⚔13)─2・B─マゼラン船団の世界一周と中国共産党の一帯一路。〜No.44 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 歴史的事実として、地球規模の火薬庫はフィリピンであった。
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 中国共産党の一帯一路構想は、明の永楽帝による鄭和大艦隊による大遠征ではなく、大航海時代のマゼラン船団世界一周に似ている。
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 大航海時代は、豊臣秀吉キリスト教禁止令、徳川秀忠キリシタン弾圧、徳川家光鎖国令で終焉を迎えた。
 それは、中世キリスト教会・イエズス会修道士会と白人キリスト教商人による日本人交易が禁止された事が原因であった。
 つまり、人類史・世界史の事実として、白人キリスト教文明世界は非白人非キリスト教日本文明に敗退したのである。
 アフリカの悲劇は、アフリカ人を奴隷として売られる事を戦争をしてでも阻止しようとした政府・国家がなかった事である。つまり、アフリカは軍事力で国民を守る国家を持たない無政府状態にあった。
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 中国共産党は、中世キリスト教会が「神の御名」によって地球を占領・植民地化したのと同様に、国内法を国際法の上に置き、イデオロギーで覇権を握り世界中にチャイナタウン、チャイナシティ、国内国家を建設して生活圏を広げようとしている。
 その標的が、日本である。
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 2023年12月11日 YAHOO!JAPANニュース nippon.com「【書評】日本とフィリピンの歴史も描く:大野拓司著『マゼラン船団 世界一周500年目の真実──大航海時代とアジア』
 500年前、世界初の地球周航に挑んだ探検家マゼラン。本書は彼が生きた「大航海時代」の波乱の歴史を日本、フィリピンなどアジアからの視点で生々しく描いた大作だ。欧米が唱える「大発見時代」史観へのアンチテーゼにもなっている。
 豊かなアジアと貧しいヨーロッパ
 大野拓司著『マゼラン船団 世界一周500年目の真実──大航海時代とアジア』 作品社
 マゼラン船団とは、ポルトガル出身のフェルディナンド・マゼランが率いたスペイン帝国の5隻の艦隊。1519年にスペインから船出した野心家のマゼランが求めたのは「海外領土とスパイス(香辛料)」だった。ヨーロッパでは当時、胡椒(こしょう)などは大変高価な貴重品で、海外遠征に「命を懸ける価値」があったのだ。
 1521年、船団は今日のフィリピン中部に到達した。しかし、マゼランはセブ島近くのマクタン島での地元民との戦闘で討ち死にしてしまう。配下のスペイン人フアン・セバスティアン・エルカーノが船長を引き継ぎ、翌22年に最後の1隻でスペインに帰還、世界一周を成し遂げた。
 多島国フィリピンでは海に沈む夕日が美しい(1996年11月29日、比中部ボラカイ島)=評者撮影
 本書は「マゼラン・エルカーノ遠征隊」の3年に及んだ“難航”の真相を克明に追っているのが前半のハイライトだ。船団に同乗していたイタリア出身のアントニオ・ピガフェッタによる詳細な「航海記録」など膨大な資料を渉猟し、著者自らも各地の現場を取材している。
 マゼランの時代、「中世末期ヨーロッパは、相対的に貧しかった」。一方、「今日『アジア』として知られる一帯は比較的豊かだった」。著者はこう前置きし、時代背景を次の通り分析している。
 「黄金・絹・陶磁器など魅力的な物産の数々。当時、断片的に伝えられるアジアからの情報は、ヨーロッパの人びとの想像力を刺激し、冒険心と野望をかきたてた。それがマゼランを後押しし、『豊かなアジア』へと向かわせたのだ。」
 「大発見時代」は大虐殺・大略奪時代
 コロンブスの新大陸「発見」、バスコ・ダ・ガマのインド航路開拓、そしてマゼラン・エルカーノの地球一周は“世界三大航海”といわれる。「(地理上の)大発見時代」(Age of Discovery)とも呼ばれてきた。
 著者は「発見された側」からすれば「大虐殺の時代」であり、「大略奪の時代」でもあったと喝破(かっぱ)する。マゼラン船団の実態も暴く。
 「マゼラン・エルカーノ遠征隊も各地で乱暴狼藉を働いた。現代の視点にたてば、強盗、殺人、放火、拉致の数々。ピガフェッタは、そうした場面を淡々とした筆致で綴っている。」
 ちなみに、大発見に代わる「大航海時代」(Age of Navigation)というキーワードは日本の研究者が1960年代前半に考案したという。日本では学術用語として定着しているが、「欧米では、現在もなお『大発見時代』が一般的に使用されている。『ヨーロッパ史こそが世界史』との意識は根深く残っているのであろう」と著者は指摘している。
 アジアの遠洋航海は西欧に先行
 その著者はヨーロッパ中心の歴史観に異議を申し立てる。
 「アジアに目を転じると、異なる側面が見えてくる。早くも一三世紀後半、モンゴル帝国の皇帝フビライ・ハンが仕立てた艦隊が、南シナ海からジャワ海やインド洋に遠征した、という史実が浮かび上がる。初めて遠洋の南方航海ルートを開いたのだ。」
 西ヨーロッパが主導した大航海時代は15世紀から17世紀半ばにかけてである。だが、外洋航路の開拓はアジアが先行していた。最も有名なのは中国・明朝の武将、鄭和(ていわ)の「南海大遠征」だ。鄭和は1405年以降、7回にわたって大船団を率い、南シナ海、インド洋、アラビア半島、アフリカ東岸まで遠征を繰り返した。本書によると、最大時の船団は全長約140メートルの大型帆船ジャンクを60隻あまり連ね、計2万5000人以上の兵員を乗せていたという。
 ジパング邪馬台国はフィリピン?
 著者、大野拓司(おおの・たくし)氏は1948年生まれ。70~77年に「マニラで遊学生活を送った」。朝日新聞記者となり、マニラ、ナイロビ、シドニーの各支局長を歴任した。南アフリカ喜望峰イベリア半島セネガルアンゴラモザンビーク、マラッカ、東ティモールソロモン諸島など大航海時代ゆかりの地もあちこち訪ねたという。土地勘があるだけに、本書の記述は臨場感にあふれている。写真や図版が満載されており、大航海時代の歴史絵巻のようでもある。
 スペインの植民地になったフィリピンのキリスト教イスラム勢力とのせめぎ合い、今日のグローバル化の嚆矢(こうし)ともいえる16世紀後半から1815年までの「ガレオン貿易」(スペイン領マニラとメキシコのアカプルコを結ぶ木造大型帆船「ガレオン船」による太平洋貿易)などは読み応えがある。
 当時のフィリピンと日本、中国との複雑な三角関係、さらに日本とフィリピンの交流の歴史も丁寧に描いている。
 「マゼランがフィリピン中部のビサヤ地方に到達する五〇〇年前に、すでに日本人がルソン島ミンドロ島、さらにはミンダナオ島に足跡を残している。」
 日比関係は1000年に及ぶ。旧日本軍は先の太平洋戦争でフィリピンに侵攻したが、実は戦国時代にも確執があった。豊臣秀吉の時代は朱印船貿易が盛んだった。ところが、「権勢を誇る秀吉は、マニラも影響下に置く野望を抱いていた」。秀吉は1591年と92年にマニラのスペイン総督宛に「降伏を勧告し入貢を求める書簡」を送ってどう喝したが、朝鮮出兵を優先したため、マニラ攻めは結局立ち消えになった。
 本書には学者らによる“新説”も盛り込まれている。13世紀に生まれたベネチアの商人で旅行家のマルコ・ポーロが『東方見聞録』に記した黄金の島「ジパング」は日本というのが通説だが、「フィリピン諸島を中心にした多島海地域」説を紹介している。
 もっと大胆なのは、日本古代史最大の謎とされる「邪馬台国」はフィリピンの「ルソン島西側の平野部」という仮説だ。著者は「従来、九州説や近畿説が有力とされてきた邪馬台国。しかし、それがフィリピンだとすれば、卑弥呼は、今流にいえばフィリピーナだった」と説く。
 「大航海時代」をめぐる世界史
1298年 ベネチアの商人マルコ・ポーロの『東方見聞録』
1405年 中国・明朝の鄭和「南海大遠征」開始、アフリカに到達
1492年 イタリアの航海者コロンブス、新大陸を「発見」
1494年 ポルトガルとスペイン、海外分割のトルデシリャス条約
1519年 探検家マゼランが率いる船団、スペインの港を出航
1521年 マゼラン船団がフィリピン中部に到達、マゼランは討死
1522年 マゼラン船団の後継船長エルカーノがスペインに帰還
1549年 イエズス会フランシスコ・ザビエル、薩摩に上陸
1550年 ポルトガル船、平戸に初入港、「南蛮貿易」開始
1565年 スペイン、フィリピン中部セブ島で植民地統治に着手
1584年 スペインのガレオン船、マニラから平戸に初入港
1591年 豊臣秀吉、マニラのスペイン総督に書簡で降伏を勧告
1602年 徳川家康、マニラ総督に書簡でキリスト教布教厳禁伝達
1613年 イギリス、平戸に商館を開設(1623年閉鎖)
1614年 徳川幕府キリシタン国外追放令、高山右近はマニラへ
 【Profile】
 泉 宣道 IZUMI Nobumichi
 ニッポンドットコム諮問委員・書評委員。1952年、東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、日本経済新聞社に入社。政治部に通算13年半、マニラ・北京に8年余り駐在、クーデター未遂事件、鄧小平死去、香港返還に遭遇するなどアジア諸国で長年、取材を続けている。アジア部長、論説副委員長、大阪本社編集局長、専務執行役員名古屋支社代表などを歴任。日本経済研究センター名誉会員。1991-92年にフィリピン外国人特派員協会(FOCAP)会長。ニックネームはNonoy(ラモス元比大統領が命名)。共著に『中国――「世界の工場」から「世界の市場」へ』(日本経済新聞社)、『2020年に挑む中国――超大国のゆくえ』(文眞堂)など。
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 10月11日 MicrosoftStartニュース zakzak「傍若無人な中国海警 尖閣侵入も日本が「不法に侵入」と反発 フィリピン船には放水砲発射「偶発的衝突が起きるリスク」
 習近平国家主席率いる中国が海上で、日本やフィリピンに対する威嚇を過激化させている。沖縄県尖閣諸島周辺で日本の領海に侵入した中国海警局は10日、逆に日本の漁船が中国の海域に「不法侵入した」と反発した。南シナ海でも同日、フィリピンの船舶に衝突や放水を行った。日本は、「傍若無人」な中国にどう対抗すべきか。
 第11管区海上保安本部(那覇)によると、中国海警局の船2隻が9日、尖閣諸島周辺の日本の領海に侵入した。ところが、中国海警局の報道官は10日、尖閣諸島で中国が領有権を唱える海域に9日、日本の漁船1隻と数隻の海保の巡視船が「不法に侵入した」と発表。日本の行動を批判するという開き直りを見せた。
 中国海警局は南シナ海でも威嚇行動を繰り返している。
 フィリピン政府によると、中国海警局の艦船は9日、南シナ海スカボロー礁付近でフィリピン水産当局の船舶3隻に対し、少なくとも8回放水砲を使用。翌10日には、同海のアユンギン礁にあるフィリピン軍拠点に物資を届けようとした同国の補給船が、中国海警局の艦船に放水砲で妨害されて航行不能になり、別の補給船も中国の海上民兵の船に衝突された。中国海警局は10日の件について、事故の責任は「完全にフィリピン側にある」と責任転嫁した。
 中国は今後、どう動くのか。日本はどう対峙(たいじ)していくべきか。
 評論家の石平氏は「中国の国内経済などに対する国民の不満をそらすため、習政権はより対外的に強硬姿勢に出ることが予想される。中国側が収拾がつかなくなって偶発的衝突が起きるリスクも考慮すべきだ。今回の事態に至ったのは、尖閣周辺の中国のブイを撤去できないなど、日本政府が主権を明確に主張しなかった責任もある。尖閣への『公務員常駐化』など、日本の主権を国内外にアピールする手段を真剣に考えるべきだ」と話した。
 関連するビデオ: 動画:中国船がフィリピン船を連日妨害 南シナ海 (AFPBB News)
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 12月11日10:02 YAHOO!JAPANニュース 47NEWS「夜が明けると中国船団に囲まれていた!フィリピン軍補給船団の〝攻防〟8時間 上空に米軍機が旋回、現場取材で感じた「本物の緊張感」
 11月10日、南シナ海のアユンギン礁に向かうフィリピンの巡視船を追尾する中国海警局の艦船(右奥)(共同)
 米中両軍がにらみ合う南シナ海の対立の最前線、アユンギン礁(英語名セカンド・トーマス礁)の緊張感は本物だった。11月8~11日にかけ、同礁のフィリピン軍拠点に向かう補給船を護衛する巡視船「メルチョラ・アキノ」に同行取材した。夜が明けると、中国船団に囲まれていた。まるで映画のようだった。その後、8時間にわたって続いた執拗な進路妨害。海上で威圧を張り合う危険なゲームのように感じた。
 【写真】中国海警局の船がフィリピン側の船に衝突した場面
 今回の補給任務に対し中国が展開したのは過去最多の38隻。うち5隻は病院船を含む軍艦で、遠巻きに配置してフィリピン側を威嚇した。中国海警局の艦船の上空を、フィリピンを支援する米軍の偵察機が旋回し、にらみを利かせる。米国は南シナ海でフィリピンの公船が攻撃されれば防衛に加わると警告しており、偶発的衝突の恐れも懸念されている。(共同通信マニラ支局 マリカー・シンコ)
 ▽「異例の態勢」狙いは
 私が乗船した巡視船メルチョラ・アキノはフィリピン沿岸警備隊で最大。日本の円借款で建造し、昨年引き渡された全長97メートルの巡視船2隻のうちの1隻だ。沿岸警備隊にとって日本は最重要の協力相手。同型の5隻の追加供与も受ける見通しになっている。
 海軍がチャーターした補給船2隻を拠点に送り込むため、警護を担う沿岸警備隊は今回、メルチョラ・アキノのほか、同じく日本製の44メートル級2隻を含む巡視船計3隻を投入した。これまでは44メートル級2隻だったことが多く、異例の態勢。中国側の「注意を分散させる」(乗組員)のが狙いだ。
 さらに沿岸警備隊は、中国の「極めて無謀で危険な嫌がらせ」を訴えるため、国内外のメディア16社に同行取材を認めた。補給任務でこれほど多数の報道陣を受け入れたのは初めてだ。
 ▽「戦い」前日、落ち着かぬ記者
 記者らは巡視船3隻に分乗。メルチョラ・アキノは南シナ海を臨むフィリピン西部パラワン島の中心都市プエルトプリンセサ沖の停泊地を11月9日午前9時に出発した。記者や乗組員らは携帯電話が通話圏外になる前に会社や家族に連絡しようと、電波が届く船尾に集まってきた。
 「また戦いになるだろう」。若い沿岸警備隊員が母親と思われる女性に話しかけている。「そんなこと言わないで」との女性の声が漏れ聞こえる。隊員は「でも今回はメディアも同行している。心配しないで。怖くないよ」と説得する。
 そんな会話を聞いていると「万が一、私に何か起きたらどうしよう」と感情が高ぶってきた。私も無性に家族に電話したくなった。私は前日、過去の補給任務の記録を読みあさっていた。10月には補給船団が中国の船に衝突されている。中国は今回、何をしてくるのだろうか?
 夕食時、心配で落ち着かない様子の記者らが船内の食堂に集まってきた。補給任務の同行取材を以前に経験したパラワン島の地元テレビ局記者は「怖くないですか」と聞かれ、「以前は怖かったよ。でも今はそれほどでもない」と答えた。そして「夜明けに合わせて準備を整えるのが大切だ」と教えてくれた。
 ▽異常接近
 助言は正しかった。10日未明、暗がりの中、周囲に多くの光が出現した。夜が明けていくと、中国の海警局や海上民兵の船団に囲まれているのが分かった。どこからともなく、突然やってきたかのような印象だ。
 「ブオーン」。艦船は警笛をけたたましく鳴らし、繰り返し立ち退きを要求してきた。アユンギン礁に近づくにつれ、中国船はさらに増え、進路の直前を横切り、挟み込むような形で妨害されることもあった。
 「30メートルです!」。巡視船の甲板を走り回る隊員は、中国の海上民兵の船の異常接近を確認し、携帯無線機に叫んで報告した。民兵の船の乗組員からはカメラを向けられた。
 「この海域から即座に離れなさい」。44メートル級の別の巡視船「カブラ」の船橋には、中国側からの無線警告が響き渡った。乗組員は「妨害は比中関係に悪影響を与える」と必死に反論したが、中国側がひるむ様子はない。「中国へようこそ」。一部の記者の携帯電話には、中国のローミングにつながったとの表示が出た。
 ▽ぎりぎりの計算
 中国の接近妨害は、衝突だけは避けるよう、ぎりぎりの計算をしているように見えた。挑発としか思えない。
 記者らは接近妨害や警笛などを一つ一つ記録しようとしたが、あまりにも多すぎて数え切れなくなった。上空に航空機1機が繰り返し飛来した。当初は民間機かと思ったが、実は米軍偵察機だったと後にフィリピン沿岸警備隊が認めた。
 沿岸警備隊によると、中国がフィリピンの巡視船3隻に発した無線警告は計172回に達した。中国海警局の艦船はフィリピンの補給船2隻を護衛の44メートル級の巡視船「シンダンガン」から引き離そうと、わずか50メートルの距離に近づいて妨害した。補給船の1隻に向け中国海警局の艦船が放水砲を使用した。攻防の末、補給船2隻はアユンギン礁にやっと到達できた。
 ▽常駐兵士に試練
 フィリピン軍の拠点となっているのは、中国の海洋進出に抵抗するため、1999年にわざと座礁させた軍艦「シエラ・マドレ」だ。軍は兵士を送り込んで交代で常駐させ、定期的に水や食料などを補給してきた。
 シエラ・マドレの付近は浅瀬のため、メルチョラ・アキノは近づけなかった。だが、甲板にいた沿岸警備隊員が、約80年前に建造された老朽艦が青く澄んだ水平線に見えていると教えてくれた。名前の由来となった雄大な山脈とは異なり、茶色くさびついた無残な姿をさらしていた。
 フィリピン軍のブラウナー参謀総長は10月の記者会見で、シエラ・マドレの居住環境について「悲惨だった」と認めている。「まともな寝場所や食堂」をようやく整備。インターネットが使えるようにし、兵士らは家族と連絡して孤独を紛らすことができるようになったという。
 ▽「死」との闘い
 だが、中国はアユンギン礁を仁愛礁と呼んで権益を主張、フィリピン軍拠点への補修資材の搬入を阻止。「朽ち果てるのを待つつもりだ」とフィリピン軍高官はいら立ちを募らせる。ブラウナー氏も「表面的な部分補修」しかできていないと語った。
 「死を待つ老人のようだった」。巡視船からゴムボートに乗り換え、シエラ・マドレ間近で見ることができた一部の記者らは、その惨状を「残念だ」と形容した。
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