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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
西洋人、白人キリスト教徒から見れば、日本人はアフリカ人(黒人)同様の文化教養なき野蛮人、人間の姿をした獣でしかなかった。
それ故に、日本人をアフリカ人同様に奴隷とした。
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イエズス会宣教師で、日本をキリスト教国家に作り変えようとしたのは、フランシスコ・ザビエルではなくフランシスコ・カブラルであった。
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ローマのバチカンには、戦国日本に関する詳しい情報を宣教師の膨大な報告書から沿っていた。
宣教師達の報告書は、バチカンの書庫の奥に眠っている。
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神に仕えるバチカン市国・ローマ教皇庁は、情報を軽視する現代の日本とは違い、いい情報も悪い情報も全て報告者や公文書として保管している。
賢いか愚かかは、自ずと分かる。
ローマ・カトリック教会の歴史は2020年と古いが、現代日本の歴史は75年と新しい。
歴史の新しい現代日本には、伝統など存在せず、その為に自分に都合の悪い情報を包み隠さず未来の子孫に残すという覚悟が稀薄である。
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日本に渡来した宣教師は、隣人愛の信仰と博愛の福音を伝道する使徒ではなかった。
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2020年6月28日 NHK SPECIAL
戦国 ~激動の世界と日本~
第1集 秘められた征服計画
織田信長×宣教師
世界各地で「日本の戦国時代」に関する発見が相次ぎ、大航海時代のヨーロッパと日本が強く結びつき、地球規模で歴史を揺るがしていた事実が明らかになってきた。第1集は、織田信長と豊臣秀吉の時代。ヨーロッパの16世紀の文書が公開され、信長・秀吉と、来日したキリスト教の宣教師、そして背後にいたポルトガルやスペインとの深い繋がりが見えてきた。それぞれの思惑と、熾烈な駆け引きを描く。ナビゲーターは西島秀俊さん。
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テレビドカッチ
西島秀俊、織田信長&豊臣秀吉と宣教師らの熾烈な駆け引きに迫る!『NHKスペシャル』
バラエティ
2020.06.27 up
西島秀俊が番組ナビゲーターを務め、地球規模の歴史から日本の戦国時代の新たな姿を描くシリーズ『NHKスペシャル 戦国 ―激動の世界と日本―』(NHK総合)の第1集が、6月28日(日)21時から放送される。第1集では「秘められた征服計画 織田信長×宣教師」と題して、織田信長・豊臣秀吉、来日した宣教師、ヨーロッパ諸国の間で繰り広げられた熾烈な駆け引きが描かれる。
今、世界各地で「日本の戦国時代」に関する文書などの発見が相次ぎ、その知られざる姿が明らかになってきている。浮かび上がってきたのは、「大航海時代」のヨーロッパ諸国と日本が強く結びつき、互いに影響を与えながら、日本と世界の歴史を大きく揺るがしていたという事実だ。
天下統一にひた走る信長から、あとを継いだ秀吉までの時代。ヨーロッパで公開された16世紀の文書からは、信長や秀吉と、来日したキリスト教の宣教師、そしてその背後にいるポルトガルやスペインとの深い繋がりが見えてきた。宣教師は、アジアの覇権を握るための壮大な計画を抱いて、信長、秀吉と結びつく一方で、水面下で熾烈な駆け引きを繰り広げていて……。スタジオでは、高精細CGで戦国日本と世界が織りなすグローバル・ヒストリーを紹介する。
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織田信長が使用した火縄銃の銃弾や火薬は、宣教師を通じて白人キリスト教徒商人から購入していた。
銃弾は、タイの鉱山で採掘した鉛で生産されていた。
火薬は、明国で生産されていた。
明国は、火薬の原料である硫黄を最初は琉球から、後に白人キリスト教徒商人を通じてキリシタン大名から輸入していた。
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加賀百万石異聞「高山右近」 加賀百万石紀行
北國新聞朝刊(2002/08/06付)~ 中国征服計画 ~
僧衣の下に隠された鎧 「サムライを派兵せよ」
三池カルタ記念館に展示されている、ポルトガル人が船中でカルタを楽しむ様子を再現したジオラマ
世界史に言う大航海時代、西欧の超大国だったポルトガルとスペインは、世界を二分する領土分割線を定めた。アフリカ大陸の西に南北線を引き、これより東側で発見された島や大陸はポルトガル領、西側はスペイン領とする身勝手な取り決めである。これを「トルデシリヤス条約」という。
東回りと西回りで始まったポルトガルとスペインの領土拡張競争は、やがて地球をひと回りし、東アジアで衝突する。トルデシリヤス条約では明確になっていない東アジアの権益をどちらが得るかが焦点になった。
豊臣秀吉が天下を手中に収めたころ、既に新大陸はスペインの専有下にあり、インドや東南アジアの権益はポルトガルが握っていた。残された「蜜の流れる地」は、イスラム諸国を除けば東アジアの2つの大国、世界有数の銀の産出国であった日本と、高度な文明を背景に巨大な富を有する中国だけといってよかった。
世界史の規模で眺めたとき、秀吉の伴天連(バテレン)追放令は、ポルトガルとスペインの野望を打ち砕く鉄槌(てっつい)であった。宣教師たちは、両国の領土拡張競争において、実質的な水先案内人の役を果たし、植民地化に手を貸していたからである。実際、アジアに進出したイエズス会宣教師たちは、スポンサーであるポルトガル国王やスペイン国王あてに、日本や中国の武力征服の可能性について、現地駐在武官さながらの詳細かつ具体的な報告書をしたためている。
ポルトガルが日本との交易に使った「ナウ型帆船の模型」(大分県臼杵市役所所蔵)。宣教師もこれに乗って来日した。日本人奴隷も運ばれたという
イエズス会東インド巡察師の肩書を持ち、日本に3年滞在したアレッサンドロ・ヴァリニャーノはフィリピン総督に書簡で「日本人は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので征服できない。だが、中国を征服するとき、日本は時とともに、非常に益することになるだろう」と書いた。
日本布教長だったカブラルは、スペイン国王にあてた書簡で「多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で中国を征服できる」と断じ、「これだけの軍勢や軍艦が調達できない場合は、日本に駐在しているパーデレ(神父)たちが容易に2、3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるであろう。彼らは大変勇敢な兵隊であり、わずかな給料で陛下にご奉公するだろう」と記している。
宣教師たちは、日本の武力征服は無理でも、戦国動乱に慣れた日本のサムライをもってすれば、中国の征服は可能だと見ていた。勇敢な日本人を傭兵のごとく扱い、中国を占領する。その先兵として脳裏に描いていたのは、キリシタン大名だった。日本のキリシタン大名が大勢力になれば、日本人をして日本人と戦わしめ、スペインがキリシタン大名を支援するかたちで日本を支配下に置くことも可能と考えていたはずである。
秀吉が当時の世界情勢をどこまで掌握していたかは不明だが、宣教師たちの振る舞いに危険なにおいをかぎとったのは間違いない。事実、ヴァリニャーノは、秀吉の伴天連追放令は、カブラルの後を継いで日本準管区長の職に就いたガスパル・コエリエの「思慮を欠いたある種の軽卒な振る舞いが非常で重要な契機」となったと非難し、次のように記している。
福岡県大牟田市の三池カルタ記念館が復元した「天正カルタ」。南蛮ブームは、伴天連追放令後も長く続いた
「天正14年、大坂城でコエリエが秀吉に九州遠征を要請した折、秀吉は中国侵攻を暗示した。このとき、コエリエはポルトガル人から2艘(そう)の大船を世話することを約束した。コエリエは翌年、博多へ来た秀吉を、大砲を装備したフスタ船に乗って訪ね、船内をくまなく案内した。秀吉は優れた装備に感嘆し、『これは軍艦である』と叫んだ。右近と小西行長は、コエリエの振る舞いによってキリスト教界が危険にさらされることを怖れ、コエリエに対し、このフスタ船を秀吉に献上することを勧めたが、コエリエはこれを断った」(要約)
秀吉はコエリエの僧衣の下に隠された鎧をはっきりと見た。伴天連追放令が出されたのは、この直後のことである。
●〔ガスパル・コエリエ〕
伴天連追放令が出された当時、イエズス会の日本における最高責任者だった。追放令後、キリシタン大名の有馬晴信に武器の提供と引き換えにして、秀吉への敵対を呼びかけた。また、フィリピン総督に日本への派兵を要請したが、いずれも実現しなかった。集めた武器弾薬はひそかに売却されたという。
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キリスト教イエズス会は、世界をキリスト教国家に生まれ変わらせる事を神聖な使命とし、非キリスト教国の有力者に武器を提供する事で布教許可を受けていた。
信長時代初期。イエズス会は、日本征服計画の為に織田信長を利用し、最大の強敵は石山本願寺ら仏教勢力であった。
イエズス会は、キリシタン大名高山右近らに織田信長に味方させ仏教勢力を打ち破り無力化させた。
スペイン国王兼ポルトガル国王フェリペ2世は、アジア征服・明国征服を命じた。
イエズス会は、明国征服の為に日本の軍事力を利用しようとした。
豊臣秀吉は、国内のキリスト教勢力(キリシタン約30万人)の弱体化を目的として朝鮮出兵にキリシタン大名を最前線に送り出した。
豊臣秀吉は、明国征服の軍資金を得る為に、スペイン植民地フィリピンの金塊を手に入れるべくフィリピン遠征を計画していた。
スペインは、日本に備えるべく軍事力を強化した。
フェリペ2世は、1598年9月13日に逝去した。
豊臣秀吉は、1598年9月18日(慶長3年8月18日)に死亡した。
2人の死によって、スペインと日本の緊迫、西洋とアジアの戦争の緊張は解消された。
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フェリペ2世、1556年にスペイン国王に即位、1580年にポルトガル国王に即位。
エリザベス1世、1558年にイングランド国王に即位、1603年に逝去。
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キリシタン大名:京極高吉、蒲生氏郷、高山右近、小西行長、黒田官兵衛、大村純忠、大友義鎮、有馬晴信、五島純玄、その他。
キリシタン大名は、イエズス会の主君(豊臣秀吉)殺しと天皇殺害の要請を断った。
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日本では、骨肉の争いとして兄弟殺しや子殺しは許されていたが、親殺しの親不孝は許されなかった。
子が敵対した親にできる事は、死ぬまで座敷牢に幽閉するか領地から追放する事である。
武士道において、家臣が主君を殺す事は絶対に許されない不忠である。
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中世のイエズス会宣教師は、キリスト教の十戒(旧約聖書出エジプト記20章)「殺すなかれ」はキリスト教徒に対してであって異教徒と異端者も対象外として殺害を許していた。
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キリスト教の信仰契約では、絶対神に叛く親や兄弟を殺す事は罪ではく、キリスト教会が正当性を認めれば主君・国王を殺す事が許されていた。
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中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を世界中に輸出して大金を稼いでいた。
日本人を奴隷として売ったのは日本人であった。
豊臣秀吉は、日本人を奴隷として売買をする事を禁止する為にキリスト教会を禁教し、人身売買する宣教師を処刑した。
中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人の奴隷売買ができなくなってからりに傭兵輸出に方針転換した。
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悪いのは、日本人を奴隷として世界に輸出した中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人なのか、彼らに売りつけていた日本人なのか。
正義はどちらにあったのか。
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15世紀ら17世紀前半にかけの大航海時代とは、スペイン王国・ポルトガル国王そしてキリスト教会・イエズス会を中心としたヨーロッパ諸国による植民地獲得時代である。
そして、選民思想と宗教的人種差別主義を信ずる白人キリスト教徒は、アジア・アフリカ・南北アメリカの先住民である非白人非キリスト教徒を奴隷とした時代である。
絶対真理・絶対価値観を国際基準として、世界を一つにまとめる、画一化・単一化する時代であった。
その結果、ローカルな人種民族が持っていた独自の歴史・伝統・宗教・文化・言語・習慣など全てが「悪」として消去された。
その世界的潮流に抗ったのが、日本であった。
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1571年10月7日 レパントの海戦。
神聖同盟(スペイン王国・ジェノヴァ共和国・ヴェネツィア共和国・教皇領・サヴォイア公国・トスカーナ大公国・ウルビーノ公国・ マルタ騎士団)
ガレー209隻、ガレアス6隻、小ガレオン船26隻、補助船65隻。
兵員2万2,000人。砲1,800門。
オスマン帝国
ガレー213~219隻、ガレアス6~12隻、小ガレオン船60隻、輸送船24隻。
兵員2万6,000人。砲2,000門。
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1588年7月31日~8月8日 アルマダの海戦。イギリス海軍は、スペイン無敵艦隊を英仏海峡で撃破した。
イギリス艦隊:王室所属船34隻、武装商船163隻。
スペイン艦隊:正規軍艦28隻、武装商船102隻。兵員5万5,000人。
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文禄の役:天正20年4月13日(1592年5月24日)~文禄2年7月9日(1593年8月5日)
日本軍:15万8,700人
明・朝鮮連合軍:24万7,800人。(明軍:5万3,000人。朝鮮軍:17万2,400人。義兵軍:2万2,400人。)
慶長の役:慶長2年1月14日(1597年3月1日)~慶長3年11月25日(1598年12月22日)
日本軍:14万1,500人。
明・朝鮮連合軍:
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日本の軍事力は、世界7大帝国の一ヵ国であった。
日本の火縄銃保有量は、一ヵ国で西洋に匹敵する数であった。
日本の武器の性能は、大砲では西洋に劣っていたが、火縄銃では西洋を凌駕していた。
日本の海軍力は、世界最大級で、世界最強であった。
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傭兵において、日本人傭兵の戦闘能力は世界的に優秀・有能であった。
日本人傭兵は、西洋人正規兵に引けを取る事はなかった。
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西洋は、日本を恐れていたが、同時に日本の軍事力を利用すれば明国(中国)の征服は可能だと確信していた。
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日本人の愚かさは、敵を信じて近づき、味方を疑って遠ざけるところである。
日本人の悪癖は、相手の良い所だけを見て悪い所を見ない事であり、自分の良い所を見ず悪い所だけを見る事である。
日本人の馬鹿なところは、悪人の悪意ある甘い言葉を信じて騙される事である。
そうした救いがたい傾向は、理想を信じ、理想を求めて生きる現代の日本人に強い。
昔の日本人は、現実に身を置いて生きていた為に敵・味方、悪人・善人の区別が付いていた。
それが、鎖国の評価の分かれ目である。
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ウィキペディア
日本のキリスト教史(にほんのキリストきょうし)では、日本におけるキリスト教の歴史とその展開について述べる。日本の宗教全般については「日本の宗教」を、世界のキリスト教の歴史については、「キリスト教の歴史」を参照のこと。
豊臣秀吉とキリスト教
織田信長は宣教師たちに対して好意的であった。信長の後を継いだ豊臣秀吉も基本的に信長の政策を継承し、宣教師に対して寛大であった。
しかし、秀吉の天下統一目前の1587年、九州征伐の途上で宣教師やキリシタン大名によって多数の神社や寺が焼かれ、仏教徒が迫害を受けていることを知り、また、日本人がポルトガル商人によって奴隷として海外に売られていたこと、そして最大の要因である長崎がイエズス会領となっていることなどを理由とし九州征伐完了直後、筑前箱崎において、秀吉に謁見するため長崎から来ていた布教責任者であるガスパール・コエリョに対し、バテレン追放令を発布し宣教師の国外退去命令とキリスト教宣教の制限を表明した(この時、秀吉がバテレン追放令を発布した理由については、さまざまな説がある。詳細はバテレン追放令の項を参照)。
これに対してコエリョは、有馬晴信などキリシタン大名に秀吉と敵対するよう要請、さらに武器・弾薬の支援を約束した。しかし有馬晴信は、既に天下人の座をほぼ手中に収めていた秀吉と敵対する気はなく、この要請は実現されなかった。以後、イエズス会は秀吉を刺激するのを恐れ、公の宣教活動をしばらく控えるようになる。
一方、秀吉は追放令を発布こそしたが、以後も実質上キリシタンは黙認したため迫害などはほぼ行われなかった。なぜなら秀吉はポルトガルを通じての南蛮貿易に積極的であったため、追放令の徹底を図らなかったと考えられている。そのため、宣教師たちは立場こそ不安定だったものの、この時点ではまだかなり自由な宣教活動を続けていた。
しかし、豊臣政権の末期になってスペイン領であったフィリピンとのつながりが生まれ、フランシスコ会やドミニコ会などの修道会が来日するようになると事態は複雑化する。彼らは日本宣教において、当時のイエズス会の(社会的に影響力を持つ人々に積極的に宣教していくという)やり方とは異なるアプローチを試み、貧しい人々の中へ入っての直接宣教を試みた。けれども、これらの修道会がイエズス会のように日本文化に適応する政策をとらずに秀吉を刺激した(たとえば日本では服装によって判断されると考えたイエズス会員の方針と異なり、彼らは托鉢修道会としての質素な衣服にこだわった)ことや、イエズス会とこれら後発の修道会の対立が激化したことで、日本での宣教師の立場は徐々に悪化していく。
そして1596年のサン=フェリペ号事件をきっかけに、秀吉はキリスト教への態度を硬化させ、1597年、当時スペインの庇護によって京都で活動していたフランシスコ会系の宣教師たちを捕らえるよう命じた。これが豊臣秀吉の指示による最初のキリスト教への迫害であり、司祭や信徒あわせて26人が長崎で処刑された(日本二十六聖人の殉教)。
アイヌへの布教
アイヌは、数多くのカムイを崇拝する独自の宗教観を有していた。
江戸時代の初期、蝦夷地(現在の北海道)の一部を治めていた松前藩は、アイヌが「日本風俗に化し染まぬ様」にすることを掟としており、日本語使用、和人風の服装をした場合は罰則があったため、独自の宗教観を保っていたが イエズス会のジロラモ・デ・アンゼリス神父、カリワーリョ神父がやってきて、大千軒岳の麓に生活し、布教を行った。 島原の乱以後、徳川家光は、キリシタンをなくすように指令を出し、松前藩は106名のエゾキリシタンを1639年(寛永16年)に処刑した。
ロシア人も交易を目的として上陸する一方、正教を布教したりしていた。色丹島などにに住んでいたアイヌの集落には、教会が建てられ、キリスト教を信仰していたとする記録が残っている。樺太アイヌにもロシア正教会が布教を行った記録があるが、改宗者は少数であったことが報告されている。
1779年、厚岸にロシア人イワン・アンチーピンが上陸するできごとがあった。幕府は、すでに千島列島や択捉島に住むアイヌに、キリスト教が布教されている情報を得ていたため、国泰寺を建立するなどして、キリスト教が広まらないようにした。
幕末から明治時代
アメリカ合衆国からの要求をきっかけに、日本は西洋諸国に門戸を開くようになった。1858年には日米修好通商条約や日仏修好通商条約などが結ばれたことで、外交使節や貿易商と共に多くの宣教師たちが来日した。
1846年4月30日にバーナード・ジャン・ベッテルハイム医療宣教師が琉球王国に到着し、8年間迫害の中で宣教活動を行い、琉球語に聖書を翻訳した。
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フランシスコ・カブラル(Francisco Cabral、 1529年 - 1609年4月16日)は戦国時代末期の日本を訪れたイエズス会宣教師。カトリック教会の司祭。日本布教区の責任者であったが、当時のポルトガル人冒険者の典型のような人物で、日本人と日本文化に対して一貫して否定的・差別的であったため、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに徹底的に批判され、解任された。
生涯
スペイン系貴族の子としてアゾレス諸島のサンミゲル島に生まれたカブラルは、コインブラで学び、インドで軍人として働いていたときにイエズス会と出会った。1554年に入会したが、すでに高等教育を受けていたため、1558年には司祭に叙階されている。インド各地で要職を歴任したのち、コスメ・デ・トーレスの後継者として日本に派遣された。1570年(永禄13年)6月、天草志岐に到着。同行した会員の中にはグネッキ・ソルディ・オルガンティノもいたが、前年度に手違いからインド管区長代理の権限がカブラルとオルガンティノに重複してしまい、これが原因で両者は諍いを起こしていた。2人の対立は日本でも尾を引くことになる。
日本到着後、ただちに日本布教区責任者となったカブラルは、志岐で宣教会議を行い、今後の宣教方針を決定した。そこでカブラルの指摘した問題点は、「日本においてイエズス会員が絹の着物を着ているのは清貧の精神に反している」ということであった。前任者トーレスは日本においては身なりや服装がきちんとしていない人物は軽蔑されるという事実にかんがみて、宣教師たちにあえて良い服を着ることを奨励していたが、着任早々のカブラルはそういった事情は考慮していなかった。
トーレスはフランシスコ・ザビエルと同じように、日本人の資質を高く評価し、宣教師たちにヨーロッパ風でなく日本文化に根ざした生活スタイルを求めた。これを「適応主義」というが、トーレス時代の布教の成功はこの方針による部分が大きかった。しかし、カブラルはこの適応主義を真っ先に否定した。彼は元来インドに赴任した軍人であり、ヨーロッパ中心主義という同時代人の制約を超えることができなかった。カブラルは頑固で短気として知られていたが、学究熱心でもあり、ヨーロッパ文化とイエズス会を代表するエリートだった。カブラルの目から見れば、アジア人である日本人は低能力な民族であり、布教においても宣教師を日本文化に合わせるより、「優れた」ヨーロッパ式を教えこむことのほうが日本人にとって良いと考えていた。
カブラルはさらにジョアン・デ・トーレス、ケンゼン・ジョアンと呼ばれた2人の日本人伝道士を従えて、戦乱続く畿内へ視察に赴いた。堺ではすでに活動していたオルガンティノとロレンソ了斎の出迎えを受け、足利義昭との会見に成功した。さらにルイス・フロイスを伴って向かった岐阜では織田信長の知己を得て、その庇護を受けることに成功した。フロイスによれば、このときカブラルは眼鏡をかけていたが、岐阜の市民の間に「伴天連は目が四つある」といううわさが広まり、岐阜城の門前は「四つ目」を見ようと集まった群衆で大騒ぎになっていたという。
1573年(天正元年)にはカブラルは山口へ足を伸ばした。そこはトーレスが1556年(弘治2年)に訪れてから誰も宣教師が訪れていなかった地域であったので、信徒の大歓迎を受けた。九州に戻って大友宗麟に洗礼を授けたのもカブラルであった。宗麟は若き日に出会ったザビエルへの追憶としてフランシスコの洗礼名を選んだ。
一見、順調に進んでいるかのようであったイエズス会の布教活動だったが、カブラルの方針によって日本人信徒と宣教師たちの間に溝ができつつあった。カブラルは日本語を不可解な言語として、宣教師たちに習得させようとせず、日本人に対してもラテン語もポルトガル語も習得させようとしなかった。それは、日本人がそれらを理解し宣教師たちが話している内容がわかるようになると宣教師を尊敬しなくなる、という理由からだった。さらに日本人が司祭になる道も閉ざしていた。
1579年(天正7年)、総長の名代として日本を訪れた巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、九州においてカブラルから日本人が布教に適していないという悲観的な報告を受けて衝撃を受けた。カブラルは止めたが、ヴァリニャーノはあきらめきれずに畿内へ視察に赴いた。畿内においてヴァリニャーノは多くの優れたキリスト教徒たち、キリシタンの武将たちに会って感激し、日本布教区の問題点が実はカブラルにあるのではないかと考え始めた。
視察を終えたヴァリニャーノはカブラルの宣教方針を完全に否定し、(カブラルが禁じた)日本人司祭の育成、日本布教区と本部との連絡通信の徹底、トーレスの適応主義の復活を指示した。ヴァリニャーノはトーレスの日本文化尊重の姿勢を絶賛し、宣教師が日本の礼儀作法を学ぶことの重要性を指摘している。
カブラルはヴァリニャーノを逆に非難したが、結果として1581年(天正9年)に布教責任者の立場を解任された。カブラルの後任にはガスパール・コエリョが任命され、日本地区が準管区に昇格したため、初代準管区長となった。
1583年(天正11年)に日本を離れてマカオに去ったカブラルは、後にインドのゴアに移り、同地で1592年から1597年までインド管区長をつとめた。1609年4月16日、ゴアで死去。
日本人観
カブラルが日本人を評した言葉に以下のようなものがある。
「私は日本人ほど傲慢、貪欲、不安定で、偽装的な国民は見たことがない。…日本人は悪徳に耽っており、かつまた、そのように育てられている」
カブラルと対立したヴァリニャーノの記述によれば、カブラルは日本人を黒人とみなすなど、以下のような言動をとっていた。
「カブラルは、日本人を黒人で低級な国民と呼び、その他、侮蔑的な表現を用いた。かれはしばしば日本人にむかい、「とどのつまり、おまえたちは日本人(ジャポンイス)だ」というのがつねで、日本人に対して、日本人が誤った低級な人間であることを理解させようとした」
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