🏞96)─3─12代・徳川家慶が行なった武芸上覧と町入能。天保13(1842)年。~No.372No.373 

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 2023年3月3日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「将軍が町人らと触れ合う「武芸上覧」や「町入能」が開かれた理由
■武芸上覧を開催した目的とは?
 武芸上覧は、将軍が己の親衛隊がどれだけ武芸に精進しているかを見る行事である。泰平の世における武の喚起といえよう。8代・吉宗(よしむね)の頃から定式化されたようである。以下は、深井雅海氏が紹介した(『江戸城中公新書天保13年(1842)9月24日、12代・家慶(いえよし)が行なった武芸上覧の記録である。
 実施場所は、江戸城白書院である。鎗術16組(32名)、剣術27組(54名)、柔術7組(14名)、長刀1組(2名)、計51組、102名が参加した盛大な大会であった。
 務めた(出場した)者は、書院番組・小姓組・新番・大番・旗本からなる「五番方」である。ここに先の武芸上覧の狙いを見ることができる。将軍に近い者たちの精進ぶりを見届けるのである。また、対戦相手を務めた者には武芸者の惣領や御目見得以下のものも含まれていた。特に後者が将軍に上覧されることは、大変に名誉なことであった。
 武芸者と対手は白書院の広縁(ひろえん)で武芸を披露。将軍は白書院下段に座り、そのほか御三卿や側衆・小姓・小納戸は帝鑑之間に座す。老中・若年寄大目付はその入側に着座。武芸者と対手は披露が終わると、それぞれ松之廊下を通り退出する。
 また、将軍参加の行事に、町人が招かれることもあった。町入能(まちいりのう)である。将軍宣下や婚礼、嫡子誕生などの慶賀(けいが)の場で催される能を、江戸の町人たちが、将軍とともに鑑賞することであり、将軍が町人の健在ぶりを確認できる重要行事でもあった。
 参加資格のある町人たちは、大手門より入り、役人より傘を1本ずつ渡される。これが入場許可の印にもなる。観覧は江戸城大広間の庭上で、中段にいる将軍と能を楽しむのである。本来は無礼があってはならないが、この日に限っては多少の無礼は許された。一方、町人も、将軍の顔を拝めて光栄な気持ちを味わったことであろう。能の終了後、将軍より御銚子入りの御酒が下賜された。
 町人にとっては、この行事に参加することはこの上なく名誉なことであるが、時代も進むと、名代と称して、江戸周辺の農村の名主が参加権を譲り受けて参加するなど、参加権は物権化していった。
■将軍の上洛も時代とともに大きく変化
 将軍にとっての大切な行事のひとつに、上洛があった。だが、これも時代とともに大きく変化した。
 初代・家康から3代・家光(いえみつ)までは頻繁に上洛したが、目的は、将軍宣下を受けることや、朝廷政策、大名の改易や転封など、天下の仕置きをするためであった。江戸時代初期の京都は、政治の最重要拠点だったのである。
 寛永11年(1634)、家光の「御代替り」の上洛は、京都まで30万人を誇る軍勢での行軍であった。さらに京都では、諸大名が将軍を出迎えるなど、将軍の強大な軍事力を見せつける一大デモンストレーションでもあった。
 京都へ着いた家光は、朝廷や京の庶民へ金を配り、大坂・堺・奈良の町人の地子銭(じしせん)を永代免除するなど、将軍家の莫大な財力も見せつけた。まさに将軍こそが天下人であることを世に誇示し、将軍が朝廷より優位な立場にあることをアピールした。
 ところが、4代・家綱(いえつな)以降は、軍宣下も江戸で行なうようになる。天下の政務も江戸で実施した。これは政権の所在が完全に江戸に移ったことを意味する。文久3年(1863)には、14代・家茂(いえもち)がおよそ200年ぶりに上洛した。家茂は攘夷祈願のため、天皇の賀茂(かも)社や石清水(いわしみず)八幡宮への行幸に扈従(こじゅう/従うの意)した。
 これは、200年の時を経て、将軍と天皇との力関係が逆転したことを示すものだった。
 監修・文/種村威史
 (『歴史人』2021年10月号「徳川将軍15代と大奥」より)
 歴史人編集部
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