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2024年5月14日 YAHOO!JAPANニュース ファイナンシャルフィールド「江戸時代の力士は高給取りだったって本当? 武士と比べてどちらのほうが稼いでた?
江戸時代の力士は高給取りだったって本当? 武士と比べてどちらのほうが稼いでた?
現代社会でも「稼げる仕事」というのはありますが、大きく稼げる職業は時代ごとに異なります。
なかでも、江戸時代の「力士」が高給取りであったことはご存じでしょうか。今でも稼いでいる力士は数多く存在しますが、なぜ江戸時代の力士は大きく稼げていたのでしょうか。
そこで本記事では、江戸時代の力士がどれだけ稼いでいたのか、そして庶民や武士と比較すると、どうだったのかについて解説します。
相撲の歴史
お金の話をする前に、まずは「相撲の歴史」について軽く触れておきましょう。日本の相撲の歴史は、日本書紀や古事記の中で力くらべの神話や伝説が起源とされています。相撲は農作物の収穫を占う祭りの儀式として毎年行われ、のちに宮廷の行事となって300年続くことになります。
◆戦国時代
その後、戦国時代へと時代が移り変わるにつれて、相撲にかつての力くらべとしての意味合いがよみがえり、武士の訓練の一環として行われるようになりました。あの有名な織田信長も相撲を好んでおり、上覧試合を行って勝ち抜いた者を家臣として迎え入れたという記録も残されています。
このころに、寺院や山門などを建てたり、修復したりする費用を集めるために行われたのが勧進相撲(かんじんずもう)です。簡単に言えば「募金」に近しい行為ですが、このころからお金を稼ぐ行為として行われていたことが分かります。
しかし、社会の風紀を乱すなどの理由から、17世紀中頃になると禁止令が出されるようになります。
◆江戸時代
江戸時代になると、浪人や力自慢の中から力士を職業とする者が現れ始めました。彼らは、戦国時代から存在していた勧進相撲を全国で行うようになります。
当時は常設の小屋がないため、わざわざ3階建ての仮小屋を境内の中に設営し、そこに大勢の観客を入れて開催していました。こうして、相撲は多くのお金を呼び込む力があるスポーツとなったのです。
このように、現代の相撲の基礎が整えられたのは江戸時代だと考えられます。歴史が進むにつれ、さらにルールの整備やスポーツとしての様式化がなされていき、現代スポーツとしての相撲へ進化しました。
江戸時代の力士の給料
江戸時代に多くの力自慢たちが「力士」として各地で相撲を取り始めてから、力士は当時の人間の中でも高給取りの位置に立つことになります。将軍による上覧試合も行われ、「相撲」という競技は江戸時代の人たちの娯楽の一つとして受け入れられました。
相撲がより浸透して人気になると、大名は人気の力士をお抱えとして迎え入れるようになります。力士の力量や人気にもよりますが、その年収は50両~80両ほど稼いでいたともいわれています。
江戸時代の貨幣価値は変動があったため一概には断定できませんが、ある時期の1両の価値は、現代では18万円~22万円程度と考えられています。このことから、江戸時代の力士は1000万~1700万円前後の年収があったと考えられるでしょう。
ちなみに、同じ時期の庶民の年収は約300万円前後だったとされているため、力士は少なくとも庶民の3倍程度稼いでいたことになります。また、武士は能力主義で給料が決まっていましたが、平均年収は500万円程度と考えられており、人気のある力士であれば、武士の倍以上稼げる職業だったことが分かります。
江戸時代の力士は庶民の3倍稼げる職業!
江戸時代の力士は、庶民の3倍以上、武士の倍以上も稼げる可能性のある職業でした。今でも人気のスポーツである相撲は、江戸時代に娯楽として花開き、高給取りの力士を数多く生み出したことが記録にも残っています。
そこには、庶民だけでなく大名や将軍すらも魅了する力があり、その力で江戸時代の力士は大きく稼いでいたのです。
執筆者:FINANCIAL FIELD編集部
ファイナンシャルプランナー
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江戸時代の「侍」の年収って?刀は給料何ヶ月分だったの?
江戸時代における侍は、今でいうところの公務員です。現在でも公務員は市民の税金が給与となりますが、当時の侍も市民から徴収された年貢によって生計を立てていました。ただし、侍が受け取る給与は現金ではなく、主にコメです。
そのため、当時の侍の年収も、コメの量によって決まります。では、江戸時代の侍は、どの程度のコメを給与として受け取っていたのでしょうか。現在の価値に置き換えて計算してみましょう。
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目次 [非表示]
1 江戸時代はコメ本位制! コメの価値を現在の貨幣価値に換算するといくら?
2 平均的な侍の給与はどれくらい?
3 平均的な侍の年収で刀は買える?
4 現代の価値に換算することでわかった江戸時代の実態!
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江戸時代はコメ本位制! コメの価値を現在の貨幣価値に換算するといくら?
1,江戸時代はコメを中心に経済が回るコメ本位の体制を敷いていました。年貢の量はもちろん、身分などもコメによって管理され、侍が受け取る給与もコメを基準に定められました。
現在では、平均年収を「○万円」などのように通貨の単位で表記しますが、コメが基準であった江戸時代はコメの量を表す単位である「石高(こくだか)」という呼称で表されていました。また、侍の給与は年功序列や成果主義ではなく、親から受け継いだ生まれながらの身分によって決められる点も現在とは異なる点です。
石高が1万石を越える侍は、いわゆる大名と呼ばれる侍になります。では、大名クラスが受け取る1万石とは、現在の価値ではどのくらいになるのでしょうか。
当時の通貨基準では、1石を通貨に換算すると約1両に相当するそうです。つまり、1万石の石高は、通貨にすれば1万両の価値があったということになります。ちなみに、1両は現在の貨幣価値で約10万円に相当するようです。
したがって、受け取る石高が10石なら、現在の価値で100万円、1000石なら1億円という給与水準となります。大名クラスの1万石となれば、単純計算でも10億円。江戸時代は大名ともなると、相当な高収入が見込まれる時代だったことがわかります。
2,平均的な侍の給与はどれくらい?
大名クラスでは相当な高収入が見込める一方、江戸時代に幕府に仕えていた侍のほとんどが大名ではない「旗本」や「御家人」と呼ばれる身分でした。将軍に謁見できる「旗本」が約5000人、謁見できない「御家人」が約1万5000人存在したといわれています。
こうした「旗本」や「御家人」の石高を平均すると、だいたい100石が相場だったようです。100石は約1000万円ではありますが、当時の侍も給与から税金を差し引かれます。その分を差し引くと、当時の平均的な侍の年収は500万円くらいに収まると考えられます。
3,平均的な侍の年収で刀は買える?
武士の魂ともいわれる刀は、侍であれば平民と身分を区別するために必ず携帯しなければいけないものです。現代における刀は、主に美術品として大変高価なものですが、当時は今より多くの刀鍛冶が刀剣を鋳造しており、中古品も市場によく出回るなど今とは刀の価値観が異なります。
とはいえ、高品質な刀は侍であっても簡単に手に入れられるものではなく、高い刀は侍の平均的な年収に匹敵することもありました。
幕末に活躍した新選組の帳簿によれば、刀1本あたり1~10両程度で取り引きされていたようです。1両が10万円とすると、当時の刀は1本あたり10~100万円で出回っていた計算になります。
ただ、幕末は貨幣の価値が江戸初期に比べて下がっていたともいわれ、江戸初期には1本の刀が25両で取り引きされたという記録も残っています。25両は現在の貨幣価値で250万円以上となるので、当時の刀はかなり高額な値段で取り引きされていたようです。
江戸時代の平均的な武士の年収が500万円だったとすると、高品質な刀を1本購入するために年収の半分を費やす計算になります。中古品や安い刀なら大した出費にはならないかもしれませんが、当時の侍にとって刀は高い買い物であったことは確かなようです。
4,現代の価値に換算することでわかった江戸時代の実態!
江戸時代の人の生活は歴史で勉強する分野ではありますが、現在とは価値の基準が異なり、当時の生活を実感することは難しい部分があります。ただ、こうして現在の価値に換算しながら見ていくことで、江戸時代の侍の実態を見ることができ、それが歴史をより深く理解することにもつながります。
江戸時代の侍が平均年収500万円程度と、現代人の平均年収とほぼ変わらないのは意外な事実です。こうした実態をさらに深掘りし、歴史に対する理解をどんどん深めていきましょう。
出典
日本銀行金融研究所貨幣博物館 お金の歴史に関するFAQ(回答)
FINANCIAL FIELD編集部
執筆者:FINANCIAL FIELD編集部
ファイナンシャルプランナー
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歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義やマルクス主義に染まっていった。
江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
マルクス主義・共産主義の階級闘争史観やキリスト教の最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義・天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
日本を動かしているのは学閥である。
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保守には、正統保守・エセ保守である。
現代日本では、急速に新保守の守旧派が増えた。
正統保守は古保守として守旧派ではない、もし正統保守が守旧派であったら日本民族に見捨てられとうの昔に消滅していた。
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