⚔30)─6・E─豊臣秀吉とイエズス会宣教師が人身売買についての口論。天正14年(1583)~No.125 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 親鸞が嘆いたように、日本人の心の闇は救いようがないほどに罪深い。
 日本人は心優しは、ウソである。
 現代日本人は、歴史が理解できない。
 日本人は歴史が好きは、ウソである。
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 1579年 豊臣秀吉は、キリスト教弾圧として、宣教師や信徒ら26人を長崎西坂の丘で十字架に処せられた。最年少は12才だった。
 キリスト教徒は、豊臣秀吉をサタン・悪魔として呪った。
 当時の総人口1,200万人の内22万人の日本人がキリスト教に改宗していた。
 数多くの戦国大名キリシタン大名となり、領地をローマ教皇に寄進して教皇領にする動きが出ていた。
 キリスト教は確実に日本で信者を増やし、日本人権力者よりもローマ教皇に忠誠を誓うキリスト教勢力が軍事力を増し始めていた。
 日本人は、民族的武士ではなく世界的騎士になろうとしていた。
 それが、中世キリスト教会による日本への宗教侵略であった。
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 2024年2月29日 YAHOO!JAPANニュース「豊臣秀吉イエズス会宣教師が日本人奴隷の人身売買について口論となった真相
 豊臣秀吉。(提供:アフロ)
 映画祭授賞式で、フランス人女優のジュディット・ゴドレーシュさんがフランス映画界における「女性の不法人身売買」の隠ぺいを批判したという。こちら。かつて、我が国でも人身売買が行われていたが、豊臣秀吉の時代はそれが国際問題となった。その辺りを取り上げることにしよう。
 天正14年(1583)から翌年にかけて九州征伐が行われ、秀吉は島津氏を屈服させた。戦場となった豊後国では農民らが捕らえられ、九州の諸大名(あるいは従軍した将兵)が連れ去った。
 捕らえられた農民らは労働に使役させられるか、奴隷として売買されたのである。これを「乱取り」といい、出陣した将兵はモノや人を略奪することが軍事慣行となっていた。
 秀吉は人が捉えられることによって田畑を耕す農民がいなくなり、そのことが戦後の復興を難しくすることを危惧し、諸大名に農民らの連行や売買を禁止した。
 そこでは、奴隷商人が連行や売買に関与していた可能性が高く、日本人の奴隷商人だけでなく、ポルトガル商人も深くかかわっていたのである。
 翌年4月、秀吉は島津氏を降参に追い込んだこともあり、意気揚々と博多(福岡市博多区)に凱旋した。そこで、秀吉が目撃したのは、次々と日本人奴隷がポルトガルの商船に詰め込まれ、運ばれていく様子だった。
 先述のとおり、農民らがいなくなると、戦後復興は困難になる。そのような理由もあり、秀吉は強い決意を持って、日本人奴隷の人身売買の問題に取り組んだ。
 同年6月、秀吉はポルトガル商人が日本人奴隷を売買、連行することについて、、ガスパール・コエリョイエズス会日本支部準管区長)と激しい口論になった(『イエズス会日本報告集』)。
 次に、お互いの主張を挙げておこう。まず、秀吉がコエリョに尋ねたのは、ポルトガル商人が多数の日本人(主に農民)を買い求め、本国に連行する理由だった。
 秀吉の問いに対してコエリョは、その理由として「日本人が売るから、ポルトガル人が買うのだ」と回答した。そして、「パードレ(司祭職にある者)たちは日本人が売買されることを大いに悲しみ、これを防止するために尽力したが、力が及ばなかった」と述べた。
 さらに、「もし秀吉が日本人の売買の禁止を希望するならば、諸大名らに命令するべきだ」とし、「秀吉の命に背く者を重刑に処すならば、容易に人身売買を停止することができる」だろうと発言したのである。
 コエリョは、宣教師が人身売買の問題を解決できないこと、また無関係であると主張したのである。コエリョの本心は不明であるが、苦し紛れの答えだった。
 秀吉はイエズス会の事情がどうであれ、日本人奴隷を海外に連行することを決して許さなかった。こうしたことから、イエズス会にとって日本人奴隷の売買を黙認することは、キリスト教を伝えるうえでマイナス要因となった。秀吉の詰問によって、イエズス会は苦境に立たされたのである。
 渡邊大門
 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
 1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。
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2018-08-01
⚔18)─1─中世キリスト教会は、日本を絶対神に献上する為に、天皇を滅ぼし、異教の神を消滅させしようとした。1553年~No.69No.70No.71・ @ 
2018-08-08
⚔18)─2─ローマ教皇は、日本を分割してポルトガルとスペインの植民地とし、日本人の生殺与奪の権を与えた。1560年~No.72・ @ 
2018-08-29
⚔36)─1・A─キリスト教原理主義者は、天皇を殺害すべく聖戦を謀議した。1600年~No.146No.147No.148 @ 

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 2022年7月9日 PRESIDENT Online「日本人女性は「奴隷」として海外に売りさばかれていた…豊臣秀吉が「キリスト教」を禁止した本当の理由
 天正遣欧少年使節がみた「日本人奴隷」の悲惨な姿
 藤田 達生 三重大学教育学部教授
 戦国時代の日本では人身売買が横行していた。三重大学教育学部藤田達生教授は「中世の戦争は人盗り・物盗りが当たり前だった。戦場では、逃げ惑う女性や子供が連れ去られ、ポルトガル商人らを通じて、奴隷として海外に売りさばかれていた」という――。
「旅行の先々で、奴隷の生涯に落ちた日本人を親しく見た」
 天正十年(一五八二)二月、天正遣欧少年使節イエズス会巡察使ヴァリニャーノに率いられてローマへと旅立った。使節の内訳は、主席正使伊藤マンショ、正使千々石ミゲル、副使中浦ジュリアン、副使原マルチノである。彼らは、九州のキリシタン大名・大友義鎮(宗麟)・大村純忠有馬晴信の名代として派遣された十代の少年だった。
 1586年、ドイツで印刷された天正遣欧使節肖像画(図版=京都大学貴重資料デジタルアーカイブ/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)1586年、ドイツで印刷された天正遣欧使節肖像画(図版=京都大学貴重資料デジタルアーカイブ/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
 そのヨーロッパ旅行記は、『天正遣欧使節記』として編纂へんさんされている。ここでは、ヴァリニャーノの著作をデ・サンデがラテン語に訳した同書(一五九〇年にマカオで刊行)から、少年たちが旅路において見聞した日本人奴隷についての思いが記されている部分を参考までに紹介しよう。なお、本書にはヴァリニャーノによる創作とする評価もあることを断っておきたい。
 {「このたびの旅行の先々で、売られて奴隷の生涯に落ちた日本人を親しく見たときには、道義をいっさい忘れて、血と言語とを同じうする同国人をさながら家畜か駄獣かのように、こんな安い値で手放すわが民族への義憤の激しい怒りに燃え立たざるを得なかった」
 「実際わが民族のあれほど多数の男女やら、童男・童女が、世界中の、あれほどさまざまな地域へあんな安い値で攫さらって行かれて売り捌さばかれ、みじめな賤役に身を屈しているのを見て、憐憫れんびんの情を催さない者があろうか」}
 情報通の豊臣秀吉は、このような日本人奴隷の海外への大量流失について問題視していた。最下層からはい上がった秀吉は、大名出身者にはない危機感があったのだろう。
 
 PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
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 2021年6月8日 東洋経済ONLINE「「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断
 海外連行された被害者はざっと5万人にのぼる
 新 晴正 : 作家
 なぜ豊臣秀吉は「バテレン追放令」によって、キリスト教布教を禁じたのか?(写真:Universal History Archive/Getty)
 当初は織田信長の政策を継承し、日本でのキリスト教布教を容認していた豊臣秀吉。だが、後に「バテレン追放令」によって布教を禁ずるようになる。秀吉がキリスト教の布教を防ごうとした背景には、ポルトガル人による「奴隷貿易」があった。5万人の日本人が国外に連行されたという、その実態とは? 作家の新晴正氏による『謎と疑問にズバリ答える! 日本史の新視点』より一部抜粋・再構成してお届けする。
 日本にキリスト教が伝わったのは、戦国乱世まっただ中の天文18年(1549年)に薩摩、今の鹿児島・祇園之洲に上陸したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってであった。
 このザビエルからバトンを受け継ぐように永禄6年(1563年)、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが来日すると、ときの権力者の織田信長から布教活動を許されたこともあって、京都や西九州中心にキリシタンが急増した。信長が本能寺で斃れた天正10年(1582年)ごろには全国で約15万人の信者がいたと言われている。
 この数字は当時の京都の全人口のほぼ半数に匹敵するものだった。その後、信長の後継者となった豊臣秀吉は最初こそ信長のキリシタン保護政策を踏襲したが、天正15年になり、突然手のひらを返すかのように「伴天連(ばてれん)追放令」を発する。伴天連とはポルトガル語で宣教師を意味するパードレが訛ったものだという。
 秀吉にはこのとき、布教や商用のために日本にやってくる西欧人に対し、どうしても許せないことがあったのだという。それは一体何だったのだろうか。
 最初は布教を許していたが…
 秀吉は権力の座についた当初こそ、信長の政策を継承し、キリスト教の布教を容認していた。布教の裏にある西欧諸国との交易――いわゆる南蛮貿易にうまみを感じていたからである。
 この交易では鉄砲や火薬、中国製の生糸などが輸入され、日本からは主に銀、金、刀剣類などが輸出された。そんな信長以来のキリシタンの保護政策に対し、秀吉に見直すきっかけを与えたのが、天正14年(1586年)7月に秀吉自身が始めた「九州平定」だと言われている。
 九州平定といっても実質的には九州統一を目論んだ薩摩の島津氏と秀吉との争いだった。この合戦では島津軍は九州各地でよく善戦したが、いかんせん20万ともいわれる秀吉軍の前に次第に薩摩一国に追い詰められ、翌15年4月21日、ついに島津家当主義久は秀吉に和睦を申し入れている。
 その後、秀吉は薩摩にしばらく滞在して戦後処理をすませると、帰国の途につき、途中、博多に立ち寄った。史上有名な「伴天連追放令」はこの地で発令されたものだ。
 それは6月19日のことで、この日秀吉は、九州遠征に勝手に秀吉軍に同行していたポルトガル人でイエズス会の日本における布教の最高責任者であったガスパール・コエリョを引見すると、次のような四カ条からなる詰問を行っている。
 一つ、なぜかくも熱心に日本の人々をキリシタンにしようとするのか。
 一つ、なぜ神社仏閣を破壊し、坊主を迫害し、彼らと融和しようとしないのか。
 一つ、牛馬は人間にとって有益な動物であるにもかかわらず、なぜこれを食べようとするのか。
 一つ、なぜポルトガル人は多数の日本人を買い、奴隷として国外へ連れて行くようなことをするのか――という四カ条で、同時に秀吉はコエリョに対し追放令を突き付けている。
 この追放令が出されたことで九州各地や京・大坂にあったイエズス会の教会や病院、学校などが次々に破壊された。しかし秀吉が、交易やキリスト教の信仰自体を禁止したわけではなかったため、ほとんどの宣教師たちは九州などにとどまり、非公認ながら布教活動を細々と続けたことがわかっている。
 西洋人が胸に秘めた「日本侵略」の意図
 さて、秀吉がなぜこの追放令を出したかだが、その理由の一つに、西欧人たちが胸に秘めた日本侵略の意図を読み取ったからだと言われている。宣教師コエリョが秀吉を博多で出迎えた際、自分が建造させた最新鋭の軍艦に秀吉を乗船させて、自分ならいつでも世界に冠たるスペイン艦隊を動かせると自慢半分、恫喝半分に語ったという。このとき秀吉は彼らの植民地化計画を瞬時に看破したのであった。
 もう一つ許せないのが、日本の大事な国土が西欧人たちによって蚕食され始めていることだった。
 たとえば、キリシタン大名大村純忠は自分の領地だった長崎と茂木を、同じくキリシタン大名有馬晴信は浦上の地をすでにイエズス会に寄進していたのだ。
 日本国の支配者たる秀吉にとって、いかに信仰のためとはいえ、外国人に日本の領土の一部を勝手に譲渡するなど言語道断の出来事だった。西欧人たちがそれを足掛かりとして領地を広げていくことは火を見るよりも明らかだったからだ。
 最初に宣教師を送り、続いて商人、最後に軍隊を送って国を乗っ取ってしまうという西欧列強お得意の植民地化計画が今まさに実行されようとしていたのだ。
秀吉はそれを防ぐためには、キリシタン大名や宣教師たちの勝手な振る舞いに一日でも早く歯止めをかける必要があると考えたのである。
 さらに、秀吉がこの伴天連追放令を出した理由として、実はこれが最も大きかったのではないかと研究者たちの間でささやかれている理由がもう一つある。それこそが、先の四カ条の詰問にもあった、日本人の奴隷問題だった。
 日本人の貧しい少年少女が大勢、タダ同然の安さで西欧人に奴隷として売られていることを秀吉はこのたびの九州遠征で初めて知ったのだった。
 九州遠征に同行した秀吉の御伽衆の一人、大村由己は著書『九州御動座記』の中で日本人奴隷が長崎港で連行される様子を大要、次のように記録している。
 『九州御動座記』の記録
 「日本人が数百人、男女問わず南蛮船に買い取られ、獣のごとく手足に鎖を付けられたまま船底に追いやられた。地獄の呵責よりひどい。──中略──その上、牛馬を買い取り、生きながら皮を剝ぎ、坊主(宣教師を指す)も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼下に広がっている……」
 同胞の若者たちが鎖につながれて次々と南蛮船に押し込まれていく光景は大村由己にとってはこれ以上ないカルチャーショックだったに違いない。
 何とも酷たらしい場面だが、当時の海外に出た西欧の商人にとって有色人種の奴隷交易はなんら恥じることのない商取引だった。これはそもそも、1452年にローマ教皇ポルトガル人に対し異教徒を奴隷にしてもよい、という許可を与えたことが根底にあるという。
 なお、牛馬の肉を手づかみで食べるというのは、西欧ではこの当時、食事にフォークやスプーンを使う習慣がまだ定着していなかったからだ。ルイス・フロイスも日本人が器用に箸を使って食事する様子を驚きをもって本国に伝えている。
 大村由己は自分が目撃したことを秀吉に報告したところ、秀吉は激怒し、さっそく宣教師コエリョを呼びつけ、なぜそんなひどいことをするのかと詰問した。するとコエリョは、「売る人がいるから仕様が無い」そうケロッとして言い放ったという。
 この言葉からも、こうした日本人奴隷の交易にキリシタン大名たちが直接的にしろ間接的にしろ何らかの形でかかわっていたことは間違いないだろう。
海外に連行されていった日本人奴隷は、ポルトガル商人が主導したケースがほとんどで、その被害者はざっと5万人にのぼるという。彼ら日本人奴隷たちは、マカオなどに駐在していた白人の富裕層の下で使役されたほか、遠くインドやアフリカ、欧州、ときには南米アルゼンチンやペルーにまで売られた例もあったという。
 この5万人という数字に関してだが、天正10年にローマに派遣された有名な少年使節団の一行が、世界各地の行く先々で日本の若い女性が奴隷として使役されているのを目撃しており、実際にはこの何倍もいたのではないかと言われている。
 こうした実情を憂慮した秀吉はコエリョに対し、日本人奴隷の売買を即刻停止するよう命じた。そして、こうも付け加えた。
 「すでに売られてしまった日本人を連れ戻すこと。それが無理なら助けられる者たちだけでも買い戻す」といった主旨のことを伝えている。
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 その一方で、日本国内に向けてもただちに奴隷として人を売買することを禁じる法令を発している。こうして秀吉の強硬な態度がポルトガルに対し示されたことで、日本人奴隷の交易はやがて終息に向かうのであった。
 もしも秀吉が天下を統一するために九州を訪れていなかったら、こうした当時のキリスト教徒が持つ独善性や宣教師たちの野望に気づかず、日本の国土は西欧列強によって侵略が進んでいたことだろう。秀吉はその危機を瀬戸際のところで食い止めたわけである。
 日本史の新視点
 慶長元年12月19日(1597年2月5日)、スペイン船サン・フェリペ号の漂着をきっかけとして、スペイン人の宣教師・修道士6人を含む26人が長崎で処刑された。これはポルトガルよりも露骨に日本の植民地化を推し進めてくるスペインに対する秀吉一流の見せしめであった。
 ともすれば現代のわれわれは秀吉に対しキリシタンを弾圧した非道な君主というイメージを抱きがちだが、実際はこのときの集団処刑が、秀吉が行った唯一のキリシタンへの直接的迫害であった。それもこのときはスペイン系のフランシスコ会に対する迫害で、ポルトガル系のイエズス会に対しては特に迫害というものを加えたことはなかった。
 ここまで見てくると、当時の秀吉は日本の為政者として領土や国民の安全を守るために最善の選択をしたように思えてくるのだが……。
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