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2023年9月23日 MicrosoftStartニュース 東洋経済オンライン「「朝鮮出兵」で秀吉が心に抱いていた"真の狙い" なぜ実行しようとした?キリスト教との関係
濱田 浩一郎
なぜ秀吉は朝鮮出兵を決意したのか。写真は大阪城(写真: とうがらしたんたん / PIXTA)
© 東洋経済オンライン
今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は朝鮮出兵(唐入り)を決意した、秀吉の心情の裏側を分析する。
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天正18年(1590年)7月から9月にかけて、徳川家康は奥州(現在の東北地域)で勃発した反乱鎮圧に、豊臣重臣として奔走していた。
【写真】フランシスコ・ザビエルなど、日本に宣教師たちが続々とやってくる。
一方で、その頃、豊臣秀吉は、さらなる野望を膨らませていた。8月には、諸大名に唐入り(朝鮮出兵)を翌年に行うことを告げたのだ。
10月になると、関東にも、秀吉の唐入りが確実に行われるであろうことが伝わってくる。この年の12月下旬、秀吉は甥の秀次に関白職と聚楽第を譲り、自身は大坂城に入った。これも、朝鮮半島から明国(現在の中国)への侵攻を見据えてのことと思われる。
秀吉にはどんな戦略があったのか
秀吉が唐入りを実行しようとしたのは、誇大妄想で、無茶な行動だと捉えられる側面もあるが、秀吉には秀吉なりの目的があった。
その目的は1つではなく、さまざまあると考えられている。秀吉の戦略を考えるためには、当時の国際情勢にも触れなければならない。
戦国3英傑(信長・秀吉・家康)が活躍していたころ、世界は「大航海時代」の真っ只中だった。15世紀頃より、主にポルトガルとスペインが世界規模の航海を行い、新航路や新大陸を「発見」していったのだ。
16世紀後半になると、イギリスやオランダ、フランスもそれに加わり、アジア・アフリカ・南北アメリカの領土獲得や植民地交易を推し進めた。大航海時代と聞けば、ロマン溢れる冒険といったイメージがあるかもしれないが、その実態は、非ヨーロッパ住民への強奪や虐殺という血塗られたものでもあったのだ。
スペインとポルトガルは、1494年にトルデシリャス条約を結び、西アフリカ・セネガル沖の島の西の子午線を基準に、その東側の新領土はポルトガル領、西側はスペイン領とすることを決めてしまった(1529年には、スペインとポルトガルのアジアにおける勢力圏をわけるためのサラゴサ条約が締結)。
日本にも宣教師たちがやってくる
そんななか、1543年にポルトガル人が乗った船が種子島(鹿児島県)に漂着、火縄式鉄砲を伝えた(船の持ち主は、明の人・王直)。1549年には、イエズス会士のフランシスコ・ザビエル(イエズス会:キリスト教の教派の1つ、カトリック教会の組織)が鹿児島に上陸、九州各地や山口を巡り、布教に努める。
日本に宣教師たちが続々とやってくる。写真はフランシスコ・ザビエル像(写真: すなすな3rd / PIXTA)
© 東洋経済オンライン
スペイン人は1584年に来日し、フランシスコ会(イエズス会と同じく、カトリック教会内の組織の1つ)の宣教師が布教活動を展開した。
では彼らは何のために、キリスト教国であるポルトガルやスペインから日本にやってきたのか。
もちろん、布教や交易といったこともあったが、その真の目的だと考えられるものは、来日した宣教師ヴァリニャーノがマカオからフィリピン総督に宛てた手紙(1582年)の中で明らかとなっている。
ヴァリニャーノは「日本の国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服は困難だ」と書いているのだ。つまり、彼らの隠された目的は「日本征服」にあったと考えられる。
それだけではなく、最終的には明国をも軍事攻撃により征服したいと思っていたようだ。また、貿易品(鉄や生糸など)を確保するためには、これらを数多く生産する明国を征服しなければならないとも考えていたようだ。
ヴァリニャーノは、多くの人が明国征服について語り、さまざまな計画を立てていることを耳にしたと手紙に書いているので、キリスト教国の明国攻撃は現実味を帯びていた。
イエズス会の宣教師は、改宗した日本の大名(いわゆるキリシタン大名。例えば肥前国の有馬晴信など)に武器支援を行った。軍事支援に感謝し、キリスト教に改宗した大名もいた。
ガスパル・コエリョ(イエズス会日本準管区長)は「日本66カ国すべて(の大名)が改宗すれば、フェリペ国王(スペイン国王)は日本人のように好戦的で怜悧な兵隊を得て、いっそう容易に明国を征服することができるであろう」と述べている。
戦国大名のすべてをキリシタン(キリスト教徒)にして、その大名の軍隊で、労せずして明国を征服しようとしたのだと考えられる。
信長にも明国征服の考えがあった?
明国の征服を考えていたのは、秀吉や、キリスト教国だけではなかった。実は信長にもその考えがあったようだ。
1582年、宣教師フロイスがイエズス会総会長に宛てた手紙には「信長は、毛利を平定し、日本66カ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分かち与える考えであった」と記されている。
つまり、信長に明国征服の考えがあったというのだ。この情報は信長から直接聞いたものなのか、又聞きなのかはわからない。しかし、信長政権の中枢に食い込んでいた宣教師なので、まったく根拠のないデマ情報ではなさそうだ。
ではなぜ、信長は明国征服を考えていたのか。宣教師らによる情報で、信長はすでにイエズス会が、日本以外のアジアにも進出していることを知っていた。スペインやポルトガルの「明国征服論」も、信長は情報として得ていた可能性もある。
なお、イエズス会士が同会の総会長に宛てた手紙(1587年)には、生前の信長と秀吉の会話が記されている。
秀吉は信長に「イエズス会士は日本を征服し支配する目的をもっている」と話すと、信長は「あのように遠いところ(ポルトガルのアジア支配の拠点・インドのゴアのことか)から、その目的を達成するのに十分なだけの兵士が来るのは不可能だ」と語った。
「信長の明国征服論がどこから出てきたのかということを考えた場合、ポルトガルという国への対抗心が明国征服論を生み出したとみてよいだろう」とする学者もいるが、筆者は対抗心という理由だけで、信長が明国征服を計画するのだろうか、と疑問を抱いている。
豊臣秀吉による朝鮮出兵も、その真の狙いは明国征服。秀吉はなぜ明国を支配しようとしたのか。
ポルトガルに先に明国を征服されたら、次に狙われるのは日本である。だからその前に行動を起こして、日本が明国を獲る。そのくらいのことは考えていたのではないか。筆者は、キリスト教国が行動を起こす前に、先手を打つという意識があったのではないかと推察する。
ちなみに、ポルトガルの商人などは、日本人奴隷の売買もしていた。16世紀の後半になると、日本人はポルトガルや南米にまで送られるようになる。
日本人奴隷の問題も
秀吉は日本人が大量に奴隷として売買されていることに驚き、そして怒り、人身売買を停止しようとする。秀吉がキリスト教の宣教を制限しようとした背景には、日本人奴隷の問題もあった。朝鮮出兵は、誇大妄想や、無茶な行動、と片付けられる話でもなかったのだ。
(主要参考文献一覧)
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・平川新『戦国日本と大航海時代』(中央公論新社、2018)
・藤井讓治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)
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文化マルクス主義者であるリベラル左派(左派敗戦利得者)とエセ保守(右派敗戦利得者)は、日本民族の現実に起きていた歴史を認めず、改竄し・歪曲し・捏造したウソの歴史を、メディアや教育を利用して子供供達に教えている。
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