🎑68)─1─匠の「自由さ」から生まれ続けた豊かな日本の伝統美。漆・蒔絵。~No.155No.156 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本民族の伝統美とは、自他共に認めるナンバーワンとオンリーワンである。
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 2022年4月21日号 週刊文春「東洋美術逍遥(31) 橋本麻里
 『自由さ』から生まれ続けた日本の美
 『大蒔絵展 漆と金の千年物語』
 眩い金雲の彼方に日本美術の歴史を見晴るかす──。蒔絵の名を冠しながら、工芸の一ジャンルに留まらない、日本美術の全体像を見せてくれるのが、この展覧会だ。
 漆を塗った櫛や土器など、日本列島では縄文時代から漆の利用が始まっていた。その素朴な技術が、奈良時代に一変する。正倉院に残る漆工の優品から、中国由来の技術を学んだと考えられるが、手本となったはずの漆工作品が中国に残っておらず、初期の技術がどのようなものだったか、未解明の部分が大きい。
 それが豊かに花開くのは、平安時代のこと。蒔絵にもさまざまな技法があるが、基本的には黒漆で表したいモチーフを支持体(箱など)の上に線描し、金銀の粉を蒔きつける。接着剤の役割を果たす漆が固まった後、今度は蒔きつけたモチーフを含む面全体に透漆(すきうるし)や黒漆を塗り込んで乾燥させ、木炭で文様を研ぎ出し、全体を磨き上げて仕上げる。手間も費用もかかる贅沢な技法で、漆工の中でのみ発展してきたと考えられている。その蒔絵を用い、空想上の花唐草を文様化したモチーフ(宝相華)を表す《宝相華蒔絵経箱》(11世紀、国宝)や《宝相華蒔絵宝珠箱》(10~11世紀、国宝)(いずれも愛知会場で展示予定)は、『左右対称や旋回的、かつ埋め尽くすように配する唐風の伝統を引いた意匠(いしょう)』(同展図録)で、いまだ中国的な厳しさを漂わせる。
 だが文化の和様化が進んだ平安時代後期になると、同じく経典を納めるものでも、《蓮池蒔絵経箱》(12世紀、重文)などに明らかなように、柔らかな線で表現された水面から伸びるふっくらした蓮の蕾や葉、その傍らには群れ飛ぶ水鳥をと、身近な自然の景物を、叙情的に描写した意匠へと移り変わっていく。
 そのまま隣の展示物に目を移せば、巻き広げられているのは《久能寺経》(12世紀、重文)、《妙法蓮華経》(12世紀、重文)など、装飾経の名品たち。紙面を覆う淡い光の靄(もや)は、金箔を細かく切った切箔に野毛、粉状にした砂子などに埋め尽くされているがゆえ。微光ゆらめく料紙の上に、仏の真理を示す言葉が黒々と浮かび上がる。素材も意匠も、経箱に施された蒔絵が、その内に納められた経典への写し取られていると一瞬で腑に落ちる。
 武士が台頭する鎌倉時代、王朝の和歌や文芸の再解釈が行われ、新たな芸能が勃興する室町時代、中世か近世への激動期を経て、それまでの技法や表現が集約された江戸時代、そして近現代へ。時代を追って技術や意匠の流行が少しずつ変わっていく様子を追いながら、繰り返し示されるのは、絵画、書跡、工芸といったジャンルの別など、当時の誰も意識していない、ということ。小袖から和歌巻、硯箱、謡本、鼓にいたるさまざまなものたちが、よく似た意匠を共有し、相通じる雰囲気をまとうのは、自らの生活と人生を彩(いろど)る美しいものを身近に置きたい、と願った注文主、そして多様な領域にまたがる美を自在に参照して想像に取り組む職人がいたから。その自由さこそが日本美術の核心のひとつだと納得させられる、圧巻の展示だった。」
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 現代の日本人には、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力そして「美の力」もなく、「後世の為に何かより良きモノを残す」という事だできない。
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 日本文化の伝統美とは、昔ながら変わらない伝承美とその時々の時代で流行っている外連美・婆娑羅美が程よく混じり合った美、何となく表面的に見ると何も変わっていない様に見えても、心眼・審美眼で見れば少し変化し変わってきている生きた美・生命力に溢れた美・魂を宿した美、神に通ずる惟神の美である。
 つまり、日本の民族文化・民族美は内に秘めた宗教美、命の脈動・波動によって生きているのである。
 その迸(ほとばし)る民族美の命の源流は、数万年前の石器時代縄文時代の自然崇拝にあった。
 民族美を否定した現代美は、一瞬熱く感じて消え失せるマッチの火の様な美、上辺だけ美しくし一皮向けだ美しくもな鍍金美・メッキ美である。
 それ故に、現代美は歴史美にはなれない。
 現代アートが歴史美として残れるのは、岡本太郎などほんのわずかな人間だけである。
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 民族の伝統美と民族否定の現代アートの違いは、内に「何か」を秘め宿し満たしているかの違いである。
 民族の伝統美とは、うるさくない美であり嫌味の少ない穏やかで癒やされる奥が深い美である。
 たとえるなら、それは「究極の黒」である。
 究極の黒とは、特殊な際立った光りを発するブラックである。
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 東洋・西洋を問わず世界の文化・芸術・芸能の多くは、王侯貴族の支配階級や資本家の富裕層などの特権階級をパトロンとして、彼等の上流階級としての優越感を高め陶酔感を満たす為に生まれて発展してきた。
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 現代の日本人は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しく、真贋の審美眼もなく、日本の美は「豚に真珠」である。
 事実、昔の職人・名人・匠が磨きに磨いてきた類い稀な技術は、現代日本から急速に減ってきている。
 現代日本に残っている民族文化・昔の美は、セキュリティーと耐震装置で守られた厳重なガラスケースに収められ展示された生命力を失った死んだ文化・美である。
 が、それでも無いよりはマシである。
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