⚔16)─3─ポルトガルの対日交易とイエズス会の日本布教は「石見産銀」が目的であった。~No.63 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 1580年にスペインがポルトガルを併合した事が、日本の運命を大きく暗転させたのは。
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 日本におけるキリスト教禁教、キリシタン弾圧、キリスト教排除の鎖国の原因は、西洋の対日政策がポルトガルの宗教対立回避の宥和的消極的浸透政策からスペインの宗教優先の攻撃的積極的浸入政策に変わったからである。
 スペインとキリスト教会が、日本でやろうとしたのは破壊と創造であった。
 邪悪な異教徒・異端者を聖なる火で焼き滅ぼし、焦土の上に神聖な神の王国を新しく築く、それが絶対神の御心に適う唯一の方法、神聖な使命と確信していた。
 敬虔な日本人キリシタン絶対神への信仰を証明する為に、尊敬する宣教師の指導を受けて日本に神の天国を造るべく勇気を以て邁進した。
 が、武士・サムライは、比叡山延暦寺石山本願寺一向一揆衆など宗教勢力に手こずった苦い経験から、政教分離として俗欲に塗れた宗教権威を政治の場から排除するべくキリシタン弾圧を行った。
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 1650年、スペイン王国の人口は約900万人。
 1600年、ポルトガル王国の人口は約200万人。
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 1600年、日本の人口は約1,200万人~1,800万人。
 30万人以上が洗礼を受けてキリシタンとなり、宣教師や日本人キリシタンの布教活動で全国でキリシタンの数が急速に増え、1605年には75万人に達していたと言われる。
 キリシタン大名に、高山右近黒田官兵衛蒲生氏郷らがいた。
 徳川幕府によるキリシタン禁制があったが、1614年の大坂の陣頃には減ったと言われても約60万人のキリシタンがいた。
 イエズス会カトリック教会は、減少する日本人キリシタンの信仰を守るべく、徳川家康と戦う為にキリシタン武士団を率いて大坂城に入城した。
 オランダ・イギリスは、日本からカトリック教会勢力を一掃する為に徳川側に味方して大砲提供などの軍事支援をした。
 島原の乱までの戦乱の多くは、カトリック教会とプロテスタント宗教戦争であり、戦争の原因は信仰・布教ではなく石見産銀であった。
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 2021年2月号 歴史街道「世界史から読み解く
 『日本の行くべき道』を信長が選択した時、それは起こった。
 本能寺の変は、おもに日本国内の情勢をもとに語られることが多い。しかし、直木賞作家の安部龍太郎氏は、信長の生きた時代と、変の意味を知るには、『世界史』からの視点が必要不可欠だという。当時の世界の動きから、何が見えてくるのか──。
 安部龍太郎
 ポルトガルが日本に来た真の目的
 織田信長が生きた戦国時代とは、単に日本国内で戦乱が繰り広げられれただけの時代ではない。
 15世紀末にヨ-ロッパから始まった大航海時代の影響が世界中に、そして日本にも波及した時代であった。
 特に、スペインやポルトガル南北アメリカ大陸、さらには東南アジアにまで勢力圏を拡大しつつあった。まさにグルーバル化の波が、日本にも及ぼうとしていたのである。
 始めて日本がヨーロッパの文化に触れたのは、ご存じのように1543年の『鉄炮伝来』だ。
 この歴史的事実は『漂着したポルトガル人が鉄砲を伝えた』と、いかにも偶発的な出来事のように語られてきた。しかし、実態は全く違う。ポルトガル人はあらかじめ、日本進出を目的としてやってきたのである。
 この頃、ポルトガルとスペインは1529年に締結したサラゴサ条約によって、両国で世界を二分すべく支配地域を線引きしていた。これによって、日本の大半はポルトガルの領域となったのだ。
 では、ポルトガルが日本に来た狙いとは何か。
 それは、石見銀山でとれる『銀』である。当時、世界はシルバーラッシュの最中にあり、銀は高価で売買されていた。
 日本の銀に目をつけたポルトガルは、まず鉄炮(てっぽう)を売り込もうとした。戦国大名にとって、遠方から敵を攻撃できる武器は画期的だ。
 しかし鉄炮を撃つには、火薬の原料となる硝石(しょうせき)と、弾丸となる鉛(なまり)が必要で、ともに日本ではほとんど産出しない。それらを得るためには、海外貿易を握るポルトガルから買い付けるほかない。そうやってポルトガルは、銀を手に入れようとしたのである。
 この貿易の際、仲介役となったのがイエズス会であった。彼らは布教活動を行なうと同時に、交易の仲立ちもする商社のような一面を持っていた。
 フランシスコ・ザビエルを始めとするルイス・フロイス、アレッサンドロ・ヴァリニャーノといった宣教師も、おおむねそのような役目を帯びて、日本にやってきたのだ。
 信長とイエズス会、それぞれの思惑
 そうしたポルトガルとの交易、すなわち南蛮貿易に最も強い反応を示した戦国大名が、織田信長である。
 織田家は父・信秀の時代から、伊勢湾海運の要衝(ようしょう)である尾張の津島を押さえ、関税や港湾使用料で利益を上げていた。『商業』に敏感な信長は、南蛮貿易によって、莫大な収入を得られることを見抜いたのである。
 農作物などの土地から得られる利益にしか目がいかない『農本主義的』大名とは異なり、『商業主義的』大名であった信長は、いち早く経済構造の変化に対応できたのだ。
 そうした信長の姿勢が鮮明に表れたのが、イエズス会への対応だ。
 1569年、岐阜の信長のもとにルイス・フロイスが訪ねてきた。朝廷がキリスト教の布教を許さなかったため、前年に足利義昭お奉じて上洛して、京を押さえた信長を頼ってきたのだ。
 朝廷としては当然、神道と仏教の教えに反するキリスト教は認められない。ところが、信長はその意に反して、キリスト教の洛中における不況を許した。
 朝廷を敵に回しかねない思い切った決断だが、それは信長がいかに南蛮貿易を重視したかの証左(しょうさ)といえよう。
 鉄炮の威力を知る信長としては、大量の鉄炮と鉛、硝石を手に入れたい。
 それだけではなく、堺に代官を置く権利を持っていたので、鉄炮以外の貿易による利益も莫大な者ものになる。軍事物資の入手と貿易の利潤(りじゅん)──そのためにも是が非でも、イエズス会と手を結んでおきたかったのである。
 信長の狙いは、ほかにもあった。寺社勢力、幕府勢力といった旧来の勢力を切り崩すためにも、キリスト教は有効と考えていたのだ。キリスト教による新しい信仰や思想、貿易がもたらす文物、それらが優れていることを強調すれば、旧来勢力を揺さぶることができる。
 特に信長が意識した相手は、石山本願寺だろう。一向一揆衆を擁(よう)する石山本願寺は、強大な軍事力を持つだけでなく、水運を押さえて莫大な富を得ていた。
 信長はそうした石山本願寺に、軍事的にも精神的にも対抗するために、イエズス会と手を組み、キリスト教の布教を許したのだろう。
 一方のイエズス会は、なぜ信長と組もうとしたのか。
 ポルトガルやスペインの植民地化の方法には、一定のパターンがある。
 まず植民地にしたい土地に、イエズス会宣教師を送りこんでキリスト教を布教し、あわせて貿易を行うことで、現地民の心を摑(つか)んでいく。
 その過程で、これはと見込んだ現地の人物に軍事物資を支援し、有力者へと育てていく。そしてゆくゆくは傀儡政権をつくりあげ、植民地としてしまうのである。
 ポルトガルは日本においても、同じ手法を取ろうとした。
 まずイエズス会宣教師は、上陸地に近い薩摩の島津氏、豊後の大友氏、周防の大内氏に近づいた。しかし、どこの家も伝統的な守護大名であることから幕府に遠慮しがちで、地理的に京には遠すぎた。
 イエズス会宣教師は、キリシタンや貿易活動を通じて、様々な情報を得ることができる。そうした情報網から浮かび上がってきたのが、織田信長という存在だったと思われる。
 信長は、1554年の村木城の戦いですでに鉄炮を使い始めていた。つまり、これより前に南蛮貿易を行なう堺の商人から、硝石と鉛を買っていたことになる。
 それらの商(あきな)いをつうじて、堺の商人も信長について、ある程度の情報を得ていたはずだ。当然、その人物評は宣教師にも伝わり、合理的で頭の切れる武将との印象を持った違いない。
 宣教師のザビエルが堺を訪れたのは1550年のことだが、当時の畿内は三好家と細川家の争乱で疲弊し、生活物資や軍事物資を関東方面に頼っていた。
 伊勢湾海運の要衝を握る信長は、その交易によって得た経済力もある。イエズス会畿内に権勢をふるう三好家よりも、信長のほうに将来性を感じたはずだ。
 つまりイエズス会は、上洛する前から信長のことを知り、天下を取らせるに足る人物として注目していた。そして信長をつうじて、日本を支配しようとしていたのである。
 波乱を呼んだスペインからの要求
 思惑の一致した両者は、お互いに望む果実を得ていく。
 信長は着々と天下人への道を歩み、イエズス会は京都に南蛮寺(教会)、安土にはセミナリオ(神学校)を築き、布教活動を順調に進めていった。
 ところが1580年、両者の良好な関係に転機が訪れる。その年の1月、イエズス会の後ろ盾であるポルトガルを、スペインが併合したのである。
 ここにおいてイエズス会は、スペインとの関係を築く必要に迫られた。
 同時に信長も、南蛮貿易を継続するために、スペインといかに関係を築くべきかという難題に直面する。
 イエズス会は、スペインと信長との間を取り持つことで状況を打開しようと考え、その仲介役として、宣教師ヴァリニャーノを信長のもとに送る。
 かくして1581年2月、ヴァリニャーノは、洛中で信長と対面する。折しも、信長が主催する京都御馬揃(おうまぞろ)えの会場でのことであった。信長は自分の勢威を見せつけることで、交渉を有利に運ぼうとしたのだろう。
 この馬揃えの後、ヴァリニャーノは5ヵ月近く安土に滞在した。その間、二人の間でいかなる話し合いが行われたのか、それを伝える日本側の資料は残っていない。
 しかし、ヴァリニャーノが残した手紙などから推測するに、スペイン側からは二つの要求が出されたものと私は見ている。
 一つは『明国への出兵』。もう一つは『イギリス、オランダとの断行』である。
 時のスペインは、世界各地に植民地を持ち、『太陽の沈まない国』と称された覇権国家だ。
 その勢いで明国にも野望を示したが、スペインから艦隊を送るにしても、1隻に乗せられる兵士はせいぜい500人ほどに過ぎない。いくら艦隊を送っても、内陸まで攻め込むのは不可能だ。そこで、日本の軍事力を利用して、明国を植民地化しようとしたのだ。
 一方、スペインはイギリスの動きを警戒していた。オランダは1568年から、スペインに対して独立戦争を起こしていた。それを支援していたのがイギリスで、両国ともプロテスタント(新教)の国であった。
 カトリック(旧教)であるスペインにとって、この二つの国の世界進出は何とも阻止せねばならず、信長と両国がつながることは避けたかったはずだ。
 では、二つの条件を出された信長は、どう反応したのか。
 信長はそれを、拒否したものと思われる。
 というのも、交渉後の1581年7月15日、信長は安土城内の摠見寺(そうけんじ)に自身をご神体とする石を置き、家臣や領民に参拝するように求めているからだ。
 これは、信長によるイエズス会への決別宣言と取るべきだろう。要するに家臣や領民に、『摠見寺に参拝して、キリスト教を捨てたことを示せ』と迫ったのである。
 フロイスはこれを、信長の思い上がりとして痛烈に批判している。ここにおいて、信長とイエズス会、そしてスペインは、完全に決裂したと思われる。 
 変の背後に見え隠れするイエズス会
 本能寺の変が起きたのは、それから1年足らずのちの、1582年6月2日のことであった。
 本稿の主眼は、本能寺の変の真相を読み解くものではないため、紙幅(しふく)を割くことはできないが、ここで簡単に、変に対する私の見方を記しておきたい。
 私は、信長がイエズス会、そしてスペインとの決別を選んだことが、変に影響したと考えている。
 当時の世界情勢の主要プレーヤーであるイエズス会、スペインとの断行は、今の日本がアメリカと手を切るくらいのインパクトがある。
 ……
 一方で、信長を見限ったイエズス会は、次の傀儡政権を担う人物を探っていたのではないか。それが、豊臣秀吉だったと思われる。
 ……
 こう語ると、イエズス会の力を過大に見ているように思われるかもしれない。
 しかし、侮(あなど)ってはいけない。当時は高山右近といった有力大名だけでなく、武将の子女や家臣、町人といった様々な層に、キリスト教の信仰が広まっていた。彼らはイエズス会の諜報網といっていい。
 フロイスの『日本史』をみると、その場に居ないはずなのに、居合わせた者しか知る事ができない情報が数多く記されており、イエズス会キリシタンから様々な情報を得ていたことに驚かされる。
 また、イエズス会と秀吉をつないだのは、黒田官兵衛であろう。官兵衛は公式には1584年に入信したことになっているが、それは表向きのころで、ほんんお時にはすでにキリシタンだったと私は睨んでいる。
 イエズス会が秀吉支持に回ったとみる理由は、もう一つある。
 1586年5月4日、秀吉が信長の後継者としての地位を着々と固めていた時期のこと。フロイスの『日本史』によると、秀吉は大坂城を訪れた宣教師ガスパルコエリョに対し、『明国への出兵』を明言し、『明国を征服したあかつきには、いたるところに教会をたてさせ、明国民をことごとくキリシタンにする』とまで語ったという。
 キリシタンではない秀吉がこのままで踏み込んだということは、秀吉を支援した見返りとして、イエズス会が『明国出兵』を呑ませたと取っても不自然ではない。
 ただし、秀吉も条件をつけた。スペインの所有している大型船2隻の借用を求めたのだ。最新の造船術と航海術を得るためだろうが、スペイン側がこれを拒否。翌年、秀吉が『バテレン追放令』出すにいたる。
 もっとも、この追放令は外交戦術として出されたものだろう。その証拠に、キリスト教自体は禁じていない。こうした駆け引きのすえ、バテレン追放令はうやむやのうちに撤回されてしまう。
 秀吉としても、信長と同じ轍(てつ)を踏まぬよう、イエズス会との決定的な対立は避けたかったのだろう。それよりもうまく立ち回って、貿易面と軍事面での利益を得ようとしたのだ。
 本能寺の変が持つ意味
 イエズス会と結んだ秀吉は結局、スペインが求めたように、明国征服のために朝鮮出兵へと向かう。
 日本が海外に出兵するのは、663年の白村江(はくそんこう)の戦い以来、およそ930年ぶりのことである。
 秀吉の死により出兵は終わったが、結果は惨憺たるもので、日本国内は疲弊し、特に西日本の農村は大きな打撃を受けた。
 これをどう再建するか。それが、秀吉の後に続く、石田三成徳川家康に課せられた問題となった。
 三成は秀吉の路線を継いでさらなる中央集権化を進めようとし、家康は反対に、地方分権農本主義による体制をつくらなければと考えた。海外貿易に頼らずとも、誰もが食える国をつくろうとしたのである。
 一方、世界でも大きな動きがあった。1588年、スペインがアルマダの海戦でイギリスに敗れ、その存在感を弱めていくこととなる。
 反対に、台頭したのがイギリスとオランダで、プロテスタントの両国は、貿易の見返りとして布教を求めなかった。関ヶ原に勝利した家康は、オランダと組むことを選択していく。
 やがて徳川幕藩体制が整うとともに、キリスト教の禁教令が出され、そして3代将軍家光の時代に鎖国体制が完成。日本はヨーロッパの国でもオランダとのみ、通商をするようになった。
 こうしてみると、信長、秀吉、家康はそれぞれ、海外勢力と向き合う必要性に迫られていたことがわかるだろう。
 そして初めてその課題に直面したのが信長であり、本能寺の変は、『日本は、世界の中でいかなる道を歩むべきか』という選択を行なう最中に起きた事件だったのである。」
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 キリシタン大名(吉利支丹大名)は、戦国時代から江戸時代初期にかけてキリスト教に入信、洗礼を受けた大名のことである。
 概要
 キリシタン大名の一人、大友義鎮(宗麟)。大村純忠有馬晴信とともに少年使節をローマに送った。
 戦国時代
 イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは戦国時代の日本をよく理解し、まず各地の戦国大名たちに領内での布教の許可を求め、さらに布教を円滑に進めるために大名自身に対する布教も行った。後から来日した宣教師たちも同様に各地の大名に謁見し、領内布教の許可や大名自身への布教を行っている。
 その際、大名たちの歓心を得るために、布教の見返りに南蛮貿易や武器・弾薬(特に当時日本で生産できない硝石は羨望の的であった)の援助などを提示した者もおり、大名側もこうした宣教師から得られる利益をより多く得ようと、入信して歓心を買った者もいた。入信した大名の領地では、特に顕著にキリスト教が広がることになった。その後、キリスト教の教義やキリシタン大名の人徳や活躍ぶり(特に高山右近)に感化され、自ら入信する大名が現れ、南蛮貿易に関係のない内陸部などでもキリシタン大名は増えていった。また、畠山高政六角義賢のように没落したのち改宗した大名もいた。
 しかし、キリスト教に入信した大名とその配下達の中には、領地内の寺や神社を破壊したり焼き払ったり僧に冒涜を加えた者もあった。たとえば大村純忠が、領内の寺社や仏像といった偶像を大規模に破壊したことが『大村郷村記』やルイス・フロイスの報告書(1563年11月14日)に記されている。これらの破壊行為は宣教師自らが異教撲滅のため、キリシタン大名に教唆することもあった。また異教撲滅こそが神への奉仕であり、その見返りに神が合戦で勝利をもたらしてくれるという、大名自身の願望もその理由に含まれていただろうと考えられる。これらの騒動は、たとえば、スペインおよびポルトガルにおけるユダヤ教徒セファルディム)およびムスリム(モリスコ)排斥や、異端審問といった16世紀から17世紀の非常に排他的かつ尖鋭的な状態にあったキリスト教ローマ・カトリック)が、他宗排撃を良しとしなかった当時の日本と接触したことにより引き起こされた悲劇であった、と歴史学者の神田千里は分析している。
 一方で、仏教や神道を奉ずる大名の中にも、僧たちの意見を聞き入れ外来の宗教であるキリスト教邪教として弾圧する者もおり、カトリック教徒と日本の旧来の宗教の信者達との間に憎悪と対立を深めていくことになった。また、豊臣秀吉により天下が統一されると、バテレン追放令(伴天連追放令)が出され、キリシタン大名に対する政治的な圧力が強まり、多くの大名が改易、もしくは仏教か神道への改宗を余儀なくされ(強制改宗)、キリスト教の禁教と迫害の時代に入っていった。
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 現代日本人は、金儲けの才能を磨いているが、歴史力・文化力・宗教力は乏しい。
 その証拠が、徳川家康の対外政策や徳川幕府の条件付鎖国令を正しく理解できないところである。
 そして最も日本人の醜悪を表しているのが、日本は世界で信頼され、日本人は世界で愛されている、と盲信しているところである。
 世界は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として売り買いして金儲けしていたのである。
 それが、世界の正義であり、世界の経済である。
 世界は、キリシタン弾圧の犠牲者を福者として祝福するが、悲惨の内に死んでいった日本人奴隷には同情もしないし見向きもせず切り捨てている。
 それが、世界の常識である。
 そして、現代日本歴史教育である。
 現代日本人は、昔の日本人と比べて語学能力は優れ瞬時に情報を多方面から洪水のように得る事ができるが、それを生かす戦略力も実践する戦術力もなく、激論の末に相手を論破する自己主張能力は弱く、国際認識力・外交交渉力・国際経済力その他多くの面でも劣っている。
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 戦国時代から江戸時代、日本は世界とくに西洋とは深い繋がり、お互いに影響を受けっていた。
 その濃密さは日本と中国・朝鮮の比ではなく、日本は古代のまま変化しない中国・朝鮮よりも進歩発展を遂げる西洋を強く意識していた。
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 何故、日本が植民地にならず、日本人が奴隷にならなかったのか。
 信教の自由を認めず、キリスト教邪教として排除し、棄教しないキリシタンを弾圧し、国を閉ざし自由な往来を禁止したからである。
 ただし、経教(経済と信仰)分離の原則に従い、オランダとの交易でキリスト教以外は受け入れた。
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 日本が植民地にならなかった最大の原因は、天皇・皇室の存在である。
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 日本民族は、親殺しと主君殺しを人倫に背く行いと嫌い、それ以上に天皇殺し・皇室に弓を引く行為は天・天道に逆らう忌むべき非道と恐れた。
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 スペインは、1568年に始まったオランダの極立戦争(80年戦争)で苦戦を強いられていた。
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 オランダには、スペインでの異端審問を恐れた隠れユダヤ教徒ユダヤ人達が多く逃げ込んでいた。
 オランダのプロテスタント勢力は、ローマ・カトリック教会に対抗する為に隠れユダヤ教徒ユダヤ人達を保護し、スペインとの独立戦争に利用した。
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 コルテスは600名を率いてアステカ王国(人口1,000万人以上)を滅ぼした。
 ピサロは180名を率いてインカ帝国(人口約1,000万人)を滅ぼした
 何故、少人数で帝国を征服できたのか、それは身内からの裏切り者・寝返り・売国奴がいたからである。
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 スペイン王国は、中南米大陸を植民地とし、原住民を奴隷とし逆らえば虐殺し、武力的に原住民を酷使して産出する膨大な銀を手に入れて世界帝国になった。
 キリスト教会は、征服王・スペインを祝福しキリスト教の保護者とした。
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 日本は、皇帝専制による中央主権の明国の中国ではなく各地に藩王が乱立するムガル帝国のインドに似ている。
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 中世キリスト教会・イエズス会などの修道士会が、戦国動乱の異教国日本で布教活動を行ったのは、貪欲・強欲・野望・野心のままに殺戮が繰り返される地獄の中で塗炭の苦しみで生きたいる日本人を絶対神の福音による「隣人愛の信仰」で助け出そうという善意からではなかった。
 もし、善意だけの自己犠牲的精神による布教活動であれば、非文明の中南米大陸で生活していた異教徒1,000万人以上の現地人を襲った悲惨は起きなかった。
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 一神教キリスト教の正体は、キリスト教徒とキリシタンにとって平和と幸福な宗教であったが、異教・異教徒にとって戦争と殺戮と不幸の宗教であった。
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 戦国大名は堺商人を通してポルトガルから、火縄銃・大砲、火薬、鉛を買い付けていた。
 堺商人は、日本国産銀(主に石見産銀)で南蛮貿易を行っていた。
 インドのゴアやマレーのマラッカなどで製造された火縄銃・大砲、中国で生産された火薬、タイの鉱山で採掘された鉛が、日本に高値で売られていた。
 堺商人は、外国に頼らず・依存しない為に、伝統的刀鍛冶技術を創意工夫で応用して鉄製の火縄銃・大砲の国内生産を始めた。
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 中国で生産していたのは、性能が落ちるが生産しやすい青銅製の火縄銃と大砲であった。
 中国は、琉球から火薬の原料である硫黄を輸入していたが、硝石の日本輸出を禁止していた。
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 織田信長は、ポルトガルとの南蛮貿易を堺を通じて順調に利益を上げ、南蛮貿易の為にイエズス会の布教活動を許していた。
 1580年に、スペインがポルトガルを併合してから南蛮貿易も布教活動も変わった。
 イエズス会以外の修道会は、宗教摩擦を起こさないイエズス会の消極的妥協的宥和的布教活動を批判し、より積極的攻撃的狂信的布教活動を行いキリシタン大名領内で敬虔なキリシタンを煽動して異教徒に対する宗教弾圧を始めた。
 キリスト教を仏教の一宗派と思っていた日本人は驚き、寺社仏閣を打ち壊し、祖先の墓・仏壇・位牌を破壊する行為に恐怖した。
 スペインの世界戦略は、日本をキリスト教国家にして属国化し、日本の軍事力を利用して明国を侵略し征服し植民地にする事であった。
 イギリスとオランダは、スペインがさらなる世界帝国に巨大化する事は自国の脅威と考えていた。
 1588年 イギリス海軍は、スペインの無敵艦隊アルマダの海戦で撃破した。
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 スペインは、本国から軍隊を派遣できない為に、日本をキリスト教国とし、武士を絶対神に忠誠を誓う神聖騎士団に組織して使い捨て駒のように手足として使おうとした。
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 キリスト教が望んだ絶対神に忠誠を誓う神聖騎士団は、高山右近小西行長ら有力キリシタン大名で成立した。
 そして日本の歴史で華々しく活躍したのは、大坂の陣での明石掃部が率いるキリシタン部隊である。
 その残党が、島原の乱(島原天草一揆)である。
 キリシタン弾圧とは、その残党狩りであった。
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 中世キリスト教会は、織田信長日本国王に即位させ、絶対神の代理として神聖国王に戴冠し、異教徒の王・天皇に代わる新たな日本統治者に任命し「絶対神の福音と隣人愛の信仰の守護者」にしようとした。
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 イエズス会は、他の修道会に日本国内での積極的攻撃的狂信的布教活動につられて原理宗教化して異教徒に対する宗教弾圧を煽動し、キリシタン大名領内にある寺社仏閣の打ち壊しを行い、寄進された長崎をマカオの様にローマ教皇領として日本から独立させるべく軍港要塞都市国家を建国させようとした。
 同様に、日本を中世イタリアのように、国内に幾つかのキリスト教小国家を独立させ分解し、異教王・天皇を滅ぼして異教国日本を消滅させるべくキリスタン大名を支援した。
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 欧州の覇権を握ろうとするスペイン・ポルトガルカトリック教勢力とイギリス・オランダのプロテスタント勢力にとって、その鍵となるのが日本産銀(石見産銀)であった。
 つまり、将来の国際金融の行く末は日本産銀(石見産銀)で決まろうとしていた。
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 織田信長は、日本統一の次の目標を海外侵略と考え、優秀な家臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を筑前守に明智光秀に日向守に任じた。
 織田信長が目指した海外とは、旧態依然とした古びた朝鮮や中国ではなく、豊かで輝く東南アジアや西洋であった。
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 豊臣秀吉徳川家康織田信長の国内外戦略を実現する為に行動したが、信長の方針を忠実に実行すれば失敗し日本に甚大な被害をもたらすために、調整を加えて実行した。
 豊臣秀吉は、南蛮貿易の継続、ルソン(フィリピン)にあるスペインの富の簒奪、明国への侵略。
 徳川家康は、主家を失った浪人達を契約傭兵として東南アジアに送り出し、銀と武器を商品として西洋との交易の継続。
 最終的修正信長戦略が、徳川幕府鎖国政策であった。
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 豊臣秀吉の明国出兵は、キリスト教会・イエズス会の要請であった。
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 現代の日本歴史教育は、中華(中国・朝鮮)はおろか西洋などの世界史と切り離されている。
 現代の歴史教育は、子供から歴史力・文化力・宗教力そしてローカルとグローバルに対する理解力をなくす為に行われている。
 つまり、事実の歴史を嫌いになるように誘導している。
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 世界交易の商品としては、生きた奴隷は食べ物・飲料水・排泄物、喧嘩・怪我、病気・死亡など遠くに運べば運ぶほど無駄な手数がかかる、対して、銀・金・鉛・銅、硫黄、綿花・絹、織物、香辛料・お茶・顔料、陶器・刀・甲冑、毛皮などは大量に運べる為に効率や利益率が良かった。
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 一神教キリスト教ユダヤ教イスラム教は、人を奴隷として使役する事を認めていた。
 儒教も同様に、人間を教養ある聖人と教養のない小人に分け、小人を家庭内奴隷=獣として扱う事を認めていた。
 大陸世界では、奴隷は当たり前のように存在していた。
 日本には、奴隷制度はなかったが奴隷=奴婢、女郎・遊女・花魁はいた。
 それが「山椒大夫」である。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として売買して金儲けしていた。
 だが、当時の日本人は戦場の乱取りで捕らえられた日本人が奴隷として売り買いされる事に何ら疑問を持たず、よって誰も奴隷から救い出そうとは思わなかったし、奴隷売買を止めようとはしなかった。
 それがたとえ自分の子供でも、親族の子でも、知り合いの子供でも同じで、売られてしまったら「仕方ない」と諦めて助けはしなかった。
 豊臣秀吉も「日本人奴隷売買」を批判したが、奴隷にされた日本人をただの一人も助けず見捨ていた。
 日本人は情が薄く「惻隠の情」はウソで、本質は薄情で、冷淡で、冷血で、冷酷である。
 それは、現代の日本人でもかわりはしない。
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 アメリカ大陸とアフリカ大陸間のアフリカ人奴隷交易では、死んだ奴隷は海に捨てられたが、怪我・病気をした奴隷は治療せず生きたまま海に捨てられ、食べ物や飲料水が少なくなれば口減らしとして奴隷は生きたまま海に捨てられ、船員に逆らう生意気で短気で融通の利かないそして反抗的な扱いづらい奴隷も生きたまま海に捨てられた。
 奴隷が過酷な命令でも口答えせず従順なのは、長い航海で、奴隷船の中で運命を諦めて受け入れる大人しい性格だけを連れて行くという選別がなされたからである。
 自由も人権もない奴隷は、生きた人形である為に個性はいらなかった。
 個性がない、没個性は、下僕・奴隷の証拠であった。
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