🎑23)─1・④─吉原の忘八者は穢れた差別民。吉原楼主への職業差別。〜No.44No.45No.46 

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 2025年6月28日 MicrosoftStartニュース JBpress「大河ドラマ『べらぼう』ドイツ人医師も驚く“忘八”と呼ばれた吉原楼主への理不尽な職業差別
 吉原の遊郭(写真:MeijiShowa/アフロ)
 NHK大河ドラマ『べらぼう』で主役を務める、江戸時代中期に吉原で生まれ育った蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)。その波瀾万丈な生涯が描かれて話題になっている。第24回「げにつれなきは日本橋」。地本問屋・丸屋の娘「てい」から店舗売却を拒まれる蔦重は皆の協力も得ながら何とか打開しようとするが……。『なにかと人間くさい徳川将軍』など江戸時代の歴代将軍を解説した著作もある、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)
 「忘八」と差別された吉原の親父たち
 吉原の親父たちの支援の下、日本橋に進出することになった蔦屋重三郎。経営難で店を畳むことになった地本問屋の丸屋を買おうとするが、橋本愛演じる丸屋の一人娘「てい」が、どうしても耕書堂には売りたくないらしい。買い手を探してくれるという鶴屋に対して、こうくぎを刺した。
 「吉原の蔦屋耕書堂だけは、一万両積まれようともお避けいただきたく」
 これだけ毛嫌いされているのは、なぜなのか。吉原の親父たちは「蔦重の手がけた往来物が丸屋の息の根を止めた」「ていの亭主が吉原の遊女に入れあげて店が傾くきっかけになった」と聞いた噂を蔦重に伝えたりもしたが、何か事情がありそうだ。
 だが、ていの抵抗とは別に、そもそも「吉原者(よしはらもの)」が日本橋に来てほしくないという地元の反発も今回の放送では描かれた。蔦重が親父たちと日本橋に乗り込んでくると、街の住民たちはこんなふうにヒソヒソと囁いた。
 「吉原者だ……」
 「初めて見た……」
 ドラマであるように、実際にも遊郭のオーナーである楼主たちは差別されていた。人として大切な「八つの徳」(仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌〈てい〉)を忘れた者、すなわち「忘八(ぼうはち)」と呼ばれていたという。元禄3(1690)年に、長崎の出島にオランダ商館付き医師として来日したドイツの旅行家エンゲルベルト・ケンペルが『日本誌』で次のような趣旨のことを書いている。
 「楼主はいかに裕福でも、決して公正な市民とは認められず、市民と交際することも叶わない。ほとんど人とは認められていない」
 安永元(1772)年には、ある出来事をきっかけに「忘八」の差別的な扱いは決定的なものとなる。
 エンゲルベルト・ケンペルの著作『日本の歴史と説明』第1巻(写真:アフロ)
 吉原者が土地の購入を公的に禁じられたきっかけ
 今回の放送では、蔦重が日本橋に進出したくても、そもそも家を買えないという事態に、二代目の大文字屋市兵衛が「うちの親父が暴れさえしなきゃねえ」「親父があんなこと言い出さなきゃ……」とこぼす場面が繰り返された。
 『べらぼう』では、初代の大文字屋市兵衛が急逝するが、後を継いだ二代目の大文字屋市兵衛も顔がそっくりという設定で、ともに伊藤淳史が演じている。
 途中から見た人のために説明しておくと、初代の大文字屋市兵衛が神田に屋敷を購入しようとするも名主から「遊女屋に土地を売った前例がない」と拒絶されてしまう。怒って奉行所に訴えたところ、「四民の外にて、穢多(えた)に準じ」と言われて「吉原者は士農工商に含まれない最下層の身分である」という理由で、今後一切の江戸市中の土地の購入を禁じられることとなった。
 初代の大文字屋市兵衛が主張したばかりに、結果的に、吉原者への差別的な扱いを奉行所が「是」とする──という最悪の結末に至ってしまった。二代目の大文字屋市兵衛からすれば、父の行動が結果的に蔦重の日本橋進出の妨げにもなり、申し訳なく思ったのだろう。
 この大文字屋市兵衛による騒動は、安永元(1772)年の土地の売買トラブル裁判において、吉原の楼主に対して奉行所から出された実際の判決がもととなっている。たとえ財力があっても乗り越えられない、理不尽な壁があった。
 実像が分からない「蔦重の妻」をどう描くか
 ドラマでは、丸屋の一人娘・ていが本当は本屋をまだ続けたいのではないか、ということに気づいた蔦重。
 吉原の親父衆とともに、ていと初めて対峙したときに「一緒に本屋やりませんか。本当は店続けてえんじゃないですか?」と提案したかと思うと、「おれと一緒になるってなぁはどうです?」といきなりプロポーズをするという展開には、驚かされた。
 ていからは「どんなに落ちぶれようと吉原者と一緒になるなどありえません」ときっぱり断られた蔦重だったが、ここからどうやって夫婦になるのかは、見どころの一つだろう。
 史実においては、菩提寺である正法寺(しょうほうじ)の過去帳に「錬心妙貞日義信女(れんしんみょうてい にちぎしんにょ)」と戒名が記されており、これが蔦重の妻とみられている。ドラマでは、戒名の4文字目の「貞」から「てい」と名づけたのだろう。
 蔦重の妻については「文政8(1825)年10月11日に亡くなった」ということくらいしか分かっていない。蔦重が寛政9(1797)年5月6日に亡くなっているので、妻のほうが長生きしたことになる。
 どんな女性として描くのかは脚本家のイメージ次第というわけだが、「漢籍が読めるほどの教養があり、蔦重と同じく本を愛する女性」という、ドラマでのていは、確かに蔦重とぴったり息が合いそうだ。
 SNSでは「漢籍が読めてちょっと変わった女性」という点で前回の大河ドラマ『光る君へ』でのまひろ、こと紫式部を想起した視聴者の声もちらほら。大河ファンならではの楽しみ方だろう。
 放送後の「紀行コーナー」が必見だったワケ
 江戸パートのほうは、田沼意次と意知の親子が、松前藩が「抜け荷(密輸)」をしている証拠をつかもうと東奔西走。蝦夷地を直轄地にするために、松前藩から上知(あげち)、つまり領地を召し上げる必要があり、その理由として「抜け荷」の実態をつかもうとするも、なかなかうまくいかない。
 今回の放送では、松前藩の藩主・松前道廣(まつまえ みちひろ)が弟の廣年(ひろとし)とともに、花魁の誰袖(だがそで)のもとに現れ、ついに抜け荷に手を染めようとするところで終わった。
 松前道廣をえなりかずきが、弟の廣年をお笑い芸人のひょうろくが演じて話題となったが、今回ぜひ見てほしいのが、放送後の紀行コーナーだ。松前廣年の肖像画が、ひょうろくにそっくりなのである。このキャスティングはアッパレとしか言いようがない。
 そのほかに今回の放送では、俳優の伊藤かずえ、タレントのベッキー、お笑いトリオ「3時のヒロイン」の福田麻貴が、それぞれマツ、タケ、ウメという役名で、日本橋で店を営む女将3人組として登場したことも話題を呼んだ。さらに、お笑い芸人のマキタスポーツも、ていが漢籍の手ほどきを受ける寺の和尚役として登場している。
 ちょっとしたシーンも気を抜けないのが、今回の『べらぼう』だ。日本橋編も楽しみである。
 次回は「灰の雨降る日本橋」。丸屋を買い取った蔦重だったが、天明3(1783)年に浅間山の「天明大噴火」が起き、江戸にも灰が降り注ぐ。断続的に3カ月もの間、噴火が続くなか、蔦重が灰の除去のために懸命に働いているうちに、ていとの距離が縮まることになる。
 【参考文献】
 『江戸参府旅行日記』(エンゲルベルト・ケンペル著、斎藤信訳、平凡社
 『蔦屋重三郎』(鈴木俊幸著、平凡社新書
 『蔦屋重三郎 時代を変えた江戸の本屋』(鈴木俊幸監修、平凡社
 『探訪・蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人』(倉本初夫著、れんが書房新社)
 「蔦重が育てた「文人墨客」たち」(小沢詠美子監修、小林明著、『歴史人』ABCアーク 2023年12月号)
 「蔦屋重三郎と35人の文化人 喜多川歌麿」(山本ゆかり監修『歴史人』ABCアーク 2025年2月号)
 『江戸の色町 遊女と吉原の歴史 江戸文化から見た吉原と遊女の生活』(安藤優一郎著、カンゼン)
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 2025年1月6日 note「忘八(ぼうはち)の歴史と文化的背景
 「忘八(ぼうはち)」という言葉は、現代ではあまり耳にしないかもしれませんが、その由来と背景には江戸時代の独特な文化や価値観が色濃く反映されています。この記事では、この言葉が意味するところや、当時の社会における忘八の存在意義、そしてその生活の一端について掘り下げてみたいと思います。
 忘八とは何か?
 忘八という言葉の由来は、「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」という儒教的な八つの徳目を「忘れる」、つまり捨て去ることからきています。この言葉は特に、遊郭(遊女屋)に出入りする男性たちを指す表現として使われました。
 遊郭に足繁く通う行為自体が、儒教的な倫理観に反するものと見なされていたことが背景にあります。遊女と遊ぶために金銭を惜しみなく使い、家庭や社会的責任を顧みない男性たちが、そう呼ばれていたのです。
 忘八と江戸時代の遊郭文化
 江戸時代は、「四民平等」とは程遠い、身分制度が厳格な社会でしたが、遊郭はある意味で階級の垣根を越えた空間でもありました。武士、商人、職人といった様々な身分の男性が訪れ、遊女と時間を共にし、現実の束縛から解放されることを楽しみました。
 忘八と呼ばれる男性たちは、単なる遊び人ではありませんでした。彼らは遊郭で贅沢な宴会を開き、食事や酒、娯楽を思い切り堪能しました。当時の遊郭では、華やかな料理や高価な酒が用意されており、その一部始終が「粋」や「贅沢」を体現する場でもありました。
 忘八と贅沢な食文化
 時代劇や文学作品には、忘八たちが宴会を楽しむ様子が描かれることがあります。彼らが食した料理は、現代の感覚からすると驚くほど手の込んだものでした。
 たとえば、
• 豪華な懐石料理風の膳
• 魚介類をふんだんに使った鍋料理
• 季節の果物を使った甘味
 など、贅沢な食事が用意されていたとされています。また、こうした宴席では、料理や酒だけでなく、音楽や踊りといった娯楽も欠かせない要素でした。遊女たちが三味線を弾いたり、歌を歌ったりする中で、忘八たちは現実を忘れて夢のような時間を過ごしていたのです。
 忘八の姿から見る現代との違い
 現代では、「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」といった徳目を守るかどうかが日常生活で直接問われることは少ないかもしれません。しかし、忘八のように「現実のしがらみを忘れて楽しむ」という感覚は、現代人にとっても共感できる部分があるのではないでしょうか。たとえば、旅行やエンターテインメント、豪華なレストランでの食事などは、日々のストレスを解消し、束の間の非日常を味わう機会となっています。
 まとめ
 忘八という言葉には、江戸時代の倫理観や遊郭文化が凝縮されています。それは単なる「徳目を忘れた人」という否定的な意味だけでなく、当時の人々がいかにして自分たちの「非日常」を楽しんでいたのかを垣間見ることができる興味深い言葉でもあります。
 この言葉を知ることで、江戸時代の価値観や生活様式、そして人々の楽しみ方をより深く理解できるかもしれません。そして、現代に生きる私たちも、時には「忘八」のように日常を忘れ、心から楽しむ時間を大切にしてみてはいかがでしょう
 松尾靖隆
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 2025年6月10日 Japaaanマガジン「歴史・文化 「べらぼう」吉原遊郭を仕切る楼主(忘八)は差別対象!なかには自殺してしまった楼主も…
 「べらぼう」吉原遊郭を仕切る楼主(忘八)は差別対象!なかには自殺してしまった楼主も…
 現在、NHKで放送中の大河ドラマ「べらぼう」では、まもなく日本橋編が本格的に動き出しますが、初回からこれまで放送されてきた吉原編では、吉原遊廓で働く人々の人間模様のリアルな描写が話題にもなりました。
 喜多川歌麿
 江戸時代、遊郭で働いていた遊女たちは、年季を勤め上げて借金を返済し終わったら普通に結婚していたことがあります。この事実に驚いたのは、当時 日本にやってきた外国人達です。彼らの国では娼婦から足を洗っても家庭に入ることはあり得ませんでした。
 年季が明ければ普通に結婚していた事実からもわかる通り、江戸時代の遊女たちは差別されるべき対象ではなかったのです。
 「べらぼう」では、遊女、花魁のほか、遊郭の経営者陣にもフォーカスされたストーリー展開も魅力的で、「べらぼう」を見て初めて「忘八(ぼうはち)」という言葉を知った人も少なくないでしょう。
 「大河べらぼう」にも登場!遊女屋の主人「忘八」が忘れた“八つの徳“とは?詳しく紹介
 江戸時代、遊女屋を経営していた主人を「忘八(ぼうはち)」と言いました。これは人として大切な八つの徳を忘れ去ったことに由来します。八つの徳とは仁(じん)・義(ぎ)・礼(れい)・智(ち)・…
 遊女たちとは違い、”忘八”として生きる楼主たちは、「べらぼう」でも描かれている通り、当時は差別の対象になっていました。なかには差別される経験が身に染みて自殺してしまった楼主もいたとか。
 江戸時代、遊女は流行の最先端だったので、一般の女性たちから注目されていました。
 人気の遊女になると歌舞伎で演じられたり浮世絵に描かれたりするようになるので、遊郭にかかわりのない市民でも彼女たちの存在は身近だったのです。
 実際に人気遊女・勝山から発信されて流行となり、既婚女性が結う定番の女髷になった「勝山髷」という髪形もあります。このように、流行の発信地としての役割を担っていた 遊女は注目の的だったのです。
 元遊女が結婚することは普通だった
 ただし、やはり遊女の労働環境は過酷であり、人身売買が禁止されていたとはいえ、実際には身売りによって遊女の売買が行われていました。
 ほとんどが貧しさゆえ親に売られてしまった少女たちだったため、遊女は「家族のためにその身を犠牲にした孝行者である」と認知されていたのです。
 歌川国貞 画
 そのような状況だったので、元遊女だから妻にできないという男性はあまりいませんでした。ただし、その状況を不思議に感じたのが外国人たちです。
 当時 来日していたドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペルは「日本誌」に、スウェーデンの植物学者カール・ツンベルクは「江戸参府随行記」に、それぞれの著書で「身を売っていた女性が一般の家庭に入ることは珍しくないし、それをまた周りも普通に受け入れている」と驚いた様子で綴っています。
 痛烈に差別されていた楼主たち
 一般の人たちは、身売りされてしまった遊女に対して同情的な視線を向けていたのでしょう。その反面、遊女たちを束ねる楼主は批判の対象となりました。
 楼主は「忘八(ぼうはち)」と呼ばれ、「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八つの徳を忘れたという意味で蔑まれていたのです。
 「日本誌」内で、ケンペルは楼主に対して「決して公正な市民ではない」と差別的な意見を述べています。外国人だけでなく、江戸の市民や幕府の人間でさえも、楼主の所業は人間のすることではないと痛烈に非難しているのです。
 江戸時代の見聞録・世事見聞録には、楼主を「およそ人間にあらず」と表現しています。また、ある訴えを起こされた楼主に対して、幕府からは「楼主は四民の下」だと批判されていました。
 歌川芳員 画
 江戸前期の俳人・榎本其角(えのもと きかく)は、著書「雑談集」の中に自殺した楼主のエピソードを載せています。
 その楼主は、自分の立場を恥じて風流に身をゆだねたが、その状況になんら変わらないことに絶望して自分で命を絶ってしまったそうです。
 また、吉原遊郭創立に奔走した立役者・庄司甚内武家の血筋という説があります。ただし、楼主になったことを恥じていたため、決して父の名を明かさなかったとか。
 苦界に身を落とし、地獄のような日々を過ごして生きた遊女たち。そして、彼女たちを束ねていた楼主たちにも、それぞれの事情があったのかもしれません。
 参考書籍:安藤 優一郎「江戸の色町 遊女と吉原の歴史 江戸文化から見た吉原と遊女の生活」
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