💖5)─5─日本人は嫌われながらも朝鮮人やアイヌ人を感染症から強制的に救っていた。~No.18No.19No.20No.21 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本の歴史とは、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火など複合的災害多発地帯で如何にして生きてきたかという縄文人の子孫だけの歴史である。
 日本の歴史を見れば、現代起きている深刻な出来事の大半が過去にも起きており、歴史を見れば初めての事ではなく、そして想定外な事ではない。
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 いい事をする日本人がいれば(2割)、悪い事をする日本人もいる(3割)、その他大勢は関わりたくない巻き込まれたくない面倒臭いとして傍観者となり素知らぬ顔で立ち去る(5割)。
 つまりは、日本人ほどあてにならない頼れない人間はいない。
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 戦前の日本は、感染症を日本本土に侵入させない為に攻撃的防疫策として、感染症が蔓延している朝鮮・中国・台湾などで日本語による近代医学と公衆衛生学を普及させ、嫌がる地元住民に対して強制的に日本式防疫生活を押し付けた為に反日暴動が頻発した。
 台湾では、暴力と宥和の二面方針で成功し、親日派知日派となって日本に協力した。
 中国と朝鮮でも二面方針で行ったが失敗し、反日派敵日派となぅてテロ行為に暴走した。
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 日本人の善意は、台湾人では通用したが、中国人や朝鮮人では通用しなかった、アイヌ人が理解したかどうかは不明である。
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 日本人は、歴史を愛し、祖先を大事にする、はウソである。
 現代日本人は、歴史を捻じ曲げ、歪曲し、改竄し、捏造する。
 現代日本人は、都合の悪い事は全て先祖に押し付け、都合が良い事は自分の事だと自慢する。
 現代日本人の優れているところ賢いところは、そういう所である。
 そういった日本人とは、左翼・左派・ネットサハ、リベラル派、革新派そして一部の保守派、メディア・報道関係者、学者・教育者、知識人、教養人、専門家、評論家、解説員、人権派護憲派良識派、良心派、自称正義派、道徳派、人道派そして反天皇反日的日本人達である。
 一部の右翼・右派・ネッヨウヨクも含まれる。
 特に、歴史を自慢げに語る高学歴出身知的エリートに多い。
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 昔の日本人、祖先の日本人は憐れである。
 外国人はおろか日本人からも爪弾きにされて嫌われている。
 事実がそこにあるのに、なかった事として歴史の闇に葬られている。
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 現代日本人の心は、美しいどころか吐き気がするほどに醜悪でおぞましい。
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 2020年5月号 Hanada「武漢肺炎、日本は負けるな!
 感染症と日本人 知られざる闘いの歴史
 八幡和郎
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 アイヌ天然痘予防
 ジェンナーの発見の6年前には、筑前秋月藩の緒方春朔(しゅんさく)が人痘種痘法(欧米では早くから行われていたが、危険を伴ったので牛痘法の発明後は廃れた)を試みているし、1810年には、ロシアに拉致されていた中川五郎治が帰国後に牛痘法を施しているが、本格的な普及は長崎と関係の深かった佐賀藩の取り組みに始まって全国に広まった。
 そんななかで、福岡藩蘭癖(らんぺき)大名の黒田長溥(ながいろ)が、近臣神谷(こうや)宅之丞の二男に種痘を接種したところ、亡くなってしまい、長はこれを気に病み、明治になって子の長知(ながとも)が留学するときに、その兄弟でのちに三井の大番頭となって鉱山開発などの活躍する團琢磨を一緒に留学させている。
 幕府も1857年にアイヌ人たちの天然痘流行に対処するため、箱館奉行の村垣範正の要請で専門家が江戸から派遣されて広く種痘が行われた。翌1858年には江戸の神田お玉ヶ池に種痘所が設置され、明治初期の1876年には天然痘予防規則の施行によって幼児への種痘が義務付けられ、天然痘制圧に成功している。
 また、朝鮮統治にあたっても、天然痘で毎年、1,000人を超える死者を出していたので、牛痘の接種を衛生政策の根幹に据(す)えたが、当時、欧米人も嘆いたように朝鮮の衛生概念は低く、迷信も根強かった。朝鮮人撲滅を狙って行っているといった風評も流布(るふ)されていたが、それを押し切って普及させた。これらは、日本人がアイヌや朝鮮の人たちに対して人道的な統治を行っていた証左(しょうさ)であろう。
 最近は業績の多くの部分に疑問符が呈されているので細かく紹介したいが、野口英世がロックフェラー医学研究所の研究員として梅毒や、エクアドルやガーナでも黄熱病の研究に成果を上げ、3度もノーベル賞候補に上ったことも忘れてはならない。
 ペストの思わぬ副産物 世界と日本における主な感染症の歴史を少し振り返ってみると、世界史上最大のパンデミック(世界的流行)は、14世紀におけるペストの流行だ。ペストはクマネズミに寄生するノミを宿主とするが、モンゴル軍の侵攻で東西交易が盛んになることで西ヨーロッパに拡がり、1348~1353年の間に、1億人ほどの人口だった西ヨーロッパで2,000~3,000万人が死んだと言われる。
 これがユダヤ人の仕業(いわざ)だと言われて大規模な迫害が行われる不幸があったが、ベネチアで感染が疑われる地域からの船を30~40日停留させる検疫制度が考案されたり、人口減で農民が不足したため、農民の立場が強くなり、自作農が増加、15世紀にルネサンスを生む社会的背景になったりもした。
 いうまでもなく、パンデミックはすべての国家や民族にとって災難である。しかし世界の歴史をみれば、それは常に逆転のチャンスでもあった。モンゴルに打ち破られ、それが持ち込んだペストで絶望の淵に落ち込んだイタリアは、その地獄のなかから黄金のクアトロチェント(15世紀)にルネサンスの花を開かせて、それがヨーロッパ文明による世界征服をもたらした。
 日本は太平洋戦争で焼け野原になり、GHQに社会をズタズタに破壊されたが、そのあと、白地に絵を描くように最強の工業社会を作り上げた。それに先だっては、関東大震災のあとの東京を世界に恥じない帝都として再建しているし、伊勢湾台風の復興事業への評価も高い。
 ところが、バブル崩壊阪神淡路大震災東日本大震災からの復興は、まことにお粗末だった。東日本大震災のあと、私は早速、『東北出身の後藤新平が千載一遇のチャンスといい、喜々として復興計画を練ったのに倣(な)え』と提唱したいが、一部からは不謹慎と言われ、復興計画はなんとも後ろ向きなものに終始している。
 新型コロナウイルス騒動の経済に対する打撃は甚大であるし、経済も財政も大きな債務を背負うことは避けられないが、これを改革の契機にして経済成長のチャンスとみることで、マイナスを上回る果実をえることは可能である。」
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 日本民族日本人は、縄文人の時代から日本列島特有の風土病と共生して生きて来た。
 新たに中国大陸や朝鮮半島から新たな人間が渡来すると、人の移動と共に新たな疫病が日本列島に上陸して縄文人達に蔓延し、毒性の強い病原菌(ウイルス・細菌)であれば縄文人の命を奪った。
 日本民族日本人の命を奪う疫病は、中国や朝鮮などの海の外から襲来して来ていた。
 日本民族日本人は、清き水で身も心も洗って浄め、死をもたらす疫病・病原菌を持つ血などの穢れを清き水で流し、清き水のように生きようとした。
 日本神道では、黄泉国(死者の国)から生還した父神・伊邪那岐命イザナギノミコト)が穢れた体(死と血)を清き水で洗い浄めて生まれた女性神天照大神最高神として祀り、男性神素戔嗚尊スサノオノミコト)の霊力で疫病退治の神事を行ってきた。
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 素戔嗚尊は、最初に朝鮮半島へ降臨したが、余りにの疫病が蔓延する穢れた土地ゆえに朝鮮を嫌って日本列島に逃げ出した。
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 縄文人の子孫とは、日本民族日本人、アイヌ人、琉球人であった。
 朝鮮人は、縄文人とは縁もゆかりもなく、日本民族日本人との血の繋がりは限りなく薄い。
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 幕末。攘夷激派が、安政6(1859)年に外国人を襲撃して殺し始めたのは、前年からコレラが全国で大流行し夥しい死者を出した原因は、夷人が疫病(コレラ菌)を浄き神の国日本に持ち込んだからだと憎悪したからである。
 日本民族日本人は、外国を知らない無知蒙昧から外国人を殺して暴走したわけではない。
 外国人を殺した攘夷派は、狂信的拝外主義や偏狭的的差別主義の殺人鬼・テロリストではなかった。
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 清国末に起きた義和団事件の原因は、白人宣教師が不法入国し、無許可で布教活動をして多くの中国人をキリスト教に改宗したが、同時に彼らが入り込んだ山東半島黄河下流域などでコレラが蔓延して夥しい中国人が病死したからである。
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 義和団の乱(ぎわだんのらん、中国語: 義和團運動; ピン音: Yìhétuán Yùndòng)は、1900年に起こった、中国の清朝末期の動乱である。義和団事件義和団事変・北清事変(ほくしんじへん)・北清事件(ほくしんじけん)・清国事変などの呼び方もあり、中国では戦争が起こった年の干支から庚子事変(こうしじへん)とも言われるが、本項では「義和団の乱」で統一する。

 「扶清滅洋」と清朝の宣戦布告
 義和団の動き
 山東省から押し出された義和団は直隷省(現在の河北省と北京)へと展開し、北京と天津のあいだの地帯は義和団で溢れかえる事態に至った。直隷省は山東省以上に、失業者や天災難民が多くおりそれらを吸収することによって義和団は急速に膨張した。そして外国人や中国人キリスト教信者はもとより、舶来物を扱う商店、果ては鉄道・電線にいたるまで攻撃対象とし、次々と襲っていった。そのため北京と天津の間は寸断されたのも同然となる。
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 近代国家としての日本と中国・朝鮮の違いは、如何に国家の覚悟をもって国民を守ったかである。
 国家の覚悟としては、昔の日本人と現代に日本人とは真逆な正反対である。
 その意味で、国家として国民を守るのは昔の日本であって現代の日本ではない。
 昔の日本は潔く浄く爽やかであったが、現代の日本は不純である。
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 人類の歴史の事実から、人の移動と同時に疫病も移動し、疫病がなかった土地で感染爆発を起こし大勢の命を奪った。
 大航海時代とは、疫病の時代であった。
 アステカ王国インカ帝国は、ヨーロッパ由来の天然痘で滅亡した。
 ヨーロッパには、中南米由来の梅毒が蔓延した。
 帝国主義時代もまた疫病の時代であった。
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 江戸時代までの日本は、世界的疫病の時代を生き残る為に、水際対策として鎖国をおこない疫病の侵入を食い止めた。
 明治以降の日本は、疫病の侵入を食い止め疫病感染爆発を封じ込める為に、西洋の近代医学と公衆衛生学を必死に学び、日本人に潔癖を強制した。
 日本人の清潔好きは明治からで、江戸時代までの日本は貧しく不衛生・不潔であった。
 歴史力のない現代日本人には理解できない。
 江戸時代の平均寿命は、水が汚れ、不衛生と栄養不足で40歳ぐらいであった。
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 尊王攘夷において、日本と中国・朝鮮では意味合いが違う。
 現代の日本人は、歴史力も宗教観念もない為に、尊王攘夷はもちろん水に流すの真意が理解できなくなっている。
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 徳川幕府は、適材適所に従い、家柄や身分に関係なく有能・優秀であれば下級武士・軽輩の身であっても重要な役職を与えて仕事を任せた。
 それが、成功する時もあれば、失敗する時もある。
 現代の歴史教育は日本遅れた土地史観・日本人劣等史観から、成功例ではなく失敗例のみを教え、人道貢献や平和貢献を知らせない。
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 江戸後期。徳川幕府は、北から侵略してくるロシアから母国を守るべく、蝦夷地・北方領土四島防衛の為に東北諸藩に出兵を命じ配置した。
 幕末は、ペリー黒船艦隊来航から始まったわけではない。
 江戸幕府は、現代日本とは違って理不尽な外圧に屈する事なく正論を持って抵抗し、現代日本人とは違って平和を守る為ならば戦争を辞さず、死を怖れず、死を覚悟していた。
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 村垣 範正(むらがき のりまさ、文化10年9月24日(1813年10月17日) - 明治13年1880年)3月15日)は、江戸時代末期(幕末)の旗本、外交官(外国奉行)。初名は範忠。号は淡叟。通称は与三郎。官途は淡路守。
 略歴
 文化10年(1813年)江戸築地で旗本・村垣範行の次男として生まれる。村垣家は代々庭番役を勤め、祖父・定行は松前奉行・勝手掛勘定奉行まで上った。その功により範正は天保2年(1831年)、新規に召し出され小十人格庭番となり、弘化2年(1845年)には細工頭、安政元年(1854年)には賄頭を経て勘定吟味役に抜擢。海防掛・蝦夷地掛として同年3月より蝦夷地・樺太巡視を行い、日露国境を確認。10月に江戸に帰府した。
 同年、ロシアのプチャーチン艦隊の再来日に際して、筒井政憲川路聖謨らとともに露使応接掛として伊豆下田に赴任した。翌年以降、箱館表御用、内海台場普請ならびに大筒鋳立大船其他製造御用、東海道筋川々普請掛などを歴任。安政3年(1856年)7月には箱館奉行に昇進し、9月には従五位下・淡路守に叙された。先任の堀利煕とともに蝦夷地の調査・移民奨励・開拓事業を推進。1857年にはアイヌの間で蔓延していた天然痘対策のために幕府に種痘の出来る医師の派遣を要請し、桑田立斎らが派遣されて大規模種痘が行われた。これは幕府が正式に認めた初の種痘であった。安政5年(1858年)には安政の大獄で免職となった岩瀬忠震に代わって外国奉行に任命され、さらに翌年には神奈川奉行を兼務するなど能吏ぶりを買われた。

 文久元年(1861年)ロシア艦ポサドニック号が対馬芋崎浦を占拠するという事件(ロシア軍艦対馬占領事件)に際しては、箱館においてロシア領事ゴシケヴィチと交渉し、退去を求めた。また箱館港の砲台建設も促進した。文久3年(1863年)6月には作事奉行に転じ、翌元治元年(1864年)には西の丸留守居若年寄支配寄合となり、一線から退く。明治元年(1868年)には病のためと称して隠居、淡叟と号した。明治維新後は官職に就かず、明治13年1880年)に東京にて没した。享年68。墓は谷中墓地(東京都台東区)に建てられた。
 遣米使節の護衛として咸臨丸に乗船した軍艦奉行・木村喜毅(芥舟)は、村垣を「機敏にして吏務に練達す」と評した。一方、福地源一郎(桜痴)は「純乎たる俗吏にて聊か経験を積たる人物なれば、素より其の器に非ず」と酷評している。
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 桑田立斎の墓
 蘭方医。東蝦夷地・クナシリ島でアイヌに強制種痘を実施。
 墓所:東京都台東区橋場1-4-7 帰命山 保元寺(浄土宗)
 桑田立斎は江戸の蘭方医新潟県新発田藩士・村松喜右衛門の次男として生まれ、人痘法で種痘を行っていた医師・桑田玄真の養子となる。
 安政4年、幕府の求めに応じて、深瀬洋春とともに、蝦夷地でアイヌに対して強制種痘を実施した。
 深瀬洋春は西蝦夷地を担当した。桑田立斎は東蝦夷地を担当しクナシリ島まで種痘を実施した。立斎と助手たちが実施した種痘は6400人に登った。箱館奉行・村垣範正は、東蝦夷地のアイヌに種痘を実施するのは抵抗があって困難だろうから、立斎にも西蝦夷地での実施を推奨したが、立斎の兄がクナシリ島に在住していたため、彼に会うためにクナシリ島に渡ることを希望して、東蝦夷地での実施を選択した。
 特定の地域での大規模強制種痘はこれが世界初のことである。
 翌年には深瀬洋春が斜里および樺太で、井上立長が千島で種痘を実施した。この年の3月には、箱館近郊の諸村からも実施の請願があったので、田沢春堂に命じて巡回種痘を行った。
 参考書
 桑田忠親/著『蘭方医桑田立斎の生涯』(1985)中公文庫
 蝦夷地の種痘について以下の資料に記載がある。
 函館市史 デジタル版 通説第1巻第3編第5章第13節-1 衛生
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 日本医史学雑誌 第56巻第3号(2010)  427–436
 新出の平沢屏山のアイヌ種痘図に関する一考察 ―オムスク造形美術館所蔵の「種痘図」を巡って―
 松木明知
 弘前大学大学院医学研究科麻酔科学講座
 受付:平成21年8月5日/受理:平成22年7月22日
 要旨:1857年箱館奉行村垣範正は幕府に蝦夷地のアイヌへの強制種痘を建言した.この重要性を理 解した幕府は桑田立斎ら数人の医師を蝦夷地に派遣し,彼らは1857~8年に苦労しながら廻郷種痘した.箱館の商人杉浦嘉七は村垣の英断を顕彰するため平沢屏山に桑田らのアイヌ種痘の光景を描 かせて1857年にそれを村垣に献上した.富士川遊の伝えた原図の住所は未だ不明である. オムスク造形美術館所蔵の屏山の種痘図と富士川の伝えた図を比較すると,基本的構図は同じで あるが,細部の点で異なった部分も見られ下絵の存在が示唆される.村垣の公務日記には図に見ら れるような桑田らの種痘実施の記事はないので,屏山はこのような光景を見ることなく描いたと推察される.
 キーワード:村垣範正,桑田立斎,杉浦嘉七,平沢屏山,アイヌ種痘図
 はじめに
 箱館奉行村垣範正(淡路守,文化10,1813~明 治13,1880)は安政3年(1856)12月17日から翌 安政4年(1857)3月24日まで長万部,須津(寿 都),岩内,島小牧(島牧),沙流,白老,有珠, 鷲の木を含む蝦夷地を巡回視察1) したが,そこで 見聞したのは痘瘡の猖獗に怯えるアイヌたちの姿であった.この惨状を改善するためには牛痘種痘 の実施普及以外に方法はないと考えた村垣は幕府 に対してアイヌへの強制的種痘を建言した.建言 の書状は巡回視察中の村垣が安政4年1月19日 に須津(寿都)で認めたものであった2).事態を 重く受け止めた幕府は早速種痘医を雇って蝦夷地 に派遣することに決定し,この旨は3月3日箱館 に伝えられ,巡回視察を終えて箱館に帰ったばか りの村垣は3月26日にこのことを知った3).幕府 は江戸から桑田立斎と弟子3人そして箱館出身の 深瀬洋春などを派遣した.これが安政4,5年の 蝦夷地種痘として知られ,箱館の豪商杉浦嘉七はアイヌ絵師平沢屏山(ひらさわ びょうざん,文 政5,1822~明治9,1876) 4)–7) にその様子を描か せた.その絵はアイヌ種痘図として知られ,後に 錦絵にもなった8).なおアイヌ種痘図は様々な名 称で呼ばれているが,本稿では一般的名称として 「アイヌ種痘図」としておく. 一方,安政5年(1858)に幕府は欧米各国と修 好通商条約を締結したが,これを承けて翌安政 6年(1859)6月に神奈川(横浜),長崎と共に開 港した箱館(函館)は平成21年(2009)に開港 150周年を迎えている.これを記念する各種の行 事が行われているが,その一つとして市立函館博 物館では「アイヌの美―カムイと創造する世界 ―」と題する特別企画展が7月18日から9月6 日まで開催されている.アイヌの生活用具,衣服, 装飾品,祭祀・呪術用具などサンクトペテルブル グのロシア民族学博物館,オムスク造形美術館所 蔵の資料227点に市立函館博物館および北海道開 拓記念館所蔵の関連する資料を加えた展覧会であ る.
 この中でオムスク造形美術館から出展された平 沢屏山による12枚のアイヌ絵は本邦初公開であ り,その中の1枚はアイヌに対する種痘図である. この図を仔細に観察すると,従来われわれに知ら れていたアイヌ種痘図と些か異なることが分かっ た.そしてこのことはアイヌ種痘図の成立に関し て新しい見解を提供すると思われるので,新出の 「種痘図」を紹介し,併せてアイヌ種痘図の成立 に関して私見を述べてみたい.

1 オムスク造形美術館所蔵の 「種痘図」について
2 アイヌ種痘図の系譜
3 オムスク造形美術館所蔵の「種痘図」と 森田宏氏所蔵の「蝦夷種痘図」との比較
4 平沢屏山の図に見られるアイヌへの 種痘がいつ箱館で行われたのか

 おわりに
 桑田立斎らによる安政4年(1857)のアイヌへ の種痘は,平沢屏山のアイヌ種痘図によって広く 世に知られているが,立斎が箱館滞在中,この図 に見られるような奉行の村垣が臨席しての多人数 のアイヌに対する種痘は行われなかったと考えら れる.立斎側の記録にも屏山が同道して種痘風景 を描写した記録はない.屏山が実際の接種の光景 を目撃した可能性は残されているが,見たとして もそれは種痘医1人による接種であったと思われ る.屏山は世話になっていた箱館の豪商杉浦嘉七 の意を受けてこの絵を描いたが,嘉七の目的は村 垣淡路守の業を頌徳するためであった.この図は 安政4年(1857)10月に奉行の村垣淡路守に献上 され,村垣は箱館医学所頭取の塩田順庵に讃を依 頼した.これが現在流布している各種のアイヌ種痘図の基になった原図であるが,新出のアイヌ種 痘図は原図の下絵を基に描かれたと思われる.こ の原図の下絵は未だ知られていない. 本稿を草するに際して市立函館博物館の霜村紀 子氏,北海道開拓記念館の三浦泰之氏に種々ご教 示を戴いた.ここに記して感謝の意を表する.
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 近代日本医療の権威には、内務省衛生局、帝国大学医学部、陸軍軍医部、海軍軍医部の少なくとも4つが存在し、学説や治療方法をめぐって反目したり協力したりしていた。
 それが、ある意味で医学・医療における硬直化を防いでいた。
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