⚔48)─1─徳川幕府は、国禁を破って密入国する犯罪者・宣教師を阻止する為にスペインと断交した。~No.209No.210 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 徳川家康は、スペインとの南蛮交易を希望した。
 スペインは、キリスト教布教を認めてくれれば南蛮貿易の継続を認めると答えた。
 家康の外交顧問イギリス人のアダムズは、スペインの意図は「キリシタンを増やして宗教戦争を起こし、日本をキリスト教国に改造する事である」と警告した。
 当時、日本国内には30万人以上(総人口約1,200万人)のキリシタンが存在していた。
 徳川家康は、一向宗との悲惨な宗教戦争を経験していただけに、キリシタンによる戦争を避ける為に、スペインとの南蛮貿易を断念した。
 中世キリスト教会は、各修道会に対して日本のキリスト教化を命じていた。
 キリスト教原理主義者は、神聖な使命を完遂すの為ならば武力を使用する事も厭わなかった。
 その証拠が、徳川家康豊臣秀頼が戦った大坂の陣であった。
 日本人キリシタンは、信仰の自由を守る為に大坂城に入城して徳川軍と戦った。
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 キリスト教原理主義者や日本人キリシタンは、日本から九州を切り離して独立させキリスト教国を建設しようとしていた。
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 1637〜38年 島原の乱
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 ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ』
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 Ⅱ フィリピン
 カガヤンとリンガエン
 16世紀中葉から17世紀の、フィリピンに在住した日本人コミュニティに関する情報の大半は、岩生成一による先駆的かつ網羅的な研究(岩生1987)と、スペイン人研究者ホセ・エウゲニオ・ボラオの近年の研究(Borao1998、2005)に負うところが大きい。いずれも、日本とフィリピン地域間の商業と外交を研究し、1570年から1637年まで、フィリピンにあった日本人のコミュニティの具体像を体系的に明らかにするものである。
 スペイン側の文献に最初に登場する日本人の居住区はルソン島北部のカガヤンにあった。同時にそこでは、日本人とスペイン人の間で最初に衝突が起きたことが知られる。1582年、フィリピン総督ゴンサロ・ロンキージョ・ペニャローザは、カガヤン川河口に船長ファン・パブロ・デ・カリオンを送り、軍事行動の指揮を執らせた。ファンは中国船数隻とそこにいた日本船1隻を攻撃した。さらに航海の途中、18隻の日本のサンパン船(平底の木造船)と戦闘に及んだ。スペイン語の文献によれば、艦隊長とその息子、および200人以上の日本人が殺害されたという。ファン・デ・カリオンはその地に住み着き、日本人の追放を試みた。その時、カガヤンには600人以上の日本人が居住しており、スペイン人の入植者に対して抵抗したが、すぐに鎮圧された。
 その後、1586年に大村から商船1隻がこの地を訪れるまで、日本人に関する情報は見当たらない。以下ではボラオの研究に従って、初期スペイン領マニラと日本人の関係について概略を述べる(Borao2005)。
 日本人が頻繁に通商をおこなった別の地域に、リンガエンが挙げられる。日本人はそこに小さな港を作っていた。ミゲル・デ・ロアルカの報告によると、その港はポルト・デ・ロス・ハポンネセスと呼ばれた(スペイン語で『日本人の港』を意味する)。この港は16世紀から17世紀初頭まで栄えた。1618年、フィリピン総督は皮革製品がこの地域の主要産品であり、日本人商品が毎年日本に6万から8万頭分の鹿皮を積み出していると、スペイン当局に伝えている。
 マニラ在住の日本人に関する情報は、1570年のマルティン・デ・ゴィティの記録に、彼がそこへ到着した時、40人の中国人と20人の日本人に出会った、と書かれている。日本人の一人はパブロという洗礼名を持つキリシタンであった。彼は聖画を見せながら、スペイン人にロザリオを求めた。マニラがフィリピン諸島の交易の中心地になると、日本人商人はカガヤンとリンガエンから徐々にマニラへ移住し始めた。1583年、マカオーマニラ間に通商が始まると、日本人の多くはマカオ経由で、マニラへ到着し始めた。
 マニラ当局と日本人
 当初、マニラでは、スペインの植民地当局と日本人コミュニティは互いに警戒し合っていた。1584年、フィリピン総督はマカオから来たポルトガル商人バトロメウ・ヴァズ・ランディロの2隻の船から軍事的支援を受け、サングレイ(在住中国人)の反乱を鎮めることができた。しかしその3年後、日本人コミュニティに対しても反乱の疑いが持たれ始めた。豊臣秀吉が『伴天連追放令』(1587年)を発布した後、1隻の日本船がマニラへ到着した。その乗組員らが反乱を教唆しているという疑惑が浮上し、船員数名が逮捕 され、通訳ディオニシオ・フェルナンデスが処刑された。
 1588年、平戸から別の日本人の商船がマニラに到着し、乗組員に商売が許された。この船がマニラを発った後、1589年に今度はキリスト教関係者と思われる日本人の一行がやってきた。彼らが日本へ出港すると、マニラの防備が増強された。そのキリスト教関係者たちは実はスパイで、秀吉が近い将来、マニラに軍事攻撃を仕掛けるために、この地域を隅々まで偵察していたという疑いがもたれたからである。その時期、マニラの日本人コミュニティはマニラ郊外のディラオへと強制的に移され、武器は没収された。
 1593年6月の時点で、このコミュニティには300人以上の日本人がいたことが確認される。その数には、一時的に商用で滞在していた者は含まれないので、定住者の実数であった。その数は、その後2年間で3倍以上に膨らんだ。フランシスコ・デ・ミサスの書簡には、マニラ在住の日本人は、1595年の時点で1,000人以上であったと記される。その急激な増加の原因は、マニラと長崎間の日本船による通商が、1590年代前半に盛んになったためであると考えられる。
 1596年、フィリピン総督ドン・ペドロ・デ・アクーニャはファン・デ・ガリナートを将軍として、カンボジアに遠征軍を派遣した。その軍隊には日本人傭兵が多数参加していた。マニラの日本人コミュニティがスペイン当局に軍事的な支援を提供したのはこれが初めてであり、同様のことがその後も度々おこなわれた。
 同年、ガレオン船サン・フェリペ号が、マニラからアカプルコへ往路、四国沖で遭難し、土佐浦戸に漂着した。当時の海難に関する国際法では、漂着船の然るべき救助は義務であったが、日本の法令に従って、秀吉は積荷没収を命じた。またそれに関連して、フランシスコ会宣教師や日本人キリシタン、合わせて26人が、上方から長崎へ送られ、西坂で処刑された。その報復として、スペインのマニラ総督府は日本人追放を決定し、マニラ周辺の日本人定住者数は500人にまで減少した(Borao2005)。
 1598年頃、この日本人コミュニティは徐々に活況を取り戻した。その年、日本人傭兵の一団が総督ルイス・ペレス・ダスマリニャアス(在位、1593〜96)に随行してカンボジアへ向かった。1603年には、マニラで蜂起したサングレイの暴動をスペイン人が鎮圧するために、日本人が傭兵として動員された。ところが、サングレイのコミュニティ同様、日本人コミュニティもまた、スペイン当局に対して不満を抱き、反乱を起こした。
 最初に記録される日本人の暴動は1606年のものである。そのきっかけはマニラの王立大審問院(レアル・アウディエンシア)が公布したマニラからの日本人追放令であった。反乱は教会関係者らの介入により、未遂に終わった。しかし、翌1607年から08年にかけて、新たな反乱が発生し、コミュニティはスペイン軍による鎮圧で壊滅状態となった。
 同年、ビベロ・デ・ベラスコの外交使節徳川家康に対し、マニラへ来る日本人は商人と船員に限るよう依頼した。1608年8月6日に使節一行を受け入れた家康は、フィリピンで暴動を起こす日本人はすべて処刑されることに同意した。しかし、実際には、日本人傭兵/海賊のマニラ定住を阻止するための、具体的な対策は採られなかった。
 日本人コミュニティ
 1614年12月21日、江戸幕府の禁教令を受けて、マニラに33人の教会関係者と100人以上の日本人が渡った。その中には、秀吉の有力な家臣であった高山右近内藤如安もいた。右近の没後、故国へ帰れない日本人たちは、内藤如安の指揮の下、マニラにサン・ミゲル居住地を築いた。そこには、若者たちが将来日本に帰還する可能性を配慮し、キリスト教の布教に役立つよう、セミナリオ(神学校)のような施設も建てられた。
 その後日本人コミュニティは1608年から15年の間に再建され、日本人傭兵はフィリピンの駐屯部隊において、重要な地位を占めるようになっていった。一例を挙げれば、1615年、500人近くの日本人傭兵が、総督ファン・デ・シルバ率いる対オランダ遠征隊に加わり、マラッカ海峡へ向かった。その際、マニラに残された兵士たちは、スペイン人500人と日本人およびパンパンゴ先住民総計700名で、オランダの攻撃からマニラを守るため、海上警備にあたった。
 1619年の時点で、日本人コミュニティの人口は約2,000人であった。翌年には、3,000人との記録がある。1623年12月31日には、さらに3,000人以上へと増加していた。マニラ在住の日本人が急増した背景には、日本とマニラの間の通商往来が盛んになっていたことが考えられる。
 日本からは朱印船だけではなく、長崎在住のヨーロッパ人がフィリピンへ来航するようになっていた。ここでで『ポルトガル人』はなく『ヨーロッパ人』という言葉を用いるのは、長崎に定住して交易に従事するヨーロッパ人は、ポルトガル人に限らなかったからである。1619年11月22日、ドン・フェルナンド・デ・フィゲイロアを船長とする船が、長崎からマニラへ入港した。その船には、ポルトガル人4名、ビスカヤ人2名、フランドル人1名、ガリシア人1名、カスティーリャ人1名、ジェノバ人1名が乗っていた。日本人に関する記述はとくに見当たらないが、日本人の乗組員も当然いたはずである。
 1620年5月11日には、マニラの外港カビテ港にサント・アントニオ号が長崎から到着した。その船は、同年3月26日に長崎を出発したが、船長は、長崎在住の有力なポルトガル人商人、マヌエル・ロドリゲス・ナヴァーロであった。そこには、101人の日本人船員が乗り組んでいた。
 呪術を使う日本人奴隷
 傭兵や船員といった職業で語られる場合、基本的に彼らは奴隷ではなく自由民である。マニラには自由民の日本人以外にも、多くの『奴隷身分』の日本人が市内に居住していたとされるが、その実態はほとんど不明である。
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 マニラ在住の日本人は、傭兵などを生業(なりわい)とする男性にとどまらず、女性もいた。そもそもマニラは、現地の部族や華人など、多種のエスニシティで成り立つ社会であり、混血もよく見られた。
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 フィリピンと日本の断交
 16世紀末、マニラの日本人コミュニティとスペイン人支配層との関係は、比較的安定していたのに対し、17世紀に入ると、スペイン当局とマニラ在住日本人との関係は悪化し始めた。1619年と1623年には、複数の日本人グループがマニラを離れ、スペインにとっては最大の敵であるオランダ艦隊に加わった(Iwao1943)。
 1624年、フィリピン総督アロンソ・ファハルド・イ・テンザ(在位、1618〜24)が派遣した使節江戸幕府は拒絶した。それによって、スペイン領フィリピンと日本との関係が正式に絶たれることになる。その理由は、キリスト教宣教師がマニラから密入国してくるのを阻止するためであった。
 例外として、1630年、2隻の船がマニラにやってきた。これは1628年にアユタヤで起きた、スペイン船による高木作右衛門の朱印船焼き討ち事件に関して、マニラの状況を偵察する(軍備などを調査して征服の可能性を探る)ためのものであったと言われる(岩生1934)。1隻は長崎奉行竹中采女(うねめ)が、もう1隻は島原領主松倉重政が派遣したものであった(スペイン側史料では、島津氏派遣と認識されたようである)。実際には、これらの船はマニラで商取引をおこなって帰っていった。以来、マニラ─日本間の通商は途絶え、人の往来もなくなった。稀有な事例として、1632年頃、130人の癩病(らいびょう)患者が日本からマニラへ送られるような事件があった(Iwao1943)。
 マニラの日本人コミュニティはその初期から、マニラの発展に重要な役割を果たしたと考えられる。しかし、17世紀には、スペイン人統治者の下で、在住日本人は不満を抱くようになり、多くの衝突が生まれた。スペイン当局は、必ずしも日本人の存在に対して良い感情は持っていなかったが、日本との交易の維持には、在住日本人の力が不可欠であったし、傭兵としても有能であったため、彼らを駆逐することはできなかったのである」
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 スペイン人・ポルトガル人の商人達は、日本人を家畜の様に扱い、アジア・アフリカ・ヨーロッパ・南北アメリカへと奴隷や傭兵として売って大金を稼いでいた。
 宣教師達は、キリスト教を広める布教活動の資金を得る為に日本人売買に協力していた。
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 東南アジア地域で商業活動していたのは、日本人・中国人・琉球人達であり、朝鮮人は居るか居ないか分からない程の極少数であった。
 積極的戦闘的に活動していたのは、日本人と中国人であった。
 半島に閉じこもっていた朝鮮人は、大きな船を建造して大海に乗りだし世界を相手に活動するという意欲は皆無で、小さな船を操り近海で少量の魚介類を獲る事で満足していた。
 朝鮮は、1000年以上の中華帝国の臣下・従属国として、中華皇帝に冊封し、朝貢を続ける事で苦労せずに富を得ていた。
 苦労を喜ぶ日本人と苦労を嫌う朝鮮人の想像・発想・行動が違うのはこの為である。
 日本人は南方系海洋民の子孫だり、朝鮮人は大陸系草原の民の子孫である。
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 スペインは、日本が強力な軍隊を派遣して植民地フィリピンを奪いに来る事を恐れていた。
 西洋は、日本を7つの世界帝国の1つと認識し、陸上の帝国に留まる中国は気にはしなかったが、海洋の帝国に変わる可能性のある日本は警戒した。
 スペインは、キリシタンを弾圧する反キリスト非白人の日本に対して疑心暗鬼となっていた。
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 中世キリスト教会とイエズス会は、朝鮮や中国をキリスト教化する為に日本の軍事力を利用するべく、スペイン人やポルトガル人の奴隷商人に対して日本人の人身売買禁止を通達した。
 キリスト教の隣人愛信仰や人道的人権的道徳的な意味から、日本人の奴隷売買禁止がなされたわけではない。
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 徳川幕府は、日本をキリスト教化しようとした中世キリスト教会やイエズス会との宗教戦争に勝利し、残党狩りとして残虐なキリシタン弾圧を続けた。
 日本国の秩序ある安定した国家を維持する為に、国への忠誠心より絶対神への信仰心を最優先に考え、自分中心の信仰を保てる海外への退去を拒絶し国内にしがみつく協調性のない不寛容なキリスト教は日本社会に有害であると断定し、そして断罪した。
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 徳川家康は、経教分離の原則で、排他性の強いキリスト教を取り除いたヒト・モノ・カネの柔軟な交易・商業交流を望んでいた。
 つまり、排他的不寛容な宗教性や非人道的不道徳な人身売買などを排除した、作り手・生産者、商人・仲介者、買手・消費者の三者が応分の利益を得る日本的商い(三方利得)を求めていたのである。
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 日本の精神風土は「罪は憎んでも人は憎まない」的な寛容性を持っていた為に、キリスト教を禁止しても棄教・転べば人を許し、キリシタンをなるべく殺さない為に「踏み絵」を踏んで信仰を捨てれば無罪放免とした。
 何故か。閉ざされた島国で、海外からの移住者を受け入れて人口を増やせなかったからである。
 だが、信仰を守る為に国外に出る事もせず国内に留まる条件である棄教も拒絶するキリシタンは、国法に従い犯罪者として厳罰に処した。
 日本人は、日本で生きる為に、信仰より命を優先して棄教を受け入れた。
 日本人の宗教・信仰とは、その程度に過ぎない。





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