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2023年4月7日 YAHOO!JAPANニュース ZAKZAK「「鎖国」はそれに見合う軍事力があったからこそ 宣教師などの介入工作を封じ、わが国は長い太平の世へ
徳川家康は、豊臣秀吉の死後、スペインなどとの緊張緩和、交易を目指すが、銀採掘技術をめぐる前フィリピン臨時総督、ロドリゴ・デ・ビベロとの交渉で、スペインの野心を知る。
ビベロは『日本見聞録』に次のように記している。
「この広大にして繁栄する大国に侵入することは、スペイン国王にとって極めて有利。唯一欠けていることは、スペイン国王を、その国王としていないこと」
「武力侵入は困難。メキシコ人は恐るに足りないが、日本人は弓や槍(やり)、刀を有し、長銃を巧妙に使う。スペイン人同様に勇敢なだけでなく、議論と理解の能力においても劣らない」
そのうえで、ビベロは「日本―マニラの航海は天候良好なら15日で、5万人、10万人の派遣は可能だが、マニラ城内のスペイン人500人では多勢に無勢」と日本の国力(武力)を説明し、日本攻略はまず、「国民のキリスト教化」を図り、日本人キリスト教徒に政権転覆させるのが良いと説く。
「鎖国」はそれに見合う軍事力があったからこそ 宣教師などの介入工作を封じ、わが国は長い太平の世へ
徳川幕府は1613年、全国に禁教令を出した。キリシタン大名の高山右近らはマニラ追放となるが、豊臣秀頼方兵力の中心となり得るキリシタン有力浪人の国外追放の意味もある。
徳富蘇峰は『近世日本国民史 徳川幕府鎖国篇』で、「秀頼は新たに軍兵を募り」「右近殿の子息そのほか追放耶蘇教徒の秀頼に加担せしもの少なくなかった」「秀頼の軍隊は、其間に多くの宣教師があった」と書く。
大坂の陣の結果、キリシタン系の有力浪人は一掃された。
蘇峰によると、19年、英国とオランダの東インド会社が各10隻の戦艦を出して艦隊を組織し、スペイン・ポルトガルの艦隊と対峙(たいじ)し、英蘭の利益を拡張するという英蘭条約が成立した。20年、英蘭軍艦各4隻が、長崎・平戸に集結したという。
徳川幕府にとって、英蘭艦隊8隻が勝手に平戸に集結する事態は大問題である。2代将軍・秀忠は、外国軍艦の平戸集結を禁じる。英蘭は21年、マニラ・マカオ攻略のため、3000人の日本兵派遣を幕府に求める。国際紛争介入に慎重だった秀忠はこれを拒否した。加えて、武器輸出も禁じた(藤木久志著『雑兵たちの戦場』より)。英蘭はこれに従う。
3代将軍・家光は、宣教師密入国の根を断つため、30年にその基地ルソンの征伐を企画し、密偵をルソンに送る。英国歴史書『日本1852』によると、この頃、喜望峰近傍でオランダ船がポルトガル船を拿捕(だほ)した。このポルトガル船より、キリシタンからポルトガル王宛の軍派遣要請の書簡が発見される。書簡は、国王に兵士、兵器の供給を要請し、キリシタンとポルトガル人による徳川将軍放逐計画を提案していた。
オランダは幕府に即通報、幕府は36年、直ちにポルトガル人・家族の追放を命じた。直後の37年に島原の乱が勃発する。「イエズス会は、…キリスト教徒たち全員に、3万名の火縄銃兵を整えてやることができた」(『イエズス会の世界戦略』)とあり、イエズス会は、この時のため武器蓄積をしていたことになる。
これを鎮圧し、最後の侵略危機を乗り切ると、幕府は周辺大名に長崎砲台を築かせて鎖国を行い、宣教師などの介入工作を封じ、わが国は長い太平の世を迎える。
英蘭軍艦寄港禁止や鎖国は、それを実行できる軍事力と、これを支える国力があったから可能となったと言ってよかろう。 (歴史探求家・内藤克彦)
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中世キリスト諸国は、強力な軍隊を日本に派遣できなかった為に、数十万人の日本人キリシタンによる反乱、宗教内戦を期待していた。
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鎖国令とは、中世キリスト教会・イエズス会諸修道士会による宗教侵略を排除する国策であった。
つまり、鎖国は正しい選択であった。
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軍事力を否定し、外交問題を話し合いで解決しようとする理想的平和主義の現代日本人には、絶対に理解できない。
歴史が理解できない現代の日本人は、アフリカ人同様に奴隷として海外に売られた日本人がいた事を歴史から抹消している。
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2019-02-10
⚔44)─1─徳川時代の近世日本は世界7大帝国の1つの強国であった。~No.175No.176No.177・
2018-10-06
⚔44)─2─江戸幕府は経教分離政策でキリシタンを弾圧した。踏み絵。~No.178No.179No.180・ @
2018-09-03
⚔45)─1─キリシタンを弾圧した豊臣秀吉や徳川幕府は極悪人ではなく善人・仁者であった。~No.181No.182No.183・ @
2018-09-07
⚔45)─2─中世キリスト教会とキリスト教原理主義者の日本国・日本天皇を滅ぼす陰謀。~No.184No.185No.186No.187・ @
2019-04-28
⚔45)─3─中世キリスト教会と白人キリスト教徒は日本民族日本人の武勇を恐れた。〜No.188No.189No.190・ ⑮
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徳川家光(1604~1651年)第3代将軍1623~1651年。
2021-11-26
⚔46)─1・A─『塵劫記』。江戸時代の日本人は和算が得意な理工脳であった。1627(寛永4)年。~No.191No.192No.193
2018-09-14
⚔46)─1・B─イエズス会は、日本から追放された。キリスト教原理主義者は日本に潜伏した。1633年~No.191No.192No.193・ @
2018-09-20
⚔46)─2─徳川家光は、天草・島原の乱に懲りてキリスト教抜きでの限定的経教分離鎖国令を発した。1635年~No.194No.195No.19・ @
2018-09-25
⚔46)─3─バチカンの日本キリスト教化計画は、徳川家康策に敗北した。太平の世の伊賀と甲賀。1639年/~No.197No.198No.199・ @
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鎖国令(1633~39年)
2018-09-16
⚔47)─1─敬虔なキリシタンは、神の王国を九州に建国し分離独立する事を望んだ。~No.200No.201No.202・ @
2018-09-17
⚔47)─2─キリシタン大名とキリスト教徒日本国王位の行方。~No.203No.204No.205・ @
2018-11-07
⚔47)─3─島原・天草一揆におけるキリスト教への恐怖が幕末動乱と軍事国家建設の原因であった。~No.206・ @
2022-09-10
⚔47)─4─島原の乱の舞台となった世界遺産・原城。~No.207No.208
2018-10-02
⚔48)─1─徳川幕府は、国禁を破って密入国する犯罪者・宣教師を阻止する為にスペインと断交した。~No.209No.210・ @
2021-09-18
⚔49)─1─江戸時代、幕府に「鎖国」という言葉は存在しなかった。~No.211
2021-09-20
⚔49)─2─地政学・地経学に基づく世界交通網が徳川幕府の鎖国と開国を追認した。~No.212
2020-03-24
⚔50)─1─鎖国策は日本を破壊するキリスト教排除が目的であった。〜No.213・ *
2023-04-10
⚔50)─2・A─鎖国策とは軍事力で宗教侵略から日本を守る為の最強の防衛策であった。岡本大八事件。〜No.214
2023-10-27
⚔50)─2・B─徳川家康が北方開発進めていれば。鎖国策は失敗であった。〜No.214
2020-06-02
⚔51)─1─鎖国令は疫病水際対策で、賤民や部落民は疫病死・変死の死体処理専門業者であった。〜No.215No.216
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2018-09-26
⚔52)─1─寛永の飢饉。国禁を破って密入国した神父10名を捕らえ、棄教を強要する拷問を行った。1641年/~No.217No.218No.219・ @
2018-09-28
⚔52)─2─オランダ人フリースは、南千島のウルップ島に上陸し領有を宣言した。1643年/ ~No.220No.221No.222・ @
2018-10-03
⚔52)─3─明国旧臣は、裏切り者の朝鮮を恨み、満州族の清国から祖国を取り戻すべく徳川幕府に援軍派遣を哀願した。1645年~No.223No.224No.225・
2018-09-29
⚔52)─4─江戸時代の平和と繁栄は中国・朝鮮と国交を開かなかったから。徳川家光の死。1645年~No.226No.227No.228No.229・ @
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2018-10-08
⚔53)─1─宣教師は、殉教を説きそして逃亡した。徳川光圀と朱舜水。1651年~No.230No.231No.232・ @ ⑯
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