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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
オランダは、日本との貿易を独占する為に、スペイン、ポルトガル、イギリスに不利な情報を提出した。
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自然災害多発地帯では、絶対神の奇跡や恩寵、救世主の救いや癒やし、神の国における永遠の命も、最後の審判のハルマゲドンも、根付く事はなかった。
日本の気候風土には、一神教の信仰は向かなかった。
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単一の絶対価値観は、多種多様の相対価値観の存続を許さない。
キリスト教は、普遍的聖書に基づく一神教でり、自分一人の個人信仰である。
絶対神は、怒りに満ちた不寛容な神である。
祖先の神や自然の神などの多神教の存在を許さず、絶対神に似た人々の間から滅ぼし、絶対神が創造した地上から抹殺し消滅させる事を、信者に信仰の証しとして命じた。
キリスト教会とキリシタンにとって、異教徒の王・神の裔・万世一系の男系天皇(直系長子相続)は滅ぼすべき悪魔の王・サタンの同類、敵であった。
神道は、日本神話に基づく多神教であり、日本民族だけの皆の衆信仰である。
祖先の神や自然の神や職業の神は、あやふやで気ままなで気弱な神である。
神を媒体として神の恵みとして助け合うのではなく、人と人が「絆」として互に補いながら助け合う補完共生である。
一神教の絶対神は、単なる普通の人間である祖先を神として祀る事を認めない。
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徳川幕府は、天下を統一するや、実力主義・能力主義は下克上の元凶になるとして、揉め事を起こす素行の悪い大名は些細な事を理由にして取り潰すか領地を削った。
戦乱を良しとする戦国時代気分を、荒療治によって押さえ込んで大名同士の私闘を封じた。
江戸時代は、我欲で殺し奪うという戦いのない平和な時代であったが、泰平ゆえに他人とぶつかりあわない様に気配りで暮らした為に個性も失った。
その対極社会が、中国と朝鮮であった。
江戸時代の大名は、土地に根ざした封建領主であったが、豪商や豪農に多額の借金をしても、領地の一部はおろか城や屋敷を売却して返済する事ができなかった。
司馬遼太郎『ロシアについて』
「皇帝は、貴族団の巨大なのものであるという点、将軍家が──法理的には──大名の大いなるもの、という本質と似ています。また皇帝も貴族もそれぞれ領地をもっている、将軍も大名もそれぞれ領地をもっている、ということでも似ています」
「ロシア貴族は、領地をもつ場合、地主であっただけでなく、その所有地の上に載っている農奴も私物でした。農地・農奴は持主の貴族の意思によって売買されます。おなじ土地でも農奴が何百人、何千人載っているかで、値段の上下がきまります」
「大名は、からを統治し、そこから行政費として租税をとりあげ、行政をしてゆく、という存在でした。36万9千石といっても、その数字は山口県の獲れ高にすぎないのです。大名は、その草高から得る租税で藩主を養い、かつ行政費から参勤交替その他の費用を出します。すると、大名の私生活に費われる金というのはわずかなものになってしまいます」
「大名には、自分の城を売却する権利がありません。それどころか、お国替えという配置転換の命令があると、城を空け、掃除をし、つぎの大名にあけわたして出てゆきます」
「江戸初期、広島城を無から造営したのは福島正則でしたが、改易を命じられたとき、紀州からやってきた浅野氏にあけわたしたのです。この情景は、所有権が、正則個人になかったことを証拠づけています」
「正則が広島城を造営したとき、賃銀つきで百姓を使役しました。百姓を労してできた広島城は、一種、公なもので、私有物ではないという──法理論的には明晰でないものの──自明の観念があったからでしょうか」
「江戸期の大名は、江戸に屋敷地をもっています。上屋敷は将軍家からの拝領地で、いわば私有物です。しかしたいていの大名は多くの中屋敷や下屋敷をもっています。これらは原則として江戸の町人地主からの借地でした。大名たる者が、百姓・町人なみに『地主になる』ということは、いやしいこととされていたかのようです」
日本の武士は、戦や政の功績で土地を恩賞として拝領して生きる特権を持ち、領地における徴税権と使役権を行使したが、土地の所有権を持ってはいなかった。
武士と威張っていても所有するモノを持たない根無し草と同じで、西洋や東洋の王侯貴族のような豪壮な大邸宅に住み数多くの召使いを傅かせる大地主ではなかった。
ゆえに。武士は、唯一の財産である体面を守り、貧困生活を質素倹約と痩せ我慢して粋がって暮らしていた。
大名や武士といった階層は、共産主義がいう階級闘争すべき王侯貴族や資本家と言った上流階級ではなかった。
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1620年 アメリカに移住したピューリタン達は、絶対神に定められた時間的制限下の一生を精一杯に生き、時間の終わり、世の終わりに迎える最後の審判で絶対神への「隣人愛信仰」を証明する為に、深い信仰心で禁欲生活を送った。
その子孫達は、信仰の基でより豊か生活を送る為に異教徒である先住民の土地を奪い、絶対神の理想郷を建設する事を正義として居住区を拡大して行った。
より豊かにして幸福な生活を求め、絶対神の「隣人愛」に満ちた理想郷を建設するという、未来へのフロンティアはこうして始まった。
宗教的使命に基づいた無限衝動は現代のアメリカでも受け継がれ、世の終わりを告げる神を見失ったアメリカ人は領土拡大から無目的に冨の蓄積を続けている。
中世から近代にかけて始まりと終わりを支配する絶対神が存在していたが、現代に於いては時を司る絶対神を失い終わりのない無限が社会を無目的に動かしている。
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1620年 ファビアン不干斉は、キリスト教を排他性を批判し、ルソンなどを武力征服して植民地化した事を暴露した『破提宇子(ディウス)』を、御公儀に提出した、
徳川幕府は、日本をキリスト教会の魔の手から救う為に、キリシタン弾圧を強めた。
3月20日 ポルトガル国王からインド総督への書簡
「マラッカ市の要塞化によって、ゴア市で売るよりもっいっそ有利と判断でされるならば、……日本航海権をマラッカに於いて売却する事。航海の売却所得は、第一にナオス島の要塞を完成させて大砲を配備する事に投入し、しかる後にマラッカ市の要塞化に必要なその他の事柄に充てる事」
6月18日 徳川秀忠の娘和子13歳は、入内して第108代後水尾天皇の皇后となり東福門院となる。
徳川秀忠は、徳川家が天皇家の外戚となった事を諸大名に知らしめる為に、室町時代の座り雛(人形雛)でお内裏様(親王さん)とお姫様(中宮さん)二体の雛人形を作って配った。
雛人形の飾り位置は、関東では向かって右にお姫様・左にお内裏様で、関西では御上(天皇)から見て右に親王さん・左に中宮さんである。
江戸中期頃から、桃の節句として雛人形飾りが商家に広まり、商人同士が飾り付けを競い、三人官女・五人囃子・各種調度品などが増えていった。
後年。水戸藩主徳川光圀(水戸黄門)は、南朝系天皇家を正統とする国史「大日本史」の編纂を命じ、天皇の祖先は中国人であると言い張る儒学者に激しく抗議した。
尊王の志を持つサムライにとって、天皇は日本人であらねばならなかった。
死んでも、天皇の祖先を中国人や朝鮮人である事を認める事はできなかった。
天皇を日本人と認める事が、サムライである。
サムライは、天皇あってのサムライである。
天皇を否定するサムライは、サムライではない。
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1621年3月15日 イエズス会日本管区長マテウス・デ・コーロスからイエズス会総長への書簡。「将軍とその偽政善達の心の中には、神の教えなるものは、諸国を征服する為に考え出された謀略であるとの考えが定着している」
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1622年 尚豊王の治世。八重山に南蛮船が渡航し、琉球にキリスト教が伝来し布教が始まった。
宣教師らは、ジャワやルソンと琉球諸島の間を往復し布教活動を行い、土着宗教を消滅させた。
琉球には、アニミズム、祖霊崇拝、おなり神信仰を基礎とする独自の琉球神道があり、
首里には聞得大君御殿と首里殿内、真壁殿内、儀保殿内の一本社三末社があった。
聞得大君御殿は、首里汀志良次町にあり、琉球各地にある祝女殿内と呼ばれる末社を支配した。
琉球王朝は、独自の琉球神道を守る為にキリスト教を禁止し、キリシタンを摘発し弾圧した。
薩摩藩も、度々キリシタン禁令を琉球側に伝達していた。
イギリスとペルシャは連合して、ペルシャ湾出入り口のホルムズ海峡周辺からポルトガル勢力を一掃した。
ベトナムの一部にある安南王朝の阮氏国王は、長崎の朱印船商人・荒木宗太郎が気に入って娘の王加久戸女(ワカクトメ)王女を与えた。
王加久戸女(ワカクトメ)王女は、長崎では「アニオーさん」と親しみを込めてそう呼ばれている。
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1623年 オランダ王国は、日本との貿易を独占する為に、カトリック教国スペイン王国とポルトガル王国に次いで、プロテスタント教国イギリス王国に不利な情報を幕府に提出した。
そして、オランダと独占的通商交易を許してくれるなら、徳川家康が求めた経教分離策を受け入れると提案した。
徳川秀忠は、イギリスに対して、「日本人を傭兵として売買(人身売買)する事と近海での海賊行為の禁止を求める」厳しい口調の書簡を送った。
日本人がカトリックとプロテスタントの宗教戦争と国際的海賊犯罪に利用され、日本が国際紛争に巻き込まれる事を防ぐ必要があった
真の目的は、諸大名がイギリスなどの西洋諸国から弾丸の原料となる鉛を購入しているのを禁止し、武器を統制する事であった。
弾丸用の鉛は、80%が外国からの輸入品であった。
イギリスは、貿易利益の高い多いインド交易に重点を置く為に、利益の乏しい平戸商館を閉鎖して日本を離れた。
日本とイギリスとの国交は、10年で断絶された。
戦乱の再発を防止し、庶民に平和な生活を保障する為にも、中国や朝鮮の様に平気で主君を殺害して領主になろうとする下克上を許すわけにはゆかなかった。
日本は、朝鮮と中国との友好関係を認めず、隣国としての儀礼的な書状の遣り取りのみを続けていた。日本と朝鮮は、正規な国交を結んではいなかった。
8月21日 徳川家光は、京で征夷大将軍の宣下を受け、天皇の神性を守る為に国内に潜伏するキリシタンの弾圧を命じた。
江戸で、10月に55名が、11月に37名が処刑された。
諸大名は、家を守る為に将軍の命を受けてキリシタン弾圧を実行した。
北は蝦夷地から南は琉球王国までの日本全土で、天皇の御親兵とも言えるサムライによって多くのキリシタンが虐殺された。
国外に移住しなかったキリシタンは、信仰を捨てて生きるか、信仰を守って殉教するかの二者択一が強制された。
潜伏していた宣教師らは、日本のキリスト教勢を維持する為に全国のキリシタンの間を、「信仰を守り、信仰の為に殉教する事は、天国への近道であり、永遠の命が与えられる証しである」と説き、弾圧にめげず団結する様に勇気付け廻った。
そして、絶対神の天罰で天皇や将軍などの悪魔的異教徒が滅び、日本に救済の福音が広まり、隣人愛による正しい道が開かれる様に敬虔なる祈りを捧げた。
信仰心の強いキリシタンほど、宣教師の教えに従って殉教の道を選び、幼い子供達と喜んで刑場に向かった。
死を忌み嫌う気弱な日本人は、絶対神の信仰で殉教する事に感動するどことか、天国での永遠の命を得る為に死を喜ぶキリシタン心理にが理解できなかった。
それ以上に、自分の信仰や信条を守る為に我が子を殺す事に恐怖した。
個性の弱い日本人は、我が子の命を守る為なら自分の信仰や信条を捨て、親である自分の命を犠牲にした。
レオン・パジェス「天下の新しい君主は、以前からあった制度を全部再発布させた。これらの掟の一つは、キリシタン宗門は君主の尊厳を傷つけるものとして禁じ、違反者は死刑にする事であった」
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1624年 幕府は、海外交易からキリスト教会を完全排除するべく、日本人がキリシタンが生活するルソンなどに渡航する事も、海外の日本人キリシタンが帰国する事も禁止した。
外国船の船付き神父には、船に留まり、上陸も、日本人と接触する事も禁止した。
宣教師が船員に化けて密航する恐れがあるとして、平戸と長崎の警備兵を増やして外国人への監視を強化した。
海外交易に必要な商人や船員以外の、スペイン人とポルトガル人の国外追放を命じた。
3月 徳川家光は、キリシタン禁制を徹底する為にスペイン船の来航を全面禁止し、マニラからの宣教師の密航を防止する為にスペインとの国交を断絶して通商を廃止した。
徳川幕府は、オランダ船以外の外国船の長崎への入港を禁止した。
オランダ船が来航するたびに、世界情勢に関する情報を書状にして提出する事を命じた。これが、『オランダ風説書』である。
日本は、国運に関わる為に、世界情勢について神経を尖らせていた。
オランダ商館長に対して、1633年から年一回は江戸に参府し、将軍や幕閣からの海外に関する下問に答える事が義務付けられた。
長崎から江戸までの旅は、大名行列並みの格式が与えられたが、旅の経費はオランダ側の自前とされた。
オランダ商館長の江戸参府は、莫大な経費がかさむとして途中から4、5年に一回に変更された。それでも、1850年までに167回おこなわれた。
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隣国朝鮮は、12回、朝鮮通信使を日本に派遣したのみであった。
幕府は、莫大な経費の全を街道筋の大名に負担させた。
財政難にあった各大名にとって、経費を負担しなければならない朝鮮通信使は迷惑なだけであった。
勘定方のサムライは、差別意識丸出しで、分別のない傲慢な朝鮮通信使を嫌っていた。
清国は、朝鮮に対して、日本国内情報「倭情」を子細に提出する事を義務づけた。
朝鮮は、命じられた事以上に、日本の事を事細かに国書にしたためて清国に報告した。
内容は、日本を人間以下の「禽獣」の国と悪し様に罵る内容であり、好意的に伝えるものではなかった。
同様に、国王への報告書も、文化的に朝鮮が如何に日本よりも優れ、教養なき日本と親しくすれば堕落するという内容であった。
1811年 幕府は、莫大な経費がかかる為に、朝鮮通信使を対馬までとして江戸参府を中止した。
12回目を最後に、両国の公式交流は途絶えた。
対馬藩を通じた民間交流は、たいした利益もなく細々と続けられていたが、やはり見るものべきのもはなかった。
接待を強要されていた諸藩は、永年続けられていた慣例が廃止なった事に安堵し、財政難を理由にして朝鮮通信使の再開に反対した。
日本が朝鮮に求めたのは、高麗人参などの一部の漢方薬のみでり、それ以外は全てが時代遅れで無価値に近く興味がなかった。同様に、中国に対しても漢方薬や陶磁器など極わずかな品物だけであった。
日本の関心は、新しもの好き、舶来もの好きの移り気な性格から、オランダが持ち込む西欧の物珍しい奇抜な文物であった
日本は、国交を結ぶ国と拒否する国とを冷静に分析していたので、アジア・アフリカ地域とは違って、キリスト教諸国の植民地となって大虐殺される事を免れた。
だが。その結果、日本は世界の発展からは取り残された。
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1625(寛永2)年 熊本大地震。
大僧正・天海は、織田信長によって焼き討ちされた比叡山延暦寺の再建と共に、上野に東の比叡山として天台宗東叡山寛永寺を創建して、二つ目の徳川家菩提寺とした。
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1622年 オランダは、台湾のスペインとポーランドを攻撃して撃破し、台湾を軍事占領して2つの要塞を築いた。
日本船は、台湾中南部で中国及び東南アジアとの中継貿易を行い、領土拡大の野望がなかった為に台湾騒乱に参戦しなかった。
台湾を統治したオランダは、入港する全ての商船に対し輸出入品に一割の高関税を課した。
日本人商人は、自由貿易を望み、不当な高関税に反対した。
オランダは、日本の軍事力を畏れて関税を免除したがその他の諸税を命じた。
日本人商人は、その納税命令も承服せず、海賊のように台湾を奪ったオランダの主権も認めなかった。
1623年 モルッカ諸島(現・マルク諸島)アンボイナ事件。オランダ東インド会社総督ヤン・ピータースゾーン・クーンは、香料の産地モルッカ諸島を手中に収めるべく奇襲攻撃を行い、ポルトガル人、イギリス人(約10人)、日本人(約20人)を虐殺した。
イギリスは、モルッカを含むインドネシアから撤退し、東アジア交易からインド経営専念へとアジア戦略を転換した。
が。自国民が殺害された事を放置しては、国家としての名誉と国民への責任が果たせないとして報復の機会を待った。
徳川幕府は、関係ない日本人20人が虐殺されたにもかかわず、オランダに抗議せず沈黙を続けた。
1625年 台湾のオランダ総督は、入港した日本船に対し関税未払いを理由にして積荷の絹を没収した。
日本人船主は、長崎奉行にオランダの不当行為を訴え出た。
徳川幕府は、朱印状を与えた日本船が課税され積荷を没収された事は看過できないとの書状を、台湾のオランダ総督に送った。
オランダ総督は、アンボイナ事件で見せた徳川幕府の弱腰から、抗議の書状は虚勢を張った見せ掛けのものとして黙殺した。
長崎代官の末次平蔵は、明国に絹や物資を送る日本船を台湾に送った。
オランダ総督は、台湾に入港した日本船に対しても関税を要求した。
台湾に於ける関税問題が、日本とオランダの深刻な外交問題となった。
1626年 ジャワ島のオランダ総督クーンは、ピーター・ヌイツを特使として日本に派遣して、強圧的に日本船の渡航禁止を求めた。
末次平蔵は、海外交易を続けたくてオランダの要求を受け入れては日本の体面が潰れ、幕府の威光に傷が付くとして猛反対した。
徳川幕府は、要求受諾の穏健派と断固拒否の強硬派が対立して決を出せなかった。
ヌイツ特使は、要求を無条件で呑まない日本人を土人と軽蔑して引き上げた。
1627年 末次平蔵は、自由貿易を意地でも守る為に日本船を台湾に送った。
台湾のヌイツは、前年の報復として日本船を港に抑留し、日本人船員を軟禁した。
1628年 抑留された日本船の日本人船長は、台湾を脱出して日本に帰国して幕府に顛末を報告した。
末次平蔵は、理不尽なオランダに激怒して復讐を計画し、長崎の町人・濱田弥兵衛に相談した。
濱田弥兵衛は、大阪で台湾行きの兵を集め、大砲数門と火縄銃200挺を準備して、人員470人を軍船2隻に乗せて台湾に向かった。
ヌイツは、日本の軍船2隻と戦うのは不利と判断して、姦計を持って濱田弥兵衛を捕縛し、日本軍船に兵を送り込んで武装を解除させた。
濱田弥兵衛は、談判の場でヌイツの油断を見逃さず逆襲してヌイツを捕らえ、6日間談判した。
ヌイツは、息子を含む5人のオランダ人を人質とし多額の賠償金を払う事を承諾した。
濱田弥兵衛らは、5人の人質と賠償金を得て帰国し、末次平蔵に報告した。
徳川幕府は、濱田弥兵衛の行為を正当なものと認め、オランダへの制裁処置として平戸での交易を禁止すると通告した。
オランダ総督クーンは、徳川幕府の強硬姿勢に驚き謝罪の為の特使を送った。
末次平蔵は、対蘭強硬政策を主張し、台湾の2つの要塞は交易の障碍になる為に、日本側に引き渡すか破壊する事を求めた。
オランダにとって、2つの要塞を失うことは台湾統治の崩壊につながるとして拒否した。
日蘭交渉は、不調に終わった。
1629年 クーン総督は、ジャワ島のイスラム教マタラム王国の襲撃を受け逃げたが、病で死亡した。
1630年 徳川幕府は、対蘭強硬派の末次平蔵が死亡した事で外交方針を穏健政策に切り替えると共に、海外で日本人が受ける被害と起こす犯罪を防ぐ為の海禁政策を取る事にした。
オランダは、日本貿易を再開する為に、事件の首謀者であったヌイツを日本側に引き渡した。
1631年 徳川幕府は、オランダが譲歩し恭順の意を表した事で両国の交易再開を許可し、台湾におけるオランダの統治権を認めた。
日本は、海外に於ける領地拡大及び植民地獲得という野心がなかった為に、台湾領有権と海外で活躍する日本人の保護権を放棄した。
日本人は、島国に閉じ籠もって安穏とし、外敵から生活の場が危害を加えられない限り国外に関心を持たず、ゆえに海外に飛躍して他国人と競って利益を得ようという意慾も皆無であった。
1654年 英蘭戦争。
1667年 第二次英蘭戦争。フレダ和平条約。アンボイナの和解。
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