⚔18)─4・B─戦国時代の日本人の価値は20~30銭(2〜3千円)であった。1571年。~No.74 

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 2024年3月18日 YAHOO!JAPANニュース WANI BOOKS NewsCrunch「1571年「日本人奴隷の買い付け禁止令」が出されたほどの悲惨な歴史
 1571年「日本人奴隷の買い付け禁止令」が出されたほどの悲惨な歴史
 15~16世紀、当時の日本がアフリカや中南米諸国のように国を滅ぼされず、今日まで独自の文化・伝統を保持できた背景には軍事力、そして徳川家康の外交方針の転換があった。しかし、その期間に奴隷として売り飛ばされた日本人は5万人ほどにもなる。情報戦略アナリスト・山岡鉄秀氏が、当時の状況を解説します。
 ※本記事は、山岡鉄秀:著『シン・鎖国論 -日本の消滅を防ぎ、真の独立国となるための緊急提言-』(方丈社:刊)より一部を抜粋編集したものです。
 ◇世界中に植民地を拡げたスペインとポルトガル
 2021年に実施された中学校の新学習指導要領で復活するまでの数年間、中学教科書では「鎖国」という言葉が使われていなかったことをご存じでしょうか。
 「鎖国」という言葉は、江戸末期の蘭学者・志筑忠雄(しづきただお)が、オランダ商館医だったケンペルの『日本誌』を翻訳したとき(1801年)に造語したのが始まりなので、徳川家光が「鎖国令」を発したと教えるのは正しくないということから、2017年の学習指導要領改定案で「鎖国」ではなく、「幕府の対外政策」という用語に変えられていたそうです。
 また鎖国といっても、外国との貿易は、長崎を基軸としながら、松前対馬・薩摩の各藩に対外関係の「口」を担わせる形で行われていたのだから、鎖国と呼ぶのはふさわしくないというのが、1980年ごろからの歴史学の流れだったようですが、教育現場から、「開国」を教えるのに「鎖国」という前段がないと指導しにくいという声が上がり、復活したそうです。
 なぜ、当時の日本は鎖国を実施できたのでしょう? 大航海時代に日本が対峙していたのは、アフリカ・中南米、そして当時のアジアを次々に侵略蹂躙し、植民地に変えていったスペインとポルトガル。そして、オランダやイギリスも、アジアに東インド会社を作って支配を進める強力な軍事覇権国家でした。
 当時、世界を二分していたカトリック国であるスペインとポルトガルは、世界中に植民地を拡げましたが、そのやり方は悪逆非道の極みと言えるものでした。彼らが異教徒をどう扱うべきかバチカンに問い合わせたところ、「異教徒は人間と見なさずともよい」とのお墨付きを得ていたことが、その背景にあります。
 1452年、ローマ教皇ニコラウス5世が、ポルトガル人に対して「異教徒を奴隷にする許可」を与えたことで、奴隷貿易は正当化され、相手は人間でないと思えたからこそ、倫理的な罪悪感を全く持つことなく、徹底的に残酷になれたのです。
 ポルトガルは、13世紀ごろには人口も少ない小国でしたが、モロッコからアフリカ西岸を回って次々と侵略を始めます。部族抗争を繰り返すアフリカの一方の部族にだけ武器を与え、敗れた部族を奴隷としてたたき売るという行為を繰り返しました。
 ポルトガルはアフリカ南端を回り、14世紀にはインド、東南アジアを経て、1543年には種子島に鉄砲が、その6年後にザビエルが鹿児島に上陸するに至ります。
 ポルトガルに後れを取って焦っていたスペインに取り入ったのが、イタリア人のコロンブスでした。スペイン女王イサベル1世の支援を得たコロンブスは、ポルトガルとは反対に大西洋を渡り、1492年に西インド諸島サンサルバドル島に上陸します。
 水や食料を提供してくれた原住民の純朴さと均整の取れた体を見て、コロンブスは「これは素晴らしい奴隷になる」と考えました。そして翌年、軍隊と軍用犬を満載して再びこの島を訪れると、原住民の村々を徹底的に破壊し、略奪・殺人・放火・拷問・強姦の限りを尽くしたのです。
 近年、過激な左翼リベラリズムの影響で、キャンセルカルチャーの嵐が吹き荒れているアメリカでは、コロンブス銅像が引き倒され、破壊されています。行き過ぎたキャンセルカルチャーは全く肯定できませんが、その背景に恥ずべき歴史への嫌悪があるのは事実でしょう。
 中南米には古代から高度な文明が栄えていましたが、スペイン人によって無残にも滅ぼされてしまいました。1521年、メキシコ中央部に栄えていたアステカ王国は、スペイン人コルテスによって滅ぼされ、現在のペルー・ボリビアエクアドルにまたがって栄華を誇っていたインカ帝国は、1533年にピサロによって滅亡させられたのです。
 スペイン人は、これらの国々から莫大な金銀財宝を略奪し、本国に運び込みました。さらに、原住民を銀鉱脈の採掘に駆り出して強制労働を課し、大量の銀をヨーロッパに持ち帰りました。酷使され虐待された原住民の人口が激減すると、今度はアフリカ人が代替労働力として用いられることになり、奴隷貿易はさらに拡大したのです。
 ◇武力制圧の企図を挫かせた日本の軍事力
 世界中でこうした悪逆な支配を拡大していたポルトガル人やスペイン人であるのに、なぜ日本では同様の支配ができなかったのか? 布教活動によって一部の大名をキリシタン大名にし、権益を得ることまではできたものの、どうして最終的に排除されてしまったのでしょうか?
 それは、日本の軍事力が優れていたからです。火砲に関して言うと、1543年に中国商船に乗って種子島に漂着したポルトガル商人から買った2丁の火縄銃は、すぐに刀鍛冶の手で複製され改良されつつ、堺や近江などで瞬く間に大量生産されるようになりました。
 日本には鉄も少なく、火薬の原料となる硝石は輸入に頼るしかなかったのですが、安土桃山時代から江戸初期にかけての日本の鉄砲所有数は、世界有数だったことは確かであるとされています。
 もし、日本が軍事的に弱かったなら、アステカ王国インカ帝国のようにいとも簡単に支配を許し、滅ぼされるか、それ以外の「非白人」と同様に植民地化されていたことは間違いありません。今の中南米諸国のようになっていたはずです。強い軍事力が、武力制圧を企図させない抑止力として間違いなく働いていました。
 ◇領民を奴隷として売ったキリシタン大名たち
 しかし、いつの世にも売国奴はいるもので、九州のキリシタン大名がそれです。たとえば、長崎港を開港した肥前国大村純忠は、ポルトガル人から鉄砲や火薬など最新兵器の供与を受ける見返りとして、イエズス会の神父から洗礼を受け、日本で最初のキリシタン大名となったのですが、武器弾薬を求めた動機は、お家騒動に勝利するためでした。
 その信仰は過激で、領民たちに改宗を強要し、拒否する仏教の僧侶や神官は殺害しました。さらに神社仏閣も破壊すると、その廃材をポルトガル船の建材用に提供したのです。先祖の墓も壊し、改宗に従わない領民を奴隷として海外に売り飛ばしました。武器購入の代価にされたのです。
 豊後の国の大友宗麟は、宿敵・毛利元就を撃退するために、火薬の原料である硝石の供給をイエズス会から受け、鉄砲戦によって毛利を破ると洗礼を受けてキリスト教徒となり、今度は十字架を掲げて日向国に攻め入りました。
 大友宗麟の野望は、日向国の全領民をキリスト教徒に改宗させ、ポルトガルの法律と制度を導入してキリスト教の理想郷を建設することで、宣教師たちの言いなりになって現地の神社仏閣を焼き尽くしました。
 島原半島南部を支配していた小領主の有馬晴信大村純忠の甥)は、龍造寺隆信に圧迫されると、イエズス会からの支援を得るために洗礼を受け、キリスト教徒となりました。
 軍事力を強化して和睦に成功すると、宣教師の求めるままに、家臣・領民の入信に加えて、40か所以上の神社仏閣を破壊したばかりか、領内の未婚の少年少女を捉えて奴隷として献上し、さらに浦上の地まで差し出してしまいました。
 これらキリシタン大名によって、世界中に奴隷として売り飛ばされた日本人は5万人ほどになると言われています。それを目撃したのが、大村純忠キリシタン大名の名代としてローマに派遣した天正遣欧使節の少年たちでした。
 彼らは航海の途中、海外のさまざまな土地で、子どもまで含めた日本人男女が奴隷として使役されているのを見て、大きな衝撃を受けます。
 ちなみに、日本にいたポルトガル宣教師が奴隷売買の酷さを見かねて、当時のポルトガル王のドン・セバスチャンに進言した結果、1571年に「日本人奴隷の買い付け禁止令」も出されたのですが、奴隷売買はなくなりません。
 ポルトガルの奴隷商によって買われ、ブラジル・アルゼンチン・ペルーなどに売られた日本人奴隷の記録は、多くの公文書に残されています。
 ◇徳川家康が変えた日本の外交方針
 秀吉の死後、五大老による合議制が敷かれていた時期、筆頭大老だった徳川家康がもっていた外交観は、貿易と布教は分離できるというものだったようです。
 ポルトガルとの貿易によって大きな利益を得ている長崎や九州を見て、貿易を優先すべきと考えていた家康は、当初、キリスト教に対して寛大な姿勢で臨んでいたのですが、やがて「スペイン・ポルトガルキリスト教布教と同時に日本を武力により支配しようとしている」との情報を得て、外交方針を変えていきます。
 スペインは、信者を増やして日本を支配したあとは、日本を拠点として明に攻め入り、いずれは明も征服しようという長期計画を持っていました。
 家康は、1612年には天領(幕府直轄地)に、翌1613年には全国に「禁教令(キリスト教禁止令)」を将軍秀忠の名で交付させます。「キリスト教は侵略的植民政策の手先であり、人倫の常道を損ない、日本の法秩序を守らない」と激しく糾弾する内容でした。
 ここに鎖国体制が始まり、キリスト教禁止令はその後、じつに1873年明治6年)まで続いたのです。
 山岡 鉄秀
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 戦後民主主義教育は、学校で嘘の歴史を子供達に教えてきた。
 そうしたウソの歴史をエセ保守やリベラル左派の教師・学者に教えられ、メディアや知の巨人と称される知識人・教養人の薫陶を受けたのが、日本を動かしている上級国民と呼ばれる超難関校出の高学歴な政治的エリートや進歩的インテリ達である。 
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© WANI BOOKS News Crunch「16世紀スペインがフィリピンで実行した「植民地にしていく3つの方法」
 藤井 聡
 グローバリズム植民地 ニッポン 
 16世紀大航海時代に始まった植民地支配。スペインに征服されたフィリピンでの植民地政策がどんなものだったのか? グローバリズムに詳しい藤井聡氏に解説してもらった。
トップ ビジネス・社会 16世紀スペインがフィリピンで実行した「植民地にしていく3つの方法」
 大航海時代に発見された大陸の多くで、欧州各国の活性化のための植民地支配が始まりました。植民地となった「属国」は、支配者である「宗主国」のいわゆる奴隷となり、宗主国の利益のための政策が展開されました。京都大学大学院工学研究科教授でグローバリズムに詳しい藤井聡氏が、16世紀のスペインに征服されたフィリピンの植民地政策について解説します。
 ※本記事は、藤井聡:著『グローバリズム植民地 ニッポン -あなたの知らない「反成長」と「平和主義」の恐怖-』(ワニブックスPLUS新書:刊)より一部を抜粋編集したものです。
 「植民地」という“かりそめの国”
 植民地とは、主として欧州各国が16世紀から20世紀にかけて、アジア・アフリカ・南アメリカの国々を軍事的に征服したうえで実行していた支配形態です。植民地支配がもっとも激しく進められたのが、第一次大戦前後の時期で、20世紀初頭の頃には、ヨーロッパ系白人が地球上の土地の84%を支配するに至ります。
 こうした植民地支配は、大航海時代に遡ります。15世紀、欧州の海洋航海技術の進展で、地球上のあらゆる地域への「大航海」が可能となりました。当時の大国であったスペインやポルトガルが、この大航海を積極的に行い、コロンブスアメリカ大陸を「発見」しています。その後、両国は大航海を繰り返し、訪れた地の原住民たちを圧倒的に強い軍事力にものをいわせて、植民地として支配するようになっていきました。
 その典型的な植民地の一つが、フィリピンです。フィリピンは16世紀にスペインに征服されて植民地化され、スペインにいいように使われ、搾取されていきます。そして、19世紀末から20世紀中盤に「独立」するまで、今度はアメリカの植民地として同じように搾取されていました。
 ▲地図:pytyczech / PIXTA
 もともと複数の島から構成される現在のフィリピンには、それぞれの島を統治する複数の王国がありました。しかし、強大な軍隊を持つスペインが、フィリピンのそれら複数の王国を軍事的に制圧し、それらをまとめてスペインの植民地としたのでした。植民地にも、一応は「国」が存在してはいるのですが、その国は、支配者である「宗主国」の「属国」なのです。
 というより、このフィリピンの例では、宗主国が原住民から効率的に富・利益を吸い上げる(搾取する)ことを目的として“でっち上げられた国”が、植民地の国ということになります。つまり、植民地となった国とは、主人=宗主国の奴隷なわけです。奴隷ですから、主人のいいように使われます。自分で何かを決める自由などなく、主人の道具という存在意義しか与えられません。
 欧州で価値の高い「香料」が欲しかったスペイン
 では、宗主国がどのように属国である植民地を利用し、搾取していくのかと言えば、それには主に以下の三つの方法があります。
 原料供給地(香料や金、銀などの原材料・資源を供給させる=奪い取る)
 資本輸出地(資本輸出の輸出先にする。つまり鉄道・港等のインフラ投資や工場投資などを行い、自国のものとして利用する)
 商品輸出地(貨幣経済を導入させたうえで、宗主国でつくったものを買わせる)
つまり、宗主国はまず、属国のなかにある価値あるもの(香料や金、銀など)を奪い去ります。もちろん、その採掘や生産については原住民たちに強制させます。すなわち、原住民の「労働力」を活用するわけです。これが「原料供給地」としての活用です。
 もともとスペインは、フィリピンに欧州で価値の高い「香料」があると見込んで植民地としたのですが、この狙いは外れ、あまり香料が取れないということがわかります。
 続いてスペインは、このフィリピンの地を交易の中継基地として活用していきます。当時、アジアとの交易は、欧州の国々に巨万の富を与えたからです。そして、19世紀にはマニラに大規模な港をつくり、さらに交易を加速していきます。さらにスペインは「プランテーション農場」をフィリピンの地につくり、欧米で高く売れるタバコやマニラ麻や砂糖などを原住民を使って生産させていきます。
 こうしてスペインは、港や農場という「資本」をフィリピンの地につくっていき、それを使ってビジネスを展開し、カネ儲けをするようになっていったわけです。すなわち、スペインはフィリピンを「資本輸出地」として活用していき、自国ではできないビジネスを、フィリピンという植民地の土地と原住民の労働力を使って、低コストで展開していったのです。
 以上が「原料供給地」と「資本輸出地」としての植民地活用のあらましですが、宗主国はこの二つに加えて、もう一つ、重要な搾取アプローチを展開します。
 それが、「商品輸出地」としての活用です。
 「カネ儲けマシーン」に変えられた原住民たち
 以上に述べたのは、宗主国による植民地の「土地」「資源」「労働力」の搾取・収奪という話しでした。
 ですが、この商品輸出地としての活用するのは植民地の「需要」なのです。この植民地の「需要」というものは、16世紀や17世紀の頃はさして重視されませんでしたが、19世紀以降の帝国主義の時代には、欧米列強から植民地政策における最も重要な政策として位置づけられるものとなっていきます。
 そのように植民地政策の方針が転換されたのは、19世紀からの帝国主義の時代、宗主国となった欧州各国は皆、デフレ不況に苦しんでいたからです。
 つまり、生産能力が過剰になり、自国の需要だけでは、生産したもの全てがさばききれない状況になってしまっていたのです。ですので、欧州各国は過剰生産を消費してくれる「需要」を渇望する状況にあり、これが帝国主義=植民地による支配が地球上で横行した主な原因だったのです。
 つまり欧州各国は、当時、需要不足を解消する方法として、その国の人々に自国の売れ残った品物を無理矢理売りつけたわけです。こうして宗主国は植民地の人々の需要を収奪し、自国民の産業を活性化させ、賃金水準を維持し高めていくという格好で、植民地を自国のために都合良く利用した経済成長を図ったわけです。
 ただし、そうして無理矢理に自国製品を売りつけ、原住民たちの人々の需要を奪い去るためには、彼らが「貨幣」というものを使っていなくてはなりません。ついては、宗主国側は、属国に対して「貨幣」というものを持ち込んで、それを軸とした「貨幣経済」を作り上げることとしたのです。
 宗主国はそのために、まず「徴税」という概念を持ち込みます。つまり、原住民はそこで生きているだけで、それまで見たことも無い「オカネ」なるものを手に入れて、それをお上(宗主国)に毎月毎月支払わないといけない、という状況を宗主国側が作り上げるわけです。
 そうすると、住民たちは必死になってオカネを稼ごうとして、同じく宗主国が経営する農場なり工場なりで働くようになります。こうして徴税という仕組みを使って、原住民たちを「カネ儲けマシーン」に仕立て上げることを通して、資本主義における「労働者」にするわけです。
そして、それと同時にモノやサービスを買うときにはオカネを使うように仕向け、「消費者」に仕立て上げていきます。そしてそういう制度設計アプローチを通して、その国のなかに「貨幣経済」を作り上げていくのです。
 そのうえで宗主国は、自分の国でつくった多くの商品を植民地の原住民に売り飛ばし、原住民の需要を収奪していったわけです。それと同時に、先に述べた「資本輸出」で、現地に工場や鉄道などをつくることでも、植民地に新たな需要を発生させることができるのです。
 ▲マニラ大聖堂 写真:Richie Chan / PIXTA
 宗主国スペインは、こうして「徴税システムの導入」「貨幣経済の導入」という壮大な改革を敢行したうえで、フィリピン人たちの「需要」を収奪すると同時に、新たな「投資需要」を産み出すことに成功したわけです。
 なお、このフィリピン人たちの需要収奪は、19世紀末にスペインのあとにフィリピンの宗主国となったアメリカが、特に強力に展開していった収奪方法でした。
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 2022年8月28日 WANI BOOKS News Crunch「二束三文で売買されていた戦国時代の日本人奴隷たち
 濱田 浩一郎濱田 浩一郎
 戦国の「こわい」話 第3回
 学校などで歴史を学ぶ際に出てくる「奴隷」という単語は、どこか海の向こうの話と感じている人も多いのではないでしょうか? 日本人も奴隷売買に関わってきているのです。
 トップ 暮らし・教養 二束三文で売買されていた戦国時代の日本人奴隷たち
 夏といえば怖い話。ここでは怪談話とはちょっと違う、現実にあった戦国時代の「こわい」話を紹介します。学校などで歴史を学ぶ際に出てくる「奴隷」という単語は、どこか海の向こうの話と感じている人も多いのではないでしょうか? しかし日本人も奴隷売買に関わってきているのです。教科書にはあまり載らない「こわい」話を、歴史作家の濱田浩一郎氏に聞きました。
 「奴隷ビジネス」に手を染めていた人たち
 織田信長の一代記『信長公記』(著者は信長の家臣・太田牛一)のなかには「人売り女の話」が載っています。京都下京の木戸番〔町ごとに区分けされていた際の出入り口となった木戸の番人〕をしている男の女房がいたのですが、彼女は、長い年月にわたって、多くの女性をかどわかして、和泉国堺に売り飛ばしていたというのです。
 織田政権で京都所司代を務めた村井貞勝は、この話を聞きつけ、木戸番の女房を捕らえ、尋問します。すると、その女の口からは、自分一人で「80人の女性を売った」との言葉が。
 この女は「成敗」されますが、木戸番の女房というある意味、普通の女性がそのような悪事を働いていたことに慄然とします。人を売る、人を買う、いわゆる人身売買は、他にも行われていました。
 信長死後、豊臣秀吉の時代、秀吉は伴天連追放令を出します(1587年)。追放令の前日(6月18日)には「明国や東南アジア、朝鮮に日本人を売り渡していることは悪事である。日本において、人の売買は禁止する」との 秀吉の命令が出ています。
 これは、在日の宣教師に向けて出されたものです。つまり、秀吉は、日本人の売買に、宣教師が関与していると考えていたのでした。いや、秀吉は宣教師のみならず、商売のために来日するポルトガル人やシャム人、カンボジア人が多くの日本人を連れ去り、奴隷として連行していると考えていました。
 よって、秀吉は「遠方に売り飛ばされた日本人を日本に連れ戻すように計らえ。それが難しければ、ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。自分がその代金を払おう」と、宣教師に詰め寄っています。その宣教師は「自分たちも、人身売買を止めさせようと努力してきました。しかし、重要なことは、海外の船が来航する港の領主らが、それを禁止することでしょう」と弁解します。
 つまり、自分たち宣教師は、日本人の売買に関係していない。先ずは、日本人を売っている「日本人」を何とかして取り締まるべきだと主張したのです。
 しかし、来日したポルトガル人による「奴隷ビジネス」は盛行を極めていました。 特に女奴隷が価値があったようですが、多くの日本人男女の奴隷が、ポルトガルに連行されたことから、ポルトガル国王のドン・セバスティアンは、日本人奴隷の取引を禁止する命令を出しています(1571年)。
 ▲セバスティアン1世  所蔵:プラド美術館(ウィキメディア・コモンズ)
 この禁止令は、在日宣教師の要望により、出されたとされます。宣教師たちは、広範な日本人奴隷連行が、布教活動の障害になると考えたのでしょう。
 しかし、秀吉の時代にも、未だ奴隷ビジネスが盛んだったことを考えると、国王の命令も意味をなしたようには思えません。
 天正遣欧少年使節が見た日本人奴隷
 さて、天正10年(1582)、本能寺の変が起きた年に、4名の少年が九州のキリシタン大名の名代として、ローマに派遣されます。有名な天正遣欧少年使節です。
 その少年たちは、旅の途中で多くの日本人奴隷の姿を目撃します。しかし、彼らの怒りの矛先は、買ったポルトガル人ではなく、売った日本人に向けられています。正使の千々石ミゲルなどは「同国人をさながら家畜か駄獣のように、安値で手放す我が民族への激しい怒りに燃えた」と語ったと言います 。
 少年たちは、マカオ・マラッカ・ゴアを経て、アフリカ南端の喜望峰を周り、ポルトガルに入っています。その旅の途中で「多数の男女やら、童男・童女」――つまり日本人奴隷が惨めな境遇にあるのを見たというのですから、アジアや東南アジアにも多数の日本人奴隷が存在していたことがわかります。しかも成人男女のみならず、少年・少女も奴隷として売買されていたのです。
 ▲天正遣欧使節肖像画 所蔵:京都大学図書館(ウィキメディア・コモンズ)
 前述の宣教師は、我々は日本人売買に関与していないと弁解していたが、宣教師が「奴隷交易許可状」を出しており、無関係とは到底言えませんでした。
 イエズス会宣教師も奴隷貿易に関与していたのです。さて、秀吉による伴天連追放令が出たあとも、イエズス会の要請により、日本人の奴隷取引を禁止する旨(1591年)が出されていますが、厳格に守られたようには見えません。
 1603年にも、ポルトガル国王から同内容の禁令が出されているからです。しかも、国王はインド・ゴア市から抗議を受けると「正当な理由があれば、日本人奴隷の取引を禁じるものではない」との意向を示しています。これは、日本人の奴隷取引がどれだけ儲かるものであったかを示しているでしょう。
 戦国時代の奴隷になった人々は、ごく普通の人々でした。他国の大名(武将)に攻め込まれ、そのときに捕らえられた男女・子どもが奴隷として売られたりもしていたのです。少しの金欲しさに自分の親や妻、子を売る例もあったようです。
 奴隷の値段は二束三文、20~30銭(2〜3千円)で売買されることもありました。現代のアフガニスタンにおいても、人身売買や臓器売買が横行しているようですが、幼い娘を売ることによって得られるお金は16万円ほどだそうです(臓器は約30万円)。安易な比較は慎むべきかもしれませんが、戦国日本の奴隷(人身)売買の酷さ、凄まじさがわかろうというものです。
 冒頭に記した木戸番の女房にかどわかされた女性80人も、全員ではないにしても、海外(東南アジアやポルトガル)に売り飛ばされ、悲惨な境遇に落ちた可能性があります。
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