✽289)─1─中世キリスト教会・イエズス会・キリスト教原理主義者の日本国と天皇に対する攻めの陰謀・強者の陰謀。〜No.581No.582  @        

バテレンの世紀

バテレンの世紀

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 外国の日本に対する陰謀は、攻めの陰謀で、強者の陰謀であった。
 日本の外国に対する陰謀は、守りの陰謀で、弱者の陰謀であった。
 世界史は、外国の陰謀を正義で日本の陰謀を悪と認定している。
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 2018年10月号 Hanada「渡辺京二バテレンの世紀』を読む 三浦小太郎
 残酷な奴隷収奪 
 雑誌『選択』の2006年9月号から、10年を超える連載として書かれてきた『バテレンの世紀』が、単行本として新潮社より発行された。
 著者の渡辺京二はこれまで、西郷隆盛宮崎滔天北一輝など、従来、『右翼反動』と見做(みな)されていた人々を、明治維新以後の近代化に抗し、同時に近代を乗り越えようと苦闘した人々として読み解き、1988年に発表された『逝きし世の面影』(葦書房、のち平凡社ライブラリー)では、江戸時代を日本独自の文明の確立期として評価、『黒船前夜』(洋泉社)では、日本独自の近代化の可能性を示唆してみせた。
 本書『バテレンの世紀』は、1543年、ポルトガル人が中国船に乗って種子島に漂着してから、1639年の『鎖国令』までの約一世紀を、歴史のドラマとして描き出したもである。
 本書はまず、1383年から85年にかけて行われたポルトガルの『革命』から始まっている。宮廷クーデターと下からの民衆反乱によって人望なき旧王朝が倒され、新興のアヴィス王朝が成立、ジョアン1世が国王となり、中小貴族と新興富裕層による身分制議会が成立。この革命による国家的団結が、海外進出への大きな基盤となったのだ。
 そして、ポルトガル船をアフリカ西岸に南下させ、アジアに渡る経路を開拓したのが、ジョアン1世の息子で『航海王子』の名を持つエンリケだった。
 エンリケはこれまで、しばしば新世界発見の夢を抱く啓蒙的君主と見做されてきた。しかし渡辺は、この航海の目的は、イスラムに対する聖戦とキリスト教『布教』、そして金と奴隷の獲得だったことを見逃さない。
 事実、アフリカ西岸では、むごたらし奴隷狩りが行われた。
 『航海者たちは住民を求めて上陸し、彼らを視認するや追跡して捕獲し、集落のありかを白状させると、部隊を編成して襲撃した』
 ポルトガル人は奴隷狩りを『異教徒の魂の救済』と見做し、何の疑問も持たなかった。『アフリカのサバンナで原始的な暮らしをするよりも、ラゴスリスボンで、たとえその身は奴隷であろうとも、文明的な生活を送るほうが幸福だ』、とこの侵略者っちは考えたのだ。
 『大航海時代の幕あけを導いたのが、このような「文明化」の論理だったことは明記されねばなるまい』(『バテレンの世紀』、以下同)
 渡辺のこの記述の背後には、あらゆる『進歩』という概念がいかに人間を残酷なものにするかを明らかにしている。『アフリカ西岸のプラヴァを攻撃したとき、ポルトガル兵は住民の女性がつけている銀の腕輪が抜き取れぬというので腕ごと切断した。その数800に近かった』西欧文明と信仰の価値を絶対視した人々は、このような非道な強欲をも備えていた。
 貿易と布教が目的
 ポルトガルヴァスコ・ダ・ガマがインドを訪れ、喜望峰回りの東インド航路が開かれたのは1497年のことである。この時、すでにインド洋には、民族や宗教、そして国家とも無関係の、自由な交易の世界がアジア諸民族により確立していた。
 これは、中国(明)とインドという2大国が、当時、海上支配に無関心だったことにもよる。
 明は外国交易を入貢のみに限定し、民間人の海外渡航を許さなかった。だからこそ、広東や福建省の貿易業者は密貿易を行うしかなく、ポルトガル人は当初、彼らに迎えられた。中国の海商は、もちろん日本にも訪れていた。
 ポルトガルは、この密貿易の過程で偶然日本を『発見』したのだった。『倭寇』特に後期倭寇のほとんどが中国人だったのはこのような背景がある。そして、現在の中国の南シナ海における覇権主義を思う時、東アジアは平和や諸民族の共存という点で、むしろこの時代より遠ざかっているのではないか。
 ポルトガルにとって、日本との貿易は何よりも、日本の銀と中国の絹との交換の仲介役による利益をもたらす。
 『ポルトガルは中国の絹を日本にもたらす際に仕入れ値の4、5倍で売り、さらに日本銀を中国に持ち帰れば両国の金銀比価の差によって暴利をむさぼる』
 しかし同時に、彼らの目的は貿易のみならず、キリスト教の日本での布教だった。
 『イエズス会』の正体
 1494年のトルデシリャス条約によって、ポルトガルローマ教皇庁から、西経46度37分以東の新発見の土地の領有を認められるとともに、住民のキリスト教化を命じられた。そして、この日本を訪れた宣教師は、イエズス会という『戦闘的布教組織』に属していた。
 イエズス会とはスペインのバスク地方出身の修道士、イグナチオ・ロヨラによって創建された修道会である。ロヨラはのちに日本布教に献身するフランシスコ・ザビエル(彼もバスク出身)らとともに、1538年、イエズス会を結成。
 ロヨラ宗教改革に対抗、カトリック信仰の復興を目指していた。このように、辺境の少数民族こそが、正統信仰をラディカル信奉することは、思想史でしばしばみられる興味深い傾向である。
 渡辺は、ロヨラの天才をイエズス会士の養成法、特にその『霊操(れいそう)』にみている。『霊操』とは、高度な精神集中のもとに自らの罪の認知、キリストの救済活動、受難、復活を、まるで眼前にあるかのように心のなかで復元し、体験することで、それによって自らをキリストの神意を実現する『神の道具』として自己改造することである。
 『神意』とは、世界の諸民族を全てキリスト教化することであり、イエズス会はそのための実働部隊なのだ。その目的のためにはあらゆる手段が正当化され、会士は自己を会のために捧げ尽くす。これは渡辺が指摘するように、のちのマルクス主義前衛政党の体系そのものである。
 本書で紹介される、日本での宣教師たちのキリスト教布教の姿には、たしかに布教への情熱や自己犠牲の精神が感じられ、日本人との興味深い交流も見られる。しかし同時に日本の文化伝統に対する無理解、いや、異なる文化を認めようとしない傲慢さも随所に表れている。
 ザビエルは、日本人を『日本人より優れている人々は異教徒のなかでは見つけられない』と述べ、キリスト教にも理解を示す日本人の姿勢に共感を覚えている。しかしほとんどのイエズス会士は、日本人の様々な宗教を同時に受け入れる寛容性を認めようとしなかった。
 1557年、ポルトガル船の入港地であり、当時は松浦隆信が治めていた九州・平戸にて、ある過激な神父が寺社仏閣から仏像や書物を持ち出して火を放つという事件が起きている。隆信は、キリスト教布教は嫌いつつも、貿易のためのポルトガル船入港は望んでいたのだが、これをきっかけに教会閉鎖と宣教師追放を決定する。渡辺は、この事件をこう評する。
 『ひところまでキリシタン史の叙述者は、宣教師に好意的だったり入信したりした者を好意的に扱い、宣教に好意を持たぬ領主や仏僧を悪玉視する傾向があった』
 しかし、『日本の仏教ミッションがヨーロッパの一角に上陸し、教会堂からイエス像や聖書を持ち出して焼いたならば、騒ぎはこの時の平戸の比ではあるまい。それを思えば、隆信の反応は甚(はなは)だ穏やかなものだといわねばならない。隆信を悪玉視するのは欧米の文明を人類の正道と信じ、その移入に抵抗するものを反動と決めつける明治以来の因襲であろう』。
 中国の文化大革命を想起させる伝統破壊を、自ら、また信者を先導して行われたことは、宗教的情熱に駆られた宣教師たちがしばしば見せる姿だった。これこそ、イエズス会の『前衛政党』としての姿である。
 本書第8章『豊後キリシタン王国の夢』では、キリシタン大名大友宗麟が、現代の延岡市に理想のキリシタン王国を作り上げようとし、神社仏閣を徹底的に破壊したことが記されている。
 高名な医師でキリシタンでもあつた曲直瀬道三は、日本の神仏を悪魔呼ばわりすることは控えるように諫(いさ)め、穏健な形での宣教を忠告したが、宣教師たちは耳を貸さなかった。
 そして、しばしば美化される1582年の天正少年使節団を、渡辺はイエズス会の宣伝戦略として解釈する。使節派遣を企画した宣教師ヴァリニャーノが語るように、使節団の目的は第一に、日本におけるイエズス会の布教が成果を上げていることの宣伝である。
 第二に、日本の少年たちにヨーロッパ諸国の強大さと教会の栄華をみせつけ、それを日本に伝えさせて今後の布教の効果を上げることである。ヴァリニャーノは露骨に語る。
 『少年たちには常に案内者が伴うべきで、よいものだけを見せ、悪いものは全く見せず、また学ばぬようにせよ』
 少年たちは熱狂的に歓迎された。ローマでは教皇グレゴリオ13世に公式謁見、教皇は感動の涙とともに彼らを抱擁した。少年たちの気品、礼儀正しさ、謙虚な態度は、ヨーロッパの人々も認めるところだった。
 しかし、少年たちの座談として書かれた『天正遣欧使節記』は、仕掛人だったヴァリニャーノが、少年たちの口を借りて、ヨーロッパの政治、宗教、文化がいかに優れているかを宣伝しただけのものである。
 『ヴァリニャーノが少年たちにヨーロッパの良い点だけを印象付けるように細心の注意を払ったことは、1950・60年代にソ連や中国を訪ねた日本人が、目かくしされてよいところばかり見せられた例を想起させる。総じてイエズス会が20世紀の共産主義政党と性格・手段において一致していることはおどろくほどである』
 最初の国際人・信長
 本書は、宣教師の眼から見た織田信長豊臣秀吉徳川家康の印象を記しているが、彼ら『天下人』の姿が、外国人の視点からまことに興味深く語られている。宣教師の描く織田信長は、子供のような純粋な好奇心を持ち、いまでいう国際人たらんとした人物である。
 1569年、信長は築城中の二条城の壕(ほり)に架かる橋の上で、自ら工事を指揮しつつ、宣教師ルイス・フロイスに面会し、約2時間にわたって矢継ぎ早に質問を発した。
 そして、フロイスが日本に来た動機を問われた、自分はデウスの御旨(みむね)に沿いたい一心で渡来したのであり、現世的な利益を求めてないと答えると、信長は周りの群衆に交わる仏僧を指して叫んだ。
 『あそこにいる偽善者どもは汝らとは違うぞ。彼らは民を欺(あざむ)きおのれを偽り、虚言を好む傲慢僭越(ごうまんせんえつ)のほど甚(はなは)だしい。予は彼らを殲滅(せんめつ)しようと何度も思ったが、民を動揺させぬため我慢しているのだ』
 ここにおける信長の姿は、それまでの中世的権威を否定し、自らの信念と価値観にのみ従うルネッサンス的自由人である。この時、フロイスが京都に在住する許可を求め、もし許していただければ殿下の名声はヨーロッパのキリスト教諸国に広がるだろうと述べると、信長は嬉しそうな表情を浮かべたが、その場での即答は控えた。
 のちにフロイスの支持者だった和田惟政を通じて、改めて宣教師の京都在住の允許状(いんきょじょう)を求められ、同時に銀の延べ棒を進物として贈られると、『異国人から金銭を受けて允許状を出したとすれば、インドやヨーロッパで自分の評判はどうなることか』と答え、允許状の作成を惟政に一任した。
 これは、当時の武将では珍しい清潔さと、さらに言えば見事な国際感覚である。また、直接フロイスに答えるのではなく、彼の保護者を通じて意志を伝えたところに、信長の政治家としての感性も感じさせる。
 渡辺は、信長が宣教師の情報や彼らがもたらすインドやポルトガルの品物を好んだことを、このように評している。
 『宣教師は彼の前に開けつつあった国際社会の窓口であったのだ。宣教師のもたらす情報によって、ポルトガルからアフリカ・インドを経、日本に達する長い海のイメージが彼の脳中で形づくられた。
 彼が行おうとしている経綸(けいりん)は、この国際社会の中で評価にたえるものでなければならない。また、彼が創ろうとしている新しい日本は、この海の道がもたらす文物(ぶんぶつ)、情報を積極的に摂取する度量を持たねばならない。異国人や異国の来朝を歓待するのは、日本がまさに世界のプレーヤーとなることにほかならないのだ』(同)
 バテレン追放の複雑な精神
 織田信長は、キリスト教の教義には関心は持たなかった。しかし、戦国乱世という従来の価値観や秩序が解体し、自力更生と実力主義の時代を経て新しい価値観に基づく新秩序を構築しようとしていた信長は、宣教師たちを国際的な情報や普遍的価値観を日本にもたらす貴重な存在として重用したのだった。
 しかしこの判断は、やはり楽観的に過ぎるものだった。それは、彼が倒れたあとに天下を統一した豊臣秀吉の時代に明らかになる。
 豊臣秀吉が信長同様、当初は好意的に接していた宣教師たちに対し、1587年、急遽、『バテレン追放令』を出した理由は、いまも歴史家の間で明解な答えが出ていない。しかし本書で渡辺は、時系列を追うことによって秀吉のイエズス会への危機意識を一定程度明らかにしている。
 1586年5月、大坂城にて宣教師の訪問を受けた秀吉は、朝鮮・明への大陸遠征のために、大型帆船(はんせん)や航海士の提供を求めた。
 これに対してフロイスは、殿下がシナ征服のために九州に来るのならばイエズス会に相談するのがよい、九州全域をイエズス会は影響下に置いており、帆船も航海士も提供できる、とイエズス会の勢力を誇示するように応えたのである。
 豊臣秀吉にとって、これは傲慢なだけではなく、キリシタンが現実の政治勢力として日本に基盤を持ちつつある危険性を示唆するものだった。
 そして1587年7月、秀吉が島津を下して九州を統治した直後、秀吉は配下のキリシタン大名高山右近に棄教を迫り、右近が拒否すると直ちに領地剥奪と追放を宣告した。その後、宣教師たちに詰問状を下され、20日以内の日本退去が命じられた。
 長崎要塞化計画も
 様々な要因を考慮しつつ、渡辺はこの7月の禁制令以前、6月段階ですでに作られていた宣教師用の文書も参考にしながら、次のように秀吉の禁制への意志を推察している。
 秀吉は、一般人が自発的にキリシタンになることは、仏教を信仰するのと同様、一向にかまわなかった。秀吉が問題にしたのは、キリシタンを信仰する領主が、領民に同じ信仰を強要し、領地内での寺社仏閣の破壊を看過、時には推し進めることだった。これは、信長、秀吉の天下統一に敵対した一向宗の所為(しょい)と同じなのだ。
 秀吉は九州のキリシタン大名の姿勢やイエズス会の態度、そして高山右近の棄教拒否などから、イエズス会が諸大名を指導して、日本国内にある種の教会国家を作り出す危険性を感じたのだ。
 この秀吉の危機意識は、決して的外れなものではなかった。1589年、イエズス会のなかには、九州のキリシタン大名に武器弾薬を提供して秀吉に反抗させる計画、またフィリピンやヨーロッパから軍事援助を求め、長崎を要塞化して抵抗する計画すらあった。
 いずれも、秀吉政権に充分な軍事的実力があったからこそ行われなかったにすぎない。『この国を征服するだけの武力を持ちたいと切に祈る』というのは、少年使節団を企画実現したヴァリニャーノの正直な言葉である。
 秀吉も、ポルトガルとの交易や外交関係は保ちたかった。そのため、近世以後も、現実的には宣教師たちの追放を厳格に実施してはいない。秀吉は、キリシタン禁制に抗議するイエズス会の声に反論している。
 『彼らは約束を破って法を説き、国内の秩序を乱したるが故に、誅(ちゅう)したまでのことである。もし貴国において日本人が、貴国の法に背(そむ)き神道を説くものがあったならば、貴国はいかにそれを処置せんとするや』
 この言葉もまた、信長とは違う意味で、各国の法律や価値観の相互尊重を主張する『国際的』感覚に基づく発言といえよう。
 国内の信者、37万人
 秀吉の死後、徳川家康は一時的に宣教師たちの活動を黙認した。南蛮貿易に強い関心を持つ家康としては、西洋諸国が布教と交易を切り離してくれさえすれば、当初は一定程度、宣教師を認める意思はあったのだ。しかしイエズス会にとって、布教と貿易は基本的に切り離し得ない。17世紀最初の10年で、信者は37万人に達した。
 徳川家康が、まず天領においてキリシタン禁制に踏み切るのは1612年のことである。このきっかけは、家康の寵臣(ちょうしん)、本多正純の家臣・岡本大八が、同じキリシタンだった有馬晴信に、いまは鍋島藩となっている有馬の旧領地を返還させることを持ち掛け、多額の金品を受け取っていたことが発覚した事件である。
 大八は処刑、晴信は切腹を命じられたが、彼はキリシタンとして自殺はできない、と家臣に自らを斬首させた。
 家康は近しい配下にキリシタンがいたこと、そして彼の存在が幕府秩序に危険をもたらす可能性を察知して、天領における禁教を決定するが、各大名のほとんどは、形だけ棄教を求めるに留まった。
 しかし、この事件の直接の舞台である日野江(ひのえ)藩(島原藩)だけはそうもいかない。晴信の息子、有馬直純は、家臣中の主だったキリシタンに、1日だけでもいいから棄教を示し、その後は思うようにせよ、それで領内は平和になり、幕府に自分の顔もたつのだと懇願したが、家臣たちのうち3名はついに受け入れず、家族もろとも火刑(かけい)に処せられた。
 ところが、その火刑場には2万人もの群衆が詰めかけた。彼らは見物に来たのではなく、キリシタンとして殉死する姿を仰ぎ、聖遺物(せいいぶつ)を受けようと集まったのだ。3人の家臣とその家族が炎のなか殉教すると、群衆は刑場に雪崩(なだれ)打ち、まだ燃えている火を消して、遺体を聖遺物として持ち去った。
 このような事態もまた、家康にとっては許しがたいものだった。1614年には全国禁教令が出された。しかし、日野江藩の事例以外にも、たとえ犯罪による処罰であれ、犯人がキリシタンであれば信者が刑場に集まって祈る姿が見られ、幕府はますますこの宗教は秩序を破壊するものだという危惧(きぐ)の念を抱いた。
 キリスト教伝来から約100年間の『バテレンの世紀』に、なぜこれほどまでに熱烈な信仰が生まれたのかは、様々な理由が考えられるだろう。
 渡辺は本書エピローグにて、戦乱と下克上(げこくじょう)のアナーキーな時代だからこそ、民衆に宗教的熱情が生じ、現世を越える救済への渇望が強烈に求められたこと、そこに世界を創造した唯一神が存在するという、日本人がそれまで知らなかった概念がもたらされたことを挙げている。
 多くの殉教者たちの姿は、たしかに信仰が人間に生命を超越した価値観を持たせることの偉大さを示しており、明日の生死もわからぬ戦国乱世の時代、激しい人間精神のドラマが、人々の内面もまたその生き方においても繰り広げられていたことを感じずにはいられない。
 日本文明の崩壊を防いだ
 だが同時に渡辺は、徳川家康には確実に、キリスト教は日本とはあまりにも異質で、しかも強烈な侵略性を持つという認識があったことを指摘している。イエズス会の説くキリスト教は、カトリック信仰に目覚めぬ人間を人間ではないという、強烈な世界『一元』思想に基づいている。
 だからこそ真理を広げるために世界にこの教えを伝え、人間以外の存在に落ちている非キリスト教諸民族をキリスト教化し、『救おう』とする。その姿は信者にも投影していく。
 『カトリック信仰はローマ教皇組織を頂点とする階層組織であるから、それを世界に普及するのは世界をローマ教皇への忠誠によって一元化することを意味する。家康はこのような世界一元化のダイナミズムを、日本における宣教活動のうちに認めて、嫌悪しかつ恐れたおではなかったか。(中略)
 家康が、日本は神仏の国という時、もっと広い意味で、キリスト教という頑固な一神教との違い、コスモロジーから自然観、人間観に至る違いを意識していたことは想像に難くない』
 徳川家康の路線は、家光の鎖国によって完成する。このあと、鎖国によって日本は安定した文明の成熟する時代を迎える。それはある意味、世界に目を閉ざすことに見えて、世界の一元化による文明の破壊から自らを守ることでもあった。
 『単一化』への恐怖と嫌悪
 世界が単一の価値によって支配されることへの恐怖と嫌悪、これは各民族や共同体固有の文化伝統の維持、そして人間が人間として生きられる、個人とそれを取り巻く、ささやかであれ豊かな空間を守ろうとする、人間精神の最も根源的な自己防衛の意識である。
 共産主義であれ、無国籍的な消費資本主義であれ、またヒューマニズムや『人権』『反差別主義』『民主主義』であれ、ある理念やシステムが一元的に社会を支配し、その価値観に人々の精神を従属させる時、個人の内面もそれを支える共同体も破壊されてしまう。
 ドストエフスキーは、西欧近代がロシアの民衆すべてを近代的価値観と合理主義に『改造』してしまうのだと述べ、近代の魅力に憧憬(しょうけい)しつつ、それが世界を一元化することに対して激しい憎悪と恐怖を抱いていた。
 実に徳川家康の危機意識は、このドストエフスキーに始まる、近代と格闘した西欧思想家たち、また冒頭で述べた日本近代に立ち向かった西郷隆盛たち『反動』と見做された人々の先駆者と言えよう。
 渡辺京二は常に、このような危機意識を持つ人々とともに思想の歩みを続けてきた。その意味で、本書はこれまでの渡辺史学に、また一つ大きな山を付け加えた作品である」
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 1600年頃の日本の総人口は約1,200万人で、キリシタンは30万人以上であった。
 例えれば、1億2,000万人と300万人以上と言う事である。
 もし、300万人以上のキリシタンが、四国か北海道に集結し日本から独立を求めて武装蜂起したら、日本は崩壊、消滅する。
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 天皇敬愛日本民族キリスト教に疑惑・嫌悪・恐怖を抱くが敵意・憎悪を持たなかった。
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 中世キリスト教会とイエズス会は、キリスト教原理主義を武器にして、異教国日本・異教徒王日本天皇・異教徒日本民族日本人に対して宗教戦争を仕掛けていた。
 江戸時代後期(田沼意次)・幕末・戊辰戦争明治維新・明治初期の混乱・動乱の芽は、この時、日本の奥底に埋め込まれた。
 最も激しく揺れ動き、混乱・動乱の発信源となったのが、尊皇攘夷思想・愛国主義民族主義の水戸学であった。
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 日本民族日本人は、西洋白人の神聖な判定である「肌の色」からすれば白色人ではなく、アフリカ人同様に家畜以下の奴隷身分であった。
 人種差別・人種偏見・人種嫌悪の大前提は、「肌の色」である。
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 宗教は、究極の人誑(たら)しである。
 人は例外なく他者からの承認を受けたいという願望があった。
 宗教は、その承認願望を肯定していた。
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 キリスト教的天賦人権論は、日本には馴染まなかった。
 何故なら、日本民族日本人には生まれながらにして自由と平等がなかったからである。
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 日本の気候風土において、絶対的価値観による無限の正義や悪は存在しなかったし、誰も助からない無慈悲で残酷な現実が目の前に横たわっていた。
 その苛酷な運命において、奇跡によって例外的に助かる者など誰1人としていなかった。
 日本民族日本人は、苛酷な運命を諦め、生活習慣を変化させながら受け入れるしか生きる道はなかった。
 日本の自然環境では、命の循環・命のつながりとしての甦り、生まれ変わりはあっても、絶対神や救世主の奇跡・救済はなかった。
 つまり、火山噴火や地震の一つでも起きなくならば、絶対神や救世主の奇跡や救済を信じた。
 だか、それを問うと「絶対神を試してはならない」「絶対神の御心・計らいは人間にはわからない」と逃げられる。
 死後、魂・霊魂は、天国に行って永遠の命を授かるのではなく、地上に留まり家族・親族・身内の中で生き続ける。
 それが、日本の空気・空気圧・同調圧力であった。
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 中世キリスト教会世界では、宗教・信仰は領主の宗教・信仰で個人の宗教・信仰ではなかった。
 領主が特定の宗教・信仰を選べば、家臣や領民はその宗教・信仰を受け入れなければならない。
 個人の宗教・信仰を選び領主の宗教・信仰を拒否する者は、異端者・異教徒として生きたまま焼き殺されるか、処刑を免れた者は領内から追放された。
 追放された者は、同じ宗教・信仰を持つ領主の元に移り住んだ。
 だが、無事に移住できた者は幸運で、大半の者は盗賊に襲撃されて皆殺しに遭うか、オオカミや野犬に襲われて命を落とした。
 日本に伝来した宣教師達は、西洋的な考えで布教活動を行い、領民ではなく領主の改宗に力を入れた。
 つまり、宣教師達の最終目標は、日本の宗教・精神・心の大本にある日本天皇の改宗である。
 日本天皇キリシタンにすれば、日本は自動的にキリスト教国になるからである。
 だが、日本天皇は、民族宗教である祖先崇拝を盾にしてキリスト教を拒否し、他の宗教を消滅させるキリシスト教を認めず、許さず、追放を望んだ。
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 宣教師は、奴隷として売っている日本人は、イエズス会を庇護してくれている大名の敵大名の領民だから罪にはならず、むしろ敵大名の領民を減らす事は財力と軍事力を弱める行為であるので歓迎されると確信していた。
 事実。大名は敵大名領に攻め込み、乱取りして捕まえた日本人を宣教師や白人キリスト教徒商人に売っていた。
 日本民族日本人は、捕まえた日本人を奴隷として金に換える事を平気で行い恥じない人間でった。
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 日本人は、単一言語の単一民族ではなく、住んでいる地域や国が違えば言葉が違う赤の他人で、村・領主・国を同じくしない日本人が奴隷にされようが殺されようが一向に気にもしなかった。
 乱取りをしたのは、大名ではなくそうした領民・日本人である。
 日本民族日本人などは、偉くもないし、賢くもないし、優(すぐ)れてもいない、そして優(やさ)しくもなければ親切でも面倒みもよくはなかった。
 他人に対して同情して流す涙を持ってはいなかった。
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 キリスト教原理主義者が最も嫌った日本人の特性が、世の中・社会・日常生活・家族関係を円滑に動かす為に、曖昧さ・いい加減さ・誤魔化しを正当化させる「嘘も方便」であった。
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 日本国・日本民族日本人を救ったのは、平和的な話し合いではなく、世界7大帝国の一つとしての軍事力であった。
 昔から、世界で通用するのは安定した経済力を伴った強大な軍事力のみであった。
 西洋キリスト教諸国は、日本の軍事力に恐怖した。
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 日本の神域・境内は俗と隣り合わせで、キリスト教会や大陸の仏教寺院の様に聖俗がハッキリと遮断され遠ざけられてはいなかった。
 神社や寺院の夜祭り・夜宮は、一夜限り・その場限りの自由恋愛として男女が出会う場でもあった。
 それは、キリスト教会が「神の御名」で滅ぼすべき、異端者集会、悪魔崇拝者や魔女達の淫靡な集まりではなかった。 
 儒教価値観に毒される昔の日本には、「夜這い」という風習が存在し、そこには罪の意識や恥じらいなどはなかった。
 キリスト教価値観で硬直する前の日本には、男女は混浴であったし、春画が普通に売られていた。
 江戸時代の性風俗は、命をおおらかに楽しむ文化で、生きているという充足感であり、生きているときめきである。
 夜祭り・夜宮とは、生命の躍動であった。
 男女が出合い愛を育む事は、日本の開闢(かいびゃく)に遡る慶事であった。
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 日本人と中華人(中国人・朝鮮人)とでは、歴史のとらえ方や考え方が根本的に異なる。
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 現代日本人は、昔の日本人とは違う。
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 昔。
 日本には、相対的価値観・多様性から個人の自由があった。
 西洋は、絶対的価値観から集団に拘束され、無慈悲な不寛容性ゆえに集団に背けば殺されるか追放された。
 宗教・信仰に対して、日本は西洋に比べて寛容であった。
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 中世キリスト教会とイエズス会の対日戦略は、九州を日本から切り離して独立させ、ここにキリスト教国・九州を建国し、首都を長崎におき、キリシタンローマ教皇直属の神聖騎士団として防衛に当たらせ、その軍事力と経済力で異教国日本、異教徒王日本天皇と平和的に共存する事であった。
 それが、キリスト教の平和であった。
 中世キリスト教会が欲しいのは、日本人のキリシタンであって異教徒の日本人ではなかった。
 イエズス会は、日本人キリシタンを増やす為の布教活動資金を得る為に日本人奴隷交易に協力した。
 「日本をキリスト教に生まれ変わらせる」という神聖な使命を実現する為ならば、如何なる手段も絶対神の思し召しであり、成功すれば絶対神が認める正当行為とされた。
 故に、日本人奴隷交易は「神の御名」によって行われ、日本人奴隷交易に従事する白人キリスト教徒商人は敬虔な信者として祝福されていた。
 「日本をキリスト教に再生させる」という神聖な使命の実現の為には、日本人キリシタン以外の全ての異教徒日本人を日本列島から追放するか根絶やしにする事は、正しい行為とされた。
 それが、中世キリスト教会のキリスト教原理主義、つまり狂信的な十字軍・神聖騎士団であった。
 キリスト教徒は、如何なる残虐行為を行った情け容赦のない極悪人でも天国に行く資格はあった。
 キリスト教徒でない者は、如何に清廉潔白で、自己犠牲的に人を助け、他人の為に尽くそうとも地獄に落ち天国には行けなかった。
 天国は、キリスト教徒だけが独占する神の王国であった。
 例えれば、ホロコーストを行ったキリスト教徒は懺悔して悔い改めれば天国・神の国に行く事ができる。
 ホロコーストで殺された異教徒の子供は地獄に行くしかない。
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 ザビエルら宣教師が、日本人を褒めているのは日本人が優れた人間だからではなく、疑問を差し挟む事なく素直に「神のみ言葉」・福音を信じ、「隣人愛の信仰」を受け入れて改宗し、敬虔かキリシタンとなると評しているに過ぎない。
 だが、日本人は中国人・朝鮮人とは違っていた。
 日本では、狂信的中国人キリスト教徒による「太平天国の乱」は起きなかった。
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 清王朝の衰退・滅亡の原因は、阿片戦争ではなく、太平天国の乱・白蓮教の乱・回教の乱などの宗教内戦であった。
 中国の歴代王朝の多くは、善意の宗教勢力が困窮した民衆を助ける為に起こした「世直し反乱」で滅亡していた。
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 日本仏教は、革命宗教の中華仏教とは無関係で、教義の中から社会の変革を求める革命要素は完全に抹消されている。
 それ以前に、日本では狂信的排他的攻撃的積極的不寛容な宗教勢力による暴動・騒動・反乱・戦争を正当化する狭義的真理を無力化し消滅させる、広義的真理が古代から存在していた。
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 日本・中国・朝鮮などの近代史を、アヘン戦争を起点に見る限り歴史の真実は見えない。
 見るべきは、白蓮教・太平天国・回教などの積極的宗教勢力がそれぞれの理由で起こした宗教革命・宗教戦争・宗教内戦である。
 中華世界では、公的な儒教の天・天帝そして皇帝と私的な宗教は敵対する存在で、公権力が衰退すると私的な宗教が反逆を起こしていた。
 ために、公的権力は力を付けた宗教を弾圧した。
 私的な宗教は、儒教の弾圧を避ける為に、都を離れて地方に逃げ、討伐軍が攻めてこられない山の中に宗教施設を築いて防衛した。
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 西洋キリスト教文明では、支配者の公的と被支配者の私的、全ての上に神聖不可侵の絶対神が君臨していた。
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 日本は、信教の自由が保障され、個人に宗教・信仰を選ぶ選択の自由が保証されていた。
 つまり、領主が領民とは違う宗教・信仰を持っていても弾圧・迫害される事はなかった。
 日本では、宗教が政治や軍事に口出ししなければ、強欲に幾ら金を稼ごうとも放任しいた。
 ただし、真面目に働く人びとを堕落させ悪徳の道へと惑わすニセ宗教やニセ宗教家(僧侶)は、厳しく取り締まり、厳罰で望んだ。
 堕落して破滅するのは宗教と宗教家(僧侶)だけで十分で、真面目な人々を巻き込む事を許さなかった。
 御上・幕府・大名は、従う日本仏教を必要悪として残したが、逆らうキリスト教は容赦なく弾圧した。
 が、日本の歴史において、宗教弾圧や思想弾圧があっても数が少なく、流血を伴った凄惨な弾圧はキリシタン弾圧以外ではなかった。
 それ程、日本はキリスト教を恐れていた。
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 信仰心の薄い日本人にとって、宗教の為に命を捨てる「殉教」というくだらない行為が理解できなかった。
 日本人の考え方では、神仏は命の大切さを説く尊き存在ではあるが、死と信仰の二者択一を迫られたら、迷わず生を取って信仰すてた。
 命を救う為に信仰を捨てる事は、心の広い寛容な神や仏であれば許してくれると。
 それが、日本の宗教観である。
 日本人にとって、信仰を守る為に殉教を求める神仏は「悪」であり、殉教を教義として強いる宗教は邪教であった。
 祖先・父母から授かった命、それは如何なる神や仏よりも上にあった。
 何故なら、命は、居るか居ないか分からない神や仏に与えられたのではなく、現実に存在する生きていた祖先・父母から受け継いだのだから。
 その「命の受け継ぎ」という連綿と続く生命観から発生したのが、祖先神・氏神の人神信仰である。
 日本の祖先神・氏神の人神信仰と中国・朝鮮の祖先崇拝とは違う。
 祖先や父母は、命を大切にして、幸せに長生きする事を望んでいると信じる故に、信仰を守って死ぬ「殉教」を嫌悪した。
 家名を大事にする、名を惜しむ、とは祖先・父母の想いに沿って生きるという事である。
 家名や名の為に命を捨てる殉死は、祖先・父母の名誉と命の尊厳を守る為であった。
 日本の殉死とキリスト教イスラム教の殉教とは、趣旨が根本から違う。
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 中世キリスト教世界を支配していたのは、キリスト教原理主義であった。
 キリスト教原理主義は、西洋圏で異端審問や魔女狩りなどの宗教裁判と宗教戦争を起こし、圏外では十字軍戦争を行い異教徒(主にイスラム教)を大量虐殺した。
 そして、反ユダヤ意識がどす黒く渦巻いていた。
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 白人キリスト教徒が世界のスタンダードとして広めた人種差別・人種偏見は、「肌の色」であって文明、文化、宗教、教養ではなかった。
 日本人が、差別や偏見を避ける為に、キリスト教に改宗し、西洋語を話し、西洋の文化、教養、生活習慣を幾ら真似して西洋人以上の西洋人になろうとしても無駄な事である。
 それは、低能児が保護者に、弱者が強者に、自意識を捨てて媚び諂うような悍ましいほどの愚劣すぎない。
 江戸時代までの日本民族日本人、武士・サムライや百姓・町人は、「肌の色」という西洋の神聖不可侵のスタンダードを拒絶した。
 それが、キリシタン弾圧であった。
 日本民族日本人には、「肌の色」を絶対基準で人を奴隷として家畜のように使役する事が理解できなかったし、理解する気もかったからキリスト教を拒絶した。
 ゆえに、奴隷を正当化する、キリスト教邪教とし、キリスト教を禁令とした。
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 民族国家日本が植民地化さえず、日本民族日本人が奴隷とならなかったのは、西洋の不寛容なスタンダードを拒絶したからである。
 つまり、他人は他人、自分は自分、ゆえに自分が信ずる我が道を自分で考えて歩いて行く、と言う事である。
 それが、徳川幕府が選んだ条件付き限定的鎖国政策であった。
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 オウム真理教などのカルト宗教教団の根本原理は、キリスト教原理主義に通じ、その狂信的行動も中世キリスト教会時代の積極的戦闘的な宣教師や修道士に似かよっているところがある。
 オウム真理教に入信した高学歴出身知的エリートは、知的好奇心が強かった為に、自分の幸せ・安逸より世界を浄化しようという独善的なキリスト教原理主義的教義に魅了された。
 つまり、自己犠牲的殉教思想である。
 それ故に、オウム真理教などのカルト宗教教団に共感する日本人、特に高学歴出身知的エリートが後を絶たない。
 それは、どことなくナチ党エリートやロシア共産党エリートに通じるところがある。
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 キリスト教原理主義者は、日本人奴隷交易を仲介し、手数料として稼いだ金を布教活動に利用していた。
 キリスト教原理主義者にとって、日本人を奴隷として売買する事は罪ではなく、絶対神が許した正当行為と確信していた。
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 白人キリスト教徒奴隷商人の手先となって日本人奴隷交易で金儲けをしていたのが中国人、特に広東や福建省の海商や漁民達であった。
 故に、日本人は、中国人を信用せず、商売以外では深く付き合う事を拒絶し、長崎への入港を許してもそれ以外に出る事を禁止した。
 日本と中国の間には友好など存在しなかった。
 極少数の狂信的儒学者のみが、高度な徳を有した中華(中国)に憧れ、教養なき賤しい日本民族日本人に嫌悪し、日本人を捨てて中国人になる事を夢想していた。
 日本の儒教には、多数派の日本儒学と少数派の中華儒教があつた。
 ちなみに、当時の朝鮮は中華帝国の属国として中華儒教一色で、中華皇帝の命じられるままに「礼節の国」として宮廷慰安婦の妓生(キーセン)と宮廷奴隷の宦官を献上していた。
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 天皇擁護派日本民族日本人を根絶する最良策が、大量の外国人を移民させ、日本国民日本人を外国系日本国籍取得者日本人で満たす事である。
 キリスト教諸国の賢人は、少子高齢化で人口激減に陥る日本に人口回復策として外国人移民を推奨している。
 外国人移民1,000万人計画、外国人移民の多くは中国人である。
 中国共産党は、反日教育を徹底して行っている。
 外国人移民1,000万人計画によって、縄文時代から数万年間日本列島に住み、人類史でも古い独自の伝統文化を持つ日本民族日本人は消滅する。


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