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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
怨霊信仰を持つ日本人は、キリシタンが死を捨てても守ろうとする絶対神の霊験を恐れ、その信者を処刑すると怨霊となって災いをもたらすと恐怖を感じていた。
血と死を「穢れ」として嫌う日本人は、殉教を望むキリシタンを処刑して血を流す事を嫌い、殺さない方法として棄教を強要する拷問を行い、嘘でも棄教を誓えば放免して元の生活を許した。
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スペインとポルトガルは、日本が有する軍事力が世界帝国並みで、その動員力と海上輸送力に度胆を抜かし戦っても勝てないと恐れた。
宣教師達も、スペイン・ポルトガル両国の軍事力を持ってしても日本には勝てないと諦め、弱体化した明国であれば征服可能であると報告した。
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キリスト教原理主義者は、日本のキリスト教化は日本人キリシタンの自主性に任せるべく、日本に潜伏しキリスト教を広めようとした。
全国には、30万人以上のキリスト教徒がいた。
総人口約1,200万人。
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徳川家康と江戸幕府は、狂信者による宗教戦争を恐れた。
宗教戦争を起こさない為には、如何なる宗教も超えられないただ一つの究極権威を作り、その究極権威の下に全ての宗教を支配させる事である。
その究極権威が、天皇の権威である。
天皇の権威は、現実の宗教権威ではなく、精神・心、道徳・良心の権威である。
表に出る現実の宗教権威は、仏教であった。
キリスト教弾圧を行ったのは、宗教では仏教であり、政治では儒教である。
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日本に宗教戦争を仕掛けてきたのは、日本ではなく中世キリスト教であった。
宣教師と日本人キリシタンは、日本をキリスト教化する為に、キリシタン大名の領地にあった全ての神社仏閣を破壊し、キリシタンではない日本人を軽蔑し差別していた。
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世界は、日本を犯罪国家、日本民族日本人を犯罪者と決め付け、如何なる弁明も、如何なる釈明も、どんな言い訳も、一切認めない。
それ故に、世界は日本人が奴隷として売買していた事は正しい取引であったとして、奴隷の歴史から抹消している。
現代日本人さえ、祖先が白人キリスト教徒商人によって奴隷として海外に売り飛ばされた歴史的事実を日本の歴史から抹消している。
日本民族日本人、日本国は、諦め、絶望して生きるしかない。
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憎むべきは、中世キリスト教会・キリスト教原理主義者であって、現代のキリスト教会・日本人キリシタンではない。
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キリスト教自体は、世界中に存在する宗教の中で最も理想的な宗教である。
問題は、人間であって、宗教ではない。
宗教が悪いからと言って、マルクス主義(共産主義)の反宗教無神論を信じる事は最も忌避する事である。
反宗教無神論は、宗教よりも最悪である。
歴史上大虐殺を繰り返したのは、宗教ではなく反宗教無神論である。
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1603年 徳川家康は、第10代後陽成天皇に忠誠を誓う事で征夷大将軍の職を得て幕府を開いた。
武士・サムライの正統性は、日本天皇の臣下である事である。
もし日本天皇と無関係を主張すれば、武士・サムライではなく山賊や盗賊などの凶悪な人殺しに過ぎない。
武士・サムライは、主君と同時に日本天皇を命を捨てても守る責務があった。
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徳川幕府は、政教分離政策として、オランダとの海外交易は認めたがキリスト教を禁止した。
国法で定めたキリスト教禁止に背く者は、身分・家柄に関係なく捕らえ、棄教しない者は処刑すると公布した。
悪法も法なら、キリスト教禁令は合法であり、キリシタン弾圧は認められる。
日本のキリシタン弾圧は、西洋の異教徒及び異端者弾圧や中華の仏教徒及び道教弾圧に比べれば、その過酷さと徹底さに於いて雲泥の差がある。
近代以前の如何なる国家地域において、個人の信仰の自由はなく、個人の信仰を守るならば禁止している国家地域を出て認めている国家地域に移住する事であった。
西欧では、領主の信仰が領民の信仰とされ、領主の信仰と異なる信仰を持った者は他国に移住した。
徳川幕府は、いきなりキリスト教禁止とキリシタン弾圧を行ったのではなく、豊臣政権からのキリシタン禁令を継承したのであり、宣教師とキリシタンの追放を期限付きで公布した。
何故、キリスト教禁止が行われたのか。
不寛容な原理主義的キリシタンは、日本をキリスト教国家にするという「神聖な使命」から、長崎を教皇領として日本分離し、キリスト教国家を建国しようとした。
第2のマカオか、第2のフィリッピンである。
分離独立させた長崎を、隣人愛の信仰の聖地とし、キリシタンを異教徒の攻撃から守る軍港要塞国家に仕様とした。
民族古来の日本神道と日本仏教を排斥し、神官・巫女や僧侶・尼僧を捕らえて暴力を振るい追放もしくは殺害し、神社仏閣を襲撃して放火し、神具や仏像・仏画・仏具を破壊し、神の使いとして大事にされていた鹿を殺して食べた。
神話の時代からの、神の裔にして祭祀王・日本天皇の神性を否定した。
日本民族の、日本天皇を中心とした国體・国柄を破壊しようとした。
日本から異教徒を追放する為に、南蛮人に協力して、キリスト教を受け入れない日本人を奴隷として中国や東南アジアに売り飛ばした布教活動資金を得ていた。
女は売春婦として。子どもは労働者として。男は傭兵として。
異教徒は、絶対神の祝福を与えられた人間ではなく、キリスト教徒の為に使役される家畜か、キリスト教徒の為に命を捧げる獣でしかなかった。
大阪の陣で豊臣方に協力して徳川幕府に弓をひいた。
そして、天草の百姓一揆と島原の乱。
最初に宗教戦争を仕掛けたのは、中世キリスト教である。
後年判明した事だが、伊達政宗が日本を支配するべく、ローマ・カトリック教会の宗教権威による正統承認とスペインの軍事支援をえる為に支倉常長をヨーロッパに派遣した。
徳川幕府が、自分を倒そうとする狂信的宗教勢力・キリスト教を禁止し、その残党を追い詰めて捕らえ、宗旨替えしてキリスト教を捨てない者を処刑したことは、合法であった。
中世キリスト教と現代のキリスト教は別物である以上、現代のキリスト教で中世キリスト教を擁護して、弾圧という自衛行動をとた徳川幕府を非人道的と糾弾する事は理不尽である。
中世キリスト教は、日本を宗教侵略しようとしていた。
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山川出版社『詳細 日本史研究』「幕府は、はじめキリスト教を黙認していた。しかしオランダ人の中傷もあって、キリスト教の布教がスペイン・ポルトガルの侵略を招く恐れを強く感じ、また信徒が信仰のために団結することの恐れから、1612(慶長17)年、直轄領に禁教令を出し、翌年これを全国に及ぼして信者の改宗を強要した。こののち幕府や諸藩は、宣教師やキリスト教信者に対して処刑や国外追放など激しい迫害を加えた。高山右近ら300余人を1614(慶長19)年、マニラとマカオに追放したのは国外追放例であり、1622(元和8)年、長崎で55名の宣教師・信徒を処刑した(元和の大殉教)のは、激しい迫害の例である。多くの信者は改宗したが、一部の信者は迫害に屈せず、殉教したり、また潜伏してひそかに信仰を持続した者(隠れキリシタン)もあった。
1637(寛永14)年から翌年にかけて、島原の乱がおこった。……
幕府は、島原の乱後、キリスト教徒を根絶やしにするため、とくに信者の多い九州北部などでイエス像・マリア像などを表面に彫った真鍮(しんちゅう)製の踏絵を行われた。さらに禁教を推し進めるために、1640(寛永17)年には幕領に宗門改役をおき、1664(寛文4)年には諸藩にも宗門改役が設置され、宗門改めが実施された。
ところで一向一揆が弾圧されたのち、キリスト教も日蓮宗不受不施(ふじゅふせ)派も幕府によって禁圧されたのは、これらの宗教がいずれも幕藩権力=王権よりも宗教を優先させる信仰をもっていたからである。近世では、幕藩権力にしたがう宗教のみが存在を許容されることになった。
幕府は、これらの禁止した宗教を人々に信仰させないようにするため、寺請制度を施行した」
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宗門改役の井上筑後守政重は、殉教目的で密入国して不法布教を行う宣教師を捕らえて処刑する事は無意味どころが逆効果となって、キリシタンの信仰を強め信者を増やすだけして、棄教させる為の拷問を行った。
『伴天連根絶始末』「始は伴天連とらへて候にも、大形(おおかた)火炙り仰付けられ、……穿鑿(せんさく、尋問糺明)は之なく、……或は火炙り、或はつるし、又は斬罪に仰付けられ候故、伴天連、度々日本へ渡り申候由」
気の弱い人は、生きる望みがなければ信仰を守る為の処刑を切望するが、生きる望みがあれば拷問に耐えかねて「転んで」信仰を捨てた。
転び伴天連のクリストフ・フェレイラ(日本名・沢野忠庵)は、キリシタンを血を流さず見つける方法として「踏み絵」を考案した。
キリスト教会の地下には聖人・福者・領主・騎士が埋葬され、床には死者が眠る場所に像を彫った墓石が敷かれ、敬虔な信者は土足で踏んでいた。
ローマ・カトリック教会とイエズス会は、聖堂内の床に敷かれた聖人・福者・領主・騎士の在りし日の姿を彫られた床石を土足で踏んでも冒?とは考えなかった。
どんな装飾をしよとも、床石は床石に変わりなかった。
ローマ・カトリック教会とイエズス会は、世界中に布教する為に偶像崇拝を認めたが、頭上に掲げられた十字架と床石をハッキリと区別していた。
日本人の宗教観は西洋人とは異なり、信仰対象の像を表現した彫刻や絵画は尊び、一切区別せず床石でも貴び踏む事はなかった。
フェレイラは、自分は転んで棄教したが、信仰を守ろうとしているキリシタンを救う為に、日本人キリシタンも西洋人と同様に床石を踏むであろうと考えて「踏み絵」を作った。
幕府役人は、妙案として腕の優れ職人に「踏み絵」を作らせた。
職人は、南蛮絵を手本として芸術品の様な「踏み絵」を作った。
日本人キリシタンは、宣教師から偶像崇拝を認められていただけに、「踏み絵」を十字架と同等の聖具と信じ、裸足となっても踏みつけるなどとい冒?ができなかった。
「踏み絵」は、日本人キリシタンの弾圧の道具ではなく、日本人キリシタンを守る為に、転び伴天連であるフェレイラが考案した苦肉の策であった。
竹山道雄「日本のキリシタン迫害は、キリスト教布教の歴史にローマの信者迫害とならぶものだということであるが、ここで行われた踏絵は世界にめずらしい信仰査問の方法にちがいない。尊いものを足にかけるのはもつたいない、おそれ多い、ちう日本人の気持ちを利用して、嫌疑者に聖像を踏ませ、その瞬間の微妙な表情のうごきによって、その人の信仰を判断しようとる心理的試みである。そして、この法方は、もともと一人のころびバテレンが考えたものである」
パジェス「この棄教者は、足に踏ませてキリシタンを発見する為に、十字架を偶像の寺の敷居においた。
この方法が官憲によって宗門改めに採用された、沢山の聖画や聖像が作られた。あるとき一人の若い天文のある南蛮鋳物師が、聖像を鋳(い)る事を命ぜられた。ところが、できあがった作品は余りにも神々しかった。これを見た役人は、このような表現をなしうる者はただ真実の信仰を持つ者ばかりだ、と感じた。かくして、異国の聖像の美しさに感興をえた芸術家は、信仰なくして信仰のゆえに刑戮(けいりく)された」(『日本切支丹宗門史』)
だが。江戸初期の日本人キリシタンは、その深い意図が理解でず、信仰から「踏み絵」を踏むことを拒否して捕らえられ、棄教を強要する拷問を受けた。
宣教師は、限られた命の為に愛の信仰を捨てるより、永遠の命を得る為に愛の信仰を守る殉教を推奨していた。
中期以降の日本人キリシタンは賢くなり、キリシタン詮議の場で「踏み絵」を踏んでも、帰宅してから踏んだ事への罪の告白をすれば許される考えた。
「踏み絵」とは、名の如く踏む絵であった聖画やイコンの様に飾って信仰するものではなかった。
西洋キリスト教価値観からすれば、踏み絵は床板絵の様な、土足で踏みつける板切れに過ぎなかった。
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日本のキリシタンが、明治まで隠れ潜んでいられたのはその為である。
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世界史・大陸史に於いて、狂信的宗教が反権力として叛乱を起こし、殺戮の地獄を作り出した例が数多くあった。
日本に於いても、本願寺の一向宗や天台宗の延暦寺などは強大な軍事力と莫大な経済力を背景に政治化して、仏敵とした織田信長や徳川家康などの戦国大名を攻撃していた。
徳川家康は、古今東西の書物を読み、宗教勢力反乱が時の政権を崩壊させ戦乱を引き起こした事を学び、平和と繁栄の為には宗教勢力を幕藩体制の下に組み従える必要から、1665年に諸宗寺院法度と諸社禰宜(ねぎ)神主法度を定め、修験道の天台系は聖護院門跡に真言系は醍醐寺三宝院門跡に支配させた。
徳川幕府は、キリスト教会の宗教権威が王侯の政治権力の上位にあるという西洋とは違って、政治権力を宗教権威の上に置き、天皇と朝廷の御威光を棚の上に上げて無力化した。
日本で宗教宗派による対立や暴動及び戦争が起きなかったのは、徳川幕府の強権的宗教政策による。
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日本人は、サムライではなく庶民である。
サムライは、体面や名誉を重んじ、「武士には二言はない」として、嘘は付かないし約束は命を賭けても守った。
庶民は、今この時を生きる事を最優先として、サムライとは違って体面や名誉には価値を持たず、「お上」に対して神妙な面持ちで卑屈に頭を下げても心の中では従う気は毛頭なかった。
初期の日本人キリシタンは、戦国大名とその家臣及び家族、南蛮人と交易する特定の商人と家族などで、体面と名誉と同じくらいに絶対神への「愛の信仰」を守って殉教した。
中期以降の日本人キリシタンは、逃げ回る事で庶民化して、役人の前で二枚舌を使って嘘を付き踏み絵を踏み口汚く罵ったが、帰宅して十字架の前で泣き崩れて罪の告白を行い、翌日は何事も無かったような素知らぬ顔で同じ日常生活を送った。
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庶民は、己が力のみで生き抜く為に、何が起きようと何が起ころうとも、雑草のようなようなしぶとい精神力で生き抜いていた。
庶民の生き方は、率先して行動せず、意見を述べず、目立たないように潜み、衆を頼んで付和雷同して生きる事である。
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庶民には、武士道はもちろん商人道も、職人気質も百姓根性もなかった。
これと言って自己主張できる「個性」を持っていなかったのが、庶民である。
日本人に個性がないのは、日本人がサムライではなく庶民だからである。
日本人にとって武士道は、中身のない飾りに過ぎない。
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フランス国王は、海洋探検家ラ・ペルーズに与えた航海訓令で、日本と支那を帝国と記した。
ラ・ペルーズは、航海日誌で「日本を帝国」「朝鮮を王国」と書き分けていた。
ヨーロッパでは、地球は7つの帝国と数多くの王国によって支配されていると考えられていた。
ロシア帝国、ゲルマン帝国(神聖ローマ帝国・大ドイツ)、オスマン・トルコ帝国、ペルシャ帝国、インド帝国、支那帝国(清国)、そして日本である。
イギリス、フランス、オランダ、スペイン、ポルトガルなどは、日本より一段下の王国と呼ばれた。
すでに、世界は日本をアジアの帝国と見なしていた。
世界が、日本を中華帝国同様に帝国と認めたのは1548年のインド・ゴア報告からで、日本帝国と言う認識は変わってはいなかった。
「天皇は教皇の様な存在で、室町将軍は皇帝の様な存在である」
西洋諸国は、二度の朝鮮出兵、関ヶ原の戦い、大阪の冬の陣と夏の陣、島原の乱などにおける、数十万人を超える大動員を見て、帝国・日本を軍事大国として恐怖した。
ヨーロッパの戦争で、数十万人の大軍を動員する戦争はそうそうなく、数十万人を乗せた大船団を仕立てて海を越えて他国を攻める事もなかった。
それができるのは、国王レベルではなく、皇帝だけであった。
ヨーロッパ世界が世界の終わりと恐怖したモンゴル軍の侵略を、日本は一国で二度も撃退していた事も驚愕であった。
伊達政宗を奥州王とし一国の国王と認識し、日本全国をそれぞれ独立した王国であり大名を国王と過大に評価した為に、大名=国王の上に君臨する将軍を皇帝と見なした。
平戸オランダ商館長の東インド政庁への報告書「日本の皇帝は力に於いて欠けるものはない」
ポルトガル、スペイン、イギリスは、王国として、日本の軍事力を恐れて報復攻撃を止め、不平不満を述べる事なく素直に命令に従って日本から退去した。
オランダは、世界中で行っていた残虐な海賊行為を、日本皇帝の威光に敬意を払って日本近海では自粛した。
徳川幕府は、世界が帝国として日本を恐れている事の利用して、幕府指導による管理統制貿易体制を整備した。
それが、日本型鎖国政策である。
小国であるはずの日本が、西洋列強の侵略を受けず、植民地化されなかったのは「日本は帝国で在る」という架空的認識による。
通信使を派遣する李氏朝鮮や謝恩使・慶賀使を送る琉球は、「国王の国」として「皇帝の国日本」に服従していると見なされていた。
1690年に来日したケンペルは、『日本帝国史』(日本題名『日本誌』)で、帝国の日本は「群小の領邦君主」である李氏朝鮮王国や琉球王国の上に君臨して、それらの服属国は皇帝である将軍に服属儀礼として使節を派遣する義務があった、と書き記している。
1800年前後のオランダ商館長であったドゥーフも、李氏朝鮮は日本の朝貢国として、皇帝である将軍の代替わりには「挨拶に来る義務を負っている事は確かである」と書き記し、本国に報告した。
世界は、帝国の日本は王国である朝鮮や琉球を従えていると認識し、世界地図に「日本帝国」と「日本海」を記載した。
西洋諸国は、両班が支配する朝鮮を、武士が支配する日本よりも信用できない「信義なき国」と軽蔑し、敢えて国交を開き交易をおこなおうという意志はなかった。
すでに、朝鮮は世界から嫌われていた。
江戸時代に日本を訪れた西洋人の日本人観は、好意的なものと批判的なものと半々であった。
キリスト教的西洋価値観の強い者は、日本を文明のない未開で、日本人は常識なき野蛮人で「阿呆である」と酷評し嫌悪した。
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江戸参府したオランダ人は、事前の連絡もなく突然訪問してくる日本人の無作法で無神経さに閉口していた。
日本は、外国から好かれていたというのは悪い冗談であった。
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