⚔14)─3─スコラ学派宣教師は、日本人キリシタンが聖戦で神の王国を建国する事を期待した。1616年~No.50 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 徳川家康は、武士はおろか庶民の知識向上の為に読書を奨励した。
 江戸時代の識字率が高かったのは、徳川家康の御陰である。
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 宣教師は、日本に神の王国を建設するべく、キリスト教徒に剣と聖書を示し信仰の証しを求めた。
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 追い詰められたスコラ学派宣教師は、日本人キリシタンが武器を持って聖戦を起こして神の王国を建国する事を期待した。
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 徳川幕府におけるキリシタン弾圧を仕切ったのは、切支丹宗門改の大目付井上筑後守政重であり、捕縛した宣教師やキリシタンを収容したのは江戸にある井上筑後守下屋敷であった。
 井上筑後守は、捕らえた宣教師を転ばせる為に拷問にかけ女を送って堕落させ、棄教を迫った。
 日本人キリシタンには、更に容赦ない残虐な拷問を行い、殉教か生きる為に踏み絵を行うか迫った。
 殉教を選んだ者には、望み通りに処刑した。
 キリシタン禁教を徹底する為に、転んだ元宣教師をキリシタン目明かしとして使い、反キリスト教を広める為に教会が行ってきた布教活動を書物として出版した。
 井上筑後守は、南蛮を嫌っていたのではなく、オランダ人らの話や宣教師らの布教活動を自慢する書物を読み、中世キリスト教に危機感を抱いていただけである。
 本人個人は、開明的役人としてキリシタン取り締まりを行うかたわら西洋文化や技術を積極的に取り入れ、実理を重んじて和算の発展に貢献し、そして西洋医学の導入にも力を入れていた。
 篠田正浩(1971年1月号『三田文学』)「キリスト教の力と最初に向かい合ったのは秀吉だと思いますが、慶長2年(1597)に長崎で26聖人を処刑したのは、弾圧というよりも、キリスト教をこれ以上布教するな、という秀吉からの政治的メッセージだったと思います。
 しかしキリスト教側にとっては、しれが逆のプロパガンダとして作用してしまった。殉教するならば日本だ、みんな一緒に殉教しよう。死なばもろとも、というような『沈黙』の世界に向かっていくのです」
 「たとえば三島由紀夫の文学的なバックボーンは西洋文化ですが、西洋文化を知れば知るほど、キリスト教徒にならないと、その先へは進んで行けない。その時に、自分の中にある日本を直視せざるを得なくなる。三島由紀夫におけるジレンマを、日本の歴史の中では井上筑後が最初に体験したのではないでしょうか。
 また芥川龍之介の小説で『神神の微笑』(1922年・大正11年発表)というのがあって、それは宣教師のオルガンティノの前に、日本古来の霊の一人が現れて、対話する短編小説です。その中で、孔子孟子荘子の教えも、釈迦の教えも、日本に伝わったものの、いつの間にか造り変えられてしまう。あなたがたのゼウスの教えもまた同じ道をたどるだろう、と語ります。『パードレは決して余に負けたのではない・・・この日本と申す泥沼に負けたのだ』との井上筑後のセリフは、もうすでに芥川のこの小説の中に出ているです。『沈黙』で遠藤周作が書いた『すべてが日本化してしまう』というテーマは、芥川がもう書いているということに驚きました」
 日本の鬱蒼とした山林の中の水辺である沼には、南方熊楠が魅了された無数の命が輝きを以て息づき、全ての命が相互に依存しながら絶妙な釣り合いの本で補完し合いながら共存していた。
 神代かの日本独自の宗教観や死生観は、多神教として、幾重にも絡み合った無数の命を育む「日本の沼」から生まれた。
 それは、太古の昔からそこにあったのである。
 キリスト教ユダヤ教は、一神教として、生物が少ない乾ききった砂漠という過酷な自然環境の中で創世された。
 それは、今そこに置かれたのである。
 日本の沼から生まれた霊的精神世界は、陰湿でじめじめとした、木漏れ日によって浮き上が薄暗さと、踏み込んだら道に迷ってしまうという近寄りがたい不気味さを持っている。
 キリスト教ユダヤ教の砂漠で創世された霊的神秘世界は、正反対で、乾燥した爽やかさと、太陽の光が地平線の彼方まで余す事なく照らし出し、自分の思うままに何処に行っても自由な開放感を持っていた。
 日本の八百万の神々は、多種多様な生命のつながりで、全てを飲み込んで一体となり、同化し、安定した調和をもたらした。
 キリスト教ユダヤ教は、画一あるいは単一を絶対とし、異物・異質を排除し、殲滅し、根絶して唯一の絶対的秩序を与えた。
 日本の八百万の神々は、キリスト教を新たな神の一人として飲み、排他性を溶解させ個性を薄め無害に変質させようとした。
 キリスト教は、全てを飲み込んで無味乾燥的に同化する日本の八百万の神々を恐れた。
 江戸幕府は、不寛容で破壊的な中世キリスト教が日本を内部から崩壊させる恐れがあるとして、宗教的妥協を拒否し社会的協調のないキリシタンを弾圧した。
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 頑強に築かれた堤防は、地震や暴風雨などの自然の猛威に耐え、大洪水を起こして甚大なる被害・犠牲者を出さない為に大水を押さえ込んでいた。
 だが、蟻の一穴から脆くも崩れ去る。
 永遠に滅びない様な強い絆で団結していた民族国家も、他人の迷惑を顧みず、自分の利益・思想信条・信仰のみを個人の自由として押し通す内部の裏切り者によって容易く滅亡する。
 信用し合い、助け合い、庇い合うという、人としての「絆」をなくした民族国家は滅亡した。
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 徳川家康は、駿府城で生涯を終えるにあたり遺言を残した。
 1,遺体は、駿府城近くの久能山に治める事。
 2,葬儀は、江戸の増上寺で行う事。
 3,位牌は、三河大樹寺に建てる事。
 4,1周忌を過ぎた後、日光に小さな堂を建てて、関東の鎮守として勧請(神仏の分霊)する事。
 天台宗南光坊天海は、日本の宗教支配の為に家康の遺言を曲解し、家康の神格化を賀茂神社系列京都吉田神社の唯一宗源神道唯一神道)から天台系神道に変更して、日光に豪壮な東照宮を建立した。
 徳川家康は、一向一揆に手を焼いた経験から仏教を味方に付ける為に保護していたが、同時に神道に対する理解も持っていた。
 その為。豊臣秀吉同様に海外への公式書簡に、天皇の権威を敬い「日本は神の国である」としたためていた。
 二代将軍徳川秀忠は、キリシタン禁令と領民支配を目的とした檀那寺制度を広める為に仏教寺院の協力を得るべく、仏教優位の神仏習合方式を採用した。
 仏教国シャム王国への書簡に、「神の国」という文言を排して「日本は儒教と仏教を大切にしている国」と書き記して送った。
 この後、明治維新まで神道は仏教の支配下に置かれた。
 幕府は、仏教寺院が強大な政治的力を付ける事を警戒して諸寺院法度を設け、僧侶や神主らを監視する為に大名4名を月番で寺社奉行に任命した。
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 宣教師がなぜ、死罪というキリシタン弾圧を承知で日本に渡来したのか。
 悪魔教の日本神道を信じて誤った道に彷徨っている哀れな子羊・日本人に、絶対神の御言葉を伝え、正しい教えで「隣人愛の信仰」に目覚めさせ、絶対神の祝福・奇跡で永遠の命が得られる天国「光り輝く神の御国」に導く為というより、単純に殉教したかっただけである。
 宣教師が憧れる理想像とは、神の言葉で信者を増やすし自分で築いた教区で司祭・司教・枢機卿と栄達事ではなく、異教徒からの迫害や弾圧に屈する事なく、布教という神聖な使命の為に殉教し、命を捧げて聖人或いは福者に列せられる栄光を受ける為であった。
 宣教師の多くは、日本に殉教、死にに来たのである。
 それ故に。宣教師達は、意図して権力者に楯突き、民衆が信仰していた民族宗教神道や仏教を攻撃し破壊しようとした。
 つまり、反撃されて殺される事を承知で雀蜂の巣を叩き壊そうとした。
 「信仰の為の死」を最も神聖な行為と信じるが故に、日本人キリシタンにも信仰を捨てて生き続ける事ではなく、逃げて逃げてそして殉教する事を信仰の証と教えた。
 日本人キリシタンは、宣教師の殉教して聖人或いは福者になりたいという渇望を叶える為に従い、信仰を守り処刑される事で永遠の命が得られると喜んで死を選んだ。
 怨霊信仰を持ち死穢を忌避する平均的日本人は、死と血を恐れ、死と血を忌み嫌い、死と血から遠ざかって平穏無事に一生を終えたいと願っただけに、死を恐れないどころか望んで処刑され殉教する事に狂喜する宣教師やキリシタンが理解できなかった。
 日本でキリスト教が禁止され排除されたのは、「信仰の為の死は尊い」とする教えは死と血を呼び込むとして恐怖したからである。
 日本のキリシタン弾圧は、儒教価値観でキリスト教を迫害した中国や朝鮮とは根本的に異なっていた。
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 『口語 新約聖書日本聖書協会、1954年
 「マタイによる福音書
 27章46節〜52節 そして3時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
 すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。
 するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
 ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。
 イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。
 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。」
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 1616年 徳川秀忠は、朝廷から将軍宣下を受け、天皇から日本の統治権を与えられた。
 将軍秀忠には、サムライの棟梁として、神国日本の存続を脅かす夷敵を討ち滅ぼし、神の裔・天皇を守り、皇室の弥栄をはかる使命が与えられた。
 民族中心宗教国家日本を、キリスト教化しようとする明解な意図を持つキリスト教勢力の宗教侵略から、神の裔・天皇神の国・日本を守る為に不完全な鎖国策を始めた。
 宣教師が不法入国して布教活動をしない様にする為に、南蛮のポルトガル・スペインと紅毛のオランダ・イギリスの商船の入港を長崎と平戸に制限した。
 諸大名が、宣教師を通じて財力と軍事力を付ける事は戦乱の元になるとして、幕府の許可無く勝手に海外交易を行う事を禁止した。
 秀忠は、穏便に国外追放しても国禁を破って密入国し、禁止したキリスト教の布教を続ける宣教師らに激怒し、国内法を破るキリシタンらを見付け出して処刑する様に命じた。
 4月 マシャド、ペドロ両宣教師。6月 ナワロ、エルナン両宣教師。10月 宣教師を匿ったガスパル・上田彦次郎。
 レオナルド・木村修道士「私が処刑されるのは、ただキリストの福音をのべ伝えた為であります」
 弾圧の初期は、宣教師や修道士と彼等を匿った指導的キリシタンのみであった。
 見せしめ的に処刑しても死を恐れず宣教師らを匿うキリシタンが急増した為に、弾圧はキリシタン全体に向けられた。
 幕府は、信仰ゆえに死を恐れないキリシタンの信条を理解せず、信仰ゆえに死を恐れないキリシタンの狂気を危険な宗教として撲滅しようとした。
 7月 家康の子供である松平忠輝キリスト教徒)は、武家諸法度による不行跡で改易となった。
 幕府は、伊達政宗キリスト教徒30万人以上の指導者となって、天下を取る為に謀反を起こすのではないかと警戒した。
 秀忠は、外様大名譜代大名以上に親藩の身内・家族がキリシタンに取り込まれ、徳川宗家を滅ぼす為に叛乱を起こす事を最も恐れた。
 コックス日記「上総介忠輝反乱の噂が流れ、伊達政宗がこれを支持しており戦乱の恐れがある」
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 秀忠は、家康の意思を受け継ぎ、宗教性を排除した外国交易を続ける為に、交易に影響力を持つ外国人宣教師や修道士に国外退去を命じた。同時に、信仰の為に、日本人である事を捨てる覚悟のある国際派日本人キリシタンも国外に追放した。
 民族中心宗教の神の国・日本を嫌う者には、神の裔・天皇を戴く神国日本で生活する資格はないというわけである。
 だが、絶対神から与えられた「信教と居住の自由」の権利を盾に日本に居座った日本人キリシタンに対しては、神の裔・天皇を中心とした神道的秩序を守る為に弾圧を加えた。
 刑の執行を行う役人らは、彼らを助ける為に嘘でも「信仰を捨てた」と言えば許したが、頑なに絶対神への信仰を貫く者は「やむをえず」処刑した。
 殉教を覚悟で日本に留まった外国人宣教師らは、生きる為の日本的な曖昧を良しとする「嘘も方便」を許さなかった。
 日本人キリシタンに、殉教すれば「神の国・天国」に召されて、天地創造主から「永遠の命」が得られるとして、死んでも「絶対神への信仰」を守るように説き続けた。
 信仰心篤い女性や子供は、宣教師の言う事を忠実に守って、悦んで処刑された。
 強烈な信仰心を持たない日本人には、死んでも信仰を守ろうとするキリスト教徒が理解できなかった。
 先祖神から受け継いだ大事な「命と血」や大切な「心と魂」を子孫に伝える事を優先する日本人は、諦めながら自分を犠牲にし、個人の信念信条を捨てた。
 祖先の思いや子孫への情を無価値として捨て、自分の信念信条を守る為に自分以外を犠牲にするキリスト教徒を狂人として恐れた。自分一人の永遠の命を得る為なら、祖先から受け継いできた因襲を踏みにじる宗教が、どう贔屓目に見ても理解できなかった。
 気弱な日本人には、キリスト教が広めようとした絶対真理の福音が理解できなかった。
 日本は、異質を呑み込む相対価値観で「仲間の絆」を大事にする集団主義の社会であった為に、異質を排除する個性重視の絶対価値観は生まれなかったし根付かなかった。
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 1617年 秀忠の四男(庶子)である幸松は、かっての敵であった旧武田家臣である信州高遠藩主保科正光に預けられた。31年に、保科家の養子となって保科正之と名乗り、新たな藩主となる。
 6月 支倉ら訪欧使節団は、スペイン王の国外退去命令に従って、使命を果たせず帰国の途についた。
 スペイン国王もローマ教皇も、伊達政宗が如何にキリシタンを保護しても、洗礼を受ける事を拒否した一点を持って信用しなかった。
 東日本の一部をキリシタンの安住の地として割譲するとした伊達家とスペイン・バチカンの軍事同盟締結は失敗し、政宗の天下人への野望は潰えた。
 昔から、関東のサムライにとって西国には愛着がなかった為に、自分の領地に害が及ぼさない限り、その地の所有が日本人であれキリシタンであれ他国人であれ誰であっても気にはしなかった。
 元寇は、日本全体を中国領に編入しようという蒙古の強い意志があったがゆえに、関東のサムライは全滅覚悟で蒙古・高麗連合軍と戦った。
 応永の外寇では、朝鮮国王の野望が対馬の領有にとどまったがゆえに、関東のサムライは対馬李氏朝鮮軍に侵略され虐殺されても援軍を送らなかった。
 関東のサムライは、関西人に比べて冷たく情が薄い。
 現代日本においても、尖閣諸島竹島北方領土などの領土問題から日本人拉致問題にいたるまで、自分に直接不利益をもたらさない国益に関して国民の関心は薄いと言える。
 何故か。
 それは、関東のサムライには、外国軍に侵略され虐殺と略奪を受けるという恐怖感がなかったからである。
 伊達政宗は、マニラに着いた支倉から交渉失敗の報告を受けるや、幕府の疑惑をかわす為に1620年8月からキリシタン弾圧を始めた。
 仙台藩は、取り潰しを避ける為に、島原のキリシタン弾圧に匹敵する残酷な方法で迫害し、多くのキリシタンを処刑した。
 幕府は、伊達政宗の謀反を証明する証拠がなかった為に、幕命に従ってキリシタン弾圧をするかぎり謀反の追求を控えた。伊達藩への警戒心を緩める事なく続けた。
 取り潰せなければ、大藩を解体して小藩として弱体化させるべく、歴代幕閣はあらゆる謀略を仙台藩に仕掛けた。
 それが後の、1671年に起きた原田甲斐による伊達騒動につながる。
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 キリシタンにとって、非暴力無抵抗で絶対神の隣人愛信仰を守る事は、神聖不可侵であるべき絶対神の神性を否定する悪魔的異教徒天皇や将軍との聖戦であった。
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 1618年 長崎奉行長谷川権六は、宣教師ら犯罪者を匿えば十人組の連帯責任にすると布告し、逃走中の宣教師らを訴えた者には銀30枚を褒美で与えるとの高札を掲げた。
 イエズス会は、日本での地盤を失う事を憂い、キリスト教会の権威を守る為に国禁を破り、殉教者を幾人出そうとも宣教師を送り続けた。
 レオン・パジェス「長崎に信徒達は深く宣教師を慕い、聖なる方舟の様に彼等を隠匿する特権を争った。彼等の慈愛の心に富んだ熱心さは、イエズス・キリストの為に命を捨てる光栄に浴する事を第二の目的としていた」
 イエズス会年報「多くの信徒はパーデレに宿を貸す事が身の破滅を招くものだと知りながら、このような正しい理由の為に命も財産も投げ捨てるのは、何よりの名誉であると思うほどの勇気をデウスから恵まれた。」
 李氏朝鮮は、主体性のない事大主義(属国根性)から、宗主国明国の命令に従って後金国(後の清国)征伐に参加した。
 正統派儒教価値観で、満州人を満州胡人と軽蔑し差別した。だが、討伐軍は大敗した。
 その後も、明国・朝鮮の連合軍は満州に侵略するが全て撃退された。
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 ドイツの三十年戦争(1618〜48年)。ヨーロッパ世界は、同じキリスト教を信じながら宗教戦争を繰り返し、相手を異端者として憎み女子供も容赦なく虐殺していた。
 ドイツ人口の3分の1である約600万人が、同じドイツ人によって虐殺された。
 地区によっては9割が虐殺された。
 信仰心の薄い日本人には、自分の信仰を守る為に他国の軍事介入を許し、信仰を異にする同胞を他国軍に売り渡して虐殺させて恥じない宗教紛争が理解できなかった。
 幕府は、オランダを通じて宗教戦争の情報を仕入れ、キリスト教が説く一神教の「隣人愛」を疑い、絶対神への信仰の為なら何をするかわからない不寛容なキリシタンの動向に神経を尖らせていた。
 そして、キリスト教の宗教侵略から、日本独自の天皇心神話に基ずく民族宗教を守る為に、絶対神への信仰の証として神社仏閣を破壊するキリシタンの弾圧を強化した。
 グロティウスは、人類共同体の利益に反する行為をする者は処罰するという、神学的刑罰戦争を肯定した。
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 1619(元和5)年 熊本・八代大地震
 李氏朝鮮は、宗主国明の命令で遼東半島に出兵して後金軍を撃退した。
 後金軍は、報復として朝鮮を侵略し、朝鮮軍を破って朝鮮領の一部を占領して、大虐殺を行い、多くの朝鮮人女性を慰安婦とする為に強制連行した。
 後金軍が占領した土地の朝鮮人は、義兵運動を起こさず彼らを新たな支配者として受け入れた。
 朝鮮軍は、明国への忠誠を証明する為に、隣接するツングース女真族の生地である満州を攻撃し、多くの女真族を陰惨な方法で惨殺した。
 満州と朝鮮では、血で血を洗う悲惨な殺し合いが続いていた。
 幕府は、京都で外国人宣教師52名を処刑した。
 細川忠興は、キリシタンガラシャ夫人を妻とし、キリシタン大名高山右近茶の湯を通じた友人としていた関係から、洗礼を受けてはいなかったがキリシタンには好意を持っていた。その為に、細川家には多くのキリシタン武士がいた。
 忠興は、徳川幕府に豊臣恩顧の外様大名として警戒され、いつ取り潰されるかわからないという不安から、キリシタン家臣に対して棄教する様に説得していた。
 重臣の加賀山隼人や小笠原玄也らは、主君への俗世の忠誠より絶対神への神聖な忠誠を優先し、絶対神への信仰を捨てる事を拒否した。
 忠興は、御家を守る為に、上意を持って棄教を拒否した者は家族郎党すべてを不忠者として処刑した。
 信仰を捨てて転んだ者は、主命に従ったとして無罪放免としたが、嘘偽りでないかを見る為に監視を続けた。
 加賀山隼人「もし殿が、棄教するという書き物を差し出せ、と仰せられる事があったら、その前に拙者夫婦及び家族全員の首を斬る者を遣わしなさる様お執り成し願いたい。拙者は信仰を変えないし、拙者の転がざる書き物で殿の不興を買って忘恩、無礼な奴と思われたくないからである。信仰以外の事については忠実な臣として殿にお仕えしたいが、キリシタンの信仰だけは、これを捨てて己を欺く事はでき申さぬ」
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 幕府は、豊臣恩顧の大名である福島正則を改易させ、安芸・備後50万石の福島家を取り潰した。 
 城明け渡しまで一致団結して主君への忠義を貫いた約7,000人の家臣は、武士の鑑として各大名に再仕官できた。
 主家が断絶して死を以て忠義を貫くべき主君はいない以上、広島城受け取りに来た幕府の大軍との絶望的な籠城戦で死ぬのは無駄死にとして立ち退いた旧家臣達は、臆病者・卑怯者・裏切り者の烙印を押されて再仕官はでできなかった。
 武士の生き様と庶民(百姓・町人)の生きようは、主家・主人への忠誠心があるかどうかで異なる。
 この時代は、戦国時代の気風が色濃く残っていた。
 つまりまだ、武士の時代であった。
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 5月 ジェームズタウンの奴隷市場で、140人の白人女と20人の黒人が初競売されて完売した。
 6月 イギリスから、100人の白人女奴隷がジェームズタウンの奴隷市場に入荷した。
 10月 徳川秀忠は、京から江戸に帰る途中で、伏見の牢屋にいるキリシタン52名の処刑を厳命した。キリシタンに好意を持っていた京都所司代板倉勝重は、半数が女子供である事から理由を付けて釈放しようとしていたが、主命に逆らえず六条河原で全員を火刑に処した。
 諸大名は、幕府の容赦なきキリシタン弾圧に震え上がり、叱責を受け取り潰される事を恐れてキリシタン弾圧を強化した。
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 1620年  アウグスチノ会のズニガ神父とドミニコ会フロイス神父は、日本に密航する為に、マニラを出帆する平山常陳を船長とする日本船に商人に化けて乗り込んだ。
 イギリスの軍船は、敵対国ポーランド船と詐って日本船を拿捕して平戸に曳航した。
 イギリスとオランダ連合軍による、ポルトガルとスペインの艦船に対するの攻撃は全ての海上で行われていた。
 平戸のイギリスとオランダの両商館長は、日本船の積み荷を得る為に、ズニガとフロイスに神父である事を自白させるべく、ヨーロッパで行っている残虐非道な拷問を行った。
 キリスト教・ヨーロッパ世界と儒教・中国は、拷問の手段を耐えがたいほどの苦痛を与える為により巧妙に技術を向上させ、人類史上類例のない残忍な拷問文化を生み出していた。
 レオン・パジェス「如何なる偏見をもってしても弁解の余地なく、如何なる利害を考慮しても是認されず、また如何なる雄弁も許しをもらえないこれらの罪におびているオランダ国民よ」(『日本キリシタン史』)
 ズニガは、同罪で処刑される恐れのある日本人船員を守るべく沈黙してきたが、無実の日本人船員が拷問にかけられると知るや、ついに神父である事を認めた。
 両神父は宣教師・修道士の入国禁止という国禁を破ったかどで、平山船長は神父である事を承知で乗船させた罪で火炙りの刑に処せられた。
 10名の船員は、神父である事を感づきながらも見逃し訴えなかった罪で斬首された。
 両神父を救出しようとした、日本人キリシタンとその家族は火炙りの刑、救出を手助けした4名の船員とその事実を知っていた家族は斬首となった。
 日本の国内法は、自己責任と連帯責任をもって裁定を下し、国を危険に晒す恐れのある事案に対しては一切の情状酌量は認めなかった。その厳罰主義は、たとえ幼児でも見逃す事はなかった。但し、キリシタンを棄教し愛の信仰を捨てれば死罪だけは免除した。
 スピノラ「キリシタンと神父とが、どう違うのかあなたにはわかりますまい。何時でもキリシタンとしては身分を隠してはいけませんが、神父としては隠さねばならない時があるのです」
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 1621年 オランダは、香料交易を独占する為に、同盟国のイギリス領バンダ諸島を占領した。オランダ支配に反対する首謀者達を、家族諸共に陰惨な方法で処刑した。
 プロテスタントの宣教師は、異教徒の先住民を改宗して神の王国を建設する為に、オランダの連合東インド会社の植民地支配に協力した。
 オランダの植民地は、1946年まで地獄の様な悲惨な状態におかれた。非白人の原住民は、改宗しようがしまいが人間以下の存在とみなされ、奴隷として死ぬまで重労働が課せられ、死ねば人としての尊厳もなくゴミの様に捨てられた。
 白人は、地球上に宗教的人種的差別を神聖不可侵の大原則として広め、女子供に関係なく全ての人間に適用した。
 同じキリスト教でありながらローマ・カトリック教会プロテスタント教会は、異教徒の改宗でも激しくしのぎを削り、俗世の権力を利用して「神の名」で流血事件を起こしていた。
 地球上で、キリスト教の布教に伴う、キリスト教と異教間はもちろんキリスト教間での宗教的流血事件が絶え間なく起きていた。
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 1622年 元和の大受難。長崎で、3歳の幼児から老人にいたるまでのキリシタンと、イエズス会のスピノラ神父を含む各修道会の神父や修道士などの56名が、見せしめとして処刑された。
 容赦なきキリシタン弾圧により、絶対神から与えられた「人としての『信仰の自由』」を否定する野蛮な残虐国家というレッテルが日本に張られた。
 各地の日本人キリスト教徒は、乳幼児でも容赦なく処刑する幕府の弾圧から逃げるべく、隠れキリシタンとして身を隠して隣人愛の信仰を守った。
 虐殺の模様はバチカンに伝えられ、日本人の非人道的残虐性を後世に伝える為に殉教油絵がローマのキエサ・ジェズ教会に掲げられた。
 キリスト教会は、絶対神に、異教国日本への天罰を祈り、異教徒天皇と悪魔王将軍を地獄に落とし地獄の業火で耐えがたい苦痛を与える様に願った。
 幕府は、キリシタンなどの犯罪者を取り締まる為に、連帯責任を目的とした連座制の5人組制を確立した。
 日本独自の、相互監視という非人道的制度と嫌悪された隣保扶助制度の始まりである。
 絶対神との契約による自己責任を信仰する宣教師らは、個人の権利を否定する集団主義の連帯責任を悪魔の所業と批判した。
 フランシスコ・モラレス神父「迫害者は他の恐ろしい手段を考え出した。その第一は、宣教師を匿った者は、本人、妻子を火刑に処する事、またこの為に各町12人ずつの者に、同一罰則のもとにこの義務を負わせる事だった」
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 1623年 徳川秀忠は、将軍職を家光に譲って大御所となる。

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