜀文字が使われ続けたのです。この地域においてだけ長江文明が維持されます。しかし、その後、この地域もまた、戦国時代の紀元前4世紀、秦によって征服され、漢字文化圏の版図に組み入れられることになります。
 漢字というツールは文化侵略を容易にするため、甲骨文字から高度に発展し、他地域の異形文字を排斥してきました。厳格な規則性や多元的機能を持ち、また簡素で習得しやすく、伝達手段に優れた言語が言語戦争に勝ちます。漢字は表音と表意にともに優れた文字機能を持ち、部首を組み合わせて、さまざまな字義に変化させることが可能です。そして、書体を絶え間なく発展させ、字体を簡略化させることにも成功しました。
 文字の支配力は武力よりも遥かに強い
 漢民族は自らの文字を発展させることに執着し、漢字は良渚文字などの長江流域で使われていた文字よりも優位性を持ちました。その支配の力は武力よりも遥かに強く、効果的であることを漢民族はよく理解していました。これは明確な文化侵略と言うことができます。長江文明では、そうした文字への執着や努力が黄河文明ほどにはなかったため、あっさりと言語戦争に敗退したのです。
 春秋戦国時代に長江流域で、楚・呉・越などの国が勃興します。これらの国の人々は長江文明の子孫であり、元々は長江人とも言うべき民族の独立性を保っていましたが、文化侵略により漢字文化圏に取り込まれていき、漢民族に同化していくことになります。
 長江人と日本人は同一の起源?
 長江文明における長江人が長江を下り、海路で日本にやって来て、稲作文化を伝えています。従来、稲作文化は弥生時代特有のものとされてきましたが、縄文遺跡からも稲作の痕跡が発見されています。いくつかの九州地方の縄文遺跡から発見されたのは1960年以降のことですが、どういうわけか今日でも教科書では取り上げられません。
 © 現代ビジネス 長江 Photo by GettyImages
 これらの痕跡により、約3000年前の縄文時代後期には大陸から稲作が伝わっていたことが判明しており、さらにこの時代よりもずっと前に原始的な稲作がなされていた可能性も指摘されています。
 長江文明に見られる高床式の倉庫や水田、住居の構成などが日本の縄文末期から弥生時代の村にも見られるのは、大陸の稲作の影響を受けた例として考えられています。また、長江人と古代日本人の漁の仕方に多くの共通点があることも指摘されています。黄河流域には、こうした生活習慣はありません。
 その他にも、長江文明の民が黄河文明漢民族に追われ、南西の貴州省雲南省に逃れて苗族となったとされますが、苗族の子孫の村が日本の古代の村と似ており、急勾配の山地に棚田を作ったり、味噌や醬油などの発酵食品を食べることも日本人と共通しています。日本人が雲南省の苗族をはじめとする少数民族の村で安らぎを感じるのは、同類の文化だからだとも言われます。
 日本人はさまざまな方面からの民族の雑多な混合形であるものの、文明や民族の血ということにおいて、その多くを長江人に負っていると言えます。両者の遺伝子が近似していることからも明らかです。一方、日本は畑作牧畜の黄河文明からはほとんど影響を受けていません。したがって、この時期に中国の北方から朝鮮半島を経由して渡来人が多くやって来て日本に文明をもたらしたという、教科書や概説書にいまだに書かれている従来の説は、見直されるべきでしょう。
 「弥生の渡来人」はいなかった
 もし、稲作が本当に朝鮮半島から伝わったのであるならば、朝鮮半島に日本よりも古い稲作の痕跡が見つかっていなければなりません。しかし、日本に稲作が伝わった約3000年前よりも以前の痕跡は朝鮮半島では一切、見つかっていません。「弥生の渡来人」なるものが日本に稲作を伝え、弥生時代の文明開化につながったなどという従来の説は、何の根拠もありません。
 朝鮮半島南部で見つかっている約2000年前から約1500年前の遺跡の水田跡は、その方式から見て、九州からの伝来と見られています。しかも、こうした水田跡は朝鮮半島の北部では見つかっておらず、南部にのみ存在するのは、それが北部からやって来たものではなく、南部からやって来たものであることを示しています。
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 日本の古代イネの遺伝子分析によっても、稲作は朝鮮半島を経由することなく、長江流域から直接、日本に伝来したことがわかっています。大阪や奈良で見つかった弥生時代後期の紀元前3世紀頃の米のDNA分析を行ったところ、その種の遺伝子型(RM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類)は朝鮮半島には存在しないもので、長江流域の種であることが判明しました。
 黄河文明長江文明を明確に区別せず、中国という枠組みで一括りにして「大陸から影響を受けた」とする捉え方に固執していることが、従来の説のような間違いが起こる最大の原因です。漢民族とは異なる長江文明という独立した文明圏の存在を視野に入れて、日本の古代史を大きく捉え直すことが必要です。
 そもそも黄河文明と日本文明には大きな乖離があります。黄河流域は乾燥し、土地が痩せており、畑作で一度使った土地は使えず、牧畜や狩猟で土地を転々としなければなりませんでした。彼らは自然や土地に対して、エネルギー源を強制的に奪取する収奪型にならざるを得ず、日本のような循環型とは異なります。
 一方、長江文明の民は水田耕作と漁撈によって循環型の定住をしており、長江人が日本にやって来た時、日本の先住民と争わず、宥和的な生活を営むことができ、稲作をはじめとする文明もまた自然に日本の地に浸潤していったのです。
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   ・   ・   ・   
 人類の誕生と大移動は運命である。
 日本人の祖先はアフリカのサルであるは宿命である。
  ・  ・  
 600万年前~700万年前 人類(ヒト属)の祖先はチンパンジーボノボの祖先である類人猿から別れて進化していき、幾つかの人類種が枝分かれするが一つの系統を残して全て絶滅した。
 10万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は、アフリカで誕生し、世界中に移住していった。
 数万年前 新人・現生人類(ホモ・サピエンス)は日本列島にたどり着き、上陸した、漂着した、流れ着いた。
 数千年前 揚子江流域民である弥生系渡来人が山東半島から朝鮮半島を経由し、続いて中国旧満州地方に住んでいた古墳系帰化人が朝鮮半島を経由して日本列島に移住してきた。
   ・   ・   ・   
 日本土人である縄文人ヤポネシア人=石器人の子孫)は、日本列島を中心に、南は琉球(沖縄)、北は蝦夷地(北海道)・北方領土南樺太、千島列島その一部はカムチャツカ半島から北米大陸西北部太平洋沿岸まで、西は朝鮮半島南部、日本海縄文人の海)を主要航路として手漕ぎ丸木舟で移動していた。
 縄文人は、手漕ぎ丸木舟で北米大陸の太平洋沿岸まで移動していた。
 中国や朝鮮では、朝鮮半島南部に住んでいた先住民の弥生系日本人を倭族と偏見を持って軽蔑し差別していた。
  ・  ・  
 日本文明は、揚子江流域(江南地域)にあった漁労農耕の温和で平和志向の長江文明の後継文明であって、黄河流域で軍事優先で栄えたの領土拡大・侵略志向の好戦的黄河文明の亜流文明ではなかった。
 朝鮮文化は、黄河文明の亜流であった。
  ・  ・  
 ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
 数万年続いた日本列島の石器時代縄文時代は、争いのない、戦争のない平和な時代であった。
  ・  ・  
 日本民族琉球民族アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)を共通の祖先とする同種・同血族であって、中華民族、漢族、韓国人・朝鮮人とは血の繋がりが薄い別種・異種のアジア人であった。
  ・  ・  
 日本民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)、弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)が混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
  ・  ・  
 アイヌ民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)にシベリア・沿海州樺太北方領土4島・千島列島・カムチャツカ半島などオホーツク海沿岸に住んでいたオホーツク文化人が南下してきて、混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
 アイヌ人は住んでいる島・地域によって幾つかに枝分かれして、それぞれ他の人種・民族と乱婚を繰り返し混血度を濃くして独自の微妙に違う生活スタイルで生きてきた。
 蝦夷地・北方領土アイヌ樺太アイヌ、千島列島アイヌカムチャツカ半島アイヌ、その他。
  ・  ・  
 琉球民族は、石器人(ヤポネシア人)、縄文人(日本土人)に揚子江流域・東南アジアから渡って来た人々と混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
   ・   ・   ・    
 日本民族の祖先は、アフリカで誕生した下等な猿である。
 つまり、日本人を軽蔑して見下す偏見と差別の蔑称である「イエローモンキ」あるいは「ジャップ」は正し呼び名である。
   ・   ・   ・   
2020-12-04
🚣3〕─1─黒潮は10万年前から台湾、与那国島、沖縄、奄美大島、日本列島ヘと流れていた。〜No.11No.12No.13 
   ・   ・   ・   
日本列島先住民。
2021-12-19
🚣4〕─1─約4万年前のヤポネシア人(日本列島人)。ヤポネシア論。〜No.14No.15No.16 * 
   ・   ・   ・   
⛵日本人の祖先は琉球人。
2021-12-21
⛵2〕─1─正しい沖縄・琉球の歴史。琉球人は日本民族日本人の原初の祖先である。〜No.2No.3No.4 * 
   ・   ・   ・   
2020-01-28
⛵3〕─1─3万年前 日本人の祖先は手漕ぎ丸木舟で台湾から沖縄に渡った。 〜No.5No.6No.7 * 
   ・   ・   ・   
2021-12-22
⛵4〕:─1─宮古島で出土の人骨、本土縄文人のDNAと同じ特徴。〜No.8No.9No.10 * 
   ・   ・   ・   
2021-12-22
⛵5〕─1─日本民族琉球人・港川人の子孫である。琉球日本民族の生誕の地。〜No.11No.12No.13 * 
2021-07-25
⛵5〕─2─沖縄・港川人のミトコンドリア情報は、縄文人にはあるが現代日本人からは見つかっていない。〜No.14No.15No.16 
   ・   ・   ・   
境界の日本史。
2019-06-17
🗾5〕─1─境界の日本史。日本列島とは、地の果て、大地のへり、生と死の狭間。〜No.14No.15No.16・ 
   ・   ・   ・   
縄文人の遺伝子情報とは男系父系Y染色体である。
ゲノム解析。DNA研究。
2021-04-01
🗾6〕─1─韓国人・朝鮮人のDNA解析。〜No.17No.18No.19・ 
2018-04-25
🗾6〕─2─遺伝子情報。最新ゲノム解析旧石器時代古朝鮮人は日本の縄文人の子孫であった。~No.20No.21No.22・ 
2019-08-12
🗾7〕─1─最新のDNA研究が明かす極東アジアの異種・日本民族日本人の科学的根拠。〜No.23No.24No.25・ 
2019-08-19
🗾7〕─2─核ゲノム解析。西北九州弥生人縄文人と弥生系渡来人との混血である。〜No.26No.27No.28・ 
2020-10-11
🗾7〕─3─縄文人遺伝子の呪縛。世襲制男系皇室の正統性は縄文人Y染色体である。〜No.29No.30No.31・ 
2021-03-21
🗾7〕─4─核ゲノム解析縄文人は原初の東アジア人の一分派である。弥生の大乱。〜No.32No.33No.34・ 
2021-03-22
🗾7〕─5─日本人DNA分析で判明。渡来系弥生人は母系、土着系縄文人は父系。〜No.35No.36No.37・ 
2021-07-25
🗾8〕─1─沖縄・港川人のミトコンドリア情報は、縄文人にあるが現代日本人からは見つかっていない。〜No.38No.39No.40・ 
   ・   ・   ・   
HTVL-1。母親の遺伝子。女系母系X染色体物語。
2018-11-14
🗾9〕─1─母親の遺伝子。子供の記憶・思考・知力は母親から受け継いだ能力。父親の遺伝子は蚊帳の外。~No.41No.42No.43・ 
2019-09-08
🗾9〕─2─HTVL-1の母子感染者は九州・沖縄・台湾に多く、中国東部や韓国に少ない。〜No.44No.45No.46・ 
   ・   ・   ・   
オセアニア伝統航海術。
2018-04-24
🗾10〕─1─地球で生きるもう一つの道、「心のなかの島」オセアニア伝統航海術の知恵~No.47No.48No.49・ @ 
   ・   ・   ・   
針文化。最古の釣り針。
2019-12-31
🗾11〕─1─約6万1000年前からの針文化。日本の針供養。~No.50No.51No.52・ 
2019-12-30
🗾11〕─2─沖縄で2万3千年前の世界最古の釣り針が出土した。~No.53No.54No.55・ 
   ・   ・   ・   
ヤポネシア人と石器時代
2021-05-23
🗾12〕─1─日本の石器時代。~No.56No.57No.58・ 
2021-04-04
🗾12〕─2─日本に最古の石器を残した旧人デニソワ人。~No.59No.60No.61・ 
2021-10-21
🗾13〕─1─後期旧石器時代(約2万3千年前)の沖縄、貝製ビーズに赤色顔料。~No.62No.63No.64・ 
   ・   ・   ・   
縄文時代
 九州における幾つものカルデラ大噴火(桜島阿蘇山・他)で、九州の縄文人は死滅し、四国・中国地方も甚大な被害を受けて人口が激減し、縄文文化の中心は西日本から中部・関東に移った。
縄文人=日本土人
2019-08-16
🗾14〕─1─縄文人こそ日本列島・琉球蝦夷北方領土の先住民(日本土人)。〜No.65No.66No.67・ 
2021-05-11
🗾14〕─2─日本民族の祖先は南方系海洋民の縄文人縄文時代の人口。~No.68No.69No.70・ 
  ・  ・  
縄文人のムラ。
2020-07-15
🗾15〕─1─縄文時代のムラは墓を中心にして環状集落であった。~No.71No.72No.73・ 
  ・  ・  
縄文時代の日本。
2021-11-11
🗾16〕─1─縄文時代の日本の中心は中部高地から関東平野で西日本は不毛な僻地であった。~No.74No.75No.76・ 
2021-11-18
🗾16〕─2─国内最古の縄文土面出土、青森 従来より千年古く。~No.77No.78No.79・ 
  ・  ・  
縄文遺跡群。
2021-07-29
🗾17〕─1─北海道・北東北の縄文遺跡群、世界文化遺産登録決まる。~No.80No.81No.82・ 
  ・  ・  
縄文文化
2018-04-29
🗾18〕─1─縄文文化は、世界の古代文明に匹敵する日本固有の優れた平和で安定した古代文化であった。~No.83No.84No.85・ @ 
  ・  ・  
縄文人の食事
2018-04-28
🗾19〕─1─1万年間。縄文時代の食生活は豊かで、縄文人は栄養豊かで長生きしていた。~No.86No.87No.88・ @ 
  ・  ・  
縄文の特産品・加工品。
2018-04-27
🗾20〕─1─縄文人は、日本列島から朝鮮半島南部に移住して日本独自の土器や石器を持ち込んだ。水田稲作。日本産天然のアスファルト。6000年前。~No.89No.90No.91・ @ 
2018-06-22
🗾20〕─2─海を渡った縄文の特産品・加工品。天然アスファルト琥珀翡翠。黒曜石。~No.92No.93No.94・ 
2021-08-21
🗾20〕─3─諏訪は旧石器時代縄文時代に良質な黒曜石(星糞)の一大産地であった。縄文海進。 ~No.95No.96No.97・ 
  ・  ・  
縄文の土器・石器。
2018-10-19
🗾21〕─1─縄文土器土偶は、世界美術史における驚愕すべき美術品・工芸品である。~No.98No.99No.100・ @ 
2020-07-16
🗾22〕─1─縄文・弥生時代の石器・土器・土偶には、多様で豊かな地域性がある。~No.101No.102No.103・ 
2021-04-24
🗾22〕─2─日本考古学史上最大の謎「縄文人土偶の正体」がついに解明~No.104No.105No.106・ 
2021-06-15
🗾22〕─3─縄文土偶は食用植物を象った祭祀用精霊像であった。~No.104No.105No.106・ 
  ・  ・  
縄文の交易
2020-05-18
🗾23〕─1─山梨県は縄文王国。縄文人は全国で黒曜石などによるバーター交易を行っていた。~No.107No.108No.109・ 
   ・   ・   ・   
古代アメリカ大陸に渡った縄文人

2022-05-20
🗾24〕─1─1万6000年前、縄文人は手漕ぎ丸木舟で古代アメリカ大陸に渡った?~No.110No.111No.112 * 
   ・   ・   ・   
古代文明の道。
2020-01-14
🗾25〕─1─アイアンロード。鉄器の古代文明の道。トルコ・ヒッタイト人から倭国弥生人まで。~No.113No.114No.115・ 
2020-02-26
🗾25〕─2─弥生人と文字。硯。~No.116No.117No.118・ 
   ・   ・   ・   
中央アジア帰化人と古墳人。  
2019-11-26
🗾26〕─1─中央アジア帰化人。カザフ人。~No.119No.120No.121・ 
2021-04-05
🗾27〕─1─朝鮮半島の地質学的先史時代。石器時代朝鮮半島の古代人出現は紀元前4万年。~No.122No.123No.124・ 
2021-07-27
🗾28〕─1─2千年前のシベリアは暴力時代。シベリア民族誌、日本人の起源と山の神信仰。土偶の謎。~No.125No.126No.127・ 
   ・   ・   ・   
科学的男系父系Y染色体神話。
2019-08-18
🗾29〕─1─日本の文化や芸術を洗練し面白くした粋な道楽人は縄文人Y染色体)であった。〜No.128No.129No.130・ 
2020-01-02
🗾29〕─2─人類は男系父系Y染色体集団で世界へ移動して行った。〜No.131No.132No.133・ 
   ・   ・   ・   
船乗りの縄文人黒潮文化。対馬暖流文化。環日本海文化圏。
2022-05-22
🗾30〕─1─3000年前の海洋民・縄文人はサメに襲われていた。~No.134No.135No.136 * 
2018-04-23
🗾31〕─1─日本民族日本人は、南方系海洋民、揚子江流域民、北方系山野民、西方系草原民が乱婚にて生まれた混血の雑種。~No.137No.138No.139・ @ 
2019-10-10
🗾31〕─1─素潜りの南方系海人。鵜飼と稲作の倭人。太平洋沿岸の根明な黒潮文化。日本海沿岸の根暗な対馬暖流文化。~No.140No.141No.142・ * 
2019-11-23
🗾32〕─1─日本の伝統的祭りは、船乗りの縄文人が行った母性的自然神祭祀が起源となっている。〜No.143No.144No.145・ * 
2020-05-19
🗾33〕─1─環日本海文化圏の要は縄文時代の日本列島であった。〜No.146No.147No.148・ 
   ・   ・   ・   
2022-03-20
🗾34〕─1─将来の期待という生き方。狩猟採集→農耕牧畜→生産工場・養殖場→偽装肉・ニセ肉。〜No.149No.150No.151 
   ・   ・   ・   
2022-05-07
🗾35〕─1─チリでマグニチュード9.5の史上最大の地震が起きた。3800年前。〜No.152No.153No.154   
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🏯15)─1─古代から中世へ、官軍だった日本軍が私兵=武士になった理由。~No.27No.28 * 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2022年4月12日 MicrosoftNews JBpress「古代から中世へ、官軍だった日本軍が私兵=武士になった理由
 © JBpress 提供 「男衾三郎絵詞東京国立博物館蔵 出典:Colbase 男衾三郎の屋敷の前で通行人が襲われている。彼らは弓矢の的として狙われた。
(乃至 政彦:歴史家)
 一般的に儀礼の行列から発展したと考えられている「大名行列」。この行列の編成様式に注目した歴史家・乃至政彦氏は、その起源は上杉謙信武田信玄に大勝した「川中島合戦」の軍隊配置にあったと解く。平安時代天皇行幸から、織田信長明智光秀伊達政宗ら戦国時代の陣立書、徳川時代大名行列や参勤交代の行列まで、「武士の行列」を大解剖した乃至氏の書籍「戦う大名行列」の発売(電子&web版のみ)を記念し、第二章「中世初期の兵科別編成」の内容を抜粋して紹介する。
 中国・韓国と日本の朝廷の違い
 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、武士たちがやりたい放題に動いている。
 これを見て不思議に思わないだろうか。中国や韓国の時代劇や歴史劇を思い浮かべてもらいたい。そこに日本の武士のような存在はない。武士たちは私兵である。
 そんなものが土地を持ち、その奪い合いに執着して互いに争う。あるいは首都の治安を担当しようとして権力闘争をする。
 中国や韓国の朝廷のようにちゃんとした官軍がいたら、地方で私兵を養う豪族たちがこのように振る舞えるわけではない。
 ところが中世日本の場合は、そうした官軍どころか警察らしいものも姿が見えない。これはどういうことだろうか。
 武士登場以前の古代兵制
 武士が登場する以前、7世紀から10世紀過ぎまでの日本は、中国・朝鮮との緊張関係から、大陸の軍隊と比肩しうる画一的な軍隊を創出しようとしていた。そこで大陸風の軍隊が導入された。五人隊長や千人部隊など、五人単位による隊伍と隊列が整備されたのだ。そこで日本では中国式の編成方式をそのまま継受することにした。俗っぽく言えばパクりである。
 当時の軍隊構成を記す『養老令』宮衛令によると、「一隊」は「先鋒」25人と「次鋒」25人の2陣、合計50人で構成されている。さらに軍防令の「軍団大毅条」には、「軍団は大毅が1000人を統率し、少毅がこれを補佐する。校尉は200人。旅帥100人。隊正50人」とあるが、唐(中国)の軍令にも「校尉が衛士200人の団を有し、隊正は50人の隊を有する」という同式の軍制(『唐令拾遺』)があり、これをそっくり受け継いだことは間違いない。
 だが、日本は軍隊の強化と並行して対外関係の改善に努め、中国や朝鮮との全面戦争を回避することに成功した。こうして仮想敵国を失った古代日本の軍隊は、その矛先を西側ではなく東側へと転じる。そこには蝦夷があった。
 古代日本の軍隊は蝦夷への侵略を進めるが、ひとつの壁に突き当たる。蝦夷軍が単一国家ではなく、各地に点在する武装勢力の連合だったのだ。蝦夷軍は少数精鋭の散兵である。これと戦うには、密集隊形へのこだわりを捨て、散兵であたるのが望ましい。
 そこで日本は新たに健児を主体とする軍隊を作り出す。
 宝亀11年(780)3月の『続日本紀』に「殷富百姓才身堪弓馬者」(弓馬を使いこなせる富裕な地主)と記される彼らは、官製の訓練を施されたマニュアル通りに戦う普通の歩兵ではなく、現地で力をもつ富裕な百姓からなる少数精鋭の騎兵であった。
 今でいうなら、資本家としての不動産などによる所得があって、豪邸に住み、高級スポーツカーを乗り回し、スポーツジムや道場に通うような強壮の民間人である。ただし古代の富裕な百姓たちが乗り回すのは、スポーツカーではなく軍馬であった。バットモービルを乗り回すブルース・ウェインよろしく武装する資金と鍛錬する時間を得られし者たち。それが武士の前身として現れたのである。
 最強ヒーローチームがすぐそこにいたのだから使わない手はない。ここから朝廷は、官軍や警察の機能と運用を、民間に丸投げすることになる。かれらに任せれば、もう全て安心だ──と思っていたら、そうもいかなかった。
 武士の時代と兵制の変化
 武士たちに力を与え過ぎたのはやはりまずかったらしい。平将門の乱平忠常の乱、前九年後三年の乱などを経て、保元元年(1156)の乱により、とうとう「武者ノ世」という恐ろしい時代を迎える(『愚管抄』)。こうして生まれた武人社会は、六波羅探題鎌倉幕府→足利幕府→戦国大名→豊臣政権→徳川幕府などとその主体を変えながらも中世から近世までを支配することになる。“武家政権”の時代が来てしまったのだ。
 武士というのは、このように私領を有する富裕層が私兵を養い、私闘を行う武装勢力として生まれ、向かうところ敵なしの状態に乗じて、ついには天下を乗っ取ってしまった。
 武家政権は、朝廷が武士の代表機関である幕府をコントロールする体裁によって政体が保たれた。朝廷の視点で見れば、武士の闘争はどれも内々の私戦で、例えば天下を揺るがした源平騒乱(12世紀後期)や、関ヶ原合戦を中心とする慶長庚子の大乱(16世紀末)も、国家規模で俯瞰すれば、単なる軍閥同士の内輪もめである。
 武家政権を確立させたいわゆる“源平合戦”は、中小規模の私戦が積み重なることによって得た実力を朝廷に追認され、源氏側が平氏政権を討ち滅ぼす戦いだった。
 元寇の戦争も戦闘を主導する武士たちが高名な用兵家によって統制されていたわけではない。彼らは、国家のために誰かに命じられたまま一糸乱れず進退するのではなく、「弓矢の道、先をもって証となす。ただ駆けよ」とおらびあげ、勇気を振り絞り、力を合わせて、異国の軍隊を追い払ったのである。
 もちろんそこには伝統化された激闘の経験智が蓄積されている。中世日本の築城技術、武装および兵制を軽くみる歴史研究家も多いが、もう少し軍事研究史の専門家たちの指摘に目を向けるべきだろう。
 漫画やドラマでは鎌倉時代から江戸時代まで武士の兵制にあまり変化がなさそうに見えるようなところがあるが、実際はそうではない。日本の武士は、常に現場に最適な軍隊のシステムを模索して、発展を繰り返しており、戦国時代、豊臣時代、江戸時代の武士による兵制は、全体で見ても細部を見てもまるで違っている。この点、シンクロナスで順次掲載中の『戦う大名行列』でも具体的説明による説明を展開しているので、中世軍事史に関心のある方はぜひご覧になってもらいたい。
 © JBpress 提供 乃至政彦著「戦う大名行列」(SYNCHRONOUS BOOKS)。「歴史ノ部屋」会員はweb版の全編をご覧いただけます。
 【乃至政彦】歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『謙信越山』(JBpress)『平将門天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。昨年10月より新シリーズ『謙信と信長』や、戦国時代の文献や軍記をどのように読み解いているかを紹介するコンテンツ企画『歴史ノ部屋』を始めた。
 【歴史の部屋】
 https://www.synchronous.jp/ud/content/613ae89077656127a1000000
   ・   ・   ・ 
 血と死を「穢れ」として忌み嫌うのならば、戦争・合戦で敵と定めた人を殺して領地を奪う事は最悪な非人道な所業であり、それ故に人殺しを生業とする武士(職業軍人)は最も穢れた「卑しい人間」である。
 武士とは、人の恨みを買い、怨霊に祟られている、罪深い人間である。
 穢れ信仰・怨霊崇拝からすれば、武士は救いようがない非人間である。
 つまり、偏見を持って差別されるべきは、部落民ではなく武士である。
 歴史的事実として、平安時代までの武士は地下人として軽蔑され冷遇されていた。
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 武士の台頭による源平合戦鎌倉幕府とは、朝廷・公家・中央・近畿・西国に対する武士・地方・関東・東国による身分革命であった。
 日本の身分革命は、世界の階級闘争革命とは違っていた。
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戦う大名行列 (SYNCHRONOUS BOOKS)

🏯11)12)13)─1─幕府の大名支配。御家騒動と家臣の主君への叛逆。大名の養子縁組制度。高須4兄弟。~No.19No.20No.21No.22No.23No.24 * ② 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 幕府の大名支配、参勤交代と天下普請。
 御家騒動。家臣の主君への叛逆、押し込め、暗殺、強制隠居。 
 大名の血筋より家名を残す為の養子縁組制度。娘の為に婿養子をとる。他家の子供をもらって跡継ぎとする。
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 サムライは、家名、体面、名誉、品格、気概、志を守る為に『死する事を覚悟』した。
 男系の武士社会が定着するや、女性は単なる跡取りの男子を産むだけの存在とされ。
 女性は、「腹は借りモノ」と軽蔑された。
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 サムライは、主君への忠誠として「私」を捨て、「公」の為に「個」を貫いた。
 家名と名誉を守る為に、「あっさり」と切腹し、介錯人によって首を切られた。
 介錯を拒否した者は、息絶えるまで苦痛に悶えながら死んだ。
 サムライの名誉は、一人で、自分で自分の命を断ちきって「死」ぬ事であった。
 「死ぬ」、それがサムライである。
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 武士とは、孤独であった。
 不始末の責任を全て背負って、一人、切腹しなければならなかった。
 孤独死するのが、武士の生き方、サムライの美学であった。
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 頭山満「一人でいて淋しくない人間になれ」
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 中国は、文を尊び、自分だけの「面子」を守る為に他人の命を奪った。
 日本は、武を貴び、武士の一分という「体面」を守る為に自分の命を捨てた。
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4、家臣によって、座敷牢に押し込められ隠居させられた大名。
 大名が、重圧に耐えきれず乱心したり、自己満足に悪行や暴政を行った時、重臣達は上意討ちを覚悟で繰り返し諌言や異議を申し立てた。
 大名の傲慢で百姓一揆や暴動が起きれば、幕府は他への見せしめに責め問い処罰した。
 重臣は、藩・御家を守る為に主君を押し込め反省を求め、それでも回心しなければ強制隠居させた。
 隠居させられた元大名で復権を狙う者は、味方の家臣を集めて重臣と対立を深めて御家騒動を起こした。
 親戚筋の大名が集まって、御家騒動を穏便に収めようとして失敗するや、重臣は最後の手段としてかっての主君を殺害して急死と届け出た。
 家臣にとって、生活の場である藩が取り潰されては無職の浪人になるしかなかったから、主君より御家を優先した。
 家臣は、主君の横暴な命令をご無理ごもっともと従ったわけではない。、
 幕府は、自浄努力として御家騒動が収まらなければ裁定をくだしたが、不平浪人を出しては戦乱の原因となるとして藩を存続させた。
 「武家諸法度」に従って、内紛の当事者の弁明を公平に聞いた。
 だが、日本独自の「喧嘩両成敗」の原則に従い、元大名は藩主失格として他家に預けられ、重臣の数人が公儀の秩序を乱した太罪として切腹させられ、その家族は不忠者の家族として流罪か領地から追放させられた。
 江戸中期以降の大名には、思ったままに藩政を指導する実権もなければ、家臣の意見を聞かずに行動する自由もなかったといわれている。
 家臣にとっての理想的大名とは、頭脳明晰な英明な名君ではなく、世間知らずの操りやすいうすら馬鹿な暗君であった。
 歴史に名を残すような主君は、家臣にとって有り難迷惑であつた。
 政治に興味がなく、出世の野心を持たない、文化大名か、美女に溺れる色ボケ大名が、理想的主君であった。
・家臣に殺害された大名   … 相良頼央。丹羽長貴。有馬忠義。鳥居忠春。その他。
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・家臣に押し込められた大名 … 伊達綱村津軽信義。水野忠元。蜂須賀重喜。徳川宗春。その他。
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・家中不和で減俸された大名 … 松平忠弘。板倉重種。仙石久利。その他。
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・家中不和で改易された大名 … 本多重益。奥平昌能。蒲生忠知。松平直矩。鳥居忠則。その他。
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・領地返上した大名  … 加藤明成。その他。
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5、御家を存続させる為に養子を迎える。
 武家は、男子の後継者を失った時、娘がいれば一族か他家から婿養子をとって跡取りとした。
 娘もいなければ、一族か他家から夫婦養子をとって家名を継がせた。
 一族の家臣達は、御家を存続させる為に養子の身分は問わず、養子となった赤の他人を身内として受け入れ、主君と認めて忠誠を誓った。
 それが、サムライの「御奉公」である。
 藩も、主家の大名家を断絶させる為に、娘に一族か他家から婿養子をとり跡継ぎとした。
 適当な候補者がいなければ、血のつながりのない他家から養子をとって新たな大名とした。
 幕府は、正統な後継者を無くした事で大名家を取り潰すと、大量の浪人が発生して騒動の原因になるとして、大名間での養子縁組を求めた。
 ただし、御三家・御三卿以外の大名を将軍にしなかったのと同様に、家臣を大名として主家を継がせた事はない。
 家来にとって重要なのは、血筋や爵位ではなく、主家である「御家」の存続であった。
 何れの婿も、主家の娘には頭が上がらず、肩身の狭い境遇に置かれていた。
 日本民族においては、男性よりも女性の方が誕生する数がわずかに多く、女性は腕力がなかったが知恵があり健康で長生きであった。
 故に、日本は儒教的男尊女卑社会ではなかった。
上杉綱憲 … 高家吉良上野介の長男、名門・上杉家の養子となる。
上杉鷹山 … 小藩・日向高鍋藩主秋月氏の次男から、名門・上杉家の婿養子となる。
松平容保 … 小藩・美濃高須藩松平義建の六男から、大藩・会津松平家(旧保科家)の養子となる。
伊達宗城 … 旗本山口直勝の次男から、伊予宇和島藩主伊達宗紀の仮養子となり宇和島藩家臣・伊達寿光の養子となったが、宗紀が嗣子に恵まれなかった為に宗紀の五女・貞と婚約して婿養子となった。貞は早世してしまい婚姻はしなかったが、第8代藩主となる。宇和島鎮座の鶴島神社(現在の南予護国神社)の御祭神となる。
 祖父の山口直清は、宇和島藩5代藩主伊達村候の次男であったが、山口家の養嗣子となっていた。
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 高須4兄弟。
 高須藩第10代藩主松平義建には子が多く、次男は尾張藩第14代藩主徳川慶勝、三男は石見浜田藩主松平武成、五男は高須藩第11代藩主から尾張藩第15代藩主、さらに後には御三卿一橋家当主となった(名乗りも松平義比→徳川茂徳→徳川茂栄と変遷)。七男が会津藩松平容保で、九男が桑名藩松平定敬と幕末に活躍した藩主となった。十男の義勇は高須藩第13代藩主となっている。
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 ウィキペディア
 高須藩 親藩・御連枝3万石 1700年 - 1870年
 高須藩は、江戸時代、美濃国石津郡高須(岐阜県海津市)付近を領有した藩。藩庁は高須陣屋(初期は高須城)。一時期、駒野館(宝暦13年(1763年)- 安永7年(1778年))。江戸中期以降は尾張藩支藩
 尾張藩主の子が立藩しており、宗家に嗣子が絶えたときこれを相続し、尾張藩を輔弼する役割を果たすなど支藩として機能した。しかし、所領は幕府より与えられたものであり、尾張藩からの分知ではないことから、完全な支藩であるとは言えない。ただし、第3代藩主の松平義淳は徳川宗勝として尾張藩第8代藩主となり、第5代藩主の松平義柄も徳川治行として第9代藩主徳川宗睦の養子となった(相続前に早世)。また、第10代藩主松平義建には子が多く、次男は尾張藩第14代藩主徳川慶勝、三男は石見浜田藩主松平武成、五男は高須藩第11代藩主から尾張藩第15代藩主、さらに後には御三卿一橋家当主となった(名乗りも松平義比→徳川茂徳→徳川茂栄と変遷)。七男が会津藩松平容保で、九男が桑名藩松平定敬と幕末に活躍した藩主となった。十男の義勇は高須藩第13代藩主となっている。
 藩政で特筆すべきことは、第4代藩主松平義敏が水害が起こることを考慮して、幕府に嘆願して駒野へ館を移し、第6代藩主松平義裕の時代に高須に戻したことくらいである。 明治2年(1869年)の版籍奉還で、最後の藩主であった松平義勇は高須藩知事に任じられる。明治3年(1870年)、尾張藩に併合され廃藩となった。
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6、幕府による恐怖の大名支配。
 幕府は、大名への支配を強化するべく、大名を合法的に改易する大義名分を探していた。
 忍者は、その為に各大名領に忍び込み、各藩の情報収拾をおこなっていた。
 将軍は、大名を恐怖で支配する為に、情報を重要視し、あらゆる情報を掻き集めていた。
 江戸時代に改易された大名家は約260家であり、直参旗本は数が多くて実数不明である。
 外様大名への見せしめの意味もあって、身内である親藩や幕府に貢献した譜代への監視は厳しかった。
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 島社会は、大陸社会と違って、他人よりも身内に厳しい掟を設けて秩序を維持し、権力に近い身分が上位な者ほどその自由は極端に制限されていた。
 権力を持つ者には俸禄が少なく、責任が重く、些細な不祥事でも責任を取らせ、「切腹」を含む厳罰を与えた。
 出世して役職に就くには家柄と一定の家禄を必要としたが、一般的には権力を持たない者には家禄が多く支給された。
 武士にならず町人や百姓の身分を受け入れた者には、武士以上に私有財産を貯める事を許した。
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 武士の本音を言えば、明日の命も分からないお城務めなど早く辞めたかった。
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島原の乱で減封され後に改易された大名 … 板倉勝家(譜代)。寺沢堅高(外様)。
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武家法度違反で改易された親藩・譜代の大名 … 松平忠輝キリシタン)。本多正純松平忠直。徳川忠長。松平光長。松平綱昌。その他。
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 幕府は、大名の財政を疲弊させる為に、1年交替での参勤交代と天下普請などの諸役を命じた。
 大名は、貧困化して、財政の遣り繰りに苦慮した。
 一方、街道筋の宿場は大金を落としていく大名行列で潤い、そこに農産物や生活必需品を供給していた周辺農村にも現金が行き渡った。
 これが、日本型の産地消費経済である。
 年貢で搾取された以上の現金が、百姓の手に入った。百姓はそれを貯蓄したが、道楽好きな馬鹿亭主はその金で酒を飲み博打で散財した。
 田舎の女達は、男に金を持たせるとろくでもない事に散財するとして鬼の様に怒り、逃げ惑う男から容赦なく金を取り上げた。
 いくら日本の男が亭主関白とすごんでみても、肝っ玉の座った日本の女性のカカァ天下には叶わなず頭が上がらなかった。
 金に余裕が出来た庶民は、整備された街道や航路を使って、各地の温泉や名所旧跡や神社仏閣をめぐる観光旅行に出かけた。
 特に、お伊勢参りは人気があり、各地の遊女や犬までが伊勢詣でしたといわれている。
 江戸時代を通じて、庶民の間で各種の旅情報紙が飛ぶ様に売られた。
 大名行列がひっきりなしで行き交う為に、街道が領地を通る各大名は体面にこだわって治安は守った。
 日本の街道は、世界一安全で、子供や女性でも一人で安心して旅が出来た。
 江戸時代は、サムライの時代というよりは、百姓や町人らの庶民の時代であった。
 彼等の旅行は、わいわいと騒々しいほどに賑やかであった。
 よく酒を飲み、よく笑い、よく喧嘩し、そして、よく泣いた。
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☆威張っても自由のないサムライは、責任問題として切腹という重い義務を負わされていた。
 サムライは、言い訳や弁護や抗弁は女々しいとして否定され、体面を保つ為に自己責任で自決を強要された。
 サムライは、中国の士大夫や朝鮮の両班とは全く違い、割の合わない損な身分であった。
 武士道は、日本だけのものであって、中国や朝鮮には断じてない。
 武士道精神は、日本人のみの精神であって、中国人や朝鮮人には無縁の心である。
 サムライは、日本人であって、中国人でもなければ、朝鮮人でもない。
 武士は、日本の大地にのみに根付き、中国や朝鮮の土地には根付かない。
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 サムライは、職業軍人として戦う事が仕事である以上、日常の労働を免除され、非常召集に備えて俸禄を貰っていた。
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 サムライと天皇は、不可分である。
 天皇を否定する事は、サムライを否定する事である。
 天皇を廃止する事は、サムライを抹殺する事である。
 天皇あっての、サムライである。
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 サムライの系図は、天照大神の子孫の天皇か天兒屋命(アメノコヤネノミコト)の子孫の藤原氏(旧中臣氏)である。
 天孫降臨の際、藤原氏の祖先神はニニギノミコトの家来として日本に降り立った。
 三貴子月読命須佐之男命は、サムライの祖先神・氏神ではない。
 もちろん、伊邪那岐命伊邪那美命もサムライの祖先神・氏神ではない。
 藤原氏氏神である天兒屋命は、高天原天照大神の臣下である。
 高天原神話の中で天照大神と対等か上位にある神は、存在しない。
 日本の系図で、皇統にかわって日本の支配者になれる家系はない。
 神代で定まった家系で、天皇になれる日本人はいない。
 日本人が守るべき道徳秩序は、日本神話と民話や逸話の中に存在する。
 日本の全ての家系図は、高天原神話に支配されている。
 日本の系図を持つ日本人は神代からの臣下である以上、系図を持つ日本人は宗家である皇室を廃止できないし、天皇にはなれない。 
 日本神話とは、民族・国家として、現代に生きている唯一の古代神話である。
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 サムライは、いつ何時、身に覚えのない理由で、主君から切腹を命じられるか分からない絶望的武士社会に生きていた。
 絶えず「死」を意識させられ、今にも発狂しそうな環境ゆえに、「死に狂い」できる狂気の武士道を生み出し、絶対に叶わぬ憧れの対象あるいは絶対に達成できない剣聖という境地への「忍ぶ恋」に淡い希望を抱いた。
 武士道とは、「死」という不幸を受け入れ不合理を覚悟する為の哲学である。
 そこにあるのは、「希望」を求めて死に狂うという「狂気」である。
 サムライの狂気が方向性を持って爆発したのが、幕末である。
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「武士は食わねど高楊枝」
 封建時代のサムライは、身分が低い百姓町人よりも貧困に喘いでいた。
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 平和な時代に入ると、日本人は、主役として全軍を指図し戦に勝つ偉大な総大将よりも、有能であるが地味で目立たない人の良い脇役を好んだ。
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 2016年2月26日号 週刊朝日「子孫が綴る
 400年後にみのった家康公の夢 徳川宗家19代目 徳川家広
 将軍と大名の本当の関係とは?
 元和偃武(げんわえんぶ)──。徳川の平和の二つ目の柱は。実は家康は、独裁者というのとはほど遠い存在だった。中国攻略、四国征伐九州征伐、北条攻めと全国各地を転戦して強敵を次々と打倒した豊臣秀吉こそが、戦国時代を終わらせた覇王であり、じっさい彼はその実績を背景に独裁者、専制君主として振る舞っている。
 実は家康にも、独裁者になりうる瞬間はあった。
 慶長3(1598)年、秀吉死没の直後である。この時、日本、特に西日本は、その6年前に秀吉が始めた『唐入り』つまり中国攻略作戦の失敗によって、疲弊しきっていたのだ。豊臣恩顧の西日本の大名たちは重い財政負担に喘ぎ、敗戦によって威信を失していた。秀吉没後、豊臣政権の最高実力者となった家康としては、弱った大名たちを口実を設けて次々と取り潰し、その家臣団と領土領民を吸収していくという道をとることも可能だった。
 だが家康はそうしなかった。その代わりに起こったのが関ヶ原の戦いで、そこで自分の側についた西国大名たちに家康は存分に報いている。詳細は別に記すことになるが、『天下分け目の戦い』は朝鮮出兵の後始末だったのだ。仮に西軍が勝利するという事態になっていれば(そうならないための仕掛けは十分に凝らしてあったのだが)、第3次の朝鮮出兵が行われていただろう。
 家康が豊臣恩顧の大名たちに大封を与えて処遇したのは、関ヶ原の戦いというか豊臣秀吉が亡くなるまでの間に、彼らとの間に友情が芽生えていたからであろう。細川幽斎浅野長政黒田如水島津義弘も、家康としては共感できる、同格の人物たちだった。
 ただし、そのような感傷だけでは家康は動かない。これは子孫として、血が私に教えているわけではない。政治家というのは、そういうものだという事実を記しているだけである。家康が大名たちを厚遇し、その力を温存したのは、豊臣秀吉という怪物を間近に見て、さらにいえば、織田信長という、秀吉がその手法を真似た一人の天才を間近に見て、独裁者の危うさをよく理解していたからだろう。
 徳川の天下を、そして徳川の平和を長続きさせるには、物事が容易には将軍の思い通りにいかないほうがよい。これが幕藩体制の根っこにある考えである。
 武家諸法度にしろ、大名たちが遵守するのが難しい法制ではない。また、徳川家臣団を無数の中小大名に分けて、指揮系統をわざわざ複雑にしているのも、豊臣恩顧の大名たちを安心させるためだった。
 では、大名たちが取り潰されることをいつも恐れていたという、幕藩体制を語る際の決まり文句は、いったい何なのだろう?
 それは、将軍・幕府と各大名家の間に緊張関係があると思わせておいたほうが、各大名による家臣団の掌握が楽だったから、と考えるとわかりやすい。
 戦時体制が完全に終わったわけではないという緊張感が武士の統制を強化し、そのことが平和の維持を容易にしたという逆説である」

 


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⛩78)79)─1─幕末の庶民(百姓・町人)が、志を立てて剣豪になり、死して靖国神社に神として祀られた。~No.173No.174No.175No.176 * 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 滅びの美学と朽ち果てる美学。
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 朝倉宗滴(1477〜1555年)「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つ事が本にて候」
 幕末から明治新政府樹立まで活躍した勤皇の志士や尊皇派浪人の大半が、二本差しの下級武士か一本差しの百姓や町人や博徒上がりの剣豪であった。
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 現代の日本人は、江戸後期・幕末・明治維新を命を賭けて戦って生きた武士・サムライ・浪人でもなければ庶民とも違う。
 武士・サムライ・浪人そして庶民が命を捨てても守ろうとしたのは、天皇であり、民族であり、国(領土・領海、離島)であった。
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*幕末の江戸には剣術道場が大小合わせて約600ほど存在していた。
 剣術修行をしたのは、特権階級の上級武士ではなく、差別され虐げられてきた下級武士や庶民達であった。
 明治新政府樹立まで活躍した勤皇の志士の大半が、百姓や町人上がりの剣豪であった。
千葉周作…獣医の次男‥北辰一刀流
・斉藤弥九郎…越中国射水郡仏生寺村組頭の子‥神藤無念流‥靖国神社
清河八郎…出羽の百姓‥靖国神社
近藤勇武州の百姓。若年寄格。
   ・   ・   ・   
 身分が低い者ほど、天皇への忠誠心と皇室への尊崇の念が強かった。
 天皇と皇室は、社会の底辺で生活する卑しい貧困階層によって守られてきた。
 社会的に差別されていた者達が、天皇と皇室の守護者であった。
   ・   ・   ・    
 勤皇の志士・尊皇の浪士である下級武士や百姓・町人・博徒が起こした明治維新は、外敵の侵略から祖国日本を護るべく国民皆兵とすべく四民平等を成し遂げた。
 大名や公家、中級以上の武士が明治維新を行っていたら、徳川家康が作った身分制度は廃止される事なく存続していた。
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 甲野義紀「幕末の道場では、竹刀と防具を用いた打ち合いが主流となり、熟達しても、真剣勝負の場では怯んで力が発揮できない者も多かったようです。竜馬暗殺犯といわれる京都見回組の今井信郎直心影流)は〝真剣勝負では、免許や目録を得た者を斬るのは容易〟という言葉を残したほどです」
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伊藤博文…父親は小作人足軽・伊藤家の養子となる。夫人は、芸者。初代内閣総理大臣。束荷神社。
吉田稔麿足軽の子。幕府と戦う為に、被差別部落の若者を集めて屠勇隊を組織した。靖国神社
大村益次郎…周防の村医師‥靖国神社
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 エタ・非人の俄浪士達は、本物の武士を殺せるとあって容赦なく殺した。
 戦いで死んだ俄浪士達は、靖国神社の祭神として祀られた。
 明治維新政府は、俄浪士達を闇から闇へと葬った。
 1976年 萩の乱
 1878年 竹橋事件。近衛兵の一部による反乱事件。
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 薩摩や長州の下級武士や百姓・町人出身の浪人達は、明治政府の役人や軍人となって権力を手にして栄達した。
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 土佐藩郷士は、長宗我部家の家臣で、百姓町人と区別する為に名字帯刀を許して武士の身分を認めた、
 藩を出れば土佐藩士として扱われたが、藩内では上士から「肥(こえ)臭い郷士」と差別され、百姓町人からも中途半端な存在として見られていた。
 土佐藩は、郷士に俸禄を与える余裕がなかった為に役人となれば多少に手当を出した。
 郷士は、俸禄も役料も当てにならない為に、農業や商業で稼いでいた。
 薩摩藩は、石高から俸禄を与えた武士を上士として城下に住まわせ、俸禄を与えられない武士を下士として郊外に城構え村落「外城」に住まわせた。
 下士は、役職についても役料が低い為に、家族の食い扶持を農業で稼いでいた。
 同じ武士と言っても、薩摩の下士は島津家の家臣であったが、土佐の郷士は山内家の家臣ではなかった。
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 野村望東尼(もとに)「武士のやまと心をよりあわせ ただひとすぢのおほつな(大綱)にせよ」
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 高杉晋作「おもしろきこともなき世をおもしろく」
 野村望東尼「すみなすものは心なりけり」
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 サムライは、全力を尽くして潔く散るという「滅びの美学」を信条としていた。
 庶民は、やれるだけの事はやって後は運を天に任せて定めに従うという無常観に囚われた「朽ち果てる美学」で生きてきた。
 自然災害を相手にした時、如何に努力しようともダメな時はダメで有り、しょせん夢は夢にすぎず、希望しても叶わず徒労に終わる。
 百姓は、無駄と分かっていても、何かをやらなければ始まらないし、前に進めない。
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 儒教的上下関係を絶対視していた朝鮮は、下層階級から成り上がってきた日本のサムライを軽蔑し差別していたので、真面に付き合うこと拒絶した。
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 サムライは、藩の財政を増やす為に商人の様に活動し、地場の特産品・名産品を行商人のように売り歩いた。
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*武士となって立身出世した百姓・町人達。
×旗本御家人になった百姓・町人。
・河村瑞賢…伊勢国度会郡東宮村の極貧の百姓出身。一説には、部落民出身。下級人足から幕臣となった。
・川崎 定孝…武蔵国多摩郡押立村の名主の長男。農政家。旗本に取り立てられて美濃国代官、勘定吟味役石見銀山奉行を歴任した。川崎神社の祭神。
榎本武揚…祖父は百姓‥下級の御家人
最上徳内出羽国の百姓。江戸に出て下男となり、後に幕臣となる。
間宮林蔵常陸国筑波郡の百姓。間宮海峡を発見し、樺太は島である事を証明して日本領であると定めた。樺太を日本領とした。
中浜万次郎土佐国の貧しい漁師出身‥直参旗本。
勝海舟…曾祖父は越後の貧農で、祖父は金貸しとして蓄財して御家人男谷家の株を購入した。父親の小吉は、無役で貧乏な勝家の養子となる。
川路聖謨…父吉兵衛は、甲斐国の身分低き庶民で、御家人株の御徒を買って幕臣となり、内藤吉兵衛と名乗った。聖謨は幼名を弥吉といい、90俵3人扶持(石高105石に相当)の川路三左衛門の養子となる。勘定奉行外国奉行
井上清直…川路聖謨実弟幕臣井上新右衛門の養子。江戸南町奉行勘定奉行外国奉行
・神尾春央…伊豆国三島の百姓出身。700俵の御家人徒士の株を買って下級幕臣となる。勘定奉行
根岸鎮衛相模国若柳村の百姓の子供。幕臣根岸衛規の養子となる。江戸南町奉行勘定奉行佐渡奉行
・松田伝十郎…越後国の貧農の子。幕臣松田伝十郎の養子となる。箱舘奉行。
・樋口為之助(則義)…甲斐国山梨郡中萩原村重郎原(現:山梨県甲州市塩山)の長百姓。則義は、江戸に出て、蕃書調所勤番所使用人となり、1867年(慶応3年)には同心株を買い、運良く幕府直参となり、明治維新後には下級役人として士族の身分を得て東京府庁に勤めた。樋口一葉(本名は夏子、戸籍名は奈津)の父。
松浦武四郎伊勢国郷士
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 江戸幕府から蝦夷御用御雇に抜擢されると再び蝦夷地を踏査し、「東西蝦夷山川地理取調図」 を出版した。明治2年(1869年)6月に「蝦夷開拓御用掛」となり、蝦夷地に「北海道」(当初は「北加伊道」)と命名した。 更にアイヌ語の地名を参考にして国名・郡名を選定している。
 また、武四郎は単なる地理や自然の記録に留まらず、アイヌ民族やその文化に対しても敬意を表しており、民族と文化を守るために、まずアイヌ文化を正しく知って、理解してもらうことが必要として、アイヌ民族・文化の紹介を熱心におこなった。武四郎が出版した『蝦夷漫画』ではアイヌの文化がありのままに紹介されている。また、武四郎は、圧政に苦しむアイヌ民族の窮状を見聞きしたことで、幕府に対し、開発の必要性はもちろん大事であるが、それよりもまず今日のアイヌ民族の命と文化を救うべきであると、調査報告書の随所で訴えた。
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×大名の家臣となった百姓・町人。
二宮尊徳相模国小田原の極貧の百姓出身。二宮報徳神社。
 各藩の改革派の多くは、下級家臣か百姓・町人であった。
・藤田幽谷…水戸城下で古着商藤田屋を営む与右衛門の次男。水戸学者。
・会沢正志斎…会沢家は代々久慈郡諸沢村(常陸大宮市諸沢)の農家。水戸学者。 
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 ヤクザやエタ・非人もちろん女性さえも、勤皇関係の書籍を読み、ロシアなどの侵略情報を聞き、江戸幕府の弱腰姿勢に激怒して庶民出身の倒幕派に協力した。
 彼らは、外敵の侵略から日本と天皇を守る為ならば、武器を取って戦う決意を持ち、日本と天皇を守る為ならば死ぬ事も覚悟していた。
 日本と天皇を守る為ならば、戦争も辞さなかった。
 それが、日本人であった。
 植民地にされ、奴隷にされてまで、生きたいとは思わなかった。
 生き恥をさらすより、潔い死を選んだ。
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 ヤクザ達は、サムライに成れる事を期待して幕府軍に参加した。
 天領や藩領の一般庶民は、戦争に巻き込まれたくない為に先を争って逃げ出した。
 幕府軍にいた百姓達は、官軍から大金を貰うや進んで官軍に味方した。
 一般庶民にも、百姓にも、国家意識はなく、愛国心もなく、金が貰えれば喜んで将軍や大名を裏切った。
 天皇や官軍さえ裏切る可能性があった。
 主家の為に全滅を覚悟で徹底抗戦したのは、サムライ・士族出身者のみであった。
 もし。外国軍が侵略してきたら、日本人の多くは戦わず抵抗せず降伏した。
 国民とは、愛国心を持ち、武器を取って侵略者から国を守る為に戦争をする者達である。
 国の為に進んで戦争をするのが、国民である。
 幕末期の日本人には、国家、国民という帰属意識はなく、自由を縛る日本国籍も持たず、国境で閉じ込められた日本への愛着はなかった。 
 日本天皇や皇室への愛着や尊崇の念も薄かった。
 ゆえに、、愛国心があやふやな無国籍の幕府を打倒し、愛国心と一体の国籍を持った新政府を急いで樹立する必要があった。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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