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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
昔の日本人と現代の日本人は違う。
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2024年3月17日 YAHOO!JAPANニュース ABEMA「戦乱が続く戦国時代。なぜ戦国大名はに善政を行ったのか?その裏事情を考えてみる
世間は株価が急激に上昇して大騒ぎだが、わたしたち庶民には景気が上向いたという実感が感じられない。相変わらずの困窮生活である。戦国時代は飢饉などがあると、戦国大名は善政を施し、農民を窮地から救おうとした。しかし、そこに裏がったのか改めて考えてみよう。
戦国時代は戦乱が打ち続き、ときに農民は苦しい生活を強いられた。農民が苦しんだのは戦争だけではなく、悪天候に伴う災害で飢饉が発生し、生活がままならなくなったこともあった。
そうなると、農民は領主に納める年貢が確保できず、生活苦に喘ぎ、挙句の果ては耕作地を放棄し逃亡したのである。しかし、戦国大名は決して指を咥えて見ていたわけではない。事態の解決を図るべく、対策に動いたのである。
たとえば、明智光秀は困窮した農民を救うべく、年貢を減免したり、免除したりした。これは、たしかな事実であり、今も丹波地方では光秀が明君であると称えられている。
では、年貢の減免や免除が光秀の専売特許化といえば、決してそうではなく、多くの大名が行ったのである。われわれのイメージは、戦国大名が年貢の減免や免除を懇望する農民を足蹴にし、何が何でも年貢を納入せよと激しく迫るのは、もはや古い考えにすぎない。
では、なぜ戦国大名は農民の要求を受け入れ、年貢の減免や免除を認めたのだろうか。そもそも戦国大名は、年貢を納める農民がいなければ、とても領国の経営を維持できなかった。それゆえ、農民との良好な関係を維持することが肝要で、激しい収奪をするだけではまずかった。
たとえ平時であっても、過酷なまでに年貢の負担を求めると、農民は耕作地を放棄して逃げ出すからである。そうなると、年貢が収められなくなるので、戦国大名は大いに困るのである。
ましてや、農民が飢饉により農作物がほとんど収穫できず困っているのに、年貢の減免や免除をしなければ、残された手段は逃げることだけだった。そうなると先述のとおり、困るのは戦国大名のほうである。
つまり、戦国大名が非常時に年貢の減免や免除をするのは、最終的に自分たちが困るという事情があったからだった。むろん、領民思いの心優しい戦国大名がいたかもしれないが、あくまでそれらの政策を行った理由は、政治判断ということになろう。
そうなると、洪水が頻発するため、川に堤防を築いた戦国大名に関しても、同じことがいえる。洪水により耕作地が大被害を受け、農作物が収穫できないと、最終的に困るのは年貢を徴収できなくなる戦国大名のほうだった。そのような事情があったので、戦国大名は勧農の一環として、堤防の工事を行ったのである。
近世以降、そうした戦国大名の行いが善政と評価され、人々が敬ったというのが実情だろう。実は現在でも同じことで、災害などで国民が窮地に陥ったとき、税の減免や免除をしたり、助成金を支給したりするのは、ときの政権を担う政治家があとで困るからである。困るというのは、困窮した国民を助けなかった場合、政策が悪かったと評価され、次の選挙で落選するということになろう。
渡邊大門
株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。
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戦国大名は乱取りを禁止したが、戦闘に参加しない人足や小者達は役得として乱取りを行っていた。
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中世キリスト教会・イエズス会ら修道士会と白人キリスト教徒商人は、乱取りを行った日本人から捕獲した日本人を奴隷として購入て世界中に輸出して大金を稼いでいた。
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日本とくに日本民族では、マルクス主義・共産主義・無政府主義による人民革命は起きない。
もし人民革命が起きるとすれば、日本人から日本民族が消滅もしくは少数派となり外国移民の日本国民に入れ替わるもしくは多数派になったときである。
何故なら、マルクス主義・共産主義・無政府主義とは反宗教無神論・反天皇反民族反日本だからである。
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庶民にとって、領主・大名・主君が誰であったも関係ない。
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戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などに陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
一説によると、日本人奴隷として輸出した人数は、ポルトガル商人が5万人以上で、スペイン商人は不明である。
これが、南蛮貿易に隠された暗黒史である。
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反権力・反権威・反体制的な庶民は、社会秩序に反逆する野伏せりや悪党であり、そして天皇を命を捨ててでも守ろうとした勤王派・尊皇派であった。
その代表的人物が、楠木正成であった。
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現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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日本人は、悪人、罪人である。
故に、親鸞はそうした救われない哀れな日本人は阿弥陀仏(阿弥陀様)が救ってくださると、「悪人正機説」で他力本願を説いた。
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2024-01-28
⚔21)─3─戦国時代、人口の9割は“農民”!乱世に翻弄される「影の主役」の生活とは。乱取り。~No.92
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🌈19)─1─日本の道徳・規律・規範は天道様崇拝であって武士道精神ではない。〜No.37No.38 ②
日本の「お天道様」は、キリスト教の全知全能の神ではなく、儒教の天・天帝でもなく、ユダヤ教やイスラム教の絶対神でもない。
お天道様は、何となくの崇拝宗教であって律法・戒律の啓示宗教ではないので、信仰を契約して入信した信者・教徒はいない。
日本民族は、お天道様崇拝者である。
お天道様とは、天皇家の祖先神である女性神の天照大神である。
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トライイット
ホーム社会中学社会中学歴史江戸時代武士による支配
中学歴史
身分別の人口の割合 幕末のごろ
総人口約3,200万人
百姓が全体の85% たった7%の武士はどうやって支配する?
江戸時代における、 身分別の人口の割合 が示されています。
一番多いのが 百姓 (農民)で、人口の85%を占めていますね。
その次に多いのが7%の 武士 です。
3番目に多いのが5%の 町人 ですね。
町人には2種類あり、 工業の担い手である工人と商業の担い手である商人 に分かれていました。
そのほかには、えた・ひにんといった被差別階級の人々1.5%
公家・神官・僧侶、その他1.5%。
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江戸時代は庶民の時代で、武士道は社会の片隅であった。
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現代日本人が憧れ持て囃す武士道は、江戸時代後期、ロシアの軍事侵略危機までは存在しなかった。
武士道は、明治時代の近代化によって、外敵の侵略から天皇・国・民族、宗教・文化を守る為に民族主義と愛国心の中から生まれた。
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儒教の易姓革命(禅譲・放伐)と天命思想(受命思想)を、中国と朝鮮は無条件で受け入れ、日本は換骨奪胎して受け入れた。
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天皇を易姓革命と天命思想から守ったのは、伝統文化である、天孫降臨の記紀神話(古事記・日本書紀)、民族の神話物語と庶民物語であった。
天皇は天命思想を引き受け、庶民は易姓革命を拒否した。
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天命思想とは有徳、徳治の事で、人徳と陰徳を体現したのは第45代聖武天皇・光明皇后であった。
日本風天命思想は、天皇の御威光、皇道主義である。
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2023年7月7日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「日本とは、日本人とは」なんだろう…全国すみずみまで歩いて見えた「日本人の本当の姿」
『忘れられた日本人』で知られる民俗学者・宮本常一とは何者だったのか。その民俗学の底流にある「思想」とは?
「宮本の民俗学は、私たちの生活が『大きな歴史』に絡みとられようとしている現在、見直されるべき重要な仕事」だという民俗学者の畑中章宏氏による『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』が2刷重版出来、話題となっている。
【写真】女性の「エロ話」は何を意味しているか? 日本人が知らない真実
※本記事は畑中章宏『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』から抜粋・編集したものです。
「心」の民俗学と「もの」の民俗学
人文科学の諸領域は「私たちはどこから来たのか」「私たちはなにものか」「私たちはどこへ行くのか」という命題を追究するものだと私は理解している。歴史学も社会学も、人類学も民俗学も、究極の目的は、こうした命題を明らかにしていくことに間違いないだろう。
またそれは、人文科学にとどまらず、社会科学でも、自然科学でも目的とされていることなのではないか。そしてその目的に至る方法や対象の違いによって、学問の性格が異なってくる。
民俗学もまた「私たちはどこから来たのか」「私たちはなにものか」「私たちはどこへ行くのか」を追究してきた学問である。ほかの学問でもそうだが、追究しようとする「私たち」がどこまでを含むのかも大きな問題になる。学問領域によっては「人間」「人類」、あるいは「生物全般」を含む場合もあるかもしれない。
柳田国男(1875~1962)は20世紀の日本列島に住む日本人を「私たち」とあらかじめ措定して民俗学をはじめた。
そして「私たち」の起原(どこから)、定義(なにもの)、未来(どこへ)を追究・探求する際、柳田は「心」を手がかりにし、「心」の解明によって明らかにできると考えたのだ。
そのとき「心」を構成する資料は、民間伝承、民間信仰から得られるものだと考えたのである。この柳田の直観、あるいは思想が「日本民俗学」の発端となり、「日本民俗学」の性格を決定づけたのである。
これに対して宮本常一(1907~1981)は「もの」を民俗学の入り口にした。たとえば生産活動などに用いてきた「民具」を調べることで、私たちの生活史をたどることができると考えた。そして民俗学における伝承調査を、「もの」への注目に寄せていくことで、私たちの「心」にも到達できると考えたのだった。
フィールドワークから実践へ
日本の民俗学は柳田によって開かれ、同世代の折口信夫(1887~1953)、南方熊楠(1867~1941)らによって発展していった。
彼らのあと有力な財界人でもある渋沢敬三(1896~1963)が独自の立場から後進を支援、指導し、そのなかで最も精力的な活動を展開したのが宮本常一である。
宮本は日本列島をすみずみまで歩き、多くの人びとから夥しい数の話を聞いた。民俗学はもちろん、人類学や社会学でもフィールドワークは調査研究の重要な手法だが、宮本のそれはほかの調査者たちとどのように違うのか。宮本は自身のフィールドワークをふまえてこんなふうに記している(「あるいて来た道」『民俗学への道』著作集版より要約)。
さまざまな差が見られる村の風物には、それぞれの歴史と理由をもち、私たちの生活意識の表現でないものはない。このような村里の風物に接することにより、私たちはそのなかに含まれた意味を汲みとらなければいけない。自分の知っている世界だけが世界のすべてではない。知らない世界、考えのおよばない世界が、そのかなたに無限にかくれている。村に入り、民家の人たちと言葉を交わすことによって、表現せられる物象の底に潜む生活意識と文化を知ることができる――。
ここで宮本は、「世界」という言葉を使っているが、「世間」という言葉を用いることも多い。「世間」は宮本が、その民俗学の対象とした人びとが暮らす社会を指し示すのにふさわしい言葉であり、そこから読み取れることは少なくない。
宮本は、見て、歩き、聞くことにより、列島各地の歴史や事情に精通し、農業、漁業、林業等の実状を把握するとともに問題点を明らかにしていった。そしてそれは、個別の共同体がどのような産業によって潤っていくかを、共同体の成員とともに具体的に考えていくことだった。またいっぽうで、調査される側の「迷惑」についてもきわめて意識的だった。
宮本の民俗学がほかの民俗学者の民俗学と際立って違うのは、フィールドワークの成果が実践に結びついていったことである。
戦中・戦後の大阪府下での農村指導をはじめ、新潟県山古志村(現・長岡市)、同県佐渡の宿根木などでは、民俗文化財をどのように生かしていくのかを考えて、いわゆる「地域おこし」(町おこし、村おこし)の先駆的な活動をおこなった。
また、瀬戸内海に浮かぶ山口県周防大島で生まれた宮本は、「離島」が抱える本土との格差を埋めるために尽力し、民俗学者としての説得力と粘り強い活動により離島振興法を成立に導いている。
畑中 章宏(作家)
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