🏞90)─2・B─伊能忠敬が幕府の命で作成した日本地図は戦争の為であった。~No.372 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 敵国であるロシア、中国、韓国・朝鮮は、日本の軍国主義を否定し、日本の専守防衛の積極的自衛戦争を絶対に認めない。

 昔の日本人は、命を捨てでも戦争をして天皇・国・民族を守ろうとした、それが日本の軍国主義であったが、が、現代日本人は如何なる戦争にも反対している。
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 現代の若者は、北方領土4島問題に対する関心はなく、むしろ核保有国ロシアとの戦争の危険性があるなら放棄する事を望んでいる。
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 徳川幕府伊能忠敬に作成を命じた実測日本地図「大日本沿海輿地全図」は、日本の実体を知る為の平和な地図ではなく、ロシアの侵略を撃退する為の戦争の地図であった。
 その為に、神国思想による尊皇攘夷の国防意識の高まりで諸藩や庶民は協力した。
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 義民
 なお、水戸藩などでは、尊王攘夷の志に目覚め、水戸藩の志士たちと国事に奔走した義民がいわゆる義民郷士として取り立てられたり、明治維新後、賞典禄を受けた者も多い。
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 伊能 忠敬、延享2年1月11日(1745年2月11日) - 文化15年4月13日(1818年5月17日))は、江戸時代の商人・測量家である。通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。
 寛政12年(1800年)から文化13年(1616年)まで、足かけ17年をかけて日本全国を測量して『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。

 伊能忠敬は、地球の大きさを計る為に、幕府の許可をえて蝦夷地地図を完成させた。
 
 伊能忠敬の測量を、全国の諸藩だけではなく各地の庶民が協力した。

 伊能図は、世界レベルにあった。
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☭目次1』─弐ー露西亜の日本侵略。ロシア人共産主義者による日本人大虐殺。~No.1
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2022-07-31
🏞75)─1─ルイ16世は蝦夷地・樺太調査目的でフランス艦隊を派遣した。1785年。~No.308 
2022-08-01
🏞75)─2─イギリスの蝦夷地植民地化計画と徳川幕府の対応。1796年。~No.309 
2022-08-03
🏞75)─3─ロシアの対日戦略目的は初期は友好・交易で中期以降は領土・植民地であった。~No.310 
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2019-04-19
🏞78)─1─英国立公文書館北方領土4島を日本領とする1811年版古地図が発見された。〜No.315 
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ロシアの侵略に対する危機感が尊皇攘夷元年である。 
2017-09-17
☭10』11』12』─1─田沼意次蝦夷地・北方領土探索隊。立原翠軒の国難警告。アメリカ・イギリス・ロシアの北太平洋航路探検競争。1738年~No.23No.24No.25No.26No.27No.28No.29@・ 
2018-06-12
☭13』14』─1─文化露寇事件。ロシアの日本侵略を武力で防いだ徳川幕府歴史修正主義。1807年~No.30No.31No.32No.33No.34@・   
2017-09-22
☭15』16』17』─1─対馬事件。尊王攘夷派はロシア軍将校と水兵を襲撃した。ロシア軍艦による対馬武力占拠と租界要求事件。1854年~No.35No.36No.37No.38No.39No.40@・ 
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2020-04-28
🏞87)─1─ブラック社会における庶民の抜け道としての旅事情。伊勢詣で。〜No.362No.362No.363・ 
2018-12-24
🏞87)─2─御所千度参り。天明の大飢饉で苦しむ庶民は天皇に助けを求め、光格天皇は幕府に被災民の救済を求めた。~No.364・ @ 
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 2024年6月22日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「退屈すぎる定年後に効く言葉…日本が誇る天才が遺した「心に刺さりすぎる名言」
 丹羽宇一郎
 元伊藤忠商事会長、そして民間人初の中国大使を務めた丹羽宇一郎さん。仕事に生涯を捧げてきた名経営者も85歳を迎え、人生の佳境に差し掛かった。『老いた今だから』では、歳を重ねた今だからこそ見えてきた日々の楽しみ方が書かれている。
 ※本記事は丹羽宇一郎『老いた今だから』から抜粋・編集したものです。
 伊能忠敬の場合
 死ぬまで努力を続けて大きな仕事を成し遂げた偉人の言葉には、シニアの底力とでもいうものがにじみ出ていて、二一世紀を生きる私たちを力づけてくれます。
 最も有名なのは、我が国初の実測日本地図「大日本沿海輿地全図」を作った伊能忠敬(一七四五〜一八一八)でしょう。
 忠敬は、下総国(今の千葉県)佐原村で酒・醤油の醸造業を営む伊能家の婿養子となり、傾いていた家業を立て直すために夢中で働くかたわら、独学で天文学や測量術を学びました。四九歳(満年齢、以下同)で隠居し、翌年、本格的に天文学を学ぶため江戸に出て、一九歳年下の幕府天文方・高橋至時に入門。寝る間を惜しんで天体観測に励みました。
 退屈すぎる定年後に効く言葉…日本が誇る天才が遺した「心に刺さりすぎる名言」
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 全国の測量を開始したのは五五歳。当時としては完全な老人です。足かけ一七年にわたり一〇回の測量を行いましたが、日本全図の完成前に七三歳で没します。弟子たちが完成させた日本全図は、当時としては群を抜く完成度で、のちに明治陸軍でも資料として使われました。
 忠敬が測量を始めたのは幕府に命じられたからではなく、「地球の大きさを知りたい」という夢をかなえるために、緯度一度分の正確な距離を突き止めたかったからです。当時、日本近海に外国船がしばしば現れていたため、「国防のために精密な地図を作る」との名目で幕府に測量を願い出て許可されました。このあたりは、なかなかしたたかです。
 しかし、幕府から支給される手当はわずかで、測量行に必要な多額の資金は忠敬が私財を投入して負担しました。伊能家は佐原村の名主でもあり、当主時代の忠敬は、利根川の氾濫、浅間山の大噴火、それにともなう天明の大飢饉の際にも、堤防の修復工事や難民の救済に私財を投じています。
 70歳ではまだまだ未熟
 忠敬の「生きる指針」が商人としての正直さ・合理主義・謙虚さであったことは、家督を継いだ長男にあてた「伊能家家訓」に表れています(以下、現代語訳)。
一 仮にも人に対して嘘偽りをせず、親に孝行、兄弟仲良く、正直であれ。
二 目上はもちろん目下の人の意見もよく聞き、納得のいく考えは取り入れよ。
三 人に対する敬意と謙譲をもって言動を慎み、けっして人と争いなどせぬように。
 これらの「指針」に加えて、年齢にとらわれず心からやりたいことに挑戦して努力を続ける気力、天文や測量のすぐれた技術、したたかな行動力、商家の主として培った統率力、財力があったからこそ、全国測量事業を成就できたのでしょう。
 「富嶽三十六景」や「北斎漫画」などで知られる葛飾北斎(一七六〇〜一八四九)は、江戸時代では異例の長寿といえる八八歳で没するまで、何度となく新しい画風に挑戦し、確立させました。七五歳のときに絵師としての気概を記した一文が有名です。
 「七〇歳前の作品は取るに足らず、七三歳で生き物の骨格や草木の出生の理をいくらか知ることができた。努力を続ければ八〇歳でますます上達し、九〇歳で奥義をきわめ、一〇〇歳で神妙の域となり、百何十歳に至って描くものの一点一格が生きているようになるだろう。長寿を司る神よ、私のこの努力への言葉が偽りでないことを見ていてください」
 臨終の際に北斎は、無念の言葉を遺したといいます。
 「天が私をあと一〇年、いや五年生かしてくれれば、真の画工となれたのに……」
 生涯をかけて一つの仕事に没頭したのみならず、仕事を通していつまでも成長を続けようとした執念が感じられる言葉です。
 さらに連載記事〈ほとんどの人が老後を「大失敗」するのにはハッキリした原因があった…実は誤解されている「お金よりも大事なもの」〉では、老後の生活を成功させるための秘訣を紹介しています。
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