関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
大航海時代を文明を世界に伝播した偉大な功績とする世界常識は、中世キリスト教会と中世西洋人(ポルトガル人・スペイン)の日本人を奴隷として海外に売り飛ばす事を阻止した豊臣秀吉や徳川家康・徳川幕府を極悪人としている。
現代日本の歴史教育も、世界史の常識に従って、日本人奴隷売買を食い止める為のキリシタン弾圧は間違いであったと、子供たちに教えている。
世界も日本も、アフリカ人奴隷貿易は悪としているが、日本人奴隷売買は悪とはしていない。
日本人奴隷売買が行われていたという記述は、バチカン及びイエズス会などの修道会の報告書や著書、各国の公文書及び私的書簡に残されている。
日本人奴隷売買の一次史料は世界中に存在するが、全ては歴史の闇に葬られている。
キリスト教世界の反天皇反日派国際勢力は、日本人奴隷売買を阻止し、キリスト教を禁止し、キリシタンを弾圧・処刑した日本を憎悪している。
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何も知らず、絶対神の福音と隣人愛の信仰を信奉して弾圧され、処刑された敬虔な日本人キリシタンは哀れというしかない。
国禁に従って、処刑した日本人の為政者が悪かったのか。
信仰を守る為に、殉教を強いたキリスト教会が悪かったのか。
踏み絵をすれば助かるのに、命より信仰を選び、神の王国・天国での永遠の命を信じ、処刑を選んだ日本人キリシタンの自己責任だったのか。
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『ポルトガルの植民地形成と日本人奴隷』 北原惇
まえがき
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序論
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海外の日本人奴隷
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秀吉の激怒
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日本は似たような内容の外交文書をマカオ市やアジア各地のイエズス会司教に送付している。しかし秀吉は布教と交易を明確に区別していた。秀吉はキリスト教は嫌ったものの、1592年の時点でさえ商人に成り変わった宣教師が日本に残留することを認めている。布教活動をしないことが条件であった。
ポルトガル側の態度と反応
これら一連の日本での出来事に対し、ポルトガルはどのような態度を示し、どのような反応を示したのであろうか。ポルトガルの国王ドン・セバスチャンは1571年3月12日付の勅令で日本人奴隷の売買を禁止した。これはポルトガル国王による一連の勅令の最初のものである。それによるとポルトガル人が日本人を捕らえたり買ったりすることを禁止するとし、すでに奴隷にされた日本人は解放されなければならないと述べている。日本人を捕らえたり買い取ったポルトガル人はその財産すべてを没収されるものとし、その半分はポルトガル王国の所有となり、残り半分は告発した者に帰属する、と決められている。
日本でのイエズス会は1596年に奴隷売買にたずさわったポルトガル人は破門されると述べている。翌1597年4月16日にはインド副王がポルトガル国王の名において第二回目の勅令を公にしている。この勅令によれば、奴隷であるかないかに関わらず、いかなる日本人でもマカオに到着したり居住することを強制されてはならないと定められている。しかしこれに違反した場合の罰則は書かれていない。イエズス会は1598年に再び破門令を公布し、奴隷売買に従事した者は破門され、奴隷の少年または少女1人につき10クルゼーロの罰金を科せられる、としている。最初の破門令の原文は存在しないため、そこに同一のまたは同様の罰則が記されていたかは明らかでない。
1600年頃、ポルトガル国王は第三回目の勅令をだし、第一次と第二次の勅令の有効性を確認している。
21世紀の常識で考えると、これらポルトガル国王とイエズス会による勅令や破門令は人道的・道徳的な配慮のために公布されたものと考えられるかもしれないが、現実はそうではなかった。これらの勅令と破門令はまったく異なった理由にもとづくものであった。
理由は二つある。第一に、アジア在住のポルトガル人の多くはカトリック教会の教えを無視し、日本人奴隷の女性と同棲して堕落した人生を過ごしていた。おの問題はポルトガル人が書いた文書の中に何度も記載されている。例えば1583年にマカオを出港してインドに向かっていた船がマラッカ海峡で遭難した時の様子をディオゴ・デ・コウトは次のように述べている。『神を恐れることなく、商人などが色白の美しい少女たちを妾とし、自分たちの船室の中で同棲している。神がそのような恥知らずの行動を罰したのは当然だ。神は大量の荷を積んだ船を失う損失を与え、神の偉大な力を理解させたのだ。世界の中でも、この地域のポルトガル人には淫猥な行為が特別に多く、目に余るものがある。その為に神は何度もの台風によってこのような人たちを威嚇し罰したのは明らかだ』。
ガスパール・コエルホも秀吉がキリスト教を禁じた理由のひとつはポルトガル商人たちの不道徳ぶりであるとして次のように述べている。『これらの商人たちは若い人妻を奪い妾とし、子供を誘拐して船に連れ込み奴隷にしている。従ってその多くは自殺を選ぶ』。ポルトガル人の不道徳ぶりは1568年のイエズス会の破門令にも指摘されている。
第二に、ポルトガル人が日本と朝鮮半島から奴隷を安く買い取り商品として扱ったことによって、キリスト教に対する悪評が広まってしまったという理由があった。この問題は1599年2月20日付の日本のイエズス会からポルトガルのイエズス会支部長宛の手紙に明確に記されている。つまり勅令と破門令の目的は日本のポルトガル人たちがこれ以上堕落することを防ぎ、同時にキリスト教の悪評を防ぐことにあった。
別の表現を用いると、日本のイエズス会は自らの存在の危険に直面したために奴隷売買に反対することを始めたのであった。日本のイエズス会はポルトガル人が日本で奴隷を買い入れ海外に売っていたことは充分に承知していた。そればかりではない。イエズス会は奴隷売買を大目に見ていただけではなく、それを公式に承認していた。1598年の二度目の破門令によれば、日本のイエズス会は日本人の少年と少女の奴隷の出荷の文書に署名をして公式に承認していた。つまりイエズス会は奴隷売買を公式に認めていたのである。
奴隷売買禁止の効果
日本とポルトガル双方の法令、勅令、破門令などにもかかわず、奴隷取引の禁止には事実上効果はなかった。17世紀に至っても日本人奴隷が海外に送られていた文献が存在している。1603年にゴア在住のポルトガル人がポルトガル国王宛に書いた奴隷売買についての陳情書がある。それによれば、ポルトガル国王による第一次の勅令には奴隷売買を廃止する効果はまったくなかったとしている。この勅令を遵守する努力は妨害されてその存在など意識されていなかった。インド副王は勅令に従って任務をする役人の任命さえしていなかった。インドやアジア各地に在住するポルトガル人は勅令を無視し、ポルトガル商人たちは何事もなかったように奴隷売買を継続していた。
日本側にも二つの問題があった。第一に、領主は農民に極度な課税をしたため農民たちは自らを、そして家族を奴隷として売ることを余儀なくされていた。秀吉がコエルホに詰問した際、コエルホは一番大切なことは、奴隷を連れ去る外国船が入港する港を管理している領主がそのような船の入港を禁止することであると反論している。
第二に、1543年にポルトガル人が日本に鉄砲を持ち込んだ時、日本は戦国時代であったという事実である。大名たちは直ちに鉄砲の有利さを理解しそれを戦で用い始めた。従って日本では急速に鉄砲の需要が高まり、堺、国友、根来、雑賀などで大量の鉄砲が生産されるようになった。しかしここで戦国時代の大名によって問題が発生した。戦で鉄砲を用いるには火薬が必要である。火薬を製造するには硝石が必要である。しかし当時の日本では硝石は資源として存在しなかったため日本国内で火薬を製造することができなかった。そのため、大名たちは輸入された火薬に頼るしかなかった。戦国大名にとっては安定した火薬の供給があるかないかは死活問題である。安定した火薬供給を確保するために洗礼を受けた大名さえ存在した。
火薬を買えばその支払いをしなければならない。支払いには奴隷を差し出した大名も現れた。ポルトガル国王は『火薬樽1個に対して日本人は奴隷50人を提供した』と発言したとされている。イエズス会は天草地方の三隅湾の海岸を『白銀海岸』と呼んでいたと言われている。その理由はここから奴隷を送りだされ、硝石は銀色をしているからである。
奴隷の売買が禁止されることによって損害を受ける者は当然のこととして強硬に反対した。例えば奴隷売買を盛んに行っていたゴア在住のポルトガル人である。日本のイエズス会が1598年に奴隷売買に従事していると見なされた者を破門したことを知ると、これらのポルトガル人は1603年と1605年の二度にわたりポルトガル国王フィリーペ2世に抗議文の手紙を送っている。
最初の抗議文は次のように述べている。『奴隷を解放することはインド在住のポルトガル人に莫大な損害をもたらすので我々は直ちに集会をし、いかにしてこの問題に対処すべきかについて話し合った。これまで我々は奴隷を買い入れるために100万クルゼーロ、またはそれ以上の出費をしている。しかも日本でのキリスト教を管理しているイエズス会の司教ならびに神父は公式の承認と許可の文書を発行することによって奴隷を買い入れることを認めている。従って国王がこの事実を取り消して我々がすでに手に入れた奴隷を我々から奪うことを受け入れることはできない』。
この抗議文は次の事も述べている。『日本では日本人が公に売られて近隣のイスラムの国に送られイスラム信者になる。我々に買われた日本人はすべてキリスト教信者になり、これはポルトガル国王の臣民の数を増やすことになる。いかも彼らは我々の神父によって2年間の教育を受けた後、自由の身になる。インドに存在するポルトガル植民地には多くの日本人奴隷が存在する。非常時にはポルトガル人1人から5、6人の日本人奴隷にそれぞれ銃を持たせ率いることをすれば、日本人は非常に好戦的であるので我々にとって有利である。彼らが自由の身になっても我々の敵と協力して我々に反逆することはない。日本人奴隷の数は我々より少ないため我々を殺すようなことはしない』。
1605年の抗議文は次のように述べている。『ポルトガル国王による最初の勅令は過去30年間一度も実行に移されたことはなかった。インド在住のポルトガル人副王はこの任務を遂行する役人を任命したことがない』。そして次のようにも述べている。『奴隷たちは信頼関係にもとづいた契約に従って購入されたものでるので奴隷を解放するのは不当である。奴隷を購入するのに大金が費やされているので、もし奴隷を解放されれば奴隷所有者の中には1,000から2,000クルゼーロもの損害を受ける者もあり、その数も多いであろう』。
国王フェリーペ2世は1605年の3月に勅令を出し、次のように述べている。『これまでに公にされた勅令は広く適用される意味合いのものとなり、これは信頼関係にもとづいて合法的に所有されている奴隷にまで適用されryこととなった。これはインド在住者に好ましくない形の影響を及ぼすこととなり、日本人奴隷をすべて解放することは重大な経済的被害を与えることになるとの報告を受けている。合法的でもっともな理由がある場合には日本人奴隷の所有を禁じるつもりはない。これは前任者のドン・セバスチアン国王の意図でもあった。ゴア市やコチン市からの報告も受けているので事を明白にするために新しく勅令を公布することにした。もし日本人奴隷が法律に反して間違った理由で奴隷とされていると主張した場合にはその主張を検討し、法を遵守するために解放する努力をせよ。この件に関しては自分は神を信じ、自分に仕えるものの判断を信ずる』。
国王フェリーペ2世の意図を要約すれば、もし法的で理由のなる説明をすることができる場合には奴隷を所有してもよく、すべての奴隷を無条件に解放するのは自分の意図するところではない、前任の国王ドン・セバスチアンも同様に考えていたのだ、ということである。
奴隷売買の禁止が失敗した理由
これまでに述べた事項を要約すると下記の五項目にまとめることができる。第一に、日本人がなぜポルトガル人によって奴隷として売買されたのか。第二に、日本社会になぜ奴隷を生み出す背景があったのか、第三に、ポルトガル国王その他のポルトガル関係者がどんなに奴隷問題に対応したのか。第四に、日本在住のイエズス会のポルトガル人がこの問題をどのように扱ったのか。そして第五に、アジア各地に在住のポルトガル人が奴隷売買を禁止する試みにどのように反応したのか、奴隷売買を禁止する努力は完全に失敗したと言わざるをえない。
その理由はしごく簡単に一言で表現できる。つまり、この問題に関与した関係者はすべて自身の個人的な利害関係を計算に入れて考え、発言し、行動していたためである。当時の日本では、領主は農民たちに極度の重税を課すことができたため、領主たちはそれを実行し続けた。これによって農民には選択の余地はなく、その犠牲者となり、自らまたは自らの家族を奴隷として売ることを余儀なくされた。戦国時代の大名たちは生き残って勝つためには鉄砲を必要とし、輸入された火薬を必要としたのでその支払いに奴隷をあてることさえした。ポルトガルの植民地在住のポルトガル人は安い労働力とセックスを必要とし、成人男女ならびに少年少女を求めた。この条件にかなった奴隷が日本に存在していたので当然のことながらこれらの奴隷を買い入れた。商人としてみれば奴隷売買の仕事をすることによって金儲けができると知れば、これも当然ながらその仕事に従事することになる。その他にもポルトガル人は人攫いをして奴隷を手に入れていた。
日本在住のイエズス会のポルトガル人たちはやはり日本在住の同国人の利害関係を主張を聞き、ポルトガル国とポルトガル人に有利な形で行動するようになる。その結果、場合によっては奴隷売買を支持することにもなる。しかしそれと同時に、イエズス会としては日本でできるだけ多くの改宗者を獲得し、その勢力を強めることが最大の目標である。それには日本人の間にイエズス会、ポルトガル国、ポルトガル人への敵対心が高まる危険性は絶対に回避しなければならない。
このような矛盾した現実に対処するためにイエズス会としては奴隷売買に反対している印象を与え、その反面それを大目に見ていた。秀吉が激怒し日本人奴隷を解放せよ、と要求するにいたってイエズス会は日本の敵となる危険性に気がついた。秀吉の激怒に対処するためにイエズス会はポルトガル国王に奴隷売買禁止の陳情書を送り、破門令も公布した。しかし公布、布告、破門令、規則などが紙の上に書かれていることと、それが実行されることとは全く別の問題である。これは誰もが知っていた。奴隷売買は何事もなかったように継続していた。
ポルトガル国王の立場からすると、このような国際間の問題に巻き込まれるのは好ましくなく面倒である。それを避ける一番安易な方法は、中身のない抽象的な文書を出し、直接関係している下部の人間たちに処理させることである。この問題すべてをまとめて考察すると時代や文化に無関係な、いつでも、どこにでも見られる人間のエゴイズムとして要約できる。これは誰もが自らの利益と安全を考えるだけの歴史であった。そしてここでの犠牲者は不幸にも奴隷になってしまった日本人の成人男女と少年少女であった。 日本側の行動
1587年に秀吉は新たな規則を定め、大名がキリスト教に改宗する場合には秀吉の許可が必要になった。現実にはこれは大名がキリスト教信者にはなれないことを意味した。明石城主の高山右近はこれに違反したとして領地を没収された。秀吉はさらに1587年7月25日に宣教師の国外退去を命ずるバテレン追放令を定めた。
1596年にいわゆる『サン=フェリーペ号事件』が起こった。これは土佐沖で遭難したスペイン船サン=フェリーペ号の乗組員が『スペインが植民地を形成するとき、まず宣教師を送り込み、土地の住民たちを手なずけ、その次に軍隊を送り込んで植民地としてしまうのだ』と発言したことになっている。すべての南蛮人を疑いの目で眺めていた秀吉はこの報告を受けて直ちに行動した。宣教師と改宗した日本人信者が逮捕され、同じ年の1596年に長崎で処刑された。
これは広く知られた事件であるにもかかわらず、その詳細については情報源によってかなり異なる。カトリック教会はこの事件を重大に受けとめ、これを絵画に残している。しかしイエズス会の描いた絵画には単に3人のイエズス会所属者しか描かれていない。フランシスコ会の描いたものにはイエズス会所属者は描かれておらず、単に23人のフランシスコ会所属者のみが描かれている。唯一の例外を除き、処刑された者全員の絵画は存在しない。カトリック教会は1862年にこの犠牲者を聖人と認めたがその数は26人となっている。
日本側の情報もいろいろあり、6人のフランシスコ会の宣教師と20人の日本人信者とされていたり、6人のフランシスコ会所属者、3人のイエズス会所属、19人の日本人信者となっていたりする。単にカトリックの宣教師と言っても、当時の日本には少なくともイエズス会、フランシスコ会、ドミニカ会、アウガスティン会の宣教師が存在していたことが知られており、しかもこれらの異なった会派の間の睨み合いと争いがあったことも知られているので、それが原因である可能性が高い。
この事件によって日本とスペインの関係は悪化した。秀吉の後、将軍となり事実上日本一の権力者となった家康はこの事態に配慮した。当時の東アジアでスペインの植民地勢力の中心地はルソンで、家康はルソンに外交使節を送っている。徳川幕府は1610年にも京都の商人田中勝介をスペイン領であるメキシコに派遣し、メキシコとの交易を進めることを試みた。これは千葉に漂流したスペイン船に便乗した試みであったが失敗に終わっている。
1612年にはキリスト教の全面的禁止となった。キリスト教の教会は破壊され、幕府直轄の領地内から宣教師は追放された。1613年にはこれが全国にまで拡大され禁教令として施行された。
禁教令施行の後、徳川幕府の態度はさらに強硬になっていった。1614年にはキリスト教からの改宗を拒否した高山右近を含め、300人がルソンに追放となった。1616年には中国船以外の外国船は平戸と長崎以外に入港することを禁止された。1629年頃には信者摘発の方法として踏絵が実行されはじめた。
1636年には日本在住のポルトガル人は長崎の出島に隔離され、1638年にはキリスト教は厳禁という形で完全禁止となった。1639年にはポルトガル船は日本の港すべてに入港することを禁止され、この時点でポルトガルとスペインは日本から完全に締め出されることになった。奴隷売買に関与していなかったイギリスも日本から閉め出された。オランダ人は例外とされたヨーロッパ人であったが、1641年に出島に隔離されることになり、一般にこの年が鎖国の始まりとされている。
ヨーロッパ各国が日本と接触を始めた後、日本側の方針としては交易と宣教活動を区別していた。そのためキリスト教が禁じられても交易は続けられた。すでに述べられたように、宣教師と日本人信者が長崎で処刑されたが、その後にスペインの植民地であるメキシコと交易をする試みをしている。そして日本はスペインやポルトガルのようなカトリックの国とオランダやイギリスのような非カトリックの国をはっきりと区別している。しかしこの二種類の国々がお互いに攻撃し中傷しあっていたことを日本側でも承知していた。そのため日本はどちらの側からも反対側の国々の危険性やそれに似たような噂をたえず聞かされていた。従って日本にとってもっとも納得のゆく合理的な判断は、ヨーロッパの国すべてを疑いの目でながめることであった。カトリックであるかないかに関わらず、キリスト教の国はすべて危険であると見なすのが最も安全である。従って日本にとっての最善策は鎖国を選ぶことであった。
これらの出来事の解釈
歴史上の出来事を取り上げ、それらの出来事が別の形で処理されていたらとか、ある特別の事件が起こらなかったら、などと仮定し、その場合歴史はどうのように展開していただろうか、などと考えるのは大いに興味があるものの、実際には全く意味のないことである。16世紀の終わりに秀吉が日本の権力者として現れ、あのように決断し行動していなかったらと考えても意味がない。歴史は歴史である。にもかかわらず、最小限度の推測が許されるとすれば、秀吉が現れなかったら日本はカトリックの国になっていたかもしれないし、カトリックとプロテスタントの間で熾烈な憎みあい殺しあいが日本で再現されたかもしれない。信長は仏教に反対の態度をとったばかりかそれを行動にあらわすことによってキリスト教が広まることを助けたと言えるので、その意味でもこの信長と秀吉両者の違いが歴史に反映されているとも言える。
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全ての原因は、中世ヨーロッパという時代が原因であった。
日本に押し寄せてきた、中世のヨーロッパ人、ポルトガル人、スペイン人、イギリス人、オランダ人、そしてキリスト教会のカトリック(バチカン)とプロテスタントが元凶であった。
現代のヨーロッパ人、ポルトガル人、スペイン人、イギリス人、オランダ人、そしてキリスト教会のカトリック(バチカン)とプロテスタントは、無関係である。
最も卑しむべきは、当時の日本人である。
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日本人を捕らえて海外に売れば大金を稼げると知るや、戦争のどさくさに紛れて人狩りをして外国人奴隷商人に売って大金を手に入れた。
おぞましいのは、利権・利益・金に目が眩んだ強欲な日本人である。
その忌まわしい血を引いているのが、現代の日本人である。
他人に迷惑をかけても気にしない自分本位、自分だけ良ければそれでいい自己中心、個の自由と権利・利益を最優先にする薄情で冷淡な性根。
日本人が、日本人を外国人奴隷商人に売らなければ日本人は奴隷にされなかった。
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悪いのは、踏んだ人間ではなく踏まれた人間であり、買った人間ではなく売った人間が悪い。
詐欺などで騙されるのは、騙す加害者ではなく騙された被害者が悪い。
他人を見たら泥棒と思い、決して信用せず疑うべきなのである。
初対面もしくは幾度か会っただけの相手を信用し信頼するは、愚かな事である。
もう二度と会わなくなるまで、決して信用・信頼してはならない。
日本人が好きな「一期一会」は、建前なしの本音だけの強欲な人間社会では通用しない。
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歴史的事実として、奴隷とされた人々の暴動や反乱は数多とあるが、日本人奴隷の解放・自由を求めた暴動や反乱は存在しない。
つまり、日本人奴隷は奴隷身分という境遇を運命として受け入れていたと言う事である。
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日本はおろか世界でも、日本人が奴隷として売買された歴史的事実がありながら今日に至るまで人権・人道、道徳・倫理などの問題とならなかったのは、問題は西洋ではなく日本にあったからと考えられていたからである。
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日本人が奴隷として売買されていた歴史的事実は、昔から分かっていた事である。
加害者が犯罪を行った事を忘れるのはままある事であるが、被害者が受けた犯罪を忘れる事は絶対にない。
加害者は犯した犯罪を隠蔽しようとするが、被害者は受けた犯罪を暴こうとするのが、常識である。
日本人奴隷売買という歴史的事実を日本人が隠し忘れたという事は、紛れもなく、日本人は被害者ではなく加害者であったという事である。
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「信仰の自由」は、個人の権利とされている。
「政教の分離」で、政治は宗教に一切関与してはならないとされている。
現代日本では、「信仰の自由」と「政教の分離」はアメリカ製平和憲法で保証されている。
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豊臣秀吉は、日本人が奴隷として海外に売られた事実を知りそれを阻止するべく、奴隷売買に関係したであろう宣教師と日本人キリシタンを見せしめに処刑した。
徳川家康は、経教分離で、南蛮との交易を希望したが、キリスト教を禁止し、奴隷及び傭兵を船員と偽って海外に連れ出さないようにする為に許可のない日本人の海外への渡航を禁止した。
徳川秀忠以降の歴代将軍は、キリスト教は日本人を奴隷として売買する事を奨励した邪教・邪宗として弾圧し、日本人キリシタンや国禁を破って密入国した犯罪者・宣教師を捕らえ棄教を強要し、棄教しなければ処刑した。
捕らえられれば殺される事が分かっていた宣教師らは、信仰の為に死ぬ殉教を希望していた。
現代日本はおろか世界は、宣教師とキリシタンを処刑し、キリスト教を邪教として弾圧した豊臣秀吉や徳川家康、徳川幕府を非難し、殉教した宣教師やキリシタンを聖人・福者と讃え、歴史教育で教えている。
特に、現代の反戦平和に基ずく歴史教育には毒されている。
「日本人は文明・文化など全ての面で劣っていた」という歴史教育をおこなう者は、疑うべきであるし、信用してはならない。
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