⚔52)─3─明国旧臣は、裏切り者の朝鮮を恨み、満州族の清国から祖国を取り戻すべく徳川幕府に援軍派遣を哀願した。1645年~No.223No.224No.225 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本には大陸への領土拡大の野心がなかった。
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 島国で生きてきた日本民族日本人には、中国大陸はもちろん朝鮮半島に領土を拡大しようという意欲がなかったというより、関心も興味もなかった。
 つまりは、バカバカしい、くだらない、狂人的与太話であった。 
 江戸幕府が望んだのは、友好関係での国交回復ではなく、人の自由な往来を禁止した物品交易のみであった。 
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 2016年9月号 新潮45「水戸学の世界地図 片山杜秀
 14 日本乞師と征韓論
 17世紀の『討清論』に19世紀の『征韓論』。この国では同じ構造の議論が繰り返される。
 『日本乞師(きっし)』という言葉がある。日本に師を乞う。良き師を求める。といっても、ここでの師は師匠の師ではない。先生のことではない。師団の師である。師なる漢字には軍隊の意味がある。古代中国の周代の兵制では、2,500人の兵隊でひとつの師を構成した。つまり一個師団である。そこから転じて大勢の軍隊を師と呼ぶようになった。『日本乞師』とは、日本にまとまった軍事力の提供をもとめるということである、日本に援軍を求めるのが『日本乞師』である。
 いったいこの四文字熟語はいつ使われたものだろうか。誰が日本に救援を頼んだのだろうか。
 明の『日本乞師』
 1645(正保2)年の暮れ、長崎に林郄という中国人がやってきた。彼は鄭芝龍に仕える周崔芝の名代であった。鄭芝龍とは、若き日平戸で過ごし、そこで日本女性と結ばれて、彼女とのあいだにのちの国姓爺こと鄭成功をなした、あの鄭芝龍である。鄭成功とは、近松門左衛門の『国性爺合戦』の主人公として今も文楽や歌舞伎の舞台でおなじみの、あの鄭成功である。そして、周崔芝に日本へ緊急の使者を出すよう命じたのは鄭芝龍であった。
 用件は『日本乞師』。そのとき、中国では支配王朝、明が滅亡の危機に瀕していた。明は漢民族にとってもことに大切な王朝であった。騎馬民族のモンゴル人による征服王朝、元を滅ぼし、漢民族が中華の地の支配権を取り戻す。その大業を14世紀になしたのが明である。もう二度と異民族に中国を明け渡すことがあってはならない。重要な使命を担うと観念されたのも明である。その明がよりによって再び北方騎馬民族によって攻め滅ぼされようとしている。今度はモンゴルではない。満州人である。彼らの建てた王朝、清が北から明を圧迫した。明の都、北京は、清に侵略される前に、農民主体の反乱軍に奪われた。1644年のこと。明の17代皇帝、崇禎帝は北京を脱出できず、どさくさの中で自死に追い込まれた。そのあと北京を清が襲った。帝都は満州人の支配下に入った。
 明の勢力は大陸の南に拠って体制の立て直しをはかった。だが皇帝は死んでいる。明の皇族は一枚岩にはなかなかなれず、分派した。南京には福王の弘光帝、福州に唐王の輶武帝といった具合。鄭芝龍は輶武帝を擁して清と戦っていた。だが、兵が足りない。そこで日本を頼った。
 その頃、この国はいわゆる鎖国政策を推進していた。海の外への意識を国策として積極的に断とうとしていた。幕府が海外貿易港を長崎に限定し、日本人の外国への渡航や外国在住日本人の帰国を禁じたのは1635(寛永12)年のことだった。
 だけれど鄭芝龍は、日本がその方針で簡単に落ち着ける国ではないとよく知っていた。彼の日本生活は長かった。海外貿易の華やかな拠点のひとつだった平戸で、日本人の海外雄飛へのやむにやまれぬ性向をたっぷり見聞きしていた。そのうえ鄭芝龍は平戸を離れてからも海商・海賊として日本人も大勢使っていたようだし、日本との貿易で稼ぎ続けていた。日本はずっと親しい土地であった。当時の東アジアにおいて日本が対外戦争に耐えうる経済力も軍事力も十分に備えていることも分かっていた。日本の軍事技術が水陸両面で卓越し、鉄砲等、最新の武備も充実している。明の屋台骨を揺るがし、のちの崩壊への種を蒔いた、豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵が終了してから、まだ半世紀は経ていない。『日本乞師』には脈がある。東海の列島には大陸に押し渡りたいという情念が相変わらずたぎっているそのエネルギーを利用すれば騎馬民族を北に押し戻せるかもしれない。鄭芝龍はそう信じた。
 その読みはかなり当たっていた。幕府は惑った。鎖国路線を大きく崩し、大陸への大規模介入をしてもよいのではないか。そう考えてもみたらしい。実際に出兵の可能性をふまえて西国大名らが動いている。動員の計画を練り始めた大名も居る。不確かな噂の域でそのようなことを始めては、幕府への謀反を疑われる。幕府が本気と見えたから、気の早い大名は後手に回らぬようにきちんと対応しようとした。そう考えてよいうだろう。
 しかし幕府は出兵には踏み切れなかった。国策を大転換するには、長崎にやってきている使者が頼りない。唐王の輶武帝に仕える鄭芝龍の、そのまた部下の周崔芝からの使者というのでは、責任ある人物とは思われない。結局、断った。
 慌てすぎて格式を整えなかったのが災いしたようだ。唐王の国書を持たせ、新たな使者、?微明を差し向けた。再度の『日本乞師』。鄭芝龍も書状を添えた。日本は明の前の王朝、元のなしたことを忘れたのか。彼らは鎌倉時代、二度にわたって船団を組み、九州に押し寄せて侵略をはかったのではないか。清が今の勢いを保って本格王朝を樹立すれば、元と同じく騎馬民族である彼らは、やはり似た発想をするに違いない。日本が再び襲われるということだ。芽を摘みたければ今しかない。明を扶けて清を討つ。それこそが日本の国益にかなう最良の選択だ。鄭芝龍の書面の内容である。
 ?微明が長崎に到着したのは1646(正保3)年の8月である。前回の使者からあまり間断がない。鄭芝龍の側からすれば、それだけ事態が切迫していた。日本側も長崎を通じて情報収集に怠りはない。清の勢いを幕閣中枢は熟知していた。
 ときの将軍は3代目の徳川家光。議論は白熱した。御三家も加わっていた。この頃の御三家の当主はいずれもまだ初代。徳川家康関ヶ原の戦いの前後にもうけた子供たちである。尾張の義直。紀州の頼宣。水戸の頼房。将軍家光にとっては揃って叔父である。
 この3人がどうやら揃って出兵を主張した。秀吉の夢、乱世のロマンをもう一度。だがそうした武家の闘争本能が彼らを参戦に駆り立てていただけではなかった。もっと現実的なことがある。牢人問題だ。浪人とも言う。牢人とはすなわち主君をもたず俸禄にありつけない武士である。彼らが世に満ちていた。関ヶ原の合戦で徳川方に付かなかった多くの大名は家を取り潰された。続いて大阪の冬の陣と夏の陣で豊臣家が滅亡。その前後にも江戸幕府による御家お取り潰しが相次いでいた。牢人となった武士が新たに仕官先を見つけるためには極めて狭き門をくぐらねばならなかった。
 要するに、長かった戦国乱世の生み出した武士の数が、天下泰平の世に彼らに相応の石高を与えてゆくにはあまりに多すぎた。狭い国土に武士が過剰であった。雇用の限界を超えていた。そんな武士を放っておくことは危険である。武士は戦闘を本分とする。自分に俸禄がなければ分捕ろうとする。反乱である。政権打倒である。それをなす可能性の高い予備群が牢人である。
 決して杞憂ではない。現に島原の乱が1637(寛永14)年に起きたばかりだ。キリシタンや農民の反乱に関ヶ原・大坂以来の牢人が加わった。鎮定におよそ5か月を要した。年を越した。
 その島原の乱が終熄してから唐王よりの国書が届くまではたった8年である。なおも余りに余る牢人をどうするか。大陸からの手紙と牢人を結び付けるのはごくごく自然の発想だった。余剰人口とも呼べ、国内の現行秩序には容易に吸収されない武装勢力を、まとめて明の援兵として海の向こうに送り込む。国内問題の解決につながるうえ、明を助けて勝利できれば、元の再来の清を早々に駆逐したことになり、日本の安全も保障される。一種の日明同盟による新たな世界秩序を建設できる。一石二鳥とはこのことではないか。
 この議論の積極的推進者は紀州徳川頼宣であったようである。彼は10万の牢人を率いて大陸に渡ると言った。兄の尾張の義直も、弟にして徳川光圀の父でもある水戸の頼房も、同心した。
 御一新は武士の自己否定の運動
 どこかで聞いたような話ではないか。そう、このときから200年以上先の征韓論である。明治維新は王政復古と文明開花を2つの旗印にした。王政復古とは具体的には武士の世よりも前の王朝時代に戻るということである。その頃には士農工商などという身分制度はまだ存在しない。居るのは天皇と臣民である。一方、文明開化は西洋近代の政治や社会や経済や産業を真似ることである。近代国民国家を作るということだ。士農工商にこだわって壁を作り、また藩ごとの自治を認めてこれまた壁を作っていては、人的流動性を確保できない。必要な兵隊の数も新産業の労働者の数も確保できない。立憲君主制か共和制にしたがって身分制度を撤廃し、日本人は一律に等しく国民であるという新概念を即座に徹底して、移動も居住場所もなるべく自由にしていかなければならない。
 つまり、王政復古と文明開花という、過去志向と未来志向に一見分裂しているかのような明治維新の2つの目標は、どちらも階級構成の問題としては天皇と臣民に落ち着く。いずれにせよ、それまでの特権階級であり明治維新の大きな原動力をなした武士の出る幕はもうない。御一新とは武士の自己否定の運動であった。がんばって自らの居場所をなくした。そのような一面を持っていた。しかし維新が果たされれば自ずとそのように展開すると分かっていた者は少数であった。多数が気付いたときはもう遅い。もしも既得権益を守り強化することに人の目指す常なる価値があるとするならば、武士一般にとって明治維新は失敗であった。徳川初期の比ではない。武士はみんな牢人してしまい、新たな『仕官先』を探すのは、維新というカラクリを回す役目を務めた薩摩と長州などの元武士であればともかく、普通は容易ではなかった。かくして『牢人』がちまたに溢れた。その不満は高まる一方だった。
 彼らに何かをさせなければいけない。戦闘者の誇りを与てやらねばならい。そこで思い付かれたのが征韓論だろう。日本はアジアに友邦を見つける必要がある。それが居なければ新たに盟友を作り出すべきである。その国を西洋列強への緩衝材として、日本の自立を保ちながら、王政復古と文明開化を両立させた国家建設にすみやかに励む。仲間が居た方が何かとやりやす。その候補は李氏朝鮮であった。だが維新日本のように西洋化に靡こうとはしない。ならば力ずくで仲間にしてしまう強硬策も考えられるだろう。そこで『牢人』を使う。元武士に栄誉と利益を与え、命を賭けて、国家の安全保障のために戦わせる。これぞ1873(明治6)年の征韓論というものであろう。
 この論議はどうなったか。言うまでもない。退けられた。内政重視派が勝った。幕府が倒れてまだ6年。外征などしている余裕はない。国を固めるときなのだ。岩倉具視大久保利通が覇権を握り、征韓論を主張する西郷隆盛江藤新平板垣退助らは下野した。江藤は士族反乱の指導者となって佐賀の乱で敗れ、板垣退助自由民権運動の中心人物となった。自由民権運動とは旧武士階級の権利擁護運動という側面を強く有している。デモクラシーのきれいごとの理想に支配された高邁で理想主義的運動とはだいぶ違う。それから西郷隆盛。彼は旧武士階級への温かい心を忘れない高徳の偉人として祭り上げられた。御輿から降りられず、西南戦争に敗れた。そのあとも武士的なるものへの美しき郷愁を一心に背負った。明治近代国家も、階級としての武士は否定しても、武士の精神の象徴としての西郷を否定できなかった。上野で銅像となった。
 この征韓論の物語に先行する、言わば『討清論』の物語の方はどうなったか。むろん基本は同じ筋書き。西郷や江藤や板垣に相当する御三家の当主たちに、内政重視派が強く異を唱えようだ。その中心は井伊直孝だろう。『徳川四天王』のひとりとして戦国に家康のそばで活躍した井伊直政の子で、幕閣に大きな発言力を有し続けた。彼が、江戸幕府成立からまだ日も浅く、体制固めに努めるべき時期に、しかも鎖国政策を推進している真っ最中に、海外との交流の活発化を伴うだろう大規模な外征などとんでもないと論じたらしい。ただしそれで井伊直孝が御三家を押し切ったという話とは少し違う。幕府内で揉めているうちに、援軍を送る対象の、唐王と鄭芝龍・成功父子の旗色が悪くなった。清の軍勢に追われ、拠点の福州を失った。唐王はその後、自らの意思で餓死した。その後の情勢を展望しにくくなった。
 紀州徳川頼宣がこの国の牢人を集結して海を越えるといくら息巻いても、援軍をどこに送れば勝ち目があるのかが分からなくなっては仕方がない。幕府は、唐王の勅使、?徴明にも色良い返事を与えず、長崎から引き取ってもらった。
 牢人のアイドル徳川頼宣
 この交渉の経緯は、当時の日本の仕組みから言って公にはならなかった。民主主義ではないのだから公になる仕組みも存在しなかった。幕閣中枢と鄭芝龍らのあいだで秘密裏に運ばれた。とはいうもののの、話はどこからともなく伝わる。徳川頼宣が牢人の総大将となって大戦争を起こし、牢人に生きる場所と死ぬ場所を与えてくれる。この噂のようなものは牢人たちに広まっていったようである。それが伏線となって1651(慶安4)年の慶安の乱につながる。
 軍学者由井正雪は、丸橋忠弥らと語らって諸国の牢人を組織し、大乱を起こそうとした。それが慶安の乱。そのとき正雪は、牢人を集めるのに徳川頼宣の名を使った。牢人たちにとって、家康の子にして武を人一倍尊ぶとされた頼宣は、牢人の辛さを知って救いの手を差し延べる英雄になっていた。偶像として崇められていた。だから正雪が頼宣の名を持ち出すと、効果てきめんだった。頼宣は、牢人を結集して江戸幕府を覆す内乱を起こそうとしたのではなく、鄭芝龍・成功父子と組んで大陸で戦おうとしていたはずなのだが。おそらく話がうまくすりかわった。そのあとの講談等でも、由井正雪の黒幕と言えば徳川頼宣と相場は決まっている。
 こんな牢人たちのアイドルとしての『討清論者』徳川頼宣のイメージは、旧武士のアイドルとしての征韓論者、西郷隆盛のイメージとどこかかぶるところがあるようにも思える。頼宣は紀州西郷隆盛は薩摩。共に南のイメージを背負っている。頼宣は南龍公とも呼ばれる。彼が肩入れしようとした鄭芝龍・成功父子は南の海で助けを待っている。南方幻想と救済幻想が結び付くところに徳川頼宣と西郷は居る。
 ともかく正保2年と3年の鄭芝龍による『日本乞師』は実りを結ばなかった。だがそれで終わりではなかった。幕府がどう対処し、紀州の頼宣や尾張の義直や水戸の頼房がなおも出兵にこだわりつづけたかどうか、史料に乏しく分かりにくいが、『乞師』は長く執拗に続いていった。鄭芝龍の派遣した?微明が手ぶらで帰らされて翌年の1647(正保4)年には、今度は長崎に、馮亰等、?孝卿、朱舜水らの一行がやってきたようである。彼らの目的も『日本乞師』だった。けれど鄭芝龍の頼んだ唐王とは別系統だった。
 唐王の家は、明を開いた洪武帝こと朱元璋の第23子に連なる。その子孫の代々が唐王を名乗った。対して、馮亰第、?孝卿、朱舜水らは、同じ洪武帝の第10子、朱檀に始まる魯王の家からの使節だった。魯王家は山東半島に領土を持っていた。が、清に追われ、魯王の朱以派は戦死。次の魯王を弟の朱以海が継いだ。彼は南へ南へと逃げていった。1645年、日本の元号だと正保2年に浙江の紹興で監国という国を立てた。紹興酒紹興である。そこで監国魯王と称した。清にあくまで抵抗する意思を示した。この監国の建国には故事をなぞるドラマがある。徳川光圀を感激させ、水戸学にも影響を与える性質のドラマである。その物語は次回にゆずる。
 とにかく監国魯王は唐王輶武帝の斃れた翌年、退勢を挽回すべく『日本乞師』をした。それでどうなったか。日本に残る史料ではよく分からない。だが中国側の史料『海東逸史』には具体的記述がある。薩摩の島津氏が恐らく牢人であろう3,000人の兵士と大量の軍資金の提供を約束したというのである。別の史料では、幕府が約してその具体的交渉のため、一行のひとり、朱舜水が江戸に入って幕閣と直談判したことになっている。そこに紀州家、あるいは水戸家がどう関与したのか、牢人3,000人の派遣が机上の計画に終わったのか、実は海を越えていって歴史の闇に埋もれたのかは、時代劇のナレーションではないが、定かではない。
 この謎に満ちた1647年が朱舜水の恐らく初来日である。このあと彼はさらに6度、日本にやってくるの最後からはこの国に定住。ついに水戸藩の歴代藩主のみが眠ることになっている墓地に、徳川光圀の師として特別待遇を受け、墓を並べるまでになる。水戸学は監国というほんの一時期だけあった中国の南の小さな国としっかり繋がっている」
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 歴史は、同じ事を繰り返しはしないが、同じよな状況や状態をもたらす事があり、愚かな人間が時として同じような行動を取る事がある。
 孫文は、日本右翼の協力で辛亥革命を成功させ満州族清朝を打倒し、軍閥内戦で勝利する為に満州を担保で日本政府に日本軍隊派遣を要請した。
 日本軍部は、対ソ戦略から中国内戦不干渉の原則に従って出兵要請を拒否した。
 孫文は、日本が援軍を寄こさなかった事に失望して、ソ連のから軍事・財政支援を受けるべきレーニンと手を組んだ。
 それが、日本を破滅戦争へと追い込む端緒となった第1回国共合作である。
 レーニンは、国際共産主義に従い、日本を含む全アジアを共産主義化するべく日本とアメリカの戦争を目論んでいた。
 日本の悲劇や不幸は思慮分別が苦手な単純バカな日本人が、中国の内紛・内戦に引きずられ、「孫子」を好む中国人にいとも容易く騙される事である。
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 島国日本は、欧州大陸に依存しないと生きられないイギリスとは正反対に、中華大陸(中国・朝鮮)抜きで生きられるし、むしろ中華大陸抜きの方が安定し発展していた。
 日本と中国・朝鮮との間には、友好関係など存在しなかった。
 日本にとって、中国・朝鮮との間でモノとカネの行き来はあってもヒトの往来がない事が好ましかった。
 歴史的事実として、大半の日本の不幸や災難は中華大陸(中国・朝鮮)から襲ってきていた。
 日本民族日本人は、中華大陸に頼る事をせず、日本天皇の下で一団結して外敵から日本を守っていた。
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 中国大陸には、中華民族はいないし、中国民族もいないし、漢民族もいない、同様にモンゴル民族も満州民族朝鮮民族もいない。
 いるのは、漢族・漢人モンゴル族・モンゴル人、満州族満州人などである。
 古代漢族は、後漢から魏呉蜀の三国を経て司馬氏晋にいたる内戦でほぼ全滅した。
 中国大陸に存在したのは、北方及び西方の騎馬民族と中央及び東方の農耕民族と南方の河海漁労民族である。
 中国の歴史とは、中華の支配権をめぐる騎馬民族と農耕民族との戦争・殺戮の歴史であった。
 河海漁労民族は、文化・教養のない野蛮人として忌み嫌われ虐げられ搾取され歴史の表舞台から抹消されている。
 日本民族は、優秀民族の騎馬民族や農耕民族とは所縁は薄く、劣等人とされた河海漁労民族の血を色濃く受け継いでいる。
 朝鮮半島に住む人々はOO民族、OO族、OO人と呼ばれず、他者と区別する国家と民族の名称は中華皇帝に臣下の誓いを立てる事で授かり、中華皇帝の恩情で半島に生む事を許されていた。
 未来永劫、中華帝国への変節しない忠誠の証として、中華皇帝が定めた暦と度量衡と貨幣を受け入れた。
 朝鮮半島は、日本列島と異なり中華大陸の一部であった。
 中国大陸と朝鮮半島は、反日敵日侮日として、日本列島を切り離し寄せ付けなかった。
 北方系草原の民の血を色濃く受け継ぐ中国人や朝鮮人と南方系海洋民の血を色濃く受け継ぐ日本人は、性格的に相容れないし、思考や嗜好などで理解できない。
 南方系海洋民日本人の、目は西の大陸や半島ではなく南の島々に向き、憧れる理想世界は大陸に渡ってではなく海を越えた遙か彼方の天竺(インド)であった。


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鎖国と開国 (日本歴史叢書)

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「鎖国」という外交 (全集 日本の歴史 9)

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