⚔46)─1・B─イエズス会は、日本から追放された。キリスト教原理主義者は日本に潜伏した。1633年~No.191No.192No.193 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 徳川家光は、幼少の頃から病弱で、度々病に臥し、精神疾患を患っていたとも言われている。その為に、。
 キリシタンは、魔王・家光の死を絶対神に祈った。
 絶対神の奇跡として、家光は48歳の若さで病死してキリスト教の地獄に落ちた。
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 鉄砲が日本に伝来してから90年を経過して、鉄砲の国内総数は90万挺以上で世界一の鉄砲保有国となった。
 ヨーロッパ諸国で、一国のみでこれだけの鉄砲を保有している国はなかった。
 日本以外の非白人諸国は、西洋の鉄砲に制圧されて植民地となっていた。
 スペイン王フェリペ2世は、日本の軍事力を恐れて日本に手を出さないようにフィリピン総督に指示した。
 徳川幕府は、諸大名に大砲や鉄砲の管理監督を厳重にするように厳命し、マタギなどの猟師に鉄砲使用を許したが街中から完全に排除した。
 強権を持って武器の自由な所持を禁止し、武装解除して平和国家を実現した。
 ここまで徹底した国は、珍しかった。
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 中世キリスト教会は、異教徒の弾圧を恐れて逃げる事は信仰心が薄いと厳しく非難し、信仰を守る為に進んで処刑される事は尊い事として殉教を奨励していた。
 聖ペテロは、主イエス・キリストに「命懸けで付いて行く」事を誓い、布教の為に十字架にかけられた。
 敬虔なキリスト教徒達は、信仰を守る為に、喜んで、地獄の様な拷問を受け、生きたまま焼き殺されるか獣に食われ、殉教した。
 中世キリスト教会は、信仰の為に殉教した者達を聖人と称え、苦痛を嫌い命欲しさに逃げ回った者を信仰心薄い者と激しく非難し、信仰を語る資格がないと切り捨てた。
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 中世キリスト教会や西洋交易商人達は、日本人を売買する奴隷交易は途絶えて大損害を被っていた。
 世界交易の主要取引品は奴隷で、西洋諸国は奴隷交易だ富を築いていた。
 日本人も奴隷であった。
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*日本のキリスト教化を諦めないローマ・カトリック教会イエズス会
 1633(寛永10)年 イエズス会日本管区代理管区長のフェレイラ神父が、拷問に耐えかねて背教し、キリシタン目明かしとして隠れキリシタン探索に協力した。
 転びバテレンは、捕縛されたキリシタンに対して、絶対神への忠誠を貫き永遠の命を得る為に殉教するより、今ある命を大事にし幼い子供を守る為に自分の信仰を捨てる様に説いた。それこそが、子を思う親としての真の犠牲的精神であると。
 イエズス会カトリック教会は、幹部クラスの宣教師が棄教した事に衝撃を受け、異教徒日本人がこの事実を悪用して人間性に脆い日本人キリシタンの信仰心を挫く事を恐れた。
 レオン・パジェス「フェレイラ神父の背教が、ヨーロッパに知られると、イエズス会その他の修道会の中に非常な苦痛を与えた。イエズス会の修道士達は、自分の血で、この修道士の罪を償う為に、競って日本に派遣される事を志願した」
 イエズス会の宣教師や修道士は、信仰を見失ったフェレイラ神父を絶対神の愛で覚醒させるべく、見つかれば殺される事を承知で日本への密入国を希望した。
 イエズス会バチカンは、優秀な神父を野蛮な異教徒の地・日本に派遣して殉教させるのは、教会にとって大いなる損失であるとして躊躇した。だが。信仰心に燃える若き宣教師らの、異教徒日本人の迷える魂を絶対神の隣人愛で救済し、異教国日本を愛の福音で神の王国に生まれ変わらせたいという、止むに止まれぬ熱烈なる思いに同意した。
 天地を創造した絶対神の聖なる使徒を任ずる宣教師らにとって、俗世に秩序をもたらす人の法律は無力であり、入国を制限する俗世の人が築いた国境も意味をなさなかった。
 隣人愛を伝える求道者は、神聖不可侵の絶対神の名によって、俗世の人が決めた俗な法律は全て無視した。
 その結果、異教徒の地域が崩壊し、異教国が滅亡するも、それは絶対神の大いなる御意志であると。
 如何なる大災害も、如何なる甚大なる犠牲も、全て絶対神がもたらすもので、何らかの深い意味があり意味のない事はないと。
 地上はもちろん宇宙全体で起きる事すべて、この世でもあの世でも起きる事すべてが、絶対神の御心による御わざであると。
 そして、それは、生まれる前に、絶対神がある意図をもって定めた避けられない運命であると。
 ゆえに、彼等は悲しむ前に跪いて絶対神を讃美する敬虔な祈りを捧げた。
 日本国内にいる隠れキリシタンは、国禁を破って密航して来る宣教師らを助け、探索する役人の目を眩まして匿った。
 幕府は、キリシタン禁制という国内法を無視して密入国した宣教師らを捕縛し、転びバテレンを使って背教を強要し、拷問の苦痛に耐えてなをも背教を拒否すれば定めに従って処刑した。
 密航と布教に協力した日本人キリシタンも同時に捕らえ、棄教を迫る為に拷問をおこない、絶対神の隣人愛の信仰を捨てなければ、やはり御上が定めた天下の御法に従って処刑した。
 一緒に住み匿っている事実を知りながら訴えなかった家族は、同罪として処刑するか流罪とした。
 連座制を適用して、罪人を出した地域の世話人にも連帯責任として罰を与えた。
 大陸は、「個」を重視し、犯罪者を諸権利を有する独立した一個人とみなして、家族や地域や組織から切り離して罰した。
 日本は、島国として「集団」を重視し、犯罪者を出し揉め事を起こした無作為の罪を家族や地域や組織に求めた。
 マストリリ神父「(マニラのスペイン総督)総督の命令で来たのではござらぬ。将軍をキリシタンとし、できるなら日本人全部をそうさせたい為に参りました」
 ルビノ神父「(布教の為に密入国した宣教師は処刑される事)存じています。しかし、何よりも私達は神の掟に従うべきであり、幾千人の霊魂を地獄の苦しみから救い出すよう努力し、キリストの血によってあがなわれたこれらの魂(異教徒に殺害された福者と棄教に追い込まれた背教者)の救いの為に、自分の命を犠牲にするように勤めねばなりませぬ」
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*明国の滅亡とキリスト教
 明国において。儒教的知識エリート層は、神秘・秘跡・奇跡といった説明できない宗教的現象を否定する立場から、キリスト教は中華の理想社会を破壊する邪教であるとして排斥運動を起こしていた。
 イエズス会は、中国での布教活動をスムーズに行う為に、日本での布教の失敗を教訓とした。儒教は、社会習慣を論じた哲学であり人生訓であり処世訓であって宗教ではないとして、両者は対立しないと認定した。反キリスト教派の攻撃をかわす為に、儒教の天帝や古典の上帝はキリスト教の天主・絶対神と一致するとし、先祖を祭り死者を弔う典礼儀礼)は子孫の義務として理解できるとして裁定した。
 現世利得優先の土着信仰を持つ現実主義の中国人にわかりやすくする為に、絶対神を天主と呼び、キリスト教を天主教と名付けた。
 宣教師らは、キリスト教のヨーロッパやイスラム教のオスマン帝国とは違う、全く異質な古い歴史と文化と教養を持つ桃源郷の様な楽園が、東の地の果てに存在すると照会した。
 中国の生活習慣を美化し、中国人を愛すべき善人であると、殊更に賛美した。
 キリスト教会は、ヨーロッパ社会の関心を中国に向ける為に、中国の悲惨な実状を隠蔽し、事実と異なる中国を捏造し歪曲して伝えた。
 ヨーロッパでは、宣教師の報告を真に受けて、欲得による黄金の島ジパングへの憧れに代わり、桃源郷の様な理知的な幻想的世界としての中国ブームが起きた。
 一旗あげ組の海賊まがいの商人達が、ヨーロッパの王侯貴族から多額の資金援助を受けて中国を目差した。その多くが、ヨーロッパ人キリスト教徒から「豚」と差別され、ヨーロッパ人商人から「泥棒」として仲間外れにされた、改宗ユダヤ人商人であった。
 イギリスとオランダの商船は、ポルトガルやスペインなどのカトリック諸国の商船を発見するや、海賊となって攻撃し、船員を皆殺しにして、積み荷を奪った。
 世界中の海は平和的な自由とは無縁で、海賊まがいの商船が暴れ回り殺戮を繰り返す自由が支配していた。
 オランダ東インド会社は、中国磁器を購入して高額で売って暴利を貪った。
 中国から輸入された陶磁器や絹織物や漢方薬などは、王侯貴族の間で貴重品として珍重された。
 1615年 ローマ教皇パウル5世は、苦悩する魂を救済する隣人愛の福音を広める為に、祖先追悼の儒教儀礼を認めるというイエズス会中国布教長の方針を承認した。
 揚子江流域出身の政府高官の中からも、キリスト教に興味を持って洗礼を受ける者が続出した。社会的に影響力のある知識人は、イエズス会のリッチ神父らに協力し、キリスト教の教義を漢訳して日本や朝鮮などの漢字文化圏に広め、儒教キリスト教は対立しないと伝えた。
 儒教学者は、揚子江流域にキリスト教が拡大する事に危機感を感じて、1616年にキリシタン禁制を皇帝万暦帝に訴えた。儒教キリスト教は別物であり、キリスト教は天の掟に背き、絶対不可侵であるべき天帝の権威を傷つけ、公序良俗を乱す邪教と告発した。
 万暦帝は、西洋の優れた数理科学や技術を導入する為に、宣教師の滞在を許可し、キリスト教の布教を警戒しながらも黙認した。そして、正確な暦を作製する為に多くの宣教師を暦局などに雇った。
 中国独自の天文学固執する中国人天文官は、アジア独自の暦に固守して西洋天文学を嫌悪した。
 1617年 万暦帝は、反西学派の保守層を鎮める為に中央政庁にいる宣教師で天文官職以外をマカオに追放したが、南方出身の高位高官に配慮して揚子江流域の宣教師や信者には手を出さなかった。
 1620年 万暦帝の後を継いだ泰昌帝は、弱体化した明国を立て直す為に、優れた西洋の軍事技術を導入して富国強兵策を推し進めた。親キリスト教の西学派葉向高や徐光啓らを高官に登用し、儒教一辺倒の反西学派を要職から閑職に左遷した。
 1622年 反西学派の保守層は、国益よりも面子の為に、儒教学者や仏教徒の全面支援を得て巻き返しにでた。
 泰昌帝は、圧力に屈してキリスト教禁止令を出し、南方出身高官の地盤である揚子江流域諸都市でのキリスト教徒弾圧を命じた。
 多くの宣教師が捕らえられてマカオに追放されたが、少数の宣教師は山奥に逃げて中国人信者の霊的信仰を支援した。
 中国人信者に対する弾圧は、中国特有の残忍性ゆえに容赦なく行われたが、その実態は不明である。
 1623年 西安で、唐代にネストリウス派景教)が伝来していた事を伝える大秦景教流行碑が発見された事が公表された。
 西学派の南部出身高官は、古代にすでにキリスト教が伝えていたという事が証明されとして、古き伝統を尊び前例を重んずる儒教学者に反論した。
 1626年 西洋大砲を装備した明国軍は、侵入してきた満州族ヌルハチの率いる後金軍を寧遠で迎え撃ち、敵将ヌルハチを負傷させて撃退した。
 朝鮮は、宗主国明国に忠誠を誓って、国境を越えて後金を再三攻撃した。
 1627年 丁卯胡乱満州族の後金は、明朝の属国・李氏朝鮮に明国を攻撃する様に命じたが拒否された為に、懲罰として朝鮮に侵略して大量虐殺し数十万人の朝鮮人を奴隷として強制連行した。
 被害は、豊臣秀吉による日本軍の侵略より多く、夥しい犠牲で人口は半減したといわれている。
 1630年代に入るや。ドミニコ会フランシスコ会は、布教の為とはいえ偶像崇拝につながる危険のあるイエズス会の活動は背信行為に当たると、ローマ教皇に訴えた。
 1630年 後金軍は、軍隊を立て直して、明国を侵略して北京に迫った。
 イエズス会宣教師ロドリゲスは、明国に布教を公認させる為には、軍事協力は欠かせないとしてポルトガルに援軍を要請する様に奏請した。
 南部出身高官のキリスト教擁護派は、「夷を以て夷を制す」の戦略から賛成した。
 反西学派高官は、これ以上の夷を深入りさせる事は中国の滅亡につながるとして猛反対した。
 儒教学者や仏教徒は、襲い来る国難から国家を救う事よりも、自分の個人的信条や信仰を守る為にキリスト教弾圧を求めた。
 両派は、迫りつつある外敵の侵略に備える事よりも、自説を守る為に激しく対立して国論を二分し、国難に一丸となって立ち向かう事なく国力を弱めていた。
 彼等にとって、自国の利益や存亡よりも、自分の自尊心という面子が重要であった。
 キリスト教擁護派の一部は、反キリスト教派が政治の主導権を取り始めるや、個人の信仰を守る為に仇敵の後金軍に寝返って明国軍を攻撃した。
 明国軍は、今や豊臣秀吉の日本軍を撃退した時の勇壮はもうなく、味方からの相次ぐ裏切りで戦意を喪失して敗走し始めた。
 滅びる事はないとされた漢族の世界帝国明国は、国益を顧みない西学派と反西学派の不毛な神学論争的抗争による混乱と、個の利益を優先する裏切り者の続出で急速に衰退して行った。
 如何なる国家・政府も、国家の命運を気にしない、内部の権力闘争で崩壊した。
 中国においては、王朝や帝国の栄枯盛衰は天命によって当たり前の事であり、徳をもって永遠に続く国はないと諦観していた。
 人間不信の中国人にとって、皇帝や国王などの権力者が誰に替わろうとも、それが漢族であろうとも異民族であろうとも、自分には一切関係ないとして気にもしなかった。
 大陸世界で生きる中国人は、国家を頼らず、権力者を利用し、自力で道を切り開く激烈な精神力と強い信念と強靱な行動力を持っていた。
 ゆえに、太虐殺と略奪で世界的な植民地太帝国を幾つも建設していた。
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 1633年 幕府は、朱印状のほかに老中奉書を携えた奉書船以外の海外渡航を禁止した。翌34年には、海外との往来や通商を制限した。
 寛永小田原大地震伊豆半島・熱海・小田原・鎌倉・三浦半島相模湾沿岸を大津波が襲って甚大な被害がでた。
 6月22日 ガリレオ裁判。キリスト教会は、天動説を守る為に地動説を唱えるガリレオガリレイを異端者として逮捕した。
 異端審問所は、地動説を放棄しないと「拷問にかける」と脅迫した。
 69歳のガリレオは、拷問を避ける為に地動説を放棄すると宣言し、小声で「それでも地球は回っている」と囁いた。
 ヨーロッパは中世キリスト教会によって社会全般が支配され、真実を突き詰めようという科学の探究から個人の奔放な自由まで制限された暗黒時代であった。
カトリック教会は、教義を否定する様な科学や思想・哲学を徹底的弾圧し、意に沿わなければ異端者として生きたまま焼き殺した。
 その為に知識は公開されず、秘伝として、実子か有能な弟子のみに教えた。
 もし、熱心なキリスト教徒がその間に現れるとその秘伝は途絶えた。
 中世キリスト教時代。ヨーロッパからキリスト教以外の教養は消滅し、文化も衰退して未開地帯の様な状態となった。
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 1634年 徳川家光の時代に、キリシタン取り調べの手段として紙に描いた聖画が踏ませた、それが踏み絵こと「絵踏(えふみ)」である。
 紙ではすぐ破れる為に、鋳込んだ鉄製のメダルを板にはめ込んだ板踏絵が持ちうるようになった。
 琉球王国は、家光の将軍就任を祝う為に慶賀使を派遣した。これが慣例となり、これ以降の将軍交替には慶賀使を日本に送った。
 琉球使節団は、幕府の要請により、中国風の服装をし中国楽器を演奏しながら騒々しく江戸城に登城した。
 漢学の素養のある知識人には、琉球使節団と朝鮮通信使の区別がついた。
 だが、一般の庶民には中国と朝鮮と琉球の違いがわからなかった。
 幕府は、中国人も朝鮮人琉球人も区別できない庶民を誤魔化す為に、両国の使者に中国風をとらせた。
 両国の使者とも、両国が中国の属国である事を自認していた為に、宗主国の真似事が出来る事を喜びこそすれ不快感と思わなかった。それ以上に、独自風を押し通し中国風を拒否した事が中国に知られる事の方を恐れた。
 日本人の庶民は、奇妙や奇抜といった自分とは違う特異を面白がっていた。高度な儒教的素養には無縁であっただけに、単純に見て面白ければ、中国風であろうが、朝鮮風・琉球風であろうが、どちらでも良かったのである。異様な服装を着ている人間が、日本人であろうが、中国人であろうが、朝鮮人琉球人であろうが、余り気にしなかった。
 大陸の人間の様に現実離れした思索にふけり有りもしない真理を求める事が苦手であっただけに、深く考えずありのままに単純明解に面白ければそれで良かったのである。
 サムライは、差別的な優越感を丸出しにして傲慢に振る舞う朝鮮通信使には神経を磨り減らして辟易としたが、謙虚を知り礼節を守り人付き合いのいい社交的な琉球使節団には安堵して親しみやすさを感じた。
 幕府はもとより街道筋の諸大名も、打ち続く天災に伴う領民救済で経費が嵩み財政難で苦しんでいた。
 朝鮮通信使を接待する栄誉をえた大名も、特権として朝鮮交易する権利が得られるわけではないので、巨額な接待費の捻出に頭を悩ませたいた。建前では歓待しても、本音では中止を希望していた。
 封建領主として、両国の友好より、領地経営を優先したかったのである。
 名誉・体面・面目を重んずるサムライにとって、日本の公式使者団を釜山の倭館(倭は、日本人への差別用語)に軟禁して、朝鮮人役人が替わって国書のみを漢城の国王に届ける事は、屈辱であり、恥辱であった。
 豊臣秀吉朝鮮侵略に懲りて、日本人を一人たりとも内陸部への立ち入りを一切禁止したとは言え、日本の正式な使節団を監視の下で軟禁状態に置く事は納得できなかった。
 徳川家康は国内が安定するまでは、対明国戦略から、朝鮮との関係を悪化を避けた。
 秀忠以降の将軍にとっては、仮想敵国明国が滅亡し、次の清国が西方遠征を積極化させて日本への侵略を行わないと知れるや、国防戦略から朝鮮はさして重要視すべき相手ではなくなった。
 朝鮮交易は、蝦夷琉球やオランダとの交易に比べれば利潤が薄かった。
 朝鮮との関係は、友好を深める必要もなく、通り一遍の表敬訪問程度で充分と考えた。
 朝鮮通信使対馬留まりとなってから、江戸参府の再開を願ったのは儒学者や漢学者などほんのわずかに過ぎなかった。
 多くのサムライは、朝鮮との友好関係を望まず、財政の無駄遣いがなくなったとしてむしろ歓迎した。
 庶民は、中国古典や中国の英雄物語で中国には興味があったが、朝鮮の事は高麗人参や高麗青磁などで知るだけで親近感はなかった。
 身分低い庶民は、教訓を伴った理屈っぽい儒教的中国古典を嫌い、古今東西の英雄奇談の歴史本を愛読していた。幕末近くでは、女子供まで読みやすいナポレオン皇帝の評伝本を愛読していたといわれている。
 朝鮮通信使は、12回、来日した。
 琉球使節団は、21回、来日した。
 幕府は、鎖国政策として、オランダとは正式な国交を結ばず、バタビアオランダ東インド会社との交易を認めて長崎出島に商館を置く事を許可した。
 長崎奉行所は、大量の金銀が海外に流失する事を防ぐとともに貿易の利益を独占する為に、オランダと中国の私貿易を管理した。
 明国と次の清国は、海禁政策を採用し、日本との国交を持たず、日本との交易も禁じて、皇帝の命令に背く者は処刑した。



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