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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
ユダヤ人は、恩知らずである。
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自省好きな日本人は、人道貢献・平和貢献など歴史的手柄話を吹聴する事を恥として口にせず、自虐的に戦争犯罪を認めて反省の弁の述べ謝罪する事に悦に入る性質を持ってる。
故に、昭和天皇と東条英機・松岡洋右・松井石根らA級戦犯達のユダヤ人難民を保護したという事実を完全無視している。
日本民族の虔しい美徳は、現代日本人にとっては醜悪なおぞましさである。
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日本租界内の上海ゲットー。
2019-03-24
💖26)─1─上海ホロコースト未遂事件。日本陸軍と松岡洋右はゲシュタポのユダヤ人虐殺を阻止した。1942年〜No.107・
2021-03-29
💖26)─2─日本軍占領下の上海ゲットー・上海ユダヤ難民資料は世界記憶遺産申請に値する。〜No.108No.109No.110
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一般社団法人部落解放・人権研究所
部会・研究会活動 <国際人権部会>
国際人権部会・学習会報告
2004年3月26日
検証『親ユダヤ』的日本政府像を流布する出版物
金子 マーティン(日本女子大学教員)
神戸のユダヤ人難民について関心をもったのは、近年、国家主義的歴史修正者たちが、親ユダヤ的な戦前の日本政府像を描き出したからだ。真実を確かめたくてこの研究を始めた。戦時中神戸にいたユダヤ系の人々の聞き取りをしようと思ったが拒否された。そのため、1937年4月1日から1941年12月末までの神戸新聞を国会図書館で調べた。様々な難民関係の記事が出てきた。
難民の神戸到着を報じた1939年1月15日付けの記事には、「ユダヤ人お断り」というタイトルがつけられていて、"神戸港でも昨年から上陸禁止を断行した"と書かれていた。「ユダヤ化」という言葉が記事に使われていた。しかし1938年12月6日、五省会議(主要閣僚会議)が「ユダヤ人対策要綱」を決定した。これはユダヤ人を他の外国人と同等に扱うと定めたものだ。しかし翌39年1月になったら、「ユダヤ人お断り」と新聞は報じている。
もう一つ、親ユダヤを主張する論拠にしているのが、当時在リトアニアのカウナスの日本領事であった杉原千畝である。杉原は主にポーランド系ユダヤ人難民に日本通過ビザを出した。修正主義者たちは、日本政府の指令でビザは発給されたと唱えているが、外務省の記録を見れば、外務大臣松岡洋右はむしろ杉原の行動を抑えようとしていた。彼らはユダヤ系米議会議員レビンの著書を根拠にしてこのことを論じているが、その本は憶測だけで成り立っていて具体性に欠けている。
神戸にいた定住ユダヤ人は日本の軍国主義政府を応援していた。皇軍の必勝を願った祈祷、日本軍への寄付、防空演習に参加などした(他の在日外国人組織も行った)。ユダヤ人は2000年間のディアスポラ、すなわち離散の結果、様々な国でマイノリティとして生きてきた。定住先の多数派社会に追従したり、無抵抗の態度で暮らしてきた。それはユダヤ人がマイノリティとして生き残るための知恵であった。
新聞記事から何人のユダヤ人難民が神戸に避難してきたのかはつかめない。ユダヤ人難民を乗せた船がはじめて敦賀についたのは1940年5月9日であった。その頃からぼつぼつ神戸に来たと思われる。神戸のユダヤ人協会が作った神戸レポートによれば、神戸に来たユダヤ人難民は合計4,609人であった。出身国別に見るとポーランド2,178人で、この人たちの多くは杉原千畝が出したビザで来たと思われる。第三帝国(ドイツ、オーストリア、チェコ)から来た人々は2,116人、それ以外が315人であった。
歴史修正者たちが三番目に親ユダヤ宣伝の材料にしているのがオトポール事件である。"満州"国境沿いにあるソ連の町オトポールに2万人のユダヤ人が来て、ハルビンの特務機関にいた樋口季一郎が救ったとされている。これは芙蓉書房から出た樋口の伝記に書かれているが、2万人ものユダヤ人が"満州"に存在したことはない。当時上海にいたユダヤ人でも最大で1万8000人だった。彼らすべてが満州経由で来たとしても(そのようなことは絶対ありえないが)1万8000人にしかならない。
(小森 恵)
※本の紹介
金子マーティン著『神戸・ユダヤ人難民1940-1941 「修正」される戦時下日本の猶太人対策』みずのわ出版、2003年12月
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親ユダヤ派の松岡洋右が、杉原千畝の電報を受けた時は、外務大臣としてナチスドイツとの三国同盟交渉中でった。
当時の外務省の、多数派は反ユダヤ親ドイツ派の革新官僚(隠れマルクス主義者、転向共産主義者)で、親アメリカ派と親イギリス派は少数派であった。
松岡洋右は、訓令違反で発行された杉原ビザを持ったポーランド・ユダヤ人難民の入国拒否しなかった。
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東条英機・松岡洋右・樋口季一郎ら満州シンジケートは、ナチス・ドイツとソ連から逃げてきたユダヤ人難民達を助けていた。
満州シンジケートは、私人として親ユダヤ派であり、公人としては親ドイツ派であった。
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右翼・右派は、人種差別主義者として反ユダヤ親ドイツ派であり、ナチス・ドイツの行っていたユダヤ人虐殺に協力していた。
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天皇主義者・民族主義者は、反差別主義者で親ユダヤ派であった。
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昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
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真★日本人の日本史 日本人列伝
松岡洋右と関連人物のエピソード
松岡洋右は山口県光市で廻船問屋を営む富裕な商家の四男に生れたが、父の松岡三十郎が事業に失敗し破産したため一家は困窮した。13歳の松岡洋右はアメリカで事業を営む親戚を頼って渡米し、苦学してオレゴン大学法学部に入学した。生活苦と人種差別に苦しむ松岡洋右は同地でキリスト教メソジスト派の洗礼を受けたといい、後年渡米すると自分はキリスト教徒であると放言しウケを狙った。7年に及んだ米国体験は松岡洋右を鍛え、「アメリカ人には、たとえ脅されたとしても、自分が正しい場合は道を譲ってはならない。対等の立場を欲するものは、対等の立場で臨まなければならない。力に力で対抗する事によってはじめて真の親友となれる」という正論ながら偏狭な欧米観と攻撃性を育んだ。
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松岡洋右とユダヤ人
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石叫■「松岡洋右とユダヤ人」
神戸を訪れた最初のユダヤ人は貿易商人たちであり、日本が世界に門戸を開いた1862年以降だと云われている。
19世紀末頃から神戸はユダヤ人の宗教的な拠りどころとして親しまれてきた。
第二次大戦前に神戸には二つの会堂があって、それぞれ「アシュケナズ」と云われたポーランドやロシアからのグループと、
「セファルディ」と云われたイランやイラク、南フランスやスペインからのグループが、それぞれ使用していた。
その神戸に一九四〇年と四一年に大挙してユダヤ人が訪れたことがあった。ナチのホロコーストを逃れてきた人々であった。
その頃の日本はドイツと同盟を結んではいたが、あえて彼らを日本の高官たちが助けることにしたのだった。
それは当時、満州を支配していた日本として、ユダヤ人らを助けることが世界に良い影響を及ぼすと考えたからであり、
それに彼らのもつ経済的影響力、特にドイツ在住のユダヤ人の持つ科学的知識が、日本の軍事力の助けにもなると考えたからに他ならない。
一方、松岡洋右外務大臣の許可を得て、ユダヤ人研究家だったコツジ・セツゾー博士らはユダヤ人が神戸に滞在できるように働きかけたのだった。
彼は神戸警察署に願い出て、ユダヤ人保護を取り付け、彼らの移住先が決まるまで滞在出来るように東奔西走したのだった。
リトアニアの杉原千畝領事によって六千人のユダヤ人が救われたが、シベリヤ経由で神戸に着いた彼らは、出国先が決まるまで神戸に滞在できたのだった。
もちろん、神戸のホーリネス教会も彼らを訪問し、彼らのために祈り支えたのだったが、中田重治日本ホーリネス教団監督はユダヤ人の救いのために
絶えず諸教会を励ましてきたのだった。杉原領事の件に関しては、アメリカ留学中にクリスチャンになった松岡が黙認していたのではないかと云われているが、
コツジ博士の場合もクリスチャンとしての立場からユダヤ人を助けたのではあるまいか。ユダヤ人を助けるといのは、本来ならばドイツからはもちろんのこと、
日本の在野からもわんさか言われる状況だが、松岡はそれを重々覚悟の上で許可を出してくれたに違いない。
聖書に「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12・15)と命じるが、松岡の心にユダヤ人を助けようとの思いがあったのは、
何よりも彼自身の中に主イエスとの生ける命の関係があったからではあるまいか。実に信仰を持つというのは幸いである。
サンフランシスコ在住のユダヤ人が、先年、神戸大地震の時に真っ先に義捐金を送られたというのも、むべなるかなである。
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歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義やマルクス主義に染まっていった。
江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
マルクス主義・共産主義の階級闘争史観やキリスト教の最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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2023年6月9日 YAHOO!JAPANニュース ブックマーク「「満蒙は日本の生命線」発言の松岡洋右は、本当に帝国主義のイデオローグだったのか
松岡洋右 (出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」〈https://www.ndl.go.jp/portrait/〉)(他の写真を見る)
「満州は日本の生命線」と主張し、国際連盟からの脱退を宣言、日独伊三国同盟を推進した松岡洋右(ようすけ)といえば、日本を戦争に引きずり込んだ帝国主義のイデオローグという評価が一般的だろう。
速報「佳子さま専用通路を造る必要も…」 総額44億円超から「さらに増額」が明らかになった宮邸工事の裏側
しかし、学習院大学教授の井上寿一氏は、近著(共著)『日本の戦争はいかに始まったか―連続講義 日清日露から対米戦まで―』(新潮選書)の「第三章 満州事変はなぜ起きたのか」で、松岡は必ずしも軍事力による大陸進出を目指してはいなかったと論じている。以下、同書から一部を再編集してお届けしよう。
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当初から朝鮮支配を意図し、計画的に大陸中国を侵略して、軍部の無謀な暴走の末に対米戦が不可避となった、というのは本当か? 日清・日露戦争から第1次大戦、満州・支那事変を経て、先の戦争に至るまで、当事者たちがどんな決断を下したのか、それぞれの開戦過程を各分野の第一人者が実証的に語る「近現代史」連続講義。大日本帝国80年の軌跡を、8人の碩学の最新研究で学び直す!
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困窮する「満蒙」居留民
なぜ1931年の満州事変は起きたのでしょうか。
じつは満州事変が起こる前年に結ばれた日華関税協定は、日中外交関係の修復の頂点でもありました。すなわち山東出兵や張作霖爆殺事件で悪化した日中関係は、1930年の日華関税協定によって修復の頂点に達したのです。
しかしながら、この関税協定の実質は、「満蒙」における日本人の商工業者を切り捨てて、中国本土との自由貿易による相互利益の拡大をめざしたもので、民政党内閣の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外相はそのことをはっきり言っています。「満蒙」ではなく、「中国本土」と。民政党の中国政策の基本は、「満蒙」ではなくて、中国本土との通商貿易関係の拡大です。日華関税協定はこの文脈で成立したのです。
当時、「満蒙」の日本人居留民は、見捨てられる危機に陥っておりました。1931年初頭の「満蒙」は、つぎのような状況でした。「今日では支那官憲から顛覆(てんぷく)されあまつさえ敵人扱を受け、日本内地人からは産業上の差別待遇を受け、帰るに家なく、働くに商売もなく、今は只鰻の寝床の如き満鉄附属地及関東州で自己の貯金を寝食して居る次第である」。
このように「満蒙」における日本人居留民は、中国側の官憲からは敵国人扱いされ、日本の内地の人からは差別待遇を受け、非常に貧しい生活を送っていました。鰻の寝床のような満鉄附属地と関東州、そこで貯金を崩しながら生活しているのが「満蒙」の日本人居留民だったのです。
冷淡な民政党内閣の幣原外相
幣原喜重郎。困窮する「満蒙」の日本人居留民に対して非常に冷淡だった (出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」〈https://www.ndl.go.jp/portrait/〉)(他の写真を見る)
困窮する「満蒙」の日本人居留民に対して、幣原外相は非常に冷淡でした。この年3月の貴族院で幣原外相は、つぎのように言っています。「在満同胞は徒(いたず)らに支那人に優越感を以て臨み、且つ政府に対し依頼心を有する事が、満蒙不振の原因である」。「満蒙」が不振に陥っているのは、在満日本人居留民が中国人に対して優越感をもって臨みながら、日本政府に対しては依頼心が強いからである、もっと自立しろと。中国人に対する優越感、差別意識をなくして、政府に頼ることなく自分で頑張れと、そういう言い方をして「満蒙」を切り捨てようとしていたのです。
このような状況において、この年6月に中村震太郎大尉事件(満州奥地の興安嶺〈こうあんれい〉方面を調査中の陸軍参謀本部部員が同行者とともに中国人に殺害された事件)が起きます。この事件は満州事変のきっかけだと指摘されることがあります。実際にはこの事件が起きても日中双方で事件の早期収拾に努めて、中国の排日ボイコット運動も鎮静化しています。
現地の日本の在外公館の報告によりますと、9月上旬の中国の排日ボイコット運動の状況は「一般輿論(よろん)殆ど鎮静に帰したる今日是以上活動の余地なかるべし」と、このようになっています。
中国の世論は鎮静化したので、これ以上、排日ボイコット運動が活発になることはないだろうと報告しているのです。
「満蒙は日本の生命線である」演説
このように満州事変が起きた年は、「満蒙」の日本人居留民が見捨てられる危機に陥っていました。本国政府は中国本土との通商貿易関係の拡大を重視していました。以上が9月(柳条湖〈りゅうじょうこ〉事件が勃発する月)上旬の状況でした。
同じ年の初頭、1月の議会において、松岡洋右が有名な演説(「満蒙は日本の生命線である」)をしています。「生命線」は当時の流行語になって、何にでも「生命線」と使われるようになりました。たとえば龍角散の宣伝で「のどはからだの生命線」のようにです。「龍角散で喉の痛みを止めないと──そこが生命線なんだ」というように、流行語として使われる、それほど「満蒙は日本の生命線」というキャッチフレーズは、日本国内で急速に広がっていきました。
赤字だった満鉄経営
満鉄総裁や「満蒙」開発を重視する政友会の議員の経歴から、松岡は軍部に近い人で満州事変を引き起こす側の人なのではないか、と誤解されがちです。しかし、松岡はそのような人物ではありませんでした。
松岡の「生命線」演説は、見捨てられる「満蒙」の日本人居留民を代弁しています。このままでは日本の本国から「満蒙」は見捨てられる、そのような危機感を持って、「満蒙」は日本の生命線なのだから守らなくてはならないと訴えたのです。
「満蒙」は日露戦争で血を流して獲得したものでした。しかし25年も経つと人の記憶は薄れていきます。また「満蒙」によってどれほど日本経済が潤ったのか疑問でした。満鉄経営は赤字でした。猫の額ほどの旅順・大連、鰻の寝床ほどの満鉄とその附属地、そのような「満蒙」権益しかありませんでした。それと中国大陸全体、マーケットとしての中国大陸全体とを比較すれば、どちらが大事かは分かるだろうと。
「満蒙」に執着して、中国本土との関係が悪くなるよりは、「満蒙」のことは後回しで、広大な中国本土をめぐる通商貿易関係の拡大を優先する、そのような日本の国内状況に対して、「満蒙」を忘れるな、というのが「生命線」演説だったのです。
軍事解決に反対する松岡洋右
松岡は危機感を訴えるだけではなく、現実的なことも言っています。すなわちあくまでも外交交渉によって「満蒙」特殊権益をめぐる日中間の問題を解決し、経済的アプローチが重要だと強調しているのです。
松岡は自著のなかで、日中「提携」による「満蒙」の経済開発によって、日中両国に利益が得られるようにしたい旨を述べています。この本のあとがきを書いたのが柳条湖事件の起きた翌日の9月19日でした。松岡はあとがきに「外交は完全に破産した。……砲火剣光の下に外交はない、東亜の大局を繋ぐ力もない。やんぬるかな」と記しています。外交交渉でやらなければいけないのに、軍事力を行使してしまったのではおしまいだ。自分の考えていたことは満州事変の勃発によってだめになった。そのように言っているのです。
当初から朝鮮支配を意図し、計画的に大陸中国を侵略して、軍部の無謀な暴走の末に対米戦が不可避となった、というのは本当か? 日清・日露戦争から第1次大戦、満州・支那事変を経て、先の戦争に至るまで、当事者たちがどんな決断を下したのか、それぞれの開戦過程を各分野の第一人者が実証的に語る「近現代史」連続講義。大日本帝国80年の軌跡を、8人の碩学の最新研究で学び直す!
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松岡は、歴史年表で確認すると、「生命線」演説、国際連盟脱退、日ソ中立条約締結というように、協調外交ではなく、自主外交・武断外交の人に見えます。ところが実際は、軍事力によって解決することに反対しているのです。
※波多野澄雄・戸部良一編著『日本の戦争はいかに始まったか―連続講義 日清日露から対米戦まで―』(新潮選書)から一部を再編集。
デイリー新潮編集部
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大阪同和・人権問題企業連絡会
ユダヤの人びとに寄り添って生きた 小辻 節三 その1 |わたしの歴史人物探訪
はじめに
小辻節三の生涯探訪の執筆を依頼されたとき、途方に暮れた。その名前さえ知らなかったのだから。
そして「彼について書かれた書籍が一冊あります」と教えられ、早速求めた。
『命のビザを繋いだ男・小辻節三とユダヤ難民』と題され、筆者は、米国に長く留学され、俳優として活躍されている山田純大さんだ。この一文に接されて興味をお持ちの方には、一読をお奨めする。驚かれるとともに、心温まられようから。
というわけで、今回はこの書からの受け売りの紹介であることを、ご了解願いたい。
1940年、リトアニアの日本領事館前に、日本へのビザを求めて詰めかけた大勢のポーランドからのユダヤ難民。領事代理の杉原千畝は、本国の指示に従わず、自らの良心に従ってビザを発行し始めた。その作業は、退去命令期限のぎりぎりまで続けられた。この顛末については良く知られている。
が、彼が与えることができたのは、滞在が10日間ほどの日本通過ビザでしかなかった。それを入手した6,000人からの難民は、その後、どうして、どうなったのだろう。この疑問に答えてくれるのが、小辻節三だ。
彼の話に移る前、もう一人紹介しておこう。ソ連官憲の厳しい取り調べを受けながらも、シベリア鉄道での長旅を経て、港町、ウラジオストックに降り立った彼らについて、外務省は現地の領事館に、日本への乗船を許可しないよう通達した。
総領事代理だった根井三郎もまた、心優しい、気骨の持ち主だった。「帝国の公館が発給したビザには日本の威信がかかっている。これを無効にすれば日本は国際的信頼を失うこととなる。よって指示には従わない」とはねつけ、全員を日本へと向わせたのだ。
小辻 節三の生い立ち
京都、賀茂神社の神官の家に、五人兄妹の末っ子に生まれた彼は、武士道を規範としながら成長したが、13歳の折、明治天皇の崩御に続き、乃木将軍夫妻が自決した事件に衝撃を受けた。
人間の生きる意味とは…。思い悩む少年、小辻が古本屋で出会ったのは「聖書」だった。父の反対を押し切り、奨学金を得て東京の明治学院大学神学部に進んだ。成績優秀で卒業した彼だが、就職先はキリスト教会しかなく、旭川で主任牧師となった。しかし、この頃、小辻はキリスト教に違和感を持つようになっていた。自分の深い部分にある疑問に「新約聖書」は答えを指し示してくれそうもないと。
24歳で、日高の大牧場の娘、美禰子と恋に落ちて結婚し、岐阜の教会へ移り、幸せな新婚生活を送る彼だが「旧約聖書」を学びたいという欲求は抑え難かった。全財産を処分し、家族3人、米国に渡った小辻は苦労をしながらも、温かく迎えられた。4年間、ユダヤ教とヘブライ語を学んだ彼は、パシフィック宗教大学から博士号を贈られ、1931年に帰国した。
娘3人に恵まれ、青山学院の教壇に立つことのできた小辻だが、不幸がやってくる。長女を病で失い、自らは伝染病におかされて失職し、妻も患い、困難が次々に襲った。やっと立ち上げた「聖書原典研究所」の教室も、宗教関係者たちからの嫌がらせで、3年ほどで閉鎖せざるを得なかった。
満州へ
聖書研究に没頭する学者、小辻のところに、南満州鉄道の総裁、松岡洋右から、助言者として働いて欲しいと、依頼が舞い込んだのは1938年。通称「満鉄」は単なる鉄道会社でなく、国策会社としておおよそ満州における主要な施設のすべてを管轄していた。
当時、満州にはソ連から、欧州から、差別に抗しきれず逃れてきたユダヤ人が、多く居住していて、ひとつの社会を構成していた。関東軍、満鉄の首脳が「河豚作戦」と名付けた計画の目的は、彼らの欲するものを調査し、その生活を安定させることによって、アメリカ在住のユダヤ人からの出資を誘導することと、高まる一方のアメリカとの緊張を緩和させることにあった。
しかし、接近しつつある、ユダヤ人を弾圧するナチスドイツとの確執も予想され、河豚のように、美味と毒とが同居するものだった。緊張高まるソ連を牽制する必要にも迫られる関東軍や松岡たちにとって、満州、上海に居住するユダヤ人たちへの扱いは、配慮すべきものだったのだ。
小辻は、ユダヤの人びとと深く交わって、ナチスの激しい迫害の実態を知ることとなった。2年間の満州生活は、彼の心をユダヤの人びとに強く寄り添わせたといってよかろう。ユダヤ人を取り込みたい関東軍と、自治確立をめざすユダヤ人の首脳たちの会合で、小辻は挨拶した。見事なヘブライ語とその内容に、ユダヤ人聴衆全員が立ち上がり、拍手喝采を送ったという。祖国を追われ、満州に不安な日々を送る彼らに同情し、尊敬と友情の気持ちを込めて励まし、勇気づける演説で、彼らの心の奥深くにしみ込んだのだ。
日本に押し寄せたユダヤ難民
「河豚作戦」をよそに、中国との対立は泥沼化して、松岡は総裁を辞し、小辻もやがて帰国した。彼は後に「私はそのとき、自分の中にユダヤの精神が宿っていることに気付いた。私の人生において、それはまるで何かを予言しているかのようだった」と述べている。
満鉄からの多額の退職金もあり、鎌倉に居を移した小辻一家は短い、静かな時を過ごしていた。
が、1940年7月杉原から「命のビザ」を受け取ったユダヤの人びとが、日本にやってきた。敦賀に上陸した彼らに、街の人びとは優しかった。身体の汚れきった彼らに、銭湯の主人は営業を休んで浴場を開放した。船上で出産した母児の命を医者と看護師が守った。食事を差出し、宿泊を世話した。ここは、古くから大陸との玄関口で、明治以降は西洋人も多く行き来はしていたが、それにしても心温まる話だ。
「人道の港 敦賀ムゼウム」外観
「決死の覚悟」の展示パネル
ユダヤ人たちの多くは「関西ユダヤ教団」のある神戸へと向かったが、50世帯ほどの小さな其処では、満足にすべてを受け入れられはしなかった。加えて、何よりも彼らを恐れさせたのは、ビザの有効期間の短さだった。行政に掛け合っても延長の願いは叶わず、窮したとき、誰かが、満州で感動的な演説を行った日本人、小辻に思い当たった。
報せを受けた彼は、即座に動いた。ビザの延長以外にも問題は山積していた。乗船はできたものの、ビザを持たないため、上陸のできないユダヤ人が72人も敦賀、ウラジオストック間を漂っていた。概ね好意的な神戸市民だったが、街中に溢れたユダヤ人たちとのいざこざへの対応にも小辻は追われた。
外務省で彼はたらいまわしに会いながらも、何とか洋上の彼らを上陸させることはできたが、ビザの延長には頑として応ぜられないというばかりか、働きかけそのものが、まかりならぬと脅しをかけられた。
思い余った彼は、ついに外務大臣、松岡洋右のところに飛び込んだ。率直に助けを求める小辻だが、松岡の立場も難しいものだった。軍部は圧倒的な力をもって政治家を動かしていたし、その意向を無視することはできなかったから。私人として外に出た松岡は、唯一の方策を小辻に与えた。「ビザの延長の権限は神戸の自治体にある。そこが行うことに、基本的に政府は関与しない。自治体を動かすことができるなら、外務省はそのことに見て見ぬふりをしよう。それは、友人として約束する」と。当時「入国管理局」は無く、実際にビザを扱うのは地方の警察署だった。
が、どう考えても正面からの交渉では取り合ってもらえまい。と、すれば金がものをいいそうだが、まずはその金を拵(こしら)えねばならない。資産家の事業主である姉の夫を訪ねた小辻は「友達が私の助けを必要としています。これは私のためでなく、人の命のためなのです」とありのままを打ち明け、用立てを求めた。義兄は翌日、現在にして4,800万円ほどの現金を差出し「これは人間の命のために私が使う金だ」と言ったというから、彼は、よほど人に恵まれていた。
宗教家としての倫理観から、小辻は賄賂を贈ろうとはしなかった。「ユダヤ人問題に関心のある者として、警察幹部の方々とゆっくり話がしたい」と持ちかけ、神戸随一の料亭の、豪華な会食で彼らをもてなした。
3度目に小辻は、切々とユダヤ難民の窮状を訴え、日本滞在の延長を許可して欲しいと頭を下げた。打ち解けていた彼らは快諾した。1回の申請につき15日ずつ延長しようと。
(次回に続く)
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