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2024年4月25日 YAHOO!JAPANニュース「文禄の役が勃発。豊臣秀吉は朝鮮人の捕縛を禁止したが、有名無実だった
豊臣秀吉。(提供:アフロ)
いまだに戦争のある地域では、民衆が捕らわれの身になることが珍しくない。
それは戦国時代も同じで、人の略奪は「乱取り」と称された。文禄の役の際、豊臣秀吉は朝鮮人の捕縛を禁止したが、それは実効性があったのだろうか。
戦国時代の戦争は、乱取りが軍事的な慣行になっていた。将兵は乱取りで自らの懐を潤し、ときに戦争よりも乱取りを目的とした将兵すらいた。
しかし、秀吉は乱取りにより、農民がいなくなった耕作地が荒れ果てることを恐れ、人身売買を禁止した。戦争後の復興が進まないからだった。
そのような国内事情を踏まえて、実際に秀吉が朝鮮出兵時に出した方針は、天正20年(1592)4月26日付秀吉朱印状に次のとおり書かれている(「毛利家文書」)。
①還住した百姓や町人に米銭金銀を課してはならない。
②飢餓に苦しむ百姓を助けること。
③あちこちで放火をしてはならない。(以下、補足として)今度の朝鮮出兵で人を捕らえた場合は、男女によらず、それぞれのもといた居住地に返すこと。
④法令順守の徹底。
①は、戦後もとの居住地に戻った百姓や町人に対して、米銭金銀を課してはならないという命令である。秀吉は日本国内の戦争でも、百姓や町人の還住策を進めていたので、その例に倣ったものである。
秀吉は朝鮮半島を蹂躙して放置するのではなく、戦後復興と長期にわたる支配を考えていたということになる。②についても同様の趣旨と捉えてよく、耕作地を耕す百姓が死んでしまっては、元も子もないという考えによる。
③での冒頭では放火の禁止を禁止であるが、重要なのは補足の箇所で、日本軍が男女にかかわりなく朝鮮人を生け捕りにした場合は、もとの居住地に返すことが規定されていることである。
秀吉は戦場における乱取りを禁止し、人々の還住策を積極的に推し進めたことになる。
④における法令順守はその延長線上にあり、数多くの禁制が「高麗国」宛に発給された。禁制とは軍勢の不法行為(放火、乱暴狼藉)を定めたもので、本来は寺社や村落の申請によって、金銭と引き換えに交付された。
この場合は、秀吉が諸大名の軍勢が乱暴狼藉を働かないよう、あらかじめ交付したものだろう。なお、禁制を得るには金銭との引き換えが基本だったが、朝鮮半島の戦争だったので、無料で交付されたと考えられる。
このように秀吉は乱取りを禁止し、朝鮮人の還住を推し進めたが、このことが末端の将兵まで徹底されたかといえば、大きな疑問である。日本で長年の軍事慣行だった乱取りは、そう易々と止めることができたのだろうか。
結局、秀吉の強い決意にもかかわらず、乱取り禁止の方針は将兵に無視され、戦時中の朝鮮半島各地で乱取りが行われたのである。
渡邊大門
株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。
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中世キリスト教会・イエズス会伝道所群と白人キリスト教徒商人達が、日本人兵士に朝鮮人を乱取りしれ捕縛する事を唆していた。
豊臣秀吉は、キリスト教禁止令を出して非人道的な悪徳の宣教師や白人キリスト教徒商人達を弾圧した。
それが、日本におけるキリスト教弾圧であった。
現代日本の歴史教科書は、逆にキリスト教弾圧しキリシタンを迫害した豊臣秀吉、徳川家康と徳川幕府が非人道的犯罪者と子供達に教え、世界に向けて宣言している。
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中世キリスト教会・イエズス会伝道所群と白人キリスト教徒商人達は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として世界中に輸出していた。
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