🌏41)─4・B─北の国防神社である小樽龍宮神社の祭神となる旧逆臣の榎本武揚。明治9年。〜No.133 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の近代化とは、江戸時代後期からのロシアによる軍事侵略から日本を守る為の富国強兵・殖産興業・近代教育そして国家神道による軍国主義化であった。
 小さな国である日本の国防は、民族全員(帰化人を含む)による一億総玉砕の総力戦として、天皇の宗教力、武士・軍人の軍事力、商人・財界人・富裕層の経済力による三本足の鼎(てい)戦略であった。それ故に、日本人は天皇を要(かなめ)として護っていた、それが「国體護持」である。
 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
 日本が大陸で戦った戦争は、大軍で侵略してくる敵を海の外で撃破するという専守防衛の積極的自衛戦争であった。
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 軍国日本の戦争とは、侵略者に対する正当な権利として「降り懸かる火の粉を払った」までである。
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 中世キリスト教会・イエズス会伝道所群と白人キリスト教徒商人は、日本に対する宗教侵略として、異教徒日本人をアフリカ人同様に世界に輸出し、天皇神話国家日本をキリシタンによるキリスト教国に造り替えようとした。
 明治新政府は、キリスト教の宗教侵略から天皇・国・民族を護る為に非宗教の国家神道を創設し靖国神社を創建した。
 世界、戦勝国連合(国連)と国際世論は、日本の全ての軍事行動を戦争犯罪として否定し断罪している。
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2018-12-09
🌏10)─3─旧幕府の賊軍・蝦夷共和国はロシアに支援を求めた。~No.25No.26No.27・ @ 
2019-01-19
🌏10)─4─奥羽諸藩は「北の防人」として北方領土四島・北海道をロシアの侵略から守っていた。~No.28No.29No.30・ @ 
2017-07-09
🌏14)─1─戊辰戦争。奥羽越列藩による共和国独立とプロイセン軍事同盟構想。廃仏毀釈。1868年~No.46・ @ 
2021-09-25
🌏41)─4・A─札幌神社(北海道神社)は天皇と神国日本を護る北に設けられた「神の盾」である。〜No.133 
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 日本とロシアの間に存在していたのがアイヌと朝鮮で、反天皇反日アイヌ人と朝鮮人がロシアに味方して日本を攻撃する危険があった。
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 2024年7月20日 読売新聞「榎本武揚、龍宮神社の祭神へ「機は熟した」…麻生太郎氏は参拝1か月後に首相就任の「開運・出世」神社
 境内に榎本武揚銅像(左)が立つ龍宮神社(11日、北海道小樽市で)
 © 読売新聞 提供
 榎本は箱館戦争(1868~69年)に旧幕府軍の総裁として戦い敗北。その後に赦免され、北海道開拓使に任官した。1876年、ロシアの脅威から国土を守るためとして神社を創建。新政府総裁を務めた有栖川宮 熾仁(たるひと) 親王が後に「龍宮神社」と命名した。
 以来、地元では市民らのあつい信仰を集めてきた。2008年に麻生太郎自民党幹事長(当時)が参拝し、その1か月後に首相に就任したことから、開運・出世に御利益があるとして全国的に注目された。
 本間公祐宮司(57)は「榎本武揚公は北海道開拓の基礎を築いた人物。多くの方々の寄付で境内に銅像も建ち、機は熟した」と話す。
 神社本庁によると、幕末・明治期の偉人がまつられている神社は、山口県松陰神社吉田松陰)や東京都の東郷神社東郷平八郎)など多数あるが、創始者自身がまつられる例は「かなり珍しい」という。
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 小樽龍宮神社
 小樽情報
 小樽の神社をご紹介!神社の歴史と地元に愛されるお祭り
 2024年06月10日
 小樽は古くから港町として栄えていたため、水神・海神や商売繁盛の神を祀(まつ)る神社が多くあります。
 18世紀末から19世紀初頭には本州からの農業移民も多くみられ、そのために農業神を祀る稲荷神社も多く建立されました。
 今回は小樽の有名な神社とその歴史についてご紹介します。
 ※例大祭やお祭りの規模や内容は、開催年や天候によって異なる場合がございますので、事前に最新情報をご確認の上、お出かけください。
 小樽で有名な神社と言えば「小樽住吉神社
 小樽住吉神社は、1968年に厳島神社に仮奉斎された後、1881年に現在地に社殿が造営された、鎮座150年以上の由緒ある神社です。
 小樽の氏神様で、小樽の神社と言えば「小樽住吉神社」と必ず名前が出てくるほど有名です。
 御祭神は底筒男神(そこつつのおのかみ)、中筒男神(なかつつのおのかみ)、表筒男神(うわつつのおのかみ)の通称「住吉三神」と、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)です。
 これらの神様は古事記日本書紀によると、伊弉諾尊(いざなぎ)が禊祓い(みそぎばらい)した際に尊の御体から流れ落ちた水から生まれた海の神、航海安全の神、和歌の神、安産の神とされており、海の神様として港町に深く根付いた神社です。
 また、木造の社務所として北海道内最大級の小樽住吉神社社務所は、1994年に小樽市指定歴史的建造物に指定されました。
 7月14(日)~16日(火)に行われる住吉神社例大祭は小樽三大祭りの一つに数えられ、境内に軒を連ねる屋台や出店はもちろん、「百貫神輿御幸渡御(ひゃっかんみこしぎょこうとぎょ)」や「太々神楽だいだいかぐら)奉納」などで大いに盛り上がります。
 例大祭期間中は手水舎の花手水や副参道鳥居49基のライトアップ、お神輿と馬車の夜間展示を行っており、普段とは違った景観をお楽しみいただけます。
 小樽住吉神社
 北海道小樽市住ノ江2丁目5-1
 http://www.otarusumiyoshijinja.or.jp
 小樽市指定歴史的建造物の「水天宮」
 1859年(安政6年)に現境内に祀られた、創祀150年を超える神社です。
 現在の社殿は1919年(大正8年)に建てられ、本殿・中殿・拝殿からなる権現造りの社殿となっています。
 1994年に水天宮本殿・拝殿が小樽市指定歴史的建造物に認定されました。
 境内からは小樽港を一望でき、春には桜の名所としても小樽市民に愛されています。
 また、境内には石川啄木など小樽にゆかりのある歌人・句人の石碑もあります。
 水神にして豊穣をもたらす農耕神の弥津波能売神(みづはのめのかみ)、五穀をつかさどる食物の神である保食神(うけもちのかみ)、日本国土を作った国生みの神である伊邪那岐神(いざなぎのかみ)、伊邪那美神(いざなみのかみ)が祀られています。
 6月14(金)~16日(日)に開催される水天宮の例大祭住吉神社例大祭と並び、「小樽三大祭り」の一つとなっています。
 参道から花銀通り過ぎまで露店や屋台で賑わい、すぐ近くにある花園銀座商店街ではお祭りに合わせ「水天市」というイベントを開催し町ぐるみで例大祭を盛り上げます。
 水天宮
 北海道小樽市相生町3-1
 海の神である和田都美三神を祀る「龍宮神社」
 榎本武揚(えのもと たけあき)が、遠祖である桓武天皇を祀ったのを始まりとして1876年(明治9年)の国有地払い下げの折に創建された神社です。
 海の神である底津和田都美神(そこつわだつみのかみ)、中津和田都美神(なかつわだつみのかみ)、上津和田都美神(うわつわだつみのかみ)の和田都美三神を主祭神として祀っています。
 他にも農耕神である豊受姫命(とようけびめのみこと)、大物主神(おおものぬしのかみ)、日本書紀古事記に伝わる皇族の大毘古命(おおびこのみこと)なども祭祀しています。
 2010年には麻生太郎氏が龍宮神社を参拝され、その1ヵ月後に内閣総理大臣に任命されたことから開運・出世のご利益があると全国に名が知れ渡りました。
 6月20(木)~22日(土)に開催される龍宮神社の例大祭も、小樽三大祭りの一つとして小樽市民に親しまれています。
 12年に一度の辰年である2024年は龍宮神社に祀られている龍の神様の力が最も強くなる年と言われています。
 2年後には創建150年を迎える龍宮神社は龍年を記念し、今年の例大祭榎本武揚が隕石から造らせた霊剣「流星刀」を6月22日(土)午前10時~午後3時の間に一般公開するそうです。
 流星刀が龍宮神社で一般公開されるのは4年ぶり2回目と非常に貴重な機会となります。
 龍宮神社
 北海道小樽市小樽市稲穂3丁目22-11
 http://dragonjinja.ec-net.jp/
 励ましの坂を上って参拝「小樽稲荷神社」
 小樽稲荷神社は手宮公園横、通称「励ましの坂」と呼ばれる坂道の上に位置する神社です。
 坂の多い小樽市の中でも「励ましの坂」は最大斜度24度とかなりの急こう配の坂です。
 1690年(元禄3年)の創祀後、二度の移転を経て現在の場所へ建てられました。
 農耕神である保食神(うけもちのかみ)と大物主大神(おおものぬしのおおかみ)、学問の神と言われる菅原道真公を祀っています。
 稲荷神社は総本宮伏見稲荷大社京都府)に置き、分社は全国に約30,000社あると言われています。
 古くから庶民には親しみをこめて「お稲荷さん」と呼ばれ、信仰を集めてきました。
 小樽稲荷神社では毎年6月に例大祭「てみやまつり」が行われ、たくさんの屋台をはじめ餅まきや百人みこしなどで盛り上がります。
 小樽稲荷神社
 北海道小樽市末広町38-1
 小樽には海神・農耕神を祀る神社がたくさんあります
 古くから港町として栄えた小樽には海の神様を祀る神社がたくさんあります。
 また、山間部や郊外では小樽に農耕が根付くよう、農耕神も祀られています。
 どれも長い歴史を持ち、一部の社殿は小樽市指定歴史的建造物に認定されていますので、神事に興味がない方でも一訪の価値あり。
 小樽市民に古くから愛されるパワースポットをぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。
 ※例大祭やお祭りの規模や内容が大幅に変更となっている場合がございますので、事前に最新情報をご確認の上、お出かけください。
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 小樽百貨
 龍宮神社
 ホーム | 小樽観光ポータル | 小樽観光スポット
 小樽駅から余市方面へ5分ほど歩き、鳥居をくぐって坂をのぼると龍宮神社へたどり着きます。龍宮神社は北海道開拓使榎本武揚がつくった神社です。
 龍宮神社
 彼は徳川幕府に仕え、幕末の箱舘戦争で土方歳三と共に戦い、敗戦後は箱館戦争の首謀者として一旦は投獄されましたが、明治政府に才能を買われ、北海道の開拓使に登用されました。
 龍宮神社
 北海道の開拓に尽力する中、彼は生活に苦しんでいる仲間達に活躍の場を与え、北海道を日本の貿易や外交の中心地にしていこうと構想します。
そして素晴らしい港がある小樽に注目します。
 1869年、国有地の払い下げで、現在の龍宮神社がある稲穂町一帯の広い土地を手に入れ、開発にあたります。
 まだ何もないこの土地に、他から移り住んできた人々の心の拠り所を作ろうと、1876年に龍宮神社を建立します。
 海を望む高台にあり、ご神木のスズカケノキが訪れる人を迎えるます。
 社殿には献額された榎本武揚直筆の書が飾られています。
 鎮座・七柱の神をお祀りし、旧社格は郷社。
 現在4,000世帯あまりの氏子を有しています。
 麻生太郎氏がこの龍宮神社を参拝後に内閣総理大臣に襲名したことから、開運祈願・出世祈願のご利益があると言われるようになりました。
 施設名
 龍宮神社
 住所
 〒047-0032 北海道小樽市稲穂3丁目22-11
 電話
 0134-22-4268
 ホームページ
 http://dragonjinja.ec-net.jp/
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 北海道の神社
 龍宮神社
 祭神
 底津和田都美神(そこつわだつみのかみ)
 中津和田都美神(なかつわだつみのかみ)
 上津和田都美神(うわつわだつみのかみ)
 豊受姫命(とようけひめのみこと)
 大物主神(おおものぬしのかみ)
 大毘古命(おおびこのみこと)
 桓武天皇(かんむてんのう)
 由来
 当社鎮座の地は明治3年開拓判官岩村通俊が小樽の地に町名を付けるにあたって「イナホ町」と命名したものであるが、「イナホ」はアイヌが祭具として用いる「イナウ」から訛化したもので、この地はアイヌ民族が祭場としていた所であるとも伝えられる。明治2年国有地払い下げの折、榎本武揚は小祠を設けて榎本家の遠祖である桓武天皇を奉祀し、明治9年移民の安意を図るため「北海鎮護」の額を献納した。明治17年江差町に設置された教派神道の龍宮教会分所を同19年4月に当鎮座地に移転し、この小祠に合併し、龍宮殿と称していた。明治29年7月本間豊雄(初代社司)が土地・社宇一切を譲り受け、これを神社に寄付し神職として奉仕した。明治30年6月大和田津美神社と公称することが許可され、同31年4月龍宮神社と改称し、大正5年3月村社に列格した。同7年12月長橋町に鎮座していた小樽伏見神社を境内に移転し昭和3年9月郷社に昇格し、神饌幣帛料供進神社に指定された。大正15年造営会が組織され昭和16年社殿が改築されている。昭和21年宗教法人となった。
 社宝等
 額面(2)(「榎本武揚直筆」明治41年)(「有栖川宮殿下直筆」明治41年
 境内外末社
 小樽伏見稲荷神社 保食神
 北海道神社庁公式ホームページ
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 竜宮神社宮司のブログ~新着情報まど
 由来と歴史
 慶応年間から明治初期の北海道は、函館から江差積丹、小樽と海路により 海幸を求め、新天地に夢を抱いた人々が北海の波浪を越え渡道してきた。特に小樽周辺は物資の補給や険しい陸路を避ける輸送の拠点とされていた。
 御鎮座地は往古アイヌ民族の祭場で、当時アイヌ民族が海に出漁し山野で 熊を狩る生活を営んでおり、海路安泰と海幸祈願、熊祭のため、この祭場に 「イナホ」を立て、酒饌を供し祭事を行っていた。「イナホ」とは木片を削り 祭具として用いたもので、アイヌ語で神を意味し、神社を指す。現在御鎮座 地周辺を稲穂町(いなほちょう)と呼ぶのはここからきている。
 当神社は明治9年国有地払い下げの折、『榎本武揚公』がこのアイヌ民族の 祭場に遠祖桓武天皇を合祀し、移民の安意を図るため「北海鎮護」と献額し 社を建立した。社名の由来は当時江差町に龍宮教会という海の神として信仰 の厚い社があり、明治天皇北海道ご巡幸の際、随行された有栖川宮熾仁親王 より「龍宮殿」と直筆の揮毫を頂き、明治15年に社名とし、龍宮殿と称した。 明治30年無格社に列格。その後、公爵一条実孝公より直筆にて「龍宮神社」 「敬神」の揮毫を頂き、大正5年龍宮神社と改称、村社に列格。大正7年村 社小樽伏見神社を境内に移植。昭和3年郷社に列格。昭和16年社殿を改築 し、現在に至る。
 これは平成22年に麻生太郎氏が龍宮神社に正式参拝に来られたときの写真です。麻生太郎氏は、戊辰戦争時代の明治政府軍中心的人物である“大久保利通氏”の子孫であり、龍宮神社は旧幕府軍の総大将“榎本武揚公”が建立された神社です。
 榎本武揚没後100年記念祭の時に、自民党幹事長であった麻生太郎氏が、「100年目の仲直り」とおっしゃって、直々に参拝に来られたときの写真です。
 左側は麻生太郎氏が正式参拝に来られたときに、植樹された「オンコの木」です。
 そして右側が現在のすくすくと成長した「オンコの木」です。
 青々と茂っており、麻生太郎氏は龍宮神社に正式参拝された1ヶ月後に、内閣総理大臣になられました。
 昇り龍のごとく運気栄える龍宮の神様の御利益でしょうか。
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 ・・・ 

 徳川幕府は、ロシアの軍事侵略から戦争をしてでも蝦夷地・北方領土南樺太を防衛する為に東北諸藩に出兵を命じた。
 東北諸藩は、戦争を覚悟して約4,000人を蝦夷地・北方領土南樺太に送って防衛任務に当たった。
 尊王攘夷派は、神国日本と蝦夷地や北方領土をロシアの軍事侵略から守る為に北に向かっていた。
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 徳川幕府内の開国・国防派は、ロシアの軍事侵略から日本を守る為に清国(中国)や朝鮮との三国軍事同盟を模索していた。
 戦争を嫌う現代の日本人には考えられない事を、江戸時代の日本人は戦争をする為に考えていた。
 古代から朝鮮や中国の侵略で苦しめられた長州などの北九州・中国地方の日本人達は、敵である朝鮮や中国を攻め取ってロシアに対抗すべきだと主張していた。
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 明治日本にとって国家存亡の危機とは、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略であり、ロシアが侵略してきた時に隣国の清国(中国)と朝鮮が日本に味方してくれるのかロシアに協力して敵になるかであった。
 が、清国(中国)と朝鮮は日本の淡い期待を裏切ってロシアに味方したのである。
 日本の大陸侵略政策とは安全保障が最優先課題で、北のら侵略してくるロシア・ソ連共産主義勢力に対抗する為に、敵対する中国と朝鮮から反日・敵日・侮日勢力を武力で追放して友好に変え親日・知日の政権を樹立して攻守軍事同盟を結ぶ事であった。
 その意味に於いて、日本の対外戦争は全て積極的自衛戦争であった。
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 近代日本の主敵は、白人キリスト教のロシアとロシア人であった。
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 徳川幕府は、アイヌ人が住む蝦夷地、北方領土を日本の固有領土として統治し守っていた。
 ロシアは、千島列島を南下していたが樺太には進出していなかった。
 第119代光格天皇(在位1779~1817)。
 1785(天明5)年 老中・田沼意次は、ロシアの侵略を警戒して蝦夷地探索隊を派遣した。
 1789(寛政元)年 徳川幕府は、アイヌの蜂起クナシリ・メナシの戦いの背後にロシアが策謀していると疑い警戒した。
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 1792(寛政4)年 老中・松平定信の寛政日露交渉。
 水戸学による攘夷運動の始まり、神国日本意識と攘夷気運が全国に伝播した。
 日本民族民族主義の誕生、創作された皇国史観愛国主義軍国主義政策の採択、軍国日本への暴走。
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 1806(文化3)年 文化露寇。ロシア軍艦による北方領土蝦夷地・樺太における海賊行為。
 YAHOO!JAPANニュース 2017年1月12日 THE PAGE「ロシア帝国が日本を攻撃した「文化露寇」 択捉島神社に安置された大砲の姿
 紗那神社と古砲(千島連盟提供)
 終戦から70年以上経過しましたが、いまだに解決していないのが、不法占拠されたままとなっている北方領土の問題です。終戦直後の1945(昭和20)年8月28日から同9月5日にかけて、旧ソ連軍の侵攻により、北方4島が占領されました。北方領土で暮らしていた人たちは、その後自力脱出したり、残された人たちは、旧ソ連兵とその家族らとの混住生活を強いられた後、1947~48(昭和22~23)年にかけて、強制的に島を追われ、樺太を経由して日本本土へ送還させられます。
 島で撮影された写真の大半は旧ソ連に没収されました。しかし、元島民でつくる千島歯舞諸島居住者連盟(千島連盟)は自力で脱出できた島民が命がけで持ち出した写真を中心に約560点を収集。古くなり、劣化したものも多くなってきたことから、平成24年度デジタル化して保存する作業を行いました。千島連盟は「集まった写真は人物を写したものが多いですが、背景などから、島の当時の様子を知る大切な資料と考え、大切に保存しています」と話します。人々の表情や景色、風習…。一枚一枚の写真に、元島民が生き生きと暮らしていた証があります。
 今回、千島連盟からそれらの貴重な写真の提供を受けました。
 1800年ごろから、ヨーロッパ列強による日本接近が始まります。特に、通商を求めたロシア船が蝦夷地や根室など日本北方にたびたび現れるようになりました。将軍家斉の治世だった文化3ー4(1806ー1807)年には、ロシア帝国の外交使節ニコライ・レザノフが部下に命じ、日本の北方拠点を攻撃させたいわゆる「文化露寇」が発生します。
 中でも、択捉島の中心地、紗那(しゃな)は、ロシア側からの銃撃や艦砲攻撃にさらされ、警護していた津軽南部藩兵士が撤退。紗那の幕府会所は、ロシア兵が倉庫の米や美術品、武器などを略奪後、放火し、焼失します。責任者だった箱館奉行支配調役下役・戸田又太夫は撤退中に自刃しました。
 この事件は、幕府が鎖国体制の維持と、海防強化に努めるきっかけになります。このロシアによる襲撃事件から間もない文政年間に造られたとされる大砲を安置した紗那神社の写真が残っていました。」
 1807(文化4)年 徳川幕府は、蝦夷地防衛の為に東北諸藩に派兵を命じた。
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 日本の積極的自衛戦争戦略はこの時から始まった。
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 フランスやプロイセンなど西洋列強は、北太平洋航路を独占する為に蝦夷地(北海道)を植民地にするべく動いていた。
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 徳川幕府は、ロシアなどのキリスト教国の軍事侵略・宗教侵略から日本を守る為に伊能忠敬に日本地図作成を命じた。
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 徳川幕府は、戦争をしても日本を守るという覚悟の積極的平和主義から近代海軍を建設するべくオランダから蒸気軍艦を購入し、旗本・御家人を近代軍隊に改編する為に蘭学者達に命じて西洋軍隊を参考にして軍制改革や人材育成を進めた。
 各藩も、西洋諸国から競って軍艦を購入・建造していた。
 幕末日本は、海軍国として29隻の蒸気軍艦を所有していた。
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 日本の近代化の目的は、対外戦争を戦う為の軍国主義化であった。
 日本の開国・幕末・明治維新戊辰戦争・近代化・軍国主義化の発端は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略で、その歴史的事実が、中世キリスト教会の日本人奴隷交易、寛政日露交渉(1792年)と攘夷運動、文化露寇事件(1807年)と蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)、攘夷派が激怒した対馬事件(1854年)の弱腰交渉、などであった。
 日本をロシアから救ったのは、戦争も辞さずのイギリスの軍事力・海軍力であった。
 軍事を否定し信用しない国家・国民・民族には、現実世界で生きる資格はなかった。
 熱狂的天皇主義者(現代の右翼・右派・ネットウハ、一部の保守派とは無関係)である尊皇派・勤皇派による攘夷運動は、間違った愛国主義民族主義ではなく、正しい軍国主義国粋主義・好戦主義、正義の戦争・聖戦であった。
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 神国日本を守る為の攘夷対象は、軍事侵略を企むロシアと宗教侵略を繰り返すキリスト教であった。
 徳川幕府の外交方針である経教分離の原則を受け入れて交易を行っていたオランダは、キリスト教布教をしない事を受け入れていただけに排除すべき攘夷の対象ではなかった。
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 ロシアの日本侵略は、ヨーロッパ戦争と連動していた。
 1729年~1796年 ロシア女帝エカテリーナ2世(ドイツ人将軍の娘)。
 ロシアの海外戦略は、1,ウクライナ黒海バルカン半島への領土拡大、2,アラスカ・北米大陸の開拓、3,日本との交易であった。
 1789年(~99年) フランス革命
 1796年~1815年 ナポレオン戦争
 1812年 ナポレオンのモスクワ遠征。
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 1689年 ネルチンスク条約ロシア帝国清王朝は、国境線を外興安嶺(スタノヴォイ山脈)とアルグン川(アムール川上流)を結ぶ線に定めます。
 1858年アイグン条約。ロシアは、アムール川(中国名は黒竜江)以北のシベリアの地を強引に割譲させロシア領とした。
 1860年 北京条約。ロシアは、アロー戦争に介入し英仏連合軍が北京を占領した所で講和を斡旋し、その見返りとしてウスリー川以東の沿海州を獲得し沿海州の南端の地にウラジオストクを建設した。
 ロシアは、不当な手段で手に入れた領土は戦争に負けて奪われない限り返還する事はなかった。
 ウラジオストクは冬でも凍らない不凍港で、日本海を南下して中国、朝鮮、日本への侵出を手に入れたが、目障りなのはウラジオストクにある樺太が日本の勢力圏にある事であった。
 ロシアは、樺太を自国領にする為にロシア人の軍人や囚人を上陸させて、反日的先住民を味方につけ日本人や親日派アイヌ人に対する暴力事件を頻発させた。
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 明治8(1875)年 樺太・千島交換条約明治新政府は、ロシアとの戦争を避ける為に樺太問題を解決すべくロシア領千島との交換条約を結んだ。
 日本側の戦略的利点は、ロシア海軍ウラジオストク樺太日本海内に封じ込め、宗谷海峡津軽海峡対馬海峡を抑えてしまえば太平洋への航路を遮断する事ができた。
 ロシアの対アジア政策とは、限られた軍団と艦隊による日本海支配であって、大軍団と大艦隊による日本侵略ではなかった。
 日本海を手に入れる為に、陸軍は満州から遼東半島朝鮮半島に軍事要塞都市を建設して防衛軍団を配備し、海軍は対馬樺太を手に入れ旅順・対馬ウラジオストクを軍港要塞都市として守備艦隊を配置する、であった。
 1891(明治24)年 ロシアはシベリア鉄道敷設工事を始めた。
 文久元年の農奴解放以来、ロシアの農村は余剰労働力を抱えていた。農民の不満の高まりは、ロシアにとって命取りになる。そこで、鉄道沿線のシベリアへ、農民の入植を促進するのが最大の目的であった。
 日本は、シベリア鉄道は軍事目的と見なして警戒し、ロシアとの戦争に備えて軍国主義政策を採用し、強権を持って国民生活を犠牲にして軍拡を進めた。
 イギリスは、上海・香港の中国利権をロシアから守る為に日本に接近した。
 日露戦争は不可避となり、開戦のその時が刻々と迫っていた。
 日本の戦争は、領土拡大の帝国主義侵略戦争ではなく祖国防衛の民族主義自衛戦争であった。
 明治33(1900)年7~8月 江東六十四屯虐殺(黒竜江アムール川の悲劇)。
 8月2日から3日 黒龍江・アイグン事件。ロシア軍兵士約2,000人は清国人移住者約2万5,000人を大虐殺した。
 日本人は、ロシア人の蛮行に恐怖し激怒し復讐を誓った。
 軍事力のない国は、如何に道理や信義があろうとも被害者として滅び滅亡する。
 その事実を知っていた近代国家日本は、軍国主義政策を採用して国力(経済力・軍事力=民力)強化に努めた。
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 弱小国日本にとって、強大国ロシアとの日露戦争は避ける事ができない戦争であった。
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 明治維新とは、ロシアの軍事侵略から如何にして神国日本を守るかという体制選択であった。
 伝統的な徳川将軍家を中心とした諸国・諸藩連合の地方分権体制か、革新的な天皇を中心として一国中央集権体制かである。
 佐幕派は前者であり倒幕派は後者であった。
 つまり、日本の生き残りを賭けた、佐幕派の継続的変革リノベーションか倒幕派の破壊的新生イノベーションかの選択戦争であった。
 何れにせよ、世界が大きく激変する時代において、戦争を避ける話し合いによる外交での継続的変革リノベーションには未来はなく滅亡し、戦争を覚悟した外交での破壊的新生イノベーションのみが未来で生き残る正解の選択であった。
 それは、現代でも変わる事のない普遍的大原則である。
 日本の近代的軍国主義政策は、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、そして最も恐ろしいマルクス主義共産主義イデオロギー侵略が原因であった。
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 日本民族は、個人主義集団主義を車の両輪として生きてきた。
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 江戸時代の封建体制は個人主義で、明治の近代体制は集団主義である。
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 日本の歴史で、個人主義時代は平和な時代で、集団主義時代は戦争の時代であった。
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 明治維新戊辰戦争とは、徳川幕府による個人主義体制か明治新政府による集団主義体制かの体制選択内戦であった。
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 弱小国日本、財政赤字で破綻していた明治新政府の国際的信用の根拠は、天皇の存在であった。
 天皇の存在で、近代日本は普通の国家として世界に受け入れられた。
 それが、天皇国家元首としての統治権であった。
 欧米列強は、殺しのプロである武士集団ではなく、日本民族の主権者であり祭祀王の天皇の存在ゆえに日本を侵略しなかった。
 そこが、日本国とムガル帝国の違いである。
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 ムガル帝国はいとも簡単に内部崩壊で滅亡し、インドはイギリスの植民地となり、インド人はイギリス人の奴隷となった。
 日本が教訓として学ぶべきは、清王朝の中国ではなくムガル帝国のインドであった。
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