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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本民族は、先天的に精神疾患を持って生まれてくる。
日本民族の先天性精神疾患を悪化させたのは、近親相姦であった。
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平安時代の日本人は、男女・貧富・貴賤にかかわず和歌を詠んでいた。
和歌は、ストレスによる精神病を治療する「内観」として詠まれていた。
和歌が、日本人に愛され、今日まで廃れる事なく伝統文化として残ったのはこの為である。
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平安時代は、外国からの侵略が絶えなかったが、反乱や内戦は少なかった。
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894(寛平6)年 遣唐使が廃止されるまで、和歌は女性が多く、男性は漢詩が多かった。
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2024年4月30日 YAHOO!JAPANニュース powerd-byTRILL「トップエンタメ平安時代の人々も「精神病」になっていた。 とくに女性は、がんじがらめで自由なし。「そりゃストレスたまるわ」
*TOP画像/さわ(野村麻純) 大河ドラマ「光る君へ」17回(4月28日放送)より(C)NHK
『光る君へ』ファンのみなさんが本作をより深く理解し、楽しめるように、40代50代働く女性の目線で毎話、作品の背景を深掘り解説していきます。今回は平安時代の「メンタルヘルス」について見ていきましょう。
前編の『平安時代も一緒! 男ウケの良さは「コミュ力」と「もう1つの能力」が必須! 何が得意だとにイケメン達にモテた?【大河ドラマ『光る君へ』#17】』に続く後編です。
平安貴族はストレスフルの社会に属していた
現代社会はストレス社会といわれています。メンタルクリニックに通院しながら働いている人や心の病で休職している人も多くいます。また、不登校の児童・生徒は年々増えており、珍しい存在ではありません。
平安社会について現代の価値観では語れませんが、平安貴族がストレスフルの社会に属していたことは確かでしょう。
平安貴族といえば、自宅の庭で池や草花を眺めながら歌ばかり詠んでいるイメージがありますよね。「彼らの悩みは恋愛の悩みくらいでうらやましい」「忙しなく働きたくない。平安貴族になってのんびりしたい」などと思ったことがある人もいるはず。
しかし、平安貴族の男性は無職というわけではなく、宮中で働いていました。早朝から会議で多忙を極めていましたし、上司に気遣うことも当然ありました。また、儀式では細やかなルールや慣習に従い、そつなくこなさなければなりません。さらに、一家の明暗が決まる激しい政争が行われていました。人間ですから政争に負けたらどうしようという不安もあったはずです。
(現代では会議ばかりの日常にうんざりしてしまう会社員、出世競争に疲弊してしまう会社員もいます)
上流貴族の女性については屋敷から出ることはほとんど許されていませんでした。日光を浴びたり、身体を動かしたりする機会は極端に少なかったはず。
また、一夫多妻制の当時、女性は夫や恋人に悩まされることもありました。社会的に容認されているとはいえ、女性にとって夫が別の女性の屋敷に通う姿は心悲しいものでした。また、妾の立場にある女性たちは第一夫人に嫉妬するようなこともあったようです。
平安貴族のメンタルに着目される機会はあまりないものの、貴族たちが置かれていた状況を思うと、精神のバランスを崩す人がいないと考える方がむずかしいのではないでしょうか。
平安時代にどのくらいの人たちが心の病に悩んでいたのかは分かりません。しかし、奈良時代において心神喪失者の犯罪はその刑罰を軽減するといった条文が「大宝律令」にすでに含まれています。このことからも、平安時代には心の病気が一般的にすでに周知されていたことは確かでしょう。
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不眠症に悩む人もいた。いつの時代も眠れない夜はつらい
平安時代には不眠症に悩む人もいました。当時の絵巻物『病草紙』に「不眠の女」という絵があります。
この絵には複数人の女性が描かれており、1人の女性以外は眠っています。この眠れない女性は身体を起こし、時間を指折り数えています。
女性は相部屋にいることから女房と考えられるものの、どのような立場にある女性なのか定かではありません。
また、当時の貴族女性の中には不眠に悩んだ人が多くいたと考えられます。身分の高い女性は御簾の中で日中も過ごし、日光を浴びる機会はほとんどありませんでした。蹴鞠などの遊戯も女性は行いませんので、身体を極端に動かさなかったはずです。
(不眠外来に行くと、ドクターから「日光浴をしなさい!」「毎日、少しでも散歩しなさい」とお叱りを受けそう)
モノノケは集団ヒステリー? 神経衰弱も原因なのか
平安時代、狂気は人間の内側から魂が抜け、怨霊や生霊などが入り込み、支配された状態であると考えられていました。人の心が怨霊などと入れ代わったと考えられていたため、治療のために僧侶が呼ばれ、加持祈祷が行われていたのです。現代では、当時のモノノケを集団ヒステリー、神経衰弱とみなす識者も少なくありません。
不安がはびこり抑圧された社会では、集団ヒステリーが起こります。例えば、1690年代のアメリカ・ニューイングランドで起きたセイラムの魔女裁判も集団ヒステリーによって起きたといわれています。天災が起きたり、病気になったりすると、「魔女のせい」とし、自分が好かない隣人に対して魔女の疑いをかけていました。
当時のアメリカ北東部においても過度な信仰や禁欲主義などによって抑圧された雰囲気がありました。彼らはこうした雰囲気に内心は疲弊していたのでしょう。また、科学も発達しておらず、科学的に解明されていない自然現象がほとんどでした。
セイラムの人たちが病気の原因を魔女のせいにしたのは、平安時代の人たちがモノノケを病気の原因にしたのとおおまか同じことですよね。
岩倉大雲寺は心の病を治す場所として知られていた
アルコール依存症のような症状に悩む人、今でいう統合失調症のような症状を抱える人は平安時代にもいたようです。しかし、こうした症状を抱える人に対し、カウンセリングや投薬といった治療はなされませんでした。
平安時代、岩倉に所在する大雲寺には心を病んだ人たちが加持祈祷を受けに訪れました。
また、岩倉大雲寺の霊泉は後三条天皇の第三皇女・佳子内親王の症状を改善させたと伝わっています。彼女は髪を振り乱して衣を裂くなど、今でいう精神分裂症に似た症状を患ったそう。
天皇は神仏に平癒を祈願すると、大雲寺の十一面観世音菩薩と閼伽井の水が効くというお告げを受けました。このお告げのとおりにしたところ、この姫の症状が回復したといわれています。
江戸時代になってもこの地に病を癒すために足を運ぶ人は後を絶ちませんでした。
ちなみに、精神医学が盛んになり、精神病院ができるまでは、お寺がメンタルの不調に悩む人たちを受け入れていたそうですよ。とはいえ、20世紀に入っても、心の病を患った人は心ない扱いを受けるケースが国内外においてほとんどでした。
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歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではなかった。
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日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
日本の自然は、数万年前の旧石器時代・縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
日本人は生き残る為に個人主義であり、日本社会は皆で生きていく為に集団主義である。
日本の宗教・文化・言語は、こうして創られてきた。
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794年 第50代桓武天皇は長岡京から平安京に遷都とした。平安時代の始まり。
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811(弘仁2)年 弘仁の新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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813年 第52代嵯峨天皇。新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河・遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済系帰化人・高句麗系帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
834年 日本人百姓は、偏見と差別、新羅系渡来人への憎悪から武器を持って新羅村を襲撃した。
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869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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893(寛平5年)および 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐、対馬を侵略。
894年9月 唐の将軍を加えた新羅船100隻、2,500人が、対馬を襲撃した。 対馬の文屋義友は約500人の手兵で迎え撃ち、敵の大将を含む302人を撃ち取った。 捕虜となった新羅人の自白「朝鮮半島は不作により人民は飢えに苦しみ、治安が悪化していたため〝王の命令により〟襲撃した」
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898年と899年に、大規模な反天皇の武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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906年 延喜の新羅の賊。
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935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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1019年 刀伊の入寇。満州の騎馬民族・女真族による北九州侵略。
『韓国人に不都合な半島の歴史』 著者 拳骨たくみ「太宰府が4月16日に送った報告書が『朝野群載』(巻20)に記載されている。
その記述によると、彼らは畠を食いつくし、馬や牛、犬の肉まで食べたという。年寄りから子供らはみな惨殺され、壮年の男女400~500人は船に乗せられ拉致された。
……
高麗海軍による攻撃を受ける最中、賊たちは日本人捕虜たちを殺したり、す巻きにして海に投げ込んだりした。
高麗は日本人を救出し、300人余りが助かったと生存者の供述書に書かれているが、この時点で拉致された人々の80%近くが死亡していることがわかる。
……
一方の日本は、高麗に対して不信の念を強くしていた。
権大納言の藤原実資は、『賊は刀伊ということだが、捕虜を尋問したところ『高麗国が刀伊を防ぐために自分たちを派遣したが、刀伊に捕縛された』と答えている。数千もの賊がいて、なぜ捕まったのが高麗人だけなのか。賊は高麗人が嘘をついて刀伊人であるとしているのではないか』との見解を示した(『小右記』)。
この不信感には先述したように、かつて新羅による海賊行為がしばしば見受けられたことで、裏で高麗が糸をひいているのではないかと考えられたからに他ならない。
これらの事例からも、日本が韓国を古来から尊敬していたなどという話は、まったくの架空であることがわかるだろう。
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文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
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虐殺から生き残った対馬・壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
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1405年~1433年 明の永楽帝。イスラム教徒で宦官の鄭和は、大艦隊を率いて南海遠征を行った。
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1419年 応永の外寇。世宗大王・李氏朝鮮軍による対馬侵略。
朝鮮軍、227隻、1万7,285人。
島民114人を虐殺し、民家1,939戸を焼いた。
対馬守護代の宗貞盛は反撃し、朝鮮軍2,500人(一説では3,700人)を撃ち取り、日本側の戦死者は123人。
朝鮮軍は、台風を恐れて全軍撤退し、事実上の敗走であった。
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1428年 世宗大王は、日本からコメ作りや水車の製造など多くの事を学んだ。
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後期倭寇は、対馬・壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人・南蛮人であった。
日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
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