⚔50)─2・A─鎖国策とは軍事力で宗教侵略から神国日本を守る為の最善の防衛策であった。岡本大八事件。〜No.214 

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 2023年3月9日 YAHOO!JAPANニュース「本多正信の子・正純は「岡本大八事件」に巻き込まれ、キリスト教は禁止された
 渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
 イエス・キリスト。(提供:アフロ)
 大河ドラマ「どうする家康」では、松山ケンイチさんが演じる本多正信が強い存在感を示している。今回は、正信の子・正純が「岡本大八事件」に巻き込まれた裏事情について考えることにしよう。
 慶長14年(1608)、有馬氏が朱印船を占城(チャンパーベトナム)に派遣し、帰航の途中でマカオに立ち寄った。有馬氏の乗組員がマカオで取り引きを行ったところ、ポルトガル人と乱闘事件となり、多数の死者を出す事態となった。
 この事件に関与したのがナウ船の司令官のアンドレ・ベッソアだった。翌年、ベッソアは日本航海司令官として長崎を訪れたのである。
 翌年、有馬晴信長崎奉行の長谷川藤広と結託してベッソアに報復を行うべく、家康にベッソアの捕縛と商戦捕獲の許可を求めた。
 家康は有馬氏らが報復することにより、ポルトガル貿易が断絶することを恐れた。ところが、スペインやオランダとの交易によって十分に補えると考え、有馬氏の要請を許可したのである。
 その結果、晴信は報復として長崎湾内でベッソアのデウス号を撃沈したのである。晴信は熱心なキリスト教信者であったため、この事件はイエズス会に大きな衝撃を与えた。
 本多正純の与力・岡本大八は、晴信と同じくキリシタンだったので、やがて誼を通じるようになった。大八は晴信に近づくと、龍造寺氏に奪還された肥前藤津地方の返還をするための運動資金と偽り、多額の金品を騙し取った。
 代わりに、大八は偽の知行宛行状を晴信に送った。問題が発覚したのは、晴信が知行宛行状のとおり、旧領が回復されなかったことを正純に問い合わせたからである。
 詐欺を行った大八が捕らえられると、彼の口から晴信が長崎奉行・長谷川左兵衛の暗殺を計画したことが暴露された。その結果、金品を騙し取った大八は火刑に処され、晴信は甲斐国に配流された。これが岡本大八事件の経緯である。
 事件の首謀者だった大八と晴信の2人はキリシタンだったので、家康はキリスト教を危険視するようになったのである。岡本大八事件をきっかけにして、家康はキリスト教の禁止に大きく舵を切った。
 当時、国内には約37万人ものキリスト教徒がいたといわれ、いつ幕府に反旗を翻すかもしれず、とても無視できない状況になっていた。慶長17年(1612)3月以降、家康はキリスト教禁止を明確に宣言し、まず駿府における摘発に乗り出した。
 やがて、禁教の波は各地に広がり、諸国に通達された。この間、キリスト教の教会は破却され、諸大名にキリシタン武士を抱え置くことを禁止した。しかし、京都所司代板倉勝重らの慎重論によって、一時は沈静する方向で進んだ。
 沈静した理由は、ポルトガルとの貿易という現実的な問題だったが、のちに家康は禁教に大きく舵を切った。そうした意味で、岡本大八事件は大きな意味を持ったのである。
 渡邊大門
 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
 1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校・中野校講師。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社、『戦国大名の戦さ事情』柏書房など多数。
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 4月10日17:00 YAHOO!JAPANニュース 夕刊フジ「「鎖国」はそれに見合う軍事力があったからこそ 宣教師などの介入工作を封じ、わが国は長い太平の世へ
 江戸時代、海外との交流が唯一許されていた長崎・出島の復元された建物群=長崎市
 【本当に強かった日本】
 徳川家康は、豊臣秀吉の死後、スペインなどとの緊張緩和、交易を目指すが、銀採掘技術をめぐる前フィリピン臨時総督、ロドリゴ・デ・ビベロとの交渉で、スペインの野心を知る。
 【写真】JR静岡駅北口広場内にある徳川家康公像
 ビベロは『日本見聞録』に次のように記している。
 「この広大にして繁栄する大国に侵入することは、スペイン国王にとって極めて有利。唯一欠けていることは、スペイン国王を、その国王としていないこと」
 「武力侵入は困難。メキシコ人は恐るに足りないが、日本人は弓や槍(やり)、刀を有し、長銃を巧妙に使う。スペイン人同様に勇敢なだけでなく、議論と理解の能力においても劣らない」
 そのうえで、ビベロは「日本―マニラの航海は天候良好なら15日で、5万人、10万人の派遣は可能だが、マニラ城内のスペイン人500人では多勢に無勢」と日本の国力(武力)を説明し、日本攻略はまず、「国民のキリスト教化」を図り、日本人キリスト教徒に政権転覆させるのが良いと説く。
 徳川幕府は1613年、全国に禁教令を出した。キリシタン大名高山右近らはマニラ追放となるが、豊臣秀頼方兵力の中心となり得るキリシタン有力浪人の国外追放の意味もある。
 徳富蘇峰は『近世日本国民史 徳川幕府鎖国篇』で、「秀頼は新たに軍兵を募り」「右近殿の子息そのほか追放耶蘇教徒の秀頼に加担せしもの少なくなかった」「秀頼の軍隊は、其間に多くの宣教師があった」と書く。
 大坂の陣の結果、キリシタン系の有力浪人は一掃された。
 蘇峰によると、19年、英国とオランダの東インド会社が各10隻の戦艦を出して艦隊を組織し、スペイン・ポルトガルの艦隊と対峙(たいじ)し、英蘭の利益を拡張するという英蘭条約が成立した。20年、英蘭軍艦各4隻が、長崎・平戸に集結したという。
 徳川幕府にとって、英蘭艦隊8隻が勝手に平戸に集結する事態は大問題である。2代将軍・秀忠は、外国軍艦の平戸集結を禁じる。英蘭は21年、マニラ・マカオ攻略のため、3000人の日本兵派遣を幕府に求める。国際紛争介入に慎重だった秀忠はこれを拒否した。加えて、武器輸出も禁じた(藤木久志著『雑兵たちの戦場』より)。英蘭はこれに従う。
 3代将軍・家光は、宣教師密入国の根を断つため、30年にその基地ルソンの征伐を企画し、密偵をルソンに送る。英国歴史書『日本1852』によると、この頃、喜望峰近傍でオランダ船がポルトガル船を拿捕(だほ)した。このポルトガル船より、キリシタンからポルトガル王宛の軍派遣要請の書簡が発見される。書簡は、国王に兵士、兵器の供給を要請し、キリシタンポルトガル人による徳川将軍放逐計画を提案していた。
 オランダは幕府に即通報、幕府は36年、直ちにポルトガル人・家族の追放を命じた。直後の37年に島原の乱が勃発する。「イエズス会は、…キリスト教徒たち全員に、3万名の火縄銃兵を整えてやることができた」(『イエズス会の世界戦略』)とあり、イエズス会は、この時のため武器蓄積をしていたことになる。
 これを鎮圧し、最後の侵略危機を乗り切ると、幕府は周辺大名に長崎砲台を築かせて鎖国を行い、宣教師などの介入工作を封じ、わが国は長い太平の世を迎える。
 英蘭軍艦寄港禁止や鎖国は、それを実行できる軍事力と、これを支える国力があったから可能となったと言ってよかろう。 (歴史探求家・内藤克彦)
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 日本には、大航海時代の中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による日本人奴隷交易(被害者として)と日本軍部・陸軍・A級戦犯によるポーランドユダヤ人難民(数万人)をホロコーストから守ったという人道貢献(実行者として)を世界記憶遺産に申請する資格・権利がある。
 これは、日本国家ではなく、生きている日本民族日本人としての責務である。
 日本人奴隷交易とA級戦犯の人道貢献には、その事実を証明する・裏付ける公文書・古文書・キリスト教会報告書など歴史的証拠が国内外に数多く残っている。
 もし、日本の申請が認められないというのならば、ユネスコとイコモスによる世界遺産世界文化遺産・世界記憶遺産には存在意義はない、無意味・無価値という事である。
 日本人奴隷交易の責任の一端は、乱取りで捕らえた日本人を奴隷として外国人に売った日本人にもある。
 A級戦犯が有罪となって見せしめ的リンチ縛り首で処刑にされた罪状は、政治家・官僚・軍人として戦争を始めた平和に対する罪であって、拷問・虐待・惨殺・虐殺を行った人道に対する罪ではなかった。
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 西洋キリスト教文明国からすれば、日本人はアフリカ人同様に奴隷もしくは人間以下の家畜、自由に殺してかまわない獣であった。
 バチカンローマ教皇は、改宗した日本人キリシタンを奴隷にする事は禁止したが、改宗を拒む異教徒日本人を奴隷とする事は認めた。
 宣教師達は、日本人を救う為に布教活動を行い、多くの日本人をキリシタンに改宗させた。
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