⚔8)─1─日本民族の歴史とは、庶民の歴史であり稲と銭の歴史であった。〜No.31 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 同じ日本人でも、現代の市民と昔の庶民は違う。
 日本の庶民は、中国・朝鮮や欧米など世界の搾取される人民や虐待を受ける民草でもなく、権利を主張し対等・平等を求める大衆や民衆でもなく、辺境の田舎に住むムラ人であった。
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 日本列島各地にある数多くの伝統的祭りは、庶民の宗教的祭りであって領主・実力者・権力者・支配者・征服者を楽しませる豪華絢爛なイベントではなかった。
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 トライイット
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 中学歴史
 身分別の人口の割合 幕末のごろ
 総人口約3,200万人
 百姓が全体の85% たった7%の武士はどうやって支配する?
 江戸時代における、 身分別の人口の割合 が示されています。
 一番多いのが 百姓 (農民)で、人口の85%を占めていますね。
 その次に多いのが7%の 武士 です。
 3番目に多いのが5%の 町人 ですね。
 町人には2種類あり、 工業の担い手である工人と商業の担い手である商人 に分かれていました。
 そのほかには、えた・ひにんといった被差別階級の人々1.5%
 公家・神官・僧侶、その他1.5%。
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 江戸時代は庶民の時代で、武士道は社会の片隅であった。
 庶民が信奉したのは、御天道様(女性神)であり天皇であった。
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 2023年7月9日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「日本」とは一体なんだろう…政治家や権力者など「大きな歴史」が切り捨ててきたもの
 「宮本常一民俗学は、私たちの生活が『大きな歴史』に絡みとられようとしている現在、見直されるべき重要な仕事」だという民俗学者の畑中章宏氏による『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』が話題となっている。
 【写真】女性の「エロ話」は何を意味しているか? 日本人が知らない真実
 『忘れられた日本人』で知られる民俗学者宮本常一とは何者だったのか。その民俗学の底流にある「思想」とは? 
 なぜ「庶民の歴史」なのか?
 全国すみずみまで歩いて、多くの人びとから話を聞いた宮本常一
 なぜ、庶民の歴史を構想するようになったのだろうか。
 〈歴史に名前を残さないで消えていった人びと、共同体を通り過ぎていった人びとの存在も含めて歴史を描き出しえないものかというのが、宮本の目標とするところだった。
 また「進歩」という名のもとに、私たちは多くのものを切り捨ててきたのではないかという思いから歴史を叙述することを試みた。〉(『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』より)
 「大きな歴史」から零れ落ちたり、それが切り捨ててきたものがある。
 宮本は、「小さな歴史」の束から、世間や民主主義、多様な価値、さらには「日本」という国のかたちをも問いなおしたのだった。
 「共同体の民俗学」から「公共性の民俗学」へ
 では、宮本常一の思想とは、具体的にどのようなものだろうか――。
 『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』では、「『共同体の民俗学』から開かれた『公共性の民俗学』へという意志と思想が潜在しているのではないか」と指摘されている。
 〈宮本は庶民の歴史を探求するなかで、村落共同体が決して共同性に囚われてきただけではなく、「世間」という外側と絶えず行き来し流動的な生活文化をつくってきたことも明らかにする。そしてそれは、公共性への道が開かれていたと解釈することができるのだ。
 また近代を基準にみたとき、さまざまな面で遅れているとされてきた共同体の生活、あるいは慣習のなかに、民主主義的な取り決めをはじめ、民俗的な合理性があったことも裏づける。〉(『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』より)
 〈宮本常一民俗学には閉ざされた「共同体の民俗学」から開かれた「公共性の民俗学」へという意志と思想が潜在しているのではないか。成員を統合する価値だけで結びつくのではなく、絶えず外側から価値を導入し、変化していくのだ。
 また主流に対する傍流を重視すること、つまりオルタナティブの側に立って学問を推し進めていったことも特筆すべきであろう。〉(『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』より)
 つづく「日本全国「80歳以上の老人たち」の話が教えてくれたこと…幕末生まれと明治生まれの人の「決定的な差」」では、宮本のフィールドワークの手法にはどのような特色があったのか、それは彼のどんな体験から編み出されたものだったのか、「よい老人」とは誰か、などについて掘り下げている。
 現代新書編集部
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 8月12日20:02 YAHOO!JAPANニュース ダイヤモンド・オンライン「【マンガで学ぶ】「お金は汚い」日本人の洗脳を解除せよ!元日経新聞記者が力説する理由
 『インベスターZ』(c)三田紀房/コルク
 三田紀房の投資マンガ『インベスターZ』を題材に、経済コラムニストで元日経新聞編集委員の高井宏章が経済の仕組みをイチから解説する連載コラム「インベスターZで学ぶ経済教室」。第5回は、日本人が抱きがちな「お金は汚い」という固定観念を解体していく。
 【マンガで学ぶ】「禁じ手」に手を出した大国…5分でわかるお金の歴史
● 「洗脳解除」に必要なもの
 投資部の初代主将が遺した格言集の冒頭には「金ハ人ナリ 人ハ金ナリ」とあった。主人公・財前孝史はその言葉を手掛かりに思考を深め、貨幣によって物々交換から脱却した人類が交易・分業を進め、「食べること以外を考える」時間と豊かさを手に入れたと気づく。そして次の格言「金ノ聲(こえ)ヲ聞ケ」は、お金の本質にまで財前の視野を広げる。
 1銘柄にいきなり30億円を投じる財前の鮮烈な投資デビューから始まった『インベスターZ』は、投資から離れて、一見まだるっこしい「お金とは何か」というテーマを深掘りしていく。このあたり、読み飛ばし気味に進んでしまう読者もいるかもしれない。
 だが、ここは日本人の多くにとって、「洗脳解除」のために重要かつ不可欠なパートだ。洗脳とはすなわち「お金は汚い」という金銭忌避の価値観。前回の当コラムで書いたように、経済や金融を軽視して「たかがお金」と冷めた目を向ける傾向はなお根強い。
 マンガではやや駆け足になっているので、当コラムで「補講」を試みる。
 財前より1学年上の月浜蓮は「金ノ聲(こえ)ヲ聞ケ」という格言を、「お金は言葉…」「コミュニケーションなんだ」と読み解く。
 言語との類似性は貨幣論では一般的な視点だ。
 言語は、事象を切り取って意味を定義し、他者とコミュニケーションできる「枠組み」を生み出す。たとえば「投資」という言葉がなければ、「それ」を誰かと語り合うことは難しい。
 一方、貨幣は意味ではなく事象の価値を定義して、交換可能な形に変換する。お札や硬貨といった物体そのものよりも、「お金に換算するといくらか」という情報とそれを媒介する手段が貨幣の本質だ。銀行口座への給与振り込み、クレジットカードや電子マネーを使った支払いを考えれば、その本質はスッと頭に入ってくるだろう。
● 金銭忌避と金銭崇拝の合間に
 付け加えるなら、言語も、貨幣も、「こぼれ落ちてしまうもの」があるのを承知でコミュニケーションを優先する点も似ている。世界には、言葉で言い表せないもの、お金には換算できないものがあるのを、我々は知っている。それでも、誰かとつながるためには、「近似するメディア」が必要なのだ。
 言語・貨幣があるから、我々は目の前にいる人だけでなく、遠く離れた誰かともコミュニケーションが取れる。為替市場の役割は、多言語間を橋渡しする翻訳・通訳に近い。刻一刻と動き、一義的に決まる為替レートの方が齟齬は小さく、言語よりコミュニケーションは円滑だ。
 だから、言葉が全く通じない国に旅行しても買い物は簡単にできる。値引き交渉が必要な国だと、言語と貨幣だけでなく、ボディランゲージも駆使する羽目になるが……。
 よく似たメディアであり、人間社会を形作るうえで欠かせない役割を果たす言語と貨幣。だが、両者の「社会的地位」には雲泥の差がある。貨幣は時に卑しいものとされ、酷いと諸悪の根源のように扱われる。その背景には、言語より歴史が浅くて使い慣れない、それでいて使い方次第で抜群の破壊力を持つお金への畏れがあるのだろう。
 拙著『おカネの教室』で伝えたかった大きなメッセージのひとつは「お金は汚くない」だった。作中で講師役の元投資銀行マン「カイシュウさん」はこう語る。
 「ワタクシは、お金というものは、人間が互いに支え合わないと生きていけない存在であるが故にうまれた、知恵の結晶だと思います」
 金銭忌避と金銭崇拝の間のどこかに、バランスの取れた金銭観はある。
 さて、投資部の部員たちの貨幣を巡る対話は、「洗脳解除」にとどまらず、フィアット・マネー(不換通貨)という貨幣の大転換までつながっていくようだ。月浜から教育係をバトンタッチした副主将・渡辺信隆は、貨幣の歴史を振り返った後、トレードマークの木刀を振りかざして大見得切る。
 「人類は架空の富を築く歴史の幕を開けてしまったのだ!」
 高井宏章
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 2023年6月8日 「貧乏だがよく働き、隣人を信じる…「大きな歴史」からは見えなかった「日本人の生活実態」
 畑中 章宏作家
 民俗学者プロフィール
 「宮本常一民俗学は、私たちの生活が『大きな歴史』に絡みとられようとしている現在、見直されるべき重要な仕事」だという民俗学者の畑中章宏氏による『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』が刊行された。
 「庶民のわたしが、庶民の立場から、庶民の歴史を書いてみたい」――なぜ宮本は、名もなき人びとの生活、その姿を残したのか?
 ※本記事は畑中章宏『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』から抜粋・編集したものです。
 「庶民」不在の歴史
 宮本は1957年(昭和32)に「庶民のわたしが、庶民の立場から、庶民の歴史を書いてみたい」と構想を述べている(『風土記日本』第二巻『中国・四国篇』月報「庶民の風土記を」)。
 また、近年の「歴史」叙述において、庶民はいつも支配者から搾取され、貧困で惨めで、反抗をくりかえしているように力説されていることに疑問を感じていたという。
 「孜々営々として働き、その爪跡は文字にのこさなくても、集落に、耕地に、港に、樹木に、道に、そのほかあらゆるものにきざみつけられている」
 村人の大半はつつましく健全に暮らしを歩んでいる。そういう人びとが農民の大半だとすると、その人たちの生きてきた姿を明らかにしておくべきではないか。
 その人びとは戦争が嫌いで、仕事の虫のように働き、貧乏ではあったが、生き抜く力をもち、隣人を信じ、人の邪魔をしてこなかった。一般大衆は声を立てたがらないからといって、彼らが平穏無事だったわけではなかった。
 宮本民俗学の重要な仕事は、こうした歴史を残しておくことだった。
 「郷土研究」としての民俗学
 宮本は、「日本民俗学の目的と方法」(1968年著作集版)で柳田国男以来の民俗学は「郷土人の意識感覚」をとおして物を見ることだったと総括的に叙述する。こうした総括は、柳田が民俗学をその初期に「郷土研究」と捉えていたことから導き出される。
 「(郷土研究というのは)郷土を研究しようとしたのでなく、郷土であるものを研究しようとしていたのであった。その『あるもの』とは何であるかと言えば、日本人の生活、ことにこの民族の一団としての過去の経歴であった。それを各自の郷土において、もしくは郷土人の意識感覚を透して、新たに学び識ろうとするのが我々どもの計画であった」(柳田国男国史民俗学』)
 それでは「郷土人の意識感覚」とはどういうものなのか。
 民衆(常民)の生活を知るためには民衆と同じ立場に立たなければならない、同じ立場に立つことによってのみ、その真意をつかみ得るというものである。柳田がこのような発想と発言をしたことには、深い意味があったと宮本は考える。
 これまでの支配者、とくに武士階級には、文字を解しない農民や漁民は、人倫もわきまえていない「愚昧の民」として映っていた。そして現在世に出ている歴史書の多くも、支配者たちの記録文献にもとづいて書かれたもので、民衆はほんの一隅に現われてくるにすぎない。
 戦後になって、庶民史料の蒐集研究が進み、民衆の歴史も明らかにされてきたが、その歴史の多くは支配者への抵抗のかたちで捉えられている。農民や漁民が貧しい生活を余儀なくされた姿が、そこに記録された農民の訴えや、数字のなかから読み取れるからである。
 しかしそれだけでは、農民・漁民が生きていくための日々の「生活感情」を明らかにすることはできない。農民・漁民の生活のなかに入りこみ、同じような感覚をもち、その生活を一度は肯定してみないとわかってこないのだ。
 民衆は支配者から搾りとられる生活を続けながら、絶望していたわけでも、暗く卑屈に生きてきたわけでもない。互いにいたわりあい、自分たちの世界を形づくる、相互扶助による共同体と個人の持続的な営みだった。そういう民衆の生活はそのなかへ入ってみなければわからない。
 柳田が「郷土であるものを」といったのは、正しくは「郷土人の感覚であるものを」ということである。そしてそのことによってだけ、民衆の生活を明らかにすることができるのではないかと宮本は考えたのだった。
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 ANA
 「お祭り」って何?
 日本人は何故お祭りに情熱を燃やすのか?その理由と祭りの種類を知って、日本を深く感じよう!
 地域、四季それぞれに魅力の溢れる日本。日本人は「八百万(やおよろず)の神」と言って、すべてに神が宿ると信じてきました。自然と神様に感謝し、生きることを喜び、コミュニティを育てるために行ってきたのが日本のお祭りです。
 普段はまじめで勤勉なイメージの日本人がエネルギーを爆発させる機会でもあります。 なぜ日本人がそんなにお祭りが好きなのか。まずは一般的な祭りをカテゴリーに分け、特徴を見ていきましょう。
 お祭りを知ることは、日本を知ること。普段見られない歴史に触れたり、地域の人と関わったり、新たな一面を見ることができます。お祭りのときは人々もとてもオープンで、その時にしかできない交流もできます。
 ぜひ、いろいろなお祭りに行って、日本のエネルギーを感じてください。
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 ニッポン放送
 “まつり”にまつわる漢字の意味と日本の歴史
 By - NEWS ONLINE 編集部
 公開:2017-10-20 更新:2021-02-01
 日本で一番最初のお祭りは606年、推古天皇の時代に飛鳥寺での第1回灌仏会ではないかといわれています。お釈迦さまの誕生日をお祝いする行事でした。
 「祭り」とは感謝や祈り、慰霊のために神仏、祖先をまつる儀式のこと。けれど私たちが浴衣を着たり露店でたこ焼きを食べたくて行くお祭りはそうした信仰の意味はなく、“ちょっと特別なイベント”ですよね。そこで今回は“まつり”を表す4つの言葉をご紹介します。
 “まつり”にまつわる漢字の意味と日本の歴史
 日本語で“まつり”を表すと「祀り」「祭り」「奉り」「政り」があります。
 「祀り」
 本来まつりはこの言葉を用い、神や尊(みこと)を祀ることやその儀式を指す言葉でした。神社神道のもので祈祷などがそれに当たります。
 「祭り」
 魂や霊などを鎮めるもの、つまり慰霊で、そもそもは葬儀のことでした。お盆がこれにあたります。
 「奉り」
 日本神話の人格神に献上すること。はるか昔から漁師や猟師は獲物の一部を神々の取り分として海や山に還しました。今でも日本各地域のおまつりにその儀式は根ざしています。
 「政り」
 日本は卑弥呼のいた古代から祭祀を司る者と政治を司る者は同じで、この2つのまつりがひとつである祭政一致であったといわれています。今でも政治のことを「まつりごと」といいますよね。
 どれも古神道から来ている言葉や習わしです。日本はとても歴史のある国で、言葉ひとつをとってもいろんな意味があるなんて、神秘的ですね。
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 旅探
 日本の祭り・花火大会
 祭り情報
 日本の祭りの歴史と変遷
 旅探たびたん日本の祭り・花火大会検索日本の祭りの歴史と変遷Increase Text SizeIncrease Text SizeDecrease Text Size
 全国の日本の祭り・日本の花火大会
 日本では古来より現在まで、祭りは人々に欠かせないものとして続けられてきましたが、その由緒ある祭りも人と同様、変化や危機を迎えながら今まで生きてきています。
 神話時代の祭り
 日本の歴史の中で一番初めに行なわれた祭りはなんだったのか。日本神話の中には古来の祭りの形を彷彿とさせる描写が存在します。それが天照大御神(通称:アマテラス)と建速須佐之男命(通称:スサノオ)、そしてアメノウズメら神々による有名な「岩戸隠れ」のエピソードです。
 太陽神であるアマテラスが弟であるスサノオの傍若無人な振る舞いに怒り、天の岩戸の中に隠れ引きこもってしまった。太陽神である彼女が隠れてしまったため国中から光りが消えてしまい、これに困った八百万の神々はなんとか彼女に出てきてもらおうと策をこらすことにした。彼らは岩の中のアマテラスの気を引こうと、鳥を鳴かせたり、鏡や勾玉を捧げたり、祝詞を読み上げたりといった宴を行ない騒ぎ立てたが、中々彼女は出て来ない。そこでアメノウズメという女神が自らの裸をさらけだすほどに激しく舞を踊ったところ、他の神々は大いに笑い盛り上がった。するとその大騒ぎが気になったアマテラスはついに岩戸の中から顔を出し、世界には再び光が戻った。
 このエピソードの中で神々がアマテラスに岩戸から出てきてもらうために行なった宴は、人間たちが神様をもてなすためにしている祭りの形式そのものです。またアメノウズメの踊りは神様を呼ぶための踊り、つまり神楽の原点でもあります。祭りとは神様を自分たちのところに呼ぶためのもの、そういった意味ではこの神話は日本の祭りの「原型」といえるのではないでしょうか。
 庶民に広まっていった祭り
 農民たちの願いや民間信仰のために行なわれるもの、祭政一致の古代社会において宮中に祖先の霊を呼び起こしご神託を得るための政(まつりごと)として行なわれたもの、日本各地ではさまざまな形態の祭りが古代より行なわれていました。その中には神楽や囃子といった神様を喜ばせるための芸能も含まれていましたが、後に演目や芸能の形式も多様化し、祭りの細分化に一役買うこととなりました。ただでさえ多様であったところに、6世紀以降は仏教伝来、神仏習合を経て神社が神様だけでなく仏様も祀るもの、という在り方になるとともに、祭りもまたさまざまな意味を持つようになりました。
 江戸時代になると祭りはすっかり庶民の娯楽として定着し、神輿や山車の行列、獅子舞、花火大会など現在もお馴染みの催しが多く見られるようになりました。またお盆に踊られる盆踊りや七夕など仏教、外国伝来の行事に由来するもの、武将たちの戦勝を祈念したもの、流行病の沈静化を願ったものなど新しい由緒を持つ祭りもどんどん生まれていきました。
 神仏分離を経て
 長い間、神仏習合にもとづいて祭りは行なわれていましたが、明治維新とともに政府より発せられた「神仏分離令」によってその歴史は大きく変わることとなりました。
 祭政一致社会をめざし、神道のみを国民の精神的要とする「国家神道」を掲げた政府は仏教と神道を切り離したばかりか、「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」という徹底した仏教の撤廃を行ないました。単に神社から仏像を破壊したばかりではなく、仏と関係の深かった祭神の強制的な変更や追放、寺社の領地押収による廃寺化、仏教行事の禁止など、日本からありとあらゆる仏教的要素が消えていきました。
 道においても神社は国家の管理下に置かれたことで、今までの体制を大きく変更させられることとなります。伊勢神宮を頂点として、天皇との関係が深い順に神社の位が定められた「社格制度」、複数の神社を統合、消滅させ一社ごとの威厳を強固なものにする「神社合祀」など、これらの政策は神社の在り方はもちろん、祭りにも多大な影響を及ぼしました。
 仏教行事に由来した催事はもちろん、神仏両方を祀っていたものやそうでないもの、新しいものから伝統あるものまで、さまざまな祭りがこの政策で消滅してしまいました。残された祭りも仏教要素の排除や祭式統一化などを求められ、形式を変えられたものも多くあります。神仏分離令は日本の祭り史上に残る大混乱を起こしたのです。
 現在の祭り
 終戦後、連合国軍最高司令官総司令部GHQ)により国家神道は解体され、神道自体も国家による管理体制を離れ、廃仏毀釈の波もおさまったことで、神道と仏教はまた新たに別々の宗教として道を歩んでいくこととなりました。分離令により失われていた祭りもいくつかは伝統を引き継いだ人たちにより復興されるようになりました。
 神仏両方の行事が親しまれるようにもなり、お寺や神社の催事には宗派に関係なく多くの人が集まり盛り上がる一方で、祭りそのものが単なる大衆の「イベント」と化してしまっている、祭りの継承者がいなくなっているなどの問題点もあります。それでも、伝統的な祭りになると県外から大勢のお客さんが訪れ、地元の楽しみだけでなく観光アピールとして、新たな意味を持つようにもなっています。このため、町おこしや土地のアピールを目的とした新しい祭り・フェスティバルが各地で行なわれているようです。
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 2023年5月25日 女性たちの「エロ話」は何を意味していたのか? 民俗学者宮本常一が見た、農村の「性」
 畑中 章宏作家
 民俗学者プロフィール
 日本列島を旅し、「庶民の歴史」を聞き集めて、一様ではない「日本」のあり方を追究し続けた民俗学者宮本常一とは何者だったのか。
 民俗学者・畑中章宏氏による新刊『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』が話題だ。日本中の人々の姿を見てきた宮本が感じた、「共同体内の搾取」に関する東日本と西日本の違いや性のあり方とはどのようなものだったのか。
 ※本記事は畑中章宏『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』から抜粋・編集したものです。
 女性の民俗的地位
 歴史学者網野善彦は、宮本常一が「女性」という主題について民俗学の立場から積極的に取り組んだことを高く評価している。
 網野によると、『忘れられた日本人』が刊行された当時(1960年前後)の歴史学、経済史学の主流は、家父長制、男性による女性の支配を封建的な社会の残滓とみなし、それが克服されて日本の社会が民主化される方向に推進していくことが必須な課題だという捉え方をしていた。
 宮本はこうした見方を厳しく批判し、それは東日本の常識を基礎として捉えた日本史像、日本社会像で、日本全体の事実に則しているものではないと指摘をしている。男性中心の家父長制によって女性が支配されているというあり方、あるいは地主が小作人を厳しく搾取しているのは東日本の実態で、西日本の実態は違うことを宮本は積極的に主張したというのだ。
 宮本は、戦中の『家郷の訓(おしえ)』(1943年)でも、一見保守的にみえるような共同体に属する女性の姿のなかに、ある種の主体性を見つけだそうとしていた。
 村の娘はある年代に達するとたいてい家を逃げ出し、町へ奉公に出た。女中奉公をして稼いだのである。親の許しを得ないで村を出るのだが、それは父親だけが知らなかった。母親は娘の家出を事前に知って、そうした行動を理解していた。
 嫁入り前に女中奉公して、稼いだお金で京、大阪を巡るというのが女性が教養を得るための社会教育であり、明治以降はそれが慣習化した。また女中奉公とはべつに「秋仕(あきし)奉公」という出稼ぎに出た女性たちは、その賃金で自分の着物を買うことができた。
 年老いた女性は苧(からむし)の繊維をよりあわせて糸を紡ぐ「苧績(おう)み」によってヘソクリを獲得していった。手間暇がかかる苧績みは、十分な収入になった。苧を入れておくための苧桶(おごけ)は嫁入り道具の一つで、その中の苧の下に飴玉や氷砂糖をしのばせていたから孫たちが祖母のまわりに集まってくる。
 嫁に主導権を譲ったあと、祖母となって貯えたヘソクリは嫁に行った自分の娘や娘の子のために使った。孫にとっての祖母は祖父とは違った存在になるのだ(宮田登「伝統社会の公と私」による)。
 いっぽう『忘れられた日本人』に収録された「名倉談義」では、共同体のしがらみが女性の生活を束縛したことが強調されている。
 6歳から9歳まで子守りに出され、16歳で嫁に行く。小学校へ通ったこともなく、財産がなく無口な男と60年間一緒だった。亭主はよく働き、朝起きてから寝るまでわらじを脱いだことがなかった。このあたりは月の「さわり」(月経)をやかましく言うところで、家ごとに「ヒマゴヤ」(生理小屋・不浄小屋)があり、さわりがはじまるとそこで一人で寝起きし、煮炊きしたものだった……。
 宮本の死後に編集・刊行された『女の民俗誌』なども含めて、宮本の女性生活誌、女性文化誌は振り幅が広く、女性の多様性をすくいとろうという意志が感じられる。
 「性」の領域
 宮本の民俗誌には「土佐源氏」を筆頭に「性」について描いたものが少なくない。
『忘れられた日本人』の「対馬にて」では、男と女が歌のかけあいをする歌垣があったこと、男は女にからだを賭けさせ、声のいい若者は美しい女性とはほとんど契りを結んだという話が綴られる。
 同じく「世間師(二)」には、左近熊太翁の体験談として、「一夜ぼぼ」という習俗が語られる。明治維新まで旧暦4月22日におこなわれる、河内国磯長(しなが)村(現・大阪府南河内郡太子町)「上(かみ)の太子(たいし)」(叡福寺)の会式(えしき)の日は、好きなことをしてもよかった。「太子の一夜ぼぼ」といい、この夜は男女とも、だれと寝てもよかったという。熊太翁も15歳になったとき一夜ぼぼに行き、初めて女と寝た。それから後も、毎年この日は出かけていった。
 女の子はみなきれいに着飾っていた。男と手をとると、そのあたりの山の中へはいって、そこで寝た。これはよい「子だね」をもらうためだといい、その夜にかぎられたことであった。このときにはらんだ子は父なし子でも大事に育てたものだという。
 明治元年になると、いつでもだれとでも寝てよいということになり、昼間でも家の中でも山の中でも好きな女と寝ることがはやった。それまでは、亭主のある女と寝ることはなかったのに、そういう制限もなくなった。しかし、警察がやかましく言うようになり、明治時代の終わりごろには止んでしまったという。
 宮本は、「性」の話がここまでくるには長い歴史があったと「女の世間」で述べている。そしてこうした話を通して女性は男性への批判力を獲得したという。
 女性たちの「エロ話」の明るい世界は、女性たちが幸福であることを意味する。しかし女性たちのすべてのエロ話が、幸福だというのではない。女たちの話を聞いていると、エロ話がいけないのではなく、エロ話をゆがめているなにものかがいけないのだと宮本は考えた。
 「夜這い」については、その実態をどのように評価するべきかという問題がある。宮本は、自由な「性」を積極的に取り上げた民俗学者だが、「エロ話をゆがめているなにものか」については明確な答えを出さずにいる。
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 現代の日本人には、民族的な歴史力・伝統力・文化力・宗教力はなく歴史が理解できず、時代劇は好きだが歴史物語が嫌いである。
 そうした日本人は、エセ保守とリベラル派や革新派であり、リベラル左派はそうだと断言できる。
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 🌈19)─1─日本の道徳・規律・規範は天道様崇拝であって武士道精神ではない。〜No.37No.38 ② 
 日本の「お天道様」は、キリスト教の全知全能の神ではなく、儒教の天・天帝でもなく、ユダヤ教イスラム教の絶対神でもない。
 お天道様は、何となくの崇拝宗教であって律法・戒律の啓示宗教ではないので、信仰を契約して入信した信者・教徒はいない。
 日本民族は、お天道様崇拝者である。
 お天道様とは、天皇家の祖先神である女性神天照大神である。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・野伏せり・悪党、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 現代日本人が憧れ持て囃す武士道は、江戸時代後期、ロシアの軍事侵略危機までは存在しなかった。
 武士道は、明治時代の近代化によって、外敵の侵略から天皇・国・民族、宗教・文化を守る為に民族主義愛国心の中から生まれた。
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 儒教易姓革命禅譲放伐)と天命思想(受命思想)を、中国と朝鮮は無条件で受け入れ、日本は換骨奪胎して受け入れた。
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 天皇易姓革命と天命思想から守ったのは、伝統文化である、天孫降臨記紀神話古事記日本書紀)、民族の神話物語と庶民物語であった。
 天皇は天命思想を引き受け、庶民は易姓革命を拒否した。
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 天命思想とは有徳、徳治の事で、人徳と陰徳を体現したのは第45代聖武天皇光明皇后であった。
 日本風天命思想は、天皇の御威光、皇道主義である。
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 庶民にとって、領主・大名・主君が誰であったも関係ない。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
 一説によると、日本人奴隷として輸出した人数は、ポルトガル商人が5万人以上で、スペイン商人は不明である。
 これが、南蛮貿易に隠された暗黒史である。
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 反権力・反権威・反体制的な庶民は、社会秩序に反逆する野伏せりや悪党であり、そして天皇を命を捨ててでも守ろうとした勤王派・尊皇派であった。
 その代表的人物が、楠木正成であった。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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 日本人は、悪人、罪人である。
 故に、親鸞はそうした救われない哀れな日本人は阿弥陀仏阿弥陀様)が救ってくださると、「悪人正機説」で他力本願を説いた。
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