🏞90)─1─徳川幕府は統治権者としてロシアの侵略から日本と蝦夷地・北方領土を守っていた。~No.371 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 アイヌには、ロシアの侵略から父祖の土地である蝦夷地・北方領土を守る力はなかった。
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 歴史的事実として、島国日本にとって北の北海道・北方領土4島(対ロシア)、西の対馬壱岐・北九州(対朝鮮)、南の尖閣諸島・沖縄(対中国)は、大陸勢力の日本侵略から天皇・国・民族を守る最前線であった。
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 徳川幕府は、アイヌ人が住む蝦夷地、北方領土を日本の固有領土として統治し守っていた。
 ロシアは、千島列島を南下していたが樺太には進出していなかった。
 1785年 老中・田沼意次は、ロシアの侵略を警戒して蝦夷地探索隊を派遣した。
 1792年 老中・松平定信の寛政日露交渉。水戸学による攘夷運動の始まり。
 1806年 文化露寇。
 1807年 徳川幕府は、蝦夷地を防衛するべく東北諸藩に派兵を命じた。
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 ロシアの日本侵略は、ヨーロッパ戦争と連動していた。
 1729年~1796年 ロシア女帝エカテリーナ2世(ドイツ人将軍の娘)。
 ロシアの海外戦略は、1,ウクライナ黒海バルカン半島への領土拡大、2,アラスカ・北米大陸の開拓、3,日本との交易であった。
 1796年~1815年 ナポレオン戦争
 1812年 ナポレオンはモスクワ遠征に失敗した。
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 江戸後期に盛り上がった攘夷運動の原因は、ロシアの軍事侵略とキリスト教会の宗教侵略に対する危機感であって、アヘン戦争(1840~42年)による西洋の文明侵略ではなかった。
 開国と近代化の発端は、ペリーの黒船艦隊(1853年7月)の来航ではなかった。
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 日本を侵略する危険性がある仮想敵国が、中国とロシアである。
 日本を攻撃・核攻撃する危険性がある仮想敵国が、中国・ロシア・北朝鮮である。
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 2022年6月号 WiLL「『アイヌはロシアの先住民族と認定する』
 いいかげんにしろ、プーチン
 『防衛』は江戸幕府から学べ──危機意識なき岸田政権への国防講義
 中村恵子
 消された江戸幕府松前藩
 北海道の歴史年表から、江戸幕府松前藩が消されつつあります。
 そのことに気づいたのは、ライフワークとして研究・活動していた循環型社会構造のための執筆や講演をするなかで、北海道内の郷土資料館や博物館にある年表の表記に違和感を覚えたことがきっかけでした。どの年表も、江戸時代の蝦夷地の時代区分が『アイヌ文化時代』と表記されていたのです。
 実は、蝦夷地を守るために警備していた箱館奉行所や各藩の元陣屋(城)などの史跡を訪ねていたので、江戸幕府松前藩や東北諸藩と命がけで蝦夷地を守ったことは知っていました。その史実が抜け落ちていたので、おかしいと思ったのです。
 このままでは日本の歴史が書き換えられてしまう──江戸幕府の北方防衛の事実を広く国民に知ってもらい、蝦夷地が日本の領土であることを日本人の共有知識とするため、新著『江戸幕府と北方防衛』(ハート出版)を上梓しました。
 日本では江戸時代を劣った(遅れた)時代とする明治維新派の策謀もあり、明治以後、江戸時代は勝者である薩長史観で語られるようになりました。その結果、江戸幕府による北方防衛の事実や松前藩アイヌとの共生による物々交換で繁栄した北前船交易など江戸時代の蝦夷地の歴史は忘れられ、『北海道の歴史は明治以後の開拓から』『それ以前はアイヌが住んでいた』という開拓史観が日本人に普及しました。
 さらに第二次世界大戦後は、GHQによるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争への罪悪感を日本人に植付ける洗脳工作)に沿う『日本が悪い』という自虐史観マルクス経済学に基づく階級闘争史観によって『支配者・強者=江戸幕府=悪』『被支配者・弱者=アイヌ=善』『松前藩(和人)=侵略者』『アイヌ=搾取された』という誤った認識も広がりました。
 このような歴史認識の教育を受けた行政職員や政治家になったらどうなるのか。『日本人は悪いことをしたのだからアイヌに優しくしてあげよう』という変なヒロイズムに立って、『アイヌは日本の先住民族』と学術的定説にもなっていないのに『アイヌ先住民族決議』を全会一致で国会決議したり、『アイヌ民族支援法(アイヌ新法)』に基づいて全国でアイヌ施策推進地域計画を策定させ、多額の税金を費やす施策を平気で実施するような人になるのです。
 一方で、全道各地にある開拓時の和人とアイヌが協力した話や江戸幕府松前藩の善行は語らず、『シャクシャインの戦い』『クナシリ・メナシの戦い』が、多くの和人がアイヌに殺されたことから始まったことにも触れられません。『悪いのは日本人』という論理と同じく、和人の被害は付せられるのです。しかし、それはフェアではありません。北海道の開拓史を封印し、ことさらアイヌ文化のみを発信して日本を貶(おとし)めようとするウソを正すことは、ロシアの領土主張や北方侵攻に対抗するためにも必要不可欠なことです。どのようにして武士たちが『日本の領土』を守ってきたのか、少しご紹介しましょう。
 松前藩の実効支配
 江戸時代の北方防衛は、『第一次蝦夷地直轄』(1799年)と『第二次蝦夷地直轄』(1855年)の大きく2つに分けられますが、そもそも江戸時代になる前から蝦夷地は日本の領土でした。日本が日本として成立したことを示す『日本書紀』に、飛鳥時代の659年、安倍比羅夫が蝦夷地後方の後方羊蹄(しりべし)に郡領を置いたと記されており、平安時代奥州藤原氏蝦夷統治者という位置づけでした。
 また、鎌倉時代には東夷成敗権を執行する『蝦夷管領』が置かれ、室町時代まで安藤氏が政権の代官として役割を果たしていました。とりわけ、鎌倉時代を画期として、日本の時の政権は蝦夷地を意識し、官職を置き、日本の支配領として実効支配していたのです。
 松前藩による蝦夷地の実効支配は、室町幕府に藩祖の蠣崎(武田)信広がコシャマインの戦いに勝ち、その後、蠣崎氏が安藤氏の蝦夷地覇権の代官になったことから始まります。
 そして1593年、5代目蠣崎(のちの松前)慶広は、豊臣秀吉朝鮮出兵準備中の肥前国名護屋蝦夷地から出向き、秀吉から蝦夷地支配の『朱印状』を得ており、1604年にも徳川家康から『黒印状』を得て、蝦夷地支配を公認されていました。江戸幕府とそれに続く千島、樺太を支配地として交易『場所』(商場)を設け、直領かつ藩士の知行地(ちぎょうち)にしたのです。
 それは当時の史料でも明らかです。1644年、江戸幕府は各藩に提出させた自国領地図をつなぎ合わせて日本地図『正保日本御地図』をつくるのですが、その際に松前藩が提出した『正保日本御地図』は、蝦夷地全土・千島・樺太を自国領としています。これは、のちに最上徳内近藤重蔵伊能忠敬間宮林蔵らが作成する日本地図にも影響を与えています。
 一般的にロシア人が初めて千島列島に進出し、占守(シュムシュ)島に至ったのが1711年とされていますから、日本が先に統治していたことは明白です。1721年にロシアの探検隊が作成した地図でも北方の島々には、『オストロア・アポンスキヤ』(日本の島々)と書かれています。
 その後、ロシアの南下対策で幕府は2次にわたって蝦夷地を直轄した時も、幕府はこの松前藩の支配地を踏襲しています(詳細は後述)。松前藩の〝我が支配地〟という実効支配があってこそ、日本国の領土として主張できているのです。
 江戸幕府蝦夷地直轄
 1783年、医師で経世家だった工藤平助がロシアの動きを著わした『赤蝦夷風説考』は、日本で初めて北方防衛を意識させる一撃になりました。時の老中・田沼意次は1785年、蝦夷天明探検隊を派遣し、蝦夷地の現状把握と開拓の可能性を探る調査を実施。さらに1789年、アイヌの蜂起クナシリ・メナシの戦いが起きます。その背景にロシアがいると疑っていたところ、1792年、初の公式遣日使節ラクスマンが通商を求め、シベリア総督の信書を手に根室に来航します。
 こうした事態に危機感を覚えた幕府は、1798年、近藤重蔵最上徳内らを団員に180名の蝦夷地大調査団を派遣し、択捉島に『大日本恵登呂府(えとろふ)』の標柱を立てます。そして、松前藩の統治だけでは蝦夷地は守れないと判断し、1799年、幕府は藩主の松前章広に東蝦夷地直轄を伝え、幕府内に蝦夷地取締御用掛を設けました(第一次蝦夷地直轄)。
 その幕府の危機察知は見事に的中します。ラクスマンに続き、1804年に日本へ派遣された外交使節レザノフは、半年以上も待たされた挙句、幕府に通商交渉を拒否されたことから武力で北方における日本側の拠点を部下に攻撃させたのです。
 1806年、ロシア艦は樺太を襲撃し、番人をとらえて米を強奪。運上屋の焼き払いも行いました。翌年4月には再び択捉で、5月には樺太利尻島でも略奪・放火を行いました(文化露寇)。
 この一連のロシアからの襲撃を受けて1807年、幕府は松前藩陸奥国梁川(やながわ)に移封すると同時に、松前を含む蝦夷地・樺太・千島を幕府直轄にし、大規模な警備出兵命令を出します。仙台藩箱館、国後、択捉に2,000人。会津藩松前、斜里、樺太に1,600人。南部藩は砂原、幌泉(ほろいずみ)、根室に250人。津軽藩は天塩(てしお)、留萌(るもい)、増毛(ましげ)、熊石に150人が出兵して蝦夷地をロシアから警備します(幕府『通航一覧』の記録)。
 しかし、一難去ってまた一難──1811年、ロシアが南千島沿岸を測量しようと上陸したため、江戸幕府は船長のゴローニンを捕縛し、松前奉行所で監禁しました。それに対し、ロシア側も1812年、国後近海にいた廻船業者の高田屋嘉兵衛をカムチャツカまで連行。1813年、ロシア艦『ディアナ号』の副艦長のピョートル・リコルドは高田屋嘉兵衛を通じてゴローニン釈放交渉を行い、江戸幕府はロシア政府の謝罪状提出と略奪品の返還を要求します。リコルドは箱館に入港し、シベリア総督の書簡(謝罪状)を提出。ロシア政府は、『文化露寇事件はロシア政府の関与はなく、私的な暴力事件だった』と謝罪し、高田屋嘉兵衛を返したので、日本側も謝罪を受け入れゴローニンを帰国させました。
 高田屋嘉兵衛は幕府の蝦夷地経営を熟知していたので、日露間の交渉をまとめることができたと称賛されています。
 幕府は筋の通った因果応報に徹する方法をロシアに対して行い、謝罪を勝ち取り、人質を取り返しています。このことを、北朝鮮による日本人拉致問題、ロシアの理不尽な北方領土奪取を、数十年たっても解決できない現代の日本政府、政治家には……
 ゴローニン事件の解決とロシアのヨーロッパ戦線への傾注で南下が緩んだこともあり、幕府は1821年、松前藩の復領を決定。幕府の松前奉行所を撤収し、以前のように松前藩蝦夷地・樺太・千島の統治を任せるようになります。
 しかし、1840年に始まったアヘン戦争で清がイギリスに敗れ、米国、英国、フランス、オーストラリアなどの外国船が日本近海や蝦夷地近海に出没し始め、1853年に米国のペリー艦隊が浦賀に来港し、ロシアのプチャーチン艦隊も長崎に来航。『攘夷』『開国』と国内世論が紛糾するなか、1854年の日米和親条約を皮切りに幕府が各国と結んだ条約によって、箱館は薪水や食料欠乏品を供給する港として開港します。
 こうした状況に、幕府は北方警備の対象だったロシアとの国境問題だけでなく、諸外国にも警戒心を募らせました。幕府は諸藩に対し、新たな築城を禁じていたのですが、1849年、蝦夷地警備厳重化のため松前藩に築城を指示。
 また、1854年6月、箱館奉行所(旧松前奉行所)を再び設置し、1855年、松前藩福山領を除く蝦夷地・樺太・千島を幕府直轄地とすることを決定。箱館奉行所蝦夷地統治の拠点として、警備、行財政、産業政策、開拓政策も行うことになりました。松前藩福山領以外の土地の警備は、仙台、秋田、南部、津軽藩に命じました(第一次蝦夷地直轄)。
 その後、1859年には警備の実を上げるために、会津・仙台・秋田・庄内・南部・津軽藩蝦夷地を分領して警備と開拓を命じ、北蝦夷地(樺太)の警備を、庄内・会津・仙台・秋田藩に、二藩の隔年交替で行うことを命じています。ロシアの脅威に晒されていたのは、江戸時代も同じでしたが、江戸幕府は領土保全への危機意識をもって迅速な対応は、今こそ学ぶべき姿勢でしょう。
 教育分野で進む歴史改ざん
 江戸幕府の危機察知能力と対策能力の高さ、そして松前藩と東北6藩が多くの犠牲を出しつつも、蝦夷地・千島・樺太を日本の領土として懸命に守ってきたことが理解してもらえたと思います。
 しかし、そうした努力が史跡五稜郭内の箱館奉行所松前城資料館、仙台藩白老(しらおい)陣屋跡、標津(しべつ)町の『北邊(へん)防衛會津藩士顕彰碑』、増毛町秋田藩陣屋跡、石狩市庄内藩ハマシケ陣屋跡、斜里町の『津軽藩士殉難慰霊の碑』など、各藩の史跡や資料館に記録として残っているにもかかわず、日本国民はもちろん、北海道民もその事実を認識していません。
 それどころか、『江戸時代の蝦夷地は日本ではなくアイヌのもの』ということを日本人の常識にし、北海道を奪取しようとする超限戦が仕掛けられています。
 なかでも、一番顕著なのは教育(学習)分野です。冒頭で紹介したとおり、江戸幕府が守ろうとした北海道の郷土資料館や開拓記念館、博物館にある北海道年表では江戸時代の蝦夷地の時代区分を『アイヌ文化時代』と記しており、江戸時代の『エ』、松前藩の『マ』も出てきません。
 また、2019年の小学校社会科の文科省検定では、東京書籍が発行する小学校6年生用の歴史教科書『新しい社会6・歴史編』で、江戸時代初期の対外貿易について書かれたペ-ジの地図『北海道・樺太・千島の塗色が本州以下と同じ赤では、児童が誤解する恐れがある』と指摘され、日本列島のうち北海道と北方領土を白くする修正が行われたのです。どこに自国領であることが明白な地域を、わざわざ否定する教科書をつくる国があるでしょうか。検定者に工作員が入っていることが推測される事態ではないでしょうか。
 この教科書には『蝦夷地が日本国ではない』と言わんばかりの箇所がほかにもあります。江戸幕府の『幕府領と大名領の割合』の図には蝦夷地の図がなく松前藩は無視されていますし、『明治維新と北海道・沖縄』という箇所では、
 『明治政府は、蝦夷地を北海道と改め、役所を置いて開発を進めました。アイヌの人々は、土地や漁業をしだいに失っていき、日本語や日本式の名前を名のることなどをしいられました。こうした中で、生活が苦しくなっていったアイヌの人々への差別も強まっていくようになりました』
 との記述まであります。
 この教科書では蝦夷地に触れるのはアイヌのことだけで、和人に関する記述はありません。一体どこの国の教科書なのか。
 前知事による開拓貶め
 現在進行中の問題もあります。……
 ……
 この北海道命名150年事業を推進し、記念塔の解体方針を決めたのは高橋はるみ前知事(現在は参議院議員)です。高橋前知事は2018年7月、『月刊 事業構想』の取材に、北海道命名150年事業について次のように答えています。
 『私ども北海道も、1869年に「北海道」と命名されてから150年という節目にあたります。(中略)北海道は150年に至るまでの歴史も大変ユニークでありまして、弥生文化、いわゆる農耕文化を経ることなく、縄文文化から擦文(さつもん)文化、そして日本国の先住民族であるアイヌの人々が営んできたアイヌ文化などを経て、明治に至ったという歴史があります』
 この発言から、蝦夷地での江戸幕府松前藩の統治のことが、高橋前知事の頭の中にはないとわかります。
 当然、北海道100年事業までは『命名』ではなく『開拓』という表現が使用されていましたが。『北海道開拓150年事業』と口にするのがイヤなのか、わざわざ『命名』から150年だと強調しています。また、学術的定説にもなっていないのに、アイヌ民族を『北海道の先住民族』『日本国の先住民族』と言い切っています。さらに高橋前知事は、
 『松浦氏(北海道と命名した松浦武四郎)の探索をサポートしたのはアイヌの人たちだったのです。さらに広大な北海道の自然環境をしっかりと維持しながら、それを守ってきてくださったのもアイヌの方たちでした。そういう歴史があったにもかかわず、15世紀頃には、和人が本州などから北海道に入ってきて、開拓が進められ、北海道の近代化がなされる過程で、先住民族であるアイヌの人たちに対するいわれのない差別や低賃金労働、伝統的な生業の制限などにより貧窮を余儀なくされるなど、大変に反省すべきことも多々行ってきたという歴史的な事実があります』
 と語っています。
 鎌倉時代に『蝦夷管領』という官職を置いて以来、前人未踏の地だった蝦夷地を守ってきたのは紛れもなく日本人です。ひたすら『差別』や『低賃金労働』という表現を用いて一方的に『歴史的な事実』とすることを知事がしていいのか。あまりに軽率です。高橋前知事は数々のアイヌをめぐる政策も進めてきており、これらの言動が日本を窮地に追い込むことを危惧しています。
 優先事項は日本の防衛
 北海道を奪取する動きが、さらに激しくなってきました。
 昨年10月には中国海軍とロシア海軍の艦艇合わせて10隻が津軽海峡を通過し、翌月は両国の爆撃機が日本周辺の上空を共同飛行しました。
 最近もロシア軍は北方領土と千島列島で地対空ミサイル(昨年12月に択捉島に実戦配備)の発射演習を行い(今年3月10日)、軍用車両などを載せた海軍の艦艇4隻が津軽海峡を通過しています(同月16日)。
 3月24日には北海道沖EEZ内に北朝鮮のミサイルが着弾しましたが、それに対し打つ手がない現状です。私は対ロ制裁に対する北朝鮮を使った恫喝ではないかと疑っています。
 鈴木宗男参議院議員日本維新の会)が北方領土交渉を進めるため、国会で『アイヌ先住民族決議』を先導したことを逆手にとって、2018年にプーチンが『アイヌ民族はロシアの先住民族に認定する』(モスクワでの人権評議会)としています。
 ついには、4月4日、ロシア下院議員セルゲイ・ミロノフは『ロシアは北海道に対する権利をもっている』と発言しました。ロシア軍が『アイヌ民族保護』を名目に北海道や北方領土に侵攻すると想定し、江戸幕府のように、先手を打って備える時です。
 ……
 今、岸田政権が優先的に実施することは、ロシア、中国、北朝鮮から狙われている我が国を守るために、まったく様変わりした戦争への防衛戦略や装備品充実、抑止力をどう構築するかという国民への訴えと実効です。
 強大な軍事力を保有する大国が核兵器の使用をチラつかせ、劣勢にある主権国家を侵略している現実を目の当たりにしています。
 江戸幕府の『祖国防衛』には、日本の沿岸に接近した外国船を見付け次第、砲撃するよう命じる(異国船打払令)ほど、何としても自国の領土を守るという我が国の方針を外国に示す気概がありました。
 自国で防衛しない国は助けないとバイデン大統領は明言しました。この言葉をすかさずとらえた、中国、ロシア、北朝鮮という3つの核保有国にいつも脅かされている実態と、戦後、平和国家として十分役目を果たしてきた功績を、国の内外に明確に説明し、核抑止、機能しない国際社会の安全維持装置についても、国民、アメリカはじめ同盟国と議論、主張する機会がきたと考えます。」
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江戸幕府の北方防衛 ─いかにして武士は「日本の領土」を守ってきたのか
幕末会津藩 松平容保の慟哭―北方領土を守った男たちの最期
斜里の陣屋で
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 蝦夷地・北方領土、千島列島、樺太は、日本とロシアの間にあって戦場となる場所であった。
 当時の国際情勢からして、徳川幕府とロシアが戦争する時、アイヌ民族は平和中立として何方にも味方しないという選択はあり得ず、アイヌ人は和人(日本人)に味方するかロシア人に味方するか何れかを選ばざるおえない立場に追いこまれる。
 ロシアは、千島アイヌ人が徳川幕府に味方して敵になる事を恐れてカムチャッカ半島強制移住させ消滅させた。
 何時の時代でもアイヌ人は、天皇制度日本か、日本を侵略するロシア・中国・朝鮮かの二者択一を強要されていた。
 現代において、中国共産党政府、ロシア、北朝鮮アイヌ人独立派や反天皇反民族反日的日本人に接近している。
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 現代、定説・常識として信じられている幕末史(江戸時代後期~明治)にはウソが多い。
 ウソと分かっていて、伝道師のようにウソを広めている日本人が存在している。
 そのウソで毒された学校の歴史教育が正しい歴史として子供達に教えられ、子供たちは教師が教える歴史を丸暗記して試験で高得点を取って進級・進学していく。
 それは、洗脳教育である。
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 アイヌ人は、平安時代ごろから蝦夷地・北方領土樺太・千島列島などに広く別れて生活していた。その総人口は不明である。
 徳川幕府松前藩の日本人(和人)は、蝦夷地・北方領土樺太を統治し支配、経営し運営していた。
 徳川幕府蝦夷地を統治する主権者として、1854年に諸外国との間で和親条約を結び、箱館を国際港として開放し交易を始めた。
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 アイヌ人と親しく付き合った日本人が2割、アイヌ人を差別した日本人が3割、差別しないが親しく付き合わなかった日本人が5割。
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 明治以降に日本が実行した大陸戦争は、領土拡大の帝国主義侵略戦争ではなく合法的な正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
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 当時の日本人は外国語が話せず世界情勢に詳しくなかったが、現代の日本人より多少なりとも優れていた。
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 現代の日本人は「自分は歴史が好き」と自称しながら、江戸時代後期から幕末、開国、戊辰戦争明治維新、近代化、日韓併合までの明治時代を正しく理解する事ができない。
 何故か、それは現代の日本人には民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がないからである。
 その原因は、戦後民主主義教育の歴史教育で、中学・高校・大学・大学院・研究所などと高等教育機関に進学すればするほどその傾向が強くなる。
 その教育で高得点を取り優秀な成績で卒業したのが、高学歴な知的エリートや進歩的インテリ達である。
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