関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
宣教師は、日本をキリスト教化するべく、日本のキリシタン禁止という国禁を破って日本に潜入した。
日本人全てをキリシタンにするべく、キリスト教禁教令を無視して布教活動を続けていた。
宣教師は、日本の禁止法令を全て無視する確信的犯罪者であった。
そして、キリスト教を根付かせる為に、神聖な使命として民族宗教の神社や外来宗教の仏閣を破壊した。
・ ・ ・
キリシタンにとっての「隣人」とは、同じ信仰を持つキリシタンと改宗する可能性のある異教徒と自分に同情して助けてくれる異教徒のみであった。
改宗しない日本人や敵意を持つ日本人は、隣人ではなかった。
キリシタン日本人は、異教徒日本人が奴隷として売られていく事に関心を見せなかった。
・ ・ ・
火坂雅志「徳川家康「『わしが天下を欲するのではない。天下がわしを欲したとき、ようやく何ごとかがはじまる。卑しい心根をもって世の兵乱を望むような男に、誰が付いてくると思う。おおやけの志を持たねば、人の心は動かせぬ』」(『天下 家康伝』)
・ ・ ・
徳川家康が目指したのは、「天下泰平」であった。
キリスト教は分からなかったし、理解したいとも思わなかった。
彼らがキリスト教の信仰と教義を大事にしたいと思うのなら、日本の宗教・信仰をも尊重して貰いたかった。
・ ・ ・
1615年 禁中並公家諸法度。徳川家康は、朝廷が政治力を持つ事は天下騒乱のもとであると考えて、朝廷から一切の政治力を剥奪し、改元などの暦の制定といった一部の権限を与えた。
天皇と皇族から自由と人権を奪い、京都御所に軟禁して、外出はもちろん一般人との接触も禁止した。
天皇には、唯一の祭祀王として、2000年の伝統を持つ祖先神・天皇霊を祀る皇室祭祀に専念させた。天皇は、365日一日と休む事のない、朝早くから夜遅くまでの神事という心身をすり減らす様な激務が強要された。
皇室祭礼は、神の裔・万世一系の男系天皇(直系長子相続)のみが、神の血筋を正統な資格としてとして執り行える、一子相伝の神聖なる神事である。天皇神・天皇霊に縁もゆかりもない一般人や神の血筋に縁遠い女系皇族では主宰できない、排他的にして閉鎖的な密室での秘めた神事である。
公家に対しても同様に、自立した経済力を奪い、貧困の中で平安の世から伝わる「雅」な宮廷の芸事のみに専念させた。
日本の天皇中心とした伝統的保守階層は、大陸の上流階級とは違って特権も富も自由も全て奪われ、古代から続く筋目正しい家系という誇りだけを生き甲斐として、庶民以下の極貧生活を強いられていた。
徳川家康は、強権を持って政治の場から宗教性を完全に排除し、宗教が政治に介入しない様なサムライ独裁体制造りに躍起となっていた。
それが、悪として憎まれる、日本独自の非宗教的封建制度である。
・ ・ ・
城攻めに堪える方策とは、
1,充分な食糧と弾薬。
2,予備兵力を置いておくだけの守備兵。
3,守り切るという兵士一人一人の精神力。
最も恐れるべきは、兵士の抗戦意欲を挫く利敵行為としての「戦っても勝てない」という噂であった。
勝てない事が分かっていても、戦わざるを得なくなった時は敵に味方する様な流言飛語は厳しく取り締まり、必ず勝てるという嘘を家臣一同に信じ込ませる事である。
武運つたなく敗れた時。主君・大将は、家臣とその家族を救う為に一人責め負って切腹した。
サムライは切腹したが、百姓や町人は切腹しなかった。
サムライは降伏し捕虜になる事を恥としたが、百姓や町人は生きる事にこだわって降伏もしたし捕虜にもなったが恥とは考えなかった。
家臣とその家族は、身代わりとなって自害した主君に涙して負けた事を謝り、その遺体を仏として寺院に葬り、霊魂を神として神社に祀った。
勝者は、負けた者の勇敢な死を称え、徳を示す為に遺体を葬った寺院と霊魂を祀った神社を大事に保護した。
・ ・ ・
本阿弥光悦は、洛北鷹峯に芸術村(光悦村)を築いた。
江戸文化は、「面白いもの」や「けったいなもの」を自由に表現したいという芸術家や芸能人の貪欲な創作活動を、気分で面白がり受け容れる庶民感覚で発展した。
・ ・ ・
5月 大坂夏の陣。キリスト教会は、キリシタン弾圧を本格化ししつつある徳川幕府に対抗する為に、キリスト教会への友好姿勢を見せている豊臣方が勝利する事を祈った。
だが、異教徒間の紛争には一切関与しないという局外中立の原則から、30万人以上のキリシタンに聖戦を呼びかけ、豊臣側に味方して悪魔の徳川幕府を滅ぼせとは言わなかった。
狂信的な宣教師は、迫害を受けているキリシタンが助かり、キリスト教の愛の信仰が普及する為にも、異教徒同士が殺し合い社会が混乱する事を望んだ。
キリスト教会が望む平和とは、絶対神の愛が浸透したキリスト教徒のみの平和であり、異教徒の自由人としての幸福は除外されていた。
キリスト教会が助けるのは、絶対神への信仰を守るキリシタンのみであり、絶対神への信仰を拒否する異教徒ではなかった。
宣教師や修道士らは、洗礼を与え神の戦士にするべく、異教徒の孤児を積極的に引き取った。
キリスト教会は、慈善事業の一環として孤児院建設に力を入れていた。
異教徒は、宣教師がキリスト教会の奴隷を増やすために子供を攫っていると邪推して、キリスト教会への迫害を強化した。
大坂城のキリシタン武士らは、絶対神への愛の信仰を守り、日本をキリシタンが持つ国にする為に戦った。
幕府側は、キリシタンの一部が豊臣方に味方して奮戦しているとの報告を受けていた。
大阪城は落城して、豊臣家は滅亡した。
明石守重らは、日本を脱出し、日本をキリスト教化する使命を捨てず機会を狙った。
豊臣家の滅亡によって、徳川幕府に弓を引く大名はいなくなり、キリシタンに味方し弾圧から庇ってくれる有力な保護者もいなくなった。
宣教師による、キリスト教価値観による日本の国際化は失敗した。
だが、キリスト教会には、異教徒の国家を破壊し、異教徒の民族を死滅させる、計り知れない烈火の様な強大な力を以前と秘めていた。
もし。
幕府が、南蛮貿易の利益のみに目が眩み、キリスト教会と妥協して公認していれば、古代ローマ帝国の二の舞となった事は明らかである。
100年後には、日本はキリスト教化され、神の裔・万世一系の男系天皇(直系長子相続)は消滅し、祖先を神として祀る民族中心宗教を伝える日本民族は死滅していた。
地球上にあった民族中心宗教や土着宗教の多くが、世界的普遍宗教によって滅ぼされていた。
国際派日本人の間では、徳川家康は日本に閉塞をもたらし世界の孤児とした元凶として人気がない。
淀君と秀頼らが怨霊となって祟らないように、淀君神社に祀られた。
真田幸村戦死。
真田幸村には、子供が13人(男子4人、女子9人)いた。
長男の大助は、大阪夏の陣で自害した。
真田幸村は、生前に、次男でまだ4歳の大八と長女の阿梅(おうめ)ら子供達を伊達政宗の重臣片倉小十郎に託した。
片倉小十郎は、「大八は8歳の時に京で死亡した」という偽情報を九度山の蓮華定院の周囲に流して、大八らを匿った。
伊達政宗は、真田大八を家臣として召し抱えた。
真田大八は、幕府の追求を欺く為に姓を片倉に変え、片倉守信と名乗った。
阿梅は片倉小十郎の後妻となり、その他の阿菖蒲らも家臣に嫁いだ。
日本人は「滅びの美学」が好きなだけに、純粋な正しい心を貫き悲劇的に死ぬ者を英雄として愛した。日本武尊。聖徳太子。源義経。楠木正成。大石内蔵助。
・ ・ ・
豊臣方(大坂方)は5万人。徳川方は15万人。
大坂城は、堀を全て埋められ丸裸にされ籠城は不可能で、出撃するしか残された道はなかった。
兵力差から、徳川方の勝利は間違いなく、豊臣方には勝ち目はなかった。
徳川家康は、徳川家の世を築く為には、臣下を誓って家臣の列に加わる事を拒否する豊臣秀頼を生かしてはおけなかった。
オランダは、徳川方の大勝利間違いないと見て、大砲や火薬を売った。
商人の大原則は、勝ち馬に乗る事であり、勢力が拮抗していれば利用できる方を勝たせる事であった。
昔から、商人は、平和では得る利益は少なかった為に、戦争が起きやすい国や地域に出て行って大儲けした。
真田信繁(幸村)や後藤又兵衛ら戦争を知る歴戦の武士は、たとえ人数で劣勢であっても兵法しだいで勝つ事ができると信じ、死ぬその時まで明るく陽気に振る舞っていた。
千田嘉博「信繁が裏切るのではないかと、大坂城内で疑う者もいました。徳川方から厚遇を保証されていたことは史料で確認できます。甥達や旧臣と会った時も、信之からの伝言を受け取っていたはずです。
最後の最後までやる気満々の姿が見えてきます。冬の陣のときに家康が本陣を置いていた茶臼山に、信繁は夏の陣であえて自身の本陣を置いている。もちろん立地的にもいい土地だからですが、家康としてはかなりカチンとくる話で、挑発的ともいえる行為でと思います」
信繁は、家康本陣に突撃する兵士達には陽気に作戦を伝えていたが、その裏で負けた時に備えて仙台伊達家の重臣・片倉小十郎重綱(重長)に軍使を送って娘を託した。
伊達政宗は、家康に隠れて信繁の娘を預かる事を承諾した。
もし信繁の娘を預かった事が露見したら咎められるが、敵の信繁から武士として頼られたからには、その信義に答えた。
片倉邦雄「信繁の娘阿梅(おうめ)は片倉重綱の妻となり、京にいた妹の阿菖蒲(おうようぶ)を引き取ります。阿菖蒲は、重綱の伯母で政宗公の乳母だった片倉喜多の名跡を継いだ(田村)定廣と結婚、これが我が家の始まりで、私は11代目になります。信繁の『義』は死ぬ事だけではなかったんですね。六文銭は三途の川の渡し賃ですが、死ねばいいというものではない。いかにして生き残るか。つまりサバイバルが、あの人の心の中に常にあった。自分の命がなくなったとしても自分の子孫を残す。それが本当のサバイバルだと」
サムライ・武士の「滅びの美学」とは真っ赤な嘘で、当人は絶体絶命の窮地にあっても絶えず生きる為の手立てを考え実行し、城を守っても意味がなく、逃げても逃げ切れなければ、万に一つの望みに託して突撃した。
サムライ・武士の突撃は、華々しく花と散る為ではなく、戦に勝利する為の突撃であった。
「滅びの美学」と愚にも付かない戯言を述べて満足するのは、後世の人間だけである。
サムライ・武士の「死の覚悟」とは、体面や名誉を守って生きる為にする覚悟であり、けっして現状逃避的な自殺願望ではない。
サムライ・武士は、生きる為に戦ったのであって死ぬ為に戦ったのではない、ゆえに、どんな時でも陽気に笑い合い、如何なる状況にあっても明日への希望を捨てなかった。
それが、サムライ・武士である。
・ ・ ・
大阪城落城の混乱の中で、虐殺と略奪が行われた。
人身売買業者は、海外に奴隷として売る為に多くの人々を捕らえた。
幕府は、戦乱が終わった事を天下に知らしめるべく、乱取り・奴隷狩りを取り締まり、捕らえられた民衆を解放したが、侍には容赦なく斬首とした。
・ ・ ・
キリシタン達は、有力な保護者であった豊臣秀頼と安全な信仰の聖地である大阪城を失い、幕府のキリシタン弾圧を逃れて天草・島原に隠れ住んだ。
キリシタンは、一向宗や比叡山の僧兵のように武器を取ってた戦う事なく、戦場近くで負傷者の手当もせず、何もせず、絶対神の奇跡で異教徒の戦いで勝利し救われる事をひたすら祈った。
キリシタンが行ったのは、行動する事ではなく、祈る事のみであった。
・ ・ ・
11月3日 伊達政宗の密使支倉常長は、教皇パウロ5世に謁見し、教皇に「服従と忠誠」を誓うという政宗の親書を提出した。そして、フランシスコ会系宣教師の派遣とメキシコと直接通商交易の実現への仲介を依頼した。
11月25日 日本のキリスト教徒の代表3名は、ソテロと共に、教皇に謁見し、連判状を奉呈し、異教徒の弾圧によって信仰の危機にある日本人キリシタンを救う為に、政宗を将軍にする様に嘆願した。
嘆願書を作成したのは、ソテロの独断であった。
日本人キリシタンが政宗と同盟を組んで徳川幕府を倒す為に、ローマ・カトリック教会の精神的支援とスペインの軍事的援助を求めた。
イエズス会は、教皇に日本におけるキリシタン弾圧の現状を報告し、教皇のさらなる精神的支援を切望した。その本心は、政宗を利用してアジア進出を図ろうとしているフランシスコ会を阻止する為に、日本の独占的布教権の回復を求めていた。
教皇は、伊達政宗が改宗していない事を理由にして提案を丁重に拒否した。
バチカンは、欧州諸国の王侯貴族が世俗の政治権力を強化させ、神聖にして絶対不可侵であるべき教会の宗教権威を無力化させつつあった為に、世界の辺境にある日本に関わり合っている余裕がなかった。
・ ・ ・
11月 外国人宣教師・修道士や高山右近などの日本人キリスタンら総勢約400人は、長崎からマニラに向けて出帆した。
約40名の宣教師と多数の修道士らは、発見されれば処刑される事を覚悟で日本に潜伏した。
日本人キリシタンの多くも、生きる為に異国へ移住するより、殺されても日本に留まり愛の信仰を守り伝える使命を選んだ。
潜伏した宣教師は、厳しい監視をかい潜りながら全国のキリシタンの家を転々とし、変装して北は蝦夷から南は九州まで地下宗教活動を続けた。
国外にいる多くの宣教師や修道士も、愛の信仰を日本で広めるという布教活動を支援する為に、殉教を覚悟し、国禁を破って日本に密入国した。
不法滞在の宣教師達は、キリシタンに、原罪を自覚させて悔い改めさせ、罪深い魂の救済の為に尊い福音を伝え、絶対神の愛による正しき道を歩く為に教理を教え、汚れた魂を浄める為に秘跡を行い、信仰を守る為に棄教を拒否して殉教すべきであると、死を恐れない霊的援助を行った。
潜伏しながらも各地で布教活動を精力的に続け、賤しい者として差別を受ける最下層身分の貧民に洗礼を授けてキリシタンに改宗した。
明日に希望が持てない貧しい下層身分ほど、絶望的な差別と迫害の苦しみの中にあった為に、絶対神による魂の救済と永遠の命と隣人愛に憧れてキリシタンとなった。
キリスト教は、その誕生から希望のない奴隷や貧民層の中で信者を増やし、一大勢力に成長して社会改革をおこない、異教徒の君主を打倒し、異教を捨ててキリスト教国を建国した。
キリシタンは、絶対神への犠牲的信仰ゆえに、異教の天皇と神社を捨て、異教徒の将軍や大名の命令を拒絶し、異教徒が支配するムラ共同体の和を拒否し、狂喜して異教徒に殺される殉教の道を選んだ。
キリシタンは、血を流し、命を捨て、最高の価値である絶対神の愛に殉ずれば福者となり、天国に招かれ永遠の命を得て幸福に過ごせると確信していた。彼等は、苦痛の多い肉体と限られた命を捨てる事を喜びとして、幼子を抱いて火中に飛び込んで死んだ。
親は、自分の信仰を証明する為に、喜んで愛おしい我は子を抱いて殉教した。
アブラハムは、絶対神の命に従って、自分の偽りなき信仰を証明する為に息子イサクを殺そうとした。
「自分を犠牲にしても我が子だけは助けようとする親心」に涙する神道的日本人にとって、我が子を絶対神への信仰の証しとして生け贄に差し出して恥じる事のないキリシタンを、どう贔屓目に考えても理解できなかった。
ゆえに、「子供を国の宝」として守ろうとした日本人は、信仰の為なら子供を生け贄とするキリシタンを邪教・邪宗門として嫌った。
既存の民族宗教は、絶対神以外の神を悪魔として滅ぼそうとするキリスト教の教勢拡大に恐怖し、支配者に対して迫害の強化を要請した。
異教徒の支配者は、自分がキリシタンから信仰の敵みなされている事を痛感するだけに、キリシタンが絶対神の名の下でいつ反乱を起こすか分からない危険な宗教集団として弾圧した。
大陸における暴動や内戦は、宗教勢力間の対立によるものが大半である。特に、中世ではキリスト教関係の流血が最も多い。
マニラのスペイン総督やキリスト教会は、禁教令を出した日本への抗議を兼ねて、追放された右近らを盛大に迎えた。
当時のマニラには、日本の神々を悪魔として捨てた日本人キリシタン2,000人以上が生活していた。
東南アジア各地には、さらに数多くの日本人キリシタンが移住していて、日本が絶対神の愛に目覚め、異教の神を消滅させ、尊き隣人愛の福音で生まれ変わる事を祈り続けていた。
京都所司代板倉勝重は、京と大阪の牢に入れていた宇喜多休閑ら指導的キリシタンとその家族71名を処刑せず、流人として津軽藩に引き渡した。
・ ・ ・
1616年2月 高山右近は、日本人キリシタンに見守られながら、絶対神への信仰を守り、天国での永遠の命を信じ心安らかに永眠した。
スペイン総督とキリスト教会は、キリシタン弾圧を本格化しつつある日本への抗議を兼ねて、葬儀を盛大にして厳かに執り行われた。その状況は、家康にも伝えられた。
大御所徳川家康が死去した。
朝廷は、幕府の圧力に屈して、家康に東照大権現の諡号を送り日本の神に加えた。
幕府は、家康を神として久能山に葬り、家康を祭神とする東照社を建てた。
宣教師とキリスト教会は、暴君徳川家康が死亡してキリシタン弾圧が緩和され、布教が許される事を期待した。
・ ・ ・
徳川家康は、久能山東照宮に西を向いて埋葬するように遺言を残した。
西を向かせたのは、死した後も徳川の世を京・朝廷から守る為ではなく、日本の平和を外国勢力である中華世界とキリスト教から守る為であった。
朝鮮とは深く交わらず、国交を開いて自由な往来をせず、使節を派遣して国書をやり取りするだけの関係に留めた。
西洋とのキリスト教抜きの交易を望んだ。
隣国と深く交わると利害関係が生じて諍いの元になるが、遠くの国と利益を元に交易した方が安心できるからである。
翌17年 日光東照宮に改葬する際は、江戸を守る為に南を向けるように遺言をした。
・ ・ ・
徳川家康の死後に与えられた「大権現」の神号は、神道本流になっていた吉田神道ではなく、比叡山の神仏習合的な天台宗山王神道であった。
日本神道は、仏教勢力の支配下に置かれた。
仏教は、神道に代わって日本の霊界・精神世界を管理した。
織田信長は、領民に神として崇めるように促したが、正統派神道学の教義的裏付けが得られなかった為に、日本の神になれなかった。
・ ・ ・
2018年11月号 「伊達政宗と秀吉・家康 2人の天下人に挑んだ独眼竜
平川新 対家康 関ヶ原、遣欧使節団、謀略の噂・・・
息詰まる心理戦!それは、死ぬ間際まで続いていた
……
仙台の国づくりと遣欧使節
慶長18年、政宗はスペイン人宣教師ソテロを案内役に、支倉常長を使節として、スペイン国王とローマ教皇のもとに派遣した。その真意は、海外貿易によって、国を富ませることにあった。
奥州という地にあって、伊達家は西国の大名に比べて、南蛮貿易に遅れをとっていた。それを挽回する術として、政宗は伊達領内でのキリスト教布教を容認する代わりに、メキシコ(当時スペイン領)との通商をスペイン国王に求めたと思われる。
ただし家康は、スペインやポルトガルの世界進出を警戒し、慶長17年(1612)、幕府領内でキリシタン禁止令を出している。
そのため、政宗の行動は幕府の方針に反し、スペインと軍事同盟を結ぼうとしていたのだとの説も出ている。
しかし実際はには、政宗の使節派遣は、幕府公認のものであり、その船の造営に際しても、幕府船奉行の大工が手伝っている。
ではなぜ、家康は政宗の使節派遣を許したのか。
おそらく、政宗と家康の間には合意があり、仙台を今でいう『特区』のような扱いにすることでメキシコとの通商を実現し、そしてその船を仙台だけでなく、江戸にも回航させることで、伊達家と幕府がともに利益を得ようとしたのではなかったか。
また、家康としても、政宗の派遣を認めざるを得ない事情があった。というのも、使節を派遣された時点では、豊臣家が大坂に健在であり、地政学上、江戸に近い伊達家を敵に回すことはできなかった。だから、政宗の使節派遣を容認せざるを得なかったのだろう。
当然、政宗もそうしたパワーバランスを考慮したうえで、使節派遣を申し出たはずだ。つまりここでも、両者の間に心理戦が繰り広げられていたのだ。
ところで、支倉使節団が、スペイン国王に軍事同盟を持ちかけたなどの説があるが、そうした言動があれば、スペイン側の史料に残るはずだが、記録はない。
また政宗は『キリシタン王』の叙任(じょにん)を申請したというが、これも政宗自身が望んだものではなく、案内役のソテロが、日本での大司教ポストを得るために画策したものと考えられる。いずれにせよ、史料から見ると、軍事同盟説は成り立たないのである。
大坂の陣の息詰まる暗闘
慶長20年(1615)、大坂の陣で豊臣家が滅びると、政宗と家康の関係は、大きく変わる。
……
ともあれ、政宗は家康に忠誠を示したが、家康が元和2年(1916)4月に没すると、8月から9月にかけて、再び『政宗謀反』の噂が流れる。
実際に幕府軍が陣立てした形跡はなく、雑説(ぞうせつ)でおわったが、それはおそらく、2代将軍・秀忠が意図的に流したものであり、政宗を牽制(けんせい)したものではないか。
当時、秀忠はイギリスとオランダから、スペインを警戒するように伝えられていて、政宗とスペインが連携する可能性を恐れたのだろう。
一方、政宗は元和6年(1620)に支倉常長が仙台に帰着すると、すぐさま領内に禁教令を発する、スペインとの交渉は、うまくまとまらなかった。
貿易交渉に失敗した以上、幕府の方針に反してまでキリスト教を容認する必要はなく、あらぬ疑いをもたれぬための素早い判断だったといえる。
……
後世の我々からすると、大坂の陣後は、平和な時代に突入したかのように見える。
しかし、必ずしもそうではなかった。政宗の伊達家存続のための戦いは終生、続いた。そして政宗は、数々の危機にさらされながらも、ついに伊達家を守り抜いたのである」
・ ・ ・
・ ・ ・