🏯64)65)─1─日本民族の歴史には「庶民」が主役の歴史がある。民俗学者・宮本常一。~No.121No.122No.123No.124 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本民族日本人は、漢族系中国人や半島由来人とは違う。
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 庶民文化とは、乱取りと夜這い・托卵の文化であった。
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 日本民族の歴史は、古代の中華儒教史観・中世のキリスト教史観・近代のマルクス主義史観(共産主義史観)・現代のリベラル左派史観では説明できない。
 日本の庶民は世界の非常識であり、幕末に日本に来た欧米人の多くが日本人の異常に驚き中国の民衆とは違うと認めた。
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 2023年5月31日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「日本は「ひとつ」ではなかった…「庶民の歴史」からしか見えてこない「日本人の本当の姿」
 日本列島を旅し、「庶民の歴史」を聞き集めて、一様ではない「日本」のあり方を追究し続けた民俗学者宮本常一とは何者だったのか。
 民俗学者・畑中章宏氏による新刊『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』が話題だ。宮本が追究した「日本人」の姿とはどのようなものだったのか、そしてその語りにおいて意識されたことは何だったのかを見ていく。
 ※本記事は畑中章宏『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』から抜粋・編集したものです。
 民主主義とは何か? 民俗学者宮本常一が見た「日本の寄り合い」の可能性 みんなが納得するまでとことん話し合う
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 日本はひとつではない
 網野善彦は、『忘れられた日本人』を中心とした宮本の仕事が、戦後歴史学、あるいは近代歴史学自体の根本問題を鋭く突くものでもあったと指摘する。
 さらに当時の学界では東日本は後進地域と考え、東国は畿内に比べてはるかに後進的とされてきたが、宮本がそういう差異を、先進・後進という割り切り方をしない点についても評価している。
 宮本は、東日本については同族集団、同族結合が基本であり、縦の主従関係を基本にした家父長制的な傾向の強い上下の結びつきを特徴とし、それに対して西日本の場合、フラットな、横の平等な関係を結びあうのが特徴だとする。縦の主従関係が東日本に見られるのに対して、寄り合いや一揆のような横の組織は、西日本に発達するという考え方である。
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 東日本では年齢階梯制は非常に希薄で、年寄り組、若者組、娘組のような年齢階梯制が見えないことも強調する。
 また宮本は、日本の文化は日本民族の民俗伝承的堆積を基礎にして生まれたもので、単に上層文化の開花によってなされたものではないという。
 奈良や京都や江戸には社寺や公家や武士による見事な文化の開花があったが、日本人全体がそういう生活をしていたのではなく、それはこの列島に住む人びとの生活のほんの一部にすぎなかった。民衆はそのあいだにも田畑を耕作し、漁撈し、自分たちの生活を支えただけでなく、貴族や武士や支配者たちなど、上層階級の生活をも支えてきた。
 ともすると私たちはその延長線上で、前代の世界や自分たちより下層の社会に生きる人びとを卑小に見たがる傾向が強い。宮本は、そのことにより私たちは一種の悲痛感を持ちたがるものだが、自分たちの立場や考え方に立って見ることも必要ではないかと訴えるのだ。
 「民衆史」の構想
 民俗学が民俗の「歴史」を叙述するのは宮本常一が初めてではなかった。柳田国男は『日本農民史』(1931年)を手掛けているし、また柳田による歴史叙述として重要な著作に、『明治大正史世相篇』(1931年)がある。
 柳田がここで試みたのは、日本の近代以降の風俗的変貌によって、日本人の心性がどう変化したか、あるいは変化しなかったかを捉えようとしたことだった。そのためこの著作は、「明治大正史」と銘打ちながら、「何年何月に何々がおこった」という編年体をとらなかった。
 つまり「常民」の心性の歴史は、従来の歴史書のようなスタイルでは描きえないというのが柳田の考え方だったのだ。
 いっぽう宮本の仕事のなかでも、宮本単独の著作である『日本民衆史』と、複数の著者による『日本の民俗』は、宮本の歴史に対する問題意識を表現し、叙述したシリーズとして改めて評価するべきだろう。
 未來社から刊行された双書『日本民衆史』の第1期全12巻のタイトルは、初回配本『甘藷(かんしょ)の歴史』(初版奥付・1962年10月13日)にはつぎのように予告されていた。
1『開拓の歴史』、2『山に生きる人びと』、3『海に生きる人びと』、4『村のなりたち』、5『町のなりたち』、6『生業の歴史』、7『甘藷の歴史』、8『旅と行商』、9『すまいの歴史』、10『生活の知恵』、11『生産の知恵』、12『労働の歴史』だった。
 第7巻『甘藷の歴史』で刊行を開始した『日本民衆史』は、第2回に第1巻『開拓の歴史』を配本し、それ以降は巻数順に出版されていった。しかし1968年(昭和43)2月の第5巻『町のなりたち』の刊行で中絶、第6巻の『生業の歴史』と第8巻以降は宮本の存命中は刊行されずに終わる。
 『日本民衆史』は宮本にとって『風土記日本』と『日本残酷物語』で追いもとめた日本の民衆の歴史を、自分ひとりでさらに掘り下げようとしたものだった。こういった持続的な問題意識は、第7巻にもかかわらず最初に刊行された『甘藷の歴史』からもうかがえる。
 甘藷(サツマイモ)の日本への伝来は、近世初期のことだが記録は少なく、栽培面積も全耕地面積の20分の1足らずで、農業史に占める部分もごくわずかだった。しかし、甘藷が土地の乏しいところや、急傾斜地に住む人びとの生活を変えていった力は大きかった。また救荒作物として備蓄食料として重宝された。
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 宮本は、一植物、一食料にすぎない甘藷を双書の第一回配本にすることで、ふだんは意識されることのない甘藷の歴史を世に問うたのだった。
 いっぽう『生業の推移』(1965年)を収めた『日本の民俗』は、1964年6月から翌65年9月にかけて刊行された。このシリーズに宮本は、第3巻『生業の推移』と第1巻『民俗のふるさと』(1964年7月)、池田弥三郎和歌森太郎と共編した第11巻『民俗学のすすめ』(1965年6月)に「常民文化研究のオルガナイザー・渋沢敬三」「旅行のうちに」「民衆の歴史を求めて」を執筆。また『日本の民俗』が企画され、刊行された時期は、宮本が『日本民衆史』の執筆を積極的に進めていた時期と重なっていた。
 進歩史観、発展史観に対する疑義
 谷川健一が『風土記日本』を企画したとき社内で、「民俗学は体系のない学問」、「階級闘争を捨象している」といった学問そのものにたいする否定的な意があったという(「近代主義への一矢—宮本常一のこと」)。
 その当時、民俗学は進歩的知識人や進歩的出版労働者から軽蔑の眼で見られる在野の学で、「マルクス主義のよそおいをしてさえおれば、どんな言動でもまかりとおる時代」が戦後しばらくは続いていた。そのため、民俗学を主軸に企画を立てても、理解が得られにくい時代だったというのだ。
 『風土記日本』の編集企画の際、谷川が宮本の話のなかでとくに記憶に残っているのは、「民衆の世界が世間に知られるのは不幸によってである」という言葉だった(宮本常一『女の民俗誌』の谷川健一による解説)。民衆に対するこういった認識は、『日本残酷物語』の第二部『忘れられた土地』の序文のつぎのような一節に反映している。
 「昨日まで忘れられていたものが、今日ふたたび民衆の意識にのぼってくるのは多くの場合不幸なできごとを媒介にしていた」
 虐げられた庶民が人びとの意識にのぼってきた場合、歪められていたり、忘れられた世界のほんの一部であったりする。だからその世界の本当の苦痛は、とりあげられることで、かえって忘れ去られてしまうのだ。
 進歩とは何か、発展とは何か、進歩という名のもとに、私たちはじつにたくさんのものを切り捨ててきた。網野は、これは現代の根源的な問題であり、その意味でも宮本の学問的な歩みをたどることは、ただ個人の学問の問題だけではなく、近代の学問そのものの歴史を考えるうえでも、また人類史全体を考えるためにも必要なことではないかと評価したのである。
 民主主義とは何か? 民俗学者宮本常一が見た「日本の寄り合い」の可能性 みんなが納得するまでとことん話し合う
 © 現代ビジネス
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 2023.05.14
 「日本とは、日本人とは」なんだろう…全国すみずみまで歩いて見えた「日本人の本当の姿」
 畑中 章宏作家  民俗学者プロフィール
 『忘れられた日本人』で知られる民俗学者宮本常一とは何者だったのか。その民俗学の底流にある「思想」とは?
 「宮本の民俗学は、私たちの生活が『大きな歴史』に絡みとられようとしている現在、見直されるべき重要な仕事」だという民俗学者の畑中章宏氏による『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』がいよいよ刊行される。
 ※本記事は畑中章宏『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』から抜粋・編集したものです。
 「心」の民俗学と「もの」の民俗学
 人文科学の諸領域は「私たちはどこから来たのか」「私たちはなにものか」「私たちはどこへ行くのか」という命題を追究するものだと私は理解している。歴史学社会学も、人類学も民俗学も、究極の目的は、こうした命題を明らかにしていくことに間違いないだろう。
 またそれは、人文科学にとどまらず、社会科学でも、自然科学でも目的とされていることなのではないか。そしてその目的に至る方法や対象の違いによって、学問の性格が異なってくる。
 民俗学もまた「私たちはどこから来たのか」「私たちはなにものか」「私たちはどこへ行くのか」を追究してきた学問である。ほかの学問でもそうだが、追究しようとする「私たち」がどこまでを含むのかも大きな問題になる。学問領域によっては「人間」「人類」、あるいは「生物全般」を含む場合もあるかもしれない。
 柳田国男(1875〜1962)は20世紀の日本列島に住む日本人を「私たち」とあらかじめ措定して民俗学をはじめた。
 そして「私たち」の起原(どこから)、定義(なにもの)、未来(どこへ)を追究・探求する際、柳田は「心」を手がかりにし、「心」の解明によって明らかにできると考えたのだ。
 そのとき「心」を構成する資料は、民間伝承、民間信仰から得られるものだと考えたのである。この柳田の直観、あるいは思想が「日本民俗学」の発端となり、「日本民俗学」の性格を決定づけたのである。
 これに対して宮本常一(1907〜1981)は「もの」を民俗学の入り口にした。たとえば生産活動などに用いてきた「民具」を調べることで、私たちの生活史をたどることができると考えた。そして民俗学における伝承調査を、「もの」への注目に寄せていくことで、私たちの「心」にも到達できると考えたのだった。
 フィールドワークから実践へ
 日本の民俗学は柳田によって開かれ、同世代の折口信夫(1887〜1953)、南方熊楠(1867〜1941)らによって発展していった。
 彼らのあと有力な財界人でもある渋沢敬三(1896〜1963)が独自の立場から後進を支援、指導し、そのなかで最も精力的な活動を展開したのが宮本常一である。
 宮本は日本列島をすみずみまで歩き、多くの人びとから夥しい数の話を聞いた。民俗学はもちろん、人類学や社会学でもフィールドワークは調査研究の重要な手法だが、宮本のそれはほかの調査者たちとどのように違うのか。宮本は自身のフィールドワークをふまえてこんなふうに記している(「あるいて来た道」『民俗学への道』著作集版より要約)。
 さまざまな差が見られる村の風物には、それぞれの歴史と理由をもち、私たちの生活意識の表現でないものはない。このような村里の風物に接することにより、私たちはそのなかに含まれた意味を汲みとらなければいけない。自分の知っている世界だけが世界のすべてではない。知らない世界、考えのおよばない世界が、そのかなたに無限にかくれている。村に入り、民家の人たちと言葉を交わすことによって、表現せられる物象の底に潜む生活意識と文化を知ることができる——。
 ここで宮本は、「世界」という言葉を使っているが、「世間」という言葉を用いることも多い。「世間」は宮本が、その民俗学の対象とした人びとが暮らす社会を指し示すのにふさわしい言葉であり、そこから読み取れることは少なくない。
宮本は、見て、歩き、聞くことにより、列島各地の歴史や事情に精通し、農業、漁業、林業等の実状を把握するとともに問題点を明らかにしていった。そしてそれは、個別の共同体がどのような産業によって潤っていくかを、共同体の成員とともに具体的に考えていくことだった。またいっぽうで、調査される側の「迷惑」についてもきわめて意識的だった。
 宮本の民俗学がほかの民俗学者民俗学と際立って違うのは、フィールドワークの成果が実践に結びついていったことである。
 戦中・戦後の大阪府下での農村指導をはじめ、新潟県山古志村(現・長岡市)、同県佐渡の宿根木などでは、民俗文化財をどのように生かしていくのかを考えて、いわゆる「地域おこし」(町おこし、村おこし)の先駆的な活動をおこなった。
 また、瀬戸内海に浮かぶ山口県周防大島で生まれた宮本は、「離島」が抱える本土との格差を埋めるために尽力し、民俗学者としての説得力と粘り強い活動により離島振興法を成立に導いている。
 つづきはこちら:「日本」はひとつではない、「庶民」が主役の歴史を構想…多くの人が意外と知らない「宮本常一の思想」
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2023.05.15
 「日本」はひとつではない、「庶民」が主役の歴史を構想…多くの人が意外と知らない「宮本常一の思想」
 畑中 章宏作家 民俗学者プロフィール
 『忘れられた日本人』で知られる民俗学者宮本常一とは何者だったのか。その民俗学の底流にある「思想」とは?
 「宮本の民俗学は、私たちの生活が『大きな歴史』に絡みとられようとしている現在、見直されるべき重要な仕事」だという民俗学者の畑中章宏氏による『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』がいよいよ刊行される。
 ※本記事は畑中章宏『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』から抜粋・編集したものです。
 庶民」の歴史を構想
 宮本常一は歴史をつくってきた主体として、民衆、あるいは庶民を念頭においた。
 これまでの歴史叙述において、庶民はいつも支配者から搾取され、貧困で惨めで、反抗をくりかえしてきたかのように力説されてきた。
 しかし宮本は、このような歴史認識は歴史の一面しか捉えていないし、私たちの歴史とはいえないと考えたのだった。
 また宮本は、民俗学はただ単に無字社会の過去を知るだけではなく、その伝統が現在とどうつながり、将来に向かってどう作用するかをも見きわめなければならないという。
 ただしかし、日本では無字社会はすでに消滅してしまっているため、無字社会の伝統をもつ社会のなかで慣習によって保持されてきた文化を研究する学問だということになる。そのうえで、無字社会の伝統を、停滞し固定しているものとしてみるのではなく、なお生きて、流動しているものとして捉えるのだ。
 そして、歴史に名前を残さないで消えていった人びと、共同体を通り過ぎていった人びとの存在も含めて歴史を描き出しえないものかというのが、宮本の目標とするところだった。
 また「進歩」という名のもとに、私たちは多くのものを切り捨ててきたのではないかという思いから歴史を叙述することを試みた。
 宮本の問題意識はこうしてやがて明確になっていき、民衆史を書かせることになる。そして、「大きな歴史」は、伝承によって記憶されるだけで記録に残されていない「小さな歴史」によって成り立っていることを、具体的に示そうとしたのである。
 そのために、従来の民俗学が積み重ねてきた「民俗誌」ではなく、生活意識、生活文化にもとづく「生活誌」、あるいは「生活史」によって描き出そうとした。生活誌、生活史を叙述する際に、私たちが獲得してきた技術や産業の変化に目を向けたことも、宮本民俗学の大きな特色である。
 柳田国男は現在に残存する民俗伝承を比較していくことで、その祖形、あるいは理念を探りあてようとした。折口信夫は民俗の伝承と古代文学を比較して、古代文学のなかに含まれた民俗的意味を明らかにしようとした。
 しかし宮本は、古代社会は統一された「ひと色の文化」のなかにあったのだろうかと疑問を抱く。そして「日本」がひとつではないことを描き出していった。
 「思想家」として位置づける
 このように調査し、叙述されていった宮本の民俗学は、私たちの生活が「大きな歴史」に絡めとられようとしている現在、見直されるべき重要な仕事だと私は考える。これほど生活に密着し、生活の変遷を追った仕事は、日本の近現代でほかにはみられないからだ。
 宮本は庶民の歴史を探求するなかで、村落共同体が決して共同性に囚われてきただけではなく、「世間」という外側と絶えず行き来し流動的な生活文化をつくってきたことも明らかにする。そしてそれは、公共性への道が開かれていたと解釈することができるのだ。
 また近代を基準にみたとき、さまざまな面で遅れているとされてきた共同体の生活、あるいは慣習のなかに、民主主義的な取り決めをはじめ、民俗的な合理性があったことも裏づける。
 いっぽうで、宮本の民俗学には「思想や理論がない」「その方法を明示していない」とアカデミックな民俗学者から批判されてきた。宮本が書いたものは民俗誌的、民俗史的叙述に終始しているというのである。
 『忘れられた日本人』にしても、定住農民とは異なる人びとに光をあてた『海に生きる人びと』と『山に生きる人びと』にしても、読み物としてのおもしろさに目が行きがちである。どの著作にふれても、知らない事実が述べられていることや常識だと思っていたことが覆される快感を味わうことができる。またそうしたエピソードが、文献だけをもとにしているのではなく、宮本自身が日本列島の各地を歩いて得たことに心を動かされるのだ。いわゆる「旅する巨人」としての宮本常一のイメージである。
 宮本の著作、そこで叙述される文体には堅苦しさがなく、難解な用語を用いていない。フィールドワーカーとしての軽やかさ、庶民と同じ目線に立った親しみやすさが、宮本民俗学に対するイメージをかたちづくってきた。
 しかし、宮本常一民俗学には閉ざされた「共同体の民俗学」から開かれた「公共性の民俗学」へという意志と思想が潜在しているのではないか。成員を統合する価値だけで結びつくのではなく、絶えず外側から価値を導入し、変化していくのだ。また主流に対する傍流を重視すること、つまりオルタナティブの側に立って学問を推し進めていったことも特筆すべきであろう。
 こうした宮本の民俗学の底流にある「思想」を解き明かしていくために、まず宮本の代表作とされる『忘れられた日本人』を読み進めていきたいと思う。
 (つづく)
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 ・・・
  古代から、日本には政治権力・宗教権威・天皇の権威つまり「天皇の御威光」の三竦み鼎立で安定していた。
 江戸時代、天皇の権威=天皇の御威光が御所や神社の奥に下がり代わって庶民が準主役として社会の表舞台に現れた。
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 🌈19)─1─日本の道徳・規律・規範は天道様崇拝であって武士道精神ではない。〜No.37No.38 ② 
 日本の「お天道様」は、キリスト教の全知全能の神ではなく、儒教の天・天帝でもなく、ユダヤ教イスラム教の絶対神でもない。
 お天道様は、何となくの崇拝宗教であって律法・戒律の啓示宗教ではないので、信仰を契約して入信した信者・教徒はいない。
 日本民族は、お天道様崇拝者である。
 お天道様とは、天皇家の祖先神である女性神天照大神である。
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 トライイット
 ホーム社会中学社会中学歴史江戸時代武士による支配
 中学歴史
 身分別の人口の割合 幕末のごろ
 総人口約3,200万人
 百姓が全体の85% たった7%の武士はどうやって支配する?
 江戸時代における、 身分別の人口の割合 が示されています。
 一番多いのが 百姓 (農民)で、人口の85%を占めていますね。
 その次に多いのが7%の 武士 です。
 3番目に多いのが5%の 町人 ですね。
 町人には2種類あり、 工業の担い手である工人と商業の担い手である商人 に分かれていました。
 そのほかには、えた・ひにんといった被差別階級の人々1.5%
 公家・神官・僧侶、その他1.5%。
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 江戸時代は庶民の時代で、武士道は社会の片隅であった。
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 現代日本人が憧れ持て囃す武士道は、江戸時代後期、ロシアの軍事侵略危機までは存在しなかった。
 武士道は、明治時代の近代化によって、外敵の侵略から天皇・国・民族、宗教・文化を守る為に民族主義愛国心の中から生まれた。
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 日本の総人口は、江戸開府の1600年頃では約1,200万人~1,800万人で明治5(1872)年には約3,295万人(琉球人とアイヌ人を除く)に増加していた。
 人口増加は、慢性的な乳幼児死亡率が高い中で起きていた。
 江戸時代の人口増加を支えていたのは、伝統を伝承する継続的リノベーションと一新する破壊的イノベーションであった。
 江戸時代は人口が微増して、人生50年といわれ、年齢的人口構成は若者が多く老人が少なかった。
 平均寿命は30歳前後と言われ、14~15歳で元服(成人)し家督を継いで出仕し役職について働いた。
 早ければ30歳で、遅くとも40~50歳で隠居して一線から退いた。
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 日本とくに日本民族では、マルクス主義共産主義無政府主義による人民革命は起きない。
 もし人民革命が起きるとすれば、日本人から日本民族が消滅もしくは少数派となり外国移民の日本国民に入れ替わるもしくは多数派になったときである。
 何故なら、マルクス主義共産主義無政府主義とは反天皇反民族反日本だからである。
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 庶民にとって、領主・大名・主君が誰であったも関係ない。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
 一説によると、日本人奴隷として輸出した人数は、ポルトガル商人が5万人以上で、スペイン商人はふめいである。
 これが、南蛮貿易に隠された暗黒史である。
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 反権力・反権威・反体制的な庶民は、社会秩序に反逆する野伏せりや悪党であり、そして天皇を命を捨ててでも守ろうとした勤王派・尊皇派であった。
 その代表的人物が、楠木正成であった。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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 日本人は、悪人、罪人である。
 故に、親鸞はそうした救われない哀れな日本人は阿弥陀仏阿弥陀様)が救ってくださると、「悪人正機説」で他力本願を説いた。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・野伏せり・悪党、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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