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満州シンジケートの主要メンバーとは、弐キ参スケ(にキさんスケ、2キ3スケ)である。
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日本陸軍は、昭和天皇の8月15日お言葉とポツダム宣言を無視して戦争を続ける事でソ連軍の北海道侵略を食い止めた。
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2022年10月30日 産経新聞「書評 露侵略の研究に学べ 『〈復刻新版〉陸軍中将 樋口季一郎回想録』樋口季一郎著
© 産経新聞 『〈復刻新版〉陸軍中将 樋口季一郎回想録』
ポツダム宣言受諾後、千島列島北東端・占守(しゅむしゅ)島での自衛戦を決断し、ソ連の北海道侵攻を阻止した樋口季一郎陸軍中将。第二次大戦直前、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたソ連・満州国境のユダヤ難民を満州国に受け入れ、脱出ルートを開いたことでも知られる。その没後に出版された回想録に、新資料を加えて復刻したのが本書だ。
ユダヤ難民受け入れは、リトアニアで杉原千畝領事代理が「命のビザ」を発給する約2年前の1938年。以来「ヒグチルート」で救出された難民を、樋口中将は自筆原稿に「何千人」と書いた。
ところが回想録の初版では「2万人」とされ、議論を呼んでいた。亡くなったときのある新聞の追悼記事「ユダヤ人二万に陰の恩人」が定説となった影響とみられ、本書では訂正の上、自筆原稿を収録。しかし現在、イスラエル中国在住者協会が「2万人」としており、ロシア系ユダヤ人らも加えると2万人説もあながち否定できないという。
難民受け入れ当時、樋口中将が務めていたハルビン特務機関長は対ソ諜報(インテリジェンス)の総元締だ。難民からソ連国内の機密情報を得たとすれば、救出には人道的理由に加え、諜報目的もあった可能性がある。
それ以前のポーランド駐在武官時代にウクライナなどを視察し、少数民族を支配する大ロシア主義に憤り、ポーランド情報部との密接な諜報協力の布石を打った。ハルビン後の参謀本部第二部長時代には、バルト海沿岸の対ソ諜報網拡充を図っていた。
圧巻は本書収録の往復書簡「第三、対露戦備」で、ソ連の千島侵略を、公式の防衛方針は対米第1、対ソ第2としながら、本心は「ソ連は必ず来る」と確信していたことだ。諜報に長(た)けた陸軍きってのソ連通として「ロシア独自の侵略観」を学び、スターリンの北海道侵攻を見抜き、日本を分断から守ったといえる。
ウクライナで傍若無人な侵攻が続く今、樋口中将の「ロシア侵略研究」に学びたい。(啓文社書房・4950円)
評・岡部伸(論説委員)
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一般社団法人 樋口季一郎中将顕彰会 法人情報
【協力した、まさかの大物 ユダヤ難民を運んだアジア号】
樋口季一郎中将はユダヤ難民救済のために、満州国に入国をみとめさせました。この時の上官が、当時関東軍参謀長、のちに首相になる東條英機でした。
次に特別列車をしたててユダヤ人を運ぼうとしました。その数は2万人といわれます。南満州鉄道の総裁は松岡洋右。かつて国際連盟脱退の演説をし、この後、外務大臣となって日独伊三国同盟、日ソ中立条約を締結します。
樋口季一郎中将に協力したこの二人は、戦後A級戦犯として汚名を着せられ命を落としましたが、実は、自らユダヤ人を救う政治決断をしているのです。
これに比べ、アメリカ大統領のルーズベルトもトルーマンも、イギリスのチャーチル首相も反ユダヤ政策をとってユダヤ難民の入国を拒否しています。
戦後、戦争加害の責任を一方的に押し付け、日本人にまんまと罪悪感を植え付けたGHQにとって、もっとも知られたくない事実のひとつでしょう。
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陸軍中将・樋口季一郎の知られざる功績──2万人のユダヤ人を救った武士道精神
2022年02月12日
ユダヤ人難民2万人の救出をはじめ、奇跡と呼ばれたキスカ島撤退作戦、国家の分断を防いだ占守島の戦いなど、日本近代史における数々の不滅の功績を残した樋口季一郎中将。しかし、その名は現代の日本人にはほとんど知られていません。樋口中将の孫として祖父の実像を広く発信している明治大学大学院名誉教授の樋口隆一さんと、日本の偉人・歴史の真実を子供たちに語り伝えてきた服部剛さんのお二人に、樋口中将が貫いた「正義」について、貴重なエピソードを交えて語り合っていただきました。
東条英機を納得させた「義」の決断
(本記事は月刊『致知』2020年5月号 特集「先達に学ぶ」より一部を抜粋したものです)
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歴史おもしろデータ [歴史街道]
【総力特集】ユダヤ人救出、キスカ撤退、占守の戦い…奇跡の将軍・樋口季一郎 あくまで「人道」を貫く
COLUMN 1 樋口が記した「オトポール」事件
樋口が記した「オトポール」事件
樋口は、オトポールでのユダヤ人難民救出事件について、どのように考えていたのか。その回想録(『アッツ、キスカ・軍司令官の回想録』芙蓉書房、1971年――1999年に同社より『陸軍中将樋口季一郎回想録』に改題再刊)をひもといてみよう。
まず、ドイツからの抗議に対して、いかなる態度を示したのか。樋口は、次のように主張したと記している。
「私はドイツの国策が、自国内部に留まる限り、何ら批判せぬであろう。またすることは失当である。しかし自国の問題を自国のみで解決し得ず、他国に迷惑を及ぼす場合は、当然迷惑を受けた国家または国民の批判の対象となるべきである。
もしドイツの国策なるものが、オトポールにおいて被追放ユダヤ民族を進退両難に陥れることにあったとすれば、それは恐るべき人道上の敵ともいうべき国策である。そして、日満両国が、かかる非人道的ドイツ国策に協力すべきものであるとすれば、これまた驚くべき問題である。
私は日独間の国交の親善を希望するが、日本はドイツの属国でなく、満州国また日本の属国にあらざるを信ずるが故に、私の私的忠告による満州国外交の正当なる働きに関連し、私を追及するドイツ、日本外務省、日本陸軍省の態度に大なる疑問を持つものである」
当時、関東軍参謀長であった東條英機は樋口の主張に同意し、それを是として陸軍省に申し送った。これにより、一連の抗議はうやむやになる。樋口はこの東條の姿勢を率直に評価する。
「私は、東條の大東亜戦争突入に対する軽率については後に大々的に弾劾する積りであるが、『敗戦』の故に彼の長所の全部を抹殺することには賛成しないものであり、この場合彼は、正当なる考慮に出たものとして敬意を表するものである」
では、なぜ樋口は自らの進退を懸けてまで、ユダヤ人難民救出を決断したのか。そこにはやはり樋口の多彩な海外経験が大きな影響を与えていた。樋口は友である秦彦三郎(最終階級は中将)とソ連を旅行した折の経験を紹介する。
「かつて私が、秦と共に南ロシア、コーカサスを旅行して、チフリスに到った時、ある玩具店の老主人(ユダヤ人)が、私共の日本人たることを知るや襟を正して、『私は日本天皇こそ、我らの待望するメッシアでないかと思う。何故なら日本人ほど人種的偏見のない民族はなく、日本天皇はまたその国内において階級的に何らの偏見を持たぬと聴いているから』というのであった。
これは一例であるが、私の過去ユダヤ人との交友において一斉に彼らの私を尊敬する理由が、そこにあったことを知るのであり、少なくも、日本国乃至日本人として排ユダヤ主義を奉ずる何ら理由なきことと信ずるものである」
ゴールデンブックに自分の名前が刻まれたことについて、樋口は次のような本心を明かしている。
「(名前を)彫入される名誉に値するや否や、それは知らない。ただ日本人たるの矜持において、またその性情においてヒットラーのエゴイズムが私に認容されないだけであった」
「日本人たるの矜持」というひと言に、人道を重んじることにこそ日本人としての誇りがあるという、樋口の胸の奥の熱い志が感じられないだろうか。
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ウィキペディア
弐キ参スケ(にキさんスケ、2キ3スケ)は、満州国に強い影響力を有した軍・財・官の5人の実力者のことである。
メンバー
以下の5人の実力者を指す。「弐キ参スケ」は彼らの名前の末尾からつけられた。
・東條英機(とうじょう ひでキ、在満期間:1935年 - 1938年、離満前役職:関東軍参謀長)
・星野直樹(ほしの なおキ、在満期間:1932年 - 1940年、離満前役職:国務院総務長官)
・鮎川義介(あいかわ よしスケ、在満期間:1937年 - 1942年、満業(満州重工業開発株式会社)社長)
・岸信介(きし のぶスケ、在満期間:1936年 - 1939年、離満前役職:総務庁次長)
・松岡洋右(まつおか ようスケ、在満期間:1921年 - 1930年、1935年 - 1939年、離満前役職:満鉄総裁)
概要
第二次世界大戦終結後、5人ともA級戦犯容疑者として逮捕された。鮎川・岸の2人は不起訴となったが、東條・星野・松岡の3人は起訴された。東京裁判において、松岡は公判中に病死し、東條には死刑、星野には終身刑の判決が下った(星野は後に釈放)。
「弐キ参スケ」は、当時の満州国での実力者を並べ称したものであり、彼ら全員に同盟関係があったというわけではない。岸は東條内閣の閣僚となったが、倒閣工作を行い、閣内不一致で東條内閣を退陣に追い込んでいる。
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数万人のポーランド・ユダヤ人難民を助けた、樋口季一郎と東條英機、松岡洋右ら満州シンジケートの真の目的は人道からではなくユダヤ系国際金融資本家を利用する事であった。
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10月31日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「終戦後、北海道はロシア領になっていたかもしれない? 窮地を救った「知られざる英雄」とは
ユダヤ人の入国を認めさせた「英雄」
ポーランド駐在時代、各国駐在武官とともに(前列右端)(写真提供・一般社団法人樋口季一郎中将顕彰会)
去る10月11日、兵庫・淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神宮に正装した紳士淑女が集った。とある「英雄」の銅像が完成し、その除幕式が行われたのだ。親日家として知られるアメリカの政治学者ロバート・D・エルドリッヂ博士や、サンマリノ共和国のマンリオ・カデロ駐日大使の姿も。海外でも尊敬されている日本の“偉人”だというが、日本人の多くはその名を知らない。
【写真を見る】満州ではユダヤ人入国にも尽力した樋口中将
しかし、北海道がソ連に占領されるのを防いだ英雄だと聞けばそうもいかないのではないだろうか。
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「生前、祖父は戦争の話はほとんどしませんでした」と語るのは、バッハの研究で知られる音楽学者で、明治学院大学名誉教授の樋口隆一氏(76)だ。
淡路島で生まれた彼の祖父、樋口季一郎は、陸軍の情報将校としてロシア語を学び、ポーランドや満洲などに駐在。終戦時の階級は中将で、北海道・樺太・千島を管轄する第5方面軍司令官だった。
1938年、ナチスの迫害からシベリア鉄道で満洲に逃れてきたユダヤ人たちがいた。現地当局はドイツとの関係を考慮して入国を拒否するが、ハルビン特務機関長だった樋口が「これは人道問題だ」と主張しユダヤ人の入境を認めさせた。後に〈ヒグチ・ルート〉と呼ばれるこの脱出路により、最大2万人のユダヤ人が命を救われたといわれる。が、樋口が英雄と呼ばれる理由はそれだけではない。
「戦わなければロシア領にされていた」
「祖父は、北海道をソ連から守ったのです」(隆一氏)
日本が降伏を表明した後の45年8月17日、千島列島の最北端・占守(しゅむしゅ)島にソ連軍が上陸。日ソ中立条約に違反した卑劣な侵略行為を前に、樋口司令官は「自衛のため断固反撃せよ」と命じる。戦史に詳しい陸上自衛隊OBいわく、
「占守島には満洲から移駐した戦車第11連隊をはじめ、精強な部隊が残っていた。彼らの徹底抗戦に手を焼いたソ連軍は、とうとう北海道の占領を諦めました」
樋口は70年に82歳で亡くなった。ユダヤ人を救った日本人といえば、駐リトアニア領事代理だった杉原千畝(ちうね)が有名だが、樋口の名は一般にはあまり知られていない。先の陸自OBは、
「杉原さんは外交官ですが、樋口中将は軍人。敗戦国日本では“軍人=悪人”でしたから」と嘆く。
その風潮も、今後は少し変わるかもしれない。隆一氏が語る。
「占守島で戦わなければ、北海道は今のウクライナのように蹂躙(じゅうりん)され、ロシア領にされていたはず」
樋口司令官ら軍人たちの必死の戦いがなければ、北海道がソ連の領土にされていた可能性は十分あった。そのことは、これを機に日本人の多くが知っておいてよい歴史だろう。
日本で軍服姿の軍人の全身像が建立されるのは、戦後初だという。
撮影・福田正紀
「週刊新潮」2022年10月27日号 掲載
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