🎑108)─9─戦時下での好戦的文化工作。戦意高揚に協力した漫画家の罪。~No.243 ㉓ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 戦争に協力した者は、戦争に勝てば英雄として称賛されるが、戦争に負ければ犯罪者として非難され人格さえ否定される。
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 昔の日本人は、戦場で人を殺す戦争犯罪を行ったが、同時に戦場で人を助けける人道貢献と平和貢献を行った。
 現代の日本人は、戦争犯罪を行わないが、人道貢献や平和貢献も行わない。
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 2022年4月15日 MicrosoftNews 文春オンライン「人気まんが家が“戦争”に協力していた? 日本が戦時下に行った「文化工作」の実態とは
 国内のみならず、海外においても人気を集め、いまや日本を代表する分野に成長した「まんが」文化。一方、戦時下において、まんがという表現技法はプロパガンダに利用されてきた歴史もある。日本が各国に向けて行ってきた文化工作とはいったいどのようなものだったのか。
 ここでは、評論家の大塚英志氏の著書『 大東亜共栄圏のクールジャパン 「協働」する文化工作 』(集英社新書)の一部を抜粋。満蒙開拓青少年義勇軍に対して行った文化工作を、豊富な資料とともに振り返る。
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 少年まんがの人気作家を、戦争協力に「動員」
 本章では戦時下におけるまんが表現の「動員」について、2人のまんが家を対比的に検証する。いずれも佐久間晃(編集部注:在満中に外地新聞や、企業の宣伝課・広報課でまんが執筆を行ってきた人物。帰国後、当時の経験を振り返った書籍『絵と文 想い出の満洲』を著した)が満洲で活動したまんが家としてその名を挙げた2人である。彼らが満洲で行ったのはまさに「文化工作」としてのまんが教育なのである。
 1人は田河水泡(1899~1989年)。1931年に開始された「のらくろ」シリーズの作者である。
 もう1人は阪本牙城(1895~1973年)。1934年に連載が始まる『タンクタンクロー』の作者である。15年戦争前期、それぞれ「少年倶楽部」「幼年倶楽部」という児童雑誌で圧倒的な人気を誇り、戦後も復刊が続いた作品である。こういった人気作家までもが戦争協力に「動員」されるのが戦時下であることはまず確認しておく。
 しかし「のらくろ」「タンクタンクロー」それ自体が戦時協力作品というわけではない。軍隊や戦争を題材としているが、ナカムラ・マンガ・ライブラリー(編集部注:かつて存在したまんが誌)がそうであったように、戦争や軍人は子供という大衆の欲求に忠実に応えたもので、阪本の「タンクロー」の主人公には戦争物と並ぶ人気ジャンルである立川文庫的な「忍者」のイメージも投影されている。
 この2人のまんが家が政治的に「動員」された国策とは、満蒙開拓青少年義勇軍であった。この点でも共通であった。
 「満蒙開拓青少年義勇軍」という国策への協力
 満蒙開拓青少年義勇軍とは、1937年、第1次近衛内閣に対し出された農村更生協会会長・石黒忠篤、満洲移住協会理事長・大蔵公望、同理事・橋本伝左衛門、那須皓、加藤完治、大日本連合青年団理事長・香坂昌康の6名による「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書」を受ける形で定められた「満洲青年移民実施要綱」に基づくものだ。
 翌38年から募集が開始され、数え年16歳から19歳の男子を対象とする新たな移民政策である。日中戦争への兵士の大量動員と景気拡大に伴う労働力の需要拡大によって成人の移民確保が難しくなっていたからだとその理由が説明されることが多い。
 しかし、杜撰な移民計画に加え、抗日パルチザンとの武装衝突、妻子を思っての屯懇病と呼ばれた重篤なホームシックの多発などで、成人移民が内在的な問題を抱えていたことから、満洲移民の基礎を築く一方、張作霖爆殺事件の立案・実行者の1人でもある満洲国軍事顧問でもあった東宮鉄男は「貧困者ニシテ活路ヲ満州ニ」求めざるを得ず、かつ、「純真ノ年少者」による開拓団への政策転換の必要性を身も蓋もなく説いた(上笙一郎『満蒙開拓青少年義勇軍中公新書、1973年)。
 「のらくろ」読者の少年たちに向けて
 1938年当時16歳というと、「のらくろ」の連載開始時である31年の時点で9歳、「タンクタンクロー」の連載開始の34年時点で12歳、つまり義勇兵は「のらくろ」「タンクロー」読者と重なりあってくる。それが両者が「動員」された理由とまずは考えられる。この2人の人気まんが家は自分たちの読者を「外地」に動員するための戦争協力を求められたのだ。
 そのような田河水泡の起用がまさに「国策」であったことは、清水久直『満蒙開拓青少年義勇軍概要』(明治図書、1941年)の以下の記述からまず確認できる。
 〈一〇、義勇軍の漫画宣伝・小学児童のために
 小学児童の義勇軍に対する関心は最近著るしく昂まり、義勇軍の現地生活状況を知らんとする努力が払はれるに至つたので、拓務省では小学児童の最も理解し易い文、絵で現地報告書を作製すべく漫画家の田河水泡先生(本名高見澤水車)に交渉中のところ、この程承諾を得たので、本月五日から一ケ月に亘つて現地に行つて戴くことになりました。田河先生は先づ昌園訓練所に行き、それからハルピン訓練所を始め各地の大小訓練所を訪問され、冬の義勇軍と訓練所の正月風景を得意の文と漫画に収め一月十日頃帰京される予定。〉
 田河の本名は「仲太郎」であり、「水車」というのは誤記であろう。同書は、義勇軍に志願した青少年が2ヶ月から4ヶ月の訓練を内地で受ける茨城県下の内原訓練所の記録として書かれたものだが、田河への協力要請が「小学児童」向け、つまり「のらくろ」の読者向けになされたことがわかる。
 田河水泡義勇軍政策との関わり
 そもそも田河は、満洲と縁がなかったわけではない。大正新興美術運動に参画する以前、小学校卒業後、職を転々とした後、1919年に徴兵、21年満洲吉林省に配属後、22年、除隊している。
 義勇軍政策に関わっての渡満はこれよりずっと後、まんが家として名を成した後で、満蒙開拓青少年義勇軍生活指導員として各地の訓練所を回ったとされる。自叙伝では1938年6月から41年まで拓務省嘱託として3回、渡満していると回想される(田河水泡、高見澤潤子『のらくろ一代記―田河水泡自叙伝』講談社、1991年)。
 先の「概要」には、皇紀2600年に合わせて1940年後半から「報告書」作成のため渡満したとあるのは、3回目の渡満のことであろう。
 田河の義勇軍政策への関与は、おおむね以下の3つの形で確認できる。
 (1)勧誘マニュアルの冊子『あなたも義勇軍になれます』の執筆、および義勇兵への参加過程を、順を追って描くまんが「義勇軍の義坊」シリーズの執筆
 (2)外地訓練所での義勇兵へのまんがの創作指導
 (3)「のらくろ」退役後の「大陸」での活躍を描くシリーズの執筆
 これらが1939年から41年の期間中、並行して行われているのである。
 連載中止の理由は、中国人差別表現と紙不足?
 無論、「のらくろ」の戦時協力に関しては、同情的な見方もある。日中戦争を境に「ごっこ」であった戦争が中国大陸でのリアルな戦争へと世界観の枠組みが変更され、「爆弾三勇士」をモチーフにした挿話が描かれるなど戦時下の流行に敏感である。しかし、「少年倶楽部」1941年10月号をもって、情報局からの指導で連載中止(9月号は休載)となったことで、まんが史では強く批難はされていない。
 この執筆「中止」の直接的な理由は田河の義兄で同居したこともあった小林秀雄が回想するように、中国人を豚の姿で描いたことにある(小林秀雄「漫画」『考えるヒント』文藝春秋、1974年)。これは「示達」の「皇軍ノ勇猛果敢ナルコトヲ強調スルノ余リ支那兵ヲ非常識ニ戯画化」「支那人ヲ侮辱スル」表現を禁じた「事変記事ノ扱ヒ方」の項目に抵触したからだと思われる。中国への差別的表現を禁じる「示達」が思いがけない形でまんが家への圧力として機能したのである。
 一方では、出版用紙の統制として、前号実績で次号の部数の決まる仕組みがあったため、紙の配給を減らすには雑誌を部数減させる人気作品の打ち切りが求められたと、当人は回想する(田河・高見沢、前掲書)。直接的な理由はどうあれ、「のらくろ」休載自体が一種の「見せしめ」であり、まんが家や出版界への同調圧力づくりであったと考えるのが妥当だろう。しかし、国策に協力した「義勇軍の義坊」シリーズも「のらくろ」と同じタイミングで連載が中止となっていて、もう少し田河執筆停止問題は検証が必要である。
 パンフレット『あなたも義勇軍になれます』
 さて、田河の義勇軍政策への「協力」は、すでに確認したように、その読者が義勇兵応募年齢に差しかかるタイミングでなされた点で巧妙である。つまり田河はまんが表現を自らの読者を書店に走らせる「動員」でなく、戦場への「動員」のために用いることを求められたのである。
 そのために田河はまず、パンフレット『あなたも義勇軍になれます』を1940年に刊行している。発行元は拓務省拓北局。これとは別に田河の名はなく、ただ発行元に「拓務省拓務局」とあるバージョンもある。
 内容は「満洲開拓の意義」をまず説き、「義勇兵になるまで」に始まり、応募から茨城県の内原訓練所での2ヶ月の訓練、現地での1年の大訓練所、2年の小訓練所を経て、小訓練所からそのまま「開拓団」へと移行するまでが描かれる16ページの冊子である(図15)。入植するまでの道筋が平易に説かれている。
 © 文春オンライン 図15 田河水泡義勇兵勧誘まんが(拓務省拓務局『あなたも義勇軍になれます』〈著者表記・奥付なし〉)
 義勇兵の少年を描いた「義坊」シリーズ
 これと並行するのが、満洲移住協会刊行の「新満洲」(1941年1月より「開拓」に誌名変更)誌上の連載まんが「義坊」シリーズである。義坊の「義」は義勇軍から1文字をとったものであるのはいうまでもない。冊子では16ページで描かれた内容が、1940年4月号から1941年12月号、つまり先に記したように「のらくろ」打ち切りとほぼ同じタイミングまで連載まんがとして続く。
 内容として目を引くのが、最初の5話分が「親父訓練」(1話目のみ「親父教育」)と題され、義坊が父親に義勇兵になりたいと申し出、葛藤する父親を説得するさまが中心的に描かれることだ(図16)。
 内地で工員になれと言う父に「工場に3年勤めるとどうなるの」と義坊は問う。すると父が「其時次第でどうなるか分るものか」と答え、それを義坊は「義勇軍は3年たつと10町歩の地主様だよ」と説得する。無論、それは自ら開墾せねばならない自然環境の厳しさが前提にあるが、その現実は説かれない。こういうやりとりの果て最後に「家の為より国家の為に行くのが当り前だ」と父が得心するまでを描く、親の説得のマニュアルまんがになっているのが興味深い。
 義坊が親許を離れてからは、渡満までの訓練、開拓村での生活を追う。「のらくろ」が孤児の仔犬軍隊で出世する一種の成長する出世譚であったのとパラレルの、義勇隊における少年の自立という教養小説的なストーリーになってはいる。
 「のらくろ」で田河がまんがに導入したキャラクターの社会システムに沿った「出世」という手法が、青少年義勇軍というプロパガンダの内容に有効であったわけだ。その点で「のらくろ」の読者の心を打つものが相応にあったのではないか。しかしその少年と犬の成長譚は両作に前後して打ち切られ、キャラクターの成熟は中断されたままとなっている。
 まんがの創作教育で義勇軍を慰問
 2つめの田河の義勇軍政策への協力が、外地訓練所におけるまんがの創作教育である。そのことは田河の自伝にも記載されている。
 〈昭和13(1938)年から16(1941)年にかけて、田河は3回、満州の各地の開拓地をまわって義勇軍を慰問した。1回1ヶ月くらい留守であった。
 満蒙開拓青少年義勇軍というのは、日本全国の貧しい農家の次男三男を募集し、満州の開拓地におくりこみ訓練する、当時の国策事業であった。15、6歳の少年が中心で、約100人が1個中隊になって1か所に集まり、アンペラ(アンペラという植物でつくったむしろ)屋根に泥壁の家を自分たちで建てて、周囲の原野を開拓するのである。辛い仕事であった。電気もなくランプで生活し、寒いときは農業どころか何もすることはないし、娯楽などまったくなく、なぜこんなことをしなければならないのかと、田河もしみじみと考えるほどみじめな状態であった。(田河・高見澤、前掲書)〉
 元義勇兵の心に刻まれた田河先生の思い出
 田河の指導を受けた証言はいくつか残っていて、例えば戦後、三井三池鉱業所で働きながら組合の機関紙などにまんがを投稿した甘木太郎が訓練所時代、田河から指導を受けたとしている。大牟田市立図書館HP「郷土ゆかりの漫画家甘木太郎」の「経歴・プロフィール」には「義勇隊の嘱託、『のらくろ』の漫画で有名な田河水泡氏に版画の指導を受ける」とある。
 満蒙開拓青少年義勇軍嫩江大訓練所第17中隊に所属した大金次男は、まんが形式でその指導の様子を回想している(図17)。
 言及したまんがの作者は少年たちがまんが家に野心を示すというのは、一種の「笑い」であるが、前章で示したまんが通信教育の広告コピーが「支那満洲に国内に漫画家は大多忙なり 出でよ! 新進漫画家!」であることを考えるとリアルでもある。
 その大金の描き残した田河の授業はコンパスや定規を駆使したというものだった。授業の様子は田河の妻、高見澤潤子によっても回想される。
 〈田河は、拓務省から各地の訓練所にコンパスや彫刻刀をたくさんおくってもらい、コンパスを使って、円の中に三角、四角、五角などをいれる用器画を少年たちに教えた。みなは夢中で幾何学模様を描いて泥壁に貼りつけたり、むしろの上に貼ったりして喜んだ。(田河・高見澤、前掲書)〉
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 戦争中に『のらくろ』が果たした“知られざる役割”…“まんが”は戦争にどのように利用されたのか へ続く
 (大塚 英志)」
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 明治期から昭和前期までの日本の戦争は、正当性のある積極的自衛戦争であって領土拡大目的の帝国主義侵略戦争ではなかった、つまり戦時国際法に違反する戦争犯罪ではなかあった。
 如何に自衛行使とはいえ、宣戦布告と時を同じくして先に攻撃した事は平和に対する罪にあたるとして、東条英機A級戦犯達は見せしめのリンチ的縛り首で処刑された。
 軍国日本が戦争した相手とは、日本よりも国力(領土・人口、経済力・軍事力)が大きな国であって、日本より小さな国・弱い国ではなかった。
 朝鮮を併合したのは、朝鮮が幾度も日本を軍事侵略しようとしていた大国(清国=中国、ロシア)に味方し協力して日本の安全・生存を脅かしていたからである。
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 歴史的事実として、朝鮮人は中国人やロシア人と同様に友・友人、親友、戦友ではなくハッキリした敵であった。
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 近代的軍国日本の戦争とは、数千年前の弥生時代古墳時代からの天皇を中心とした国體を死守する為の積極的自衛戦争であった。
 国體には、数万年前の石器時代縄文時代からの原始的民族神話が深層に流れている。
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 レーニンは、世界人民革命戦略から、中国共産党日本共産党など極東アジア共産主義者に対して、日本とアメリカを戦争させ世界戦争に拡大し、西洋列強の富と力の源であるアジアの植民地を解放するように示唆した。
 つまり、軍国日本が戦った日中戦争や太平洋戦争はレーニンが仕組んだ謀略であった。
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 昭和6(1931)年9月18日 満州事変。
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 昭和7(1932)年 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を惨殺して大虐殺を伴うロシアのような共産主義暴力革命を起こすべく活動を本格化させた。
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 スターリン日露戦争で屈辱的な敗北を喫したのは、日本に天皇制があったからだ。これを打倒しなければ、日本はいつまでたっても極東においてロシアの脅威になる。権力の中枢である天皇制に何としても打撃を与えなければならない。日本共産党の任務はそこにある」
 イギリス、イタリア、ベルギーなど西洋諸国の各国の共産党は、自国の王室を人民の敵とは認めず、それ故に一度も「王室打倒」とは叫ばなかったし、ソ連・国際共産主義勢力も命じなかったし求めなかった。
 ロシア人理論家のニコライ・ブハーリンスターリンの意向を受けて、日本共産党・日本人共産主義者マルクス主義者らに送られる書簡に「天皇打倒」を書き加え、同時に各国の全ての共産党共産主義者にも同様の文言を送った。
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 三十二年テーゼ
 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 昭和8(1933)年頃から、日本人の共産主義者社会主義者から大量の転向が続出し、日本共産党治安維持法による弾圧で壊滅状態に追い込まれ、過激分子は地下に潜って反天皇反民族反日運動を続けた。
 転向を拒否した日本共産党幹部は、逮捕されて収監されるか、中国に亡命しソ連アメリカの支援を受けた。
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 日本人共産主義者を庇っていたのが、敵日の中国共産党人民解放軍(現代の中国軍)であった。
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 日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為に狙っていた。
 日本人共産主義者とは、反天皇反民族反日本であり反宗教無神論である。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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