⚔39)─1・C─世界一の大都市江戸(現・東京)を造った徳川三代の天下普請。~No.165 

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 2022年10月25日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「なぜ江戸は「世界一の大都市」になれたのか…徳川三代が半世紀かけた「巨大公共事業」の中身
 1840年代頃の江戸図(写真=University of Texas Libraries/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
 徳川時代の江戸は人口100万人の「世界一の大都市」になった。歴史家の安藤優一郎さんは「その礎を築いたのが徳川家康だ。豊臣方が江戸城を攻めてくる事態を想定し、最強の城郭と、最大の城下町をつくる必要があった」。安藤さんの著書『徳川家康「関東国替え」の真実』(有隣堂)からお届けする――。
 【写真】歌川広重作「東海道五十三次日本橋)」
■江戸に日本最大の城郭と城下町ができたワケ
 家康は、将軍のお膝元となった江戸城と城下の整備にすぐさま着手する。
 江戸城を居城と定めたことを受けて、関東の太守にふさわしい城郭と城下町の拡張に取り組んだものの、なかなか思うように進まなかった。秀吉により東奔西走させられた結果、江戸を長く留守にせざるを得なかったことは大きかった。
 しかし、名実ともに天下人の座に就いた以上、その行動を束縛する存在はなくなる。家康は自分の意のままに、江戸城と城下町の拡張を推し進める。
 かつての秀吉のように、諸大名を動員して工事にあたらせたのだ。秀吉の命により伏見城の築城に動員された経験を持つ家康だったが、今度は立場が替わって諸大名を動員できる立場となる。
 天下人として、そのお膝元たる江戸城と城下町の拡張工事の手伝いを諸大名に命じたが、これは「天下普請」と呼ばれた。
 それまでは徳川氏のみで工事は進められたが、江戸開府後は諸大名も動員することで、秀吉が築いた大坂城をはるかに越える規模の江戸城が誕生する。日本最大の城郭と城下町が築かれていく。
 以下、具体的にみてみよう。
■神田山を切り崩し、埋め立て地を造成した
 幕府が最初に命じたのは、江戸城の拡張工事自体ではなかった。その前提となる市街地の造成だった。拡張工事に伴い、江戸城内に取り込まれる町の移転先に加え、工事の必要な物資を供給する商人・職人の居住地を造成しようとした。
 江戸開府の翌月にあたる慶長八(一六〇三)年三月に、家康は神田山を切り崩し、その時に出た土をもって豊島洲崎を埋め立てさせた。これにより、現在の日本橋浜町から新橋辺りまでの市街地が造成される。その際には、水路も開削された。
 道三堀の延長にも水路が開削された。これは日本橋川と名付けられ、日本橋もはじめて架橋される。
 一連の工事に動員されたのは、主に西国(中国・四国)の諸大名であった。幕府は石高千石につき十人ずつの人夫を普請役として差し出すよう命じたが、これは「千石夫」と呼ばれた。
 埋め立て工事を担当した大名の領国名が、造成された市街地の町名となった事例もみられた。尾張町、加賀町、出雲町などである。
 江戸城の拡張に伴って移転した町としては、道三堀沿いにあった材木町、四日市町などが挙げられる。両町ともに日本橋地域に移転し、本材木町、元四日市町と改称された。
 八代洲河岸沿いの町も移転を命じられ、芝口の日比谷町、京橋の新肴(しんさかな)町・弥左衛門町・畳町となった。現在の皇居前広場の辺りにあった宝田村・千代田村・祝田(いわいだ)村の農民は日本橋や京橋に移転し、大伝馬町・小伝馬町・南伝馬町が誕生する。
江戸城の大拡張に動員された諸大名
 江戸城拡張工事の前提となった市街地の造成を進める一方で、幕府は慶長九年(一六〇四)から十年にかけ、石を運ぶ船を諸大名に造らせている。
 伊豆国から切り出す石を海上輸送するための船だった。船の建造代は幕府が支払ったものの、石の切り出し、海上輸送、工事現場までの陸上輸送など諸々の費用は、動員された大名の負担とされた。
 幕府は江戸城の拡張工事を再開したのを契機に、関東ではあまりみられなかった石垣造りの城郭を目指した。東国の城は土塁をベースとしており、江戸城にしても石垣がなかったが、幕府は諸大名に命じて伊豆半島などから石材を船で大量に運ばせ、堀沿いに長大な石垣を築かせたのである。なお、同十年四月に家康は嫡男・秀忠に将軍職を譲り、大御所と呼ばれるようになる。
 翌十一年三月一日から、いよいよ江戸城の拡張工事が開始される。動員されたのは西国の諸大名で、年が明けると次々と江戸に到着した。秀吉子飼いの大名として知られる熊本城主・加藤清正広島城主・福島正則福岡城主・黒田長政たちだ。
 諸大名は伊豆の石場に家臣を送って石を切り出させ、江戸まで海上輸送させた。石を運ぶ船は総数三千艘を数えた。一艘につき、百人持ちの石を二個ずつ載せ、月二回、伊豆と江戸の間を往復させた。巨石だけでなく、様々な大きさの石が運ばれたが、なかには購入した石もあった。
■日本最大天守が誕生する
 石垣築造の縄張り、つまり設計は家康の意向により、伊予今治城主の藤堂高虎が担当した。この時は本丸、二の丸、三の丸の石垣が築かれたが、その長さは計七百間(約千二百七十二メートル)にも及んだ。高さは十二~十三間(約二十一~二十三メートル)だった。天守台の石垣なども築かれた。
 この年の五~六月には石垣の築造が終了した。続けて本丸御殿が造営される。九月には落成し、同二十三日に将軍の秀忠が入っている。
 慶長十二年(一六〇七)に、五層の天守が築造された。これは連立式天守に分類されている。
 江戸城天守は明暦三年(一六五七)の明暦の大火で焼失した後は再建されなかったが、家康が築造させた江戸城最初の天守に近いのは、現存の天守では姫路城が挙げられる。
 同時期、家康は大坂城(豊臣氏)への備えとして、姫路城の大改築を断行したが、一つの大天守と三つの小天守が渡櫓(わたりやぐら)で繋がれた連立式天守が築造されている。世界文化遺産にも登録された白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりこめ)の天守であった。
 江戸城天守も姫路城と同じく、一つの大天守と三つの小天守が渡櫓で繋がれた。大天守、小天守、渡櫓で囲まれた空間は天守曲輪と呼ばれ、天守閣の防禦力を高める効果が期待された。壁面も同じく白漆喰総塗籠だった。
大坂城や姫路城を凌駕する
 その規模だが、江戸城の小天守だけで姫路城の大天守と同じくらいの規模と推定されている。天守台も加えると、その高さは約六十九メートルに達し、姫路城天守よりも二十メートル以上高かった。秀吉が造った大坂城天守も凌駕する日本最大の天守であった。
 天守が聳え立つ本丸についても、その南側に枡形の虎口(こぐち)を五段連ねることで、防禦力だけでなく反撃力も強化された。城郭への出入り口である虎口を枡形の区画とすることで、敵兵が直進できないようにする仕掛けを施すのが、西国の城造りでは定石(じょうせき)だった。
 家康はこれを五段構えにすることで、防禦(反撃)力を高めようと目論む。枡形の虎口を同じく五段連ねた城としては、加藤清正が築城した熊本城が挙げられる。
 本丸の北側には、東国で発展した築城技術である「馬出し」が三段構えで施された。馬出しとは虎口の外側に設けられた空間で、その前面に堀が築かれるのが定番である。枡形虎口と同じく防禦(反撃)力の強化を狙った仕掛けだが、三段構えとすることでさらなる強化を目指した(千田嘉博森岡知範『江戸始図(はじめず)でわかった「江戸城」の真実』宝島社新書)。
 西国や東国で発展した築城技術も加えることで、日本最大の連立式天守がそびえる江戸城本丸の防禦力は日本最強を誇った。
■豊臣方の攻撃を想定した城郭に
 家康は将軍宣下(せんげ)を受けて天下人の座に就いたが、その基盤はまだまだ脆弱(ぜいじゃく)であった。関ヶ原合戦で家康に味方した豊臣恩顧の諸大名にしても、いつ敵方に転じるか分からなかった。
 家康の身に何かあれば豊臣氏に走り、石田三成のように家康打倒を目指すかもしれない。大坂落城の時まで、豊臣氏の存在は家康にとり目の上のたんこぶだった。
 よって、天下の情勢が急変し、豊臣氏や豊臣恩顧の諸大名が江戸城を攻めてくる事態も想定しなければならなかった。江戸城を日本最強で最大の城郭に造り変えようとした家康の真意は、その点にまさしく求められよう。それに伴い、城下町も日本最大のものとなったのである。
 慶長十六年には、西丸の堀沿いに石垣が築造される。その後、家康が大坂城の秀頼を攻めた大坂の陣で一時中断されるまで、江戸城の拡張工事は続いた(『新編千代田区史 通史編』)。
■100万都市・江戸のもとになった大名屋敷
 天下普請の名のもと、家康は諸大名を江戸城と城下町の拡張工事に動員することで、天下人の御膝元にふさわしい巨大都市を造り上げていった。世界最大級の人口を持つ百万都市江戸が誕生する道筋を引いたが、江戸が巨大化した要因を考える上で、大名屋敷の存在は外せない。
 家康が天下人の座に就く前は、旗本・御家人と呼ばれる直属の家臣団の屋敷に加え、徳川四天王など大名クラスの石高を持つ重臣たちの屋敷が置かれた。さらに、関ヶ原合戦後には豊臣政権下で同列だった諸大名が江戸に屋敷を持ちはじめる。
 俗にいう大名屋敷であり、江戸藩邸とも呼ばれる。上屋敷中屋敷下屋敷という名称はよく知られているだろう。
 参勤交代の制度は家康の孫で三代将軍となる徳川家光の代に確立するが、この時から、参勤交代の制度は事実上はじまっていた。
 参勤とは、家臣が出仕して主君のもとで役務を勤めることである。全国の諸大名が主君たる徳川将軍家のもとに伺候し、家臣としての勤めを果たすことが江戸参勤で、隔年で江戸と国元の間を往復した。
 将軍が家臣を自分のお膝元に居住させることは、古来よりみられた。鎌倉幕府は有力御家人を鎌倉に、室町幕府守護大名を京都に居住させた。
 その目的は、主従関係にあった御家人守護大名を監視下に置き、幕府への叛逆を防ぐことにあった。そうした事情は、江戸幕府の参勤交代制についてもあてはまる。
■妻子を住まわせ、人質にする
 戦国時代を終わらせて天下統一を実現した秀吉も、服属した大名には本拠地の大坂や伏見で屋敷地を下賜した。大坂や伏見屋敷に居住させることで監視下に置いたが、合わせて妻子を置くことも命じている。言うまでもなく、体(てい)の良い人質に他ならない。秀吉に反旗を翻せば、その運命は火をみるよりも明らかだろう。
 家康も秀吉の手法を踏襲する。忠誠の証として江戸参勤を開始した諸大名に対し、江戸城周辺で土地を下賜したのである。大名側からみれば拝領した。諸大名は拝領地に屋敷を造営し、江戸在府中は大勢の家臣たちと共に暮らした。
 同じく忠誠の証として、自主的に妻子を人質として差し出す大名もみられた。叛逆の意思などないことを、身をもって示そうとした。関ヶ原合戦で西軍の総帥となった毛利輝元が嫡子・秀就(ひでなり)を差し出して江戸に住まわせたのは、その一例であった。
 この頃、参勤交代はいまだ制度として確立していなかったが、自主的に江戸へ参勤して妻子を置く大名が増えたことで、大名屋敷は増える一方だった。その分、大名と家臣が居住したことで、江戸の武家人口は増大していく。
 武士の人口が増えれば、その消費生活を支える商人や職人の数が増えるのは時間の問題だった。町人の人口も増加の一途を辿る。こうして、江戸は百万都市への道をひた走る。
 幕府が江戸城周辺で大名屋敷を下賜したことは、江戸が巨大都市化した最大の要因だったのである。
■約半世紀かけて完成した江戸城
 家康は江戸城と城下町の拡張工事を進める一方で、慶長十二年(一六〇七)二月からは、かつての居城・駿府城の普請を開始する。江戸城と同じく、諸大名を動員した天下普請であった。
 同年七月三日、駿府城内に完成した御殿に入った家康は、以後駿府城を居城とした。天正十四年(一五八六)十二月以来、二度目の居城だった。二年前の慶長十年に将軍職を秀忠に譲ったため、江戸城は将軍秀忠の居城となっていた。
 家康は隠居の身ではあったものの、幕府の実権を引き続き握った。いわゆる大御所政治の時代である。
 元和二年(一六一六)四月十七日、家康は駿府城で七十五歳の生涯を終えた。前年の大坂の陣豊臣氏を滅ぼしており、幕府の権力基盤はさらに強化されていたが、江戸城の拡張工事はまだ終わっていなかった。
 家康の遺志を継ぐ形で、二代将軍・秀忠と三代将軍・家光はその総仕上げに取り掛かる。もちろん、天下普請であった。
 大坂の陣が勃発したことで工事は中断していたが、同四年(一六一八)から再開される。この年は西丸の南堀の普請が行われた。
 同六年には、伊達政宗たち東国の大名が動員されて、内桜田門から清水門までの石垣が造られた。外桜田門などの城門が整備された。同八年には本丸御殿が改築された。秀忠が嫡男家光に将軍職を譲った同九年には、焼失していた天守が再建される。
■北条氏の支城に過ぎなかった城なのに…
 家光が三代将軍となると、江戸城の拡張工事は最終段階を迎える。寛永六年(一六二九)正月から開始された工事は、御三家をはじめとする徳川一門の大名や、譜代・外様の大名に加え、旗本までも動員した大規模な天下普請だった。この時の工事で、江戸城内郭の城門や石垣が築かれている。同十二年には、三の丸を狭めることで二の丸が拡張された。
 同十三年には守りが手薄だった江戸城西北部の外郭を強化するため、牛込から市ヶ谷、四ツ谷、赤坂を経て溜池に至る堀を開削した。この外堀に沿って城門も築造された。
 ここに、江戸城総構が完成した。
 江戸城の外郭が確定したことで、江戸城の拡張工事は終了する。関東に転封された家康が江戸城を居城に定めてから、約半世紀が経過していた。
 北条氏の時代、その支城の一つに過ぎなかった江戸城は、家康が北条氏に代わって関東の太守となったことで新たな段階を迎える。小田原城に代わって、その居城に定められたが、面目を一新したのは江戸時代に入ってからである。
 家康が武家の棟梁たる将軍に任命され、天下人の座に就いたことが決定的だった。
■関東転封のピンチをチャンスに変えた
 しかし、家康が天下人の座に就けたのも、豊臣政権下で最大の石高を誇る大名に成長していたことが何といっても大きかった。関東転封を境に家康の所領はゆうに倍増する。北条氏旧領に封ぜられた関東転封がなければ、とても叶わないことだった。
 国替えは新領主にとりリスクを伴ったが、家康の場合、新たな領民たちがその支配に抵抗して反乱を起こすことはなかった。要するに、北条氏の遺産をスムーズに継承することに成功した。
 その上、石高の半分を直轄地に組み込むことで実力を蓄えることができた。国替えを活かして、家臣団の統制にも成功する。要するに、リーダーシップを発揮できる環境を整えたのである。こうして、権力基盤を強化した家康は天下取りの時を待つ。
 秀吉の死後、家康は関東の太守として蓄えた実力をバックに豊臣政権を牛耳る。そして関ヶ原の戦いを経て将軍に任命されることで、豊臣政権を消滅させた。江戸幕府を樹立したことで、江戸城は天下人たる将軍の城として生まれ変わる。
 関東転封というピンチをチャンスに変えた類まれなる能力が、世界最大級の都市となる江戸を誕生させた。家康の関東転封を通じて、家康なくして江戸、ひいては現在の東京はないことが改めて確認できるのである。

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 安藤 優一郎(あんどう・ゆういちろう)
 歴史家
 1965年千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。文学博士。JR東日本「大人の休日倶楽部」など生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『明治維新 隠された真実』『河井継之助 近代日本を先取りした改革者』『お殿様の定年後』(以上、日本経済新聞出版)、『幕末の志士 渋沢栄一』(MdN新書)、『渋沢栄一勝海舟 幕末・明治がわかる! 慶喜をめぐる二人の暗闘』(朝日新書)、『越前福井藩松平春嶽』(平凡社新書)などがある。

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