🌺3:─1─古代の日本人。この国の最古の歌集に隠された「知られざる秘密」。~No.4No.5 

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 日本民族は、数万年前の旧石器時代縄文時代に日本列島に流れつき、数千年前の弥生時代古墳時代に南方、西方、北方から無条件に無制限に有りと有らゆるモノを受け入れながらを生きてきた。
 日本民族が生み出した奇跡は、身分の低い庶民でも言霊で謡える唄であった。
 つまり、日本民族とは「尚武の戦う民族」ではなく「唄を謡う民族」である。
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 日本の民族的な伝統・宗教・神話・文化・古典・芸能・芸術・その他の大本は、言霊で綴られた最古の歌集にある。
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 現代日本から民族的なものが消えつつある。
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 2024年4月17日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「古代の日本人はなにを考えていたのか…この国の最古の歌集に隠された「知られざる秘密」
 藤田正勝 の意見 • 1 時間 • 読み終わるまで 3 分
 明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。
 ※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。
 人新世の今だからこそ
 「自然」ということばを聞いて、皆さんは何を思い浮かべるだろうか。山や川、草や木の花や実、それに集まってくる昆虫や鳥を思い浮かべる人も多いであろう。私たちはそれらに取り囲まれて生きている。自然は私たちにとって親しい存在である。
 しかし、いま、その自然が脅威にさらされている。過剰な開発によって破壊されたり、有害な物質を含む大量の廃棄物によって環境が汚染されたりしている。あるいは温室効果ガスの排出により地球温暖化が進行して、異常気象が増加したり、生態系に大きな影響が生じたりしている。
 そのような状況のなかであらためて人と自然との関係について考えることが私たちに求められている。長い歴史のなかで日本人がどのように自然と関わり、生活を営んできたのかを見ることによってそのヒントが得られるのではないだろうか。本講ではそのような関心から自然に目を向けてみたい。
 © 現代ビジネス
 日本人の自然との向きあい方に関して重要な示唆を与えてくれるものに寺田寅彦の「日本人の自然観」というエッセーがある。寺田は著名な物理学者であったが、俳句にも親しみ、秀逸な随筆を数多く残したことでも知られる。このなかで寺田は次のように記している。「日本の自然界が空間的にも時間的にも複雑多様であり、それが住民に無限の恩恵を授けると同時にまた不可抗な威力をもって彼らを支配する、その結果として彼らはこの自然に服従することによってその恩恵を充分に享楽することを学んで来た、この特別な対自然の態度が日本人の物質的ならびに精神的生活の各方面に特殊な影響を及ぼした」。
 万葉集の「秘密」
 日本人の「特別な対自然の態度」がその物質的・精神的生活にある特殊な影響を及ぼしたということが言われているが、具体的にどういうことであろうか。
 日本では人々は自然の威力に対処するために、経験から必要な知識を集め、蓄積していった。そのことによって多くの恩恵を享受してきた。しかし自然を科学的な方法で分析し、普遍的な法則を発見することはしなかった。自然は分析の、あるいは研究の対象ではなかったのである。それは言いかえれば、観察され、分析される「自然」(nature)が生まれなかったということである。人間とともにある山川草木は存在したが、自然科学の対象となる「自然」は存在しなかった。人々はむしろそれと一体になって生きてきた。自然は分析ではなく、共感の対象であった。あるいは畏怖の対象であった。
 『万葉集』においても、自然は美しいだけでなく、「神々しい」ということばで表現されるような神秘性をもったものであった。そのなかに吉野を詠んだ次のような歌がある。「神さぶる岩根こごしきみ吉野の 水分山を見れば悲しも」(巻七・一一三〇)。神々しいほどに岩のごつごつしている吉野の水分山を見ると、切なる思いが込みあげてくるというような意味であろう(「み吉野」は吉野地方の美称)。
 また高橋虫麻呂に次のような歌がある。「富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上らず 燃ゆる火を 雪もて消ち 降る雪を 火もて消ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず くすしくも います神かも」(長歌の一部、巻三・三一九)。富士の高い山は、雲も進むことをためらい、鳥も飛び上がることができず、燃える火を雪で消し、降る雪を火で消してしまうような、ことばで言い表すことも、名付けることもできない、霊妙な神であるという意味であるが、ここでは「くすし(奇し)」、つまり人間にははかりしれないという意味のことばで神が形容され、富士の美しさが表現されている。
 古代の人々は自然のなかに美しさとともに、神威とも言うべきものを認め、畏れ、敬ってきた。それに祈りをささげてきたと言ってもよい。このように自然は詩歌のなかで、くり返し共感の対象として、あるいは畏怖の対象として詠われてきたのであるが、哲学のなかではそれはどのように論じられてきたであろうか。
 さらに連載記事〈あまりに難しすぎて多くの人が挫折した…日本人が書いた初めての哲学書善の研究」が生まれた「驚きの事情」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。
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 日本人の平均寿命
 縄文・旧石器時代は15歳前後。
 弥生時代は18~28歳。
 古墳時代は25歳前後。
 飛鳥・奈良時代が28~33歳。
 平安時代は30歳~40歳。。
 室町時代は15歳前後。
 鎌倉時代は24歳。
 安土桃山時代は30歳。
 江戸時代は32~44歳。
 明治時代は44歳前後。
 大正時代は43歳。
 昭和10年は男性46.92 女性49.63。
 戦時中は31歳。
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 日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
 日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
 日本の宗教・文化・言語は、こうして創られてきた。
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 日本民族人間性である価値観・人格・気質を作り出したのは、人間(他国・異民族・異教徒)の脅威ではなかったし、唯一絶対神(全智全能の創り主)の奇蹟と恩寵ではなく、自然の脅威と恩恵(和食)である。
 つまり、日本人と朝鮮人・中国人は違うのである。
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 吉村均「日本人は自然の力を人間の世界の外に排除して、その代償として、決まった日に来てくれたら、歓迎してもてなし、送り返すまつりをおこなう必要があった」『日本人なら知っておきたい日本の伝統文化』
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 日本民族の祖先は、アフリカで誕生した下等な猿である。
 つまり、日本人を軽蔑して見下す偏見と差別の蔑称である「イエローモンキ」あるいは「ジャップ」は正し呼び名である。
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 日本列島には、自然を基にした日本神話・民族中心神話・高天原神話・天孫降臨神話・天皇神話が滲み込み、その上に旧石器時代縄文時代弥生時代古墳時代日本民族が住んできた。
 日本民族は、旧石器人・ヤポネシア人、縄文人・日本土人に、南方揚子江弥生人(渡来人)、北方満州系古墳人(帰化人)が乱婚を繰り返し混血して生まれた雑種(ハーフ)である。
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 日本民族の生き方は、仲間・友と一緒に小さな櫂(かい)を漕ぐ丸木舟生活である。
 日本の集団主義とは海で生きる船乗りの集まりの事であり、日本の個人主義とは自分の仕事に誇りを持つ事である。
 つまり、日本民族日本人とは集団主義者であると同時に個人主義者でもあった。
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 ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
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 ロバート・D・カプラン「揺るぎない事実を私たちに示してくれる地理は、世界情勢を知るうえで必要不可欠である。山脈や河川、天然資源といった地理的要素が、そこに住む人々や文化、ひいては国家の動向を左右するのだ。地理は、すべての知識の出発点である。政治経済から軍事まで、あらゆる事象を空間的に捉えることで、その本質に迫ることができる」(『地政学の逆襲』朝日新聞出版)
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 2022年3月号 Voice「言葉のリハビリテーション 森田真生
 何もしない勇気
 最適化された世界の窮屈さ
 ……
 太陽がのぼるのも、雲が動くのも、鳥が鳴くのも自分のためではない。だからこそ、目に見えるもの、耳に届く音に、素直に感覚を集めることができる。
 ……
 『浅はかな干渉』が生み出す害
 ……
 『注意の搾取』が奪い去ったもの
 私たちはときに、浅はかな理解や理論に基づく性急な行動で安心を手に入れようとする前に『何もしない』という知恵を働かせてみることも考えてみるべきなのだ。
 だが、人間の設計したもので溢れかえる現代の世界において、『何もしない』ことはますます難しくなっている。
 ……
 物思いに耽(ふけ)って電車を乗り過ごし、都会の真ん中で月を見上げて立ち止まる。スマホを横に置いて窓の外を眺め、ただ理由もなく鳥の鳴く声に耳を傾ける。……」
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、禍の神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教(啓示宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の甚大な被害をもたらす破壊的壊滅的自然災害は種類が多く、年中・季節に関係なく、昼夜に関係なく、日本列島のどこでも地形や条件に関係なく、同時多発的に複合的に起きる。
 それこそ、気が休まる暇がない程、生きた心地がない程であった。
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 仏とは、悟りを得て完全な真理を体得し正・善や邪・悪を超越し欲得を克服した聖者の事である。
 神には、和魂、御霊、善き神、福の神と荒魂、怨霊、悪い神、禍の神の二面性を持っている。
 神はコインの表裏のように変貌し、貧乏神は富裕神に、死神は生神に、疫病神は治療神・薬草神にそれぞれ変わるがゆえに、人々に害を為す貧乏神、死神、疫病神も神として祀られる。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 日本の宗教とは、人智・人力では如何とも抗し難い不可思議に対して畏れ敬い、平伏して崇める崇拝宗教である。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、科学、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
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 世界で起きるM6以上の地震の約20%は日本周辺で発生し、甚大なる被害と夥しい犠牲者が出ていた。
 古神道シャーマニズムは、自然災害の中から生まれた。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本民族は、命を持って生きる為に生きてきた。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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 昭和・平成・令和の皇室は、和歌を詠む最高位の文系であると同時に生物を研究する世界的な理系である。
 武士は文武両道であったが、皇室は文系理系双系であった。
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 徳川家康は、実理を優先し、読書を奨励し、経験を重視し、計算の数学と理・工・農・医・薬などの理系の実利で平和な江戸時代を築いた。
 が、馬車や大型帆船は便利で富をもたらすが同時に戦争に繋がる恐れのあるとして禁止し、江戸を守る為に大井川での架橋と渡船を禁止した。
 つまり、平和の為に利便性を捨てて不便を受け入れ、豊よりも慎ましい貧しさを甘受した。
 それが、「金儲けは卑しい事」という修身道徳であったが、結果的に貧しさが悲惨や悲劇を生んだ。
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 日本で成功し金持ちになり出世するには、才能・能力・実力が必要であった。
 日本で生きるのは、運しだいであった。
 日本の運や幸運とは、決定事項として与えられる運命や宿命ではなく、結果を予想して自分の努力・活力で切り開く事であった。
 それは、自力というより、神か仏か分からない他者による後押しという他力に近い。
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 左翼・左派・ネットサハ、右翼・右派・ネットウハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者には、日本民族ではない日本人が数多く含まれている。
 彼らには、数万年前の旧石器時代縄文時代と数千年前の弥生時代古墳時代から受け継いできた日本民族固有の歴史・文化・伝統・宗教はない。
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 日本民族文化における自然観とは、縄文時代以来、自然と人間が対立しない、自然との繋がりを大切に文化である。
 それを体現しているのが、自然物をご神体とする神社である。
 日本民族の美意識は、「わび、さび、簡素」だけではなく、濃くて派手な縄文系、シンプルで慎(つつ)ましい弥生系、統一された形式としての古墳系が複雑に絡んでいる。
 それを、体現しているのが神社のしめ縄である。
 それは、「全てが、控えめにして微妙に混じり合っている」という事である。
 谷崎潤一郎「言い難いところ」(『陰翳礼讃{いんえいらいさん}』)
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 日本民族は、旧石器時代縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。
 それ故に、狂ったように祭りを繰り返して、酒を飲み、謡い、踊り、笑い、嬉しくて泣き、悲しくて泣き、怒って喧嘩をし、今この時の命を実感しながら陽気に生きていた。
 「自分がやらなければ始まらない」それが、粋でいなせな江戸っ子堅気の生き様であった。
 江戸時代は、自助努力のブラック社会であった。
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 田代俊孝(仁愛大学学長)「『人は死ぬ』という厳然たる事実を、誰しも普段の生活では見て見ぬふりをしているものです。しかし、自分がいずれは『死すべき身』だということを意識すれば現在の生への感謝が生まれ、生きる気力が湧いてくる。つまり天命、死というものを知ることによって人生観が変わる。祖父母、父母、そして自分と、連綿と続く流れのなかで思いがけず命をいただいたのだ、と気づくのです」
 植島敬司(宗教人類学者)「人生は自分で決められることばからりではありません。不確定だからこそ素晴らしいのです。わからないなりに自分がどこまでやれるのか、やりたいことを追求できるのかが大事で、それが人生の豊かさにつながるのだと思います」
 平井正修(全生庵住職)「コロナ禍に襲われるずっと以前から人類は病に悩まされてきました。病気やケガで自由な身体が動かなくなり、人に介抱してもらうと、当たり前のことのあるがたさに気づきます。何を当たり前として生きていくのか、それは人生でとても大切なことであり、すべての人に起こる究極の当たり前が、死なのです」
 「現代では死というものが過剰に重たく受け止められていますが、そもそも死はもっと身近にあるものです。考えようによっては、現世に生きているいまのほうが自分の仮初(かりそめ)の姿とさえ言える。
 最終的には、誰もが同じところへと生きます。みんなが辿る同じ道を、自分も通るだけ。そう思えば、死も恐れるものではありません」
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🌺目次)ー21ー人類学の起源。民族学と日本民族。~No.1 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 当ブログは、歴史の定説を恣意的に書き替える為に作成している歴史修正主義民族主義のブログである。
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 日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
 日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
 日本の宗教・文化・言語は、こうして創られてきた。
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 日本民族人間性である価値観・人格・気質を作り出したのは、人間(他国・異民族・異教徒)の脅威ではなかったし、唯一絶対神(全智全能の創り主)の奇蹟と恩寵ではなく、自然の脅威と恩恵(和食)である。
 つまり、日本人と朝鮮人・中国人は違うのである。
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 日本民族アイヌ民族琉球民族縄文人の子孫ではあるが、アイヌ琉球人が違うように、薩摩人と関西人と津軽人は違う。
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2024-04-12
🌺2:─1─人類学は自然人類学、先史考古学、社会人類学で構成されている。~No.2No.3 
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2024-04-19
🌺3:─1─日本の歴史は庶民の歴史で日本国は1つではなかく複数国であった。~No.4No.5 
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2024-04-23
🌺4:─1─日本の歴史は「庶民の歴史」で日本国は「複数国」であった。~No.6No.7 
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2024-04-24
🌺5:─1─何故ヤマトタケルは皇太子であったのに「天皇になれなかった」のか。~No.8No.9 
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2024-04-25
🌺6:─1─日本の歴史は大きな歴史ではなく小さな歴史である。~No.10No.11 
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🌺7:─1─「未開人」の思考法こそが最高だと言える「驚きの理由」。~No.12No.13 
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2024-04-28
🌺8:─1─日本の聖地は宗教・非宗教で多種多様に富んで全国各地に数多く点在している。~No.14No.15 
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2024-04-30
🌺9:─1─日本民族精神疾患平安時代から、特に女性がひどかった。~No.16No.17 
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2024-05-01
🌺10:─1─国名の日本は必ずしもヤマトではなくじつはあいまいな名前であった。~No.18No.19 
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2024-05-06
🌺11:─1─難民に冷たすぎる日本が忘れていた「日本人の知られざる歴史」~No.20No.21 
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2024-03-12
🌈12)─2─日本人なら知っておきたい日本の伝統文化。伝統的風習には意味がある。〜No.24 
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2018-05-13
🎼02:─1─歴史は如何に「学ぶ」か。歴史は「流れ」より「しくみ」が大事。~No.2・ 
   ・   ・   ・   
2018-05-19
🎼03:─1─未整備。神武天皇『即位建都の詔』と国體。中江兆民と祭祀王・天皇。~No.3・ @ 
   ・   ・   ・   
2018-09-20
🎼04:─1─世界の常識「命を賭けて戦う勇気のない人間は奴隷として生きる」(ヘーゲル)。~No.4・ @ 
   ・   ・   ・   
2019-03-24
🎼08:─1─賤民・部落民・ヤクザは、天皇と日本国を守る為に戦争に積極的に協力した。伝統右翼と現代右翼。〜No.12・ * 
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🌏30)─2・B─戦前日本を包んでいた「封建制」の“知られざる影響”。~No.89 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 現実を生きる日本人には、哲学や思想は縁が薄く、ましてや宗教やイデオロギーは縁が無かった。
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 封建主義と言っても、日本と西洋では違うし、日本と中華(中国・朝鮮)とでは全然違う。
   ・   ・   ・   
 2024年4月17日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「自分たちの精神というものがない」…戦前日本を包んでいた「封建制」の“知られざる影響”
 「希望どおりにいかないのが現実。だけど思い出は、悲しかったことでも、楽しかったことでも、“ある”ということがとてもいいことだなと思いますね。」自由闊達かつ独創的な筆遣いで植物や天候の移ろい、人の感情を表現し数々の作品を生み出した美術家・篠田桃紅。そんな彼女を育んだ、特異な生い立ちとは。
 【漫画】死刑囚が執行時に「アイマスク」を着用する衝撃の理由
 大正デモクラシーから震災、空襲を経て現代に渡る自身の生涯をエッセイとともに綴る『これでおしまい』(篠田桃紅著)より一部抜粋してお届けする。
 『これおしまい』連載第4回
 『「日本は遅れている」から「西洋的なものはダメ」へ…美術家・篠田桃紅が目の当たりにした、大正時代の極端すぎる“変化”』より続く
 封建制に生きる女性の“当たり前”
 「私の時代は、女学校を出たら結婚して、奥さんになる。そのことになんの疑いも持たない。それが当たり前で、どう生きるかなんて、そんなに考えない。お嫁さんになる支度をして、ちょうどよさそうな人がいたら結婚する。
 でも私はそうではなかった。自分の考えで生きたかった。あの時代に私みたいなのはいませんよ。自由に生きたいだなんて。人の家にお嫁に行けば生きられるけど、それでは自由がない。結婚した姉は、子どもを産み、決して不幸ではない。姉にならってもよかった。でも私はそうはしなかった」
 習字を教えれば自由に生きられる、と彼女は自分の道を踏み出します。
 「お習字の下野先生から『もうあなたに教えるものは何もありません。いつでもひとかどの書家になれますよ』と言われていた。父の師・杉山三郊先生も『おたくのお嬢さんは非常に字がうまいから、中国、平安などの古いものを手本にして学べば、一流の書が書けるようになりますよ』と父に話していた。
 父が認める2人の先生のお墨付きで、私はお習字の先生をすれば、自分の自由に生きられる。そう思ったのね。それが始まり。それが地について一人生きるようになっちゃった」
 最初は周りの人に声をかけて、お習字の練習会を開きました。次第に生徒の数が増えて、一人で暮らせるだけの収入を得るようになります。長兄・覚太郎が結婚し、家に義姉がくることを知ると、彼女はすぐに家を出ました。
 家出のワケ
 「私が一番邪魔。いつまでも家にいる、そういう居場所があるわけではない。父と母も私をどこかにお嫁にやらなければと思うに決まっている。両親の厄介にならないで生きて行かれれば、そのうちにいい生き方を考えられる。
 まあそんなものよ、私の時代は。部屋が6つもある、庭のついた素敵な家を借りて、お家賃を払えるかなあなんて初めは思ったのね。だけどなんとかできちゃった」
 その後、ある不思議な出会いで、この人ならと思う男性にも出会います。でもその人は学生。両親にも紹介し、結婚は大学を出るまで待ちましょう、ということになります。しかし、銀座でお茶を飲むことが半年続くと、彼女は戦前の結婚のありかたに疑問を持つようになります。
 「そのかたはちょっとした家柄の人で、卒業後も就職先が決まっていた。私は彼の実家や親族のために自分たちが生きるような、古い考えに唯々諾々と従うことに嫌気が差してしまったのね。自分たちの精神というものがない。そんな封建的な家に将来入って行けそうにない、そう言ってやめちゃったんです。そのかたが嫌いになったというわけではなく」
 そうこうしていると、親しい友人の夫が結婚生活2、3ヵ月で出征して、戦死。嫁いだ先で、友人は生涯未亡人として生きることになります。当時は軍人の未亡人が再婚すると、世間から非難を浴びる時代。嫁いだ先の家で、身を粉にして仕えている友人を見て、彼女はなんとかならないものかと心を痛めます。
 次から次へと友人の夫が戦争に駆り出されるのを見るにつけ、ますます結婚はできないという思いを強めていきます。やがて、手に職を持たない世の女性も、縫製工場などに動員されるようになります。
 『美術家・篠田桃紅が浴びた「ムゴい言葉」…それを乗り越えた彼女の「自由論」とは
』に続く
 篠田 桃紅(美術家)
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⛩51)─1─隠れたパワースポット、貧乏神神社。~No.119No.120 

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 2024年4月16日 YAHOO!JAPANニュース「「貧乏神神社」は長野県に実在する!ここで頭を下げたり、手を合わせて拝んだら大変なことに…
 旅人間はらぺこライター
 はらぺこライターの旅人間です。今回は運気を改善したい方は朗報です!と言うのは”貧乏神”を払うことが出来る神社が長野県茅野市あるからだ。
 え?そんな神社があるの?と思うでしょ!あるんです。その名も「貧乏神神社」という。しかも味噌蔵の中に…。それでは詳しく解説しよう。
 貧乏神神社とは?
 そもそも貧乏神について知っているだろうか?
 簡単に言えば、「貧乏神」とは取りついた人間やその家族を貧乏にする神のこと。例えるなら『桃太郎電鉄』でプレイヤーを不幸のどん底に叩き落す”ボンビー”をイメージすれば分かりやすい。とにかく厄介な存在なのだ。
 貧乏神は倒せない!追い払うしかない!
 しかし、仮にも神なので倒すことは出来ない。追い払うしか方法はない。それが出来るのがココ!「貧乏神神社」と言うワケだ。
 貧乏神は平安時代の辞書『和名類聚抄』では「窮鬼(きゅうき)」と呼ばれていたそうだ昔は神ではなく、鬼だった?それなら時の流れと共に格が上がったのか?一体なぜ?なんて思ったりもするが…。
 その姿は、痩せこけて青ざめ、すだれ眉毛に金壺まなこ、頭に角が1本生え、体が隠れるマントを被り、壊れた渋団扇を持っている薄汚れた老人の姿をしているらしい。これが一般的にイメージされている姿だそう。
 とにかく、気に入られたら大変なのだ!
 「絶対にこっちに来るな」「寄って来るな」「家にも近づくな」と断固とした態度を取らねばならない。だから、間違っても頭を下げたり、手を合わせて拝んではいけない。
 貧乏神神社の参拝方法
 この貧乏神神社では、独特の参拝方法がある。それは…
○叩いて
○蹴とばし
○豆を投げつける
 そして、「貧乏神出てけー」と叫ぶと効果が高い。
 なんとユニークな!興味深い。やってみよう。
 まずは豆代として100円を壺に入れる。ここはお賽銭ではなく”退散料”となる。
 そして、目の前の張り紙には「皆さまの貧乏神を預かります」と書かれている。実は、ここが重要なポイントだ。
 貧乏神は前述した通りの薄汚れた容姿で、家の押し入れに住みつくイメージが強いが、実は私たちの”心の中”にいる場合も多くある。
 それは、ネガティブな気持ち、悩み、クヨクヨした感情なのかもしれない。
 だから、それも追い払う!
 「貧棒」という名の棒を手に持って、貧乏神の前にあるご神木を3回叩く!
 ガン!ガン!ガン!と。
 あまり勢いをつけると棒が跳ね返り危ないので要注意。
 更に、ご神木を3回蹴る!
 そして極めつけは、豆を握りしめ…
 樽の中の貧乏神に向かって豆を1回投げつける。
 尚、この参拝では「貧乏神出てけー」と大きな声を出し、最後に笑い飛ばすとさらに効果的だという。いわゆるストレス解消だ。
 自分自身の弱い心を見つめ直し、叩いてストレス解消させる。ネガティブな心は樽の中の貧乏神に預かってもらい、そして隣にある鈿女(おかめ)神社に参拝し福をもらって、スッキリして帰る。これが参拝方法となる。
 それにしても一体なぜ、味噌樽なのか?
 貧乏神は”味噌”が好物で、団扇を手にしているのはこの味噌の芳香を扇いで楽しむためとも言われているという説もある。
 大阪には面白い話が伝わっている。それは江戸時代に富豪の家では毎月晦日に”貧乏神が好むという焼味噌を二つ”作って座敷から店へと家内中を持ち回り川へ流していたそうだ。
 ここは丸井伊藤商店の味噌蔵である。創業100年を数える。お店の方にお話を聞くと、この味噌蔵に「貧乏神様がご降臨されている」という。
 「貧乏神がいて大丈夫?」と聞けば「樽の中に封じ込めているから大丈夫」と笑顔でニッコリ答えくれた。
 実際にこの貧乏神神社は同社社長の「貧乏はお金ではない、心の問題」という自身の経験から、当社に足を運んでくれた皆さんがプラス思考になるキッカケになれば嬉しい。そんな気持ちから創建されたそうだ。
 訪れる人の「貧乏神を預かってくれる」なかなか出来ることではない。エンターテイメントっぽくも見えるが、これはスゴイことだと思う。
 丸井伊藤商店
 尚、同社では色々なタイプの味噌が販売されている。一番人気は「塩分控えめ味噌」で少し珍しい甘口の信州味噌だ。
 私は関西人で、東海地方を含め甲信越地方の味噌は味が濃いといった印象を持っていたが、この味噌で味噌汁を作って食べると本当に美味しかった。家族からも「食べやすい」と大好評だった。本当におすすめである。
 最後に、私は「貧乏神神社」の存在を知った時「なんだそれ?」と好奇心の塊で足を運んでみたが、実際に来てみると学ぶべきことは多かった。結局は心の持ちようなんだ。前向きに頑張ろうと思えたからだ。
 それに、私についていた貧乏神は叩いて蹴って、散々な目に合わせて、とどめに豆を投げつけ「丸井伊藤商店」の味噌蔵の奥の奥にある樽に置いていった。もはやスッキリ爽快だ。
 最後に、もう一度言うが…
 この神社では頭を下げたり、手を合わせて拝んだらダメ。貧乏神神社は、お願いではなく、叩いて蹴飛ばして追い出すという「鬼は外、福は内」の発想だ。
 <関連記事>
 【京都市/左京区】猫が住職のお寺だと!? 謎めく「猫猫寺」へ行ってみた
 貧乏神神社
 住所:長野県茅野市宮川4529丸井伊藤商店(味噌蔵の中)
 電話番号:0266-72-2272
 営業時間:8:30~17:15
 公式サイト(外部リンク)
 地図(外部リンク)
 旅人間
 はらぺこライター
 アメリカや東南アジア、インドなどへの一人旅、タイの首長族の村に泊まった体験談など2005年から始めたブログをキッカケに旅行サイトから声がかかる。トラベルjpでは新人賞、年間アクセス1位賞、SNSで拡散されたソーシャル賞を受賞。またグルメサイトで連載、吉本興業の公式ライターなどを経て現在に至る。 当Yahoo!ニュース エキスパートでは主観的な目線で旅やグルメをテーマに記事を書いている。
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 日本民族は、ネガティブ、ポジティブ、そしてその中間の三つが好きである。
 日本神道には、「禍転じて福となす」信仰があり、怨霊qお御霊に、貧乏神を富裕神に、死神を生神に、疫病神を治療神・薬草神にそれぞれ正反対の神に転換させ、人々に害を為す禍・災は神として祀られている。
 鬼も、嫌われる顔と好かれる顔という2つの顔を持っている。
 故に、多神教の古日本では、完全な悪・邪がないと同様に完全な善・正もない。
 そうした曖昧な民族性は、白黒はっきりさせる「二項分断を良し」とする現代日本にはない。
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 東スポWEB
 密かに閉鎖していた長野貧乏神神社 人気博した“ユニーク説法”の中身 2018年1月7日
 長野県飯田市内にあった「貧乏神神社」が閉鎖されていたことが分かった。同社は、祭主の櫻井鉄扇さんがプライベートなものとして1998年に建立したもので、拝殿の中央には、貧相な顔をしている「貧乏神」の木像が祭られていた。
 現在、貧乏神神社のあった場所は更地になっている。その入り口には「貧乏神神社は、祭主健康不良の為に閉鎖いたしました。ご理解お願いします」との看板がある。ホームページは今でも残されているが、そこに書かれている電話番号はすでに使われていない。櫻井さんを知る人に聞いてみると「櫻井さんは認知症になって施設に入った」ことだけが分かった。
 貧乏神神社は一般的な神社とはその趣が異なっていた。毎日行われていた参拝では、まず赤いバットのようなものを握って、「心」と書かれている柱を「貧乏神出ていけーーッ!」と叫びながら3回叩く。その後に「出ていけ、出ていけ、出ていけーーッ!」と叫びながら、この柱を3回蹴る。
 最後にはザルに入っている豆を握って、「貧乏神ーー、出ていけーーッ!」と叫びながら拝殿の奥にある「的」に投げつける。何も知らない人が見たら「何をやっているのだろうか?」と思ってしまうものだ。「参拝料」は100円だった。
 参拝者は老若男女幅広く、大型観光バスが乗りつけるほど人気だった。
 そして、櫻井さんの「説法」はとてもユニークなもので人気があった。
 「私たちにとってお金というのは大事なものです。ここに来て貧乏神と縁を切るのです。お願いじゃだめなんです。自分で勝ち取るのが御利益なんです。日本人は、神社に行くとマイナスのお願いばっかりですよね。『~しませんように』って。この『に』が問題なんです。お願いされた神様の方が困ってしまいます。“何かしてもらおう”と思ってはいけません。貧乏神というのは、心の中にいるんです。心の弱いときに出てくるんです。それを叩くのです」
 パワースポットでも有名となった同神社。「『貧乏』というのはお金のことではないんです。『心』の貧しい人が一番の貧乏人なんです」(櫻井さん)。生説法が聞けなくなってしまったのは残念な限りだ。
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 1960年創刊の夕刊娯楽紙「東京スポーツ」を発行する東京スポーツ新聞社が運営。驚きと喜び、夢と笑いで世の中を彩る総合エンターテインメントメディア
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ウィキペディア
 貧乏神神社は、長野県飯田市にあった神社。
 歴史
 1998年(平成10年)に創建。拝殿の中央に貧相な顔をした「貧乏神」の木像が祀られており、赤いバットのような棒で「心」と書かれた柱を、貧乏神が出ていく言葉を叫びながら3回叩き、その後に再び「出ていけ」と3回叫びながら3回蹴ることでご利益があるとされていた。祭主はこの行為を参拝者自身の弱い心を叩くものであるとし、貧乏とは金銭的な貧しさではなく、心の貧しさであると説いていた。休日は観光バスなどで200人ないし300人もの参拝客が訪れた。
 2018年(平成30年)初頭までに神社が閉鎖されて社地は更地となっていることが『東京スポーツ』によって報じられた。一方で、長野県茅野市には分社が2023年現在でも鎮座している。
 また徳島県名西郡神山町では当社の影響を受け「幸福神社」が2006年(平成18年)に創建された。静岡県周智郡森町三倉地区にも「災禍転福貧乏神神社三倉分社」が創建され、さらに東京都・大阪府沖縄県にも分社が創建されたという。
 祭神
 祭神は貧乏神。愛知県・静岡県岐阜県といった近隣県からの参拝客が多かった。境内に置かれた雑記帳には疼痛の軽減や良縁・子宝に恵まれた等、参拝客からの喜びの声が多く記され、その数はゆうに200冊を超えていた。
 祭主は櫻井鉄扇。自身の過去の失敗から、自身に貧乏神が取り憑いているとして当社を創建した。夫婦で運営しており、その教祖的カリスマ性から祭主夫婦もまた信仰対象となっているとの指摘があった。当社の閉鎖は祭主の健康上の問題による。
 なお、当社は宗教法人ではなく、祭主についても特定の宗教に属していたわけではなかったという。
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🏞79)─3─北前船。江戸の経済と文化と料理を支えたアイヌとの北方交易。~No.321No.322 

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 徳川幕府は、経済面や国防の面から蝦夷地のアイヌを間接保護する必要があった。
 蝦夷地やアイヌ人に対する差別は、江戸時代と現代日本では全然違う。
 その証拠に、徳川幕府は世界で蔓延していた疫病からアイヌ人を救っていた。
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 アイヌ人は、江戸時代を支え、日本国の存亡を握っていた。
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 蝦夷地は(北海道)は日本の植民地ではなく、アイヌは北方の土人であったが日本の植民地人・奴隷ではなかった。
 アイヌ民族日本民族琉球民族は。兄弟民族で縄文人の子孫である。
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 2024年1月号 Voice「地域から日本を動かす 結城豊弘
 北前船から現代を俯瞰する。
 北前船にはどんなイメージがあるだろうか。
 歴史の授業で習った北前船は、北海道の昆布を日本海の港や天下の台所・大阪に運び、代わりに米や布、各地の物産を運搬し、交易を行なった巨大貿易帆船と記憶している。
 北前船の歴史について解説した伊東香織倉敷市長は、『北海道から北前船で運ばれたニシンのかすが、有益な肥料として綿花の栽培に使われ、倉敷の紡績業の繁栄につながった』と指摘。人と物の交流が文化振興にとって大切であり、それは現代にも通じると強調した。
 ……
 フランス人を魅了
 2022年10月には、フランス・パリ市で4日間、同フォーラムが開催され、大好評だったそうだ。美食の国フランスで昆布の『日本の出汁(だし)文化』もアピール。日本の刀剣やアニメも紹介した。今回の岡山での開催にも絆がつながり、欧州の各国大使や領事がフォーラムに多数参加。フランス東部のアルザス地方・欧州日本学研究所や駐日欧州連合(EU)代表部などが顔を揃えた。
 僕は、参加者の一人であるフランスの元文部大臣でアルザス欧州日本学研究所所長のカトリーヌ・トロットマンさんと対談した。
 彼女は『2025年には、アルザスに日本の漫画博物館を開設する計画がある。日本の文化は、複雑なフランス人を魅了する。北前船の物流の歴史にも心が躍る。アルザスと日本との交流は、江戸時代末期に大阪商人が繊維品を買いつけにきたころから始まる』といって、『ゲゲゲの鬼太郎』の生みの親、水木しげる氏の出身地である『妖怪の町』境港を紹介した僕の手を握り返した。
 北前船じゃ一度の航海で1隻当たり約千両、現代のお金で約1億円以上の莫大な富を稼いだという。西日本の古着が生産技術の差から東日本では高値で売られ、西日本では北海道の昆布やニシン、ニシンのカスが肥料として、高値で売れた。
 しかし、多額の利益を生む北前船も、嵐で遭難すれば一巻の終わり。まさに命がけの航海が、寄港地に料亭や茶屋などの振興と民謡の流行、神社仏閣などの繁栄をもたらしたのだ。さらに、そこから生まれた祭りや文化、町並みが、現代では海外とのまったく新しい交流を生み出していく。……」
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 北前船とは、蝦夷地のアイヌと本土の和人との間でおこなわれた北方交易の事であり、日本の食文化など多くの面で支えていた。
 つまり、日本民族の文化や経済はアイヌ人の恩恵を受けて進歩・発展し繁栄していた。
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 日本の近代化は、江戸時代の北前船交易や日本人の旅好きによる国内での人・物・金の流動で成功した。
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 こんぶネット 一般社団法人 日本昆布協会
 昆布って何?
 昆布は海で育つ藻、海藻の仲間です。
 「海草」と「海藻」読み方は同じですが、海草は、海中で花を咲かせ種子によって繁殖し、海中で一生を過ごすアマモなどの海産種子植物のことをいいます。比較的浅いところに多く、海底深くに生育することはありません。
 一方海藻は、海で生活する藻類のことで、胞子によって繁殖します。海藻の根は栄養吸収のためではなく、岩に固着するためのものです。葉色によって緑藻・褐藻・紅藻の3種類に分けられます。世界に約2万種の海藻類があるといわれ、食用にされるのは昆布に代表される褐藻に多く、全部で約50種程度といわれています。
(参考:水産庁
 昆布の歴史
 こんぶの名前の由来
 日本の味としてすっかり食生活に定着している昆布ですが、その歴史はあまりに古く、確かな記録は残っていません。縄文時代の末期、中国の江南地方から船上生活をしながら日本にやって来た人々が、昆布を食用としたり、大陸との交易や支配者への献上品としていたのではないかと言われています。昆布という名の由来は、はっきりしませんが、アイヌ人がコンプと呼び、これが中国に入って、再び外来語として日本に逆輸入されたと言われています。
 こんぶが旅した”こんぶロード
 鎌倉中期以降になると、昆布の交易船が北海道の松前と本州の間を、盛んに行き交うようになりました。昆布が庶民の口に入るようになったのは、そのころからです。海上交通がさかんになった江戸時代には、北前船を使い、下関から瀬戸内海を通る西廻り航路で、直接、商業の中心地である「天下の台所」大阪まで運ばれるようになりました。昆布を運んだ航路の総称を「こんぶロード」と言います。こんぶロードは江戸、九州、琉球王国沖縄県)、清(中国)へとのびていきました。
特に、琉球王国薩摩藩(鹿児島県)と清とのこんぶ貿易の中継地として、重要な役割を果たしました。
 新しい土地に新しい昆布文化が生まれる
 こんぶロードがのびて新しい土地に昆布がもたらされると、そこに独自の昆布食文化が生まれました。
 たとえば、大阪ではしょうゆで煮てつくだ煮にしたり、沖縄では、ぶた肉や野菜といためたり、煮こんだりして食べています。
 関東地方はこんぶロードの到達がおそかったため、全国的に見て昆布の消費量が少ない地域となっています。このように、現在見られる地域による食べ方の違いは、こんぶロードの歴史的背景と関連があるのです。
 こんぶ料理
 参考文献
 (株)全教図「中学校技術・家庭科副読本こんぶ」(平成9年3月発行)
 北海道ぎょれん「北の幸。釧路の味 釧路の昆布」 
 昆布の種類(昆布いろいろ)
 日本で採れる昆布の95%以上は北海道全域で、その他は 東北(青森県岩手県宮城県)の三陸海岸沿いで採れ、 場所によって、採れる昆布の種類が違います。
 どれで、だしをとっても、煮て食べても良さそうですが、 実は使い方が異なります。
 縁起物でもある昆布で幸せを引き寄せよう!
 開運!縁起物でもある昆布で 幸せを引き寄せよう!
 昔から、おめでたい席に欠かせない昆布は、
 いわば日本人の必須ラッキーアイテム。
 なぜ、どうして昆布は"縁起がいい"とされてきたのか…。
 話せば長~くなるその謎を、ギュッと凝縮してお届けします。
 これを読んで、あなたの開運に役立てくださいね!
 なぜ昆布は縁起物なの?
 縁起のいい食べ物として、結婚式やおめでたい席に欠かすことができない≪昆布≫は、鎌倉・室町時代から今日まで『よろこんぶ』として、縁起物とされています。
 まるでゴロ合わせのシャレのようですが、昆布が"縁起物"と言われるようになるには、日本人と昆布の切っても切れない関係があります。
 政(まつりごと)にも欠かせなかった昆布
 奈良時代の歴史書続日本紀』によると、「715(霊亀元)年、蝦夷(現在の東北地方)の須賀君古麻比留から"こんぶ"が朝廷に献上された」と書かれています。
 実はこれこそが、昆布について書かれたもっとも古い記録。
 また、平安時代の詳しい決まり事についてかかれた『延喜式』という書によれば、地方の特産物を収める税金として陸奥の国(青森県)から、昆布が収められていたといいます。
昔の名前は“ヒロメ”です
 「ヒロメ」とは幅が広い海藻の意味で、「広布」と表していました。それが音読みされだして「こんぶ」と呼ばれるようになったという説があります。
 この「ヒロメ」という言葉が、結婚披露宴を「おひろめ」と呼ぶ語源と言われています。
また、現在でも祝儀の時には、幅の広い昆布(ヒロメ)を縦二つに折ってぐるぐる巻き、紅白の紐で結んだものを床の間に飾るという習慣が残っている地方もあります。
 戦国時代は必勝祈願の必須アイテム
 昆布は、平安期にはすでに祝膳にのぼったそうです。そんな宮中の古式にならって室町時代になると武将が出陣するときのラッキーアイテムとして登場します。
一に打ちあわび、二に勝ち栗、三に昆布…すなわち「打ち勝ちよろこぶ」という語呂あわせですが、戦乱の世の武将達には単なる言葉遊びでは済まされない、もっと大切なアイテムだったと思われます。
 栄養面でもお祝いの場にピッタリ!?
 広く一般の人まで、昆布をお祝いごとに使うようなったのは江戸期から。結納の席にも、子生婦(こんぶ)として登場するようになりました。昆布の繁殖力の強さもあって"よい子が授かりますように"と用いられていたようです。しかし、食物繊維やカルシウムがたっぷりの昆布は、妊婦さんにはうってつけの食品という側面もあったのかもと推測されています。
 このように、昔からおめでたい日やここ一番の大事な日にかかせない大切な食糧として受け継がれてきた昆布。
 長い長い歴史の中で、ただの語呂合わせだけではない価値が出来上がったのだと推測されます。
 “縁起物”として昆布が大活躍するシーン
 結納品 子生婦
(こんぶ・こうぶ)
 "よろこぶ"との語呂合わせはもちろん、その旺盛な繁殖力が好まれ「立派な子供を産めますように」という願いを込めて「子生婦」という字が当てられている。ちなみに…婿養子の場合は「子生夫」「幸運夫」と書く場合も。
 土俵
 "勝栗や昆布・米・ スルメ・塩・カヤの実"などの"鎮物(しずめもの)"が、場所中にケガや事故がないようにと、祈願する土俵祭りの際に土俵の中央に埋められます。
 鏡餅
 正月などに、神仏や床の間に供えるお餅の正月飾り。地域によっては紅白餅だったりと様々な形式がありますが、餅の上の飾りも様々で、昆布をはじめ橙・串柿・干しするめなどがあります。
 このように昆布は日本古来の縁起物として色々なシーンで大活躍しています。
 食品としても、縁起物としても日本を代表する存在と言えそうですね。
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 料理王国
 日本料理の基本・だしを学ぶ~昆布 ―1200 年の歴史と文化
  #歴史
 日本料理の基本・だしを学ぶ~昆布 ―1200 年の歴史と文化
 2021年9月24日 #歴史, Journal, 日本料理, 歴史・文化, 食材, 魚介
 料理王国2021年10月号の特集「日本料理の基本・だしを学ぶ」より、本誌でカバーできなかった内容を紹介する新連載。日本料理特有のだしについてご紹介します。
本誌内容はこちらから:
 https://cuisine-kingdom.com/magazine-202110
 日本人と昆布の関わりはたいへん長く深いものです。文献に初めて登場するのは1200 年ほど前のことですが、最初に煮炊きが始まった縄文時代(約1万5000 年前~ 2300 年前)から昆布はすでに使われていたといわれます。古来より昆布は細かく削って薬として珍重されたり、神様へ奉納されたりするなど貴重で神聖なものでした。現在のように、だしの素材として使われるようになったのは、中国から伝わった精進料理が発展を遂げた12世紀頃です。精進料理にとって海藻である昆布は使い勝手のよい食材であり、だしや煮物などさまざまな料理に用いられたほか、胡麻油で揚げた昆布も栄養価が高く好まれました。
 昆布店が得意先に年末に配った縁起物の引き札。北前船を描いた錦絵(明治後期)をもとにしている
 その後、17世紀後半になると海運が発達し、昆布の収穫地である北端の蝦夷地(えぞち)(現在の北海道)から商業の中心である西の大坂まで昆布の長距離輸送が可能となりました。そこを往復して物資を売買する船は「北前船(きたまえぶね)」と呼ばれ、北陸地方敦賀はその主要な寄港地としてにぎわいました。物資のなかでも昆布は重要な地位を占めており、敦賀で加工され、京都や大坂へと出荷されました。この「昆布ロード」の確立により昆布が安く出回るようになり、庶民のあいだにも広まっていったのです。
 日本料理の特徴のひとつに、保存のきく乾物をさまざまに活かすというのがありますが、だしの素材である昆布はその代表格です。収穫した昆布を一定期間寝かせることで熟成させ、さらにもどして使うことでうま味を抽出する技法は日本ならではのものであり、日本料理の核となっています。
 昆布には多くの種類がありますが、利尻昆布羅臼昆布、日高昆布、真昆布が、現在流通しているなかでもっとも有名なものです。京都の料理店では利尻、大阪を中心とする関西地方では真昆布が多く出回り、東京では日高がなじみ深いなど地域や料理によって使われる昆布が異なります。「だしの味で料理が決まる」とされ、料理店のだしへのこだわりはとても強いものです。この本で紹介する料理では、とくに断わりがない場合は、利尻昆布でとっただしを用いています。
 だしの素材以外でも、昆布を薄く削ったおぼろ昆布、酢でもどした昆布を重ねて熟成させ、表面を削ったとろろ昆布、醬油で炊き上げた佃煮昆布など多くの加工品があります。
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✨18)─3─終戦の時、チャーチルはアメリカに「天皇を使え」と伝えた。~No.78 

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2024-03-10
🎺40:─3・B─1944年9月 ハイドパーク協定。原爆を「日本人に対して使う」秘密合意。~No.179No.180No.181 
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 スターリンは、昭和天皇と軍国日本が停戦交渉を望んでいる事を米英の連合軍に知らせていた。
 ルーズベルトチャーチルは、原爆投下実験が終了するまで昭和天皇と軍国日本の降伏を認めない事に合意していた。
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 原爆開発のマンハッタン計画は、アメリカ・イギリス・カナダの三カ国による共同開発で、ベルギーがコンゴ・ウランを提供していた国際的プロジェクトであった。
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 原爆投下実験とは、実戦における爆破実験であったが、隠れた目的は日本人をモルモットとする人体実験であった。
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 2024年4月10日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「天皇をつかえ」…終戦のときイギリスの「チャーチル」が、アメリカに伝えた「意外なメッセージ」
 日本には、国民はもちろん、首相や官僚でさえもよくわかっていない「ウラの掟」が存在し、社会全体の構造を歪めている。
 【写真】なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」
 そうした「ウラの掟」のほとんどは、アメリカ政府そのものと日本とのあいだではなく、じつは米軍と日本のエリート官僚とのあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としている。
 『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』では、最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」を参照しながら、日米合同委員会の実態に迫り、日本の権力構造を徹底解明する。
 *本記事は矢部 宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)から抜粋・再編集したものです。
 重要な文書は、最初すべて英語で作成する
 本書でいま、私がお伝えしているような大きな日本の歪みについて、多くの方が関心を持つようになったきっかけは、2012年にベストセラーとなった孫崎享氏の『戦後史の正体』だったかもしれません。
 外務省の国際情報局長という、インテリジェンス部門のトップを務めた孫崎氏は、同書の第1章を、次のような少し意外な問いかけから始めています。
 「日本はいつ、第二次大戦を終えたのでしょう」
 こう聞くと、ほとんどの人が、「1945年8月15日に決まっているじゃないか」というが、それは違う。8月15日が「終戦記念日」だというのは、世界の常識とは、まったくかけ離れているのだと孫崎氏はいうのです。
 「私は米国や英国の外交官に友人がたくさんいます。彼らに「日本と連合国の戦争がいつ終わったか」と聞くと、だれも8月15日とはいいません。かならず9月2日という答えが返ってくるのです」
 世界の常識からいうと、日本の「終戦記念日」である8月15日には何の意味もない。
 国際法上、意味があるのは日本がミズーリ号で「降伏文書」にサインし、「ポツダム宣言」を正式に受け入れた9月2日だけだからです。
 それなのに、なぜ日本では、9月2日のことを誰も知らないのかというと、
 「日本は8月15日を戦争の終わりと位置づけることで、「降伏」というきびしい現実から目をそらしつづけているのです。
 「日本は負けた。無条件降伏した」
 本当はここから新しい日本を始めるべきだったのです。しかし「降伏」ではなく「終戦」という言葉を使うことで、戦争に負けた日本のきびしい状況について、目をつぶりつづけてきた。それが日本の戦後だったといえるでしょう」
 自分たちに都合のいい主観的な歴史
 いま読み返してみても、じつにあざやかな書き出しだったと思います。
 私も『戦後史の正体』の編集を担当するまでは、「降伏文書」や「ポツダム宣言」について、もちろん一度も読んだことがありませんでした。孫崎氏が教授を務めた防衛大学校でも、とくに「降伏文書」は授業でほとんど教えられていなかったそうですから、おそらく普通の日本人は誰も読んだことがないといっていいでしょう。
 けれども、敗戦にあたって日本がどういう法的義務を受け入れたかを書いた「ポツダム宣言」と「降伏文書」は、もちろんその後の日本にとって、なにより重要な国家としてのスタートラインであるはずです。
 にもかかわらず、「戦後日本」という国はそうやって、その出発時点(8月15日)から国際法の世界を見ようとせず、ただ自分たちに都合のいい主観的な歴史だけを見て、これまで過ごしてきてしまったのです。
 もっとも、もちろんそれは戦勝国であるアメリカにとってもそのほうが、都合がよかったからでもありました。もしそうでなければ、そんな勝手な解釈が許されるはずがありません。
 歴史をひも解いてみると、「降伏という厳しい現実」を日本人に骨身に沁みてわからせる別のオプションのほうが、実行される可能性は、はるかに高かったのです。
 それは昭和天皇自身がミズーリ号の艦上で、自ら降伏文書にサインをするというオプションでした。
 天皇自身による降伏の表明
 考えてみると、日本は天皇の名のもとに戦争をはじめ、また天皇憲法上、講和を行う権限も持っていたわけですから(大日本帝国憲法・第13条)、降伏するにあたっても、本来天皇が降伏文書にサインするのが当然のなりゆきでした。
 事実、ミズーリ号の調印式の7ヵ月前、1945年2月時点のアメリカの政策文書では、日本の降伏文書には昭和天皇自身がサインし、さらにそのとき、次のような宣言を行うことが想定されていたのです。
 日本国天皇の宣言
 「私はここに、日本と交戦中の連合国に対して、無条件降伏することを宣言する。
 私は、どの地域にいるかを問わず、すべての日本国の軍隊および日本国民に対し、ただちに敵対行為を中止し、以後、連合国軍最高司令官の求めるすべての要求にしたがうよう命令する。(略)
 私は本日以後、そのすべての権力と権限を、連合国軍最高司令官に委ねる」
(国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)文書21「日本の無条件降伏」)
 天皇をつかえば、多くの命が救われる
 もしもこのプランが実行されていたら、日本人が9月2日の「降伏」に目をつぶりつづけることなど、もちろん不可能だったでしょう。
 けれども、日本が8月10日にポツダム宣言の受け入れを表明した直後、このプランは撤回され、天皇に代わって日本政府と軍部の代表が、2人で降伏文書にサインするプランへと変更されます。
 その理由は、アメリカにとって最大の同盟国であるイギリスのアトリー首相とベヴィン外相から、バーンズ国務長官のもとに、
 「天皇個人に直接降伏文書へのサインを求めることが、良い方法かどうかは疑問です」
 というメッセージが届いたからでした(「アメリカ外交文書(FRUS)」1945年8月11日)。
 なぜならこれから私たちは、天皇を使って、広大な地域に広がる日本軍を確実に武装解除していかなければなりません。それがアメリカ、イギリス、その他、連合国の多くの兵士たちの命を救う方法なのです、と。
 つまり、今後は天皇の命令というかたちで、アジア全域にいる日本軍を武装解除させていく計画なのだから、そのためには、なるべく天皇の権威を傷つけないほうがいいというわけです。
 このメッセージを本国に伝えたアメリカの駐英大使からは、その夜、イギリスのチャーチル前首相からも電話があり、そのとき彼が、
 「天皇をつかえば、遠い場所で多くの兵士の命が救われる」
 と確信をもってのべていたということが報告されています。
 意図的に隠された昭和天皇の姿
 その結果、ミズーリ号の調印式には、日本政府の代表である外務大臣重光葵と、軍部の代表である陸軍参謀総長梅津美治郎が2人で出席し、9月2日、降伏文書にサインすることになりました。こうしてこの一大セレモニーから、天皇の姿が意図的に隠されることになったのです。
 その一方で、昭和天皇には8月21日、マニラにいるマッカーサーから英語で書かれた「布告文」が届けられました。それは本来なら天皇自身が調印式に出席して、そこで読みあげる可能性のあった、あの「日本国天皇の宣言」が、その後、アメリ国務省のなかで何度も改訂されてできあがったものでした。
 日本語に翻訳したその布告文に署名と捺印(御名御璽)をして、9月2日のミズーリ号の調印式にあわせて表明せよと指示してきた。言い換えれば、それさえやってくれれば、昭和天皇は調印式に出席することも、降伏文書にサインすることも、宣言を読みあげることも、すべてやらなくていいということになったわけです。
 こうして占領期を貫く、
 「最初は英語で書かれたアメリカ側の文書を、日本側が翻訳してそこに多少のアレンジを加え、最後はそれに昭和天皇がお墨付きをあたえて国民に布告する」
 という基本パターンが、このときスタートすることになりました。
 さらに連載記事<なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」>では、コウモリや遺跡よりも日本人を軽視する在日米軍の実態について、詳しく解説します。
 矢部 宏治
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🎑39)─2─「江戸時代の日本人の識字率は世界イチ」という説は「嘘」だった。〜No.97 

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 2024年4月12日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「日本人の「2人に1人」は自分の名前さえ書けなかった…!?明治期時代の日本の「知的格差」驚きの実態
 佐藤 喬
 「江戸時代の日本人の識字率は高かった」「大半が読み書きできた」さらには「日本は識字率が世界一」……こういった言説はネットだけでなく、書籍でも散見される。しかし、本当にそうだったのか。たとえば1881年明治14年)、長野県の北安曇郡常盤村(現・大町市)にて15歳以上の男子882人を対象に行われた調査では、「証書類」を自分で書けるものはわずか4.4%、社会の動きを知るために必要な「公布達」や「新聞論説」を読めるものに至っては1.7%しかいなかった。引き続き、日本人の「知性格差」についてみていこう。
 『「江戸時代の日本人の識字率は世界イチ」という説は「嘘」だった…!882人調査から読み解く、日本の「知性格差」』より続く…
 識字率が最も低かった鹿児島県
 長野県の北安曇郡常盤村の調査の結果は、決して例外的ではない。当時の他の資料と照らし合わせると、常盤村の住人の読み書き能力は全国的には高い方だった可能性さえある。
 常盤村の調査が貴重なのは、読み書き能力を細かく段階に分けた点にあるが、同時期の1890年前後に、当時の文部省が全国の数県で「自署率」、すなわち自分の名前を書けるかどうかの調査を行っている。この調査によると、近江商人の本拠地であり、調査の対象となった県でもっとも識字率が高い滋賀県の男性では90%近くが自分の名前を書けたが、女性では50%前後しかない。
 逆に最も識字率が低い鹿児島県では、男子でも40%前後は自分の名前が書けず、女子に至っては、自分の名前が書けた者は4~8%前後しかいない(「近代日本のリテラシー研究序説」島村直己、「識字能力・識字率の歴史的推移――日本の経験」斉藤泰雄など)。また、読み書きができるものの割合は、士族階層や農村部の指導層など社会の上層ほど高く、農村内部にもかなりの格差があった可能性が高い(『日本人のリテラシー』リチャード・ルビンジャー、柏書房など)。
 このように識字率にはかなりの階層差・地域差・男女差があったが、ある研究者は、識字レベルが滋賀県と鹿児島県のおよそ中間だった岡山県の数値(男子の50~60%、女子の30%前後が自分の名前を書けた)が全国平均に近かったのではないかと推測している(「識字能力・識字率の歴史的推移――日本の経験」斉藤泰雄)。先の長野県常盤村では男子の約65%が自分の名前を書けたので、常盤村の識字レベルは平均的か、むしろやや上回っていたかもしれない。
 読み書き能力を持つのは、社会の上層のごく一部
 忘れてはならないのは、この調査の数字はあくまで自分の名前を書ける者の割合であって、「自由に読み書きできる者」の割合はずっと低くなる点だ。「識字率」の定義は実は難しいが、少なくとも今の一般的な文脈では、かろうじて自分の名前を書けるだけで、日常的な文章も新聞も読めないようでは「識字」に含まれないだろう。
 明治期の識字について多くの研究がある東北大学八鍬友広は、自署能力に加えて文通する能力についても調べた明治初期の和歌山県の調査の例をひき、そこでは文通可能なリテラシーを持っていた男子は自署できた者の1/4以下の約10%だったと述べている(「明治期滋賀県における自署率調査」八鍬友広)。
 この割合は、自署できた男子の1割強だけが普通の書簡を読めたとする先の常盤村のデータよりもかなり高いが、当時の調査の正確さに限界がある以上、詳細な議論はあまり意味がないだろう。いずれにしても、自由に読み書きができた者は、自分の名前だけが読み書きできる者よりずっと少なかったと考えるのは自然ではある。
 ということは、女性を含めると(日本人のリテラシーを考えるときに女性を排除する理由はない)半数前後が自分の名前さえ書けなかったと思われる明治初期の日本では、圧倒的多数は自由な読み書きができなかったことになる。特に、常盤村の調査からも分かるように、社会の動きを知る手段である新聞等を読めた人間の割合は、人口の数%に過ぎなかったのではないか。
 読み書き能力は、知的な能力の基礎であると言わざるを得ない。だが、明治時代の初期でさえ、読み書き能力を持つのは、社会の上層のごく一部の人間に限られていた。
 本や新聞を読む/書くなどの知的な活動に参加する機会や能力には、前出のルビンジャーが繰り返し強調するように、社会階層・地域・性によって著しい格差があったのである。それはつまり、豊かさや身分に格差があったように、知的能力にも、本人の力ではどうしようもない格差があった可能性を示唆している。
 では、その格差は、今日では解消されているのだろうか?次回に続く。
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 4月13日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「江戸時代の日本人の識字率は世界イチ」という説は「嘘」だった…!882人調査から読み解く、日本の「知性格差」
 江戸の庶民は文字が読めた?
 まるで人間のような自然な作文をするAIが話題になった2023年、いくつかの新聞が、「読み書き」を巡る目立たないニュースを報じた。それは、国立国語研究所(東京)が、1948年以来実に75年ぶりに、全国的な識字率の調査を試みているというものだ。
 【一覧】意外すぎる結果に…「タモリが司会」の好きな番組ランキングはこちら
 誰もが読み書きできるはずのこの日本で、どうしてわざわざ識字率などを調べるのか。そう感じる日本人は多いと思われる。記事のひとつで国立国語研究所准教授の野山広が言うように、日本では「読み書きができない人はほぼいないと長く信じられてきた」からだ。
 だが、野山も言うように、それは「共同幻想」である。
 「日本人なら誰でも読み書きができるはず」という幻想は、極めて根強い。どのくらい根強いかというと、時間を遡り、歴史上の事実をも塗り替えたほどだ。
 江戸時代や明治時代の日本人の識字率は高かったとか、大半が読み書きできたとか、大胆なものでは識字率が世界一だったとかいう言説をよく目にする。たとえば「江戸文化歴史研究家」を名乗る作家の瀧島有はこう書いている。
 「江戸後期、日本は『江戸の町の人口』の他に、もう一つ、世界トップクラスを誇ったものがあります。それは『庶民』の識字率。全国平均では約60%以上、江戸の町では約70%以上でした。江戸の町の『実際』は、おそらく約80%以上だろうと言われています」
 こういった認識は半ば常識になっているが、結論を先に書けば、誤りである、もしくは著しく誇張されていることが研究によって明らかになっている。こういった俗論は主に1970年代以降、ロナルド・ドーアらによる寺子屋教育の過大評価などによって広まったらしいが、実はドーア本人は後にその見解を訂正している(『日本人のリテラシー』リチャード・ルビンジャー、柏書房など)。
 「新聞」を読めたのはたったの1.7%
 では、当時の日本人の読み書き能力はどのようなものだったのか。
 江戸時代末期の日本人の8割以上は農民だったため、「普通の日本人」の識字能力を知るためには、農民についてのデータが欠かせない。だが、多くの研究者も認めるように、江戸時代はもちろん明治時代に入っても、農民の識字率に関する資料は極めて少ない。
 しかし、過去の日本人の識字能力に関心がある者の間では有名な、極めて貴重な資料が一つ残されている。それは、1881年(明治14年)に長野県の北安曇郡常盤村(現・大町市)で、15歳以上の「男子」882人を対象に行われた調査である。
 村民の読み書き能力を八段階に分けたこの調査によると、自分の名前や村名さえ読み書きできない者が35.4%存在したらしい。彼らには識字能力がないことになるが、では残りの65%の男子が読み書きできたかというと、まったくそうではない。
 生活上の必要があっただろう出納帳を書けるものはなんとか14.5%いたが、「普通ノ書簡」および「証書類」を自分で書けるものはわずか4.4%、社会の動きを知るために必要な「公布達」や「新聞論説」を読めるものに至っては、882人中15名、1.7%しかいない(「近代日本のリテラシー研究序説」島村直己など)。
 しかも忘れてはならないのは、この調査は女性を対象外としていた点である。明治時代の識字率には地域によりかなりのばらつきがあるが、女性の識字能力が男性よりも大幅に劣っていた点は全国に共通している。したがって、当時の常盤村の住民全体の読み書き能力は、上の数値よりもかなり落ちる可能性が高い。女性を含めると、村で新聞を読めた人間は1%程度しかいなかったのではないだろうか。
 『日本人の「2人に1人」は自分の名前さえ書けなかった…!? 明治期時代の日本の「知的格差」驚きの実態』に続く…
 佐藤 喬
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