⚔30)─4─イエズス会とインド副王は、日本の軍事力を恐れて、日本人の人身売買を禁止した。26聖人殉教。1597年~No.123 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 国を外国から守るのは、人の徳でもなければ宗教でもなく、戦略と軍事力であった。
 日本はそれを自分の経験から自覚し、朝鮮はそれを学問から学んで馬鹿にしていた。
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 イエズス会は、ポルトガル人に対して、日本で奴隷売買に携わる者は破門するという破門令を出した。
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 キリスト教会が与える諸権利と保護を認めるのは信仰を同じくキリシタンのみであって、キリシタンでないものはたとえキリシタンの親族身内でも排除した。
 よって、日本人キリシタンは、日本人が奴隷として売られていっても助けなかった。
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 1597年 慶長の役
 豊臣秀吉は、フィリピン諸島総督の伴天連禁止に対する抗議の書簡に対する返事を送った。
 「本朝と交義を堅めたいのなら、異端の法を説かずに、海商を往還させるべきだ。今後商船には予が押印した一書をもたらせよう。そうすれば海陸に少しも難儀もないであろう」
 サン゠フェリペ事件で、アセンシオン修道士ら7名とアウグスティノ会士4名とドミニコ会士1名が処刑れた。日本26聖人殉教事件である。
 ルイス・フロイスは、祖国のポルトガルに対して、西洋人が日本人を奴隷として売り飛ばしている事よりも、豊臣秀吉の悪魔的犯罪を伝えた。
 現代日本は、日本武力征服をスペイン国王に訴えた宣教師を聖人と讃えている。
 国内では、朝鮮出兵にたいして厭戦気運が高まり、戦乱続きに絶望した多くの日本人がキリスト教に改宗した。
 宣教師や修道士らも、活発に布教活動をおこない、日本人を騙す為に以前ほど在来宗教を攻撃しなかった。
 だが、本心では、キリスト教化に成功したあかつきには、全ての民族宗教を撲滅する決意にはかわりがなかった。
 民族宗教国家日本は、国内外の攻撃によって、宗教的危機が訪れようとしていた。
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 2月5日 26聖人殉教。豊臣秀吉は、キリスト教会の宗教的侵略から神国日本を守る為に、イエズス会系ヨーロッパ人の助言に従って、フィリピン使節団と偽ったスペイン系フランシスコ会宣教師6名と日本人キリスト教徒20名を見せしめに処刑した。
 異国で奮闘する宣教師にとって、殉教者を出す事は、布教活動に欠かせない重要な要素であった。異教徒の支配者から信仰ゆえに弾圧され、多くの信者が処刑される事は、信仰に目覚めた魂が神の国で永遠の命を与えられるという「奇跡」を説く為の、必要な犠牲であった。
 バチカンは、キリスト教弾圧で処刑された日本の殉教者を福者、聖人として祝福し、異教徒日本人と異教徒の王・天皇への天罰を絶対神に祈った。
 キリスト教徒は、キリスト教化できなかったこの時代を暗黒時代とし、キリスト教に理解を示さず布教を許さなかった神の裔・天皇豊臣秀吉ら非改宗者を野蛮で無教養な救いがたい愚か者と軽蔑している。そして、「信仰の自由」からキリスト教に関係しない神道的宗教行事を完全否定した。
 中世キリスト教は、他宗教を認めないどころか、存在する事をすら許さない不寛容な宗教であった。
 ヨーロッパのキリスト教会は、天使の歌声を持つ少年達を合唱団として抱えていた。一部の教会は、少年達の透き通った声を守る為に去勢し、寄宿舎に入れて俗世間との接触を遮断した。
 西洋の音楽は、キリスト教会の庇護を得て発達し、絶対神の無償の愛を説くがゆえに人々に感動を与えている。
 日本の音楽は、宗教に関係なく、町人や百姓が日常生活で楽しむ余暇の様なもので、万民に感動を与えるものではない。
 よって、西洋の音楽は世界中で全ての人から愛されているが、日本の音楽は日本人だけのもので世界で理解される事はない。
 事実。明治に、日本に来た多くの外国人が、日本の民族音楽を聴いた時、金属音でうるさいと嫌悪した。
 ローマ教皇ピウス9世は、1862年6月8日に殉教した26人を列聖して聖人の列に加えた。
 中世キリスト教会は、日本人が奴隷として売られる事を知っていた。
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 4月16日 インド副王は、ポルトガル国王の名で、日本人を奴隷などで強制的にマカオに居住させてはならないという、第二回目の奴隷禁止の勅令を公布した。
 だが。本気で日本人奴隷売買を禁止する気は微塵もなく、勅令を公布したのみで具体的な対策を取らなかった。
 面倒な外交問題は、全て先送りして有耶無耶の内に闇に葬った。
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 2016年4月28日 産経ニュース「【欲望の美術史】長崎の殉教 西洋の宗派争いの表れ
 タンツィオ・ダ・ヴァラッロ「長崎におけるフランシスコ会福者たちの殉教」ミラノ、ブレラ美術館
 東京・上野の国立西洋美術館で開かれているカラヴァッジョ展(6月12日まで)には、カラヴァッジョの作品のほか、その影響を受けた画家たちの作品も数多く展示されている。そのうちの一点は、長崎のキリシタンの殉教という日本の情景を描いたものであり、観客の目を引いている。
 作者タンツィオ・ダ・ヴァラッロは17世紀初頭にローマでカラヴァッジョの劇的な明暗法や力強い人物描写の影響を受け、北イタリアで活躍した画家。
 1597年(慶長元年)2月5日、秀吉の命によって長崎西坂の丘で26人のキリシタン磔刑(たっけい)で殉教したことは、日本で布教活動に従事していたルイス・フロイスらによってただちに西洋に伝えられた。それまで日本は、東洋でもっともキリスト教布教が成功した奇跡の国として称賛されていたため、このニュースは世界に大きな衝撃を与え、すぐに、それを記述する書物があいついで刊行された。
 1627年に教皇ウルバヌス八世が、この殉教者を列福(聖人に次ぐ福者に列すること)すると、多くの画家によってさかんに絵画化されるようになる。とくにフランスのジャック・カロによる版画はよく知られている。しかし、彼ら26人がそろって描かれることはほとんどなかった。26人の殉教者のうち、23人をフランシスコ会士が占め、残りの3人はパウロ三木らイエズス会士であった。そのため、この情景はおもにフランシスコ会の聖堂のために制作され、そのときは23人しか描かれず、イエズス会の聖堂では逆に3人のみの殉教場面が描かれたのである。
 日本における布教活動でも西洋の修道会の派閥争いがあり、それが弾圧を引き起こすきっかけにもなったのだが、同じ事件を描くときにも宗派によって異なるのである。1862年に教皇ピウス九世が26人を列聖すると、ようやく彼らは聖人としてそろって描かれるようになった。
 この作品は、北イタリアのヴァラッロのフランシスコ会修道院のために描かれたもので、フランシスコ会士の23人しか登場しない。画面は前景と後景に二分されているが、後景には11人の十字架が立ち並び、前景に残りの12人の磔刑が準備されている。
 今回の展覧会カタログにも書いたことだが、この構成は、ペトロ・ビヴェリウスの書物の挿図に由来すると思われる。そこではやはり後景に11人の磔刑の場面が描かれ、前景に残りの人物の磔刑が準備されているが、史実通り合計26人となっている。画家はあえてイエズス会士の3人を減らして制作したのだろう。
 こうした絵が西洋で数多く描かれたことによって、異教的で野蛮な日本のイメージが形成されてしまったのである。(美術史家、神戸大大学院人文学研究科教授・宮下規久朗)=毎月1回掲載」
 文化や美術が理解できない人間性の欠片もない獣のような野蛮なテロリストであれば、自分に不利な物は如何に芸術性が高かく人類の宝であろうと、無価値と決め付けて破壊した。
 が。日本民族日本人は、文化度の高い文明人であり、相対的価値観に基ずく多様性から、如何に日本を貶める様な題材の芸術品・美術品であっても美術史上価値があれば大事にし、破損していれば修復した。」
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 1598年
 8月18日 豊臣秀吉伏見城で死亡した。
 徳川家康は、浄土宗三緑山増上寺を徳川家の菩提寺と定め、紀尾井坂から芝に移した。
 9月13日 スペイン国王フェリペ2世が、エスコリアール宮殿で崩御した。
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 豊臣秀吉の唐入り、朝鮮出兵が、日本を救った。
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 スペインは、キリスト教徒を残虐に処刑する異教徒日本人を信用しなかった。
 キリスト教会は、日本での布教活動を成功させる為に、日本人好みの偶像崇拝を許した。キリスト教徒に、神社の参拝を認め、神社の祭りに参加する事も許した。
 だが、それは一時の方便である。
 インド(1600年代)やインカ(1533年)やアステカ(1520年)とは違って、日本では民族性が尊重されていたと言うが、それは「ウソ」であり、「奇弁」である。
 キリスト教会は、けっして異教徒を受け入れないし、異端者を許さない。
 宣教師は、にこやかに優しく異教徒に接し、言葉穏やかに絶対神の愛を説いて改宗を薦めた。
 世界中で、
 キリスト教会による、陰惨な異端者尋問と魔女狩りが行われ、
 キリスト教徒による、残虐なる異教徒への聖戦が続けられていた。
 中世キリスト教会は、隣人愛という絶対神の崇高な福音を説き、戦乱のない平和な時代を築こうとしてはいなかった。
 異教徒の豊臣秀吉による、キリスト教徒への惨たらしい宗教弾圧によって、日本改宗は思う様に進まなかった。
 キリスト教徒は、日本をサタンが支配する悪魔の巣窟として嫌悪し、神聖な炎で異教徒全員を焼き滅ぼす事を絶対神に誓った。
 キリスト教会は、絶対神への信仰を拒否する日本人を、世界でも最も教養のない野蛮人であると洗脳し、洗礼を受けてキリスト教徒になりそな日本人を知的好奇心が旺盛な優れた善人であると持ち上げた。
 厳格で戦闘的な宣教師は、祖先神・氏神信仰を持つ日本人は原罪を悔い改める事の出来ない最下層の民で、堕落した人間であると異教徒日本人に愚民意識を押し付けた。
 キリスト教は、敵のマルクス主義同様に洗脳教育に長けた宗教であり、敵の共産主義同様に不寛容な宗教である。 
 キリスト教は、反宗教無神論である敵のマルクス主義共産主義に似ていると言われている。
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 イエズス会巡察師ヴァリニャーノ『日本人の短所』「色欲に耽る事であり、最悪の罪は男色であり、日本人はこれを重大な事だとは思わないから、若衆達も関係のある相手もこれを誇りにし公然と口にする」 
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 ペドロ・ゴメス(イエズス会日本準管区長)「異教徒が、キリストによって認められた権利を行使している説教師に、福音の宣動を妨害するならば、教会とその司牧者は説教者が蒙る不当な暴力と戦い、あるいは不当を防ぐ為に必要であるならば戦争を行って、その様な妨害を排除しうる。……キリスト教会は……他の国家が保有しているように、教会に加えられた不当な暴力から防衛する権利を有しているであろう」『イエズス会日本人イルマンの為のカトリック教理要綱』(在日1590〜1600年)
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 イエズス会は、ポルトガル人が絶対神の教えを破り、日本人女奴隷を性の道具(性の奴隷)として弄び堕落している事に憂慮し、二回目の奴隷売買に従事した者を破門にするという破門令を公布した。
 「これらの商人達は若い人妻を奪い妾とし、子供を誘拐して船に連れ込み奴隷としている。従って、その多くは自殺を選ぶ」
 ディオゴ・デ・コウト(1583年記述)「神を恐れる事なく、商人などが色白の美しい少女達を妾とし、自分達の船室の中で同棲している。神がその様な恥知らずの行動を罰したのは当然だ。神は大量の荷を積んだ船を失う損失を与え、神の偉大な力を理解させたのだ。世界の中でも、この地域のポルトガル人には淫猥な行為が特別に多く、目に余るものがある。その行為に神が何度もの台風によってこのような人たちを威嚇し罰したのは明らかだ」
 イエズス会の一部の宣教師は、日本人の少年少女を奴隷として出荷するポルトガル人商人の文書に署名していた。
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 豊臣秀吉の死によって、朝鮮出兵は失敗に終わり、朝鮮に出兵していた諸大名は兵を率いて帰還した。
 秀吉亡き後、豊臣恩顧の大名は三成派と反三成派に分裂した。
 石田三成は、天下を目指す徳川家康から豊臣家を守る為に、豊臣家に忠誠を誓う諸大名を集めた。
 戦乱を終わらせ太平の世を望む諸大名は、徳川家康の下に集まった。
 徳川家康は天下を望んでいたが、諸大名の積極的な賛同がなければ不可能であった。
 藤堂高虎黒田長政は、徳川の世を開く為に諸大名に徳川家に組みするように説いて回った。
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 1599年 前田利家が死亡したが、前田家は高山右近キリシタンを保護し続けた。
 2月20日 日本のイエズス会は、ポルトガルイエズス会支部長宛の手紙で、ポルトガル人商人が日本人奴隷貿易を続ける事は布教活動に悪影響を与えると警告した。
 2月25日 ペドロ・デ・クルスのイエズス会総長への書簡
「太閤様が行った様な迫害、あるいはそれ以上の迫害は、どの様な時にでも勃発する恐れがある。そのため日本の何処ででも、あるいは日本の全域において迫害が勃発するのは回避できない様に思われる。……日本のキリスト教界には、真の迫害に耐えるだけの力が備わっていない。……キリスト教界への迫害が直接行われなくても、パードレ達への迫害が行われ、その迫害がパードレ達を殺したり、日本から無理矢理追放したりする所まで徹底したものになるならば、それはキリスト教会の完膚なき破壊を意味する。……日本人がスペイン人にしでかした事、つまり、太閤様がスペイン人から、かの極めて豊かなナウ船(軍艦)を奪い取り、托鉢修道会士と使節を殺害し、その領土を奪うべく人を派遣した事は、この企てを正当化する理由になりうる。と我々は考えている」
 ペドロ・デ・ラ・クルス宣教師の日本占領計画案。「日本は海軍力が弱く、島国で分断されているので、九州・四国を獲るのも簡単でありキリシタン大名と提携して領土を獲得しよう」
 キリスト教会は、日本人キリシタンの信仰と生命を異教徒日本人の迫害から守り、異教徒勢力から完全独立したキリスト教徒だけの神聖自治港湾都市を、日本国内に一つか数個ほど建設しようとした。
 イエズス会宣教師は、イエスから与えられた布教の権利と信仰の自由を守る為に、対日武力征服を訴えた。
 日本のイエズス会は、ローマ教皇が日本はポルトガルの植民地であると認めた以上、異教徒日本人勢力の不当に対する制裁、懲罰は当然の権利であると考えていた。
 絶対神への反逆を続ける異教徒日本人への刑罰戦争は、正しい戦争であると確信していた。
 唯一絶対の一神教では、異教で或る多神教の神々は悪魔であり、邪悪な神々は聖なる火で焼き滅ぼす事を「正義」として公認している。
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 キリスト教会は、日本のキリスト教化と占領は諦めたが、長崎をローマ教皇領として日本から分離独立させて第二のマカオにしようとした。
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 カトリック新聞 オンライン
 February15,2013
 イタリア・チヴィタヴェッキアで26聖人記念のミサ
 2月3日、イタリア・ローマ県最北西部の都市、チヴィタヴェッキアの日本聖殉教者教会で、日本26聖人の祝日を記念するミサが行われた。
 イエズス会パウロ三木ら26人は、1597年2月5日、長崎の西坂で殉教。1862年に列聖された。同聖堂は、日本の最初の殉教者である日本26聖人にささげられたもの。祭壇後ろの壁画は、日本人画家の長谷川路可が描いた殉教者のフレスコ画だ。
 ミサには、同小教区の信徒ほか、主任司祭から招待を受けたローマ・カトリック日本人会関係者も参加し、聖堂は約200人の参列者でいっぱいになった。
 来賓として、駐バチカン日本大使夫妻、イタリア日本大使夫妻ら大使館関係者、地元市長や警察関係者らの姿もあった。
 ミサは、チヴィタヴェッキアのルイージ・マルッチ司教が主司式し、主任のフランシスコ・コロナド・ドミンゲス神父、日本カトリック司教協議会ローマ事務所長の和田誠神父(カルメル修道会)、フランシスコ会の管区長など9人が共同司式した。
 マルッチ司教は説教で、信仰年に当たり、イエスの復活が私たちの存在の中心にあることを意識するよう語った。
 日本の殉教者は命を顧みずに信仰を証ししたが、私たちにとって大切なのは、イエスが弟子たちを派遣する際に語った、「行って」「洗礼を授け」、「教える」(マタイ28・19?20)こと。自分の全てを使ってキリストを告げ、洗礼を授け、新たな福音宣教を行うことだとし、証しする者となるよう参列者を励ました。
 チヴィタヴェッキアは、1615年、支倉常長らローマを目指す遣欧使節団が上陸した港町。長崎の殉教者26人が列聖された2年後の1864年、チヴィタヴェッキアにあったフランシスコ会修道院の聖堂が日本聖殉教者教会として改修・献堂された。
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 February8,2017
 長崎教区は2月5日、長崎市内の西坂公園で「日本26聖人殉教者ミサ」をささげた。郄見三明大司教が主司式し、40人余りの司祭団が共同司式。約1,300人が参列した。
 郄見大司教はミサのはじめに、聖人たちが遺した信仰の遺産を「私たちが精いっぱい生きて、そして正しく、やさしく分かりやすく他の人に伝えていくことができるように」聖人の取り次ぎを願って祈るよう呼び掛けた。
 今年はレデンプトール会の井田明神父が説教を担当。井田神父は、福音を信じて生きるということは必要ならば命さえも捨てる覚悟が求められるが、殉教は「死が全ての終わりではなく、十字架を通して、新たな命(復活の命、永遠の命)にあずかる希望を表明すること」だと説いた。
 続けて26人の殉教者がたどった苦難の道を分かりやすく語り、宣教師ルイス・フロイスの『日本二十六聖人殉教記』の一部を引用して、当時の信者たちが殉教者を「幸せな人々として尊敬していた」様子を感動的に伝えた。
 京都から長崎まで26聖人と同じように徒歩で巡礼者としてこの日のミサに参列した信徒は、「皆さんの協力のおかげで巡礼が実現しました。3年間の思いが実現できてとてもうれしいです」と感想を語った。
 ミサ前には、2008年に逝去した結城了悟神父の顕彰碑の除幕式が行われた。結城神父は日本二十六聖人記念館の創立から40年以上館長を務めた。碑は郄見大司教を含む有志によって26聖人像の後ろに建てられた。
(写真提供は長崎教区広報委員会)
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