⚔42)─1─徳川秀忠のキリスト教禁令とキリシタン処刑。徳川秀忠の死。1626年~No.170 @  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 聖書 
 詩編 54編 3節〜9節
 神よ、御名によってわたしを救い
 力強い御業によって、わたしを裁いてください。
 神よ、わたしの祈りを聞き
 この口にのぼる願いに耳を傾けてください。
 異邦の者がわたしに逆らって立ち
 暴虐な者がわたしの命をねらっています。
 彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。
 見よ、神はわたしを助けてくださる。
 主はわたしの魂を支えてくださる。
 わたしを陥れようとする者に災いを報い
 あなたのまことに従って
 彼らを絶やしてください。
 主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ
 恵み深いあなたの御名に感謝します。
 主は苦難から常に救い出してくださいます。
 わたしの目が敵を支配しますように
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 キリシタンは、処刑される事を恐れないばかりか、殉教すると神の国・天国に召されて永遠の命が与えられ、永遠に生きられると信じていた為に、喜んで刑場に赴いた。
 死を恐れ、血を忌み嫌う、今ある命を後生大事にする気弱な町人や百姓にとって、殉教を喜ぶキリシタンが理解できなかった。
 そして、殉教を説くキリスト教邪教として恐れた。
 日本人の8割近くが、「御上の言うご無理ご尤もとも」と土下座した従う百姓や町人達であった。
 死を覚悟したサムライは、総人口の5%ぐらいしかいなかった。
 日本はサムライの国ではなく、サムライが支配する国であった。
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 1626年 徳川家光は、九州各地に潜伏するキリシタンを根絶する為に、新たな長崎奉行に水野河内守を任命した。
 キリシタンの多くは、弾圧を逃れるべく、町を捨てて山奥や入り江など役人が入りづらい僻地に逃げ込んだ。
 町の生活を捨てきれなかった転びキリシタンは、奉行所の手先となって、町中に潜伏する隠れキリシタンの探索にあたった。
 隠れキリシタンの内で、逃亡に疲れ、処刑の恐怖から、信仰を捨て、キリシタンの隠れ家や神父の居所を密告する者も増えた。
 幕府は、密告して捕縛に協力した者に褒美を与え、隠れキリシタンの隠れ家を訴える事を奨励した。
 だが、仲間意識を大事にする日本人は、仲間を売って大金を得る者を「イヌ」として嫌い、その子供を「イヌの子」として差別した。
 その意味にいて、日本には人差別が多く存在する。
 「隣人愛」というキリスト教価値観を日本から完全消滅する決意を見せつける為に、各地にあったキリシタン墓地を掘り起こし、墓碑や墓石を破壊し、キリシタンの遺骸を打ち捨てた。
 イエズス会年報「ついに将軍は、われらの信仰に対し抱いている憎悪心から、キリシタンを根絶するため葬儀を行う事ができない様にして、生きている者を苦しめるだけでは飽き足らず、死者にまで攻撃の手をのばした」
 後に、幕府が定めた墓碑・石塔様式や戒名を刻まない墓石や非キリスト教卒塔婆などを伴わない墓地は、全て掘り返され、キリシタンかどうかを調べるために遺体と共に十字架やメダルが副葬されていないか捜索した。
 隠れキリシタンは、同じ信仰を持つ者として死者を冒涜する幕府の暴挙に激怒したが、抗議行動を取って弾圧の口実を与える事は避けた。
 幕府の探索を逃れる為に、信者の墓である事を隠すべく、墓石・墓碑に戒名なしの俗名のみを刻んだり、無銘の自然石を代用した。
 幕府は、檀那寺の許可のない葬儀や、僧侶の読経のない自然葬や個人葬を禁止した。
 隠れキリシタンは、異教の法による葬儀や埋葬を嫌ったが、弾圧を逃れる為に檀那寺の宗教干渉を受け入れた。だが、役人や僧侶がいなくなった所で、異教徒に妥協してた事への告白として「完全なる後悔の祈り」を捧げて絶対神に許しを請うた。
 隠れキリシタンは、幕府や仏教界の厳しい監視の目を逃れ、巧妙な手段で隣人愛の信仰を守った。
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 1627年 長崎奉行は、町に潜伏するキリシタン全員に対して、信仰を捨てて棄教するか、さもなくば町からの退去する様に命じた。キリシタンと判明し再三の棄教命令を拒否する者は、家族諸共に家に閉じ込め、餓死するに任せた。餓えに苦しみ棄教を約束すれば、開放した。
 宗教弾圧は、主義主張の思想弾圧とは違って棄教すれば許され、問答無用に殺すものではなかった。
 ユダヤ教徒ユダヤ人は、洗礼を受けキリスト教徒になれば、普通の人として諸権利が認められ、ユダヤ人として差別され弾圧される事はなくなった。
 思想弾圧は、思想信条を異にする者は容赦なく、根刮ぎに虐殺した。その熾烈さは、途中からの転向は一切認めず、当初は方便的に認めても最後には粛清した。思想弾圧においては、宗教はもちろん人種や民族、そして家族さえ一切関係なかった。
 その好例が、数千万人を虐殺した共産主義による赤のテロである。
 信仰を守る隠れキリシタンは、町を離れた為に長崎の人口は半減し、町の収入も激減した。
 後金軍は、朝鮮を攻撃し、住民を虐殺して、武力を持って朝鮮国王と兄弟の盟約を交わした。
 だが、朝鮮は約束を守る気はなく、明国への義理から後金軍の背後で騒動を起こし続けた。
 1628年 幕府は、キリシタンを転ばせる為に、世界に知られる悪魔的「踏み絵」の精神的拷問を始めた。
 嘘でも、踏み絵を踏んで絶対神を冒涜すれば許した。踏まなければキリシタンとして捕縛し、その家族も捕らえてキリシタンの有無を厳しく取り調べた。
 キリシタンであれば、棄教させる為に説得し、駄目であれば拷問にかけて棄教を強要し、それでも転ばなければ法に従って処刑した。
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 江戸幕府は、キリシタンをあぶり出す為に「踏み絵」を全国の大名・領主に命じた。
 大名・領主にとって、税を納める義務のない町人に比べて、税である年貢を納める百姓は重要な収入源であった。
 封建領主ある大名は、領地拡大目的の戦乱が禁止された為に、税収を上げるべく領地内の開墾を始めたが、その際の重要な労働力が百姓であった。
 キリスト教徒の多くが百姓である為に、将軍の命に従って本気でキリシタン弾圧を行えば、年貢が減って藩財政が立ちゆかなくなる為に手を向きながら適当に誤魔化した。
 故に。日本の宗教弾圧は、大陸諸国の宗教弾圧に比べて徹底したものではなかった。
 開放的大陸では、労働力が不足すれば他国を侵略して他国人を奴隷として強制連行して、家畜以下の劣悪環境で死ぬまでこき使えた。
 閉鎖的島国では、島の外から奴隷を強制連行できない以上、島民を上手くおだてご機嫌を取りながら働いてもらうしか方法がなかった。
 ここに、大陸ではあり得ない日本的欺瞞体質が誕生した。
 日本的曖昧志向は、建前と本音を柔軟に使い分け、外面では没個性的に相手に従い、内面では頑固に自分流を貫いた。
 日本人的日本人は、外目には蒙昧無知の民として、「御上」のお達しは無理ごもっともとして、独立心なく表面的に阿諛追従した。
 その実は、自分に都合が悪いものは、相手に見つからない様に上手く誤魔化して、相手と諍いを起こさない様にしながら別のモノに組み替え作り替えた。
 日本人は、気が弱いだけに、相手とのいざこざを起こさない為にありとあらゆる手段を講じながら、その場を適当にあしらって乗り越えた。
 「風に柳」という、へこたれずしたたかに生きる日本独自のムラ体質・百姓根性である。
 自然災害の絶えない最悪な環境ゆえに生まれた、一々物事にこだわっていられないという柔軟な精神力である。
 死を恐れない敬虔なキリシタンは、絶対神への隣人愛信仰を守る為に喜び勇んで刑場に駆けだし、喜々として殉教した。
 生き残ったキリシタンも、死後の永遠の命と天国で生まれ変わる希望を持って見つかる事を期待しながら逃げ回っていた。
 宣教師は、苦難をしながら逃げ回り捕らえられ、拷問にかけられて殉教死する事が、最も貴い信仰の証であると説いて回っていた。
 死を恐れる気弱なキリスト教徒は、キリストは許す神であるから異教徒に捕らわれて処刑されるよりも、生きる為に「踏み絵」を踏んで許してくれると勝手に解釈して、「踏み絵」を踏んだ。
 捕縛されたら、肉体的な苦痛を恐れて拷問にかけられる前に、いとも簡単に口先で棄教を誓って「踏み絵」を踏んだ。
 ご都合主義の日本人は、キリスト教から、自分に都合の悪い天地創造の創り主、全知全能の神、怒れる神、罰する神、最後の審判などの不寛容性を全て排除し、自分に都合の良い許す神、愛する神、恵みを与える神といった寛容性のみを残した。
 つまり。キリスト教の極一部を取り入れて、その他多くの重要な教義を全て捨て去った。
 それが、日本列島という苛酷な自然環境で生きる知恵である。
 信仰心篤いキリスト教徒は、苦難をものともせず、死を恐れず、一つ一つにこだわりきるきる頑強にして強靱な精神力を持っていた。
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 1628年 華北の陝西で生じた大飢饉し、1644年にも大飢餓が再び発生して、明国の人口は5,166万人あったのが31年後の1651年には1,063万人に激減した。
 明国も滅亡の始まりであった。
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 1629年11月 後水尾天皇は、紫衣事件による幕府の横暴に腹を立て、幕府の許可もなく突然譲位した。明正天皇から霊元天皇までの4代にわたって院政をひき、幕府に対抗した。
 大御所徳川秀忠は激怒して、鎌倉時代の前例に従って隠岐に流す様に主張した。
 将軍徳川家光は、前の天皇島流しにしては騒乱の元になるとして諫めた。 
 東福門院の子である女一宮興子内親王が即位して、第109代明正天皇・女帝となった。
 幕府は、徳川家の血を引く皇女が天皇になる事に対して、公家らが反対して騒ぎ立てる事を恐れて即位するまで知らせなかった。
 天皇に即位した皇女は、結婚せず、終生独身を通した。
 天皇の側近達は、中国の帝室や朝鮮の王室の様に婚姻関係者である外戚による不正腐敗の横暴で世の中か乱れ、大虐殺が起きて国家が滅亡した歴史的事実を知るだけに、日本の皇室を守る為に宗教的閉鎖空間に閉じ込めて守ろうとした。
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 第108代後水尾天皇は、幕府への反発から7歳の興子内親王皇位を譲って上皇に退いた。
 徳川の血を引く女帝、明正天皇の誕生である。
 古代より女帝は生涯独身である為に、徳川の血は皇室に受け継がれる事なく明正天皇一代で消えた。
 後水尾天皇は、譲位を政治利用して徳川家の野望を打ち砕いた。
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 皇室血縁者でない臣下の母親を親に持つ女性天皇が、神の裔・皇室の血を引かない臣下もしくは他国の異教徒男性と結婚し、その間に生まれた女の内親王天皇を譲れば祭祀王としての宗教的皇統は絶えると危惧したからである。
 つまり。
 1000年以上、守り、受け継いで来た、民族中心神話に基づく皇統を自分の代で消滅させる事を恐れたからである。
 1000年昔の祖先が希求た「戦乱なき平和の御代」への思いを、1000年後の子孫に伝える為に、神の血を引く皇室の非宗教的女系化を食い止めた。
 民族姓を嫌悪する国際派日本人は、1000年以上昔の祖先が後生大事にした集団としての「和」への思いを忖度せず、他者を排除した「個」を重視し、自分一人の幸福を最優先として、民族統合の「絆」である神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)という皇統を絶やす事に賛成したいる。
 それが、反宗教無神論の反天皇派日本人である。
 彼等には、会った事も話した事もない祖先には親近感を感じず、見る事も接する事もない子孫への愛着感も持ってはいない。
 まともな事を甘い声で囁き、言葉巧みに人の心を惑わして感動させても、「言霊」がないだけに言葉に真実味はなく、その本心はしょせん「個」としての自分の幸福だけが目的である。
 日本民族日本人は、「言霊」を信じ、言葉を大事にして、如何なる約束も命に代えても守った。
 自分が不利に陥り、窮地に立たされ、命の危険に晒されようとも、一度交わした約束は守るのが日本民族日本人であった。
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 徳川秀忠キリスト教布教がスペインやポルトガルなどの侵略を招く恐れがあるとしてキリシタン禁令を発布した。
 孫娘の明正天皇の神性を守る為に、キリシタン弾圧を強めた。
 キリシタンは、徳川秀忠への怨嗟の声をあげ、明正天皇が隣人愛に目覚め正しい道を歩む様にミサをあげた。
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 1600年代 ヨーロッパにおける、キリスト教徒同士の陰惨な宗教戦争は、いつ収束するかわからないまま「神の名」で続いていた。
 各陣営の主兵力は、自国民兵士ではなく契約兵士である他国人出身の傭兵であった。
 傭兵にとって、雇い主は自国の権力者ではなく、攻め込む相手国や敵君主に対する恨みも当然なかった。
 傭兵は、他国人であるだけに、雇った君主への忠誠心はないし、戦って守るべき国に対する愛国心も、その国の国民に対する愛着心もなかった。
 傭兵は、出身地を出て他国で戦い、戦うのは自分の為のみで他人は関係なかった。ただし、敵と戦っている最中に後ろから襲われない為に、戦友への友情を大事にした。
 傭兵は、例外なく敬虔なキリスト教徒ではあったが、祈るのは自分と故郷に残してきた家族の事のみであり、守るべき国と国民の事ではないし、攻め込む相手の国とその国民の事ではなかった。
 傭兵の目的は、正義や大義の為でもなく金銭の為であった。よって、自国軍が勝とうが負けようが関係なく、生き残って多額の報酬を得る事にしか興味がなかった。
 雇い主が負けて契約した報酬を出さなければ、敵軍に寝返るか、反乱を起こして領主とその家族を虐殺して全財産を略奪した。
 金に雇われた契約兵士は、金の為に各地で敵兵士はおろか民間人も容赦なく虐殺し、占領地で当然の権利として略奪と強姦を繰り返していた。
 領主が、多くの契約兵士を雇って戦い、領民を兵士にして領地を守らなかったのか。単純に、領民が兵士として戦場に出てしまってた税収が減るからである。
 当然の事ながら、「個」の集団である契約兵士軍団には、日本的な「絆」を基にした集団的家族意識は存在しない。
 大陸の戦場では、日本の合戦とは違って、虐殺と略奪が多いのは当然の事である。
 大陸の正義・大義と日本の正義・大義とはおのずから異なるが、日本の正義と大義は世界では非文明的として通用しない。
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 1630年 第109代明正天皇即位式は、京都御所の南庭に大勢の庶民を招いて公開で行われた。『御即位行幸図屏風』
 即位式の間は、式の進行を知らせる鼓や鉦(かね)の音と混同しなようにする為に、寺の鐘をつくのが禁止された。
 シャム(タイ)のアユタヤ王国には、山田長政ら1,000人以上の日本人が住み着き傭兵として働いていた。
 プラーサートトーン王は、日本人に謀反の動きがあるという密告を受け、傭兵として勇敢に戦っている外国人の日本人を疑い、山田長政を謀殺し、日本人町を襲って日本人を皆殺しにした。
 東南アジアに点在していた日本人町の多くが、地元住民との軋轢によって消滅した。
 海外にいた日本人は、日本に帰国できず、地元住民と同化して消えた。
 日本人が地元住民と共存しようとしても、地元住民が同じ思いとは限らなかった。
 ビルマ王国は、1767年にアユタヤ王国を侵略し、同じ仏教国でありながら、アユタヤの仏像の首を切り落として破壊した。
 大陸に於ける宗教対立は、悲惨を極めた。
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 ポルトガル商人は、日本人商人への負債を返済する為に、マカオ市の名義で長崎商人から無利子で銀を借り、その銀で日本産の銅を購入し、中国や東南アジアに売りその利益を負債返済にあてた。
 徳川幕府は、貨幣経済を全国に浸透させる為に、金銀の国外流出を抑えるべく交易の決済を銀から銅に切り替えた。
 関東は金、関西は銀、全国は銅、の三貨幣を用いて変動相場制を導入した。
 ユダヤ人商人やオランダは、対日貿易を続ける為に徳川幕府の方針に従ったが、裏では依然として銀を流通させていた。
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 1631年 カトリック教軍は、プロテスタント派の城塞都市マクデブルクを攻撃して占領した。
 カトリック教国軍兵士は、城内に流れ込むや2万人以上の市民を虐殺し、略奪し、放火した。そして、生き残った女性を強姦し、惨たらしく殺害するか人身売買業者に奴隷として売った。
 宗教戦争は、絶対神の名によって地上に地獄を生み出していた。
 カトリック教会は、如何なる野蛮な行為をしようとも、その勝利を祝福した。
 それは、プロテスタント教会でも同じことであった。
 キリスト教は、同じ絶対神を信仰していながら、虐殺を伴う内部抗争を繰り返していた。
 王侯貴族や高位聖職者は、貧しい領民から搾り取った資産を身代金として払って、殺害される事はなかった。
 戦火の被害を被るのは、何時でも、何処でも、貧しい庶民であった。
 キリスト教会は、貧しい庶民に対して、永遠の命を得、魂の救済を得る為に、ひたすら絶対神の愛を信じて祈る様に説き続けていた。
 貧しい庶民は、絶望の中で、絶対神の愛で救われる事を祈って教会になけなしの金を寄附していた。
 キリスト教会は、町の真ん中で、絶対神の権威を象徴する様な大聖堂を建設し、その大伽藍を全世界に見せつけていた。
 修道院は、慈善活動として、孤児や恵まれない人々を積極的に救いの手を差し伸べて救済した。
 王侯貴族や資産家は、下層階級から容赦なく搾取する傍らで、貧民救済を声を大にして公言して、衆目の中でキリスト教会に資産のごく一部を寄附し、庶民に見える様に公開の場で大げさにキリスト教会の救済活動を支援した。
 これが、キリスト教の「隣人愛」に基づくボランティア精神である。
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 1632年 キリスト教会が悪魔の申し子として嫌悪していた、大御所・徳川秀忠が死亡した。
 キリシタンは、悪魔の徳川秀忠が死んだ事に狂喜し、日本がキリスト教国に生まれ変わる事を絶対神に祈った。



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