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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
キリスト教による宗教侵略。
中世キリスト教会、イエズス会などの修道会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として海外に輸出していた。
何故か理由はわからないが、現代日本の人道的歴史教育は、日本人が行った「キリシタン弾圧」を教えても、世界が行った「日本人奴隷交易」を教えない。
現代の日本人な、薄情で冷酷である。
日本人を奴隷として売っていたのは、日本人庶民である。
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2022年9月10日 YAHOO!JAPANニュース「島原の乱の舞台となった世界遺産・原城。世界に開かれていた城が世界への窓を閉ざす契機に──世界とつながっている日本の城 第18回
本丸正門跡。この地下におびただしい人骨が眠っていた。
鎖国で城造りはどう変わったのか。島原の原城を例に時代背景を探る。
【写真を見る】いまの原城とは?
日本史、そして日本の城の大きな転換につながった城
寛永14年(1637)11月に勃発し、翌年2月に鎮圧された島原の乱。この史上最大規模の一揆は、日本の歴史の大きな転換点になった。日本が世界に向けて開いていた窓は、天正15年(1587)に豊臣秀吉がバテレン追放令を出して以来、少しずつ閉ざされていたが、島原の乱を契機に、ほぼ完全にシャットアウトされてしまった。
徳川による封建的支配の構造を盤石にし、それを儒教思想によってさらにしっかり守るために、幕府は鎖国を選択。日本は世界史の大きな流れから締め出され、近代化のうえで決定的な遅れをとり、幕末の黒船到来で天地がひっくり返ったように大騒ぎをすることになる。
もちろん、城の進化もすっかり止まってしまう。すでにあらたな築城は原則として禁じられ、修理や失われた建物の再建にも大きな制限がかかっていた。だが、鎖国されてからは、修繕や再建をする際も十年、いや百年一日のごとく、昔ながらの様式が用いられるだけになってしまった。
そうした決定的な転換点となった島原の乱の舞台が、2018年に世界遺産への登録が決まった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成遺産でもある原城だった。
■膨れ上がったキリシタンへの厳しい弾圧と拷問
島原半島および天草地方は、キリシタン人口が多かった。島原半島の日野江城を本拠とする有馬晴信は、天正8年(1580)に自ら洗礼を受けたほどで、キリスト教を積極的に保護したため、家臣も領民も多くがキリシタンになった。また、天草地方は天正15年(1587)に秀吉が九州を平定後、やはりキリシタン代表だった小西行長の所領になった。
すでにバテレン追放令は出ていたが、行長はイエズス会への援助を継続し、天草の人口3万人ほどの3分の2はキリシタンだったといわれる。また、晴信も追い詰められた宣教師を領内で保護するなどし、一説には、追放令前には島原半島に2万人程度だったキリシタンの数が7万人にまで膨れ上がったという。
ちなみに、九州全体での最盛期のキリシタンの数は、全人口の3割を超える30万人におよんだといわれている。
秀吉の時代は、迫害は始まっても個人の信仰は許され、大名も必ずしも棄教を強いられるわけではなく、晴信や行長はキリシタンのままだった。南蛮貿易の利益を捨てたくない秀吉の禁教政策は中途半端だったのだ。晩年の文禄5年(1596)にも禁教令を出したが、京都で活動していたフランシスコ会の宣教師や信者らを処刑したほか、広がりはなかった。
徳川の世になっても当初、キリスト教は黙認されていたが、幕府は徐々に態度を硬化させる。そして、慶長14年(1609)の岡本大八事件をきっかけに、幕府は禁教に大きく舵を切る。
有馬晴信が関わったこの事件はややこしいが、簡単に言うと、徳川家康の信任が厚かった本多正純の与力で、キリシタンの岡本大八が失われた所領の回復を願う晴信に、正純を通じて家康とのあいだを取り持つというウソを持ちかけ、多額の金品を受けとった、というものだ。大八は火刑になり、晴信も改易されたのちに斬首されてしまう。
それからは幕府の禁教政策は苛烈をきわめた。まず慶長17年(1612)に直轄地に、続いて翌年には全国に禁教令が出された。その年の末にはキリスト教が日本の宗教の敵と断じられ、翌年、高山右近をはじめ主だったキリシタンや宣教師らが国外に追放された。
それでも、貿易は続けたい幕府の禁教政策には不徹底な面があったが、元和2年(1616)に家康が死ぬと、幕府は貿易の実利に目をつぶってもキリシタンが存在することの弊害を嫌がるようになる。その年、明以外の船の入港が長崎と平戸に限定され、同時に禁教の範囲が「下々百姓に至るまで」と厳格に示されると、キリスト教の弾圧、すなわちキリシタンの発見と強制改宗に俄然力が入れられ、おびただしい数のキリシタンが拷問の末に殉教していった。
■蜂起した人たちが合流して原城に籠城
さて、有馬領の島原半島だが、晴信は改易されたが、嫡男で父親との関係が良好でなかった直純は、家康の養女を正室にしていたこともあり、所領を受け継ぐことが許された。自身もキリシタンだったがすぐに棄教し、その後は領民にも棄教を求めていった。
しかし、領内のキリシタンの数は尋常ではない。かたちだけでも棄教した人が多かったとはいえ、拒んで処刑される人も後を絶たず、直純の重臣3人も、棄教を拒んで家族もろとも火あぶりにされている。
直純が日向国(宮崎県)の延岡に転封になって松倉重政が領主になると、あらたに島原城を築くために、領民に一般的な負担の2倍近い年貢を課し、大量の人を築城工事に動員し、そのうえ元和7年(1621)からはキリシタンの弾圧もますます強化された。
天草地方も同様だった。関ヶ原合戦に西軍の将として参戦した小西行長が斬首されたのちは寺沢広隆の所領になり、一時はキリシタンだった広隆は領民に厳しく棄教を迫り、拷問を繰り返した。
こうして苦境に立たされていた島原や天草の領民が起こしたのが島原の乱だった。寛永14年(1637)10月25日、有馬村の村人が代官を殺したのをきっかけに各地で武装蜂起が起き、勝利が相次いだ。しかし天草の富岡城、続いて島原城を攻めて落城させられず、それからは島原と天草の領民たちが合流して、すでに廃城になっていた原城に立てこもることになったのだ。
■2つの世界とつながっている城
藤原純友の子孫だという有馬氏は、鎌倉時代から島原半島南部の日野江を拠点にしてきたが、明応5年(1496)に有馬貴純が日野江城の支城として、その南の有明海に張り出した丘の上に原城を築いた。
だから、日野江城も原城も歴史は古いが、ともに有馬晴信によって大改修され、最先端の城に生まれ変わっていたようだ。
まず日野江城だが、平成7年(1995)からの発掘調査で、大手門と思われる位置から本丸の下まで100メートル以上まっすぐ続く階段が見つかった。これは織田信長の安土城とは共通するほかは、同時代に類例がなく、海外の影響と考えるのが妥当ではないだろうか。
というのも、階段の袖の石垣には切り石がジグソーパズルのように組み合わされていたのだ。日本の石垣に同様の完全な切り石が登場するのは17世紀後半以降で、1世紀近くさかのぼる九州の城にこうした石垣が登場したのは、キリシタン大名の居城で海外との交流が盛んだった日野江ならではというほかない。
ところで、晴信は秀吉の命で朝鮮に出兵し、6年間を朝鮮半島で過ごしている。そのあいだに学んだ築城技術が、原城を改修する際に存分に活かされている。城郭全体で見れば、土で造られた曲輪が並立する中世城郭の構造のままだったが、本丸は総石垣づくりだ。
西洋との結節点だった島原半島の2つの城は、日本が世界に向けて開かれた時代を象徴する、「世界とつながっている日本の城」だったのである。
原城は、築石に巨石をもちいた巨大な枡形(方形の空間を石垣で囲み、2カ所に門を設けた出入口。敵が直進できず、また枡形内に閉じこめて殲滅させられる)が設けられ、豪壮な門が構えられていたと考えられるほか、瓦が葺かれたいくつかの櫓が建ち並んでいた。
有馬直純が転封になると、代わりに入封した松倉重政はあらたに島原城を築いたので、そのときに日野江城も原城も廃城になった。だが発掘の結果、島原の乱の開戦当時、原城には石垣ばかりかいくつかの城門や櫓、塀などが建っていて、軍事施設として完全な状態だったことがわかっている。
■崩された石垣の下に見つかったおびただしい人骨が語ること
原城に立てこもった人たちが全員、キリシタンだったわけではない。キリスト教と縁がなかったり、すでに棄教していたりしながら、地域コミュニティの関係で周囲と行動をともにするしかなかった人も少なくないようだ。
が、いずれにせよ、島原や天草の人たちが過酷に収奪され、苛烈な拷問に日々さらされ、そのうえ度重なる飢饉に見舞われ、追い込まれていたのはまちがいない。キリスト教は霊魂の不滅を説く。生命と財産がはかなく消えてしまいそうな状況下に置かれたとき、人が永遠に滅びないなにかを獲得するために命を賭しても不思議ではない。
もっとも、彼らが自暴自棄だったとばかりは言い切れない。現実的だったかどうかはともかく、ポルトガルの援軍を得る戦略を描いていた可能性も指摘されている。そして、籠城当初は城の守りがかたく、討伐軍の上使(総大将)だった板倉重昌が銃撃され戦死している。2人目の上使に老中の松平信綱が任命されると、九州の諸大名の援軍を得て討伐軍は12万に膨張。作戦を兵糧攻めに切り替えている。
そして寛永15年(1638)2月28日、討伐軍は原城に総攻撃を仕かけた。籠城していた3万7000人(と記録にあるが、現実には1万人以上少なかったという見方もある)は、内通者の山田右衛門作を除いて全員が殺されたといわれる。
原城はその後、2度と一揆の拠点になることがないように、また、幕府にとっての負の遺産を消滅させるために、石垣などが徹底して破壊された。
2月28日に戦闘が終了すると、早くも午後2時ごろには唐津藩の寺沢堅高と福岡藩の黒田忠之は、城の掃除と遺体の片づけを命じられている。そして3月1日には石垣が破却され、3日に諸大名は帰国を許されている。
本丸正面に連続する枡形は、もっとも激戦が繰り広げられた場所だといわれる。発掘すると石垣の上部が意図的に崩されているのがわかった。崩された石材を取り除くと、その下に瓦の層があり、さらに下からおびただしい数の人骨が、その多くが著しく損壊した状態で見つかっている。
このことから、石垣上には瓦が葺かれた建物が建っていたことが明らかだが、もうひとつわかるのは、おびただしい遺体を石や建物の残骸で埋めていたことだ。また、遺体が損壊されたのが戦闘中なのか死後なのかわからないが、幕府がキリシタンの復活を強く恐れていたことはわかる。その意識が鎖国政策の完成につながっていく。
いま原城を訪れると、上部が意図的に損壊されたのがはっきりわかる石垣が巡っている。発掘によって姿を現した原城は、少なくとも本丸は簡単には破壊できない、最先端の堅固な近世城郭だったのが明らかだ。それは世界に開かれた城の跡だが、この地域がとくに開かれていたばかりに空前の殉教の舞台となり、その後、日本は世界から取り残されていく。
そのきっかけを作ってしまったことは、原城に眠る無数の人にとって無念である気がしてならない。
香原斗志(かはら・とし)
歴史評論家
早稲田大学で日本史を学ぶ。小学校高学年から歴史オタクで、中学からは中世城郭から近世の城まで日本の城に通い詰める。また、京都や奈良をはじめとして古い町を訪ねては、歴史の痕跡を確認して歩いている。イタリアに精通したオペラ評論家でもあり、著書に「イタリア・オペラを疑え!」(アルテスパブリッシング)等。また、近著「カラー版 東京で見つける江戸」(平凡社新書)が好評発売中。
文・香原斗志」
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