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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
親日・知日は、古朝鮮、百済、古新羅、高句麗、渤海。
反日・敵日・侮日は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮、大韓帝国、韓国、北朝鮮。
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日本の歴史にける高麗には、高句麗(こうくり)の「こま」と王建の高麗「こうらい」の二つがある。
埼玉県日高市・高麗神社は、亡命してきた高句麗系帰化人に由来していて、後世の王建高麗とは違う。
県社・高麗神社の祭神は、主祭神・高麗王若光(こまのこにきしじゃっこう)に日本の神様である猿田彦命(さるたひこのみこと)と武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)が合祀されている。
高句麗系高麗神社と現代の韓国・北朝鮮とは、直接的な繋がり・関係は乏しい。
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ブリタニカ国際大百科事典
唐楽 とうがく
日本の雅楽の中心となる一部門。奈良時代から平安時代初期にかけて,唐代の中国から伝来した合奏音楽で,唐朝の宮廷の娯楽音楽を中心とするが,このほか,中国を経て伝来したインドやベトナムの音楽,それらをまねて日本人が作曲した音楽が含まれる。伝来当初から寺院の供養音楽として,あるいは宮廷の儀式音楽として演奏され,さらに平安時代中期 (仁明天皇の頃) には,いわゆる平安朝の楽制改革によって,楽器編成や音楽理論,演奏様式などの統一がはかられ,朝鮮系の高麗 (こま) 楽に対する唐楽として形が整えられ,今日にいたっている。現行の唐楽は七十数曲を数えるが,演奏様式からは (1) 管弦専用の曲 (楽器だけによる演奏) 。 (2) 舞楽専用の曲 (舞と楽器による演奏) 。 (3) 管弦,舞楽両用の曲の3種に分類できる。楽器は,管弦には,管楽器の篳篥 (ひちりき) ,竜笛 (りゅうてき) ,笙,弦楽器の箏,琵琶,打楽器の太鼓,鉦鼓,羯鼓 (かっこ) を用い,個々の楽器の特徴を生かして,ゆるやかなテンポで優美に演奏される。また舞楽では弦楽器を用いず,管,打楽器によって,拍節を明確に,テンポも比較的早く演奏される。唐楽曲は壱越 (いちこつ) 調,平調 (ひょうぢょう) ,双調 (そうぢょう) ,黄鐘 (おうしき) 調,盤渉 (ばんしき) 調,太食 (たいしき) 調という6種の音階 (六調子) のいずれかによって成り立っており,またリズムに関しては序拍子,早四拍子,早八拍子,延四拍子,延八拍子,早只四拍子,夜多羅八拍子などのいずれかによって構成される。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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ウィキペディア
唐楽(とうがく)は雅楽の一種で、中国から日本に伝来した唐代の音楽、あるいは、9世紀以降の左右両部制による左方唐楽を指すものである。
雅楽の中で最も有名なジャンルであることから、現代では一般的に雅楽というと、この唐楽のイメージが強いが、雅楽には他にも高麗楽や催馬楽、朗詠、東遊など様々なジャンルがある。
概要
「唐楽」が初めて日本で演奏されたのは、大宝2年(702年)の大極殿に群臣を集めて五常楽・太平楽を奏したことであり、それからも、遣唐使などによって招来されている。
孝謙天皇は、天平勝宝元年(749年)12月に、聖武太上天皇・光明皇太后および百官・諸氏とともに東大寺へ行幸し、僧侶5,000人を請じ、礼仏読経させ、唐楽と渤海の楽・呉の楽・五節の田舞・久米舞を上演させている。天平宝字7年(763年)1月、渤海使の饗応の際にも、唐楽は吐羅楽・林邑楽、そのほか東国・隼人の楽とともに演奏されており、その折に朝廷は安史の乱での唐朝に対する史朝義の優勢と、それにより唐への朝貢が難しい状態であることを聞かされている。
平安時代以降の楽制改変により、楽器の編成や音楽理論,演奏様式などが統一され、朝鮮三国の楽と渤海楽を高麗楽として統合し、唐楽は林邑楽などとともに唐楽に整理されている。番舞という制度ができ、唐楽と高麗楽を並べて観賞するようになると、唐楽は左舞、高麗楽は右舞と呼ばれるようになった。
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MINDAN 在日本大韓民国民団
「往時しのぶ優雅な調べ 高麗神社で雅楽
林歌
高麗郡建郡1300年記念事業「第3回高麗神社奉納雅楽演奏会」が18日、埼玉・日高市の同神社境内神楽殿で行われた。
この演奏会は「第4回高麗神社に伝わる文化財『高句麗と高麗郡』」の一環行事として開催されたもので、延べ1000人の観客が雅楽の世界を堪能した。この日披露されたのは、舞楽〈落蹲〉、管弦〈林歌〉など4曲。
管弦〈林歌〉は高麗の笛師下春という人物が伝えたといわれ、原曲は高麗楽の舞楽になる。今回は編曲された唐楽の〈林歌〉と、原曲である高麗楽の〈林歌〉の両方を管弦で演奏。観客はその優雅な曲の調べに聞き入っていた。
(2005.09.28 民団新聞)」
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「天皇・皇后が高麗神社を初訪問…「在日韓国人社会にもインパクト」
参道で高麗文康宮司に話しかける天皇皇后(写真提供は埼玉県)
民団埼玉が歓迎
【埼玉】明仁天皇と美智子皇后は20日、日高市の高麗神社を初訪問した。埼玉県によれば今回の来県は私的な旅行とのこと。民団埼玉本部から田団長をはじめとする3機関役員・顧問が市民2000人とともに出迎えた。
高麗神社では谷ヶ﨑照雄市長、森崎成喜市議会議長の出迎えを受け、高麗文康宮司(50)の案内で神前に拝礼し、江戸時代初期に建造された国指定重要文化財の高麗家旧宅を視察した。高麗宮司は「このうえない名誉であり、最高の慶事」と喜びを語った。
高麗神社は716年に武蔵国に郡長として入り、高麗郡を建郡した高句麗の元王族、高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)を祭神として祀る。建郡から昨年、1300年を迎えたばかり。高麗家の子孫が代々神職を務めており、文康さんは若光から数えて第60代目にあたる。
文康さんによれば、天皇は高句麗の成立や滅亡の年代とその様相、および高麗郡の成立や初期高麗郡について高い関心を示したという。特に「未開地だったこの地が高麗郡の成立によって拓かれたことに感銘を受けられたご様子でした」と明らかにした。
田団長は「高麗神社が韓半島ゆかりであることを知らない人は地元にも多い。だからこそ今回の天皇の訪問はインパクトが大きい。これで在日韓国人への認識もさらに深まるのではないか」と期待をかけた。
(2017.9.27 民団新聞)」
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日本大百科全書(ニッポニカ)
高麗楽 こまがく
狛楽とも書く。大陸系の雅楽のうち、中国系の唐楽に対する朝鮮系のもの。唐楽は左方(さほう)の楽、高麗楽は右方(うほう)の楽といい、両者は楽器編成、舞作法、音楽理論など万事にわたって好対照をなす。「番舞(つがいまい)の制」と称し、両者の舞を交互に披露する制もある。高麗楽上演にあたっては、楽器、楽人、舞人楽屋ともに舞台右方に配置され、装束は緑・青系統に統一される。
楽器は高麗笛、篳篥(ひちりき)と太鼓、鉦鼓(しょうこ)、三ノ鼓(つづみ)で、合奏を主導するのは明確なリズムを奏する三ノ鼓。曲は高麗笛と篳篥が比較的断片的な旋律を反復してなる。調子は高麗壱越調(いちこつちょう)・同平調(ひょうじょう)・同双調(そうじょう)の3種だが、高麗笛が竜笛より短いため、唐楽における同名の調子よりそれぞれ長2度ずつ高い。拍子は高麗四拍子・唐(から)拍子・揚(あげ)拍子の3種で、唐楽に比して簡素で力強い。
元来、「三韓楽(さんかんがく)」と称する新羅(しらぎ)・百済(くだら)・高句麗(こうくり)のものを称したが、平安中期に大規模な楽制改革が行われて、朝鮮伝来の三韓楽を母体に、唐の俗楽や、胡楽(こがく)、渤海楽(ぼっかいがく)、その他日本で作曲作舞されたものが整理統合され、左方唐楽に対する右方高麗楽として再編成された。以後これが現在まで継承される。「管絃(かんげん)」の演奏形式もあったが廃絶し、現在では舞楽のみ。『胡蝶(こちょう)』『納曽利(なそり)』『八仙』など約25曲ある。なお、三韓楽の一つとしての高麗楽は天武(てんむ)天皇12年(683)正月18日、新羅楽・百済楽とともに初演され、雅楽寮で教習されたとの記録もあるが、その音楽内容は不明である。
[橋本曜子]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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ウィキペディア
高麗楽(こまがく)は、朝鮮から日本に伝わった雅楽の一種であり、狭義には高麗(高句麗)伝来の音楽、広義には9世紀以降の左右両部制による右方高麗楽を指すものである。
歴史
「高麗楽」という言葉自体が登場するのは、『日本書紀』の天武天皇12年(683年)1月の
{是の日に、小墾田儛(をはりだのまひ)及び高麗(こま)百済・新羅、三国(みつのくに)の楽(うたまひ)を庭(おほば)の中に奏(つかへまつ)る}
である。
楽師の数は職員令17では4人、『令集解』に引用されている雅楽大属尾張浄足説では、儛師・散楽師・箜篌師各1名の合計3人で、大同4年(809年)3月の格では横笛師・箜篌師・莫目師・儛師の計4人からなる。この後、斉衡2年(855年)8月21日の太政官符では五節儛師をやめて、かわりに高麗鼓師を置いた。
『続日本紀』によると、天平3年(731年)6月に「雅楽寮の雑楽生の員を定む」とあり、これにより楽生の数が決められている。それによると、高麗楽は8人であるが[3]、養老令では20人となっている。その内訳は嘉祥元年(848年)9月の格では横笛生4人、莫牟生2人、箜篌生3人、儛生6人、鼓生4人、弄槍生2人からなる。同年のうちにこのうち儛生2人を減らし、定員18人としている。また、天平15年(743年)7月13日の高麗楽人貢文には「高麗楽人合廿五人〈一人官人、二人師〉」と記されている。
天平13年(74年)7月、聖武天皇は恭仁の新宮で宴を開き、女楽と高麗楽とを演じさせている。これは山背国在住の高句麗系渡来人によるものと思われる。
平安時代には、百済楽・新羅楽などを統合し、左方の唐楽に対して、右方の高麗楽が形成されており、現在に伝わっている。嘉祥元年(848年)9月の格で百済楽・新羅楽の楽生が大幅に減らされているのとは異なり、高麗楽の楽生は減らされていないのは、左右の両部制の形成と関係のあるものだと考えられる。
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