- 作者:村井 早苗
- 発売日: 2002/07/01
- メディア: 単行本
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
島津義久「城を以て守りと為さず。人を以て守りとなす」
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伝統的日本は、現代の日本とは違って、人を大事にした。
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「詫び」「寂び」の茶道は、日本独自のモノである。
千利休のお茶は、「花をつみ 待つらん人に 山里の ゆきまの草の 春を見せばせ」(藤原家隆)で、ゆきまの芽吹きは、命の芽吹きで、恋をして生まれる命であると。
茶花において、花びらが綺麗に咲いた花を使用する事もあるが、これから命が芽吹くものとして堅い蕾が使われる事がある。
武野紹鷗のお茶は、「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦のとま屋の 秋の夕暮れ」(藤原定家)とされている。
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1590年頃、スペインは、世界をキリスト教化する事を大義とし、明国を含む東アジアを征服する為に日本人を改宗して捨て駒に利用しようとした。
ポルトガルも、地球をキリスト教会に寄進する事を偉大な使命とし、東アジアの海上交易を支配する為に宣教師の協力を得てマカオを占領した。
ローマ教皇の軍隊とも言える、イエズス会とフランシスコ会は日本における布教活動の主導権争いを行っていた。両派の宣教師の多くは改宗ユダヤ人であった為に、異端審問で疑われれば確実に「死」を宣告される恐れがあった。「死」から逃れる為に、教皇に忠誠を誓い、教会の権威を高めるべく異教徒原住民を大虐殺する様な無慈悲な布教活動を神の名で行っていた。
キリスト教会は、改宗者のいない土地を無主の地として植民地化し、異教徒原住民を奴隷として売る事を承認した。
コエリョ「もし日本の66ヵ国すべてが改宗すれば、好戦的で怜悧(れいり)な兵隊を得て、明の征服は一層容易になる」(スペインのマニラ総督への書簡)
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ヴァリニャーノ宣教師は、フィリピン総督フランシスコ・デ・サンデに、中国布教の為に日本を征服する様に要請した。
ペドロ・デ・ラ・クルス宣教師は、イエズス会総長に対して、軍船で九州と四国を異教徒が支配する本土から切り離して独立させ、キリシタン大名によってキリスト教王国を建設する計画を打ち明けた。
さらに、日本と中国におけるキリスト教布教に必要な宣教師・修道士を育成するべく、キリシタン大名の領地内で日本人の貧しい家庭の子供に神学を教えた。
神学教育の一環として、異教への憎しみを増幅させる為に中南米で実行した異端排斥運動を再演して、日本人の手で寺社仏閣を破壊させ、日本人の前で仏像・仏具・位牌、御神体・護符・御守りを燃やした。
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1590年 リスボン市の公正証書の記録。名前はジェスタ・カメラというユダヤ教徒中国人女性奴隷が解放された。
ポルトガル本国には、バチカンから認可された地域の先住民を奴隷として輸入していた。
日本人・中国人などアジア人奴隷は「インディオス・デ・ナサォン」と呼ばれていた。
日本人女性奴隷マリア・エ・ジャポアは、1596年2月7日にリスボンで解放された。
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イエズス会は、秀吉の警戒を緩和させる為に、長崎の武装を解除して非武装都市とし、蓄えていた武器弾薬を処分した。
キリスト教会は、平和的布教路線を採用して、大名間の争いに介入せず、キリシタン大名への軍事援助も禁止した。
イエズス会宣教師は、朝鮮における布教活動の為に、豊臣秀吉とポルトガルとの武器売買を仲介した。
ポルトガルへの武器代金として、朝鮮人を奴隷として引き渡した。
ヴァリニャーノは、二度目の日本巡察を行うべく、ポルトガルのインド副王使節と共に日本を訪問した。そして、「宣教師追放令」への対応策を話し合うべく第二回全体協議会を開催した。
キリシタン大名は財政難にあり、異教徒の迫害から追い詰められつつあるキリシタンを保護できないので、隣人愛信仰の戦いに負けない為に資金援助が必要である事。
有馬領全体の武装化は、異教徒が言い立てるキリスト教による日本征服という疑惑を裏打ちするもとになる為に、キリシタン大名への大砲などの軍事物資調達の仲介を中止し、教会が所有する大砲などをマカオに送って売却する事。
キリシタンの避難地として、長崎を要塞港都市として軍事強化する事。
つまり。キリスト教会が保有する長崎の武器は、キリシタンが異教徒からの攻撃から身を守る為の自衛的武器であり、秀吉への謀反の為ではないと言う事を明らかにする事。
8月 豊臣秀吉は、奥州仕置きにあたって「撫切令」を発した。
「仕置きあたって国人・百姓に合点がいくようよくよく申し聞かせ、これに抵抗する者が城主であれば城に押し入り一人残らず撫で切りにし、百姓であれば一郷二郷が亡所になっても構わないから悉く撫で切りにせよ」
天下統一と太閤検地を暴力的に完成させるという、不退転の決意表明であった。
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1591年 ベトナムの安南王国は、表面的には明国の属国として朝貢し臣下の礼をとっていた。
日本は、中国産の絹糸を輸入する為に、琉球や安南などとの間接貿易で手に入れようとしていた。
安南も、日本との交易を希望して、使節団に「日本国国王」としたためた国書と貢ぎ物を持たせて日本に送った。
長崎商人の荒木宗太郎は、ベトナムとの交易の為に王女ワカクトメを妻に娶り、交易の拠点を兼ねて二人は長崎に住んだ。
当時の日本人は、反日的な朝鮮よりも親日的な東南アジア諸地域の方に親近感を抱いていた。
1月22日 大和郡山城内で、羽柴秀長(52)が病死した。
2月 千利休の切腹。
「天下に名を知られた私共が、命惜しさに御女中方に取り成しを頼むのは望まない」
千利休は、飽くなき芸事の求道家として、唯茶を飲んで寛ぐという行為に「侘び」という禅宗の真髄を取り入れて文化として大成させようとした。
陶工・長次郎は、千利休が追求する虚飾を一切排した茶道の為に、漆黒を究極の美とする黒茶碗「楽焼」を完成させた。
千利休は、自らが理想とする「数寄」の世界を俗世の世界にも広めようとして、黄金の茶室という絢爛豪華な俗欲に染まった豊臣秀吉と対立し、純粋に茶事の美を追究する為に自刃命令に従って切腹して果てた。
まがい物でない日本文化の真髄には、「有から無へ、無から有へ」と言った流転して終わる事のない死生観があり、その為に日本の芸事は政治権力に近寄らず庇護を受けず孤立するという宿命を秘めている。
つまり。日本伝統文化の根底は、政治でも、宗教でもない、皇室の芸事につながっている。
数寄の生き方とは、風流や風雅の道を通して、無心となって芸能に打ち込み、雑念を持って迷わず奢らず腐らずに精進し、人生に未練や執着や後悔を残す事なく自然体として往生する事である。
渡る風の如く飄々として芸能に浸りきって心を澄まし、捨て去るモノは惜しげもなく捨て去って身を軽くし、臨終を迎えてこの世に別れを告げる。
芸道の数寄は、戒律に縛られた禁欲の宗教ではなく、人の楽しみとして酒を飲むし上手い料理を食べるし女も抱いた。
身体は俗欲が渦巻くこの世に置いていても、心は趣味の世界に隠遁させて鳥のように自由に解き放す。
その喜びに浸りきる、それが数寄である。
日本の隠遁は、中国・朝鮮の仙人とは異なる。
仙人とは、人間界を離れてた山中に籠もり、不老不死の法や神変自在の法術を習得した賢者か、それを求めて修行する者である。
数寄は、自然災害多発地帯の日本に生まれた独自文化である。
松尾芭蕉は、無能無芸の不甲斐ない我が身を痛感しつつも、この世を捨てきれず、俳諧一筋で孤独な旅を続けた。
「僧に似て塵あり 俗に似て髪なし」
─僧侶の格好をしていても煩悩に悩み、俗人の姿を装っても髪がない。─
良寛は、俗世と距離を置いて隠遁し、草ぼうぼうの五合庵に一人逼塞し書、和歌、漢詩を愉しんだ。
「笑うに堪えたり嘆くに堪えたり(堪笑兮堪歎)
俗に非ず 沙門にも非ず(非俗非沙門)」
─笑ったり泣いたりしても、俗人でもなければ僧侶でもない。─
伊武雅刀(俳優)「利休のたたずまい、居住まい、生き方をなんとなく意識して暮らしていました。利休は、茶の湯を極める中でいろんなものを削ぎ落としていく。漆黒の茶碗を作り、茶入れをただの竹筒にし、最後はたった二畳の茶室に至るように、無駄なものを排除していく生き様は素晴らしいな、と。……花鳥風月に対しても相当敏感になって、朝、散歩に行って花を見たり、鳥の声を聞いたり、利休だったらこの風のざわめきをどう感じるだろうか、なんて思ってました」(2014年 NHK『軍師官兵衛』)
3月 ヴァリニャーノは、聚楽第で豊臣秀吉と会見し、宣教師の入国を許可しなければ、日本に来航する南蛮船はいなくなると脅した。
秀吉は、屈辱と知りながら、南蛮交易が途絶する事を恐れて宣教師の滞在を許可した。
3月13日(〜9月4日) 九戸政実の乱。奥州仕置軍6万人(一説に15万人)。九戸軍5,000人(一説に3,000人)。
南部氏一族の有力者である九戸政実は、南部信直および奥州仕置を行う豊臣政権に対して反乱を起こした。
7月 豊臣秀吉は、ゴアのポルトガル・インド副王に対して87年の書簡の返答として手紙を送った。
書簡で、日本と明国とインドは「神・儒・仏」を信仰しているのに、キリスト教はそれを否定して布教活動をしていると非難した。
スペインやポルトガルが世界中で宣教師を使って植民地を拡大している事に対し、武力で日本統一を成し遂げ明国を征服する事を告げて牽制し、神国日本を転覆する為に送り込まれた伴天連を殲滅すると脅した。
9月 豊臣秀吉は、ルソン・フィリピン諸島のマニラ総督に対して、明・朝鮮征伐の為に出陣する名護屋城に参じるように命じ、遅参すれば成敗すると脅迫した。
「ルソンは予の指揮にある。これを国王に書き送られよ。遠隔の地を理由にカスティーリア国王が予の言を軽んずる事がないようにせよ」
マニラ総督は、スペイン帝国を恫喝する野蛮人として激怒したが、外交の儀礼として書簡と贈答品を使者に渡した。
「これを殿下に申し上げる所以は、我らはこの狭小な地上にいようとも、我らは強大で真実なる神キリスト、及びキリスト教国王ドン・フェリペ以外の如何なる者にも、如何なる権力や君主にも服従せぬ事を知って頂く為である」
マニラ総督は、秀吉からの書簡が無礼千万であっても贈答品と共に本国に送り、日本は今まで出会った如何なる国と違って武力では征服できないと報告した。
もし、サムライ日本に武力がなければ、スペインに侵略され植民地となり、日本人は奴隷にされていた。
世界を征服しつつあるスペイン帝国などの白人キリスト教国に、歯向かい独立を守ったのは、日本が初めてであった。
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豊臣秀吉が統一した日本は、40万人以上の精兵と大量の最先端兵器(鉄砲や大砲)を集団的・組織的に持ち、陸と海で機動的に集中と拡散を行う事ができる戦闘能力を持った世界最大最強の軍事帝国であった。
大陸史・人類史における世界常識として、強国が国内を統一した後に地域の大国・帝国を目指す事は当然の事であり、珍しくもなければ、当たり前の事で、悪でもなければ、犯罪でもなかった。
つまり。攻めるか攻められるかの時代に、他国を攻める事は「絶対悪」ではなく、人と物が活発に動く事から「必要悪」とされていた。
当時は、世界的ルールのない弱肉強食の時代であった以上、他国に備えて軍事力を養い、侵略から祖国を守る為の戦略戦術を練っておくのが当然の事であった。
そうした時代に、国防の備えを怠って侵略されて被害を被ったとすれば、それは侵略した国より侵略された国が愚かだったというだけである。
まして。李氏朝鮮は、豊臣秀吉が朝鮮半島を通過して明国に攻め入る事を知っていたのだから。
軍事帝国の日本から見れば、宗主国・明国への義理から指示に従わない弱小国・李氏朝鮮は征伐すべき敵であった。
現代において他国への侵略は如何なる理由があっても許されない犯罪行為であるが、当時はそうではなく英雄行為であった。
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1592年 第107代後陽成天皇。
ドミニコ会士ファン・コボは、フィリピン総督の使節として来日した為に布教活動は行わなかった。
南蛮の奴隷商人は、日本での戦乱が収まり日本人を奴隷できなくなった為に、新たな奴隷供給地として朝鮮に目を付けた。
一部の宣教師は、奴隷商人からの献金を増やす為にキリシタン大名に朝鮮出兵を促した。
キリシタン大名らは、火薬の原料である硝石を購入する代金とする奴隷を獲得する為に、朝鮮出兵を望んだ。
徳川家康は、近衛家が左大臣・右大臣・内大臣の位階から外れた事を機会に、摂関家に次ぐ精華家の一員となり、藤原氏を捨てて源氏を名乗った。
藤原氏は天皇の家臣でしかなかったが、源氏や平氏は皇族であった。
ポルトガル人ルイス・テイセラが作成した地図には、日本海沿岸にある石見銀鉱山の名が記されていた。
南蛮商人達は、銀を求めて日本海沿岸にある石見を目指した。
4月 文禄の役。
豊臣秀吉は、宣教師を通じてヨーロッパから大量の新兵器を購入して、朝鮮に大軍を派兵した。
軍事支援した宣教師らには、遠大なる意図があった。
朝鮮出兵した一部の大名(特にキリシタン大名)は、朝鮮人を捕まえては平戸や長崎の奴隷商人に売って硝石を手に入れた。
朝鮮人捕虜の人身売買を仲介したのは、熱心な宣教師であった。
商人出の小西行長は、明との交易を再開する為に、戦いを適当な所で切り上げ講和に持ち込む機会を探していた。
加藤清正は、満州に広がる無人の大平原を目にして茫然と立ち尽くした。
「城がないので何処を攻めればいいのか分からない」
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1593年 フランシスコ会士ペドロ・バウティスタは、フィリピン総督の外交使節団との肩書きで日本を訪れ、京を中心に布教活動を開始した。
豊臣秀吉は、蛎崎慶広が91年の南部の内乱に貢献した功により、蝦夷地の主と認める朱印状を与えた。
蛎崎慶広は、侵略したアイヌ人の土地の支配者である事が証明されたが、それは単なる地位の確認であり、政治的にも経済的にも不安定なものであった。
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1595年 藤堂高虎は、羽柴秀長が病死した後はその養子である秀保を補佐したが、秀保が急死するや豊臣秀吉の誘いを断って高野山に籠もった。
高虎は、秀吉の戦に明け暮れる武断政策と商取引優先の重商政策を切り替え、平和路線でで戦を止め農村を大事にする重農政策を推し進めようとした秀長に協力していた。
7月 豊臣秀吉は、蒲生家遺領問題で意向に逆らい独断で差配した関白・豊臣秀次に激怒して切腹を命じ、その家族と家臣等を処刑した。
多く諸大名は、秀吉の無残な粛清を目の当たりにして表面的には秀吉に従っても内心では離れた。
徳川家康と藤堂高虎は、独裁者となり抑制が利かなくなり始めた秀吉を鎮める為に北の政所に説得を頼んだ。
7月15日 豊臣秀次自害。
小和田哲男「秀吉の暗黒事件として最も残虐なのは、この秀次殺害でしょう。天下統一の前年、側室の茶々は秀吉の実子と言われる鶴松を生んでいますが、3歳で早逝。秀吉は自分の子供を跡継ぎにするのを諦め、秀次を養子にし、関白まで譲りました。しかし、その2年後に再び茶々が捨丸を出産します。そうなると、跡継ぎとして指名した秀次の存在が邪魔になってくる。結果として、秀次は謀反の疑いをかけられ、高野山で自害を強いられました。さらに秀吉は、秀次を切腹させた後、その正室、側室、子供など39人を殺し、根絶やしにしたのです」
「一代で栄華を極めた秀吉にとって、本当に信用できるのは長年その側に仕えた秀長しかいなかった。秀長が亡くなり、彼に歯止めをかける人がいなくなってしまったのでしょう。事実、利休は秀長が亡くなった約1ヶ月後に殺されています」
「秀吉は、自分のコンプレックスを戦いの場でしか晴らせなかった。そう考えると、実に彼の人生は悲劇的だったとも言えるかもしれません」
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1596(文禄5)年 フランシスコ会士マルティン・デ・ラ・アセンシオンの報告。「イエズス会士のパードレ達は、長崎近辺の村落のキリスト教徒全員に、3万人の火縄銃兵を整えてやる事が出来た」
当時の長崎住人は、約5,000人にすぎなかった。
イエズス会は、長崎を防衛する為に約3万人の火縄銃を持った傭兵を配置させた。
長崎は、自衛戦を戦い抜く為に急速に軍事強化されていた。
キリスト教会は、非戦の平和宗教として、異教徒を攻め滅ぼす侵略戦を否定していたが、絶対神の「隣人愛信仰」を守る為の自衛戦は認めていた。
コルネリウス・ハウトマン提督率いるオランダ商船団は、ジャワに到達した。
6月(〜9月) フランシスコ会士のアセンシオンは、『東洋武力征服論』を含んだ報告書2通をスペイン国王に提出した。
『国王陛下が日本のキリスト教会の為に救済せねばならない諸問題に関する報告書』「正当な支配者がいない為に暴君(豊臣秀吉)の権力下にあり、大勢の族長の中で毎日の様に起こっている騒乱、混乱、小競り合いの渦中にある多数の領国を占拠して所有する為である」
アセンシオンは、スペイン国王は、暴君の圧制下で苦しんでいるキリシタンを救う使命があり、神聖なる絶対神の律法を広めて秩序を回復する正当な権利を有していると訴えた。
同時に。日本と共に台湾とマカオの武力征服も主張した。
絶対神への忠誠とキリストへの信仰を異教徒の暴君から守る事は、不当に対する正しい戦争・正戦と正当化した。
「国王陛下はマニラ総督に対し、台湾諸島の攻略を命じられねばならない。おれは文字通り必然でもある。なぜなら、台湾島は、日本からマニラ、マルコ(モルッカ)、マカオ、カンボジア、コチンシナ、シャム、マラッカ、それにあらゆる島嶼と大陸への航路に位置しているからである」
「日本人が台湾島を我が物にするならば、マニラ住民達の全面的な破滅となろう。台湾島は、……日本からは8日の航程にあり、日本やシナとの取引には不可欠な要地である」
7月12日 四国西部から九州東部にかけての中央構造線を震源とするM7.7の巨大地震が発生し、大津波が発生し、各地に甚大なる被害をもたらした。
7月13日 震源地・宇治付近でマグニチュード7.5の大地震が起き、山城・摂津・和泉で被害が出て、伏見城天守閣や京都の方広寺大仏殿が崩壊した。圧死者約500人、負傷者多数。翌年に余震が起きた。
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9月1日 慶長伊予地震。M7。中央構造線断層帯沿いの地震。
9月4日 慶長豊後地震。M7〜7.8。別府湾ー日出生(ひじう)断層帯。死者約710人。
9月5日 慶長伏見地震。
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10月 サン゠フェリペ号事件。
イエズス会の宣教師は、トップダウン式布教活動の為に、戦国大名の間で武器弾薬と非キリスト教徒日本人奴隷の物々交換的南蛮貿易を支援していた。
フランシスコ会の宣教師は、ボトムアップ式布教活動の為に、伝統的日本の宗教を破壊しながら戦国大名の搾取で苦しむ貧しい人々の救済に力を入れた。
先発のイエズス会と後発のフランシスコ会やドミニク会は、教義をめぐって激しく対立し、それぞれの信者は敵意を持って相手を異端者と罵っていた。
日本に、権力者の利益を祝福するキリスト教会派と反権力として虐げられた者に反骨精神を植え付けるキリスト教会派が広がり始めていた。
日本で、ヨーロッパのような悲惨な宗教戦争が起きる兆しが見え始めていた。
何れのキリスト教会派も、異教徒である人神・天皇を打倒する事では一致していた。
豊臣秀吉は、相反する二つのキリスト教が活発に活動して信者を増やす事に恐怖した。
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秀吉は、スペイン・ポルトガル帝国による日本侵略を恐れ、その手先となっていると見られるキリスト教の禁制を命じた。
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11月 ポルトガル人商人は、南蛮貿易を独占するべく、商売敵のスペイン人商人を日本から排除するする為の計略を巡らした。
スペインの奴隷船サン・フェリペ号が、難破して土佐に漂着した事を絶好の好機ととらえた。
彼等は、豊臣秀吉に、スペイン王は宣教師を送りキリスト教を布教させた後に、軍隊を送り込んで、信者の内応でその国を征服し植民地化すると讒言した。
だが、当のポルトガル商人も、同様の手口で多くの異教徒日本人を拉致して奴隷として輸出し、植民地を拡大して利益を上げていた。
商人の目的は、金儲けであった。
日本人奴隷売買問題は、キリスト教会ではなく、西洋の奴隷商人に問題があった。
宗教を、良い事に使うも悪用するも、全て人間次第であった。
宗教が悪いのではなく、宗教を金儲けや我欲に使う人間が悪いのである。
豊臣秀吉は、スペインが「宣教師を派遣した後に軍隊を送り込んで植民地にし奴隷とする」と知るや、激怒してキリスト教の禁令を発して、キリスト教徒を弾圧した。
アステカ王国やインカ帝国での暴力的布教活動を見れば、讒言はあながち嘘とはいえいかった。
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中世キリスト教と現代のキリスト教は、完全に別物である以上、ハッキリと分けて考える必要がある。
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