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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
ローマ・カトリック教会は、絶対神の御名により、正式に、公式に、合法的に、日本はポルトガルの植民地である事を認めた。
中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として売って金を稼いでいた。
西洋キリスト教白人世界は、邪教(悪魔教)の日本国・日本天皇・日本民族日本人が命・自由・人権を守る為に抵抗する権利を認められていなかった。
その証拠に、日本の歴史はおろか世界の歴史においても、宗教・人道・道徳・法律その他全ての歴史においても、一切の記述は存在しない。
世界の常識では、父なる絶対神=絶対善に対する日本の抵抗・反抗=絶対悪は罪・犯罪・大罪とされている。
この歴史的事実は、日本の歴史教科書にも他国の全ての歴史教科書にも書かれてはいない。
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ウィキペディア
トルデシリャス条約(ポルトガル語: Tratado de Tordesilhas, スペイン語: Tratado de Tordesillas)は、1494年6月7日にスペインとポルトガルの間で結ばれた条約。当時両国が盛んに船団を送り込んでいた「新世界」における紛争を解決するため、教皇アレクサンデル6世の承認によってヨーロッパ以外の新領土の分割方式を取り決めた。
本条約において西アフリカのセネガル沖に浮かぶベルデ岬諸島の西370レグア(約2000km)の海上において子午線にそった線(西経46度37分)の東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属することが定められた。名称の由来は、条約が批准されたカスティージャのトルデシリャスの地名からとられている。条約調書の原本は2007年にスペインとポルトガルの共同申請で、ユネスコの記憶遺産に登録された。
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サラゴサ条約(英語: Treaty of Zaragoza)は1529年4月22日にポルトガル王ジョアン3世と神聖ローマ皇帝カール5世の間でサラゴサにて締結された、スペイン帝国とポルトガル海上帝国の間の平和条約。
条約はカスティーリャ(スペイン)とポルトガルのアジアにおける勢力圏を分け、両国が同時に1494年のトルデシリャス条約を根拠にモルッカ諸島の領有を主張したためにおこった「モルッカ問題」を解決する試みとなった。紛争は1520年に両国の遠征隊が太平洋に到着したときからはじまった。このときには、東方において子午線はまだ定められていなかった。
条約
サラゴサ条約は東方における両国の境界をモルッカ諸島から東へ297.5リーグ(または17度)進んだところに定めた[7]。また、セーフガード条項として、皇帝はポルトガルに賠償金を支払えばいつでも条約を無効化することができるとした。しかし、皇帝はポルトガルの資金で対フランス王フランソワ1世のコニャック同盟戦争を戦わなければならなかったため、この条項が使われることはなかった。
条約はトルデシリャス条約で定められた境界を明確化することも、変更することもせず、またスペインからの両国の半球を同じ大きさにする要求も満たさなかった。ポルトガルの半球は約191度でスペインの半球は約169度だった。この2つの数値はトルデシリャス条約での境界が不明確だったため、正負約4度の誤差がある。
サラゴサ条約により、ポルトガルは境界から西の全ての土地と海を領有した。これはアジアとこれまで「発見」された島嶼を含む。一方のスペインは太平洋の大半を領有した。フィリピンは条約で言明されなかったが、線のはるか西方にあるため、スペインは暗黙的にはフィリピンの領有を放棄したことになる。いずれにせよ、カール5世はフィリピンには香辛料がないためポルトガルも強く反対はしないと考え、1542年にはフィリピンを植民地化することを決定した。このときの植民は失敗したが、息子のフェリペ2世は1565年に植民に成功、マニラに初の交易所を設置した。そして、カール5世の予想通り、ポルトガルからの反対は少なかった。
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デマルカシオン(西:demarcación)は、大航海時代にスペイン・ポルトガルのイベリア両国が定めた、世界分割の取り決め。日本語訳では「分界」、英語でデマルケイション (demarcation) 、ポルトガル語でデマルカサン (demarcação)。第一義的には「境界線」「区分」を意味するが、ここでは分界線を設定することで非キリスト教世界における支配領域をあらかじめ分配するという概念や、分界線によって分配された2つの領域や分界線そのものを意味する言葉として用いる。
大西洋に引かれた教皇子午線と呼ばれる世界分割の境界線に対し、教皇子午線の正反対の位置(東アジア付近)にあるもう1つの境界線を「対蹠分界線」と呼ぶ。
日本
非キリスト教国であった日本とポルトガルとの接触は、天文11年(1542年)のフランシスコ・ザビエルの種子島漂着から始まる。日本の民間商人や地方領主たちはマラッカ経由で来日するポルトガル人商人と交易し、ザビエルの後に来日したポルトガル系のイエズス会の宣教師たちによって布教活動が行なわれて、約半世紀間イエズス会は拡大し続けた。1576年1月23日付のグレゴリウス13世の大勅書で設定されたマカオ司教区に日本も含まれたことで、日本のキリシタン教会にポルトガル国王の布教保護権がおよぶことと、その保護者がポルトガル国王であることが確定した。これにより日本はポルトガル領とみなされ、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが1577年に滞在先のマラッカで書いた報告書には「デマルカシオンと分割による境界のなかに置かれていることから、マラッカ・シナ(中国)・日本を含むインド全域がポルトガルの征服と王室に帰属していると、ポルトガル人がインドで主張している」とあった。
ザビエルの来日後、ポルトガル船が九州各地に渡来するようになるが、スペインの貿易船が来るのはその約40年後、1581年(天正9年)にスペイン王フェリペ2世がポルトガル国王に就任したことでスペイン・ポルトガルの同君連合が成立したころだった。1582年、肥前国の口之津に来航したジャンク船にはスペイン使節ポーブレが乗っていた。ポーブレはフェリペ2世のポルトガル国王就任を通達するためマニラからマカオに遣わされた使節の1人だったが、マニラに帰る途中で遭難し同地に漂着した。天正12年(1584年)、マニラからマカオに向かう途中だったヴィセンテ・ランデーロの船が、大風に遭い平戸に入港した。フィリピンからの初の渡航船となったこの船にはアウグスチノ会修道士2人、フランシスコ会修道士2人が乗っており、これがスペイン系の托鉢修道会修道士の初来日となった。これまでは両国の分界の取り決めによりマニラから中国への渡航は禁止され、日本布教もイエズス会以外の修道会の進出は禁止されており、フィリピンのマニラから日本や中国に出向いてはならない、逆にマカオからマニラに出向いてはならないとのルールがあった。そのため、これらはデマルカシオンの境界線を突破して日本に到達するために遭難を装ったとも考えられている。
イエズス会と不仲だった平戸の松浦氏は托鉢修道会を通してフィリピン総督と交渉を始めた。天正12年、天正15年(1587年)、天正17年(1589年)にフィリピンのマニラから日本にスペイン船がやってきたが、天正15年に天草サシノツに入港したマニラのジャンク船は肥後国の新領主佐々成政に歓待され貿易を希望されたが、それを断って出航し、天正17年に薩摩国片浦に漂着したスペイン船も同様に「儲けが大きいヌエバ・エスパーニャに直航してしまった」。
スペイン系の托鉢修道会(フランシスコ会・ドミニコ会・アウグスチノ会)は日本が潜在的なポルトガル領となったことに対し、スペイン船の日本漂着、西国大名の貿易目当ての勧誘、豊臣秀吉の対フィリピン外交に乗じるなど、教皇からの承認を得ることなく日本の布教活動に入った。1592年、マニラ総督からドミニコ会士を団長とするスペイン使節が日本に派遣され、翌1593年にはフランシスコ会士が来日。イエズス会と托鉢修道会の敵対関係は激化し、フランシスコ会が京都で公然と布教活動を行なったことで1597年には二十六聖人の殉教事件が起きる。
1605年にポルトガル副王のドン・ペドロ・デ・カスティリョは日本における布教をイエズス会の独占とするようマドリードに要請したが、1608年にローマ聖庁は日本での布教を全教団に認めたため、フランシスコ会とドミニコ会が長崎に進出し、イエズス会との間の勢力争いが激しくなった。イエズス会側は彼らの日本布教参入を、ポルトガルの「デマルカシオン」を根拠に批判したが、托鉢修道会はイエズス会士の貿易活動や軍事活動を糾弾。そして布教政策の誤りによって日本の権力者に活動を禁じられたことに対して、托鉢修道会は日本側から布教許可を得ていると主張することでローマ教皇の決定は効力を失っており、さらにデマルカシオンの分界線はマラッカの上を通り日本はスペイン領に入るとして、自らの布教の正当性を主張した。
フランシスコ会士で日本二十六聖人の1人マルチノ・デ・ラ・アセンシオン(スペイン語版)が1596年(文禄5年)6月から9月にかけて作成した『国王陛下が日本のキリスト教界のために救済せねばならない諸問題に関する報告書』では、スペイン国王の日本支配とフランシスコ会の日本布教の正当性が説かれ、同時にイエズス会の日本支配と独占に対する厳しい批判が記されている。日本はスペインの「デマルカシオン」に包摂されており、スペインが日本に進出するのは当然の権利であり正当な行為である。そして正当な支配権を持つスペイン国王が、日本のキリスト教界を救済する義務を負うことから、長崎や平戸を獲得して要塞を建築し防御のために武装艦隊を建造しなければならないと主張していた。
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