⚔43)─1─タイオワン事件と鎖国令。浜田弥兵衛と末次平蔵。寛永5(1628)年。~No.173No.174 ⑭ 

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 マルクス主義史観とキリスト教史観に基づく日本人は加害者であるという日本史教育を書き換えるべきである。
 現代の歴史教育は、日本民族の歴史が嫌いになるように作成されている。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)
 浜田弥兵衛 はまだやひょうえ
 生没年不詳。江戸初期の朱印船貿易船船長。江戸初期、日本の輸入品中最大の中国産生糸は、おもに中国商人との台湾での出会(であい)貿易によりもたらされていた。しかし1624年(寛永1)オランダは台湾にゼーランディア城を築いて根拠地として以来、日本の貿易船に対し新たな課税を行うなど、圧迫干渉を加えるようになった。25年長崎代官末次平蔵(すえつぐへいぞう)の朱印船船長として弥兵衛が台湾に渡航した際、長官マルティヌス・ソンクはその貿易を妨害したので、彼は同地の住民を連れて帰り幕府に訴えた。その後オランダ側の事情説明のため新長官ヌイツが大使として来日したが、目的を果たせず帰った。28年、弥兵衛は、平蔵の持船二隻に貿易資金のほか多くの武器・火薬を積み、470人の乗組員を率いて、武力に訴えても貿易を強行する意志で台湾に渡った。ヌイツは弥兵衛を城内に抑留し、貿易も差し止められた。しかし弥兵衛らは機をうかがい、逆にヌイツを捕らえ人質としたので、オランダ側と和議が成立し、同年7月長崎に戻った。幕府もオランダの態度に不満をもち、来日オランダ船の抑留、蘭(らん)館の封鎖、貿易禁止などを行い緊張したが、オランダ側が32年責任者ヌイツを幕府に引き渡すなどして事態は好転し、貿易も再開された。弥兵衛とその子新蔵は、その後島原の乱に際して功をたて、のち新蔵は細川家に仕官した。
 [沼田 哲]
 『川島元次郎著『朱印船貿易史』(1921・巧人社)』▽『永積洋子著『平戸オランダ商館日記』(『日記記録による日本歴史叢書7』所収・1981・そしえて)』
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 朝日日本歴史人物事典「末次平蔵」の解説
 末次平蔵  すえつぐ・へいぞう
 没年:寛永7.5.25(1630.7.5)
 生年:生年不詳
 近世初頭の朱印船貿易家,長崎代官。父は末次興善,兄は与三郎広正宗得といい博多の豪商。元亀2(1571)年ごろ長崎に移り,金屋町(のち興善町)に住み,乙名役であった。町方の有力者として,長崎貿易に従事し,財力を蓄積していた。元和2(1616)年代官の村山等安の支配を憎んで,幕府に告発した。等安はもともと末次の配下の者であったが,奸計によって豊臣秀吉に信任され,主人を追いこして長崎代官になり,平蔵は快く思っていなかった。そこで,等安の長崎における苛政と,大坂の陣で等安の息子が大坂方に味方したこと,海外に追放されかかったキリシタンを途中で連れ帰り,自宅にかくまっていたことなどを告発,対決の結果等安は江戸で斬罪となった。こうして元和4年平蔵が長崎代官に任命され,長崎外町を支配し,外交・貿易・市政に関与した。元和・寛永期(1615~44)には朱印船貿易の主流のひとりであったが,末次船の台湾渡航のことから,台湾のオランダ商館長P.ヌイツと関税のことで紛争となり,平蔵は幕府に強硬外交の展開をすすめ,寛永5(1628)年自分の持ち船2艘に武装船員470人余を乗り組ませ,船長浜田弥兵衛に対決を命じ,ついに台湾事件(浜田弥兵衛事件)を引き起こした。この事件直後平蔵は狂って病死。春徳寺に葬られたが墓石は現存しない。子孫は代々代官職を継承したが,4代にして延宝4(1676)年不正があってお家断絶となった。平蔵以後幕府の外交政策が消極化し,外国とトラブルを起こさぬよう寛永鎖国となっていく。<参考文献>『増補長崎略史』上下,『長崎市史』,『長崎県史』,川島元次郎『朱印船貿易史』,岩生成一『新版朱印船貿易史の研究』,幸田成友『日欧通交史』,中田易直『近世対外関係史の研究』
(中田易直)
 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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 浜田 弥兵衛(旧字体:濱田彌兵衞、旧仮名遣い:はまだ やひゃうゑ、生没年不詳)は、江戸時代初期の朱印船の船長。長崎の人。1627年に起こったタイオワン事件(ノイツ事件)の実行者。1915年(大正4年)、贈従五位
 タイオワン事件
 詳細は「タイオワン事件」を参照
 寛永の頃までに日本では朱印船貿易が盛んになっていたが、その交易先のひとつで明国との非公式な貿易を行う際の中継基地的な重要性があったのが高砂(台湾)だった。そこにオランダ東インド会社が進出してこれを占領(1624年)、ゼーランディア城を建てこの地における交易には一律10%の関税をかけはじめた。
 寛永4年(1627年)、長崎の貿易商・末次平蔵の朱印船の船の船長だった弥兵衛は、幕府の後援をうけて、オランダ総督ピーテル・ノイツを人質にし、オランダに関税撤回を要求。オランダはこれをのみ、高砂自由貿易地にすることに成功した。
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 タイオワン事件、別名ノイツ事件は、1628年(寛永5年)に長崎代官の末次平蔵とオランダ領台湾行政長官ピーテル・ノイツとの間で起きた紛争。
 「タイオワン」とは台南市安平区の当時のオランダ名で、「台湾」という国名の由来。台湾では浜田弥兵衛事件(濱田彌兵衛事件)と呼ばれる。
 経緯
 朱印船貿易と台湾
 朱印船貿易が行われていた江戸時代初期、明(中国)は朱元璋以来冊封された国としか貿易を行なっていなかった上に朝鮮の役による影響により日本商船はほぼ中国本土に寄港することはできなかった。そのために中継ぎ貿易として主な寄港地はアユタヤ(タイ)やトンキン(ベトナム)などがあり、また台湾島南部には昔から明(中国)や日本の船などが寄航する港が存在した。
 当時、日本、ポルトガル王国ポルトガル)、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)、イギリス第一帝国(イギリス)の商人が日本貿易や東洋の貿易の主導権争いを過熱させる時代でもあり、1622年(元和8年)には明(中国)のマカオにあるポルトガル王国居留地ネーデルラント(オランダ)が攻撃した。
 しかし敗退したネーデルラント(オランダ)は対策として台湾の澎湖諸島を占領し要塞を築いてポルトガルに備えた。このことに明(中国)は大陸から近い事を理由に澎湖諸島の要塞を放棄することを要請し無主の島である台湾から貿易をすることを求めたため、2年後の1624年(寛永元年)、ネーデルラント(オランダ)は台湾島を占領、熱蘭遮(ゼーランディア)城を築いて台南の安平をタイオワンと呼び始める。オランダはタイオワンに寄港する外国船に10%の関税をかけることとした。中国商人はこれを受け入れたが、浜田弥兵衛(長崎代官で朱印船貿易家の1人でもある末次平蔵の配下)ら日本の商人達はこれを拒否した。これに対し、オランダはピーテル・ノイツを台湾行政長官に任命し、1627年(寛永4年)、将軍徳川家光との拝謁・幕府との交渉を求め江戸に向かわせた。
 ノイツの動きを知った末次平蔵も行動に出る。同1627年、浜田弥兵衛が台湾島から日本に向けて16人の台湾先住民を連れて帰国。彼らは台湾全土を将軍に捧げるためにやって来た「高山国からの使節団」だと言い、将軍徳川家光に拝謁する許可を求めた。しかし当時の台湾は流行り病が激しく皆一様に疱瘡を患っていたため理加という者のみを代表として拝謁させ、残りは庭に通すのみの待遇となった。彼らはあまりにも汚れていたため、城の者から2度と連れて来ないようにと言われたという話もあり具体的な話が進められたわけではなく、遠路から労いも含め皆、将軍家光から贈り物を授かり一旦帰国の途に着いた。しかしながら、結果としてノイツの家光への拝謁を阻止することに成功し、ノイツは何の成果もなく台湾に戻った。
 タイオワン事件
 フランソワ・ファレンタインの著書『Oud en Nieuw Oost-Indiën』より
1628年6月(寛永5年5月)タイオワン(台南・安平)のノイツは平蔵の動きに危機感を強め、帰国した先住民達を全員捕らえて贈り物を取り上げ監禁、浜田弥兵衛の船も渡航を禁止して武器を取り上げる措置に出た。この措置に弥兵衛は激しく抗議したがそれを拒否し続けるノイツに対し弥兵衛は、終に隙をついてノイツを組み伏せ人質にとる実力行使に出た。
 驚いたオランダ東インド会社は弥兵衛らを包囲するも人質がいるため手が出せず、しばらく弥兵衛たちとオランダ東インド会社の睨み合いが続いた。しかしその後の交渉で互いに5人ずつ人質を出しあい互いの船に乗せて長崎に行き、長崎の港に着いたら互いの人質を交換することで同意、一路長崎に向けて船を出した。無事に長崎に着くとオランダ側は日本の人質を解放、オランダ側の人質の返還を求めた。ところが、長崎で迎えた代官末次平蔵らはそのままオランダ人達を拘束、大牢に監禁して平戸オランダ商館を閉鎖してしまう。
 この事態に対応したのはオランダ領東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン。クーンは状況把握のためバタヴィア装備主任ウィルレム・ヤンセンを特使として日本に派遣したが、平戸藩主松浦隆信と末次平蔵はヤンセン江戸幕府3代将軍徳川家光に会うため江戸へ行くことを許さず、将軍家光の名を騙った返書を作成してヤンセンに渡した。その内容というのは主に、「先住民を捕らえ、日本人の帰国を妨害したことは遺憾である。代償としてタイオワンの熱蘭遮(ゼーランディア)城を明け渡すこと。受け入れれば将軍はポルトガルを憎んでいるのでオランダが貿易を独占できるように取り計らう」というものでヤンセンは将軍に会えないままバタヴィアにこの返書を持ち帰った。
 しかしヤンセンバタヴィアに戻ると総督クーンは病死しており、彼を迎えたのは新なオランダ領東インド総督であり、かつて平戸オランダ商館で商館長(カピタン)を勤めていたヤックス・スペックスだった。長年日本で暮らし日本と日本人を研究していたスペックスは、これが偽書であることをすぐさま見抜きヤンセンを再び日本に派遣した。
 収拾
 以後の具体的な内容を記録するものは日本側に残されていない。長崎通詞貞方利右衛門がオランダ側に語ったのは「平蔵は近いうちに死ぬだろう。」というもので、末次平蔵はこの後、獄中で謎の死を遂げている。当時の日本は鎖国体制に入ろうと外国との揉め事を極力嫌っていたうえ、オランダ側の記録には将軍が閣老達に貿易に関わる事を禁じていたが閣老は平蔵に投資をして裏で利益を得ていたため切り捨てられたらしいことが噂されているなどの記述がある。
 オランダは「この事件は経験の浅いノイツの対応が原因であるためオランダ人を解放してさえくれれば良い」とし、ノイツを解雇し日本に人質として差し出した。日本側は、オランダ側から何らかの要求があることを危惧していたが、この対応に安堵し、これが後に鎖国体制を築いた時にオランダにのみ貿易を許す一因ともなった。なお、ノイツは1632年から1636年まで日本に抑留されていた。
 1636年(寛永13年)、ニコラス・クーケバッケルの代理として参府したフランソワ・カロンは、5月3日[いつ?]の拝謁の際に将軍家光に銅製の灯架を献上。家光はこれを非常に気に入って返礼として銀300枚を贈った。この時、以前より平戸藩主からノイツの釈放に力を貸すよう頼まれていた老中の酒井忠勝がノイツの釈放を願うとすぐに許可された。カロンが献上した灯架(燈籠)は、その後日光東照宮に飾られ、今も同所に置かれている。
 1632年(寛永9年)閉鎖されていた平戸オランダ商館は再開。1634年(寛永11年)には日本人が台湾に渡ることは正式に禁止され、その後は鄭氏政権が誕生するまでネーデルラント(オランダ)が台湾を統治している。
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 末次 政直(すえつぐ まさなお、天文15年(1546年)ごろ - 寛永7年5月25日(1630年7月5日))は、江戸時代初期の博多貿易商人・長崎代官。通称の平蔵(初代)の名で知られる。室は飛騨高山藩金森可重の娘。
 生涯
 平戸出身の博多の豪商末次興善[2]の次男として生まれ、元亀2年(1571年)に長崎に移住。朱印船貿易で安南・シャムなどと貿易を行う。
 元和4年(1618年)に長崎代官の村山等安を訴える。翌元和5年(1619年)に等安が処刑され、代わって長崎代官となる。
 政直は「ジョアン」という洗礼名を持つキリシタンだったが、キリシタン禁教時代には棄教して仏教に転宗し、長崎奉行の長谷川藤正に協力してキリシタンの弾圧に手を貸す。そしてキリシタン探索の目明を各地に派遣し、キリシタンを公職から追放した。寛永3年(1626年)に長崎の地にキリシタン棄教令が発せられた時に、同じく棄教した長崎町年寄の高木作右衛門と共に、長崎奉行の水野守信に協力してキリシタンの弾圧を激しく行なう。
 タイオワン事件(ノイツ事件)を起こし、寛永7年(1630年)に江戸の牢獄に幽閉され、幕臣により斬殺される。幽閉・斬殺された理由は、幕府の重臣が禁止されている貿易に手を出していたことを知ったためとされるが、詳細は不明である。
 法名は雲証院殿華岳浄皎居士。菩提寺は華嶽山春徳寺。延宝4年(1676年)、4代茂朝の代に密貿易が発覚、一族は処罰され、政直の墓石も失われた。
 なお、政直が名乗った「平蔵」という名は、2代代官末次茂貞・3代代官末次茂房・4代代官末次茂朝も名乗っている。
 『長崎名勝図絵』には、末次茂房が父政直の石郭を造ろうとして、長崎氏の鶴城本丸跡にある竜頭巌と呼ばれる岩の一部を切り出そうとしたところ、岩の間から血が滲み出たと記されている。
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