♨5)─1─江戸時代の江戸の町には庶民が楽しむ四季折々のテーマパークが溢れていた。~No.11 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 江戸の町中は、子供が大声を出して走り回り、遊んで笑い声が絶えなかった。
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 庶民は、日々の生活の中で、仕事の合間で、家族や仲間同士での物見遊山を楽しんでいた。
 「宵越しの金は持たぬ」と「金は天下の回りもの」、それが庶民の生活スタイルであった。
 江戸時代は、富の再配分が絶えず行われ、貧富の格差は固定されず社会問題化する事は少なかった。
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 キリスト教が説く「迷える子羊」やマルクス主義共産主義が主張する「人民」は、江戸時代の日本にはいなかった。
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 徳川幕府は、奢侈禁止令で身分不相応の度を超した贅沢や幕府の権力・権威御、公儀・政道を批判し否定する事を禁止したが、庶民が浮かれ楽しむ場所として吉原の遊郭以外の観光・演芸・宗教・文化・レジャーを黙認していた。
 日本には、世界の都市に常識として常設されている公園を必要がなかった。
 西洋礼讃の現代日本人は、民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力がない為に、都市の中に公園を造らなかった江戸時代を文化度が低いと軽蔑している。
 第8代将軍徳川吉宗は、庶民が楽しめる桜の名所を江戸に幾つも作った。
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 庶民が土下座した大名行列は徳川将軍の行列だけであり、諸大名の行列に対しては礼を欠かさなければ土下座する必要はなかった。
 大名行列を妨害する者は、武士の体面を穢した者として容赦なく切り捨て、「斬り捨て御免」として認められていた。
 飛脚は、天下御免として大名行列がいようと走り回っていた。
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 2024年3月21日 YAHOO!JAPANニュース「現代とは違った理由で人気スポットだった江戸時代の「江戸城」⁉ どのような理由で人を集めた?
 江戸の人気観光スポット【第1回】
 加唐 亜紀
 現在、全国には人気の観光スポットが数多く存在する。江戸時代にもそういった場所はあったが、現在とは違う場所であったり、同じ場所でも違った理由で人気だったりしていたらしい。ここでは、そういった江戸時代の人気スポットに迫る。第一回目は「江戸城」。江戸城は江戸時代、早朝から大勢の人々が、華やかな大名行列を一目見ようと詰めかけ、その人々を相手に商売をする商人が集まるほど賑わいを見せた。
 西ノ御丸(東京都立中央図書館蔵)
 江戸城西ノ丸大手門橋前を描いた泥絵。泥絵は、幕末から明治初頭にかけて流行した顔料に胡粉を混ぜた絵具で書いた絵で、安価だったため土産として人気があった。堀の周りには大名の供と思われる武士と、それを見学している人々の姿が描かれている。この絵も見物人相手に商売をしようとやって来た商人から買ったものだろうか。
 皆さんは、東京の観光スポットというとどこを思い浮かべるのだろうか。高級店が軒を並べる銀座、オタクの聖地秋葉原、東京に隣接する夢の国などいろいろあるだろう。この記事を読んでいる人の中には、現在皇居となっている江戸城跡をあげる人がいるかもしれない。
 実は、この江戸城こそ、江戸時代最も人気のあった観光スポットであった。といっても江戸城の中にはごく限られた人しか入ることができない。正確には江戸城の正面入り口であった大手門周辺だ。大手門は、戦災で焼失してしまったものの、昭和41年(1966)に再建されて、往時の姿を取り戻している。とはいえ、大手門は江戸城の他の門と比べて特別大きいとか装飾が華美ということではない。
 ではなぜ人気の観光スポットだったのかというと、この前にいれば登城してくる大名行列を見ることができたからだ。というのも、大名たちが江戸城に登城する際には、ふつう大手門を使用する。つまり、今のスターの入りまちをするように、大名の入りまちをするスポットとして人気があったのである。
 江戸にいる大名たちにとって最も重要な仕事が、年始や五節句徳川家康が幕府を開いたことを祝う8月1日の八朔(はっさく)などの幕府が定めた行事や、毎月1日、15日、28日の月次御礼と呼ばれる日に、江戸城の本丸御殿において、将軍に拝謁(はいえつ)することであった。拝謁とは簡単にいえば、将軍にご挨拶することだが、1人で出かけて行って「こんにちは、ご機嫌はいかがですか」というわけにはいかない。武士は、正式な外出には石高に応じた供を連れて行かなくてはならない。
 たとえば、安芸広島藩主を務めた浅野家は42万石強の石高で80人ほどを引き連れて登城した。もっともこの80人というのは多い方なので、1家50人、参勤交代で国元に帰っている大名もいたから200家としても約1万人が一斉に江戸城に向かう。届け出なしで休んだり、遅刻したりすれば、最悪の場合お家断絶もあったというから、どの大名も必死である。しかも、御三家などかち合うとめんどくさい相手もおり、こうした相手を避けるためにも、決められた時間よりも何時間も前に屋敷を出発することになっていた。たとえば、現在の国土交通省という皇居から目と鼻の先にあった安芸浅野家でもその2時間前には屋敷を出発していたという。
 朝早いとはいっても、江戸城に着くまで誰に見られているかわからない。いや、江戸城周辺では入りまちをしている人がいるのを知っているからこそ、ここぞとばかりに家の威信を見せつけるべく気合を入れて隊列を組む。槍を持つ奴や、藩主が乗る駕籠(かご)を担ぐ六尺などは、「背の高さを6尺(180㎝)でそろえる」「色白に限る」「イケメン限定」などの条件をつけて口入屋という現在の人材派遣業者から臨時で雇い入れることもあった。
 大名たちの登城日に江戸城大手門周辺で待っていれば、ひっきりなしにやってくる華やかな大名行列が見られるというわけだ。ただし、〇〇藩主××家というプラカードを持った人が行列の先頭にいるわけでも、今到着したのが誰なのかというアナウンスもない。
 そのため、今目の前を通ったのがどこの誰なのかがを知るためには、武鑑(ぶかん)のお世話になる。武鑑は、大名名鑑ともいうべきもので、大名の名前や役職、屋敷の場所、領国、石高、家紋、槍の形や色、本数などが記載されている。現在の野球やサッカーなどの選手名鑑を思い浮かべればわかりやすいかもしれない。これを見れば、駕籠や道具に描かれた家紋や槍の形、その数などで、大名が誰なのかがわかるのだ。
 誰もが武鑑を持っているわけではないので、大名の登城日には、袖珍武鑑(しゅうちんぶかん)というハンディータイプの武鑑を販売する商人がやって来た。袖珍武鑑は軽くて持ち運びに便利だったので、江戸土産としても人気だったという。武鑑だけでなくそのほかの土産物や甘酒などの飲食物を商う人も出て、登城日の江戸城大手門周辺はちょっとした縁日のような賑わいを見せた。大名の供の中にはこうした商人から買った物を飲み食いして「買い食いはみっともないからやめるように」と叱られることもあったようだ。
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 3月27日 YAHOO!JAPANニュース「佐野世直し大明神・佐野善左衛門の墓は江戸の観光名所⁉ 赤穂事件に次ぐ江戸の刃傷沙汰の主犯者だったのに
江戸の人気観光スポット【第2回】
 加唐 亜紀
 次々と起こる天災と飢餓。人々は疲弊していた時に、起きた事件。人々の救済にはまったく関係がなかったのだが、事件を起こした人の墓が江戸を代表する観光名所となった。
 佐野家屋敷跡
 現在の東京都千代田区大妻女子大学の近くにあった。屋敷跡には写真のようなプレートが立っている。
 皆さんの中に、佐野政言(さのまさこと)を知っているという人はいるだろうか? では、田沼意次(たぬまおきつぐ)はどうだろうか? こちらは日本史の教科書には必ず出てくるし、池波正太郎の名作『剣客商売』にも、キーパンソンとして顔を出す。少しでも日本史に興味のある人ならば知っている有名人だ。この2人がどう関係しているのか、これから説明していこう。
 田沼意次は、享保4年(1719)旗本の子として江戸の本郷弓町に生まれた。父は、もともと紀州藩足軽であったが、紀州藩主から8代将軍となった徳川吉宗(とくがわよしむね)に見いだされて、旗本となった。意次は吉宗の世子家重(いえしげ)の小姓となり、家重が将軍になった後には御用取次として重用され出世階段を登り、老中に任じられ、5万7千石の遠江国(とおとうみのくに)相良藩主つまり大名にまで登り詰めた。自分だけでなく、息子の意知は、若年寄に、弟の意誠(おきのぶ)は御三卿のひとつ一橋家の家老を務めていた。
 佐野善左衛門政言(国立国会図書館蔵)
 一方の佐野政言は、400石取りの旗本。それほど高い石高ではないが、徳川家康(いえやす)以来の譜代で上野国甘楽(かんら)郡に領地を持っており、格式は高かったといえるだろう。自分が大切にしていた鉢植えを薪としてくべ、鎌倉幕府の執権であった北条時頼(ほうじょうときより)をもてなしたという逸話を持つ鎌倉時代の武士佐野源左衛門常世の子孫だとされていた名門である。新番士というから将軍が外出する際の警護にあたる役目についていた。
 田沼意次は、小姓から側用人という将軍と老中を取り次ぐ役目についていた。一方、佐野政言は将軍の警護を務めていたから、将軍をめぐって仕事の上でということではない。
 実は、田沼家は、もともと佐野家の家来だったのだという。政言は、飛ぶ鳥をも落とす勢いの田沼家のおこぼれを昔のよしみで貰いたいと思ったようだ。当時田沼は、賄賂を貰って政治を動かしているとされていたから、政言も、田沼意次の息子で若年寄の意知(おきとも)に金を渡し、出世への道筋をつけてほしいと頼んだ。しかし、政言は相変わらず新番士のまま、石高も変わらない。なんどか問い合わせてみたようだが、変わらない。その上、佐野家の系図も意次のところに行ったまま返ってこない。そうした状況に耐えきれなくなった政言は、天明4年(1784)3月24日、江戸城内で意知を斬りつけ、その傷が原因で意知は翌日亡くなった。江戸城内での刃傷沙汰というと、赤穂(あこう)事件のきっかけとなった浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りつけた事件だけかと思われがちだが、江戸時代を通じて他にも数件起きている。
 この時の傷がもとで意知が亡くなったため政言は4月3日、切腹を申し付けられた。
 その直後から、江戸の町で異変が起こった。佐野が世直し大明神と崇め奉られるようになったのである。彼の番町にあった屋敷だけでなく浅草の徳本寺に造られた墓には老若男女たちが大勢詰めかけたという。当時の浅草といえば、江戸近郊の寺町といった趣の場所だった。それなのに突然たくさんの人々が訪れるようになったので、さぞかし寺の関係者たちは驚いたことだろう。その人気は、のちにはこの事件をモデルにした歌舞伎が作られたほどである。
 田沼意次は、江戸時代に商業に重きを置いた政策を進めた。そのため地道に米を作るよりも都市に出て商売をした方が金になると、農業を捨てる人たちが続出。しかも同時期に浅間山の噴火、天明の大飢饉といった天災のおかげで物価が高騰し、さらに疫病も流行して人々の生活が苦しくなった。こうした状況を産んだのは権力者=田沼意次のせいだと思っていたところに、この刃傷事件である。 
 人々がこじつけたかのように熱狂したのも当然だったかもしれない。この事件を境に、田沼意次は、登ってきた坂道をアッという間に転げ落ちていった。この頃、父家重の言いつけ通り彼を重用していた十代将軍徳川家治(いえはる)が亡くなったのも大きかったようだ。最終的には孫の田沼意明にわずか1万石の領地が与えられて、田沼家はなんとか大名として踏みとどまることができた。
 一方佐野家の方は改易となり、江戸時代の末には再興の話も出ていたようだが、幕末の混乱の中でうまくいかなかったようだ。
 徳本寺
 現在の台東区西浅草にある。近くには外国人観光客にも人気のかっぱ橋道具街もあるが、この一帯は閑静な寺町という趣がある。もともと寺は愛知県にあったが、徳川家康が関東に入った時、本多正信に請われて江戸に移り、明暦の大火によって現在地に移転した。
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 4月10日 YAHOO!JAPANニュース「【江戸の人気観光スポット案内】現代も「花見」場として盛る将軍がつくった桜の名所・飛鳥山
江戸の人気観光スポット【第3回】
 加唐 亜紀
 先週から今週にかけて、全国で桜が咲き乱れ、「花見」をする人たちで大混雑! コロナも空けて、今年からかつてのイベントも復活している場所も多い。その花見の名所のひとつ・東京の王子にある飛鳥山(あすかやま)公園もおおにぎわい。ここは江戸時代からの花見の名所だったらしい。あの木々たちはいつ植えられ、どう花見の名所として発展したのだろうか?
 毎年、花見の名所としてにぎわう王子・飛鳥山公園
 皆さん落語はお好きだろうか? 口演できる時期が限られるためあまり知られていないが「花見の仇討ち」という演目がある。最近では上野に変更して口演する落語家もいるが、この話の舞台が飛鳥山なのだ。なぜ、飛鳥山なのかというと、江戸時代、ここが花見の名所として一番の人気を誇っていたからなのだ。えっ、上野では?と思われる人もいるかもしれない。確かに現在の上野恩賜公園も桜の名所として有名だった。しかし、江戸時代、ここは徳川家の廟所がある寛永寺の寺域内だったので、夜間の入山や歌舞、音曲の禁止等様々な規制があった。つまり、上野は昼間品よく花を愛でる場所だったのである。
 飛鳥山が花見の名所となったのは、8代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)が、享保5年(1720)と翌年に、計1270本の桜を植え、元文2年(1737)3月11日に花見を行ってから。なんでもこの時は、お供の旗本らが仮装して歌い踊るなど、乱痴気騒ぎだったらしい。こうすることで、ここが、上野と違い歌舞、音曲もおとがめなし、仮装もOKで、歌ったり、踊ったりできる場所であることをアピールしたのだ。
 新板浮世絵飛鳥山之図(東京都立中央図書館蔵)
 手前の男性が演奏する三味線に合わせて、中央の男性2人が踊りを披露しているところだろうか。それとも芝居の名シーンを再現しているところだろうか。
 吉宗は鷹狩りが大好きで、その際に訪れることが多かった隅田川堤、品川の御殿山、中野、飛鳥山に花を植えたのだ。このうち、中野は桜ではなく桃の花だった。この中の飛鳥山で吉宗が花見をしたのは、紀州飛鳥明神を勧進したことが飛鳥山の名前の由来になっていたことによるらしい。紀州出身の吉宗は、紀州に関係する地名のこの地に特別な思い入れがあったようだ。
 飛鳥山は、江戸の中心部から2里というから約8キロメートル。歩いて片道2~3時間くらいの距離なので、主な移動手段が徒歩であった当時ならば女性でも日帰りできた。
 今は花見というと、ただ飲むだけというイメージが強い。何かするといってもカラオケで自慢?の喉を披露する程度だろう。しかし、江戸時代は、興が乗ってきたら小唄(こうた)や端唄(はうた)のひとつも歌ったり、ちょっと踊ったりすることは、少し生活にゆとりのある人ならばできて当たり前だった。また、このころ町人の間では娘を武家屋敷に奉公にあげることがステータスとなっていた。武家屋敷で奉公するには、三味線や箏、踊りなどができなくてはならない。そのため、町には三味線や踊りを教える師匠がいたのである。
 こうした師匠はたいてい女性だった。その師匠と個人的にお近づきになりたいと熱心に通う男性もいた。師匠の方も、そうした男性の下心を理解していたから結婚していても、しているとはいわなかったらしい。
 こうした小唄や端唄、踊りの師匠が、おそろいの着物に身を包み、手にはやはりおそろいの傘を持った自分の弟子たちを連れて飛鳥山にやってくる。今ならば公民館などを借りておさらいの会でも開くのだろうが、当時はそのような施設がなかったので、こうした場で、日ごろの稽古の成果を披露したという。
 披露されるのは、唄や踊りだけではない。落語の花見の仇討ちでは、飛鳥山で仇討ちのため諸国を旅している兄弟とその親の仇が鉢合わせするが、最後は仲裁に入った人を交えて宴会をする。という寸劇を、仲間たちでやろうということになる。ところが、いざ始めてみると本当の仇討ちと勘違いされてしまい、居合わせた武士に助太刀を申し出られたが「うその仇討ちです」と言い出せなくなってしまう。落語なんだから作り話なんだろうと思うかもしれないが、あながちそうだとは言えないのだ。実は花見の趣向として現在のコントのようなことが行われていたのである。
 例えば、天保11年(1840)、花見の最中に産気づいた人がいて、大騒ぎとなった。そこに運よく駆けつけた医者が手持ちの薬箱を開くと、なんと刺身をはじめとする御馳走が現れ、さらに産気づいた妊婦は三升の酒樽を産み落とした。この趣向は評判を呼んだという。
 嘉永6年(1853)には、某旗本がこうした芝居に夢中になっている間に奥方と供の侍が手に手をとって駆け落ちしてしまう事件が起こっている。
 ただ単純に花を見て酒を飲むだけではなく、美しい歌や楽しい踊り、さらには思いもかけなかった出来事と出くわすかもしれない場所として飛鳥山は人々に人気の花見スポットだったのである。
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 4月24日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「【江戸の人気観光スポット案内】現在も江戸時代も大勢の観光客でにぎわった忠臣蔵ゆかりの地「泉岳寺
 歌舞伎や時代劇ではおなじみの赤穂(あこう)事件。主君浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)や大石内蔵助(おおいしくらのすけ)をはじめとする赤穂浪士たちが眠る泉岳寺(せんがくじ)は、江戸時代も江戸を代表する観光スポットだった。
 東京に12月だけ観光バスの渋滞ができるところがあった。あったというのは、コロナ禍で観光バスの運行が減ってしまったからだ。その場所なのだが、江戸時代も同様に大勢の観光客でにぎわったというが、皆さんはどこかわかるだろうか?
 ご年配の方ならば、年末になる映画やドラマなどで必ずといってもよいほど取り上げられたあの事件の関係者が眠る場所だと思われるだろう。そう、浅野内匠頭こと浅野長矩(ながのり)と、浅野家の家臣だった大石内蔵助良雄(よしお)をはじめとする赤穂浪士たちが眠る泉岳寺だ。大石らが吉良上野介(きらこうずけのすけ)こと吉良義央(よしひさ)の屋敷に討ち入りしたのが12月14日、その首を浅野長矩の墓前に供えたのが明けて15日だったため、現在ではこの前後に泉岳寺を詣でる人が多い。
 そもそも事の起こりは、元禄14年(1701)、浅野長矩江戸城内で吉良義央に斬りつけたことだ。その原因は今もって謎だ。当時は喧嘩両成敗で、喧嘩を売った方も売られた方も罰せられることになっていたのだが、浅野長矩は、一関藩主田村家の屋敷で切腹、その後赤穂浅野家は断絶。ところが吉良義央はお咎めなしどころか時の将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)から見舞いの言葉を貰っている。これに対して浅野家の元家臣たちが不満を募らせて、翌年の12月14日に吉良屋敷に押し入り、義央の首を取ったのだ。
 討ち入りの後、赤穂浪士の面々は本所にあった吉良家屋敷から、浅野家の墓所があった泉岳寺まで徒歩で向かった。泉岳寺が赤穂浅野家の墓所となったのは、三代将軍徳川家光(いえみつ)の命によるという。泉岳寺徳川家康の命によって創建されたので、寺の経営を安定させるために、大名家を檀家にしようとしたのだろうか。
 本懐を遂げた浪士たちは、その後、熊本藩主の細川家、伊予松山藩主の松平家長府藩主の毛利家、岡崎藩主の水野家という4つの大名家にお預けととなり、翌年2月4日にお預け先で切腹、主君浅野家の墓所に葬られた。討ち入りの前から人々の関心を買っていたが、人気が爆発したのは寛延元年(1748)8月、人形浄瑠璃仮名手本忠臣蔵』が上演されてから。
 さて、江戸を訪れる旅人の多くにとって、江戸は通過地点に過ぎない。最終目的がお伊勢さんこと伊勢神宮だという人が大半だ。江戸から伊勢神宮のある西へ向かうには東海道を通ることが多かった。泉岳寺東海道第一の宿場町品川の少し手前、東海道に近いところにある。それほど急がない旅であれば、ちょっと足を延ばしてみようかと思わせる場所だ。これも泉岳寺が人気の観光スポットになる要因のひとつだった。
 ただし、享保17年(1732)に刊行された『江戸砂子』によれば。2月4日、3月4日、正月、7月16日など決められた日以外は参拝できなかったとある。特に赤穂浪士たちの命日にあたる2月4日には大勢の人々が訪れたという。また開帳と称して寺の秘仏だけでなく、寺に納められた赤穂浪士たちの遺品も公開した。
 しかし、これでは参拝を希望する人たちを捌き切れなくなったのだろうか、文化文政時代には墓所の入り口に門を設けて、その脇にいる墓守に1人6文を払って参拝を許し、墓所を描いた絵図を売るようになった。この絵図はよく売れただろう。それらしいものが現在にも数多く伝わっている。
 現在は、討ち入りの日だけにスポットがあたり、赤穂浪士たちの命日にはあまり関心が向かないようだ。しかし、墓参ということであれば、命日に詣でるのが正しいのかもしれない。
 加唐 亜紀
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