🌺11:─1─難民に冷たすぎる日本が忘れていた「日本人の知られざる歴史」。カッパの正体は中国系渡来人。~No.20No.21 

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 2024年5月6日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「人間の耳と鼻はおいしい…難民に冷たすぎる日本が忘れていた「日本人の知られざる歴史」
 畑中 章宏
 © 現代ビジネス 提供
 『忘れられた日本人』で知られる民俗学者宮本常一とは何者だったのか。その民俗学の底流にある「思想」とは?
 「宮本の民俗学は、私たちの生活が『大きな歴史』に絡みとられようとしている現在、見直されるべき重要な仕事」だという民俗学者の畑中章宏氏による『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』が6刷とロングセラーとなっている。
 難民・移民に冷淡な国と国民
 日本政府に提出される難民申請者数は、コロナ前までは1万件以上がつづいていた。しかし申請を受け入れた者の割合は平均1%以下にとどまっているのだ。
 2016年2月に実施された「産経・FNN世論調査」によると、「日本が移民や難民を大規模に受け入れること」に対して70%近い日本人が反対し、賛成は20%にすぎない。
 しかし日本人にとって、近世近代において難民、移民は他人事ではなかった。そうした事実のなかから、民俗誌・民衆史にかかわる事例を紹介しよう。
 近世日本の国内難民
 近世の日本では、飢饉による“国内難民”が続出した。
 飢饉の多くは自然災害に原因を求められるが、政治社会経済的な体制の問題と深くかかわっている。飢饉は天災であると同時に人災だった。
 『忘れられた日本人』などの著作で知られる宮本常一は、江戸時代後期の国学者で旅行家の菅江真澄が残した旅日記にもとづき、「天明の大飢饉」(1782~88年)と「天保の大飢饉」(1833~39年)の際の“難民問題”についてくわしく記している(『旅人たちの歴史2 菅江真澄』)。
 菅江真澄は、東北地方はたいへん豊作だという噂を聞いて1784年(天明4)に信濃(長野県)を発った。しかし翌年に東北に行ってみると悲惨な状態だった。
 津軽青森県)で会った人に真澄が聞いてみると、「われらは馬を食らい、人を食らいて、からき命を助かりつれど、また今年吹きたる風にあたりて、稲穂かがまず(実らないで)、むかしの陪堂(ほいとう。物乞い)となりて侍(はべ)る」と吐露する。
 馬や人を食ったのは事実かとたずねると聞くと、「人も食(とう)び侍りしが、耳鼻はいとよく侍りき。馬を搗(つ)きて餅としてけるは、類(たぐい)のううまく侍る」と、人間の耳と鼻、馬は美味だというのである。
 こうした難民が、津軽の野には満ち、廃村になった村がいくつもあった。よほどの金持ちならいざしらず、多くの人々が南へ、南へとたどっていった。
 天明の大飢饉の原因は、長雨、水害、浅間山の大噴火、なかでも冷害による被害が大きかった。津軽藩では飢饉に対する措置を誤り、藩内の米穀が欠乏し、米価が高騰。売買が止まってしまった。町や村を問わず食物が尽き、餓死者が続出する惨状を呈したのである。
 藩の政策が生んだ悲劇
 宮本常一は、宮城県で耳にした天保の大飢饉の伝承を書き留めている。
 現在の青森県のあたりの人がまず生活に困り、南へ移動していった。盛岡付近まで来ると先には行けなくなり、そこへ落ち着く。その地域の人々も食べることができないので、南へ、南へと移動し、南部藩から仙台藩へ入っていった。
 仙台藩の人々もまた南へ移動していた。家も何もそのまま残っているのでその中に入って住む。空っぽの中へ順に入っていく、そういう移動がみられた。
 自分の藩では食えないから隣りの藩へ逃げていく。隣りの藩の人たちもその隣りへ逃げていく。そのような状態が繰り返されていたとみられる。宮本はこういった現象を「ヤドカリと同じだ」と表現している。
 難民は最終的に、関東平野へなだれを打って流入した。しかし関東の人々は移動していないので、彼らは「乞食」にならざるをえない。若者たちは下男になり、どこかの町や村へ入り込み、暮らしを立てたのが実状だったようである。
 前近代の社会では、為政者による過酷な政策が、飢饉をいっそう激しくした。直接生産者に対する租税の収奪が厳しく、交通手段も未発達で、遠隔地への物資の輸送も困難だったため、凶作に襲われると食糧不足をまねき、飢饉を発生させることとなった。また藩主らの利害対立による食糧の輸送禁止が、飢饉をさらに激化させた。
 飢饉は人災の側面も大きく、難民たちは為政者の政策の被害者だった。
 近代日本の国策移民
 この10年ほど、少子高齢化社会の日本で働き手不足を解消するため、積極的に移民を受け入れることについての議論がつづいている。
 こうした移民もまた私たちにとって他人事ではない歴史であり、かつて日本人は受け入れる側ではなく、新天地を求めて渡っていく側であった。
 近代における日本人移民として、1868年(明治元)から1924年(大正13)までの約22万人のハワイ移民、1908年(明治41年)以降の約100年間で13万人におよぶブラジル移民、1932年(昭和7)3月の“建国”による満州移民などが知られる。
 満州には、関東軍満州鉄道の関係者のほか、農業移民である「満蒙開拓団」などが渡った。満蒙開拓団27万人のうち、37000人以上は長野県が送り出した。
 なかでも下伊那地方は長野県のおよそ3分の1を占め、下伊那郡清内路(せいないじ)村(現在の阿智村)では、村の人口の2割近くの18.9%におよんだ。
 長野県では当時、農家の40%が養蚕業を営んでいた。
 カイコの繭からとれる生糸の9割以上は米国向けで、シルクのストッキングに用いられた。絹は第1次大戦後の好景気に支えられて需要が伸びた。養蚕は農家に貴重な現金収入をもたらす一方で、「生糸を売って軍艦を買う」といわれたように、生糸の輸出は近代日本の重要な国策だった。(拙著『蚕――絹糸を吐く虫と日本人』参照)
 ところが1929年(昭和4)に起こった世界恐慌で、生糸の価格が暴落し、農家が売り渡す繭価も3分の1にまで落ちこんだ。繭を主な収入源にしていた農家は打撃を受け、村の財政も立ち行かなくなった。養蚕依存の農家と農村が、政府が推し進めていた移民政策に救いを求めたのである。
 満蒙開拓もまた重要な国策であり、食糧の確保、ソ連国境の防衛のために、20年間で100万戸、500万人を移住させるという移民計画ができ、各村に移民割り当てがきた。
 村を分けて満州に分村を作る「分村移民」に応じれば、移民はもちろん村にも補助金や低利貸し付けをする。恐慌下の農村再建策として、母村の過剰人口を送り出すとともに、処分した田畑を村民で分け合い、農業の経営基盤を広げることもできる。
 「満州へ行けば20町歩(ha)の地主になれる」というふれこみも、村民たちに夢を抱かせた。
 開拓移民の現実
 しかし移民の実態は、理想とはかけ離れた侵略的なものだった。
 大下条村(現・下伊那郡阿南町)の佐々木忠綱村長は、1938年(昭和13)に下伊那郡町村会の満州視察団に参加した。
 視察団の報告書は、「困難は伴うが……これを人に勧め得る確信を得た」と記す。だが佐々木は、日本人が非常に威張っていることや、中国人を侮辱しているところ、満州の人々の土地を略奪していくようなやり方を見て強い疑念を抱いた。視察からの帰国後、佐々木は分村移民を推進しなかった。
 満蒙開拓は「開拓」とは名ばかりで、現地の農民が住んでいる家と土地を、強制的に安く収用したところへ入植するものだった。日本人移民はしかも、家と土地を奪われた農民たちを小作人や苦力(クーリー)として使用したのである。
 満州北東部に入植した下伊那郡泰阜(やすおか)村や、満州中央部に分村した佐久郡大日向村(現・南佐久郡佐久穂町)の移民たちは、戦後になって次のような証言をしている。
 「ほんとうに肥えた土で、日本から持って行った小豆をまくと、驚くほどたくさん取れた」「割り当てられた土地は荒れ地ではなく、中国人が耕作していた土地をそのまま使った。家も最初の1年は、だれかが住んでいた古い家に入った」「『あの中国人はどこへ行ったの』と聞いたら、『わからない』と大人は首を振った」。
 泰阜分村も大日向分村も、満州拓殖公社が畑は中国人から、田は朝鮮人から安く買い取っていたのである。
 移民たちは1945年(昭和20)8月9日のソ連侵攻と敗戦により、“難民”として逃避行を余儀なくされ、集団自決をした開拓団も出た。河野村(現・下伊那郡豊丘村)の胡桃沢盛(くるみざわ・もり)村長は戦後まもなく、移民を先導した自責にかられて自殺した。
 個別の理由はあるにせよ、現代の難民や移民も、祖国の政情や政策に翻弄されて、日本にやって来ようとしているのである。彼らの現実や状況を、私たち日本人は自分たちの過去の歴史を顧みながら理解すべきではないだろうか。
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 古代日本は、朝鮮半島や中国大陸から逃げてきた難民を無条件に受け入れていた。
 難民には、天皇への忠誠を誓い日本国への愛国心を持つ帰化人と忠誠を拒否し愛国心を抱かない渡来人の二種類いた。
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 帰化人と渡来人とは違う。
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 592年 渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の軽はずみな戯れ事を真に受け第32代崇峻天皇を暗殺し、馬子の娘を略奪して妻とした。
 渡来人の中国人や朝鮮人には、皇室に対する畏れはなく、天皇や皇族を殺す事に罪悪感はなかった。
 日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や嫌悪や差別はここから始まっている。
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 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
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 遠江駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。 両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかった。 賊は伊豆国穀物を盗み、船に乗って海上に出た。
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 834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
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 4月15日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「カッパの正体は中国からきた「渡来人」だった!? 虐げられた民たちの悲劇
 岩手県・遠野駅前の河童達
 炭焼き職人の子として『鬼滅の刃』に登場する炭治郎は、山の民として虐げられた哀しい歴史を有している。さらに、鬼への生贄として育てられた伊黒小芭内(いぐろおばない)をはじめとする鬼滅隊員や鬼たちにも、哀しい過去を背負った者たちが多かった。中国沿岸部からやってきた川の民、その象徴ともいうべき河童もまた、今日に至るまで虐げられ続けてきたのが実情である。しかし、その実態は、思いもかけぬ意外なものであった。
■河童は実在するのか?
 頭にお皿、背中に甲羅、3本あるいは4本指に水かきといえば、いうまでもなく、水辺に出没する妖怪・河童のことである。キュウリが大好きで、人と出くわすとすぐに相撲を取りたがるという習性に加え、便所で踏ん張る女性のお尻をこっそり撫で回すという、ちょっぴり助平で且つお調子者である。悪戯が過ぎて懲らしめられることもあるが、そんな時でも手加減して逃してやると、義理堅くお礼にと魚を届けてくれることもある…とまあ、河童を目撃した人たちの話をまとめれば、おおよそこんなところだろうか。
 子供の尻子玉(詳細不明)を抜くとか、足首を掴まれて水中に引き込まれるだの、少々おっかない話が取りざたされることもあるが、大方のところは、滑稽な存在として語られることの方が多いようである。近年に至るまで目撃談が多いのも特徴的で、特に河童の聖地といわれる八代(熊本県)、遠野(岩手県)、牛久沼(茨城県)では、目撃者がわんさか登場して驚かされるほど。となれば、「河童は実在する」と断言していいのか?と問い詰められそうだが、実のところ、明快には答えられそうもない。ともあれ、歴史を紐解いて、その実像に迫ってみることにしたい。
■中国沿岸から海を渡ってきた渡来人?
 興味深いのは、『日本書紀仁徳天皇11年の条に、その前身としての河伯(かはく)の名が記されている点である。河伯とは、元来は中国の史書史記』にも登場する黄河に潜む竜のことで、生贄(いけにえ)が絶えると洪水を引き起こすと恐れられた川の神であった。仁徳天皇紀でも、茨田の堤を築こうとした際、この河伯に生贄を捧げたことが記録されている。当時は、川の神として崇め且つ畏れられた存在であった。
 この黄河流域に住んでいた河伯こと後の河童が、海を渡って九州の球磨川流域(河口は熊本県八代市)に移り住んだことが、球磨川のほとりに置かれた「河童渡来の碑」に記されている。今からおよそ1500~1600年前のことであった。
 ただし、ここでは、川の神ではなく、川辺にひっそり暮らす妖怪としての河童である。畏れ崇められた河伯の面影をここからかぎとることは、残念ながらできそうもない。この、神から妖怪への変貌が意味するものは何か? 何やら、そこに大きな秘密が隠れ潜んでいるような気がするのだが、解明は容易ではなさそうだ。
 ただし、球磨川流域に移り住んだという河童の実像は、およその見当はつきそう。おそらく、中国沿岸に暮らしていた水上居民たちが、黄海あるいは東シナ海を渡って八代湾沿岸にたどり着いた後、球磨川を拠点として住み続けていたことを言い表したものと考えられるからである。
 想像をたくましくすれば、それこそが倭人(わじん)であったというべきかもしれない。黄河流域に栄えた夏王朝6代目皇帝・少康の子が、長江下流の会稽(江南)へと移り住み、さらにそこから朝鮮半島南部を経て日本列島へと移り住んだことも十分考えられるからである。となれば、河童ばかりか日本人までもが、黄河流域が原郷とも言えるのだ。
江戸城の築城に治水技術に長けた水上居民たちが活躍
 また、それから千数百年後の江戸時代初期のこととして伝えられる河童の親玉・九千坊(くせんぼう)の物語も興味深い。それは、肥後を治めていた加藤清正お気に入りの小姓が水死するという事件が発端であった。当時、西日本きっての河童集団を率いていたとして知られた九千坊、それが小姓の尻子玉を抜いて殺してしまったとみなされたようである。怒った清正が、九州中の猿を集めて河童たちを攻めたてたと伝えられているのだ。
 この場合の河童集団も、前述同様、水上居民たちのことで、清正にとって目障りとなった彼らを、猿ことならず者をかき集めて一掃しようとしたのではないか。挙句、安徳天皇を祀る水天宮の眷属(けんぞく)として仕えさせたというから、川の神も随分、成り下がったものである。
 また、江戸城の築城にあたっても、治水技術に長けた水上居民たちが活躍していたようである。いつの頃からか、九州から全国に散らばって暮らすようになっていたが、江戸城の整備のため、江戸へとかき集められたのだろう。数十年の後、お堀の建設が終了するとともにその多くは故郷へと帰っていったが、中には何らかの事情があって、そのまま江戸に定着する者がいたのだろう。
 隅田川あたりの川べりで、ほそぼそと暮らしていた人もいたに違いない。その彼らが、私財を投じて新堀川の水利工事を始めた合羽屋喜八に雇われて、人夫として働いたことがあった。この時の治水工事が幕府の許可を得たものでなかったところからか、咎められることのないよう、実在の人夫ではなく、妖怪としての河童が手助けしたことにしてしまったのではないか?
 つまるところ、河童とは、元はといえば日本人の源流ともいうべき中国南部からの渡来人であった。それが、後世、新たな渡来人(朝鮮半島からか)が押し寄せてきたことで居住地を追われ、水辺にひっそりと暮らさざるを得なくなった。その人々のことを言い表したのではないか? 河童とは神でも妖怪でもなく、私たち多くの日本人の同胞、あるいは日本人そのものと言うべきだという気がしてならないのである。
 ちなみに、『鬼滅の刃』に登場する炭治郎は炭焼き職人の子として登場するが、彼らも、川の民同様、山の民として虐げられた哀しい歴史を有している。そこに登場する鬼たちもまた、哀しい過去を背負った者たちばかりであった。
 鬼や妖怪と呼ばれて蔑(さげす)まされた者たちも、元をたどれば、多くの人々から隅へと追い立てられ、暗闇の中でひっそりと生きざるを得なかった人たちだったのではないか? 河童の正体を探るうちに、そんな思いがよぎるようになったのである。
 藤井勝彦
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