🎑14)─1─ベトナムと皇室の交流 約1300年前に“雅楽”の接点。ベトナム雅楽と宮中雅楽。〜No.28No.29 

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 2022年4月17日 MicrosoftNews 日テレNEWS「ベトナムと皇室の交流 約1300年前に“雅楽”の接点【皇室 a Moment】
 ひとつの瞬間から知られざる皇室の実像に迫る「皇室 a Moment」。今回は、ベトナムと皇室の約1300年前に遡る長い交流について日本テレビ客員解説員の井上茂男さんと共にスポットを当てます。
■2009年には今の陛下、2017年には上皇ご夫妻が訪問
 © 日テレNEWS ベトナム・フエ 王宮(左・2017年3月 上皇ご夫妻(当時 天皇皇后両陛下)/右・2009年2月 天皇陛下(当時 皇太子さま) 日テレNEWS
――こちらはどのような場面でしょうか?
 いずれもベトナム中部の町、フエにあるかつての王宮での一場面で、左が2017年に上皇ご夫妻が訪問された時、右が2009年に天皇陛下がお一人で訪問された時の様子です。
 2017(平成29)年2月から3月にかけ、上皇ご夫妻は社会主義国ベトナムを初めて親善訪問され、これが退位前、天皇皇后両陛下としての最後の国際親善訪問となりました。フエはベトナム最後の王朝、阮(グエン)朝の首都だった場所で、「王宮」は世界遺産になっています。ご夫妻は、華やかな伝統衣装に身を包んだ人たちの舞などで歓迎を受けられました。
 また、今の天皇陛下上皇ご夫妻の訪問の8年前の、皇太子時代の2009(平成21)年2月、外交関係樹立35周年の節目にあたってベトナムをお一人で訪問されています。この時もやはり古都フエで王宮を訪ねられました。
 © 日テレNEWS ベトナム地図 日テレNEWS
 ベトナムインドシナ半島の東側、南シナ海に面した南北1650kmの細長い国で、首都は北部のハノイです。中部にはフエや貿易の港として栄えたホイアンがあり、南部にはかつてサイゴンと呼ばれたホーチミンがあります。
■「先の戦争と向き合う旅」
 © 日テレNEWS 2017年3月1日 ベトナムハノイ 日テレNEWS
 2017年、天皇皇后両陛下としての最後の国際親善訪問で、上皇ご夫妻はまず首都ハノイで歓迎式典に臨まれました。社会主義国へのご訪問は1992年の中国以来でした。ベトナムは10世紀に中国から独立し、独自の王朝を持ったあと、フランス領インドシナの時代や旧日本軍の進駐の時代を経て、先の大戦終結と共に共産主義国家として独立を宣言しました。
 © 日テレNEWS 2017年3月1日 ホーチミン廟 日テレNEWS
 この独立運動を率いたのがホーチミンです。上皇ご夫妻は歓迎式典の後、「建国の父」とされるホーチミンの廟を訪れ献花されました。ベトナムは独立宣言後、フランスとの間のインドシナ戦争アメリカが軍事介入したベトナム戦争を経て、1976年に今のベトナム社会主義共和国が成立しました。
――上皇ご夫妻はベトナムではどのような方と会われたのでしょうか
 2017年の訪問は、親善訪問でしたのでベトナムの要人と会われましたが、「先の戦争と向き合う旅」でもありました。
 © 日テレNEWS 2017年3月2日 ベトナムハノイ 元残留日本兵家族との面会 日テレNEWS
 先の大戦中、ベトナムにいた旧日本軍の中には、戦後も留まって「ベトナム独立同盟=ベトミン」に合流し、独立戦争に参加した元兵士が約600~700人いました。現地で結婚し、家族を持った人もいましたが、その後、国際情勢の変化により日本へ帰国するよう促され、家族は離れ離れになりました。
 ベトナム戦争が始まると日本とアメリカが同盟関係にあったために、その家族たちにも厳しい目が向けられて、元日本兵との関わりを隠して暮らさなければならない時代がありました。上皇さまは元残留日本兵の妻、グエン・ティ・ スアンさん(当時93)に「随分いろいろご苦労もあったんでしょう」と声をかけられました。
 スアンさんはインタビューで「うれしかったです。とてもうれしかった。(上皇ご夫妻が)私の手を握ってくれた時、夫と離れた私の事情をわかってくれていると感じました」と語っていました。
 © 日テレNEWS グエン・ドゥックさん(通称“ドクちゃん”) 日テレNEWS
また、ベトナム戦争アメリカが使った「枯れ葉剤」の影響によるとみられる、下半身がつながった状態で生まれた「ベトちゃん・ドクちゃん」をご記憶の方もいらっしゃると思います。日本の医師団の協力で分離手術が行われ、その後、兄のベトさんは亡くなりました。ハノイ上皇ご夫妻はドクさんに会われ、上皇さまは「ドクさんが元気にされていることをうれしく思います」と話されました。
■ルーツは同じ 日本とベトナムの「雅楽
 © 日テレNEWS 2017年3月4日 ベトナム・フエ 日テレNEWS
 上皇ご夫妻が次に訪問されたのが古都フエです。両陛下を迎える大きな看板が町の至る所に立てられ、移動する先々には多くの人々が並んでご夫妻を歓迎しました。
 ご夫妻はフエの世界遺産の王宮で、日本とも関わりのあるベトナムの宮廷音楽「ニャーニャック」を鑑賞されました。実は「ニャーニャック」は日本の皇室の伝統文化でもある「雅楽」とルーツを共にしているんです。
 © 日テレNEWS ベトナムの宮廷音楽「ニャーニャック」(2017年3月4日 ベトナム・フエ 王宮) 日テレNEWS
 © 日テレNEWS 日本の皇室の伝統文化「雅楽」(2019年3月 皇居) 日テレNEWS
 ベトナムは中国発祥の漢字文化圏の南の端の国で、かつては漢字が使われていました。この「ニャーニャック」を漢字で書くと日本と同じ「雅楽」です。「雅楽」も「ニャーニャック」も、共に中国の宮廷音楽をルーツとしていて、伝来した時期で調べが異なっています。
 © 日テレNEWS 2009年2月 ベトナム・フエ 日テレNEWS
 今の天皇陛下も、2009年にフエでニャーニャックを鑑賞されました。宮廷音楽を育んだ王朝はやがて滅亡し、ベトナム戦争でニャーニャックは忘れられてしまいましたが、その後、ベトナム政府は大切さに気づき、日本もその復興を後押ししました。2004年には「ユネスコ世界無形文化遺産」に指定されています 。
 このベトナム雅楽は、1300年近くも前に日本に紹介されているんです。752年、奈良・東大寺の大仏の開眼供養が盛大に行われました。この時、「林邑(りんゆう)」と呼ばれた当時のベトナムからやってきた僧・仏哲(ぶってつ)が踊りを奉納し、その「舞楽」が「林邑楽」として日本の雅楽にも取り入れられました。
■架け橋の人たちに会われた訪問
 © 日テレNEWS 2009年2月 ベトナムホイアン 日テレNEWS
 日本とのつながりはそれだけではありません。天皇陛下が訪問された時は、世界遺産の町ホイアンにも足を運ばれていました。16~17世紀に朱印船貿易で多くの日本人商人が訪れ、栄えた町です。1000人規模の日本人町があったとされ、陛下は、日本人が作ったと伝えられる木造の橋、通称"日本橋"をご覧になりました。
 © 日テレNEWS 2009年2月ハノイ グエン・ディン・チェウ小中学校 日テレNEWS
 また、天皇陛下は、ハノイの目の不自由な子どもたち100人以上が通う学校も視察されました。この時、案内したのは日本の俳優の杉 良太郎さんです。30年にわたってベトナムで慈善活動を続けていて、外務省から「日ベトナム特別大使」に任命されています。この学校も杉さんが生活用品や資金の援助を続けてきた学校です。両国の架け橋となっている人たちにも目を配られました。
天皇陛下は「水問題」の視点でメコン川も視察
 © 日テレNEWS 2009年2月 ベトナムメコン川 日テレNEWS
 さらに天皇陛下は、ベトナムを「水の研究」の視点からもご覧になっています。南部ホーチミン市の近くではメコン川を遊覧船で約1時間視察されました。
 荷物を載せた船が行き交う様子や、水上の小屋に住む人々の生活などの写真を撮りながら、熱心にご覧になり、「この地域について理解を深めることができてよかったです」と語られています。
 南シナ海に注ぐメコン川は、中国、ミャンマーラオス、タイ、カンボジアベトナムを流れる国際河川です。こうして実地で得た知見は、水問題の講演で写真と共に生かされています。
■感想で示した「信頼と友好の歴史の絆を一層強固に」という願い
 訪問を終えて天皇陛下は「ホイアンやフエにおいて,我が国江戸初期の朱印船貿易時代の旧日本人町を訪れたり、日本の雅楽と縁(ゆかり)の深いニャーニャックの演奏を聴くなど、両国の永い交流の歴史を改めて認識することができました。(中略)今回の私のベトナム国訪問が、これまで先人の方々が様々な交流により培われてきた日本とベトナム両国の信頼と友好の歴史の絆を一層強固なものにすることに少しでも貢献できたのであれば幸いに思います」と感想を発表されています。
――いま、日本にベトナムの方はたくさんいらっしゃいますね
 © 日テレNEWS 2009年2月 日越人材協力センター 日テレNEWS
 留学生や技能実習生など日本に在留するベトナム人は、2020年6月の統計では42万人に上っています。これは中国、韓国に次ぐ数です。
 天皇陛下上皇ご夫妻も、ベトナムで、日本の文化を学ぶ人たちや元留学生らと会われました。過去に〝ベトナム・ブーム〟がありましたが、こうした歴史があって、今日の交流があることも押さえておきたいと思います。
 【井上茂男(いのうえ・しげお)】
 日本テレビ客員解説員。皇室ジャーナリスト。元読売新聞編集委員。1957年生まれ。読売新聞社宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご結婚を取材。警視庁キャップ、社会部デスクなどを経て、編集委員として雅子さまの病気や愛子さまの成長を取材した。著書に『皇室ダイアリー』(中央公論新社)、『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)。
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 2017年3月3日 産経新聞「両陛下観賞臨まれた「ベトナム雅楽」 復活尽力の教授「生きた伝統に」
 天皇、皇后両陛下はベトナム・フエの王宮で、4日に宮廷音楽「ニャーニャック」を観賞される。ニャーニャックは漢字で「雅楽」と表記され、日本の雅楽と同じ源流を持つ。宮廷が消滅して伝統は一時途絶えたが、聖徳大学の徳丸吉彦教授(80)=音楽学=らの尽力で復活した。両陛下も現地で演奏を聴くことを望まれていたという。
 ニャーニャックはオーボエの一種「ケン」や、横笛「サオ」などの楽器を用いた速いテンポが特徴。15世紀に中国から伝わった音楽を基礎とし、宮廷音楽として確立された。一方、日本の雅楽も唐代の中国の音楽の影響を受けたとされる。
 ニャーニャックは主にフエの宮廷で演奏されてきたが、1945年に阮(ぐえん)朝が滅亡したことで、奏者が離散。後のベトナム戦争が追い打ちを掛け、「忘れ去られた音楽となっていた」(徳丸教授)。
 徳丸教授は94年の国際会議で、国立フエ大学芸術学部(現フエ音楽院雅楽科)に「宮廷音楽専門コース」を設けることを提言。元奏者の講師を確保し、96年に開講に至った。卒業生の多くは現地音楽団に入り、普及活動を行っている。」
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 日越外交関係樹立45周年記念プロジェクト
 日本とベトナム
 ~きざまれた交流の軌跡をたどる~
 第1章 古代の交流
 林邑楽りんゆうがく
 林邑(チャンパ、現在の中部ベトナム)出身の僧・仏哲ぶってつによって、8世紀頃に日本に伝えられたとされる舞楽です。日本の雅楽伝統において、舞楽は大別して朝鮮半島由来の高麗こま楽の伝統(右方の舞)と、中国大陸由来の唐楽の伝統(左方の舞)に分けられますが、林邑楽は9世紀ごろまでには後者に組み込まれ、長らく宮廷や寺院の法会などで演奏されてきました。現在のベトナムの宮廷音楽との関連性は定かではありませんが、日本に現存する「林邑八楽」(8つの曲目で構成される)は、雅楽の中でもよく知られた楽曲となっています。なお、ベトナム宮廷音楽は、2009年、UNESCO無形文化遺産として登録されています。
 ここでは、古代の日本とベトナムの交流を代表するものとして、林邑楽にまつわる資料を紹介します。
東大寺要録とうだいじようろく
 12世紀頃に編纂されたもの(編者不詳)を、東大寺僧・観厳が整理・加筆して完成させた記録です。原本は現存しておらず、ここで紹介する『東大寺要録』は江戸時代の写本で、京都の公家・坊城家に伝えられたものが、明治時代に内閣文庫に寄贈されました(全3冊)。
 『東大寺要録』の第一章にあたる「本願章」には、天平8年(736)、林邑の僧・仏哲が、インド出身の婆羅門バラモン僧・菩提遷那ぼだいせんななどとともに来朝したことが記されています。菩提遷那は、東大寺大仏の開眼供養師を務めました。林邑楽を伝承したと伝えられる仏哲の事績はほとんど知られていませんが、中世に編纂された高僧伝
 『元亨釈書げんこうしゃくしょ』(1322年成立)には、慈悲の心が強く、法力に優れた僧で、海へ出て龍神と問答する様子などが描かれています。
 国立公文書館
 請求番号:192-0420
 デジタルアーカイブ
続日本紀しょくにほんぎ
 資料1の『東大寺要録』は12世紀になってから編纂されたものですが、それよりも古い歴史書として、延暦16年(797)に完成された勅撰国史続日本紀』があります。『日本書紀』の続編として、文武天皇の即位(697)から桓武天皇延暦10年(791)までの9代95年間の歴史を記しています。ここに紹介する写本は、僧侶の梵舜ぼんしゅんが慶長18(1613)年に徳川家康に献上し、紅葉山文庫におさめられたものです。
 24巻目に所収されている天平宝字7年(763)正月庚申(17日)条の記事には、淳仁天皇が五位以上の官人と外国の使節等をもてなした饗の席で、唐楽や吐羅とら楽などとともに林邑楽が奏されたとあります。これは日本の歴史書で、「林邑楽」に言及した最初の記事です。『続日本紀』の編纂時期から推して、林邑楽が少なくとも8世紀後半には日本に伝わっていたことが確かめられます。
 所属:国立公文書館
 請求番号:特084-0002
 デジタルアーカイブ
3 南郊祀におけるベトナムの宮廷楽団(20世紀初期)
 写真は、20世紀初期の南郊祀における宮廷楽団を写したものです。
 宮廷音楽(Nhã nhạc)は記念式典や歓迎式典、宮廷での宴などで演奏された、幅広い音楽と舞踊の形式を言います。阮グエン朝期、宮廷音楽は、Giao Nhạc, Miếu Nhạc等の様々なジャンルで構成されていました。
 Giao Nhạcは南郊祀(天と地、その他の重要な精霊を祀る儀式)で奏された音楽です。この祀りは、もともとは年に一度行われていましたが、成泰帝時代以降、財政的状況により、三年に一度開催されるようになりました。封建制度の下で、春に行われる最も重要な儀式であり、天下泰平、繁栄や天候の好順などが祈願されました。
 南郊壇は阮朝の国王が天に捧げものをするための場として、嘉隆帝時代の1803年、アン・ニン村に建設されました。その後、王宮の南部にあたる、現在の場所(フエ市チュオンアン区)に移設されています。
 大規模な楽団(Đại Nhạc、大楽)による演奏は、通常は南郊祀のような大礼の際に、太鼓や木管楽器、その他打楽器のような、よく知られた楽器を使って行われました。
 所属:フエ遺跡保存センター
4 タイホア(太和)宮殿前で演奏する王立楽団
 ベトナム宮廷音楽(Nhã nhạc)は、高度に芸術的価値のある、伝統的な音楽様式です。通常は、国中から選ばれた多くの才能ある演奏家によって演奏されました。ここに紹介する写真は、タイホア宮殿前で演奏する王立楽団を撮影したものです。写真に見える楽器は、太鼓や竹製の拍子木、木管楽器などです。
 タイホア宮殿は、阮朝の国王が100年以上にわたって国を支配する拠点となった、王都フエにおける最も重要な建物でした。多くの研究者が指摘するところによると、「タイホア」は、陰と陽、人と自然における至高の調和をあらわす、非常に哲学的な意味をもつと考えられています。この概念に基づき、人の生命が調和すると、宇宙における全ての関係性が平穏と繁栄にいたるのです。宮殿の建設は、1805年2月に始まり、同年の10月に完成しました。
 所属:フエ遺跡保存センター
ベトナム宮廷音楽の楽譜
 ベトナム宮廷音楽は、祭礼やベトナムと近隣諸国の宮廷の交流式典などの際に演奏される音楽形式で、ベトナム語で「Nhã nhạc」と言い、「上品な音楽」を意味します。ベトナムの宮廷音楽は15世紀頃に登場し、阮朝(1802-1945)の時代にその発展が頂点に達します。当時、行事や状況に即して礼部(儀礼を司る官庁)によって作曲された、様々な歌詞と楽譜により、宮廷音楽のジャンルは非常に豊かで多様なものとなっていました。
 ここに紹介するのは、2種類の写本からの抜粋で、左側は宮廷儀式で用いられた歌詞が書かれたもの、右は楽譜です。
 資料は、2008年に、宮廷楽師ル・フ・ティ氏よりフエ遺跡保存センターが収集し、現在は、同センターのフエ王宮伝統芸術劇場で保管されています。
 所属:フエ遺跡保存センター
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 ウィキペディア
 ベトナム雅楽ベトナム語:Nhã nhạc cung đình Huế / 雅樂宮廷化、音読み:ががく きゅうていか、英語:Vietnamese Court Music Nha Nhac)は、ベトナムの宮廷で演じられた雅楽である。
歴史
 15世紀に中国の明から伝わった音楽を基礎として、胡朝時代(1400年 - 1414年)に誕生し、黎朝時代(1428年 - 1788年)、阮朝時代(1802年 - 1945年)に宮廷儀式として確立された。
 主にフエの宮廷で演奏されてきたが、1945年に阮朝が滅亡したことで奏者が離散し、この後のベトナム戦争による破壊により、一時「忘れ去られた音楽」と呼ばれて消滅の危機に瀕したが、聖徳大学の徳丸吉彦教授をはじめとした人々の尽力で復活した。また、徳丸吉彦の提言で、1996年にフエ大学に宮廷音楽コースが設置され、2000年以降卒業生を輩出している。
 2003年11月7日の第2回「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」において傑作の宣言を受けており、無形文化遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年9月の初の登録で正式に登録された。2006年11月にフエ遺跡保存センター宮廷音楽合奏団が来日し、コンサートを行っている。
 内容
 ベトナム雅楽は、オーボエの一種「ケン」や、横笛「サオ」などの楽器を用いた速いテンポが特徴である。
 また、中国の宮廷音楽を源流としているため、日本の雅楽と姉妹関係といわれており、日本へは8世紀(奈良時代)にチャンパ王国の僧仏哲が伝えたインド系の楽舞が、林邑楽として継承されている。
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雅楽 天・地・空~千年の悠雅
ザ・ベスト 雅楽