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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
武士が百姓を偏見で差別したのにはワケがあった。
武士による斬り捨て御免や辻斬りは、気が荒いからでもなく特権意識からでもなく庶民への嫌悪と差別から起きていた。
武士は百姓や町人が嫌いであり、戦国大名たちが死を覚悟して戦ったのは祖先から受け継いだ領地を守る為であって、戦う事なく逃げ回る領民を守る為ではなかった。
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友・友人を助けるといっても、本気で助けるのは親友や戦友であって、名前や顔を知るだけの知人ではない。
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いい日本人は2割、悪い日本人は3割、何方とも言えない日本人は5割。
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2022年7月9日 MicrosoftNews プレジデントオンライン「日本人女性は「奴隷」として海外に売りさばかれていた…豊臣秀吉が「キリスト教」を禁止した本当の理由
© PRESIDENT Online 1586年、ドイツで印刷された天正遣欧使節肖像画(図版=京都大学貴重資料デジタルアーカイブ/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
戦国時代の日本では人身売買が横行していた。三重大学教育学部の藤田達生教授は「中世の戦争は人盗り・物盗りが当たり前だった。戦場では、逃げ惑う女性や子供が連れ去られ、ポルトガル商人らを通じて、奴隷として海外に売りさばかれていた」という――。
「旅行の先々で、奴隷の生涯に落ちた日本人を親しく見た」
天正十年(一五八二)二月、天正遣欧少年使節がイエズス会巡察使ヴァリニャーノに率いられてローマへと旅立った。使節の内訳は、主席正使伊藤マンショ、正使千々石ミゲル、副使中浦ジュリアン、副使原マルチノである。彼らは、九州のキリシタン大名・大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信の名代として派遣された十代の少年だった。
そのヨーロッパ旅行記は、『天正遣欧使節記』として編纂(へんさん)されている。ここでは、ヴァリニャーノの著作をデ・サンデがラテン語に訳した同書(一五九〇年にマカオで刊行)から、少年たちが旅路において見聞した日本人奴隷についての思いが記されている部分を参考までに紹介しよう。なお、本書にはヴァリニャーノによる創作とする評価もあることを断っておきたい。
「このたびの旅行の先々で、売られて奴隷の生涯に落ちた日本人を親しく見たときには、道義をいっさい忘れて、血と言語とを同じうする同国人をさながら家畜か駄獣かのように、こんな安い値で手放すわが民族への義憤の激しい怒りに燃え立たざるを得なかった」
「実際わが民族のあれほど多数の男女やら、童男・童女が、世界中の、あれほどさまざまな地域へあんな安い値で攫(さら)って行かれて売り捌(さば)かれ、みじめな賤役に身を屈しているのを見て、憐憫(れんびん)の情を催さない者があろうか」
情報通の豊臣秀吉は、このような日本人奴隷の海外への大量流失について問題視していた。最下層からはい上がった秀吉は、大名出身者にはない危機感があったのだろう。
豊臣秀吉がキリスト教を禁止した理由
彼が九州出陣中に発令したバテレン追放令に関連する史料(天正十五年六月十八日付覚、全十一条)には、次のような国内外を対象とした人身売買禁止令(第十条)が含まれている。
一、大唐・南蛮・高麗へ日本仁(人)を売り遣わし候事、曲事(くせごと)(たるべき事)、付けたり、日本において(は)人の売り買い停止の事、
秀吉の出陣によってもたらされた九州における戦国終焉(しゅうえん)の結果、おびただしい戦争奴隷を生み出した。それが中国・南蛮(東南アジアをさすのであろうが、ヨーロッパにも日本人奴隷はいた)・朝鮮国に売り飛ばされていたことが、この禁止令の前提にある。
翌日付でバテレン追放令が発令されていることからも、イエズス会やポルトガル商人が奴隷売買に関与した疑いを、秀吉がもっていたとみてよい。
宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』によると、秀吉が「予は商用のために当地方(博多)に渡来するポルトガル人・シャム人・カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国・両親・子供・友人を剝奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている」と語ったという。
日本人は「商品」としてポルトガル商人に売られた
また別の箇所では、「彼らは豊後の婦人や男女の子供を(貧困から)免れようと、二束三文で売却した」などと、生々しく戦争奴隷の実態を記している。
これらからは、島津軍に敗れた大友領の民衆が、たちまち人盗りの餌食になったことがわかる。逃げ惑う女性や子供を拐(かどわ)かして、それをきわめて安値で購入したポルトガル人や東南アジア人の商人によって、国外へと売り飛ばされていったのだ。
秀吉は、人身売買禁止令をはじめバテレン追放令や海賊禁止令(初令)といった画期的な全国令を、九州の地から次々と発令した。従来これらは、国内法として理解されてきたが、同時に外交を意識したものであった。
大航海時代の立役者であるポルトガル人は、危険を冒してインドから中国を経て日本へと各地に拠点を設けていった。宣教師たちも含めて、彼らは人種差別を常識としており、黒人などの奴隷を使役していた。そのような状況のもと、日本人は「商品」として彼らの拠点に売られていったと推測される。
ヴァリニャーノは、日本人が「きわめて忍耐強く、飢餓や寒気、また人間としてのあらゆる苦しみや不自由に耐え忍ぶ」ことに驚嘆している(『日本巡察記』)。このような特徴に、ポルトガル商人が着目したのかもしれない。
東南アジアに作られた日本人町
続いて、なぜ東南アジアに日本人の戦争奴隷が向かったのかについてふれておきたい。
例えば、最盛期には1000~1500人が居住したといわれるタイのアユタヤ日本人町は有名であるが、一四世紀中期から一八世紀頃まで、東南アジアにおいては広く日本人町が形成されていた。
戦国時代から織豊時代にかけて、主家の敗戦によって発生した大量の牢人たちが、日本を離れて東南アジアの日本人町に移り住んだことが知られている。
彼らは勇猛な傭兵として軍事力と経済力を蓄えており、アユタヤ国王に重用され日本人町の自治を支えたといわれる山田長政がその代表である。
ここには日本人女性が少なかったため、また当時盛んだった男色の需要に応えるかたちで、日本人戦争奴隷の受け入れ先になったのではなかろうか。海外への傭兵の大量拡散が、同時に戦争奴隷の日本人町への流入を促進したのであろう。
戦争の実態は人盗り、物盗り
中世において戦争は、常に人盗り・物盗りを伴うものであった。これこそ、軍隊の大部分を占めた百姓あがりの雑兵たちの目的だった。
これに対して、天下人たちはその禁止を掲げた。近世大名軍隊は、「公儀の軍隊」たることが義務づけられ、粛々と行軍して戦場に向かい、陣立書にもとづき戦闘を遂行することになっていたのである。
信長の晩年以来、軍法によって町や村などへの狼藉行為などは厳禁されたのであるが、秀吉の天下統一戦において禁圧することはできなかった。朝鮮出兵においては、朝鮮国の学者、陶工などの職人をはじめ、一般民衆も含めて日本国内各地に拉致した。
例えば、藤原惺窩に儒学(朱子学)を伝授した朝鮮人儒者姜沆(カンハン)の幽閉、有田焼・薩摩焼をはじめとするすぐれた陶磁器の誕生などが知られる。
それでは、人身売買禁止は戦国の終焉を告げた大坂の陣までに実現したのだろうか。
大坂夏の陣直後の元和元年五月、醍醐寺僧侶の義演は戦場で「女・童部」の掠奪が多発していることを書き記している(『義演准后日記』)。
屏風絵に書かれた上半身裸で命乞いする女性の姿…
これに関連して、人盗り・物盗りの現場を描いた生々しいシーンが、黒田屏風として知られる大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣所蔵)に描かれているので紹介しよう。それは、大坂落城の悲劇が活写された左隻に認められる。
そこには、華やかな小袖を着た若い娘が、なんと徳川氏の三つ葉葵紋の指物を差した雑兵たちに両手を取られて、今まさに拉致されようとしている。「公儀の軍隊」であるはずの幕府軍が、この為体(ていたらく)なのである。
続いて描かれているのが、神崎川を越えて北摂の郷村地域に避難しようとする民衆に襲いかかる野盗や追いはぎたちである。彼らが、幕府方の雑兵である可能性は否定できない。上半身裸の女性が彼らに命乞いする姿は、誠に哀れである。
大坂夏の陣の翌年にあたる元和二年(一六一六)十月に、江戸幕府は次の人身売買禁止令を発した。
一、人の売買の事、一円停止たり、もし売買濫(みだり)の輩は、売損・買損の上、売らるる者は、その身の心にまかすべし、ならびに勾引(かどわかし)売りにつきては、売主は成敗、うらるる者は本主(人)へ返すべき事、
ここで人身売買は一切禁止とし、もしみだりに取引した者は売損・買損とされ、かどわかし売りについては、売った者は死刑と定められたのである。
この法令は、従来の解釈のような元和偃武が実現したことにあわせて、はじめて幕府が発令したものではなく、以前からの法令を改めて出したものとみられる。これには、関連する同年十月二十九日付朽木元綱宛板倉勝重書状(『朽木家文書』)がある。
江戸幕府も人身売買を厳禁としていたが…
京都所司代であった板倉勝重は、京都でかどわかされて売られた女性たちについて、先年のごとく近江国でも女改めをするように将軍徳川秀忠から仰せつけられたので、領分でも若狭に抜けてゆく女性たちについては改めるようにと朽木元綱に指示し、あわせてかどわかされた「十五歳より下」の男童部(わらべ)についても改めるように依頼している。
なお、朽木氏とは近江国朽木谷(滋賀県高島市)で九千五百九十石を領した大身旗本である。
女性に対する改めとは、具体的には関所で「手形」すなわち女性の通行許可書である女手形の所持をチェックすることである。女手形は、江戸幕府の草創期から大留守居(幕府の職掌で大身旗本が任じられた)とは別に、朝廷や豊臣氏に対する監視と折衝が任務であった京都所司代も発行していた。
これまで京都所司代の発行した最古の女手形は、元和七年二月十日付で勝重の嫡男重宗が「京都より佐渡まで女改奉行衆」にあてたものとされてきたが、先の勝重書状案によって、元和二年十月以前から発行されていたことが判明した。
この初期史料からは、近江国において元和二年を画期として人身売買の禁止が強化されたことがうかがわれる。同年十一月には、元綱の子息宣綱が朽木氏領内の女改め関所の様子を将軍徳川秀忠の年寄衆に伝えたことがわかる。
女性や男童部の改めとは、具体的には関所で検問して、女手形を所持していない女性や不審な男童は拘留し、詮議のうえ売買が明白な場合は解放することである。
勝重が、かどわかされ売買された女性や男童部が京都から若狭へ向かっていると認識していることから、大坂の陣によって大量に発生した戦争奴隷が若狭小浜などに集められ、東南アジア方面に売り飛ばされた可能性を示唆するであろう。
バテレン追放令から二十年を経ても、事態はなんら変化していなかったのだ。
泰平の世になっても存続した「女改め関所」
かどわかしたのは、外部から侵攻してきた幕府軍関係者とみなければなるまいが、深刻なのは翌年になってもこのような事態が終息していなかったことである。
東軍に属した大名たちはとうに帰国していたはずだから、「商品」となっていた女性や男童部が京都に相当に滞留しており、その一部が海外市場をめざして若狭へ送り込まれていたとみられる。
ここで、京都から若狭へと向かう街道沿いに設けられた女改め関所とその周辺を描いた絵図が伝存しているので掲げたい。それが、内閣文庫『朽木家古文書』下巻に収録された「近江国高島郡之内朽木兵部少輔(宣綱)領分朽木谷之絵図」の表題をもつ絵図である。
これは、縦70センチ・横81センチの方量で、全体に朽木領が描かれ、近江国今津から若狭国小浜に抜ける九里半街道沿いの山中村(滋賀県高島市今津町)に設けられた関所(山中関)が柵によって簡略に描かれ、その下に「女改御関所」と注記されている。
本絵図については、「内閣文庫が所蔵している江戸幕府関係古文書類の中に混入していたもの」と指摘されている。おそらくは、朽木宣綱が領内の関所の様子を知らせるために幕府に提出したものとみてよいだろう。
朽木領に設けられた女改め関所が、江戸時代を通じて存続・機能していたことからも、戦後処理のための時限立法とみられてきた元和二年十月の人身売買禁止令の評価については、再考の余地が生じる。
「鉄砲伝来」が日本人奴隷の海外流失をもたらした
それにしても、大航海の時代の到来によって、国内の戦禍がそのまま海外へと不幸を拡散したことは深刻である。
鉄砲伝来とその普及が、農村の若者の傭兵化を促進し戦争を大規模化させた。その結果が、大勢の日本人奴隷の海外流失へとつながったのだ。二度と故郷へは帰れない大勢の女性や子供たちの存在が、そこにはあった。
「公儀軍」だったはずの幕府軍が、禁止されていた人盗り・物盗りを堂々とおこなっていたのは象徴的である。
厳禁していた人身売買も、あくまでも建前だったとみざるをえない。拙著『戦国日本の軍事革命』で詳述したように、誕生したばかりの近世大名軍隊も、実態的には中世の軍隊がもつ野蛮性を十分には克服できないまま、天下泰平が訪れたのであった。
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戦国時代の日本は、ブラック社会であり、地獄であった。
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昔から日本には、奴隷の身分・階級・制度はなかったが人身売買はあった。
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中世キリスト教会・修道院は日本での布教活動資金と日本人の信者・改宗者を増やす為に、白人キリスト教徒商人による日本人輸出商売を助けていた。
バチカン、ローマ教皇は、キリスト教に改宗した日本人キリシタンを奴隷とする事を禁止したが、、改宗しない日本人は奴隷とする事を許した。
「隣人愛信仰」の布教活動により、日本人キリシタンは数十万人に急増し、長崎を教皇領として軍港要塞都市に改造し日本から分離独立させる計画が進められていた。
九州のキリシタン大名・領主は信仰の証しとして、積極的に教会や修道会の計画に協力していた。
それは、キリスト教による宗教侵略で、民族宗教国家日本が消滅するかもしれない存亡の危機であった。
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現代日本と諸外国の歴史教育や国際ジャーナリストは、昔から目の前に歴史的史料が山と積まれているのに、世界的日本人奴隷交易はなかったものとし、日本のキリシタン弾圧のみを人道に反する重犯罪と取り上げている。
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トライイット
ホーム社会中学社会中学歴史江戸時代武士による支配
中学歴史
身分別の人口の割合 幕末のごろ
総人口約3,200万人
百姓が全体の85% たった7%の武士はどうやって支配する?
江戸時代における、 身分別の人口の割合 が示されています。
一番多いのが 百姓 (農民)で、人口の85%を占めていますね。
その次に多いのが7%の 武士 です。
3番目に多いのが5%の 町人 ですね。
町人には2種類あり、 工業の担い手である工人と商業の担い手である商人 に分かれていました。
そのほかには、えた・ひにんといった被差別階級の人々1.5%
公家・神官・僧侶、その他1.5%。
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江戸時代は庶民の時代で、武士道は社会の片隅であった。
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庶民にとって、領主・大名・主君が誰であったも関係ない。
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戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
一説によると、ポルトガル商人による日本人奴隷の被害者は5万人以上。
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現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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日本人は、悪人、悪党、罪人である。
故に、親鸞はそうした救われない哀れな日本人は阿弥陀仏(阿弥陀様)が救ってくださると、「悪人正機説」で他力本願を説いた。
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