⚔30)─6・F─信仰を捨てイエズス会を脱会した棄教者千々石ミゲルの墓。~No.125 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
2023-09-06
⚔30)─6・C─何故、天正遣欧少年使節千々石ミゲルキリスト教を棄教したのか。~No.125 
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 キリスト教といっても、現代のキリスト教と中世のキリスト教は違う。
 キリスト教の神と福音・聖書には罪はない。
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 日本人は、キリスト教に改宗して国際人に生まれ変わる事を拒絶した。
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 戦国時代、中世キリスト教会・イエズス会伝道所群は、日本に対して宗教侵略を仕掛けていた。
 現代の日本は、中世キリスト教会・イエズス会伝道所群の活動を正しいと容認している。
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 日本人を奴隷としたキリスト教徒は祝福されて聖人とされ、日本人を奴隷から救いキリシタンを弾圧した異教徒は邪悪な悪魔とされた。
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 2024年5月14日 YAHOO!JAPANニュース nippon.com「〈ルポ〉遠藤周作『沈黙』の舞台、そして潜伏キリシタンの足跡を訪ねて
 《第8回》千々石ミゲルは本当に「信仰」を捨てたのか―天正遣欧少年使節の謎に迫 る【前編】
 天野 久樹(ニッポンドットコム) 【Profile】
 16世紀後半の戦国時代、長崎から船でヨーロッパにたどり着き、ローマ教皇に謁見(えっけん)した4人の“少年キリシタン”がいた。いわゆる「天正遣欧少年使節」である。彼らの偉業は、やがて禁教という歴史の波にのみ込まれるが、中でも数奇な運命をたどったのが千々石(ちぢわ)ミゲルだ。帰国後、4人の中でただひとり、棄教したといわれるミゲル。これは、彼の墓石を探し当て、20年の歳月をかけて真実の解明に挑んだ男たちの物語である。
 命懸けでローマを目指した少年大使たち
 1582年2月、1隻の南蛮船が長崎港を出港した。乗り込んでいたのは4人の少年とカトリック男子修道会「イエズス会」の巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノら。日本初のヨーロッパ訪問団「天正遣欧少年使節」である。
 4人の少年の名は、伊東マンショ千々石ミゲル原マルチノ中浦ジュリアン。有馬(長崎県南島原市)のセミナリヨ(神学校)でキリスト教をはじめ、ラテン語、地理学、天文学、数学、西洋音楽などを学んだ俊英たち。しかも、いずれも13~14歳の若さ。彼らのプロフィールを簡単に紹介する。
 伊東マンショ(正使)
 1569年頃、日向(宮崎県)国主・伊東義祐(よしすけ)の孫として生まれる。8歳の時、島津家との勢力争いに敗れた伊東家が、キリシタン大名大友宗麟が治める豊後(大分県)に逃れた際、キリスト教に出会う。宗鱗の遠縁にあたるということで、遣欧使節では宗鱗の名代に選ばれた。
 千々石ミゲル(正使)
 1569年頃、キリシタン大名大村純忠の弟である肥前長崎県)・釜蓋(かまぶた)城主、千々石直員(なおかず)の子として生まれる。千々石氏は龍造寺氏との戦いに敗れ、父と兄の死後、4歳の時に乳母と共に大村に逃れて洗礼を受け、有馬セミナリヨの第1期生となる。
 原マルチノ(副使)
 日本国内に彼の出自を示す史料は残されていない。イタリアに残る「ボローニャ元老院日記」の中に、「マルチノはハサミ生まれ、ナカヅカサの子」と記録されており、大村純忠の領地である波佐見の名士・原中務(なかつかさ)の子とみられる。生年は1569年頃。4人の中で一番の秀才とされる。
 中浦ジュリアン(副使)
 イエズス会ローマ文書館などに残る史料によると、肥前国中浦城(現・長崎県西海市)の城主・小佐々兵部純吉の息子の甚吾とされる。生年は1568年頃。父親が大村純忠軍を助けて戦死したのが縁で、純忠の息子の小姓として取り立てられた。
 1586年、ドイツ・アウグスブルクで発行された新聞に掲載された、天正遣欧少年使節の記事と肖像画。中央は引率のメスキータ神父、右上が伊東マンショ、右下が千々石ミゲル、左上は中浦ジュリアン、左下は原マルチノ (京都大学附属図書館蔵)
1586年、ドイツ・アウグスブルクで発行された新聞に掲載された、天正遣欧少年使節の記事と肖像画。中央は引率のメスキータ神父、右上が伊東マンショ、右下が千々石ミゲル、左上は中浦ジュリアン、左下は原マルチノ (京都大学附属図書館蔵)
 何度も大しけにあったり熱病や赤痢にかかったりするなど、航海は困難を極めた。一行が南アフリカ喜望峰回りでポルトガルリスボンに到着したのは、1584年8月10日、出発から実に2年半が経っていた。
 長崎県大村市歴史資料館では、天正遣欧少年使節について学べる体験型のデジタルコンテンツを常設展示している 画像提供=チームラボ
 「文明人化された」日本人をアピール
 ローマ教皇庁などに宛てた書簡には、4人はキリシタン大名である大友宗麟有馬晴信大村純忠の名代とされていた。だが実際には、少年遣欧使節はヴァリニャーノが自ら企画・演出したものとみられる。
 ヴァリニャーノは、使節派遣の目的として以下の2点を挙げている。
 第1に、ヨーロッパの人たちに「文明人化された」日本人の姿を見せることで、イエズス会の布教の成果をアピールし、ローマ教皇とスペイン・ポルトガル両国王に日本での布教活動へのさらなる援助を求めること。
 第2に、少年たちにヨーロッパのキリスト教世界の偉大さを肌で感じさせ、帰国後、日本人による布教を進める土台作りとすること。
 一般の西欧人にとって日本は「地の果ての国」。使節団を迎える人たちの中には、4人を珍奇な動物でも見るかのような者もいた。イメージダウンにつながるような失態は絶対に許されない。
 4人は、こうしたヴァリニャーノの期待に応え、見事に親善大使の重責を果たす。
 天正遣欧少年使節の行程図
 当時、「太陽の沈まぬ国」とうたわれたスペインを統治していたのはフェリペ2世ポルトガル国王も兼ね、ローマ教皇に匹敵する力を保持していた彼は、マドリードで謁見した少年たちの毅然かつ知性あるふるまいに感動。旅が滞りなく進むよう、使節が向かう都市の市長や行政長官らに書簡を送り、彼らを歓待し、旅の資金を提供するよう指示したという。
 その後、一行はローマに入り、バチカンサン・ピエトロ大聖堂教皇グレゴリウス13世との謁見に臨む。少年たちは枢機卿会議の場で国王使節並みのもてなしを受けた。
 バチカン図書館に1枚の壁画がある。グレゴリウス13世の急逝後、新教皇となったシクストゥス5世の即位パレードを描いた絵の中に、晴れやかな笑顔を振りまきながら馬にまたがり、さっそうと行進する4少年が描かれている。
 (左)教皇グレゴリウス13世と謁見したバチカンサン・ピエトロ大聖堂 ロイター (右)4人はヴェネツィアも訪問した。サン・マルコ広場前の港は、使節を歓迎する船であふれたという 写真=天野久樹
 (左)教皇グレゴリウス13世と謁見したバチカンサン・ピエトロ大聖堂 ロイター (右)4人はヴェネツィアも訪問した。サン・マルコ広場前の港は、使節を歓迎する船であふれたという 写真=天野久樹
 歴史の荒波にのみ込まれた4人
 日欧外交史にさんぜんと輝く足跡を残した4人は、1586年4月、帰国の途に就く。88年8月にマカオに着くが、ここで驚愕(きょうがく)の情報を耳にする。前年(87年)に豊臣秀吉が出したバテレン(宣教師)追放令である。
 ただ秀吉は、90年7月、8年半におよぶ長旅を終え、見違えるような青年になって長崎に戻って来た4人を、京都の聚楽第(じゅらくだい)に招いて歓待した。ルイス・フロイスが記した『日本史』によると、秀吉は使節が献上した数々の贈り物の中でも、とりわけアラビア馬を気に入り、ポルトガル人調教師が騎乗して馬術を披露すると絶賛したという。
 だが江戸時代に入り、全国にキリスト教禁教令が発布されると状況は悪化。長崎や大村、島原など各地で多くのキリシタンが命を落とす。
 使節団のリーダーを務めた伊東マンショは、九州・中国地方で布教活動を行っていたが、12年に長崎で病死。「語学の天才」でラテン語の翻訳でも活躍した原マルチノは、14年に国外退去を命じられてマカオに渡り、29年に同地で亡くなる。中浦ジュリアンは日本にとどまり20年もの間、宣教活動に努めたが、ついに捕らえられ、33年、長崎において穴吊りで処刑された。
 世界遺産マカオ歴史地区にあるサン・パウロ教会。火災によって現在は正面の壁だけが残る。原マルチノは小聖堂の祭壇の下に葬られたといわれるが、今そこに彼の遺骨はない PIXTA
 ところが──3人の同志がいずれも司祭としての責務を全うして亡くなる中、ただひとり、千々石ミゲルだけがイエズス会を脱会し、棄教したというのだ。
 イエズス会の史料によると、ミゲルが脱会したのは1601~03年頃とみられる。そして、名を清左衛門と改めて藩主の大村喜前(よしあき)に仕え、妻をめとり4人の子に恵まれた、とある。が、06年に大村藩キリスト教を禁教とすると大村から逃れ、有馬、長崎と渡り歩いたという。
 イエズス会脱会の理由や晩年の様子、いつどこで亡くなったのかは分からない。ただ、歴史書などの“定説”では、千々石ミゲルは「使節団の中でただひとり棄教した者」として、背信者の烙印(らくいん)を押されてきた。
 ミゲルの墓石を見つけた!
 すべては21年前の1本の電話から始まった。
 2003年9月、石造物研究家で長崎県立口加(こうか)高校教師の大石一久は、埼玉県在住の宮崎栄一から、ある依頼を受けた。
 「実は伊木力(いきりき)に玄蕃(げんば)の墓があるんですが、近いうちにぜひ、一緒に見てもらえないでしょうか」
 伊木力は長崎県諫早市西部、大村湾の南奥部沿岸に位置する丘陵地で、古くからみかんの産地として知られる。
 「玄蕃」とは、大村藩の史料によると千々石清左衛門、つまりミゲルの四男とされる。宮崎は、玄蕃の次女が嫁いだ岩永家と自分の母方の系譜がつながるという縁から、以前から千々石氏一族を“追いかけて”おり、大村市の歴史同好会「大村史談会」の会誌にその成果を載せていた。
 大石は正直、乗り気ではなかった。というのも、近世の墓石は幕府の統制策のため全国どこでも同じ形式で、中世の石塔と比べ史料的魅力が乏しいからだ。
 3カ月後、現地に出向いて墓石を見て驚いた。
 墓石を長年管理してきた近所の井手則光によると、先祖代々、玄蕃の墓として祀(まつ)ってきたという。
 ところが、墓石の正面には2名の戒名と紀年銘が刻まれているだけだ。
 玄蕃の墓というのは単なる言い伝えなのだろうか?
 墓石の裏に回り込んでみると、片隅に小さく「千々石」の文字が読めた。思わずその下の土を手で払うと、そこには「玄蕃允」と刻まれていた。
 ご先祖たちがこの墓石を玄蕃の墓としていたのは、裏面に刻まれた人物名からだった。
 でも、これは明らかに玄蕃の墓ではない。通常、裏面の銘は施主を示す。
 「これは……玄蕃の両親の墓の可能性が高いと思います。つまり、千々石ミゲル夫妻の……」
 大石が興奮気味に声を上げると、宮崎さんがしばらく考えて言った。
 「そういえば、この墓石にまつわる言い伝えでも、玄蕃ではおかしいんです」
 井手が後を続けた。
 「この墓石には、大村に対して恨みを持って死んだので、大村の見えるこの地に、大村をにらみつけるように葬った、という伝承があるんです」
 大村藩の史料によると、玄蕃は大村純忠の死後、大村家の養子となり、玖島(くしま)城の二の丸に住んだ。だから玄蕃が大村藩を恨むはずがない。
 (左)大村湾を望む諫早市伊木力地区の高台に立つ墓石(右)墓石の裏に刻まれた「千々石玄蕃允」の文字 写真=天野久樹
 (左)大村湾を望む諫早市伊木力地区の高台に立つ墓石(右)墓石の裏に刻まれた「千々石玄蕃允」の文字 写真=天野久樹
 「千々石ミゲルの墓石」発見当時を振り返る大石一久(左)と井手則光  写真=天野久樹
 墓所の土地所有者を探せ
 大石は、伊木力墓石と千々石玄蕃との関係をまとめ、翌04年2月、記者発表した。ただ、報道陣には「千々石ミゲルのものとみられる墓石」とだけ説明し、「ミゲルの墓」との断定は避けた。
 最終的に千々石ミゲルの墓と確定するには、墓所を発掘調査する必要がある。地元・多良見町(現・諫早市)の西平隆町長も同様の見解を示した。
 これまで天正遣欧使節の4人の墓所は誰ひとりとして見つかっていない。伊木力墓石がミゲルのものと確定されたら、それは歴史的快挙である。
 だが、大石はそんなことよりも、ただ純粋に知りたかった。
 「ミゲルは本当に棄教したのだろうか?」
 墓所を発掘すれば何か分かるかもしれない。
 この土地の所有者はいったい誰で、どこにいるのか──。20年におよぶ大石たちの“捜索作業”がスタートした。
 (後編へつづく)
 バナー写真:長崎空港への入り口、長崎県大村市の森園公園に立つ「天正遣欧少年使節顕彰之像」。1982年、一行の長崎出港から400年目を記念して建てられた。左から伊東マンショ千々石ミゲル原マルチノ中浦ジュリアン 写真=天野久樹
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 遠藤周作『沈黙』の舞台、そして潜伏キリシタンの足跡を訪ねて 天正遣欧少年使節の謎に迫る―千々石ミゲルは本当に「信仰」を捨てたのか【後編】
 天野 久樹(ニッポンドットコム)
 「天正遣欧少年使節」の中で最大の謎とされる千々石(ちぢわ)ミゲルの後半生。4人のメンバーの中でミゲルだけがイエズス会を脱会し、棄教したと伝えられる。だが、そうした“定説”に疑いを抱いた石造物研究家の大石一久さんは、ミゲルの遠い子孫にあたる浅田昌彦さんと共に、真相究明のため「ミゲルの墓石」の発掘調査に乗り出す。苦節20年を経て2人がたどり着いたゴールとは──。
 「ミゲルの墓」の所有者を探し当てる
 長崎歴史文化博物館の主催で今年3月23日に初開催された千々石ミゲル夫妻の墓石を訪ねるツアー。長崎県内外から多くの参加者があり、大石一久さんの解説に熱心に耳を傾けた
 大石は、長崎県多良見町(現・諫早市)山川内(旧・伊木力村)の山中にあり、地元住民らから「玄蕃(げんば)さんの墓石」と呼ばれる墓石を、代々伝えられてきた千々石玄蕃の墓ではなく、千々石ミゲル夫妻のものと確信した。
 その根拠は、まず墓石に刻まれた銘文である。正面には「自性院妙信」「本住院常安」の2つの戒名が刻まれている。前者は女性、後者は男性、しかも、「寛永九年十二月」「十二日」「十四日」と亡くなった年月日も刻まれており、ある夫妻のための墓石と考えられる。
 一方、裏面に刻まれた「千々石玄蕃」の主は、大村藩の史料によれば、千々石ミゲルから改名して同藩に仕官した千々石清左衛門の四男・玄蕃である。仮に玄蕃の没年を銘文にある寛永九年(1633年)とした場合、亡くなったのは20代前半~半ばと推定される。その年齢で夫婦が相次いで亡くなるとは考えにくい。ゆえに玄蕃は墓石の建塔者であり、“ある夫妻”のために建てたと考えるのが自然だ。
 ではその夫妻とは誰なのか。当時玄蕃と関わりのあった人間を徹底的に洗い出したところ、消去法で残ったのは彼の両親、すなわち千々石ミゲル夫妻だった。
 ただ、これはあくまで文献史料から導き出した結論に過ぎない。埋葬されている者を確定し、謎とされるミゲルの後半生を解き明かす手がかりがあるとすれば、墓石の下ではないか。こう大石は考えた。
 発掘調査をするには土地所有者の同意が不可欠だ。
 多良見町の町長が登記簿を探り出したところ、墓所の所有者は「浅田勤三郎」となっていた。
 墓石に刻まれた「妙法」の文字、そして戒名に院号が使われていることから、大石は日蓮宗の寺院と関係があるのではないかと目星を付け、長崎市琴海(きんかい)戸根町にある自證寺(じしょうじ)に出向いた。
 自證寺は1658年、大村藩城代家老の浅田家が建立した寺である。浅田家代々の位牌の中に、伊木力墓石に刻まれた夫妻の戒名を見つけた。続いて大村市内にある浅田家の墓所を訪ねると、数ある墓石の中に「浅田勤三郎」の名があった。
 同寺に残る浅田家の家系図によると、千々石玄蕃の長女が浅田家に嫁いでいた。
 これで伊木力墓石に大村藩城代家老の浅田家が深く関与し、明治以降もその関係が続いていたことが証明された。
 浅田勤三郎は1887年(明治20)に東京に居を移し、同年亡くなっていた。幸運だったのは、大石の知人である大村家の子孫が、勤三郎の孫と交流があり、電話番号が記されたはがきを保管していたことだ。はがきに記された電話番号にかけると、浅田家の第17代が川崎市に住んでいることが分かった。墓石所有者である浅田家の嫡流にたどり着いたのだ。
 「名もなき者」の正体を解明したい
 大石から自分が千々石ミゲルの末裔(まつえい)であることを伝えられた浅田昌彦は驚いた。「天正遣欧少年使節」と聞いても、そういえば昔学校の授業でやったな、という程度で、ミゲルの名は知らなかった。
 伊木力を訪問した浅田は、大石から千々石ミゲルはどういう人物であるか、詳しく説明を受けた。
 不可解なのは、自證寺にある浅田家の位牌の中にも、戒名だけで本名はなく、「名はない」と記されていることだ。なぜ本名を伏せざるを得なかったのかは分からない。ただ、「名もなき者」が誰かを明確にすることが、浅田家の17代当主である自分の使命ではないか、と思った。
 一方、地元でも発掘調査への期待が高まっていた。伊木力墓石の発見後、ミゲル生誕の地・雲仙市千々石町に「千々石ミゲル研究会」が発足。地元の多良見町でも「たらみ歴史愛好会」がミゲルに関する研究を開始した。
 ならば私費を投じて発掘調査を
 みかん畑に囲まれた高台の急斜面に立つ伊木力墓石(左下)。その前にはJRの線路が走り、遠くに大村湾が見える
 大石と浅田は、行政が腰を上げるのを待ち続けた。「ミゲルの墓発見」の記者会見では、ぜひ発掘調査をしたいと語っていた多良見町だが、墓所発見の翌年の2005年に多良見町諫早市と合併し、墓所調査の件は仕切り直しとなっていた。
 浅田は大石に相談し、あくまで墓所整備という形の私的調査ということで、2009年、市の指導の下、発掘の準備に取り掛かる。
 まずは、土地所有者を曾祖父の勤三郎から昌彦に変更しなければならない。勤三郎は120年前に亡くなっているだけに、未知の相続人が十数人おり、順番にお願いをして回り、1年近くを要した。続いて工事の費用と期間はどのくらいかかるのか、人手の確保は? 当時、浅田は50代初め、働き盛りのサラリーマン。有休をフルに使って川崎と長崎を往復した。
 特に重要だったのは発掘調査の時期だ。墓石の周囲は特産伊木力みかんの栽培地。米作も行われており、作業できるのは農閑期の8~9月に限られる。ただうれしいことに、地元の人たちがボランティアで作業を手伝ってくれることになった。
 別府大学教授で文化財研究所所長の田中祐介氏を調査担当に招き、大石が統括者となって墓石発見から10年後の2014年9月、ようやく発掘調査が始まった。
 1回で終わると思ったが……
 墓石の前を掘ると、すぐに分厚い石積みが現れた
 「当初は1回で終わると思っていた。とにかく墓石の前を掘れば骨が出てくるだろう。もしロザリオとか出てくれば、カトリック信者だった証明になる」
 と浅田は振り返る。
 ところが、いざ掘ってみたら、いきなり分厚い石積みにぶつかった。手作業では太刀打ちできない。1週間で調査を諦めた。
 ただ収穫もあった。ひなびた山中の草生(む)した所にある自然石のお墓が、実は石組みの大きな基壇に据えられていた墓石であることが分かったのだ。
 「これは豪族クラスの墓だぞ」と大石は思った。
 試しに地中をレーダー探査すると坐棺と思われる影が現れた。これなら基壇を壊さなくても大丈夫だろう。
 2016年9月、第2次調査が行われた。ところが今度は、玉砂利をよけると石層が現れた。50センチ以上掘っても石層は続く。これ以上掘ると墓石自体が倒れる危険があったため、またも調査を断念した。
 地元住民たちも立ち上がる
 これまでボランティアで作業を手伝ってくれた人たちを前に、浅田は頭を下げた。
 「申し訳ないが、これ以上私財を投じて調査を続けるのは、サラリーマンの身では無理です。残念だが発掘調査はこれで終わりにします」
 すると、彼らは口々に浅田に声を掛けた。
 「第1次、第2次と調査を手伝ってきて、こんなにすごい人のお墓が地元にあったのか、とうれしくなった。俺たちもがんばるから……」
 1カ月後、多良見町出身で元長崎県副知事の立石暁を中心に、地元の有志らが「千々石ミゲル墓所発掘調査実行委員会」を結成し、資金集めに乗り出した。
 妻の信心具、そしてミゲルの遺体を発見!
 翌2017年9月に行われた第3次調査は、過去2回とは比較にならないくらい大規模なものとなった。墓石と基壇をクレーンで持ち上げると石の蓋が現れた。石を外すと中は空洞で、ビーズやガラス片といった副葬品が出てきた。
 「やったぞ!」と声が上がった。
 大腿骨などの骨と歯の一部も見つかり、長崎大学で分析したところ女性のものと分かった。ミゲルの妻だ。
 でも、もう一体の遺体が見つからない。
 戒名が2つ刻まれているから、遺体も2体が出てこないとおかしい。絶対にミゲルがいるはずなのに……。
 残念ながらここでタイムリミットとなった。
 キリシタンの遺物は出てきた。妻がカトリック信徒であるならば、ミゲルもキリシタンのまま亡くなった可能性は極めて高い。
 浅田は実行委員会のメンバーたちに第4次調査の実施を相談した。
 だが彼らは、第3次調査で700万円を超える寄付を全員で集め、発掘調査でもボランティアで汗を流してくれていた。それを再び繰り返すのには限界があった。
 浅田は覚悟を決めた。改めて自分も前に出るしかなかった。
 第4次調査は第3次以上に規模が大きくなる。掘り出す範囲を倍ぐらいに広げなければならない。浅田は、定年延長の途中で会社を辞め、発掘作業に専念していた。もう私費だけでは無理だった。
 すると第3次調査で作業を手伝ってくれた長崎市の測量会社が、クラウドファウンディングと公式ホームページの立ち上げを提案し、その作業を引き受けてくれた。さらに各地で講演会を開催し、聴講者らに募金をお願いした。
 こうして合計1000万円を超える資金が集まり、コロナが落ち着いた2021年8月、ラストとなる第4次調査がスタートする。もちろん、第3次調査で活躍した地元の人たちも引き続き支援してくれた。
 予期した通り、もう一体、成人男性とみられる遺体が出てきた。
 千々石ミゲル夫妻伊木力墓所の全体遺構配置図 左の墓壙から成人男性の遺体、右の墓壙から成人女性の大腿骨や歯、ビーズなどの副葬品が出土した
 学識者で構成する千々石ミゲル墓所発掘調査指導委員会で審議を重ねた末、委員長の谷川章雄・早稲田大学人間科学学術院教授(前・日本考古学協会会長)は「千々石ミゲル夫妻の墓所で間違いないという判断に達した」と答申した。
 指導委員会が出した結論をもとに、大石と浅田は膨大な量の報告書と分析書を2年がかりで作成し、今年3月下旬、関係自治体を回って提出した。
 この5月18日には、諫早市美術・歴史館で支援者たちへの最終報告会を開き、これをもって20年にわたるプロジェクトは幕を閉じる。
 「宗教の普遍性」を追い求めたミゲル
 20年かけて伊木力墓石が千々石ミゲル夫妻の墓であることを証明した浅田昌彦さん(左)と大石一久さん
 結局のところ、ミゲルは「信仰」を捨てたのだろうか?
 浅田は「そのことについて自分は踏み込まないことにしている。自分が何か意見を言うと、ミゲルの子孫というバイアスがかかっている、と思われるかもしれないし、それは専門家の皆さんの知見にお任せします」と話す。
 「もちろん、ミゲルの名誉が回復されたならそれはうれしい。でも何よりもうれしかったのは、地元の皆さんが主体となった発掘調査が実現したこと。これは後で分かったことですが、民間による遺跡発掘調査はとても珍しいことなのです」
 一方、大石にとって20年間、心の支えとなったのは、「ミゲルは背教者ではない」との強い思いだった。
 「イエズス会を退会したのは事実。でも、キリスト教を捨て日蓮宗に改宗した、というのは、宣教師たちが書簡の中で語っているだけ。今回の調査で、棄教はしていないことがほぼ証明された。お墓の中からミゲルは、自分の名誉を回復してくれてありがとう、と喜んでいると思う」
 墓石調査を始めたばかりの頃、ミゲルの故郷・千々石町カトリック信者の聞き取り調査をした。その時のある老人の言葉が忘れられない。彼は昔、平戸で働いていた時、同僚から「お前は千々石町出身か。だったら“鬼ん子”だな」と言われたという。
 「鬼ん子」がミゲルの代名詞だったのだ。
 まさか、そんなひどい言葉で語り伝えられていたとは想像もしていなかった。が、同時にこうも思った。
 「逆に、そこまでバッシングするということは、そうせざるをえない何らかの理由がキリスト教界側にあったのではないか」
 戦国時代、イエズス会は日本での布教に際し、寺社破壊など非人間的な行為を繰り返した。さらに、伊勢神宮を破壊する計画を立てているとか、ポルトガル商人が日本人奴隷を海外に売るのを黙認しているといった疑いもあった。これらが秀吉がバテレン追放令を出す背景にあったといわれる。
 「ミゲルはこうしたイエズス会の負の部分も見続けてきた。彼は純真な男だから、不信感や失望が積み重なり、バッシングも覚悟の上で脱会を決意したのではないか」
 日蓮宗に改宗して大村藩に仕官した、というイエズス会側の証言も、史実には一致しない。というのも当時、大村藩領のキリシタン信徒数は最盛期を迎えていたのだ。
 「ミゲルの従弟にあたる藩主の大村喜前は、キリシタン王国を築くためにミゲルを迎え入れたのではないか。墓の立派さから考えても、彼の後半生は、よく言われる“枯れない雑草”となって路頭をさまよう哀れな背信者、などではなく、晴れ晴れとしたものだったと思う」
 少年使節として欧州に渡った際、ミゲルはこう語ったという。
 「(自分は)全世界に直属する一個の住民であり市民だ」
 「彼の意識の中には、『世界市民』という理想が常にあった。だから、最後まで『宗教の普遍性』を第一に考え、インカルチュレーション(伝道先の異文化を導き入れて土着化すること)の重要性を認識し、日本人の伝統や文化も大切にしていた。これが私がたどり着いた結論です」と大石は締めくくった。
千々石ミゲルゆかりのスポット
 天野 久樹(ニッポンドットコム) AMANO Hisaki
 ライター(ルポルタージュ、スポーツ、紀行など)、翻訳家。ニッポンドットコム編集部エディター。1961年秋田市生まれ。早稲田大学政治経済学部、イタリア国立ペルージャ外国人大学イタリア語・イタリア文化プロモーション学科卒業。毎日新聞で約20年間、スポーツ記者(大相撲・アマ野球・モータースポーツ担当)などを務める。著書に『浜松オートバイ物語』(郷土出版社/1993年)、訳書に『アイルトン・セナ 確信犯』(三栄書房/2015年)。
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