🏯57)─2─家・家制度を壊した豊臣秀吉、残した徳川家康。~No.108 

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 伝統的家・家制度を否定して壊す現代日本人は、徳川家康を嫌い、豊臣秀吉が好きである。
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 2023年4月18日 MicrosoftStartニュース 婦人公論.jp「本郷和人 なぜ秀吉は「家」を簡単に潰したのに、家康は今川・上杉のような敵も大切にしたのか?ドラマでも浮き彫りになり始めた両者の違いについて『どうする家康』
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 松本潤さん演じる徳川家康がいかに戦国の世を生き抜き、天下統一を成し遂げたのかを古沢良太さんの脚本で巧みに描くNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。第14話では、信長(岡田准一さん)とともに臨んだ朝倉義景との戦いが描かれました。浅井長政(大貫勇輔さん)が信長の陣へ迫る中、長政の妻・お市北川景子さん)の心中を察した侍女・阿月(伊東蒼さん)は謀反を知らせるために金ヶ崎へ走り――といった話が展開しました。
 一方、歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生が気になるあのシーンをプレイバック、解説するのが本連載。第33回は「秀吉と家康の違い」について。この連載を読めばドラマがさらに楽しくなること間違いなし!
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 秀吉と家康
 前回の主役が阿月(伊東蒼さん)だったのは間違いありません。
 阿月は浅井長政の妻・お市の方北川景子さん)の侍女。一晩で十里(約40キロ)以上をボロボロになりながら駆け抜け、「お引き候へ」というお市の言葉を家康へ伝えると、そのまま息絶えてしまいました。
 史実よりドラマ、といった回だったと思いますが、その解説はなかなか歴史研究者泣かせです。研究者とは言え、ドラマはドラマとして楽しみたいものですしね。
 史実寄りの話に目を向けると、ムロツヨシさんの怪演もあって、秀吉と家康の人間関係があらためてクローズアップされたように思います。今回はそのことについてお話ししましょう。
 「現場の人」だった秀吉
 信長、秀吉、家康。このうち、中世研究者に一番人気があるのは、たぶん秀吉です。
 極端な研究者は「信長は中世的な、古い大名だ。本質は前代の権勢者、三好長慶と変わらない」と評します。この場合、戦国時代に終止符を打ったのは秀吉だ、となるのです。
 ぼくはこの意見には反対で、やはり信長は天才である。彼の事業を継承したのが「アイデアマン」秀吉で、秀吉の卓越した施策により、日本は1つにまとまった、と考えています。
 それはともかく。ぼくは著書などでは、秀吉を「現場の人」だと書いています。
 農民の子である彼は、体系的な教育を受ける生まれ育ちではなかった。彼は現場で、有用な知識と知恵を身につけた。
 つまり、自分で自分を教育した。そこが信長・家康とは根本的に違います。
 また信長・家康は、仮に苦労はしたにせよ、生まれながらに他人に頭を下げられる環境にあった。秀吉はずっと、他人に頭を下げて生きてきた。この差は大きいだろうなあ。
 家康が上杉や毛利を潰さなかったワケ
 家康はやはり武士のリーダーの子です。だから「武士の常識」に、多大な影響を受けている。
 かたや、あとづけで「武士の常識」を学んだ秀吉には、それが希薄である。その好例が「家」をめぐる認識の差異ではないでしょうか。
 家康は「武士の家」を大切にします。だから、名門の家は、なかなか断絶させません。
 今川氏真とはいろいろあったけれど、500石与えて今川家を存続させた。また、関ヶ原の「負け組」側であったはずの上杉や毛利も、領地は削っても、潰すことはしなかった。
 会津征伐の対象だった上杉とか、形式的にせよ西軍の総帥を務めた毛利とか、藩主は切腹、お家は取り潰しでも全然おかしくなかった。でも、実際には領地の削減だけ。まあ、それも十分すぎるほどきついですけど。
 こういう事例は、遡って室町幕府がそうですね。
 室町将軍家の最盛期を現出した足利義満は、いわば「外様大名」である東海の土岐、山陰の山名、山口の大内を討った。でも、一族を滅亡に追い込むことはしていない。
 家名の存続、一定の所領は許しています。この三家は応仁の乱で再び徒党を組んで、暴れまわることになるのですが。
 秀吉は「家」に対してドライ
 一方、秀吉は家康に比べて「家」に対し、もっとドライだと思います。
 小田原征伐の際には、兵を進めた秀吉の元に参上しなかったために、関東の小田氏、千葉氏らは所領を没収されることになりました。
 蒲生氏郷が若くして亡くなったときは、東北を押さえる任務は子どもには務まらないから、と14歳の秀行の所領を92万石から1万石に減らそうとしました。これは流石に石田三成に激しく注意されたようです。
 「大名たちは家を栄えさせようと必死に太閤殿下のために働いています。家の継承を否定するような人事をしたら、だれも忠義を尽くしません」。
 それで秀吉はやむなく秀行への代替わりを認めますが、結局18万石まで所領を削っています。このあたり、武士の「家重視」、「継承の常識」が身についてないように思えます。
 なお、家がまるっきり断絶すると、どんなことが起こるか。たとえば古文書がなくなってしまうため、我々歴史研究者は頭を抱えることになります。
 「ああ、武田家が滅びなかったら、あれもこれも分かったのに」とか「江戸川区発祥でのちに戦国大名化した、鎌倉時代から続いた名門・葛西家を秀吉が潰さなかったら」などと考えてしまうのです。
 家が継続されるということ
 最後に1つ面白いエピソードを。大河ドラマではこれから描かれるかもしれませんが、家康の次男に秀康という人物がいます。
 2代目将軍・秀忠の兄にあたりますが、彼は将軍を継げなかった。
 家康に愛されなかったのか、秀吉の人質となり、やがて関東の名門である結城家を継いで、結城秀康を名乗ります。さらに関ヶ原の戦い後に越前68万石余の大大名になると、結城姓を捨て、松平を称するようになる。
 この時、秀康は五男の直基に「おまえは結城の家の祭祀を担当するように」と命じ、結城家から受けついだ重宝を直基に譲渡しました。
 直基は結城姓にはなりませんでしたが、父の命を守って祭祀を執り行いました。この家は前橋17万石の大名として明治維新を迎えることになるのですが、たぶん結城家のお祭りは継続していたに違いありません。それが「武士の家」というもの。
 そして直基系松平家13代のご当主が松平基則氏で、私たち史料編纂所は、基則氏がもってらっしゃる古文書を調査して影写本(精密な写本)を作成しています。そこには源賴朝、足利尊氏の貴重な古文書が!
 歴史研究を変えるような貴重な古文書が、「家」が継続されたことで現代まで伝えられているのです。
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 4月2日 YAHOO!JAPANニュース 「なぜ家康は「特Aクラスの戦犯」上杉・島津・毛利を関ヶ原後に取り潰さなかったのか?外様に領地を与え、譜代に領地を与えなかった統治の妙
 本郷和人 なぜ家康は「特Aクラスの戦犯」上杉・島津・毛利を関ヶ原後に取り潰さなかったのか?外様に領地を与え、譜代に領地を与えなかった統治の妙
 「将軍」の日本史
 本郷和人 歴史学者
 歴史 大河ドラマ どうする家康
 代表的な「将軍」である徳川家康ですが、実は将軍になる前にも関わらず、ともに戦った大名へ土地の分配を行っていたそうで――。(『三河英勇傳 (徳川家康徳川四天王)』(芳虎、1873)。古美術もりみや)
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 松本潤さん演じる徳川家康が話題のNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。天下を統一し、幕府のトップとして武士を率いる「将軍」となる家康の歩みが描かれていますが、「将軍とは言え、強力なリーダーシップを発揮した大物ばかりではない」と話すのが歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生です。なおその家康、実は将軍になる前にも関わらず、関ヶ原でともに戦った大名へ土地の分配を行っていたそうで――。
 家康は将軍ではない立場で土地の分配を行った
 慶長五(一六〇〇)年、徳川家康率いる東軍と豊臣恩顧の大名からなる西軍が衝突した関ヶ原の戦いに勝利した時点で、家康はすでに天下人という地位をほぼ手中に収めたことになります。
 家康が征夷大将軍になるのは、関ヶ原の戦いから三年後の慶長八(一六〇三)年のことです。
 けれども一六〇〇年の時点で、将軍という官職を持たないまま、家康は一緒に戦った大名たちに論功行賞として土地の分配を行っています。実態としては、武家の棟梁として振る舞っていたことになります。
 つまり、すでに征夷大将軍という官職は名ばかりのもので、中身のない地位にすぎなかったのです。
 室町幕府最後の将軍・足利義昭は幕府滅亡後も一五八八年までは征夷大将軍の座にありましたが、全く存在感はありませんでした。義昭が鞆に拠点を置いたことから、鞆幕府を開いたとする研究者もいますが、実態から考えると、何の権限もない名ばかりの征夷大将軍だったことがわかります。
 私が提案している「臣が将軍を定める」という定義からしても、鞆の義昭を将軍としてありがたがっている家臣などいませんので、鞆幕府は机上の空論でしょう。
家康の論功行賞は、敵対大名に対する査定が甘かった?
 さて、関ヶ原の戦いに勝利した家康にとって、自らが天下人であることをどのように表現するかは、自身の判断に委ねられたことになります。そこで重要になるのが、新しい幕府の勢力圏、加えて、それに基づいて本拠地をどこに置くかという問題です。
 『「将軍」の日本史 』(著:本郷和人中公新書ラクレ
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 豊臣恩顧の大名を全てお取り潰しにして、徳川の家臣だけで全国を埋め尽くせるならば、それに越したことはないでしょう。そうすれば徳川家に歯向かう人間もいなくなるわけですが、さすがにそれはできない。
 この関ヶ原の合戦後の段階では、それまでは秀吉から土地をもらっていた大名が、家康から所領の分配を受けることで、新たな主従関係を結ぶことになります。それまで「徳川殿」と呼んでいたのが、「徳川様」に変わるわけです。
 このとき徳川の政権を打ち立てることへの反発をいかに抑えるかが課題とならざるを得ませんでした。家康の論功行賞は、敵対した大名に対しての査定が思いのほか甘かったのです。
 討伐しかけていた上杉家への処断
 その一例は上杉家への対応です。会津に本拠を置く上杉景勝に謀反の嫌疑をかけ、家康は軍勢を率いて上杉討伐に向かいました。
 『三河英勇傳 (徳川家康徳川四天王)』(芳虎、1873)。古美術もりみや)
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 小山に差し掛かった時点で石田三成ら西軍の挙兵の報に接し、有名な小山評定(実はなかった、という説もあります)が行われて上杉討伐を中止し、江戸へと引き返しました。このとき、家康に付き従った大名たちがそのまま、関ヶ原の戦いにおける東軍を構成します。
 彼らは家康とともに上杉討伐に向かった時点で、自らを家康の差配に従う者として位置づけていたのです。
 つまり、上杉家は関ヶ原の戦いの発端となったわけです。ですから「特Aクラスの戦犯」です。上杉景勝を配流、謹慎などに処して、上杉家取り潰しでもおかしくはありませんでした。
 ところが関ヶ原の戦いの後、家康はその所領を一二〇万石から三〇万石に削りましたが、景勝を処断せずに上杉家を存続させました。
 ダメージを受けたはずの島津家への処断
 別の例として挙げたいのは島津家への対応です。当時の島津家は義久と義弘の兄弟が切り盛りしていましたが、当主の義久は「薩摩第一主義」的な人物でした。
 そのため、弟の義弘が兄の代理で中央に出てくることになり、その分、豊臣政権や天下の世情について精通していたわけです。その義弘が豊臣家の要求に応えるように兄に勧めても、義久のほうは薩摩が大事なので、関ヶ原の戦いでは一五〇〇の軍勢しか割かなかったわけです。
 島津氏の規模ならおよそ一万の兵は出せたはずですから、相当に渋っていたことがわかります。
 こうして島津家は西軍につき、家康に敵対しました。また、関ヶ原の戦いで西軍が敗走する際に、徳川方に対して大きなダメージを与え、徳川四天王のひとり、井伊直政に深手を負わせました。井伊直政はこの傷が元で亡くなるわけですから、島津の軍勢によって討たれたに等しいわけです。
 なお島津の一五〇〇の軍勢は、撤退する際に激しい攻撃を受け、生き残った数十人がかろうじて薩摩まで辿り着いたような状態でした。ところが家康はその島津家に対して、領地を減らすこともせず、その存続を許しています。
 家康が敵対した相手を潰さなかった理由
 関ヶ原の戦いで西軍の大将に祭り上げられた毛利輝元も、本来であれば取り潰しになってもおかしくないにもかかわらず、所領を三分の一に削るだけで許されています。
 また、豊臣秀頼に対しても六〇万石の大名として存続させていて、大坂夏の陣で滅ぼすまでに一五年の歳月をかけています。
 これが織田信長であれば、敵対した相手を徹底的に叩き潰すのではないでしょうか。ところが家康はそうしなかった。
 手柄を挙げた者に新しく領地を与えるためには、敗軍の将から土地を取り上げて褒美の分を確保するわけですが、大名たちの不満が爆発しないように、さまざまに配慮していることがうかがえます。
 何より驚くのは、天下取りが成功したからといって、譜代の家臣にボーナスを一切出さなかったことです。その後、譜代大名には領地を与えない代わりに政治に携わる役割を与え、外様大名に対しては領地を多く与えても、政治には関わらせなかったというのは、やはり家康流の統治の特徴だと思います。
 ※本稿は、『「将軍」の日本史』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
 『「将軍」の日本史 』(著:本郷和人中公新書ラクレ
 幕府のトップとして武士を率いる「将軍」。源頼朝徳川家康のように権威・権力を兼ね備え、強力なリーダーシップを発揮した大物だけではない。この国には、くじ引きで選ばれた将軍、子どもが50人いた「オットセイ将軍」、何もしなかったひ弱な将軍もいたのだ。そもそも将軍は誰が決めるのか、何をするのか。おなじみ本郷教授が、時代ごとに区分けされがちなアカデミズムの壁を乗り越えて日本の権力構造の謎に挑む、オドロキの将軍論。
 「将軍」の日本史
 著者:本郷和人
 出版社:中央公論新社
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 出典=『「将軍」の日本史 』(著:本郷和人中公新書ラクレ
 本郷和人
 歴史学者
 1960年、東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授。東京大学・同大学院で石井進氏・五味文彦氏に師事。専攻は日本中世政治史、古文書学。同史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当するほか、『吾妻鑑』の現代語訳(共訳)にも取り組んでいる。昔から愛好していた歴史的人物を科学的な脈絡の中で捉えなおす「新しい人物史」の構築にも挑む。
『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会)、『徳川家康という人』(河出新書)、『失敗の日本史』『「合戦」の日本史』(中公新書ラクレ)、『日本史を疑え』(文春新書)など著書多数。
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